yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 第九章「村医者となる」

(一)

 明治四十四年の暑い夏も終わり、せわしく鳴いていた蝉の聲もいつしか弱まり、日中暑熱に耐えていた庭木も秋風に生気を取り戻してさやかに揺れていた。
 

 惟芳は下宿の五右衛門風呂に身を沈め、時の早い移ろいを感じながら、独り閑かに思いに耽るのであった。

 

 ―稔りの秋、収穫の季節も長くは続かない。そのうち秋も深まるだろう。ぐずぐずしてはおれん。開業に向けて拍車をかけねばいけない。学歴のない者には最難関と言われていた医師開業試験に無事合格できた。これで肩の荷をひとまず下ろすことができた。しかし今後医者としての第一歩を踏み出す前に、もう少し研鑽を積みたい。一方一日も早く実地で働きたいという気持ちもある。母にはまだ苦労を掛けることになるが許してもらおう。あれこれ考えると今一つ気持ちが落ち着かないな。

 

 こうした錯綜した感情を抱いていたある日のこと、廣島予備陸軍病院の惟芳のもとに未知の人物が刺を通じてきた。この人物は山口県阿武郡宇田郷村の村長で中山脩三と名乗った。しかし惟芳にとっては全く見ず知らずの間柄であった。村長は惟芳が前年に医師開業試験に合格したのを官報で知ると直ぐに、阿武郡医師会に先ず手を打って内諾を得た上で、遠路廣島まで来たのである。
 「緒方先生、この度は開業試験に及第されおめでとう御座います。早速ですがたってのお願いに参りました。実は先生に是非ともわが宇田郷村に来て頂いて、私共を助けて頂きとう御座います。私の村には今開業医はおられるにはおられますが、何しろご高齢で七十歳を過ぎでおいでです。従いまして往診はもとより急患への対応もご無理です。お若いときには郡の医師会長もされたようですが、人間誰しも歳には勝てませんね。
私も還暦を過ぎました。村長の職をぼつぼつ代わってもらいたいと思っているところです。やあ、これは話が逸れてすみません。まあ、こんな訳で今は私の村は無医村に近い状態でありまして大変困っております。」

 村長はこう云って話を切り出すと、言葉を続けた。

 「この度萩町御出身の先生が開業試験に見事及第されたことを聞き及びまして、好機逸すべからずと考え、早速阿武郡医師会へもお願いして、ここにまかり越した次第で御座います。村民挙げてのお願いで御座います。どうか私どもの苦衷をお察し頂いて、村医をお引き受けくださいますよう心からお願いいたします」
 
 中山村長は村(そん)夫子(ぷうし)然(ぜん)とした、温厚篤実な風格のある人物に見えた。落ち着いた風姿で、眼鏡の奥の両眼には人を射すくめるような鋭い輝きと同時に優しさが見えた。また胸元にまで達する美髯(びぜん)は見事と言う他はない。惟芳は一目見てこれは一(ひと)廉(かど)の人物だと思った。後で知ったのだが、中山氏は寒村である宇田郷の村長になる前、厚狭郡、豊浦郡の各郡長、さらに三田尻町長などの要職を歴任していた。そろそろ隠居でもと思っていた時、名ばかりでもと請われて故郷の村長に就任したのである。実務は助役が執っていた。
 
 中国南宋陸游(りくゆう)(1125~1209)の詩に、

 「果たして能く善人と称せらるれば、便(すなわ)ち郷里に老ゆ可し」とある。

中山脩三氏のあとを發郎氏、更に修氏と中山家親子三代が郷里の町・村長を勤めた。 「郷里に老いた」善人と言えよう。

 中山村長は熱意をこめて村医受諾を惟芳に迫った。惟芳はこの降って湧いたような話に一瞬とまどったが、少し考えた後ゆっくりと次のように応対した。
 「先程から中山様は私のことを『先生、先生』と仰有いますが、私は医師の資格は取ったもののまだ開業していませんので、『先生』と言われますのは心苦しく存じます。ましてや村長であられます中山様は私より遙かに先輩で御座います。どうか『先生』と言った呼称は私が医者になった後ならいざ知らず、今は『緒方』とだけ言って頂きとう御座います。」

 惟芳は先ずこう言った後で、条件次第では受諾しても良いと思ったので話を聞くことにした。村長が示した条件は、最低五年間村の医療に携わって欲しい、また村には産婦人科専門の医者はもとより産婆もいないので、出来たら惟芳に産婦人科医としての資格を取得して来てもらいたいということであった。
 

 惟芳は村長の申し出は別に無理な事ではないので、後は萩でこれまで長い間自分の帰りを待ってくれている老いたる母を説得し、母にもう少し辛抱してもらいさえしたら、話に乗ってもよかろうと思った。そこで即答を避けて、近日中にご返事致しますと言って、村長に深々と辞儀をして別れた。
 

 村長は別れ際に、「村の従来の開業医は西洋の医療ではなくて漢方の医療を主に施しておられます。緒方先生は西洋医学を学ばれ、難関と言われる開業試験を突破されたので、私ども村人には本当に願ってもないお方です」と、何だか人を持ちあげるように聞こえる言葉を口にしたので、惟芳はちょっと気を殺(そ)がれるようにも思った。しかし村長の真剣な眼差しと、切実な訴えに彼は心を打たれた。年齢の差はあったが村長と惟芳にはお互い志を同じくするものがあった。惟芳は村長と別れた後、独り静かに考えて次のような結論に達した。
 
 ―よし、これも天の定めかもしれん。好機逸すべからずだ。こうなるともうあまり時間はない。陸軍病院でもっと研鑽を積もう、そして市内の開業医の所で産婦人科について学ぶ必要がある。そうしたら村長の要望に応える事も出来よう。宇田郷村へ行けば萩での開業は先延ばしになるが、母には分かってもらおう。長年淋しい思いをさせて申し訳ないが、これがいまのおれには取るべき最善の道だろう。  

 

 こうして彼は母へ自分の意志を伝え、村長に嘱託医受諾の意向を手紙で通知した。
これは惟芳の生涯における大きなエポックメイキングな出来事であった。時あたかも明治天皇崩御により、年号は明治から大正へと代わったのである。明治天皇崩御は明治の御代に生まれ育った者たちに大きな衝撃を与え、後世の者には想像しがたい雰囲気を国中に醸し出した。現に、天皇の大葬の日に決行された乃木大将夫妻の自刃は、鴎外をして『興津弥五右衛門の遺書』を書かせたし、漱石は『心』の中の先生に、次のように述懐させている。

 「すると夏の暑い盛りに明治天皇崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残ってゐるのは畢竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました」

 

 惟芳はこの先生のように、「生き残るのは時勢遅れ」とは考えはしなかった。しかし時勢が大きく変わるのは間違いないような気がした。これから先、時代の波がどのように流れ渦巻いても、自分は自ら選んだ医者としての道を歩まなければならないと思った。
 また乃木大将自刃の報に接し、この我が長州の尊敬すべき偉大な将軍や、戦死した数多くの戦友に思いを致したとき、この先医療に専念することが、自分に託された唯一の道であり、この道を進むのは自分の責務だと改めて強く感じた。
 
 今私の手許に、大正元年九月十八日(水曜日)発刊の『大阪朝日新聞付録』がある。惟芳が購読していて遺したものである。色あせて手荒に扱えばすぐ裂けそうな一枚の古新聞である。乃木将軍の敵味方を問わぬ人間味溢れた逸話が掲載されているので、少し長いが引用してみよう。なお、当時の新聞には、全ての漢字にふりがなが付けてあるが煩(はん)を避けて大半を省略する。

