yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

『杏林の坂道』の読後感

 

                  一

 

本誌『風響樹』に2001年(平成13年)から連載してきた伝記小説『杏林の坂道』を、昨年末に私家版として400冊ほど上梓した。当初は、残部が多く出たら処置に困ると思っていたが、幸いにも今は手元に殆どない。

文章を書くなど思いもしなかったのであるが、全く偶然の動機から書き始め、どうにか完成にこぎ着けることが出来た。それだけでも満足しているが、知人はもとより未知の方からかなりの数の読後感を頂戴した。これは私にとって望外の喜びで非常に有難かった。この喜びをそっとしておく方が慎みのある態度だと思うが、今回敢えてその中から数編を選び、筆者の承諾を得て披露させていただくことにした。考えて見れば、この長編をじっくり読んで、その上このような読後感想文に纏めるのは、決して容易なことではないと思う。私としては敬意と感謝の気持ちを表したいのである。

 

事を為した後、他人の評価を全く度外視して、淡々と何事もなかったように振舞う事は、凡人にはなかなかできない事である。『風響樹』に連載中、数人の方から寄せられた読後感は、私にとって励みにもなった。2007年(平成19年)8月23日の『読売新聞』の「時評・小説」に、松本常彦氏が『風響樹35号』を取り上げて下さった。これは全く思いもかけない事であった。以下はその全文である。

 

山本孝夫「杏林の坂道」は、緒方惟芳という医師の生涯を辿る連載長編の伝記である。緒方は、明治十六年に山口県に生まれ、日露戦争では看護兵として従軍し、広島の陸軍病院に勤務しながら苦学して医師になった人物で、「第八章・医師への道」と題された今号は、その明治四十年前後から大正に至る間のこと、つまり緒方の二十代半ばから後半にかけてのことが書いてある。

基本的には、緒方の残した日記や写真などの資料に基づき、その紹介に則しつつ人生を再現するという書き方である。謹厳な医師が残した日記の引用は、場合によっては無味乾燥な趣を与えかねない。しかし、この伝記の場合、緒方が日露戦争中に撮った写真など、資料自体の面白さに加え、資料を直接に引用・紹介することで記述の客観性を保証する。それだけでなく、資料についての解説を平易な語り口で記し、また、資料全体を見渡した上で主人公や関係者の心理にまで踏み入ることを恐れていないため、生身の人の姿を伝える伝記小説としても十分に楽しめるものになっている。

著者は、同時代的な事件や歴史事項にも十分に意を払っているが、その意図は、歴史それ自体の再現にあるのではなく、歴史を生身の人間として生きた生の再現にあると感じられた。(筆者は九州大学大学院比較社会文化研究院教授)

 

この三年後の2010(平成22年)12月27日の『毎日新聞』に、松下博文氏の書評が載った。これは短評だがやはり有難かった。

 

山本孝夫「杏林の坂道」(「風響樹」39号)が第十二章に入った。今号では実母の死から県立萩中学校へ進学、日大医学部への入学、父祖の地での医業開業、その後の結婚、そして召集令状によって硫黄島に行くまでの緒方芳一の足跡が描かれている。中でも父や継母や妻や兄弟にあてた硫黄島からの手紙はその後の玉砕を知るものにとってはやりきれない思いがする。(筆者は筑紫女学園大学教授)

 

これに引き続いて『長周新聞』に、「硫黄島から家族にあてた手紙」と題して『風響樹40号』の書評が載った。記者の竹下一氏の懇切適切な書評には、流石にプロだと感心させられた。その一部を取り上げて見よう。

 

芳一からの初期の手紙は、灼熱と硫黄臭にむせびアメーバー赤痢などの伝染病と戦う地下壕の中から、両親や妻へのいたわりと期待を込めて書かれたもので、文芸的な感性を確かめる心のゆとりを感じさせるものであった。部隊の兵士たちが何よりも、家族からの手紙や慰問品に喜んでいることを伝えていた。

