yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 第十一章「惟芳と息子たち」

(一)

 宇田郷村には川と呼べるものが二つある。その一つ宇田川は村の長い海岸線の中央あたりに位置し、海岸線に対してほぼ直角に流れている。この海岸線に沿った県道と、川の左岸の小道だけはやや平坦である。小道は上流に向かって一キロばかりのびている。したがって地形の上で、この大きい丁字形の道筋だけは勾配が緩やかなので、惟芳は自転車を十分に利用できた。しかし山間部に点在する部落へ行くには自転車は役に立たない。

 

 もう一つの川は宇田川から約三キロ北へ行ったところの惣郷という部落を流れている。そもそも宇田郷という名称は、宇田と惣郷の郷からできたものである。この川の水源は近くの白須山にあるためか、白須川と呼ばれている。その右側に沿って小道がある。こちらも一キロ行くと山道に入り、さらに一キロ登ると大刈(おおがり)という最後の部落に達する。いずれにしても急坂にさしかかれば、惟芳は自転車を乗り捨てて、そこから歩いて往診しなければならなかった。

 

 山道を上下した時いかに難儀な目にあったかを、緒方医院の看護婦だった渡辺福代(とみよ)さんや西村フユさんが話してくれたことはすでに書いた。惟芳がかりに自家用車を持っていても、そのころの道路事情は今とは違って格段に悪かったので、県道を除く道への乗り入れはおそらく無理だったろう。
 
 昭和四年になって、惟芳はついに意を決し、当時田舎にあっては誰一人見たこともないオートバイを購入して、往診に利用することにした。日露戦争中、カメラを手に入れて、数多くの写真を撮った彼には、新奇で便利なものに興味を抱く性質があった。たしかにオートバイは一般にはほとんど普及しておらず、それを扱う業者は近いところで広島市にしかいなかった。惟芳はオートバイの乗用を昭和十三年ころまで続けた。
 
  前章ですでに述べたように、幸との間に三人の男の子が次々に生まれた。一番年下の武人(たけと)は二人の兄より元気が良かった。長兄の正道は小児麻痺のために左足が不自由である。次兄の幡(はた)典(のり)は戸外で遊びまわるよりは、むしろ室内でおとなしく本を読むことを好んだ。私事になるが、筆者は小学生のとき春・夏の長期の休みになると、萩から宇田郷へ行き、従兄たちと遊ぶのを何よりの楽しみとした。その際、年齢が一番近い武人が一番の遊び相手になってくれた。
山や海や川は子供たちの格好の遊び場である。塾だの習い事など一切無い。食事や家の手伝いで止むを得ず家に居る時を除けば、村の子供たちは自然を相手に朝から晩まで心行くまで時を過ごした。武人も同様に自然を相手に遊ぶのが大好きであった。

「川の石には苔が付いていて裸足で歩いたら滑るから、草履(ぞうり)をはいたままで入ったほうがええ。エビは後ろへツッと動くから、このソウケ(注:竹で編んだザル)をこうやってエビの後ろに向けておいて掬い取るんで。えーかね。僕があの石を静かに起こしてみるから、エビが動いたらすぐにソウケを持って行かんといけんで。えーかね」
 
 武人は川の中に生えている葦を避けながら、抜き足差し足でエビが隠れていると睨んだ石に近づいた。かなり大きな石である。その片側を静かに持ち上げると、それまで安全圏にいた数匹のエビは虚を突かれて、一斉に後方へさっと身をひるがえして逃げた。

 「そらみんさい。逃げたろうが。エビはすばしこいからなかなか捕まらんで。よーし、今度は僕がやってみよう。あそこの石の下にはおるかも知れんで。今度は交代しよう。あそこの石をゆっくりもち上げてみんさい。えーかね」

 こうして私たちは川の流れの中にあって、時の経つのも忘れて、エビの捕獲に興じたのである。
 

 武人は川より海の方で一層活発であった。波止の先端までやってくると彼は家で用意してきた蠅を防ぐ網を拡げた。今は蠅の姿をほとんど見かけないが、昔はどこの家でも五月蠅(うるさ)いほど飛び回っていた。「うるさい」を「五月蠅い」の字を宛てているのでも想像がつく。飯台の上の食べ物をハエから防ぐために、食事の前後にはいつもこの網を拡げて被せていた。

 

 武人は古くなってもう使えなくなった網を拡げて逆さにし、四隅に長さ三十センチばかりの紐をくくりつけ、その四本の紐を一か所で結んだ。さらにその結び目に長い一本の紐を取り付けた。こうして魚を掬い取る仕掛けを家でまず用意したのである。この小型の四手網の中へ、サザエを割って小さくちぎったものや、ガゼ(注:黒くて鋭いトゲのある雲丹)を割ったものを餌として入れ、さらに錘にと浜辺で拾ってきた手頃な小石を加えて、網をゆっくりと沈めると小魚たちがすぐ集まり、網の中の餌をつつき始める様子が波止の上からでも覗われるのであった。

 

 今思うと、アユに似ていて、緑色と薄赤い色の横縞が入った「ノメリコ」という小魚が一番多かった。問題は小魚たちが少しでも多く網の中に入っているのを見定めて、網を引き上げなければならないことである。網が引き上げられていくのを魚に気取られないようにゆっくり操作しなければ、魚は瞬時にして身を翻して逃げていく。武人はこういった事細かな事にかけて、私には到底及ばない知識と技を持っていた。

 「僕が下りて行って魚が網の中に入ったのを見たら合図をするから、ゆっくり網を引き揚げるのでね。えーかね」
 私は波止の上で網に取り付けた長い紐を持っていた。彼はこう言うや否や、草履を脱ぐと、まるで猿が岩場を降りるようにすばやく波止の石組を降りて海面にまで行った。そこで岩に生えた海藻をちぎって水中眼鏡を洗って頭にかけ、半ば体を海水に沈めて顔を水中に漬け魚たちの動きを注視した。

 

 彼はまた素潜りにかけてもなかなかの名人で、波止のすぐ沖合の海中に潜っては大きなサザエやアワビをよく捕っていた。当時はそのような場所においても大物が生息していて捕獲も可能であった。

 

 緒方家では夏になると時々、この波止へ出かけて行って、家族一同、看護婦たちも一緒に、そこにある大きな平たい岩の上で、夕涼みを兼ねて夕飯を楽しんだものである。親戚の泊り客などがあると、客をもてなす意味で、わざわざそうした食事をした。その際、子供たちもそれぞれに各自分担して、茶碗や箸などは勿論、飯櫃や鍋などを、台所から渚を通ってこの岩まで行き来して運んだ。

 

 食事が終わったときである。武人はパンツ一枚の裸になって海に潜り、サザエやアワビなどを取ってきては、その場で割って中身を海水で洗って皆に提供した。彼は満面笑みを浮かべてはまた海中に姿を没した。

 

 こうした子供時代の遊びが後年思わぬところで役立った。武人は萩中学校を卒業後、官立宇部高等専門学校(現山口大学工学部)に入学し、昭和二十六年に同校を卒業した。その年彼は国家公務員試験に合格した。建設省の本庁に入省しないかという話があったが、当時は朝鮮戦争の真最中で、最高指揮官のマッカーサーがこの戦いを止めさせるために、トルーマン大統領に原爆の使用を進言し、そのために突如司令官の職を解雇された時代である。  

