yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 第十五章「悲運重なる」

(一)

 全国民の悲願にもかかわらず、硫黄島は米軍の手中に落ちた。それまで父や夫や息子、あるいは兄や弟が守備隊員となっていた家族は、我が軍の勝利を信じ、身内の無事を祈った。しかし彼我の戦力の差は歴然としていた。米軍に到底太刀打ちできるものではないことを国民の多くが知ったのは、戦後具体的な資料が発表されてからであった。
昭和二十年三月十七日、栗林中将指揮下の硫黄島守備隊が玉砕した。この日、中将は最後の決断をし、大本営に宛てて決別の打電をしたのである。

 

 戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来麾下(キカ)将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神を哭(ナカ)シムルモノアリ特ニ想像ヲ越エタル物量的優勢ヲ以テスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ宛(エン)然(ゼン)徒手空拳ヲ以テ克ク健闘ヲ続ケタル小職自ラ聊(イササ)カ悦ヒトスル所ナリ
然レドモ飽クナキ敵の猛攻ニ相次デ斃レ為ニ御期待ニ反シ此ノ要地ヲ敵手ニ委(ユダ)ヌル他ナキニ至リシハ小職ノ誠ニ恐懼(キョウク)ニ堪ヘサル所ニシテ幾重ニモ御詫申上ク 今ヤ弾丸尽キ水涸レ全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方(アタ)リ熟々皇恩ヲ思ヒ粉骨砕身モ亦悔イス 特ニ本島ヲ奪還セサル限リ皇土永遠ニ安カラサルニ思ヒ至リ縦(タト)ヒ魂魄トナルモ誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁(サキガケ )タランコトヲ期ス 茲ニ最後ノ関頭ニ立チ重ネテ衷情ヲ披歴スルト共ニ只管(ヒタスラ)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツ永(ㇳコシ)ヘニ御別レヲ申上ク
 尚父島、母島等ニ就テハ同地麾下将兵如何ナル敵ノ攻撃ヲモ断乎破摧(ハサイ)シ得ルヲ確信スルモ何卒宜シク御願申上ク
終リニ左記駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉(ギョク)斧(フ)ヲ乞フ

 国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛(ほこ)を執らむぞ
草(しこ)醜(ぐさ)の島に蔓(はびこ)るその時の 皇国(みくに)の行手一途に思ふ

〔注:ルビは引用者〕

 

 この決別の電文は鬼神をも哭しむる名文である。筆者はこの文章を書き写して、明治四十三年(一九一〇)四月、潜水艇の事故で亡くなった佐久間勉大尉の遺書を思わずにはおれなかった。

 

 小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨク職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ〔中略〕
慎ンデ陛下ニ白(モウ)ス、
我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ
我念頭に懸ルモノ之アルノミナリ・・・
十二時三十分 呼吸非常ニ苦シイ

 

 人は何時の日か、また何処かで死なねばならぬ。これは定めである。しかし死に直面した時、如何に最後を全うするかでその真価が問われる。栗林中将も佐久間艇長も実に立派な死を遂げた。このような指揮官のもとで芳一が戦いそして華と散ったのは、以て瞑すべしと言うべきかもしれない。

 

 筆者はふと思いついて、二人の有名人がこの三月十七日に何と書いているかと、彼らの『日記』を見てみた。志賀直哉はいとも簡単に記している。

 

 三月十七日 神戸へ六十機来る 大火災 
風邪にてねる 硫黄島玉砕

 

 『断腸停日乗』を見てみると、荷風硫黄島玉砕には一言も触れていない。

 

 三月十七日 陰晴定まらず、午後警報解除の後丸の内三菱銀行に至り直に帰る、代々木の主人より砂糖二貫目を買ふ、又周旋する人あり、白米三斗を買ふ、近き中に米の配給料半減せらるべしとの風説頻りなればなり。

 

 戦場で戦い斃れた兵士やその家族の切ない思いに比べると、内地で割と恵まれ、年齢的にも当時としては老人ともいえる両者の違いなのだろうか。いやそうではない。直哉と惟芳は共に明治十六年に生まれている。人間はそれまでの境遇やその時の立場で考え方や思いが大いに違ってくるものだと思う。 

 

