yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 第十四章「硫黄島からの手紙(後編)」

 

(一)

 萩中時代全校生徒は、松陰精神をもって教育された。芳一と同期(昭和七年卒)の渡辺観吾氏の言葉が『山口県立萩高等学校百年史』に載っている。

 

 当時萩中では時々、吉田松陰先生の事跡について講堂で特別講演が行われたが、その講師は概ね香川政一先生の任ぜられるところであった。〔中略〕先生としては松陰先生の精神をどうにかして萩中生徒にじかに注入しようと懸命だったのであろう。香川先生の意図せられたことは、萩中生徒を明治維新の勤王志士のように、国事に挺身する志士に仕立て上げることではなかったかと想像される。このことは当時先生一人だけではなく、大きく萩中全体の教育方針の大筋でもあった。

 

 多感な中学生時代、このような教育を受けた芳一である。絶海の孤島ともいうべき硫黄島において、国土防衛、同胞守護のために米軍と最後の決戦を控え、身命を賭して戦うことは課せられた最高の責務と感ずるのは至極当然のことであった。芳一は月末まで故郷へ便りをする余裕は全くなかった。年が明けて一ヶ月の間、硫黄島守備隊員はひたすら穴掘りを続けた。栗林兵団長の新戦法は、「地下に入ってモグラとなり、上陸して来る敵地上部隊とだけ戦う」ことであった。

 

 「硫黄島の暑さは、内地の方々には見当がつかないであろう。しかも常夏の世界だ。強烈な硫黄ガスのにおいにも閉口させられた。しかし、一刻の中断もなく二十四時間、穴掘りがつづけられた。将軍も兵もない。誰もが自分の穴は自分で掘るのだ。爆撃攻撃に耐えるため、少なくとも十メートルは掘らなければならない。
ツルハシをふるって五分間も掘ると、硫黄のために頭がぐらぐらしてくる。だからと云って、防毒面をかぶると、汗また汗で仕事にならない。しかも十メートルぐらい掘り下げなければ、堅い岩盤に突き当らない。その間は地盤がやわらかくて、多少の震動にも砂くずれがおこる。それに夜間の作業もダメだ。ローソクの火が消えて仕事にならないのだ」  (『丸「硫黄島」読本』より)

 

 芳一は自ら穴掘りをする一方、傷病兵の手当てなど、軍医として一刻の余裕も見出すことが出来なかった。年が明けて最初の通信を家族全員に宛てて認める事の出来たのは一月三十日になってであった。先ず両親へ宛てて書いた。

 

 明けましておめでとうございます。今年こそは本当に決戦の年でございます。芳一は元気一杯今年こそはと張り切って居ます。年頭にあたり衛生部員一同を集めて緒方の命令一下一緒に死んで呉れるかと云いましたら、如何なる命令にも服従を誓って呉れました。一致団結お役に立ちたいと思ひます。部下の掌握もかなり出来た様であります故、今迄の空威厳を付けて呉れました鼻の下のチョビ髭も必要を認めなくなりましたので色々な改革を行ったついでに之も落としました。
 土砂降りの雨が二日も続きましたが、元旦となると嘘の様に一点の雲もなく晴れ渡り午前中は敵さんも一度も姿を見せなく輝かしい昭和二十年の幸先の良いのを感じました 父上様母上様にもさぞ良いお年をお迎へになった事と存じます 益々御元気である様お祈り致します
 軍機にふれる事は書けないのですが此処のお正月風景をお知らせ致します 此処は正月でもいつもと変わりませんがお酒と餅とおしるこが出まして四方拝があり部隊長は将校と会食されました お酒は濃厚酒と云って一升にお湯を入れると二升五合のおかんのついたのがたちまち出来ます 餅は餅の素と云ふ粉を水を入れてこねるとすぐ出来上がります 医務室も神棚にお鏡をあげ私の室と病室にあげました 蟻と油虫に食べられるので二日には頂きました 濃厚酒の他に普通の分を一升部隊長から頂きお前の仕事がしやすい様に使へと云われたので軍医部に持って行きました 兵隊は一人四勺でしたが医務室は他から廻して貰って私が貰った分も出して飲ませたので皆ポット赤くなる程でした
 私は大塚見習士官(今度来た人、東京帝大附属医者出身 附属病院内科より応召 一昨年九月卒業 東京の人)と本部の四方拝に行き御賜のお酒を戴き下士官六名と共に軍医部に申告に行き病院へ挨拶に行きお晝は会食午後は手紙書きです お正月は艦砲だと云ってゐましたが不思議と今日だけは敵もお正月をやってゐるのか三四回ちょっかいを出したきりでした 南の第一線に居てお正月をするなぞ眞に有難い事です
 御手紙に依れば父上様には小郡の方へ度々御出張で御苦労様でございます 汽車が混んだりして御疲れの事と存じます 何卒ご無理のない様にお願ひ申し上げます

