yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

以心伝心

 

「以心伝心」を『広辞苑』で見ると、①禅家で、言語で表されない真理を師から弟子に伝えること。②思うことが言葉によらず、互いの心から伝わること。と書いてある。

 私は此の事に似た事をこれまで二度ばかり経験した。これはあくまでも人間同士のことである。しかし今日は相手が猫だったから面白い。

私は妻が亡くなって数日経って、毎日近くの六地蔵へ散歩を兼ねて拝みに行く事にしている。其所への道筋は厳密に言えば七通りもある。その内の一つの道筋に、猫を飼っている家がある。私は或る日煎り子を手にしてその家の前に来たとき、三匹の猫が何時ものように日向ぼっこをしているので近づいて投げてやったら。恐れて皆逃げた。

見知らぬ者を恐れ警戒しているなと思って、その日はそのまま六地蔵を拝んで家に帰った。六地蔵からその猫を飼っている家までの距離は200メートル位離れて居る。

その後数日して六地蔵を拝み、何時ものように石段を登って、道路から10メートルの高さまで登ったら、途中の木陰に例の猫が2匹うずくまって日向ぼっこをしていた。

この低い丘の東向きの斜面は墓地になって居て、新旧多くの墓が建ち並んでいる。猫たちは飼われている家からここまで歩いて来て日当たりの良い場所でくつろいでいるのだと知った。

これは一つの発見だと思い、散歩に出かける時、煎り子か竹輪を切って紙に包んで、できたら猫にやろうと思って毎日出かけた。やはり猫もこちらの気持ちが少しづつ分かるのか恐る恐る近づいてくるようになった。私は六地蔵を拝みに行く時間は日によって午前中の時もあれは真昼の時もある。今日は朝早くから良く歩いた。先ず7時に榊と花を買ってきて神仏に供えた。我が家から歩いて片道500メートルの処で毎朝7時に店を開く「ログ・ハウス」へ行ったのである。昼過ぎになって、もうすぐ刷り上がる同人誌『風響樹』を何人かに送るための角封筒を買おうと思って、家から一番近いスーパーまで歩いた。行って帰るのに1時間15分も掛かった。丁度家に帰り着こうとしていたとき、郵便配達人が我が家を離れかけようとしていた。間に合ってよかった。萩の妻の親友に、妻の知人たちに差し上げてくれと言って送っていた『硫黄島の奇跡』を、10人に配って買って貰ったとかで、その代金を手紙と一緒に届けて下さったのである。家に入ると直ぐにお礼の電話をした。今日は日中の氣温が26度とか言っていたので流石に1時間以上も歩くと汗ばんだので帰ると直ぐシャワーを浴びた。

私は雨が降っても風が吹いても六地蔵への散歩を兼ねたお参りは続けているので、夕方5時になったので煎り子を紙に包んで出かけた。このところ3日ばかり猫の姿を見ないので空しく持って帰っていたのだが、今日も猫の姿が見えないので、もう仕方がないと思って、10メートルばかり登った所の空き地に紙から出して、何時か見つけて食べるだろうを思って其所に撒いてその場を立ち去ろうとしたら、「ニヤーン」という鳴き声が聞こえて三毛猫が出て来た。何処にいたのだろうか。この三毛猫が一番人なつっこい。それにしても5時前にただ1匹いたのには驚いた。煎り子を撒いたそばまで呼び寄せると、喜んで食べ始めたので、私はいつものようにその髙所から市街地を見下ろした後、そこからまた石段を下ってもう一つ別の処になる六地蔵を拝んで帰った。

煎り子を地面に撒いて帰りかけた時までは「今日も猫は来ていないのか」と言った失望の気持ちを抱いていたのだが、猫が近づいて来たのには驚くと同時に何だかホッとした気持ちになった。まさか猫と「以心伝心」ではなかろうが、よく居てくれたと思ったのである。                     

                           2020・5・1 記す

惜しむ可し

 

天気予報によれば「明朝は相当冷え込」とのことで、覚悟して昨夜床に就いた。今朝目が醒めたのは丁度4時だった。室内の寒暖計は10度を示していた。確かに寒さを感じた。昨日一昨日と続けて、起きたとき室内は17度もあったからである。戸を開けて外を見たらまだ真っ暗闇で、雪は降っていないようであった。天気予報では西日本はところによって大雪になるとも云って居たが、まだその気配はなさそうだ。その後8時に外に出てみたら、玄関の屋根だけが薄らと白くなっていたから、確かに降雪があったのは間違いない。

冬季に入って私は何時もいる居間を寝室に兼用しているので、朝起きてもぬくもりが残っている。外の全ての部屋とは格段に温度差がある。今朝なんか摂氏2・3度といったところだと思う。洗面所に立ち冷たい水で顔を洗い、ついでに電気カミソリで髭も剃った。髭は夜中より朝起きてしばらくして伸びるような気がする、だからもう少ししてから剃った方がよいのだが、思い切ってカミソリを充てた。

何時もそうだが、昨夜も入浴後直ぐに就寝したので夜中に起きることなく、4時までぐっすり寝たから睡眠は充分足りている。床を上げ、その場に薄い毛布を敷き、その上に座布団を置いて尻を据えた。そうして私は『硝子戸の中』を読んだ。

私はこれまで「硝子戸の中(なか)」と思っていたが、此の文章に漱石自身「硝子戸の中(うち)」とフリガナを付けて題名にしているのに今日初めて気が付いた。今まで長い間漠然と「中(なか)」と読んでいたと思うと、実に迂闊だった。ただ単に字面に目をやり、話の筋だけを追うような読み方では、往々にしてこうしたミスを生ずるのではないかと思った。

しかし私は漱石が別にこだわっては居ないことに気が付いた。此の作品は「三十九」で終わっている。ここに漱石は次の様にフリガナをほどこしていた。私は「なーんだ」と思った。

 

「毎日硝子戸の中(なか)に坐ってゐた私は、まだ冬だ冬だと思ってゐるうちに春は何時しか私の心を蕩揺(たうえう)し始めたのである。」

 

漱石が此の最後の文章を書いたのが大正4年2月24日である。私は「三十三」を読んで、漱石が他人に対して如何に対処してきたかを、色々と考察した内容なので考えさせられた。この連載が終わった後、彼は『道草』を、さらに絶筆となった『明暗』を新聞紙上に掲載して、大正5年12月9日に永眠した。満で49歳だった。

彼は午前中『明暗』を執筆し、午後は漢詩を作って楽しんでいたようである。

 

私が一昨日まで読んでいたのは、『思ひ出す事など』である。明治44年漱石修善寺温泉に転地療養に赴いたのに、病状が悪化して吐血し30分間も人事不省になった。その後帰京して長与胃腸病院に入院し、回復するまで40日以上入院生活を続けている。修善寺に居た時も帰ってから入院中も、彼は俳句や漢詩を作っている。死に直面して漱石は一段と心境を深めたのである。その時の体験を彼は退院後、朝日新聞に『思ひ出す事など』の題名で連載した。

先にも述べたように、その後彼は『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』と連載を続け、さらに『硝子戸の中』、『道草』と新聞に掲載している。

私は『明暗』までの小説を皆読んだが、小説ではなくて『硝子戸の中』を読もうと思ったのは、漱石の日常生活の実態をよりよく知りたいと思ったからである。この作品は大正4年、漱石が亡くなる前の年に書いたもので、今云ったように、この後『明暗』を書きその途中で彼は亡くなった。

硝子戸の中』には彼の子供時代や青年時代の事が多く書かれているが、私には先に読んだ『思ひ出す事など』の方がこれより興味を惹き心に響くものがあった。これは漱石が生死の問題を真剣に考えて書いた文章が載っているからである。此の文章は今はさておき、私はもう一度漱石漢詩を読んで見たく思った。

 漱石は『文学論』の「序」でこう云っている。

 

「余は少時好んで漢籍を學びたり。之を學ぶ事短きに關らず、文學は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左國史漢より得たり・・・」

 

この「序」は可なり長いものだが実に名文である。漱石が大学で行った講義を纏めて出版するに当たり、此の序文を彼は気概を込めて書いたのである。明治39年の出版である。此処に「少時」とあるのは彼が明治14・5年頃、二松学舎で漢学の勉強をして居る事を指している。

話が逸れたが、そこで私は『漱石全集』にある吉川幸次郎博士訳注の『漢詩文』の「漱石漢詩」を改めて読んでみることにした。同時に佐古純一郎著『漱石詩集全釈』も参考にすることにした。

漱石詩集』に載っている最初の漢詩は彼が明治22年11月に作ったものである。漱石慶應3年(1867)に生まれている。その翌年の慶應4年が明治元年だから、満年齢で数えたら漱石の場合、明治の年数と彼の年齢は一致するから覚えやすい。各種の漱石全集によって違いがあるが、年号と同時に書かれている数字で彼の満年齢か数え歳なのかは分かる。

さて、最初の漢詩はつぎのようなものである。

 

   山路観楓      

 

 石苔沐雨滑難攀  石(せき)苔(たい) 雨に沐(もく)し 滑りて攀(よ)じ難し 

渡水穿林往又還  水を渡り林を穿(うが)ち 往きて又還る 

處處鹿聲尋不得  処処の鹿声(ろくせい) 尋ね得ず 

白雲紅葉満千山  白雲 紅葉 千山に満つ

 

 吉川博士の「訳注」に、「詩形は近体の七言絶句」であると先ず説明してあった。語句の注釈で、「沐」は髪の毛を洗う。「石苔」を擬人化しての語、とあった。漱石が数えの23歳の作である。続けて幾つかの漢詩を読んでいると次の「五言律詩」があった。

 

  飄然辭故國  飄然として故国を辞し

来宿葦湖湄  来たりて宿す芦(い)湖(こ)の湄(び)

排悶何須酒  悶を排する 何ぞ酒を須(もち)いん

遣閑只有詩  閑を遣(や)るは 只詩有り

古關秋至早  古関 秋至ること早く

廢道馬往遅  廃道馬往くこと遅し

一夜征人夢  一夜征人の夢

無端落柳枝  無端(むたん) 柳(りゅう)枝(し)に落つ

 

此の詩は漱石が当時女性問題か何かで、鬱々たる思いを抱いて箱根温泉へ行ったとき作ったもの様である。「故国」はこの場合「東京」を意味する。「湄」は「ほとり」「水際」、

「排悶」は「憂さ晴らし」、「征人」は「旅人」、「無端」は「ゆくりなくも どうしたわけか」、「柳枝」は佐古氏の注釈には「柳の枝を手折ってくれた人」とある。

 先ず此の詩で注目すべきは最後の言葉である。

吉川博士は、「柳枝―もとよりやなぎのえだだが、それを歌った詩には、恋に関係したものが多い。憶測をたくましくすれば、当時の先生には、恋人があり、箱根の夢にも現れたのかも知れぬ。」

一方、佐古氏は此処を「旅寝の一夜にゆくりなくも、見送ってくれた人を夢見た」と訳し、さらに「補説」として、「柳枝は、昔、漢代に長安の人が客を送って覇橋に至り、柳の枝を手折って別れたという故事によっている。また、柳枝は韓退之や白居易の詩にみられるように、美人を柳枝にたとえることもある」と云っている。

 これだけの説明を読んでも、漱石が如何に漢詩を若いときに勉強したかが分かる。私がこの詩で特に興味を覚えた語句は「閑を遣るは 只詩有り」である。

吉川博士はこう注している。「遣閑―ひまをつぶす。以上二句、杜甫「可惜」の詩、「心を寛(ゆる)うするは応に是れ酒なるべく、興を遣るは詩に過ぐるは莫し」をふまえつつ、上の句では、酒にたよらなくても悶えを排斥し得ると、ひっくりかえした。「排悶」の二字も、杜甫の別の五律「江亭」の語。

 

私は妻を亡くし急に一人暮らしになって「閑を遣る」立場になったから、如何に閑を遣る、つまり余生を如何に過ごすべきかと考えていたとき、この言葉が目に入った。

なお吉川博士は「漱石」とは書かずに「先生」と書いている。この碩学が自らをへりくだって、「先生」と云っているのは、漱石漢詩を高く評価しているからだと私は思った。

 私はついでに博士が挙げた杜甫の詩を見てみた。『唐詩選』には載っていないが、『中國詩人選集 杜甫上』に見つかった。

 

可惜    惜(お)しむ可(べ)し

 

花飛有底急    花の飛ぶこと底(なん)の急か有る

老去願春遅    老い去(ゆ)けば春の遅きを願う

可惜歓娯地    惜しむ可し 歓娯の地

都非少壮時    都(す)べて少壮の時に非(あら)ざるを

寛心應是酒    心を寛(ゆる)うするは応(まさ)に是れ酒なるべく

遣興莫過詩    興を遣(や)るは詩に過ぐるは莫し

此意陶潜解    此の意 陶潜のみ解す

吾生後汝期    吾が生 汝の期(き)に後(おく)れたり

 

黒川洋一氏は此の詩を以下のように訳していた。

 

なぜかかくもあわただしく花は飛び散っていくのか、年老いてゆく身は春の歩みの遅いことを願っているのに。

自分もおりおりは歓楽の席につらなる身になったが、どの席ももはや少壮の時でないことを残念に思う。心をくつろげるものとしては酒がよかろうし、興をはらすものとしては詩にこすものはない。

陶潜よ、私のこのきもちはあなただけが理解してくれよう、だが私の生まれたのがあなたより遅かったのは残念だ。

 

私はついでのことにと、陶淵明の詩集を繙いてみた。果たして『飲酒 二十首并序』に次の文章が見つかった。少し長いが転写してみよう。原文は省くが一海知義氏の訳を書き写してみよう。

 

 余(わ)れ間居(かんきょ)して歓(たの)しみ寡(すくな)く、兼(くお)うるに此(このご)ろ夜已に長し。偶(たま)たま名酒あれば、夕(ゆうべ)として飲まざる無し。影を顧みて独り尽くし、忽焉(こつえん)として復た酔う。既に酔いし後には、輒(つね)に数句を題して自ずから娯しむ。紙墨遂(か)くて多く、辞(ことば)に詮(せん)次(じ)なきも、聊(いささ)か故人に命じてこれを書せしめ、以て歓笑と為さん爾(のみ)。

 

私は世間と没交渉の生活をしていて楽しみもすくなく、しかもこの頃は夜が長くなってきた。たまたま名酒が手には入ったので、飲まぬ夜とてない。自分の影を見やりつつ独りで飲みほしていると、たちまち酔いがまわって来る。酔うたあとでは、いつも二三の詩句を書きつけて独り楽しむのだ。このようにして紙や墨はやたらたくさんつかったものの、出来た詩のことばに前後の脈絡もない。が、まあまあとにかくなじみの者にたのんで写してもらい、なぐさめとしようというだけのことさ。