芳一はそこで、家族に「生きる上での心構え」を綴っていた。それは当地と内地との「考える尺度」の違いについて、「内地では理屈が多く実行が少ない」「精神だけひどく緊張して神経衰弱みたい」だというもので、「内地はもっと落ち着いて心の余裕を持たないと神経衰弱になるのではないか」「何かすると非国民と思われはしないかとビクビクしてゐる者」もいるが、「もっとノフードーに図太く考えて居る人も欲しい」と諭していた。

 

『風響樹41号』でもって私は連載を終えた。これにも『長周新聞』紙上に竹下記者の好意的にして実に要を得た書評が載った。一部転載してみよう。

 

小説は、惟芳とその周りで生きた当時の人人に特有な素朴な人情のなかに質実剛健、誠実実直さを秘めた気分感情を、その家族,親戚はもとよりさまざまな知人、友人の証言、関連する公文書、書簡や手記などの諸資料の紹介を通して描いている。また、そのような一家族の営みを吉田松陰高杉晋作など維新の傑物、漱石や鷗外などの文豪、中国の古典などから豊かな人間的素養を織り交ぜて、社会的歴史的広がりのなかで浮かびあがらせている。(中略)

最終稿となる今号は、芳一に続いて、夫の惟芳を失った妻の幸が残された四人の子どもを女手一つで育てあげ、百一歳の長寿をまっとうするまでの半生に光をあてている。

一家の大黒柱を失った幸は、背負わされた生活の困難を正面から受けとめる。小説では、その局面で幸が娘時代に父親から聞いた、維新前夜の祖父母の経験を思い起こす内容をくわしく展開している。幸の祖父・梅屋七兵衛は、迫り来る幕府にうち勝つ必要から長崎にわたって洋式銃の購入を命じられるが、当時の緊迫した複雑な情勢から、上海に一年間ほど逃れ滞在し、任務をなし終えた人物であった。

幸は父親がこの話を通して、「(難局に立ち向かうとき)歯を食いしばって辛抱し、苦難を乗り切った体験こそが、心の貴重な支えになるのだ」と教えようとしたのだと思い起こすのである。

小説では、これと関連して、七兵衛が上海に滞在した三年前に、高杉晋作が同じ上海に渡航した様子を高杉の『上海日記』から多く引用して印象づけている。(中略)

こうした山口県の父祖たちのたたかいと気骨を受け継ぐ幸は戦後この地にも、戦前、戦中とは違った風潮が浸透しており、都会では「自由主義」「民主主義」が上ずった調子で叫ばれるなかで、「美しい人倫が崩壊し、人としての矜持が失われていく」ことへの強い危惧を覚えるのである。(中略)

作者は、明治生まれの格式を重んじる一人の婦人の生き方を通して、それを単純に古いものとして片づけるのではなく、そこから今日の荒廃に対置,継承すべきものを引きだそうとしている。それは、この小説全体を大きく貫くテーマだといえる。

 

                   二

 

『風響樹』への連載は14章をもって最終稿としたが、私家版にはこれに一章を加え、さらに主人公惟芳が撮影した「日露戦争の写真」ならびに惟芳と妻の幸、および硫黄島で玉砕した芳一の肖像写真と芳一の遺品等の写真を載せた。

先に述べた『長周新聞』に、またも竹下氏の好意的な書評(今回は割愛する)、引き続いて『サンデー山口』にも書評を載せて頂いた。これらを読まれた方々から拙著の注文があった。その中の一人に原田という方がおられ、原田氏を介して拙著を読まれたA氏(匿名を希望)が読後感を原田氏に送られた。それを原田氏が私のところへわざわざ送って下さったのである。A氏は私にとって全く未知の方である。最初にこのA氏の読後感を紹介する。

 

