yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道  第十章「村人たち」

(一)

 山陰線は地形上、山陽線に比べてトンネルが多い。とくに宇田郷駅を間に挟んで、木与駅須佐駅の間は異常なほどで、長短十二ものトンネル(現在は線路改修で十本)があった。また山陰線が開通したとは言え、宇田郷村は僻遠の地に変わりはなく、一時村役場に勤めていた正道の言によると、昭和二十年に宇田郷村は阿武郡内でも六島村(現萩市)に次いで人口が少なく、郡内で最も財政の乏しい村であった。 

 

 前章で既に述べたが、昭和のはじめ、惟芳は村人の治療費の支払いが悪く、また自分の子供達の数も増え、その教育を考えた結果、嘱託医としての約束の年限もとっくに過ぎたので、村医を辞退して萩市で開業したいと村役場に申し出た。ところが時の村長小川十郎が、診療を是非続けてもらいたい、新しい診療所建設のための用材は自分が捜す、などと言って村人を代表して惟芳へ慰留を訴えた。彼は村長の熱意に感じ、また村人たちの強い要望に応えて、結局宇田郷村に止まって医療を続けることを決意した。そこで彼は、村から提供されて使用している診療所では間数が絶対に足りないので、この際思いきって自分の医院を建てようと思った。
 
 海岸線にまで山が迫って平地が極端に乏しい宇田郷村は、村の人口の半分以上が、川幅十間足らずの宇田川を挟んで、元浦と今浦の二つの地域に集まっている。ここには村の小学校をはじめとして、役場や郵便局などの公共施設があるので、彼は役場と小学校のある方の元浦を医院建設の適地と考えた。

 

 世の中の住宅事情は変わった。現在、田舎ではともかくも、都会地ではマンションやアパート住まいが浸透しており、また建て売り住宅を購入して住む者が多い。自ら土地を購入して建てたにしても、周辺の者にとっては、誰が何処に建てようが「我関せず」で、関係すると言えば日照権や騒音を問題として、場合によっては裁判沙汰になるといった事ぐらいであろう。
しかし戦前、特に田舎では男が一生一代において、自分の家を建てると言うことは、徒(あだ)疎(おろそか)な事ではない。周辺に住む者も多大の関心を寄せ、出来れば建築に手を貸そうとするのである。ましてや惟芳の場合、村人の要望に応えて村医として止まり、そのために終(つい)の棲家を建てようと言うのであるから、村人を思う彼の心意気に感激して、彼等も感謝の気持ちを行動に移したのである。
 
 惟芳に是非止まってくれと頼んだ村長の小川十郎は、木与の山中にある阿武郡随一の大きい檜を探し出して、木挽(こびき)に命じて切り出さすことにした。この木があまりに大きくてそれを一時寝かせておく場所がないので、これまたある村人が好意を示して、自分の田を一町(ひとまち)犠牲にして、そこで木割の作業を木挽にさせることにしたのである。惟芳はこの事を聞いた翌日早速、午前の診察を終えると現場へ行ってみた。
 
 診療所の前の道を役場や小学校のある方へと歩き始めた。日中の日射しはそんなに強くはない。潮風が爽やかに吹いていた。彼は急いだものだから思わず聴診器を頸に掛けたままでいたのに気がつくと、それを外して診察衣のポケットに入れ、右手で聴診器のゴム管がはみ出ないようにポケットの奥へと押し込んだ。ものの二百米ばかり行くと、道のすぐ右手に空き地が見えた。そこは道から川の土手までの間のやや細長い田圃だが、いまは何も植わっていない。川土手の方から人声が聞こえてきた。そこが提供された木挽きの作業場であるとすぐ分かった。はたして数人の村人たちが仕事ぶりを見物に来ていた。
 
 身の丈五尺八寸近く、体重二十貫の大きな躰を白衣に包み、黒い口髭を生やした惟芳は当時四十歳の半ば、男として心身ともに最も充実した時である。もう村人には彼の顔はすでに馴染みではあるが、診療所では見慣れたこの姿も、こうした場違いの所で見かけることは珍しいので、居合わせた者たちは思わず慌てたように惟芳に道を明けて挨拶した。

 

 木挽は四人いた。木っ端でもさすがに真新しい檜の材である。惟芳は近づいて行くと、何とも言えない良い香りが周辺に漂っているのを感じた。木挽きたちは檜の鋸屑や木屑が散らかっているところに敷いた筵(むしろ)に腰をおろしていた。鋸幅が一尺もある大きな木挽き鋸が彼等の傍らに置いてあるのが見えた。彼等は食べ終わった大きな昼弁箱を新聞紙に包んで側に置いたままで、煙管(きせる)に詰めた刻み煙草をうまそうにくゆらしているところであった。惟芳を見ると銜えていた煙管を口から除け、頭の鉢に結んだ日本手拭いを取り外して辞儀をした。惟芳は木挽たちに近寄って言葉を掛けた。
 「ご苦労だね。こうしてみると随分大きな檜だが、伐り出すのは大変だったろう」
 「はい、なにしろ木与の山奥で長いことほとんど人目に触れずに育っていたのでしょう。二百年から三百年は経った代物(しろもの)です。私たちも間近まで行ってじっくりと見たのはこの度が初めてでした。奥深い山中にこれほどの巨木が堂々と聳え立っている姿には一種神々しいものがありました。

 

 伐り出す前にお神酒(みき)を上げてお祓いをしました。根本に近い処から鯨尺(約36㎝)で二十尺の長さの処で切断し、梢までの残りの部分と二つにして、この二本の丸太の大木をまず海岸まで運び下ろし、そこから筏にして元浦まで海の上を運びました。とにかく運び出すのに難儀しました。短く伐って運びやすくすればそれほど手間はかからないのですが、こうして長いままで伐り出すようにとの注文でしたから、思ったより骨が折れました」
 「そうだろう、本当にご苦労だったね」

 惟芳は巨木の現物を目の前にして、木挽の言うとおりだと思った。満州薪炭用として満人から分けて貰った楊柳は、田圃のあぜ道に沿って生えていた細長い立木であった。彼はそれらを伐り倒して荷車に山積みして運んだ事を思い出したが、いま目の前にあるこのような巨木の搬出は、あの時とは比べものにならない作業だと言うことは一目瞭然であった。惟芳は重ねて言葉を掛けた。

 「今度は木割が大変だね」
 「先生、そうなんです。これをよう見て下さいませ。年輪がじつによく詰んでいます。ざっと数えても二百以上あります。これは日本海からやってくる風雪、俗に言うシベリヤ颪(おろし)に鍛えられ、夏は昼間に海から吹き上げ、夜は山から吹き下ろす風に暑さを凌いだ結果です。長いこと木挽きの仕事をしていてこのような立派な木に会ったのははじめてです」
 四人の木挽のうち一番年嵩(としかさ)の者がやや興奮気味に話した。彼は続けて惟芳に話しかけた。 
 「三寸角の柱ならこれで三十六本は取れます。木割はまた一苦労ですが、仕事の為(し)甲斐(がい)もあります。皆で力を合わせてやりますから、まあお任せ下さい」

