yama1931’s blog

明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げた小説です。少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」「玉砕」「太平洋戦争」「戦争と家族」

杏林の坂道 第一章「出郷」

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杏林の坂道 第一章「出郷」
 
(一)

 四月から五月にかけて、黄河流域から舞い立った黄砂が、偏西風に乗って山陰のこの海岸一帯を襲うことがある。しかし今日は朝から空は抜けるような青一色。この蒼穹を背景にして、指月山(しづきやま)は翠滴るばかりの青葉若葉に覆われ一段と映えて見えた。

 

 惟芳にとって一つだけ残念なのは、校舎が新築され、併せて弓道場も築かれた、といってもそれは名ばかりで、実際に弓を引くところは青天井であり、垜(あずち)の築いてある場所は差し掛け小屋程度の板葺きに過ぎない。学校は毛利藩の上級武士が住んでいた広大な屋敷跡に建てられたのである。校舎が建っているところは高い土塀で囲まれており、外から内側は見えない。他方運動場周辺は、高さ幅共に二尺ばかりの石垣でできている。一番南側の校舎と土塀の空間に射場が設(しつら)えてあり、垜は図書館の正面に向かって、その右側面を利用して作ったものである。そこは誰も出入りしない安全な場所である。しかし僅か三つしか的の置けないような狭い場所で、おまけに雨天または強風のときは、いくら稽古をしたくとも出来ない。そのような日には、剣道場の片隅に置かれた巻藁に向かって稽古する以外に仕方がない。

幸い今は初夏、花は散ってそよ風が青葉をやさしく揺らしている。他の部員は皆早めに帰った。弓を引くには絶好の日である。

 「よし、一つ頑張ってみるか」

 惟芳はこう言って気合を入れると、袴(はかま)の紐を締め直した。彼は五年生になって、伝統ある萩中弓道部の主将に選ばれた。そのため、新学期になってはじめの数週間は、新入部員へ弓道の手ほどきをしなければならなかった。

 「射は禮に始まり禮に終わる」といった弓道の根本精神をまず徹底させた後、自ら引いてみせて実技を教示し、同時に弓道に関する専門用語なども教えていく。例えば「会(かい)」と「離れ」は仏教語の「会者定離(えしゃじょうり)」に由来するもので、特に「会」とは、「矢束(やづか)一杯に引き込んで、発射の機の熟するまでの間」といったようなことまで、実技を指導しながら教える。また射は正確を旨とするものであることを力説し、そのためには「射法八節」を順序正しく学び体得しなければいけない、と自分がかつて先輩から教えられたことを思い出しながら説明した。こうした基本姿勢の指導でかなりの時間を取られる。したがって彼は、部員が稽古を終えて帰った後、一人残って的に向かうことがよくある。

 

 部員の大半は学校備え付けの弓を使っている。中には自分の弓を持っている者もいる。惟芳も自分の弓を欲しいと思ったが、親に学資を出してもらえるのがやっとで、とても出来る相談ではないことはよく分かっていた。そう思っていた矢先、前年の夏休みのある日、外部から週二回指導に来られる粟屋先生が、一人残って稽古していた惟芳に、

 「緒方君、大分腕が上がったね。私はこのところ年を取ったせいか、今使っているこの弓が少し引きづらくなった。君は若いし、これからもっと強い弓を引くことが出来るようになるだろう。弓は自分の力にあったものが望ましいが、強い弓に挑戦することも大事だ。一寸これを引いてみたまえ。よかったら進呈しよう」

 こう言って先生は自分の弓を惟芳に手渡した。

 これは全く思いも掛けない話であった。彼は願ってもない有難い申し出とは思ったが、こんなに高価なものを「はい、それでは」と言って、簡単にもらえる代物(しろもの)ではないと知って鄭重に辞退した。しかし是非にとの言葉に、彼は心から感謝して頂戴することにした。

 

 弓には肥後三郎の焼き印が押してあった。反り具合といい、色つやといい、まことに申し分のない立派なものである。握りの厚さは六分二厘もある強い弓である。この弓を引くようになってから、彼は稽古にも一段と熱が入り、自分でも大分上達したと実感するようになった。

 

 今日も愛用の弓で二十射ばかり試みた。時折五月の風が頬を撫でて気持ちがよい。熱心に引いたのでじっとりと汗ばんできた。稽古着を脱いで諸肌(もろはだ)になると、小使室の側にある井戸から汲んできた手桶一杯の水に手拭いを浸けてよく絞り、筋骨逞しくなった胸や背の汗を拭きとった。再び稽古着を身に纏い、これで最後にしようと心に決めて、彼は再び射位に立った。

 

 先ずしっかりと足踏みを決めて、胴造りで姿勢を正し、弓手(ゆんで)の手(て)の内(うち)を整えると、的の中心に視線を向け、ゆっくりと打ち起こした。手の内とは弓を握る方法、またその形をいい、射術の上で重要な技法の一つである。彼自身弓を習い始めた頃、手の内がなかなかうまく出来ず苦労したものである。引き分けから会(かい)に移り、離れに至るまでの時間、精神の統一、いわゆる無心にならなければいけないのだが、まだまだ惟芳には至り得ない境地である。粟屋先生が引かれるのを見て彼はいつもそう思うのであった。先生は会に入られて十秒近くも引き絞った状態を保っておられるのである。

 

 粟屋先生の先祖には藩の代表として京都の三十三間堂で通し矢をされた方がおられると聞いていたので、先生の射技を見て惟芳は何時も流石だと思うのであった。

 

 ―この最後の一射は納得の行くように引いてみよう。

 

 彼はこう自分に言い聞かせながら、背筋を伸ばし、両腕、両肩を伸長(のば)しつづけた。出来るだけ引き絞って、ついに矢が弦を離れると、カーンという鋭い音と共に、矢は的に向かって走った。それこそ間髪を入れず、パンという音がして的中したことが分かった。弦音(つるね)と的中したときの音は、惟芳にとって快い響きであった。甲(は)矢(や)についで乙矢(おとや)も思ったより上手くいったのに満足して、彼は垜まで行き、的の中心近くに中(あた)った二本の矢を抜くと、そこをきちんと片づけて弓を引いた場所に戻った。

 

 弓を布で充分に拭い袋に収めた。袋には「弓一筋この道より生きる道なし」の文字が紺地に白く染め抜いてある。先生に頂いた弓を、これだけは大事なものだから、彼は毎日家へ持ち帰ることにしている。他の道具を片付け、制服に着替え学生帽を被ると、左手に弓を持ち、教科書の風呂敷包みと手桶を右手に提げて射場を離れた。

惟芳は小使室に手桶を戻し、本館の正面が左手に見える所まで来た。ちょうどその時、雨(あま)谷(がや)校長が玄関から出て来て、本館の横に待機していた人力車に乗り込もうとしていた。

 「失礼します」

 彼はいったん立ち止まって帽子を脱いで挨拶した。

 「緒方君だね。えらい遅くまで頑張るね」

 「はい、他の部員が早めに帰りまして、気持ちの上でも何だか余裕がありましたから。それでつい熱が入り遅くなりました」

 「そうか、結構なことだ。実は私も大学院にいたとき、少し稽古をしたことがある。何しろあのころ、本(ほん)多利(だとし)実(ざね)と言う日本一の先生が指導に来ておられたからな。当時の東京大学弓道部ときたら、文科の学生の独壇場だったよ。先輩たちは実によく稽古していた。始業前と放課後に百射ずつの稽古をするのはそう珍しい事ではなかった。

 

 二年先輩に夏目さんという方が居られたが、小柄ながら的中率が良かったのを今でもよく覚えている。弓は心身の鍛練に適したスポーツだと思う。まあしっかり稽古を続けたまえ」