お贈り下さった『杏林の坂道』を読み進むうち、格調高い文体と丹念な資料、適切な引用、多面的な展開に引き込まれ、つよい感銘を受け、感想をしたためることに致しました。

今や「医は仁術」がすっかり死語となりました。「世のため人のため」すなわち自ら使命感をもって医業に従事するのではなく、一職業、単なる金もうけのため安易に医学部へ進む子弟が少なくありません。他方国民皆保険制度が崩壊し、重なる悪法のためやむなく病院から患者を追い出したり、あるいは貧しい者が満足に医者にかかれぬ有様。「医は算術」の荒廃と残酷さは年ごとに度を増しています。ニュースで報じられる介護上の艱難や病苦・自殺の悲劇が繰り返されるのを見るにつけ、この国のあすを思うと胸が痛みます。

本来あるべき医者の姿、つまり「医は仁術」の精神を、身を以って実践された緒方惟芳先生。松陰先生や高杉晋作を生んだ誇りある萩に育ち、古武士の風格そのままに「至誠」を生涯貫かれました。生活困窮のため萩中を五年で中退、長崎三菱造船所で猛勉強、世が世なら造船技師としての輝かしい未来がありました。折からの日露戦争で出兵、戦場の地獄を見て衝撃を受け、負傷兵看護の任にあたるなか命の尊さにつよく目覚め、先生は苦学覚悟で医師への坂道を選ばれました。

都市部での勤務条件がありながら敢えて望まず、乞われて寒村へ赴き、三五年間、悪路・悪天候、戦時下の医薬品欠乏の困難にうちかち、村人に誠心誠意、たゆみなく徹底的に奉仕されました。内科・外科にとどまらず、歯科・産科まで研鑚を積み、医学雑誌で日々新知識を身につける熱心さでした。山坂を超えての往診、盆正月もなく、夜を徹しての姿は、まことに杏林として称賛に価します。

貧しい農漁民が治療費に困るとき「いつでもよい、孫子(まごこ)の代になってでも、払えるようになった時払ったらよい」と言われた。さらには診断を一度も受けずに死亡する例を幾度も見て、往診料を取らないことに決めた。先生はまた村の河川で汚物や野菜を洗う衛生環境について注意を喚起し、トラホームの撲滅に努めるなど、四六時中、村民の健康と安全のために心を配っておられました。

たとえば診療所作りに当たって、村民が欅や櫻の大木を寄進したり、総出で地固めの胴突きを手伝い、あるいは先生に欠かさず刺身のつくりを届けるなど、まさに水魚の交わりでした。常日頃、人々を信じ村民の安寧と幸せを心から願っておられたのでしょう。死期が近づいたとき、「このお札(ふだ)を呑めば治る」との一村民の訴えにも、従容として飲み下した、その度量の深さ大きさには感服のほかありません。

「人の評価は棺のフタが閉じて定まる」といわれるように、六二歳という若さで先生を失い、村人がどれほど大きな悲しみに包まれたか、それは村民葬、村長弔辞から十分にうかがえます。戦後、奥様が食糧買い出しの際に至る所で「先生のご恩は忘れておりません」と言われ、励まされたことからも、惟芳先生の人徳の大きさが偲ばれます。

成ろう事ならば先生を顕彰し、記念の石碑を診療所跡へ建立して、先生の生き方に学び、業績を称え後世に伝えるべきとさえ思いました。労作『杏林の坂道』はその意味で、地域や親族・関係者のみならず、広範な人々を励ます記念碑的な役割を立派に果たしております。また幸奥様が薬師寺へ収めた四千余本の茶杓作りは、なみなみならぬ信念と努力の賜であり、一八一四人からの礼状へご返事されるなど感動的です。患者や看護婦さん、ご近所の方々への思いやり、戦後の混乱困窮にあっての育児等々は、昨今失われつつある美徳として、緒方先生の生き方が偽りなき真実一路だったことの証です。ご子息が先生の意志を継ぎ、杏林の道を歩んでおられることにも心打たれます。