 村には製材所がないので、柱一本作るにも木挽に頼らざるを得ない。惟芳はこの年期の入った木挽の自信に満ちた言葉を嬉しく受け取った。またこうした木挽一人の口の端からも、惟芳に村に止まってもらいたいという願い、またそのためには一(いっ)臂(ぴ)の力を貸すのも惜しまないという彼等の強い思いが、村医としての彼に伝わって来た。
 
 -『骨を埋むるに豈墳墓の地ならん哉』か。よし、こうして村人たちの善意のお陰で医院も建つとなると、この村にじっくり腰を据えなければいけないな。まあそれもよかろう。
 
 このように考えて彼はぐっと歯を噛みしめると、その後すぐに彼等にねぎらいの言葉をかけ、礼を言ってその場を立ち去った。

 

(二)

 医院の設計において惟芳が特に意を用いたのは採光である。道路側にある診察室は窓ガラスを通して入る光で明るいが、その奥にある調剤室は、診察室との間に薬品棚などの仕切りがあって一段と暗くなるので、そこを吹き抜けの天井にして、二階の障子を開けたら、調剤室が真下に見えるようにした。こうして二階の窓からの採光を考えた。何分にも土地が狭隘で隣家とは細い溝一つで接しておる。従って一階は外光を取り入れるのに何らかの工夫をしなければならない。

 

 後にこの構造を見た惟芳の義弟(先妻の妹婿で医師)の綿貫秀雄が、「こんな構造は見たことがない。きっと義兄は長崎の造船所で見聞した艦船の艦橋の設計からヒントを得て、調剤室を吹き抜けの天井にして採光を考えられたのであろう」と言っていた。 
 なお参考までに、惟芳の孫に当たる緒方龍太郎が、信州大学の森林科学科に籍を置いていたとき、『夏期休暇課題』として、「地域の素材で建てられた家屋について」の中で次のように推定している。

 柱:柱は一本の檜から割り出された。木の一部がこの家の蔵に残されていた。この資料と、家のそれぞれの柱の容積、本数とから計算すると、おおよそ次のような大きさの檜であったと推定される。
 柱の縦横 12×12㎝
   高さ 約6,3m(床上5,7m 床下0、6m)

 

 家の見取り図から見て、一本の檜から36本の柱を取り、少なくとも直径105㎝の巨木であったと推定される。この家が建てられて約六十年(1991年現在)、二階まで一本の柱を使い、吹き抜けまで付けたにもかかわらず、ほとんど狂いの無いのも、風雪に耐えた木の持つ性質によるのであろう。
 敷居:阿武郡で最大の桜を用いたとされる。今回は敷居については調査しなかったが、2間の長さの敷居が数本あるので、これも相当大きな桜の木であったと推定される。

 

 こうして建築に必要な主たる用材が確保されると、今度は敷地の問題である。建設予定地が道より三尺ばかり低かった。宇田川の洪水でこれまで何度か橋が流されたので、道路改修の際、橋の位置を高くしたので、それに通ずる道路もそれまでより当然高くなった。従って従来の人家は低い位置にそのまま在ったのである。幸いにも鉄道のトンネル工事で多量の土砂が出たので、建設予定地にそれを運んできて道と水平になるまで埋めることが出来た。そのために地固めが必要である。重量のあるローラーといった機械類が無いので、皆人力に頼らざるを得ない。  太くて重い樫の丸太に手頃な棒を二本取り付けて、それを持ち上げて地固めをする。これは一人で出来る作業である。一方家の柱を立てる場所は特別に重量がかかるから基礎工事はゆるがせに出来ない。基底に格好の礎石を置き、しっかりと地固めをする。そのためには長い三本の杉の棒を上部でしっかりと縛って下部を拡げて三脚にして立て、縛ったところに滑車を付けて、その滑車に綱を通し、その綱に重い樫の丸太を括り付けて数人で綱を引っ張って丸太を持ちあげ、かけ声諸共礎石の上へどすんと落として地固めをするのである。村民総出と言っては大袈裟だが、多くの村人たちの積極的奉仕のお陰で作業は順調に進捗した。

 

 ブルドーザーやクレーンといった土木機械が無い当時にあっては、梃子(てこ)や滑車を利用して作業をしていたが、やはり人力が何よりの手段だと考えられていた。そうなると力の強い人間が重宝がられるのは自明のことである。
 
 緒方医院のすぐ前に、道を距てた海側の家に竹本寅一という青年がいた。彼は大正三年生まれで、惟芳の長男である芳一と同年齢であった。その時彼は数え年で十七歳になっていた。二人は幼いときから遊び友達であったが、芳一が宇田小学校を卒業して県立萩中学校へ入学し、寄宿舎生活を始めてからは、お互いに異なった人生の道を歩むことになった。  

 

 寅一は小学校高等科を卒業すると早速稼業の漁師の仕事に携わっていた。宇田郷村一番の分限者で、前にも言及したが、惟芳が医院を建てるのに敷地を分けてもらった金子家で寅一は働いていた。金子家は当時大敷網の網元でもあった。寅一は鰤(ぶり)漁などその時季になると、大敷網の船に乗っての仕事に従事していた。しかし日頃は酒造業といってもその実、米俵など物の運搬を手伝うのが主な仕事で、それも無いときは自分の家の小舟で沖合に出て漁をしていた。

 

 彼は力の強い男であった。その秘密は先ず彼の出生から物語る必要がある。野良仕事に出ていた彼の母親が、急に産気付いて寅一を産み、持っていた鎌で臍の緒を切って大きな蕗の葉に赤子を包んで家に帰ったという。彼女は豊胸の大女で、授乳時には子供を背負ったままで、乳房を持ちあげて肩越しに飲ませていた。彼女ほどではないが、筆者が子供の頃は、このような垂乳(たらち)根(ね)の母を見かけることは時としてあった。此の母にして此の子ありで、彼はすくすくと育ち、十七歳で身の丈六尺、肩幅も廣く、一人前の大人を優に負かす程の立派な体躯の持ち主になっていた。

 

 大正三年生まれは寅年である。竹本家の長男であるから寅一と親は名付けた。近所の者は誰もが彼を「寅マー」と呼んでいた。当時五歳の正道も寅年生まれであるから、十二歳の年の開きはあるが彼を「寅マー」と呼んでいた。一方寅マーは正道を「正道坊ちゃん」といってよく可愛がっていた。
 
 その日は礎石に大きな石を据える作業が朝から続いていた。二人ではとても無理だから、三人がかりでその石を転がして目的の箇所へ運ぼうとするのだが、足場が悪くて三人一緒で同時に力を出すことが出せない、従って石は梃子でも動かない状態である。

