yama1931’s blog

明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げた小説です。少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」「玉砕」「太平洋戦争」「戦争と家族」

杏林の坂道 第三章「三菱長崎造船所」

杏林の坂道 第三章「三菱長崎造船所」 

 

(一)

 憧れの萩中学校に入学して、蓬(よもぎ)色の霜降りの制服を始めて着用したとき、「今日から萩中学校の生徒になったのだ」、という自信と誇りを惟芳は感じたのであるが、今ここに支給された長船(ながせん)の制服である灰色のナッパ服に身を包むと、そのゴワゴワとした肌触りも一役買って、あのときと同様に身の引き締まる思いがした。
 

夜来の雨は今しがた上がり、窓から見える諏訪の森の鬱蒼とした緑が一段と鮮やかに目に映った。下宿の玄関を出て門に通ずる路地の両側に生えている苔も、甦ったように濃き緑が美しい。心なしかそうした緑が匂うようである。惟芳はあらかじめ教えてもらっていた大波止への近道を取った。海岸に向って道は少しばかり傾斜している。
 
 濡れた石畳は歩いていても気持ちがいい。滑らないように気をつけながら、彼は下宿で作ってもらった弁当を小脇に抱えて、いつもの様に大股で歩いた。道の左側を三間幅の小川が流れていた。その両岸は石垣で築かれており、石垣の高さは一間以上もある。背の高い惟芳の目から見ると、流れはかなり深い所で音を立てていた。川底は砂利ではなくて岩盤、そこに大小の石が所々突起している。雨で水嵩が増し早瀬となって、水が飛び散っている様子が彼の目に入った。道端のあちこちに紫陽花(あじさい)が丸く盛り上がって群生していた。恵みの雨に濡れて緑の葉陰から、赤、白、紫、といった色とりどりの花が輝いて見えた。

 

 日本特産の紫陽花がドイツ人の医師シーボルトのお陰で広く知れ渡るようになったことは、そのときの惟芳は知るよしもないが、この美しい花を道々眺めながら、彼は二十分足らず歩いて目的地の大波止に着いた。

 ―通勤時間を僅か十分ばかり早めただけでこうも違うのか。サンパンを待つ人の群れは昨日に比べてかなり少ないな。明日からはこの時間帯なら大丈夫だ。とにかく早めに出かけるように心掛けよう。

 

 昨日の洪水のような人の流れに辟易(へきえき)したので、昨日とは打って変わった情景を見て惟芳は咄嗟に思った。彼を含めて六人の職工風の男たちが、分厚い松板を並べた桟橋から、やって来た小舟に乗り移った。乗船定員は六名である。船頭は直ぐに漕ぎ出した。惟芳は同船の他の五人に軽く会釈した。彼らは皆かなり年期の入った職工に見えた。足下(あしもと)を見ると船底に櫓が置いてある。彼は二挺櫓で漕ぐときのものだなと思った。


 中学四年生のとき、クラス対抗の和船競争に出て、橋本川で舟を漕いだことがある。また毛利氏菩提寺の大照院の下手(しもて)の渡し場でも、船頭に代わって何回も漕いだ経験がある。湾内波静かな水面を目にし、早朝の潮風の中に身を置くと、一漕ぎしてみたいという思いに駆られた。惟芳は船頭に声を掛けてみた。
 「船頭さん、この櫓を使ってもいいですか」
 「よかですばい。二挺櫓ならずっと早く着きますたい」
 惟芳は上着を脱ぎ弁当を下に置くと、足下の櫓を持ち上げ、船べりにある鉄製の先が丸くなった突起に、櫓の上部にある臍(へそ)とも言える小さな窪(くぼ)みを先ず慎重にあてがった。羽(水を掻く部分)を先に浸けると、波に攫(さら)われて容易に嵌(はま)らないことを知っているからである。彼は両足の位置をしっかり決めると、舷側に結びつけてある早(はや)緒(お)を取って櫓の上部に掛け、左手は下から、右手は少し離した位置に上から載せて、船頭が漕ぐのに調子に合わせて、前後に身体を揺すりながら漕ぎ始めた。久しぶりに握る木の感触が心地よく身体に伝わる。


  弓を引く動作とは違うが、手前に引くと両腕の力瘤が盛り上がるのがはっきり分かる。押し引きに腰を入れて力強く漕いだ。船足は一段と速まり、サンパンはすいすいと波を蹴って進んだ。濃紺の海中で右左へと規則的に動く羽は、細長い白布を翻(ひるがえ)すかのように見えた。この正確な同じ動きの度に、無数の白い水泡が海中に生じ、上昇して海面に浮かぶのもあるが、大半はすぐ波間に消えていく。
 黒い頬髯を生やした男が惟芳に声を掛けた。
 「お若いの。初めて見掛けるが長船ば行くのかね? それにしてもいい躰をしてるな。二挺櫓はさすがに船足が早い。いつもこうだと有難い。頬髭を気持ちよく風が撫でていく。明日もお願いしたいものだ」

 こう云って惟芳の方を見ながら、男は片手で下から上に向けて頬髯を撫でた。
 「ご一緒の場合なら構いませんよ」
 惟芳は漕ぐ手を休めず軽く受け流して言った。
 対岸の飽(あく)の浦に着くと、船頭の感謝の言葉を背に受けながら、素早く上着を着て職札場へと急いだ。新しい木札に墨書されてある「緒方惟芳」の文字と、表に「修業生」と書かれた職名を見たとき、彼は思わず熱いものがこみ上げて来るのをぐっと堪(こら)えた。

 ―どうやら俺も三菱長崎造船所の一員になったのだ。間違いなく俺の名前が書いてある木札だ。造船所は早速に受け入れてくれたのだ。本当に有り難い。これも多くの人のお陰だ。さあこれからは、粟屋先生がよく言っておられた弓道の精神を一つの指針にしよう。「慎み、和敬、克己、反省」、とにかくしっかりやろう。
彼は長さ七センチ、幅二・六センチ、厚さ六ミリの木札を手に取ると、所定の位置に掛け、本館に向かって急ぎ足で進んだ。本館前にポールが立っているのが直ぐ目に入った。ポールは赤煉瓦造りの堂々たる二階建ての屋根より高かった。先端には白地に三菱を真赤に彩るスリー・ダイヤの社旗が、朝風にはたはたと音をたてていた。惟芳はこの旗を仰ぎ見ながら本館に入った。
 
 「山本場長はほどなく出勤されるでしょう」と事務員の一人が云った。
 果たして待つほどもなく、がっしりとした体躯の場長が姿を現わした。惟芳は朝の挨拶をした。

 「やあ、緒方君か、お早う。支度は出来たのかね?明日から出所してもよかったのだ。よっし、それでは早速三菱工業予備学校を案内しよう。今年三月、君が来る少し前に竣工したのだ。ところで君は中学四年修了なので、本科生ではなく、修業生として工場籍にするから、皆と同じ授業を受けなくともよい。後で具体的に話すが、造船、造機に関係する専門的な教科の授業にだけは出席しなさい。その他の時間は、製図場で実地に実習しなさい。従って本科生と同じ制服を着用しなくてよいのだ」

 本科生の中には尋常小学校を四年で卒業した段階で入学した者もいた。満年齢でいえばまだ十歳を過ぎたばかりである。本科生は五カ年の教育があり、その後修業生教育が約五カ年続く。修業生は工場籍となり、手当をもらった。そして朝または夕に毎日一時間授業を受けた。