 こう言い残すと、校長は人力車に乗って校門を出て行った。惟芳は二年前にはじめて雨谷校長に出会った時のことを、つい昨日のように思い出した。

 

 明治三十二年十月十八日。この日は地元のすべての人が待ちに待った新しい学校、山口県立萩中学校の開校式が行われた日である。萩町は、地元有志の寄付金などによって、校舎を新築して県に寄付したのである。山口県山口中学校萩分校に入っていた惟芳も、この日が来るのを誰よりも待っていた。なぜならこの時から、山口県立萩中学校の新二年生としてスタートし、三年後には萩中第二期生としての卒業が見込まれていたからである。

 

 初代の校長には、郷土出身の大物政治家品川弥二郎を推す動きもあったが、これは実現しなかった。代わりに任命されたのは雨(あま)谷(がや)羔(こう)太郎(たろう)である。彼は水戸の生まれで、水戸学の影響を受け、東京帝国大学で史学を学び、第四高等学校で教鞭をとった後、さらに大学院に進み、十九世紀自由主義社会主義の研究をした俊英であると紹介された。

 

 その時惟芳は、校長が弱冠二十九歳であることを知って驚いたが、校長が古武士の風格を備えた落ち着いた人物であるとの印象を得ていた。彼は校長が学生時代に弓を引いた経験があると話されたことで、弓の稽古が校長の人格形成の一助になったのだろう、と我田引水的なことを考えた。また校長が自分の名前を知っておられたことは嬉かったが、弓を引いたことがあるという校長の言葉に、惟芳は一段と親近感を覚えた。

 

 

(二)

 校門を出てすぐ前の道を、左にまっすぐ北に向かって二百米ばかり行くと石垣にぶつかる。道の両側は白壁や屋根瓦を塗り込めた練り塀が続く。この辺りはかっての上級武士の屋敷跡である。どれも比較的大きな構えで、いまはその敷地内に夏(なつ)橙(だいだい)を植えている家がほとんどである。道の突き当たりが三叉路になっているので、惟芳はそこから右へ向きを変えて進んだ。この道筋も今来た道とほぼ同じような練り壁や石垣が両側に長く続いている。

 

 彼の家は三叉路から五十米ばかり行ったところ、道の左側にある。屋敷と屋敷は垣根か石垣で区切られている。惟芳の家も道に面して石垣が築いてある。その石垣が一間幅ほど築かれていないところに、大人の背丈ほどの四角い御影石の石柱が二本立っている。ここが彼の家の門である。他の家の石垣と違って、分厚い石組みの上に盛り土があり、黒松が等間隔に植えてあるので彼の家は特色があった。

 

 武家屋敷の一隅を占めている彼の家もかなり広い敷地を有しているが、住まいは瓦葺の粗末なもので、広い敷地に比べたら、比較的手狭な平屋建築である。敷地内には夏橙の苗木が多数植えてある。これは維新の後、生活に困窮した貧乏士族救済の対策として奨励されたもので、緒方家も率先して例に倣い、それから上がる収入を惟芳の学資にと当て込んで、彼の父が息子を中学校へ入学させたのである。しかし実際にある程度の収入が得られるまでにはまだまだ数年を要した。

 

 後年、萩町経済に占める比重の多くが、この夏橙の生産によったのであるが、毎年あるいは三・四年ごとに生ずる冷害による被害は止むなきこととしても、害虫の駆除ならびに施肥や除草といった作業は、それまで畑仕事の経験のない者にとっては、決して容易なことではない。従って惟芳の両親も、侍稼業を切り替えての夏橙の育成には、過重な負担を感じていた。

彼は門から玄関まで続く平たい玄武岩の敷石を踏んで家の戸を開けた。

 「ただ今帰りました」

 帰宅の挨拶をした後自分の部屋に入ると、まず畳一枚ほどの床の間に弓を立て掛け、風呂敷包みを机の上に置くと窓外に目をやった。陽(ひ)が西に傾きかけていることは、障子に映る日差しの影で分かる。夕陽が海に沈むまでにはまだ少し間がある。五月になって比較的暖かいときには、日没前に軽く泳ぐのが半ば習慣になっていた。稽古をした後の紅潮した躰を海水に浸すと清新な感じがして気持ちが良い。水温も格別妨げにはならない。彼は一泳ぎしてこようと思った。

 「一寸海へ行ってきます」

 母親に行き先を告げると、すぐ家の裏にある松林の中を通って砂浜に出た。やや黒ずんだ青い海が眼前に広がっている。左手に常緑樹に覆われた指月山が西陽を背にして優美なシルエットを見せている。正面の水平線上には平たい相島(あいしま)が見え、その右側に小さな島々が盥(たらい)を伏せたように浮かんでいるのが目に入る。右端に格好の良い笠山(かさやま)が低く裾野を拡げている。これは市女笠を低い梯形の台の上に置いたような姿である。こうした眼前に広が風景の中にあって、やはり指月山は惟芳にとっては掛け替えのないものである。

 

 阿武(あぶ)川(がわ)河口のデルタが西北に延び、日本海に突出したところにある指月山は、標高一四三メートルの花崗岩で出来た小さな山である。全山が椎、椿、タブ、黒松、赤松などの常緑の自然樹林におおわれている。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は、中国八ヵ国の領地を周防・長門の二ヵ国に減封された。そして日本海に面した僻遠の地、その西北の片隅に位置するこの指月山に、築城をかろうじて許可されたのである。

 

 かつては今の中国五県の太守であった輝元にとっては、これは屈辱の措置であった。せめてこれだけは立派なものにと、ひそかに思って築いたのが萩城である。

 「慶長九年六月一日をもって縄張り作業が行われ、以後、輝元は一門の総力をあげて工事を急ぎ、建設の槌の音が指月山にこだました」と、『萩の百年』(萩市役所発行)に記されているが、城の完成は慶長十三年六月であった。しかし明治七年(1874)にこの偉容を誇った城は無惨にも解体され、その美しい姿を消した。惟芳が生まれるわずか九年前の事である。

 

 この城山に連なる砂浜は、菊ヶ(きくが)濱(はま)という優しい名にふさわしい。大きく湾曲して長く延びて松本川の河口にまで達する白浜、海岸沿いに植えられた濃き緑の松並木、それに澄明な青い空と紺碧の海、まさに絶景の地である。夏ともなると、海水浴客で賑わうこの遠浅の海は、泳ぐことの大好きな惟芳にとっては、身体を鍛える格好の場であった。

 

 ―指月山の美しい樹木は絶対に伐ったり枯らしたりしてはいけない。またこの白砂青松の菊ヶ濱も子々孫々に伝えるべきである。城は無くなったが、萩の住民だけでなく、此の地を訪れる人たちにとっても、将来掛け替えのない憩いの場所となるだろう。美しい自然は人の心を和らげまた浄めてくれる。だから人は、自然の美しさを保たなければいけない。このような良い環境に恵まれ、俺はその意味では本当に幸せだ。

 

 惟芳は砂浜に立つと、この日もこうした思いに駆られるのであった。褌(ふんどし)一つになると、彼は先ず顔を濡らし、背の届くところまで海底の砂を蹴るようにして進んだ。温かくなったとは言え、まだ身が引き締まる水温である。背丈が届かなくなったので、そこから沖に向かって泳いだ。しばらく平泳ぎを続けた。指月山の裏側は、近づいてはじめてよく分かるのだが、かなり切り立った斜面が海面からそそり立ち、基底部の海に接する所にはごつごつした大小の岩石が凸凹として拡散している。彼はこうした情景が目に入る地点まで泳いできた。この辺りは潮の流れがあってさすがに冷たさが身に応える。海の色も深緑で黒ずんでおり、かなり深くなっていることが分かる。彼は引き返すことにした。間もなく沈む夕陽を背にして彼は岸に向かってゆっくりと泳いだ。日暮れ前、潮風に吹かれての散歩を楽しんでいるのか、小さな人影が遠く砂浜を歩いているのが見えた。渚にたどり着くと、彼は上半身の水をあらまし拭きとった。