 「こりゃ困ったことになったのう。この石を動かさないことにゃ、仕事が進まんでや」
 「そうじゃのう。どうしたものかのう」
 傍らで別の作業をしていた女性が二人のやりとりを耳にして、
 「寅マーに来てもらってみーさい。寅マーなら動かすことが出来るかもしれんで」
 早速男の一人が金子家へ走って行くと、彼を伴ってきた。
 寅一は指された石を見ると、裸足になり上半身裸になると、一本の丈夫な樫の棒を石の下にぐいと突っ込み、手に持った棒の片方を右肩にあてて力をこめて棒を持ちあげた。大人三人でもびくともしなかった石が動き出した。固唾(かたず)を呑んで見守っていた者たちが思わず一斉に声を掛けた。
 「よいしゃ頑張れ。寅マー頑張れ」
 こうして石は据えられるべき場所へ難なく移動させられた。
 
 その後幾年か過ぎ、秋九月中頃から十月末にかけての台風のシーズンのある日のことである。朝からひどい暴風雨でとても漁に出られる状態ではない。それでも漁師の習慣で寅一は早く起きて朝飯を食べていた。大きな飯茶碗で三杯目を食べようとしていたときのことである。激しく雨戸を叩いて叫ぶ者がおる。彼は箸を置いて立ち上がり、戸口へ行った。

 「大敷網の船が流された、直ぐ来てくれ」と、戸外の声が叫ぶ。戸を開けると、傘を手にしてはいるが全身びしょ濡れの男が叫ぶように言った。
 「寅マー直ぐ来てくれ、大変だ。船が沖へ流されちょる」
 家の中におるとこれほどとは思わなかったが、篠突く雨である。寅一は咄嗟に駈けて直ぐ隣にある小屋へ飛び込んだ。輪にして巻いて置いてあった太めのロープを肩に掛けると、男を促して流れ行く船が見える海岸へと走った。大きな波が打ち寄せ雨は横殴りに降りかかってくる。風はビュービューと唸る。大時化である。件(くだん)の船が沖合に雨飛沫の中に霞んで見えた。虎一は防波堤の上を走りその先端のところまで行った。波は彼が立っている防波堤の大きな組石を洗うように打ち寄せた。彼は海上に目をやった。ここからは船が一層よく見えた。船は高波に翻弄されて大きく左右に揺れながら次第に沖へ流されているのが寅一にはっきり分かった。幸い船は防波堤をそう遠くには離れていない。

 

 彼は自分が乗り込んで漁をする船が波間に浮き沈む様を目にすると、肩に掛けていた一巻きのロープを左肩から右の脇へと斜に懸けるやいなや褌一丁荒海に飛び込んだ。抜き手を切って彼は船に向かって泳いだ。さすがは海の男、荒れ狂う怒濤の中を彼は船に近づいていった。間近まで泳いで行くと、船が大揺れに揺れて、寅一のいる側が大きく傾いたとき彼は船縁(ふなべり)に手を掛けると、両腕に力をこめて船内に転がるように飛び込んだ。彼は直ぐに帆柱にロープの片端をしっかり括り付けた。彼はそのロープを全部延ばした。全長二十米は優にある丈夫なロープである。今度は片方の端をしっかり自分の腰に結び付けると又海に飛び込んだ。
 

 彼は逆巻く荒海の中を防波堤に向かって必死で泳いだ。船は次第に陸地に近づいた。烈しい風雨の中、急を聞いて集まって来た漁師たちは、寅一の無謀とも言える行動を防波堤の端に立って、祈るような気持ちで見つめていた。

 「おお、船が近づいてきたぞ、寅マーが船を曳っぱて来たぞ」
 漁師達は一斉に歓びと驚きの声を上げた。高波に見え隠れしていた寅一の逞しい躰と腰に巻いた綱が近づいて、手に取るように見えたとき、数人の若者が彼を手助けするためにつぎつぎに海に飛び込んだ。また彼が腰に括ったロープに継ぎ足すためのロープを投げ入れた。寅一の瞬時の判断に基づく決死の行動で船は助かった。しかしこれは誰にも出来ることではない。まかり間違えれば命を落とす危険な行為である。また並大抵の力では出来ることでもない。さすが海で鍛えた度胸と躰、彼は後々まで語り継がれる快挙を成し遂げたのである。(注1)  

 「気は優しくて力持ち」とはよく言ったもので、寅一は正道を可愛がってくれた。惟芳は我が子をあやしたり、優しい言葉を掛けるような男ではない。先にも述べたように、正道は小児マヒで身体が不自由であったが、そのために手加減するようなことは、表面的には決してしなかった。それは息子の将来を考えて心を鬼にしての言動であったと思われる。その点第三者は違う。寅一は正道の身の不自由をみると、そこに憐憫の情が働くのであろう。
 「正道坊ちゃん。虎マーが面白いことをするから、よう見てみなさんせ」
 こう言って彼は輪切りにした直径十センチばかりの孟宗竹を右手に持つと、ぐいっと力を入れて握りしめた。竹はめりめりと音を立てて割れていった。もの凄い握力である。今度は丸太ん棒のような太い腕を延ばして、正道に二の腕に藁縄をしっかり結びつけるように言った。正道は力一杯結びつけた。
 「いいですか坊ちゃん、よおー見ておりさんせ」、こう言って拳を固く握って肩に近づけると隆々と力瘤が出来て、その縄はプツンと切れたのである。正道はその時の驚くべき光景を未だによく覚えていると言う。正道はその力強い腕にぶら下がったり、背高い肩車に乗せてもらって遊んでもらったこともあった。
 
 大きなマグロが数頭捕れたことがあった。船から降ろして魚市場まで運ぶのに、マグロを綱で縛って天秤棒に通し、その棒の両端を二人が肩に担いで運ぶのであるが、容易に持ち上げられないので、もう一本天秤棒を交差させて結局四人で運んだ。これを見た寅一は天秤棒の前後の綱に、この大きな魚一頭ずつ吊るし、左右の手で吊した綱を持って運んだ。
 

 また次のようなことは朝飯前だった。酒造業の金子家には仕込みの時期ともなると、大八車に積んだ米俵が運び込まれる。その都度一人一俵肩に担いで蔵の中に運び込むのが常識だが、虎一は両手に俵を一つずつ提げて蔵まで持っていくと、蔵の一隅の置き場に、左右の手に提げてきた十六貫の米俵を、いとも軽々と積み上げていくのであった。
 