 

「暇つぶしには詩がある」と云う言葉を知って、作詩は出来ないが、これまでとは多少違った気持ちで漢詩を読んで見たく思い、差しあたり『漱石詩集』を取り上げたのである。私の場合、ささやかながら独酌も楽しむことも出来たらと思うのである。しかしこうした生活をいつまで続けることが出来ようか。日々老いていく。今はただ健康でありたいと思うだけである。

 昨日此の拙文を書き始め、今朝早く起きて書き終えた。外に出てみると手水鉢に薄く氷が張っていた。昼からは暖かくなるとのことだから、入院中の従兄の見舞いに行ってみよう。彼も妻を亡くし無聊を託っていることだろうから。

                        2020・2・19 記す

 

 

漱石雑感

 

明治26年7月、漱石帝国大学文科大学英文科を卒業するとすぐに大学院に入った。その年の10月に東京高等師範学校英語嘱託教師になっている。翌27年2月の初め、肺結核の徴候を認めて療養に努め、その時弓道を習う。彼は相当真剣に弓の稽古をしたようである。その時の俳句が幾つかある。

 

大弓やひらりひらりと梅の中

弦音にほたりと落る椿かな

矢響の只聞ゆなり梅の中

弦音になれて来て鳴く小鳥かな

 

漱石は半年足らず勤務しただけで突然高等師範学校を辞して、28年4月に愛媛県尋常中学校(松山中学)へ赴任する。そこでも彼は弓の稽古をしている。

 

私は平成10年9月に山口に来て、初めて弓道教室に入って弓道を習った。しかし体力的についていけなくて、弓道の魅力を感じてはいたが、所詮凡骨、古希を過ぎしばらくして稽古を断念した。その時私は漱石弓道の稽古をしていたことを知って『漱石と弓』と題して文章を書いた。知人に見せたら、「漱石が弓を引いていたのですか。知りませんでした。何処かに発表してみたら」と言われたものだから、どうせ取り上げてはくれまいと思ったが、漱石と云えば岩波書店だと考えて原稿を送ってみた。そうしたら忘れた頃に電話があって採用するとのこと。これには驚いた。さっそく読み直して送ったのが平成14年(2002)1月15日だった。するとその年の『図書』4月号に拙稿を載せてくれた。私は主に漱石と弓に関する俳句を取り上げて、私見を述べたのである。そのなかに次の俳句がある。

 

月に射ん的(まと)は栴檀(せんだん)弦走(つるばし)り

 

私はこの「的は栴檀弦走り」の意味が分からないので、指導して貰っていた先生に訊ねたら、先生なりに色々と解釈されて話されたのでそのことを書いた。ところがこの『図書』を読んだという全く未知の方から手紙を貰って、「栴檀」も「弦走り」も大鎧の付属具であると教えられた。一寸調べれば分かったものにと後悔した。また世間には親切な人がいるものだと思った。そこですぐその方に丁重な礼状を差し上げた。そうするとまた翌年の平成15年11月に几帳面な字で便箋4枚に書かれた手紙を下さった。この手紙については最後に書く。

平成14年に全日本弓道連盟の『弓道』の編集者から、岩波の『図書』に載った文章を読んだから、同じような内容の文章を書いてくれと連絡があった。そこで私は加筆訂正した原稿を送った。同誌の編集者は学生時代東大で弓道を稽古され、今は同大学で指導されている方だと後で知った。お蔭で2003年1月号の『弓道』誌に、「弦音にほたりと落る椿かな 漱石と俳句」と題し、数葉の漱石に関係する写真を添えた立派な記事にして載せて頂いた。私はこの『弓道』誌に以下のような事を書いた。

 

「この句について在京の方から「栴檀栴檀の板を意味し、弦走同様に、鎧の具である、従ってこの句は、鎧を的に見立てたのではないか」と、鎧の図版を添えて御教示頂いた。私は漱石が読んだものには記載してあるかも知れないと思い、「漱石山房蔵書目録」を見てみた。すると『頭書 保元物語 中根淑注釈 明治二十四年 金港堂』があった。これと同じ本が県立鹿児島図書館にあることが分かり、問題の箇所を複写して送ってもらったところ、果たして「栴檀弦走」の言葉が載っていた。

 

例の大弓を打ち交(つが)ひ。堅めてひょうと射る。思ふ矢壺う誤らず。下野(しもつけの)守(かみ)の冑の星を射削りて。餘る矢が寶荘院の門の方立(ほうだ)て箆中(へいなか)責めてぞ立ったりける。其の時義朝手綱掻い繰り打ち向ひ。汝は聞きに及ぶにも似ず。無下に手こそ荒けれと宣(のたま)へば為朝兄に渡らせ給ふ上。存ずる旨ありて斯くは仕り候へども。誠に御許しを蒙(こうむ)らば。二の矢を仕らん。眞(まっ)向内(こううち)冑(かぶと)は恐れも候ふ。障子の板か。栴檀弦走りか胸板の眞中か。草摺りならば一の板とも二の板とも。矢壺を慥(たし)かに承って仕らんとて。既に矢取って交はれける所に。上野(こうずけ)の國の住人深巣七郎清國つと駆け寄れば。為朝是を弓手に相請けてはたと射る。清國が冑の三の板より直違(すじか)ひに。左の小耳の根へ箆中計り射込んだれば。暫しもたまらず死ににけり。

 

「門の方立てに箆中責めてぞ立ったりける」とは、門の柱と上の横木と鳥居形をした処へ矢の半ばまで強く射込んだことである。

ところで『保元物語』の原文には、「此は七月十日の夜なりければ、月は夜中に入り終ひて、暁暗の空なるに」とあるので、実際は月はすでに沈んでいたと思われるが、漱石は月を歌うことで、詩的効果を狙ったのではなかろうか。漱石は『保元物語』の此の箇所を読んだ時、現にその頃弓を引いていたので、弓を執れば天下無双の為朝の雄姿に、思わず共感と羨望を覚え、三十一文字に詠じたのであろう、とこれまた勝手に想像してみた。

 

 この拙文を書いて既に17年の歳月が流れたことになる。昨年5月に妻が亡くなり、その後一人暮らしになったので、子供たちに迷惑を掛けてはいけないと思い、自分なりに健康維持を考えている。先ず早寝早起きと散歩の励行である。朝は目覚ましを5時にセットしているが、それより前に起きることが多い。今朝も4時に目が醒めたので「漱石漢詩」を読んでいると次の漢詩が目にとまった。

これは佐古純一郎著『漱石詩集全釈』(二松学舎大学出版部)にあるもので「通釈」も併せて書いてみよう。

 

無題

 

快刀切斷兩頭蛇   快刀切断す 両頭の蛇

   不顧人閒笑語嘩   顧みず 人間笑語の嘩(かまびす)しきを

黄土千秋埋得失   黄土 千秋に得失を埋(うず)め

蒼天萬古照賢邪   蒼天 万古に賢邪を照らす

微風易砕水中月   微風に砕け易し 水中の月

片雨難留枝上花   片雨に留め難し 枝上の花

大酔醒来寒徹骨   大酔(たいすい)醒(さ)め来たりて 寒さ骨に徹す

餘生養得在山家   余生養い得て山家(さんか)に在り                   

 

 【通釈】 自分を取り巻く人間関係の煩わしさや、今まで心を占めていた世俗的な功名心等は、すっかり切り捨てた。いまさら俗人の口やかましい嘲笑など、少しも気にならない。宏大な大地は、長い年月の間に、ちっぽけな人間の損得勘定を埋めてしまうし、天こそは永遠に、人間社会における善悪の営み全てを照射しているのである。

この世のはかなさは、水面に映じた月がそよ風にも砕けてしまい、枝に咲く花がわずかの雨にも散ってしまうようなものである。泥酔から醒めてみると、寒さが身にしみるものだ。これからの自分は、残された人生をここ松山の侘び住まいで過ごすと思う。

 

漱石は松山に来る前、神経衰弱に陥り、鎌倉の円覚寺を訪ねたのもその為である。松山中学校に来て、多少は気分転換になったかとも思うが、必ずしもそうとは云えない。『坊っちゃん』から察せられるが、まだ完全には心の落ち着きは得ていないようだ。「余生養い得て山家に在り」と云いながら、実際には彼は僅か1年で熊本の第五高等学校へ転勤している。松山中学校にいた時、『愚見数則』を松山中学の同窓会報のような冊子に寄稿している。当時の在校生並びに松山中学校の関係者が読んだであろうが、格調の高い優れた文章である。今日の中学、高校の生徒達が此の文章を読んだら、どう感じるだろうか。果たして理解できるだろうか。次のような文章がある。旧漢字を除いて一部写してみよう。

 

  勉強せねば碌な者にはなれぬと覚悟すべし、余自ら勉強せず、而も諸子に面する毎に、勉強せよ々々といふ、諸子が余の如き愚物となるを恐るればなり、殷鑑遠からず勉(べん)旃(せん)々々。

 

教師は必ず生徒よりゑらきものにあらず、偶(たまたま)誤りを教ふる事なきを保せず、故に生徒は、どこまでも教師の云ふ事に従ふべしとは云わず、服さざる事は抗弁すべし、但し己れの非を知らば翻然として恐れ入るべし、此間一點の辯(べん)疎(そ)を容れず、己れの非を謝するの勇気は之れ遂げんとするの勇気に百倍す。

 

善人許(ばか)りと思う勿れ、腹の立つ事多し、悪人のみと定むる勿れ、心安き事なし。

人を崇拝する勿れ、人を軽蔑する勿れ、生まれぬ先を思え、死んだ後を考えよ。

 

理想を高くせよ、敢えて野心を大ならしめよとは云わず、理想なきものの言語動作を見よ、醜悪の極なり、理想なき者の挙止容儀を観よ、美なる所なし、理想は見識より出づ、見識は学問より生ず、学問をして人間が上等にならぬ位なら、初から無学で居る方がよし。

 

これはかなり長い文章である。最後にこう書いている。

 

右の條々、ただ思ひ出る儘に書きつく、長く書けば際限なき故略す、必ずしも諸君に一読せよとは言はず、況んや拳々服膺するをや、諸君今少壮、人生中尤も愉快の時期に遭ふ、余の如き者の説に、耳を傾くるの遑なし、然し数年の後、校舎の生活をやめて、突然俗界に出たるとき、首を回らして考一考せば、或は尤もと思ふ事もあるべし、但し夫も保証はせず。

 

この『愚見数則』は立派な処世訓といえる。これを生徒達に書き残して漱石は松山を立ち去った。これを漱石は28歳の時書いたのには驚く。彼はそれまでに相当厳しい人生体験をしている事が推察できる。また学問の上でもかなり思い悩んでいたような気がする。熊本へは弓道具を携えて行っているがもう稽古はしていないようだ。第五高等学校の生徒達を相手にして漱石は気持ちが大分収まったようである。

 

さて先に挙げた漢詩であるが、これは漱石が松山に赴任して早々に正岡子規に宛てた手紙の中に書かれたものである。此の詩の中の「快刀切断す 両頭の蛇」の【語釈】で、佐古氏は次のように書いている。

 

「両頭蛇―ここでは漱石の松山行きの外的要因である人間関係の煩わしさ(恋愛関係を含む)と、内的要因である功名心(英文学研究に対する不安と煩悶)の象徴である。」

 

一方吉川幸次郎博士は『漱石詩集』で此の句についてこう述べている。

 

「両頭蛇―楚の孫淑敖の故事を用いる。彼は子供の頃、両頭の蛇を見た。それを見たものは死ぬという言い伝えがある。みずからの死を覚悟するとともに、あとから来たものが、再び見ると行けないと思い、蛇を殺して埋め、泣きながら家に帰ると,母はいった、「憂うる無かれ、汝は死せず。吾れ聞く、陰徳有る者は、必ず陽報有りと」。

のち果たして、楚國の宰相となった。先生(吉川博士は漱石を先生と尊敬している)の理想もまた後人のために、色々な両頭の蛇を、切断し、葬り去ることにあった。その結果として、いろいろと批評されるのは、顧慮すまい、というのが、次の「不顧人間笑語嘩」である。

 

二人の解釈は多少異なるが、いずれにしても、漱石は大学時代から神経衰弱になるほど悩んでいた。彼はさらにイギリスに留学して、そこでも神経衰弱に陥っていた。帰国後東大で英文学を教えているがまだ悩みは続く。最終的には朝日新聞社に入って小説の連載を始め、とうとう胃潰瘍で大出血をして一時人事不省になって生き戻った時から、精神的に落ち着いたようである。その頃の漢詩がそれを反映している。

 

先にも述べたように、私は此の度漱石漢詩を読み始めたとき、漱石が松山で弓を引いていたことをまた思い出したのである。其の時先に述べた「栴檀弦走り」に関して教えて頂いた方からの手紙を読もうと思って、探したが見つからない。それとは別の手紙だけがあった。私はこれを読んで見た。それが「この手紙については後で書く」と云ったものである。何だか仰々し言い方だが、私はこれを15年振りに再読した。全部書き写してみる。

 

先日は心温まるお手紙を頂き誠に有難うございました。四十九日を過ぎてもまだ思い出の波が押し寄せて来て、私の胸を痛めます。普段は何も考えずに過ごしていた夫婦が突然この世から消えてしまうことの淋しさ、悲しさを知り、この家に一人ポツンと残されて、生きる甲斐もないほど落ち込みましたが、結局は自分で立ち直る以外の方法はないと、般若心経を唱えて、心を空にし、気を紛らわせたり、雑事を見つけて身体を動かすことで、思い出から遠ざかるようにして過ごしています。

思い起こせば、昭和十八年九月学徒動員で半年繰り上げ卒業し、直ちに就職(N・E・C) ―この時家内と知り合う―十二月入隊と同時に満州に送られ、三ヶ月の教育を受けて、私は幸いにも熊本の予備仕官学校に入り(同期の多くは満州士官学校から南方に行く途中、輸送船が撃沈されたと聞いている)少年飛行兵の教官として鳥取で任務中に終戦、翌年二十一年結婚、以来五七年仲良く過ごしてきて老後は家内のリュウマチとパーキンソンの介護に数年明暮れましたが、寝た切りの約三ヶ月のあと、別れが来ました。はかないものです。然し弓の仲間にも励まされて漸く道場にも顔を出し始めました。

 

私はここまで読んで不思議な符合をみた。この方が昭和二十一年に結婚されて五十七年の間仲睦まじく過ごされたのである。そして奥様が数年間病床に臥せられ、ご主人の介護も空しく亡くなられた。そして四十九日の法要を済まされたとある。私も妻の四十九日の法要を終え、もうすぐ一周忌がやって来る。しかも我々の結婚生活も五十七年であった。続きを書き写そう。

 