 惟芳は日頃から感情をあまり表に出さなかった。従って硫黄島守備隊の玉砕の報に接しても冷静を保っていた。しかし悲痛の気持ちは抑えがたいものがあったと思う。彼は黙々と医療を続けた。 
そうした気持ちがまだ消えやらぬ時、八月十五日に終戦詔勅が発せられた。そしてその三日後に、光海軍工廠にいた幡典が重傷を負ったとの通知が来た。悲運は重なると言う他はない。

 

 芳一の戦死の公報が入ったのは、昭和二十年十月三十日である。父惟芳はこの公報を聞くことなくすでに亡くなっていた。この時は戦死の通知のみで、芳一が実際に硫黄島で玉砕したことは家族に知らされてはいなかった。
戦後、全員玉砕したという硫黄島でも、戦傷のため俘虜となって米国に渡り、後に復員した者もいるということがぼつぼつ分かった。芳一が死亡したことを確認する資料も遺品も全く無いので、家族としては、彼も九死に一生を得て奇跡的に生還するのではといった一縷の望みを捨てかねていた。しかし当時を回顧して正道は次のように言っている。

 

 「日露戦争に看護兵として出征した父の教育を受けた兄としては、たとえ負傷生存して俘虜になっても、何らかの方法で自決したのではなかろうかと想像しました」

 

 

(二)

 昭和十九年三月、文部省の指令により、戦時下の緊迫した事態に即応するために、全国の中学校二学年以上の男子のみならず女子も、授業を擲って、食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究その他直接決戦に緊要な業務に総動員させられた。県立萩中学校の生徒も、二年生は下関三菱造船所へ、三年生以上は光海軍工廠へ出動した。筆者は一年生であったが、軍需工場ではなく、農家での手伝いや、上陸用舟艇の基地を作るといった作業に駆り出された。当時幡典は四年、武人は三年に在籍していた。幡典と弟の武人が光海軍工廠に動員されたとき惟芳は、「光市の近郊島田というところに、日露戦争の後、廣島陸軍病院で同僚であった山本恭助氏がおられるので、訪ねてみたらいい」と言った。

 

 幡典は武人と一緒に、山本氏の家を歩いて探しあてた。その時山本氏は大変喜んで、二人共腹が空いているだろうといって大層馳走した。二人は敗戦まで数回山本氏を訪ねた。

 

 山本氏は広島陸軍病院で惟芳と共に勤務の傍ら勉強した当時の事に言及して、その時の成績順位表を持ち出して二人に見せながら次のように語った。

 「あなたのお父さんが一番で、わたしは二番でした。皆で三十名ばかりいました。あの時試験に合格して医者になられたのはあなたのお父さんだけでした。私はその後歯医者を開業し、今は息子が後を継いでいます」

 

 海軍工廠には、造機部、水雷部、爆弾部など幾つかの部署があった。造機部は三部門、溶接工場、機械工場、組立工場に別れていて軍用艦艇の内燃機関を造っていた。萩中学生はこれら三工場に割り当てられた。幡典は溶接工場で、武人は機械工場で作業していた。幡典は当時の状況と、特に負傷した時のことを思い出して、次のように詳しく書いている。

 

 作業時間は朝の七時から夕方の七時前まで十二時間。日勤と夜勤が一週間交代にありました。夜勤は日曜日昼の十二時から翌朝七時前まで。夜勤明けは土曜日夕方七時から日曜日十二時前まででした。
 八月十四日の午前中徳山市近辺が爆撃を受けたというので、私たちは近くの丘のふもとに掘られていた洞窟へ避難しました。そこは、爆撃を避けるために、工場の機械を移す目的で掘られていたのです。十二時頃に避難解除となり、工場に帰って食事をしていました。その時急に空襲警報のサイレンが鳴ると同時に、遠くの方で爆発音がして、私の工場の上部の窓ガラスが割れ、破片がパラパラと落ちてきました。
 昔のことで記憶が定かではありませんが、工場は間口約三十メートル、奥行き約六十メートルで、高さ約二十メートルくらいの建物で、中が縦に二分され、どちら側にも上部にクレーンが設置してあり、それが前方、後方へ移動出来るようになっていたと思います。工場は鉄骨の枠にトタンのようなブリキを張った造りでした。この工場から総本部への幹線道路を横切って造機部本部の横を通り、その背後の丘にある洞窟へと皆走って退避しました。空爆は海岸に近い水雷部から爆弾部の順で始まり、最後が恐らく造機部だったと思います。従って造機部の人たちは退避する時間は十分ありました。

