yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 第八章「医師への道」

(一)

 満州の曠野では、看護兵といえども毎日が死と隣り合わせであった。九死に一生を得て帰還した惟芳は、今は銃声も聞こえず弾雨も飛び交うことのない内地で、平穏な朝を迎えることができた。東西南北どちらを向いても雲一つない清々しい明治四十年の元旦である。

 ―ちょうど二年前の今日だった。遼陽の近くの戦場で元旦の祝いを終えたとき、我々は旅順開城の吉報を耳にした。だれもが思わず快哉の叫びをあげたが、今朝のこの喜びはあの時とは違って、心の底にしみわたる静かな喜びだ。


 しかし一年前の奉天の激戦のことは忘れられない。あの戦いでは実に多くの者が斃れた。内地でなら出来るだけの手当を施し一命を取り留めることができたかも知れない者たちだ。未だに夢に現れる。砲煙弾雨の中、仮看護所で応急の処置をしていたときのことが。血まみれで苦しみもだえて叫ぶ兵士たちに対して、俺は手の施しようがなかった。看護兵として申し訳なく思う、また残念でならない。どんな状況下でも素早く適切な処置が出来るようになってこそ始めて立派な医師と言えるのだ。よし、頑張って勉強するぞ。
 
 帰還後三菱長崎造船所への復職をきっぱりと断念し、戦地での貴重な体験の下に生じた、この止むに已まれぬ気持ちを抱いて、医師として生きる道を選んだ惟芳は、明治三十九年一月六日、第五師団軍医部から、陸軍三等看護長として広島預備病院附を命ぜられていた。そして同年十一月一日には、陸軍二等看護長に昇進した。
 惟芳はその年十二月二十八日に「精勤ノ賞トシテ金四圓九拾銭ヲ賜與」された。内地で勤務して初めての下賜金である。彼は故郷の萩で寂しく正月を迎える母と弟のことを思って、早速その日のうちに下賜金全額を送り、勤務の都合でどうしても帰省できない旨の手紙を添えた。

 

 年が明けた正月の佳き日である。食事を済ますと、彼は出勤時まで生理学の本を開いた。間借りの下宿の二階に朝日が射して一段と爽やかな気持ちになった。惟芳はこの日は当直勤務の出勤時間が午前十時なので、それまでの時間を研究にあてることが出来た。その後出勤して本院の第十二号室で、病院下士の互礼会が行われた。宴が終わって病院中庭において一同記念写真を撮った。在院中は諸事に忙殺されてゆっくり生理学の本などを読むことは出来なかった。当直勤務を終えて下宿に帰り床に就いたのは夜中の二時であった。床に入る前、戦地でつけていた日記を今年も続けようと思い、小型の日記帳の表紙の裏に、次の言葉を毛筆で明瞭に書き付けた。
 
 記入規定 就床前当日ノ事項ヲ記入スル事
      記入ヲ怠リタル際ハ理由ヲ記載スベキ事

 

 陣中で毎日欠かさず付けたように、まず日時と曜日、それに天候状態、さらに起床時間と就蓐(しゅうじょく)時間を記入した。二日から四日まで瞬くうちに過ぎていった。

二日 水曜 雪 起床七時二十分 就蓐十時三十分
 当直申送を松原君ニ依頼シ分病室ニ至リ雑務ヲ終エタル後患者収容ノ為メ宇品ニ出張 収容ヲ終ワリテ帰宅シタルハ一時半ナリ 其レヨリ年始礼トシテ一、二ノ自宅ヲ問フ 午後七時半ヨリ十時マデ福田君ト西方ニ向カッテ散歩ス 本日益スル事ナシ

 

三日 晴 木曜 起床八時 就蓐十時四十分

 午前中新聞ヲ覧ル 午後入浴ノ後散歩ノ目的ヲ以テ白島ニ至リ約一時半ノ後帰宅日没後高村夫人来問ス 夜ニ入リ約二十分散歩ヲナス 本日別ニ益スルノ点ナシ

 

四日 金曜 晴 起床七時二十分 就蓐十二時
 本日定時出勤ス 帰宅時橋本君来問中ナリ 一応ノ談話ヲ終ワリ酒宴ノ後西方ニ散歩シ午後十時帰宅ス 本日益スルノ点ナシ
 
過去三日間の日記を読み返してみたとき、「本日益スル事ナシ」または「本日益スルノ点ナシ」と、こうした同じ言葉を吾知らず書いたことは、正月とはいえ、勉強を怠ったことへの自責の念の現れだと、惟芳は思わず苦笑した。

 

 正月三箇日(さんがにち)も当直勤務で出勤した惟芳は、その年最初の日曜日となった六日は、八時過ぎまで床に就いていた。幸い天気もよく、そう寒くもない。部屋の窓から陽光が射し込み気持ちが良い。朝食を済ますと、彼は部屋の窓を開けて朝の新鮮な空気を入れた。しばらくしてまた窓を閉めて机に向かった。今直ぐになすべき仕事も無いので、今日はじっくり生理学を研究しようと思って本を開いた。

夕刻になったので、少し頭の疲れを癒す意味で、近くの日治山に登ろうと下宿を出た。下山の途中、頭が重く不快を感じた。夜に至り机に就いたがどうも悪寒を発したように思えるので、まだ八時にはならないが止むを得ず床に就いた。しかし日記の最後には、「本日比較的益スル事多シ」と記した。

 

 翌七日は月曜である。晴天に促されて思い切って七時二十分に起床した。定時出勤したが頭痛がし、悪寒発熱のため不愉快な日を送った。下宿に帰ると早目に床に就いた。時計を見るとまだ六時五十分であった。日記の欄外の記載事項「桂内閣瓦解し西園寺内閣成る(三十九年)」に目を止め、次のような感懐を抱いた。

 ―第二次山縣内閣が明治三十一年に始まって、続いて第四次伊藤内閣、さらに第一次桂内閣と、郷里の先輩たちによってこれまで内閣が引き継がれたのだな。明治三十九年になって一旦切れたことになるのか。日露戦争を遂行した時の首相は桂さんだったが、皆命がけだったに違いない。児玉源太郎大将は戦後急逝されたが、それこそ国を守る為に身命を賭して戦われたのだ。児玉大将だけは徳山の出身だったな。

 

 八日も天気はよいが病気が治らないので終日床に就いていた。同僚の四茂野が午前と午後二度訪ねてきた。何か言いたいことがあったようだが帰っていった。日記に「本日益スルノ点ナシ」とまた書き付けた。
 九日になっても病はまだ治らない。終日床にあって休養した。夜になって四茂野夫人が来て話すには、
 「緒方さん、昨日主人が訪ねて来ませんでしたか? 最近何だか落ち着きがないように見えるのです。また時々変な愚痴をこぼします。『俺はもう医者になる頭がないことがよう分かった。それになろうという気力も薄れた』と、こう申すのですよ。私としては折角陸軍病院に勤める事ができたのだから、医者への道を進んでくれたら本当に有難いことだと思っていましたのに、主人の最近の態度を端(はた)から見ていますと、一寸不安になります。主人はまたこうも言います、『俺は戦地で緒方君が撮った写真を見て、写真の技術を習得すれば、これで十分食べていけるし、一家を養っても行けると思う』。 緒方さん、どう思われますか?」

 細身の体を地味な着物に包んだやや蒼白い顔をした夫人は不安な面持ちで彼に訊ねた。
惟芳は藪から棒にこのような相談話を持ちかけられて、咄嗟に適切な意見を述べることが出来なかったが、昨日午前と午後二度も四茂野が訪ねてきた訳が、これで察しがついた。

 

 惟芳は陸軍病院に勤務しながら医師を目指して勉強しているが、資格を取るのはなかなか容易ではないということを知っていた。大学の医学部を出れば自動的に医師としての資格が手に入る。また医学専門の学校に入れば受験して医者になることも必ずしも難しくはない。しかしあくまでもこうした学校を卒業すればの話であって、第一こうした学校へ入ること自体、学費を考えただけでも貧乏暇無しの一般庶民のよくするところではない。
他方陸軍病院において働きながら勉強して医師を目指すのは、時間的にかなり無理を強いられる。この厳しい境遇と言うか、条件を克服してはじめて道が開ける。従って、余程肚を決めてかからなければ途中で挫折する。こうして医師資格試験を受けて、見事合格出来るのが、三十人に一人あるなしといった難関であることを惟芳は聞いていたので、それとなく以上のことを説明して、ご主人の気持ちも一考に値するのではないかと言って夫人を少し慰めた。

 

 しかし惟芳が戦地で撮った写真を見せたとき、四茂野が写真に無上の興味を示して、 
 「記録写真はすごいな。趣味と実益を兼ねるには写真家になるに限る」と、やや興奮気味に話したことは、夫人に話すのを控えていた。

 夫人は惟芳の話を聴いて却って心配になったのかもしれない。「遅くにお邪魔して済みませんでした」と言って寂しげに帰っていった。

 