 

 当時我が国は米軍の補給基地であり、東京はいつ爆撃を受けても不思議ではない時期だったので、武人は地方の建設省事務所勤めを希望した。希望がかなって最初、徳島県吉野川工事事務所に勤務し、数年後今度は、島根県建設省斐伊川(ひいがわ)工事事務所に転勤した。

 

 「出雲市の東を流れて宍道湖に注ぐ斐伊川一級河川ではあるが典型的な天井川で、宍道湖周辺では洪水が多発し、そのために江戸から平成にかけて様々な対策が行われてきているが、いまだに洪水の被害から解消されていないとう厄介な河川である」と、上記事務所は公表している。

 

 この川はスサノオノミコトが八(や)岐(またの)大蛇(おろち)を退治したという伝説で有名な川である。この伝説は、この川が本来暴れ川で、雨期になるとしばしば氾濫したので、ミコトがこの川の治水に力を尽くしたこと、また昔からこの水域で良質の砂鉄(さてつ)が採れていたことが、この伝説になったのではないか、という古老の話を、武人が伝え聞いて語ってくれたことがある。

 

 さて、武人が建設省斐伊川工事事務所に転勤して早々、上記の理由で、事務所が何度架橋しても、失敗して困っていた場所があった。

 「私が潜って見てみましょう。原因が分かるかも知れません」

武人はこういって事務所長の承諾を得ると、原因究明のために水に潜って見た。すると、架橋予定地の上流に大きな花崗岩があり、その岩の下部が大きく抉(えぐ)られていて、大きな渦が発生し、そのために橋脚をしっかりと支えておることが不可能だと分かった。

 「あの大岩を破砕して水の流れを真っ直ぐにすべきだと思います」

彼はこのように進言した。ところで水中に潜った際、武人は渦に巻き込まれ溺れそうになった。海水と異なり川水には浮力がなく、さすがの彼もやっとの思いで脱出できた。危険を冒しての調査結果を所長に報告すると、事務所では武人の意見を取り入れて架橋の計画を変更して橋はようやく完成した。武人はほどなく係長に昇進した。そのとき「モグリ係長」と言われたと、苦笑しながら話していた。現代なら専門の潜水夫を入れて調査するであろうが、当時はそうしたことをまだしてはいなかった。
 武人が出雲から私にくれた葉書(消印 昭和31年6月13日)が手元にある。

 「三月始より、今まで色々と斐伊川について調査して来た事を全部まとめて改修計画の立て直しにかからねばならなくなり、以後残業、残業です。後一カ月程すれば大体の骨組は出来上がり、後は少しゆっくりさせてもらはなくてはと思って居りますが、どうなる事か分かりません。」


         

(二)

 さて、武人が小学生であった時分に話を戻そう。惟芳がオートバイを購入したのは昭和の初期、山陰本線の鉄道工事で村の人口が増加し、収入がかなりあったためでもある。アメリカ製の「インディアン」という赤い車体であった。武人は次のような思い出を書いている。

 

 父は若い頃往診にオートバイを使っていた。当時村には自動車はなかった。オートバイも父が使っているのが一台だけだった。そのような時代だから、村の道を自動車が通過するのは一日に一台か二台に過ぎなかった。したがって、父の乗っているオートバイの音は、遠くからも聞こえたので、村人は早くから道を開け、オートバイに乗っている父に頭を下げた。

 

 オートバイが故障すると、萩にも修理する人がいなかったので、広島の購入先に電話をかけるために、母は郵便局へ行った。当時はなかなか電話が通じないので、申し込んで一時間以上待つのは当たり前であった。母は忙しいので、私が郵便局で待っていて、電話が通じたら走って家まで帰り、母も走って郵便局へ行き、要件を話した。
郵便局までは百五十㍍ばかりある。なお、修理工は広島からわざわざ宇田郷まで泊まりがけで来た。車検に出すときも同様に、修理工が宇田郷へ来て点検し、それに乗って広島で車検を受け、また乗って戻ってきた。

 

 ある時、オートバイでの往診の途中、狭い道路で種牛とすれちがった。坂道にさしかかり加速したので、その音に牛は非常に驚いたのだろう。ちょうど発情期で気が高まっていた牛だったので、手綱を振り切ってオートバイを蹴った。バランスを失い、父は数メートル下の川に落ちた。幸い頭に被っていたヘルメットが凹んだだけで身体はどうもなかった。しかしこのような事故を二度と起こさないようにと、村人が心配しまた忠告したので、父はオートバイの乗車を断念した。

 

 オートバイに乗るのを止めることにした理由が他にもある。正道の言によれば、当時のオートバイは、エンジンを始動さすとき、ペダルを強く踏み込まなければいけないのだが、バネ仕掛けでペダルが跳ね返るので、余程の注意を要した。一度でエンジンがかかればよいが、頻繁な使用でプラグが消耗していたりすると、何回もペダルを踏まなければならない。

 

 ある時、急を要し気が焦っていたのか、惟芳はペダルを踏み損なって、アキレス腱を切断した。その時、萩市の玉木病院へ急いで行ったので、レントゲン写真を撮る際に、古い下着のままであったので、恥ずかしかったと妻の幸に語っている。惟芳は常日頃から、着る物にはあまり頓着しなかったが、その時ばかりは気になったのであろう。
オートバイに乗っていたために、このような事故で二度も入院したので、彼はやむなく乗物を替えることにした。支那事変が昭和十二年(1937)七月に始まり、続いて我が国は太平洋戦争へと突入したので、軍需必要物資のガソリンの入手も厳しくなった時でもある。

 

 そこで今度は輪タクに切り替えた。輪タクとは、幌を被せたリヤカーに人を乗せ、それを自転車に乗った者が運転するものである。幌にはセルロイド製の窓がついていた。また入り口をボタンでとめ雨風を避けるようになっていた。運転者は最初中島の鉄(てつ)兄(にー)という若い男性であった。しかし彼が応召したので近所の別の男性が受け継いだ。そして最後にこれも医院の近くに住んでいた柳井作男がしてくれた。作男はもうすぐ五十に手の届く年齢であったが、惟芳より四・五歳若くて元気な百姓であった。近所の者は「作(さく)兄(にー)」と呼んでいた。

 

 二度あることは三度あるというが、惟芳はまた輪禍に遭った。夏も終わり秋のはじめのある夜のことである。下弦の月が仄白く光って見えていたが、雲間に入るとあたりは急に暗くなった。波が絶え間なく打ち寄せては引いていく。ここの海岸は奇麗な丸い小石で埋め尽くされているので、波が引く時の「ザー」という音は夜の静寂によく響いた。この間断なき波音を除けば、人気(ひとけ)の全くない寂しい夜であった。時刻はすでに九時を過ぎていた。  

 

 惣郷への往診の帰り道である。宇田郷駅の前の大きな松の木が暗闇の中に暗い影を落として高く聳えていた。低い屋根の駅舎を過ぎた。それまで懐中電灯の明かりを頼りに海岸沿いの道を走っていたが、その灯が突然消えた。

 「先生、電池の灯が消えましたが、何遍も通った道でありますので、闇夜でもよう分かって居りますから大丈夫でございます。遅くなりましたから、急いで帰りましょう」
 「もうすぐトンネルだね。それを過ぎたら人家の灯も見えてこよう。それではあともう少しだ、ご苦労だが頼むよ」

