yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 第十二章「硫黄島への軌跡」

(一)

 繰り返して言うが、惟芳が先妻のシゲと結婚したのは大正二年一月である。第一次世界大戦が勃発する五カ月前の事である。シゲは二人の男の子を生んだ。長男の芳一が生まれたのは大正三年四月である。寅年生まれである。次男の勇夫は大正七年十月に生まれた。しかし同じ年の大正七年十二月五日に惟芳の母であるマサが六十二歳で亡くなった。彼は萩で開業するという母との約束を結局果たすことが出来ず母を送った事になる。

 

 長男の芳一にとってかけがえのいない弟の勇夫が、大正十三年六月わずか六歳で亡くなった。芳一は弟の死に悲痛の思いをし、声を挙げて泣いた。彼には此の後さらに悲しい運命が待ち受けていたのである。母親のシゲがその翌年、大正十四年五月二十七日に不帰の客となった。三十一歳の若さであった。  

 

 遺体を安置した部屋に親戚の者たちが集まっていた。芳一もその場にしばらく座っていたが、何だか居たたまれない気になってこっそりと抜け出した。彼の足は日頃小学校の友達たちと遊び廻っていた裏山へと向った。山への登り道は一家が住んでいる診療所の直ぐ後ろにあるので、彼にとっては我が家の庭続きといった感じの場所である。裏山の先端はそそり立つ崖となって海岸にまで伸びている。その崖下を掘削してトンネルが作られたのは、昭和八年に宇田郷駅が開設され山陰線が開通した時の事で、これについては「第九章」で述べた。そのお陰で宇田から須佐への海岸沿いの道が近くなり、また通行も便利になった。トンネルの出来る前、この岩山の上の松林が子供たちの格好の遊び場であった。ガキ大将の芳一は此の崖の上に高く聳えている大きな松の木に登るのを好んだ。

 

 此の日も彼は黒松の太い幹の途中、根元から三メートルばかり登り、そこから海に向かって伸びている直径二十センチほどの枝に跨り、幹に背を凭せかけて、いつものように両足をぶらぶらさせているうちに、なんだか無性に悲しくなった。
 「お母さーん お母さーん」 
 彼は沖に向かって大声で叫んだ。沖から波頭を押し立てて次から次へと白波がやってきては、崖下の岩に砕ける。その砕けては散る波の音は、彼が座っている樹上においても聞こえた。しかし沖から強く吹き付ける潮風によって、彼の叫び声は打ち消され、路上を行き来する村人の耳には入らない。路上から彼が位置しているところまでは、優に二十メートルを超える高さである。下を見れば道行く人影が小さく見えた。ふと彼は泣き叫ぶのを止めた。彼は急に黙り込んで眼をつむり、亡き母の面影を脳裡に描いた。

 

 小学校五年生になった時のことである。芳一は、昼弁当を食べ終えると、クラスの仲間たちと、学校から道を隔ててすぐ前にある八幡様の境内へと走って行った。社殿に向かって左側に、枝を四方八方に伸ばした大きな樟の樹がある。その日も彼等はそれに登ったりして「かくれんぼ」をして遊んだ。休み時間の終わりを告げる鐘の音が聞こえてくると、皆一斉に教室に向かって駈け出した。
五分後には担任の先生が来られる。その前に教室に戻っていなければいけない。芳一は便所へ行く時間がないので、手早くすまそうと思って、校門を入ってすぐ左手にある池に向かって小便をし始めたが、それを学級担任の村上先生に見つかった。

 「芳一! こら待て。池の中に小便をするとは何事か! こっちへ来い。」
 先生はそう言って自分の教室の方へと足早に歩いた。芳一は言われるままに担任の後について行った。
 「放課後先生が来るまで、おとなしく此処に座っておれ!」
 厳しくこう言って先生は隣の教室に芳一を閉じ込めた。この部屋には天皇・皇后の御真影が安置してあった。宇田郷村は貧乏村であるために、奉安殿を作るゆとりがないので、さしずめ普通の教室を整理して御真影を安置していたのである。
夕方になり日も暮れて部屋の中は薄闇に包まれてきた。御真影がぼんやりと霞んで見える。芳一は先生が放課後来ると言われたので、黙然と座って待っていた。村上先生は帰宅して、その日も無事に終わりやれやれと思った途端に、芳一を罰として居残した事を思い出した。彼は取るものも取りあえず学校に駆けつけて、芳一のいる部屋のガラス戸を大急ぎで開けた。
 「バー!」
 暗闇の中から大きな声がした。芳一は幽霊の手つきを真似て先生を脅(おびや)かそうとしたのである。

 

 十数年後、担任の村上先生が、偶然にも芳一の弟の幡(はた)典(のり)の担任になった時、上のような事があったと彼に話した。

 「お前の兄さんは全く腕白だったよ。手に負えなかったなー。あの時ばっかりは驚いた。戸をあけた途端に、暗がりの中から、お前の兄さんが大きな声を出して、こうして幽霊の手つきで出たもんだから」

 日が暮れても帰らない我が子の安否を気遣って、母親のシゲはその日、何回も玄関前に出てみたのである。暗がりの中から芳一が「ただいまー」と大きな声で叫んだとき、ホットと一安心したものの、遅くなった理由が分かると、彼女は芳一に言った。
 「芳一、お前は為(し)て良いことと、悪いことの区別が出来ないことはなかろう。なんぼ便所へ行く時間がないからといって、鯉の飼ってある池に小便をするとは何事か。これは決して許されることではないよ。明日私が学校へ行って先生にお詫びをするが、此の事はお父様には言わないでおくからね。まだ往診からお帰りでない。帰られたら夕飯にするから、先にお風呂に入っておきなさい」
 
 またこんな事もあった。芳一は父に似て同級生の中では飛び抜けて背が高かった。従って腕白もそれ相当なものであった。医院の隣に中野誠という同級生がいた。二人が喧嘩して中野君が泣きだしたら、彼の父親が芳一を追っかけてきた。芳一は素早く我が家の二階へ駆け上がって、大きな声で叫んだ。
 「子供の喧嘩に親が出た!」

 一方勉強もよく頑張っていた。当時小学校で、一年生から六年生まで同じ試験を受けて、合格したら上級の試験を受ける制度があった。不合格の生徒は放課後補習を受けなければならなかった。彼は何時も自分の在籍する学年に相当する試験はもとより、更に一学年上の試験にも合格していた。こうした点でも芳一は誰からも一目置かれる存在であった。

 

 しかし彼がいたずらをした時、いつも母が先生や近所の人にお詫びに行ってくれていた。その母が今急にいなくなった。悔いても始まらない。芳一はすまないことをしたと心底母に詫びた。生前何かにつけてかばってくれた優しい母が、今忽然と姿を消したのだ。芳一は今更ながら我が身の不幸を嘆くとともに、死んだ母に対して申し訳なかった、もっと孝行すべきであったと思うのであった。

 