 惟芳は日記を開いた。その欄外の「慶応三年今上天皇践祚し給う」の記載を目にして我が身を省みた。
 
 -今上天皇が即位されて丁度四十年になるのか。時の経つのは早いものだ。その間世の中は日進月歩した。医学もこれからどんどん進歩するだろう。こうして病気なんかして何時までも休んではおれない。もっと自己管理に注意を払おう。
 
 惟芳は病気の具合も大部良くなったので、思い切って床を上げようと考えたが、やはり大事を取って、夫人が帰った後いつもより早く寝ることにした。

 

 翌日病はかなり快方に向かっているようだったので、七時三十分には起きて出勤した。業を全うして帰ったものの、完治しない身には多少無理だったので、帰宅後また直ちに床に就いた。午後七時三十分松原看護長より当直の通知があったので、止むを得ず直ちに下宿を出て服務についた。惟芳は宮仕えの辛さ、厳しさをしみじみと実感するのであった。帰宅して就寝したのは夜中の十二時過ぎであった。

 

 翌日は当直明けであったので正午に帰宅した。夕刻に至り四茂野の細君がまた姿を見せた。今回は惟芳も奥歯に物の挟まったような言い方ではなく、彼の将来に関して自分の考えを率直に述べた。
 「奥さん、あなたのお気持ちはよく分かります。しかし医者になるのがすべてではありません。ご主人は努力されているようですから、合格の見込みは十分あるでしょう。しかし昨日も申しましたように、何しろ厳しい試験です。今以上に勉強して力を試されたらいいですよ。そうすれば自分の力が分かります。もし事志と違うた時、如何に対処すべきか。その時はお二人で真剣に、また冷静に考えなければいけません。本人が将来の生き方をはっきり表明されたら潔くそれを尊重され、励まされることが、一番良いのではないでしょうか。」

 四茂野の勉強振りを見ている惟芳には、今の状態ではなかなか難しいと密かに思った。従って、来春受けるこの難しい医師資格試験のことを考えると、四茂野夫人の揺らぐ気持ちが分からないでもなかった。今日も自分の言葉は、安心の矢として彼女の心に達する事は出来なかっただろうと思うと、戸口まで出て夫人を見送った後、とっぷりと暮れた夜空に星の瞬くのを見上げて、彼は悲しくもやるせない気持ちになるのであった。


 第二日曜日に四茂野夫人の三度目の来訪があった。彼女の話を聞き、惟芳も意見を述べたが堂々巡りの感があり、なかなか結論は出なかった。しかし彼女も次第に理解の色を見せるようになり、彼としても多少は安堵することができた。
 毎日が勤務と勉強ばかりではない。惟芳は十九日の日記にこう記載した。

 

十九日 土曜 晴 起床三時 就蓐翌午前〇時三十分 
 午前三時ヨリ夜警勤務ニ服ス 正午退庁宅ニ帰ル 夕食ヲ早々終リテ福田君ト共ニ新地座川上音二郎ノ演劇ヲ見物シ十二時半帰宅床ニ就ク

 

 川上音二郎といえば、明治二十年代自由民権運動の一翼を担ったかのオッペケペー節で国民の人気の的となり、明治三十三年(1900)にはパリ万博では名女優貞(さだ)奴(やっこ)を伴って大好評を博し、帰国後は正劇運動と銘打って興行形態を改革し、『オセロ』や『ハムレット』などの西洋劇を上演して、興行師として成功を収めている。惟芳が見物したのは、上記のシエイクスピア劇のいずれかであっただろう。ちなみにオッペケペー節の一つを紹介すると、
 
 不景気極まる今日に 細民困窮かえりみず
 目深にかぶった高帽子 金の指輪に金時計
 権門貴顕に膝を曲げ 芸者幇間(ほうかん)に金を撒き
 内には倉に米を積み ただし冥土のお土産か
 地獄で閻魔に面会し 賄賂使うて極楽へ
 行けるかえ 行けないよ
 オッペケペー オッペケペッポー ペッポッポーイ 

                   

 
(二)

 惟芳は昨年中の新患者表を新に作ることに取り掛かった。作成にあたり書棚を整理していたとき、『明治三十七八年戦役廣島預備病院衛生事蹟一般外科』『一般内科』と書かれた分厚い二冊の綴りの文書を見つけた。彼はページをぱらぱらとめくっているうちに、次の記述に思わず目を留めた。なお、廣島衛戍病院は日露戦争の間は「廣島預備病院」と呼ばれていた。
その記述は脚気と凍傷に関するものであった。先ず脚気については、概況として、調査主任陸軍一等軍医が次のように書いていた。彼は津々たる興味を覚えながら読み始めた。

 脚気 其一 流行ノ概況
  當戦役間脚気病ノ預防ニ就テハ當事者終始幾多ノ注意ト多大ノ勵精ヲ払ヒシニ係ラス其発生頗ル夥(か)多(た)ニシテ而モ帰還患者ノ最大部分ヲ占ムルニ至レリ即チ明治三十七年三月六日廣島預備病院ヲ開設セシ已来同三十九年九月盡日(じんじつ)ニ至ル期間ニ収療シタル脚気患者数ハ六万九千九百二十一名ニシテ尚他病に兼發セシモノヲ合スレハ實ニ七万一千三百二名ノ多数ニ達セリ今之レヲ當院に収容セシ諸種ノ総患者ニ對比セハ三一・八〇%ニ該當セリ蓋(けだ)シ戦役中脚気ノ戦闘力ニ如何に尠(すく)ナカラサル影響ヲ及ホセシカヲ察知スルニ足ルヘシ

 

 この概況を読み終えると、惟芳は心臓性脚気(横隔膜麻痺ニ因リ死亡シタルモノ)と書かれた記述に目を移した。これは第五師団第二兵站糧食縦列輜重(しちょう)兵一等卒の発病と死に至る具体的な内容であった。この兵士は明治十三年生れであることを知った。惟芳は戦場で華と散ることなく、脚気という不名誉な疾患により病院で亡くなった自分より三歳年長のこの兵士の身の上に思いを致すとき、気の毒でならなかった。彼は真剣にこの詳細な記述に目を通した。

 

出生地 廣島縣安藝郡熊野村 
職業 鍛工 
既往症 天資健康ニシテ曽テ著患ヲ知ラス明治三十八年一月十四五日頃清国盛京省牝牛屯ニ於テ輸送勤務中下肢ノ麻痺及ヒ浮腫ヲ来シ荏苒(じんぜん)治(ち)ニ至ラス同月三十日煙臺兵站(へいたん)病院ニ入院
入院當時ノ現症及ヒ爾後ノ経過 體格営養共ニ中等體温三十七脈搏九十六至ヲ算ス胸部ハ聴診上心悸亢進シ肺動脈第一音不純ナリ下腹部及ヒ下肢ハ僅カニ浮腫ヲ呈シ腓腸筋緊満握痛アリ膝蓋腱反射ハ亢進ス食機ハ不振ニシテ便通ハ下剤に依リ一日三行


二月一日 遼陽兵站病院ニ収容昨日来嘔気アリ胃部ニ停滞ノ感ヲ訴ヘ便通ハ下剤ニヨリ佳良其他ノ症状前日ニ同シ

 

同 三日 脈搏百至知覚麻痺増進シテ下腹部一般ニ及ホセリ

 

同 四日 大石兵站病院ニ収容 脈搏八十至心悸亢進甚シカラス知覚ノ異常ハ専ラ下腹部下肢ノ内側ニシテ手指ニモ之ヲ波及セリ

 

同 九日 大連兵站病院ニ収容 脈搏ハ大ニシテ軟九十二ニ至ヲ算ス舌ハ乾燥胸内苦悶ヲ訴フ尿利ハ多量其他ノ症候前日ニ同シ其後病院船ヲ経テ二月二十一日廣島予備病院ニ収容當院ニ収容後ノ症候及ヒ経過 脈搏百二至胸内苦悶呼吸促迫腹痛アリ時々嘔吐ス呼吸ハ胸式ニシテ鼻翼呼吸ヲナシ心気亢進心部壓痛アリ依テ應急ノ處置ト共ニ増進ノ報ヲナス午後七時三十分不時診断ヲナスニ脈搏ハ九十至整胸内苦悶アレトモ呼吸困難稍々減少ス浣腸施行後排便二回嘔吐一回時々乾嘔ヲ發ス鼻翼呼吸歇マス頻渇アルニ依リ氷片ヲ嚥下セシム尿利ハ減少セリ

 

二月二十二日 脈搏九十三體温平常心悸ハ亢進シ心個部ニ窘(きん)縮(しゅく)ノ感ヲ訴フ昨夜来数回ノ吐嘔気及ヒ嘔吐アリ回虫一條ヲ吐出ス舌ハ乾燥四肢腹部共ニ知覚鈍麻心尖ハ稍々右下方ニ偏シ心尖部ノ第一音旺盛心濁音部ハ擴大シ該部ニ疼痛ヲ訴フ腹部殊ニ胃部ハ少シク膨満シ按壓ヨリテ疼痛アリ尿利減少大便ハ秘シ浣腸ニヨリテ之レヲ利ス