 

 又除幕式當日夜會の席上には、露國側の参列員中、現に松樹山(しょうじゅざん)に楯(たて)籠(こも)って中村将軍の組織せる白襷隊の斬り込みを受けて負傷したものや、黄金山の砲臺で負傷したものや、其の他種々の戦歴を有せる人が居た、中にも砲兵大尉のヴァーネーフといへる人は、東鶏冠山(ひがしけいくわんざん)北砲臺で、一部隊の指揮に當り、健闘力戦、四十有餘の重軽傷をうけ、遂に人事不省の儘松山俘虜収容所に送られた武人であるが、此の事を聞かれたる大将はトンと床踏み鳴らして立ち上がり、左(さ)る勇士の此の席上に在らんとは知らざりしとて、つかつかと大尉の前に進み寄り、其の両手を堅く握りて振り動かし、遂に互いに相抱合して暫しが程は離しもやらず今は大将も感迫り胸塞(ふさが)りて見えたる後、いと荘重な口調にて、『凡そ敵として最も恐るべき人は、味方としてまた最も頼むべき人なり』と許(ばか)り満々たる三(しゃん)鞭(ぺん)をぐッと一息に飲み干しながら、日本流は斯(か)くすとて、手づから盃を大尉に與へられた、大尉の感激は言うまでもなし、この光景を見てゲルングロス将軍や、チチヤコフ将軍の如きは、感嘆措(お)かず『此神の如き老人は果して幾歳の壽を保つべきや』と叫び出たのであった。 
 
 「凡将乃木」と言う者がいるかもしれない、しかし惟芳にとって、乃木将軍は郷土の大先輩であった。彼は人格者乃木希典の死を心から悼(いた)んだ。
 
 明治四十五年七月三十日から大正元年となった。先に述べたように、前年十月に宇田郷村の中山村長の切なる頼みを聞き入れた惟芳は即座に行動に出た。まず上官にそのいきさつを上申し、病院勤務を続ける傍ら廣島市内の中西産婦人科医院で研修をすることの許可を得た。彼はこれより前、開業に備えて既に廣島市内の難波病院で内科と外科の実地の研修を二年前から行っていた。今や彼には何時でも医師としての一歩を踏み出す自信はあり、医師になったばかりの者がとかく抱く不安はそれほど感じてはいなかった。
 
 大正元年十一月一日には陸軍病院から技倆証明書を附与され、同月三十日に現役満期となり、さらに十二月一日に後備役編入となった。かくして彼は陸軍病院を退職することとなった。

 思えば明治三十六年十二月十五日に兵役に服し、明治三十九年十一月三十日まで三カ年、さらに三十九年十二月一日から大正元年十一月三十日までの六年間の再服役を合わすと、九年間軍務に服したことになる。

 帰省すると阿武郡医師会への挨拶から始まって、開業への諸準備、とりわけ看護婦の確保は必要な事であるので医師会にお願いし、年若い看護婦を一人斡旋してもらった。こうしてあっという間に大正元年は足早に過ぎ去ろうとしていた。
 
 惟芳は村人の願いを一日でも早く叶えなければと思ったので、年明けを待たずに出発する決意をした。年の瀬も迫ったある日、朝早く起きるとまず神仏を拝み、朝食を済ますと、前夜準備を整えていた荷物を傍らに置き、母に別れを告げた。
 「母上、宇田郷村はここからそう遠くではありませんが、医者という立場上、患者が診てくれと頼みに来たら何時でも対応しなければいけません。それは昼夜を問わないと私は思います。そのような訳でなかなか暇が取れませんので、好きなときにおいそれとは帰れないと思います。しかし約束の五年後には必ず帰って参ります。どうかそれまでお体にはくれぐれもお気を付け下さい。しかし私の方へは何時でもお出かけ下さっても構いません。暮れも間近になり寒さも増してきます。どうかご無理をなさらないように。それでは行って参ります。」 

 

 その日は山陰特有のどんよりした冬空が珍しく晴れた穏やかな日であった。彼は気持ちも晴れやかに一台の馬車に身を託し、改修されたばかりの日本海沿いの県道を宇田郷村へと目指したのである。まさかこの先、生まれ育った我が家での生活ができなくなろうとは、その時の惟芳は夢にも思はなかった。宇田郷と萩は距離にして僅か五里(約二十四キロ)、このように目と鼻の先にありながら、彼は生涯この宇田郷村という僻陬(へきすう)の地を離れることなく、遂にこの地で生涯を閉じることになった。ひとえに運命と言う他はない。

 

 

(二)

 惟芳は萩中学校で、国漢の安藤紀一先生が、『松下村塾記』の中の言葉を黒板に書いて、学生たちの志気を高められた事をふと思い出した。
 
 「長門は僻(へき)して西陬(せいすう)に在りと雖も、其の天下を奮発して、四夷を震動するも、亦未だ量(はか)るべからざるのみ」
 
 城のある萩を中心とした長門を松陰は「僻して西陬に在り」と言ったが、今惟芳が足を踏み入れた宇田郷村は、大正元年には戸数四〇六、現住人口二二二一人、一戸当たりの現住人口は五、四七人の半農半漁の小さな村であった。彼が村医として赴任したときはやっと県道の改修が済んだばかりで、鉄道が全線開通したのはずっと先の話である。

 我が国に鉄道運輸が開始されたのは、明治五年東京新橋と横浜間であることは周知の事である。それが西に延びて廣島へは明治二十七年、徳山(現在の周南市)へは三十年、そして馬関(下関)へ到達したのが三十四年であった。この鉄道を利用して惟芳が生まれて初めて長崎を訪れたことは既に述べた。こうして全国に鉄道網が敷き詰められていったのであるが、山陰線が全線開通したのは昭和八年二月二十四日、実に鉄道開始の日から六十年が経過し、山陽線が全通してからでも三十年後の事である。

 県道が改修されるまでは、宇田郷の村人たちは隣村の木与村、さらにその先の奈古町へは海際の崖っぷちの危険な道を辿るか、急峻の丘を越えるかしなければならなかった。他方反対側の須佐町へは、これまた大刈峠という難所を越えるか、海に突き出た岩山を、先人たちが命を賭けて削り作ったであろう小道を辿りながら、迂回して行かなければ達せなかった。現在、宇田郷を挟んで木与と須佐とは距離にして約十五キロしかないが、この間に大小の鉄道のトンネルが九つもある。この中でも須佐・宇田郷間の鉄道工事は最大の難工事であった。

 「この区間は延長二二一五メートルの大刈トンネルと惣郷下の白須川河口の鉄橋があるため工期は昭和二年十二月二十一日から五年二月二十一日まで二年余を有し、工費は一一五万円を要した」と『阿武郡史』に記してある。

 惟芳が村医として赴任した丁度その頃、海岸に沿って人や馬車が通る県道だけが改修を終えていたのである。
 

 これをもう少し具体的に見てみると、萩から大井を経て奈古の間の県道改修は明治三十四年から三十六年に、さらに奈古から木与までは明治三十九年から四十年の間に改修を終えていた。一方島根県境から須佐までの道路改修も明治三十四年から三十五年の間に完了した。残るは木与から須佐まで里数にして約四里の区間が明治四十年までは未改修であった。この間の工事がいかに難事であったかは、この県道と平行して海岸沿いに敷かれた鉄道を通すのに、九つのトンネルを掘らなければならなかったことで想像がつく。
 

