yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 第二章「長崎散見」

杏林の坂道 第二章「長崎散見」
 
(一)

  山陽鉄道の神戸と馬関(現在の下関市)間が全通したのは、明治三十四年(1901)五月二十七日である。これに伴って徳山(現在の周南市)門司間の航路は廃止され、新たに下関・門司間の航路が開業した。さらに翌年の六月一日に、馬関駅は下関駅と改称した。この全線開通は、惟芳が萩中学校を中途退学した前日である。九州鉄道も、明治三十四年四月十五日の時刻改正で、門司・長崎間の直通列車は、九時間四十分で運転されるようになった。惟芳の乗った列車は、六月十日午後六時十分、時刻表通りに長崎駅に到着した。
 
 今こうして、遠く故郷を離れて西海の地に降り立った彼は、前途に明るい希望を抱きながらも、やはり一抹の不安を隠しきれないでいた。あの日両親の苦衷を察して、自ら退学を決意したことへの後悔の念は露ほどもないが、全く異なる境遇に身を置き、しかも学業半ば、即ち正規の中学校卒としての資格無き者として、気構えだけでこれからやっていけるだろうかと、いささか不安であった。

 長崎駅舎の雑踏の中に一歩足を踏み入れたとき、彼の目の前に、萩では全く予想もしなかった光景が展開した。長いスカートをはいた洋装の女性、山高帽にステッキといった出立(いでたち)の紳士、さらには碧眼紅毛の西洋人や、弁髪の中国人などが立ち混じっていたからである。しかし、こうした様々の人の醸し出す異様な雰囲気の中にあって、かすかに潮の香が何処からともなく漂ってきた。
 
 ―海が近くにあるのかな。磯の香りは良いものだ。ああ、この香りを嗅ぐと何だかホットする。海浜に育った者として懐かしくも嬉しい気持になった。駅員に教えてもらった安宿は、駅前の大きい通りを横切って、急な坂道を東の方へ百メートルも上がったところにあった。案内を請うと、やや小柄の年格好は五十歳前後の女性が、笑顔で現れ愛想よく応じた。
 「山口県とは、そいは随分遠方から来らしたですなぁ。造船所へはここからですと、四十分もあれば行けますばい。さぞお疲れのことでしょう。お風呂の支度は直ぐ出来ますけん、それまでこのお部屋でくつろいどってくださいませ」
 客あしらいに慣れた如才のない応対だと惟芳は思った。こう言って通された二階のこざっぱりとした部屋の窓から、低い山の斜面が間近に迫り、山腹には樟の大樹が新緑鮮やかな枝葉を、前後左右に大きく広げているのが見えた。蝉の鳴き声も聞こえてきた。陽の当たった葉は白く輝いている。目を右の方に移すと、由緒ありげな寺院の甍(いらか)が見えた。一風呂浴びて部屋の柱時計を見ると、すでに針は七時を回っている。しかし窓外にはまだ宵の明るさが残っていた。先ほどの女将(おかみ)さんが夕食の膳を部屋まで運んで来た。彼は食べながら予備知識にと、長崎のことを少し訊いてみた。

 「関門海峡を始めて渡りました。こちらはさすがに暑いですね。ところで、ここへ来るまでに、あれは確か中国人でしょう、弁髪の人を何人も見かけましたが」
 「寛永十一年(1634)に出島が出来まして、オランダとの関係は強うなりましたばってん、そがんいうてもお隣の大国中国は、ここ長崎とは切っても切れんほど深いつながりがありますけんねえ」
 「なるほど、そうですか」
 「元禄時代には、一万人の唐人が市中に散宿していたげなです。なおそのころの長崎の人口は六万人だったそうですけん、驚きますばい」
この程度のことは長崎市民の常識といわんばかりに、年号をすらすらと口にする。
「そうしますと、その人たちの中には、長崎にそのまま居着いて、日本人と一緒になった者も多くいるでしょう」
 「おっしゃるとおりですばい。オランダ人のごたる西洋の人達と違うて、中国の人は言葉こそ違いますが同じ東洋人ですけん、親近感が生まれますよ。長崎では中国人のことば、‘阿(あ)茶(ちゃ)さん’と親しみを込めて呼んでいますばい」
清国との戦いの後、事情に変化をきたしたのではなかろうかと思って訊ねると、  
 「ここではそがん変わりはしません。何世代も前から、長崎の風土や生活に完全に溶け込んで、もう日本人と識別できんのが多かとです。江戸期外国船が来ましたとき、通詞として活躍ばされた方の多くは、もとをただせば中国出身とのことげなです」
 「知識人の祖先には中国人が多いと言うことですね?」
 「そん通りですばい。また長崎には立派なお寺がいくつかありまして、そう言った方々が出資して、向こうから立派なお坊さんば招いて、そいのお寺ば建てられましたとです。

 

 奈良・平安の昔から、仏教東漸(とうぜん)がここ長崎にもその歴史を刻んでいるのかと、彼は感じて聞いた。
 「窓から立派な甍(いらか)が見えましたが、あのお寺もそうなのですか?」
 「聖福寺さんですたい。黄檗宗(おうばくしゅう)のお寺で、鉄心という方が創建したそうです。父親は中国福建省出身の貿易商で母親は長崎の方ですばい。十五歳の時に中国から来られた木庵和尚に師事されたそうで、そのお寺には鉄心の大鐘というて、長崎で一番大きか梵鐘があるとですよ。近くですから、ぜひ行ってみらっさんですか」
 「女将さんは実に詳しいですね」
 「お嫁に来て三十年、朝晩あの鐘の音ば聞いとります。それにお盆とお正月には必ずお参りしますけん、自然にいろいろなことば覚えるとですよ。隠元という中国の偉いお坊さんは、今言うた木庵和尚のお師匠さんです。隠元豆や普茶(ふちゃ)料理も、隠元さんが長崎に伝えらしたそうです」
 
 ここで惟芳は、長崎の市民が三菱造船所のことを、どのように思っているか訊ねてみた。
 「三菱長崎造船所はここでは一番大きな企業でしょうね」 
 「おっしゃるとおりですたい。ここで三菱の職員さんと言うたら一番の高給料取りですばい。そいけん若い娘さんにとっては憧れの的になっとですよ。職工さんの方はそがんでもなかですばってん、正規の職員さんになるのは、とても難しかそうです」
女将さんも若い頃、三菱の職員に憧れた風である。しかし惟芳は自ら職工を目指す者として、そう軽んじてもらっては困るので、一言口を挟んだ。
 「職工になるのも、縁故など手ずるが無ければ難しいようですが」
 「以前はそがんだったと聞いとります」
 職工は相手にならんとばかりに、女将さんは話を続ける。
 「外国のお雇技師の他に、東京帝国大学ば卒業された、優秀な方が何人もおらすらしかです。この方たちのお給料は、たまげるほど多かと聞いとります」
 「そうでしょうね」
 「これから海運業が盛んになるぎんた、やはり造船所に勤めとらす人が、一番お金まわりがよかとですから、お遊びも派手にならすばいね」 

