yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 最終章「佛となれや枯小笹」

(一)

 亭主関白とも言える主人が一家の柱としてデンと構え、三人の息子と長男の嫁(彼女は戦後縁あって萩市在住の医師と再婚した)、さらに看護婦や女中など、それまで多数の者が一緒に生活していた広い家に、今は娘の信子と二人だけの淋しい生活である。幸にとっては何だか気が抜けたように感ずるのであった。

 

 この際特に言っておくと、惟芳は看護婦も女中も分け隔てなく、全く家族の一員として考えるように仕向けていた。三度の食事も皆一緒であった。したがって三人の息子と殆ど同時に看護婦ならびに女中が去って行ったとき、息子のみならず娘たちもいなくなったような寂しさを幸は感じたのである。

 

 ある日のこと、二階の座敷を掃除しながら幸は吾知らず呟きながら箒の手を動かしていた。
 「お母さん、さっきから何をぶつぶつ言うておっての?」
 信子は不審に思って訊ねた。
 幸はふと我に返ると娘に言った。 
 「昔私が女学校に入った時、初代の校長の米原鶴太先生から『理想の淑女』という訓えを暗唱させられたのじゃ。それを今ふと思い出したのじゃよ。先生は毎週月曜日の第一時間目の修身の時間に、善良な校風の大成のためにと、この『理想の淑女』を一句一句説明されたのじゃよ。随分昔の事じゃがまだ覚えておるで。一寸云言うてみょうか」

 こう言うと幸は掃く手を止めて低い声で唱え始めた。

 「正しき事を愛し、邪(よこしま)なる事を悪(にく)み、善を好み悪を忌(い)み、柔和なれども内に守る所堅く、愛嬌あれども巧侒(こうねい)ならず、驕慢(きょうまん)に流れず卑屈に陥らずして、謙遜の徳を具へ、才芸に富めどもこれを気色(きしょく)に顕さず、容姿美しけれども卑俗ならず、天性の美容なけれども高雅に見え、高貴なれども奢ることなく、窮することありとも乱に及ばず、よく勉め、よく励み、人事を尽くして天命に安んずるは理想の淑女なり」
 「よう覚えとってですの」
 「まだまだ此の先長いのでや」
 「何だか難しい言葉ばかりですの」
 「そうじゃろう。あとから紙に書いてみるから、読んでみいさい。正確には 書けんかもしれんがの」
 
 幸は掃除が終わると、居間の机に向かって『理想の淑女』を始めから書き出した。読者の中にはこの文章に違和感を持たれる方がおられるだろう。何しろ明治の修身教育そのものだから。しかし日本人のモラルバックボン(精神的支柱)が失われた今、一読するのも益なしとは言えないだろう。本章の最後に参考までに全文を載せることとしよう。〔注1〕

 

 当時の日本人には、特に明治の教育を受けたものには、こうした内容は当然至極の事として受け入れられていたのである。大正元年、創立したばかりの阿武郡立実科高等女学校(現萩高校)に在籍中の幸は十七歳であった。今から考えると、難しい文章を当時の女学生たちは暗唱したものである。

 

 惟芳は同じ年の十二月に宇田郷村で医院を開業した。この年から十四年後に運命の糸が二人を結びつけた。結婚とはまさに奇しき縁である。

 

 夫が医療に専念していた時、幸は四人の子供の世話はもとより、夫への手助け、看護婦や女中への気配り、その上戦時中の事で、国防婦人会の会長としての任務もあり、それこそ猫の手も借りたいほどの超多忙な生活に明け暮れていた。しかし今は昔とは違って、静かで暇な時間の中に自分を見出していた。住む家だけは有るので心配いらない。年寄だから食べ物はわずかで済むし、余(よ)所(そ)行(いき)の着物を羽織って行く処もないから、つましい生活で満足することが出来た。彼女はこのような状況を有難く思った。と同時に、何か村人にとって役に立ち、同時に自分にとっても無聊を慰める事はなかろうかと考えていた矢先、村の未婚の娘さんたちが多数、嫁入り修行にと、お花やお茶を教えてくれと言ってやってきた。

 

 五歳の時にお茶の手解(てほど)きを父から受けた幸は、既に述べたように、女学校を卒業すると同時に上京し、遠州流の宗家小堀宗忠師に就いて茶道を、更に翌年は京都の池坊宗家で華道の修行に専念した。帰郷後は父の片腕となってお茶とお花を教え、三十歳で緒方家に嫁ぐまでは、この日本の伝統芸術一筋に生きてきたといえる。これはいざという時、女の身であっても自立できるようにとの、父友一郎の教育方針に基づくものであった。此の事は、明治維新の後、家業の没落という憂き目を見た友一郎が、世の中がどんなに変わっても、子供に残せる財産は教育である、と確信するに至ったためと思われる。