 山本場長は惟芳を促して本館を出た。二人は飽の浦波止場の方へゆっくりと歩いていった。そこから左に曲がり、赤さびた大小の鉄くずなどの積んである、かなり広い場所を左に見ながら進んだ。
 「ここは鋳造場スクラップヤードだ、その隣に木型場がある。その先が学校の敷地だ。明治三十二年十月に学校が創立されたときは、元の校舎はこのスクラップヤードの向かい側、直ぐそこにある社宅を仮校舎にしていたのだ」
こう言って山本場長は右手の小さな建物を指さした。これはこじんまりしたものであった。木型場を過ぎて少し行くと土塀が見えた。

 

 余談ながら、この木型場は明治三十一年(1898)七月、第二代所長荘田平五郎氏の時代に建てられたもので、今日なお資料館として立派に役立っている。第二十七代所長相川賢太郎氏の言葉が、正面入り口の左側面のレンガ壁にはめ込まれた銅板に刻まれている。銘文の一部に次のような言葉がある。

 「三菱重工業株式会社発祥の當地に現存する最も古い建物であり、昭和二十年八月
 の空襲に於ける至近弾や、原子爆弾の爆風にも耐えて、九十年の風雪に磨かれた赤
 煉瓦は愈々美しく、我国の近代工業の黎明期に於ける長崎造船所の華やかな門出を
 偲ばせるに充分である。」
 
 山本場長の歩みは颯爽とした足早に変わった。惟芳も歩みを早めて直ぐ後をついていった。土塀に沿って少し歩くと校門があった。校門を潜ると正面に、英国風の二階建て赤煉瓦の、本館より一段と重厚風雅な建築物が目に入った。 
 
 ―あれが学校かな?萩中学校の本館が立派だと思っていたが問題にならん。まるで一流のホテルのようだ。ここが運動場だな。あそこに見えるのは吊輪だろう。その向こうにあるのは肋(ろく)木(ぼく)と鉄棒かな。
惟芳は歩きながら、広々とした運動場の右手にある運動器具に目を向けた。早朝のためか、生徒の姿は見えなかった。建物の正面に大きくアーチ型の入り口がやや飛び出して見えた。上部の湾曲部は二階の窓のあたりにまで達しており、更にその上に二等辺三角形の尖った屋根が載っている。二階正面の窓にもこの入り口と同型のアーチ型の屋根がついていた。正面とほぼ同じ寸法の窓が一階と二階の側面にそれぞれ七つ開いていた。
 
 ―非常に大きくて立派な建物だ。二階の窓の方が大きくて洒落(しゃれ)た格好だ。採光を十分考えてこのように広く開けて作ったものであろう。赤い煉瓦は落ち着いたいい色だ。素晴らしい校舎だな。
惟芳は本館に似たこの建物に思わず見とれて一瞬立ち止まった。山本場長の後について中に入ると、竣工後間もないことが手に取るように分かった。床から壁面、更に天上の隅々に至るまで、新しさと美しさに輝き、木の香りがぷーんと鼻を衝いた。場長は此の立派な建物にいかにも満足しているかのようであった。彼は室内では歩みを緩(ゆる)め内部をゆっくり見渡して説明し始めた。

 「さっき言ったように、今年三月に出来上がったばかりだ。玄関ポーチに続くこの空間は屋内への通路といったところだ。この左右の部屋は生徒の履物や雨具などを置いておく部屋だ。左側の部屋の隣には器具室、右側の部屋に隣接しているのは湯沸室だ。それではホールの中へ入ってみようか」
二階の天井まで吹き抜けの此の大きな部屋はがらんとしていて、中央部左右に階段があるだけであった。角材を四角に組んだ格(ごう)天井(てんじょう)からシャンデリア風の電灯が垂れ下がっていて、惟芳はその豪華さに我が目を疑う程であった。

 

 ―これはすごい。屋根からも光が入るように設計してあるな。二階の天井までは相当の高さだ。広々として気持が晴れ晴れとする。こうした所で伸び伸びと過ごすことは、誰にとってもきっといい影響を与えるだろう。此の学校はこの点だけから言っても素晴らしい。
 惟芳は内部に足を踏み入れた途端、感激して周囲に目をやった。

 「この大きな広間の正面に一番大きな生徒控室があり、その左右に二つずつ合計五つの生徒控室がある。階上には階下の部屋と同じ間仕切りの部屋がある」
山本場長は階段をゆっくり上り、各室を指さしながら説明を続けた。
 「階下の一番大きい生徒控室の真上が講堂だ。講堂の左右にあるのが教室だ。こちら側に四室あり、正面の側にもう一つ、全部で教室は五つある。正面の側には、理化学室、教務室、製図室がある。どうだね、立派なものだろう。各教室にはあのような電灯だけでなく、大理石で作ったマントルピース、つまり装飾的な暖炉もあるのだ。もっともこれは隣の教室と共用の構造だがね。この素晴らしい場所でわれわれもしっかり教えるから、君たちもそれに応えるように頑張らなければいけないよ」
 「はい、有り難うございます。一生懸命頑張るつもりです」
 惟芳はこの新装なった素晴らしい校舎に思わず目を奪われてしばらく見とれていた。我に返ると、このような環境の下でこれから勉強できる幸せを、つくづく有り難く思うのであった。

 「よっし、それでは生徒達もそのうち登校してくるだろうから、講堂で待っていたまえ。今日は最初に、全員に少し話すことがあるから」と言って、山本場長は、分厚い松材で作られた頑丈な階段をゆっくりと下りて行った。 後ろ姿を見送りながら惟芳は、「よっし」が場長の口癖だなと思って思わず苦笑した。

 

 講堂の中には、堅固な作りの木製の長椅子が数十脚整然と並んでいた。惟芳は入り口の真向かいにある窓の所まで行って、ガラスの嵌った大きな扉を左右に開いて外を見た。正面に見えたのは、この校舎の数倍もある貯水池である。その右手にもやや小さな貯水池が見えた。前者は船舶の実験場として使用されているということを後で教えられた。さらにその後方には、貯水池よりももっと横長の立派な建物が遠望できた。これも直ぐ後で判ったのだが三菱病院であった。

 

 左の方に目を移すと大きな工場の建物であろう、幾棟も並んでいるのが目撃できた。鍛冶場か機械場か、朝から鉄を叩いたり削ったりするような甲高い金属音が耳に響いた。湾を隔てて、遠く街の背後の山並みに眼を向けると、朝の太陽がまぶしく輝き、低い稜線は明るく照り映えていた。惟芳は大きく両腕を伸ばして朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。

 ―学校といえば、静かな場所に位置しているのが普通だが、さすが三菱工業予備学校は違うな。こうした環境の中で実践的な教育を施し、将来卒業生に、この所内で働いてもらう目的なのだろう。それでこの様な現場に直結した場所に建てられたのだな。ある程度の喧噪もやむを得ないといえよう。考えてみたらこれは確かに効果的だ。


 惟芳は新たに所員となったためか、全てのことを前向きに考えた。

 窓の側に立ってしばらく外に目を向けた。工場の屋根と屋根の間から垣間見える長崎港のキラキラと輝く海面を、大小の船舶が視界に入っては出ていく。時折「ボー」という何だかもの悲しい汽笛の音が聞こえてきた。惟芳には、日本海の懐かしい眺めと、眼前の港の風景が交錯した。彼は両手で窓を閉めた。
 
 その内、がやがやと人声がし始めたかと思うと、階段を上ってくる本科生たちが三々五々集まってきた。彼等のほとんどは惟芳よりは年少で、立襟背広姿で霜降地の制服を着用していた。中には多少大人びた者もいたが概して年若い。皆目を輝かして友達同士活発に話し合っていた。惟芳は年の割には老(ふ)けて見えたし、その上大柄で落ち着いていたので、どことなく近寄り難く感じたのであろう。誰も敢えて話しかける者はいなかった。年齢に多少の差はあるが、明治三十四年度の新入生四十二名が一堂に会した。
 