 

同二十三日  脈搏ハ九十至ニシテ弱ク嘔気及ヒ嘔吐依然歇マス(吐物ハ胃液ノミ)腹部殊ニ胃部ハ膨満シ壓痛ヲ有シ打テハ鼓音ヲ發ス心尖部ノ舒期音不純ナリ

 

同二十四日  脈搏ハ幽微ニシテ殆ント觸ルルヲ得ス呼吸ハ著シク促迫シ股動脈音ハ高調ナリ刻ヲ逐ヒ諸症増悪シ呼吸筋及ヒ横隔膜ノ麻痺症状ヲ呈シ呼吸ハ頻数極度ノ困難ヲ来シ百方力ヲ盡セシモ其効ナク竟ニ本日午前十一時三十五分横隔膜麻痺ヲ以テ死亡ス

 

 惟芳は一気に読んだ。「百方力ヲ盡セシモ其効ナク」死亡したと書かれた最期の言葉に至ったとき、発症から死亡までの日数を算して丁度四十日という短時日なのに唖然とした。今この時点で陸軍の最高の治療を以てしても患者は「麻痺及ヒ浮腫荏苒治ニ至ラス」苦悶の果てに死を迎えるという脚気の恐ろしさに身の氷る思いをした。生来健康で元気にしていた兵士が次々にこの病に罹りその数夥(おびただ)しく、現にこの病院内にも死を待つものが多くいることを思い彼はやるせない気持ちになった。自分も入隊後騎兵として訓練を受けていたが、間もなく脚気と分かって急遽看護兵に職務転換された。軽症の時に治療を受け、一命を取り留めた僥倖を神仏に感謝した。

 脚気についての具体例に次いで、凍傷による死亡例が記載してある文面にも惟芳は真剣な目を向けた。彼自身零下二十度の極寒の地に我が身を曝した経験がある。しかしあの時は外気に触れる時間が短かったので凍傷の怖さを予感するだけで終わったが、もしそのままあの極寒の曠野で戦闘を続けなければならなかったら、自分も凍傷に罹ったかもしれないと思うと、他人事とは思えなかった。彼はそうした思いを抱きながら文面に目を走らせた。最初に調査主任陸軍三等軍医の「凍傷緒論」を読んだ。

 

  今回の戦役ニ於テ普通外傷中吾人ノ特ニ憂慮セシハ凍傷ナラン過去二十七八年ノ戦役ニ徴シ當局者ハ勿論一般ニ之カ預防経営ニ付テハ幾多ノ注意ト諸般ノ設備トヲ払ヒ比較的良好ナル効果ヲ奏セリ然レトモ彼ノ明治三十八年一月下旬黒溝臺附近ノ戦闘ニ至リ計ラスモ多数ノ患者ヲ發生セシハ實ニ遺憾トスル處ナリ
 
 惟芳は二年前の一月十五日、零下十六度の降雪の中、午後五時頃急に出発準備の命令があり、直ちに準備を整え命の下るのを待っていたが、あのとき体験した極寒の厳しさはいま思い出しても耐え難いものであった。
彼は具体例に目を通した。患者は第五師団歩兵第四十二聯隊第八中隊の預備歩兵一等卒であった。この兵士も先の脚気で死亡した者と同じ明治十三年生まれであるので、年齢からすれば、満二十七歳の働き盛りの若者であったのを知った。
 
病名 両足指第三度ノ凍傷
原因及経過 明治三十八年一月二十六日清國奉天省大台附近ノ戦闘ノ際本症ニ罹ル依テ同日受診直ニ第五師団第三野戦病院ニ収容ス 
現症 両足指尖端紫藍色ヲ呈シ水疱ヲ悉ク形成ス

 

二月一日 現症ノ通リ依テ水疱穿破(せんぱ)及凍傷膏貼用

 

同  日 小煙台定立病院ヘ轉送ス

 

同 二日 経過佳良

 

同  日 第三師団患者輸送部ヲ経テ遼陽兵站病院へ轉送ス

 

同  日 局部ハ水疱ヲ生シ且ツ變色シテ歩行ニ困難ナリ

 

同 四日 タルニー兵站病院ニ轉送ス

 

同 五日 前記症状ノ如シ依テ石樟軟膏塗布

 

同 六日 病院船ロヒウ丸ニ轉送ス

 

同 九日 患部ハ皮膚剥脱シ真皮ヲ犯サレ分泌物多シ拇指ハ一部分ハ黒變セル皮膚ヲ以テ蓋ハレ中央部ハ環状ニ皮膚剥脱セリ左方ノ指モ右方ト同様ナリ繃帯交換ヲ施ス

 

同十一日 廣島預備病院ヘ轉送ス

 

同十三日 手術ヲ要スルニ付キ本院ニ轉出セシム

同  日 各指ハ僅カニ著明ナル分界線ヲ主シ居レリ明日手術ヲ行フ
      両足共ニ第一ヨリ第五指ニ至ル指関節以下變色壊疽(えそ)ニ陥リ分界線ヲ作ル

 

同十四日 手術クロロホルム麻酔ノ下ニ両足第一ヨリ第五ニ至ル指節ヲ各指共ニ指裏関節以下離断シ沃度ホルムガーゼ挿入創口開放ス

 

同十六日 手術後嘔気ナシ昨夕体温三十九度一分今朝三十八度四分脈百三十一ヲ弄ス患部疼痛ナシ

 

同十八日 熱發食欲不振右胸前面笛聲時々咳嗽アリ規赤水壱千右一日三回分服

 

同十九日 左足分泌多カラス小指断端ニ於テ動脈ノ出血ヲ来スニヨリ結索ヲ行フ右足左足ト同状ナリ繃帯交換

 

同二十日 昨夕体温三十八度二分今朝三十七度八分咳嗽大イニ減セリ

 

同二十一日 少許ノ壊死組織及少量ノ分泌創面に附着セリ状況佳良ナリ(両足同様)繃帯交換同二十三日 体温殆ト平温に復ス

 

同二十四日 異常ナシ創面肉芽良分泌稍多シ

 

同二十六日 右手腕関節以下運動麻痺左手モ脱力ス依テ感電電気ヲ處ス

 

同二十八日 胸部知覚鈍麻腓腸部握痛アリ腱反射消失ス便通尿利異常ナシ

 

三月二日 左右肘線ヲ觸ル諸症同断

 

同 三日 両足指断端分泌中等ニシテ肉芽ハ佳良ナリ

 

同 八日 両足肉芽両分泌少シ

 

同 九日 本日第二分院へ轉出ス右上膊知覚異常アリ依テ規赤水壱千右一日三回分服

 

同十二日 両足創面狭少ス肉芽良

 

同十五日 肉芽良

 

同二十三日 右足創面良左創面ハ分泌去ラス肉芽發生良

 

同二十五日 両上肢ノ知覚異常及脱力ハ依然タレトモ心悸異常ナシ

 

同二十八日 分泌減少肉芽面佳良ナリ

 

四月一日 上肢ノ知覚異常及脱力漸次快方依テ塩赤水壱千一日三回分服

 

同 三日 右足創面殆ト治癒ニ近シ右足創面ハ肉芽良ニシテ皮膚ヲ發生シツツアリ前方を處ス

 

同 九日 益々佳良

 

同十三日 右側創面ハ治癒ス左足創ハ僅カニシテ小豆大の肉芽ヲ有ス

 

同十八日 両肢ノ知覚鈍麻依然タリ而シテ膝蓋反射欠乏ス脊推上部ヲ押打スルニ知覚過敏ナル部分ヲ認ム

 

同二十一日 右足創面ハ殆ト治癒ニ近ク左足創面モ亦治癒ニ近シ恩賜繃帯

 

五月六日 上肢ノ運動及知覚麻痺ハ殆ト回復シ握力ハ未タ減弱シテ回復セス下肢運動ハ稍々軽快セラル者ノ如クナレトモ知覚麻痺ハ依然タリ依テ前方ヲ處ス

 

同 八日 以降變化ナシ前方ヲ與フ

 

同二十五日 漸次軽快ヲ認ム前方

 

六月六日 本院ニ轉出セシム両足指裏関節以下欠損創部ハ全治ス塩赤水壱百一日数回分服

 

同 八日 脈膊七十搏中等下肢稍々削痩シ知覚鈍麻セリト云フ

 

同  日 創部全治恩給診断ノ為メ第一分院へ轉出セシム

 

同十三日 恩給診断ヲナスモノト決定ス

 

同十六日 恩給診断結定ニ付第七号室へ轉出セシム

 

明治三十八年七月二十五日兵役免除退院セシム

 

 惟芳はこの二つの症例の詳細な記述を読み終わって暗澹たる気持ちになった。一方は脚気で若き命を落とし、他方凍傷に罹った兵士は無事一命を取り留めはしたが、両足指を切断され傷痍軍人としての恩給生活を強いられる事になったのである。これから先の長い人生はこの兵士にとっては決して生易しいものではないことに思いを致し、惻隠の情が沸々と湧くのを抑えることができなかった。

