yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 第四章「帰省」

 

杏林の坂道 第四章「帰省」
 
(一)

 鹿(か)背坂(せがさか)隧道の難工事は、萩町と明木村との境をなす峠の下を掘削することによって始まった。工事が無事終わったのは明治十七年(1884)七月。惟芳はその一年前に生まれた。長さ約180メートル、幅約4.2メートル、高さ約3.9メートル、県下最初の石造隧道である。この隧道の完成によって、明治十五年から進められた小郡・萩間の県道改修工事のすべてが完了したのである。萩の笠山産の玄武岩で作られた石組みは一分の隙間もなく、実に見事な出来映えである。

 

 平坦に敷き詰められた甃(いし)石(だたみ)を踏みしめるごとに、洞内に靴の音が反響する。水滴が両側の溝に落ちて冴えた音を響かす。これらは予想以上に大きな反響音である。穹窿に積み重ねられた無数の石、薄暗闇の中にあって、この石の天井から水滴が襟元に落ちたとき、惟芳は何とも言えぬ不思議な境に入ったような気がした。前年六月出郷に際してもこの隧道を通った。しかしあのときは早朝で、その上先を急いでいたのでそれほど気にもしなかった。隧道の暗がりと冷気を抜け出て、ほっと一息ついて振り返って見たとき、暗黒の彼方に小さくぽっかりと明(あ)いた入り口が、目の前の大きな出口と相似形を成してくっきりと見えるのが印象的であった。

 

 ―これだけ立派な隧道を造るのは生やさしいことではなかっただろう。大した道具も持たない石工たちが、主に鑿(のみ)と槌をふるって完成させたのだろう。彼等の心意気たるや大したものだ。しかしこのように自然の山や川を相手に、隧道を掘削したり、橋梁を架けたりするには、工事の基礎となる綿密な調査と作図が絶対に必要である。船舶の設計も同じことだ。俺も設計を習い始めたが、頑張らなくてはいけない。

造船所での製図のことが惟芳の頭を過(よ)ぎった。出郷して一年半、明治三十五年の師走、いまこの寒空の下、故郷はどんな佇(たたず)まいを見せているだろうか、と隧道を後にした惟芳は、懐かしさも手伝って歩みを早めるのであった。

 

 山裾を迂回してすぐ右手に、風に梢の揺れる幾本かの松が高く聳えている。松陰の詩で有名になった「涙松」である。そこは故郷の萩を旅立つ者が、萩の町を望むことのできる最後の場所である。そしてまた、他郷より帰った者が、萩の町を最初に目にする地点でもある。彼は道の左斜面の麓、山間(やまあい)にある橙畑に目を移した。青黒い葉がこんもりとよく繁り、上から見ると開いた大きな番傘を無数に並べたようである。成熟にはまだ少し早いが、黄色い実が暗夜の灯火のごとく、葉陰からいくつも顔を覗かせている。かなり傾斜したその斜面には、藪椿が所々に真っ赤な花を咲かせ、群生している水仙は白い花をつけていた。大小の梅の木が道沿いに何本も並んでいる。中太の枝から、細くて青い新枝が、長く真っ直ぐに幾本も伸び、それに小さな蕾が沢山ついている。中にはほころびかけたのもあるが、ほとんどまだ固い蕾である。しかしどこからともなく鶯の鳴き声が聞こえてきた。以前はこの辺りは鶯(うぐいす)谷(たに)の名で知られていた。今はこの地名を鶯(おう)谷(や)と音読みにして、さらに大屋(おおや)の字を宛てている。寒風に耐え積雪を被(かぶ)りながらも、凛として馥郁たる香りを放つ梅の花に、貴婦人の名を呈した歌人がいたなと惟芳はふと思った。こうして大屋の部落を見始めとして、懐かしい故郷の景色を目にすると、ああ帰ってきたとの思いを彼は強く抱くのであった。

 

 長崎に落ち着いてしばらくして、彼は母へ手紙で、生活や仕事が軌道に乗るまでは帰郷は見合わすと伝えていた。一方往き帰りの経費も馬鹿にならないので、余程のことがない限り帰省はすまいと考えていたのだが、やはりこの正月休み、こうして一年と半歳を過ぎての帰郷は、家族も喜ぶだろうと思うと同時に、惟芳本人にとっても嬉しいことであった。


 昼下がり、久しぶりに見る萩の風景、とくに涙松を過ぎると遙か遠くに望まれる空と、水平線を境にその下に広がる青い日本海。盆を伏せたような平たい島々、そして何よりも懐かしい指月山、さらにこの城山を左端に置いて、今も残る城下の商家の櫛比する街並みは、いやが上にも帰心をかき立てるのであった。

 

 一年半前、故郷を後にした時通った路と違って、帰りは金谷(かなや)天神の前の目抜き通りを歩んだ。彼は大きな石鳥居のところで立ち止まり、聳立(しょうりつ)する十数本の老松の奥に鎮座する朱塗りの社殿に向かって深々と頭を下げた。
 
 ―秋の天神祭りの大名行列も無事終わっただろうな。長州一本槍はたしか三間(5.5m)もあるということだが、今年も見事な槍の扱(しご)きが披露されたことだろう。 
 
 惟芳は萩の二大祭礼のことを頭に浮かべた。それは町中(まちなか)を多人数で曳かれる「御船(おふね)」と、そのとき謡われる「お船(ふな)謡(うた)」で賑わう住吉神社の夏祭り。そしてもう一つは、この金谷天神の秋の祭礼である。天神祭りでは、町内を練り歩く大名行列、とりわけ藩主の乗った黒塗りに、「一(いち)に三星(みつぼし)」の金泥(きんでい)の紋の入った駕籠の前にあって、超長毛槍を持つ者の槍捌きは見物人を魅了する。正にこれは行列中の花と言える。「下(シタ)ニー 下(シタ)ニー」の掛け声でしずしずと進む行列が止まると、奴(やっこ)衣裳に身を固めた男が六方を踏むような格好で、約百本の竹ヒゴを束ねたといわれる、黒漆塗り千段巻きのこの驚くほどの長槍を、地面すれすれにまで回転さすと、槍はしなやかにうねって、槍先のふさふさとした毛が宙に舞う。
 