 

(二)

 八時の鐘が鳴った。工場は七時始業ですでに活動している。一方授業の開始は八時だから、少しでも時間にゆとりがあるので助かると惟芳は思った。山本場長が講堂に入ってきた。級長の号令で一斉に起立し礼をした後着席した。肩幅の広い背の高い場長が、一段高い講壇に立つと、教場内は水を打ったように静まった。 

 「諸君、お早う。今日この時間は、三菱長崎造船所の歴史についてまず話す。次にそれに関連して君たちの今後の心構えについて、少し話をしようと思う。後ろに座っている者、朝の空気を入れたいから、窓を少し開けなさい」

 こう言って山本場長は一同をまず見渡した。技術専門家と言うよりむしろ海の男といった印象を与える場長は、太く落ち着いた口調で話し始めた。 

 「最初に自己紹介をしておこう。私は造船製図場長で山本長方(ながかた)という。ちょっと変わった名前だ。山本という苗字の者がここにも何人かいるから、長い方の山本だと覚えてもらおう。私は明治三年(1870)に東京で生まれた。江戸が東京と改称されて間もない時だ。十九歳のときにイギリスに渡り、北部のスコットランドにあるグラスゴー大学で造船学を勉強した。約六年修学して工学士の資格を得て、明治二十八年末に帰国した」

 ここで山本場長は外の生徒たちより座高の高い惟芳を認めると、次の言葉を挟んだ。

「私がグラスゴーへいったのが明治二十二年だが、それより三十年近くも前に同じグラスゴーで働きながら造船技術を学ばれた方がおられる。元工部卿であった山尾庸(よう)三(ぞう)という方だ。緒方君知っておるか?」

 場長は惟芳にちょっと訊ねてみたといった感じで、また話を続けた。

 「諸君はおそらく知らないと思うが、山尾さんは山口県出身で、幕末期に藩から選ばれてイギリスへ派遣されたのだ。行を共にした者は五人で、初代の総理になられた伊藤博文さんや、大蔵大臣になられた井上馨さんも一緒だった。伊藤、井上のご両人は長州藩が外国の艦隊と戦いを始めたと聞くや急遽帰国されたが、山尾さんはそのまま留まってネイビア造船所やグラスゴー大学で勉強を続けられた。そのお陰で我が国の造船界の基礎が築かれ、今日の発展を見たのだ。そのような訳で山尾さんは我々の大先輩だな」

 惟芳は伊藤、井上のことはもちろん知っていたが、山尾庸三の事は初耳であった。彼らの他に、我が国の鉄道の父と言われる井上勝や、初代造幣局長になった遠藤謹助といった「長州五傑」については知るよしもなかった。

 

 生徒たちは山本場長が「緒方君」と言ったので、緒方とは一体誰なのかとあたりを見回し、惟芳だと分かると、自分たちとは違って大人びている姿にちょっと驚いた風であった。そのとき生徒の一人が手を挙げて大きな声で質問した。

 「先生、先程からグラスゴーグラスゴーとしきりに言われますが、どんなところですか?」
 「それでは簡単にその場所から教えよう」
こう言って山本場長は黒板に大きくイギリスの略図を描いて説明した。
 「この線から北がスコットランドで、北海に面してこのくびれたところに在るのが首都のエヂンバラだ。グラスゴーはエヂンバラとは反対の大西洋側にある。緯度はほぼ同じでこの位置だ。これら二つの都市は六十キロしか離れていない。グラスゴーの当時の人口は首都のエヂンバラの倍近くあった。それというのも、石炭、鉄鋼、造船といった大型産業の興隆で大いに発展したからだ。私が行ったときは何しろ言葉の訛りがひどくて聞いてもよく分からず、また白夜と言って、夏の夜いつまでたっても暗くならないので本当に難儀をしたよ。しかし住民は気さくで親切だった」

 山本場長は質問に答えると、在りし日を懐かしみながら話を続けた。
 「ところで私がいた頃は、何と言っても英国造船業の最盛期だった。一八九六年の進水量は一一五万トンで、世界の七四パーセントに達し、そのうち三九万トンは輸出船だ。造船技術を学ぼうと世界各国から志のある若者がイギリスへ勉強にやって来たのも無理はない。私は帰国の翌年からここ三菱長崎造船所でお世話になっておる。
 

 当時造船顧問にゼームズ・クラークさんなど八人もの外人がおられ、設計をはじめとして多方面の指導を受けた。技術面だけでなく、人間的にも皆紳士だったよ。ここで進水した常陸丸や天洋丸の設計には私も携わった。できたら後で実物を見に行こうかな」
こう言って山本場長は別に自慢する風もなく、自己紹介を終えると本題に入った。

 

 後日談だが、山本氏は一九一〇年の日英博覧会で渡英したとき、グラスゴー大学から工学博士の学位を授与されている。その後一九二一年に東京大学船舶工学科の教授、三三年には大坂大学工学部の教授になり、三四年に亡くなっている。三菱長崎造船所では造船設計の中心的存在だった。謹厳実直な英国紳士の風があったと、教え子は言っている。


 なお、当時東大、阪大など帝国大学の教授といえば、今日とは比較にならないほど社会的地位は高かった。従って大学教授になることは立身出世である。他方造船所にそのまま止まり、所長や副所長へと栄達するのが、これまた大学出の秀才の辿る道でもあった。しかし、「中には出世コースの道を好まず、無冠のままで各国の書籍や雑誌を読破し、研究に没頭し、功績を上げ、己の固い信念を貫かれた頭の下がる偉い人もいた」と、中島亮一氏は『生成期の長船を築きあげた人々の裏話』に書いている。

 「本所が三菱長崎造船所の名を冠したのは、明治十七年に初代社長の岩崎弥太郎氏が、国からこの造船所の払い下げを受けた時だ。それまでの事を簡単に言うと、幕末、徳川幕府アメリカ、ロシアなどからの外圧をひしひしと感じ、従来採ってきた鎖国政策では、今後の我が国の舵取りは出来ないと痛感し、唯一国交を開いていたオランダと折衝し、技術者を招いて、ここ長崎に我が国最初の製鉄所を建築することを決めた。それは安政二年(1855)のことである。」


 ここまで話すと山本場長は一息入れた。生徒たちの聴講態度が良いのに気をよくして、彼はは話を続けた。
 「安政四年だからもう五十年近くも前のことだが、ヘンドリック・ハルデスというオランダの機関将校が配下の技師を連れて来日した。彼はその時から三年五ヶ月をかけて長崎製鉄所の一期工事の竣工を済ませて帰国した。この間ハルデスたちは次のような事を行っている」
 こう言って山本場長は黒板に向かって大きい字で箇条書きをした。
  
 一、長崎製鉄所の建設指導
 二、海軍伝習所で蒸気理論の講義
 三、伝修生の航海訓練に当たり機関部取扱の実地指導
 四、福岡藩薩摩藩への工業技術指導
 五、ロシア軍艦アスコルド号の修理援助
 六、長崎茂木地区で鉄鉱山を発見 

 