 母上様の日記様の御手紙有難うございます。毎日の様に御手紙を頂く訳で御心尽くし有難うございます。面白うございます。和歌俳句有難うございます。
 ここに衛生一等兵歌人が居ます。東京商大出の秀才で高文〔注:高等文官試験〕をとる為に勉強するので女学校の先生をしてゐたそうです。どんなに忙しくても毎日三、四は出来るそうです。壕に入ってルーズベルトの蚊蜻蛉〔注:米軍機〕が頭の上を飛んでゐる時には暇だから良く出来るとの事。
 「おい見せてみろ」「イヤお見せする様なものではないんです」
 「いいじゃあないか」「はいまあこんな程度です」
 と言って小さな手帳の間から紙片と圧し花を出して見せて呉れました。

 めでたまふ 白菊なりと教へ子が 送りしをしばな 今も香残れり

 「仲々どうして相当なもんじゃ オイ弟子にして呉れよ」と云ったのでしたが未だに
忙しくて先生の教へを受けて居りません。

 

 芳一は学生時代演劇に興味を抱いていたためか、このように部下とのやり取りをユーモラスに手紙に書いている。しかし次の手紙にあるように、物凄い地熱、その上天水すら飲む事が出来ないような、まさに地獄絵さながらの状況下で戦っていたのである。

 

 ラジオでこちらの様子を知られ御同情のお言葉痛み入ります。それほどの事もございませんので何卒御安心下さいませ。地熱はそうとうのものです。ハンゴウを土の中にいけて置けば飯が炊ける処があります。爆弾が落ちると当分ゆげが出てゐます。壕掘りはすごいです。しょっちゅう足を踏みかへてゐないと地下靴の底から火傷をしそうです。
水は困ります。天水は患者だけに与へます。之が一等水、他は井戸水、之は一里も離れた処にあり、アメーバー赤痢、トリパノゾーマ〔注:眠り病などを起こす病原菌〕、硫化水素を多分に含んでゐます。これで汁を作ると塩辛くてにがいです。部隊長にお願ひして患者だけに天水を与へて居ります。幾度も頼んでやっときいて戴きました。でも住めば都です。つらいと思ってゐる兵隊は一人も居ません。創意工夫をして頑張って御奉公の実を挙げたいと思ってゐます。

 

 昭和二十年二月十九日、米軍は硫黄島への上陸作戦を敢行した。その日まで芳一は寸暇を見つけては家族の者へ便りした。筆舌に尽くし難い苛酷な状態にありながら、彼は決して弱音を吐かなかった。家族へは時にユーモアを交えた手紙を送り、心配をかけないようにつとめた。むしろ逆に生きる上での心構えを書き送った。これも一月三十日に家族ヘ宛てた手紙である。

 

 此処で考へる事と内地で考へる事と全然違ひます。一億総て火の玉となって戦ってゐますが、考へる尺度が違ひます。内地では理屈が多く実行が少ない様です。内地では精神だけひどく緊張して神経衰弱みたいです。此処では余り考へないで無神経と云っていい程平気で実行してゐます。〔中略〕
 弾があたる奴は死ぬ、あたらぬ奴はピンピンしてゐる。身体の弱い奴は病気で死ぬ、強い奴は平気で働いてゐる。命令があれば敵地になぐり込みに行く、それだけです。誰が死なうが厳粛に葬儀をしたら後は又皆笑ひながら次の仕事に取りかかります。
 それだから小さな事にくよくよしてはいけません。学生が油まみれになって工場で働いたからといって何も大騒ぎしなくてもいい当たり前の事だと思ひます。
 学徒出陣で出た学徒も会社の社長だった人も、此処では壕を掘ってゐます。内地の乞食同様の生活をする事もありますが、それだからといって何とも思ってはゐません。此処では当たり前の事です。しかし之が内地であったら大変な事です。内地と此処では同じ物差しでは測れません。〔中略〕
 内地はもっと落付いて心の余裕を待たないと神経衰弱になるのではないかと思はれます。何かすると非国民と思はれはしないかとビクビクしてゐる者がある様です。もっとノフードーに図太く考へて居る人も欲しいのではないかと思はれます。比島が一寸とられるとサァ大変ダ大変ダと大騒ぎして増産する。そんなに騒ぎ廻らずとも黙って増産して知らん振りしてゐる方が頼もしいです。
 生意気に口幅ったい事を言って申し訳けありませんです。特攻隊の勇士を思ふとう恥かしゆうございます。あんな立派な精神と仕事に涙がこぼれます。