 

 一方貧乏士族の子として生まれ育った惟芳は、お茶やお花は歌舞(かぶ)音曲(おんぎょく)の類(たぐい)と同一視しないまでも、多忙な診療に夜も日も無いような日々を送っていたので、幸の持つお茶やお花の資格を生かしてやるといった考えはなかった。しかし幸は花が生けてないのは家の格式に拘わると云って、玄関と居間ならびに二階の座敷の床の間には、何時も新しく花を生けていた。更に二階の脇床に昔習った盆石を配することさえした。また機会をみては時々抹茶を点てて、主人に服してもらうこともあった。

 

 後年小学校の入学式や卒業式に花を飾る必要がある際に、宇田郷村には大きな花を生ける人がいないので、学校より頼まれて、出かける事もあった。また当時青年学校の女生徒に花を教えに行ったこともある。町や市と違って宇田郷村には生け花の材料を売る店がないので、娘さんたちは各自勝手に、自分の家の庭や畑に咲いている花や、山で切り取った柴等を持参するが、実際に役立つ材料はわずかなので、稽古が終わった後残った花の始末が大変だった、と正道は云っている。

 

 そのうち村の主婦たちの中に、子供の世話も終わって暇になり時々話に来る者がいた。幸は彼女たちにお茶の飲み方だけでも教えて見ようと思った。

 「奥様、私は小学校を出てからというもの、百姓仕事や漁の手伝いばかりで、チャンと座る事も、お茶の飲み方もさっぱり分かりませんがのんた」
 「まあ心配はいらんでや。座りにくけりゃ、膝を崩してもええ。お茶も口から飲みさえしたらええ。利休さんの歌にこんなのがある。」

  茶の湯とは ただ湯を沸かし茶を点てて
  のむばかりなる事としるべし

 

 「利休さんが言うておられるから間違いない。まあその内ぼちぼち要領が分かって来るよ」
 「そうでありますかのんた。それなら教えてくださいませ」

 

 幸はこうして二人三人と話し相手ができると、信子が萩の学校へいっている昼間、だだっ広い家に一人でいるよりは気も紛れて結構楽しいと思うようになった。また信子が高校を卒業して村の保育園に勤めるようになったので、彼女の仕事仲間や小さい時からの遊び友達にお茶やお花を教える事を始めた。

 

 

(二)

 昭和三十五年、幸は茶道名誉師範に推戴(すいたい)された。その翌年から茶杓を作り始めた。六十六歳になっていた。

 

 ある春の日の朝早く幸は藁草履を履くと玄関を出た。そして病院の直ぐ前の道を横切って細い路地を抜けると海岸に下り立った。前日の風も止んで海は穏やかな姿を見せていた。港とはとても言えないほどの狭い場所である。防波堤の向こうに姫島がくっきりと、さらにその沖合に宇田島が静かな海上に浮かんで見えた。春の海は前日とは打って変わり、小さな波が眠たげにゆっくりと打ち寄せてはまた引いていた。宇田の海岸は砂浜ではなく小石を敷き詰めたようになっているから、波が引くとき小石の転がるためでもあろうが、小石の間を水が通る時の「ざー」という音は砂浜では聞かれないものである。

 

 岸辺には近くの海で漁をする小舟が数艘引き揚げられていた。全く人気のない清々しい朝である。幸はこれらの舟の間を通って波打ち際まで歩を進めた。前夜のひどい風のためか、日頃はあまり見かけない木の丸太や竹が数本流れ着いていた。幸はふと思った。

 ―どこから流れてきたのかしら。茶杓になるような竹があるかもしれん。折角こうして目にとまったのだから、これを何とか茶杓に削ってみてみよう。このままうち捨てられるのではなく、もう一度生かすことができたらいい」

 こう思って幸は打ち上げられている数本の竹の中から、茶杓に出来そうなのを選んで持ち帰った。こうして彼女は夜なべ仕事に、茶杓の作成に取り組むようになった。
その後幸は宇部市の正道のもとに身を寄せることになるが、正道は母が来てからは、母の茶杓作りを手伝う事が、自分に出来る何よりの孝行だと思い、それに専念した。彼は母の死後も作り続け奈良の薬師寺に納めた。茶杓の作り方について、正道は次のように言っている。