小沼範士このことですが、私が戦後勤めていた大蔵省印刷局(今は国立印刷局)の東京の滝野川工場の弓道部の師範として指導に来て頂いていたので、先生の葬儀にも出席しましたが、その時デプロスペロが鳴弦の儀式を行って葬儀車を送った事を覚えています。アサヒ弓具店の道場での先生の射影のテレホンカード(殆ど使用済み)がありましたので同封します。特に作法には厳しく、道場での普段の立居振舞にも自ら能のような優雅さと茶道のような上品さを持っておられました。

弓道誌十一月号65頁中断左側に、昭和五七年三月号に「漱石先生と弓」杉本正秋の文字を発見し、どんな事が書いてあるのか確かめたくて全弓連に連絡し、コピーを送って貰い読んで見ましたが、山本さんがお書きになったものには比べものにもならなくて、心に残るものは何もなく、改めて山本さんの文脈の豊かさと深さに感慨を新たにしました。同封しておきます。

寒さが厳しくなって参ります。呉々もお身体を大事になさって下さい。

平成十五年十一月二十六日

                         高瀬谷 生

  山本孝夫 様

 

今こうして改めて手紙を読み直し、さらに書き写してみて、この方は弓道を通じて人格を磨かれた立派な方だと思った。先の戦争で幸運にも生きのびて、戦後平和な人生を送られたのだ。そして57年間幸せな結婚生活を続けてこられたのだと思った。私は弓道を止めたのでその後交信はしなかったが、先にも述べたように同じような立場に今あって、良い方に一時的だがめぐり会えたと思うのである。

最後に小沼範士という方は弓道九段の名人とも云える人だったようである。私は偶々小沼範士とデプロスペロ共著の『弓道』(英文)講談社発行を山口市弓道場で先輩の方から貰ったので読んでみて、如何に小沼範士が優れた人であったかと言うことを知った。

新型コロナウイルスの感染拡大で、東京オリンピックの開催が危ぶまれているが、弓道はオリンピックの参加種目に決してはならないだろう。多くのスポーツと違って、これは本質的には勝ち負けを競うものではないからだ。「礼に始まり、礼に終わる」といった弓道の精神が世界に普及したら、人類に眞の平和をもたらすだろうと思う。

 

                         2020・2・22 記す

落ち葉

 今年も今日で終わり、明日から師走に入る。十二月は極月(ごくげつ)ともいう。居間の柱に掛けてあるカレンダーに目をやった。毎年萩のお寺から壁掛け用の細長いこのカレンダーをもらう。月毎にふさわしい気の利いた言葉や俳句などが書かれていて、それに英訳がそえてある。日本文とその英訳を比べて、上手い訳だなと感心することもあれば、これでは日本語の持つ感じとは少し異なるなと思ったりもする。今月は次の俳句と下に英訳が載っていた。誰の句かは判らない。

 

はらはらと無常を告げる落ち葉かな

 

As  autumn leaves fall,so nothing lasts forever.

 

「無常を告げる」という言葉には落ち葉を人格化した暖かみが感じられる。一方英訳は理屈っぽい気がする。あえて直訳してみると「秋の木の葉が落ちるように、何一つとして永久に続くものはない」。これでは文章に味がない。拙訳のためばかりではあるまい。また英訳では「はらはらと」という風に吹かれて散る様子を示す擬声語がない。この句ではこの言葉が効いているとわたしは思う。

 

萩から山口に移って今年でちょうど二十年になる。十年一昔と云うが、二十年経てば生まれた子が成人式を迎えるのだから、つくづく年月の早い流れを感じる。今年になって例年になく気づいたのは、見事に紅葉した街路樹とその落葉である。欅、銀杏、楓と書くと堅苦しいが、けやき、いちょう、かえでと綴ると、「さらさら」とか「はらはら」と散るこうした木々に似つかわしいかも知れない。

ここでわたしはふと文学作品に現れたこの「落葉」についてちょっと見てみようと思い、二冊の本を書架から下ろした。二冊と云ってもいずれも分冊である。

一つはR・H Blyth著『HAIKU』(北星堂書店)の中の第四巻「秋と冬」で、もう一冊は『英語歳時記』全五巻(研究社)の中の一冊「秋」である。

 

前者は大学時代の恩師の蔵書だったが亡くなられて後に頂いた。先生は禅関係の文書の

研究・英訳をされていたので、このブライス教授の『俳句』も参考にしておられたかと思う。わたしは折角頂戴したので今回全四巻を通読して、イギリス人の著者が、自然に対する情趣の豊かな人だと感心した。

この本では俳句をまず挙げ、それに関連した東西の文献を参考として援用し、縦横適切に解説したもので、じっくり読めば非常に示唆に富むものだと思う。全部英文で書かれているが、俳句だけはそのまま日本語が載せてあるから助かる。

それでは「落葉」の項をみてみよう。

 

  焚くほどは風がもてくる落葉かな      良寛

 

 The wind  brings 

    Enough of fallen leaves

      To make  a fire.

 

 この句に関して、「これはキリストの言葉を唯一、真実に意味したものである」として、ブライス教授は聖書の言葉を引用しておられる。

 

 空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。きょうあっても、あすは

炉に投げこまれる野の草さへ、これほど装ってくださるのだ、ましてあなたがたに、よくしてくださらない訳がありましょうか。信仰の薄い人たち。

 

これは福音書マタイ伝にある言葉である。教授はカトリックの神父でもあるから、キリストの言葉を引き合いに出されたのであろう。しかしここに詠う良寛は果たしてそのようなこと、つまり信仰心を詠ったとは思えない。彼は焚き火をしていたら火が消えかけたが、風が吹いて木の葉が落ちてきたので集めてそれをくべた。おかげでまた火の勢いが盛んになってありがたい。まあ、このような全く無心の気持ちを一片の句にしたのではなかろうか。

次に一茶の句が挙げてある。句の英訳は省く。

 

 猫の子のちょいと押へる木葉

 

「木の葉が飛び散りかけると子猫が前足をひょいと伸ばしてそれをちょっとの間

押さえ一二度軽く叩いたりして放す。この句は言うなれば一茶の他の句にも繋がる。」と云って次の句が挙げてある。

 

 門畠や猫をじゃらして飛ぶ木の葉

 

 ここでは落ち葉の方が子猫を誘惑して面白がっているようだ。視点を全く変えた一茶の遊び心が感じられる。

 

 木枯らしが吹くと市中の街路に木の葉が舞い落ち、吹きだまりには堆(うずたか)く溜まっている。もう市民は風の吹くままに当分手をこまねいている感じである。

 

 掃きけるが遂には掃かず落葉かな     太祇

 

 ブライス氏は「冬の初めには我々は落ち葉を楽しみながら、また意識して掃き清める。しかし次から次へと多くなると自然はもうわれわれの手には負えない。われわれは降参する。そして詩人が言うように“自然が君臨する”のだ。旧山口駅通りはまさにその感がある。

 

 今度は『英語歳時記』を開いてみよう。索引に「落葉」とあった。そのページを開いたら次の詩が載っていた。英文とそれの訳文が載せてある。

 

 老人は秋の落葉を燃やしながら

 冬をひかえて中庭をかきよせる

彼らには命がない どちらだって

 木の葉は死んでいる 老人の命は

 木の葉さながらはかなくあえないもの。

 

 この詩の作者はマクリーシュというアメリカの詩人で、1892年生まれ。ルーズベルトの信任厚く国会図書館長や国務次官補など歴任し、戦後はユネスコのために尽力していたと『研究社英米文学事典』に記載されている。

 

彼は「老人の命は木の葉さながらにはかなくあえないものだ」と詠って、人の命も死んだら枯れ葉と同じだと考えている。死後の世界など全く眼中にない。英文は終わりの二行が「L」の頭韻を踏んでいるので読むと調子は良いが侘しく寂しい詩である。

 

The  leaves are  dead, the  old  men live

  Only a  little,  light as  a  leaf.

 

 やはり詩は意味だけではなく、読んでみて韻を踏み口調を楽しむべきだろう。最後にイギリスの詩人トーマス・モア(1870~1944)の詩を見てみることにする。

 

 私のまわりのあんなにも心の結ばれ合っていた

友人たちが 

冬空の木の葉のようにみんな散って行ったのを

思い出すとき

  私は灯りが消え、

  花輪もしおれて、

  人ひとり  

  いなくなった

  宴の間に、ただひとり取り残されて、 

  歩いている人間のような感じがする。

 

モアの詩は「古風な調子で、感情の激しさはないが親しみの深いものである」と上記の辞典に載っていた。

 

 今年も残り少なくなった。例年通り、「喪中に付き」の葉書が舞い込んでくる。老人が亡くなるのは自然だが、定年退職したばかりのような人の死は気の毒でならない。去年・今年と教え子が二人続いて亡くなった。まだまだこれからの人生、もっと生きて社会のため、家族のために働きたかったであろう。さぞかし心残りであったろう。残念でならない。

最後にヴェルレヌ作・上田敏の名訳「落葉」を誦しつつ、心から冥福を祈って筆を擱くことにする。

 

  秋の日の

  ビオロンの

ためいきの

身にしみて

ひたぶるに

うら悲し

 

鐘のおとに

胸ふたぎ

色かへて

過ぎし日の

おもひでや

 

げにわれは

うらぶれて

ここかしこ

さだめなく

とび散らふ

落葉かな

 

 

追記  不思議な事があるものだ。妻が高校時代の仲良しグループとの一泊旅行に行くというので、新山口駅まで車で送って行ったが、その日に限って駅頭で別れるのではなく、プラットホームまで降りて列車が来たので、「明日又来るから時間を知らせてくれ」と言って別れたのが永遠の別れとなった。

葬儀を無事に済ませ一週間ばかり経ったとき、昨年末に書いたこの文章の原稿がやっと届いた。「落ち葉」と題した拙い文である。はらはらと枯れ葉が舞い落ちるようではなく、葉末に宿った朝露がぽたりと落ちるが如くあっけない死である。しかし安らかな死に顔を見せて呉れていた。

知人や教え子たちの死を悼む文章が、図らずも妻をも悼む文章になってしまった。 

                        令和元年 六月五日  記す

氷柱(つらら)

 

「天気予報」の予告通り、7日の朝起きて外を見たら前日と打って変わり、雪が降りしきり一面の銀世界だった。従って7日・8日と戸外には全く出ずに家の中に籠居していた。朝の8時に庭の石地蔵を拝もうと出てみたら、雪は全く解けずに地蔵様の上にも10センチばかり積もっていた。ふと門の屋根を見たら僅かに勾配を付けてある端から氷柱が垂れ下がっていた。私は山口に移り住んで21年になるが、我が家で是程の見事というか、長い氷柱を見たのは初めてである。カメラを持ってきて先ず写した後巻き尺で測ったら丁度40センチあった。空は青く晴れていて白雲が浮かび陽が射していたから、徐々に融けて氷柱も短くなり、その内消えてなくなるだろうと思った。

私は「氷柱」と書いて「つらら」と読むからこれは当て字だと思い、辞書でちょっと調べて見た。語源的には2つあるようだ。

  • ツラツラ(滑滑)の約か〔大言海〕。ツラは滑らかで光沢のあるさまを形容した語。
  • 連なって長くなるところから、ツラツラの意。

英語では「icicle」という。「つらら」の意味の外に口語で「冷たい人、冷静な人」と説明してあった。語源的には「「ice + ickle」とあった。ickleは語源的に曖昧だが、「ic」には「のような」「の性質の」「・・・からなる」とあった。従って「icicle」が「つらら」の外に「氷のように冷たい人」という意味だと知った。

heroic「英雄の、英雄的な」publicがpeople+icから分かるように「公共の、人民の」という意味になるのを知った。

 

氷柱は今云ったように当て字と思われる。滝の水が凍れば当に氷の柱だが、普通は氷の棒程度の小形のものしかこの辺りでは目にしない。私はこの「氷柱」を見たのは夜が明けて8時になった時だが、それより前4時半に目が醒めたので、寒いけれども思い切って起きた。室内の寒暖計は摂氏8度だった。直ぐに暖房のスイッチを入れたが、何しろ私が休む部屋はキッチン兼居間で、いささか広くておまけに天井が高いので、おいそれとは暖かくならない。しかし一端暖まったら、木造建築のお蔭で余熱を長く保つから、妻が亡くなってからは、冬季は此の部屋に寝具を運び入れて寝ることにしている。まあ一長一短だ。という訳で、10時45分になっても、室温はまだ18度である。

自分でも思うのであるが、私はどうも意志薄弱である。昨年5月27日の妻の命日を過ぎて、『漱石全集』全16巻を読もうと決心し、第一巻の『吾輩は猫である』から読みみ始めて、『明暗』までは読み終えたが、第八巻の『文学論』は難しくて途中で止めた。此の作品は漱石がイギリスの留学から帰って、留学中に猛勉強した成果を当時の東大の学生たちに講義したのを、後に一冊の本として世に問うたものである。文学とは如何なるものかということを、いささか哲学的と云うか科学的に説明したもので、多くの英文を引用してあって、私は訳文を参照しながら読むので遅々として進まない。

私は此の作品を以前にも曲がりなりに読み通した。今回また挑戦したが依然として直ぐには内容が頭に入らない。結局自分の頭が悪いと知っただけであった。その時ふと思った。私は来月には満89歳になる。漱石が死んだのは大正5年の12月9日だった。その時彼は満年齢で49歳だった。私は彼の最晩年の作品『思い出す事など』を非常に面白く読んだ。そしてその中に載っている彼が作った漢詩には多分に共鳴した。私は漱石がそれより15年ばかり前に書いたこの『文学論』をはじめとして多くの論文を、この先ぐずぐずと読んでいたのでは、自分の寿命がなくなると思った。それで一時漱石の作品を読むには止めて、もっと今の我が身に即した本を読まなければと思ったのである。

そこで先ず中村元氏の『仏教入門』を図書館で借りて読んだ。次に松原泰道師と五木寛之氏の対談『ブッダ最後の旅』を面白く読んだ。いずれも教えられた。いままた佐々木閑氏の『仏教哲学』のシリーズをネットで見ている。また此れは再読だが、梅原猛氏の『法然の哀しみ』を読むことにした。『平家物語』には法然の浄土思想が濃厚に入って居る。例えば「祇王」の中にそれがはっきり書かれてある、と梅原氏は書いていた。偶然の符合うと云うべきか、私は『平家物語』か『方丈記』の何れかをもう一度じっくり読みたいと思い、先日から『平家物語』を読み始めた。ところが今朝、梅原氏の言っていた「祇王」と云う項目があるではないか。私は一段と興味を抱いて読んで見た。

 