 

 最近背が伸びて五尺七寸五分、目方も十八貫を超えた。日本人の大人の平均値より大分大きい。特に上半身は一段と逞しくなった。これも弓を引くためだと思うと、彼は嬉しくなった。濡れ手拭いを肩にかけ海の方を見ると、真っ赤な太陽が西の海に沈みかけていた。その帯状に伸びた金色の筋が何本も海上を走っている。その黄金の光の筋は、打ち寄せる小波(さざなみ)の動きにつれて、金箔を繋ぎ合わせたようにきらきらと輝いた。何たる美観か。西の空は茜(あかね)色に染まってきた。                                                                            

 家に帰り夕食を済ますと、惟芳は明日の授業の予習をしようと自分の部屋に入った。

 

 ―理系の学科は何とかなるが、英語は骨が折れる。頓(とん)野(の)先生の発音に比べて、新学期から代わった外人教師の発音は、流暢だとは思うがどうも聞き取りにくい。アメリカ英語だからだろうか。頓野先生と言えばいつも思い出すが、先生が「soilとは土壌という意味だ」と仰有ったとき、級友の一人が、「先生、どじょうとはこれですか?」と言って、両手を合わせて、くねくね動かせて見せたとき、始めは何のことだか分からなかったが、彼の意味するものが、泥鰌(どじょう)だと分かって、クラス全員が大笑いした。その時すかさず先生が、「土壌を泥鰌と間違えるとは、どうじようもないな。」と言われたので、教室内は割れんばかりの爆笑となった。たしかに先生の授業は厳しい面もあったが楽しかったなあ。

 

 彼は英語の教科書を机の上に置いて、中学校一年の時から教えてもらった頓野先生の事を思いだした。

 

 ―四年生のときに訳解に使ったのは、アメリカの小説家ホーソンの書いた『伝記物語』(バイオグラヒカル ストーリーズ)であった。

「これは向こうでは児童向けの本であるので、文章はそれほど難しくはないが、立派な文学作品である」と先生が批評されたが、俺にはすらすらと楽に読める文章ではなかった。

 

 こうしたことを思い出しながら、彼はランプの灯を少し明るくした。そして今習っている英語の教科書を開いたが、今度は壁に貼りつけていた賞状に目をやった。

 

 ―いよいよ俺も五年になった。終業式のときあの賞状をもらったな。

「右ハ一学年間伍長トシテ能ク其任務ヲ盡シタリ仍テ之ヲ賞ス」か。まあ大した任務でもなかったが、今学年も伍長を任命されたからしっかりやろう。

 

 それにしても今習うアーヴィングの『スケッチブック』はかなり難しい。それに外人教師のガフタフソンの発音は流暢で美しいが、日本語を全くしゃべらないから、これまでとは勝手が違う。予習をしっかりしておかないと大変なことになるぞ。毎年点が足りずに原級に止まる者が何人もいるというからな。まあ英語には精を出さないといけない。

 

 どうしたのか今日は日頃と違って、彼は教科書を開いたままであれこれと考えた。一つには最近薄々と感じていた家の経済状態が頭にあって、このまま学業を続ける事が出来るかと、一抹の不安を感じていたからである。しかし彼は思い直して、出来るだけ頑張ろうと心に誓い、小さな横文字に目を移した。

夜も次第に更け風が少し出て来た。海岸の松並木に吹きつける浜風は一段と強まり、潮騒を打ち消すほどである。そのとき奥座敷から思わず、烈しい人声が聞こえてきた。弟の尚春はすでに寝ている。人声と言えば両親以外にはない。何気なく耳を傾けると、果たして二人が言い争っているような声であった。

 「マサや、お前の言うことは儂にもよう分かっておる。しかまあ考えてもみい。折角当てにしておった橙が、去年今年と二年続けて凍(し)みたではないか。それに苗木の借金が年々嵩(かさ)んで、証文もこんなに溜まった。お前が言うようにご拝領の紋付きを売ったところで焼石に水じゃ」

 「そこを何とかなりませんでしょうか。惟芳も今はもう五年生になりました。萩中学校へ入学しましたとき、無理をしてでも卒業だけはさてやりたい、とお父様は言われたではありませんか。折角ここまでやってきましたのです。後一年、いいえ、十ヶ月辛抱したらよいのですから」

 「同じ事を繰り返すな。儂にも痛いほど分かっておる。しかし背に腹はかえられぬ。それに尚春のことも心配じゃ。あの子は脚が悪い。食べて行くには何か手に職をつけるか、専門的な技を身につけさせてやらねばならぬが、いきおい職は限定される。儂は歯医者にでもさせたらよかろうと思うが、それにはやはり金がかかる。

 

 あれこれ考えると、惟芳には申し訳ないが、学校を止めてもらう以外にはどうしょうもない。男は丈夫な身体と気力さえあれば、自分の道を切り開いて行ける。学校だけが学問が出来るところでもあるまい」

 「そのように言われますが、萩であの子が働くところがありますでしょうか?」

 「その点については、惟芳とじっくり話してみるつもりじゃ。何処か他所(よそ)で、働きながら学問が出来れば一番よいのじゃが」

 母の声はもう聞こえてこなかった。惟芳は襖越しに耳にした父の言葉を、ぐっと歯を食いしばって真剣に受け止めた。家の経済状態が逼迫(ひっぱく)していることは中学入学時から感じてはいたが、これほど深刻な状態に立ち至っているとは思ってもみなかった。迂闊(うかつ)だったと自らを責めた。

 

 ―確かにこれまで、爪に火を灯(とも)すような倹約生活ではあったが、これは貧乏士族ならどこも同じで、そう珍しいことではない。しかし父はもうすぐ還暦を迎える。それに弟はまだ小学生、それも低学年だ。父の言うように将来のことを考えてやらねばならない。こうなったら俺が働いて、弟の学資だけは何とかしてやろう。考えてみればこれまで十年近くの間、俺は好きなように勉強をさせてもらった。十八歳といえば昔なら元服を済ませ、一人前の男として独り立ちしなければならない年齢だ。確かにやる気がありさえしたら、勉強は何処ででも出来る。

 

 彼は一夜にして肚を決めた。気持ちが落ち着くと、予習を早めに済ませて床を延べた。

 

(三)

   翌朝いつもより早く起きると、寝間着を脱いで普段着に着替え、兵児帯をぐるっと巻き付け、下駄履きで裏の橙畑に出た。植えて十年以上にもなる成木が二十数本あるが、その他は背の低い苗木で、ざっと数えて百本はある。緑色の葉にしっとりと露が下りている。よく見ると、折角伸びた若葉が縮れて黄ばんでいる苗木がある。これは害虫が葉の養分を吸ったために生じたのである。更によく見ると、虫の食った跡がジグザグ模様の線を引いたようになっている。また冷害で凍(し)みたために、形だけは大きくなった黄色い実が、摘果されずにいくつか成木の上の方に数えられた。

 

 ―冷害だけは不可抗力で致し方ない。父が嘆かれるのも尤もだ。虫害は予防も可能だが、寒波の襲来は本当に困ったことだ。

 

 彼は昨晩の両親の真剣なやりとりを思い出した。

 