 ―これが戦争のもたらす最大の悲劇だ。護国の為に戦闘で名誉の戦死を遂げたのとは異なり、こうして戦傷者として今後辛い日々を生きながらえることは、当人はもとよりその家族にとっても本当に不幸な事だ。両脚の切断や両眼失明の憂き目を見た兵士も数多いる。俺がこうして脚気にも罹らず凍傷にもならずに無事帰還出来たのは、考えてみれば奇蹟といってもいい。国のために尊い命を犠牲にした戦友や傷ついた兵士あるいは軍馬の事を思うと言葉もない。ようし、しっかり勉強して医師になり、彼らの無念を晴らそう。

 

 惟芳は我に返るとまた書類の整理を始めた。彼は新患者表を作った後帰宅した。この夜は何故か分からないが翌午前三時まで眠れなかった。

 

 八日、勤務から帰って萩の母へ手紙を出した。夕飯時、下宿の主人から六日に起きた足尾銅山における大争動のことを聞いた。

惟芳は長崎の造船所で働き始めたその年だから明治三十四年十二月の事だが、田中正造という人物がこの足尾銅山鉱毒事件で、天皇へ直訴したことを載せた新聞記事を思い出し、当時の新聞を探して読んだ。

 

  萬ノ人民産ヲ失ヒ業ヲ離レ餓エテ食ナク病テ薬ナク老幼ハ溝壑(こうがく)に轉シ壮者ハ去テ他国に流離セリ如此ニシテ二十年前の肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅(こうぼう)白(はく)葦(い)満目惨憺の荒野ト為レリ
  臣夙(つと)ニ鉱毒ノ禍害ノ滔々底止スル所ナキト民人ノ苦痛其極ニ達セルトヲ見テ憂悶手足ヲ措(お)くクニ處ナシ

 

 惟芳は鉱毒の惨状を訴える田中正造のこの血の出るような切々たる嘆願書を読み返し、あの奉天付近の一望千里広漠たる曠野で、敵味方が死闘を繰り広げた時の惨憺たる阿修羅の情景、さらにその大地に生きる農民たちに思いを馳せた。

 ―「壮者は去テ他国ニ流離セリ」とあるが、思えば満州の地の農民たちは、折角大地を耕し種まきも終えたであろうに、あの激戦で畑地は軍靴と馬蹄に踏み荒らされ、薪炭となる立木も戦禍で焼け、他郷へ去ることも出来ず、降って湧いたようなこの戦禍に、我が身の不運を嘆いたのではなかろうか。何処の國、何時の時代でも農民の悲劇は起きている。

 

 

(三)

 惟芳には囲碁の趣味がある。彼は時々友人と酒を酌み交わすことや、囲碁に楽しみを見出していた。しかし帰宅後は概して医師資格試験の準備に専念した。そのために彼が研究した学科名は、生理学、生理循環学、調剤学、有機化学無機化学看護学、物理学、植物学、解剖学、神経学、顔面骨学、伝染病学、排泄生理学、運動生理学、解剖生理学、消化生理学、血管学等で、日記には殆ど毎日これらの学科の内いずれかを研究したと記載している。ところが研究を妨げる事態が生じ、そのためにかなり頭を悩ました。それは弟の尚春が突然萩から彼のもとに来たからである。
 尚春が来る数日前の日記に惟芳は次のように書いた。
 
二月十六日 土曜日ナルヲ以テ午後二時ヨリ退庁 帰宅入浴食事後修道学校ニ到リ校則ヲ受ケ帰リ一書ヲ尚春ニ認メ有機化学ノ研究ヲナス

 

 尚春に手紙を出した二日後の二十八日は前日が当直で非番であったけれども、彼は午後四時半まで勤めた。帰宅してみると、弟の尚春が来ていたのである。

 

 これより一週間ばかり前に、母からたどたどしい文字で書かれた一通の手紙が届いていた。それによると、弟は萩を出て惟芳の下で勉強したいと言うので、しばらく面倒を見てやってくれまいかというのであった。惟芳としては勤務と自分の勉強で非常に忙しく、とても弟の世話までするような状態ではないが、折角弟が向学心に燃えているのなら、何とかその意を汲んでやろうと思った。就職して少しでも親を助けたいという思いで、萩中学校を五年で中退して長崎で働いた我が身の来し方を振り返る一方、惟芳は弟の気持ちを好意的に考えた。しかし尚春が家を出ていった後、老いた母が一人残ることは、惟芳には忍び難いことであった。そこで彼は弟の本心を訊ねる次のような主旨の手紙を少し遅くなったが出していたのである。

 

 過日母上からお前が広島に来て勉強したいから、面倒をみてやってくれないかとの手紙を受け取った。全く寝耳に水の依頼で驚いた。兄さんはお前と違って、両親と十分相談した後萩を出て長崎の造船所で働くことに決めたのだ。中学校に五年まで通っていたのを中断することは残念でならなかったが、事情やむを得ない選択であった。先ず父上が、つづいて母上も納得された。今もしお前が苦学を志すと言いながら、内心萩の田舎を嫌って都会生活に憧れておるのならば問題だ。

 

 勉強は頭で考えているように易しいものではない。やるからには必死になって取り組まなければいけない。本当に真剣に勉強したければ、兄さんとしても何とか考えてみる。しかし実を言うと、今は病院の勤務がある上に、自分の勉強にも時間がいくらあっても足りないくらいだから、朝から晩までお前の傍らにいて、面倒をみるわけにはいかない。お前は自学自習を心掛けなければいけない。時々お前の質問を受けるといった程度になると思う。しかしここで一つ心配なのは、お前が萩を出たら、母上が一人残られて非常に寂しい思いをされ、また何かあったとき困られることだ。
以上の点をよくよく考え、母上ともじっくり相談して、お前のはっきりした気持ちを知らせてくれ。自分の将来に関することだから、軽挙妄動だけは慎むように。

 以上のような主旨の手紙を書き送っていたのに、その返事もくれないで、尚春は出立の二日前に「今日発つ」という手紙を寄こしただけであった。惟芳はその日は徐役表の記載を終え、有機化学の研究も全部終わってホッとして帰宅したところであった。そして中一日を置いた今日、こうして弟の姿を見たので、惟芳は内心腹立たしく思ったが、旅の疲れのためか、あるいは兄への気まずい思いのためか、部屋の隅に信玄袋を側に置いて、絣の着物をだらしなく着て、しょんぼりと坐っている八歳年下の弟をみると、つい怒りの感情も和らぎ、兄としてやさしく話しかけるのであった。

 「夜汽車は混んでいただろう。さぞかし疲れただろう、近くに蕎麦屋があるから後で連れて行こう。それにしても萩から小郡までどうして出たか?」

 惟芳は足の悪い弟が山坂四十キロの道を来たことを思うと、気になって先ず訊ねた。
 「丁度小郡へ行く荷馬車がありましたので、それに乗せてもらいました。朝早く発ちまして途中大田(おおだ)で昼食を取り、小郡では夜汽車に十分間に合いました」
 
 尚春は兄がやさしく話しかけてくれたので、元気を取り戻して答えた。夕刻が迫ったとき、宿主は尚春が出てきたということで親切にも小宴を開いてくれた。兄の惟芳と比べたとき、弟は小学校を卒業した後中学校へは入らずに二年間家にいたので、まだどことなく子供らしい様子に見えたから、宿の主人は不憫に思ったのかも知れない。食事が済むと、二人は中之島まで散歩した。

 

 こうして兄弟二人の下宿生活が始まった。しかし惟芳としては、これまで通りの生活を維持しなければいけないと改めて強く思った。そうは思いながらも、兄として弟の勉強になるべく便宜を図ってやろうと考えた。

 

 その後の惟芳は、「帰宅後弟ノ為ニ教授ス」「帰宅後書留ヲ留守宅ニ送リ入浴後弟ノ為ニ教授シ又生理学ノ研究ヲナス」「算術ニ就イテ弟ニ教授ス」など「弟ノ為ニ教授ス」という言葉を日記に頻繁に書き込んだ。こうして自分の勉強時間を割いてまで弟の勉強を見てやったが、弟には自覚に欠けた点があったので、強く尚春を誡め諭したりもした。その後しばらくは自分の勤務と研究をした上で弟の面倒をみるという多忙な日が続いた。

               

 
(四)

 定時出勤と毎週一度はある日直勤務を繰り返すうちに、三月も半ばに入った。前もって就労休暇の願書を出していたが、さらに定例休暇の追加願を提出して長期の休みをもらった。

 

 三月は弥生と呼ばれる。この春暖を思わせる呼称にもかかわらず、「春寒料峭(りょうしょう)」、春風が肌にうすら寒く感じられ寒気はなかなか去らなかった。しかし曇った空から白雪が片々と舞っていた前日と異なり、帰郷を思い立った三月十七日は、朝から陽日が射していた。午後十時下宿を出て松原駅に至り午後十一時十分の列車に乗車し小郡に向った。車中乗客が多く、立ち往生の状態であった。後刻漸く席を見つけて時々坐睡をした。午前四時小郡駅に着いた。前日来睡眠不足であったので、駅前の旅館において眠りを嗜(むさぼ)った。
 