 「茶杓用の竹は男竹の煤(すす)竹(だけ)が一番良いが、百年くらいのはまだ色が良くない。三百年くらい経つと茶褐色になってもっとも良い。しかしそのような竹は完全に乾燥しているので、茶を掬えるように曲げるには、その部分を少し削って薄くして、薬缶(やかん)に水を張って入れ、しばらく沸騰して熱と水分を含ませ、アルコールランプで焙(あぶ)った後で曲げ、その後直ぐ冷水の中に浸けて固定し、元に戻らないように紐で括っておく。是が茶杓作りでは肝腎な事だ。今煤竹の他に高知県でしか取れない虎斑(とらふ)竹(だけ)という竹が手に入ったので、これも使っている。」
 「この他に茶杓では、竹の節(ふし)が何処にあるかによって、真、草、行と区別される。普通の茶杓では節が半ばにあり、草の茶杓と呼ばれている。その節のところでバランスがとれるようになっておる。その節は茶杓の根元から数えて畳の目で七つ、節から曲げるところまでが四ツ半、曲げた先の部分の長さは一つ半で、節から先まで樋(ひ)が通っておる。その他作り方には多くの約束事が有るが、お茶の各流派で微妙な違いがあるので、たかが茶杓と言ってもなかなか馬鹿にならん。茶杓に使える部分は少ないので、使用できない部分を利用して、楊枝やペーパーナイフなどを作っておる。」 

 「最後に竹細工には良い刃物を以てするに限る。茶杓のお礼にと頂いた切り出しは十本に達したが、使った後必ず砥石で十分に研ぐことにしている。」

 

 高村光太郎の『智恵子抄』に「鯰」と題した詩がある。その最後にある「瀏」という言葉が実に良い。音読みは「りゅう」であるが、「瀏」には「きよい」「あきらか」の他に「切れ味がよく、さえている」の意味がある。さすがに詩人は言葉に対する感覚が鋭い。

 智恵子は寝た。

 私は彫りかけの鯰を傍へ押しやり、
 研水を新しくして
 更に鋭い明日の小刀を瀏瀏と研ぐ

 

 光太郎が彫った「鯰」は名作である。鋭利な小刀で彫ったこの魚は本当に生きているように見える。彼は何か事があって逃げ出さなければならない時、父光雲から譲り受けた砥石だけは肌身離さず持って行く、と何かに書いていたが、正道も良質の砥石を手に入れ、一仕事終わる毎に明日に備えて小刀を絶えず研いでいた。

 

 

(三)

 奈良薬師寺高田好胤管主が、昭和五十六年(一九八一)『婦人画報』の九月号に「一本の茶杓が生む人の和」と題して、幸が管主に宛てた手紙の全文を載せ、併せて解説をほどこしている。

 〔前略〕「昭和四十八年九月でした、一箱の荷物が届き、一通の手紙が添えられていました。差出人は緒方幸という未知のお方でした。手紙の文字から察するに枯淡、端正な雰囲気を漂わせた教養豊かな婦人であろう事が容易に想像できました。ここでまず皆さんにその手紙の全文をご紹介したいと思います。
 合掌 そして行を変えて、私は、を一番下にした体裁で始まるお手紙でした。

 

 合掌

私は

山陰本線宇田郷人口僅か千数百人の農漁村に一人暮しをして居ります 七十八歳の老婆でございます。尊書『心・道・愛に始まる・情』を読ませていただき宇部市民館で身にしむお話を拝聴いたしました。お帰りの御車にお乗り遊ばされましたが、動き出しませんので、又下りて大きなきなお袖を翻し乍ら、車の後押しを遊ばすお姿に思わず合掌致しました。
  硫黄島で戦死しました長男の為に写経を一枚なし、次に亡夫の為にと用紙をお送りいただいて居りましたが、ふと思ひ付きました。かねて海辺や川端で拾ひ、又近所の方が山から持ち帰られた薪の中からいただいた古竹で下手乍らこの様に削って、その道の方に差し上げ喜んでいただいて居ります。これを百本削ってお送り申し上げます。貴僧様のお筆で般若心経の文字を茶杓名に無・空・色即是空とでもおしたため遊ばされ、その道のお方に御布施遊ばされましたら、貴僧様の金堂復興のお大願を知らない人が沢山々々居られる、一人でも多くの方にと発心致しました。    
〔中略〕
 亡夫命日九月十四日

      緒方 幸
 高田好胤
     足下

 

 「お茶杓に添えられたこのお手紙により、緒方さんと私は深いご縁を頂き心 温まるお付き合いを今に頂いております。なお、別に一本、私が頂いたお茶杓の筒にも緒方さんのお作)に「心」の文字と「茶を抄(すく)ふ 佛となれや 枯(かれ)小笹(おざさ) 梅楽庵 宗幸」としたためられてありました」

 