 五十年も前になるが、筆者が多少なりとも体験した橙の収穫時の模様を簡単に述べてみよう。夏橙(だいだい)または夏ミカンあるいは簡単にダイダイと呼ばれているこの柑橘は、実際は夏季ではなくて早い畑では四月の終わりには収穫され始める。我が家にも橙畑があったのでよく覚えているが、萩では、出荷用としてもぎ取った橙を、大きい粗目に編んだ竹籠に入れて国内の各地へ発送する。その場合籠の中に満遍なく藁または新聞紙を敷き、外から橙がなるべく見えないようにする。これは輸送するとき果実が傷むのを防ぐためでもある。大きい実の場合およそ八十個を、一つ一つ几帳面に並べて詰めると、やはり竹で編んだ円い蓋を被せ、縦に三本、横に二本、ちょうど米俵のように縄でしっかりと縛る。大きさも米俵を少しずんぐり円くした格好である。

 

 縄で縛るとき「牛の角」に似た道具を使う。この道具は、橙の木がしわくて堅くて折れにくいので、この枝の少し反(そ)ったのを二十五センチ位いの長さに切り、樹皮をすっかり剥(は)いで、その一方の先を細く削ると丁度牛の角のように見える。もう片方の先端近くに円い孔を開け、その孔に長い藁縄の片端を、抜けない長さだけ通して作業をするのである。竹籠の目の間に反った先をぐっと挿し通して引き抜くと、縄も一緒に出てくる。もし手だけでしようとしたら容易ではない。こうして数カ所縄を通して俵を縛って、縄がずれないようにする。実に重宝な道具である。長年の使用に耐え、白い木肌が艶々と光沢を帯びてくる。こうして出来た一籠の目方はおよそ三十キロ。ずっしりと重い。主として京阪神の市場や九州の炭坑、更に朝鮮や満州へ出荷されていた。 

 

 五月は収穫の最盛期である。この時期になると、五弁の小さな白い花が橙畑一面に咲き、武家屋敷跡からこの何とも言えない柑橘の良い薫りが漂い出て、萩の三角州全体を包む。代赭色の土塀や白壁の内側から、大きな黄色い橙の実が、枝も撓(たわ)わむほどにいくつも垂れ下がり、緑の艶やかな葉と相俟って、無数の真っ白い小さな花が芳香を放てば、目に美しく、鼻を刺激し、触ってみたい、食べてみたいと言った気持ちに誘われるのも当然である。

 

 今でこそ夏ミカンは酸っぱいと言って敬遠されるが、戦中戦後食べるものが無くなったとき、萩の市民に取っては容易く手に入る有難い果物であった。筆者など大きく橙色に輝く成熟したやつを、一度に三つも四つも食べたものである。当時は貴重なビタミンCの供給源という意識はなかった。仕事で一汗かいたり遊び回った後、これほど美味い果物は他には無かったように思う。

 

 「山口県外への苗の移出は、明治十三年には愛媛県和歌山県へ、十七年には静岡県へそれぞれ初めて行われ、各地で栽培が普及した」と『萩市史』(萩市発行)に載っている事からも分かるように、当時から萩と言えば夏橙と結びつけて考えられていた。しかし三・四年に一度の割で寒波が襲来すると、寒冷被害が生じ、果実が凍(し)みて苦(にが)くなる。そうなると折角丹誠こめて育てた橙は一文の値打ちもなくなる。

 

 惟芳は夜来の雨に濡れた雑草を踏みながら橙畑の中を通り抜けると、屋敷を取り囲む土塀の裏木戸から外に出た。もうそこは砂浜の海岸で松並木が左右に広がっている。一本の大きな松の根本に下駄を脱ぐと、波がひたひたと打ち寄せるところまで行き、立ち止まって東の方へ眼を向けた。

 

 東雲(しののめ)の空は夜明けとともに次第に明るさを増し、遠くに連なる田(た)床山(とこやま)、唐人山(とうじんやま)、小畑(おばた)富士といった山々が、その稜線をくっきりと見せ始めた。目を海の方へ移すと、海面は湯気が立っているかのように、ほの白く煙って見えた。波はほとんど無く、実に静かな朝景色である。昨夜の風はうそのように収まっている。相島、羽島など沖合に点在する島々も、まだ眠りから覚めずに横たわっている。海上はるか遠くにある見島はもちろん朝靄で見えない。ゆっくり寄せては返す小波(さざなみ)がたてる音は、こうした朝の静寂を破るものでは決してない。沖に白帆が幾つか浮かんでいる。

 ― 春の海 ひねもす のたり のたりかな 

長閑(のどか)ないい歌だな。蕪村はこのような情景を詠んだのだろう。

 

 腕組みをして朝の風景に見とれ、ふとこのような思いに駆られていると、彼の目の前で魚が、それはおそらく鯔(ぼら)であろう、水中から飛び跳ねて、海面に波紋を作った。波紋は次第に広がって彼が立っている水際まで来たかと思うと、寄せ来る波に消された。小魚の跳躍があちらこちらの海面で演出されているのに彼はそれまで気がつかなかった。しかしこうした小事(さじ)を除けば海は鏡のように平静を保っていた。

 

 彼は、昨年出版されて世に出るや、その名文で一躍名を博した、蘆花の『自然と人生』の一節を思い出した。

 「心あらん人に見せたきは此頃の富士の曙。

 午前六時過、試みに逗子の濱に立って望め。眼前には水蒸気渦巻く相模湾を見む。

 灘の果てには、水辺線に沿ふてほの闇き藍色を見む。

 若しその北端に同じ藍色の富士を見ずは、諸君恐らく足柄、箱根、伊豆の連山の

 その藍色一抹の中に潜むを知らざる可し。海も山も未だ眠れるなり」

 

 惟芳が今立っている菊ヶ濱での眺望は、蘆花の描写に決して引けを取らないものだと思った。彼は海に向かって大きく両足を踏ん張り、両腕を伸ばして胸一杯深呼吸を数回繰り返した。こうして朝の清々しい大気を胸一杯に吸い込むと、踵を返して我が家に向かった。母は昨夜の風で落ちた松の小枝を拾ってきて、七輪にくべて火を起こしていた。

 「朝早くから何処へ行ったのかね?」

 「ちょっと海を見てきました。今朝の海は穏やかでした」

 これだけの言葉を残して、彼は奥座敷の方へと足を運んだ。座敷の襖が閉まっていたので一旦座って開け、床の間を背にして座っていた父に向かって敷居の前で両手をついて軽く会釈をした。

 「一寸お話したいことがありますが、宜しゅうございますか?」

 父が是認の態度を示したので、横向きになって襖を閉め、再び向き直ると父のそばへ近づいていった。いつも早く起きる習慣の父尚一は、やや大きな桐の木を刳(く)り抜いて、内側に銅板を張って作った火鉢を傍らにして坐っていた。父は肥(こえ)松(まつ)の一枚板で作った応接台の上に置かれた薄い和綴じの本に目を向けていた。

尚一は最近白髪が目立つようになってきた。しかし確かに年をとったが、背筋をしゃきっと伸ばし、ゆったりと構えており、まだそれほど衰えを見せてはいなかった。だが、こうして近づいてよく見れば、老けたという感じはいなめない。惟芳は今から父に話す事に自信を持った。父の正面に正坐し、両手をついて朝の挨拶を終えると、昨夜寝る前に心に決めた事を静かに話し始めた。

 「父上、昨夜母上とお話しになっていたことを、失礼とは思いましたがお聞きしました。家の経済状態がそれほどだとは知りませんでした。申し訳ありません。私はもう十八歳になりました。明倫小学校入学以来、今年で早くも十一年になります。小学校を出ただけの同級生の多くは、すでに一人前に働いています。それなのに私は中学校へ迄行かせていただき、有難く思っています」

 ここまで一気に、しかし落ち着いて言った。一息入れると彼は続けた。

 「学問はやる気さえあれば何処ででも出来ます。父上もそのように仰有いました。私も全く同感です。来春無事に中学校を卒業しましても、今の時勢では非常に就職が困難だと聞いています。その上、上級学校への進学なんか全く考えてもいません。従いまして、少しでも早く実社会に出て、働きながら勉強した方が良いと思います」