 「なお、このハルデスという人は蒸気機関の名人だったようだ。蒸気船に乗っていて、音を聞いて何処に油が不足している、或いは異変が生じている、とすぐ察知出来たそうだ。いずれにしても、当時の長崎のような辺鄙な土地で、しかも近代科学の応用について全く無知な人々の間で、蒸気機関の施設を設け、今日の基礎を築いてくれた恩人だ。年俸一千金を給したというが、それだけの大金を支給するに足る、と幕府の要人たちは彼らの技術を高く評価したのだ。こうした西洋の新技術を実地に見学し、また指導を受けた我が国の人達は、さぞや驚異の心をもって聞き入ったことと私は思うね。しかしそうした連中の中にも、長崎出身の本木昌造のような有能な人物がいたのだ。彼は既にオランダから輸入されていた書物で、ある程度の知識を持っていたからだ。従って本木氏はのみこみが早く、協力してその後の事業に携わるようになった。ハルデスの帰国後、本木氏は万延元年に製鉄所御用係に任ぜられている。いま市内西ノ浜にある『くろがね橋』は、彼が架設した我が国最初の鉄製の橋だ。本木昌造は製鉄所が購入した蒸気船を、自ら船長として運航している」

 山本場長はここまで話すと、日本人の優秀さにも言及する必要を感じてか、ちょっと話を脇道に逸らした。
 「この本木昌造についてはおそらく諸君は知るまい。彼は若くして和蘭(おらんだ)通詞(つうじ)の家の養子になり、十二歳の時から本格的な通詞の稽古を始めている。君たちとほぼ同じ年齢だね。その後稽古を重ね,三十歳になったときだが、嘉永六年ロシアの軍艦が長崎へ来航した時、使節の通訳を命じられておる。またその翌年、ペリー提督の率いるアメリ使節来朝に際しては、また通詞として下田まで行っている」

 ―下田といえば、あのとき松陰先生と金子重輔が密出国を企てられ、失敗されたのだ。 もし成功されていたら、我が国の歴史も変わったかもしれない。

 

 惟芳は場長の話に、下田という地名が出たので、松陰の事をすぐ思い浮かべた。 
生徒たちは初めて聞く話に熱心に耳を傾けた。山本場長はさらに話を続けた。
 「ハルデスが来日して、海軍伝習所が出来た時、本木昌造は海軍伝習掛として、測量、算術、鉱坑、製鉄など多方面の知識の習得に精魂を傾けている。彼は実に多才の人で、晩年は製鉄と造船を弟子の平野富二という者に託して、西洋活字の研究と活版印刷の普及に当たっている。この平野富二という男も若かったが非常に優れていた。いずれにしても、この本木昌造という人物は、先見の明に富んだ天才だね」

 生徒たちは、長崎出身と聞いて身近に感じたが、この通詞のような職にあった者が、製鉄所を切り盛りしていたという話に、いよいよ真剣に聞き入った。
 「さて、こうして出来た製鉄所は、オランダ人の指導による我が国最初の本格的な洋式工場で、工作機械や立派な設備を完備していたから、慶応二年(1866)、木造軍艦千代田形(一三八トン)の機関を完成させた。六十馬力で、速力は五ノット、これは国産初の機関を備えたスクリュー船だ。しかしこの船は、五稜郭の戦いで座礁した。君たちは五稜郭について聞いた事があるか?」
 場長は一方的に話すのもどうかと思って、生徒の注意を引くためにこんな質問をした。そのとき前列にいた生徒が手を挙げて、きちんと答えた。惟芳はその答えに感心すると同時に、次のような感想を抱いた。
 
 ―明治二年五月か。榎本武揚を中心とした旧幕府軍と維新政府軍が、箱館五稜郭で最後の戦をした事は知っておるが、政府軍から言えば敵の大将であった武揚が、今新政府の高官となっておる事を考えると、彼は余程偉い人物だと見込まれたのだろう。

 場長はまた、一隻の船を取り上げて説明した。
 「その後明治十六年(1883)、我が国で建造された最大の木造汽船、小菅丸(千四百九十六トン)の機関をここで製作した。六四二馬力で当時としては驚異的な大馬力で世人を驚かしたのだ。船の長さは七十三メートル、幅十メートル以上あって、速力は十ノットも出たから、格段の進歩を遂げたことになる。それでも我が国は鉄材の供給が不自由なため、国内に豊富な欅、樫、楠などの良材を用いて入念に建造したから、起工後完成までに七年を要した」

 

 余談であるが、この小菅丸建造に最も寄与したのが、松下村塾で松陰の最後の弟子であった渡辺蒿蔵である。彼は慶応三年に日本を出ると、先ず英国へ、さらに米国で造船学を学び、帰国後長崎造船所創設にあたり、所長に任命されている。明治十七年にここが民営化されると同時に退所した。今から考えると、まだ働き盛りとも言える四十代の若さで、彼は故郷の萩に引退したのである。その後九十七歳の高齢に至るまで、悠々自適の生涯を送った。
 

 松陰の人物評に、「天野 (筆者注 一時養子となって天野清三郎と称していた) は奇識あり、人を視ること虫のごとく、其の言語往往吾をして驚服せしむ。」また、「此の生昨年已来一事も吾が説に同意せず。奇見異識他日必ず異人たらん。」とある。この様に松陰が蒿蔵を評した時、彼は弱冠十四歳であった。後日、長崎造船所が官営から民営に移譲されたとき、民間人岩崎の配下で働くことを潔としなかったのも頷(うなず)ける。

 

 「さて、製鉄所が出来上がると、本来の目的である鉄鋼船の建造ということになるのだ。日本古来の木造船の歴史は古いが、西洋の船舶はその大きさはもとより、何と言っても速度と耐久力が違う。どうしても向こうの技術を学ばなければ事は運ばない。そのため、徳川幕府は、優秀な青年をオランダのライデン大学に派遣して、実地の勉強をさせるといったことも、並行して行っているのだ。」

 ここまで話すと山本場長は、いよいよ三菱造船所について、自分が直接見聞した事をいかにも楽しげに語り始めた。
 「今日、我が三菱長崎造船所は、大学を卒業した優秀な人材を年々採用し、その人たちを海外に留学させて技術の修得向上に勉めている。明治三十一年にここのドックで竣工した常陸丸は、大きさ、速力、機関出力など全ての面で、我が国造船史上画期的な船であり、我が造船技術の進歩を世界に紹介した船だ」
 山本場長は、自ら設計に参与した常陸丸のことを話すのは、やはり嬉しいのだな、と惟芳は思いながら興味深く話を聞いた。
 「ここで君たちに教えておくが、常陸丸の総トン数は六千百七十二トンだ。普通船の総トン数といえば、容積百立方フィートを一総トンとして計る。従って船内全体の容積(立方フィート)を百立方フィートで割ったものが、その船の総トン数になるのだ。
しかし船の安定、衛生に必要な部分の容積は除いてある。分かったかな。今丁度常陸丸が長崎港に錨を下ろしているから、この後見に連れて行こう」
 山本場長の言葉に、若い連中は思わず歓声を上げた。船が好きでこの学校に入ってきただけあって、常陸丸の見学が出来ると言われて、皆大喜びであった。

 

 三菱重工業株式会社長崎造船所発行の『長船ニュース』(昭和五十六年九月一日)に「ながせん今昔」と題して、常陸丸のことが次のように記載してある。当時の我が国の造船界の事情を知る上で参考になると思われる。
 
 「日清戦争の経験により造船能力の不足を痛感した政府は、明治二十九年大型優秀船の建造助成策として造船奨励法・航海奨励法を公布したが、当時わが国造船界は揺らん期にあり、明治二十八年当所で完成した須磨丸「千五百九十二トン)が国産最大の船であったに過ぎない。

 