 目が覚めたのは八時頃であった。朝食を終えて馬車に乗り小郡を発した時は時計の針は九時三十分を指していた。小郡を出立する時、天は晴れて暖かだったのでこの分なら大丈夫だと考えていたが、ものの一里も進むと、寒気が増し所々雪が白く残る村落にさしかかった。さらに歩を進めると一面銀世界となり、加うるに降雪甚だしく車中も屋外と同様に白雪が片々と体に降りかかり、着ていた外套が雪で覆われるほどであった。小郡と萩のほぼ中間点にある大田に着いたとき、宿主の談話によれば、萩大田間の降雪が甚だしいため、人も車も全く通らないという。交渉の結果漸く二頭馬車で出発することにきめた。惟芳は家へはこの日に帰ると連絡していたので、母の心配した顔を思い浮かべた。帰宅出来ないのではないかという思いが杞憂に終わったのは九時間後の事であった。大田を出るとき彼は思った。

 

 ―山陽と山陰の隔たりは距離にすれば十二里もなかろうが、山路に入ってこれほど天気が変わるとは思わなかった。普通春雪は解けるのが早い。しかし雲雀(ひばり)峠(だお)だけは別だ。おまけに積雪が五、六寸に達しているというから、無事に峠は越せるだろうか。峠は急峻なところもあるから、もし道が凍っていたら馬車は滑ってとても通ることは出来まい。

 

 春とはいえ思わぬ降雪に遭遇した惟芳であったが、幸い危惧したほどのこともなく、馬車に揺られてその日の午後六時半頃萩に着いた。鹿(か)背(せ)随道を抜けて故郷の土を踏み、夕闇の中に暮れんとする故郷の静かな佇まいを目にしたとき、彼はつくづく思うのであった。
 
 ―日露戦争という未曾有の大事件を中に挟んで、三年半の時を経ての帰省は感慨深い。この間俺は筆舌に尽くせない貴重な経験をした。しかし父の死に目に会えなかったことは悲しくも残念な事だった。だがこの美しい山河に囲まれた萩の景色は、その悲しみを癒してくれるのに十分だ。人は遅かれ早かれいつかは死を迎える。父は六十三歳まで生きてこられたのだから、年には不足はなかっただろう。維新という激動の時代を無事に乗り切られたし、晩年は貧しいながらも、武士としての矜持を保ち、悠々自適の生涯を送られた。長男の俺が父の最期を看取らなかったのは、父にとって心残りであったろうが、これも運命だ。この度の帰郷は、父の三回忌の法要を営むことが最大の目的だから、これだけは手抜かりのないように営もう。せめてそれが亡き父への恩返しだ。 
 
 人の顔がかろうじて見分けられる時刻に橋本橋にさしかかった。橋の上からの風景は懐かしい。左手前方の川岸には太い幹の松が適当な間隔をおいて十数本枝を広げている。それらの松が黒々と並んで見え、一方右手にはまだ蕾を固く閉ざした桜の並木が夕暮れの闇の中にぼんやりと見えた。橋のすぐ下を流れる水は暗くて定かには見えないが、遠くに目を向けると微かに小波(さざなみ)が立っているのが分かる。

橋を渡れば三角州つまり町中である。道の両側に並んだ民家は既に戸を閉めている。東田町で馬車を降り荷物を下ろして、そこからは人力車で我が家に向かった。家に着いた時には日はとっぷりと暮れ八時半になっていた。母とは久しぶりの対面であったので、積る話を終えた後、漸く眠りに就いたのは十一時過ぎであった。母は惟芳が無事に帰ったことが無上に嬉しかったのであろう、彼が着替えをして床に入ると、仏間から鉦の音と読経の聲が静かに聞こえてきた。 

 久しぶりの帰郷である。潮騒と松籟の聞こえる我が家でくつろげることが何よりの骨休みになる。そう思って翌日午前中家にいたが、午後から出かけることにした。まず親戚の香川津の田中へ行き法事の案内をし、日没後坂田家に至り積る話に夜も更け終に坂田家に泊めてもらう事となった。翌朝八時三十分に起きた。空は晴れて風も無く、本格的な春になったのだと彼は思った。午前九時半坂田家を辞して帰宅した。
三月十九日は彼岸の入りであり、惟芳の二十四歳の誕生日ということで家内で小宴を開いた。二年前の丁度この日、日本軍が開原を占領した事を思い出した。その夜就寝前に日記に次のように記した。

  本日ヨリ彼岸ニ入ル天晴風無ク又春ヲ悟ラシム 午前九時半坂田ヲ辞シ帰宅ス 本日我ガ誕生日ナルヲ以テ家内小宴ヲ開ク 二年前ノ今日日本軍開原ヲ占領ス

 

 翌二十一日は降雨で南風が烈しいので終日家にあって、日露戦役の際撮った写真を整理し、さらに簡単に説明文を書き添えることにした。

 

 惟芳は戦地で撮った写真をかねてより整理しようと思っていた。しかしこれまでなかなかその暇がなかった。今日は有難いことに久しぶりに取り立てて用もない。朝食を終えると彼は自分の部屋に入り、戦地で撮った七十枚ばかりの写真を紙袋から取り出して机の上に並べた。次に丈夫な和紙を二十枚ばかり、押入の引き出しから取り出してそれを半分に折って、その片面に二センチばかりの切れ目を上下合わせて八カ所斜めに入れ、上下二枚、裏面にも同様に二枚の写真をさし込めるようにした。半分のサイズの写真もあるので、片面に四枚並べることが出来るようにしたのも数枚作った。こうした後で彼は写した時と場所を思い出しながら一枚一枚さし込んでいった。この作業をやっと終えると、最期に筆でそれぞれの写真についての説明を簡潔に書き添えていった。
 
 最初の一枚は厚い土塀に囲まれた寺院を写したものである。整然と葺かれた甍、その屋根はひどく傾斜している。この屋根は頑丈な大きな造りの本堂を覆っている。全体は粘土で作った建物である。よく見ると屋根の上に鴉と思える鳥が四羽止まっている。本堂に通ずる門が手前にあって、これもがっしりとした同じような造りで、土塀の中央にでんと構えている。土塀の前は広々とした庭で、門の直ぐ前に軍馬が二頭淋しげに立っている。人影はない。土塀越しに葉の落ちた高い楡のような立木が五、六本右手に傾(かし)いで見え、全体としてうら寂しい光景である。彼はその景色を思い出すと筆を執って、写真の上部の紙面に右から左へと二行に次の言葉を書き入れた。

 

 奉天戦役ノ際開設シタル奉天南方五里ナル
 崔家堡野戦病院ニシテ寺院ヲ代用シタル将校病舎

 このように説明文を認めたものの、この写真を見て惟芳つくづく思うのであった。
 
  ―この写真では皇帝の色とされる黄褐色の屋根瓦や代赭色に映えた土塀が写し出せず残念だ。ましてや満州特有の乾燥した大気や身を切るような寒気は、写真では実際に感じ取る事が出来ない。まあそう言っても仕方がない。こうして何とか写して帰ったので後々きっと何かの参考にはなるだろう。俺に取ってはよい従軍記念にはなった。
 
 こういった臆(おく)念(ねん)を抱きながら、この寺院の写真の下のもう一枚の写真には、「開原ニ於ケル羅馬塔ノ壮観」と簡単に書き込んだ。この写真は誰が見ても一目瞭然、空高くに堂々たる六角形の石塔が屹立したものである。それに銃を持った兵士が二人前方に立っているだけの、これも荒涼寂寞たる風景写真である。

 

 この裏面には惟芳が一人で遼陽へ使いにいったとき写した写真がある。彼は「遼陽停車場ノ実況 面中ノ家屋は露國ノ建築ニヨル停車場及兵営」と書いた。ここには後方に堂々とした石造りの駅舎が建ち並び、その前方に広軌の鉄道線路が七本走っている。一番手前の線路上に十人ばかりの労働者が後ろ向きで車輌でも押しているのか固まって写っている。

 

 この下の写真を見ると、惟芳は一人で使いに行ったときの事を思い出して、「南門ヨリ望ミタル遼陽城市街」と書いた。こうして次々に写真を見ながら当時を思い出しては説明文を書き添えた。全ての書き込みを終えると、全部の紙をきちんと重ね、錐で右側に上下四つ穴を開け、和紙を細長く切って観世子縒(かんぜこより)を二本作って、穴に通して二箇所をしっかりと結んだ。こうして立派な写真帳がやっと出来上がったとき、母が昼食の支度ができたと呼びに来た。