 葬儀が終わり父と親戚の者たちが帰った後、松の木から下りた芳一は、悲しい気持ちを抱いて我が家に入った。それから数日間弔問客の来訪など人の出入はあったが、その後は、午前中患者が来る、そして午後になれば父は往診に出かけるという、今までと変わらない日課が繰り返されるようになった。そうなると学校が退(ひ)けて帰宅した時、家には家事の世話をする女中以外に誰もいない。昨年までは弟もいた。つい先日までは家に帰れば母が待ってくれていた。しかし今は天涯孤独の感じである。彼は近所の友達と遊ぶのも控えるようになった。

 

 母が亡くなった年の十二月、翌日から冬休みに入るというので、芳一は寂しさ半分、楽さ半分の複雑な気持ちであった。終業式が終わって家に帰った芳一に、父の惟芳が待っていたかのように呼びかけてきた。

 「芳一、ちょっと来なさい」 
 彼は父の後から居間に入った。
「芳一、そこへ座りなさい。これから話すことは大事な事だからしっかり聞くのだ。分かったか」
 「はい」
 芳一は素直に返事をした。
 「最近お前の日常生活を見ておると、どうも前ほど元気がない。恐らく弟が亡くなり、またお母さんが居なくなったことが原因だと思う。私としてもお前の気持ちは分からんでもない。きっと寂しかろうし又悲しいことだろう。しかし芳一、ここが大事な事だ」

 こう言って惟芳は芳一の顔をじっと見た。息子はやや不安げに父に目を向けた。

 「お父さんは中学五年生になった時、自ら決心して学校を中退して家を出て、長崎にある造船所で働いた。今のお前の年齢から言うたら未だ先の事だが、十八歳の時だ。それから二十歳(はたち)になった時軍隊に入って満州まで行って戦った。
その時の事だが、銃弾に当たって負傷した兵士を担架に載せて運んでいたとき、相棒が突然あっと言って前のめりに倒れた。敵の撃った流れ弾に当たったのだ。お父さんは咄嗟に身を伏せて、銃声の止むまでじっとしていた。その後無我夢中で負傷者を一人で担いで仮包帯所まで運んだ。一方倒れた相棒はもう手の施しようがなく即死していた」

 ここまで惟芳は一気に話した。少し間をおいてまた話を続けた。

 「戦闘が終わって穴を掘って相棒の死体を埋めた。こんな事がしばしば戦場ではあったのだ。芳一分かるか?人の命というものは一寸先が闇だ。今の今まで元気でいたものが眼の前で死ぬことがある。そうした時、何時までも泣き悲しんでいたら、何も出来はしない。悲しさや苦しさに耐え、それを乗り越えなければいけない。生きて行く上ではこうしたことがよくある。これが人生というものだ。今のお前にはまだ難しいことかもしれん。だがよう聞くのだよ。武士の子として生まれたお前は、強い心を持たなければいけない。此の宇田郷村では、村長の中山さんのところと、緒方家だけが士族で侍の血が流れて居る。何時までもめそめそしていたら御先祖様に申し訳ない。分かったか。それに来年三月には、お前は萩中学校を受験しなければならない。気持ちを引き締めて勉強しないと通らんぞ。まず中学校に合格することが亡くなったお母さんへの孝行になる。お父さんはそのように思う」

 

 惟芳は以上の事をじっくりと息子に話して、深い慈しみの眼を彼に注いだ。母が生きていた時は、優しく諭してくれるのは母であり、父にはいつもひどく叱られていた。しかし今日の父の態度は違っていた。芳一は父のこれまでと異なった一面を見た思いがした。そして今は頼りになるのは父の他には誰もいないと思った。と同時に、今後はなるべく父に心配をかけないようにしなければとも思うのであった。

 

 

(二)

 大正十四年の暮れのことである。当時萩町長であった土井市之進は、土井家と縁戚関係にある山本家を訪れた。土井氏は惟芳の後(のち)添(ぞ)えとして山本家の長女幸に白羽の矢を立てたのである。彼は日露戦争の時、日本陸軍の最初の将校斥候として活躍した。彼はラマ僧に変装して敵の情勢を探った歴戦の勇士で、金鵄勲章を授与された。後に少将にまで昇進したが、戦後請われて萩の町長になった。子供のいない土井氏は、この幸を養女にもらい受けたいと思っていた。しかし山本家の実情を考えて断念していたが、幸の先行きについてはかねてより気にしていたのである。同じ陸軍に籍を置いた身として、男の子一人残され、村の医療に携わっている惟芳の事を耳にすると、矢も盾もたまらず、幸を惟芳に引き合わせようとしたのである。

 

 幸が丁度一回りも年の違う惟芳のもとへ、その上先妻の忘れ形見とも言うべき男児、多感な年頃であった芳一のいる緒方家に入籍したのは、大正十五年二月十二日である。先にも述べたように、正道が生まれたのが同年の十月十九日であるから、結婚は土井氏の斡旋直後であった。幸にとってその年は悲喜こもごもであった。父の友一郎が二月二十一日に心臓病で亡くなったからである。享年七十四であった。嫁ぎゆく愛娘(まなむすめ)のことを気遣って父が語った言葉を、幸は父の死に当たり今改めて思うのであった。
 「幸(ゆき)さぁや、お前が三十歳(さんじゅう)にもなって嫁に行くようになるとは、縁がなかったものじゃのぅ。これまで色々と稽古事をさせたりしたのが却って仇になったのかもしれん。まあしかし、人間の運は分からんものじゃ。土井様のお陰でお前も嫁に行く事が出来て、わしは本当に良かったと思うとる。緒方さんは立派なお医者だと聞いとる。宇田郷という片田舎へ嫁にやるのは親としてせんない事じゃが、まあ辛抱してくれさい。この上は一人でも良い子を産んでくれたら有難い。やはり女に生まれたからには、自分の腹を痛めた我が子を持つことが一番の幸せじゃ。しかし聞けば、小学生の男の子が一人おると言うことじゃ。ええか、よー言うとくが、その子を我が子以上に可愛がってやらんといけんでや。どんなにその子が悪(わる)さをしても、決して叱りつけたりしてはいけん。ええか、この事だけは胆に銘じておきさいや。その内必ずなついてくるもんじゃ」

 

 幸の父は七十余年の比較的長い一生を送ったが、先妻との間にできた子に相次いで先立たれ、人生の苦しみや悲しみを人一倍経験していた。彼は人の悪口を決して言わない、また人が誰かの悪口を言って居れば、そっとその場から立ち去るといった情けのある人であった。その父が、こうして嫁ぐ前にしみじみと語ってくれた言葉は、幸としては決して忘れられないものであった。

 

 惟芳の先妻シゲは明治二十七年の二月七日生まれである。新しく迎えた幸はシゲより僅か一歳だけ若く、明治二十八年三月二十八日生まれであった。従って惟芳のところへ嫁して来た時、幸は当時としては行き遅れとも言うべき三十一歳であった。こうして土井氏の媒酌によって幸を迎えたこと、そして彼女が先妻とあまり年齢に違いがないことは、惟芳にとって有難いことであった。

 