 この日は夜分に入って急患の呼び出しがあったので、帰りの時間が遅くなったのである。このころ彼はすでに五十歳の半ばに達していたので、患者も心得て夜間の往診を頼むことはそんなに頻繁ではなかった。

 

 日頃通っている道でよく知っているとはいえ、夜道をこうして自転車を漕ぐのは作兄にとって、そう慣れたことではない。彼はせわしくペダルを踏み続けた。道はトンネルの手前で左にカーブしている。生憎海からは時々強い風が吹きつけた。作兄はそのカーブを曲がり切れずに断崖から自転車もろとも落下したのである。

 「ちょうど落ちた処に平らな岩があってよかった。それにしても運がよかったな。急に身体がスーッと落下するなと思っていたらドスンと衝撃を喰ったが、幌のおかげで助かった。これがなかったらひどい目に会ったかもしれん。お前は大丈夫か? 怪我はなかったか?」

 惟芳は肋骨を痛めたように思ったが、作兄の事が気がかりで訊ねた。

 「いいえ、別に大したことはありません。サドルで尻をガツンとひどく打ちましたが、歩くには差し支えはしませんから」
 「そうかね。その程度だけならよいが。それにしてもちょっと困ったな。暗闇であたりがよく見えないが、この崖をどうして上ろうか」
 「ここへはサザエや雲丹を取りによく来ております。ここには上り下りの道はついておりません。しかしいつもトンネルの外をぐるっと回って泳ぎながら来ますので、岩の配置は大体分っちょります。上り道はありませんが、松の根が張っておりますからそれを掴んで岩を上ってみましょう。私が先に行きますから、先生、私の後をついてきてくださいませ。」
 「奉天に攻め入った時、市街地を囲む数丈もの高い城壁を兵士たちは無我夢中でよじ登った。後で見たらとても登れるような城壁ではなかった。あれを思えばこれくらいの崖が登れぬものか。」

 ふとあの昔の激戦地の模様が頭をよぎった。惟芳は自らを元気つけるために大きい声でこう応えると、作兄の後から痛みをこらえながら、断崖に噛みつくように張った松の根を掴み、また岩の間のわずかな土に生えている小さな灌木を手掛かりに、やっとの思いで人道に出ることができた。そこから医院までは二百㍍もない距離である。二人は無事帰り着くことが出来た。途中作兄は思いもかけないことを口にした。

 「先生、申し訳ないことをいたしました。いま思いますとキツネに化かされたような気がいたします。実際は曲がっておりますのに、道が真っ直ぐに見えましたから。」
 こう云って作兄は頭を下げた。幌が落下の衝撃を幾分防いだといっても、下を見れば足が竦むような高い断崖である。後で判明したことだが、惟芳は座っていて、落下の際膝で胸を強打したので、肋骨が数本折れていた。一方作兄も尾骶骨を折っていた。
 帰りの時刻が予定していたよりあまりに遅いので、家中の者は皆心配した。十時を大分過ぎて惟芳と作兄が見るも無惨な濡れ鼠の姿で玄関に立った。しかしこうしたひどい怪我にもかかわらず、医院にたどり着けたのは、二人とも気が勝っていたからである。

 

 この事故から七十年ばかり経った平成二十一年五月一日、筆者は現場へ行ってみた。その日は朝から快晴で海は濃藍の色を呈していた。車外に出ると正午の太陽が照りつけ汗ばむほどであった。当時の状況そのままに、切り立った断崖の下は、ごつごつした茶褐色の花崗岩の岩場である。打ち寄せる波が大きい岩に当っては砕け、白い飛沫となって散り、海面には水の泡を作っていた。荒天のときなど、波(なみ)飛沫(しぶき)とともに、海藻やサザエなどが道路にまで打ち上げられていたと、正道が子供時代の事を語ったのを読者は覚えておられるだろう。

 

 私は道の上から錘をつけた糸を垂らして実測を試みた。一番高いところは海面まで十㍍もある。彼らが墜ちた場所だと思えるあたりの崖は、平均して七・八㍍の高さであった。崖にはかろうじて使用できるセメントの階段がつけてあった。降りてみるとそこには発泡スチロールの容器や塊がすぐ目についた。白い塊はブイだと思えた。ペットボトルや絡(から)み合った網やロープなどが堆(うずたか)く寄り集まっていた。ハングル文字があるので、韓国から流れ着いた残骸であるのは一目瞭然である。

 

 凸凹した大小の岩の上を、落下地点と思われる場所まで行ってみた。そこにはかなり大きな平たい岩があった。この岩の上からでも路上まで五㍍は優にある。ちょっと見ただけでは容易に上れそうもない崖がそそり立っていた。このような高い絶壁を、五十歳に達した男たちが、それも暗闇の中、骨折という痛みを押してよじ登り、よくぞ家に帰り着いたものである。泥にまみれた姿を見た時、家族の者たちの心配と驚き、そして安堵の気持ちは想像に難くない。

 

 このように輪禍が重なった。戦争で少しでも働けるものは召集され、人手が無くなったので、惟芳はまた自転車で往診することにした。足腰が弱くなり、片道三キロの惣郷までの道のりに加えて、そこからの山道は骨が折れた。前章でも言及したように、緒方医院に入ったばかりの看護婦の福さんやフミさんが、自転車の荷台を押し、また坂道にかかると、惟芳の腰のあたりを後ろから押したと語っていたが、彼らの涙ぐましい姿が想像される。

 

 墜落の現場を見たついでに、私はさらに惣郷の部落まで足をのばした。今は立派な自動車道路ができているが、この道路は以前緒方医院など人家が密集していた街中と二人が墜ちたところの隧道を迂回して、その先で昔の道とつながっている。またこの自動車道は惣郷の部落には入らずに長い大刈トンネルを通って、須佐町へ抜けているので、私はトンネルの手前から海岸線に沿って進んだ。しばらくして惣郷の鉄橋が突然見えてきた。コンクリート製の堂々とした橋脚が立ち並んでいる。海中に建てるために鉄製では腐食するのでコンクリートにしたのだ。この上を山陰線が走っている。
 
 昭和八年の山陰本線の開通は、大刈の鉄道トンネルとこの惣郷の鉄橋が架設されて初めて可能になったのである。この立派な鉄橋を間近に見て、当時難工事だといわれたことが納得できるような気がした。川幅が急に狭くなった。両岸に赤瓦の家が数軒見えてきた。中年の女性が畑で鍬を動かしていたので車を止めて訊ねた。

 「八十歳代の人はおられませんか?」
 「ここに居るものはみんな年寄でございます」

 彼女の紹介で三人の老婆に会った。

 「私どもは皆惣郷で生まれ育って、ここで結婚してここから出たことはありません。ここでもうじき死にましょう。緒方先生には疫痢や赤痢がはやったとき助けてもらいました」

 鍬を担いでいた八十二歳だという老婆がこう言った後で、別の老婆が、先が少し短く爪が変形した右の薬指を出して見せて言った。

 「私は六つのときギーコバッタン(注:米を搗く装置で、ダイガラとも云う)でこの指を詰めたとき、先生に治療してもらいました。ガーゼを取りかえられる時そりゃー痛かったです。そのとき先生が,『痛かろうが我慢しなさい。あとでこの金魚をあげるから』と言われましたが、本当に痛うございました。いまでもよう忘れません。それから、先生は看護婦さんにはひどくて、福さんをよく叱っておられましたことも覚えております。しかし病人にはやさしゅうございました」
 「先生も日露戦争に行かれたのですか? 私の主人の父親も日露戦争に行って金鵄勲章と百円もらったそうです。そのことがお墓に刻んであります」