 子供のころから見慣れた大名行列を思い浮かべながら、彼は天神様の前を足早に通り過ぎた。少し進むと橋本橋にさしかかった。県下で二番目に長い阿武川は、ここから少し上流で松本川と橋本川に分かれている。その分岐点では河床に落差があり、その上、水の流れが早いためか、河水の音がごうごうと轟く。何時の時代からかは知らないが、その場所を「太鼓(たいこ)湾(わん)」と呼称しているが、それもうなずける。この二つに分かれた川の堆積土でもって萩の三角州は形成されたのである。このデルタの地に、関ヶ原の戦いに破れた毛利の家臣が、打って一丸となって城下町を作ったのは、今からおよそ三百年の昔かと惟芳は感慨にふけった。

 

 人は生まれ故郷を一時的にでも離れてみると、違った感懐でもって故郷を眺める。惟芳もこの度そうした気持を実感した。この橋本川沿いの堤に百株は優に越す桜樹が植えられてある。花見時、川面に映る桜並木の情緒ある風景は、白砂青松の菊ケ浜の海の景色とはまた違った情景である。

 

 数ヵ月後に迫った花見時の陽気な様子を思い浮かべながら、惟芳は街中へ入っていった。御許(おもと)町(まち)から唐(から)樋(ひ)町(まち)を過ぎ、左折して東西の田町筋を通って西の方へと歩を進めた。さすがに節季(せっき)で町家(まちや)商家(しょうか)は家ごとに門松を立て、正月の飾り付けをして、きれいに掃き清めてある。街には新年を迎えようとする清新な気配が漂っていた。瓦町を過ぎて呉服町に来たとき、門構えの立派な家の前で、他家とは違った形の大きな門松が目に入った。

 
 ―孫輔の家か、さすが大きなものが設(しつら)えてある。かれは元気にしているかな。


 小学校から中学校まで、共に机を並べた友人のことを思い出しながら、立派な門構えと格子戸の連なった、間口の広い家の前を通り過ぎようとしたとき、
「やあ、惟芳じゃないか  これは驚いた。久しぶりだなあ。朋(とも)遠方より帰るか」 
突然背後から声を掛けられて惟芳は振り返った。きちんと羽織を着た孫輔が近づいてきた。

 「おお、孫輔か、 元気そうだな。一年半ぶりの帰省だ。お前、高等学校へ行っているのだろう?卒業後、大学は東京か、それとも京都か?」
高等学校へ通う孫輔を羨望する気持ちが惟芳の心を一瞬過(よ)ぎった。
 「うん、京都を考えちょる。まだ当分親の脛をかじることになる。それにしても、『士別れること三日なれば、即ち更に刮目(かつもく)して相待つ』というが、惟芳、お前しっかりした顔つきになったな。造船所の仕事はどうか?新聞を読むと、ロシアの南下政策のことがよう載っちょる。ここと違うて長崎では、風雲急を告げるといった緊張感が漂っちょるのではないか?密雲不雨という言葉があるが、そのうちザーッと降り出したら、俺たち若者は、戦場に駆り出されるやも知れんぞ」
 「うん、そのようなことはあちらの新聞でもよく論評されちょる。確かに工場の雰囲気はちょっと違うな。ましてや中学校にいた時分とは比べものにならん。やはり皆気合いが入っちょるようだ」
 「そうだろうな、それにしてもお前、造船所で働く決心をようつけたな。今でも俺は感心してちょるぞ」
 「渡辺や石光はどうした?」
 惟芳は在学中特に印象深かった二人の同級生のことを訊ねた。渡辺はちょっと変わった人物であった。頭がよくて、初めて目にする漢文でもすらすら読んだ。彼は「退屈な授業を受けるより、海岸の砂浜に寝ころんで、白雲が青空に浮かぶのを眺めていている方がよっぽどましだ」と、禅坊主が言うような言葉を吐いていた。ところが同じ年頃の中国人が書いた文章を読んでいたく感心し、「おれのような盆暗(ぼんくら)は、いくら逆立ちして勉強しても追いつけない、おれは天下の秀才のために、学問ができるように助けてやる」と、ある日突然言ったのには誰もが驚いた。

 

 一方石光は柔道部主将で、身体はそれほどではないが、飛び抜けて強かった。稽古を終えての帰り、柔道着に黒帯を巻き付けたのを肩に担いで、橙の出荷場所である別院の前を通ったとき、橙の仲買人足達にからかわれた。

 「おい。中学校の兄さん。柔道衣に黒帯を巻きつけて、強そうなそうな格好をしちょるのォ-。チャンチャラ臍(へそ)が茶を沸かすでよ」
 「何言うか? お前らこそ法被(はっぴ)姿で豪(えら)そうな格好をしちょるが、口先だけじゃないか。よし、それじゃ勝負しようか」

