yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 第十六章「困苦に耐えて」

(一)

 村長をはじめ多くの村民の悲しみのうちに、村葬は立派に終わった。その日を境にして幸は毎日、暁暗(ぎょうあん)の仏前で灯明をあげ香を焚き、『修証(しゅしょう)義(ぎ)』の「第一章 総序」を低唱した。

 

 生(しょう)を明(あき)らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり
 生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし
 但(ただ)生死即ち涅槃(ねはん)と心得て生死として厭うべきもなく
 涅槃として欣(ねご)うべきもなし
 是時初めて生死を離るる分あり唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし  

 

 幸の生家の山本家は代々浄土宗を信じ、そのために子供の時から法然上人の『一枚(いちまい)起請文(きしょうもん)』を朝晩仏前で唱えていたが、浄土真宗を奉じる緒方家に嫁ぎ、彼女は親鸞聖人の『正信偈(しょうしんげ)』だけでなくこのお経も唱えた。

 

 惟芳は自分が苦学したので、子供たちの教育費を優先して考え、そのために幾ばくかの学費を貯めていた。また戦時中、村に割り当てられていた国債を、無理をして買ってもいた。しかしこれらは終戦と同時に紙屑同然となった。こうした窮状に抗しながらも、幸は亡夫の意志を継いで、三人の子供達の教育だけはと思うのであった。特に正道には医者を志し、夫の拓(ひら)いた道を歩ませなければいけない。これは幸にはまさに悲願とも言うべきことであった。

 

 幸は毎晩子供たちを仏前に正座させ、『正信偈』を唱え、父と兄の霊に向き合わせた。この経の外に『般若心経』を幸は娘時代、華道の修行で京都の妙泉寺に下宿していた時に覚えた。 

 

 これは筆者が体験したことであるが、惟芳が亡くなった翌年の夏宇田郷へ行った時、夕食の前に親子五人が仏前に集まり、静かにお経を唱えはじめた。小学生の私はそれまでお経を唱えたことはなかったので、読経(どきょう)が終わるまで衝立の外にただ一人取り残されたよう座っていた。数基の盆提灯の明かりが明滅している仏間で、私は何だか場違いの自分を見出し、淋しい思いをしたことを今でもはっきりと覚えている。
従兄達は勿論のこと小学生の従妹も、皆一斉にこの厳粛な行為を父の死後続けていたのである。今から考えると、そこには夫亡き後、一家を支えていこうとする幸の必死の気持ちの一端が窺われる。

 

 さて、これから如何に生きていくべきか、この事は彼女にとって大問題であった。長男の芳一が硫黄島で玉砕したのが三月十七日であり、一家の大黒柱である夫も同じ年の九月に斃れた。妻でありまた母である幸は、夫に誓った言葉を一日たりとも忘れはしなかった。しかし未だ成人していない四人の子供達をどうして育てたらよいかと考えると、前途暗澹たるものを感じざるを得なかった。

 

 幸は緒方家に嫁いで二十年、その間に三男一女の子宝に恵まれた。しかし夫との永の別れとなった時、彼女は人生の丁度半ば、満五十歳であった。幸はそれから半世紀、百一歳の天寿を全うしたのである。

 

 父の後を継いで医者を目指さなければならない正道は、前にも言ったように小児麻痺で、戦時中は身体障害者という理由で医学校に入ることが出来なかった。従って萩中学校を卒業した後、一年間宇田郷の村役場に勤めた。幡典は萩中学校を四年生で繰り上げ卒業をしたものの、前章で述べたように光海軍工廠勤労奉仕中、終戦宣言の前日、飛来したB29の投下した爆弾で負傷し、自宅で療養中であった。武人だけは無事に萩中学校へ自宅から汽車通学をしていた。これら男兄弟の他に中学生の信子がいた。この四人の子供達の行く末を考えると、幸は余程肚を決めてかからなければならないとの思いは、何時も念頭を去らなかった。
 
 そうしたある日、幸にとっては決して忘れる事の出来ない事を思い出した。それは父の友一郎がよく話してくれていた貴重な実見談であった。 

 「維新前夜、当時長州藩は幕府に対して、上下一丸となって難局に立ち向かっていたのじゃ。その時山本家も苦境に巻き込まれたがのう、皆よう耐えたものじゃ。人間はいつ何時(なんどき)こうした運命に立ち至るか分からん。こうして歯を食いしばって辛抱し、苦難を乗り切った体験こそが、心の貴重な支えになるのじゃよ」

 友一郎はこう云って自らが体験したことを幸に話して聞かせたのである。

 

 安政元年(一八五四)に生まれた友一郎は、元治元年(一八六四)には十歳の少年であった。その年七月十九日、長州軍は蛤御門の変禁門の変)で薩摩・会津の両藩と激戦を交えたが敗退し、その責任を問われて、福原越後国司信濃・益田弾正の若き三家老は切腹を命じられた。また勤王派の十一名も斬首された。幕府はさらに慶応元年(一八六五)四月、長州再征を諸藩に命じた。 ここに長州藩は討幕応戦のため、兵制を改めるなどして、この未曾有(みぞう)の難局に対処しなければならなくなった。従って毛利藩は、ひそかに最新の武器の調達にと最大限の努力を払った。武具を取り扱っていた友一郎の父、梅屋七兵衛(筆者注:梅屋は屋号)が、藩の責任者の一人、木戸準一郎(後の木戸孝允)に、銃の購入を命じられたのもこのためである。

 