 この寅一が丁年になって、身体検査を受けたとき、甲種合格にならなかったから不思議である。そのことを検査から帰って惟芳に告げた。惟芳は問うてみた。
 「お前が不合格とは合点がいかんが、どこか躰具合でも悪いところがあるのではないか?」 
 「いいえ、別に何処と言って悪いところはございません。ただ耳が少し遠いのではないか、と検査官にいわれました」
 「そうか。お前は耳の垢を取ったことがあるか?なんなら一つ診てやろう」
 こういって惟芳が虎一の耳を覗いてみると、黒い耳垢でびっしり詰まっている。
 「これじゃ聞こえないはずだ。それにしても検査官はのんびりしたものだ。おそらく お前さんが竹本家の跡取り息子で、一家の働き手であることを考慮して、乙種合格で留めたのであろう」
 惟芳はこのように言って寅一を慰め、同時に海の男の仕事に一層精を出すようにと励ました。

 

 寅マーの武勇伝を付け加えておこう。ある時宇田郷で強盗事件があった。駐在所の巡査が駆けつけたが、取り押さえるどころか、反対にその強盗に押さえつけられた。そこへ寅マーがやって来て強盗の片腕をぐいっと掴んだ途端、「離してくれ腕が折れる」と強盗は悲鳴を上げた。こうした稀代の力持ちであった寅マ一は、先に述べたように戦役を免れたが、その後海の遭難で若い命を落としたのは実に残念なことである。この事を最後に簡単に述べておく。
 
 彼が亡くなったのは二十八歳頃で、まさに働き盛りの年齢になったばかりの時であった。当時宇田郷村には発動機を付けた小型船は三艘しかなかった。彼は同僚四人と河豚(ふぐ)釣りに出かけた。漁場は日本海の沖合、宇田の港から十里(約40㎞)の所にある見島の海域である。ここには魚群が集まる良い岩礁がある。寅一はそこでまずクラゲを捕ってクラゲの足を餌にして河豚を釣っていた。漁師は天気具合を読みとってでなければ漁には出ない。しかしこの予想が絶対外れないと言うことはない。だから時に遭難事件が起こる。
 

 その日も予想に反して時化(しけ)となり、不運にも寅一と彼の同僚は帰らぬ人となった。時化が収まった翌日地元から捜索に出かけた船が寅一たちの乗っていた転覆した船を見つけた。彼を含めて五人の遺体が船にそのままあった。彼独特の結び方で、死を覚悟した同僚を帆柱に括り付けていたお陰である。
 「こねーな結び方ができるのは寅マーより他に誰もおりゃせん。皆どっかへ流れ着いたかも知れんし、鱶に食われたかもしれんのに、よう佛になってこうして見つかった、こりゃ何と言うても寅マーのお陰じゃ。ほんまに哀しいことじゃのう。『板子一枚下は地獄』とはよう言うたものじゃ。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 漁師仲間のこの言葉を聞いて、遺族たちは遺体が流失しなかったことに感謝したという。なお、そのとき寅一の死体はまだ温もりが残っていたとも言われている。
  

 

(三)

 さて話を医院建設に戻そう。無事に診療もできる住まいが竣工したのは昭和五年の春である。土蔵に残っていた設計図で分かったのだが、二階まで通しの柱が三十四本あり、それが皆一本の檜で作られたことは既に述べた。家中のすべての敷居も、葛(つ)籠(づら)というところの伊藤という素封家が提供してくれた桜の木で出来ていた。当時千円の家は千円普請と言われて珍しがって人が見に行くほどだが、惟芳が設計した家はとてもその金額では済まなかった。

 

 当時銀行からの融資が叶わなかったので、村の有志が頼母子講を作ってくれて、お陰で資金の調達が出来た。惟芳はその返済には可なりの年月を覚悟したが、鉄道工事に伴う治療などで思っていたより早く終わった。しかしそのために惟芳は夜を日に次いで診療に従事した。一方妻の幸も家事万端に加えて三人の子育てもあって、一日三時間しか眠れない日が続いたと、後年語っている。
 
 こうして村民の協力の下に建てられた医院は、単なる民家とは違う建て方である。医院正面の硝子戸を開けて踏み込んだところはタタキの土間で、そこには往診用の自転車やオートバイあるいは幌のついた人力車の置かれてあり、左手に待合室があり、その奥に診察室があった。診察室の反対側に調剤室があった。患者は玄関のタタキの奥へは入らなかった。一方家人や客人はそのタタキの正面の格子戸を開けて玄関から居間へと入った。居間は二間あって奥まった方にある居間に仏壇と床の間が並んであった。床の間前面の壁には天皇皇后の御真影が掲げてあった。
 

 居間の南側は廊下で、戸外に面したガラス戸から充分な採光が得られ換気もできるようになっていた。台所と浴室ならびにトイレは鍵の手に曲がったところにあり、すべて廊下で繋がっていた。廊下の突き当たりのガラス戸を開けたところが台所である。そこは板敷きで、三度の食事のときは家中全員が集まり、惟芳が箸を執るまでは家族のものは小さな座布団に正坐して、いわばお預け状態で待つのであった。家族一同はもとより、女中も看護婦も惟芳の生存中この習慣を守った。
 
 「往診も無く家族皆が揃っての夕食は、先ず坊ちゃん方は先生の方へ顔を向けられ先生のお許しがでて始めてお箸をとられるのが常でありました。一日のお子様方の健康状態を顔色一つで確かめて居られるのだと後で気がつきました。」
 これは昭和十年代に緒方医院で看護婦見習として働いていた渡辺福代(とみよ)(旧制佐伯)という女性から筆者がもらった手紙の一節である。
 
 板敷きの台所を一段下がったところが調理をする場所で、あとでも述べるがそこには特殊なポンプが備え付けてあった。調理場の奥に漬け物や米・味噌など食糧を貯蔵した小室があり、その先にどっしりとした土蔵が立っていた。
 

 この家の最大の特徴は前述のように、調剤室が二階の天井まで吹き抜けになっていたことで、これは換気と採光を考えての事である。この他に二階の雨戸を開けて出ると屋根の上にベランダに似た物干台が設置されていた。縦横二間くらいの広さで、ここに洗濯物ならびに包帯やガーゼなどを乾していた。そこには水槽つまりタンクが据えてあるのも特徴だと言える。台所にある特殊なポンプのスイッチを切り替えることによって、水を汲み上げることが出来るようになっていた。そしてこのタンクから配管して診察室と調剤室また便所へと随時水を流すことが出来るようになっていた。勿論水道などの全くなかった時代の事である。採光や換気に加えて、こうした工夫は惟芳が艦船の設計からヒントを得たものと思われる。
 
 戦時中の事であるが、宇田の沖合で病院船が機雷に触れて沈んだのであろう、海岸に膨大な数の箱とその中から出た包帯が漂着して海岸が白一色になったことがある。戦時中物資が乏しかったので看護婦をはじめ村民たちもそれを拾うのを手伝い、それを五右衛門風呂で熱湯消毒してこの物干台で乾した。その時浜風に翻る無数の白い包帯が今でも筆者の瞼に焼き付いて居る。さらにそれを丹念に巻いたことまで不思議に覚えている。やはり珍しい事件だったからだろう。