 明治二十八年、日本郵船会社は欧州航路用大型船六隻を英国に発注する計画であったが、当所はその一隻を引き受けることを申込み常陸丸を受注。工場設備の拡充や、新たにイギリス人造船顧問を雇い入れる等万端の準備を整え、明治二十八年起工以来一方ならぬ苦心を重ねながらも、工事は順調に進捗していたところ、ロイド検査委員との間に意見の衝突をきたし、予定より九ヶ月遅れて進水した。
就航の結果は外国建造のものに比して何ら遜色なく、我が国造船技術の優秀なことを実証、以後当所の技術・能力の揺るぎない自信となって、後世へ伝承されたのであった。
常陸丸は日露戦争で陸軍御用船となり、明治三十七年六月、玄界灘で敵艦隊の攻撃をうけて沈没。のち琵琶曲に歌われ永く国民に哀惜された。」

 姫路市在住で琵琶歌について造詣のある金沢史典氏から、次の琵琶曲を教えていただいたので、そのさわりの部分だけ記しておこう。

 頃は明治三十有七年  水無月中の五日
 心づくしの島離れ   玄海灘のただ中に
 日の丸掲ぐる常陸
   (中略)

 ただ一すじに走り来て   我を取巻く敵の艦
 何事と云う間なく     乱射乱撃雨(あめ)霰(あられ)

 進み遁れんひまもなし

   (中略)

 運送船の悲しさは   進退ここに谷(きわ)まりて

 詮方なくも敵艦に   任せはてしぞ是非もなし
   (中略)

 海に投じて死すもあり  敵弾ますます加われば

 甲板の上は屍の山     流るる血潮に玄海

 浪は朱(あけ)にぞ変じける
   (中略)

 国に殉ぜし眞(ま)雄夫(すらお)の  清き其の名は萬代も
 響の灘に立つ浪の     絶ゆる時なく仰がれて 

 末まで遠くながるらん   末まで遠くながるらん

 

 琵琶の哀調を帯びた弦の響きを伴奏に、この悲しい琵琶曲に耳を澄ませば、悲憤梗概、ロシア憎しの感情が、澎湃(ほうはい)としてわき起こったであろうことは想像に難くない。

 

 山本場長は、常陸丸の竣工の遅れについて思い出すのも嫌なのか、それともイギリスとの友好関係を考慮したのか、それ以上は言及せずに話を続けた。
 「さて清国との戦は我が国の勝利で終ったが、船舶の需要は加速度的に増加し、国も全面的に助成してくれているので、物資の輸送にあてる貨物船建造の注発が大幅に増した。しかし軍艦建造に関しては、まだ我が国の技術は世界の水準には達していないので、イギリスやイタリーなど先進国に注文している。これからは軍艦の建造も視野に入れなければならない。いまも言ったように、本所は帝国大学を卒業した優秀な方々が沢山おられる。君たちはそういった先輩から直接教えてもらえる事を喜びとし、また誇りとしなければいけないよ。この学校はその点においては日本一だと言える」

 惟芳は山本場長の顔をじっと見ながら、熱の籠もった話に耳を傾けた。その顔は色白のインテリの顔とは異なり、長年の海上生活でやや赤銅の色を帯びているようだった。一時的にも海軍に籍を置き、技術将校として実戦の経験があるのではないか、と惟芳は密かに思った。
 「ところで、君たちも承知しているように、日清役が勝利のうちに終わったとは言え、いわゆる三国干渉による遼東還付の一事は、西欧諸国の横暴まさに許し難い事件だ。彼等はまるで死体にたかる禿鷹のように、中国の領土をむしり取っている。なかでもロシアは二十九年六月、早くも東清鉄道敷設権の獲得と、我が国を明らかに仮想敵とする露清密約を成立させ、つづいて三十年には突然、艦隊による旅順港を占拠しそのまま居座っている。さらに三十一年三月にいたって、長春旅順間の鉄道敷設権までも併せて、遼東半島の長期租借権をもぎ取ったのだ」
場長の話は益々熱を帯びてきた。
 「不凍港を求めて漸東政策を続けるロシアの触手は止まるところがない。ロシア艦隊に日本海を制せられたらどうなるかは、諸君も考えるまでもないことだろう。こういった世界の情勢の中、我々は如何に対処すべきか、自ら答えは明白だ。今君たちに銃を手に執って戦えとは誰も言わないが、国民の一人として、臥薪嘗胆、報復の気構えをもって、今は課せられた職務、つまり一生懸命に勉強にしなければいけないのだ。始業に当たり先ずこのことを言っておきたいので、集まってもらったのもそのためだ。よっし、それではこれから常陸丸を見学しよう。五分後に全員玄関前に集合!」

  萩においては、こういった時事問題は、切実な話題として耳にすることはほとんどなかったが、いまこうして山本場長の訴えるような話を聞くと、惟芳としては家計を助けるといった事とは別に、もっと高い次元で、生き方を考えなければとも思うのであった。


 明治の時代、県立中学校を卒業しただけでも選ばれた者として世間は見ていた。まして帝国大学出身、あるいは外国で学んだとなると、驚異的なエリートとして遇された。惟芳は本場イギリスで造船学を学んだという山本場長の顔をじっと見ながら、決意を新たにしたのである。

 一同が集結すると、山本場長は常陸丸が停泊している岸壁へと生徒たちを先導した。建物と建物との間は幅広い通路で、その中央にトロッコ用のレールが縦横に走っている。見上げるような大きな起重機も設置してあった。目に入るもの全てが珍しい。常陸丸が視野に入った途端、生徒たちはこの初めて目にした国産の船が、予想以上に大きいのに思わず喚声を上げた。興奮した若者たちに囲まれて場長は説明を始めた。
 「どうだ、思っていたより大きいだろう。全長四五五フィート、幅が四九フィートある。メートルに換算したら、おい君、いくらになるかね?」
すぐ前にいた生徒は、出し抜けの質問に戸惑っていると、場長は笑いながら、
「すぐには答えられないだろうな。およそ一三五メートルの長さで、幅は一五メートルある。先ほども言ったように、六千トン級の船はそれまで我が国では建造されていない。主機関は何と言っても、三千八百四七馬力の出力の蒸気機関だ。それに我が国初の発電機や電灯を装備した電化船とも言える。その上十四ノットの速力も画期的なものだ」

 山本場長はここまで話すと、生徒たちの興味を引くために、船の進水の模様を話題にした。
 「これだけ大きな船を進水さすのは容易ではない。船(せん)殻(かく)工事が出来あがると、進水工事に入る」
 「船殻工事とは何ですか?」生徒の一人が訊ねた。
 「船殻とは船体だけで、家でいえば家具などがまだ収納されていない外枠までの工事を船殻工事というのだ。」 場長は質問に分かりやすく答えた。
 「さて、進水工事に入ると、まず船体の下に固定台を設け、船が海上へ下りる道をつくる。その上を滑走台が船を載せたまま滑り下りるという算段だ。固定台にヘットを流すヘット流しが進水工事の中でも最も要領のいる仕事だ。高価なヘットではあるが節約し過ぎて船が思うようにスムーズに滑らないとたいへんだ。しかし反対に滑りすぎても問題だ」 
 「ヘットて、ベトベトしたものなんやろうか。」誰かが頓狂な声をあげた。
 「ヘットの主要成分は牛脂、木蠟、これはハゼの果皮から採った脂肪だ、それとパラフィンなどだ。中小の造船所で売れば結構お金になる。従って船が進水するとこのヘットが海上一面に浮かぶので、小舟によるヘット争奪戦は見物(みもの)だ。常陸丸の時も、進水した勢いで一度に押しやられた海水が、大きな津波のようになって、ヘットを取るために来ていた小舟たちをまるで木の葉のように翻弄した。中には海に飛び込んで掬い取る強者(つわもの)もいたよ」