 要するにこの木与村と須佐町の間に位置する宇田郷村の人びとにとって、それまで往来(いきき)に如何に難儀をしたかという事は容易に頷ける。惟芳はこのような僻陬(へきすう)の地に単身赴任したのである。
 

 開業以来、彼は山坂の小道を上り下りして毎日往診した。満州の曠野をある時は雨に打たれ、またある時は降雪を冒して幾日も行軍を続けた苦渋に満ちた体験と、多くの戦友の死の犠牲のもとに今の自分があるという自覚は、これしきの山道何するものぞという気持ちを抱かせるのであった。
 

 彼は午前中診療所で患者の診察治療にあたり、午後は聴診器や注射器など必要な医療器具を入れた黒い皮鞄を提げて患者の家を一軒一軒歩いて廻っていた。しかし何分にも患家はここに一軒あそこに一軒と散在しており、そこまでの往来にあまりに時間がかかる非能率さを考えて、彼は思いきって当時としては非常に高価な自転車を購入し、坂道に差しかかるまでの平坦な道を、この自転車に乗って行くことにした。しかし自転車を利用できる距離並びに時間は徒歩を強いられる距離や時間に比べたら僅かであった。
 
 ここで宇田郷村の部落の概要を述べてみよう。診療所のある所は元浦(もとうら)といい、川幅十間ばかりの宇田川に架かる橋を挟んで、西隣の部落は今(いま)浦(うら)という。この両部落に比較的人家が集まっており、宇田郷村のいわば中心部である。そこから海岸伝いに平坦な道を西へ三キロばかり行ったところに田部(たぶ)という部落がある。田部への途中から山間部に入ったところに井部(いぶ)田(た)という小部落がある。今浦から川を遡った所に葛(つづ)籠(ら)という部落がある。文字通り葛籠道を辿らなければ行けない。また元浦から山間部に入って行くと郷(ごう)、さらに山奥に平原(ひらばら)という辺鄙な部落がある。診療所から海岸に沿って反対の東の方へ一キロばかり行くと畑(はた)、その先一キロばかりの所に尾(お)無(なし)、さらに進むと下惣(そう)郷(ごう)、上惣郷という部落があり、その先に名振(なぶり)、そして大刈トンネルで有名な大刈(おおがり)という部落が坂の上に位置している。

 宇田郷村の部落は以上数にしたら僅かだが、それぞれが離れて点在しており、大部分山坂を上り下りしなければいけない所に位置しているので、惟芳としては折角の自転車も十分には利用できず、徒歩での往診を余儀なくされる毎日であった。
 

 ここで一言付加しておく。こうした山坂の道を辿る以上に難渋したのは、冬季遠くシベリヤ方面から吹き寄せる猛烈な寒波である。山陰の冬は日本海の遙か彼方、シベリヤから来る。現在は地球温暖化に伴い冬の寒さは昔ほどではない。
このような訳で冬の嵐の日など、海岸沿いの道を田部の部落へと西に向かって進めば、右側の海から、他方大刈の部落へと東に進めば、今度は左側から、それこそ目も開けられず、自転車では到底進めない程に寒風が容赦なく吹き付けたのである。特に吹雪の闇夜の往診は想像を絶する厳しいものがあった。こうした状況の下にあって、惟芳は一年三百六十五日休むことなく往診を続けた。それは結局昭和二十年終戦の年、患者を診察していて脳卒中で倒れるまで三十五年の長きにわたった。
 
 さて、惟芳は医師として生活する目途がついたので、生涯の伴侶を得たいと思った。たまたま中山村長から妻帯の話が出たので、彼は信頼しまた尊敬する村長にこれを一任した。
 

 これまでの惟芳の履歴をみれば女性の存在は無きに等しい。「男女七歳ニシテ席ヲ同ジウセズ」という儒教の教え、この明治の教育方針が当時の日本人には一貫して流れていた。彼の場合も、小学校から中学校、さらに三菱長崎造船所においては勿論、軍隊に入ってももこの精神に変わりはない。ただ看護兵として勤務したときの看護婦たちの存在は、女性として当然考慮すべきものではあったが、当時の軍医と看護婦との間には今日とはかなり違った意識の差がみられた。確かに看護婦たちの助力なくしては軍医の仕事は成り立たないが、あくまで主従の関係に近いものであった。
 

 彼は帰還後間もなく、長崎の下宿で親しくしていた吉川先生に手紙を書いた。その時先生の妹の心のこもった「千人針」のお陰で無事故国の土を踏むことが出来たということも書き添えた。この手紙に対する返事で、先生は、「この度妹を同僚の教師の所に嫁がせ、その後自分も結婚した」と書いて寄こした。惟芳としてはたった一度の事ではあるが、吉川先生の妹の悠子が彼の下宿に兄を訪ねて来たとき、彼女を始めて女性として意識した。これが彼の結婚前の人生途上における唯一の女性であったと言っても過言ではない。
 

 帰国後の廣島陸軍病院での勤務においては、多くの看護婦に接したが、勤務中はともかく勤務を離れたら、「女よりはむしろ酒」と言った感じで、下宿での勉強に倦んだときには、仲間と酒を飲んで時々息抜きをしていたに過ぎなかった。しかし今や、惟芳は医師として働くことにより妻を娶って一家を支えていく自信を持つことができた。また年齢から言っても二十九歳になったのだから、結婚をぼつぼつ考えてもよいと思った。彼の母親のマサも彼が宇田郷村に向かう前の晩に結婚を考えてみたらどうかと言った。惟芳は医者の仕事に関心を持ってくれる女性が望ましいと思っていた。

  惟芳は大正二年一月十九日に結婚した。彼は丁度三十歳になっていた。相手は、奈古町で代々漢方をもって医業としていた小田家の長女であった。明治になって漢方ははやらず、戸主たる彼女の父はやむを得ず稼業を止めて、寺子屋で子供たちに読み書きを教えていたが、生活は苦しかったようである。惟芳は小田家の窮状を知った上でこの結婚を受諾した。彼女は名を小田シゲといい、明治二十七年生まれで十九歳であった。彼女には二人の妹とその下に弟が一人いた。すぐ下の妹も後に萩市の医師である綿貫秀雄の許に嫁いだが、跡取りの弟が若くして死んだので、第三女が養子をもらって小田家を継ぐことになったのは後日の事である。

 

 

(三)

 話を少し前に戻そう。惟芳が宇田郷村に村医として着任したとき、一軒の独立家屋を住居として貸し与えられた。それは築後そんなに年月も経っていない、小さな庭付きのこざっぱりとした家であった。彼はこの家が気に入った。早速一番大きな一室を診察室に使うために板張りの床にした。残り三部屋は畳敷きである。手狭な平屋であるが独り者にとってはさし当たり十分だと考えた。看護婦は近くの民家に下宿させて通ってもらうことにした。惟芳の三度の食事は、診療所の真向かいにある梅六という鮮魚を扱う店の女房が面倒を見てくれるということで安心した。そこの主人は惟芳と同い年の明治十六年生まれであるが、惟芳の方が二ヶ月ばかり年上であった。梅田六七が正式の名であるが、近所の者はもとより多くの村人たちも彼とその店を「梅六」と呼んでいた。
 
 梅六は小柄ではあるがそれこそ「一心太助」のような、気っぷのいい元気で気さくな働き者であった。惟芳とは初めからよく気が合い、「先生に食べてもらわんにゃ」と言って、毎晩の酒の肴には彼が捕った魚をこれだけは自分で刺身にこしらえて家内に届けさすのであった。