 「朝から何をしておいでかと思うとったがそれは何かね?」
 母は机の上にある分厚く和紙 の重なったのを見て問いかけた。
 「これは私が満州で写して来ました戦場の写真です」
 「写真とは珍しいね。私はあんたが萩中学校に入ったときに先生とみんなで撮った写真と、佐世保の写真館で記念に撮ったと言って送ってくれた写真しか近う近来見たことがない。あんたの写真は仏壇に上げてあんたが戦地に行っている間毎日ご先祖様に無事をお祈りしておったよ。まあ一寸その写真を見せておくれんか?」 
 
 こう言って母は惟芳の部屋に入り机に近づいてきた。昼食のことは忘れたのか惟芳の側に坐ると母は好奇の目を写真に向けた。そこで彼は母がこのように興味を示すので、戦争の様子がよく分かるのと、満州の風物で特徴のあるのを数枚見せようと思った。
 惟芳は写真帳の頁を繰って負傷した十数名の兵士を撮った写真を母に見せた。

 「これらの将士は皆遼陽の戦いで名誉の負傷をした人です。右の机の上に重ねて置いてあるのは皇后陛下から頂いた恩賜繃帯です。ここに『恩賜繃帯』と書いてあるのが見えるでしょう。後ろの列に立っている兵士たちは頭部を、その前に腰かけいる者たちは腕や胸部を、前列の地面に坐って脚を投げ出したり組んだりしているのは腿や脚を負傷した連中で、全部で十六人ここに写っています。これらの負傷兵は恩賜の繃帯を巻いてもらったばかりです。この人たちはこの程度の負傷で済んだのですが、多くの将兵が遼陽の戦いで戦死しました。」
 「この兵隊さんたちはみんな傷ついて痛かろうにしゃんとした姿で写っておいでじゃの。」
 「そうです。痛いなんて言ってはおれません。身体に入りこんだ弾を取り出すときなんか、兵士は誰も痛さを必死で堪えていました。だから私たち看護に当たった者も、出来るだけ素早く適切な処置をしなければと一生懸命にがんばりました」
 
 こう言って彼は次に一枚の小さい写真を貼った頁を開けた。これは一人の年若い母親がボロ布に包んだ幼児の死体を茣蓙(ござ)の上に横たえ、その傍らにしゃがんでこちらに哀しげな目を向けている写真である。惟芳は先程書いた説明文を読んで聞かせた。

 「満州土民ノ習慣トシテ小児七才ニ満タザレバ死魂ヲ祭ラズ道路ニ放棄シテ鳥獣ノ食トナス醫術ノ発達セザル彼地ニ於テノ小児倒レルモノ多シ 或ル一村ニ於ハ腐敗ニ傾キタル小児数名ヲ見ル コノ面ハ今ヤ死セントスル小児ヲ屋外ニ運ビタル実況ナリ」
 
 惟芳はあまり悲惨な写真ばかり見せてはいけないと思って、今度は樹木が霧氷に被われた写真を見せ、その美しい情景を母に説明した。
 
 「満州特異の景色です、気温が非常に下がると楊柳の細く垂れた枝に氷が附着して、そこに出来た霧氷の霜はまるで日本で櫻の花が樹木一面に咲いたようです」
 
 次に「滞在中ノ娯楽小宴ノ実況」と書いた写真を見せて、 
 「左にいますのが私です、盃を戦友に勧めるところです。二人の間にいて酒を入れた水筒を両手に持っているのは満州人の子供です。この子はよく手伝ってくれました。いまどうしていますかね。」
 「鍋の中身はお豆腐のようじゃね。大きく切ってあるね」
 母は質素だが楽しげな小宴の写真を食い入るように見た。最期に彼は「南岑(なんしん)舎営病院手術室ニ於テ寫ス」と先程書いた写真を母に見せた。

 

 机を前にして自分一人だけを写したものである。坊主頭の顔をほんの僅か左に向け、固く口を結び前方を凝視した姿である。着衣の左腕には赤十字の腕章をつけ、両手を目の前の机に乗せ、机上には大小十本ばかりの薬瓶と軍帽が置かれている。背後の壁には日頃は脱いでいる手術衣が掛けてある。

 

 惟芳は最近目の薄くなった母にもよく分かるだろうと思ってこの写真を選んで見せた。母は息子が一人前になった写真を見ると、
 「よう撮れているね。あんたもお国のお役に立つようになってくれた。亡くなられたお父様に見せてあげたらさぞかしお喜びのことじゃったろうに」と、目をしょぼつかせながら小声で言った。
 「この写真を撮ったのは裏を見たら書いてありますが、明治三十八年八月下旬で、私が二十二歳五ヶ月の時です。」
 こう言って、彼はこの他に「陣中之風呂」、「珍奇ナル負傷兵士」と簡単に説明の言葉を書いた写真なども母に見せた。
 
 三月二十六日、彼は六時二十分に起きた。晴天であった。この日は父の三年祀、祖父の五十年祀にあたるので潔斎し仏壇の清掃を行った。午前九時半より端坊の坊様が来られて仏前での礼拝読経があり、昼食を挟んで午後一時に終った。その後親族知人の来客があり、午後三時より寺参りをして帰った。

 

 こうして惟芳は無事に父並びに祖父の法要を済まし、数日滞在して四月に入ったので廣島へ帰ることにした。馬車及び人力車を予約しようとしたが、応じられないというので止むを得ず徒歩で出発することにして、荷物を御許(おもと)町(まち)の馬車屋に依頼した。惟芳は萩を出て小郡から乗車し、廣島の下宿に着くまでの様子を日記にかなり詳しく書き止めた。 
 
三日水曜 晴 起床五時 就蓐翌午前三時五十分
  午前六時宅ヲ出テ分(わかれ)ヲ告ゲ出発ス 途中明木トンネルニ至リタルモ尚オ荷馬車ノ来ラザル為徒ニ独進シタルトテ其効ナキニ依リセンカタナク萩ニ向テ再ビ帰ル 然ルニ椿町ニテ宿セントスルニ尚オ荷馬車ノ陰モ見ズ 止ムヲ得ズ橋本町ヲ過ギ今ヤ御許町ニ達セントスル中漸ク馬車ニ出逢ウ事ヲ得止ムヲ得ズ同車ト同行ス 途中明木市マデ徒歩ソノ後乗車或ハ徒歩シ ヒバリ山前ノ茶屋ニテ喫食ノ後大田ニ着セシム 
午後四時当地ニテ事情アリタル為約一時間ノ休息ノ上午後五時同地ヲ発シ 約半里ヲ距タル点ニテ一行ノ馬車ニ逢ヒタルニヨリ直チニ荷物ト共ニ之ニ乗ジ幸イニシテ日没迄ニ小郡ニ着スル事ヲ得タリ 依ッテカシベ旅館ニテ夕食ヲ喫シ午後九時二十九分ノ列車ニテ広島ニ向カイ途中無異

 

翌四日午前三時頃広島駅ニ着 一寸茶屋ニ入リ休憩ノ後人力車ヲ飛バシテ向島ナル下宿ニ着シタルハ午前三時四十分ナリキ 其レヨリ直チニ眠リニ就ク 就蓐午前三時五十分

 

 今なら萩を朝の六時に出れば二時間後には廣島に着ける。百年前には十倍の時間を要したことになる。
                    

 

(五)           
 四月六日は土曜である。惟芳は七時に起床し、九時頃より基町の分院並びに陸軍衛戍病院本院に行き帰広を告げ、直ぐ帰宅してその後十時から生理学の研究をした。午後は東照宮まで散歩した。

 

 自転車の練習を試みたりもしたが、あくまでも気分転換の為で、研究と弟の教授に大半の時間を費やした。ところが弟は依然として気合が入っていない。そのために時々訓戒を与え将来について考えさせたりした。また惟芳は弟を連れて友人に相談に行ったりもした。


二十一日 日曜なので午後から自転車の練習をして、漸く数間走れるようになった。

 「わが所謂(いわゆる)乗るは彼等の所謂乗るにあらざるなり、鞍に尻を卸(おろ)さざるなり、ペダルに足を掛けるざるなり、ただ力学の原理に依頼して毫も人工を弄せざるの意なり、人をもよけず馬をも避けず水火をも辞せず驀地(まっしぐら)に前進するの義なり、去る程に其格好たるや恰も疝気持ちが初出に梯子乗を演ずるが如く、吾ながら乗るといふ字を濫用して居らぬかと危ぶむ位なものである、去れども乗るは遂に乗るなり、乗らざるにあらざるなり、兎も角も人間が自転車に附着して居る也、而も一気呵成に附着して居るなり」

 

 これは漱石の『自転車日記』である。額面通りにはとれないが、漱石が乗車を試みた時点から五年ばかり後に、惟芳も初めて自転車の試乗を行った。乗馬訓練したときのことを思うと、馬とは違い、相手の気持を考えなくてすむ自転車乗りは思ったより簡単に出来た。事実彼は後に開業医となったとき、山坂の多い村で患者の家への往診に、当時としては珍しいオートバイを利用したこともある。

 

二十三日 帰宅後生理学の研究を約二時間行い、その後また尚春の教授をした。しかし尚春の勉強ぶりをみるとどうも自覚がない。将来を誡めて奮起を促した。この日明治三十七・八年戦役従軍記章を授与せられた。弟の事だけでも頭が痛いのに友人の四茂野がほろ酔い気分でやって来て約二時間話していった。惟芳は彼に対しても将来を誡める言葉を吐かずにはおれなかった。