 長い間続いた爆撃の破裂音がようやくおさまると、「消火隊集まれ!」という号令が聞こえてきました。私は丁度その日消火隊の当番でしたので、バケツを引っ提げて洞窟の前に出ると、十数人の工員がいました。消火隊の隊長は海軍技術少尉で、係官でした。彼の命令で全員工場の方へ駆け足で行きました。途中溶接工場は爆弾で元の形は全く無くなっており、裂けたり捩じれたり、また穴のあいたりしたトタンの瓦礫の山と化していました。隣の機械工場では、機械と機械の間に壁の様に積まれた土嚢が崩れていました。機械はどうやら形を留めていましたが、機械の油がめらめらと燃えていて、最早手の施し様も無い状態でした。
 隊長の「引き上げよう」との声で全員が帰りかけた途端、ザーザーという大きな音が上から響いてきました。これは前々から聞いていた爆弾の落ちる音だと感じ、すぐさまガバと伏せました。その時目と耳を両手で押さえるという動作をしたかどうか覚えていません。
 爆発音が聞こえると同時に、身体を数メートル吹き飛ばされ、右腕と右の腿を棍棒で強く殴られたような痛みを感じました。その時眼鏡を失いましたが、爆風でもうもうと立ち上がった土煙の中を、二、三人が走って逃げる後ろ姿が目に入りました。

 「怪我をした者はおらんか?」という係官の声に応えて、
 「手と足をやられました」と言うと、
 係官が直ぐ傍までやってきて、
 「俺の肩につかまれ」と肩を貸してくれましたが、右足と右手の同じ側がやられていますと、つかまることが難しく、なかなかうまく歩けません。そのうち、ザーという音がまたしてきました。二人共伏せましたが、今度は無事でした。そこで係官は工場の側の簡易防空壕を指さして、
 「あそこで待っていてくれ、誰か人を呼んでくるから」と言って、洞窟の方へ帰って行きました。

 そこは地下三メートルの小さな部屋でした。私はそこに座り、ズボンのバンドをはずして、左手と口で右上腕の止血をしました。随分待ったと思います。外から私を呼ぶ声がしますので出てみると、数人の人が戸板を持って助けにきてくれていました。波状攻撃が終わり負傷者が集められました。工場の近くの光会館に連れて行かれました。この会館は映画や劇などの娯楽施設でしたが、重症患者の収容場所となり、多くの人が呻いていました。私は軽傷だということで、其処からかなり離れた処にある島田小学校へ連れて行かれました。
 そこへは主に手足など外傷を負った人が、次々に運び込まれました。そして男女の区別なく一教室に十数人ずつ入れられました。板の床に薄い毛布を敷いた上でその日は休みました。翌十五日、「工場では朝礼はあったが、いつもの訓示ではなく、何か不思議な予感がした」といった噂が流れて来ました。午後になって、「終戦詔勅がラジオで放送された」と伝えてくれる人がありました。

 数日後、母が島田小学校まで迎えにきてくれ、家に帰ると父が傷の手当てをしてくれました。傷口が癒え、三角巾で長く吊るしていたため、曲がったままになっていた肘を伸ばす努力をし始めた頃、父は神経切断のことは気付いていたと思いますが、私には何も言いませんでした。そして私が帰って一ヶ月もしないうちに父は亡くなったのです。

 

 幡典が被爆したのは、退避した後、消火隊員として再度外へ出たためである。そのとき消火隊員の中には、脚を吹き飛ばされて即死したものもいた。この空爆のとき武人は海軍工廠の外の丘で、機械工場の地下移転のための横穴掘りをしていた。彼は遠くから空爆を眺めていると、そこへ爆風で舞い上がった書類の紙片が上の方からヒラヒラ落ちて来た。一瞬の差が一方には無事をもたらし、他方には死をもたらしたのである。人間の運不運はまさに紙一重といえよう。
 「消火隊集合!」と号令をかけた隊長は、あの時号令をかけたばっかりに若い命が奪われたと後悔した。

 

 これはつい最近、平成二十二年の事であるが、あの時の消火隊の隊長の事を、幡典は宇部工専(宇部工業専門学校の略)の同窓生から教えられた。

 「前川という海軍少尉です。小倉の方で昭和六十年頃亡くなられました。まじめで口数の少ない人でした。戦後はどことなく寂しい感じを受けました」
戦後生き残っても心の傷跡は消えないものである。