金が入れば自然遊びに使うのだと、普通の者は考えるのだろうと思って、彼は意識して相槌を打った。
 「なるほど、そうかも知れませんね」
 「長崎はその方面にかけては、西日本随一の花街があるとです。時にはお酒ば飲んだり、歌ば歌うたりして遊ぶのもよかでしょう。ばってん気をばつけなきゃいけませんよ。お若い貴方など随分もてるでしょうから」
 心配ご無用と思ったが、軽く受け流して、
 「お金が無ければ遊ぼうにも遊ばれませんよ。ところで現在港には沢山の外国船が入っているようですが、その船員連中は派手に遊ぶのではないですか?」
 「おっしゃるとおりですばい。ここは何と言うても早うからの開港場で、外国からの船が絶えず出入りしとりますけん」

 お国自慢か、女将さんは一段と熱を帯びて話を続けた。惟芳はさらに誘いの水を向けてみた。
 「長崎市民も遊び好きですか?」
 「こがん風な海外に開かれている関係ですばってん、市民の気質は概して明るくおおらかとですよ。江戸の町民は宵越(よいごし)の金ば持たないと言いますが、ここでも似とるところがあるとです。たとえば諏訪(すわ)神社の祭礼には、各町内はこぞって派手にお金ば使うて、景気のいいところば見せようとするとです」
 「中国人も参加していますか?」
 「そんとうりです。この諏訪神社の祭礼ば、ここでは‘長崎くんち’と言うとですよ。八代将軍吉宗大岡越前守が活躍しとらした時代じゃ、‘長崎くんち’の豪華ぶりは、江戸や京の祭りをさえ圧倒しとったそうです。そん時の神前での豪勢か竜(じゃ)踊(おどり)は、唐人屋敷の大船主らの寄付によって出来た奉納踊りとですよ。それと初夏の港での勇壮か行事のペーロン、これは和船競争のことば言うとっとですよ。この競争ば一目見らしたら、長崎市民の祭り好きで派手な気質には、きっとびっくりされますよ」

 

 惟芳は萩中学校にも和船部があったので、同じような舟だろうと想像した。女将さんは悦に入って話す。
 「今も言ったように、長崎には中国人が沢山居りまして、中国人街ば作っとります。そこへ行ってごらんになれば、全く違った風習が見られて面白かですよ。私たちもその人たちのお祭りの時には出かけて行って、中国料理ば食べたり、中国のお菓子ば買ってきたりするとですよ。中国人は商売が本当に上手(うま)かです」
 「そのうち私も行ってみましょう。ところで長崎の人口はどのぐらいですか?」
 「外国からの移住者も次第に増えて、十四万三千人になったらしかです。何でも今や日本で六番目の都市らしかですよ」

萩の五倍もの人間が、山坂の多いこの長崎に居住していることを、彼は如実に知らされ、驚きかつ不思議に思った。しかしいずれにしても、一日でも早くここでの生活に慣れ、また三菱の正社員になって、家への仕送りが少しでも多く出来るように頑張ろうと思った。話し好きの女将にいつまでも付き合う訳にはいかず、最後に造船所への道順を教わり、食事を済ますと、彼は萩を出てから宿に落ち着くまでの出費を手帳に記入した。父にもらったお金は決して無駄には使えない。同じ手帳の余白に彼は次のような事を書いた。
 
 明治三十四年六月十日 予定通リ長崎ニ着ク。長崎ハ早クカラ海外ニ向ケ開ケタ所ト知ル。萩トハ大差アリ。イヨイヨ実社会ヘノ第一歩ヲ踏ミ出ス。肩肘張ラズニ地道ニ行クベシ。弓道ノ精神ヲ生活ノ指針トスベシ。斯ノ道ハ礼ニ始マリ礼ニに終ル。礼ハ物欲ノ節制ニアリ。礼ハ必ズシモ他人ニ対スル事ノミナラズ、自己ニ対スル慎ミ肝要ナリ。
  
 あまりものに動じない惟芳にとっても、女将さんの話を聞いただけでも、長崎は清新にして強烈なものがあった。しかし彼は学校で粟屋先生に言われた弓道の根本精神を、これからの生活の一つの指針にしようと心に誓った。夜の帳(とばり)が下り、あたりが静かになった。柱時計は十時を打った。いつもの就寝時より少し早いと思ったが、長時間汽車に揺られ、多少疲れを覚えたので床に就くことにした。

 

   

(二)

 長旅の疲れも一晩ぐっすり寝るとすっかりとれた。惟芳はいつものように朝五時頃目が覚めた。夜は既に明けている。朝食前に宿の周辺を散歩しようと思って外に出た。昨日は真っ赤な入日が眩(まぶ)しくてよく見えなかったが、今立っているところからは、駅を中心とした長崎の市街の一部が、傾斜した坂道の前方に広がって見えた。またその密集した人家の彼方に、朝の陽光を受けて長崎港が輝いて見える。外国船であろう、大きな船が何隻も停泊している。風が遠くから汽笛の音を運んできた。
 
 嘉永六年(1853)ロシヤ使節プチャーチンも、こうした船を引き連れて来航したのだろうと、遠くに浮かぶこれらの船を見て惟芳は思った。
 ―松陰先生はロシヤ艦隊の長崎来航を聞くと、急遽江戸を発って長崎に向かわれた。先生は明日の日本のことを考えて、命を擲(なげう)って外国船に乗り込み、西欧の文物を学ぼうとされたのだ。しかし折角夜を日に継いで来られたが、ロシヤ艦隊は数日前に出航していた。このことを知られた時の先生の心境はいかばかりであったろう。
 

 それから五年後の安政五年(1858)には、日米修好通商条約、さらに日蘭・日露条約調印と、時代は大きく変わっている。あれからまだ五十年も経っていないのに、今はこの様に多くの外国船が出入港している。時の流れ、人の運・不運という事は確かにあるものだな。安政の大獄で犠牲になった人々は、なまじ先が読めたのが禍(わざわい)したとも思われる。
 
 この様なことを考えた後、目を凝(こ)らして遠くを見ると、船の帆柱と並ぶように見えたのは、対岸にある目指す三菱長崎造船所の工場群の煙突であった。そこは山が海岸近くに迫っていて、その斜面が、工場のすぐ背後からせり上がっているかのように見えた。後日惟芳が仲間と数回登山を試みた稲佐山である。この山の中腹にも、数百もの人家が、へばりつくように密集しているのが遠望できた。

 朝あけて船より鳴れる太笛の
   こだまはながし竝(な)みよろふ山

 斉藤茂吉の歌を惟芳は知るよしもないが、彼に歌心があれば同じような感懐を三十一(みそひと)文(も)字(じ)にしたであろう。
 
 ―こうして見ると長崎では、何処へ行くにも、大なり小なり坂道を上り下りしなければいけないようだ。この様な不便を承知で、長崎の人々が代々ここでの生活を営んできたのは、やはり海外へ開かれた日本唯一の場所、自由な空気が漲(みなぎ)る所として惹(ひ)かれたのかも知れない。また外国との取引にせよ、新しい学問の摂取にせよ、この地より他にはなかったから、志のある人々はこの地に集まり、新しい学問を身につけ、それぞれの故郷(くに)へ持ち帰り、普及に努めたのだろう。中にはこの地に魅せられて、永住を決意する者が出たのもうなずける。