それにしても先の大戦で前途あるご長男の命を硫黄島の激戦で失わしめ、終戦前日に弟さんの右腕の自由まで奪った、そのことへの無念さ、言いようのない憤りを禁じ得ません。朝鮮半島争奪をめぐる帝国主義諸国による戦争から百二十年経ち、今なお日本列島をとりまく空と海は平穏無事でなく戦火の危機をはらんでいます。無益な戦いを繰り返すことは緒方惟芳先生の最も望まぬ、許し難い破滅と不幸の道であろうかと思います。

一九世紀ロシアの文学者が「社会のためにならないような学問ならば、止めた方がよい」と述べていました。越前の渡辺洪基(初代帝国大学総長)もそれを強調しました。同様の言葉を緒方先生の信念の中に見てたいへん心強く感じました。それは科学や文学に限らず、芸術やスポーツにあっても同じだろうと考えます。

敗戦後わが国でも急速に自己中心の思想に毒され、「金がすべて」の風潮が蔓延しています。「寸善尺魔(良いことが少なく悪いことが多い)」の世が世にあって、人々の願いにあくまでも奉仕する先生の気高い精神、どんな境遇にあっても信念を曲げない強靭な意志は、こんにち最も必要とされる人間像です。すなわち「人はどのように生きるべきか」「生き甲斐とは何か」「銭金より大切なものがある」ことを、緒方惟芳先生は、自らの実践をとおして教え諭しておられます。この度の上梓の意義もそこにあろうかと痛感します。私同様に本書を一読した全ての人々の胸に先生の面影と息づかいが宿り、日々の生活において行く手を照らし勇気づけてくれるでしょう。現在も寒村僻地や離島、あるいは未開の異境で医業に携わっている人が少なからずいます。緒方惟芳先生の気高い精神は脈脈と生きており、人の世のある限り「杏林の道」が絶えることはありません。真の杏林の名に最もふさわしい惟芳先生、さらに先生にたいする著者の熱い敬愛の念、一〇年にわたる作業に心から感謝、お礼を申します。 (二〇一三年一月一七日」

 

贅言を要しない。私はこの読後感を読み、涙が出るほど嬉しかった。もう一つ、これに勝るとも劣らない長文の立派な読後感を頂戴した。姫路市在住の金沢史典氏からのものである。 

人生には不思議な出会いがあるものである。2002年4月号の『図書』に「漱石と弓」と題した私の小文が載った。これを読まれた金沢氏は岩波書店に筆者の住所を問い合わされ、手紙を下さった。これが金沢氏との出会いの始まりである。金沢氏は琵琶に非常な関心を寄せておられ、琵琶に関する数多くの文献にあたって研究を続けておられる。漱石は琵琶の俳句を詠んでいる。彼には弓を詠った俳句も幾つかある。漱石の俳句が縁となって、爾来金沢氏と私は幾度となく文通を重ね、お会いする機会も得た。

それではここで金沢氏から頂いた読後感を紹介しよう。過褒の内容なのでいささか面映ゆいが、敬意を表して全文を載せる。

 

 

        『杏林の坂道』(山本孝夫先生・著)を読んで

 

 山本孝夫先生が十年がかりで書き進められてこられた『杏林の坂道』がついに完成、昨年末、一冊のご本となった。ご恵投戴いた、ずしりと思い大著を手にし、感無量である。

いくたび上梓されるようおねがいしたことであろう。それがやっと実現、目の前にあるのである。なににもまして嬉しいできごとである。

書き始められたのは先生古稀の年である。ご縁を得て一読者となった小生は、六十七歳であった。書き終えられた先生は傘寿を、一読者である小生も喜寿を迎えた。

過去、小生はあれこれの著者に、いささかのかかわりを持ったことがあるが、この著はまさしく、それらの中で最もこころに残る著書である。

 