 山本家の長女として生まれた幸は、大正三年三月、阿武郡立実科高等女学校(県立萩高等女学校の前身)を卒業し、大正四年四月、二十歳の時、生まれて初めて汽車に乗り、父に連れられて上京した。小堀遠州流の宗家で茶道を学ぶためである。彼女は父の姉の嫁ぎ先である三好家から小堀家へ通いながら一年間稽古を続けた。修行を済ませた大正五年にいったん萩に帰り、更に翌年には京都妙泉寺に宿して、池坊宗家専啓師に師事して華道を学んだ。こうして幸は、茶道、華道のそれぞれを宗家で学んだ後故郷の萩に落ち着くと、その後は父の指導の下、稽古を積む傍ら弟子たちを指導した。彼女は二十七歳で遠州流の奥義に達し、梅楽庵の庵号を授かり、山口県師範代になった。また三十歳で池坊の華道教授にもなった。こうして茶道と華道の師範として一人立ちが出来るようになったその矢先に、結婚の話が舞い込んだのである。

 

 現代なら、これだけの資格があれば、職業婦人としての道を選ぶのが普通であろう。或いは初婚の身でありながら、先妻の残した子供のいる齢の離れた人と一緒になるなど、今ではとても考えられないことではなかろうか。しかし当時は未婚の女性は暖かい目では見られなかった。幸は結局世間の常識に従って、惟芳の後妻として嫁ぐことに決めたのである。

 

 結婚後立て続けに生まれた三人の男の子の養育や医師である夫の手助け、更に太平洋戦争も酣(たけなわ)となると、国防婦人会の特別会員としての公務に忙殺されて、茶道や華道を顧みる暇は全くなくなったのである。

 

 茶・華道の修練が出来ないのは覚悟の上だが、これまでと全く違う境遇に身を置くことになった幸にとって一番気になるのは、やはり中学生になったばかりの芳一への気配りであった。また彼の祖母、つまり姑(しゅうとめ)の存在は幸の意識に重く圧し掛かってきた。結婚当初、いたたまれず我が家に帰りたく思ったこともある。しかし良き相談相手の父は亡くなり、今更離婚など考えることは出来ない。その内次々と、男の子が生まれてくるようになり幸は決心した。此の上は、村民の医療に骨身を惜しまず働いている夫に従って行こう、と。

 

 幸にとっての最初の子正道が生まれたのは、先にも述べたように大正十五年十月である。その年十二月二十五日、大正天皇崩御と共に年号が昭和に変わった。次に幡典が生まれたのが昭和三年一月十五日、さらに翌年の昭和四年十二月六日には三番目の男の子武人が誕生した。それから少し間をおいて昭和八年十二月十八日に待望の女の子の信子が生まれた。逝く者もおれば、生れ来る者もおる。悲喜こもごもこれが人生である。このように異母弟が次々に誕生して来た事は、芳一にとって、それまでの悲しい思いを次第に消してくれた。  

 

 彼は昭和二年県立萩中学校へ合格することが出来た。今と違い、宇田郷村のような田舎の小学校を卒業した者が、県立の中学校に入学するということは珍しかった。また通学に関しては、山陰線が開通したのが昭和八年二月のことであるから、昭和二年に萩中学校に入学した芳一には、中学在籍の五年間、列車通学とは縁がなかった。
当時、遠くの町村の出身者は、萩の街中に縁者があればその家に下宿するか、学校の寄宿舎に入る以外に通学する方法がなかった。

 

 芳一は田舎者で初めて親元を離れると言う不安もあって、最初の数ヶ月間、萩の街中に在った母幸の実家から通学することにした。十三歳と言えば多感な年齢である。父のあまりにも早い再婚は容易に受け容れがたい事に思えた。しかし芳一にとって、寄宿舎生活は、これまでと環境が違うというだけではない。上級生と下級生という絶対に越え難い壁に向き合わなければならない。このような厳しい現実が彼の前に立ちはだかるのである。この苦境に耐える事を考えたら、新しい母の実家から通学する方が、彼にとってむしろベターな選択であった。

 

 芳一が萩中学校へ入った時、幸の実家にいた母の京は未だ健在であり、弟の忠之は県立萩商業学校に勤めていた。そして幸と十三歳も年の違う妹の貞子がいた。貞子は県立萩高女を卒業したばかりであった。このほかに手伝の女性が一人いて、身を粉にして働いてくれていた。この女性は両親に幼くして死に別れていたが、幸の父が不憫に思って引き取り、わが家で面倒をみて結婚までさせたので、恩義を感じてよく来ては手伝ってくれていたのである。

 

 新たに親戚になった山本家の世話になることで、惟芳は芳一を連れて挨拶に行った。当時中学校に入った者は必ず保証人を必要とした。惟芳は義弟に保証人にもなってくれるように頼むことにした。忠之が教職についていたからである。その時惟芳は義弟に向かって、自分の教育方針を述べた。

 「芳一がこの度無事萩中学校に合格致したものの、通学について心配していました。しかし下宿させていただけるという事で安心致しました。また保証人についても御了承いただき有難うございました。何かとご迷惑をおかけいたしますが、何卒よろしくお願いいたします。」
 十四歳も年下の義弟に向かって、惟芳は律義に挨拶した。彼はそのような男であった。
 「保証人については私でなくても適当な方がおられましょうに」
 「いや、教職について居られる貴方が一番適しています。」
 「私でよければ喜んでなりましょう。芳一さんについては姉からも聞いています。たいしてお役には立てませんがよろしゅうございます」

 忠之は姉から前もって云われていたことだし、義兄の頼みを断ることはできなかった。彼は芳一の保証人になる事を了承した。その時惟芳は居ずまいを正して次のように言った。

 「私は子供の教育についてかねてより考えていることがあります。此の事を芳一にも話しておかなければいけないと思っていましたから、この際丁度良いから貴方にも聞いていただきたいのです」

 惟芳は傍らの息子に聞かせるつもりでゆっくりと話し始めた。 
 「私は教育の指針になるのは何と言っても教育勅語だと思っています。あの中に述べられています言葉は、じっくりと噛みしめるべきものばかりです。その中でも孝が一番だと思います。『孝は百行の本なり』と昔から言いますが、もとより親が子供に親孝行を押し付けるのではなく、自然にそうなるようになるようにしなければいけません。そのためには親がまず子供の事を考えて我が身を正しくしなければいけないでしょう。私は昔中学校で、貴方も御存知の安藤先生が、松陰先生の事をよく話されていたのを今でも覚えています。松陰先生の辞世の句『親思ふ心にまさる親心 けふのおとずれ何ときくらむ』を、先生が低唱されたのを今でも忘れません。松陰先生の行動の基は親孝行にあったのですが、先生のご両親が親として実に立派な手本を示されていたからでしょう」
 惟芳はこう言って少し間をおくと話を続けた。
 「これともう一つ大事なのは、人間はお互いに助け合わなければいけないと言うことです。私は日露戦争に行って多くの傷ついた兵士の手当てをしました。我が国の兵士だけでなく、負傷したロシアの兵士にも優しく接したら本当に喜びました。医者になろうと決心したのもそのためです。考えてみたら人助けは人間としての本務ではないでしょうか。孝行と仁愛を教える事が教育の根本だと思いますね。勉強は勿論大事ですが、自ら勉強をする気になるのは、子供によって早い遅いがあります。しかしこの二つの事は、先ず家庭で親が、そして学校に入ったら先生が子供にしっかり教えなければいけない事だと私は思います」
  