 

 右左の隣家は一段と低いところに位置していた。そして隣家との間には幅二尺ばかりの溝があるだけ、また背後の隣家とは壁一つで接していた。このように狭い空間を最大限に利用して惟芳は自分の家を建てたのである。
 
 先に言及した看護婦だった渡辺さん広島県福山市内海町(架橋前は瀬戸内海の横島)に住んでいて、結婚前は佐伯福代(とみよ)と言った。彼女は大正十一年に宇田郷村で生まれた。彼女は生まれたときは母親に乳が出なくて祖母に育てられたのである。両親は仕事の関係で萩町(昭和七年に市制施行)へ行き、彼女と弟は祖父母の使い走りをするために残された。祖母の佐伯トキという女性は村でも有名な「佐伯の婆様」といって、誰知らぬ者のない「やり手」だった。此の婆様は男勝りで曲がったことが大嫌い、しかし主人は好々爺であった。
 

 明治十四年生まれの佐伯トキは、惟芳の人柄に信服して、孫娘が小学校高等科を卒業した昭和十一年に、緒方医院へ看護婦見習いに出した。福代こと「福(とみ)さん」はそのとき十五歳になっていて、祖母に似て大変利口でしっかりした子であった。小学校を一番で卒業しており、自分では県立萩女学校へ入りたかったが、婆様の鶴の一声、絶対に逆らえなかった。村で有名だったこの佐伯の婆様について、福さんは八十年にもなろうとする昔のことを生き生きと話してくれた。

 「弟がまだ小学三年生の時でした。夕方暗くなって帰ってきました。『こんなに遅くなるまで何処へ行っておったか』祖母はひどい剣幕で弟を叱りますと、弟は『校長先生の所で遊んで居った』と申しました。弟と仲良しの子がおられたからです。『校長先生ともあろうものが、日が暮れてもよその子を遊ばすとは何事か、それでもお前が早く帰らんのが悪い』こう言って弟の片手を掴んで川向こうの小学校の運動場まで引っ張っていって、鉄棒の柱に弟を縛り付けて、後も見ずにすたすたと家に帰ってきました。
  私としては手が出せませんが心配で家の陰から見ていました。隣家の爺様も一部始終を見ていたのです。少し経って弟を連れて来て、『儂が代わりに詫びを入れるから、この度だけは許してやってくれさい』と祖母に頭を下げて言われたので、祖母も仕方なく許したことをよく覚えています」
 
 今ならさしずめ児童虐待でとやかく言われるであろう。このような祖母に鍛えられたから福さんもしっかりしていたと思われる。

 「先生の第一声は、看護婦の仕事は、人命を預かる医者の仕事を忠実に守り、細心の注意をして絶対に間違いのない様に補佐することである。その為には先ず「ハイ」と返事をし、云われた通り必ず復唱し、聞き間違いのなきこと、と軍隊式そのものでありました。緒方先生はとても厳格で責任感の非常に強いお方で、その信頼度は村でも大変評判になっていました。

 村の人も先生に診て頂いたら安心して療養に努めたものでありました。宇田郷は部落があちこち点在しているので、いざ急患となると暑い寒いも云われずに、井部(いぶ)田(た)や畑(はた)のような遠い部落へも山坂越えて往診をされて居られましたが、そんな時は先生の背中を後ろから押し乍ら、患家までお伴をしたものでその苦労は大変なものでありました」

 

 さらにもう一人別の女性の話を紹介しよう。彼女は福(とみ)さんより一学年下で、平成二十年八十六歳で亡くなった。やはり宇田小学校を卒業と同時に緒方医院へ看護婦見習いとして入った。彼女も成績は非常に良かった。家は漁師で貧しかった。西村フユ、通称「フユさん」と呼ばれていた。色白で可愛い靨のある明るい彼女の笑顔を今でも覚えている。

 

 彼女は終戦助産婦の資格を取得して、故郷の宇田郷村(その後町村合併で阿武町となる)で、実に六十六年の長きにわたって医療の仕事に携わり、平成三年四月に、春の叙勲で宝冠章勳六等を授かった。筆者が生前老人医療センターに見舞いに訪れたとき右手を出して見せて、
 「この指をご覧なさいませ。このように第一関節が皆『く』の字に曲がっていますでしょう。これは赤ちゃんを母胎から引き出すとき、その頭をしっかり持って引き出さなければならないからです。私は二千人の子を取り上げました。」と、慎ましくも誇りを持って語った。

 

 

(四)

 ここで二人からもらった手紙と直接会って聞いた話を通して、惟芳の人となりなどをさらに詳しく見てみることにする。福(とみ)さんが惟芳から開口一番看護婦としての心得を注意されたことは先に述べたが、フユさんは手紙で次のようなことを書いて寄こした。

 「昭和十二年四月に小学校を卒業して早速緒方医院に勤める(見習看護婦として)ことになりました。私が緒方医院に勤めるようになった最初の日に先生が、『当時の青年学校に入学するほどの勉強はさせるからどんな辛い事があっても辛抱しなさい』と、諭されました。ところが一週間ぐらい経った頃、他の看護婦さんが机の端に置いていた医療器具(洗眼ビン)に私は触れて、それを落として壊したのでひどく怒られ涙がぽろぽろ出ました。そのとき先生が『悔しいか』と言われました。私は『いいえ嬉しいです』と言いましたが、私は怖くて自分の家に帰りましたら先生が迎えに来られました。これが私の第一印象でした。先生は軍医だったので大へん厳しい人柄でした、しかし先生のお陰で看護婦の試験に一回で合格することが出来ました」
 
 福さんは私に、「私は緒方医院に六年間勤めました。最初の頃二階の物干し台から丘の上のお寺が見えます。その丘の麓に私の家がありますから、我が家恋しさに涙を流しました。しかし祖母は私が立ち寄ることさえ頑として許しませんでした。お正月とお盆の二日だけ家に帰ることが出来ました。だから六年間で十二日お暇をもらっただけです」と、当時を懐かしむ様に語ってくれた。
 
 フユさんも手紙の中で次のように述懐している。 
「現在のように土曜、日曜など全くありません。一年中無休でお盆も正月もありません。当時は宇田郷地区は車も何もありませんので徒歩で往診しなければなりません。田舎で遠い山坂を一人の病人の為に三・四時間もかかって往診することが度々ありました。厳しい先生でしたが心はほんとうに優しい人で、特に病人に対しては上下の隔てなく診療しておられました」
 