十数年の昔になるが、私は京都へ行ったとき、此の祇王姉妹と母ならびに仏御前の墓のある祇王寺を訪れた。都心を離れた嵯峨野の静かなところにあり、観光客は大部居たが、落ち着いた佇まいで清楚な感を受けた。狭くて石段が多くあり、楓の立木と庭一面の綺麗な苔は印象に残った。いまネットで写真を見てみると、あの時訪ねた状景が蘇る。

今回此の「祇王」を読んで見て、これは間違いなく哀れな実話だと思った。『平家物語』の「巻第一 祇王」に書かれている内容を概略してみよう。

 

清盛が天下を掌握し、世のそしりをも憚らず、人の嘲りをもかえりみず、好き勝手な事をしていた頃、都に祇王・祇女という白拍子の上手な姉妹が居た。彼女らは閉(とじ)という人の娘であった。清盛は姉の祇王を寵愛していたが、続いて妹の祇女も愛し、更に母親にも良い待遇を与えていた。京中の白拍子を舞う女達は、うらやんだり、ねたんだりして、「祇」という文字をつけたら彼女達のように幸せになれるのではと言うほどであった。こうして3年ばかり経ったとき、加賀の国の出で、仏(ほとけ)と云う白拍子の上手な少女が都で有名になった。年は16歳で、「昔よりおおくの白拍子ありしが、かかる舞はいまだ見ず」と言って京中でもてはやされ、本人自身も自信に満ちていた。或る日、「自分は天下に聞こえているが、太政大臣(清盛)に召されないのは残念だ」と言って、招かれないのに勝手に押しかけていった。すると清盛に、「何と云うことだ。招きもしないのに来るとは。さっさと出ていけ」と云われて、帰り掛けたのを見て、祇王が清盛に、「仏(ほとけ)御前(ごぜ)はまだ年端もいかぬ若い人です。たまたま思いきって来たのですから可哀想です。せめて舞いをご覧にならずとも、歌でも聴かれては」と云って呼び止めるようにお願いした。それではと云って舞いと歌を実演させた。そうすると一変に清盛は気に入り仏に心を移してしまった。仏はこれを知って清盛に「私は勝手に来ました。祇王様のお蔭でこうして寵愛を受けるようになりました。どうかお暇させて下さい」と云ったら、清盛は「遠慮はいらん。それなら祇王達をこそ出したらいい」と言った。

此を聞いて祇王は3年もの間の住み慣れたところを立ち去っていった。その際、忘れ形見にと思い、障子に一首の歌を書きつけた。

 

もえ出るも枯るるもおなじ野辺の草いずれか秋にあはではつべき

 

 歌の意味はそう難しくはないが、白拍子がこのような気の利いた歌を詠んだと言うことに、私は祇王が中々の教養の持ち主だと思う。「秋」に「飽きる」を懸け、ともに結局は入道清盛に飽き捨てられる運命にあることを暗示したものである。

後になってこの歌を読んだ仏が清盛のもとを密かに去って、探し探して祇王姉妹達のもとを訪ねるのである。その時仏は頭を剃って遁世の覚悟を決めていた。自分も何時かは飽きられて捨てられる事を、祇王の事実を目にして悟ったのである。

いずれの国、いつの世においても、絶対的な権力を手にした覇者は、火のように燃える情熱をもって欲しいものを手に入れるが、一度それに飽いたら冷然と捨て去るのである。当に冷酷無比の人物「つらら」なのである。

                           2021・1・11 記す

今年最後の日曜日

 

暦を見るまでもないが、今日12月27日は今年最後の日曜である。暦には「大安」と書いてあった。何か良いことでもあるかなと思った。これより数時間前、夜中と云っても午前3時に目が醒めたので、トイレに行きまだ起きるのは早いので又床に入った。眠れそうにないので次男がくれた電子書籍吉川英治の『私本・太平記を』を読んだ。これなら電気を消して暗くても画面が明るいから読める。その内眠気を催したので書籍の蓋を閉じて寝た。しばらく寝たのだろう再び目が醒めて時計を見たら6時前だった。少し寝過ぎたと思い直ぐ起きて顔を洗い、先日から読んでいる漱石の『文学論』読むことにした。次のような事を漱石は書いていた。

 

科学者が理性に訴へて黒白を争はんとするに引きかへて、文学者は生命の源泉たる感情の死命を制して之を擒にせんとす。科学者は法廷の裁判を司どるが如く、冷静なる宣告を與ふ。文学者は慈母の取計ひの如く理否の境を脱却して、知らぬ間に吾人の心を動かし来る。その方法は表向きならず、公沙汰ならずして、其の取捌きは裏面の消息と内部の生活なり。

これ等内部の機密は種々特別の手段によりて表出せらるるものにして、此等の手段を善用して其目的を達したる時、吾人は一種の幻惑を喚起してそこに文藝上の眞を発揮し得たりと称す。

 

 この後漱石は多数の実例を彼が読んだ物の中から引いて上記のことを説明している。一例を示すと、「新婚の楽しさを花に移して歌った」ものがある。

 

  今はばらの花の月です。結婚以来、私は到る所でばらを見うけます。ばらも、外のどの香のよい草花も、なぜか、私の眺めるところではどこでも、私を知っていて、お待ちしていましたとばかり私を迎えてくれるようにみえます。

        (ランドー『想像的対話〔レオフリックとゴダイヴァ〕』角野喜六訳)

 

この言葉を口にしたのは、新婚ほやほやのゴダイヴァという妙齢とも言える女性である。彼女はこのように領主である夫に向かって言うのであるが、そのあと領民が飢餓に苦しみ悩んでいる事を知り、夫に税の取り立てをやめるように訴える。夫は半ば冗談だろうが、「お前が素裸で馬に乗り街中を走ってきたら、お前の訴えを聞き届けてやる」と云ったので、彼女はそれを真っ昼間に実行する。チョコレートに彼女の名をつけて売られて居るのがある。購入者した人たちはこの故事を知って賞味しているだろうか。

このように、清純そのものとも言えるゴダイヴァ夫人が、自分たちの新婚の楽しみを、ばらや香りのよい草花にたとえて言った言葉である。漱石は多くの本を読み、その中から適切な文章を引用して学生に示した。しかしこの『文学論』は私には少々難しい、しかし惹きつけられる。

7時半まで読んで一休みしようと思い、ポットでお湯を沸かして抹茶を点て、家内の甥が送ってくれた最中があったので一服喫した。前にも書いたように私は同じ本を長く読むことが苦手である。そこで今度は『いまをどう生きるのか』とう本を取り上げた。これは臨済宗の僧侶の松原泰道師と作家の五木寛之氏の対談である。この本が出版されたとき松原師は101歳の高齢で、五木氏は私と同じ昭和7年生まれだから76歳だったであろう。いずれにしても老人同士の対談である。彼ら2人共、釈迦の仏跡を訪ねてインドへ行っているので、話がそれにまつわることが多く出ていた。

釈尊が最後に生まれ故郷のカピラバスツを目指して、400キロの道程をととぼとぼと、いや、よろよろと悪い道を歩いていかれたが、途中のクシナガラで亡くなられる。途中の村で鍛冶屋のチュンダという男が出した茸の料理で下痢をされて、菩提樹の下で息を引き取られた。そのとき釈尊は80歳で、今なら150歳くらいの超高齢である。これは有名な話で私も知っては居たが松原師は次のように云っている。

 

チュンダの出した料理で釈尊が体調を崩されたということはあきらかでしたから、おそらく外の弟子たちはチュンダを白眼視したと思うのです。「おまえがあげた料理のためにお師匠さんがこういう悲惨な死に方をなさるんだ」と。そのとき釈尊は木陰で泣いているチュンダをご覧になり、アーナンダをやって、「泣くことはない」と諭されるのです。

「おまえの料理を食べたから私は死ぬんじゃない。人間生まれた者は必ず死ぬ。これが因縁の法だ。だから、おまえの物をよしんば食べなくても私は外の縁で死ぬに決まっている。だからおまえのせいじゃない」

さらに釈尊はいいます。

「この年まで、思い出の供養が二つあった。一つはスジャータから乳粥をもらって元気をつけ、それによって悟りを開くことができた。もう一つはチュンダ、おまえのごちそうの供養だ。おまえによって、私はいつの日にか死ななきゃならないけれども、その自分が死ぬという重大な契機を、おまえが私に与えてくれたんだ。だからチュンダよ、嘆くことはない」

五木氏は松原師の後続けて言っている。

 そこからブッダは調子の悪いまま足を引きずりながら歩いて、ついにクシナガラのヒラニャヴァティ―河のほとりまでたどり着きます。そしてそこに二本並んでいる沙羅樹の間で倒れてしまう。そこがブッダ臨終の地となるわけですね。

 ブッダが横になると美しい花が天からふりそそぎ、天上から妙なる音楽が聞こえ、栴檀のかぐわしい香りがただよってきたといいます。

 

私はこれを読んで目頭が熱くなった。釈尊という人は本当に慈悲深く、心の優しい人であった。いわゆる涅槃図に画かれた臨終の姿そのままである。科学者はこのような状景を否定するだろう。しかし釈尊の弟子たちには実際にその様に見えたのではなかろうか。

このことに関連して私は次のことを改めて思った。実は昨年5月26日の朝、妻は高校時代の友人との集まりがあるので、昨年は足腰が痛いので欠席したが、今年はどうしても出席しなければと云って朝早く起きてきた。普通は起きるのが遅いので、「えらい早く起きたね」と私が声を掛けたら、「そうなのよ。今日は汽車に乗るのでよく寝ようと思ったら、小塚さんから長電話がかかって、それも一度切れたかと思ったら又掛かり、結局2時過ぎ頃まで話したのよ。」

妻がこのように話すので、それでなくても血圧が高くて大丈夫かなと心配した。時間が来たので妻を車で新山口駅まで送った。その日に限って私はプラットホームまで下りて行き、列車が来て妻が乗り込むまで一緒にいた。

「それでは行って来ます」

「帰りの時間がはっきりしたら知らせて呉れ。迎えに来るから」 

これが妻と取り交わした最後の言葉だった。そして翌日の真夜中、妻が倒れたという電話があり、急いで北九州市の門司の病院へ駆けつけた。深夜の病院は受付にだけ係員が一人いてひっそりしていた。看護婦さんに先導されて一室に入った。其処に見出したのは、ベッドに横たわり、死顔を白布で覆われた今は亡き妻の姿だった。

葬儀が終わり、数日して私は妻が書き続けていた日記を初めて読んでみた。亡くなる前の25日の日記に次のように書いていた。一部だけ書き写してみる。

 

 ゆっくり明日の準備をすればいいと思っていた所、小塚さんからの長電話で対応に追われる。(中略)しばらして又かかる。夜又かかる。いささか疲れたが下関行きの準備はできた。(後略)

 

私はこれを読んだ時、妻の死因の大きな一つが、深夜に及ぶ長電話だと思った。その時は電話を掛けてきた相手に腹が立った。しかし今はその気持ちは薄れた。妻が亡くなったのは、平成から令和へと年号が変った令和元年5月27日だった。今日はその日から丁度1年7ヶ月経ったことになる。その年の夏も終わり秋から冬にかけて、次第にコロナ感染が話題になり出した。私は妻の死を思い浮かべて歌を作った。それ迄こうした歌を詠むと云うことは殆どなかったが、次から次へと浮かんだ。いずれも拙いものであるが書きとめておいた。

 

  朝起きてああ疲れたと妻の云う 又電話かとわれ思うなり

  余りにも非常識なる長電話 妻の友から夜かかり来る

  相手のみ一方的に責められず おしゃべり好むは女の性(さが)か

  真夜中にかかりし友の長電話 妻の急死の一因ならん

 真夜中の異常に思える長電話 妻の日記の最後に記せり

 安らかに眠れる如き亡き妻の つめたき額(ひたい)わが手に残る

 後悔は先に立たずと今更に 妻を亡くして知るぞ悲しき

唐突に妻は逝けども今はただ 清(さや)けき心持ちたきものぞ

 数多く妻の写真は残れども 孫抱きたる笑顔美し

 我をおきて妻早々と旅立ちぬ 逆を思えばこれも良きかと

 食事後の楽しき語らい今はなく ただ黙々と食べ終らんか

 これからは独暮らしの身となれり 余命幾ばく無事願うのみ

 

時計を見ると8時半過ぎているので、読書は一端止めて神仏を拝み、朝食の支度をしようとしたら、「ピンポン」と呼び鈴が鳴った。出てみたら湯田氏だった。彼は県の労働商工部長の職を辞めて、84歳の今なお各方面で活躍中のようである。実は今月10日に一人の男性を我が家に連れてこられた。この人は県庁に勤務されていて土木関係の仕事をしていたとのことである。何故わざわざ来られたかというと、私が以前書いた『杏林の坂道』を読んで、是非私に会いたいとのことであった。彼は私より一つ年上で、小学生の時、阿武郡宇田郷村で過ごしたので、拙著に出てくる従兄を始め多くの人たちを知っているからとのことだった。そこで私は手元に一冊だけ残っていた本を貸した。それを湯田氏が全部コピーして彼に差し上げられたのである。私は湯田氏の親切に感心した。そこで拙著を戻しに来られたのである。その時湯田氏が毎月編集されている『かみひがし』いう広報誌の新年号くださった。それを見てみたら、私が湯田氏に頼まれて書いた記事が載っていた。

 

面会謝絶 

私の身内の一人の妻がやや認知のために施設に入っている。妻は何故夫が来て呉れないのかと不審に思っている。もう一人は、高齢で老人施設に入っているが、ここも家族との面会謝絶である。このままこうした状況が続いたら、最悪の場合家族に看取られずに死を迎える事になるかも知れない。これは人間として最大の悲劇である。 

私の妻は一昨年、コロナ騒動の前に急逝した。日頃、足腰の痛みを訴えていたから、寝たきり入院を恐れていた。これを思うと妻の死は不幸中の幸いかも知れない。

 

先の拙歌であるが、私は次のような歌も作っていた。

 

 寝た切りにならずに逝ける妻なれば これも良きかと独り慰む

昨日まで語りし妻の姿消え 無常ということひしと感ぜり

無常とは誰もが口にするけれど 容易に実感し難きことぞ

 

湯田氏が帰られて朝食を食べていたら、又呼び鈴が鳴った。出てみたら今度は先日湯田氏と一緒に見えた仁保氏で、本を読んだと云ってわざわざお礼の品を持って来られた。これには恐縮した。さらに夕方一人の女性の来訪を受けた。彼女とは山口に移り住んで以来親しくしている。萩で私が子供の時彼女の母親とよく遊んだ間柄である。長い間会っていなかったが、偶然山口で再会した。不思議な縁があるものである。彼女がわざわざお歳暮を持ってきてくれたので少し話した。その後直ぐに次男一家がちょっと寄って呉れた。今日は大安、何か良いことがあると予感した通りであった。今日は釈迦の晩年の事蹟について知り、老いると云うことも良いではないかと思った。

