yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道

『杏林の坂道』の読後感

一 本誌『風響樹』に2001年(平成13年)から連載してきた伝記小説『杏林の坂道』を、昨年末に私家版として400冊ほど上梓した。当初は、残部が多く出たら処置に困ると思っていたが、幸いにも今は手元に殆どない。 文章を書くなど思いもしなかったの…

杏林の坂道 第一章「出郷」

杏林の坂道 第一章「出郷」 (一) 四月から五月にかけて、黄河流域から舞い立った黄砂が、偏西風に乗って山陰のこの海岸一帯を襲うことがある。しかし今日は朝から空は抜けるような青一色。この蒼穹を背景にして、指月山(しづきやま)は翠滴るばかりの青葉若…

杏林の坂道 第二章「長崎散見」

杏林の坂道 第二章「長崎散見」 (一) 山陽鉄道の神戸と馬関(現在の下関市)間が全通したのは、明治三十四年(1901)五月二十七日である。これに伴って徳山(現在の周南市)門司間の航路は廃止され、新たに下関・門司間の航路が開業した。さらに翌年の…

杏林の坂道 第三章「三菱長崎造船所」

杏林の坂道 第三章「三菱長崎造船所」 (一) 憧れの萩中学校に入学して、蓬(よもぎ)色の霜降りの制服を始めて着用したとき、「今日から萩中学校の生徒になったのだ」、という自信と誇りを惟芳は感じたのであるが、今ここに支給された長船(ながせん)の制服で…

杏林の坂道 第四章「帰省」

杏林の坂道 第四章「帰省」 (一) 鹿(か)背坂(せがさか)隧道の難工事は、萩町と明木村との境をなす峠の下を掘削することによって始まった。工事が無事終わったのは明治十七年(1884)七月。惟芳はその一年前に生まれた。長さ約180メートル、幅約4.…

杏林の坂道 第五章「旧師訪問」

杏林の坂道 第五章「旧師訪問」 (一) 朝食を食べ終えて一休みした後、惟芳は母に言われていたので、菩提寺である端坊(はしのぼう)へ参詣した。門を入ると本堂正面に安置してある金箔の阿弥陀仏を礼拝し、本堂の左側奥まった処にある位牌堂へ行って祖先の霊…

杏林の坂道 第六章「シーボルト」

杏林の坂道 第六章「シーボルト」 (一) 惟芳はここ数日間夜遅くまで製図を画くことに専念した。学校で習う教科の復習にはそんなに時間はかからないが、製図にはミスが許されないので神経を集中しなければならない。そのために起床が常よりも少し遅くなるこ…

杏林の坂道 第七章「日露戦争従軍日記」

『図説 日露戦争』(河出書房新社版) 杏林の坂道 第七章「日露戦争従軍日記」 (一) 国元の父尚一から封書が届いた。惟芳は早速封を切って読み始めた。巻紙に毛筆で書かれた父の書簡は、次のような内容であった。筆跡はまだしっかりしていると彼は思った。…

杏林の坂道 第八章「医師への道」

(一) 満州の曠野では、看護兵といえども毎日が死と隣り合わせであった。九死に一生を得て帰還した惟芳は、今は銃声も聞こえず弾雨も飛び交うことのない内地で、平穏な朝を迎えることができた。東西南北どちらを向いても雲一つない清々しい明治四十年の元旦…

杏林の坂道 第九章「村医者となる」

(一) 明治四十四年の暑い夏も終わり、せわしく鳴いていた蝉の聲もいつしか弱まり、日中暑熱に耐えていた庭木も秋風に生気を取り戻してさやかに揺れていた。 惟芳は下宿の五右衛門風呂に身を沈め、時の早い移ろいを感じながら、独り閑かに思いに耽るのであ…

杏林の坂道  第十章「村人たち」

(一) 山陰線は地形上、山陽線に比べてトンネルが多い。とくに宇田郷駅を間に挟んで、木与駅と須佐駅の間は異常なほどで、長短十二ものトンネル(現在は線路改修で十本)があった。また山陰線が開通したとは言え、宇田郷村は僻遠の地に変わりはなく、一時村…

杏林の坂道 第十一章「惟芳と息子たち」

(一) 宇田郷村には川と呼べるものが二つある。その一つ宇田川は村の長い海岸線の中央あたりに位置し、海岸線に対してほぼ直角に流れている。この海岸線に沿った県道と、川の左岸の小道だけはやや平坦である。小道は上流に向かって一キロばかりのびている。…

杏林の坂道 第十二章「硫黄島への軌跡」

(一) 繰り返して言うが、惟芳が先妻のシゲと結婚したのは大正二年一月である。第一次世界大戦が勃発する五カ月前の事である。シゲは二人の男の子を生んだ。長男の芳一が生まれたのは大正三年四月である。寅年生まれである。次男の勇夫は大正七年十月に生ま…

杏林の坂道 第十三章「硫黄島からの手紙(前編)」

(一) 遠路広島まで芳一を訪ねたものの会うことが出来なかった惟芳と幸は、残念というか、空しくも寂しい気持ちで村に帰った。その後直ぐに芳一は両親に詫び状を書いたのである。この手紙を受理した後音信がぷっつりと切れた。およそ一ヶ月後の八月十日に待…

杏林の坂道 第十四章「硫黄島からの手紙(後編)」

(一) 萩中時代全校生徒は、松陰精神をもって教育された。芳一と同期(昭和七年卒)の渡辺観吾氏の言葉が『山口県立萩高等学校百年史』に載っている。 当時萩中では時々、吉田松陰先生の事跡について講堂で特別講演が行われたが、その講師は概ね香川政一先…

杏林の坂道 第十五章「悲運重なる」

(一) 全国民の悲願にもかかわらず、硫黄島は米軍の手中に落ちた。それまで父や夫や息子、あるいは兄や弟が守備隊員となっていた家族は、我が軍の勝利を信じ、身内の無事を祈った。しかし彼我の戦力の差は歴然としていた。米軍に到底太刀打ちできるものでは…

杏林の坂道 第十六章「困苦に耐えて」

(一) 村長をはじめ多くの村民の悲しみのうちに、村葬は立派に終わった。その日を境にして幸は毎日、暁暗(ぎょうあん)の仏前で灯明をあげ香を焚き、『修証(しゅしょう)義(ぎ)』の「第一章 総序」を低唱した。 生(しょう)を明(あき)らめ死を明らむるは仏家一…

杏林の坂道 第十七章「硫黄島~遺骨収集と慰霊巡拝~」

(一) 終戦から五年経った昭和二十五年の事である。「第一次硫黄島戦没者遺骨収集」の際、芳一の遺品が発見されたという記事が新聞に載った。その後しばらくして、幸の下へ『従軍手帳』が送られてきた。正道にはその日の事が、忘れようにも忘れられないほど…

杏林の坂道 最終章「佛となれや枯小笹」

(一) 亭主関白とも言える主人が一家の柱としてデンと構え、三人の息子と長男の嫁(彼女は戦後縁あって萩市在住の医師と再婚した)、さらに看護婦や女中など、それまで多数の者が一緒に生活していた広い家に、今は娘の信子と二人だけの淋しい生活である。幸…