 

 同じ手紙にいつもの冗談を睦子に宛てて書いている。

 

 此の頃時々生の魚を食べる事がある。皆がルーズベルト有難うと云って食べる。つまりルーズベルト給食である アメリカのオッチョコチョイ奴が間違って海に爆弾を落とすので魚があがる ヘン甘いもんだよ ワザワザ アメリカくんだりから重い爆弾を運んで魚とりだよ ご苦労さん お魚サンキュウだよ
 お母さんは意地が悪い お母さんの御手紙にはいつも御馳走の事ばかり書いてある誰々が来た時には何と何の御馳走を出したと読んでると喉が鳴る そうそうあんな物があったなァと想い出す でも想ひ出すだけでも御馳走だ 今度の手紙に酒を一寸しませて呉れ 匂をかいで見たい(酒のしみた処にしるしをつけてね)嘘嘘之はジョウダンだよ

 

 最後に歌人吉井勇の歌に並べて部下たちの歌や俳句を書き添えている。

 

 誰彼の以(えせ)非慷慨(こうがい)も聴きあきてひとりさびしく秋風に立つ   吉井勇
 執拗に掃射する敵機の旋回を歯を噛みつつ壕より仰ぐ   田井信之
 明日は誰が死する生命か唄うたふまどゐの中にふと思ひたり   辻井

 日焼けせるばかり戦のてがらなく   岡田
 頒ち吸う煙草みじかし迎春花   松尾
 暑に負けじ看護の任の重ければ   鵜飼
 行き死にの事にはふれず夕涼み   宮崎
 まだ生きてゐたと哄笑椰子涼し   若林
 外寝する我を軍医の来て叱る   水戸

 

 同じ日、芳一は妻の睦子へはかなり長い手紙を書いた。結婚してわずか四ヶ月で別れる運命になった新妻。彼女の哀切を極めた心情を思うと、彼は筆を取らずにはおれなかったのである。彼は優しく励ますような愛情こまやかな手紙を書き送った。

 

 睦子殿
 新年おめでたう 今年こそは本当に決戦の年である ドイツ戦線も比島戦線もその他南方第一戦に於いても此の激しい年を戦ひ抜かねばならぬ 此処でも今年こそは敵を迎へ徹底的にたたきつぶさねばならぬ 大いに頑張るつもりだ お前の方でも一生懸命に戦ってどんな事が起こっても決して驚かぬ様に大和撫子の本領を発揮して貰ひたいものだね
 と云って何も深刻に考へる事はないかねて覚悟は出来ている筈だそれさへ握って居れば後は余裕綽々と明るく面白く感謝の心で働いて行かう
 さてと効能書きは之位ひにして・・・・

 

 戦地にあっては家族からの手紙と慰問品が何よりも有難い。芳一はその返事を書くにあたり、特に睦子へはわざと面白可笑しく書いて、決して深刻ぶらなかった。

 

 紅茶は優秀の最たるものであった 丁度三人の兵長が今度下士官に任官したお祝に皆に馳走した ふりかけも七色唐からしも嬉しい ふりかけは大忙ぎで開けたら膝の上にパラッとこぼれた 之はしまったと思って罐を見れば「気を付けておあけ下さい」と書いてある ワーッと皆で大笑ひである 以后慎重に蓋を開けることにして居る〔中略〕
父上様が配給の少ない煙草を節約して送って下さるとの事 親なればこそ真に有難い事である 然し飛んでもない事でそんな煙草を頂いては罰が当たる 何卒御辞退申し上げて下さい 煙草はこちらにもあるし此の頃は割と豊富で他からも時々貰ふので兵隊に時々くばってやる程である 唯良くない事に皆かびが生へて居るので喉が痛くなるだけ 然しその為に喫煙量が減って良い

 

 芳一は睦子へは面と向き合って話をしているかのように、一人楽しく「煙草談義」を続けた。

 