 売り言葉に買い言葉。日頃から別院の前を通るたびに、中学校の下級生たちが嫌がらせを言われているという事を耳にしていたので、今日こそはどうしても腹の虫がおさまらなかった。彼は殴りかっかってきた屈強の人足たちを相手に、払い腰、背負い投げといった得意の技で、片(かた)っ端(ぱし)から何人も投げ飛ばした。それで一躍萩の町中で知らぬ者のない存在となった。
 「渡辺は蔵前の高等商業(筆者注:一橋大学の前身)へ行った。有言実行ということだ。一儲けしたら天下の秀才のために人肌脱ぐつもりだろう。石光は軍人志望で陸士に入った。柔道は講道館に通って続けちょるそうだ。講道館ではさすがの彼も所詮田舎者、井の中の蛙であることを知らされたと言っちょったよ。おお今思い出した。お前が中退した年だが、渡辺のやつ、ど豪(えら)い事をしたのだ」
 「辺(なべ)さんが」
 惟芳は思わず在学中の呼び名で訊ねた。
 「そうだよ、九月だったかな、町会議員の連中が業者から賄賂をもらったとかで問題になり、彼らは身の証(あかし)を立てるため公会堂で説明会というか弁明の会合を開いたのだ。ところが奴(やつこ)さん、かれらの不正を見破ったのだ。連中は弁明のしようがなくなり、結局一同土下座をして、平謝りに謝ったということだ。それにしても白面(はくめん)の一中学生が、海千山千の政治屋どもに頭を下げさせたちゅうから痛快じゃないか。この事も一時町中の話題になったよ」
 「そうか、見てみたいものだったなあ」

 惟芳はそれぞれに活躍している同級生の消息を聞いて懐かしく思った。
 「ところで休暇は何日までか? 出来たら話に来いよ。商売屋は年の瀬は何かと忙しい。お袋に頼まれた用事があるから今日は失敬する、また会おう」
 右手に風呂敷包みを抱えた孫輔は、空いている方の左手を挙げて、別れを告げた。
 思いもかけない邂逅を喜びながら、惟芳は菊屋家の前を通過すると、土塀越しに日本海が見え隠れし、潮騒の聞こえてくる海沿いの道をわが家に向けて歩を早めるのであった。 

 

 

(二)

 門を入ると右手は橙畑である。帰るとやはり橙の出来不出来が一番気になる。成木の枝には黄色い実が多くなって、地面に垂れ下がっているのもある。徒長(とちょう)といって、いたずらに長く伸びた枝には、決していい実はつかない。葉は青黒くつややかで、害虫も取り付いていないようだ。施肥も十分になされたのであろう。若木も思ったより良く生育している。橙の世話で一番手が掛かるのは、何と言っても春先から盛夏にかけて、猛烈に繁茂する蔓草など雑草の除去である。これを怠ると通風が悪くなり、おまけに害虫が繁殖する。留守中おそらく母がこまめに世話をしたのであろう。惟芳は母の苦労を思いやった。

  
 玄関の格子戸を開け元気な声で帰宅を告げると、心待ちにしていたのか、母と弟が揃って足早に現れた。二人の後すぐ姿を見せた父も、「おお無事で何よりじゃ。さあ上がるがよい」と、日頃に似合わぬ口調で声を掛けた。

 

 挨拶は後でと、惟芳は出船の格好に靴をきちんと揃えて父の後から座敷へ向かった。父はいつものように机の向こう側、床柱を背にして座った。傍らの火鉢の中から、父が急いで叩(はた)き落としたのであろう、煙草の吸いかすから細い煙が上っていた。五徳に掛けた鉄瓶からは、かすかに湯気が立っている。床には蒼海に日の出を描き、前面に老松が斜めに延び、その太い樹幹に二羽の鶴を配した双幅対の軸が掛けてあった。父は毎年正月ともなると、蔵から出してこの目出度い軸を掛けることにしている。
一段高くなっている床には、三宝(さんぼう)にお重ねの餅が飾り付けてあった。そういえば門と玄関にもささやかながら門松と「うらじろ」の輪飾りがしてあった。母と弟も二人に続いて入り、机の横に座った。弟は嬉しくてたまらない様子である。
 「ただいま帰りました。父上、母上には恙(つつが)なくお過ごしのご様子で安心いたしましたしかし留守中何かとご苦労があったと思います。私はお陰で元気に勤務しておりました」 
 しばらく会わなかった両親の思ったより元気な姿に接し、惟芳は内心安堵した。しかし父は壮年時代の矍鑠(かくしゃく)たる面影はとっくに失せて、かなり老けて見えた。他方子供の成長は早い、八歳違う弟は見違えるほど背が伸びていた。先ず帰宅の挨拶をすますと、職場の様子を手短に話した。

 「過日お便りを差し上げました通りすっかり仕事にも慣れ、元気に勤めています。ただ教わることが日毎に増え、学科内容も次第に難しくなっていきますので、しっかり勉強しなければと思っています。しかし先輩をはじめ所員の皆さんは親切ですし、やる気満々ですので毎日が楽しく過ごせて、大変ありがたく思っています。これは今月の給料です」
 こう言って彼は内ポケットの中から状袋を取り出して、父の目の前に差し出した。
 「正規の職員には年末の慰労金が出ますが、私は未だいただけません。頑張って早く正職員にならなければと思っています。一応仏様にお供えいたします。それにこれはカステラという菓子です」
 今度は、信玄袋の中から割と大きめな紙包みを出して机の上に置いた。
 「これは福砂屋という店で売っています。何でも寛永元年の創業とここにも書いてありますから、二百年も昔になりますが、この店の主人がポルトガル人からこの南蛮菓子の作り方を習って工夫を重ね、今ではこれは長崎の銘菓となっております。この辺りでは珍しかろうと思って買ってきました。私も滅多に口にはしませんが、結構美味しいものです」
 「ほう、珍しい御菓子だね。有り難く頂かせてもらおう。それにしても高かっただろう。あまり無理をしないでおくれ」
 始めて見る洋菓子を前にして、母は喜ぶと同時に、心配顔をちらっと見せた。弟は菓子と聞いてさも嬉しそうである。
 「これもひとまずお供えしておきますので、あとで召し上がってください。それから尚春、学校は楽しいか。これはお前へのお土産だ。遠目(とおめ)鏡(がね)と言って遠くのものがよく見える。浜から沖合いを見たら、見島もよく見えるだろう」
この他、母へは長崎特産の鼈甲の櫛を一枚買ってきた。こう言ってささやかながら持ち帰ったった土産物を家族の前に広げて見せた。