 その時の様子がよほど印象深かったのだろう。当時の事を思い出して忠之は、義兄が終戦の年に亡くなったとき彼の息子に話した。
 「どっちが先生か分からないようだったよ。緒方の兄様はおれに向かって、教育方針を諄々と諭されたものだから。兄様は見たところ厳しかったが実際は心の優しい人だった。一生を通して医は仁の道を歩まれた。仁とは慈しみの精神だからな。」

 

 

(三)

芳一が県立萩中学校に入学したのは昭和二年である。

 「入学者の選抜は試験によるものであり、募集人員百四十人、志願者二百二十人、入学者百三十八人、入学率六十二・七パーセントであった。しかし同年十一月二十二日、文部省の通達で中学校入学試験制度の改革が行われ、翌三年からは入学者選抜は第一段階は出身小学校における成績で適宜志望者を選抜し、第二段階として第一次選抜者に対して、平易な口頭試問による人物考査(常識・素質・性行など)と身体検査を実施することになった。」(『山口県立萩高等学校百年史』より)

 

 いずれの制度であれ、昭和の初期、中学校への入学者の数は現在とは違って格段に少なく、中学校へ進学した者のレベルはかなり高かった。この事は、卒業後の彼等の進路を見ればよく分かる。文武両道は歴代の校長の教育方針に基づくもので、芳一が入学した当時の萩中学校は運動の面でも大変活躍していた。昭和二年と三年には県の体育大会で総合優勝、四年には関西中学校陸上競技大会で総合優勝している。

 「萩中はもう県体には出場して欲しくない」と県下の他の中学校が言っていた。と芳一は弟の正道に語っている。確かに当時の萩中学校は文武両面で県下に名を轟かしていた。芳一が入学した昭和二年に第六代河内才蔵校長が就任した。校長は東京帝国大学文学部の卒業で、浜口雄幸元首相に風貌が似ているのでライオンのニックネームで生徒たちに親しまれていた。

 

 現在、萩高等学校のキャンパスに「百万一心」の石碑が建っている。よく見ると「一日一力一心」と彫ってある。これは「日を一にし、力を一にし、心を一にす」を意味するものである。河内校長はこの石碑を建てて「協同一致」の精神を鼓舞した。つまり校長は人の和を強調し、また生徒の個別指導を重視するなど、生徒の訓育と健康教育に意を用いた。

 

 この石碑については『山口県立萩高等学校百年史』に次のように記載されている。

 「百万一心」は毛利元就の語で、元就が中国地方一〇か国を領するにおよび、芸州吉田庄(広島県高田郡吉田町)の郡山城の姫丸壇を増築する時、人柱に代えて「百万一心」の語を石に刻んで埋め、城が堅固であるように願ったといわれている。またこの字を書くとき、これは仏語であるというので、特に百字の一画を除いて一日とし、全体を分解して、「一日一力一心」の六字に読ませ「日を一にし、力を一にし、心を一にす」という意味を兼ねさせた。すなわち、四字をもって「協同」をすすめ、六字をもって「一致」を教えてものである。(以下略)

 

 こうした環境のもとで芳一は五年間の中学校生活を送った。父惟芳の厳しい家庭教育の延長であるような雰囲気の中学校生活は、彼にとっては別に違和感はない。ただ当時は大正のロマンチズムが終わり、次第に軍国調の波が押し寄せていたので、学校でも配属将校による軍事教練は厳しさを増し、卒業生の多くが陸海軍への道に進んだ。卒業までに生徒は「教練検定合格証明書」を取得しなければ将来軍隊に入っても幹部にはなれない。芳一がその後大学を卒業し、近衛師団に入隊するに際しては、この「教練合格証明書」が物を言った。参考までに芳一の証明書を示すと、下記の通りである。

 

第一二〇號
教練検定合格證明書
本籍地 山口縣萩市大字堀内四〇一番地
緒 方 芳 一 
右ハ昭和七年三月三日當校(中等学校)卒業ノ際教練の検定ニ合格シタルコトヲ證ス
山口縣立萩中学校(所在地萩市
昭和十六年四月三十日  配属将校陸軍中尉 住本 勝 印


 さて、話はもとに戻るが、芳一が萩中学校に入学する前後に三人の弟たちが生まれた事はこれまで何度も述べた。これは彼にとって大きな喜びであった。 芳一には四つ違いの弟がいたが、その弟は小学校に入る前に亡くなっていた。このことにも既に言及した。芳一は大正三年生まれの寅年である。三人の異母弟たちの中で一番年上の正道も寅年であるから丁度一回り年が違う。芳一は遥か年下の弟たちを可愛がったし、弟たちは兄によく懐(なつ)いた。

 

 実家の周辺に住んでいる漁師たちの男の子は四五歳で皆上手に泳ぐのに、芳一は海を怖れて泳ぐことができない。これを見た惟芳は、小学校に入ったばかりの芳一の襟首を掴んで、波止の中ほどから海中に投げ入れた。こうしたスパルタ教育の事は既に述べたが、芳一が正道に泳ぎ方を教えたのは、そんなに手荒なやり方ではなかった。正道は次のように語っている。

 「私が兄から泳ぎ方を習ったのは、小学三年生の時でした。当時兄は日大の学生でしたが、夏休には帰省していました。兄は褌に長い紐を結び、その先に米研(と)ぎ桶をくくり付けて、海に潜ってサザエやアワビを採っていました。或る日兄は私を連れ出すと、肩に両手をかけて、両足を延ばすようにと言って、私を背負った格好で、沖へ向かって泳いで行きました。そこで、手を離し足を延ばして海水に顔を付けたら体が浮く、呼吸が出来なくなったら顔を上げて手足を動かしたら泳げると教えてくれました。海の潜り方も教えてくれました。昭和十九年戦争が烈しくなった時です。旧制中学校の三年生以上の生徒は動員で軍需工場に駆り出されました。私は小児麻痺で足が不自由なため、動員免除となり、宇田郷に帰省していました。食料が不足していたので、夏になると私は毎日海に潜ってサザエやアワビを採っていました。戦時中で元気な男性は軍隊か工場に行っていましたので、海に潜る人は全くいません。私のような素人でも一度潜れば大量の収穫がありました。私はサザエの身だけを取り出し、茹でて乾燥させ、当時硫黄島に従軍していた兄へ送りました。兄からの手紙に、中隊長の誕生日の祝いに皆で食べて、中隊長に喜んでもらった、とありました。昔兄に潜り方を教えてもらった恩返しが出来たと思います」

 