 好胤師の文章はさらに、「ものの命を生かす心」と小題して続いている。

 「昭和四十八年当時はまだ経済成長が続いていて、ものを使い捨てるのが当たり前の如き時代でした。このままでは近い将来、日本は本当にもので栄えて心でほろびてしまう、何とか人の心の中に、そして日々の生活の中に、おかげさま、有難い、勿体ないといった謙虚な感謝と喜びの心を取り戻さなければと、私も及ばずながらそういう願いをこめて、機会あるごとに話していた、そんな時期でした。」
 「残念乍ら今もこの使い捨ての後生(ごしょう)の恐ろしさは変わっていませんが、それだけに捨てられた古竹を拾ってきて、茶杓として新しい生命と価値を与え、役立たせてあげる緒方さんの温かい心づかいに心底感動致しました」

 

 当時テレビに出演中の管主は、幸の願いどおり茶筒に銘を書き入れ、「それを視聴者に貰ってもらうことにした。一本二千円も出してくれる人があるかと不安だったが、五十本のお茶杓に対し、一万人を超える希望者がありました。驚きでした」と述べている。さらに続けて、

 「大変喜ばれた緒方さんは、その後もお茶杓を削っては送って下さり、私もそれぞれに銘をつけ、これはと思う心ある方々に貰って頂いております。送って頂いたお茶杓の数はもう七百本をこえているのではないでしょうか。お茶杓を受けた方々からのお礼状が緒方さんのもとへ何百通と沢山届いているそうです。それに対して緒方さんはいちいちご返事を出しておられるようで、今ではこうした手紙のやりとりを通して温かい交流の輪が広がっているとの事、喜ばしい限りです」

 

 幸はこうして一人居の寂しさを、茶杓作りという手遊(てすさび)で紛らわすつもりが思わぬ結果となり、お蔭で毎日を充実して過ごすことが出来有難く思うのであった。
女学校を卒業した翌年の大正四年(一九一五)、二十歳の時上京して、小堀遠州流の宗家で茶道の稽古をさせてくれたのは、偏(ひとえ)に父友一郎の意思による。幸は今此の事を思うにつけても、父につくづく感謝するのであった。何しろ当時女性が萩から旅に出るといった事だけでも、非常に珍しい事であったから。

 ―明治維新後の世の中の流れを見てきた父は、世が変わっても子どもに残せ る財産は教育であると確信し、当時としては最高の教育を受けさせてくれた。女の身でありながら、遠く東京や京都にまでお茶やお花を習いに行かせてもらって、今から考えると本当に有難い。あのとき小堀宗忠様からお茶杓の作り方の秘伝を教わったことが此の度の薬師寺様への寄進につながったのだ。

 

              
               

(四)

 幸は暇さえあれば台所の板の間に茣蓙(ござ)を敷いて、昼も夜もせっせと手を動かした。しかし神経を集中しての細かい手作業が主な原因か、目を酷使していたのである。昭和五十年、八十歳のとき白内障を発症した。

 

 昭和五十二年九月十二日、突然失明したので直ぐ迎えに来るようにとの電話で、正道はその日は止むを得ず休診にして幡典と一緒に宇田郷へ行き、母を宇部へ連れて来た。眼科医に診てもらうと、「以前より両眼に白内障があり、多少よく見える側に眼底出血を併発している。八十二歳の高齢では手術は無理だろう。眼底出血で眼圧が上昇し頭痛と吐気があるので利尿剤を服用して床に就くように」との指示であった。

 

 その後眼圧が低下したのか、頭痛、吐気が消失したが、テレビも新聞も読まずに床に入ったまま何もしないでいた。このような状態でいたら世間の情報が全く入らず認知症になる恐れがあると心配した妻の俊子は、幸の好みの本を買ってきて、家事が終わった深夜それをテープに吹き込み、毎晩一時間ばかりそれを聞かせた。しかしこれは俊子にとってかなりの負担となった。

 

 正道は妻が過労で倒れでもしたら、診療もままならなくなる。何とか母の認知症予防の打開策を見つけなければならない。こう考えていた時、市の福祉事務所長に、失明者の認知症予防には、指の運動が一番良い事を教えられた。そこで彼は、失明した母には茶杓削りしかないと判断し、手伝うから再開するようにと強く勧めた。すると幸は正道に、「素人に何が出来るか」と言って、息子の申し出をにべもなくはねつけた。

 「何度失敗しても納得してもらえるまで作ってみます」と、彼は強い意志を示した。
 「そうは言うても、何時どうして手伝うのか」幸は正道が公私ともに忙しくしているのを知っているので、まだそれほど乗り気ではない。
 「診療時間以外の時間を使います」彼はあくまでも母の認知症予防には、茶 杓削り以外にはないと自分の意思を通した。

 こうした親子のやりとりの後、幸は終にその気になった。

 「中断は絶対にしない。毎日一本仕上げることを目標とする。そして三月十 七日の兄芳一の祥月命日と、九月十四日の父惟芳の祥月命日に、それぞれ一〇八本の茶杓を奈良薬師寺の高田管主の元へ納める」

 