 彼は丁年で徴兵検査を受けたとき、「甲種合格」の基準である身長が五尺(一五二㎝)に達していないので軍隊に入ることができなかった。日露戦争当時、「甲種合格」者のみが軍隊に採用された。しかし梅六は背が低くても若いときから海で鍛えた身体には自信があり、小さいながらも肝っ玉は太く、その上才覚にも恵まれていた。徴兵検査に落ちたとき、同じように検査にはねられた村の若い衆を誘って次のような破天荒の計画を打ち出した。
 「おれは背が低いばっかりに軍隊に入ってお国のために役立つことができない。残念でならない。お前たちも同じ気持ちだろう。しかし兵隊にならずとも國のためにできる仕事はある。毎日漁に出るだけが能じゃない。ここで一つ思いきった事をしてみようではないか。聞くところによると、朝鮮や満州では内地の物資、なかでも味噌・醤油とか梅干しといった日常なくてはならぬ食品が一番望まれているし高値で売れているそうだ。そこで相談だが、手漕ぎの船に乗って行って一儲けしてみようじゃないか。二人一組の四人が一緒に船に乗り、凪を見計らって夜昼ぶっ通して交代で漕いで朝鮮を目指したらどうだろう。行き帰りに数日かかるだろうがな。なーにいざというときにゃ死ぬ覚悟でやりゃできんこたーない。」
 こういった今から考えると無謀とも思える計画を二十歳代前半に実施した痛快な男である。彼とその仲間たちは現代の南朝鮮の釜山まで漕いでいって商売をしたのである。

 

 惟芳は県嘱託医として着任以来目が回るような忙しさで、ゆっくり海を眺める暇も無いほどだった。今日は幸い春分の日、村人たちは墓参りに行くので、診察を頼む者は少なかろうと思い、いつもより早く起きると外へ出た。朝食にはまだたっぷり時間がある。漁師たちも平日なら朝早くから漁に出かけるが、この日は漁も休みなのか人気(ひとけ)は全くない。そう思っていたとき梅六が声を掛けた。
 「やあ、先生お早う御座います。朝早くからどちらへお出かけですか?」
 「お早う。いや別に何処へ行こうとも思ってはいない。今日は春分の日だから患者は少ないだろうし、来てもそう早くからではないだろうから、浩然の気を養うために、海でも見ようかと思っているだけだ」 
 「そうですか。お供をすればいいのですが、朝飯の前に私一人で墓参りをしようと思って出かける所です。おお、今思い出しました、昨日家内がお墓へ行ったとき咲いていたと行って取ってきました梅が一枝あります。丁度今が見頃です。」
 こう言って梅六は出てきた店の戸を開けてまた中に入り、数輪の白い花が細く伸びた青い枝に咲いているのを持って現れた。
 「先生、診療所の戸口に置いておきますから」
 梅六は、こう言い残すと去っていった。惟芳は梅と聞いて、我が家の庭にある梅の古木を思い出し、今は亡き父がこよなく此の梅を愛でていたことを懐かしく思った。
 
 惟芳は海の方へと歩を進めた。流石に鶏は朝が早い。近くの漁師の家の軒下にでも多分飼われているのだろう。雄鶏の「コケコーコー」という威勢の良い鳴き声が朝の静寂(しじま)を裂くように聞こえてきた。
 

 この診療所の横を海岸沿いに街道が走っている。県道とは名ばかりで、改修はされたものの、幅二間足らずの粗末な舗装の道で、質素な漁師の家々や、それよりは多少ましな民家が道の両側に肩寄せ合った状態で並んでいる。一方この街道と十字に交わる道が診療所の前にも走っている。この道のほうが古くからある道である。改修工事で海岸沿いに隧道ができる前は、海にまで延びた岩山を迂回しながらこの道を通って須佐へ行かなければならなかった。かって松陰が『北浦廻(きたうらかい)浦(ほ)』の巡検をしたときは、萩から須佐までは船を利用してこの難所を避けている。
 
 その難所と言うのは診療所前の道の背後にそそり立った岩山である。山と言っては大袈裟で、海岸まで突き出た低い丘と言った方がよい。今回の県道改修でこれを掘削して隧道が出来たので非常に便利になった。松陰の時代にはまだこのトンネルはなかった。この丘を左手に見ながら診療所の前の道を進むと、村役場や小学校、さらに八幡宮の鎮守の森があり、その先は平原(ひらばら)という山間の部落へと通じている。

 山間部と反対方向の海への道は海岸沿いに並ぶ二軒の家の間を通っており、道幅が一間あるなしで非常に狭くて薄暗い通路である。彼はこの狭い道を通り抜けた時、暗所から明るく開けた所に出たような気がした。直ぐ目の前に、小さな港と数隻の漁船が見えた。子供の頃から見慣れていた萩の菊ヶ浜の景色とは違った風景である。
 
 街道に平行して小道が海の直ぐ傍にもう一本通じていた。この小道に沿って並ぶのは主として漁師の小屋で、そこには漁網や櫂(かい)、碇(いかり)、生け(いけ)簀(す)用の大きな竹籠など漁具が置かれていた。さきほどの鶏もこうした小屋の軒下に飼ってあり、惟芳がそばを通るとかさこそと囲いの中を逃げまどうようにした。
この小道は緩やかに左にカーブして半円を描き、小さな港を抱きかかえるようになっている。小道が尽きた所にやや平坦な地所があってそこに古さびた粗末な木造の社(やしろ)と御影石の低い鳥居が建っており、社の周囲に黒松が数本生えているのが見えた。またこの鳥居のすぐ下から海に向かって御影石の石段が数段あり、それが海中に達しているのも目に入った。
 

 港内には手漕ぎの漁船が数隻、太い綱に繋がれていて、寄せては返す波に揺れて静かに海面に漂っていた。惟芳は久しぶりに潮の香を鼻腔に感じた。
 
 彼は下駄を脱いで社の鳥居の傍に置くと、裸足で社のまえの防波堤の上を歩いて突端(とったん)まで行ってみた。そこから沖合を見たとき、また景色が一変したように思った。小さいながらも防波堤に遮(さえぎ)られている港内は比較的波静かであったが、防波堤の外側では沖合から低く白波が次々と寄せて来るのが見えた。彼が裸足で立っていた石は比較的大きな石で、そこから数十間ばかり離れたところの岩礁に白波が打ち当たると、飛沫が上がるのがよく見えた。沖から吹く風が心地よく顔面を撫でた。海上遠くに目を移すと、円味を帯びた三角形の島が見えた。島の中程から上の方には青々とした松が、岩だけで成り立っているような島にしてはよく繁茂しており、島を美しく彩っていた。

 松が生えて美しいこの島の左側後方、三キロは離れていると思えるが、沖合に梯形の平たい島が浮かんでいた。後で教えてもらったのだが、三角形の島は姫島、梯形の島は宇田島と呼ばれていた。宇田島と呼ばれるようになったのには、いきさつがある。

 

 まだこの島の所属がはっきりしないとき、宇田郷村とその隣村の木与との村境から、双方同数の若者が二艘の手漕ぎの舟に分乗し、この島まで競漕し早く島に着いた方が島の所有権をうるということで合意し、結局宇田郷村が勝ったので、この島が宇田島と呼ばれるようになった、と梅六がいつぞや得意げに話したのを思いだした。そのとき惟芳は咄嗟に思ったのである。

 