 

春夏の輝く季節を過ぎし今 秋と冬との静けさを知る

 

2020・12・27 記す

 

 

死に臨んで

 

令和二年の秋のある日、萩市の南端に位置する木間(こま)という山間部で、窯を築いて萩焼茶碗を作っていた友人から、何だか重い段ボール箱が送られて来た。開けて見ると中に九箇のマーマレードの缶詰と三冊の筺入りのしっかりした本と、筺に入っていない古ぼけた一冊の本、外に三冊の文庫本が入っていた。いずれも彼が所有していたもので、どれも私が読んでいないものだった。彼は最近になって視力が極端に悪くなって活字が読めないと云って居たので、少しばかりの見舞いをした事に対してお礼の気持ちで送って呉れたようである。彼と知り合うようになったのは不思議な縁による。私はそれまで彼の存在を全く知らなかった。日記を見ると、一九八六年に私が萩市にいた時だから今から三十四年前になる。東京で作家活動をして居た彼の兄が萩にちょっと帰省した。私は高校卒業以来三十数年振りに再会した。その時新聞紙に包んだものを拡げて、

「これは弟が作ったものだ」

と言って一個の萩焼抹茶茶碗を見せて呉れた。私は手に取ってみて、

「良くできているね。弟さんは萩焼作家か」と訊ねた。友人はその後数年して亡くなったが、最初に出版した『遠雷と怒濤と』がNHKの最初の「放送文化賞」を授与されテレビドラマ化された。ペンネームは湯郷将和と言っていた。もう少し生きていたらもっと名をなしただろうと思う。これが契機となって弟さん夫妻と付き合うようになった。彼は萩焼を製作する傍ら小説も書いていた。兄に似て中々の文才の持ち主でもあった。

私は贈本の礼に電話をした時、彼は次のように言った。

「医者に診て貰いましたが、もう活字は読めません。明暗が分かる程度です。是からは音楽を聴いたり、紙に大きな字で俳句でも書いて遊んでみます。残念ですが仕方有りません。しかし人間生きている限りは、何としても前向きで行かなければいけませんね」

私は彼の言葉に悲観的な面が少しもないのに感心し、是は見習うべきことだと思った。

 

人生に於いては不思議な出合いがある。私は長く高校に勤めていたので、接した生徒の数を入れたら、数百人いや数千人もの人と接したことになるだろう。しかし気心が合うというか、改まったいい方をすれば、人生観が同じような人に会うのは僅かの数である。人間にとってこういった人物と一人でも多く交わることができるのは幸せであろう。彼ら兄弟は私にとって最初から気が合う存在だった。

私はよく思うのだが、夫にとっては妻、妻にとって夫は、普通結婚するまではお互い未知の存在である。育った環境、学歴、それ以上に親から受け継いだ遺伝子は相当に違いがあるはずである。そういった違いを持つものが生涯を共にするのだから、自ら摩擦や意見の違いが生ずるのは自明のことである。その場合お互いの考え方と言うか人生観の違いが、許容できる範囲であれば、何とか結婚生活を維持できるのではないかと思う。しかし現在の若い男女は妥協も忍耐も少なく、折角結婚しても破鏡に至る事が非常に多い。 

或る日、この友人の家を妻と一緒に訪れたとき、彼が、

「結婚生活は忍耐と妥協ですね」と言った。

「そうですよ。忍耐と妥協がなかったら、如何して一緒におれますものですか」

と、彼の奥さんもすぐ続いて、半ば本気で笑いながら同調された。

彼は結婚後数年して家を出てその頃流行っていた「ボーリング」の競技場建設の現場監督をしながら、全国各地にある窯場を訪ねて回った。将来自分も窯を持って製作に当たろうと考えて居たようである。この考えを密かに抱いていたから、或る日ぶらっと家を出たと云った。こういう事があったので奥さんの言葉には実感がこもっていた。

 

私は今年五月妻の一周忌を終えて、漱石の全ての作品を再読しようと思い、小説だけは読み終えた。その中に『道草』と言う作品がある。周知のようにこの小説は、漱石がイギリスから帰国して一高と東大で教鞭を執っていた時代の事を、つぶさに書いたものだと言われている。当時漱石は経済的に非常に苦しい立場にいた。

ここで私にとって面白く思えるのは、彼と奥さんとの考え方の違いに基づく会話のやりとりである。漱石の言動は確かに精神的にいささか異常だと思えるが、彼はそのことを冷静に描写しているから不思議である。決して気が狂ってはいない。しかし奥さんを始め周囲の人から見たらどう考えても正常ではない。若し奥さんに生活力があれば子供を連れて離婚したかも知れないと思われるほどである。この事は漱石の死後出版された奥さんの口述による『漱石の思ひ出』に詳しく書かれている。

漱石は家庭内では暴力的振る舞いに至るような事があったが、彼の周辺に集まる友人や教え子たちとの交流は実に和気藹々としていて全く正常である。これを考えると、気心が合うという事が如何に人間関係を円満にするかが良く分かる。漱石にとって奥さんはさておき、気が合わないどころか、相手にして気分が悪くなる人物がいる。それは彼の幼いときの養父母で、数十年振りに再会した彼らのことを作品に書いている。彼らは執拗に漱石に経済的援助を求めてくる。彼らを貪欲というか吝嗇の見本のように漱石は描いている。漱石がこのような養父母の下に養子に出されたということが、これまた彼が実の父親に疎(うと)まれていた結果で、こういった事を考えると、つくづく人間の運命というものを感ずる。

若し漱石のような境遇に生い立ったなら、誰しもひねくれて社会を敵視してて行動してもおかしくはない。私は漱石の晩年の漢詩を読み、其処に彼の言う『則天去私』の考えを知って、漱石がそういった事態を克服しようとした努力を察する事が出来た。漱石は絶筆となった『明暗』を午前中に執筆し、そのために「大いに俗了された心持ち」になったのを洗い浄めるために、午後は漢詩を作ったと言っている。漱石漢詩を読むと、彼がいまや死に臨んで、ある程度心の平安を得たようだと思われる。

 

大正二年十一月二十日夜 『無題』という漢詩漱石は最後に作っている。彼はこの詩を作ったあと、胃潰瘍の発作で病床に臥し、それが死の床となった。

 

漱石が晩年に志向した『則天去私』のイメージが、まことに鮮明に表現されて、漱石文学の精髄といっても決して誇張ではないと思う」と佐古純一郎はこの詩について述べている。当にそうだと私にも思われる。佐古氏によるこの漢詩の「読み下し文」と【通釈】を書き写してみよう。 

 

 真蹤(しんしょう)寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難く

虚懐を抱いて 古今に歩まんと欲す

碧水碧山 何ぞ我(が)あらんや

蓋(がい)天蓋地(てんがいち) 是れ無心

依(い)稀(き)たる暮色 月 草を離れ

錯落(さくらく)たる秋声 風 林に在り

眼(げん)耳(に)双つながら忘じて 身(しん)亦た失し

空中に独り唱う 白雲の吟  

 

【通釈】 森羅万象の真実の相は、ひっそりとして静寂であり、まことに深遠で容易に知る事はできない。自分はなんとかして私心を去って真理を得ようと、東西古今の道を探ねて生きてきたことである。一体、この大自然にはちっぽけな「我」などないし、仰ぎみる天や附してみる地は、ただ無心そのものである。

自分の人生の終を象徴するかのように暮れようとする黄昏(たそがれ)どき、無心の月が草原を照らし、吹きわたる秋風が林の中を通り抜けていく。この人生の最期に立って、もはや自分は小さい我の欲望や感覚を越え、自らの存在すらも無にひとしいように感じるのだが、そのような心境で空を飛ぶ純白のあの雲のような自由さに想をよせて、自分の「白雲の吟」を唱うのである。            (『漱石詩集全釈』より)

 

話が逸れたが、先の友人が送ってくれた本の中に、山田風太郎著『人間臨終図巻 上下』の二冊があった。この本は日本人を含めて世界の有名人の臨終の様子を年齢別に書いたもので、私自身老境に達しているから、面白いと思うと同時に、著者が良くもこれほど多くの人物の、臨終に関する文献を集めたものだと、感心だと思う以上に驚嘆した。私はぱらぱらと目を通しただけでも、何れの人物の臨終の様子も考えさせられるものがあった。

その後私はこの上下冊の本を気の向くままに読んでみた。そこで知ったのは、政治家、軍人、学者、あるいは文学者、芸術家等々、実に多くの有名人の名前が出て来た。名前だけは知っているのが多くあったが、彼らが何歳のとき、どうような死に方をしたかという事を、この本を読んで初めて知った。実に面白い本だと思った。

考えてみると、個々の人間は、如何なる時代に、何処の国で、どんな家庭のもとに生まれてくるかは、本人にあっては全て預かり知らないことである。しかしその後の人生において、一つの大きな要因、つまり人との出合いといった事、是を運命と言えば、この偶然と思える運命に大きく影響を受けながらも、ある程度自己の意思を働かせて生涯を送る。一国の覇者として君臨した者もおれば、好き放題に我(が)を通して生きた者もおる。あるいは孜々として学術・芸道一筋に一生を送った者もいる。また国のため人のために命を捧げた人もいる。実に千差万別、かくも違った生き方、死に方をしたものかと今更ながら驚いた。しかし結局は誰も皆死という必然に立ち向かう。その時、この本を見てみると、殆どの者が病に苦しみながら息を引き取っている。生前如何に華々しく活躍して名を残した人たちも、是を読むと気の毒だと思う以上に、哀れで悲しい気持ちになる。「因果応報」という言葉さえ頭に浮かぶ。更に云えば、事故死もあれば殺害された者もいる。あるいは自殺した人も結構多く載っていた。死に臨んで従容と息を引き取った人、いわゆる大往生を遂げた人はほんの一握りあるかないかだということを強く知った。その希有な人物の一人、山岡鉄舟の事が書いてあったので引用してみよう。

 

  山岡鉄舟 (一八三六―一八八八)

 

 ふだんから晩酌一升を欠かさなかった鉄舟は、明治十九年ごろからついに胃病になり、二十年夏には左脇腹に大きなしこりを生じ、胃ガンと診断された。翌年二月からまったく流動食となり、七月にはいって病勢とみにあらたまった。

七月十八日の夜、ひとり厠から戻って来た鉄舟は、「今夜の痛みは少しちがっている」といった。主治医の往診により、胃穿孔のために急性腹膜炎を起こしていることが明らかとなった。惨烈きわまる痛みがあるはずなのに、鉄舟は横臥せず、ふとんにもたれて坐禅をくんでいた。

十九日の払暁になって、やっと「腹いたやくるしき中に明けがらす」と辞世の句を詠んだ。そして午前九時十五分、門人たちの歔欷(きょき)の中に、手に団扇を握り、坐禅を組んだ姿のままの大往生をとげた。 

二十二日の葬儀は篠(しの)つくばかりの大雨の中で行われたが、会葬者は五千人に及んだ。かってのボロ鐵も最後は子爵であった。

 

大抵の者なら、このような状態にあれば痛みに耐えがたく、喚き叫び悶え苦しむであろう。私は鉄舟の日頃からの心身の鍛錬による精神の強さに感服した。私は令和二年三月一日に、硫黄島で戦死した従兄のことを書いて、『硫黄島の奇跡』と題して文庫本で出版した。山田風太郎のこの本を読んでいたら、同じ硫黄島で戦死した西 竹一の事が出ていたので、これも引用させてもらおう。

 

         西 竹一 (一九〇二―一九四五)

 

 男爵西徳二郎の子として生まれ、陸軍騎兵科にはいり、昭和七年八月のオリンピック・ロスアンゼルス大会の馬術競技で金メダルをとり、「バロン西」として有名をはせた西竹一は、昭和十九年七月、中佐として硫黄島に派遣された。

アメリカ軍来襲にそなえての陣地構築の凄じい苦役の中でも、彼は生来の天衣無縫の明るさと気品を失わなかったといわれる。昭和二十年二月十六日ついにアメリカ艦隊の来攻を受けて死闘一ヶ月余、彼が戦死したのは三月二十一日であったと推定される。

のちにこのときアメリカ軍が拡声器で「バロン西、オリンピックの英雄バロン西」と呼びかけて降伏をすすめたが、西は一笑に付して応じなかった、という「伝説」が生じた。しかし彼の最期の様相は明らかでない。

戦後二十余年たって、硫黄島から、硫黄で風化した英国製の拍車つきの長靴が発見されたいうニュースが伝えられたとき、未亡人の西武子は、即座に「それは主人のものです」といった。

 

私はこの記事を読んで、硫黄島の洞穴の中で発見された『従軍手帳』に従兄が書いている最期の文章を思い出した。

 

 今夜ハ斬込ミ隊モ我ガ隊ヨリ出ルトノ事ナリ 恩賜ノ煙草兵ニワタリ下級品若干ワタル夜ハ近来ニナク静カナリサレド時折照明弾、焼イ弾艦砲飛ビ黄燐燃ユ 状況ハ極メテ我ニ不利 四月頃守ル事ガ出来ルダロウカ 兵ノ士気ハ平素ト変リナシ 各兵内に覚悟ヲ秘メ平静ニシテテ静カナリ

不思議ナホド静カナ夜 故郷ノ我ガ家新聞ラジオ等ヨリ定メシ心配致シオル事ナラント思フ 兵等口々ニ言フ、名モナキ戦線ニテ死スヨリ主戦場硫黄島ニテ玉砕センハ幸ナリト 小サイ声ニテ軍歌ヲ唄フ

 

人類が最初に地球上に現れてから、数え切れないほどの人が生まれてそして死んでいった。偉い人も平凡な人間も、「生老病死」の言葉通り、殆ど全ての人間が労苦を伴う一生を送ったのではなかろうか。私は妻に先立たれて人間の死についてよく考えるようになった。

 

私は令和二年二月二十五日に八十八歳の誕生日を迎えたので、これを機会に運転を止めようと決めて警察署へ行った。その後半年経って自転車を買った。しかし食料の買い出しは我が家のすぐ前のスーパーを利用するから自転車に乗る必要はない。十月のある天気の良い日、少し離れた所にあり本屋まで自転車に乗って行ってみた。店頭に宮城谷昌光著『孔丘』の新刊を見つけたので購入した。私は『漱石全集』を毎朝読んでいるが、この本も少しづつ読んでやっと一ヶ月経って読み終えた。

本の「あとがき」に著者は次のように書いている。

「『論語』は、おもに孔子と門弟の発言が綴集(ていしゅう)されているだけで、そういう発言(あるいは問答)がなされた時と所がほとんど明示されていない。」

 