 正道は母とこのように取り決めて、これを実行に移したのである。それから毎日、夕飯後母の居間へ入り,母と共に製作に専念した。彼はまず、幸から茶杓作りの基本的な事を教えてもらった。早速母が作った茶杓を手本にして削って見たものの、最初のうちは中々思うように出来なかった。幸は目が見えなくても長年削ってきたので手で触ってみただけで、正道が作った茶杓の善し悪しが直ぐ分る。彼は母が納得するまで一生懸命に試作を重ねた。

 

 およそ一カ月も経ったころ、母の意に沿えるようものが何とか出来た。それは幸が作ったものよりほんの僅か太目であった。幸はその八分通りできた作品に手触りしながら、小刀の刃を当てて自分で納得するまで少しずつ修正し、最後にペーパーで仕上げるようにした。これまでとは違い、茶杓作りの仕上げの作業だけであるが、息子の手助けのお蔭で幸はまた茶杓作りに精を出すようになった。

 

 昭和五十四年三月、手術可能とのことで、幸は白内障の手術を受け開眼した。このとき八十五歳であった。これは本人はもとより正道夫妻にとって非常に嬉しく、また有難い事であった。そのような時ふと頭に浮かんだ句を幸は色紙や短冊に書き留めた。高田好胤管主への手紙に添えた句、「茶を抄ふ 佛となれや 枯小笹」の他に次のようなのがある。

 一期一会 無限を語る 釜の音
 茶のかほり 心の佛花 語り合ひ
 奈良の秋 佛と共に 茶をすす里
 あこがれの 金堂目にしむ 秋の空
 一切を 佛にまかせて 茶をすす里

 

 

(五)

 先に述べた『婦人画報』の記事の最後に薬師寺管主は次のように書いている。

 「緒方さんは萩の回船問屋の娘さんで、ご主人緒方惟芳氏は萩の士族出身の『医は仁なり』そのもののお方であったとか、人格を慕って土地の人々で建てられた宇田郷のお宅は、今でも亡きご主人への尊敬の気持ちで大事におまもりになっています。この日本海に面した旧宅へ一晩お邪魔したことがあります。宇部のお住居へも伺いましたが、あくまでもお年を召された緒方さん中心の、明るく温かい、そして思いやりの心に満ち溢れた、そういうご日常がありありと伺える、えも言われぬ柔らかいほのぼのとした雰囲気のご家族でした。」
 「宇部のお宅へお伺いした時、加藤三之輔氏もご一緒でした。加藤さんも緒方さんからお茶杓を貰われたお一人です。この加藤さんの楽しみは心許せる友らと酒酌み交しつつ自作の『一献歌』を吟ずる事であります。」

 魂合う友ら相集い 心をつくすひとときは
 一期一会とかしこみて 君盃をあげ給え
 いざわが友よ まづ一献

 男の酒のうれしさは 忽ち通う意気と熱
 人生山河険しくも 君盃をあげ給え
 いざわが友よ まず一献

 「驚いたことに緒方さんが加藤さんへの歓迎の意をこめて、この『一献歌』を歌われたのです。どなたからか教わっておられたそうですが、さすが回船問屋のお生まれ、大和撫子のたしなみの深さがその低いお声にしのばれました。本当にだれに対しても実の母のような慈愛を感じさせてくださる緒方さんに、美(うま)し国日本の婦人道の典型を見る思いがするのです」

 

 これはいささか過褒の言辞のように思えるが、拙稿にも書いた広島県福山市に住んで居られた渡辺福代さんから私が貰った手紙がある。

 「緒方奥様は私たち女性のお手本とも申す方で御座いました。奥様からのお 手紙は全部大切に保管して居りますので、御参考になりますればと同封致しました」とあり、幸の彼女宛ての手紙が数通同封してあった。

 その中の一通を紹介してみよう。昭和五十七年九月一日の消印があるので、幸が米寿を迎えた年である。

 人生は心の持ち方一つで御座います。総てを善意に解釈し感謝して生きて行かなければ自分自身の損で御座います。
 御主人様ご逝去、実子のない貴女、お心はよくよくわかります。でもこれが持って生まれた因縁運命とあきらめ、これからを美しく力強く生きて行かれますようお祈りいたします。お有難う御座いました。 お父様によろしく お大事に お大事に お大事に
福代様  緒方母より

 

 幸はその後も可能な限り茶杓作りを続けたが、昭和六十三年七月二十九日、突然脈が半分になって気分が悪くなった。内科医は「心臓の房室ブロック」と診断した。それからは無理が出来ず床に伏す身となった。平成六年一月一時呼吸困難になり直ちに入院した。その後病状が軽快したので、自宅で同年三月二十日、百歳の祝いを兼ねて夫と長男の五十回忌を営み、幸はこれで安心したと言った。