 

 幡典が島田小学校に搬送された際、戸板を担いだ一人に光海軍工廠の守衛がいた。彼は河原という名前で、光市に近い田布施という所で農業を営んでいた。幡典の母が迎えに来るまで毎日、河原氏はトマトや味瓜〔マクワウリ〕を持ってきて見舞ってくれた。河原氏が亡くなるまで緒方家とは二十数年間交際が続いた。

 

 学校側は、幡典の負傷に全く気がついていなかった。この惨事を山本恭助氏が聞きつけて惟芳に連絡したので、幸が迎えに行ったのである。武人も兄の負傷を知らずに帰宅した。それは幡典が四年生で繰り上げ卒業になっていたがそのまま留まり、在校生と一緒に工場へ行き、宿舎も同じだったからだともいえるが、やはり学校側のミスである事は否定できない。

 

 学校からは何の音沙汰も無かった。惟芳は、「これは学校の落ち度である、その最高責任は校長にある」と判断して、石井謙三校長を宇田郷村の家に呼びつけた。まず、その時の引率教官が二人来た。その後すぐ石井校長もやって来て謝罪した。

 

 それから十数年後、正道たちが中学校の同期会に石井校長を招待したとき、校長は次のように述懐している。

 「私はこの年になるまで、あの時ほどひどく人に叱られた事はありません。本当に貴君のお父さんは怖かったです。今もよく覚えています。私をじっと見据えて、こう言われました。
 『校長先生、私は思うのですが、部下の兵士が負傷したかどうかをよく確かめないでみずから早々に難を避けることは、軍隊では決して許されない行為です。これは軍法会議にかけられる重大な責任問題です。こうした事は戦場だけの問題ではありません。親は子に、上官は部下に、教師は生徒にと、それぞれ上の者が下の者にたいして、かれらの身の安全をまず考えるべきであり、また我が身を犠牲にしてでも責任を取るべきときはそうすべきだと私は思います。私は日露戦争に従軍して、この事を身を以て体得しました。私は看護兵でしたが、負傷した兵士が次から次へと担ぎ込まれ、軍医以下全ての者はその処置に全く休む間もないほど多忙を極め、数日間文字通り不眠不休で治療や看護に徹しました。しかし誰もがその責務を全うするのは当然の事と考えていました。各自が職務に忠実だったからこそ、我が軍は勝ったのだと思います』

 

 あなたのお父さんは以上のことを低い声で静かに話されました。私は恥じ入りました。また威圧されたように感じました。お顔を直視できず半ば目を伏せて聞いていました。本校の教師はあの時は、確かに思いもかけない空爆に直面し、また他校に多くの死傷者が出ましたので、幾分気が動転していたと思います。後から考えますと自らとった行動に関して、やはり反省の余地があったと思います。もっと冷静に対処すべきでした。貴方のお父さんの言葉は、普通の人とは違って、一人の優れた人格者の言葉として心に響きました。

 

 お叱りを受けた後はもう何もなかったように雑談に入り、その上昼食をご馳走になりました。貴重な人生体験をされた方は違うと道々考えながら、駅に向かったことは今でも忘れません」

 

 後日談になるが、石井謙三氏は東京帝国大学英文科出身で、昭和十七年三月、県立萩中学校第九代の校長として四十二歳のとき着任し、以後四年間勤務した。終戦の翌年の昭和二十一年三月、四十六歳で停年を待たずに退職した。戦時中愛弟子(まなでし)である多数の学生を戦場に送った事への呵責の念に駆られての行動であったと聞く。その後校長は郷里の広島県松永市の初代市長に迎えられ、昭和三十三年の改選にも輿望を集めて再選され、二期引続いて市長をつとめた。

 

 石井校長は、市長になろうとは夢にも思わなかった、と言っているが、「その性格は微塵もハッタリが無く、堅実重厚さが市民から絶対的な信頼と支持を受けている所以である。趣味は読書、スポーツ。」とある。 (『政治産業文化備後綜合名鑑』備後文化出版社刊)

 