 山本場長は進水時の様子を目の当たりに見るかのように、手振りを添えて話したので、生徒たちは真剣に聞き入った。彼はさらに話を続けた。
 「ところで船舶の建造工程は、起工、進水、完工と大きく三区分されるが、何と言っても進水式ほど関係者が緊張するときはない。また船が無事海面に浮かぶ門出のときほど感激することはない。その船にとっては事実上の誕生日だからね」
ここで山本場長は、常陸丸の進水式の時の様子を思い出して、一段と詳しく話し始めた。
 「進水式の時は、船主、造船所の代表、招待客が全員立ち会って、その船の無事進水と将来の航海安全ならびに繁栄を祈り、その誕生を祝福するのだ。塗装の色も鮮やかな船には万国旗が翻り、威勢のいいバンドの吹奏に送られて、船は進水を待つばかりだ。ただ一本の支綱が銀の斧で切断されると、支綱の先端に結ばれていたシャンペン・ボトルが船体にあたって砕け、船は洗礼される。それと同時に巨体は静々と進水台を滑り始める。くす玉が割れ、紙吹雪の散る中を船は次第に速度を増して行くと、万雷の拍手が起こるのだ」
 惟芳は船の進水の情景を頭に描きながら聞き入った。
 「船体が滑り始めて海上に浮かぶまで約十秒、最大速度は秒速四ないし五メートル。この間ヘット作業に携わった者たちは天にも祈る気持ちだ。分かるだろう? 私にとっては生涯決して忘れることのできない光景だった。よっし、それでは最後に言っておくが、君たちは実に運が良かった。この常陸丸は日本郵船会社に所属していて、普段は欧州航路用だから滅多には見られない。まあここからじっくり見ておきなさい」

 均等な間隔で並んだ四本の高いマストがやや後ろに傾いている。マストから四方へ張り廻らされた太い索綱が揺れているのが見えた。船橋の真後にわずかに傾斜した黒い煙突がある。これは驚くほど大きい。その煙突からもくもくと黒煙が立ち上っていた。甲板にはほとんど人影が見えない。船尾に日章旗がはためいていた。数羽のカモメがマストすれすれに飛び交い、小魚を見つけては水面に舞い降りていた。


 生徒たちは常陸丸の雄姿にしばし見入っていた。惟芳も生まれて初めて見るこの巨大な船に息を呑んだ。その前を行き来する漁船やサンパンはもとより、停泊中の外国船に比べても巨大な船体である。彼は我を忘れて立ちつくしていた。

 

 初日の出勤を無事に終えて下宿に帰った惟芳は、山本場長の話の後半に出た時事問題を、切実な事として真剣に考えた。


 ―維新の幕開けと同時に我が国は世界へ門戸を開き、お陰で工業技術において飛躍的進歩を遂げたことは場長の言われた通りだ。先ほど見た常陸丸にしても、短日月のうちによくもあの様な素晴らしい船を造り上げたものだ。たとえ何人かのお雇い外人技師がいたとしても、我が国で完成させたのだからたいしたものだ。
 しかし山本場長の話を聞くと、世界の情勢は緊迫の度を強めている。とくにロシアが極東へとその魔手を伸ばしている今、決して安閑とはしておれない。軍艦の建造も早急に着手されることになるだろう。俺としても、設計をはじめとして、多くのことを勉強しなければいけない。俺はこれまで、家計を助けるといった考えしか無かったが、我が国の将来の事を思うと、もっと高い次元で生き方を考えなければならないのではなかろうか。

 

 惟芳は山本場長の話を反芻するかのように、考えをめぐらした。
―明治二十二年(1889)に帝国憲法が公布される前、同年一月に徴兵令の本格的改正により、徴兵猶予の制度が廃止され、国民皆兵の原則が確立したことは、俺も耳にはしていたが、我が国の緊急事態をこうして知らされると、何か緊迫したものを感じる。固い決意で立ち向かわなければならないものが目前に迫りくるような気がしてならない。

 

 こうした緊迫した現状を考慮して、惟芳はさらに次のような事を真剣に考えた。
 ―俺は幼い時から男の生き方として、潔さを教えられてきた。一旦緩急の際には、国のために身命を捧げることはもとより覚悟の上だとは言え、年老いた両親や小学へ入ったばかりの尚春の事を考えると、戦に出て親の死に目に会えない、ましてや親より早く死ぬことは、不孝の極みだ。しかしこうした事は、国民誰しも大なり小なり懸念もし、またある程度覚悟しなければなるまい。

 

 惟芳は机の前に正座して腕組をし、両眼を閉じてしばらくこう言ったことを考えていたが、その後は弓を射る時にいつも心がけていた動作、つまり臍下丹田に力を入れて、無念無想の境地に近付けるようにとじっと瞑目していた。

 

 

(三)

 吉川先生とは朝夕の食事を共にするうちに、お互いますます堅苦しさが溶けて、惟芳は心底気心が合うように思えた。先生は夕食の後など時々話しかけてきた。そのときの話題は時事問題を始めとして、文学や哲学などなかなか幅広く、惟芳としても、これまで明倫小学校や萩中学校で学んだ事や、ここ長崎の造船所の予備学校で習得するのと違った知識が得られるので、先生が提供する話には興味深く耳を傾けた。
今日も夕食を済ませて二階の自分の部屋に入り、窓を大きく開け放ち、黄昏近くの暗緑色に沈んだ諏訪の森を横目に見ながら、机に頬杖をついていると、先生が外から声をかけてきた。         
 「緒方さん、ちょっとお邪魔してもいいですか?」
 「はい、丁度休んでいたところです。どうぞお入りください」
 肩幅の広い先生が浴衣姿で入ってきた。部屋の入り口の襖戸は開けたままにしてあるので、初夏の涼風が心地よく吹き抜けて行く。郷里の萩は寺が多く墓地の花筒で蚊が発生し、さらに橙畑が多いので藪蚊は悩みの種であった。ここ長崎も蚊の攻撃にはやはり気を使う必要があった。蚊帳を吊るほどではないが、惟芳は寝る前には何時も蚊取り線香に火をつけていた。彼は線香を部屋の片隅に置き換えて吉川氏の座る場所を作った。
二人は胡坐(あぐら)をかいて向き合った。惟芳も浴衣に兵児帯といった寛(くつろ)いだ姿である。先生は浴衣の袖をまくり上げていて、片手に扇子を持っていた。音もなく忍び寄る蚊を退散さすための用意である。着座すると一冊の雑誌を傍らに置いた。