『杏林の坂道』は、一言で言えば、医師を志した一群の人々が如何に生を貫いたか、そしてまた、今なお生き続けているか、の物語である。

この物語の主人公は、時の流れに従って、父「緒方惟芳」(敬称略、以下同じ)から、長男の「芳一」へ、そして、母の「幸」へと移る壮大な大河の様な物語である。

これらの主人公たちを大木の柱として、子供たちや、その外多くの人々が枝葉となって青々としげり聳え立っている物語である。

 物語の中で最も大きな柱である「惟芳」が、若き日、恩師の「安藤先生」を訪ねたとき、先生は、庭の杏(あんず)の木を指差して、中国の故事を話された後、「医者の美称(びしょう)として杏林(きょうりん)という言葉があるのも、今言った故事に由来しているのだね」(74頁)と語られるところで、この著の題名の由来が暗示され、「終章」の末尾で、『彼(注・惟芳)は「杏林」つまり医者としての一筋の「坂道」を登り続けた』と著して、高々と『杏林の坂道』を完結に導いておられる。

 

 今まで、会誌『風響樹』で拝読してきたときと、このたび、一冊にまとめられた作品として読んだときとは、感動は大違いである。

 一冊の著書になるということで、作品に新たな命が吹き込まれたとさえ思われる。

もしも会誌掲載だけで終わっていたら、天は嘆いたことであろう。「惟芳」はじめ、「幸」も、「芳一」も、多くの関係者も無念に思ったことであろう。

 ただただ、よくぞ完成させ、一冊の大著にしてくださいました、と満腔の感謝の誠を捧げるのみである。

 

 著書は、原稿用紙にすれば千枚をはるかに超える大作である。

 大著を拝受後、遅読癖のある小生はメモを取りつつ、一月余を費やしてやっと読了できた。メモは60ページにもなった。それほど、著書には、見落してはならない大きな内容が含まれていたのである。

 この著は、幕末から、明治、大正、昭和、平成と、連綿として途切れることなく続く刻の流れのなかで、緒方家と、山本家の人々がいかなる困難に遭遇したか、それらの困難をいかにして乗り越え、生きてき来たかを語っている。

 激動する時代の中で、それぞれの家が、どのように時代に立ち向かい、どのような役割を果たしてきたか、その間、それぞれの登場人物がどのように考え、どのように身を立ててきたか、が大きな川の流れのごとく描かれている。

 また、随所に、歴史上の出来事等がつかず離れず挿入され、登場人物の生きざまを際立たせている。先生がいかに、膨大な資料を渉猟されたかを垣間見るのである。

 

 主人公「惟芳」の、中学生時代から、出征、帰国、医師になり、寒村での献身的な医療行為、いきざま、思想、そして死は、物語の大きな流れの中でさまざまな証言によって活き活きと描かれている。「惟芳」の生き様が、物語を「貫く棒」となって屹立している。時代の精神を反映してのことであろうが、「惟芳」が、子供たちにスパルタ教育をしていたと書かれているが、今生かされて在るご子孫たちの証言を読めば、社会に独り立ちし、社会において自分の役割を果たせるような立派な人間を作り上げるための「愛の鞭」であったと理解できるのである。今、盛んに問題になっている「体罰」とはいささか趣を異にしたものといえよう。

 

 「惟芳」を支えた第一の人に「幸」をあげなければならない。主人公といって差し支えないであろう。

 「先妻」の子、「芳一」と、自分が産んだ子供たちをわけへだてなく、というより、最も大事にし、母子の情を通わせていたことがわかる。

 夫に対しては、心底、尊敬の念を抱き、深夜の往診に出かけているときは、一睡もせずに待っていたなど、いまどき考えられないような献身振りが描かれている。

 そして、夫の霊前に、残された子供たちを立派に育て上げると誓いを立て、その約束をみごと実践し、晩年は、茶杓作りを通して社会貢献を果たされた生涯であった。

 育児放棄が盛んに言われる現今、このような「慈母」が居られたことに感嘆するのみである。今、こうした「母」が数多くあって欲しい。必要である。その意味でこの「母」の存在を世にひろく知らせる意味においても、この物語は、大きな意義を持つといえよう。