 

 彼は考えていたことを、ゆっくりではあるが真剣に口にした。父の尚一は右肘を火鉢の縁に乗せたまま、前より一層上半身を右に傾けて、半眼の面持ちで息子の言葉に耳を傾けた。

 「それに尚春のことも心配です。あの子はまだ小学四年生です。将来自分に叶った職を見つけてくれたら良いのですが、まだまだこれから当分勉強を続けなければいけません。まだ先の話ですが、お考えのとおり歯科医が向いておるかも知れません。あれでなかなか器用ですから」

 尚一は黙って息子の話を聴いていた。

 「学資は私が働いて何とか出してやりたいと思います。しかし働くにしましても、この萩の町ではとても無理です。少し前ですが学校の掲示板に、長崎の三菱造船所が製図工を募集していると出ていました。教育設備も整っているそうですから、応募したいと思います。学校の推薦状も頂けるはずです」

彼は更に言葉を継いで次のように言った。

 「長崎造船所の初代の所長は渡辺蒿蔵といって、松陰先生の最後の弟子です。この方はイギリスとアメリカで造船技術を学ばれたようです。長崎造船所は当初は官営でしたが、その後民営に移管されました。移管後早々に渡辺さんは民営の下では働かないと言って退所され、現在萩に帰られて、悠々自適の生活を送っておられるようです」

 惟芳は学校で耳にしていたことを父に話した。

 「こうした関係かもしれません、萩中学校に所員の募集が特別にあります。一般からの公募はされないようです。私は海が大好きですから、海に関係した仕事に就けたら幸いです。どうかお許し下さい」

 惟芳は落ち着いて以上の事を述べると父の返事を待った。尚一は腕組みをしたまま、半ば目を閉じて、息子の話を黙って聴いていた。彼は妻とのやりとりを息子に聞かれて、内心多少気恥ずかしかったのかも知れない。聴き終わるとおもむろに口を開いた。

 「惟芳、お前の気持ちはよう分かった。前々から話そうと思うておったが、お前が毎日喜んで通学するのを見るにつけ、一日延ばしにしてきた。今お前の方からそう言うてくれて安堵した。しかし心底済まんと思うておる。今お前の話を聞いて、就職の事が一番気がかりじゃったが、一応安心した。こうなったら人事を尽くして天命を待つのみと儂は考える。どうか辛抱してやってくれ」

高ぶった気持ちを抑えながら尚一はここまで言うと、息子の顔にじっと目を注いだ。以心伝心もうそれ以上の会話は必要ない。惟芳は軽く会釈すると、部屋に入ったときと同じように、座ったままで襖を開け外へ出ようとしたとき、父が一言付け加えるように言った。

 「中途退学の手続きをきちんとしておくように。それからお世話になった先生方への挨拶だけは忘れるな」

 「はい」

 彼は爽やかな気分になって、朝の陽光(ひ)が障子に当たって明るい座敷を出た。

 

 

(四)

 朝食を済ますと惟芳は自分の部屋に入り、教科書と英語の辞書、さらに洋筆と墨ツボを風呂敷に包んで、日頃より少し早めに家を出た。校門を入ると自分の教室へは行かずに、真っ直ぐに進み、玄関前の石畳から一段高くなっている本館の床を踏んだ。分厚い松板の張られた床は木目が鮮やかに見えるほどまだ新しくて美しい。この床に上がると直ぐ右側に職員室の出入り口がある。そこには上半分がガラス張りで、下半分には杉の羽目板の重い引き戸がある。彼はこの戸を静かに開けた。日頃はあまり大声を出さないが、この時は大きい声で言った。

 「第五学年 緒方惟芳、安藤先生に用があってまいりました。入ってもよろしゅうございますか?」

 「宜(よ)し、入れ」 

 大柄の惟芳が安藤先生の席の方へ進むと、居合わせた他の先生たちが、始業前早くから一体何事かといぶかるように、一斉に彼の方へ眼を向けた。

担任の安藤先生は書記を兼ねていた。先生は明倫小学校の校長を勤めていたが、国語漢文の実力を買われて萩中学校の教師になっていたのである。

 

 惟芳が家庭の都合で中途退学を希望する旨を伝え、あらかじめ用意してきた退学願を提出すると、眼鏡越しに先生は惟芳の顔をじっと見た。彼の真剣な様子から、立ち入ってその訳をあえて聞き出すのはよすべきであると思ったのであろう。先生は「そうか」と一言言っただけで、書類を受け取った。そのころ家庭の事情で、やむを得ず退学する生徒が増えていることが念頭にあったからでもある。

 「放課後校長から退学聞き届けの書類を渡してもらうから、そのつもりで今日は最後まで授業をきちんと受けたまえ」

 先生は幾分残念な面持ちで、彼が出した退学願を傍らの木箱の中へ入れた。

 

 今日が最後の授業だと思うと、惟芳は心なし淋しくもあり緊張もした。午前中の授業は無事に終った。午後の最初は、担任の安藤紀一先生の国漢の授業である。先生の名調子の講義はいつ聴いても素晴らしい。今日はそれを聴く最後だと思うと、人知れず真剣にならざるをえなかった。

 

 「冊子を披繙(ひはん)すれば、嘉(か)言(げん)林の如く躍々(やくやく)として人に迫る。顧(おも)ふに人読まず。即ち読むとも行わず。苟(まこと)に読みて之を行はば、即ち千萬世と雖(いえど)も得て盡すべからず。噫(ああ)、復た何をか言はむ。・・・・」

  

 安藤先生は吉田松陰の『士規七則』の冒頭の文を朗々と唱えると、第一則を黒板に書いた。先生の書かれる字は、顔(がん)真(しん)卿(けい)流の見事な楷書で、一点一画をもゆるがせにしない美しい字である、と惟芳は今日も思うのであった。

 

 一、凡生為人宜知人所以異於禽獣

   蓋人有五倫而君臣父子為最大

   故人之所以為人忠孝為本

 (およそ生まれて人たらば、よろしく人の禽獣に異なる所以(ゆえん)を知るべし。けだし人には五

  倫あり、而して君臣父子を最も大なりとなす。故に人の人たる所以は忠孝を本となす)

 

 第二則に続いて先生が書いて説明された第三則と第四則は、惟芳には特に肝に銘じた。彼は自分に武士の血が流れている事を意識した。

 

 一、士道莫大於義 義因勇行勇因義長

    (士の道は義より大なるはなし。義は勇に因(よ)りて行われ、勇は義に因りて長ず) 

 

 一、士行以質實不欺為要 以巧詐文過為恥 光明正大皆由是出

    (士の行いは質実欺(あざむ)かざる以て要と為し、巧詐過(こうさあやまち)を文(かざ)る以て恥と為す。公明正大皆是より出ず)

 

 安藤先生は続けて第五則を黒板に大書して、その言葉を生徒たちに向かって読んだ。

 「一つ、人、古今に通ぜず、聖賢を師とせずんば、即ち鄙夫(ひっぷ)のみ。読書(どくしょ)尚(しょう)友(ゆう)は君子の事なり」

 

 惟芳は先生の説明を聞いて、松陰の言葉は含蓄のある立派なものだと思った。彼は黒板の字を一生懸命に書き写した。安藤先生がまとめとして言われた言葉も、これが最後かと思うと、脳裡に刻み込むかのように真剣に傾聴した。