 フユさんの言葉は続く。
 「私等にも食事や私生活は全部一緒でした。食後はいつも世間話で処世とか人にたいしての心得をよく話して下さいました。あるとき珍しい御菓子を『食べさい』と言って下さいました。『坊ちゃんにあげて下さい』と言ったら、『まだあるから食べさい』と言われました。上等の生菓子なんかめったに口に入れるどころか、見ることも出来ないので、今でも忘れられません」
 
 福さんは実にしっかりした字で次のような事も書いて寄こした。
 「日本海の冬の海は毎日が大時化続きとなります。毎日緒方様の夕食のお魚は、二・三軒先の梅六と呼ばれる魚屋さんが引き受けで、どんな時化でも一年中品切れにならぬ様に港の中に魚が活かされてありました。先生が往診でご帰宅が遅い時は坊ちゃん方は夕食を先にすまされ二階の勉強室で本を読んで居られます。私達と先生方の食事になりますが、時化の時は先生だけしかお刺身がつきません。先生が私達のお皿に目を向けられると奥様が、今日は先生だけで子供達にもお刺身は有りませんとおっしゃると、先生は、『ネーヤ(注:女中のこと)や皆(みんな)が居てくれるので儂達が助かって居るのだ』と、御自分のお箸で一切れずつ私達の口に入れて下さった温かい先生のお情けは今でも忘れる事が出来ません」
 
 フユさんの手紙に「先生のお陰で一回で看護婦の試験に合格できた」とあるが、福さんは具体的こう書いている。
 「私達三人は夜は二階で看護学の勉強をすることに決まっておりましたが、昼間の疲れでいつの間にかうたた寝となり、下から柱を叩かれても聞こえず、高い階段を上って来られる先生の足音で吃驚してとび起き、充血した赤い目が寝ていた証しで大叱られし気まずい思いをしたものです」

 惟芳は預かっている彼女達が、将来家庭に入るべき者として、行儀・作法などを身に付け、女性としての躾や嗜みを習得すべきだと考え、この事を妻の幸に一任した。この点幸は適任者だったと言える。彼女については本稿の最後の章で少し書いてみたい。
 先ずフユさんの手紙には、「奥様は私が奉公に行った時からとても親切に女として、行儀・作法を教えて戴きました。又他の病院では出来ない生花、謡曲等も教えて戴きました」とある。

 福さんはもっと具体的に述べている。
 「先生は私達に『あんた達がうちに居る間に色々な事を奥さんから習っておきなさい、何でも役に立ち、何処へ行っても辛抱できるから』と私達の先のことまで心配して頂き本当に有難く思ったものであります。また奥様は明治時代の典型的な日本女性の鑑(かがみ)とも云えるお方でありました。午後の往診のない時には、私達にお花やお茶、お作法など女の嗜みとして教えて下さり、私達の部屋の襖にも、“言葉を選みて静かに語り、礼儀を守りて寂やかに行ふ”と紙に毛筆され貼り付けてありました。従って襖の開け閉めにも心せざるを得ませんでした」
 
 宇田郷村のような小さな社会では、村長、小学校長、警察署長、駅長といった公職についている者と同じく、嘱託医の惟芳も、何か行事があれば来賓として招待された。そうしたとき無芸で酒ばかり飲んでいては座が白けるのではないかと妻に言われて、惟芳は謡を習う事にした。

 

 渡辺福代さんに会ったとき、次のように話してくれた。 
 「時折山口市下立小路より喜多流謡曲師範内田五郎先生をお迎えになり、お二階でお稽古されておられました。私達もそのお陰で謡曲をわからないままに教えて戴きました。若い時なので忘れることなく、今でもお目出度いお席など役に立たせて頂いておりますが、緒方様との御縁は私の生涯心の糧として消えることは有りません」
 
 話は逸れるが、平成二十年五月八日、新山口駅宇部市から来た従兄の正道と落ち合った筆者は、九時六分発の新幹線で福山駅まで行き、そこからバスに乗って目的地の内海町横島に向かった。バスはやや丘陵地の田舎道を走った。しばらく走ると内陸部が突然開けて瀬戸の海が見えてきた。今度は海沿いの道をしばらくの間走行した。バスは非常に立派な近代的な橋に差しかかった。橋の中央部分が「く」の字に曲がった珍しい橋である。この橋は本州と瀬戸内海の田島の間に架橋されたものである。これを渡って又暫くバスは走った。今度はやや小さな橋が見えた。この橋が目的地横島への架橋である。これを渡ると直ぐにバスは指定されていた内海町農協前で停車した。時刻はもうすぐ正午であった。初めての場所は人を多少不安にさせる。
 

 バスを下りるとその辺りは海の香というよりむしろ魚の干物の匂いがした。福さんの色艶のいい笑顔、しゃんと背筋の伸びた姿、明るくて大きな声、これらに接して、先刻の気遣いは一瞬にして飛散した。彼女はとても八十七歳の老媼には見えない。背丈もかなりある。自転車をついて出迎えてくれていた。案内されて彼女の家へ向かった。山手の方へ少し傾斜した狭い坂道をものの十分も歩いたら、円い大小の石を数多く壁土に塗り込んだ、厚さが八十センチもあるような土塀に囲まれたやや古い屋敷が見えた。これが彼女の家である。家の前の道をもう少し上った先にお寺の黒っぽい甍が銀杏の青葉の陰から光って見えた。そこは渡辺家の菩提寺で、後ほど我々は参詣した。周囲を土塀で囲ったこの大きな家に、彼女はたった一人で住んでいると言った。
 

 門構えの立派な家である。「大万屋」という門札が掲げてあった。この島でこの屋号を知らない人はいないというから、可なり由緒のある家のようである。門を潜ると正面に平屋の大きな構えの家が見えた。前庭が広くて立派な石組みの築山と前栽として躑躅が紅白の花を咲かせており、ソテツの大きな植え込みなど、鄙びた感のある漁師町でこのような構えの邸宅に一寸違和感を覚えた。
 

 後でも述べるが彼女は国立岩国海軍病院に看護婦として勤務したとき、指導教官であった人と知り合い、昭和二十年終戦の年に、宇田郷村から夜行列車に揺られながら、この瀬戸内海の離れ島(その当時は前述の橋はなかった)に小舟に乗って嫁入ったのである。それからの苦労は並大抵ではなかったが、生来前向きで利発な彼女はそれを乗り越えて来たようである。話を戻そう。
 
 「まだ緒方医院に入って一年も経たないときでした。その日の仕事も一段落し、片付けも終わったのでので、診察室の寝台の上で枕に頭を載せて、『ああいい気持ち』と言って横になっていたら先生に見つかって、『そこはお前が寝るところか?』『ハイ、分かりました』と言って飛び起きました。また毎日掃除が終わった夕方、使用済みの脱脂綿やガーゼなどを不潔缶に入れて海へ捨てに行きました。今なら不法投棄でいけないことですが、あのころは皆捨てたものです。ハッハッハ」

 