 これを聞いた三人目の老婆が口をはさんだ。

 「あのころの百円ちゅうたら、今の百万円もするでの。たいしたもんじゃの。そりゃそうと、西村フユさんと佐伯の福さんもよう覚えております。先生とここまでよう来ておいでましたから」

 彼女たちの一人は八十五歳で膝が痛いと言っていた。誰もみな惣郷の田舎で生まれ、この地の男性と結婚し、他の地を知らずにここで一生を終えることを当然と心得ている風であった。屈託のない話は続くが、「気をつけて御帰りなさいませ」という三人の言葉を後にして私は彼女らと別れた。心安らかな人たちである。畑には麦が青々とよく育っており、新緑の山から鶯の鳴き声が時々聞こえてくるのどかな田舎の風景であった。

 

 そこからさらに車を走らせて自動車道路に出た。その少し先にある立派なトンネルの手前を鋭角に左折して急な山道を上って行った。このトンネルが出来る前には、須佐へはこの左右に曲がりくねった急峻な山道を人も車も通らねばならなかった。特に車の場合、細心の注意を必要とした。

 

 戦前のある日、太刀魚を満載したトラックが墜ちたことがある。夜間だったので、太刀魚が放つ燐光をたよりに、運転者は道まで這い上がることができたという。そのような道をおよそ二キロばかり行くと、谷間の向こうに山中にしてはなかなかしっかりした家が二軒見えた。家の周りには大きな椎とタブの木がこんもりと葉を茂らせていた。谷間にも狭い畑があって、青々とした麦の穂が風にさわさわと揺れていた。昔はここに五軒の百姓家があったと、そこで運よく見かけた女の人が云った。

 

 ここまで車で来ても大変である。徒歩で往診したとなると、確かに骨が折れたことであろう。そう度々ではなかったにせよ、医院から片道五キロ以上ある。三キロの道を自転車を漕ぎ、さらに山道を医療器具の入ったカバンを抱えての往診である。惟芳は自転車を麓に置いて、急な坂道をただ一人でよく歩いて上っていた。私が訪ねたときは一年で一番良い季節で、新緑が目を楽しませ、鶯の鳴き声が皐月(さつき)の空に響いていたが、冬ともなれば、海岸沿いの道は吹雪に悩まされたことであろう。また夜道を懐中電灯の小さな明りを頼りに、小道を辿らねばならないこともある。そのような時心配した正道は、駅近くまで父の帰りを迎えに行ったこともある、と言っていた。
医師として病人を助けたいという義務感あるいは使命感に基づく行動は、たった一度の自動車による追体験で、それを忖度できるような軽薄なものではないことを筆者は思い知った。

       

 

(三)

 『杏林の坂道』を執筆するにあたり、多くの資料を提供してくれたのは惟芳の三人の息子たちである。武人は父について次のような事を書き遺してくれた。「遺してくれた」というのは、残念なことに、二人の兄に先だって平成十四年九月に亡くなったからである。

 

 彼が生まれた時は大変大きな丈夫そうな子であった。惟芳はこの子を立派な軍人にしたいと思い、「武人(たけと)」と名付けた。武人は子供の時、よく父から「大きくなったら何になるか?」と聞かれ、始めは「兵隊さんになります」と言った。そうすると父の機嫌が悪かった。その後武人は聞かれたときはいつも「大将になります」と言ったら、大変機嫌がよかった。これに似たエピソードがある。

 

 武人は昭和十七年に県立萩中学校に入り、課外活動で射撃部を選んだ。彼は、射撃は軍人には必要で、父も喜んでくれると思い、この事を報告すると、惟芳は「射撃は兵隊がすることだ。なぜ剣道部に入らなかったか」といって叱った。
 

 惟芳としては、いやしくも軍人になろうというのなら、わが子が指揮官を目指すことを期待していたのである。しかし武人は次のような事を書いている。

相手を殺傷し、自らも死を覚悟しなければならない軍人より、人を生かす医者になることを父は心の底では望んでいたのかもしれない。私が小学生のとき父が母に、「子供たちは将来医者になって、一緒に病院でも開いてくれたら良いな」という言葉を耳にした。 

 

 今にして思えば、父がこのような希望をもっていたから、子供たちを厳しく教育したのだ。兄弟の中で唯一人医者にならなかった私について、いま父が生きていたら何と言うだろうか。

 

 惟芳は武家に生まれその教育を受けたとはいえ、戦って相手を斬り倒すことを真の目的とはせず、矛を収めることに武の本質があると考えていた。
正道が風呂からあがって濡れたタオルを絞ってさらに水気を取るために、「バサッ」とタオルを振り下ろした時、その音を聞いて惟芳が、「タオルをそのように振るな。刀で人を斬る時、それに似た音がするから」と注意した。

 

 医者の立場を離れて、惟芳が村人たちに優しく接していた姿を、武人は伝えている。戦時中のことである。時の政府は国民を鼓舞激励するために、いろいろなスローガンや標語を出していた。ある時診察に来た近所の老婆が、「先生、滅私奉公とはどういうことですか?」と訊ねた。彼はその質問に対して例をあげて、田舎の老婆にも分かるように丁寧に説明した。そばで聞いていた子供の武人にも、その意味がよくわかった。惟芳は医師としての仕事だけでなく、村の中でこのような事も行っていた。
「滅私奉公」という言葉の説明を聞いて、父親の日頃の生活態度こそそうではないのかと、武人は子供ながらに思った。

 

 戦前の日本人は概して神仏を敬っていた。緒方家では次のようであった。
子供は毎朝当番で神棚と仏壇の拭き掃除をし、榊と花の水を入れ替えた上で灯明・拝礼を行わなければならない。特に神棚が安置してある部屋まで手桶の水をこぼさない様に運ぶのは、幼い身にとってはなかなか容易ではない。まず台所のポンプで水を汲み、そこから廊下、階段、また二階の廊下を通って神棚のある部屋に入り、そこで小さな梯子を立て懸けて上らなければ出来ない作業であるからである。

 

 国の祝日は勿論、毎月一日と十五日(八幡宮の祭り日)、それに家族の者の誕生日には神様にお神酒を供えた。特に毎年一月十五日には神主に来てもらって、家の祭を行った。白衣をまとった神主が祝詞(のりと)をあげるのを、惟芳はじめ家族全員揃って、頭を下げて聞くのであった。祝詞が終わると、神主は白衣の袖を大きく左右に払って、大きな拍手を打つ。正道は子供心に、「如何してあんなに澄んだ音がでるのか」と不思議に思った。

 

 それから神主は、朝早く汲んできた海水の入っている手桶に海藻を浸けて、それでもって家族全員の頭上にパラパラと潮水を降り注いでお祓いをした。これが終わると、御神米を頂いて、カリカリと噛むのである。惟芳をはじめ家族全員が、神妙な顔をしての行事である。この間清新で静かな時が流れた。その日の夕食には、お神酒を皆で頂くことになっており、未成年の時から、お神酒だけは許されていた。また、亡くなった先祖の祥月命日には、一日中精進料理であった。
 