 惟芳はこの後早速仏間へ行って給料袋と唐菓子をお供えし、線香に火を点じて拝むと、元の座敷へ引き返した。午後の冬日が暖かく、南向きの障子が一枚分開けてあるが少しも気にならない。敷居の外に三尺幅の濡れ縁があり、そこから門の両側に連なる石垣まではおよそ四間ある。そして横幅が六間ばかりの面積をもつ地所が、座敷から見える庭のすべてである。門から玄関までの、飛び石伝いの通路と庭との境は、竹垣で仕切られてある。玄関脇に、庭への出入りが出来る小さな枝折戸がある。枝振りのいい松の木が庭の中央に一本あって広く場所を占めている。その下に雪見灯籠が一基据えられてある。庭の左隅にあってこんもりと球形に刈り込まれたキンモクセイは、毎年オレンジ色の小さな花に覆われ、強い芳香を放つのであるが、今はすでに散っていた。松の木の右手、濡れ縁近くにある寒椿は、真っ赤な花を今年も咲かせてくれている。その花が庭石の上に幾つか落ちていた。樹の根本にある万(お)年(も)青(と)の大きな青々とした葉の間に、真っ赤な円い実が二つ三つ、おのれの存在を忘れてもらっては困るといった風に輝いて見えた。

 

 濡れ縁近くにある古い梅は惟芳が一番好きな木で、蕾が一杯ついており、蕾の先がほんのりと紅に染まって、開花を待ち受けているようであった。四季が巡り来れば間違いなく、こうして人の目を楽しませてくれる自然の草木の、健気さというか誠実さというか、とくにこの清香を放つ梅の古木の花咲く季節になると、惟芳はいつも感慨を深めるのであった。

 -此の先幾年も寒風に耐えて、この梅の木は清楚できれいな花をつけてくれるだろう。このわずかな期間の開花のために、黙々と地中に根を張り、栄養を摂取するのだ。こうした目に見えない努力のお陰で花が咲く。正月が来たら俺は数えで二十歳(はたち)になる。じっくり英気を養って、大きく踏み出さなければいけない。

 こうした思いに耽っていると、父が座敷から声をかけた。 
 「ご時世というか、御維新から後この萩もずいぶんと変わった。それより前、儂が十六歳のとき父が亡くなられたので、緒方家の家督を継いだ。それから八年後の慶応二年(一八六六)の第二次長州征伐に参加した時の話じゃが、石州口の戦で浜田城を落して勝ち鬨の声をあげたとき、大村益次郎さんが、『こんな小城を落して有頂天になるな、日本全部を取ってから喜べ。』と言われたのをよう覚えておる。何しろ初戦に挙げた成果だから、われわれは思わず『万歳』と叫んだ。あの方は確かに大物じゃった」
 惟芳は座敷の方へ振りかえり、父の話に興味の顔を向けた。

 「父上はそのときどんなお役目でしたか?」
 「儂は毛利藩の砲術師範をしていたから、大村さんにはいろいろと教わった。あの方は本来医者じゃったが、実に頭の良い人で、洋学、特に西洋の戦術を学ばれ、それが幕府との戦いで非常な功を奏したのだ。もっと長く生きておられたら、我が国の軍隊、いや我が国にとってきっと良かったであろうに、本当に惜しい人を死なせたものじゃ」
 惟芳は大村益次郎が若い頃、緒方洪庵適塾で学んだこと、先生の洪庵は当時日本を代表する医者であったこと、そして緒方姓は元来九州から出ていることなど、そういった事を聞いておるので、洪庵と自分の間に、目に見えないながらも、何らかの繋がりがあるような気がするのであった。

 

 父は一昔前の若い時分の事を思い出して、ゆっくりと話を続けた。
 「藩庁が萩から山口に移ってからというもの、若い者の多くが萩から山口へだけじゃない、江戸や上方へも出て行った。儂も気が動かんでも無かったがのう。その後前原騒動があって武士の世は完全に潰(つい)えた。あのときは多くの者が、敵味方に分かれて一時はどうなる事かと思った。お上の力を始めて見せつけられたが、時の流れは早いものじゃのう。それにしても、前原一誠を始め何人かの主立った者たちは、結局捕らえられて処刑された。あの連中にも言い分はあったじゃろうに、これも勝てば官軍じゃいのう」
 父はここまで話すと、煙管(きせる)に刻み煙草を詰めて紫煙をくゆらせた。 父はまた話し始めた。
 「御維新前までは儂も二本差しで歩いていたが、こうしてお前が洋服を着て立派になったのを見ると、何だか夢のようじゃ」
 「私も長崎へ行きました当初は、見るもの聞くもの皆新しくて、こちらとは全くと言っていいほどの違いにちょっと驚きました。弁髪のシナ人も珍しかったです」
 「確かにそうじゃろう。しかしお前にこれだけは言って置きたい。お前が萩を出るときにも、似たようなことを言ったと思うが、なんぼ時代が変わっても、正しく生きるためには、人間はして良い事と悪い事を、自分でよく見極めて振る舞うことじゃ。また人助けの道を忘れてはいけない。天子様は四海平等と言われたが、やはり武士たるの気構えは忘れてはいけんのう。そして武士道の根本は、儂は仁と考える。仁とは、お前も学校で習ったじゃろうが、人を愛すことじゃ」