 ―日本人同士でもこうして一つの島や土地をめぐって所有権を争うのだから、事が国に関与する問題となれば、命を賭けて争うのも無理はない。日露の戦いのそもそもの発端が、ロシアの極東への領土確保のための強引な進出に起因するもので、わが国としてはこれをただ指をくわえて座視するに忍びず、決然として立ったのだ。幾万もの若き命を犠牲にして戦ったのだ。幸い自分は無事に帰還できたが、戦死した者の事を考えると本当に胸が傷む。
 
 惟芳は事ある度に、いまだにあの満州の曠野での死闘を思い出すのであった。同時に今目の前に拡がる紺青の色を深く湛え、白波騒ぐ日本海を見て、ふと萩中学校を五年で中退した翌朝早く、菊ケ浜に出て旭光を仰ぎ見た時の若き自分の姿を脳裏に浮かべた。
 
 ―十年一昔というが、萩を出て長崎の三菱造船所へ入所し、その後兵隊に取られて満州奉天にまで行って戦い、無事帰還して廣島に住むようになるまで十年の歳月が流れた。そして廻り廻ってこんな所にやってくるとは、人間の運命は計り知れないものだ。
 

 安藤先生はよく松陰先生の話をされたが、その時はいつも目の色が輝いて見えたな。松陰先生が「鎮西遊歴」の旅に上られたのは嘉永三年で、二十一歳の時だったと言われた。そうするとおれが出郷したときは十八歳だったから、おれの方が三歳若かったな。先生はそれまで萩の郊外に住んで居られ、専ら読書と教育に没頭されていたが、精神の拡大暢達の機会を他郷に求めて先ず長崎に向かわれた。最後には世界の情勢を知ろうとして渡海を企図されて失敗し、結局二十九歳の若さで刑死されたが、二十九歳と言えば今のおれと余り違いはない。

 何だか先生とおれとは一寸符合するものがある。それにしても先生はさぞかし心残りだったろう。しかし三十年足らずの短い生涯で、素晴らしい事を為して死なれた。おれの人生はこれからだ。当分この宇田郷村で頑張るとするか。

 惟芳は潮風を胸一杯に吸い込んだ。爽やかな気持ちになってもと来た小道を帰った。小一時間ばかりの散歩であったが、村人たちの姿をほとんど見かけなかった。

 

 

(四)

 長男の芳一(よしいち) が生まれたのは大正三年四月二十八日であった。結婚して子供ができると女性は母性愛に目覚め、母になった喜びを強く感じ、一方男性は妻子を養わねばならぬという事を自覚し、より真面目に働き出すのは世の常であろう。しかし現代のような共稼ぎの時代となると事情は違ってくるようだ。戦前までは母親は母親らしく家事と子供の養育に身を捧げ、父親は父親らしく一家の支柱として仕事に専念することで円満な家庭を築いていた。そこには夫婦だけではなく、夫の両親や弟妹が存在する大家族制の場合もある。そうした場合、全く未知の家庭の中へ入っていくことになる女性にとっては、相当厳しい現実だったと思われる。しかしそうした忍耐を要する身であるからこそ、子供への愛は深度を増し、また子供は母親の苦労を見るにつけ、その労をいたわり、将来父親以上に母に孝を尽くしたいという気持ちになるのではなかろうか。
 
 今は親子、夫婦、兄弟姉妹間の良い意味での「序」や「違い」が消し去られ、まるで親子や夫婦また師弟の関係が戦前とは逆になったような現象さえ見られる。果たしてこれが人間としての進歩向上と言えるであろうか。
 

 この点から言えば惟芳の人生観、つまりいかに生くべきかという考えは微動だにしなかった。その根底は何と言っても「孝は百行の基」の教訓(おしえ)にあり、また規範として子供たちに遵守させたのは明治三十二年に発布された『教育勅語』の精神であった。
  
 芳一が生まれて四年後の大正七年十月二十三日に次男の勇夫(いさお)が誕生した。しかし彼は大正十三年に六歳で早世した。不幸は重なると言うが、惟芳にとって悲しいことに、妻のシゲも次男の亡くなった翌年、大正十四年五月二十七日に産褥熱が因(もと)で亡くなった。享年三十であった。
 

 惟芳はその年十二月に後妻をもらった。萩市出身の山本幸である。幸(こう)については後で詳しく述べることにする。
 

 医学が進歩した現在では産褥熱で亡くなるということは稀になった。しかし戦前には出産後この病で死亡することは珍しくなかった。
 

 私事で恐縮であるが、筆者の母も産褥熱ではないが、私を産んだその年に二十五歳で亡くなった。山本幸は筆者の伯母つまり父の姉である。義妹が亡くなったとき惟芳は十四歳も年下の義弟に向かって、両手をついて深々と頭を下げてこう言った。
 
 「親戚に医者がおりながらこのようなことになって誠に申し訳ありません。どうか許して下さい。」

 その時の義兄の真摯な態度に余程感銘を受けたのであろう。後年父は次のように語った。
 「おれは緒方の義兄(にい)様(さま)のような誠実で心の優しい人に是まで会ったことがない。あの時義兄様はただ手術に立ち会われただけで責任は全くない。それなのにおれに向かって心からの許しを乞われた。おれはあの時の事が決して忘れられない。あのように真心から謝罪されて、むしろおれの方が義兄様に申し訳ないような気がした」

 先にわが子を失い続いて妻を亡くし、そして今ここに義妹の死に直面して、彼は医者として慚愧に堪えず責任を痛感したのであろう。

 

 幸には、正道(まさみち)、幡(ばた)典(のり)、武人(たけと)の息子三人と、娘の信子が生まれた。惟芳と幸にとって悲しくも驚いた事に、最初の子である正道を産湯に浸けたとき、左足が伸びないことに気がついた。普通乳幼児を産湯に浸けると両脚を伸ばして排尿するのである。これより数日前に不明熱が出た。これらの事を考えて惟芳は正道が小児麻痺であると診断した。ウイルスによって脊髄を冒されたためである。彼は電気治療を試みた。乾電池バッテリーで患部に一日に何回も電気をあて、また足のマッサージを行った。四歳の頃まで正道は子守りの背中に負ぶさっての生活であった。ようやく歩けるようになったのは昭和五年、後で述べるが新しい家ができた頃である。惟芳は正道の足の悪い事について誰にも言及させなかった。   

 

 惟芳は正道と一つ違いの弟の幡典、また昭和四年に生まれた武人の兄弟三人を全く平等に扱うように家族の者に命じた。しかし彼等が悪戯をしたとき、また弟のいずれかが叱られるときは、正道は兄としてもっとも厳しい責めを受けた。だがこうした平等の扱いのために、正道が小学校を卒業して萩中学校に入り、萩の叔父(母の弟)の家に下宿して中学校に通い始めるまでは、自分の足が普通ではないということを知らなかった。
萩で近所の悪童連中が「チンバー、チンバー」と麻痺の残る左足をみて嘲笑した時はじめて自覚したと筆者に語った。これは一寸信じられない事である。