 医者としての父に接した子供たちの思い出を少し述べてみよう。当時は今のような冷房装置はない。夏の暑い日、惟芳が往診から帰った音が聞こえると、母の言いつけで、子供たちは大きな団扇を持って玄関へ走っていき、「お帰りなさいませ」と、声をそろえて言って皆で父を扇いだ。母に言われるまでもなく、暑い日中、汗を流して帰ってきた父に対して、こうすることは当然のことだと思っていた。
ある時、母の妹が萩から来てこの光景に接し、「緒方の兄様は大したお方だ」と、やや皮肉めいた口吻を漏らした。それを聞いて、武人は母と未婚の叔母では考えに違いがあると思った、と思い出を述べている。

 

 筆者もそのような場に居合わせたことがある。惟芳が往診から帰ると、大きな渋(しぶ)団扇(うちわ)を持って玄関へ駆けつけて、従兄たちの後ろから、それを両手に持ってバサバサと動かしたことを、はっきりと覚えている。
そうした後、看護婦が消毒液の入った噴霧器に圧をかけて、まだ白衣のままの惟芳を消毒した。そのとき彼は身体を一回転して満遍なく消毒してもらうのであった。

 

 深夜の往診もよくあった。患者の家族が医院の入り口のボタンを押すと、二階のベルが鳴り、看護婦が起きて玄関を開ける。妻の幸はすぐ目を覚まして惟芳を起こす。「うん。そうか」と云って、惟芳はすぐ起きた。彼は死にいたるまで、変わることなくこのように患者に対応した。寒い季節の往診も大変だが、夏特別暑い日の往診も、年を取った身には応えた。患者の家に着くと、上着を脱いで、シャツの上に白衣を着て診察する。終わった時、井戸水で冷やしたタオルを固く絞って、バサッと肩にかけてくれたりする家もあった。「冷やしたタオルをかけてもらった時は生き返った気がした」と、医院に帰った惟芳は幸に話した。

 

 午前中の診療が終わり、昼食後の休憩時に、両手で太股の大きさを測って、年齢と共に体力が次第に衰えていくのを感じた。今とは違い、人生五十年と言われていた時代である。六十歳に手の届く齢になっていた惟芳は、足腰の痛みを覚えるようになった。夕方往診から帰って入浴した後、足や腰の痛みの治療を行うのであるが、戦時中で適当な薬品がもうなくなっていた。彼はカンフル注射の液を綿棒につけて、看護婦に局部に塗らせていた。

 

 疲労が烈しい時は、昼休みに看護婦に足や腰を揉んだり叩いたりしてもらっていた。ある時、看護婦が惟芳の腰を揉みながらうとうととし出した。そのうち眠りが深くなって、惟芳の身体にかぶさるように寝てしまった。惟芳と幸は笑いながら、「しばらくそっとしてやろう」と言って、そのままじっとしていた。
 「大きな木魚にすがって寝ている小僧さんのようでありますね」
と、幸は笑って言った。そのころ緒方医院で働いていた看護婦の中には、小学校を出て間もない者もいた。

 

 雪の深く積った夜のことである。惟芳は往診からまだ帰って来ない。幡(はた)典(のり)たち子供は床に就こうとしていた。そのとき、幼児を連れた若い夫婦が来院した。彼らは葛篭(つづら)という山奥の部落で炭焼きをしていて、三キロばかりの道を、幼児を背負って来たものと思われた。幸は急いでその子を幡典の寝床の横に寝かすと、火鉢の火を熾(おこ)し、洗面器で湯気を立てて部屋を暖め、夫の帰りを待った。
子供は次第に弱って行くように見えた。幡典は炬燵の上に手を載せて、身を乗り出すようにして幼い子の足元から顔までをじっと見ていた。父の帰りが遅いので母が看護婦にカンフル注射をさせた。しかし幼児は唇を微かにゆがめただけで反応は鈍かった。そのうち、ゆっくり左右に動かしていた黒眼が静かに止まった。父が帰ってきたときには、すでに息を引き取っていた。

 

 その若い夫婦は礼を言って、幼児の亡骸を背負って、深い雪道をとぼとぼと帰って行った。幡典はその時の後ろ姿を今でも忘れられないと言う。

惟芳は常々、幸に次のような事を言っていた。
 「医者は自分の手の中で、患者がだんだん冷たくなって行くのを体験して初めて、本当の医者になれる。自分の親や妻や子を死なせた場合、一層そうなるのだ」
 
 惟芳は近親者の死にも直面したが、日露戦争で多くの戦死者に接し、続いて広島衛戊病院、さらに宇田郷村で、村人の診療にあたり、多くの死者と対面した。この言葉は自らの貴重な体験に裏打ちされていると言える。

 

 惟芳はすでに述べたように、オートバイに乗っていて牛に蹴られたり、人力車もろとも高い崖から落ちて大怪我をしたりした。また過労により足腰の痛みを訴えたこともある。しかし、生死にかかわるような問題で、家族の者をはじめとして、村人たちを心配させたことはこれまでなかった。ただ一度だけこんなことがあった。
 

 支那事変が始まって間もないある日の夕方、激痛が彼を襲った。尿管結石が原因であった。随分苦しんだが漸く病状が落ち着くと、村人の多くが見舞いに来た。寝床の周りに人垣が出来て、子供には父の顔が見えない程であった。彼らが帰った後、惟芳は家族の者に遺言めいた事を言った。幡典はその時のことをはっきりと覚えていた。
 
 母は台所へ通ずる廊下の途中、その右横の鏡台が置いてある小さな部屋に入って、一人ボロボロと涙を流していた。見舞客がいる間は泣くそぶりを全く見せなかった母が、一人になると涙を流す姿を子供心に強く印象つけられた。

 

 また、父がまだ病床に臥していたとき、村人の一人が。「先生、この神様のお札を飲まれましたら、きっと治ります」と言って、小さな紙切れを差し出した。医者としてそんなことをしても、何の役にも立たないという思いもあっただろうが、母に水を持って来させて、その村人の目の前でそのお札を飲んだ。村人の好意をあえて無にするようなことをしなかったのである。

 

 

(四)

 昭和十五年(1940)は皇紀二千六百年である。国を挙げて建国の祝いの行事が各地で行われた。惟芳はかねてより伊勢神宮橿原神宮の参拝を望んでいたので、「今のところ急に悪くなるような病人は村におりません」と言って、中山村長に五日間の休暇を願い出た。村長は喜んで許可を与えた。
大正元年に開業し、昭和二十年九月十四日に急逝するまでの三十三年間、それこそ一年三百六十五日、一日二十四時間、惟芳は無休で村民の医療にあたった。病気や事故による休診を除けば、彼が診療を休んだのは、この伊勢・橿原の両宮参拝の五日間だけであった。

 

 惟芳は正道を伴って念願の旅に出た。なぜ正道だけを連れて行ったのか。正道はその時の父の気持ちを次のように忖度している。

 

 武家の子として育てられた父は、息子たちの教育にあたり、その武家の躾をもってした。昔は男児十五歳に達すれば、元服して一人前の男と見なされる。親はわが子がその年齢になるまでは、人としての基本的な躾を厳しく教え込んだ。私は十五歳になった。父は私が世の中に出て一人立ちできるように、この際世間を見せてやろう。こうした親心に基づいて、私一人を連れて行ったのであろう。