 日頃造船船舶に関する西洋の科学知識を専ら注入され続けている惟芳は、つい忘れがちであったこの東洋の思想を、やはり肝に銘じておくべきだとあらためて思うのであった。


 

(三)

 父との四方山話を済ますと、彼は例のごとく畑の中を通って裏木戸を開け、砂浜に出てみた。初夏の深緑と青を混ぜたような紺青(こんじょう)の海の色とは異なり、鉛色の冬空を映す海は、一段と落ち着いた深みのある様相を呈していた。沖から吹く風が顔面にあたった。次から次へと寄せ来る波、その波頭(なみがしら)から白い飛沫が飛び散る様(さま)がよく分かる。こうした男性的な日本海の姿はいつ見ても魅力あるものである。夏ならば一も二もなく海に飛び込むのだが、それも出来ないので下駄を脱ぐと、それを手に持って、濡れた砂をザックザックと踏みしめながら、浜崎の港の方へと渚(なぎさ)沿いに歩いて行った。

 

 歩いた後打ち寄せる波で、足跡は直ぐ消されるが、消えずに残こるのもある。この踵(かかと)で踏みしめた丸い窪みの底から、海水がじわっと湧き出てくる。海の水は思ったより暖かい、しかし水を出て寒風に足首を晒すと、冷たさが感じられる。防風林ともいえる松並木の尽きるところまで来た。左前方の海が幾分白濁して見える。町中(まちなか)からの家庭廃水が流れ出ているからだ。この辺りの波打ち際から、釣り糸を投げて鯔(ぼら)を引っかける人をよく見かける。今日も三人の若者が鯔をかけるのに熱中していた。広々とした海はここを除けば、冬の海は鈍重な色を湛えていた。低く連なった砂山には海辺特有の蔓草が、地面に這いつくようにして生えている。よく見ると白に淡い紅をさした可憐な花が咲いていた。

 

 彼は砂山を登り切ると下駄を履いた。そこから海岸沿いに走っている小道まで行き、右手に海を見ながら引き返すことにした。途中小高い丘とまではいかないが、ちょっとした土塁の麓にさしかかった。ここが俗に言う「女(おんな)台場(だいば)」である。
惟芳は土塁の一番高くなった所まで上って、遙か彼方の水平線の方に目を向けたとき、父から聞かされていた土塁築造当時の様子を思い浮かべた。

 
 文久三年(1863)五月十日、萩藩は下関海峡通行の米艦砲撃で攘夷決行の火蓋を切ったものの、翌月には米、仏、英、蘭の四国軍艦の報復攻撃を受け、萩の士民の間には、今にも敵艦が来襲するかも知れぬ、と人心はすこぶる動揺した。しかしこうした恐怖心の半面、旺盛な敵愾心も起こり、ついに浜崎在住の庶民が、菊ヶ浜土塁築造の建白を出し、政府の容れるところとなって、工事は同年六月から始まり、三ヶ月足らずの短日月でほぼ完了したのである。この間、お城の女中衆から武家の妻女、町家のご寮(りょう)まで、思い思いのいでたちで、馴れぬ手に鍬を持ち、モッコを担いで、文字通り老若男女が上下一致して実労働に参加し、また上は家老から下は庶民に到るまで、各々分に応じた積極的金品の献納をしたという。明治四年までここに砲台があったらしい。(注)

 

 ―文久三年と言えば、俺が生まれたのが明治十六年(1883)だから、今から数えても四十年にはならない。それにしても我が国は随分変わったものだ。高杉晋作奇兵隊の挙兵も確か同じ年だった。幕府の軍隊が攻めてきたとき長州はよく戦った。父は大村益次郎に従って浜田城攻め落としに参加されたのだった。戊辰戦争では晋作を始めとして多くの若者が国ために命を捧げ、長州も大きな犠牲を払ったなあ。本当に時世が変わった。三、四十年前までは「攘夷 攘夷」と叫んでいたのが、今や「開国 富国強兵」の一点張りだ。俺自身のことを考えてみても、今長崎の造船所で働く身、本当に隔世の感と言えよう。こんなに世の中が日進月歩しているのも、攘夷をすぐに開国へと切り替えたからだ。目先が利くというか、先が見える者が時代の変わり目には出てくるのだろう。しかし事をなすには、じっくり構えて取り組む必要があるのではなかろうか。
 
 台場の周辺の松の梢をさわさわと風が渡る。惟芳はこうしてしばらく佇んでいると、夢から覚めたかのように、思わず緊張感が体内を走るのを覚えた。長崎の海を見たのではそれほど実感しなかったが、今こうして日本海を目の前にして立つと、この海の彼方には朝鮮半島があり、ロシアはそれを虎視眈々と狙っているという、この事が地理的状況から現実味を帯びて強く感じられるのであった。
 
 -ロシアがもし朝鮮半島を席巻するようなことにでもなったら、山口県は目と鼻の先、一番近いのではないか。昔元の大軍が押し寄せた時は、幸いにも『神風』が吹いて国難は回避できたが今度はそうはいくまい。「相模太郎時宗、胆甕(かめ)の如し」と漢文の本にあったが、あの若さで日本の国運を双肩に担った時宗は、実に偉い男だった。
 
 彼は少し高ぶった気持ちを抱いて台場を下りた。畑の裏木戸を通って橙畑の中に入ると、魚を焼く匂いがしてきた。はたして母が背戸(せど)で、七輪の上に金網を置いて鰯を焼いていた。脂が滴り落ちるたびにジュウと音を立てて赤い炎がパッと立ちあがる。煙が辺りに漂うが、戸外だからさほど気にはならない。
 「脂の乗った大きな鰯ですね。旨そうですね。久しぶりに鰯の匂いを嗅ぎました」
 「このところよく獲れるそうだよ。子持ちの鰯を今朝も浜崎から魚売りのおばさんが持って来たから、あんたが帰るし丁度よいと思って多めに買っておいた。あとで沢山食べておくれ」
 こう言いながら母は時々小木(こぎ)を七輪に焼(く)べながら、小腰を屈(かが)めて油紙を張った大きな団扇でパタパタ扇(あお)いでいた。