 「今でもよう覚えちょるが、慶応元年(一八六五)丁度私が十一歳の時、今や長州征伐の始まらんとし、幕府の兵は国境まで来ておったのじゃ。父はその頃酒造業の傍ら、毛利藩の御武具方の御用達をしておられたのじゃよ。御武具方では、銃の不足のため勝利の見込みなきものと、日夜頭を悩ましておられたのじゃ。それで銃の購入を父に令せられたのじゃ。」
 「その時は既に長州人は他国へ一歩も出る事が難しかったのじゃ。幕府方に目をつけられておられた父は海路長崎へ行き、幕府奉行の目を忍び苦心に苦心を重ねて、ようよう外国商人の銃を売る人について購買の事を相談し、小銃の見本を持って帰り、藩の御承認を受けたのじゃよ。」
 「その節御武具方にては、『長崎に参り銃千挺買い長崎より長州大津郡仙崎浦に回漕せしめ、現品を受け取りたる上、代金全額を支払』という命だったのじゃ。」
 「父は購入約定金参千両を用意して再び参られたのじゃ。その時父は四十三歳じゃったが、早や死を覚悟し、木戸準一郎、伊藤春輔(後の伊藤博文)、品川彌二郎、それから大賀大眉(たいび)、此の方は母の兄で町人だが学者で、吉田松陰先生ともよく交際しておられたのじゃが、以上の方々と相談して、幕府の疑いを受けた時には、長州人でなく、藝州人という事を証明する偽(にせ)の手形を造り、また海路用心のため偽(いつわ)りの舟印を染めて持って行かれたのじゃよ。」
 「出発の際一同(母と兄、私、弟四人)は水盃を汲み、父は母に覚悟を打ち明け、後の事万事何かと遺言し、天神様に無事を祈り海路萩を出ていかれたのじゃ」

 

 当時長州藩の藩政に関与し、維新後、新政府で活躍したこれらの人物は、今から考えると皆若かった。ちなみに、木戸は三十二歳、イギリスから帰国していた伊藤は二十四歳、品川は二十二歳である。なお、約定金とは手付金のことで、参千両は今の貨幣価値で言えばおよそ三億円相当か。長崎に着いた後、七兵衛がどんな目にあったかということも、友一郎は詳しく話した。

 「長崎に着いて、以前長州藩の御用達を勤めておられた諸藤(もろふじ)久兵衛の内に泊り隠れ忍んで、前に相談した外商人と交渉を重ねられたのじゃが、その商人の云う銃の価が他の外商のより高価な事が分かったので、馬鹿に高い品を御用達申し上げては上様(うえさま)にすまぬと思い、その商人の持っている銃の数の足らないのを理由として、その交渉を止め、他の外商英人ガールと約束を結び約定金を渡されたのじゃ。それからが大事(おおごと)じゃった。」
 「それを聞いた前の外商はこれを怨み、父の事を長崎奉行に密告したので、父は直ちに捕えられ拘留されて、奉行所で訊問を受けなければならない身の上になられたのじゃよ。その時父は覚悟の前の事で、少しも騒がず、泰然として『私は藝州様の使者に御座います』と言って、予(か)ねて用意の手形を示されたのじゃ」

 

 友一郎は実物の手形を見せて幸に説明した。(筆者注:手形は現在、萩博物館にある)

 「奉行は手形を見ても中々信じないで、『汝は以前長藩士柳井謙蔵に随い当地に参りし事あり、且つ今回の宿も長藩用達人の家なり。汝の長州人なる事決して疑なし』と云うので、
 『御尤な仰(おおせ)の様なれど、私は元藝州の生まれにて、長藩に養子に行きました故に長州人と親しくなり、柳井様と同道しましたのもこの故で御座います。しかしながら、今や長州は藝州とは敵となり、時勢は急迫致しました故、一応藝州の実家に帰り居りました処、是まで長崎表に度々来ました縁により、此の度藝州様から小銃購入を命じられて参りました訳でございます。』
 『然らば是事藝州に問合せ実否を正すがよろしいか?』
 父は自若として、こう云われたのじゃ。
 『何卒早急にお問い合せ下さいませ。今や長州征伐は近日の内に始まる様子故、藝州では兵器の調達の要が時々刻々迫っております。一時も早くお問合せ下さいませ』
 
 「そこで奉行は直(すぐ)様(さま)飛脚を発して藝州に遣ったのじゃが、その頃長崎藝州間は片道一週間乃至十日間かかったのじゃ。しかし一面には父の応答の余りに明瞭なので、あるいは嘘で無いかとも察したので、諸藤久兵衛を召して、父を諸藤家にて監視さす様に命じたのじゃ」

 友一郎はここで、父七兵衛がその時とった態度を強く印象付けるように言った。

 「度胸と膽力とで幕吏の手を免れる事が出来たのじゃ。若し少しでも気(き)細(ほそ)み心臆(こころおくす)するところがあったら、入獄は申すまでもない。だが奉行の手は免れたものの、暫(しば)しも安居する時ではないと思い、その夜久兵衛には相済ぬと思いつつも、ひそかに諸藤家を脱出し、外人居留地のガールに助けをもとめられたのじゃ。」
 「ガールを初めとして一同が大変驚いたそうじゃ。そりゃ無理もなかろう。父は言葉が通ぜぬので身振り手振りで気持ちを伝えようと非常に苦心され、ようよう理解が出来て匿(かくま)ってもらうことになったのじゃ。奉行所では父が脱出したことを聞き、多くの偵吏を以て夜となく昼となく處々探したので、ガールは自分の家に匿っていることが露見することを恐れて、父を自分の船に乗せて上海に参る事にしたのじゃ」