 

 惟芳の第一印象は新奇にして強烈なものであった。宿の前の石畳の道をものの二百メートルも歩くと、唐様の寺院の前に来た。とにかく土地が狭隘(きょうあい)である。道路際の左手に僅かな空地があって、そこに敷かれた石畳の参道を十メートルばかり進むと、その続きに三間幅ぐらいの石段が、見上げるほどにまで山腹にせり上がって延びていた。登りながら数えるともなく数えたら六十段ほどあった。登り切った所、石段の右手に、樟の大樹が鬱蒼たる枝葉を広げていた。正面に二層の堂々たる朱塗(しゅぬり)の山門が立っている。山門の左側には、二層の瓦屋根を持った立派な鐘楼があった。女将さんが言ったのはこの鐘だなと思って、高い鐘楼を見上げた。
  
  聖福寺の鐘の音ちかしかさなれる
    家の甍を越えつつ聞こゆ
  
 斎藤茂吉が長崎医専の教授として、単身赴任したのは大正六年十二月のことである。茂吉が耳にした鐘の音は、長崎で一番大きいここ聖福寺の梵鐘の音である。
 惟芳は朝早くこの鐘の妙音を耳にしたが、今この大きい鐘楼を目にして、出郷前にお参りした菩提寺を思い出した。
  
 ―端ノ坊(はしのぼう)にも、これと同じような立派な鐘楼があったな。おや、屋根の上の扁額には萬寿山と立派な字が書いてある。山号は萬寿山であるが、この寺の名は聖福寺だ。そうすると、比叡山延暦寺高野山・金剛(こんごう)峯寺(ぶじ)と呼称するのと同じだな。
 
 惟芳はこんなことを思いながら正面の建物を眺めた。唐寺と言えば、朱塗を基調とする中国建築様式が普通であるが、この寺は扉など局部を除いて、素(しら)木(き)を主体としているので、彼は全く違和感なしに大雄宝殿に向かった。下半分は板張りで、上部は紙障子の戸が十枚ばかり、正面に横並びにあったがどれも皆閉ざされていた。したがって、守本尊の御姿を拝観することは出来なかった。ここにも頭上に、非常に大きな扁額が二枚あり、その一枚には実に堂々たる字で、「海國人天」と浮き彫りしてあった。この前後二枚の扁額は、天井を圧するほどに大きく見えた。両側の柱四本にも、それぞれ細長の聯が掛けてあり、立派な字が書いてあった。
 
 ―ははぁ、これが女将さんが物知り顔で言っていた、隠元、木庵あるいは鉄心の筆になるものに違いない。素晴らしい字だが意味がよく分からない。きっと教典の文句だろう。いつかここの和尚にでも訊ねてみよう。
 
 惟芳は独りつぶやきながら辺りを見た。境内には樟の大樹や椎の木など数本の常緑樹がある。早朝のためでもあるが実に森閑としていた。ただ敷石の上を歩くとき、カタカタという下駄の音だけが実によく響いた。地面は箒目(ほうきめ)もくっきりと掃き清められていた。さすがに禅寺の朝は早いと惟芳は思った。先ほど目にした市街地の犇(ひしめ)く人家とは打って変わった環境である。惟芳は安らぎの場所として、格好の地を見出したと喜びを覚えた。大きな賽銭箱が目に付いたが、恭しく礼拝しただけで急勾配の石段を下り、宿への道を引き返した。遠くからかすかにサイレンが聞こえた。長崎の朝は造船所のこの朝のサイレンで、一日の活動が始まることを彼は知った。

                   

(三)

 早めに朝食を済ますと、教えられた道順にしたがって造船所を目指した。丁度出勤時なので、何処からともなく多くの人が出てきて皆足早に移動している。落ち着いた気持ちで宿を出た惟芳も、つい皆の歩調に合わせて歩を早めた。駅前の道を海岸に沿って南に七・八百メ-トルも行くと波止場があった。そこは大波止といって、対岸の飽(あく)の浦への小舟が多数待機していることが、ここまで来てみてはじめて分かった。
 

 明治三十九年一月に稲佐橋が開通して、対岸への通行が非常に便利になったのだが、惟芳にとっては二年半の在職中、この渡し船を利用する外はなかった。当時長崎港には外国船の出入りが多かったから、停泊した船と岸を結ぶために、これらの小舟が大活躍していた。造船所の従業員も行き帰りにはこれらの小舟を利用した。これらの舟は中国語でサンパンと呼ばれる縦長の四角い平底船である。この時間の乗船者のほとんどは、三菱造船所およびその関連会社の従業員なのだろう、と惟芳は思った。特に若い工員連中は、だれもネズミ色の作業服に身を包み、いまだ遅(おそ)しと渡し船の来るのを待っていた。惟芳は彼らに混じって一隻のサンパンに乗った。定員は六人、荷物一個でも一人分とられ、渡し賃は一人一銭、六人揃えば即時に出してくれる。

 ―二丁櫓で漕ぐのだな。道理で船足が速い。この調子だと対岸まで五六分とかからないだろう。萩の橋本川渡し船はこれに比べたら悠長なものだ。ああ潮風が頬に当たって気持ちがいい。
 
 久しぶりに潮風を肌に感じながら、彼は舟の中程に立って爽快な気分を味わった。工場や波止場は、長崎湾の奥まったところに築かれている。この湾は五島灘に口を開く幅約一キロ、面積は約三平方キロの細長い矩形状で、湾口の外辺には大小の島がある。外海から内陸部に、約四キロ深く入り込んでおり、いつも波静かで、その上水深が平均十八メートル、最も浅い湾奥部でも五メートルあって、どんなに大きい船でも、港の奥まで入港出来る良港である。
 