 

 親子四人久しぶりに揃っての夕餉(ゆうげ)の食卓では、父がとくに嬉しそうであった。黒く焦げた熱々(あつあつ)の大きな鰯を箸でさばいて口に入れ、奥歯で噛むと、鰯独特の甘美な味がじわっと口中に広がり、これまたいい匂いが鼻腔を刺激する。これに小芋の味噌汁が加わり、さらにチシャ膾(なます)まで揃っている。惟芳は酢味噌に新鮮なチシャを漬けて食べるこの郷土料理が大好きである。酢味噌の中の鰯の切り身も酢で締まって美味い。
 「このチシャは畑で採れたのですか。やわらかくて本当においしいですね」
惟芳は山海の珍味にも勝る馳走だと、今更ながらお袋の味に舌鼓を打つのであった。若い時はかなりの酒豪で鳴らした父も、勤めを辞めてからは、一合の晩酌を楽しみにしていた。今日は特別に三合入りの徳利が用意してあった。

 「向こうでは飲むことがあるか?今日はお前が帰るので二人で一杯やろうと思って大きめの徳利を用意してもらった。お前も儂の若い頃に似て結構いけるじゃろう。たったこれだけじゃ、蟇(ひき)が蝿を舐(な)めたほどもなかろうが、まあ一杯やるがいい」
こう言いながら父は、徳利を傾けて惟芳の前にある萩焼ぐい呑みに地酒を注いでくれた。
 「あちらでは滅多にお酒は口にしませんが、時たま先輩に奢ってもらったり、同僚に誘われて飲みに行くことはあります。九州の人は焼酎で鍛えているのか、一緒に飲みに行った連中は皆強いのには驚きました」
 彼は父の嬉しそうな姿を見て、帰省して本当に良かったと思うのであった。
 「久しぶりの郷土の味は格別ですね。このお酒も美味しいです。こうしてくつろいだ気持ちで食事が出来るのが何より有り難いです。おや、尚春、鰯は骨まで食べられるよ。そんなに身を付けたまま残しては勿体ないよ」
 弟が悪戦苦闘しながら焼き魚に箸を使っているのを見て声を掛けながら、彼は頭だけ残して、むしゃむしゃと美味しく、一匹の鰯を骨ごとたちまち平らげた。こうして彼は父の盃にも酒を注ぎながら、生まれて初めての父との飲酒を楽しんだ。

 

 酒が入ったというより、独り立ちした息子の姿に接して、父の尚一は日頃とは違って口数が多くなった。
 「長州と長崎は昔から相当に往来(いきき)があったように聞いておるが、毛利の殿様が積極的に海外の文物を取り入れる姿勢を取られたためじゃろう」
 父は話を続けた。 
 「しかし良いことばかりじゃない。御維新になって直ぐ、長崎の浦上と言う所から確か六十六人、その後二年して今度は二百人以上のキリシタンが萩に連れてこられて、堀内の清水屋敷と岩国屋敷に収容されたのを儂はよう覚えておる」
 キリシタンのことを父の口から聞くのは初めてである。惟芳が長崎で働いているから、関連したこととして話すのであろうと惟芳は思った。
 「ほとんどの者が改宗したらしいが、津和野へ連れて行かれた者の中には殉教者も出たと言うから、考えてみると本当にむごい話じゃのう。いま西の浜にキリシタン墓地があるが、行ってみたことがあるか?」
 惟芳は一二度其の墓地の辺りを歩いたことはあるが、その時は別に気にもとめてはいなかった。それよりむしろ、『五郎太石事件』といって、萩城築城工事中の紛争事件に関連して、藩の重臣で工事の総宰であった二人の人物を、この場所で死刑に処したことを示す大きな石塚は記憶していた。人物の一人が蓮生坊で有名な熊谷次郎直実の直系で、キリスト教徒であり、彼を棄教させようとした裏話があったと聞いていた。  
 「故郷を棄てるということがどんなに悲しいことか、気の毒な事をしたものじゃ」
カステラで異人に関連したことを思い出したのか、それとも息子が帰ってきたことで、日頃の寡黙な口が多少ゆるんだのか、父は以上のような事を話した。惟芳はやはり両親、特にこのところすっかり老(ふ)けた父を残して働きに出るということには、一抹の不安を覚えないでも無かった。彼は話題を明るい方に向けるようにして、夕食を楽しく終えた。
 
 冬は夜の帳(とばり)は早く下りる。惟芳は自分の部屋に入って静かに座っていると、ゆったりと落ち着いた気分になった。確かに下宿生活、特に造船所での生活は、所員のためにいろいろと便宜が図られてはいるが、こうして長年寝起きした自分の部屋と比べると、便利さはさて置き、言うに言われぬ暖かみに欠けることは否(いな)めない。惟芳にとってはやはり、子供の時から聞き慣れた潮騒と松籟が、何といっても一番心を和(なご)ませてくれるものであった。