 もう一人の弟幡典も、兄芳一についての思い出を持っている。

私が小学生の頃、兄は医学生で上京中でした。夏休みに兄が帰ってくるのが何よりも楽しみでした。朝目を覚ますと母の「二階に良いものがあるよ」との言葉を聞くや否や、嬉しさのあまり二階に駆け上がり、前夜遅く帰って来た兄の布団の上に跨って、嬉しく騒いだものです。その頃『小学何年生』といった雑誌が、私には唯一の子供向けのものでしたので、兄からの贈り物で一番嬉しいものは、「「はい、お土産」と言ってもらう本でした。中でも鮮明に記憶にあるのは、鈴木三重吉編集の『赤い鳥』で、これは兄自身が大切に思っていたのかも知りませんが、十数冊はありました。その表紙絵の斬新さに感動した事を今でも覚えています。
 
 また次のような思い出も忘れないでいる。

兄は即席の物語をするのが大変上手でした。父が夕食をとっている間、子供たちは患者さんが来たら、それを告げるために玄関番をしているのですが、その時兄は私達によく話をしてくれました。
 「だいりき正兵衛」「ひょっとこ幡兵衛」「ぼてやん武兵衛」の私たち三兄弟の物語は、決まりきった主題ながら筋は自在に変化する、わくわくする話でした。

 

 芳一は確かに弟たちを可愛がった。此の事を誰よりも嬉しく思ったのは、幸である。結婚の話があっとき、多感な年頃の芳一の存在について、ひそかに思い悩んだ事が杞憂に過ぎなかった。芳一の優しい心根によるものとして、彼女は芳一に心の中で感謝し、我が子以上に芳一の事を思うようになった。

 

 彼は中学校を昭和七年(1932)に卒業した。その年五月十五日に起こった「五・一五事件」に象徴されるように、軍部の台頭は次第に政治に影響を及ぼし始めた。若い男児は丁年に達すれば軍隊に取られることを覚悟しなければならなくなった。芳一は父惟芳の強い希望にそって医師の道を進むことにしたが、中学校を卒業した年、彼は旧制山口高等学校を受験した。しかし試験場で鼻血を出して結局不首尾に終わった。
彼は出来たら高校、大学といったコースを進みたかったのである。彼はこれまで父の厳しい躾を受け、また中学校に入っても、何かと制約された生活であったので、そういったものから解放されたいと思った。従って、高校受験に失敗すると上京して予備校に通った。父の惟芳も息子を何時までも束縛する気はなかった。ある程度の自由とそれを可能にする経済的ゆとりを持たせてやることにした。

 

 芳一は本来文学を好んだ。従って上京すると一時演劇に熱をあげたりした。ともかくも彼は上京して親元を離れ、多少なりとも解放感を味わうことが出来たのである。二年浪人した後、彼は日本大学と慶応大学の両方の医学部に無事合格した。日本大学を選んだのは創立者が郷土萩出身の山田顕義であったからである。芳一は後になって、「慶応大学に行っていたら良かった。」と言っている。
 
 昭和十一年(1936)二月二十六日に大事件が起きた。東京は三十年振りの大雪で一面の銀世界。雪の降りしきる寒い朝、芳一が登校しようと下宿を出ると、街中に戒厳令が出て足止めされた。「二二六事件」である。「何が起こるか、恐ろしかった」とその年の夏休みに帰省した芳一は家族に話した。
昭和十六年三月、彼は無事日大医学部を卒業した。太平洋戦争が勃発する前から、国民の義務として、男子は二十歳になると、徴兵検査を受けて兵役に就かねばならなかった。但し、医学系と工学系は卒業まで兵役を免除するという国策があった。
              

 芳一は二十七歳で大学を卒業すると、千葉県の習志野連隊に入り軍事教育を受けた。当時は中国との戦いが泥沼に入り込み、医学部卒業生も何時召集がかかるか分からない状態であった。芳一は昭和十六年に近衛師団の衛生兵としての訓練を受けた。彼が幹部候補生を希望して採用願を提出する際に必要としたのが、中学校で受けた教練の検定合格書であった。この合格証明書がなければ幹部候補生にはなれなかった。手許に残っている採用願は次のようなものである。

 

幹部候補生採用願

幹部候補生ニ採用相成度候也
本籍地 山口県萩市大字堀内四百壹番地
現在地 東京都中野区新井町五百拾四番地清水政意方
昭和拾六年五月拾日
本人 緒方芳一 印
大正参年四月貳拾八日生
陸軍大臣殿
資格 軍医

 

 芳一は当時の日本人の平均身長からすると非常に背が高く、百九十センチもあり、大学では二番目の長身であった。入隊すると合う軍服がなくて、「服が短いと言ったら、上官に、服に身体を合わせと言われた。軍隊とは全く理屈の通らない世界だ」と、正道に話した。芳一はまた、「自分たちを教育する下士官が、教育を終えた段階で自分たちの部下になる不思議な世界だ」とも語っている。

 

 一定の訓練期間が終わると予備役になり、東京芝済生会病院に勤務した。外科医として勤務しながら、医学博士の取得を目指して書いた研究論文がある。彼は「肺外結核症に於ける寒性自家血球凝集反應の消長に就いて」という論文を「日本整形外科學會雑誌第十八巻第五號別刷」(昭和十八年八月二十五日發行)に載せた。

 

昭和十八年十月二十一日、冷たい雨の降りしきる中、明治神宮外苑陸上競技場で、「文部省主催の出陣学徒壮行会」が行われた。出陣学徒たちは学業半ばにして戦場へ赴いたのである。翌月一日には兵役服務年限が五年間延長されて四十五歳までになった。
このように時局が切迫して来たので、召集令状が何時来るか分からない。父は老体に鞭打ちながら片田舎で黙々と医療に携わっている。いま親孝行をしなければ一生悔いることになる。このまま病院勤務を続ける気にはなれない。彼はいても立っても居れない気持ちになった。後ろ髪を引かれる思いはあったが、思いきって済生会病院を辞めた。

 

 

(四)

 芳一は故郷の宇田郷村で医業に携わる決心をし、昭和十九年、年が明けると早々に医師開業届を山口縣知事に提出した。

 

醫師開業届

一 氏 名  緒方芳一
二 男女別  男
三 住 所  山口縣阿武郡宇田郷村大字宇田第貮千四拾番地緒方医院内
四 本 籍  山口縣萩市大字堀内四百壱番地
五 年 齢  大正三年四月貮拾八日生
六 族 籍  山口縣 士族
七 業務ノ種類 医師
八 免許ヲ得タル事由 日本大学専門部醫学科卒業
九 免許証番号及
  下附年月日 第九六六〇一號昭和拾六年四月十一日下附
十 開業場所 山口縣阿武郡宇田郷村大字宇田第貮千参百四拾番地緒方医院内
十一 奉職ノ官公署 無
十二 転住ノ年月日 昭和拾八年拾貮月貮拾九日
  右及御届候也
  昭和拾九年壱月六日
右  緒方芳一
緒方医院管理者  緒方惟芳
山口縣知事 熊谷憲一殿

 

 彼は大学卒業後外科を専攻したので、郷里でも外科手術をしようと考え、大量の医療機器を求めて帰った。惟芳は芳一が帰郷すると診療は息子に任せて軍友会の仕事に専念したので、芳一は折角父にゆっくり休息してもらうつもりで帰ったのに、何のために帰ってきたかわからないと嘆いた。

 