 惟芳は戦場で手足や目を負傷した傷痍軍人たちの多くが、退役後立派にまた逞しく生きている姿を目の当たりにしているので、愛しいわが子が人一倍強く生きることを願って臨んだのであった。これが本当の親心だと確信し、幸を始めとして、子守りや看護婦たちにも自分の気持ちを伝えたのである。正道は後年次のように述懐した。
 「僕が小学校を卒業して萩中学校を受験したのは昭和十三年でした。太平洋戦争はまだ始まってはいなかったが、僕のような身障者は県立の中学校には容易に入れなかった。そのために一年浪人した。父と叔父が石井校長に掛け合ってくれたので翌年入学できた。当時は軍事色一色で、軍事教練は必修であったが僕は免除された。また軍事教官が僕の歩く姿を見て、特別自転車通学を許可してくれた。それは一学期が終わったときです。当時萩中学校の生徒で川外からの者は別として、三角州内から通学する者は徒歩でした。今はどうですかね?それまで自転車に乗った事は勿論ない。僕は夏休みの間、宇田小学校の運動場で猛練習をした。左足がガクンと折れてどうしても乗れない。血みどろになって練習し、一ヶ月後にやっと乗れるようになった。」
 
 漱石がはじめて乗車を試みたときの事を、『自転車日記』に次のように書いている。
 「自転車の鞍とペダルとは何も世間體を繕ふ為に漫然と附着して居るものではない、鞍は尻を懸ける為めの鞍にしてペダルは足を載せ且つ踏み付けると回転する為のペダルなり、ハンドルは尤も危険の道具にして、一度び足を載せ且つ踏み付けるときは人目を眩せしむるに足る目勇しき働きをなすものなり。」

 

 五体満足の漱石にしてこの苦労、これがいささかオーバーな表現だとしても、片足が麻痺してペダルを踏めない正道がいかに悪戦苦闘したかは容易に想像できる。彼の話を続けよう。
 
 「昭和十九年に卒業したが、戦時中であったので、山口、岡山、久留米、福岡の医学専門学校を受験したが何処も不合格だった。障害者は軍医養成の対象にならないというのだ。戦時のために十九歳で徴兵検査を受け、甲種合格者のみならず乙種合格者も、丙種合格者までも戦場へ送り出されていた。しかし僕のような丁種の者は戦えないから国費を使って勉強さす必要はないと言うのだろう。
 

 石井校長は『君の成績なら大丈夫だ』と言って推薦状を書いて下さったが、結局戦争が終わるまで医学部には入れなかった。しかし戦後宇部医学専門学校に入ってからは、指導教官にどんなに厳しく指導されても平気だった。他の者は教授の雷がいつ落ちるかと戦々恐々としていたが、僕は父の厳しさに比べたら教授の叱責はそんない怖くはなかった。」
 
 謹厳実直な惟芳でも時には思わぬ失敗をして、後々まで語り継がれるようなこともしている。幸と結婚して間もなく、ある患者の家の上棟式に惟芳は招かれた。その時大杯に一升の酒が注がれ、上座に坐らされた惟芳の所へ先ず持ってこられた。この目出度い酒を参加者全員で廻し飲みするとは知らないで、独りで盃を開けなければいけないのかと思って一気に飲んでしまった。宴会の主催者にしても惟芳が飲んでいる途中で止めて下さいとは言えず、彼が全部の酒を飲み干した後、「あれは廻して飲んで頂くのが此の地のしきたりです」と言い、再び大杯に一升の酒がなみなみと注がれた。酒には強い方だが流石にその日は応えたのか、「ああ、酔うた、酔うた」と言いながら我が家に帰ると、そのまま床に就いたのである。夫がこのような酔態を見せたのは後にも先にもその時だけであった、と幸は子供たちに後年話した。
 
 戦前小学校高学年生になると、学校では彼等に『教育勅語』を覚えさせていた。正道は「父の思い出」として次のような文章を書いている。彼が小学四年、次弟の幡典が小学三年、末弟の武人が小学一年の頃であった。

 

 神棚に勅語が掲げられてあり、小四、小三、小一の三兄弟は正坐して、夕方より暗唱が始まります。予定通り進まぬ者には拳骨が落ちます。一週目、朝起きると腿がピリピリ痛み、太股に大人の手形をした出血斑があります。母に理由を尋ねると、

 「昨夜あんたが、お父さんの側に寝て夜中にお父さんをけっ飛ばしたので、お父さんがあんたの足を叩いて起こし、『教育勅語』を称(とな)えたら堪(こら)えてやると言われた。そうしたらあんたは「朕惟フニ」から「御名御璽」まで初めて誤りなく称え、「お休みなさい」と言って床に入った。あれを覚えていないのかと言って笑いました。小学校時代、一事が万事この調子、「鉄は熱いうちに打て」の諺通り厳しく躾られました。中学校に入学すると、元服の年齢に達したという理由で、薄気味悪い位黙って、私たちの行動を見守ってくれました。幼い私たちに世間のルールを一日も早く身につけさせようとした親心の現れであったと思います。」

 

 このような教育は今ではとても考えられない事であろう。しかしこれに類した事はその昔、武士道を重んじた家庭では別に珍しい事でもなんでもない。松陰が叔父の玉木文之進から英才教育を授けられたのは十歳未満のときであった。その時の文之進の峻烈極まる教え方を妹の千代が後年次のように語っている。
 「実父も叔父も極めて厳格なる人なりしかば、三尺の童子に對するものとは思はれざること屡々(しばしば)なりしと。母の如き側に在りて流石(さすが)に女心に之を見るに忍びず、早く座を立ち退かばかかる憂目に遇はざるものを、何故に寅次郎(松陰)は躊躇するにやとはがゆく思ひしとか。かく松陰は極めて柔順にしてただただ命のままに是れ従ひ、唯だ其及ばざらんを恐れたり」

 

 玉木文之進の松陰に対する躾の厳しさを彷彿させるほど、惟芳は子供たちを厳しく躾けた。しかし文之進の場合にも言えることだが、子供を躾ける師としての、又男親としての愛がそこにある。愛があるからこそ師弟また親子の絆が一段と強固になるのである。
 

 正道はまた「わが家の家庭教育」について次のような事も言っている。

 わが家の家庭教育で出来るのは躾だけで、他は何も出来ません。この躾については、私が子供時代に明治生まれの両親より受けたものを、そのまま子供に再現しているだけの事、今の時代には疑問な点もありましようが、幼児期より問答無用で押しつけたのが実情です。
 

 私は田舎医者の子供として過ごしました。父が多忙のため、小学校三、四年生になると、父の代理で結婚式や法事に出席させられました。田舎の事ですから、村長さん、小学校の校長さんと同格に上座に座らされます。数日前より落語の八さんよろしく、口うつしに当日の口上を教えられ、食事の作法を叩き込まれて出かけたものでした。
 

 田舎で過ごした小学生の頃は、電灯も夕方にならぬと点灯しない時代でした。夕方まで外で遊んで帰り、点灯後に神仏にお灯明を付けたのがわかると、御先祖様を暗い目に合わせた。何とお詫びするのかと目から火が出る程ぶん殴られたのも思い出となります。
 

 今考えると御先祖様いますが如しの教育だったわけです。一事が万事この調子で、躾は物心が付きかけた時期より意味もわからぬまま、実行に移さないとなかなか身に付かぬものだと信じて居るのが現在の私です。さてわが家の子供達どんな成人になりますやら。
 
 人は生まれた環境やその時代の思想に多大の影響を受ける。従って惟芳が『教育勅語』をもって子供達を躾けようとしたのは、当時の国民感情として至極当然のことだと考えられる。しかし当時、違った卓見を表した者もいた。ここで一通の書簡の一部を紹介してみよう。独りの青年が友人に書き送ったものである。

 