 しばらくすると、襖越しに声を掛けて、少し屈み腰の母が彼の部屋に入ってきた。惟芳が長崎へ旅立つ前に部屋に入ってきた時と同じように、机の側に来てきちんと座ると、次のようなことを言い出した。
「さっきはお父様はよくお話になったが、あの様なことは珍しいよ。あんたが家を出てからというもの、一日中座敷で書見をしておられるか、時々ぶらっと家の周辺を散歩されるぐらいでね。前ほど元気もないようで、私としてはちょっと気がかりでね。口に出しては言はれないが、やはりあんたに側におってもらいたいのでしょう」
 「勝手な振る舞いをしまして申し訳ありません」
 「そんなことはないよ、私たちも結局同意したのだから」
 惟芳は一年半前の襖の向こう側での父と母とのやりとりを思い出した。
 「しかし月々送ってもらうお給料は、本当に助かると言っておられる。まったく痛し痒しだね。長崎のように遠方じゃあなくて、せめて県内だったらよかったのじゃが、今更こんなことは言っても始まらないことじゃがね。まああまり気にせんで、せいぜい身体に気をつけて頑張っておくれ」
 母はちょっと間をおいて、今度は弟の事を付け加えた。
 「尚春はあんたが出て行ってから、淋しいのか一時しょんぼりしていたが、もう今では慣れて、元気に学校へ通うておる。私もこれで安心しておるよ」
母は以上の事だけは、どうしても言わずにはおれなかったのか、一方的に話し終えると、部屋を出ていった。惟芳はただ黙って聞いていた。

 

 惟芳も造船所に勤めるようになって、時々両親の気持ちも考えてみることはあった。しかし今の母の言葉を耳にして、当分はこのまま働こうとあらためて胆を決めた。
 
 

(四)

 一晩ぐっすり休んだ後、彼は早朝に目を覚ました。寝床を片付けると菊ヶ浜へ出てみた。潮風が顔に優しく触れ、潮の香りが鼻腔に流れ入るのが感じられた。沖に向かって大きく手足を伸ばして、爽やかな朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。海上に浮かぶ島々は薄い朝靄に包まれており、まだ醒めやらぬ様子である。

 

 今日は大晦日。寺参りを母から頼まれていたが、まだ十分時間があるので、朝食前の運動にと、久しぶりに指月山に登ってみようと思った。萩中学校に入って体操の時間、山頂まで駆け上がったことがあるが、そういった強制的な登山とは別に、二三の友人と話しながらゆっくり登ったことは、懐かしい思い出として残っている。

 砂浜伝いに歩き、土橋を渡って東門より入ればもう城内である。大小様々の形の石を巧く組み合わせた約三メートルの高さの石垣が、道の両側に築かれている。歩くうちに、葦の生えた濠を取り囲む城の石垣の上から、指月山の全容がいっきに目に入って来た。濠の手前には数本の松が並んでいる。その中に際立って大きい黒松が一本、根本近くから太い幹が数本枝分かれして堂々と立っていた。濠に懸かっている石橋を渡って左へ曲がると、大きい御影石の鳥居が見えた。この鳥居周辺は広々とした平地で、やや色あせた芝生が一面に広がっている。

 

 明治二十五年(1892)に植えられた千本の桜樹は、開花時ともなると多くの町民を誘い出すまでに成長している。鳥居の下を通って少し歩くと左手に書院風の平屋が目に入った。これに付属した庭がそのさらに奥に作ってある。庭には太鼓橋の懸かった心字の池がある。橋を渡ると直ぐその先に、数十段の石段が高く連なっている。それを上ったところに、鬱蒼とした森の懐に抱かれているかの様に、志(し)都(づ)岐山(きやま)神社の素朴な白木造の社殿がひっそりと鎮座している。惟芳は萩中学校に入る前から、時々この神域まで散歩がてらに来て、城跡の石に腰をおろして休んだり、椎の実を拾ったりしたものである。また入学後も心を澄ます目的で一人で来ては、濠に臨んで屹立した城壁に登り、石の上に坐して、座禅を組んだこともある。ここは静寂そのもの、心を落ち着かせるには格好の場所だと、来るたびに感じていた。しかし今日は橋の手前で立ち止まり、そこから社殿の方に向かって柏手を打って拝礼だけして、左手の登山口の方へと直ぐに歩を移した。途中左手に、藁葺きの『花乃江茶邸』が、数本の大きな松の下蔭に隠れるようにある。旧藩主毛利敬(たか)親(ちか)が茶会にこと寄せて、維新の大業を画策したと言われている所である。茶邸から百メートルも歩けば登山口である。
 
 朝の清々しい空気に包まれるというよりむしろ、鬱蒼たる樹木の緑に彼は圧倒されそうな気になった。さすがに鳥たちは早起きだ。姿は見えないが各種の鳥の鳴き声がしきりに聞こえてくる。彼らは夜明けの朝をいかにも享受しているかのように囀っていた。四囲はシイ、タブ、カシ類その他の常緑樹林で、朝まだき、その広葉樹は全体にしっとりと露に濡れ、ほの暗き山中には幽邃、森厳な気配が漂っていた。

 一筋の細い登山道は、勾配の緩やかな所もあるが、概して急な坂道で、所々赤土の山肌が出ていた。場所によっては散り敷かれた落ち葉が深々と重なり合っている。頭上は厚く枝葉で覆われて、木漏れ日が僅かに射し込むだけである。この坂道が葛篭(つづら)折(おり)りになって頂上へと延びている。シイの大木が一カ所道を塞(ふさ)ぐ様に倒れ掛かっていた。
 
 -往時侍達がこの道を上り下りしていた時には、こうした倒木は直ぐにでも片付けられたであろうに。今はこうして山はまた元の原生林に帰っていくのだな。これがこの指月山の本来の姿だ。みだりに手を入れて自然を破壊しない方がいい。
 
 彼は倒木の下を潜りながらこんなことを思った。距離にしてわずか七百メートル、山の高さは百五十メートルにも達しない。しかし途中休まずに登ったので頂上近くに達したときにはさすがに少しばかり汗ばんだ。山頂のすぐ手前に数段の石段があり、その側に目通りの直径が一メートル以上もありそうな樅の喬木が、一本空高く伸びていた。
 