 友一郎は父七兵衛から聞いた冒険談をつぶさに娘に語り継いだ。

 「此の時の船はまだ西洋型帆(ほ)前(まえ)船(せん)じゃった。海路風荒く波高く果てしもない海原を漂ったそうじゃ。父は船中でご用命の事、妻子の事を思われたそうじゃが、父の胸中はいかばかりか察するに余りがあるのう。その時千鳥の鳴く声を聞かれて、次の句を詠まれたのじゃ。」

  千鳥のみ 大和(やまと)言葉や 船の中  

 「ようようの事で上海に上陸し、父はガールの友人の家に厄介になる事になった。ガールは直ちに小銃を取りに帰国したので、父は外人の家の中で話すこともなく淋しく心細い不安な日を約一年送られたのじゃ」

 ここで友一郎は父の帰りを待つ萩の家族の事に話題を転じた。

 「話変わって、萩の家では待てど暮らせど何の音沙汰もない。家内一同親族皆案じて暮らしていた処、長崎から云い伝わって、『梅屋七兵衛は長崎奉行に拘留され江戸表に護送された』と、柴田弥平というあまり人の良い事を好まぬ人が申してきたのじゃ。そうすると、見舞いに来る人、悔やみに来る人が沢山で、母も今や是までと思い、葬式の用意をしようと、母の兄の大賀大眉に相談した処、
 『まあ待って見よ、葬式は何時でもなる、七兵衛が江戸で殺されたならば、幕府から何とか長崎へ報知のあるはず、それが無くばまだ騒ぐには及ばぬ』
とのことで、一同不安ながら居ったのじゃ」

 友一郎はその時母のとった態度を忘れる事が出来なかった。

 「留守中、酒造業から御用達から、女ながら帳場に座し、多くの人を指図している母の態度は、他處(よそ)のおばさんと比べると男の様だ、と子供心に思ったのじゃが、夜など打ちしおれ案じておられた。それでも三吉(さんきち)と申す者で、十六歳のとき樽拾(たるひろ)いになり四十幾歳まで忠実に勤めて居った下男が、母や私たち兄弟四人をよく慰めてくれたのじゃ。また木戸様や伊藤様、品川様が、これは前に奇兵隊じゃったが、皆代わる代わる来て慰めて下さった。」

 「一方父は上海で一番困ったのが食物で、しかも悪臭で口にする事ができなかったそうじゃが、おいおい馴れられたらしい。着物は一枚限りで、洗濯をしてもらう時は、チョン髷に洋服、チョン髷を自分で結ぶのを外人は珍しそうに見たそうじゃ。それでも父は常に天神様を念じ、夢想と題して、こんな句を詠まれたのじゃ。」

 天満(あまみつ)る 薫をここに 梅の花    佳兆

 

 佳兆というのは父の俳号じゃ。此の句についてついでに言うておこう。無事に大任を果たされた父は天神様へのお礼の気持ちで、此の句を石に刻んでその句碑を防府の天神様の境内に建てられたのじゃ。社殿の後ろにあるから何時か行ってみるがいい。天神様を信じて居られた父は、京都の北野天神と太宰府の天神様にもお礼の石灯籠など寄付されている。」

 

 

(二)

 高杉晋作が幕府の船「千歳丸」に便乗して上海へ航行した時、貴重な『上海日記』を書き留めている。七兵衛が決死の覚悟で長崎を脱出し、上海で不安な日々を送り始めた時より三年前の事である。文久二年(一八六二)五月五日から約二カ月の間、晋作は上海にいて見聞したことを『日記』に書いた。当時の上海がどのような様子であったかを窺い知る上で、この『日記』から一部引用してみよう。

 

 五月六日 午前、ようやく上海港に至る。ここは支那第一の盛んなる津港なり。ヨウロッパ諸邦の商船、軍艦、数千艘碇泊す。檣(しょう)花(か)(筆者注:帆柱)林(りん)森(しん)、津口をうずめんと欲す。陸上にはすなわち諸邦の商館紛壁(ふんぺき)(筆者注:白い壁)千尺、ほとんど城閣のごとし。その広大にして厳烈なこと筆紙をもってつくすべからず。
 清人をもって介者(筆者注:通訳)となし、街市を徘徊す。土人、土檣のごとく我輩を囲む。その形、異なるゆえなり。街門ごとに街名をかかぐ。酒店、茶肆(さし)、わが邦と大同小異、ただ臭気のはなはだしきを恐るるのみ。黄昏(たそがれ)、本船に帰る。甲板の上、極目四方、舟子欸乃(あいだい)の声、軍艦発砲の音と相応じ、まことに一愉快の地なり。両岸の灯影水波に泳ぎ、光景、昼のごとし。

 

 晋作にとって初めて接した外国の大都市、上海の印象である。彼は表向きのかなり明るい姿をまず微細に描写している。「土檣のごとく」は支那人の多くが物珍しがって晋作を取り巻いたので、彼はまるで周囲土壁の中にいる思いだったのであろう。また「舟子欸乃の声」は舟歌のことであろう。翌日の印象は一変して裏面の暗い様子を描いている。

 五月七日 川に濁水流る。英人いう「数千の碇泊船および支那人、皆この濁水を飲む」。予おもえらく、「わが邦の人はじめてこの地に来たり、いまだ地気をしらず。しかのみならず朝夕この濁水を飲む、必ずや多くの傷人あるべし」。