 

 もう一人の主人公ともいうべき、「芳一」は、「惟芳」や「幸」、恩師らに育てられ、実に優しく、たくましい人物に成長して行った。父や母へ孝養を尽くし、弟や妹、そしてわずかな期間ではあったが、妻であった「睦子」への、愛情あふれる手紙には感涙を禁じ得ない。

 戦争なかりせば、「惟芳」を継いで、現代の赤ひげ先生といわれ、人々に慕われる名医になったことと思われる。

 戦争は、多くのすぐれた人々の命を、海に、山に、空に散らしてしまった。

 その一人、「芳一」の手紙には、過酷な戦場の中でもユーモアを忘れず、父母、弟妹はじめ、戦場の部下に温かく接している様子があふれている。まことに、戦争は残酷である。あたら有為な青年を自決に追いやったのである。

 

 物語を読めば、「惟芳」も、「芳一」も、根っからの軍国主義のかたまりではなかったことがわかる。そのことは、人の命を救う「医の道」を選んだことからも明らかである。

 しかし、時代の風というものはおそろしい。為政者と、そのお先棒を担ぐマスコミによって、国民は次第に軍国主義の風潮に巻き込まれ、それこそ一億国民が戦争へと突き進んで行ったことを忘れてはいけない。先の大戦時、愚老も、小学低学年であったが、B29が撃墜されるのを目のあたりにして拍手喝采したものであった。

 沖縄を始め、東京、大阪、名古屋、神戸、そして姫路の地も、お城だけを残して灰燼に帰する爆撃など、内地の人々も、大きな被害を受けたのは広く知られているとおりである。

 「芳一」の弟、「幡典」も終戦間際の爆撃により負傷させられている。

 物語は、声高にではないが、戦争の無残さ、非戦、反戦を訴えかけている。

 いま、新聞や、週刊誌のタイトルを見れば、「北」の核実験強行を始め、中国の尖閣諸島接近、竹島問題など、まさに開戦前夜のような様相であると伝えている。これらの見出しにはぞっとさせられるが、狂った人間の一本の指がスイッチを押し、一発のミサイルが発射されでもすれば、それこそ破滅的な戦争を引き起こす恐れは十分あるのである。

 終戦後数十年、人々は、早や戦争の悲惨さを忘れたのであろうか。先の大戦で何千万の人が犠牲になったことか。

 わが国の侵略によって近隣諸国の人々は多大の被害をこうむり、またわが国自身も何百万という犠牲者を出したことを忘れたのであろうか。

 もう戦争はやめろ、殺し合いはやめろ、と多くの「芳一」が、泉下から声を大にして叫んでいるのが、聞こえないのであろうか。

 「芳一」らの望んだのは、軍事大国になることであろうか。そうではないはずだ。なんとしても現代の危機を回避すべきである。それこそが、先の大戦尊い命を捧げた多くの「芳一」の願いではなかろうか。

              

 作品には、いろいろな関係者が登場して来られるが、それぞれの方が、深い感慨に打たれておられることであろう。

 愚生にとって望外の喜びは、「第三章 三菱長崎造船所」の「二」に、お送りした「常陸丸」に関する琵琶詞を引いていただいたことである。

 「姫路市在住で琵琶歌について造詣のある金沢史典氏から、次の琵琶曲を教えていただいたので、そのさわりの部分だけ記しておこう」(48ページ下段)、

 とあり、まことに光栄、感激の極みである。

 「詞」のあとに、先生は、「琵琶の哀調を帯びた弦の響きを伴奏に、この悲しい琵琶曲に耳を澄ませば、悲憤(ひふん)慷慨(こうがい)、ロシア憎しの感情が、澎湃(ほうはい)としてわき起こったであろうことは想像に難くない」とつづけておられる。