戦後七十五年になる。昭和十九年に県立萩中学校に入って初めて英語と漢文の授業があった。その時『論語』の中に出てくる孔子の言葉を習った。そういえば是等の言葉を孔子が何時、何処で語ったかは教わらなかった。今この宮城谷氏の本を読んで、孔子が何歳の時、如何なる状況の下で誰に語ったかを知る事が出来た。例えば次の孔子が弟子の子路に語ったという有名な言葉など、多くの言葉の由来が分かった。

 

「なんじは、どうしていわなかったのか。その人となりは、発憤すると食事を忘れ、楽しめば憂いを忘れ、老いがまもなくやってくることに、気づかない、ということを」

 

宮城谷氏はこのようにも言っている。

 

五十代に、いちど、-孔子を小説に書けないか、とおもい、資料を蒐め、文献を読み、孔子年表を作った。それらの根を詰(つ)めた作業を終えたあと、残念なことに、孔子を小説にするのはむりだ、とあきらめた。六十代になって、ほんとうに孔子を書くのはむりなのか、と再考して、すでに整えた資料にあたってみたところ。-やはり、むりだ。

 

著者は「あとがき」の最後に、「なにはともあれ、この小説は、孔子が母を埋葬するところから起筆したが、私はその直前に母を喪った。」

 

この時宮城谷氏は七十五歳である。彼は遂に七十歳の半ばになって孔子を主人公とした小説『孔丘』を書き終えたのである。此の點から考えて、私はこの本に出ている孔子の言葉が、何時、何処で発せられたかということを知った。孔子は七十三歳で死んだ。その年に彼が残した言葉をここに書き写して、長々と書いた拙稿を終えることとしよう。

 

 泰山はそれ頽(くず)れんか

 梁(りょう)木(ぼく)はそれ壊(やぶ)れんか

 哲人はそれ萎(や)まんか

        

泰山は多くの人に仰がれる名山である。梁は家のはりで、それにつかう木は暗に人材を指していよう。哲人はいうまでもなく孔丘自身をいっている。(中略)

この日から病んだ孔丘は七日後に亡くなった。七十三歳であった。

十五歳で、学に志した孔丘は、休んだことがない。この死は、孔丘の生涯における最初の休息であった。

                          令和二年十一月十四日 記す

思い出す事など

        その一 小さな英雄

 

来年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』との関連か、運動場の整備などしているここ萩市立明倫尋常高等小学校は、旧萩藩「明倫館」の跡地に建てられたもので、木造二階建の本館棟と並行して、同じような三棟の校舎が堂々と立ち並んでいる。二〇一四年三月発行の『萩ネットワーク』を読むと、此の校舎は「昭和10年に建築されたもので、全国的にもこのような昭和初期の大規模木造建造物が市街地に残っている事は稀であり、歴史的-景観的にも大きな価値がある」とある。

私がこの小学校に入学したのは昭和十三年だから、建造されてまだ三年しか経っていないのだが、別に新しい校舎だったという記憶はない。掃除の時間、クラスの者たちと一列に並び、教室や廊下の雑巾がけをした事は覚えている。

さらに『ネットワーク』の記事を読むと、本館棟は、国の登録有形文化財に指定されているが、建築から七十八年が経過したことにより老朽化が進んでいる。従って、小学校は旧萩商業高等学校跡へ移転し、木造校舎四棟は保存活用する、とある。

小学入学時に撮った写真が一枚だけ手元にある。小学校時代の思い出となる卒業アルバムなどはない。これを見ると、本館の玄関をバックにして、向かって左側の前面に男の子が二十人ほど三列に並び、右側にも同じように女の子が十九人並び、児童の後ろに数人の先生と母親達が写っている。この他に写真の右上に二人の女の子と母親が別枠として写っている。私は「一年忠組」で、全部で四十一人だったことが分かる。各学年の教室名に儒教の徳目が付けられていた。すなわち忠組、孝組、仁組、義組、 禮組という風に。当時は何とも思わなかったが、今考えるとやはり藩校の名残だろう。中央に久芳庄二郎校長と担任の下井美子先生が座っておられる。私は最前列に腰掛けて、黒いサージの制服を着て、半ズボンの膝小僧の上に両手を置いて畏まっている。

もう七十五年も昔でのことである。男子の顔と名前は半分以上一致するが、女子の顔を見て名前が思い出せるのは一人だけだ。彼女は別枠で写っていた二人の中の一人である。色白で引き締まった賢そうな顔をしていた。私がこの女の子の名前を覚えているのは、彼女の父親が私の父と同じ萩商業の教師であって、ある日、父の自転車の荷台に乗って、春日神社の直ぐ隣にあった彼女の家へ行ったとき、父の用が済むまで家の外で待っていると、彼女が母親と一緒に出てきた。そのときの彼女の様子を今でも朧に描き出すことができるからであろう。

当時は「男女七歳にして席を同じうせず」といった教育方針に従い、小学校三年生の時からは男女別学になった。したがって教室内で女の子とあまり話をしなかったし、学校を離れても同様だった。母が早く亡くなっていたので、叔母が入学式に付き添ってくれた。その帰りがけに新校舎の軒下に植えられた竜舌蘭が、色鮮やかに青々と並び生えていたのも微かに覚えている。また入学後の事だが、「水練池」に大きい真四角な桟板を数枚浮かべ、それらの上で数人の上級生が、箒を手にしてバランスよく遊んでいたのを見て、危険な事をしているなと思った。藩校時代この池で、水泳や水中での騎馬の練習が行われていて、水練池としては全国で唯一の遺跡だと云われている。昔は今より水深があったものと思われる。最近はこのような遊びは厳禁だろう。

 

さて、話は飛ぶが六年生になった時の事である。図画・工作の授業は、上述の木造校舎ではなく、運動場の北側に建っていた平屋の粗末な青年学校の校舎で行われた。この校舎の中の一教室が私たちの工作の教場で、そこには頑丈な厚い板で出来た卓球台のような工作用の大きな机が幾つか据えてあった。私たちはその周りに腰掛けて作業した。一合枡くらいの削り易い角材を与えられ、兎を彫るようにと言われた。先生が上手に出来た手本を示された。私たちはそれを見ながら小刀を一生懸命に動かした。木屑ばかり床にこぼれ落ちるが、なかなか思うような形にはならなかった。今の小学生は勿論のこと中学生でも、小刀を使って鉛筆を削るといった事はしないし、その必要もないが、当時の小学生は誰もが「肥後(ひごの)守(かみ)」という折りたたみの小刀を使っていた。

この工作の時間がその日の最後の授業だった。終業のベルが鳴ると、みんながやがや喋りながら木屑を箒で掃いたりして、後片づけをしていた。担任の三戸滋先生は片づけがほぼ済んだのを見て立ち去って行かれた。その時、教室内で二人の生徒が激しく言い争いをしているのが聞こえた。一人は私の町内で父親がブリキの加工を職業としている山野通夫(みちお)という生徒だった。彼には高等科に通う兄がいて、その兄を笠に着る風がなくはなかった。

 

当時私は背が低くかった。一年生の時の通信簿を取り出して見たら百三センチしかない。六年生の時も平均値に達していなかったので、通夫は私より大分高く見えた。彼の口論の相手は新川魯邊といって、一段と背のすらりと高い、浅黒く締まった顔つきの生徒だった。新川は通学区域が違うので私は彼と口をきいた事はなかった。日頃誰ともあまり物を言わないので、孤高を保っているように見えた。クラスの者は彼を「ロヘン」と呼んでいた。クラスの中には韓国籍の者が二人いたが、彼はその一人だった。数多くのクラス生徒の中で、一度も話したことのない彼の名前を、私が今に至るまで明瞭に覚えているのは、自分でも不思議に思う。私は翌年、昭和十九年四月に中学校に入り、生まれて初めて英語と漢文を習った。その時孔子が魯の国に生まれたことを知った。私は「魯」という漢字を見ると、いつも新川魯邊君を想い、また次の格調高い詩を思い出す。

 

    泰山     高橋新吉

 

 泰山ハ巖々トシテ魯ノ平原ニ屹立シ

 赫々(かくかく)トシテ太陽ノ熱射ニ焦(こ)ゲ

 玄々トシテ裸像ヲ氷雪ニ埋メテイル

 泰山ハ悠々乎(こ)トシテ蒼天ヲ威圧シ

 洞然トシテ宇宙を睥睨(へいげい)シテイル

 

クラスには男の子だけが四十人ばかりいた。二人は激しく口論していて、今まさに腕力に及ぼうとしたとき、日頃クラスの中で喧嘩が一番強いと目されていた木村という生徒が中に割って入った。木村の父親は鍛冶屋で大きな人だった。私は木村の家の前を何度も通ったことがあるのでよく知っている。彼は父親に似て体格のいい、やや赤ら顔の男で、頬をふくらますような格好で物を言っていたのを覚えている。我が家にある掛け軸に描かれた「鐘馗」の様な顔をしていた。その上名前が木村重男で、戦国時代の若い英雄、木村重成に最後の一字違うだけだったので、私は何となく覚えている。

当時の同級生の一人が、「木村は喧嘩大将だったが、なかなか良いところがあったよ」と言って、私が知らない次の様なことを話してくれた。

 

「昼休みの時間だったか、数人のクラスの者が運動場で遊んでいた。その時一人の女の先生が離れた処を通られるのを見て皆が大きな声で囃(はや)し立てたのだ。その頃その女の先生は、同僚の男先生と仲が良いとの噂があったので、皆が一緒になって男先生の名前を冷やかし半分に大声で叫んだのだ。するとその女先生がつかつかとやってきて、生徒たちが胸に付けていた名札を見て、その中の一人の小野という生徒の名前を担任の三戸先生に告げたのだ。授業が始まると直ぐ三戸先生が教室にやって来られて、小野がこっぴどく叱られたのだよ。するとその時木村が前に出て、『僕も言いました』と言ったのだ。するとクラスの外の者も『僕も言いました。僕も言いました』と言い、結局積極的に加わった者の全員が芋蔓式に白状したことをよく覚えている。木村はそんな風に男らしいところがあった」

 

後日この同級生が次のような手紙をよこした。

「あの場での木村君の態度は誠に立派であったと感心しています。それにくらべ自分の卑劣さは忸(は)ずかしく悪かったと思っています。弁解がましいことですが、当時は男が女をひやかすことはありうるというよりむしろ一般的であったように思います。もっとも教師は絶対の高い位置にあったことも確かですが。今では隔世の感があります。」

 

坊っちゃん』にあるように、「いたづら丈で罰は御免蒙るなんて下劣な根性」を、木村は持ち合わせてはいなかったのだ。担任の三戸先生はメガネをかけて口髭を生やした厳しい先生だった。真冬でも風邪を引いたもの以外は、黒い制服の下にランニングシャツ一枚で登校するように言われた。また体操の時間、これも寒い日だったが、クラス全員裸足で学校から松陰神社までの往復四キロの道を、走らされた事も記憶にある。先生の家が松陰神社から少し道を上ったところ、松陰誕生地への途中にあったから、先生にとってはこの道は勝手知ったる道だったのだろう。もっとも当時は日中戦争の最中(さなか)だから、こうした鍛錬は別に珍しいことではなかった。それにしても今回の様に先生を揶揄するといった行為は、小学生としてあるまじき行為である。木村は小野一人が悪いのではない、自分も同等な処罰を受けるべきであるとして、『先生、僕も言いました』と勇気をふるって自白したのである。友人は新川についてもこんなことを話してくれた。

 

「新川魯邊は家が近かったので、おれとは仲が良かった。あの男は頭が良かったよ。卒業前おれが『萩中学校へ行くつもりだ』と言ったら、『中学校へ行くのか。良いのう。僕は行きたいが行けないのだよ』と悲しげに言ったのを今でも覚えておる。家が貧しかったからじゃろう。あのときは可哀相じゃったよ」

 

昭和十年代、小学校の課程を終えて旧制中学校への進学率は今とは違い格段に低かった。大半は高等科二年まで行き、卒業後は何らかの職に就いていた。

 

話を元に戻そう。木村はこう言った。

 

「先生に見つかったら大事(おおごと)になるぞ。お前ら何(なん)でケンカしたのか知らんが、授業が終わってから、放課後土原(ひじわら)のグランドでやったらどうか。あそこなら誰も見るものも居らんから。」

 

木村の提案に二人は同意したが、その時すでに通夫は幾分ビビっているような様子だった。しかしクラスの多くの者が自分に味方していると思うと、彼としては退くに退かれぬ立場だった。明倫小学校から土原のグランドまで、距離にして約一キロの道である。東側の校門を出るとクラスの生徒十数名が、木村を先頭にぞろぞろと歩きだした。今はないが、小学校に隣接して萩商業のグランドがあり、道とグランドの間に一間幅の小川が流れていた。道の反対側は広々とした蓮田であった。その日は小川の中をすいすいと泳ぐメダカの群れに目をとめることもなく、またグランドとの境に生えていた笹竹の葉をちぎって笹舟を作り、それを流して遊ぶといった道草をしないで、皆は小川に沿った道を新堀川まで歩き、そこに架かる石橋を渡ると直ぐ右折して、今度は新堀川に並行して両側に飲み屋などのある道を歩いて行った。この道は今でも唐(から)樋(ひ)の大通りにぶつかる。

 

私は今この道のことを書いていて、ここで起きたことを思い出した。やはり小学校に通学していた時の事である。当時荷馬車が市内の路をよく往来(いきき)していた。路上に駄賃の糞を残していくこともよくあった。御者は馬の口とらえないで、荷車の前の方に腰掛けて、煙草を吸いながら手綱を操っていた。それを見た学校帰りの悪童連中も同じように荷車の後ろの方に、「こりゃ楽ちん」とばかりに腰を下ろした。ところが御者はそれを見つけるやいなや叱りつけた。

「誰だ、乗ちょるのは。さっさと降りんか。馬がえらいじゃないか」

そう云いながら、御者自らは馬の苦労を顧みず、依然として乗っていた。

その日は荷馬車でなくて軽トラックがそこに止まっていた。私はこれ幸いとトラックの後ろに手を置き、車が走り出したら楽に移動できると思った。ごく最初の内は速度に合わせて足を運ぶ事ができたが、すぐにスピードに付いていけなくなった。両足が宙に舞った。私は怖くなって手を離した。とたんに体が飛んで地面に腹ばいになった。幸い手足を少し擦りむいただけだったが、恐ろしい体験だった。

 

大通りに出てそこを横断し、松陰神社へと通ずる道を五百メートルも行けば、目的地の土原のグランドに達するのである。しかし当時その途中に警察署があった。今でこそ「優しいお巡りさん」だが、当時は「おい、こら」といって巡査は怖い存在だった。従って小学生が一団となって、しかも喧嘩目的で行動していると判れば、ただでは済まないと、私は内心びくびくしながら警察署の前を通った。しかし木村はそのような素振りさえ見せなかった。