 

 なお、幸が薬師寺に納めた茶杓は四千本以上に達した。また彼女のもとへ全国四十六都道府県もれなく、さらに外国在住邦人を含めて、一八一四人の方々から、延べにして五六三九通もの礼状が届いた。

 

 平成七年四月四日、幸は再入院し、同年七月四日、呼吸不全と老衰で終に不帰の人となった。息を引き取る前、入院先の尾中病院の理事長の尾中福恵さんから、満百歳の祝いとして次の短冊を頂いた。

 百段を のぼりて楽し 花の山
 百歳の 自作の茶杓 あたたかし

 

 老いた父の労苦を思い、東京での職を辞して帰郷した長男の芳一は、その後すぐに結婚した。その四カ月後に招集され、若くして戦場の華と散った。惟芳の一生は老後の安らぎのない、「生の苦しさから一足飛びに死の息(いこい)」へであった。しかし彼は「医は仁」の精神で村の医療に一生を捧げたのである。今一度、その一生を振り返って見ると、明治三十四年、萩中学校を卒業目前にして中途退学し、長崎の三菱造船所で働き、丁年になって日露戦争に従軍、騎兵として活躍せんとした時、多くの陸軍の軍人が罹ったのと同じ脚気になった。やむを得ず看護兵として従軍し、満州の広野で戦い、また看護にあたった。無事帰還出来たのは幸運以上、何者かの加護による。戦が終わり彼が選んだ道は人助けの道であった。戦線であまたの兵士の死を見、多くの負傷者の苦しみに接した者として、彼は医者を志したのである。広島陸軍病院で勤務の傍ら猛勉強の末医師の資格を得た。その後の生涯は一見平凡である。しかし波乱に富んだ生活より平凡に生きる方が、もっと強い意志を要することがある。惟芳は己が信ずる道をひたすら進んだ。それがたとえ僻陬の村医者としての道であっても、「医は仁」たるの道に変わりはない。彼は「杏林」つまり医者としての一筋の「坂道」を登り続けた。しかしその途上で斃れたのである。だが、考えて見れば、自ら「以て瞑すべし」と思ったのではなかろうか。


 一方妻の幸は長年の生の労苦の後、安らかな晩年を迎え、終に死の境に息うこと出来た。これは皆、渡辺福代さんへの手紙で言っているように、「持って生まれた因縁運命」だったのかも知れない。

 

 最後に『荘子』の言葉を以て拙稿の結びとする。

 「夫(そ)れ大塊は、我を載(の)するに形を以てし、我を勞(くる)しむるに生を以てし、我を佚(やす)んずるに老を以てし、我を息(いこ)わしむるに死を以てす。故に吾が生を善しとするものは、乃(すなわ)ち吾が死を善しとする所以(ゆえん)なり〔注2〕

【完】

 

 

 

 

 

 

 

 

                           


〔注1〕
 女性の教育勅語のようなこの文章は明治・大正期の優れた教育者、柳沢政太郎のものである。明治四十五年に幸は阿武郡立実科高等女学校三年生であった。毎週月曜日の第一時限修身の時間に、時の初代校長米原鶴太は全校生徒に対して講話を行った。その前に彼女たちはこの文章を斉唱した。僅か百年ばかりの昔であるが隔世の感がある。難解な言葉や、現在使用するのにふさわしくない語句もあるが、参考までにそのまま掲載する。

 「正しきことを愛し、邪(よこしま)なることを悪(にく)み、善を好み悪を忌み、柔和なれども内に守る所堅く、愛嬌あれども巧佞(こうねい)ならず、驕慢に流れず卑屈に陥らずして謙遜の徳を具へ、才芸に富めども之を気色に顕さず、容姿美しけれども卑俗ならず、天性の美容なけれども高雅に見え、富貴なれども奢ることなく、窮することありとも乱に及ばず、よく勉めよく励み、人事を尽くして天命に安んずるは理想の淑女なり。
己を持すること恭倹にして、浮華に流れず、文と質と兼ね備はり、理と情と相調(ととの)ひ、常識は健全に、趣味は高尚に、言葉を擇(えら)びて静かに語り、礼儀を守りて淑(しとや)かに行ふ、その心情は高潔にして、些(ちっと)の陋劣なく、その人に交るや誠実にして、聊(いささ)かの虚偽なく、己を責むること厳なれども、人に対しては寛に、疑を去り、怒りを忍び、人を猜(そね)まず、又人を誹(そし)らず。忠恕(ちゅうじょ)の心は内に充ちて、親切の行となり、快活の気は溢れて嫻(かん)雅(が)の姿となる。婉々たる其の容(すがた)愛すべく、優々たるその態親しむべく、しかも凛として狎れ難く犯し難き所あるは、理想の淑女ならずや。
 その父母に事(つか)ふるや孝順に、兄姉を敬ひ、弟妹を愛し、学を勉めて芸を励む、既に嫁してはよく婦道を守りて家事を斉(ととの)へ、貞淑の徳は高くして慈愛の情深く、舅(きゅう)姑(こ)には親愛せられ、良人には敬愛せられ、子女には愛慕せられ、婢僕には心服せらる。忠実勤勉にして事に規律あり、物に秩序あり、入るを量(はか)りて、出づるを制し、私事に約にして、公事に吝まず、祖先を重んじて、子女の薫陶に心を用ひ、直接には団欒の楽しみを全うして、間接には社会を風化す。これ理想の淑女なり。