 惟芳が海面に目を向けたとき、青々とした深みのある海の色は、陸上では決して目にしない神秘さを漂わせていた。やや白色で透明な、両手で掬えるような小さな浮遊物が、海中に舞うように浮かんでいるのが目に付いた。船足が速いので、これら幾つもの浮遊物は、すいすいと見る間に後方に流れていく。クラゲに違いないと思っていると、職工風の若い男が、突然隣の仲間に話しかけた。
「おい、クラゲが泳いどるのが見ゆっか?この間の昼間、用があって街へ出た帰りに、サンパンに乗ったとばってん、女学生のごた背のすらっとした小学生の女の子と俺の二人だけやったが、船頭は舟ば出してくれたよ」
 「お前とその女の子二人だけで、船頭はよう船を出したな」
 「それが後で分かったとばってん、副所長さんのお嬢さんだったらしか。舟が丁度ここらあたりに来たとき、お嬢さんが日傘ば拡げて海ん中に突っ込ましたとさ。何ばするのかと見とったら、今見えるのと同じかごたあクラゲを、掬い取ろうとしとったっさ。これにはびっくりしたばい」
 「クラゲは獲れたとか」
 「それが、船頭はお構いなしに漕いでいたからたまったもんじゃなかったとさ。あっという間に傘が逆さになって、朝顔のごた格好になって破れてしもうてさ。おれも子供の頃学校帰りに、差していた傘ば小川ん中に入れて、メダカば掬ったことがあるばってん。そいにしたっちゃ活発というか、あのお嬢さんはお転婆のごたったぞ」
「副所長さんのお嬢さんなら、可愛らしゅうしとらんたろ。何か話しかけてみたとか?」
「お前なら厚かましかけん、そがんしたろうな。俺は可愛くて綺麗な女の子だなと思いながら、横顔を見ていただけやったばい。もっとも破れた傘を、元通りの形に直してあげることだけはしてやったばってん」

 こんなやり取りを聞いているうちに、小舟は対岸の飽の浦に着いた。サンパンが接岸するやいなや、我先他に遅れじと同乗の五人が岸に飛び移ったので、先に岸に上がった船頭が艫(とも)綱(づな)をしっかり握っていても、小舟はぐらっと揺らいだ。惟芳は最後に船を離れた。次々に到着するサンパンから下りてくる人の数は驚くほどで、それが列をなすというより、むしろ大きな人の川と成って、海岸沿いの道を、造船所の正門に向かって滔々(とうとう)と流れていった。

 ―萩の住吉神社の夏祭りの時も、身動きならないほどの人出だったが、あのときより遙かに多人数(おおにんずう)だ。なんと皆足早に移動している。これは一体どうしたことか。
 
 彼は内心少なからず驚いたが謎は直ぐ解けた。工員たちは、所内入口にある職札場へと急いでいたのだ。始業五分前、六時五十五分きっかりに鳴るサイレンと共に扉が閉まる。そうなるともう所内へは入れない。皆自分の職札を掛け金に掛けるやいなや、所内に駆け込むのである。職札は小さな細長い木札で、表に職番、裏に氏名が墨書してある。惟芳はもちろん今日が初めてであるので、木札を掛ける手間もなく職域内へ入った。早朝の空気は冷たいが気持ちがいい。

 前方に赤煉瓦造りの堂々たる建物が見えた。正面の入り口の左側に、高い棒柱が立っており、その先に白地に赤の三菱を描いた社旗が、翩(へん)翻(ぽん)と風にひるがえっているのが鮮明に目に映った。恐らくこれが本館であろうと思って、惟芳は気持を落ち着けながら、その建物の方へ向かった。間違いなく本館であった。館内の総務係と明示してあるところへ行って来意を告げると、眉の太い精悍な顔つきの大柄な男性が、
 「こちらへ来給え。三日前だったか、君の中学校の校長先生から、所長宛の手紙が届いていた。そのうち君が来るだろうと待っていたところだ」
こう言いながら、通路の奥まった処にある部屋へと惟芳を先導していくと、彼を残して立ち去った。そこは応接室であった。外部から見た時のこの煉瓦造りの頑丈でどっしりとした様子とは全く趣(おもむき)を異にして、応接室の内部は見るからに寛(くつろ)ぎを与えるようであった。中央に大きな丸いテーブルがあり、その上に鍋島焼の大きな絵柄の花瓶があった。それに生けてある沢山の白百合の花が放つ甘酸っぱい香りと相まって、部屋の雰囲気は一段と華やかになっていた。壁には立派な額縁に収まっている油絵が掲げてあった。長崎港湾に停泊している内外の船舶を描いたもので、此の絵も惟芳の緊張した気持を和(なご)ませてくれた。部屋には大きい縦長の窓が二つあって、上部は半円の形をしていた。彼は洒落(しゃれ)た窓だと思うと同時に、煉瓦の壁が驚くほど厚いということを見てとった。窓が少し開けてあるために、白いレースがかすかに風に揺れていた。程なく先に案内したのとは別の紳士が姿を見せた。

 「私は造船製図場長の山本という者だ。まあそのソファに腰を下ろしなさい」
 入って来るなりこう言って、この長身の男性はテーブルの席に着いた。
 「初めまして、私は緒方惟芳と申します。もっと早く来るつもりでしたが、少し手間取りまして、昨日夕方長崎に着きました」
彼は直立したままで、先ずきちんと挨拶した。
 「まあ掛けたまえ。折角中学五年にまでなって中途退学とは、よほどの事情があったのだろうな。まあしかし人間は、特に青年は大志を抱いて努力すれば、前途は洋々たるものがあるよ」
気さくな物言いで山本場長は話し始めた。
 「実はね、荘田所長の肝煎(きもいり)で、一昨年三菱工業予備学校が新設されたのだ。中学卒はもとより小学校卒でも、ここでしっかり勉強して成績優秀なら、将来職員への登用の途は開けるようになっている。この制度は今言った荘田所長の発案だが、きっと成果が上がるものと、我々皆確信しまた期待もしている。推薦書を見ると君の中学校の成績はなかなか良い。特に理数系の学科が得意のようだから、勉強次第では立派な技師になれるよ」

惟芳は職工であろうと何であろうと、家への仕送りが出来さえすれば、多少辛いことにも耐える覚悟で来たので、この様な制度の恩恵を受けられるようだと知って、内心非常に嬉しく思った。
 「その学校に入れてもらえるのですか?」
 「君の成績なら大丈夫だ。数年勉強して将来造船設計に携わるか、または造機設計に進むかは、本人の希望と適性を勘案して決めることになる。ところで今言ったここの所長は、荘田平五郎と言って三菱本社の重役で、造船所長の仕事を兼務されている。非常に多忙な方で東奔西走され平生(へいぜい)は東京におられる。今年も入所式には見えたが今は上京中だ。そのようなわけで私が代わって、当所への正式採用通知書を渡す。まあしっかり勉強しなさい」

惟芳はその通知書を受け取るべくまず恭しく頭を下げた。
 「君は三菱長崎造船所において、社会人として第一歩を踏み出すことになる。感慨も一(ひと)入(しお)だろう。大きな夢を抱いていることと思う、しかし不安も無いとは言えないだろう。遠慮はいらないから、困ったことがあればいつでも相談に乗るよ」
こう言って笑顔でもって 渡された紙には、墨黒々と次のように書いてあった。
    