 それでも時々黴の生えぬ良い奴を貰ふ事があるから不自由しない 恩賜の煙草も戴いたが之は送って差し上げたいと思ったが出来なくて残念
 兵団長閣下には櫻〔注:煙草の銘柄〕を戴いた 部隊長殿から戴く事が一番多い 閣下から貰って来るとホイショと云って下さる そうすると当分毎日食后に半分喫って居る 軍隊では閣下と云へば大したものである 神様みたいなもんである
 東京にはザラに居るんで大した事はないと思ってゐたが 自分の直属の閣下なぞ遠くの方から拝む事もめったにない 東京では或る閣下の娘さんを診た時先生先生と云って大事にされたので閣下なんて唯のお爺さんだと思って居たが 軍隊では煙草を頂く等実に光栄極まるものである その神様から煙草を授かったのだから俺も偉くなったもんだと思って内心得意であったが良く考へて見ればそれ程の事もない
 時々高級医官会合がある その時閣下が見へたり又代理が見へたりする事がある 時に依ると煙草を下さる事がある そうすると末席に控へた僕の所へも廻って来る 高級医官と云ふと聯隊に一人しか居なくて偉いのであるが事情があって僕が高級医官の仕事をしてゐるのでそれに列席するのである 「彼奴は見習士官のペエペエであるが仲々見所があるから高級医官の仕事をさせよう」と云ふ訳ではない 唯一寸した事情があるからである だから余り自慢にならぬ それでも頂いて来ると得意になって意気揚々と帰り「者共集レッ」と云ふ訳で此の時には一本づつ皆にくばってやるので俺のは殆ど残らない 俺もなかなか良い所があると思って苦笑する事がある
 そんな訳で煙草は困らぬ 何卒父上様に喫って貰って下さい ある所から貰ふのはかまわぬが少ない配給の中から送って頂いては罰が当たる 者共集れッと配ってやる訳には行かぬ 御辞退申し上げて下さい

 

 正月に花を生けたと云う睦子からの手紙を読んで、芳一は日本にある花々についての想いを述べた後、硫黄島に咲く可憐な花について次のように書き送った。戦場という殺伐とした環境の中にあっても、彼は花を愛(め)で文学に親しむことを忘れなかった。

 

 此処には花らしい花は少い バナナとパパイヤ、ヤシ パイナップル等 ヘーッあれが花かと云う程度 然し二つ三つある 椿の様な色で芙蓉の様な形の花と風鈴の様な玩具の様な花(之は押花にしたいと思ってゐるが滅多にない)とカンナ
 此処へ始めて上陸した時直ぐにスゴイ・スコールが来た あわてて皆トラックの下に逃げ込んだ バチバチと土がはね上がる ふと見ると雑草の中にピンクのスヰートピーが雨に打たれてゐる 僕はハットしてぐっと胸がこみ上げて来た 世界が初めて出来た時形成されてその儘の様な人類が未だ生れない以前の太古その儘を思はしめる此処のガランとした空虚な荒れ果てた風物の中に その花を見た時の感激は強烈であった 思はず濡れるのもかまはず車の下から這ひだして見ると かずらの様な茎にスヰートピーそっくりで花辦の肉は厚い頑丈な花であった その花を車の下に持ち込みそっと唇にあてると濡れた花辦は甘かった 黙って老中尉に示すとホウと云ってその人は暖かい目で見てゐた それから二週間もたってそれが気狂豆の花である事が解かった その豆を食べると天竺豆の様な味で一時間もたたぬ内に吐く下すで気狂の様になる それを兵隊が皆知る迄二三回往診した事がある その老中尉はまもなくなくなられた

 

 芳一が硫黄島へ上陸した時、「世界が初めて出来た時形成されてその儘の様な、人類が未だ生まれない以前の太古その儘を思わしめる、此処のガランとした空虚な荒れ果てた風物」が現前したのである。

 なによりも 荒野をいたわれよ
 純粋なる法則のうちに
 神々しくも形づくられた。

 