 この曲を、宮城県出身の亡父が若かった頃、幾度も演奏したであろうと思うと、まことに不思議なご縁といわなければならない。

 この作品に「常陸丸」と愚生の名を載せていただいたことによって、この著書を読んだ人々が、「金沢」という人間が確かに存在していたのだな、と、目の端にでも止めて下さるだけでも光栄である。  

取り上げてくださった先生へ、限りなき感謝を申し上げたいと思う。

 また、「芳一」の実弟「正道」氏が、鎮魂のために硫黄島の戦没地へ参拝されるとお聞きして、止むにやまれぬ思いからささやかな志をお送りしたところ、後になって知ったことだが、愚生の名でもって献花していただいたことを知り、余りにも、出すぎたことをしたものだと、慙愧の念に駆られたことを思い出す。まことに申し訳ないことをしたものである。

 このように、この作品に思いもかけぬかかわりを得たことは、他の人々とは、一つ違った生涯の思い出となった。

 この作品には、「惟芳」の従軍日記や、「芳一」の軍人手帳、「惟芳」を知る人々の証言、がみごとに生かされている。

 また、作者である先生が、あちこちへ取材に出かけられ、物語を大きく膨らますことに成功しておられる。

 作品は、机の上で書くものではなく、脚で書くべきであるということを如実に思い知らされた。

 山本先生には、この物語を書くべく天命が与えられたというべきであろう。

 その大役を受けとめついに完結させられたことによって、天も、今はなき縁者も、多くの関係者も限りない賞賛を送り続けることであろう。

 

 この作品をぜひ読んで欲しいと思う二人の知人に、先生の著書を送った。一人は高知県在住の友人であり、もう一人は、島根県出身の元・上司である。

 さらに、この著を、一人でも多くの人々に読んでもらいたいと心から願う次第である。

 この著書が、思わぬ形でブレークすることを乞い願うものである。(終)

                         平成25年3月4日

                             金沢 史典

 

 

                 四

 

 金沢氏の読後感想文を転記し、あらためて氏に感謝を申し上げる。以上数名の方からの読後感を紹介したが、この他にも多数頂戴したし、また筆には乗せないが、電話などで気持ちを述べて下さった方も多くあった。著者冥利に尽きると言えよう。

 最後に「読後感」をもう一つ紹介させていただきたい。神戸在住で金沢氏の紹介で親交を結ぶことが出来た尾端三郎氏からのものである。

 

 導入部分の主人公「緒方惟芳」の出郷から長崎造船所、そして日露戦争にいたる軌跡は、方言による会話体などを駆使され、生き生きと活写されていました。いかに資料があるにせよ、山本様にイマジネーションなくしては表現できなかったでありましょう。森鴎外の「歴史其の儘と歴史離れ」ではありませんが、歴史の虚実というものに興味をもっている小生としては、どこまでが「虚」であり「実」であるのだろうかと考えていました。読了したあとで「あとがき」を拝見し、「主人公惟芳が萩中学校で弓道の稽古をする、といったフィクションを一部織り交ぜながら書き出した」との一文に接し、小生の考えが氷解した次第です。

 当作品は虚実が渾然一体となった史実を基調とした「大河小説」と看取したところです。歴史書でないかぎり、物語を展開するうえでの「フィクション」は不可欠であります。紹介されていました『長周新聞』も、たしか「山本孝夫氏の小説」という言葉を使っていたと思います。日露戦争、三菱長崎造船所、無医村の宇田郷村での医療活動、そして長男芳一の硫黄島での最後、後妻幸の「茶杓」と薬師寺管長高田好胤との奇縁など、何れも写真や書簡や資料、関係する人々の証言や例証などから描かれており、「ノンフィクション」といってもよい内容でありました。「フィクション」の一部は、あくまで史実と史実を繋ぐ接着剤の役目を果たしているものと拝察しました。