     緒方惟芳
 三菱長崎造船所修業生
 日給五拾銭
 明治三十四年六月十日
    社長 岩崎久弥

 社長の大きな印が、三十四年と書かれた四文字以下すべての文字の上に、被(かぶ)さるように押印してあった。彼はこのように事が順調に運んだのは、やはり雨谷校長や先輩たちのお陰だと、感謝の気持ちで一杯になった。
 「それにも書いてある通り、まだ当分は日給だ。専門学校、大学校卒業なら月給がもらえる。したがって一日でも休むと手取りは少なくなる」
 「そのつもりで出来るだけ休まないようにいたします。今朝艀(はしけ)に乗ってこちらに参りましたが、従業員の多いのには驚きました」
 「そうだな、あれだけ多人数の者が、出勤時に殺到するのを見れば、だれでも驚くことだろう。現時点で、正社員だけでも二百三十人、工員は絶えず出入りがあるから正確な数はつかんでいないが、およそ五千人いるよ」
惟芳はこのような大企業の中にあって、存在価値を認められるまでになるのは、容易なことではないと思った。
 「ところで早速だが、明日と言わず今日からの生活を考えなければいけない。君は寮に入るか、それとも下宿を希望するかね?」
 経費の節約を考えて寮をと思ったが、静かに勉強する時間も大切だから、ひとまず下宿の方を選ぶことにした。
 「それでは今日はもうこれでいい。所内を見学するのはまたにしよう。造船所の敷地は海岸沿いにかなり広く伸びている。そのうち何が何処にあるか、何処でどんな物を作っているか、そう言った様子は追々分かるだろうから、ひとまずこの本館内の部屋割りだけを教えておこう。階下にはこの部屋の隣に所長室だけ別に一室あり、副長室・総務係・勤怠係がまとめて一部屋の中にある」
そう言って山本場長は椅子から立ち上がると、応接室を後にして二階への階段をゆっくり上っていった。
 「長船(ながせん)、おっと、ここでは三菱長崎造船所を普通この様に呼称しているがね、長船の仕事は、副所長の水谷六郎という方が、所長に代わってほとんど処理されておる。ここが造船製図場で、隣が造機製図場、その向こうに青写真室がある。造機製図場長は江崎一郎さんだ。そのうち紹介する機会はあるだろう」
 一通り案内し終わって応接室へ戻るとり、山本場長は惟芳に促すようにこう言った。
 「それでは早速下宿探しがあろうから、諸準備のためということで、明日一日は休暇を取りなさい。おお、それから、まだ食堂がないので、所内に売りに来るパンを買うか、弁当を持参するか考えておきなさい。それからこの作業服を着用して出勤しなさい」
 こう言って灰色の制服上下を山本場長は惟芳に手渡した。
 
 見た目とは違って穏やかな物腰で親切な人である。惟芳は山本場長も、女将さんが言っていたように帝大出身に違いないと思った。さし当たり必要な事を聞くと、彼は山本場長に今後よろしくと言って礼を述べ応接室を出た。その足で直ぐ総務係の処へ行き、下宿について訊ねると、心当たりの家を数軒教えてくれた。
 

 本館を出ると、館外は六月の強い日差しが眩しいくらい照りつけていた。それに鉄さびと油の匂い、さらに海からの潮の良い香りが、鼻腔の神経をかすかに刺激した。また造船工場だということを感じさせる機械音や、鋼鉄を削ったり叩いたりする人工的な音も聞こえてきた。こうした暑熱と騒音を含む外気に比べて、館内が意外に涼しく静かに感じられたのは、厚い煉瓦が暑気と騒音を遮断していたのと、天井が高く、机の配置などにゆとりのあるためだと彼は思った。しばらく歩いて振り向いたとき、高く翻る社旗の背後に大きな建物の屋根が見えた。屋根より高い数本の煙突からは、黒煙がもくもくと吐き出されていた。たしかにここは大きな工場だと思うと同時に、何だか異境の地に降り立ったようにも思えた。
 

 

(四)

 こうした思いを抱きながら、朝来た道の逆を辿り駅前に来たので、丁度昼過ぎではあるし、一膳飯屋にでも入ろうと思って辺りを見回すと、長崎チャンポンと看板の出ている店が目にとまった。
 

 店の中はちょうど昼飯時で、一般市民の外に、労務者風の若い男性が多く見受けられた。もうもうと湯気が立ち上り、ジュウジュウといった音がする。全く見慣れない雰囲気であった。何か油を使って料理をしているのだなと彼は思った。郷里の萩では、母が作る料理といえば、野菜は生で食べる他に、漬けるか煮るか、あるいは酢の物として食べ、魚なら焼くか煮付けにする。鮮魚であれば刺身にして食べるので、油でものを炒(いた)めて食べるようなことはまずない。立ちこめる湯気と油煙の中、向こう鉢巻き立ち姿で働いている若い男に向かって、彼は大きな声で思いきって注文した。
 
 「チャンポンを一皿ください」
言葉にはそれなりの内容が当然含まれる。人は普通その意味が分かって初めて口にする。しかしこの場合、彼はこのチャンポンという料理を、その内容を知らずに注文したのである。ほどなくして、
 「はい、お待ちどうさま」
 威勢の良い声と共に、五六合の水でも優に入るぐらいの、大きな白い磁器の碗に盛られて出された料理は、もちろん彼にとっては初めてのものであった。珍しく思いながら箸でかき混ぜてみると、さまざまの食材を使っているのに気が付いた。モヤシ、キャベツ、タマネギ、竹輪、蒲鉾、貝、タコ、イカ、エビ、牡蛎(かき)、豚、鶏肉、それにこれまで食べていたのとは違う饂飩(うどん)玉を加え、だし汁をかけたものである。萩では魚が主で、それも鰯や鰺(あじ)、鯖(さば)といった青魚、赤い魚と言えば金太郎とイトヨリぐらいである。鯛など高級魚は祭りの時に、母が作ってくれる押し寿司の上に、その小さな切り身が乗り、その鯛の粗(あら)で作った吸い物が食べられるだけ。野菜と言えば、大根、ゴボウ、ネギ、人参、白菜、それに海藻として、ワカメ、海苔、ヒジキ、塩昆布。この様な物を食べ慣れた者にとっては、今目の前に出された料理は、立ち上る湯気だけでも、食欲をそそるものであった。これは大して手間の掛からない簡易な料理だと思いながら、美味しく口へ運んだ。代金を払うとき、
 「お客さんはお見かけしたことのない方ですが、チャンポンは初めてですか?」
 「そうです。生まれて初めて食べたが、栄養たっぷりで、なかなか美味いね」
 「有り難うございます。この料理は明治の中頃から始まりまして、広く市民に好まれるようになりました。中に入れる食材は店によって、多少差がありますが、大体似たりよったりです。味の善し悪しは、それらをいかに良い頃合いに炒めるかです。それとだし汁で決まります。また是非お越しください」
 
 こうして、訛りのない言葉で教えてくれた割安で栄養たっぷりの料理で空腹を満たすと、惟芳は戸外の炎天下にまた出た。そして前より一層吹き出た汗を拭きながら、宿への坂道を上っていった。宿へ着き一休みした後、総務係で教えてもらった略図を見ながら、下宿探しに出かけた。
今朝起きがけに参詣した聖福寺の前の石畳の小道を、ものの十分も歩かないうちに、三叉路にぶつかった。右の方に曲がり、だらだら坂を下りると、大きな鳥居があった。そのずっと奥にもう一つ鳥居があり、さらにその彼方に、高い石段が続いており、石段の向こうに立派な神殿が、鬱蒼とした森の樹木を背景にして鎮まっているのが見えた。