 専門が外科だからでもあるが、村で医療をしていて疑問に思うことによく遭遇した。そういう時彼は経験豊かな父に尋ねるのであった。

 「父に何を訊いても適切に答えてくれました。大学の先生でもこれほどではなかったです」と、芳一は叔父の忠之に語っている。惟芳は長年の医療経験から実地の知識を得たのであろう。しかし彼は田舎にあっても、新しい医療の知識を求めて暇さえあれば勉強をしていて、子供たちはそういった父の姿を見ている。これは小学生であった頃の幡典の記憶に残る父・惟芳の姿である。

 

 夕食後一休みすると、仏間にある大きくがっちりした机に、仏壇に向かって左側に母、右側に父が座っていた。母はその日の診療報酬について台帳に整理していた。父の側に銅の火鉢があり、中に小ぶりの鉄瓶がかかっていた。父は敷島という巻煙草の吸い口を縦横に軽く押さえて一服しながら、眼鏡をかけてその日の新聞を読み始める。眼鏡は無造作に机上に置いてあった。ガラスの真ん中に傷があって曇って見えたと思うが、父は別に気にしないようである。煙草と新聞が終わると、医学雑誌に目を通すのである。

 

 医学雑誌は新しい医学情報を次々に追加して送って来るので、毎年一度、二階の広間に雑誌を拡げて、新旧の差し替えを母とやっていた。医学雑誌は母が何時も座るすぐ後ろの押し入れにあった。押し入れには三段の棚があり、その雑誌は上段にきちんと並べてあった。厚さ五センチから七センチに及ぶ綴じ込み式のもので、これが十数冊あった。二段目の棚には医学専門書があったが、その大部分は古いもののようであった。

 

 惟芳は村人の要望に応えて、内科・外科はもちろん、全科の診療をしなければならなかった。このため、それまで経験したことのない疾病にあうと、仏間の押し入れに整理してある医学綜合雑誌(全科の疾病を分類記載してある)を見て、可能な限り対処するのであった。子供たちの虫歯の抜歯も行うこともあった。

 

 話を元に戻そう。芳一が帰郷して診療に携わった二月のある日、朝からちらちらと小雪が舞っていた。午後になって雪は烈しさを増し、自転車に乗った芳一の黒い外套を真っ白にした。彼はその日、惣(そう)郷(ごう)という部落に住んでいる老いた男性の具合が急に悪くなった、との知らせを受けて往診したのである。

 

 診察を終えわが家に辿りついて、自転車と身体一面に吹きつけられた雪を払いのけると、やれやれといった気持ちになった。玄関の重いガラス戸をあけて中へ入った。時計を見るともう五時を過ぎている。彼は夕食を終えて二階の座敷の間に入った。依然として風が止まない。戸袋から一枚ずつ雨戸を繰り出してガラス戸の外側を閉て切った。それでも強風に煽られて内側のガラス戸までガタガタと音を立てて揺れていた。

 

 帰郷後、芳一は夕食を済ますと二階ヘ上がり、専門の外科よりはむしろ内科に関する医学書に目を通すことにしていた。その後は床に入って眠気を催すまで、書架から取り出して好きな本を読むのを楽しみとした。

 

 この日も数日前から読み始めていた森鷗外の作品集を枕元に持ってきた。彼は鷗外のドイツ留学後に書いた三部作、『舞姫』『うたかたの記』『文づかい』を、瑞々(みずみず)しい作品としてすでに興味をもって読んでいた。ところが今読み始めた作品に彼はそれまでとは違って惹きつけられた。彼は寝そべって読むのを止め、床から起き出ると、寝る前に脱いで掛け布団の足元に置いていた丹前を再び纏い、机に向かって正座してページを繰った。それは『カズイスチカ』という短編である。

 

 老いた開業医である翁(鷗外の父)を、大学で近代医学を勉強した花房医師(鷗外)が観察した記録ともいえるノンフィクションである。翁は宿場町の町医者に過ぎないのではあるが、長年の経験で、死期の近い患者を診て、その死ぬ日時を的確に推定した。また彼は如何なる患者に対しても、またどんな些細な症例に対しても、常に誠心誠意向き合っている。さらに翁は達観した生き方で日常生活を送っている。ここには珍奇な患者の症例(カズイスチカ)に専ら関心を向けている花房、つまり鷗外自らへの反省の気持ちも描かれている。

 

 芳一は読み終えると、卓上にある栗の木を刳って作った煙草入れからゴールデンバットを一本とると、燐寸を擦って火をつけ深々と吸った。彼はこの作品が自分の気持ちを代弁しているような気がして、何だか身につまされる思いがした。

 

 ―鷗外とその父との関係が、自分と父との今の関係に似ている。医は仁術なりを心掛けた父が、もっと年を取ったら鷗外が描く「翁」の生き方に一層近づいて行くだろう。

芳一は花房の想いに似たものを今自分も抱いていると思わずにはおれなかった。彼は鷗外の次の文章には特に惹かれた。

 

 若い花房がどうしても企て及ばないと思ったのは、一種のCoup d'oeil〔筆者注:一見しての判断〕であった。「この病人はもう一日は持たん」と翁が云うと、その病人はきっと二十四時間以内に死ぬ。それが花房にはどう見ても分からなかった。只これ丈なら、少花房が経験の上で老花房に及ばないと云うに過ぎないが、實はさうでは無い。翁の及ぶべからざる處が別に有ったのである。翁は病人を診てゐる間は、全幅の精神を以て病人を見てゐる。そして其病人が軽からうが重からうが、鼻風だらうが必死の病だらうが、同じ態度でこれに對してゐる。盆栽を翫んでゐる時もその通りである。次の文章にも芳一は共感した。

 

 熊沢蕃山の書いたものを讀んでゐると、志を得て天下國家を事とするのも道を行ふのであるが、平生顔を洗ったり髪を梳ったりするのも道を行ふのであるといふ意味の事が書いてあった。花房はそれを見て、父の平生を考へて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父は詰まらない日常の事にも全幅の精神を傾注してゐるといふことに気が附いた。

 

 宿場の医者たるに安んじてゐる父の諦観の態度が、有道者の面目に近いといふことが、朧気ながら見えて来た。そして其時から遽に父を尊敬する念を生じた。実際花房の気の付いた通りに、翁の及び難いところはここに存じてゐたのである。

 

 芳一は今までと違って父の労苦に思いを致し、慙愧の思いに駆られた。彼はその日、夕食を食べながら父と話した事を思い出した。

 「今日はひどい風で小雪も混じっていたようだが、惣郷までの往診、御苦労だったな。こんな日に往診をしなければならないのは、確かに身にこたえるのう」
 「はい。往きも帰りも海から吹きつける小雪交じりの風がひどくて、自転車を漕ぐのに往生しました。こんなことは帰って初めてです。しかしお父さんはこの様な経験は何度もされたでしょう」
 「いや、このような吹雪の日に往診を頼まれることはそう再々ありはせん。それにしてもひどかったのう。しかし惣郷の患者は喜んだことだろう」
 「はい、そりゃ喜んでくれました。肺炎の初期症状ですから、安静にして居れば回復すると云って、安心させておきました」
 「そうか、そりゃよかった。まあしかし診断は難しい。ほんの鼻風邪と思っていたのが命取りになる事もあるからな。だから儂は田舎に居っても医療に関する新しい知識には絶えず目を配ってきた」