 彼女はこう言うと大きな声で笑った。実に愉快なおばあさんである。
 「フユさんと二人でこの不潔缶を提げて行きました。捨てる場所は人道のトンネルを抜けると直ぐのところで、道路から海面まで七・八米もある崖下に『一、二の三』と言って放り投げるのですが、強い風が海から吹き上げてくる日など、折角投棄した汚物が舞い上がって私達の上に落ちてくるような事もありました。頭の上に降りかかるものですからこうして払いのけました」
 こう言って昔を思い出すように彼女は両手でその仕草をした。ここで従兄が話に口を差し挟んだ。
 「この場所は『寄り仏』という名で呼ばれておった。潮流の関係か風の吹き具合によるのか、時化などで難船し腐乱した遺体がよく漂って来た場所です。そうすると須佐の警察署の者が来て調査していました。また風の強かった翌朝そこへ行ってみると、サザエやワカメといった海藻が道の上にまで沢山吹き上げられてゴロゴロしていました。今では考えられないことです」
 福さんの話は続く。
 「人道のトンネルに差しかかるとそこで道は曲がって、振り向いても人家が目に入りません淋しい場所です。そこで私はフユさんに声を掛けて、『フユさん、誰もいないし、誰にも見られないから、謡の練習をここでしようや』といって、トンネルの中で大きな声で謡ったものです。小学校を出たばかりの女の子のそんな光景を見た人がいたら、さぞかし変に思ったでしょう。ハッハッハ」

 またしても大きな声で笑い出した。とにかく愉快な人である。とても老婆とは思えない。我々はその日彼女の親戚が経営しているレストランで夕食の馳走になりながら、彼女の話に聞き入った。波の音が窓外に聞こえ、対岸の造船所の灯りが夕まぐれの彼方に見えた。瀬戸内は干満の差が著しい。この海中に支柱を立ててその上に建てられた食堂から外を見ると、すぐ目の前の防波堤はその基底部も露わに、牡蠣の白くくっついた跡が見えた。また海底の砂の上に貝殻や小石が散らばっていて何か雑然として汚れた状態であった。朝起きてこの同じ食堂からの眺めに驚いた。潮が満々と湛えられ、水位の高まった海面が美しく拡がっていた。昨夕とは全く違った光景であった。その上しとしとと小雨が降っていて、瀬戸内の情緒をかき立てるようなものがあった。つまらない風景描写だが、日本海岸ではこうした目立つほどの干満の差はない。

 「私は緒方医院に六年間お世話になりました。その後萩市の玉木病院で外科や産科など看護婦になる為の総合的な勉強をして、山口市の日赤病院付属の看護婦養成校を志願しました。八百人受験して合格したのは八十人だけでした。そのとき婦長さんのような方に呼ばれて、これを入学式で読みなさいといって宣誓書を代表で読まされました。
 

 入学式のあと歓迎会の催しで、都会から来た人の中にはピアノを弾いた人もいましたが、私は他に藝がありませんから、『よーし、緒方先生の奥様から習った謡曲をここで謡おう』と思いまして、謡曲『三千歳』を一生懸命に謡いました。
そうしますとね、それまでざわついていた会場が水を打ったようにシーンと静かになり、来賓の県知事さん以下お歴々の方がジーッと耳を澄まして聞き入って下さいました。田舎出の小娘が堂々と謡曲を謡ったので吃驚なさったのでしょう。

 

 看護婦養成校を卒業しますと、その後正規の看護婦として国立岩国海軍病院に召されました。宇田から女で召集されたのは私が初めてでした。武運長久・佐伯福代と私の名前を大きく書いた幟を立てて、村の人が沢山駅まで見送りに来られ、私は歓呼の声に送られて故郷を後にしました。あの時の感動は今でも忘れられません」
 福さんはこう言って、「召集状」を取り出して来て見せてくれた。普通の縦長の状袋だが所謂「赤紙」と言われるもので薄いピンク色で、表書きに「阿武郡宇田郷村大字宇田一五四七ノ一 佐伯福代殿」と達筆の筆書きで、その傍らに「召集状 本人不在ノ場合ハ家族又ハ同居者ニ於テ開封セラルヘシ」と小さい字で印刷してあった。差出人は、日本赤十字社山口支部とあった。召集状の内容を見せて貰ったので参考までに記しておく。

     應召ニツキ注意スヘキ事項

一、携行品ハ理髪用具以外ハ出来得ル限リ數量ヲ減少シ手提「トランク」一個ニ納マル限度トスルコト
二、公用衣服行李ヲ支部参着ノ上貸與ス其ノ中ニハ給與又ハ貸與ノ肌着、靴下、看護衣、外套其他服装用品ヲ容レテ尚約半分ヲ餘スニツキ前記「トランク」に納マラサル必要缺クヘカラサルモノアル際ハ風呂敷包等トシテ支部迄携行セラルルコト
三、汽車割引證ヲ切符購入ノ際出札係ヘ差出シ五割ノ減額ニ利用セラルルコト
  (この横にペンで「支払タル金額ヲ記憶シオカルヘシ」の記載)
四、参着時刻ヲ厳守スルコト
五、印章、社員章ノ携行ヲ忘レサルコト
六、派遣先ハ岩国海軍病院ナリ
七、制服類ハ本日小包ニテ発送セリ(この事項は線を引いて消してあった)
八、市町村役場ニ召集通報ヲ發送セルニ付挨拶ニ赴ク方可ナルヘシ
九、出発ハ四月三十日山口驛發八時三十三分
                    
彼女はこの令状に基づいて出征したのである。


                  

(五)

 話を福さんに戻そう。海軍病院で勤務したのは僅か半年のことであるが、彼女は廣島に投下された原子爆弾の「きのこ雲」が立ち上がる様を、避難していた病院の近くの小高い丘の上からつぶさに見たとも言っていた。その後被爆者が多く担ぎ込まれて病院は大変だったこと、そのために全く休む暇無く働いたことなど語ってくれた。記憶力が非常に良いのには全く驚かされる。

 

 終戦の年に彼女は前にも述べたように、病院で上司であった海軍軍人と結婚した。その後の彼女の人生について少しだけ付言すると、舅となった人はこの島では有名人で非常に体格のいい人であった。先妻に五人、後妻に五人の子供がいたが、二人の奥さんに先立たれ、九十五歳まで長生きされたので、先妻の長男だった福さんの夫が六十歳で亡くなった後、彼女はこの舅をはじめとして、義理の弟や妹の面倒を一人で見た。彼等の中には対岸の倉敷の学校へ連絡船で通学するのもいたので、毎朝四時に起きて弁当を六個作ったとも言っていた。福さんには実子が無いが、年の離れた義理の弟や妹たちを可愛がったので、今はそのお陰でかれらによくしてもらっているそうである。
 