 「お邪魔します。今日は風があっていいですね。学校の勉強はどうですか、本格的な設計の勉強は始まりましたか?」
 「いいえ、設計というより製図から少しずつ教えてもらっている段階です」
 「製図と言えば思い出しますが、烏口(からすくち)を使っての線引きを私も中学校でさせられたことがあります」
話題が製図で始まったので惟芳は少し積極的に話した。
 「あの製図用の小さな器具はなかなか精妙にできています。墨汁を適量含ませなければいけません。多すぎた時は、あてがった定規を伝わって墨汁が浸み出して、それまで描いた画面がわずか一本の歪(いびつ)な線で台無しになりますから」
 「そうですね。折角の努力が水泡に帰して、私も最初からやり直した事が何度もありました」
 「そのためにも、何時も一定のきれいな線が引けるように、烏口の先を研ぐ事が必要です。まあしかし、何回か失敗すれば次第に上手にはなりますがね」
 「烏口の先を研ぐのですか?」
 「はい。その研ぐにもコツがありまして案外難しいです。この『製図概説乃幾何図法』にも書いてありますが」
 こう言って惟芳は学校で使用している薄い教科書を取り出して吉川先生に見せた。
 「ここにも図示してありますように、烏口の刃先は鋭角の三角形になっています。研ぐ時に、刃先が角張ったり、偏(かたよ)ったりしないで、丸みを帯びた状態に研がねばいけません」 
 こう云いながら惟芳は両手を「八の字型」にして、実際に研ぐ仕草をしてみせた。
 「また線引きの場合、主にT定規と三角定規を使いますが、これらの定規に烏口を真っ直ぐ平行にあてて、圧迫の度を変えない様にしなければいけません。慣れたらなんとか巧く出来ますが、始めのうちは難しかったです」
 「なるほど、さすがにその道の専門家ともなると芸が細かいですね」
 「専門家なんてほど遠い話です。それから製図用の鉛筆にしましても、硬筆の3H,4H、5Hを使います。鉛筆の削り方も鑿(のみ)形扁平で、正面から見ますと矩形、側面から見て鋭角に絶えず保っていなければなりません。線の太さも五種類ありますので、それぞれに適応するように何本も削っておかねばなりません」
 「そうですか。五種類もの線を引きわけて描くとは知りませんでした。緒方さんは大きな手をしておられますが、見掛けによらず器用のようでうね?」
こう言われて惟芳は大きな両手を開いて、
 「いや、それほどではありませんが、人並みには描くことが出来るようになりました。しかし製図はさておいて、学科の勉強では予復習に時間を取られます。高等数学や船舶の構造に関することを習っていますが、私がこれまで中学校で習ったのとは違ってかなり高度なことですので、しっかり勉強しないといけないと思っています。その上船舶構造に関する教科書はほとんど英語の原書ですから骨が折れます」
 「なるほど、でも緒方さんはこれまで中学校で英語を習って来られたからよいとして、予備学校に入って初めて英語を習うのもいるでしょう?」
 「そうですね。小学校を出ただけで入った者もいますが、流石に入校出来たものは利口でその上根性がありますから、真剣に取り組んでいます」
 「家が貧しくて中学校へ行けなかっただけで、元々頭がいい連中でしょう」
 「確かにあの連中には感心です。先生方も、開校したばかりの三菱予備工業学校の将来が懸っているということで、気合の入った授業をされています」
 「兵式体操はありますか?」
 吉川先生は五高時代、この兵式体操で鍛えられたこと、また文科系の学生の中には、これに反発するものがいたことを思い出して質問した。
 「日清戦争のお陰で、軍需産業が飛躍的に伸び、今またロシアの脅威が叫ばれていますから、特に長船は今後軍艦建造といったこともありまして、我々の学校でも兵式体操は重要な教科の一つに考えられています。先日も稲佐山の山頂まで走って上りました」
 「そうですか。なかなか鍛えられますね。ところで話は変わりますが、緒方さんがこちらへ来られるおよそ一カ月前に、私の中学校へ高田早苗博士が見えて、教職員と生徒一同に講演をされました。緒方さんは高田博士を御存知ですか?」

 吉川先生はこの事についてぜひ話したいと思っていたのか、急に話題を変えた。
 「いいえ存じません、どのような方ですか?」
惟芳は博士の名前をつい最近新聞紙上で知っただけである。話題が変わったのを機会に、喉が乾いたら飲もうと用意していた番茶の冷めたのを、湯呑に注いで吉川氏にすすめた。
 「八女茶の上等ならよいのですが、お粗末な番茶で失礼します」
 「喜んで頂きます。夏の暑いときはこれに限りますよ。番茶と聞くといつも思い出しますが、五高時代に誰かが夏目先生に、『番茶を英語で何と言いますか』と問うたとき、先生はとっさに、『それはサヴェジ・テイーだよ。』とおっしゃったのです。サヴェジには粗野なとか野蛮なといった意味はありますが、粗末なという意味はありません。それを承知で先生は面白おかしくお答えになったのですが、なかなか当意即妙の名訳だと思いました」
 「なるほど、流石ですね」
 吉川先生は冷めた茶をいかにも美味そうに飲み干すと、湯呑を右の膝頭のあたりに置き、居ずまいを正して話し始めた。
 「ところで、高田博士のことですが、博士は東京帝国大学を明治十五年に卒業され、同年、東京専門学校(筆者注:早稲田大学の前身)創立と同時に同校の講師になられました。そして国会の開設以来代議士に選出されておられます。立派な教育者でしかも優れた政治学者もあります」
 「どんな要件で見えたのですか?」
 「先日の『鎮西日報』に載っていましたが、今回こちらへ来られたのは、東京専門学校を私立大学に昇格したいための資金集めが目的のようです。博士は大隈重信氏の信望が極めて厚いと聞いています。大隈氏は御承知だと思いますが佐賀の出身です」
 吉川氏は大隈重信の名を口にするとき、郷土の大先輩として尊敬と親しみの気持ちを抱いているように見えた。
 「学校での講演の内容は、教育に関することでした。かいつまんで申しますと、今日、国民教育の方針として博士が唱道される事柄は、立憲思想の普及と、対外概念の発達、この二つであると先ず申されました」

 吉川氏は大隈氏の言葉を反芻するかのように、少し改まったような口調で話を続けた。
 「明治二十二年の紀元節に帝国憲法が発布されて以来、我が国は立憲政治の国となり、国民は憲法の命ずるところに従って、立憲政治の民とならなければいけない。しかしこの思想はまだ普及していない、と言って面白いことを申されました」.
 「どんな面白い事があったのですか?」
 吉川先生はその話を思い出して,いかにも可笑しいかのように一人笑いをした。
 「それはですね、次のような事があったというのです。憲法発布の当日に、東京市中は非常に賑やかで、あたかも祭礼のごとく市民は狂騒したそうです。そのときある人が市民の一人に、『なぜこんなに喜び騒ぐのか?』と問うたところ、『今日は何でも政府よりケンプ(絹布)のハッピ(法被)が下さるとのことだ』とか、また『今日は弘法大師の兄弟分のケンポー大師のご開帳がある』と答えたとか。全くの笑い話ですが、今日と雖も、国民の立憲思想の発達は、あの時とさほど変わらない情けない状態だと、博士は申されたのです」
 「憲法発布を絹布の法被とは笑わせますね。それで立憲思想を発達さすには、具体的にどうせよと言われたのですか?」
 「立憲思想の発達しない国では、公徳の腐敗が起こり、その結果人心は退廃する。今日各種議員選挙の状況を見ると、競争の弊害は年々加わり、議員の選挙費用は歳々に増加の傾きがある。従って代議士の選挙は実に大切で、我が国の安寧のみか東洋の安危も実にこれに繋がる、とこう声を大にして言われました」

 選挙に一体どれくらい費用がかかるのだろうかと思いながら、惟芳は耳を傾けた。
 「この大切な代議士の選挙に、このように金銭を費やせば、代議士になった後、悪事をなしてもその埋め合わせをすることになり、賄賂も行われる。これが我が国の現状である。これを救済する方法は、ただ立憲思想の普及を計り、公徳の養成に勉めることである、と博士は申されたのです」
 惟芳は政治家の中に、公徳心の欠如が生じているといって、具体例が新聞紙上に載っているのを思い出した。吉川先生の言葉は続いた。
 「博士はさらに言葉をついで、元来選挙権なるものは、自己のみの権利のようだが、そうではなくてそれは公権である。青年諸君も学校教育なり家庭教育においても、立憲思想の養成に勉め、他日選挙権の行使を誤らず、社会の公徳を維持する覚悟がなければならない、と熱弁を振るわれました」