 このように医者としての心構えを至極当たり前のように言った父であるが、考えてみると父は三十数年もの間よく辛抱したものだ、と芳一は父のこれまでの生きざまに思いを馳せた。

 

 ―父は日露戦争が終わってすぐ、広島陸軍病院で医師を目指して勉強を始めた。その時は宇田郷の様な寒村で医療に携わる事は恐らく考えてはいなかったであろう。しかし一旦腹を決めたら、脇目も振らずにそれに打ちこんできた。その父は、去年が還暦だった。これまで父の労苦は頭では分かったつもりで、東京にいても決して忘れてはいなかったが、本当に苦労をかけたな。俺は二十歳前に上京して今日まで、親の脛を齧り通しだった。ああ申し訳なかった。

 

 翌朝起きて雨戸を開けた時、昨夜とは打って変わって朝の陽光が燦々と射していた。ふと下を見ると、中庭に父の姿が見えた。芳一は階段を足早に下りると、顔を洗いに真っ直ぐに風呂場へは行かないで、廊下を右に歩いて座敷の方へ行った。

 「何をしておられるのですか?」
 「昨日の風で盆栽が傷んではいないかと心配したが、大丈夫じゃった。これは俺の父が丹精こめて手をかけてこられた梅の古木で、母が亡くなった後、堀内の家から持ってきたのだ。このように蕾を付けておる。どうだ、なかなか良い枝振りじゃろう」

 

 芳一は父に盆栽の趣味がある事を初めて知った。たまたま昨晩読んだ鷗外の作品にでてきた「翁」が「盆栽を翫んでいる時も、全幅の精神でもってやっている」という一節を思い出して、ここにも父と似た姿が見られると思うのであった。

 

 盆栽を唯一の嗜みとしていた夫に、幸がこれとは別に謡の稽古を勧めた事を先に述べたが、この稽古と多少関わりのある次のような逸話がある。

 

 緒方家の二階で稽古が始まると、近所に住んでいた一人の老人が欠かさず聞きに来ていた。彼は「恵美奈の爺さま」といって、豆腐屋だった。夜中の零時過ぎに起きて大豆を挽くことから豆腐作りの作業を始め、早朝より天秤を担いで豆腐を売り歩いていた。この爺さまの唯一の楽しみは、夕食時一杯の焼酎をひっかけることであった。
恵美奈の爺さまが豆腐を作る時かどうかは不明だが、全身大やけどの重傷を負い、当時の治療法では回復不能の状態になった。惟芳は毎日往診し治療に心血を注いだが、薬石効なく遂に死期が迫った。その時家族の者がびくびくしながら惟芳に相談に来た。

 「お爺ちゃんが焼酎を飲みたいと言っていますがどうしたらよいでしょうか?」
 「好きなだけ焼酎を飲ませてあげなさい」

 惟芳はこの老人の病状を承知していたので、好きなだけ飲むようにと指示したのである。臨終が近付いた時、惟芳がその枕元に座ると、

 「旦様のお陰で好きなだけ焼酎を飲み、この世に思い残すことが無く、安心して死ねます」

 こう云って惟芳の手を握って大往生を遂げた。思えば、これは現代の医療では望むことの出来ない、一人の人間の臨終の姿だと言えよう。

 

 

(五)

 さて、芳一の帰りを一日千秋の思いで待っていた女性がいる。彼の実母の母、つまり祖母の小田ミヨであった。彼女は孫の芳一が、緒方家の跡取りとして、医業を立派に継いでくれることを誰よりも強く望んでいた。そのためにも彼に嫁を心配することを、至上命令の如く自らに課していた。

 

 孫が可愛いのは人情である。孫が成人に達してもこの気持ちは変わらない。しかし孫にとっては何時までも子供扱いにされる事は煩わしく感じられる。ましてや都会の自由な空気を吸ったものと、老いて田舎に閉じこもっているものとでは、自ずからギャップが生ずるのは当然である。

 

 ミヨは芳一の母である娘が亡くなった後も緒方家によく来ては泊っていた。この事は幸にとっては「嫁と姑」の関係で、あまり歓迎すべき事ではなかった。しかし惟芳は亡き妻の母を大事に思った。このため、芳一の結婚話を祖母が持ち込んだ時、敢えて反対はしなかった。

 

 芳一は東京芝済生会病院に勤めていた時、心を惹かれる女性がいた。彼女は看護婦長であった。都会感覚の、今でいうキャリアウーマンを、汽車の便が一日に数度しかなく、しかも因循姑息な人々の住んでいる片田舎へ連れ帰ることは、どうしても無理だとは分かっていた。それで彼は心を決めかねていた。またその時、祖母が実妹の孫娘を自分の嫁にと考えていることに薄々気がついていた。その女性は芳一にとっては「ふたいとこ」の関係になる。そういう女性との間に子供が出来るのは、遺伝的にあまり好ましくはない。そのためにも宇田郷へ帰ることはそれほど乗り気ではなかった。しかし先にも述べたように、老齢の父を思うとやはり今の内に孝行しなければという気持ちが強く働いたのである。結婚話が明らかになった時、芳一は父に言えない胸の中を幸に語った。

 「お母さん。僕にはこれはと思う女性がいました。彼女は同じ病院に勤めていたのです。頭がよく気立ても良いのですが、胸の病気がありました。そうでなかったら結婚を申し込んだのですが」
 「そうかね。しかしもし連れて帰ると言ったら、奈古の御祖母様は反対されるでしょうよ。親戚の娘さんを考えておられますから。それにお父様も同意されないでしょう」
 「僕もその事が分かっているから、腹を決めて帰って来たのです。それに戦争がこうした状態では、結婚しても何時召集されるか分かりません。そうなれば生きては帰れないかもしれません。そうした時、こんな片田舎で知らない人ばかりの所に一人残しては気の毒です。ここで生まれ育ったものなら再婚もし易いでしょう。考えてみたら、これはと思うような好きな女性と一緒になれる男は幸せですね。結婚なんてその人の運命だと僕は思いますよ」

 芳一は、父には言いづらい事を幸には言えるまでになっていた。

 「そうかも知れんね。御時世とも言えるかもしれんよ。しかし戦場へ行けば必ず死ぬなんて考えてはいけんで」

 戦死と言う言葉を聞くと、一瞬不安な気持ちがよぎったが、幸は芳一の心の内を思うと、可哀想でならなかった。

 

 昭和十九年三月五日、芳一は厚東睦子と結婚した。宇田郷村の八幡宮の神前で二人は結婚の誓詞を読んだ。

 

 昭和拾九年参月五日緒方芳一厚東睦子ノ両人畏クモ産土大神ノ大前ニ永遠渝ルコトナキ夫婦ノ契ヲリ結ブ惟フニ之レ尊キ神慮ノイタストコロ誠ニ恐懼感激ニ堪ヘズ爾今互ニ敬愛信頼シ喜憂苦楽ヲ共ニシテ清キ明キ直キ正シキ家庭ヲ造リ忠孝ノ道ヲ全ウシ一心同體以皇国ノタメニ奉仕センコトヲ誓ヒマツル