 五月十四日 晴。上陸の日より、今日に至りすでに一旬の余を数う。雨さらになく、まことに雨なき国かと疑う。終日閑居し、英書を読み紀行を閲(けみ)す。同行の渡辺与八郎の従僕、昨夜来の急病にて、今朝冥(めい)行(こう)す。同行の者、病客はなはだ多し。諸子畏縮し、あるいは促して帰らんと思う者あり。予おもえらく、「一歩国を出づれば死はすでに決す。しかれどもむなしく死するは益なし。ただ身みずからわが体を護るほかに術なし」。

 五月二十一日 この日、終日閑居し、つらつら上海の形勢を観るに、支那人ことごとく外国人の便役たり。英、仏の人、街市を歩行するや、清人みな逃げて道を譲る。まことに上海の地は支那に属すといえども、英仏の属地というもまた可なり。
                (『現代日本記録全集「一」近代日本の目覚め』筑摩書房

 

 晋作は上海で何を見、何を考えたか。彼の目にもっとも強く焼き付いたのは、ここに書かれたような光景ではなかろうか。後年、英・仏・蘭・米の四国連合艦隊との「馬関攘夷戦争」の講和談判に際し、高杉がイギリスの彦島の租借申し出を断固として拒否したのは、「上海の地は支那に属すといえども、英仏の属地」、此の事が彼の念頭にあったからであろう。

 

 約一年間上海にいた七兵衛も、晋作が記録しているような、常とは異なる環境、慣れない状況の中にいた。その上いつ帰国できるとも分からない不安な日々を送り、さぞかし彼は国元の事を心配したことと思われる。

 

 その年二月長州は幕府軍に四境(筆者注:大島口・広島口・石州口・小倉口)を包囲されようとしていた。同年六月七日、大島口で戦いの火ぶたが切って落とされ、いわゆる四境の役が始まった。しかし長州軍は高杉晋作大村益次郎など優れた指揮者のもと善戦したので、九月二日には休戦となった。幕府は征長諸藩に撤兵を命じたのである。翌慶応三年には、藩の政庁は萩から山口へ移された。

 

 友一郎は父の七兵衛が帰国したときの様子を続けて語った。

 「其の翌年慶応二年、ガールが小銃を取り揃え上海に入港したのじゃ。その時の父の喜びは如何ばかりか、早速乗船して長州大津郡仙崎浦さして出港したが、ガールは大海原を知ってはいたが、仙崎浦に入る海路は分からなかったのじゃ。漁船を見つけて近付いて尋ねようと父が船上に出られたら、西洋船の中に日本人が出て来たので驚いたそうじゃ。」
 「父が理由を話すと、『梅屋の旦那でお話は聞いて居りました』と言って道案内して、その年十月頃やっと仙崎港へ入ることができたのじゃ。ところが仙崎港が予定の帰着港で、大津郡の代官も早や承知の事ではあったが、何分予定通り帰らず、また何の消息もないので、人は皆七兵衛の生死は分からぬと憂いていた折り柄、西洋の船が突然入港したので、異船襲来と仙崎の人は驚いたそうじゃ。それもそうじゃろう。」
 「代官の命で農兵数多く海辺に出て戦備を整えるなど大騒動をする様子をガールは船上より両眼鏡で見たのじゃ。それでガールは非常に恐れたのじゃ。そりゃ無理もなかろう。父は早速端艇(たんてい)に乗り上陸し、直ちに代官に面会して、洋上の事を始めから終りまで申し上げたのじゃ。お蔭で実情が明らかになり皆大安心して警戒を除いたのじゃ。」

 「代官より萩の政庁へ報せが参り、これを聞いた我が家一同の喜びは一方(ひとかた)じゃなかった。その時洋学者の中島治平が通弁の御用として仙崎へ行かれたのじゃ。さて、銃は仙崎に到着してガールより受取るばかりになっておったが、代金は萩から願い下げなければならないので、父が萩へ帰ろうとしたところ、ガールは農兵の出た事を怖れ、父を是まで質物(しちもつ)のように頼みと思っていたので、父に帰萩されてはよほど不安に思ったのじゃろう、どうしても帰萩を許さないのじゃ。どんなに弁解しても聞き入れない、どうでも帰萩するなら、妻子いずれでもここへ呼んだ上で帰れと申すのじゃ。父は手紙をこまごまと認め飛脚を以て連絡されたので、長男は梅屋家の相続者故、もし万一の事があってはと、二男の私が洋船へ人質に行く事になったのじゃ。」

 友一郎は何年も経った後のことだが、その時経験したことを鮮明に記憶していた。

 「当時萩の資金の大部分は山口に移されていたので、父は更に山口に赴き、金額を申し出て、蔵元両人所役人、近野虎之進・長尾半助その他の役人一行と共に仙崎に至り、役人より直接ガールに小銃千挺代償一萬八千両を現品受領と同時に支払われたのじゃ。一挺十八両の割合になる。千両箱は重いので、馬の背に二箱ずつしか乗せて運べないので、山口から仙崎まで長い行列が続いたということじゃ。」

 「当時十二歳の私は、恐ろしくもあり、また見たくもあった。下男の吉蔵だけが、この男は少し頓狂で酒飲みじゃったが、他の下男は恐れて良い返事をしないのを見て、『私がお伴致します』と申し出たのじゃ。吉蔵は父の手紙の指図か鶏を沢山もって、私と一緒に船で仙崎へ参ったのじゃ。その時吉蔵に肩車をしてもらって海岸沿いに舟まで行った事をよう覚えちょる。」
 「仙崎で端艇に乗り換え本船に着いたところが、何だか臭い気がした。船員が皆私を珍しがって抱いてくれた。船員が吉蔵に洋酒を飲ましたところ、コップもビンも珍しく、吉蔵は酔っぱらって打ち倒れ、『枕をくれい、枕をくれい』と云って、手で枕の真似をしたが通じないものだから、そこにあった鞜(くつ)を枕に寝てしもうたのじゃ。船員は皆指さして笑った。私はそばの寝台に上がって休んだが、朝起こされて見れば、吉蔵は早や帰り、その時の悲しさは今でも忘れられん」