 これはドイツの神秘詩人ヘルダーリンの詩の一節である。上陸すると直ぐに「スゴイ・スコールが来て、バチバチと土がはねあがる」音でそれまで沈黙の世界であった太古さながらの荒野が轟音に鳴り響いた。その時、彼は偶然にも「此処の空虚な荒れ果てた風物の中に」可憐な一輪の花を見て感激のあまり、「濡れるのもかまわずに車の下から這ひだして見に行き、それを車の下に持ち込んで、そっと濡れた花辦を唇にあてた」のである。沈黙の世界を自然の音が破るのは構わない。それも神の営の一部と考えられるから。荒涼たる沈黙の世界。耳を聾する雷鳴の響。その中に見出した可憐な一輪の草花。芳一の詩情が筆を執らせたといえる。

 

 さて、彼が初めて硫黄島の大地を踏んだ時点では、アメリカ軍による空からまた海上からの、天地も揺るがす程の空爆や艦砲射撃はまだ現実のものとならず、想像の中にさへ入って来なかった。太古の昔から沈黙の中にあった荒野の硫黄島が、そうした攻撃で大きく変形するに至るとは考え及ばなかったのである。ただ彼は自然の轟音の中に我が身を見出したに過ぎない。芳一は、花についての想いを書き続けている。

 

 花と云えば閨秀作家クリスチナ・ロセッテイの詩には花が良く出てゐるね
 クリスチナ・ロセチが頭巾かぶせまし 秋のはじめの母の横顔  北原白秋

 花言葉   クリスチナ・ロセッテー
 赤き薔薇 白き薔薇 盛れる薔薇は よろこびの花
 忍冬 花の環を高くかざすは  愛の花とや
 ほのかにも甘き香のヘリオトロープ 望の花よ
 光なす白百合の高く直きは 姫御前の花
 わびしくもパンジーの色はおぼろに 思ひ出の花
 濃菫の かぐはしく匂へるものを 死の花と云ふ

 「雨の中 可憐に見えし気狂豆の花は 魔女の花」

 と、芳一は自分の歌を詠み添えた。

 

 考えてみれば、芳一がこのような思いをしたのは、上陸して間もない時である。迫りくる絶望的な状況を感知し、さらに絶対に免れない死を覚悟したうえで、あえてそれを打ち消し、ほんの一時的でもそれを忘れて、ロマンの世界に遊ぼうとした儚くも悲しい思いを伝えたかったのかもしれない。

 

 

(二)

 「遂に二月十六日、艦砲と航空機の砲弾爆撃により島の容貌が一変した硫黄島の海岸線を目指して、水陸両用トラクターに分乗した海兵師団が急迫してきた。十九日、米軍は上陸を開始した。二十三日、第一線陣地はことごとく突破せられ、突撃の肉迫戦に出た日本軍の将兵で生還するものはなかった。また多数の斬込隊が夜陰に乗じて出動したが、一人も帰還しなかった。二十四日以降、米軍の蹂躙の前に我が軍は手のくだしようがなかった」 (『硫黄島読本』より)

 

 もう此の頃になると戦況は我が国にとっては全くの不利。死者の数は増え、地下壕の中は負傷者のうめき声や硫黄の堪え難い臭い、更に息を引き取った兵士が放つ死臭で充満し、それは想像を絶する有り様である。しかし芳一は決して弱音を吐かなかったし、家族を心配させるような事は敢えて知らせなかった。むしろ家族を鼓舞するような話題さへ提供した。悲惨極まるこの様な状況の下で、彼は寸暇を割いて最後の軍事郵便を書いた。家族の者が手にしたその手紙には二月十八日の日付けがはっきりと読みとれた。彼はこの手紙を認めて約一カ月後に華と散った。遺書だと思って便箋の表と裏に楷書で几帳面に書いたのである。

 

 御手紙度々有難うございました 小包有難うございました〔中略〕戦争栄養失調症、戦争浮腫、戦争腎炎等始めて見る病気多く アメーバー赤痢チフス、パラチフス多くて忙しかったですが、昨今涼しくなり病人も減り暇が出来る様になりました 病気の種類は少ないので大分先生になりました 創の方も外科をやってゐた者〔注:芳一は外科専門〕にも内地で見られない外傷ですから一寸勝手が違ひましたが次第になれて参りました 暇になったとは申せ今、月始めで月末諸報告提出書類でてんてこ舞いです 患者が少なくなった此の際防疫保育を徹底したいといろいろ計劃し交渉で忙しいのです これが済めばホット一息つけるのではないかと思ひます 何しろ我々が余り忙しい様ではいけません 御手紙を拝見して皆様御元気にて明るく強く清く正しく御活躍の御様子にて何より嬉しく神に感謝致したい気持で一杯でございます

 