 思想の自由と云へば、国民の大多数が万世一系の帝統を無上の栄誉となし、教育勅語又は、維新の勅語などを何かと云ふと口にして、人の思想感情を束縛せんとするは迷妄の極なり、万世一系は日本の隠遁的国民なるを証し、勅語を楯とするは思想に独立不羈の力なきを証するもの、予は文部大臣が嘗て此の如きつまらぬ勅語を出して国民が自由の思想と感情とを桎梏(しっこく)したるを大いに慨するものなり。(中略)這般(しゃはん)の議論は今日の我邦にては公に言ふを得ず、而して其言ふを得ざる所以は即ち我国民の思想において、宗教において頗る幼稚なるを説明す。(注1)

 

 これは明治三十年米国において仏教を勉強中の若き鈴木貞太郎、後の世界的宗教学者鈴木大拙が、生涯の友である西田幾多郎に宛てて書いたものである。大拙はその後帰国して明治四十二年から大正十年まで学習院で教鞭を取っている。その時の学習院の院長は乃木希典大将であった。

 「乃木院長の教育方針は教育勅語に則り、大楠公山鹿素行吉田松陰の思想を背景とし、質実剛健を貴び、懦弱(だじゃく)を蛇蝎(だかつ)の如くいやしむ武士的教育でありました」と、そのとき中等科二年生であった日高第四郎氏は述懐している。
 

 一方大拙先生の印象として、
 「当時院内の軍隊様式の生活潮流の中で、先生はどことなくゆとりのある独特な風格を通じて、いわゆる富や名誉や権勢に超然たる心境を我々若者共に自ら示され、時には雑誌等に、外部にのみ眼を注がずに“心の奥底の光に眼を向けよ”とか、自律を貫いて“随処に主となる”ことが大切だなどと、あとから考えれば、当時としては極めて稀な、自主的自発的人格主義の教育論を示されました」
 
 日高氏はこの『乃木大将と鈴木大拙先生の印象及び想い出』の文を次のように結んでいる。
 「乃木大将の他律的教育法と大拙先生の自律に重きをおく教育法の間に対立衝突があったのではないかという想像があったのですが、そういう事実又は噂はついぞ耳にしたことがありませんでした。外からの厳しい躾による鍛錬の方法と、内心からの悟りを促し待つ助成の方法とはたしかに対立し易いものでありますが、指導の窮極において、“無私の忠誠”と“小我の解脱による悟り(菩提)”とは相通ずるものがあるのではないか。大将は単なる武骨一点張りの方ではなく、人情の機微を弁え、詩情をも解する人物、先生は人をも物をも内側から見る直感の禅者として武道の奥義をもとらえ得た人、互いに誠実に打たれて相ゆるすに到ったのではないかと思うようになりました」(注2)

 

 惟芳のわが子に対する躾は今の親から見たら非常に厳しいものであった。長男芳一に対するスパルタ的な教育の場合を見てみよう。

 漁師の子は小学校へ上がる前から海に入って波と戯れる。惟芳は芳一が小学校に上がる年頃になってもまだ海を恐れているのを知ると、夏休みのある日、息子の手を引いて防波堤の中程まで行くと、彼を抱きかかえるやいなや港内の海中に投げ入れた。そして後ろも見ずに彼は帰っていった。付近にいた漁師たちは一瞬唖然として思わず海面に目を向けた。子供は必死になって波打ち際に向かって手足をばたつかせている。救いの手を差し出す前になんとか窮地を脱した子供を見て、漁師たちは内心ホッと胸をなで下ろした。

 芳一はそれ以後海を恐れることがなくなった。惟芳にしても一見無謀とも思える行動に出たが、わが子を信じ又周りに漁師たちがいることを計算に入れての事である。しかしこうした行動は世の親の容易にできる事ではない。
 
 以上惟芳の「子供への躾」の一端を見てきたが、ここには明治にまで受け継がれた「武家の躾」の伝統がある。この事は敗戦直後の昭和二十四年に出版され、それこそ洛陽の紙価を高くした池田潔氏の名著、『自由と規律』の中に述べられたイギリスパブリック・スクールの教育方針と揆(き)を一(いつ)にする。池田教授は次のように述べている。
 
 (前略)それはパブリック・スクールの教育の主眼が、精神と肉体の鍛錬に置かれているからに外ならない。これは、よい鉄が鍛えられるためには必ず一度はくぐらねばならない火熱であり、この苦難に堪えられない素材は、到底、その先に待つさらに厳酷な人生の試練に堪えられるものとは考えられないからである。叩いて、叩いて、叩き込むことこそ、パブリック・スクール教育の本質であり、これが生涯におけるそのような時期にある青少年にとって、絶対必要であるとイギリス人は考えているのである。
 

 

(五)

 惟芳は村人たちが衛生観念に乏しいのをかねがね心配しており、是非とも衛生思想を普及しなければいけないと思った。貧しい村なので自宅に井戸のない家庭もあり、また井戸はあってもポンプがなく、釣瓶(つるべ)で水をくみ上げる家が大多数である。洗濯など大量の水を必要とするときはどうしたか。それには川水を利用する以外に方法がない。今浦と元浦の二つの部落を分断した形で流れている宇田川は、この川の周辺に居を構えている者に取っては大事な生活用水である。洗濯、灌漑にこの川の水を利用するのは当然として、肥担(こえ)桶(たご)を洗っているつい鼻先で、野菜を洗い米をといだりするのも、それほど珍しいことではない。甚だしい場合は、上流で汚物のついたものを洗濯し、その下流では刺身を作るといった有様である。また夏ともなれば、子供たちはこの川中で海老や田螺(たにし)などを取って遊ぶ。確かにかれらにとっては掛け替えのない水域である。しかしこうした不衛生のためにトラホームや赤痢・疫痢などの伝染病がよく発生した。
 
 惟芳は村人に糞尿を川に流すことのないように、とくに梅雨期になると伝染病の発生源になるので、生ものは加熱するように、子供たちには川で遊んだ後井戸水で手や顔、特に目をよく洗うようにと度々警告していたが、長年の習慣は一朝一夕には改善されなかった。  

 このような不衛生な状態が続いたので、毎年梅雨期に入ると、爆発的に赤痢や疫痢といった法定伝染病が発生し、一家全員が罹患することもしばしばであった。そのために村は山口市から派出看護婦を雇い入れ、村の隔離病舎を臨時に開けて患者を収容した。惟芳はそうしたとき病舎への往診治療にあたった。そして惟芳もそこで最後の息を引き取ったのである。この事については後の章で少し詳しく述べてみたい。
 

 赴任して間もない時の事である。彼は大正元年、陸軍軍医総監医学博士文学博士森林太郎の署名で『戦友』に掲載された「トラホームと其預防」の記事を思いだした。村人たちはトラホームにより失明にいたる危険性を知らないので、彼は「トラホームとは何ぞや」という森博士の記事を周知徹底させ、予防処置を執ることにした。 

 「トラホームは通常極めて慢性に経過し、往々数年乃至数十年に亘る。初め結膜(筆者注: 眼瞼の裏面と眼球の表面とを覆う無色透明の粘膜)を侵し、角膜及眼瞼(注:眼球の上下をおおい、角膜を保護する皮膚のひだ)に進み特殊の病変を起こす。其病毒は眼の分泌物中に多く存在し、時としては直接之れに接触するに依り伝染することあれども、多くは患者の使用せる手拭洗面器衣服等を介し間接に伝播す。初めは其の症状極めて軽きを常とし、僅かに羞(しゅう)明(めい)(注:眩しがること)ありて小量の分泌物あるに過ぎざるを以て、不知(しらず)不識(しらず)の間に治療期を失し易し。病勢は漸次進んで分泌物増加し、毎朝睫毛(せんもう)を膠著し、結膜面は發(はつ)赤(せき)肥厚(ひこう)し、顆粒(かりゅう)を生じ、眼内異物の感ありて眼の疲労し易きを覚ゆるに至る。此の時期に於いて適当の治療を施さざる時は病変は更に角膜を侵し視力減退するに至る。此期に及んで倉皇(そうこう)(注:あわてて)醫を訪うふも治療容易ならずして視力の障碍を貽(のこ)し、甚だしきは遂に失明す。全国盲人中其の失明の原因種々なりと雖(いえども)、トラホームに依るもの亦頗(すこぶ)る多し。」