 友一郎は幸にこんな事も話した。

 「船員の一人が片言の日本語で、『ト、ト。ゴー、ゴー』と言うので何のことかと思うたら、『お前のお父さんは、船の中でぐーぐーと高鼾で寝ていた』という意味だと分かった。誰一人 知らない者の中で悠然と寝るとは感心だと、思ったのじゃろう。まあ考えてみたら、やっと大任(たいにん)が果たせるという事が分かったので、父は安らかな気分になられた為じゃろう。またこんな事もあった。」
 「印度人のコックが度々食物を持ってきて慰めてくれた。その時赤い味噌のようなものを持ってきて、自分で先に食べてみて私に食べさせてくれた。今思えばジャムで、また赤い血の様なものを飲ませると思ったが、葡萄酒であったのじゃろう。ガールが醺醺(くんくん)臭(くさ)いお菓子を沢山くれたが、あまりに臭いので食べなかった。今思えば、ビスケットじゃった。私の食事は仙崎の庄屋から縁(ふち)高(だか)に入れて持ってきた。それを皆が集まって珍しく見るので、煮(に)染(しめ)をやると美味しく食べたよ。今から考えたら。随分昔の過ぎ去ったことじゃが、あの時の不安な気持ちはやはり忘れ難いものじゃのう」

 友一郎はこうして、苦難の日々を思い出して語ると、最後に幸に諭すように言った。
 「苦しくて難儀なことは、人の一生には必ず一度や二度はあるものじゃ。だからどんなに苦しいことがあっても、決して挫けてはいけない。また神仏を尊び、ご先祖様への崇敬の念を決して忘れてはいけない。必ず道は開けるものじゃ。」
 

 

(三)

 幸は娘時代に聞いた父の話を思い出し、これからの自分の生きるべき道を考えたのである。

 ―維新前夜の祖母の立場は、今の私の立場に少しは似ておるのではなかろうか。その後祖父と父は大阪へ出て商売をされたが、事業に失敗して帰られたというが、それからの苦労も並大抵ではなかったと聞いておる。維新のどさくさに便乗して、事業に成功した人もあれば、そうでない人もいる。祖父は萩に帰られた後は、貧しい中にも、お茶を嗜(たしな)んで静かに晩年を送られたようだが、まだ私にはそんな心のゆとりはない。子供達をなんとか一人前に育てる事が、私の急務であり、主人への誓いを果たすことでもある。
 

 しかし今考えてみると、主人はあの時亡くなられてよかったのではなかろうか。この宇田郷村においても、戦前、戦中とは違った風潮が萌(きざ)している。都会では美しい人倫が崩壊し、人としての矜持が失われたと聞く。また極度の食糧不足、物価の急騰、あるいは配給食糧の横流し、隠匿物資の横領、さらに凶悪犯罪が頻発しているという。人として正しい生き方が廃(すた)れたらもうおしまいだ。自由主義、民主政治と云いながら実際はそれをはき違えて、放縦勝手な振る舞いというではないか。主人がこうした状態を見られたら、それこそ怒り心頭に達したであろう。

 

 このような世情を作家の里見弴の目が鋭く捉えている。昭和二十七年の筆になったものがある。

 戦後の人心に特別目立つ傾向は、早く言えば「為(し)たい放題」「我儘勝手」で自分の利益になり、快楽になり、売名になり、総じて、何かの意味に於いて私慾の満たされることなら、他人の迷惑など屁(へ)とも思はず、しゃしゃり出ては奪ひ合ふ傍若無人さだ。これは一々實例を擧げる必要がないほどで、皆様御承知のことだらうし、もし一個半個にもせよ、ひりりと脛(すね)の疵(きず)にさはられたやうな気のなさる方があるなら、なほさら以って結構な話だが、かかる風潮が、「民主主義」だの「自由思想」だのといふ美名の下に許されるべきだとすると、恐らく、われわれの愛する日本國に、この先さう永い歳月は期待されまい。
(『道元禅師の話』岩波書店

 

 戦後間もなく外地から引き揚げたり、戦地から帰還した者の多くは、食糧難に加えて就職口を見つけるのに苦労した。

 

 幸の妹の貞子が森井丈夫(たけお)と結婚したのは、昭和十三年のことである。彼は養蚕技師として韓国の晋州周辺で職務についていた。男子四人、女子二人の子宝に恵まれていたが、妻が亡くなり、多くの子供を抱えて非常に困っていた。そうした家庭状況のところへ貞子は嫁いだのである。しかし終戦と同時一家は引き揚げざるを得なくなった。男の子の内、上三人は軍隊に入っていたが、運よく皆無事に帰還出来た。幸は此の男の子たちを一時世話した。一年数カ月後には皆それぞれ職を見つけて宇田郷を離れたが、その間幸は彼ら三人の食と住の面倒をみたのである。

 