 光市の海軍工廠空爆を受けたのは、前述のように終戦の前日、八月十四日のことである。昼食時アメリカのB29爆撃機の大編隊が飛来した。五回の波状攻撃、延べ百五十機が光海軍工廠に五〇〇キロ、一トン爆弾の雨を容赦なく降り注いだ。
爆弾は目標を正確にとらえ、工廠のすぐ東にあった海軍病院はさけ、工廠東端の水雷部工場から西へ向け、絨毯を敷くように三時間近くも続いた。無抵抗の工廠は建物の九〇パーセントが全壊し、犠牲者の数は七三八人に達した。その内動員学徒は一三三名である。

 

 県下二十校から九百名ばかりの学徒が動員されており、その中でも中村女子高校の生徒は三十三名、熊毛南高校は二十二名、山口高校は十八名の多くが、学業を半ばにして若くして逝った。高校と書いたが、実際は全員旧制の中学校・女学校の生徒である。
これは中村高女の『純真の碑』に刻まれた碑文の一部である。

 

 ここに出動中の本校生徒の中三十三名は難に殉じてあえない最期を遂げたのである
ひたすら使命をかしこみ責任を思い あたら春秋に富む身を苛烈な職場に挺して散華した純真崇高な生命を憶えば 切切として痛恨の情に堪えない

 

 戦争終結を一日あとに控えた事を思うと、米軍による空爆は、相手を残虐非道、こちらを悲運といった言葉ではとても簡単にはかたづけられない。萩中学校では死者は出なかった。結局、幡典だけが、爆弾の破片で右腕橈骨神経切断と右大腿部に貫通創を受けるという重傷を負った。彼はこの負傷治療のため、神経接合手術およびリハビリなどで、その後三年ばかり自宅で療養せざるをえなかった。

 

 

(三)

 戦後間もない時で適切な手術を受けられない幡典は、自由の利かない右手を三角巾で吊るした状態で我が家にいた。その年の夏、宇田郷村で赤痢と疫痢が発生した。それまでも夏になると、村人たちの衛生観念の乏しさから、この伝染病がたびたび発生していた。特にこの年は外地から引き揚げてくる人が増え、不衛生な物が流通し、そのために伝染病が蔓延した。これは惟芳が亡くなった後に判明した事であるが、南方から引き揚げた人たちがもたらしたと思われるアメーバー赤痢まで発生していたのである。
当時宇田郷村の人口は二千人ばかりであったが、罹患した者は六十数名に達していた。凡(およ)そ村民三十人に一人の割合である。惟芳は心血を注いで対応したが、収束の糸口さえ見えなくて苦慮していた。彼は六十二歳という老躯に鞭打ちながら、患者が収容されている隔離病舎に毎日往診していた。

 

 隔離病舎へは規則として朝夕二回、回診することが定められていた。そのため惟芳は毎朝外来の診察の前、午前六時に自転車で家を出た。海岸に沿った道を二キロ近く行った処にある宇田郷駅に自転車を置き、そこから少し歩いて線路を跨いで山道に入り、さらに少し上ってやっと病舎に辿りつくのである。病舎は山腹に建てられていた。また午後は三時頃家を出て、最初に隔離病舎へ行き、その後患家への往診を終えて帰るという日課であった。こうして杏林(医者)である惟芳は、毎日坂道を上り下りしていたのである。

 

 その日も三時頃行くと直ぐに、山口市から派遣されてきていた看護婦が、惟芳の到着を待ち受けていたかのように、真剣な面持ちで彼に話しかけた。

 「先生、一寸聞いて下さいませ。先程から病室でお百姓さんと漁師の方ひどく言い争いをしておられます。昨日も先生がお帰りになった後、こうした騒動が起こりまして、私は最初のうちは訳が分からずにおろおろしていましたが、どうやら患者に出す食餌と皆さんが持ち込んできた食糧が違うと言うのが原因しているようです。私としましては先生のご指示に従って行(おこな)っていますので、どう解決したらいいか困っておりました。それで先生のお出でをお待ちしておりました」

 こう言って若い看護婦が惟芳に訴えてきた。彼は直ぐ病室へ足を運んだ。果たしてそこには数人の村人たちが、二組に分かれた格好で、患者はそっちのけでお互いいきり立ってものを言っていた。

 