 芳一にとって何よりも嬉しいのは家族からの手紙である。彼の部下の兵隊たちも家族からの便りは皆大喜びで受け取っている。その時の様子を芳一は引き続き次のように面白おかしく書いている。

 

 今度手紙が一度に沢山来て皆大喜びです 兵隊たちは壕の中で一人づつ自分のを大声をあげて読み皆にゴヒローしてゐます 「エー今度は我が愛する女房からの手紙でありまァーす」、と皆はエードー、エードーと云って拍手を送ります 読み終わるとニコニコしながら大抵注釈が入ります 何せあいつは良い女房で身体は小さいが一貫目もある子供を産んだとか 子供がお父ちゃんはときくと万才と云うとか 色々とおまけをつけるのです すると他の連中も俺の所はどうだこうだと話がはずみ 又「その次」「次を読め」と云って一つの手紙を皆で大喜びで読みます 書いてある事は別に変わった面白いものではありませんが他人の手紙でも皆大喜びです 見ていると兵隊がいじらしくて可愛くて仕様がありませんが 子供の書き方とか図画が送って来ると お父ちゃんは涙をこぼさんばかりに喜んで皆に見せます ウン之は上手だと云って戦友の間を廻り最後に壁にはられます 和やかな暖かい気持ちになります
 士官殿の手紙を読んで下さいと皆がせがみます 俺のは立派すぎて貴様等には見せられんと云いますと その立派すぎる処を読んで下さいと圧しの一手で来ます 仕方がないから母上様の御端書を読みました 「なわをなう手を休めてはおならかな」と云う処で皆大笑ひいでした 此処でも私も注を入れ説明致しました ふゆさんもみほさんも春さん〔注:緒方医院の看護婦たち。彼女たちも芳一へ手紙を出していた〕も人気者になりました 今度は奥さんのを読んで下さいと皆が云いましたが、之は軍事極秘で発売禁止、絶対公開出来んと云ったら 茶目なのがそうでせうそうでせうと云って又大笑ひでした
 真暗な豪の内は一つのカンテラの下で壕が破れる程朗らかです 敵さんの爆弾が壕のまはりにドンドン落ちても頭の上で高射砲が地響きをたてても知らん顔で大笑ひです 手紙が来ると当分楽しみです オイ文子さんと云うと佐々木伍長が 何じゃ、オイ絹江さんすると竹田上等兵が 何キャーと、お互ひに女房の名前で戦友を呼んだりしてゐます と云って何時もジョウダンばかりで軍紀が乱れてゐる訳ではありません
 御手紙度々有難うございました 又小包はお心盡の数々有難くもったいないです こんな事ならもっと早く戦争に来るんだった 何て嘘です 内地でも良くして戴きました
御手紙小包も度々送って戴いたのですが私のは割合に良く手本に届いて居ます 

 

 芳一は「今迄届いた分だけ一覧表に致しました」といって、家族全員からの手紙が何月何日に届いたかという事を詳細に記載した。それを見ると父上様10、母上様10、正道殿14、睦子殿14、幡典殿5、等と書いて「正ちゃんが第一等賞 本当に有難う 兄思ひのお前はいつもむらなく手紙を呉れて本当に有難い 然し試験がすむ迄手紙はいらぬ」
 最後に妻に宛てて芳一は書いた。

 

 睦子殿 有難う色々の心盡しの数々 ソボロも佃煮もコーセンも仁丹もローソクもノミ取り粉も皆真心のこもった有難いものばかりである お餅は珍しかった 此処で餅が戴けるとは思はなかった 壕の内であの貴重なローソクをともして此の手紙を書いてゐる 今二本目がなくなろうとした 大忙ぎである
 父上様のお煙草はもったいなくてまだ一本も喫ひません 棚にあげて拝んで居ります 御山神社のお鏡と一緒に(之はもう殆ど頂きました)時間がないので又の便に
何卒お身体を御大切に御無理のない様に呉々もお願ひ申し上げます 自転車は風の強い時には絶対にお乗りにならない様お願ひ申し上げます
皆様     芳一

 

 家族からの手紙や小包が何よりも有難く、届いた日付けを一通も漏れなく書き留め、「こんな事ならもっと早く戦争に来るんだった」と、冗談を飛ばして家族に感謝し、自分が置かれている悲惨な立場、苦しい境遇に付いては一言も伝えなかった。

 