 ―これが女将さんの言っていた諏訪神社か。おくんちの奉納踊りはここの広い境内で行われるのだな。萩の住吉祭りは夏だが、ここの祭礼は秋とかいっていたな。一度は見てみたいものだ。さてそろそろ下宿はこの辺かな。 
彼は出来(でき)大工(だいく)町、麹屋(こうじや)町を通り過ぎて、寺町にまでやってきた。さすがにその名に違わず、大小の寺の甍がいくつも見えた。さらに進んで諏訪町の路地に入った処で、頃合の下宿を探し当てることが出来た。
家人は中年の市役所勤めの夫婦と小学校に通う男児、それに奥さんの母親の四人家族。主人は養子だそうである。思ったより広い構えで、数年前から、二階二間を独身の勤め人に貸しているという。
 

 還暦にはまだ達していないようだが、やや猫背で着物姿の母親らしい女性が、自ら惟芳を案内してくれた。階段を上った踊り場で、左右の部屋へ入れるようになっていた。右側の部屋の襖を開けると、そこは六畳敷きで、畳一枚分の床と押し入れが付いている明るい部屋であった。有り難いことに東向きに二枚のガラス障子がある。窓越しに外の景色が見えた。鬱蒼と枝葉の茂った森のような風景が全面に広がって目に入った。ガラス障子を少し開けて彼は目を凝らして見た。すると一面森と見えたところに、人家や緩やかに傾斜した寺院の大きな屋根、さらに墓地や何本もの樟の巨木も判然としてきた。惟芳のそうした動作を見やった後母親は、
 「洗面所とお風呂は、私どもと共用にさせていただきます」
部屋を出ながらこう言うと、左側の部屋を指さして、
 「こちらには、県立長崎中学校にお勤めの先生が居られます。先生は英語を教えておられますのよ。夜遅くまでよく勉強なさっておられます」と、聞かぬ事まで愛想よく教えてくれた。

 そのうちどうせ同宿の人と言葉を交わすことになるが、彼はそれが中学校教師と聞いてよかったと思った。下宿代は月に五円五十銭。会社でもらう日給が五十銭であるから、月収はおよそ十三四円。食事付きの下宿で弁当まで作ってくれるとのことで、こぎれいな部屋であり、また静かな環境なので、この下宿代なら適当だろうと思って、その場で一応話を決めた。正式には主人の帰りを待って契約することになった。
 
 これで一安心だと思い、まだ十分時間があるので諏訪神社を参拝することにした。彼は神社仏閣を訪れるのが好きである。特に由緒ある寺院の境内、あるいは厳かな神域に身を置くと、我が身が清められ高められる様に感じられるからである。西行法師が伊勢神宮に詣でて詠ったという歌を思い出した。

 なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる

 大鳥居を潜って表参道へ出た。石段が長く続いており、二百段は優にある。その途中に石柱があり、左側の石には「知らせる人」、右側の石には「尋ねる人」という文字が刻まれていた。参詣人でごった返えすうちに、我が子を見失うことがしばしばあるために、このような計らいがされたのだろう。
 
 ―そう言えば思い出した。住吉神社の夏祭りでも、迷子がいつも一人二人はいたな。こんな石柱があるところを見ると、ここの人出はものすごいのだろうな。またしても萩のことが思い浮かぶのであった。参拝を済ませて振り返ると、市街地を越えて美しい姿をした山が見えた。雑踏を離れて、こうした高みに身を置くと、海浜で潮風に吹かれるのに似た清々しさを覚える。ここも散歩に適した場所であるので、時々足を向けようと思った。社殿に向かって左の方へ進むと、こんもりと繁った常緑樹の森へと小道が通じていた。森は、樫、椎、樟、栗、橡(とち)といった照葉樹など、今まさに新緑の芽吹きの真最中で、思わずむっとするような息苦しい圧迫感さへ感じられた。蝉(せみ)時雨(しぐれ)もすさまじい。蝉は近づくと、一斉に鳴くのを止めた。少し離れると、待ちきれなかったかのように、また一斉にジィ-と鳴き出した。
 
 ―蝉時雨とは上手い表現だ。盛んに鳴く蝉の声が一瞬止むのを、激しく降っていたかと思うと、いつの間にか止んでいる雨にたとえてのことだろう。実に適切な言葉だ。また耳を聾するほどの蝉の鳴き声が一瞬止んだ時は前より一層静けさを感じる。
芭蕉の有名な「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句は、このしぐれ降るような蝉の声が一瞬止んだ時、それまでよりも一段と静寂になったような感じを、岩にしみ入ると詠ったのだろう。流石に芭蕉は自然に対する気持ちが凡人とは違うな。
 
 この降り注ぐような蝉の鳴き声と、生命力にあふれた常緑の森の中にあって、全く別世界に踏み込んだように彼は思った。途方もなく大きな樟の木が、頑丈な根を踏ん張って、根元の巨石を抱きかかえているのがあった。太古の昔からでは勿論ないが、数百年にわたる自然の孜々(しし)たる営み、またその力強さをまざまざと見せつけられる思いがした。しかしこうした樹林の醸し出す濃厚な空間はそんなに続かず、そのうちぽっかりと青空が見える処に出てきた。ちょうどそこには、長崎奉行所跡と刻まれた石の標柱が立っていた。神域の森はそれほど大きいものではなかった。

 諏訪神社の森を出た惟芳は、暑い最中(さなか)、汗を拭きながら宿へ帰った。彼は宿の勘定を早めに済ませた。仮契約した下宿の主人が役所から帰る時刻を見計らって、夕方近くまで宿の部屋に居させてもらうことにした。彼はこの間を利用して、長崎に無事着き、造船所へも行って正規に採用されたこと、下宿も適当なところが見つかったことなど、用件だけだが両親に手紙を認(したた)めた。女将さんに投函をお願いして、畳の上に仰向けに大の字になった。

 
 両手を頭の後ろに組み、目を半ば開いて天井の杉板のきれいな木目を見ているうちに、知らず知らずのうちに眠りに落ちた。午睡の時間はものの三十分もなかったであろう。若い肉体にとって、この程度の休息を取ればまた元気が甦る。そうこうするうちに下宿へ行く頃合いになったので、女将さんにお世話になったと礼を述べて宿を後にした。

 

 

(五)