 「この『士規七則』は安政二年の春、松陰先生が野山獄中から、従弟の玉木彦介の満十五歳の元服加冠の祝に作って贈られたものである。孔子の『十有五にして学に志す』という言葉は、『論語』にあってよく知られている。この他に、『今日よりは幼心(おさなごころ)を打ち捨てて、人と成りにし道を踏めかし』、と決意を述べた時、橋本左内は弱冠十四歳だった。諸生(しょせい)は皆すでに十五歳を過ぎておる。松陰先生は、この『士規七則』で志士としての道を説かれたが、私は志士に限らず、広く人間としての歩むべき道を教えられたと思う。諸生ら拳(けん)拳(けん)服(ふく)膺(よう)してもらいたい」

 

 諄々と諭すような安藤先生の講義は、今までにないほど惟芳の心を打つものがあった。

惟芳は、雨谷校長には報告かたがたお礼を言うつもりでいたので、放課後すぐに校長室のドアをノックした。

 「どうぞ」

落ち着いた声が中から聞こえてきた。彼はドアを開けると校長に向かって一礼し、校長の顔を直視して、気持ちを落ち着けて言った。

 「第五学年 緒方惟芳、この度家庭の事情で退学することになりました。校長先生には大変お世話になりました」

 「まあ入りたまえ」

 校長は部屋にある椅子の一つに座るようにと言って、多分専門書であろう読みかけの分厚い洋書を閉じて傍らに置き、テーブル越しに惟芳の顔をじっと見た。

校長は白いハイカラーをつけ、黒の蝶ネクタイを結んでいた。黒地の背広を着ていて、実際の年齢よりかなり老けて見えた。とても三十歳を過ぎたばかりとは思えなかった。

 

 真一文字に結んだ口、鼻の下に蓄えられた黒い八の字の口髭、二重まぶたの中の大きな目。目は心の窓と言われるが、優しさと誠実さが感じられた。眉は太く、額は秀でている。頭髪はかなり薄い。顔全体は大きくてやや浅黒い。しかし生気に満ちている。惟芳はこうして間近に見ると、校長の偉容が迫ってくるように感じた。

 校長はおもむろに口を開くと、ゆっくり落ち着いた声で話し出した。

 「家庭の事情だそうだが残念だな。君が昨年の修身の時間、熱心に聞いていたのをよく覚えている。それから終業式に賞状を手渡したな。一年間、伍長としてご苦労だった。家の都合による退学だから致し方ないが、君の人生はこれからだ。少し話そう」

 校長は惟芳が家の都合で中退することが余程残念に思えたのであろう、重ねてその事に言及した。そして校長室に掲げてある扁額を指さして次のように言った。

 

 「あの額の言葉が分かるかね?『自彊(じきょう)不息(やまず)』と書いてある。君は弓道を学んでいるからちょうど良い。説明しよう。「彊」とは強い弓と言う意味だ。それから「強くする」さらに「努める」という意味にもなっている。「息」は「休息」の 「息」だね。従って全体の意味は、「自らつとめて一刻も休まない」と言う意味だ。そこで君に忘れないでいて欲しいのは、学問というものはむしろ学校を出てからが大事だ。時間的にもその方がずっと長い。また志を立てるには早ければ早いほど良い。そうだろう、緒方君。ところで中退した後のことを考えているだろうね」

  

 惟芳は校長が父と同じことを考えておられるなと咄嗟に思った。

 「はい、長崎造船所で働きながら勉強出来たらと思っております」

 「なるほど、それはよかろう。君の成績なら大丈夫だ。本校にも公募の通知がきていたから。毎年数人の者が採用されている。しかしすぐ止める者もいる。それほど仕事がきついと聞いている。働きながら学ぶ事は容易ではない。ところで当分の間、弓の稽古が出来なくなるのが残念だな。またいつかその機会は来るとは思うが」

 こう言って校長は、昨日弓道の稽古を終えて帰る惟芳に会った事を思い出したのか、次のような言葉をつけ加えた。

 「ついでにもう少し話そう。我が国では、武道と芸道いずれの場合も、道と名の付くものは先ず第一に人格の向上を目指しておる。『中庸』という書物にも、「射は君子に似たり」とあるように、弓道も単に技術を高めるのではない。技術だけを目的とした者は、年を取り体力が劣えると、老いのみが目立ってくる。しかし人格の向上を目指した人は、たとえ老齢に達しても自ら品格が備わっていて、老醜は全く感じられない。この点が大事だ。学問も同じだね。単なる物知りではいけない。学問をして人間が悪くなる、つまり悪賢くなるのだったら、勉強なんかしない方がまだましだ。緒方君、そう思うだろう」

 校長はここまで話すと少し間をおいて、最後にこう付けくわえた。

 「それではくれぐれも躰に気をつけて頑張りたまえ。帰省したら学校に顔を出したまえ。ご両親に宜しく伝えてくれたまえ」

 話し終わると校長は、山口県立萩中学校と印刷してある証書を惟芳に手渡した。それには墨痕鮮やかに、立派な字で次のように書いてあった。

 

  第四三六号

      第五学年生徒 緒方惟芳

  本日付願家事ノ都合ニヨリ退学ノ

  件聞届

      明治三十四年五月廿八日

               山口県立萩中学校 印

 

 昨年までは山口県萩中学校であったが、この四月から山口県立萩中学校と改称されたので、その大きな印が押してあった。惟芳はこれを受け取ると、校長の言葉を噛みしめながら校長室を出た。

 

 勉強道具を取りに教室へ戻ったとき、菊屋孫輔が声をかけてきた。彼は明倫小学校の時からの友達である。菊屋家は萩でも指折りの素封家である。

 「えらい真面目な顔をしちょるが一体どうしたのか?」

 「いや、ちょっと校長室へ行って来たのだ」

 「何か問題でもあったのか?」

 孫輔が心配顔で訊ねるので、惟芳は別に隠す必要もないから、ありのままに事情をかいつまんで話した。

 「何(なに)ィ! 五年のいま中退する。冗談じゃないよ。後一年足らずで俺たちは卒業だぞ。もうちょっとの辛抱じゃないか。よし、おれが家に帰って親父に頼んでみよう。これまでの努力が水泡に帰すよ。九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠いてたまるか。窮すれば通ずるということもある」

格言めいた言葉を連発して翻意を促す孫輔の、親身になって友達を思う気持ちは確かに有難かったが、惟芳の心はもう決して揺らぐことはなかった。彼はきっぱりと断った。 

中退した後長崎へ行って働きたいという言葉を聞いた時、孫輔は惟芳の決意のほどを確信した。 

 「そうか。そこまで決心をしているのなら、要らんことはすまい。男子志を立てて郷関を出ず。人間至るところ青山ありだ。会者定離とは確かに真理だな。まさかお前とこんなに突然別れなければならないとは夢にも思わなかった。しかし決して無理をするなよ。命あっての物種だからな。帰ったときには是非会おう。それでは元気でな」

 二人は固い握手を交わして別れた。

 

 教室の外に出て図書館が見えるところまで、彼はゆっくりと足を運んだ。この図書館は昨年設置開館したばかりの阿武郡立萩図書館である。さらに言えば県内最初の公立図書館であり、また我が国最初の郡立図書館でもある。

 「ここで静かに本を読むことはもう二度とあるまい」と思うと、右手の松や樟や楓などの立木の植え込みのある植物園の奥に見える図書館が、これまで以上に懐かしく感じられた。また図書館の右片側にある弓道の垜(あずち)、そこで正味四年間熱心に稽古した弓道や部員の事が頭を過(よぎ)り、今こうして立ち去る事は何とも言えない悲痛な思いであった。しかし惟芳はそれらの事を未練がましく思うまいと考え直した。

校門のところまで来ると、いつものように向きを変え、正面の本館の方に向かって深々と頭を下げた。そして後ろ髪を引かれる思いはあったが学舎(まなびや)を後にした。

  

(五)