 

 昭和十五年、我が国は支那事変においてまだ有利に戦いを進めていた。したがってこうした建国を祝う気持ちを国民は等しく抱いていた。惟芳は両宮参拝を千載一遇の好機として、日露戦争に従軍した時の戦友や、戦いが終わって勤めた広島陸軍衛戊病院時代の恩師に会うことを計画したのである。

 

 二人は昭和十四年十二月三十日正午頃、宇田郷駅から列車に乗り込んだ。途中山陰線の浜田駅で下車した。日露戦争の戦友で、広島衛戊病院でも一緒であった井廻藤三郎氏に会うためである。惟芳には戦友がもう一人いた。山口県の、現在の光市在住の山本恭助氏である。山本氏は写真業を営んでいたが、当時はすでに引退していて、長男が歯科医となっていた。

 

 話は飛ぶが、昭和二十年八月十四日、太平洋戦争が終わる前日、光市の海軍軍需工場で勤労学徒として働いていた幡典は、米軍の空爆に遭って大怪我をした。その時援助の手を差し伸べてくれたのが山本恭助氏であった。不思議な縁と言える。数年後、正道、幡典、武人の三兄弟が一緒に挨拶に行った時、山本氏は次のような昔話をした。

 「日露戦争の後、衛戊病院に衛生下士官が約六十人ほど勤務していました。この者たちに対して、特例として医師資格試験の受験資格が与えられました。あなた方のお父さんが大正元年に最初に合格され、次に井廻藤三郎氏が大正四年に合格されました。合格はこの二人だけでした。私は何度も受験しましたが失敗しましたので、終に諦めて、好きな写真を生業として暮らすようになりました。お父さんはよく勉強しておられました。あの頃の成績表がここにあります。お父さんがいつも一番で、私はこの通り二番でした」

 

 井廻氏は惟芳と同じ明治十六年生まれで、その時召集されて浜田の陸軍病院に勤務していた。惟芳も、戦時下のことで自分もいつ召集されるかもしれない、そうなった時、残した患者の処置をどうすべきか、といった相談や、日露戦争ならびに広島衛戊病院時代のこと、さらに新しい痔の治療法など、話が尽きなかった、と正道は筆者に話してくれた。

 

 その日の夕刻浜田駅から京都行きの寝台車に乗った。上中下三段の寝台があり、二人とも下段に指定されていた。上段より揺れは少ないはずだが、初めての寝台列車で、各駅のポイントを通過する度に横揺れがあって、正道はなかなか寝付けなかった。明け方少しまどろんだかと思うと父に起こされた。午前六時に京都駅に着いた。二人が乗った車両には彼らの外にもう一組いて、乗客は四人だけであった。

 

 「今日の夕方までに宇治山田に着けばよい。それまで時間があるので、京都見物をしよう」惟芳はこう言って、タクシーの運転者と交渉を始めた。当時、一日の貸切が十円、半日が五円であった。彼らは半日の乗車で市中を見て回った。戦時中で観光客はほとんど見当たらなかった。西本願寺清水寺銀閣寺、三十三間堂を訪れた。三十三間堂の通し矢の天井に、多数の矢が突き刺さっているのが正道には最も印象深かった。彼は翌年県立萩中学校に入って弓道部に入部し、自ら弓を引くことになるが、ここにも不思議な因縁を感じることが出来る。

 「弓道を習った者は皆承知しておる事だが、普通弓を引く時、的までの距離は十五間(約二十八メートル)である。しかしこの三十三間堂の場合、間口が六十六間(けん)で、普通二間(けん)を一間(ま)として三十三間(ま)あるので全体の長さは約百二十メートルである。しかも天井が低いので、余程の強弓でないと矢は的には届かない、そして、そのような弓が引けるものはまさに豪の者だ。江戸時代に和佐大八郎という武士が、一昼夜ぶっ通しで通し矢を試みて一万五千本の中八千百三十三本成功した、というが、空前絶後ともいえる偉業だ」

 惟芳は今は弓を全く手にしないが、弓を引いた萩中時代を懐かしんで、息子に語りかけた。市内の見物を終え、京都駅を午後出発して、東海道線亀山駅で伊勢行きの列車に乗り換えた。宇治山田駅に着いたのは、昭和十四年も大晦日の十二月三十一日午後六時過ぎであった。駅で、衛戊病院時代の恩師小川勇氏の御子息の出迎えを受けた。列車が着いて乗客のほとんどが改札口を出て行ったので、次の列車で来るのかと思っていたら、跛(びっこ)を引く男の子を連れた父親が最後にやってくるので、初対面ではあるがすぐ分かったそうである。
 「お前が足が悪いと言っておいたから、すぐ分かったのだろう。小児麻痺も時には役に立つことがある。」と、惟芳は笑いながら言った。
 
 小川氏は宇治山田日赤病院の院長をしていた。院長の宿舎へ行く途中、解体して内臓を取り出し、皮を剥いだ牛の大きな塊が多数天井から吊り下げてある肉屋の前を通った。正道の住む田舎では、魚は毎日食べるが、牛肉を食べることは稀である。それでも、萩から月に一度位肉屋が来てはいたが、その時売るのは少量の肉片であるから、解体したままの牛の姿は彼の眼に強く焼き付いた。
宿舎に着くと早速立派な応接間に通された。小川氏は今は赤十字病院院長であるが、元来陸軍軍医である。口髭を生やし恰幅のいい落ち着いた人であった。彼は和服姿で大きな虎の敷物の上に端坐していた。惟芳は久闊を叙すことが出来た。

 「十年一昔と言いますが、一別以来三十年になりますね。いつもお便りは頂いていますが、緒方さんにはお元気のようで何よりです。」
「はい。お陰で何とか無事に過ごしていますが、やはり年齢には敵いません。しかしこの非常時ですから、戦いに勝つまでは、国民の一人として、働けるだけは働くつもりです」
 「私も同感です。六十歳にもうすぐなりますが、銃後にあって出来るだけ御奉公しなければと思っていますよ」
 院長はこう言った後正道の方に目をやって、
 「坊ちゃん。この虎は生きてはいませんから大丈夫。怖がらないでお座りなさい。」
 
 正道は虎の眼が義眼とは知らないで、本物の目のように自分を睨んでいるので、なかなか怖くて座れなかった。
 「この虎は満州にいる部下が仕留めて送ってくれました。あちらには今もこのような大きな虎がいて、夜に入って咆哮すると、流石の兵隊たちも肝を冷やすと言っていました。ところで緒方さん。このご時世で、日赤病院でも医薬品などが不足がちですから、個人の医院ではさぞかしお困りでしょう」
 「はい、おっしゃる通りです。これから益々窮乏してくると思いますので、どうしたらいいか心配です」

 

 支那事変から太平洋戦争に入ると、入手できる医薬品は月ごとに減少し、緒方医院では、阿武郡医師会から配給される薬品を、正道が受け取りに行っていた。一か月分の薬品と衛生材料の量は、小さな風呂敷に収まる程度で、これでは満足な治療はとても出来なかった。したがって惟芳は正道に次のようなことを命じた。
 「正道、萩中学校の中にある郡立図書館へ行って、薬品になるものを調べてきなさい。治療に役立ちそうな草木を探してきて、家で製造してみようじゃないか。」

 二人が工夫して作った代用薬品をあげてみると、

 