 今再び下宿に来てみて、この界隈の家々はどこも、塀や生け垣をめぐらしてあり、中には立派な門構えの屋敷もある住宅地であることを知った。下宿として決めた家の門は、やや粗末な冠木(かぶき)門である。その門を潜って玄関まで、真っ直ぐにおよそ六メートルの往来が続いている。飛び石の両側の地面には、この季節にしては好く保たれていると思われるほどに、青い絨毯を敷き詰めたような美しい苔がびっしりと生えてた。恐らく家人が毎日撒水でもしているのだろうと思いながら、飛び石をゆっくり踏んで行った。惟芳はこうした静かな環境にある部屋を、先刻約束した金額でよく貸してくれたなと、口には出さないが心の中で感謝した。
市役所に勤めているという主人は、先ほど帰ったということで、座敷で正式に契約書に署名捺印をすませた。主人は必要以上なことは口にしないと見える。後は母親にまかすといった格好で立ち去った。
 「早速今晩からおやすみになるのに寝具が要りましょう。月額五十銭でお貸ししてもようございますが、どうなさいますか」
 「郷里(くに)から送らすのも面倒ですからお借りすることにします」
 「お食事はお二階の先生と御一緒で、下の廊下を挟んで台所の真向かいのお部屋で、召し上がっていただくことにしています。それで良うございますか?」
 良いも悪いもないので、「私は構いません」と、応えるのみであった。
 「先生は佐賀の方です。貴方より少しご年輩でしょうが、夜遅くまでよく勉強をなさっているようです」と、さきほどと同じ言葉を口にした。
この母親の多弁に付き合うのも程々にすべきだと思って、
 「それでは今後ともなにとぞよろしくお願いいたします」

こう言ってその場を退いて階段を上った。右手の自分の部屋に入るとすぐ出窓を開けた。

 諏訪神社の鬱蒼とした常緑樹の森が西に傾く夕日を受けて美しい。この緑の色は確かに見た目に美しいだけではなく、心身を癒す効果があると、彼は体験的に以前からそう思っていた。
 

 萩の堀内にある家を一歩外に出たら、いつも目に入る指月山の緑と同じである。彼は本当に良い下宿が見つかってよかったと思うのであった。六時のサイレンが遠くから聞こえてきた。食事が出来るとの呼び声で彼は階下へ降りていった。隣部屋の教師はまだ帰っていないようだ。品数も多く、結構美味しい食事を食べ終わると、給仕をしてくれた母親と世間話を少ししただけで二階へ上がった。
 
 一時間も経ったであろうか、入り口の襖戸の向こうから、惟芳は自分の名前を呼ぶ声を聞きつけ、立ち上がって襖を開けた。目の前に、糊のきいた白地の浴衣をきちっと着こなし、太い黒味がかった帯を締めた男性が立っていた。五尺八寸の惟芳から見れば、背は少し低いが、肩幅が広く、太い眉ときりりと結んだ口は、なかなか男性的な魅力に富んでいた。柔和に見える貌(かお)の中にも、眼光は鋭く澄んでいる。何か武道の稽古で鍛えた目つきと体付きが彼の目に飛び込んできた。
 「突然お邪魔してすみません。私は隣の部屋をお借りしている吉川と申す者です。今県立長崎中学校に勤めております。あまりに唐突で失礼とは存じますが、よろしかったらお話においでになりませんか?」

 惟芳は初対面にしては気さくな人だと思った。折角このような誘いを受けたことだし、これからの付き合いを考えて、直ぐに承諾の返事をして、後についてその教師の部屋に入った。そこは押入と床が反対側にあるのを除いて、惟芳の部屋と同じ造りであった。しかし大きな違いは、壁面に一架の本棚があり、和漢洋の本の他に、事典辞書類がぎっしりと並んでいることであった。また床の間に褐色の太い木剣が一本立てかけてあるのが目に付いた。惟芳は、下宿の母親が二度まで繰り返して言っていたように、この教師はかなりの勉強家だと先ず思った。惟芳が着座すると吉川氏はあらためて挨拶した。

 「わざわざお呼びしてすみません。さきほど食事時に、今度貴方が来られたと云うことをお聞きしまして、どうせこれから毎日顔をつきあわす仲なのだから、早目にご挨拶をしておいた方が良かろうと勝手に思って、お声を掛けたような次第です」
吉川氏は気さくな面もあるが、礼儀正しい人物だと思いながら、惟芳もきちんと挨拶した。
 「有り難うございます。私の方こそこちらからご挨拶すべきところ、失礼いたしました。私は山口県の萩から参りました緒方と申します。今後よろしくお願いいたします」
惟芳は相手の清々(すがすが)しくも鋭い目許(めもと)に、言いしれぬ魅力を感じながら、深々と辞儀をした。 
 「萩のご出身ですか。私は詳しくは存じませんが、萩と言えば、伊藤内閣の後を継いで、この度組閣した桂太郎も、松下村塾の出身でしたね。松陰先生はたいした人物だったのでしょう。萩の乱のことも耳にしています。佐賀では、佐賀の乱江藤新平が明治七年に起こしていますが、その後二年して萩の乱が起きましたね。確かその首謀者は前原一誠で、彼も松陰先生の門下生でしたね」
 「そうです。さらにその後、鹿児島での西南の役と続きました。西郷隆盛を含めて、この人たちは皆、保守国粋的な思想を抱いていたために、時代に容れられなかったのでしょう。松陰先生が前原一誠を評して、『八十(やそ)(一誠)は勇あり、智あり、誠実人に過ぐ』と言われたそうですが、江藤新平も、憂国の至情みなぎる純粋な考えの持ち主だったのでしょう」 

 二人は思わず熱心に話を続ける結果になった。
 「西郷隆盛征韓論の主張など、みな同じ考えに基づくのではないでしょうか。しかしやはり時代の流れには抗す術(すべ)も無かったといえますね。あれからまだ二十数年しか経っていませんが、世の中は変わりましたね。こんな事を言っても、若輩の私にはよくは分かりませんが」
 「萩のことに話が及びましたが、萩はまだ町ですよ。(筆者注:市制を布いたのは昭和七年七月)長崎とは比べものになりません。しかし明治維新前、まだ毛利の殿様が萩城に居られた時は、人口は五万以上でした。廃藩置県が明治四年(1871)に施行され、立派なお城を他県に先駆けて取り壊してしまいました。その頃から士族を始め多くの人が萩を去り、人口は半減してしまいました。それに比べますと、この長崎は活気に満ちていますね」
 「やはり長崎は海外貿易が盛んだし、外国から新しい文物が入ってくるからですよ。緒方さん、貴方はシーボルトのことをご存じですか?」
 
 惟芳は初めて聞く外国人の名前に返事をためらっていると、吉川先生は生徒に教えるように次のように言葉を続けた。
 「彼は文政六年(1823)、今からおよそ八十年も前に来日しまして、鳴滝と言うところで塾を開いています。そのため全国から優秀な若者が、西洋の学問を学ぶためにやってきています。毛利藩からも優秀な人が来たのではないですか。出来たらいつか一緒に行ってみませんか?」
 「是非お願いします。長崎は歴史の町ですね。仕事の合間を見て由緒ある所を見学したいと思っていますから」 
 「佐賀にもぜひ来ていただきたいですね。佐賀の乱のことを先ほど申しましたが、実は私の父はそれに関係したために、私がまだ小学校に入る前に亡くなりました」