 

五月四日 一日付けで昇給の辞令を受けた。昇給は有難い、少しでも多く貯金して将来に備えなければいけない。こうした思いで土曜の夜を迎えた。明くる日は日曜である。朝から雨が降ったので終日物理学のお浚いをした。夜になって尚春を中島に買い物に行かせたところ、就蓐後夜半に至るも尚春が帰宅しない。惟芳は無益の空想を抱いて不眠に陥っていると弟が一時頃帰宅した。やっと安心したが、一時間余寝付かれず漸く安眠することができた。惟芳は思うのであった。
 
  ―弟は両親の遅い子だから親の厳しい躾を受けていない。特に晩年の父は好々爺になられたし、母も口やかましく云われなくなったようだ。それに加えて弟が足を痛めてからは特に不憫に思われたのだろう。そのために弟は‘お鷹ポーポー’になったようだ。俺が側におればなんとか指導できたのに。困ったことだ。
 
 惟芳は弟の尚春が廣島に来てからの言動を見てみるに、しっかりと腰を据えて勉強していないのを心配していたが、今日のように無断で遅くまで帰宅しない事実に直面して、ひどく頭を痛めるのであった。
 
 読者はお鷹ポーポー’という言葉を御存知だろうか。筆者が子供のころ父がよく口にしていた。これは鷹が狩りに向く性格、つまり出来るだけ攻撃的な性格を発揮するようにと、鷹匠が鷹を自由気ままに振る舞わさせ、そのために鷹匠は自分の腕に載せた鷹によって、その腕を嘴や爪で傷つけられるようなことがあっても、敢えて鷹をひどく叱ることをしないそうである。このように飼育された鷹に似て甘やかされた人間を‘お鷹ポーポー’と云っていた。

 

 五月に入ってからは、物理学と化学の学科の授業を受け、帰宅後はそれらについて研究を重ねた。お陰で物理学上巻は全部を終え、化学上巻を再び研究することにした。この他解剖の研究も行った。日曜日には宮島参拝に出かけた。気分転換と合格祈念を兼ねてである。五月二十一日の日記に彼は書き記した。
 
 本日ハ多忙ヲ極メ脳少シ悪シ 夕食後前期受験ニツイテ計画スルモ未ダ遠キコト多キヲ以テ明年春ノ受験ニ決シ合ワセテ明春ノ受験ニハ直チニ及第スル如キ決心ヲ以テ益々努メル事ヲハカル並ビニ将来ニ対スル計画表ヲ作リ実施スベク努メトナス ソノ後諸学科ノ復習ヲナス

 

 手元に一枚の写真がある。「明治四十一年五月に廣島衛戍病院手術室で撮影」と裏に書いてある。寝台に横たわっている患者を囲んで男性の医師が七名と看護婦が九名写っている。全員白衣を着て白い帽子を被っている。鼻髭を蓄えた長身の惟芳が右端に立っている。今から百年前の写真だが、女性は皆ずんぐりとした堅太りで健康そうである。彼女らが下駄を履いているのには驚く。何の手術か分からないが、患者は白布で目隠しされており、看護婦の一人が脈を取っている。こちらを見ている者もいて全体的におっとりとした雰囲気が漂っている。

 

 ここで惟芳とは全く関係のない一人物について逸脱の筆を走らすことにする。その人物とは高村光太郎である。

 

 彼は明治十六年三月十三日に呱々の声を上げた。日露戦争終結した翌年の明治三十九年に彼は渡米し、ニューヨークの安下宿に身を置くと、「餓鬼のやうに勉強した」、「アメリカで私の得たものは、結局日本的倫理観の解放ということであったろう」と後年書いている。惟芳が生まれたのは明治十六年三月十九日、光太郎の誕生に遅れること僅か六日である。惟芳も明治三十九年の日記にみるように猛勉強をしている。

両者が目指すものは異なるが、日露戦争終結の後、志を立て一生懸命に勉強したことは、軌を一にしていて、当時の青年像の一端が窺えて面白い。その後の光太郎の生涯は周知の通りである。一方惟芳は「日本的倫理観」に基き、一村医として、「医は仁術」の一生を送った。いずれもその人その人の運命であろう。
 
 惟芳は日記には相変わらず寸暇を惜しんで研究したことを記載した。

二十二日 本日夜警勤務トシテ夕食後登院ス勤務中化学問答集ヲ研究ス

 

二十五日 勤務多忙 吉田軍医休暇ヨリ帰リ教授ス 午後一時半ヨリ解剖学ヲ授ケラル
帰宅後解剖、物理、化学の研究ヲナス 台北丸ニテ台湾患者二十二名収容

 

二十六日 日曜 終日家ニアリテ化学ノ研究ヲナス

 

二十七日 定時出勤 午後三時ヨリ解剖学ヲ授ケラル 帰宅後解剖学ノ復習 化学ノ研 
 究

 

二十九日 定時出勤 午後三時ヨリ解剖学科ヲ受ケ帰宅後解剖学及ビ化学全部ノ復習ヲナス

 

六月に入った。日記の記載は相変わらず諸学科の研究を主としたものである。

 

三日 出勤前解剖学研究 物理解剖学を午後三時ヨリ始メ六時退庁帰宅後顔面骨学ノ研   
 究

 

四日 定時出勤 午後二時半ヨリ伝染病予防、三時ヨリ化学、植物ノ学科 昨夜ノ睡眠不足ノ結果(?)脳痛アリ身体ヲ考慮シテ市街散歩ヲナス 帰路中島集産所ニ至リ生花ヲ買ヒ帰ル

 

五日 終日雨降ル 定時出勤 日報月報調査ソノ他 午後三時ヨリ物理、解剖ノ学科アリ 帰宅後化学ノ復習及ビ頭骨ニ関スル靱帯及ビ筋肉ノ研究

 

六日 時々少雨アリ 勤務前日ニ同ジ 午前二時ヨリ伝染病ノ学科 三時ヨリ化学学科アリ帰宅後解剖ノ研究 精神益々強固トナルヲ信ズルモ尚一層奮励シ進歩ヲ早ムベシ

 

七日 起床六時 就蓐十一時半
  勤務前日ト大差ナシ 前日ト同ジク益々研究ノ度ヲ増ス

 惟芳は病院で手術の見学、もしくは助手を務めたことについても日記に記した。

 

十月三日 本日ノ命令ニヨリ事務室ヨリ手術室兼包帯交換所附キトナル依ッテ午後ヨリ引キ継ギ為ニ本日化学ノ学科ナリシモ出席セズ 夜ニ入リ器械ノ名称ニ就イテ研究ス

 

四日 本日午後二時ヨリ右鼠谿(そけい)ヘルニア兼左頸腺炎患者並ビニ鎖骨腐骨疽患者ノ手術ア 
 リ

 

十一日 定時出勤 本日痔核、痔瘻ノ手術アリ 

 

十二日 本日手術室ノ勤務ニツイテ大野看護長ヨリ精シキ申送リヲ受ク 外科ニツイテ少シク研究ス

 

十五日 鎖骨銀線抜出及ビ痔核ノ焼灼術アリ

 

十八日 臀部貫通銃創後切開排膿及瘤疽ノ掻爬手術アリ赤十字社看護婦見学ニ来ル

 

二十九日 勤務平日ニ同ジ手術並ビニ外科的療法ニ就イテ院長ヨリ注意ノ件伝達セラル 帰宅後有機化学研究

 


 

(六)

 病院での勤務と帰宅後の研究、その上僅かの暇を得て弟の勉強を見てやることで、惟芳は時間的ゆとりの殆ど無い多忙の日々を送っていた。それでも病院で昼食時のホッと一息つける間に、彼は食堂にある『大阪朝日新聞』に出来るだけ目を通して、社会の情勢に関心を払うことにしていた。

 

 彼は明治四十一年九月一日から新聞に連載され始めた夏目漱石の『三四郎』を読むと、自分がこれまで体験したものとは全く異なる世界で青春を謳歌している若者のいることを知った。一方では国の為に若い命を捧げ、あるいは生死の岩頭に立つという過酷な体験をした数多くの若い兵士をみてきた惟芳には、彼等が送った生活と、『三四郎』に登場する大学生や美しい女性たちの恋愛感情を描いた生活との間には、大きな隔たりがあるように感じられた。

 

 第一次西園寺内閣で文相となった牧野伸顕は、戦後国民的志気が弛緩(しかん)し、それが特に学生層に瀰漫(びまん)しているのを見て、「学生の思想風紀取締に関する訓辞」を出したが、漱石の作中人物たちはこの訓辞に対して全く馬耳東風といった態度であるように思えた。惟芳は文相の訓辞をもっともだと思いながらも、『三四郎』を面白く思って、新聞閲覧を昼食時の楽しみにしていた。

 