 事の次第はこうである。赤痢や疫痢が発生して、隔離病舎に村民の多くが収容されたので、惟芳としては抗生物質のような医薬品が無く、食餌療法によって治す以外に方法がないと考えた。そこで、そのことを患者の家族につたえると、農民は米を持参し、一方漁民は米がないので、芋や魚、あるいは精々粟とか稗(ひえ)といったものを持ち込んだ。惟芳は患者の症状に応じて、重湯やお粥、さらに芋を混ぜた飯といった食べ物を適切に配慮して与えた。ところが農民は、自分たちが持参した米を碌に食べさせてもらえないと苦情を言い、漁民は漁民で折角捕った新鮮な魚が口に入らないなどと不平を言い、最期は相手に対して激しい口論、果ては喧嘩騒ぎにまで発展した。看護婦としては収拾不可能の状態であったので惟芳に訴えたのである。そこで惟芳は言った。

 「この非常時に際し、村民同士が争うとはもってのほかである。お互い助け合ってこの緊急の事態を乗り切らなくてどうするか。先の戦いで多くの人が亡くなった。宇田郷村でもあんた達の知り合いの多くが死んだのを知っておろうが。その人たちは平和な日本を夢見て、その礎となったのだよ。若い命を犠牲にしたその人たちの事を考えたら、少々の事は我慢して、お互い譲り合う精神が無ければいけんのじゃあないかね。辛抱し我慢して相手の事を考えてはじめて平和な世の中が実現するとわしは思うね。そうしなければ亡くなった人に対して申し訳なかろう」

 彼は農民と漁民の両者に懇々と言って聞かせたのである。日頃から先生の世話になっていると思ってか、それまで興奮していた者たちは自分の言動を恥じて静かになった。
惟芳は日頃から血圧が高かったので、伝染病の発生により生じた一段の激務に加えてこのような騒動が持ち上がった事が主な原因と考えられるが、脳溢血で倒れる結果となった。惟芳としてはさぞかし無念の気持ちであったものと想像される。

 

 終戦を境として、我が国の国民性がそれまでと違ってきたとよく言われる。節約、忍耐、礼節といった、幼いときから家庭や社会、さらに学校で教えられ、また育んできた美徳が薄らいだ。これらに取って代わって、浪費、放縦、無責任といった、自己中心的な考えが生まれた。これは戦時中余りにも抑圧されたことへの反動とも取れるが、敗戦と同時に、日本人の多くが、それまでの矜持や廉直といった美質を失って、平素は半ば無意識に隠し押さえていた醜い面が、表に出たのかとも思われる。

 

 戦前また戦時中までは、国民の多くは「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」の歌に共感を覚え、武士道の精神を尊んできた。武士道とは自己を律し慈愛の心を持つことを、その根幹に据えた生き方である。しかし人間も結局は自然の動物なのか。水が高きより低きに流れるように、一度自己を厳しく律する精神が緩めば安易放恣の生活に堕し、楽だと考える処世法に身を委ねるのは否めないことなのかも知れない。
占領軍、特にアメリカ政府は日本人の精神性を恐れて、武士道を抹殺しようと試みた。旧制中学校での武道の教科を廃止しただけでなく、旧制高校において目指した指導層育成の学校制度もなくして、新しい学校制度を我が国に性急に押しつけた。こういった安易な考えは急速に全国津々浦々にまで広まった。

 

 最近『ヴエノナ文書』の公開解読で次第に戦時中の実態が明るみに出ているようである。GHQの内部では相当左翼系のスパイが暗躍していたと言われている。彼らの主導による我が国の占領政策はここに功を奏したと言うべきか。

 

 

(四)

 父が隔離病舎で倒れたとの報を幡典が受けたのは、昭和二十年九月十一日午後四時頃だった。幡典はすぐ隔離病舎に向かった。惟芳は宿直室の布団に寝かされていた。
幡典は穏やかな顔をして軽い鼾を立てて眠っているような父の姿を見た。意識はなかった。付き添っていた看護婦は倒れたときの様子を彼に次のように語った。

 「先生は病棟で付添者の間に起こったトラブルについて、皆を集めて注意を促し、『日本は戦争に負け、これから厳しい時代となる。互いに相手のことを考え助け合って生き抜く様に心掛けなければならない』とおっしゃられた後、控え室に帰られる途中、渡り廊下でその袖板に片手を置いてしゃがみ込まれました。『先生どうなされましたか?』と聞くと、『顔色が変わったか?』と一言いわれると、そのまま崩れる様に倒れ込まれました。大声で人を呼んで宿直室へ運び布団に寝かせました」