 

〔注2〕著者の福永光司氏は次のように解説している。
 「一体自己が人間という形を具えて地上に生まれ出て、生き難き人生を苦しみ喘ぎ、老いの日を迎えて漸く佚(やす)らぎを見出し、死の訪れによって始めて自己を永劫の憩いに解放するのは、大塊即ち天地自然の理法であるから、人はただこの自己の意志と努力を超えた絶対必然の理法に随順してゆくほかはないのである」 (『荘子』中国古典選 朝日新聞社

 

 

 

~あとがき~

 江戸時代後期に大綱和尚という僧がいた。京都大徳寺塔頭に住し、歌をよくし、書画にすぐれ、千家の宗匠達と親交があったとある。この僧に次の歌がある。

 引く人も引かるる人も水の泡の いのちなりけり淀の川舟

 

 この歌を読むと、私は『方丈記』冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」を思い出す。この名文も先にあげた歌も、人生無常の儚さを詠ったものであろう。この歌にはまた、この世で名を成した人も、そうでなく無名のままで死んだ人も、結局は同じ運命を辿るという思想が詠み込まれていると思う。

 

 だが、うたかたの如き儚い一生であっても、仔細に眺めるならば、そこには喜びや悲しみ、また多くの苦しみや悩みがあったはずである。私がここに描いたのは、明治時代に生を享け、日露戦争への従軍を経て昭和二十年の終戦の年まで、寒村の医療に生涯を捧げた一介の医師、緒方惟(ただ)芳(よし)を中心とした物語である。

 

 ようやくこの拙文を脱稿した今つくづく思う。人生は偶然に支配されるとよく言われるが、案外目には見えない必然の糸に操られているのかもしれない、と。

 

 平成十年九月、私は生まれ故郷の萩市を後にして山口市に居を移した。三年後には古稀を迎える歳であった。ある日のこと、退職後をどの様にして過ごしたものかと思いつつ、市内にある朝田古墳の丘陵を登りかけた時、弓道場で稽古をしている人たちの姿が目に入った。私は以前オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』を読んでいて、弓道に多少ながら関心があったので、その年「弓道教室」に入門させてもらった。

 

 指導を受け、稽古を続けるうちに、武芸の道がいかに深遠なものかということが朧気に分かってきた。そして自分にはとても到り得ない道だという事を知った。しかし弓道そのものには強い共感を覚えた。漱石が東大大学院時代に熱心に弓を引いていたことに気づいたのも、私自身が弓道に興味を持ち始めたからであろう。これについては、同人誌『風響樹』に「漱石と弓」と題して小文を載せてもらい、その後間もなく岩波書店の『図書』も取り上げてくれた。これが機縁で同人誌の集まりの末席を汚すようになった。こうなると弓を引くことより書くことに時間をとられ、結局稽古を止めることになった。

 

 およそ文章を書いたことのない私にとって、同人誌への寄稿は正直気が重かった。しかし弓道の稽古を止めた上に文章も書かないというのでは、省みて忸怩たるものがあり、せめて拙い文だけでも綴ろうと心に決めたのである。問題は何を書くかである。そのときふと思い当たったのが、子供心にも、医者として立派な生涯を送ったとかねてより思っていた伯父のことである。

 

 こうして実際に書き始めたものの、今にして思えば、私はわずか一張の弓を浮木として、目に見えない対岸を目指して大河に飛び込んだ様なものであった。「第一章 出郷」を、主人公惟芳が萩中学校で弓道の稽古をする、といったフィクショを一部織り交ぜながら書き出したのもこのためである。

 

 思えば無謀な飛び込みであった。しかしここに偶然というか、不思議ともいえる多くの出会いがあった。山口市に転居した翌年、大学時代の友人の紹介で、私は馬場栄一氏の知遇を得た。馬場氏はかつて三菱長崎造船所に勤務しておられた。馬場氏に連れられて私は長崎市内と造船所を見学することができたのであるが、その折りに、「三菱長崎造船所史料館」の館長松本孝氏まで紹介して頂いた。これはまさに天恵であった。実はその時松本館長は八十歳近くのご高齢であったが、退職されるまでの短期間に、多くの資料を数度にわたり送って下さった。惟芳は明治三十四年、五年生になったばかりのときに、萩中学校を自ら中退してこの造船所に勤めたのであるが、この訪問によって私は惟芳を一層身近に感ずることが出来た。それまで造船や造船所について何一つ知らず、長崎を訪れたことさえなかった私にとって、馬場氏の導きは本当に有難かった。