 

 私は尾端氏のこの書評を読んで教えられまた大いに安堵もした。実は私自身は、文章の最初の部分と最後の部分で印象が違ってきたのに気付きながらも、致し方ないと諦めていた。それは本編を書き始めた時には、資料が乏しく想像を交えざるを得なかったのが、のちに次第に資料が手に入るようになると、資料に忠実に筆を進めたからである。「虚実が渾然一体」と評してもらい恐縮の至りだが、「虚実の混然」たるものをどうにか書き終え、その上このように多くの方に読み、かつ評していただき、改めて感謝する次第である。

 

今年五月の大型連休中、山口県立美術館で「生誕100年 松田正平展」を見た。彼は晩年には、飄々として透明感のある画を描き九十歳の長寿を全うしている。シベリヤ・シリーズで有名な山口県出身の画家香月泰男の作品と比べると、受ける印象が全く異なる。もし二人の運命が入れ換わっていたらと、愚かなことを考えてみたが、人間の運命は人それぞれに定まっているのかと思う。香月氏は1911年に日本海岸の現代の長門市で生まれた。松田氏は1913年に島根県の津和野に生まれている。そして硫黄島から家族へ切々たる手紙を書き残して戦死した芳一は、これまた又日本海に面した宇田郷という僻村で1914年に生まれた。

滋賀県の小川という方から次のような手紙を頂いた。この方はビルマ戦線で死の密林を彷徨し、マラリアに罹ったお陰だと言っておられるが、奇跡的に生還され、九十三歳の今も元気に活躍して居られる。

 

硫黄島からの手紙は圧巻でした。人間が最後の間際にあのような余裕を持って冷静に対応できる事が可能なものか、私も戦場で生死の際を歩きましたが、私は残念ながら真似できないと思います。脱帽です。

 

上記の三人は殆ど同じ時代に東京で一時の青春を謳歌している。いわゆる大正ロマンの時代に大学生活を送っている。しかし彼等を待ち受けていたその後の運命は異なる。運命は異なり、天の与えた命の長さは違っても、彼等は共に戦争のない平和な世の中を希求していたのではなかろうか。私はその日、帰りに県立図書館で加賀乙彦著『科学と宗教と死』(集英社新書)を借りて読んだ。これは小冊子だが良書であると思った。加賀氏は幼年学校から東大医学部を経て、医者として、また小説家として「二足の草鞋(わらじ)」をはいてこられた。晩年の2008年に、それまで非常に元気であった奥さんが70歳で急逝された時、加賀氏はもうすぐ80歳になろうとしておられた。その3年後の2011年に心臓の手術を受けておられる。その入院中に『荘子』と芭蕉の著作を全て読んだとして、次のように書いておられる。

 

そして次に、その芭蕉が師と仰いでいる荘子を読みました。『荘子』にこんなことが書いてあります。人間は生きている間は働いて、年を取ったらもうだんだん働けなくなりますけれど、天が人をそうゆうふうに作っているのだと。もう働かなくてもいいようにするために老いがあって、もう休ませるために死がある。

 

これは私が『杏林の坂道』の最後に引用した『荘子』の言葉である。加賀氏は次のようにも述べておられる。

 

人はなぜ死ぬかというのはわからない。戦争はなくならない。天災はなくならない。病気もなくならない。人は必ず死にますが、いつどうやって死ぬのかはわからない。死を考える事は、結局生を考えることにつながります。私はどう生きるのか。やがて来る死の瞬間まで、どう生きるのか。

荘子』の言葉を最後にもう一度引用させてもらおう。

 夫(そ)れ大塊は、我を載(の)するに形を以てし、我を勞(くる)しむるに生を以てし、我を佚(やす)んずるに老を以てし、我を息(いこ)わしむるに死を以てす。故に吾が生を善しとするものは、乃(すなわ)ち吾が死を善とする所以(ゆえん)なり。