 

 惟芳は博士のトラホーム預防法に則り、小学生を通じて各家庭に注意事項を伝達した。しかし必要な伝達を行ったものの、宇田郷のような寒村では、「手拭洗面器を各自専用にせよ」とか、「石鹸で手指や洗顔をせよ」という事項でさえ、実施できる家庭は一握りである。またこの村では、貧困家庭で病人が出ても医者に診せようとしない。従って診断を一回も受けずに死ぬ。そうなると惟芳としては「死亡診断書」が書けない。しかしその死体を火葬か土葬にしなければ葬式ができないので、彼等は「死体検案書」を書いてくれと惟芳に頼みに来る。

 

 このような悲惨な状況を多く目撃して彼は往診料を取らないことに決めた。また治療費も払えないような家庭の場合、何時でもよい、たとえ孫子(まごこ)の代になっても、払えるようになった時払ったらよいと言った。しかしそのために惟芳は往診を渋ることはなく、真夜中でも急診の訴えがあれば必ず出かけていった。ある夜など三回も往診し、結局その夜は徹夜した、と後日幸は子供たちに語った。夫が夜間の往診に応ずれば妻として寝ずに帰りを待つのは当然のことである。 
 
 参考までに、平成19年7月分の山口県警察管内発生の死体検案数の合計は150、その内訳は、自殺42、病死86、他殺2、他過失2、自過失13,災害0,その他5である。 
  〔山口県医師会報 第1765号〕
 
 また薬代は盆と暮れの二回の支払いであった。しかし全額支払いのできる村人は少なく、三割か四割の支払いで済まして、それでは気が済まないと思うのか、米や野菜あるいは魚を黙って台所の隅へ置いていく者もいた。

 

 こうして惟芳は献身的に村民医療に当たったので、彼等もそれに応えて惟芳に何時までもこの村に居て欲しいと切に願うようになった。五年契約の期限はもうとっくに過ぎていた。惟芳としては子供の数も増え、彼等の教育の事を考え、また萩の堀内には生まれ育った家屋敷があり、その敷地面積はかなりあるので病院を建てるのに他の土地を物色する必要はない。そこで村医を辞退して萩で開業したいと村役場に申し出た。ところが村長は是非村に止まってくれと惟芳に翻意を促した。
 
 それまで惟芳は、宇田郷村に住んで村人の医療にあたり、昼夜の隔てなく患者に接した。そのために患者から頼りにされ、手を引くにも引く時機を見つけることが難しいと思っていた。その間萩の家で長男の帰りを待っていた老母は大正七年十二月五日に六十二歳で亡くなった。惟芳は母の許にあって孝養ができず、「風樹の嘆」を痛切に感じた。せめて心を休めることができたのは、将来どうなることかと懸念していた弟の尚春が無事歯科医の免許を取り、萩で独り立ちして母を安心させたことである。

 村長ならびに村民たちの強い願いを受け入れ、宇田郷村に自分の医院を持とうと決心したのは、昭和三年の夏も終り近い頃であった。後妻の幸を迎えたことは既に述べたが、その年には幡典が生まれ、三番目の子も出産間近であった。一方先妻の息子の芳一は県立萩中学校に入学して寄宿生活をしていた。こうした事情をいろいろと検討した結果、彼は漸く気持も定まったのである。

 

 これより前、惟芳は今の仮住まいの診療所から目と鼻の先の所の地所一五〇坪を、宇田郷村で代々酒造業を営み、大敷網(おおしきあみ)の家元でもある金子秀蔵から購入していた。彼がこの地所を購入し、病院を建てる気になったのは、先に述べた鉄道工事で建設工事人ならびにその家族が宇田郷村に多くやって来て、にわかに宇田郷村の人口が増加したためである。大正元年に二二二一人であった人口が昭和四年から五年にかけて、四〇〇〇人近くにまでふくれ上がった。そこで当然怪我人も出れば病人も多く出るようになる。建設現場で働く者だけではなく、彼等の家族にも当然病気になる者もいた。惟芳はこれらに自分一人で対応した。四十歳代の彼はまさに働き盛りであった。
 
 その日も朝から夕暮れまで眼が廻るほどの多忙な日であった。無事に全ての診察と往診を終えると、父の帰りをいまや遅しと家族の待つ食卓についた。彼は二人の息子にも分かるように語りかけた。
 「正道、幡典、行儀よくしていたか。お母さんに心配をかけてはいけないよ。親として何が一番心配かと言ったら、子供が病気になったり怪我をしたりすることだ。兄弟仲良くして元気で遊ぶのが親にとって一番嬉しい。今日も大刈トンネルの工事現場で怪我をしたといって若い人が運ばれて来た。これは本人の不注意によるものと考えられるが、周りの者の心配は大変だ。左手首を骨折し首筋も痛めていたので応急の手当をしておいたが、当分作業はできまい。そうなると周りの者に迷惑をかける事になる。自分一人の不注意が全体に影響を与える。お前たちにも分かるだろう。家庭内でも同じことだ。よし、それではお腹もすいただろう。よく噛んで食べるのだよ。」
 
 子供たちはいつも食前特に夕食の時、父の話を正坐して聞くことになっていた。小学校に入学する前からの子供に対する躾である。話し終えると惟芳は、梅六が作ってくれた新鮮な魚の刺身を酒の肴に杯を重ねながら、多忙な今日という日を振り返った。多忙な一日を過ごすと、彼は奉天の激戦で、負傷兵の手当てや看護で何日も不眠不休で対応した時のことをしばしば思い出しては、気力を奮い立たせるのであった。
 
 ―あの時は誰もが必死で働いた。予想を遙かに超える数の負傷兵が次から次へと運び込まれて、殆ど十日間は休む暇も無いほどだった。皆よく辛抱したと思う。不思議にもあの時は普通では考えられない気力が生じ力も湧いた。やはり何をするにも気力が一番だ。やる気がなければいけない。まだ当分大刈の鉄道工事は続くだろう。あの時のことを考えたらこれしきのこと、辛抱できないことはない。

 

 こうして昭和四年から数年間、未曾有の大工事で宇田郷村の人口は急増し、医者として惟芳は、非常に忙しい日々を送ることになったが、充実した毎日であった。
 
 参考までに宇田郷村の人口の推移は、昭和五年に二六二九人、昭和十五年は一九六八人、終戦後一時海外からの引き揚げ者で昭和三十五年には二三〇一人にまた増えたが、四十年には一九三七人、その後漸次減少して、平成二年には一〇五五人、そして十二年には八六九人にまで激減した。

 

 ちなみに一人の医者が扱うときの人口はおよそ一五〇〇人である。従ってこの数字の倍の人口を相手にした惟芳が超多忙であったのは想像するに難くはない。

注1 西村惠信編 『西田幾多郎宛 鈴木大拙書簡』(岩波書店) 
注2 『鈴木大拙-人と思想』(岩波書店