帰りが一寸遠回りになるが、同じ町内の友達として、私は通夫に味方する連中と行動を共にした。いよいよ土原のグランドに着くと、木村が適当な場所へ皆を連れて行った。今は全く様変わりしているが、昭和十年代には、そこは広々とした草地で、野球のバックネットが片隅に立っていた。ダイヤモンドには草は生えていないが、外野はクローバーなどの青草に一面覆われていた。萩中学校と萩商業の野球などが日曜日に時々行われたので、小学生の私は試合があると聞くと、自宅から往復約六キロの道を遠しとせず、よく観戦に行ったものである。グランドの直ぐ側には田圃が広がっていて、日頃グランドには人影があまり見られない空き地であった。

 

新川と山野はそれぞれ鞄を友人に預けて向き合い、外の者たちは二人を取り囲むように輪になって成りゆきを見守った。しかし勝負はあっけなくついた。

通夫は自分に味方してくれると思われる者が多くいたので、その勢いに押されて新川に対峙したものの、最初から相手の威圧的な態度に恐れをなしていた。それこそ蛇に睨まれた蛙といった様子だった。がむしゃらに殴りかかったが簡単に受け止められ、反対に一発殴られると、その場に倒れて泣き伏してしまった。あまりにあっけなくけりが付いたので、皆は意外な面持ちだった。その時木村が出て行って、これ以上手を出すなと新川に言った。新川はもう相手にならないと思ったのか、自分の鞄を肩にかけると、悠然とその場を去って行ったのである。誰ひとり彼について行くものはいなかった。後日彼はおそらく山野の兄にこっぴどくやられたと思う。

しかし彼は実に堂々として、紳士的な態度を見せた。新川といい、また木村といい、今考えてみると、二人とも正に小さな英雄だった。

その二 海浜(かいひん)慕情

 

そのころ夏休みに入ると、町内の子供たちは、山野通夫の父親が作って店先に並べていた外枠がブリキで出来た水中メガネを欲しがった。それを使って海中に潜ってみたいからだ。それはガラス眼鏡が二つついた子供用のと違い、大人や海女が用いている大きな楕円形のメガネである。少しでも早く大人の真似をしたいと思う子供たちは、並べられた数個のメガネの中から、自分の顔に合いそうなのを選び、それを顔にあてがって、水が漏れないように何度も修正してもらい、ぴったりと顔に付くようになると、お金を払い、待ちきれない気持ちで、一目散に海に向かって走って行くのであった。住吉神社の境内を通って、砂浜との境に立っている石の鳥居のところまで行けば、目の前に日本海が広がって見える。鳥居を潜り石段を駆け下りると、波打ち際までは夏の日射しで焼け付くような砂浜である。そこには筵が一面に敷かれてあり、その上に釜ゆでされた炒子(いりこ)が天日(てんぴ)に干してあった。途中それを失敬する事を忘れない。子供たちは炒子を口にしながら、「熱い、熱い」と言って水際まで走って行き、冷たい海水の中に裸足をまず投げ入れる。ここまでは無我夢中である。

さて、足の裏を冷やし終えると、ようやくの思いで水泳開始となる。まず海藻で水中眼鏡のガラスを拭く。そうすることは、鼻息で曇るのが少しでも阻止される、と年配の者に教えられているからである。それからゴム紐を引っ張って後頭部まで延ばし、メガネの中に両眼と鼻がぴったり収まると、口で息をしてみていよいよ海中に潜るのである。

今までこうした経験のない子供にとっては、この行為は一種の儀式である。身体を沈めて海水が胸のあたりにまで来た時、頭を水に浸(つ)けて海中を覗いてみると、それまで見えなかった別世界がガラスを通して目の前に展開する。小さく波打った砂の上には小さな貝殻の破片などが目に入る。そこから背が届かなくなるまで歩き、さらに沖に向かって泳ぐよりは、防波堤のある場所でメガネをつけて泳ぐ方が一段と楽しい。岩伝いに水面まで下りて行き水中を見ると、大小さまざまの岩、その岩と岩との間の奥深い処で揺れている初めて目にするような海藻、またその周辺を泳ぐ小魚の群れなど、さらに岩に取りついてゆっくり移動する小さなサザエやウニなどが目に入るからである。子供にとっては神秘とも言える世界である。その後岩から身体を離して水中に潜ったり泳いだりすると、これで自分も一人前の若者の仲間に入れたという気持ちになるのである。

浜崎の港から沖に浮かぶ島々へ通う定期船や島民の持ち船が通ると大小の波が立つ。その波間へ泳いでいって、波と共に体が大きく上下に揺れるのを楽しむようになれば、もう一人前に泳ぎを覚えたといえよう。

私たちはこれを「波乗り」といって楽しんだ。ここでもう一つ付け加えたら、今は誰も皆上等の水泳パンツを着用しているが、あの頃の男の子は、黒色の三角のちゃちなサポーターを付けて泳いでいた。長い布でできた褌を腰に廻して付けるようになれば、それこそ一人前である。しかし楽しみは危険を伴うことがある。

我が家の先隣りに「好(よっ)ちゃん」という一学年下の遊び友達がいた。彼はほとんど毎日遊びに来ていた。私が中学生になったばかりの頃だったが、夏休みに入り二人で泳ぎに行った。松本川の河口近くで、当時は魚市場が盛況であり、対岸の鶴江へは渡し船が通っていた。私は向こう岸まで泳ごうと言って先に飛び込んだ。好ちゃんもすぐ後からついてきた。川幅は八十メートルくらい。私が向こう岸へ泳ぎ着いて振り返ったとき、あと二十メートルばかりのところで、彼があっぷあっぷしているのが見えた。私は咄嗟に飛び込んで助けようとして近づいた。そのときふと頭に浮かんだのは、「溺れかけた者に手を貸してはいけない。抱きつかれて身動きができなくなる」という教訓だった。そこで私は「もう一寸だ、頑張れ」と、励ましの声をかけながら、彼の手の届かないところを彼と並んで泳いだ。すると彼は安心したのか元気を取り戻して、何とかたどり着くことができた。少し休んだ後、渡し船に乗って無事に帰った。当時、中学生たちは対岸まで競(きそ)って泳いでいた。しかし今は誰一人このあたりでは泳がないだろう。水泳禁止区域である。水深がかなりあって川底は全く見えない。水の流れもある。船頭に頼んで舟を漕がしてもらったことがあるが、「舳先(へさき)を少し上流に向けて漕げ」と言われた。そうすると舟は斜めになって進み、うまい具合に対岸の船着き場に着いた。こういったことを考えると、ぞっとする出来事だった。

 

先日萩へ行ったついでに、この渡し場へ足を向けた。運行時間が決まっていた。舟は向う岸の船着き場に繋いであった。昭和十九年から六年間、対岸の鶴江に住んでいた四人の同級生は、朝夕この渡し船を利用して中学・高校へ通っていた。私はマイカーで大きく迂回して二つの橋を渡ってその地にいる友人を訪ねた。彼は五年前に奥さんに先立たれて一人暮らしであった。家の直ぐ背後に台地がそそり立っている。従って川岸に沿って並ぶ家屋の前の道は車が一台やっと通れるほどである。私は彼を誘って丘の頂にある「神明社」まで行った。二百余段の石段を七十年振りに登った。小・中学生の頃、渡し舟に乗って鶴江に渡り、この石段を駆け上ったものである。途中に大きな桜の木があった。老木で幹の中が空洞になっていた。

このような状態でも花を咲かすだろうか。あの頃は春ともなれば神明社の境内は見事な桜花に埋もれ、対岸からもよく見えていたのに、と私は思った。私はこの朽ち果てた桜の巨木を見て哀れにも淋しく感じた。まさに老残を曝した痛ましい姿だった。

社殿の前に辿り着くと、そこの広場から川向こうの市街地に目をやった。市街地のデルタは見えず、日本海と沖の浮かぶ小島だけが夏の太陽の下でギラギラと輝いていた。藪が茂って見晴らしが十分には利かなくなっていたのが残念だった。

当時その場所から、我が家の庭にあった大きなタブノキが遠望できたので、今回も見えるかなと期待していた。友人の案内で少し下った場所へ歩を移した。するとそこからはっきり見えたのでなんだか一安心した。

 

平成十年の夏、事情があって私は郷里の萩を離れ山口に転居した。そのとき私には心密かに願うことがあった。それは我が家が人手に渡っても、出来る事ならこのタブノキの大樹を伐り倒さずにいて欲しいとの思いである。二百年以上の年月を経ても、常緑の鬱蒼たる枝葉を四方に伸ばしていたこの巨樹を、私は朝な夕な見て育ち、親しみを覚えていたからである。その念が通じたのだ。幸運なことに、我が家が浜崎地区の「伝統的建造物再生モデル事業」の一環として国の補助を受け、修理・保存されることになったからである。私は鶴江の台地からかっての我が家のあたりに目をやり、懐かしいタブノキが今なお夏日の中に青々と繁っている姿を見て、本当に嬉しかった。命ある者はすべて死ぬ。おそらくこの樹は私が死んだ後さらに長く生き続けるだろ。しかしいつかは寿命が尽きる。私は密かに思った。「出来るだけ命長らえて呉れ。そしてかっての我が家を見守ってくれ」と。

 

浜崎の渡し場近くに製氷所があった。砕かれた氷が大きな樋の形をした鉄板の容器の中を、ガラガラと音を立てて滑り落ちる時、手を伸ばして氷片を取って口に入れた途端、口の中がしびれるほど冷たく感じたことも懐かしい思い出である。

本川は静かに流れていた。過ぎ去る者は、すべてこの水の流れの如くである。孔子の「川上の嘆」にある「逝く者は斯の如き夫(か)、昼夜を舎(や)めず」の情景である。白い数羽のカモメが水面にまで下降しながら楽しげに飛び交っていた。

 

私が実際に目にした衝撃的な水死事件がある。やはり小学生の頃だったと思うが、波打ち際で遊んでいると、沖合に一隻の小舟が漕ぎ出してきた。乗っていた一人の青年が舟から飛び込んだが、しばらくしても上がってこない。舟に乗っていた四、五人の青年は不安に思ったのだろう、つぎつぎに飛び込んで上がってこない仲間を探している様子が見て取れた。そのうち溺れた人物を見つけ抱きかかえて舟に乗せたが、そのときはすでに事切れていた。舟を波打ち際まで急いで漕ぎ寄せ、彼らは死体を砂の上に横たえた。私はおそるおそる近づいて見た。おそらく心臓麻痺で急死したのだろう。その青年は萩商業の生徒だった。この他にも水膨れした土左衛門をこの海岸で見たこともある。人の命の儚さを知った出来事だった。

 

中学に入ってからは小学時代の遊び友達と会って話す機会はほとんどなかった。大学を出ておよそ十年後、母校の萩高校に勤めるようになって我が家に帰った時、久しぶりに山野に会って話した。彼は子供の時から面倒見の良いところがあった。小学卒業後しばらくしてタクシーの運転手になって、観光客に得々と観光案内をしていた。市内にある「城下町」は萩市観光のメッカとも言える区域である。彼ではないが、ある日女性のバスガイドが、多くの観光客を案内して、次のような説明しているのが聞こえてきた。

 

「皆さん。この城下町は高杉晋作木戸孝允田中義一といった皆さんご存じの有名な人物が生まれ育ったところです。いま皆さんの目の前の立派な門構えの家は、青木周(しゅう)弼(すけ)といって、毛利の最後の殿様である毛利敬親公の御殿医が住んで居られた家です。安生四年の建造で広い家屋敷です。彼はかの有名な緒方洪庵と並び称される程の人物だったのです。こうした優れた方々の多くは維新以後萩の地を去って行きました。この青木周弼の旧居にも、今は全く関係のない人が住んでいます。」

 

まさにその通りで、ちょうどその頃私はこの旧居に管理人として入っていたので、思わず苦笑いした。山野はその頃、町内会長としても町内の世話をしていた。これは小さい時の彼の世話好きの人柄が発展したものと考えられる。あの時の事は全く忘れ去ったかのように、真面目にまた元気に働いていた。私は一緒に遊んだり、学校への行き帰りを共にした同級生の事を訊ねてみた。

 

「藤井の康さんどうしているか?」

「康さんは木村のパン屋で働いている。腕の良い職人だそうだ」

「藤川長一はどうかね?」

「藤川の長ニイーか?大工の仕事をしちょる。腕は立つようじゃが、これが好きじゃから若いのに使われちょるよ」

こう言って盃を口へ持っていく仕草をした。

 

萩高に勤めて数年して、私は我が家の敷地内にささやかな家を建てることにした。そこで、藤川の腕を頼みとして建築を彼にお願いした。ところが彼は雇われの身である。立派な腕を持っているが、山野が言ったように棟梁としての才覚はなかったのである。いわば職人肌の男だった。建築の仕事は専ら彼が受け持って呉れた。

 

事情があって山口市に居を移すまでの二年間、日暮れ時分になると、私の足は海岸へとよく向かうのであった。打ち寄せる波の直ぐそばを私は歩いた。そこは砂地だが海水で締まっていて歩きやすいからである。しばらく歩き、左折して市街地に入り、檀那寺へ行き展墓を済ますのが当時の日課だった。

私は子供の時から海が好きである。海浜が格好の遊び場だったからでもあるが、大人になって、朱(あけ)に染まった夕焼けの空、茜(あかね)色の雲がたなびく西の海に大きな真っ赤な夕陽がゆっくり沈むのを見ていると、何とも言えない心の安らぎを覚える。反面、冬の寒空が一面暗い雲に覆われ、それを反映した鉛色の暗鬱な海原の上を、遠くから白い波頭を立てて大波小波が打ち寄せて来る時、ザワザワと立ち騒ぐような音がする。足下まで寄せ来る波が今度は退く時の音は微かなザーという音に変わる。寄せては退く波の動きを見ていると、永遠に続くかのようである。この波の動きと音の連鎖は不易であり、その中に流転があるような気がする。あたりが夕闇に包まれるとそぞろに寂寥感を覚える。

 

ある日の夕刻、砂浜を歩いていると、波の打ち寄せる水際で二羽の烏が遊んでいた。私が近寄ればその分だけ離れていった。こうして絶えず等間隔を保ちながら、私と烏はほかには他に誰一人いない砂浜をしばらく移動した。烏はそのうち私との「追っかけっこ」に飽いたのか飛び立った。一人になった私はふと上を見た。一羽の鳶が空高く悠然と旋回しているのが見えた。私は、当時出版され、洛陽の市価を高くした『新唐詩選』の中の杜甫の詩を口ずさんだ。

 