 その時の様子を幡典は鮮明に記憶している。

 私は最もフリーな立場にあったので、そのまま父のそばで見守ることができた。布団の裾に坐り、父の足背動脈や後頸骨動脈を左手で探り(注:幡典は負傷のため右手は使えなかった)最後まで脈の変化を診ていました。

 

 近郷の医師が三人次々と往診に来られました。どの先生もどちらかと言うと無表情で、それだけに事の重大性を感じさせられました。三日目に来られた先生は、血圧がいつまでも高いので瀉血すると言われ、そのようにされた。私は大変不安に駆られました。

 

 父が倒れた日の夕方、母は来るとき布団を持ってこさせました。父の老後にゆっくりと休ませるつもりで母が用意していた非常に立派なものです。人手を借りながら、頭をできるだけ動かさないようにし、服を脱がせ、お湯で絞ったタオルで身体を綺麗に拭いて浴衣を着せ、新しい布団に父を寝かせました。母は平素と変わらず落ち着いた様子で人々に応対しているので、私は安堵感を覚えました。

 

 父の弟、尚春叔父が来られました。叔父の三男輝雄さんが自転車の荷台に乗せ、二十五キロもの道程を萩から駆けつけて来られたのです。叔父は父の枕元に座っておられました。父が最後の息を引き取った後、これだけはしておきたいと父の頭頂に大きな灸を据えられました。それは足の悪い叔父が常日頃愛用しておられる灸の治療の中で、このような時に最後に試みる療法だったのではないかと思われます。父の病床には村の方々が次々に見舞いに来られました。

 

 息を引き取る直前、不思議な事が起きた。脳溢血で右半身が全く動かず、しかも意識的反応を見せないで高い鼾ばかりしていた惟芳が、突然左手で着物の襟を整える様な仕草をし始めたのである。見舞いに来て惟芳の様子を見守っていた人々の中に、一人の年取った女性がいた。突然彼女が口を開いて咳き込むように言った。

 「見、見てみんさい。先生が襟元を整えておられるで。これはの、人が自分の死期を知った時よくやる仕草じゃ、と私は親から聞かされておるのじゃ。先生も自分の死を知っての、あのようにしておられるのじゃろう!」

 これを聞いて皆が厳粛な気持ちになった。その後ほどなくして惟芳は最後の息を引き取ったのである。惟芳は死の前、最後の瞬間に、無意識のうちにも身だしなみを心がけ、武士としての矜持を示したといえる。

 

 亡くなったことが分かると、大勢の村人たちが悔やみに駆けつけて来た。その中で最も印象的であったのは、自分が捕った魚を刺身にして毎日、惟芳のもとへ届けていた梅六の爺様である。こぼれる涙を手拭いでぐいぐいと拭い、大声を上げ泣きながら、

 「旦様・・・私は旦様に・・・この手を握ってもらって・・・あの世に行こうと思っていたのに・・・どうしてこの爺より先に・・・あの世に行かれるのですか? 私は・・・どうしたらよいか・・・分かりません!」

 梅六の爺様は泣き伏して、いつまでも惟芳の手をしっかり握ったまま放さないので、最後には近所の人が指を一本一本離して、やっと連れて帰ることができた。
遺体はその日の夕方自宅に運ばれた。清潔な布団に寝かされ、数人の人によりお湯で身体の隅々まで綺麗に拭かれた。こうして湯灌がすむと、経(きょう)帷子(かたびら)を着せられた。その夜は眠っているような父を家族の皆が囲むようにして休んだ。翌日お棺が運ばれて来た。それはこのあたりで用いられる、木で作った箱形の座棺であった。緒方家にしばしば出入りしていた一人の老女が、入棺の作業を行った。彼女の名前は柳井モミといい、「モー姉さん」と皆が呼び、自分でも「モー姉」と呼んでいた。

 「旦様、ようございますか? これからモー姉がお棺に入れるようにして上げます。手足を少し曲げましょう」

 老女はこう言って手足をさすりながら、少しずつ曲げては伸ばし、曲げては伸ばしして、硬直をほぐして棺に入れられるようにした。最後に何人かの手を借りて棺に納めたのである。

 

 なおこの硬直状態は、死後二・三時間で発現し、三十時間くらい持続し、その後寛解(かんかい)するから、入棺の作業も可能だったのである。

 