 

 その後私は一人で長崎へ二度ばかり行き、当時の長崎の事など少しばかり調べてみた。しかし松本館長から頂いた資料がなければ当時の事は決して書けなかったであろう。これまた比喩をもって言えば、私は大河を泳ぎ渡る途中、弓に代ってより大きな流木に我が身を託すことが出来たのである。

 

 最初に長崎を訪れた帰りに、佐世保市にお住まいの佐々木雄爾先生にお会いした。それまで先生とは未見の間柄であった。以前、山口県立図書館でたまたま先生の御著書『森鷗外 永遠の希求』を拝読する機会を得、その素晴らしい内容に感動したので、お手紙を差し上げていた。こうしたこともあって折角の機会だから、一寸遠回りして先生にお目にかかろうと思ったのである。その後先生には亡くなられるまで拙稿に目を通して頂き、また助言と励ましの言葉を賜わった。これもまた、偶然とはいえ有難いことであった。

 

 日露戦争従軍の記述に入った時、従兄の緒方正道が、「親父の日露戦争従軍日記と写真、また広島陸軍病院時代の日記がある」といって、それらを提供してくれた。これは全く思いもかけなかった貴重な資料で、私は一段と大きくて安全な流木に身を寄せる事が出来た。 

 

 主人公が医者になった後については、九十歳を過ぎた今でも驚くほど元気にしておられる当時の看護婦であった渡辺福代さん、そして先年亡くなられたが同じく看護婦であった西村フユさん、さらに阿武町長であった中山修氏にご生前中お会いしてお話しをお聞きして、筆を進めることが出来た。しかし何と言っても一番有難かったのは、正道、幡典、武人の三人の従兄達から直接父親との実体験を詳しく書いてもらい、また色々と聴くことが出来た事である。芳一の硫黄島からの手紙と奇跡的に見つかった遺品も、伯母の幸が丁寧に保存しておいてくれたので利用することが出来た。また幸の茶杓の話を最後に付け加えることが出来たのも本当に良かったと思っている。いってみれば私は、図らずも目にする事が出来た得難い資料などを、ただ適当に並べ直しただけなのである。

 

 こうして当初対岸の見えなかった大きな河を無事に渡り切ることが出来た。これまで長きにわたり『風響樹』に連載した拙文を読み、何かと助言や資料を提供して下さった方々や、励ましの言葉をかけて下さった方々、また長崎の方言や旧満州、宇田郷村の地図の作成などでご援助いただいた皆様にも、心から感謝申し上げます。

 

 『風響樹』に連載中特に御世話になった編集長の大野光生氏、並びにマルニ印刷の藤村幸弘氏には大変お世話になりました。また表紙の素晴らしいカラー写真を撮ってくれた萩高校の同級生碓井敏夫君にも心から御礼申し上げます。                                               

 

 最後に一言。偶然とも言える動機で連載し始めた時は、後先を考えない全く無謀、暗中模索の行為だと自分でも思っていたが、書き続けるうちに徐々に明かりが見えてくるような気がした。それは、それまで全く存じ上げなかった方々にご援助いただき、また親しくお付き合いまで出来るようになったからである。これは必然の結果だとは申せないが、不思議な御縁だと思い、ここに改めて御礼申し上げる次第である。                 
平成二十四年 晩秋

 

 以上のようにして私は「私家版」として四百部だけ出版して主に友人や知人に配布した。その後読んでみたいという方があっったが、萩や山口の図書館で見て頂くほかはなかった。  

 

 昨年の暮れに次男がネットやスマホで、だれでも読めるようにしてみようかと言うので、出来たらそうしてみてくれと言って、私は前に書いた文章を読み直し、また多少加筆する作業を始めた。今年正月から一章づつネットで見られるようになった。そして二月に入って作業はやっと終わった。


 長いばかりの拙い文章であるが、ここに書いたような生き方をした人達が実際にいた。彼等は名もない人達であるが、生き方としては立派だと言える。読んで頂き何らかの共感を覚えて貰えたら、私として望外の喜びである。

 

 なお、東亜大学の礒永和貴氏が『陸軍看護兵「緒方惟芳」の日露戦争』と云った論文を書いて居られるから、興味のある方はネットで御覧戴きたい。       

 

 平成三十一年 立春 
 山本孝夫 記す