 吉川先生は高田博士の講演に余程興味を覚えたのであろう、その内容をかなり詳しく話して聞かせた。惟芳はこれまでの学生の身分とは異なり、一社会人としての自覚がこのところ萌しているので、先生の熱弁に呼応するかのように時々自分の考えや感想を述べた。
 「選挙権は私権ではなく公権であるから、正しく行使しなければいけないと云うのですね? 博士の話は他にもう一つありましたね?」
 「はい、それは対外観念の発達についてです。このことにつきましては、今更事新しく喋喋する必要はない、と博士は先ず断わられた後、次のように言われました。今日の日本は昔日の鎖国時代ではなく、開国進取の時代である。しかし我が国の現状はその必要を知りながら、未だ対外観念は十分に発達していない、いや寧ろ島国根性のみであって、対外観念は毛頭なしといった有様である、と」
 吉川先生は高田博士の口調を真似るがごとく熱っぽく話を続けた。惟芳も、日頃造船所内で交わす会話とは次元の違う話の内容に耳を傾けた。
 「今日世界の有り様は民族統一主義より一進して、民族的帝国主義となり、欧州の諸国は勿論、米国の如き自由主義の共和国も一変して、帝国主義の政策を取るに至っています。この事は新聞を読めば誰にも理解できます。そしてこれら欧米諸国の勢力拡張の目的地は何処であるかといえば、緒方さん、何処だと思われますか」
 「そうですね。私は清国だと思います」
 「その通り、勢力拡張の目的地は東洋、なかんずく支那であります。博士は、列国は競って利益を収めようとしている、と明言されました。私もそう思います。そこでこのような現状に際して、我が日本はいかなる方針を取るべきか、と博士は問いかけるようにお話になったのです。緒方さんはどうしたらよいと思われますか?」
 「そうですね。やはり我が国も外に目を向けて、とりわけ東洋の国々との友好的な交易を促進すべきではないでしょうか」
 「博士もそのような主旨を述べられました。即ちここ長崎が開港せられてよりほとんど半世紀も経つが、我が国の貿易は片貿易であって、外国人は来て盛んに取引をするが、日本より出かける者が極めて少ないのが現状のようです」
 「そんなに海外へ出かける人は少ないのですか?」
 「博士が言われるには、日清戦争後、日本より要求して開かせた清国開港場における幾多の専管居留地は、今なお草茫々として昔のままであるそうです。これらの現象は即ち我が国民の対外観念が発達していない証拠であるので、もし今日これを矯正しなければ、世界における日本の勢力は日に日に縮小し、遂に滅亡するの他はないと申されました」
 「えらい悲観的ですね。日本の国民性ですかね」
 「まあそうとも言えるでしょう。そこで博士は国民教育の目的とは何か、と言って次のように発言されました」
 吉川先生は、博士の講演に感銘を受けたと言わんばかりの話しぶりである。
 「我が国民の長所たる団結力をますます強固にすると同時に、その短所である未熟な対外観念の伸長に勉めることである。我が日本も日清戦役後は小国より大国になったかのようであるが、未だ世界国と称するに至っていない。これより世界的の観念を発達させて、少なくとも世界国とならなければいけない。まあ以上のような主旨で講演を締めくられました」

 萩にあっては、このような話を聞いてもそれほど感じなかったかも知れないが、惟芳は今置かれている立場を考えて、確かに心に訴えるものがあった。それには吉川先生の熱意のこもった話しぶりも一役買っていた。
ちなみに、高田博士の献身的な努力で、東京専門学校は創立二十周年目の明治三十五年に、早稲田大学と改称した。明治十五年に生まれた俳人種田山頭火は山口中学を卒業後、早稲田の学生となり青春を謳歌している。惟芳は明治十六年生まれ、二人は全く異なる道を選んでいる。

 「もっとお話ししたいですが、夜も大分更けてきました。今日はこれで失礼させていただきます。夜風が出て多少涼しくなりましたね。団扇は結局いりませんでした」
こう言って吉川氏は、右手に持った団扇を兵児帯の後ろに差しいれながら立ち上がりかけた。
 「おお、忘れるところでした。この雑誌を読んでみませんか?」
彼は肩までたくり上げていた浴衣の袖を下ろして、筋肉隆々たる太い上腕部を隠すと、惟芳の部屋に入ったとき、傍らに置いた新刊雑誌を取り上げた。
 「実はね、これは五高時代の友人が東京からわざわざ送ってくれた『太陽』という雑誌です。これに高山樗牛の「美的生活を論ず」という論文が載っているのです。樗牛は御存知かもしれませんが、東京帝国大学在学中に、読売新聞の歴史小説及び脚本募集に応じて書いた『滝口入道』が、首席当選となって、彼は金時計をもらっています。あの小説はなかなかの名文だと思います。緒方さんは読まれましたか」
 「話には聞いていますがまだ拝見していません」
惟芳はこう言った小説の類(たぐい)にはそんなに興味を抱いていないので、きっぱりと否定的に答えた。
 「樗牛は頭がよくて帝国大学でも秀才の名で通っていたようです。別に急ぎませんから、まあこの論文を読んでみてください。ご感想はまた後日お聞かせください。遅くまでお邪魔しました。それではおやすみなさい。」

 吉川先生の話は概して耳新しく、その内容もかなり高度なので、惟芳にとってはいつも良い刺激になった。この論文も先生がわざわざ紹介されたので、ぜひ読もうと思った。惟芳はこれまで、こういった新刊誌など手にしたことがないので、多少物珍しさも手伝ってページを繰ってみた。


 「美的生活を論ず」という題名が一寸興味を引いたので、読んでみることにした。読み進むうちに、樗牛なる人物の考えに段々同調できないと思うようになった。
特に次の一節はいささか極端な考えではないかと惟芳は思った。

 

 「道徳と理性とは、人類を下等動物より区別する所の重なる特質也。然れども吾人に最大の幸福を与え得るものは是の両者に非ずして、実は本能なることを知らざるべからず。蓋し人類は其の本然の性質に於いて下等動物と多く異なるものに非ず。世の道学先生の説くところ、理義如何に高く、言辞如何に妙なるも、若し彼等をして其の衷心の所信を赤裸々に告白する勇気だにあらしめむか、必ずや人生の至楽は畢境性欲の満足に存することを認むるならむ。」

 

 およそ中学校の教科書には載らない、それどころか一般社会においても通用しない内容に、惟芳は我が目を疑った。謹厳実直な安藤先生がもしこのような文章を読まれたらどのように言われるかと彼は咄嗟(とっさ)に思った。帝国大学にまで行ってこのような考えを天下に公表するとは驚きである。吉川先生はこれを読んでどのような感想を抱かれたのか、又自分に読んでみたらと言われたその心境を彼は忖度(そんたく)しかねた。彼は一読して、あまりに自由奔放と言うか、いやむしろ、人間としての節度も矜持もない説に、到底容認できないものを感じた。やはり彼にとっては、もっと自己の人格を高めるような思想こそ人間にふさわしく、その方が美的生活と言えるように思えた。
人間がいかなる理由でこの世に生まれたかは分からないが、生きる目的は幸福を求めるにある、という樗牛の言っていることは至極当然だが、幸福とは本能の満足これのみ。つまり性欲を満足さす、これこそ美的生活であるとの彼の説は極端に走るものだと思った。

 

 子曰く、君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人は是に反す。

論語』の授業で、安藤先生が講釈された孔子の言葉が思わず頭に浮かんだ。惟芳はそのときの先生の説明をはっきりと思い出した。

 「君子は他人の善事や成功を喜んで、それが成就するように願い、他人の悪事や失敗については、これを隠して、そうならない様にする。人の美や長所を褒めそやすことは難しいものだが、これが出来なくては、君子とは言えない。」

 

 真の美的生活とはこのようなものではなかろうかと思い、彼は雑誌を閉じて机の上に置き床を延べた。すっかり夜は更けていた。森々たる静けさの中、彼はいつしか深い眠りに落ちた。