 その頃硫黄島における戦況は刻一刻と最終段階に迫りつつあった。海上自衛隊第四航空群の纏めた『硫黄島 南鳥島』には次のように書かれてある。部分的に引用してみると、

 

 遂に昭和二十年二月十六日から三日間硫黄島に対して艦砲と爆弾とが豪雨のように注がれ、砂丘の形が一変した。
 昭和二十年二月十九日〇六四〇から各艦は一斉砲撃、二時間たらずの間に実に七五〇〇トンの砲弾が日本軍の陣地に撃ち込まれた。
 〇八〇五からB29の大編隊が爆撃を加えた。〇八二五から艦砲による一斉射撃が全島をおおった。艦上戦闘機は上陸予定の南海岸に熾烈な銃撃を加えた。
 その間八時ごろ、約一五〇隻の上陸用舟艇は一斉に海岸に突進しつつあった。
〇九〇二 舟艇群は予定どおり南海岸に到着した。上陸したのは右翼海兵四師団、左翼海兵五師団約一万の海兵隊員約二〇〇台の戦車だった。
 一一〇〇 敵が約五〇〇ヤード進入した時、初めて日本軍の一斉射撃が開始され、敵海兵隊二四及び二五連隊の死傷は忽ち二五%にあがった。それより二八台の戦車が砂浜に擱座したのは、最初の反撃が偉効を奏した事を示すものである。艦砲射撃と艦載機の爆撃により我が砲兵陣地は破壊された。
 二月二十一日 米軍予備の第3師団が上陸した。
 二月二十三日、二十四日 正午には島内どこからでも見えるように星条旗が擂鉢山頂に打ち立てられた。
 二月二十五日 硫黄島のほとんど半分が米軍の占領するところとなった。
 三月二日、三日 海兵隊の戦車はなおも反撃を続ける日本軍洞窟陣地をしらみつぶしに火炎放射器を使って掃蕩し、組織的な抵抗を急激に弱めていった。
 三月八日 千田少将は総攻撃を決意し、各隊長に命令を下達した。また傷病者には別れを告げさせた。
 三月十六十六日 栗林中将は決別の言葉を東京に打電した。
 三月十七日 栗林中将は夜半を期し、師団長自ら陣頭に立ち総攻撃を敢行する決心を固め「あくまで決死敢闘すべし、おのれを顧みるを許さず」の攻撃命令を発した。この総攻撃でわが兵力一五〇〇名中一一〇〇を失った。
 三月二十二日 生存者による第二次総攻撃が敢行され、この攻撃で大部分が玉砕した。

 

 この後芳一からの通信は全く途絶えた。新聞やラジオが伝えるニュースで、硫黄島の絶望的な状況を察知しながらも、幸は芳一宛てに葉書を出し続けた。しかしそれらは「尋ネ得ズ転居先不明左記へ」の付箋が貼られて空しく幸の手元へ送り返された。その中の一枚に自分の小さな手形を縁取って、その掌にあたる処に書いた葉書がある。

 

 「お母さんはこの手を合せをがんで居ります 皆さんの神様 有がたう御座います 目には涙が一ぱいです 阿りがたう御座います 御武運の長かれとお祈り申します」

 

 戦は悲惨でありまた空しいものである。戦場で戦う兵士も銃後で彼等の身を案ずる家族の者にとっても。この事は敵も味方も同じであろう。絶体絶命の立場に置かれながら芳一は家族の者へ手紙を書き続けた。一言の愚痴も云わず不平も述べず、また悲壮感の欠片さえ見せていない。父に対しては御無理のない様に、二人分御奉公に励みますと云い、妻や弟達へは一生懸命勉強し、親孝行をお願いすると云い続けた。

 

 戦後七十余年の時が流れた。「硫黄島からの手紙」を読み読者はどのような感慨を抱かれただろうか。今我々は戦争のない平和な暮らしをしておる。しかし筆者はこの「硫黄島からの手紙」を書き終えて次のことを最後に述べざるを得ない。

 

 栗林中将が大本営に宛てて決別の打電をされた。その「辞世」の中に次の二首がある。

 

 国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき

 醜(しこ)草(ぐさ)の島に蔓(はびこ)るその時の 皇国(みくに)の行手一途に思ふ

 

 硫黄島守備隊員は誰もがこのような気持ちで尊い命を捧げたと思う。「国破れて山河あり」という言葉がある。確かに戦いは空しいものである。しかし彼らが国の前途を思って尊い命を捧げたことだけは、決して忘れてはいけない。