 -同じような樅の大木が登り口にもあったが、恐らく築城に際してわざわざ植えられたのであろう。城は取り崩されたがこれらの樹木も、年月が経てば自ら寿命が尽きる時が来るだろう。萬物は常ならずか。それにしても真っ直ぐによく伸びている。
 
 こうした思いを抱いて石段を上りきったとき、急に天井が抜けたように、明るい空が顔を出した。山の頂上はちょっとした広さの平地で、そこには詰丸が設けられてあったのだ。今はそれが取り壊されて、四角錐の形をした巨石と大きな水溜があり、淀んだ水底にわずかに泥が沈澱しているのが見て取れた。東の際まで行って遙か東方に目を向けた。朝の陽光が雲間から射して、山の端を照らしていた。下方に目をやると、菊ヶ浜の海岸線が巨大な弓のようの大きくカーブして見えた。渚に立っていつも目に入る情景とは違って見えた。長く続いている青い松並木、岸辺に向かって打ち寄せる幾重もの波。これらの波が渚近くで数本の白い帯となり、最後に砕けて砂上に広がる様子がはっきりと俯瞰できた。 
 「おお、絵のような美しさだ。朝凪で静かな海面だが、ここまで波の音が聞こえてくる」 
 惟芳は思わず独り言を言った。ゆったりとした波が渚近くで、ザブンと気だるい音を残して打ち寄せたかと思うと、ザーと足早に引いていく、この単調な音が、はるか眼下で繰り返されている。この微かに聞こえる波の音と鳥たちの囀りの他はほとんど耳に入らず、山頂は静寂そのものであった。
 
 -海はいつどこから見てもいいものだな。絶えず変化しているようで実際は変わってはいない。かと言って変わらないでいるかと思うと絶えず変わっている。一面鏡のような静止した海。悠揚迫らずゆったりと打ち寄せる海。それが台風の襲来ともなれば、一変して怒濤逆巻き、まさに阿修羅の形相をもって迫ってくる。春風駘蕩たる様相も俺は好きだが、寒風肌を裂く秋から冬にかけての時化(しけ)たときの姿もそれなりに魅力がある。
 
 惟芳はこの季節ごとに織りなす海の変化を頭に描いてしばし佇んでいた。折しも、海面の一部が朝の日の光を受けて、金砂銀砂をばらまいたようにキラキラと輝いていて見えた。彼は反対側、西の海が見える方へと歩を移した。ここからの景色はまるで違っていた。鉛色をした冬の海が広がり、点在する島々も物寂しげに横たわっている。目を凝らすと遙か彼方に、見(み)島(しま)のうっすらとした島影が、水平線上に浮かんで見えた。気持ちよく吹く風に汗も乾き、彼は引き返すことにした。帰りは樹間の清浄な空気を呼吸しながら、滑らないように一歩一歩気をつけながら下りた。それでも登りに比べて短い時間で麓に達した。
 帰りの道々、惟芳は考えた。
 
 -緒方家は元を正せば九州の出であるが、何時の時代だろうか先祖が石見の国に移り、またいまや萩にまでやって来た。時代の波、社会の変動で、家も移り変わるし、人の一生もどうなるか分からない。俺としてもまさか、萩中を中退して長崎にまで働きに行こうとは、入学時思いもよらなかったことだ。これからも何が起こるか分からない。徴兵制度も敷かれたことだし、軍隊に入ることはこの年になったら考えて置くべきことだ。両親のことが気がかりだが、国民誰しも免れないことなら、潔く対処せずばなるまい。


 それにしても故郷の山や海、この自然は俺に取っては、なにものにも代え難い有り難い物だ。今度何時こうしてこの城山に登れるだろうか。ああ、今朝は気分が良かった。
 
 家を出て帰宅まで二時間足らずであったが、故郷を象徴するこの指月山頂への散策を、惟芳は久しぶりに満喫した。

(注)菊ヶ浜にこの土塁を築造したとき、気勢を上げるために歌われたのが、今日郷土民謡の『男なら』である。しかしこの歌は誰が作ったか定かでなく、口々に歌ったものであるから、現在の歌詞に定着するまでには、種々に伝えられていたそうである。

   男なら

  お槍かついで お仲間となって
  ついて行きたや 下関

  国の大事と 聞くからは

  女ながらも 武士の妻
  まさかの時には しめ襷(だすき)
  神功皇后さんの 雄々しい姿が
  鏡じゃないかいな
  オオシャリシャリ

 「オオシャリシャリ」は「おっしゃるとおり」の意味である。  
 なお、戦前歌われていた歌詞は、「神宮皇后さんの雄々しい姿」ではなくて、「神宮皇后さんの三韓(筆者注:古代朝鮮南部に依った馬韓辰韓弁韓の総称)退治」であった。 この事は戦後の国際情勢を考慮に入れての変更である。

 

 『平家物語』に、「仲哀天皇二年に、長門国にうつッて豊(とよ)良(らの)郡に都を建つ。其国の彼(かの)みやこにて、御門(みかど)かくれさせ給しかば、きさき神宮皇后御世(おんよ)をうけとらせ給ひ、女躰として、鬼界・高麗・荊(けい)旦(たん)(注:薩南諸島・朝鮮・契丹)まで攻めしたがえさせ給ひけり」と書いてある。これは、古代日本が下関の長府に都を置き、神宮皇后を主と仰ぎ、外敵に当たったことを物語るのもので、維新直前に起こった、この米・仏・英・蘭四カ国の軍艦の報復来襲に対して、萩の女性を奮い立たせるにふさわしい歌詞と言える。