惟芳は、吉川氏も時代の波に翻弄された一人か、と思うと同時に、彼の話に一層身を入れて聞く気持になった。
 「初対面の貴方にこのような身の上話をするのはどうかと思いますが、母は私と幼い妹を抱えて苦労しました。佐賀の乱に続いて萩の乱、さらに西郷隆盛西南の役がありましたが、これらが同時に起っていたら、さすがの明治新政府もあわてたでしょうね。母は子供の教育だけは、自分は塩を舐めてでもさせなければと思って、私を中学校、さらに熊本の高等学校にまで行かせてくれました。母には本当に感謝しています」
 「高等学校までへ行かれたとは、さぞかし苦学されたことでしょう」
 「確かに苦学しました。母は私以上苦労したと思います。高等学校を卒業したら大学へ進学するのが普通ですが、これ以上母に苦労をかける訳にはいきませんので、就職することにしました。幸い前の長崎中学の校長先生が五高(旧制第五高等学校)出身の先輩だったもので、採ってもらいました」
 「それはよかったですね。今時分大学を出ても、右から左へと、直ぐに良い職が見つからないようですから」
 「確かにそうです。ところで独学も大切ですが、やはり良師に巡り会うということは 非常に有難いことですね。その人の一生を左右する事があると、私自身のささやかな経験からですが、その様に思っています。この点を考えますと、五高へ行けたことで母には感謝しています。おおこれは、思わず一方的に話してすみません。貴方を一目見て何だか気持が通ずるように思いましたので」 
 「わたしも初対面のお方と、こんなに楽しく話したことはありません」

 惟芳はこう言うと同時に、自分には両親が健在であるだけ有り難いと思った。
「そうですか。ところで私が英語の教師になりましたのは、五高で夏目先生に英語を教わり、また菅(すが)虎雄という先生からはドイツ語を教えていただいたからです。このお二人の先生は傍目(はため)にも非常に仲が良くて、正に肝胆相(かんたんあい)照(てらす)という言葉どおりでした」
 「管(かん)鮑(ぽう)の交(まじわり)なのですね」
 「お二人の場合、少年時代からではなく、大学で知り合いになられたそうです。貴方は夏目漱石と云う名をご存じですか。それは先生のペンネームで、本当のお名前は金之助だそうで、自分の名前に金の字があるのは好かないと仰有っていました」
 
 惟芳は漱石という名前を知らないので黙っていると、吉川氏はいかにも五高時代が楽しかったかのように、次のようなことを話し始めた。
 「先生の秀才ぶりは東京帝国大学在学中から夙(つと)に知れ渡っていたそうです。五高での授業は実に厳格で、予習をしていかないと教室に入るのが怖かったです。しかし授業の合間に話される雑談は、当意即妙の比喩や風刺に満ちて、本当に楽しかったですよ。ある時、先生は、『君たちは中学校で鴨長明方丈記を習っただろう。内容的には徒然草の方が数段優れていると思うがなかなか名文だね。僕は大学院にいたとき英語に訳してみた。しかし日本文の構文を何とか保とうと努めたが、言語の性質と表現方法が根本的に違うので、思うようにはいかなかった』こう言われて先生は、例の有名な冒頭の一節、 
  
   ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
 
 この文章の英訳を黒板にすらすらと書かれたのです。先生の英文も素晴らしいと思いましたが、先生が書かれた文字も惚れ惚れするほどの達筆だったのを今でもはっきり覚えています。先生は、日本の古典を英語に翻訳するのは、日本人より、優秀な外国人にまかせた方がいいと思われて、その後はおやめになったようです」
 「私なんか、英語を日本語にするのさえ思うようにいきませんが、日本語、しかも古典の翻訳となると、両方の言語に精通していて初めて可能なのでしょうね」
 「その通りですよ。夏目先生ほどの実力のある方でさえ、断念されたのですからね。ところで先生の学問に対する態度と言いますか、信念には確固としたものが感じられました。先生のつぎの言葉は肝に銘じています」

 吉川氏はこう言うと、書棚から小冊子を取り出して、栞が挟んであるところを開いて、ゆっくり読み始めた。

 「理想を高くせよ、敢て野心を大ならしめよとは云はず、理想なきものの言語動作を見よ、醜陋(しゅうろう)の極なり、理想低き者の挙止容儀を観よ、美なる所なし、理想は見識より出づ、見識は学問より生ず、学問をして人間が上等にならぬ位なら、初から無学で居る方がよし。」

 惟芳は、明治二十三年に発布された教育勅語にある言葉を思い出して、すかさず言った。
 「言葉を替えていいますと、先生は、智能を啓発し徳器を成就せよと、言われたのですね」
 「そうです。とかく金儲けや立身出世のためだけに学問をする、といった風潮を戒(いまし)めて言われたのです。また先生は、大学進学を希望する学生のためを思って、授業開始前の七時から一時間、特別課外授業をしてくださいました。朝早く寒い日もありました。受講した者は誰も感謝していました。また苦学している者の中には、先生に助けてもらったのが何人もいるようです」
 「立派な先生ですね。今まだ居られるのですか」
 「いいえ、五高にとってははなはだ残念なことに、この春先生はイギリスへ留学なさったのです。もう熊本へは帰って来られないでしょう。私も二度とお目にかかることはないのではないかと思います。夏目先生は小柄な方ですが、身体の割には大きい頭で、口髭を蓄えておられ、われわれ学生よりかなりご年輩かと思っていましたが、三十歳を過ぎたばかりだと知って驚きました。それだけ威厳があったと言えますね。本当に先生の御陰で学問の真意を教えられました」
 
 惟芳も長崎にまでやって来るに至った経緯(いきさつ)を話した。吉川氏が浴衣の片袖をたくり上げたときに、色白ながら筋骨隆々とした太い二の腕が目に入った。惟芳は、中学校で熱心に稽古した弓道のことも少し話題にした。吉川先生も武道には興味を持っていた。
 「お互い似たような境遇ですね。私も中学に入って撃剣の稽古を始めました。佐賀は撃剣がなかなか盛んな所です。葉隠れ武士のことはお聞きになった事があるでしょう?」
 惟芳が察したように、吉川氏は学生時代、剣道で心身の鍛練をしたということを知って、一層の親しみが湧いた。吉川氏は、夏目先生には僅か一年しか教わっていないのに、非常に感化を受けた、先生の事は決して忘れられない、といった風であった。時間も大分過ぎたので、五高時代の事など、是非また聞かせてくださいと言って、失礼することにした。

 吉川氏は勉強一途な堅い人物とのみ考えていたので、惟芳としてはいい人に出会ったと思いながら、自分の部屋に戻った。彼は机に向かうと例の手帳を取り出して、簡単に次の様に記した。

 「六月十一日 三菱長崎造船所ニテ採用通知書ヲモラフ。下宿ニ落チ着ク。環境良好。隣室ノ男性ハ中学校ノ英語教師。勉強家ニシテ剣ノ道ニ励ム好漢ナリ。初対面ナガラ気脈ガ通ジタ感アリ。萩ハ井ノ中、大海ヲ知ルベシ。」