① ジキタリスの代用として、夾竹桃の葉を強心剤に使用した。この木が自宅の台所の傍にあるので、その新芽を集めて自然乾燥させ、お茶の葉を乾燥させる器具でさらに乾燥させて、茶臼で挽いて服用してみた。ジキタリスの十倍量を使って同程度の効果があった。
田圃の畦道に自生したセンブリを採取し、乾燥して胃腸薬に使った。
③ 南京豆、カボチャなどの種を煎じ、サナダムシの患者に服用させたら、長い虫が出たと言って患者が持ってきた。

 

 話が逸れたが、惟芳が広島衛戊病院で教えを受けた多くの教師の中で、小川勇先生に特別恩顧を感じ、宇田郷村で開業後も親交を続けたのは、先生が軍医であるが戦いを好まず、「医は仁術なり」を実践され、そうした生き方を貫いておられると見たからである。   

 

 小川氏は現在の九州大学医学部の前身である京都大学医学部福岡医学校の第一回生であった。小川氏から年末になると、いつも大きな伊勢エビが贈られて来た。

 「緒方さん、日支関係が今日の如き不和に陥り、結局戦火を交えるの他無きに立ち至ったのは残念なことです。此の事は、張作霖、張学良父子等が悪いためではあるが、満蒙現地に於ける日本人にも悪い点があると私は思いますね。即ち正義のために戦うのではなくて、利権のために戦うという、間違った考えを持つに至ったためですよ」

 戦時下、これはなかなか勇気のある発言だと、惟芳は感心して耳を傾けた。

 「緒方さん、私は思ったことを上官にもずけずけと言ったものです。昭和十三年の頃、徴兵検査成績に基づいて、寺内陸相が、壮丁の体位低下の兆しがあるのを指摘されて以来、国民の体位向上の急務が絶叫され、内務大臣からわざわざ日本医師会に対し、国民の体位向上に関する具体的方策如何、という諮問の案件が発せられました。私はこれに対して卑見を医学誌上に発表しましたが、上部では真剣に考えてくれなかったね」
 「どんなご意見を発表されたのですか?」

 小川氏は惟芳にもタバコを勧めながら、自ら一服くゆらすと、医学誌上に発表したままの言葉で、次のような意見を述べた。
 
 「国民の体位低下の原因は種々あろうが、その主なものは結核の蔓延である。しかも年を追って農漁村の奥地にまで蔓延したのは、一つには、製糸、紡績工場が増設されて、田舎の女子が女工として多数採用されるが、最初は心身共に健康であった田舎娘が、都会に出て、殊に結核病の発生し易い工場作業に服するため、数年ならずして発病するものが多い。まずこのような意見を述べました」
 「確かに私もそう思います。日露戦争のときは多くの兵士が脚気で苦しみましたが、今日若い者がこうして結核になるのは大問題ですね」
 小川氏は相槌を打った。
 「その通りです。発病した者は帰郷療養がよいという理由で帰されるが、元々出稼ぎのために女工になったような貧家の女子が多いから、入院させるような資力はなく、家業の手伝いは思うようにできず、結核菌を散乱させながら、幼児の子守りでもして毎日ぶらぶら遊び廻っておる。」
 「その中には軽快するものもあるが、多くは増悪して長く呻吟しながら死亡する始末。衛生とか予防とかに無知な農家のことであるから、不知不識の間に、家族はもとより、親戚とか隣人にも漸次感染するというような結果になる。まあ以上のような趣旨です。」
 小川氏は一気に意見を開陳した。惟芳も全く同意見であるので、前に言ったと同じ言葉を口にした。
 「若者の多くが結核に罹るのは我が国にとって由々しき問題ですね」
 「そうですよ。軍隊においても同じことが言えます。私はその対策としてこう申しました。工場で発病した女工は工場においてあくまで加療し、入隊後発生した病兵は、あくまで軍部に置いて加療する。その方法として、軍部では結核師団を特設して、それぞれ適当な作業療法を行ったらいいと。まあざっとそんな意見を具申したのですが、反戦思想の持ち主と評されましたよ。ハッハッハ」
惟芳はこれも勇気のいる発言だと思った。

 

 

(五)

 皇紀二千六百年の一月元旦に、それも午前零時に伊勢神宮の内宮に参拝する目的で、その時間に合わせて、小川院長の案内で三人は歩いて出かけた。宇治橋の上から五十鈴川の上流に向かったとき、暗闇で山々は目に入らず、清い流れもざわざわという音のみ聞こえていた。しかし、境内は静謐(せいひつ)で神々しい雰囲気がひしひしと感じられた。

 なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

 

 小川氏は歩きながら、西行法師のこの有名な和歌を低唱した。神域に入ると、多数の参詣者がいたが、誰もみな何時とはなしに黙して語らなくなっていた。参道に踏み入ると、両側に並ぶ樹齢千年に近い杉が天を被っている。所々に明かり取りのためか、二坪ほどの大きさの穴が掘ってあって、その中で直径三十センチ位の大木が盛んに燃えていて、火の粉があたりに飛びはぜていた。穴の周りには多くの人が長い竹竿の先に針金で餅を吊るして焼いていた。正道は不思議に思って訊ねると、
 「この餅を食べると病気をしないと信じられているのだよ」と、小川氏は教えてくれた。
 途中ちょっと道を逸れて五十鈴川で口を漱ぐ場所へ下りて行くと、大きな鯉が多数寄ってきて正道を驚かせた。田舎を出て初めて接する風物は、彼にとっては何もかも珍しく驚きの連続であった。

 

 小川氏と惟芳・正道の親子は内宮の拝殿前にたどりついた。時あたかも皇紀二千六百年の元旦である。全国津々浦々から集まった参詣者でそこは大混雑を呈していた。一メートルもある大きな幅の石段を一つ上る毎に、数分もかかるほどであった。

 

 念願通り正月元旦の午前零時に無事参拝を済ますことが出来た。惟芳は胸中深く、日露戦争で戦死した兵士の御霊の安らかならんこと、合わせて世界の平和と繁栄を神に祈念した。その後、今度はバスで外宮を参拝し、午前二時頃ようやく院長宅に帰り着いた。早速入浴を勧められた。ここでも正道には驚くべきことがあった。

 

 宇田郷の家では、浴槽は鉄製の五右衛門風呂である。釜の底が熱いので丸くて厚い板を足で踏み押えながら身体を沈めなければいけない。ところが今入ろうとする湯船は木の香も新しい檜風呂である。自分たちのためにわざわざ新しく作られたのではないかと、正道は思った。

 

 午前三時頃、二階の客間で正道は父と並んで床に就いた。睡眠の妨げにならないようにとの配慮で雨戸が閉めてあったのと旅の疲れで、二人が目を覚ましたのは午前十時であった。雨戸を開けて外を見ると、一面の畑が目に入った。畑には、高さ三・四メートルの木組みがあり何段にも漬物用の大根が干してあった。

 

 朝寝坊を詫びて朝食の膳についた。正月料理が出された。雑煮の椀には四角い焼いた餅が入っていた。家で食べる餅は丸い。また雑煮の味付けはあっさりしていて、これも違った感じであった。朝食を終え、今度は小川氏の御子息に案内されて、列車で二見浦へと向かった。風が強く波飛沫が烈しく飛び散っていた。有名な夫婦岩を日の出の時刻に見ることは出来なかった。  