 宇田郷村は貧乏村ではあったが空襲を受けなかったので、何とか食べるには困らない状態だった。しかし主食の米は配給制度のために決まった量しか手に入らない。食べ盛りの男の子たちをどうにかしなければならない。幸は色々な物と交換して「闇米」を求めた。自宅からかなり遠隔地の井部(いぶ)田(た)や葛篭(つずら)という部落の農家へ、幡典は母に伴って何度も行った事を覚えている。帯で作ったリュックを提げて、彼は急な坂道をどんどんと登っていく母の後を一生懸命に付いて行った。百姓家を訪ねて米を分けて貰えまいかと言うと、

 「これはまあ、緒方先生の奥様ではございませんか。こんな遠いところまでようお出でなさいました。先生には御存命中よく往診して下さいました。あの御恩は決して忘れません。」
 「お米ですか? あればいくらでもお分けいたしますが、ほとんど供出しまして、我が家の食べ料しか残って居りません。折角おいでになりましたから、少しですがお分け致しましょう」

 こう言ってどの農家も快く分けてくれた。その時、普通なら枡(ます)にきりきり一杯量る処を、一升枡に山盛りにして、それを一升として呉れた時の親切を幡典は未だに忘れない。米を手にした帰り路、駐在所の前を通る時、ひやひやとして胆がつぶれる様な思いをしたことも、ありありと覚えている。

 

 昭和二十一年五月十四日、緒方家に一通の封書が届いた。それは役場で使い古した紙で作った状袋に入っていた。数字や村人の氏名が透けて見えるような薄い状袋の表に、「元浦 緒方睦子殿」と宛名書きされ、裏に宇田郷村役場と差出人のあるものであった。中を見ると、わら半紙半切に通知内容が記載されていた。氏名だけはペン字書きであるが、その他の文字はみな謄写されていた。そのわら半紙の裏には「学業成績證明書」と題して生徒の成績が書きこめるようになっていた。今では到底考えられないようなぼろ紙を利用したものである。 

 

 水と紙の使用量如何が文明の尺度になると云われるが、物が有り余り、使い捨ての生活を当然と考えているような多くの現代人には、終戦当時の生活は想像し難いものである。さて、肝腎の通知内容は以下の通りである。
 
 今次戦争に於て戦死(病没)されましたる

 故陸軍軍医少尉 緒方芳一殿
 故陸軍軍曹   杉山 稔殿
 故海軍一等兵曹 永谷弘美殿
 故海軍整備兵長 藤村素一殿
 故陸軍上等兵  大谷三郎殿
 故陸軍一等兵  三明良助殿
 故海軍一等兵  谷 源一殿
 故陸軍軍属   岩本頼夫殿
 
 右の英霊に對しまして来る五月十九日午後二時より(晴雨不拘)宇田國民学校に於いて本村宗教団体の主催で慰霊祭が行はれますから御参列下さいます様御案内申上げます
  昭和二十一年五月十四日
          宇田郷村長 中山發郎
   遺族 緒方睦子 殿

 

 正道は義姉と共に慰霊祭に参列した。父に次いで兄も村葬をもって葬られたことは、せめてもの慰めだと感じた。

 

 

(四)

 昭和二十一年四月、正道は宇部にある県立医学専門学校に合格した。昭和二十三年四月には幡典が宇部工業専門学校の化学工業科へ、また武人も同じ学校の土木科へ同時に入学した。こうして兄弟三人は母の下を去ったのである。
当時宇部市は戦災を受けて一面焼け野原であった。従って彼等は宇部市郊外の一軒の漁師の家の網小屋を借り、そこに自分たちで座を張って住むことにした。こうして生活の場が出来ると、アルバイトをしながら勉強した。医専と工専が宇部市にある事は、三人の兄弟にとってはこの点非常に好都合であった。何しろ無理を承知で進学させてもらったのだから、母の心中、窮状が痛いほど分かる。彼等は母に心痛させてはいけないと話し合い、学校から帰ると時間の許す限り、石炭箱の釘打ちというアルバイトに専念した。

 「食事も朝・昼は抜いて夕食だけで我慢し、空腹を水を飲んで紛らわすこともあった。またある時武人が八百屋へ行って、『白菜を半分下さい』と言ったら、『半分は売られん。そうすると残り半分が売れないから』と言われて、一個分けて貰った。ノートを買うのが勿体ないので、父が使ったカルテの余白をノート代わりにした」

 こう言って筆者に見せてくれたが、細かい字で几帳面に講義を記録しているのには驚いた。正道の言によれば教科書が無く、教授の一言一句を書き留めなければならなかったので、一回の講義でかなりの紙数を要した。当時はインフレで物価の上昇が著しく、とてもノートを買う金が無いので、カルテの余白を利用せざるを得なかったのである。
 「家、屋敷を処分してでも医学の道に入るのだ」、と幸は正道に命令した。このことからも分かるように、亡き夫への誓いは揺るぎないものであった。従って息子たちも母の気持ちを深く汲み取ったのである。こうして無事学業を終え、昭和二十六年三月偶然にも三人同時に卒業することが出来た。

 

 正道はその後一年間のインターンの課程を終えた後、足が不自由なので往診をしなくてもすむ耳鼻科を選んだ。その時主任教授から「助手として医局に残れ」と言われ、教授がアメリカへ研究に行く時まで四年間助手を勤めた。その時正道が受け取った「通達」は下記のとおりである。

 

通達
山口県公立学校教員
緒方正道
山口県医科大学助手を命する
六級四号給を給する
右通達する
昭和二十七年九月十六日
山口県知事 田中龍夫 印 

 