 こうした母親代わりのような仕事が片づくと、島にある病院で看護婦長として勤め、また女性でありながら地区の自治会長に推されたこともある。しかし今は悠々自適、趣味に生きた楽しい日々を送っているとのことであった。
筆者はその後数年間文通を続けていたが突然途絶えた。もしかしたら亡くなられたのかも知れない。もしそうなら心から御冥福を祈る。

 

 最後に「村人たち」の長(おさ)である中山発郎村長と惟芳との交友関係について書いてみよう。 前章の冒頭で述べたように、惟芳を宇田郷村の村医へと懇望したのが当時の村長中山脩三であった。その後、清水百合七、小川十郎、さらに小野安三郎と続いて、昭和十一年四月八日に脩三氏の長男の発郎氏が宇田郷の村長に就任した。
 

 筆者は平成十七年五月に発郎氏の御子息で元阿武町の町長であった中山修氏を宇田郷のご自宅に訪ねた。親子三代にわたって、同じ町村の長であったのである。低い丘の上に自宅があって、丘の斜面は石垣で築かれている。丘の麓は今は空き地だが、以前そこには村役場があった。中山氏が自分の地所を提供したのである。従って村長は自宅の玄関を出て坂を下って毎日出勤していたのである。道路脇に車を駐め、やや急なこの坂道を上って中山氏を訪うた。修氏はもう閑職で読書や囲碁を楽しんで居られ、悠々自適の余生を送っておられるように見受けられた。従兄の正道とは竹馬の友と言った関係であった。最初から打ち解けて、質問にこころよく答えてもらった。心の寛い社交好きな人に思えた。
 
 「親父は中山発郎(いつろう)と申します。明治十七年一月十五日生まれです。正道君のお父さんは明治十六年ですか? 親父は中肉中背で村長になって顎髭を伸ばしました。はじめは短い髭でしたが、蒋介石に似ているからと言って、南京陥落の時から長くしました」
 中山脩三氏が見事な美髭であったように、発郎氏の髯も白くて目立つほど美しかったのを筆者は微かに覚えている。写真で見ると脩三氏の厳格な様相に比して発郎氏の方はもっと穏やかな風貌である。
 「山中(旧制山口中学校)を卒業して推薦で盛岡高等農林(現岩手大学)に入りました、第一期生でした。林野庁に入って、長野営林署、静岡営林署(修氏は静岡で生まれる)さらに廣島営林署と勤め、ここが最後でした。当時造林を国是とする動きがありました。ドイツの造林事業を範としようという上司に対して、『日本はドイツのような平原ではない』との異なる意見を主張して意見が合わず、結局親父は停年(五十五歳)を待たずに五十三歳で辞職しました」
 
 正道の話では、「転職、転職では子供に故郷というものがなくなるから、子供のためを考えて宇田に帰ることにした」との理由もあったようである。
 
 「当時、村長は選挙で選ばれるのではなくて、県議会が任命していました。それで親父は村長に命じられたのです。県知事は国が命じていました。これまで知事が県下の視察に来ると村の主立った者が総出で田部まで出迎え、『閣下、閣下』と歓迎の意を示していましたが、親父は一人で行っていました。民選の初代の山口県知事は田中龍夫です」
 当時村役場に勤務していた正道が、「村長の中山さんは、『今から県知事の誰(だれ)某(それ)君(くん)に会いに行ってくる』と言って、いつも気軽に出かけておられた。それというのも中山村長の方が県知事より階位が上だったから」と言っていた。今から考えると珍しいことである。
 
 「親父は優しい人柄でした。声がかすれていましたが、これは山中時代に水銀を飲まされて声帯を傷めたためだったのです。歌は上手かったです。宇田には部落が十三あります。毎月夜一度、部落の集会に出向いていました。そうした集会には緒方先生、郵便局長、小学校長、駐在署長、駅長なども出席され、部落民と誠意を持って話し合っていました。部落の家々が点在していますので、廣島で買ってきた手回しのサイレンを鳴らして集会の時間を知らせるのに利用していました。父は歩くのが好きで遠くの部落まで夜歩いて行っていました」
 
 惟芳については、修氏は次のように言っていた。
 「緒方先生とは気が合うのでしょう。看護婦さんが前もって打診に来て、その後先生が話によく見えていました。碁を一局といったこともあったかも知れません。いつも二人は正坐で向かい合って話しておられました。戦時中のことですから、軍事国債とか愛国婦人会、あるいは米の供出など問題が多かったと思います。また疫痢など伝染病がよく発生していましたから、川で食べ物を洗ったり、刺身を作ったりしないようにと、衛生面のことも話し合われたでしょう。」
 「私が陸士(注:陸軍士官学校)に入ったとき、『馬はね、坊ちゃん、馬鹿にすると、反対に馬鹿にしますよ』と言われたのをよう覚えています。少し乗馬の練習をしようと思って田部(たぶ)の馬に乗って向きを変えたとき落馬して、先生に手当をしてもらいました。ハッハッハ。父も先生も共に礼儀正しかったです。お互い尊敬しあっていたようですね」

 村長と惟芳が年齢的に近かっただけでなく、共に幼いときからの厳しい躾と礼節を貴ぶ家庭に育ったことが、こうして肝胆相照らし、お互い信頼と尊敬の念を生むに至ったものと考えられる。

 数十年振りに訪れた宇田郷は惟芳が診療していた頃とは違って、日本海岸にひっそりと淋しげに横たわっていた。その日は穏やかな天気で、昔ながらの澄んだ青い海は美しく、寄せ来る波の音のみ聞こえてきた。
 

 以前この村はそれなりに活気があった。こうした有様はここだけの話ではない。我が国で一般に見られる衰退していく村落の現状である。しかしそうした場所で真摯に生活していた人々の哀歓の歴史は、語り継がれて欲しいものである。

 

注1)終戦後から昭和30年頃までは、宇田浦の大敷網の船は、10人乗り2艘、13人乗り1艘あった。その頃は手漕ぎで沖合約3㎞の姫島の北の日本海で、定置網で漁をしていた。網に入った魚は何でも捕っていたが、冬場の鰤漁が主体で、漁が好調であったときなど、1日にⅠ万匹以上の水揚げがあった。
 漁にでるのは9月中旬から翌年の7月頃までで、夏は午前5時頃、冬は午前7時頃から約一時間半の作業であった。手漕ぎの時代は時化の時には転覆の事故なども有っ    たが、昭和30年以降、エンジン付きの船になってからは事故は一度もない。冬場は    時化が多いので人命第一で危険と感じたら出漁は控えた。
 8月下旬頃より次の漁期に向けて準備の為に、「前仕事」と呼ばれる仕事を1日8    時間くらいしていた。現在は漁業を取り巻く環境が厳しく、平成15年以降、50年    続い大敷組合もついに廃止となった。
(以上の事は、宇田郷在住で萩中時代の級友・角力庄一君から教えてもらった)