 帰宅して自分の部屋に座ったとき、肩の荷を下ろしたようでホッとした。と同時に、何だか心淋しくも思った。しかしこれからが大変だとすぐに気持ちを切り替えた。

 彼は雨谷校長が着任されて間もなく、全校生徒に配布された『生徒心得』を取り出した。これからの生活の指針になるものがあるだろうと思って読み直してみた。

 

 一、質素ヲ守リ艱難ニ耐エ努メテ奢侈(しゃし)ノ風ヲ避クヘシ

 一、言行ヲ慎ミ学業ヲ励ミ智徳ヲ淬(さい)励(れい)スヘシ

 一、信義ヲ重シ廉恥(れんち)ヲ貴ヒ苟(いやしく)モ軽佻浮薄ノ風アルヘカラス

 一、摂生ニ注意シ身体ノ健全ヲ図ルヘシ

 

 惟芳はこの『心得』の中にある「淬」について、安藤先生が「淬とは、刀をきたえるとき、鉄を焼いてさっと水に入れること。転じて、気を引き締めて励む」意味だと言われたのを思い出して、これからは学業と知徳の「淬励」を忘れない様にしようと心に誓った。またこのような文章を書かれた校長である。短い期間だったが、立派な校長に会えた事を一つの天恵だと思った。

 

 出立前の準備といっても、大したことはしなかった。履歴書を書き、成績証明書をもらってきた。また就職先で生活するのに最低必要程度の持ち物を揃えた。それでも三日ばかりかかった。父の尚一は、惟芳と話したあの時から覚悟を決めたのか、いつもと変わらない様子で、座敷で煙草を燻(くゆ)らせながら、書見をしたり、好きな棋譜を見ながら、碁盤の上で烏鷺(うろ)の争いを一人で楽しんでいた。

 

 一方母親のマサは、息子の気持ちになってみると、さぞかし残念であろうと思うのか、ここ一両日は家事に手が付かない様子であった。しかし惟芳が中途退学することを全く意に介していないように振る舞っているのを見て、気を取り直し、目前に迫った息子の門出を心から祝ってやろうと思うようになった。

 

 惟芳は、これから当分の間家を離れる、場合によったら盆にも帰省出来ないかもしれない。そうなったら両親はともかくとして、小学生の弟にどれだけ淋しい思いをさせるかと思うと不憫(ふびん)に感じたので、これまでよくしてやったように、尚春を肩車に乗せて砂浜へ向かった。

 

 眼前に広がる日本海は波静かで穏やかな様相を呈していた。一本の大きな松の根元で弟を肩から下ろし、そこで下駄を脱ぐと彼は波打ち際まで歩いた。尚春は砂の中に埋もれた松葉が素足を刺激するのか、「痛い、痛い」と言いながらも、兄の側を離れようとはしない。

 

 波打ち際に沿って平たく長く延びた砂地は、寄せ来る波が引くと、左官が壁にコテを当てて上手に壁土を塗るように、見る間に真っ平らに綺麗になる。規模が大きいので、あたかも姿を隠した優れた左官が、巨大なコテを持って仕上げの作業をしているかのようである。

 

 また打ち寄せた波が引くと、手足が透き通るような小さな蟹が砂穴を這い出して、足早にその綺麗になったばかりの砂の上を走る。何匹も走り回る。次の波がやって来ると、彼等はそそくさと自分の穴へ駆け込む。中には間に合わずに、波にさらわれてひっくり返り手足をばたつかせるのもいる。

 

 少し離れたところでは、名も知らない二羽の小鳥が、細い脚を小波が洗うにまかせていた。それも束の間、この白い身体に黒い羽の小鳥たちは、これらの蟹を啄(ついば)もうとして砂上に松葉の跡を付けながら小走りに駆けて行った。しかしこの足跡も打ち寄せては返す波にすぐかき消されてしまう。これまで雄大で落ち着いた大自然にのみ眼を向けていた惟芳は、今目の前に展開した自然の小さな営みにも、不思議と心を和(なご)まされるのであった。

 

 弟を促して水際からわずかに海の中へと、膝が水に浸かる所まで進んでいった。そこから先へは進めない。そこは波の反転作用で砂が抉(えぐ)られていてちょっと深みになっている。その場所は「ドカ淵」と呼ばれている。ドカッと深く淵のようになっているからだろう。

 

 足の裏に神経を集中させて、足の指先で砂の中をまさぐると、固くて円い感触が伝わる。海中に手を伸ばしてそれを拾い上げると、意外にも大きな蛤(はまぐり)だと分かる。こうして岸辺に沿って進うちに、弟の尚春が取ったのを加えて、両手一杯の収穫があった。惟芳はこうして初夏の一時を弟と過ごし、彼を喜ばすことが出来たことを自らの喜びとした。

 

 いよいよ出立前の晩となった。惟芳は自分の部屋で瞑目して腕を組み、考えるともなく静かに座っていると、奥の座敷から父の呼ぶ声が聞こえてきた。返事をして立ち上がり、座敷へ向かった。父はいつものように床柱を背にした位置に座って居た。父の背後の床には「青山自青山 白雲自白雲」という禅語めいた言葉を縦二行に書いた掛け軸が懸かっていた。惟芳はその意味がはっきりとは分からないので以前父に問うたことがある。その時父は、

 「青山は青山ですべて、白雲は白雲ですべてであって、他のなにものでもない。一人の人間は一人の人間として全(まった)ければ、それが真如、その人の実際であり全人格の現れである」といったように答えたが、まだ彼には真意が十分には呑みこめなかった。しかし彼はこの言葉が何となく好きである。床に向かって右側の長押(なげし)には、弓と槍が架けてある。祖先の誰かか、それとも父が若い時、戊辰戦争の戦場で用いたものであろう。惟芳が自分の前に座ると尚一は語り始めた。

 「さて、とうとう長崎行きも明日になったな。その前に話しておきたい事がある。實は少し前から考えていた事なのじゃが、お前も知っての通り、儂は来年春には還暦を迎える。そろそろ隠居して家督をお前に譲らねばと思うておる。お前は十八になったばかりじゃから、あと二年先のことになる。儂はそれほど達者ではない。いつどうなるか分かりはしない。お前が長崎へ行けば、当分お前には会えないので、この家督相続のことは覚悟しておってくれ。

 それにもう一つ、緒方家のことを話しておきたいのじゃ。ここに『緒方一族』と書いた書き物がある」

 

 尚一は机の上に置いてあった茶色の表紙で、白い絹糸で綴じた薄い冊子を開いて、次のように言った。                                                                

 「お前には初めて見せるが、これによると、緒方家はすべて豊後の国に起こり、鎮西に広く繁茂する一族である。後に鎌倉時代のころから諸国に伝播しておる。お前も知っておるじゃろうが、大坂で適塾を開いた緒方洪庵も、もとはと言えば皆同じ出じゃ。緒方家には惟の付いた名前の人が多いようじゃな。毛利家の家臣にも、緒方十郎左衛門惟貞という小笠原流礼式者がおられ、代々その役を継いでおられる。

 

 我が家の元祖は、緒方飛騨守といって天文年中、石州益田城主の家来で、一千六百石の領地を持っておった。儂は元祖から数えて十三代目になる。明治になって身分制度は廃止されたが、武家の血を引く者として忘れてならぬは、矜持と克己の精神じゃと儂は思う。言っておきたかったのはこの二つじゃ。長崎へ行ったら身体には気をつけ、時には便りをよこせ。十分とは言えないが、これは路銀じゃ」

 

 こう言って尚一は小さな包みを手渡した。惟芳は両手でそれを受け取り自分の部屋へ戻った。かれは自分が緒方家の十四代目であること、そして惟という字が緒方一族と関係があるという事を知って、大きな支えを得たように感じた。