 正道は助手になる際、耳鼻科の本庶教授に、「将来宇田郷村へ帰って父の跡を継いで働きたい」、と自分の意思を伝えていた。昭和三十一年教授の米国留学が決まると、教授は正道に「耳鼻科だけの知識で宇田郷へ帰っても困るだろう」と言って、耳鼻科助手の籍のまま、彼を山口大学医学部の小児科、内科へ六ヶ月研修に行かせた。研修が終わると、教授は正道を連れてわざわざ宇田郷村まで行き、村長に村医として雇ってくれと申し入れた。しかし村長は、「現在村医が一人居り、村の財政上二人の医者を雇う事は出来ない」と言って断った。従って正道は「父の跡を継ぐ」という当初からの考えを断念し、耳鼻科医として一生を過ごそうと決心した。その時の村医者はその後数年して退職したと聞く。人生は全く予測が付かないものである。

 

 宇田郷に帰らなくてもよくなった正道に本庶教授は「米国留学中、教室に助手として勤めてくれ」と言った。ところが正道が宇田郷へ帰ることを予想して、教室に入りたいがために、無給で待っている後輩がいた。正道は自分が元通り教室に残ると、その者に迷惑をかける事になると思い、「教室外に勤務させて下さい」と教授に頼んだ。このようなことがあり、結局彼は市内にある宇部興産工場病院に勤めることとなった。
不思議な縁というべきか、正道の恩師の長男が、この度ノーベル医学生理学賞を授与された本庶佑教授である。正道がその後宇部市で開業して仕事も順調に進んでいたので、そのころ初めて出回ったテレビを差し上げようとしたら、「息子の勉強の妨げになるから、そんなものはいなない」と言われたと笑いながら語っていた。

 

 幡典は昭和二十六年宇部工業専門学校を卒業後、山口大学医学部生化学教室に勤め始めた。勤めて一年目に学内学会で研究発表したとき、医学校長松本彰教授より、「高専卒業の資格では、医学部教室では助手以上はなかなか難しい、医学部に入り直さないか」と言われた。母に相談すると、喜んでそうするようにと言った。従って主任教授中村正二郎教授の許可を得て、医学部入学資格を取るために、昭和二十八年佐賀大学文理学部に進学した。そして昭和三十年山大医学部に入学、四年後の昭和三十四年に同学部を卒業した。

 

 今一人の弟武人は既に述べたように、建設省に入り、程なく結婚したが、緒方家の経済状態は依然として厳しいものであった。しかしここに何とか兄弟三人は将来への目途がついた。そうした時本庶教授の紹介で、正道は医師の久保雲仙氏の姪の久保俊子と昭和三十四年五月に結婚した。就職と結婚は一種の出会いで、その人の運命を左右する。特に結婚の場合、それは偶然のようで案外必然的なものではなかろうか。正道は良き伴侶を得た。

 

 幡典は被弾で右手が多少不自由なため臨床医には向かないので、基礎医学で学者を目指すと言って、山口大学医学部の第一期生として大学院に残った。幡典は母とは相談していたが、これは正道にとっては寝耳に水の話しであった。正道は弟妹たちの事や、今後の自分たちの結婚生活について考えると、勤務医の給料だけでは何かと生活に支障が生ずると思ったので、俊子を説得した上で教授に開業の許しを得て、昭和三十四年十二月に市内で耳鼻科を開業した。

 

 その時教授から、「教室員不足で教室に帰ってもらうつもりで居ったが、家庭の事情なら開業も止むを得ない。開業しながら非常勤講師として学生講義を担当して教室を助けてくれ」と言われ、正道はその後約十年間教授との約束を果たすために医学部の耳鼻科の講義に欠かさず出かけた。

 

 惟芳と芳一が死亡した時点では宇田郷村には緒方診療所しかなかったので、診療所を貸してくれと村から要請があった。なお医師については村で探すとのことであった。こうして昭和二十年九月から昭和三十一年まで十二年間、村の診療所として緒方医院は使われた。幸にしても結婚以来二十数年間、惟芳と共に村人を家族のように親身に考え、医療に携わってきただけに、どのような医師が就任するかということは大きな関心事であった。

 

 最初に就任した医師は僅か二ヶ月で去って行った。次に白羽の矢が立てられたのは、臨床経験豊かな元海軍少佐の三浦不二夫氏であった。同氏は終戦で萩に帰っていた。一目見て幸の理想に叶い、また村民が尊敬できる人柄であった。三浦医師は気軽に何かと幸と相談した。

 

 前章で述べたように、幡典が手の手術を受けるにあたって、五高時代の三浦氏の同級生で九大整形外科の医局長の河野先生を通して、当時としては最高の整形外科医であった九大の神中教授を紹介してもらったのも、三浦氏の尽力のおかげである。考えて見れば不思議な縁である。 三浦氏は一年半の間、毎日萩から汽車で通って来た。その後東京に出て開業した。三浦氏の後、延べ九名の医師が次々に交代して村の医療に携わった。一人平均一年の就業であった。やはりこのような不便な土地で医療に長く携わる事は、肉体的にも精神的にも無理だったのであろう。いろいろな経歴の医師が就任し、時には臨床経験の全くない医師が職に就いたこともある。そのような経験不足の医師は、患者に接した後で幸に、
 「緒方先生はどのように治療されていましたか?」
 「どんな薬を使っておられましたか?」
 といって訊ねることがあった。その様な時、幸は自分の体験から、若い先生に教える事さえあった。

  

 

(五)