 惟芳は倒れた後三日間昏睡を続け、昭和二十年九月十四日、ついにあの世へと旅立った妻の幸は夫が事切れる前、今や全く反応を示さない耳許へ、

 「安らかにお眠りください。必ず子供らを立派に育てますから」と、涙ながらに誓ったのである。

 

 遺体を荼毘(だび)に付す焼場が宇田郷村に無いので、先隣りの奈古町まで搬送しなければならなかった。その日はどんよりとした曇り日であった。遺体を載せた大八車が緒方医院の前から静かに動きだした。村人たちは老いも若きも自分の家から出て、通り過ぎる車に向かって手を合わせた。そして宇田郷村と木与村の境まで約四キロの道程を、多くの者が車の後に従った。村境に来た時、村人たちは最後の別れを惜しみながら、去りゆく棺を静かに見送ったのである。当時の事を筆者の父が次のように話してくれたのをよく覚えている。

 「俺はあの時、村人の多くが緒方の義兄様の死を悼み、村境まで野辺送りをしたのには感動したな。義兄様は生涯の大半を医療に捧げられた。いわゆる人生を楽しむという事はなかったが、誠実で高潔な人だった。また優しい心の持ち主でもあった。本当に立派な一生だったと俺は思う」

 

 惟芳の死は村葬をもって執り行われ、村長の中山発郎氏が村民を代表して弔辞を述べた。

 

 緒方先生は大正元年に宇田郷村に赴任され、今日まで三十五年間村医として我が宇田郷村の医療に尽瘁(じんすい)されました。この間私用で休まれたことは皆無に等しいといえます。わずか一度だけですが昭和十五年、即ち皇紀二千六百年の記念に、『伊勢神宮への参拝を是非したい。幸い現在、村には重病人は一人もいないので、四日間休暇を頂きたい』と申し出られましたので、どうぞと言って休暇を差し上げました。
今も申しましたように、三十五年という長い間、昼夜を分かたず患者の治療に当たってこられました。先生は宇田郷村の医療だけではありません。村民の教育や福祉といったことにも御相談に乗っていただきました。
 『論語』に次の言葉があります。「士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す、亦重からずや。死して後已む。亦遠からずや」ここに述べられているように、先生は広い心と強い精神を持っておられました。そして医者としての任務を慈愛の心で実践されました。この任務は非常に重いものですが、全力を尽くして死ぬまで全うされた。
 このような立派な先生に先立たれ、茫然自失の感を覚えますのは私だけではないでしょう。しかし、今こそ先生のご遺志を受け継いで、この宇田郷村を一層明るく健全な村にするように村人が一致協力することこそ、緒方先生のご恩に報いる事だと思います。

 

 こうして惟芳は六十二年の生涯を閉じたのである。時に昭和二十年九月十四日。後に残された妻の幸は満五十歳であった。長男の戦死に続いて夫の急逝は彼女にとってはまさに青天の霹靂、耐えがたい事件であった。彼女は三人の息子と一人の娘を抱えて、これから何としてでもしっかり生きて行かなければならないと思うと同時に、亡き夫に誓った言葉、「安らかにお眠り下さい。子供たちを立派に育てますから」を強く胸に刻んだのである。

 

 最後に、負傷により右手の自由が利かなくなった幡典について簡単に述べておこう。
惟芳が亡くなるとまた宇田郷村は無医村になる。このために萩市から元海軍軍医の三浦先生が診療に通って来られた。先生は幡典の手を見てすぐ、「九大病院の整形外科の河野教授の診察を受けなさい。彼は私の友人ですから直ぐ連絡してあげる」と言って手配された。河野先生はその当時、九大整形外科の医局長で、そこの教授は日本一有名な神(じん)中(なか)正一先生だった。その年の十二月、神中教授執刀のもとで幡典は手術を受けた。

 「切断された神経をつなぎ合わせると、そこから元の経路にそって一年に10センチくらいのびる。したがって、君の場合、約二年すると手首が動くようになるだろう。しかし神経が付く確率は50%くらいだ」

 このように言われたことを幡典は記憶している。云われた通り、二年すると手が何か少し動くような気がしてきた。それまでは彼は左手で字を書く練習をしていたがそれを止めた。そしては萩高等学校に聴講生として一年間通い、何とか上級学校への受験が出来るまでになった。