 

 彼は父に呼ばれる前と同じように座って瞑目した。しばらくして今度は母の声が襖の外から聞こえた。

 「ちょっとお邪魔してもええかね」

 母のマサは入って来るなり彼の机の側に座った。彼女は尚一の後添(のちぞえ)で、夫とは十四歳も年齢の開きがある。二十六歳のとき嫁ぎ、二人の男の子の母となった。今はもう五十歳に近い中老に達している。尚一はやや大柄だが、彼女は普通の背格好である。物腰や言葉遣いは至って穏やかである。 

 「惟芳、本当に済まないね。母として何一つしてあげられず申し訳ないことです。さぞかしあんたは残念でしょう。もう後一年足らずで卒業だから。上級学校への進学は無理としても、当たり前に卒業したら、就職の条件はきっと良いはずと思うがの」

 「ご心配をかけますが大丈夫ですよ。長崎の造船所は学校とはちょっとした繋がりもありますから、就職したら勉強も出来ると思います」

 「そうかね。校長先生によくお頼みしなさいよ。このようなご時世になったので、お父様はあの通り、武士は食わねど高楊枝(ようじ)と言って、もう何もなさろうとはしない。もういいお年齢(とし)だから無理もないがね。菊屋さんたち皆さんは上級学校へ行かれるのじゃろう。どうか堪(こら)えておくれ」

こう言って母は息子の前に頭を下げた。

 

 彼は母にこのような心痛な思いをさせたことを心苦しく感じた。しかし自分は若いし健康にも恵まれている。心配しないで欲しい。それよりも留守の間身体に気をつけるようにと言って母を慰めた。

 

 出立の朝いつもより早く起きると、彼は神棚の榊の水を替え、灯明をつけ柏手を拍って礼拝した。続いて今度は仏壇の供花の水を替え、香を焚き静かに手を合わすと、『修証義』の一部を誦(とな)えた。前途は未だ不明、予期しない事が出来(しゅったい)するかも分からないが、気持ちは案外落ち着いていた。朝食をすますと、母は大きな「むすび」を竹の皮に包み、昼の弁当だと言って手渡してくれた。温もりのあるその包みに、母の慈愛の念(おもい)が伝わってくるようであった。彼は胸に迫るものがあったが努めて笑顔を見せた。

 

 戸外に出ると、東の空がほの白く明け始めていた。吐く息がはっきり見える。まだこの辺り武家屋敷は、寂(せき)として寝静まっていた。山口まで八里の道を行くには、徒歩によるのが普通で、乗り物といえば馬車以外にない。惟芳にとっては歩いて行くのが当然である。従って朝早い出発となった。彼は懇(ねんご)ろに父と母に別れを告げた。眠い目を擦りながら起きてきた弟も、今になって兄との別れが分かったのか、幾分淋しそうな顔をしている。彼は声を掛けてやった。

 「尚春、お父さんとお母さんの言われることをよく聞くんだよ。できたらお盆には帰ってくるからな。それまでにもっと大きくなっておれよ」

 門前に佇む親子三人は、手を振りながら別れを惜しんだ。朝靄の中を桜江渡し船で対岸に着くと、歴代藩主の墓がある大照院の前を通って大屋の観音橋に差しかかった。ここは萩の最後の集落である。豆腐屋など数軒を除いてまだ殆どの家は起き出してはいない。かつてはこの街道を往き来した参勤交代も今は止み、往年の繁華な面影はなくなっている。街筋を過ぎると坂道があり、そこを上りきるとわずかに勾配のある細道が続く。道の右下にかなり開けた土地が見える。

 

 以前そこは梅林で梅屋敷があった。嘉永年間に、萩の豪商がこの地を開墾して梅を植えたと伝えられている。しかし今は橙が一面に栽培されている。青い葉と小さな白い五弁の花、それに摘み取られずに残っている大きな黄金色の実。これら三色が合いマッチして歩行者の目を楽しませてくれる。その上その橘花の放つ薫りが辺り一面に漂っている。萩の町をこの時期に訪れる者は真っ先に此の良き薫に迎えられる。

惟芳は梅が好きであるが、橘の香りも捨てたものではない、と故郷を初めて去りゆくにあたり改めて実感した。

 

 ―梅林変じて橙畑になる。風流だけでは食べてはいけないからだろう。我が家でもそうだった。これも時代の流れか。

 

 彼は橙畑を見下ろしながら道を急いだ。少し行くと鬱蒼とした孟宗竹が道の際(きわ)まで生えていた。道の左側には山が迫(せ)り出している。その山の麓に樹齢二百年を優に越える大きな松が、十数本空高く聳えている。吉田松陰が最後に江戸へ護送されたとき、故郷を振り返って詠んだ歌はあまりにも有名である。

 ―先生は自分がまさか江戸で処刑されるとは思われなかっただろう。先生は東へ向かい二度と故郷の土を踏まれなかった。おれは西に行く、しかしおれは帰るぞ。少しはましな男になって。

 

 彼もまた今来た道をふり返った。遥かかなたに日本海とその全面に萩の町が朝靄の中に霞んで見えた。彼は「涙松の歌」を口ずさんだ。

 

  帰らじと 思ひさだめし旅なれば ひとしほぬるる 涙松かな

 

 惟芳は弓道を始めて、それまでとは違い、何を読んでも弓矢に関することが目につくようになった。今この松陰の歌を口ずさみながら、ふと楠(くすのき)正行(まさつら)の辞世の歌を思い出した。

 

 帰らじと かねて思ひし梓(あずさ)弓(ゆみ) 亡き数(かず)に入る名をぞとどむる

 

 ―松陰先生は正行のこの歌を念頭において、涙松の歌を詠われたのではなかろうか。それにしても二人ともあの若さで死を覚悟し、従容として死出の旅路についた。その上このような人口に膾炙(かいしゃ)されるほどの歌を遺すとは、實に見上げたものだ。

惟芳はこのようなことを考えながら、清新な朝の大気の中、緩やかな坂道を黙々と登っていった。しばらく行くと道の両側に、杉木立が並ぶ薄暗い所に差しかかった。木漏れ日がかすかに射している。ここは江戸時代に刑場のあった場所で、放火や近親者殺害、あるいは贋金造りといった重罪人を処刑したところである。

 

 すぐ近くに石の地蔵が立っている。処刑された人たちの霊を弔うためであろう。またここは、宝暦九年(1759)に、栗山孝庵とうい藩医が、日本で最初に女の死体を解剖した所でもある。 

 

 ―医を志す者として、病の原因を突き止めるには、人の躯を切り開いて見たいという思いに駆られるのは、至極当然のことであろう。しかしこうした考えを実行に移す、しかもだれよりも先に手掛けるには、余程の勇気、それに準備がいったであろう。

 人の命を助け、その痛みを和らげることに努力を惜しまないのが、真の医者たるものの取るべき態度である。こうした行為こそ何にも増して尊いものである。だからこそ、そのような医者は世人の尊敬を受けるのである。

 

 彼は今初めてこんなことを考えた。しかし医の道を天職とする考えは、まだこの時の惟芳には思い浮かばない事であった。昼なお暗い刑場跡は、やはり余り気持ちの良い場所ではなかった。深閑とした杉木立に人気は全くない。彼は急ぎ足でその場を通り過ぎると少し明るい所に出た。いよいよ萩ともお別れだ。親元を離れ故郷を後にすると思うと感無量になった。 

 

 男子志を立てて郷関を出ず

 学若し成るなくんば死すとも還えらず

   骨を埋む 豈墳墓の地のみならんや

 人間到る処青山あり

 

 彼は自らを鼓舞するかのように、幕末の詩僧、釈月性の漢詩を大きい声で吟じながら一路山口へと道を急いだ。