昭和拾九年参月五日   新郎  緒方芳一
新婦  厚東睦子
媒酌人 永田重三

 

 これほど非情な運命があろうか。「忠孝ノ道ヲ全ウスル」という言葉には今日との時代の違いを感じるが、「苦楽ヲ共ニシ清キ明ルキ直キ正シキ家庭ヲ作リ」といって二人が神前で誓ったその日から四ヶ月後の七月に、芳一に召集令状が来たのである。
これは国民の負うべき義務であった。惟芳は古刀を軍刀に仕立て直して我が子に与えて言った。彼は多言を弄しなかった。

 「国を守るために一身を捧げることは武士の本懐と言えよう。日本男児として恥ずかしくない行動をとってくれ。武運長久を祈る。後の事は心配するな」

 跡取り息子の芳一が、老境に達した自分を助けようとして、望ましい勤務先をわざわざ辞めて帰り、その上自分の望む通りに結婚してくれた矢先の召集令状である。国のためとはいえ、惟芳としては実に切ない事であった。しかし考えてみたら丁度四十年前、自分も同じ思いを父にさせた。こう思うと運命の不思議を感ぜざるを得なかった。

 

 余談になるが、この稿を書いている時、『旧約聖書』を読んでいて、次の文章に目がとまった。

 「ある人が新妻を娶ったときは、その者は兵役に就いてはならない。彼には何の義務も負わせてはならない。一年の間、彼は務めを免除されたまま自分の家にいて、娶った妻を喜ばせなければならない。」(『申命記二十四―五』)

 紀元数世紀前からこのような人道的な法があり、これによってイスラエルの民は護られていたのかと思うと、「赤紙」による有無を言わさぬ召集は無惨といえよう。

 

 さて、芳一の軍籍は最初近衛兵として病院船勤務だった。だがその頃米軍は、日本の病院船が武器を運搬していることを察知して攻撃を加え、病院船は次々に撃沈されていた。そのために芳一の乗船すべき船がなくなっていたので、彼は昭和十九年七月五日に、広島の第五師団に軍医として入隊した。芳一が入隊して直ぐ後、惟芳と幸は遠路広島に彼を訪ねたが、事情の急変で会う事が出来ず空しく帰った。芳一は父母に手紙を書いた。

 

 遠路わざわざお出で下さいましたが、その上土砂降りの雨の中をお出で下さいましたが、急にお目にかかれなくなり真に申し訳けございませんでした。途中無事にお帰りになれましたやらと心配して居ります。私は元気一杯に御奉公致して居ります。
三十一才の今日迄想像もつかぬ程の大恩を受けましたが何一つ御恩返しの真似も致しませんでしたお赦し下さいませ。これから一生懸命に御奉公する事だけが今私に出来ます唯一の孝の道でもあると感ぜられ父上の分迄御奉公致します故、何卒御身体を御大切にして下さいます様お願ひ申しあげます。有難うございました。
父上様   芳一
母上様

 

 さらに、新妻に宛てては、

 

 后は宜しく頼む、父上様を御大切に二人分の孝行を頼む、もう厚東ではない緒方睦子である事をお忘れにならぬ様諸事宜しく頼みます、急に忙しくなったので何処にも失礼するから宜しく頼みます健康に注意の事
睦子殿

 

 同時に弟妹達に書いた手紙には、兄としての心情が吐露されている。

 

 「正道 幡典 武人 信子 殿   兄より
 お前達が遅く生れ兄とは年齢差が大きく、兄は勉学の為に家を離れて居たので一緒に暮す間も短かったが、兄思ひのお前達は此の兄を大切にして呉れて有難う。兄として何一つお前達の役に立ってやれなかった事を申し訳けなく思ふ。兄は立派な死に場所を得たので最早居ないものと思って父上様母上様を頼みます。正道殿は是非医学校に入学される様に頑張って下さい。他の者は夫々自分の進むべき道を進まれる様お祈り致します。如何なる職にあらうとも日本人として忠孝一番は勿論ながら如何なる境遇にあらうとも、人生を真剣に生き人間性と学問と芸術を愛する人間になって戴ける様に修養して下さい。
 自分が本当に正しいと思った事は小さな周囲の事情に負けないで大膽に卒直に実行される勇気を持たれる様にお願ひします。眞に眞なるものを眞とし本当に正しいものを正しいとし、本当に美しいものを美しいと感ぜられる様に勉強と修養が大事です。
幼ない者達は今私の云ふ事は解らないだらうが、もう少し大きくなったらきっと解って戴ける事と思ふ。お前達がこんな人間になって呉れたらどんなに有難い事か。
さようなら  御大事にね」

 

会津八一が学生に書いて与えたという「學規四則」なるものがある。

一、ふかくこの生を愛すべし
二、かへりみて己を知るべし
三、學藝を以て性を養ふべし
四、日々新面目あるべし

 

 このような箇条書きではないが、芳一も「人生を真剣に生き、人間性と学問と芸術を愛する人間になって戴けるように修養して下さい」と、手紙を書いた。一番齢の近い正道とでも十二歳の違いである。末の妹の信子とは二十歳の開きがある。しかし芳一は「兄は立派な死に場所を得たので最早居ないと思って父上様母上様を頼みます」と先ず述べ、そして妹にまで、「今私の云う事は解らんだらうが」と言って、この手紙を書いたのである。

 

 芳一は、自分が何処かの戦場へ派遣されると覚悟はしていただろう。しかし軍事機密のために家族へは何一つ言えなかった。このため家族の者にとっては、その後しばらくの間、彼の行動は杳として分からなかった。

 

 ここに一通の葉書がある。昭和十九年七月九日の消印があり、差出人は東京都杉並区高円寺六ノ七二三 松本旅館 永田晴二とある。妻の姓を使って芳一は父に宛てて書いているが、これほどの秘密保持が必要だったのであろう。

ご無沙汰致しました お変りございませんか いろいろ御世話を頂きましたが仕事の都合此の度こちらに参りましたが直ぐ又横浜に立ちよりそれから任地に参ります 御伝言を頼まれましたが林にも寺尾氏にも誰にも面会する時間がありませんでした どうぞ悪しからず

 

 如何にも他人行儀の文面だが、自分が内地を離れて硫黄島へ派遣される事は、この段階では恐らく分かっていたであろう。

 

 平成十九年一月十六日、正道は硫黄島への「厚労省主催の慰霊巡拝」に参加する機会に恵まれた。これによって初めて、広島から硫黄島で玉砕するまでの芳一の足取りが判明した。

 

昭和十九年七月七日広島港出港。
同月十日横浜港出港。
同月十八日父島沖で米潜水艦の魚雷攻撃で乗船が沈没。彼は泳いで父島へ上陸した。その時軍刀とピストルを失くした。
七月二十一日父島出港。七月二十三日硫黄島に上陸した。