 

 多くの参拝者に混じって歩いて行く途中、サザエの壺焼きの店が多く並んでいるのに正道はまた目を見張った。七輪の上に金網を載せて焼いているが、金網が何段もあって、効果的な焼き方だと思った。田舎では一枚の金網の上に数個置いて焼いていたからである。

 

 午後から宇治山田市内の土産物を売る店に立ち寄った。惟芳は妻に買い物を頼まれていたからである。丁度この祝年は二十年毎の伊勢神社遷宮の年と重なっていたため、木曽の御料林から切り出して、遷宮に使われた木材の切れ端が業者に下賜されたのか、それでもって作った木製品が各店に多く陳列してあった。惟芳は妻が書いてくれたメモを見ながら、大量に買い求めて、家へ送る手続きをした。

 

 惟芳は普段は財布に三十銭から五十銭ほどの小銭しか入れていなかった。祝日や村に二つある神社の祭に、往診の途中お参りしたとき、賽銭として使うだけのものであった。村には本屋はない。他に金を使う必要がない。日常必要な食糧などを買うのは「通い帳」で行い、盆(ぼん)節季(せっき)の勘定期にまとめて支払っていた。その他生活に必要な物品は幸が萩へ出た時買っていたので、惟芳としてはこれまで、自分で多額の金額を払うということはなかった。

 

 したがってこの度の伊勢参りを前にして、幸が「もう百円用意していますから、持ってお行きなさいませ」と勧めるのを、「これだけあれば十分だ」と言って、どうしても持って行こうとしなかった。彼は自ら音頭を取って始めたラジオ体操に参加する子供たち全員(約五十人もいた)への土産も買って帰ろうとした。しかし金がどうも足らない。
「あの時ばかりは困った」と帰って妻に言ったが、普段お金を使わなかった惟芳には、どの程度のお金を持っていけばよいのか分からなかったのだろう。

 

 その晩、小川氏のところにもう一泊させてもらい、二日の朝宇治山田駅を出発して、奈良の橿原神宮に向かった。ここでも皇紀二千六百年を記念して、社殿は新築されていた。真新しい桧皮葺(ひわだぶき)の屋根は美しく、正道には印象深いものであった。広大な敷地はまだ未整地の個所が数か所見受けられた。

 

 平成二十一年六月二十五日の朝日新聞に、「検証昭和報道 神がかりへの道」と題した記事に添えられた「橿原神宮で土木作業を手伝うナチス・ドイツの青年たち」の写真が載っていた。「紀元二千六百年奉祝記念の大規模な事業は、のべ121万人を超す勤労奉仕であった。」と、あるが、そういった最中に惟芳・正道の親子は橿原神宮を参拝したのである。

 

 こうして惟芳は念願の参拝を無事に終えることが出来、感無量であった。一息ついたので奈良見物をすることにした。奈良駅前で二台の人力車に分乗して、二人は大仏殿、二月堂、春日神社など多くの神社仏閣を見て回ったが、正道には、何処をどう廻ったかあまり記憶がない。ただ人力車に乗っていて、車夫の歩行に合わせて身体が上下に揺れ、ふわふわとして気持ちが良かったことと、乗る前に買った煎餅をかざすと、鹿がその煎餅が無くなるまでついてきたことだけは楽しい記憶の底に残った。

 

 往きの山陰線と違って、帰りの山陽線の車内は満席だったので、二人は止むを得ず食堂車に席を取った。ところが、土産物を買い過ぎて残金が殆ど無く、紅茶一杯ずつ啜っただけで厚狭駅に着くまで、飲まず食わず寝ずに頑張った。厚狭駅美祢線に乗り換え、三日の正午頃やっと宇田郷に戻ることが出来た。惟芳はホット息つく暇もなく、その日の午後早速往診に出かけて深夜に帰宅した。

 

 正道は昭和十四年に県立萩中学校を受験したが足が悪くて不合格になったことはすでに述べたが、そのために彼は宇田小学校高等科に一年間通った。その間に彼は父と伊勢神宮に参拝したのである。

 

 昭和十二年七月に支那事変が起こると、村内の婦人会では、戦地の兵隊へ慰問袋を送る運動が始まった。婦人会からの依頼で小学校でも、「兵隊さんご苦労様」という趣旨の慰問文を子供たちに書かせた。正道も担任の先生に言われて、伊勢神宮参拝の旅日記を便箋に四・五枚書いて提出した。

 

 この慰問文が支那派遣軍の榎(えのき)英治という一人の兵士の手に渡った。榎氏は学校の教師だったようである。彼から返事が来て、その後月に一回の割合で文通が始まった。

 

 ある時榎氏から「智仁勇」と「盡忠報國」と書かれた二枚の書が届いた。添えられた手紙に、榎氏は次のように書いて寄こした。

 

 私は今孔子が生まれられた曲阜(きょくふ)という所におります。ここで孔子から数えて七十七代目の孔徳成という方と知り合いになり、お願いしてこの書を書いてもらいました。しかし戦場のことですから、何時戦死するかも知れませんので、あなたの旅行記のお礼にと思って送りました。これからも一生懸命勉強して、お国の役に立つ立派な人になってください。

 

 正道は二枚の紙に書かれた書を父に見せた。惟芳は「智仁勇」と書いてあるほうを手に取ってじっくり見た後、正道に訊ねた。

 「立派な字が書いてある。さすがに孔子の子孫だな。七十七代とは長く連綿と続いたものだ。智、仁、勇,どれもいい言葉だ。正道、お前はどの言葉が一番大事だと思うか?」
 「僕は勇だと思います。何をするにも、勇気がなくては実行出来ませんから。」
 「確かに勇気は大事じゃ。松陰先生も、士の道は義より大なるはなし、義は勇に因(よ)りて行われ、勇は義に因りて長ず、と言っておられるから。しかしお父さんは仁が一番だと思う。医は仁術なりという言葉をお前は知っておろう」
 「はい。その言葉はこれまで聞いた事があります」
 「孔子は『論語』の中で、この仁について最も多く語っておられる。仁者愛人とう言葉があるが、仁なるものは人を愛すと読むのだが、つまりすべての人に愛や同情の心を持って接することだ。その場合、智慧を働かせ、勇気を持ってすれば、仁の精神は一層発揮される。良いものをもらったな。表装してあそこへ掲げておいたらよかろう」

 惟芳はこう言って、座敷の鴨居あたりを指さした。
 一方「盡忠報國」の額は宇田小学校に寄付することにした。しかし戦後になって、進駐軍が来た時、この言葉を問題にする恐れがあるからと言って、校長が過剰判断して焼却したとのことである。惜しいことをしたものだと、正道は話した。

 

 孔徳成氏は一九二〇年に中国山東省曲阜に生まれ、十六歳から本格的に書の勉強をしている。書聖・王羲之顔真卿の書法を学びまた甲骨文字や金石文の研究にも打ち込み、その後台湾大学の教授,台湾人事院総裁といった要職にも就いていて、二〇〇八年に亡くなっている。したがって正道がもらった書は、孔徳成氏が昭和十五年に書いたとしても、二十歳の時の珍しいものと言える。今も「智仁勇」の扁額が緒方家の居間の壁に掛けてある。運筆の冴えが素晴らしく、格調高い書であるのは一目瞭然である。片方を焼き捨てたことはやはり残念な事である。


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