 漱石はイギリス留学から帰国後一時大学で教鞭をとったが、間もなく辞職して朝日新聞社に入社し、その後新聞紙上に次々と連載小説を書いて来たことを知った時、惟芳はふと二人の人物を思い出した。一人は四年前に亡くなられた中学校時代の恩師雨谷羔(こう)太郎校長である。校長は東京大学で、先輩であった漱石が一時弓道に凝って「朝夕毎度百本の射を試みた」と噂されていたと話された。もう一人は長崎で同じ下宿にいた吉川先生が、第五高等学校で漱石に英語を教わったと話していたことであった。

 

 そこで惟芳は病院に備え付けの文庫から『草枕』を借りて読んでみた。主人公は惟芳もその名を知っている熊本の鄙びた温泉宿に泊まっている画工である。それに浮世離れした老人や出戻り娘、あるいは寺の和尚と小坊主、こういった俗界を離れた人物を配した漱石の描く世界は、自分とは別世界の話だと思いながらも、こういった桃源郷を、作者の漱石も夢見ているのではなかろうかと思いながら頁を繰った。作品の終わり近くの文章を読んだとき、彼は漱石が確かに弓を引いた経験があるなと思った。

 

 居眠りをしていた老人は、舷から、肘を落して、ほいと眼をさます。
 「まだ着かんかな」
  胸膈を前へ出して、右の肘を後ろへ張って、左手を真直に伸して、ううんと欠伸をする序に、弓を引く真似をして見せる。女はホホホと笑う。
 「どうもこれが癖で、・・・・」
 「弓が御好と見えますね」と余も笑いながら尋ねる。
 「若いうちは七分五厘まで引きました。押しは存外今でも慥かです」と左の肩を叩いて見せる。
 
 惟芳はこれを読んだ時、既に十年近く前になるが、萩中学校に入学し弓道部に入り、先輩たちの射、特に粟屋先生の見事な射を初めて見たときの感激を思い起こした。
 
 惟芳にとって充実した日々が続いた。衛戍病院で勤務する一方、学校での授業、帰宅後の研究で時間はいくらあっても足りないように思えた。こうした勉強の成果が実って明治四十一年春に行われた第一回前期試験に合格した。第二回後期試験は明治四十三年三月に行われると発表された。歳月はこうして足早に過ぎて行った。しかし惟芳には緊張の毎日であった。
 
 明治四十二年も終わり近くの十月二十六日に、伊藤博文ハルビンの駅頭で朝鮮人安重根に射殺されたというニュースは衝撃的な事件であった。しかし惟芳にとって忘れることの出来ないほどのショックを受けたのは、さらにその翌年の明治四十三年四月二十一日、病院で休憩時間に新聞を手にしたときの事である。

 

 それは潜水艦の事故と佐久間艇長の遺書を載せた新聞記事である。彼の両眼は紙面に釘付けにされ、彼は手に持った新聞を思わず固く握りしめ、息が止まった。腹の底から熱いものがこみ上げるように感じ、遂に感極まって唇を噛みしめた。それは艇長以下十四名の死を悲しむのではなく、その最期があまりにも立派であったからである。彼等の死は、武人として「斯(か)くあるべき」、と惟芳が常日頃思っていたような最期であった。惟芳は日露戦争に従軍するに当たり、今は亡き父が言った言葉を思い出した。
 「武家の血を引く者として、矜持と克己の精神だけは忘れるなよ」

 

 ―あのような呼吸困難の中にあって、かくも沈着冷静に事を処理し、しかも自分の事は顧みず、ただ部下の事のみを思いやり、さらに遺族への気配りができるとは武人の鑑だ。佐久間艇長は常日頃から平常心を心掛けておられたのだろう。實に立派な方だ。
 
 惟芳は感銘を受け再度遺書に眼を通した。そしてこの簡潔な文章は心情を吐露した名文だと感心した。

 

  小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨク職ヲ守リ沈着に事ヲ処セリ・・・・
  謹ンデ陛下ニ白(もう)ス 
   我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ
  我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミナリ ・・・
  十二時三十分 呼吸非常ニ苦シイ  
 
 新聞を手にとってしばらく瞑目していると、午後の勤務始めを告げるベルが鳴った。惟芳は我に返ると、また日頃の多忙な現実世界に戻っていった。

年月の経過と共に惟芳は等級も上がり、また精励賞として金銭も賜与された。授与書を年代順に記すと以下の通りである。

 

明治四十年十二月一日    給二等給

 

明治四十年十二月二十三日  精励ノ賞トシテ金捨六圓参捨錢を賜與ス

 

明治四十一年六月十五日   給一等給

 

明治四十一年十一月五日   任陸軍一等看護長

 

明治四十一年十二月十五日  精勤ノ賞トシテ金拾九圓八拾錢ヲ賜與ス

 

明治四十二年十二月二十日  精勤ノ賞トシテ金貳拾壹圓ヲ賜與ス

 

明治四十四年二月二十八日  給二等給

 

明治四十四年三月三十一日  精勤ノ賞トシテ金貳拾八圓貳拾錢ヲ賜與ス

 

明治四十五年三月三十日   精勤ノ賞トシテ金拾圓参拾貳錢ヲ賜與ス

 

 『日本醫籍録』という分厚い本がある。その中の「山口県阿武郡」の項を見ると次のような記載がある。

 

 緒方惟芳 宇田郷村
 内科医 緒方医院 明治十六年三月十九日生 
 明治四十四年試験及第第「登」二九三八七号爾来廣島市難波病院ニ内外科中西病院ニ産婦人科擔任大正元年十二月現地開業日露戦役従軍叙勲六等 鉄道省嘱託醫宇田郷村縣嘱託 學校醫 趣味圍碁讀書書畫

 

 この医事時論社出版の『日本醫籍録』(昭和四年第四版発行)によれば、惟芳は明治四十四年に試験に及第して、医師としての資格を得ている。大正末年現在で、山口県内の医師会員数は779名である。しかしプライバシイの問題で調査員の質問に正しく応答したかどうかは疑わしい。従って必ずしも正確な数値とは言えないが、上記779名の内で大学や専門学校を卒業しないで医師免許を取得している者は138名。試験及第者と記載されているのは豊浦郡を除けば、下関市1名、熊毛郡3名、それに阿武郡で開業していた惟芳を加えて僅かに5名である。なお名前から推察して女医は県内で7名を数えるのみ。

 

 惟芳は上記の通り明治四十四年開業試験に及第した後、陸軍病院では習得出来なかった産婦人科の治療法を廣島市内の中西病院産婦人科で学んだ。そして大正元年阿武郡宇田郷村で開業したのである。廣島陸軍病院に勤務しながら前期、後期と受験して合格したのは三十数名中、惟芳ただ一人であった。
  
 参考までに医師になる資格は、明治三十九年五月に公布された『医師法』を見ると、次のように書いてある。

 

 ①帝国大学医科大学医学科または官立、公立、もしくは文部大臣の指定した私立医学専門学校医学科を卒業した者。 ②医師試験に合格した者。 ③外国医学校を卒業し、または外国において医師免許を得た者で命令の規定に該当する者。
 また、惟芳が受験したときの試験問題は次の通りである。

明治四十一年第一回前期試験問題
 〔化学〕①「クローム〕ノ記号、所在及「重クロームカリウム」の性状、応用
     ②「マンニット」ノ所在、性状及其化学的構造上糖類ト異ナル点
 〔物理学〕①熱と光トハ如何ナル性質ニ於テ相類スルヤ
      ②「ダイヤモンド」ノ夜光石ナル名称ヲ得タルハ其理如何
 〔解剖学〕①神経繊維ノ構造如何
      ②胡蝶骨ノ聯接及交通孔ハ如何
      ③膝  及其 中を経過スル血管及神経ヲ記載セヨ
 〔生理学〕①迷走神経ノ胃及心ニ及ボス作用如何
      ②呼吸ノ血圧及脈搏ニ及ボス作用
      ③消化液ノ種類及其作用如何

 

明治四十三年第二回後期試験問題
  ①骨接ノ種類並ニ症候
  ②甲状腺腫ノ種類、徴候及療法
  ③腸管創傷ノ症候及療法
  ④主要ナル皮膚刺激剤ノ名称、生理的作用及医治効用
  ⑤「サリチール酸」及其誘導体ノ名称、生理的作用、医治効用、用量及一二ノ処方
  ⑥脾臓ノ腫大ヲ起スヘキ疾患ノ名称及其交互の鑑別
  ⑦延髄球麻痺ノ症候及之ヲ来スヘキ疾病ヲ挙ケヨ
  ⑧肥大性肝臓硬化ノ原因、症候及鑑別ヲ挙ケヨ
  ⑨炎性緑内障ノ症候及療法
  ⑩涙嚢炎ノ症候及療法
  ⑪婦人骨盤ノ内外計測法及其距離
  ⑫妊娠中及後産期ニ於ケル出血ノ原因
  ⑬気温ノ衛生上ニ及ホス影響
  ⑭百斯篤(注ペスト)ニ対スル細菌学的検査法