 ここで幸について少し書いて見よう。

 「一家の柱は主人であり、主人の働きにより、生活が成立って居る。こうした考えに基づいて母は子供たちを躾(しつけ)ていたので、物心が付いた時期より、父より先に食事をする事はなく、父が夕方から往診に出かけ、多忙のために午後十時、十一時に帰宅することがあっても、子供に食事を与えません。『腹が空いた』と言いますと、侍の子が何を云うかと叱られました。ましてや母が子供の前で、父の行動について批判的な言葉を言った記憶は全くありません」

 これは正道が母の思い出を語った言葉である。幸は家族内では一番早く起き、一番遅く床に就いた。惟芳が夜間往診に出かけると帰宅するまで起きて待って居り、冬期二、三度往診があると、徹夜することもあった。戦前は診療費の集金は盆と節季(せっき)だったので、請求書は幸が一人で制作し、そのために何日も徹夜していた。惟芳宛ての手紙の返事は惟芳が返事の要点を幸に話し、幸が下書きを作って夫と相談して清書していた。

 

 詳しくは後で述べるが、後年幸が宇部の正道の家に移った時、奈良薬師寺高田好胤管主を通じて、幸が作った茶杓を貰った人達から来た礼状の返事も、下書きして相手の知識に応じて、返事の内容を何度も推敲して差し出していた。時には巻紙に毛筆で、また場合によってはペン書きの手紙を封書にして差し出した。しかし子供への便りは書き損じたはがきを墨で塗りつぶして、その上に鉛筆で書いて出した。
幸は幡典にこんなことを言っている。

 「私は手紙を書いたらそれを一度封筒に入れ机の上に置き、しばらくして今度は自分がその手紙を受け取った人の気持になって、封筒から取り出してじっくり読んでみる。そしてこれで十分だと納得した後初めて再度封筒に入れて出すようにしておるのじゃ」

 このように惟芳の生前中、幸は夫に実によく尽くした。平均睡眠時間は三時間か四時間であった。幸は小柄で決して丈夫とは言えなかったが、やはり気持ちが勝っていたのであろう。戦後の昭和二十一年か二十二年に、虫歯が原因で敗血症に罹り高熱を発した。当時村の診療所に就任していた三浦医師が進駐軍よりペニシリンを入手し、それを注射することで幸は一命を取りとめる事が出来た。

 

 また既に書いたように、昭和二十年の夫と長男の死亡、引き続いて男の子三人の進学などで、幸は心痛が絶えない状態であった。そのために度々狭心症らしき発作に見舞われ、常に亜硝酸アミルを持っていた。
その頃萩高等学校に列車通学していた末娘の信子は、

 「朝気分が悪いと云って床に伏した母を気遣いながら家を出たが、学校でも母の事が心配でろくに授業も頭に入らなかった。これは決して大袈裟ではないが、帰宅して母が生きているのを見てホットした事が何度かある」

 と筆者に言った事がある。しかし子供たちがそれぞれ独立すると、症状も消えた。

 

 以上述べたように幸は気丈な妻であり、また母であったが、幡典が常とは異なる母親の姿に偶然接し、その時の体験を「母の悲しみ」と題して書いているので、書き添えておこう。

 

 女の人は、情にもろく、よく涙するのを見かけますが、それも他人の苦しみ悲しみに同情する場合と、自分自身の痛み、悩みで涙する場合があります。母も前者の場合はよく涙していましたが、後者の場合はほとんどありませんでした。その一つに父が腎臓結石で突然苦しんだ時のことです。私が小学生の頃です。多くの人が見舞いに来られ、母は静かに落ち着いて応対して居りました。人が居なくなった頃、父がもしもの事があったら何をどうしたらいいかといった事を話し合っていたように思います。

 

 その後、私が居間から台所へ通ずる廊下の途中にあります鏡の間の側を通ったとき、母がそこに一人居て、ほろほろと涙を流しているのを見て、私は見てはいけないものを見てしまったと感じ、そっとそこから離れていきました。

 

 今一つは、父が亡くなってしばらくした頃です。父無き後の村民の医療、私の手の手術、兄の医学校進学等々、多くの心配事が重なりましたが、それらがどうやら軌道に乗って来た頃だと思います。暗くなってきた夕方、仏壇の前で長い間お経をあげるのが母の日課となっていました。どんなお経だったのか覚えていませんが、木魚をぽくぽく叩きながら唱えておりました。そして最後には浄土真宗で唱えられる「南無阿弥陀仏」を繰り返し繰り返し唱えるうちに母は涙声になり、ほろほろと涙を流しておりました。側で私も長い間一緒に唱えていました。恐らく色々な思いが次から次へと母の脳裡を横切ったものと思われます。この事が随分長く続いたと私の記憶の中に残っております。
母が兄の家に同居するようになってから、俊子姉さん(筆者注:正道の妻)が、「お母さんはお父さんの話を少しもされませんね」と私に言われましたが、母は父に対する思い出を、その当時涙と共に思う存分洗い去ったのだと私には思われます。幸は子どもたちが幼い時から次のようによく言って聞かせていた。

 「人は一人では決して生きては行かれぬ、多くの人のお蔭で生きていけるのじゃ。それは自分が知っている人ばかりではない、見も知らない人のお世話にもなる。だから一人前になったら、こんどは世間の人に少しでも恩返しをしなくてはいけない。これだけはよく言っておくからの。決して忘れてはいけんでや」

 幸はこうした考えを父友一郎から教えられていた。惟芳と結婚して夫の生き方を通して更にこの事を強く感ずるようになった。また戦後苦境に立たされた時、村人が主人への恩義を感じて親切にしてくれたことで、この事を一段と身にしみて実感したのである。彼女は今一人になって、出来たら少しでも人の為になるような生きかたをしたいと思うようになったのである。