風は急に天は高くして猿の嘯(な)くこと哀(かな)し

 渚(なぎさ)は清く沙(すな)は白くして鳥の飛ぶこと廻(めぐ)る

 無辺の落木は䔥䔥(しょうしょう)として下(お)ち

 不尽(ふじん)の長江は滾々(こんこん)として来(きた)る      (吉川幸次郎氏 訳)

 

                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

秋の旅路に想う

 

昨年、台風一過の秋晴れの日に、老人夫婦三組で長湯温泉を訪れた。大分県豊後竹田駅から少し北に入ったところである。この温泉は世界屈指の炭酸泉である。近頃は、偽証・偽造・偽装といった嘘がまかり通る世の中だが、ここは名実相伴っていた。

竹田駅に着いた時、この地に縁のあった作曲家滝廉太郎の「荒城の月」のメロディーが流れていて旅情を誘った。また駅頭には朝倉文夫製作の美しい裸身の少女像が立っていた。「時の流れ」と題した名作である。

温泉宿に一泊した翌朝、宿の周辺を少し散策してみた。由緒ありげな寺があった。山門を入ると庭に石が二つ並んで据えてあった。いずれも種田山頭火の句碑で、味わいのある字が彫ってあった。

 

ホイトウとよばれる村のしぐれかな

 

一きわ赤いお寺の紅葉

 

「昭和五年十一月八日に当山に参拝してこの二句を残した」と説明書きにあった。山頭火の『行乞記』を見ると次の記述がある。

「十一月八日 雨、行程五里 明治村、長湯村、赤岩といふところの景勝はよかった。雑木林と水音と霧との合奏楽であり、墨絵の巻物であった。(中略)とにかく私は入浴する時はいつも日本に生まれた幸福を考へずにはゐられない、入浴ほど健全で安価な享楽はあまりあるまい」

しぐれる山中を歩いてきた乞食(こつじき)姿の山頭火は、悪童たちに「ホイトウ」とは呼ばれながらも、出湯の温もりと紅葉の美しさに旅の疲れを癒したであろう。

山頭火の句碑を後にして朝倉文夫の記念館を訪れた。つづら折りの山道をしばらく行くと、丘の頂きにやや開けた場所が目に入った。はるか遠くに「国立公園阿蘇くじゅう」の一角も望める場所で、近くの山々の眺めはひときわ美しかった。満目紅葉にはまだ少し早かったが、山腹を点々と飾る紅葉の錦は見応えがあった。瀟洒な記念館がひっそりと建っている。案内書には記念館・ホールを清家清、造園を澄川喜一、館内展示の設計を文夫の娘の朝倉摂が担当したとある。いずれもわが国を代表する芸術家である。

朝倉文夫文化勲章まで授けられた彫刻家である。生まれた所は記念館からもう少し奥に入ったところだと聞いた。小学生の文夫少年はこの山奥から、竹田市中の学校まで毎日片道六キロの坂道を通学したのである。館内には代表作「墓守」の老爺像を始めとして多くの作品が展示してあった。その中で裸婦像だけを一括して展示してある一室があった。清純な若鮎の如き肢体の少女をモデルとして、芸術的に見事に塑像されたものである。聞けば、二人の娘が自ら積極的に父の為に衣服を脱いだとか。私が最初に赴任した高校で、美術の先生が、「私の妹は東京で舞踏を習っていましてが、朝倉先生のモデルになったことがあります」との言葉を思い出した。 

最近の絵画や彫刻などには、奇怪さや珍奇さで人目を引こうとする作品が多い中にあって、こうした清純で健康美に溢れた作品はやはり見る者の気持ちを爽やかにしてくれる。  

晩年、美しい自然の中に、芸術の理想郷をつくりたいという文夫の夢が、一九九一年に生まれ育ったこの地に実現したのである。彼にとっても地元民にとっても大いなる喜びであっただろう。人里離れているが、この「朝倉文夫記念公園」は訪れる価値のある場所であった。

しかし私は想う。この桃源郷のような地を見捨てなければならないような事態が生じたらどうなるか、と。福島を中心とした東北の各地には、地元民にとって掛け替えのない故郷があっただろう。清らかな空と水こそ万民の等しく望むものである。

旅先で思いがけない風物に邂逅するのは大いなる悦びである。運転手に案内されて普光寺の磨崖仏を拝観した。肥後街道を外れて細い山道を上りつめたところで下車した。そこからは狭くて急な坂道を歩いて下らなければならなかった。しばらく行くと樹木の間からハッと驚くほどの大きな不動明王の座像が、やや赤味みを帯びた岩肌に浮かび出ているのが目に入った。人気の無い谷底のような窪地に、高さ十一メートルを超す見事な磨崖仏があるとは思ってもみなかった。全く驚嘆に値する。鎌倉時代に製作された国内最大級のもので、見るものを圧倒するような力強さを持っていた。

旅から帰って『人類哲学序説』という本を読んでみた。著者の梅原猛氏が日本には「草木国土悉皆成仏」という偉大な思想がある。近代合理主義や人間中心主義が置き去りにしてきたものを吟味、人類の持続可能な未来への新たな可能性を日本歴史の中に見出すべきだ、と主張していた。その通りだと思った。

戦後七十年、わが国では戦争のない時代が続いている。また、生活は便利になり楽にもなった、さらに人の命も延びた。しかし反面、自然破壊や環境汚染といった深刻な事態が生じた。環境は人をつくるという。有名な長野県歌「信濃の国」で浅井洌(きよし)が詠んでいるように、「古来山河の秀でたる国は偉人のあるならい」である。緑豊かな森が広がり、清らかな水が流れる、こうした豊かで美しい自然の中にあってこそ、人の心は和らぎ、真の平和を考える優れた人物が生まれるのではなかろうか。旅を終えて私はこの想いを一層深めた。

 

 

 

ごしょうが悪い

 

 ほとんど毎朝、私が食卓に向かって朝食を食べ始める前後に、どこからともなく一羽の鳩が飛んできて、硝子窓の外の褐色のレンガを敷いたベランダに姿を見せる。数羽の雀も殆ど同時にやってくる。必ずと云って良いほどやって来る。その理由は私が玄米を撒いてやるからである。一体どこから見ているのだろうか。何しろあの小さい米粒である。それが見えるということはやはり目が良い証拠である。味を占めたのか習慣化している感じである。こうして餌を折角やるのに、雀は硝子越しでも私が窓に近づいたら一斉にパッと飛び立って逃げるが、鳩はその様な素振りは見せない。しかし窓を開けたらトットットと遠ざかる。中々用心深い。所が今朝は鳩も雀も姿を見せなかったので、「今日は来ないのか。珍しいことだ」と思いながら食事を終えた。終えても彼らは姿を見せなかった。

私は一人になってから昼食は別に決めては食べない。今日はただ簡単にお茶を飲み、トマトを切って食べた。その後台所の戸を開けて外に出てみたら、この暑いのに一面に敷き詰めてある砂利の上に、いつもの鳩が羽をすぼめて蹲(うずくま)っていた。先に述べたレンガ敷きのベランダは一段高くなっていて、その下が砂利を敷いた地面である。草が生えて困るので砂利を業者に敷いて貰った。お蔭で除草の手間が省けて助かった。

 ここ一週間ばかり炎熱が続いていたが、昨日久し振りに雷鳴とともに恵みの雨が降り、今日は朝から雲がかかって多少凌ぎやすい。砂利と鳩の色が似ているので見分けが直ぐには付かなかった。鳩は砂利石がそれほど火照(ほて)るほどの暑さではないから蹲っていたのかもしれない。しかし本能的に餌を求めて来たのだろう。そうは言ってもこの炎暑のもとで、じっと黙って餌を貰おうと待っていたのだろう。それで私は「ごしょうが悪い」ので直ぐ引き返して玄米を少し撒いてやった。

 

 昔年寄りが、「その様な事をしてはいけん。ごしょうが悪いから」とよく言っていた。私はふと思った。「ごしょうが悪い」というが「ごしょう」とはどの様な漢字を当てるのだろうかと。そこで小学館の『日本国語大辞典』を二階の書架から持って下りて開いて見た。一冊でもかなりの重さである。

 人は簡単に「ごしょう」と言うが、次のように幾つかの意味があるのを知った。ただ「ごしょう」と言ったとき、どの漢字が当てはまるか直ぐには分からないのではなかろうか。

1)五性・五姓 《輪廻思想による考え》五たび死にかわり、再び人間に生まれること。

2)五障 仏語。女性がもっている五種の障害。

3)五餉 ひるめし

4)誤称

5)前世、今生(こんじょう)と対応して用いる仏語。

最後の5)の説明に、「ごしょうが悪い」の言葉があった。

 「来世の極楽往生もおぼつかない、転じて、後味が悪い。」

年寄りが意味していたのはこれで、さらに云えば「可哀想だ」の意味ではないか。

この外に「ごしょうを願う」という言葉もあって、次のように説明してある。

「佛の慈悲心を信じて、極楽往生を願う。転じて、佛の加護を頼み幸運を祈る」

私の祖母は元治元年(一八六四)の生まれで八十歳で亡くなった。父は明治三十年の生まれで昭和五十七年に八十四歳で安らかに往生した。したがってどちらも戦後の思想には染まっていない。素朴に仏の教えを信じていたと思う。日本人は神仏を尊び、祖先を敬い、自然に畏敬の念を抱くといったことが、戦前はそれこそ自然に抱いていた感情だった。しかし今はどうだろうか。

 

戦後GHQの方針で、「3S(スリーエス)」という考えを植え付けられた。これは三つ英単語の頭文字である。即ちSEX・SPORTS・SCREENのことである。

私が県立萩中学校二年生の時終戦になり、英語の教科書に「KISS」という言葉が出た時、クラスの皆が笑って一時授業が止まった事を覚えている。大学に入って、イギリスの中世の詩人チョーサーの詩の中に同じような男女の抱接(ほうせつ)の場面が出たとき、先生は敢えて日本語に訳すのを避けられた。それが今は性の氾濫である。

次にスポーツだが、100メートルをいくら早く走っても又泳いだところで、チーターやイルカといった草原を疾駆する獣や、大海を泳ぎ回る魚には叶わない。それが1秒の何分の1早い遅いと言って大騒ぎをする。馬鹿らしい事ではないか、という人が中には居る。私はそうは思わない。やはり若者が身体を鍛えて、走り、跳び、投げたりする姿は見て素晴らしく、また美しい。ただ問題は今やオリンピックは本来の精神を忘れて、全く商業化して記録の更新に大金を出すことである。

本来スポーツとは「娯楽。遊び」で魚釣りや狩猟などもこの言葉に含まれていたようである。その点我が国で行われてきた武道、中でも剣道や弓道には娯楽の要素はない。だから見ていても身の引き締まるような精神性というべき清々しさがある。この対極にあるのがプロレスリングである。これはスポーツの範疇に入れるべきではなかろう。 

論語』に「子曰く、君子争う所無し。必ずや射か。揖譲(ゆうじょう)して升下(しょうか)し、而して飲まししむ。其の争や君子なり」という言葉がある。

【通釈】は「孔子言う、君子は人と得失を争い、勝敗を競うことを決してしないが、もしするとなると、まず弓の競射であろうか。その場合も極めて礼儀が正しい。二人一組の選手が鄭重に譲り合って堂に上り、射を演じて堂から下りる。勝敗が決したら、また礼儀正しく堂に昇って酒を飲み合う。その進退はすべて礼儀を失わない。其の争いたる、まことに君子人らしい美しい争いである。(『論語 新釈漢文大系』明治書院)  

現代の中国にこうした伝統が残っているだろうか。私は萩から山口に移り住んで直ぐに弓道を習って少し稽古した。全く物にはならなかったが、弓道には興味を抱くようになり、お蔭でこう言った文章が目に入るようになった。我が国にはこの伝統が残っていると思われる。果たしてこう言った精神性を供えた運動競技が他の国々にあるだろか。

それはさておき、何でも早ければいいと言って、早口に喋ったり、制限速度以上に車をぶっ飛ばす者が絶えないことは困った事である。ついでに思った事を書いてみよう。

新幹線は確かに速くて便利である。しかし途中の景色は全く目に入らない。以前は各駅停車の鈍行列車に乗れば、窓外に移りゆく森や野や山や川や海といった自然の景色が楽しめた。今は出発点から目的地へ驀地(まっしぐら)に行くだけである。広重の『東海道五十三次』の絵に見られるような風景を楽しみながらの旅は儚い夢になってしまった。

私は小学生の時よく学校を休んだ。その時は狭い三疊の茶室に寝かされた。布団の枕許に風炉先(ふろさき)屏風(びょうぶ)が立ててあった。その屏風にこの「東海道五十三次」の絵が切り貼りしてあったので興味深く見た覚えがある。しかしその後その屏風はどうなったか分からない。

さて、最後のスクリーンとはシネマ(映画)のことである。終戦直後テレビなど外に娯楽がないので、青年男女の唯一の楽しみと言ったら映画を見に行くことぐらいだった。萩市内の中心部に「喜楽館」という映画館があった。それこそ天井桟敷まで鈴なりの観客で埋まっていた。大きなスクリーンに映し出されるハリウッドのスター達の姿に多くの日本人が魅せられたと思う。

イングリッド・バーグマンビビアン・リーゲーリー・クーパやカーク・ダグラスなどといったスターを見た後は、自分が彼らになったような気持ちになって映画館から颯爽と、又ぞろぞろと出たものである。確かに面白い感情移入と言えよう。

 

こういった三種の策略というべき行動で、日本人を骨抜気にしようとしたと言われている。現代はシネマからテレビ、さらにスマホが取って代り、若者の多くがスマホを手にして絶えず手元の小さな機器を屈み込んで見ている姿はあまり褒めたものではない。こうして日本の若者は今や完全にアメリカの戦後政策の術中に嵌まり、さらに金、金、金の時代になってしまった。そして国のために尽くす気持ちが薄れた様な気がする。

これは戦前の日本人の真面目さが戦争に繋がったと誤解し恐れたために、アメリカが打ち出した政策の結果ではなかろうか。教育の影響力は甚大である。「教育勅語」が危険視されている。私はあの中には人間として生きる上での立派な教えが多分にあると思う。それを皆否定して省みないのはどうかと思う。いま隣国の韓国や中国では極端な反日教育が小学生から施されていると聞く。「三つ子の魂百まで」と言うが、若いときに偏った思想で汚染されると、生涯にわたってそれから脱することは容易ではない。我が国が戦前にやや似たような事があった。それは是正されるべきだが、これから本当の意味で世界の全ての人々が、民主的で自由な生活、真の意味での平和を謳歌出来るようになるのは、果たして何時のことになるだろうか。人間同士はもとより、全ての生あるものに対して、「ごしょうが悪い」事をしないようになれば、世界はもっと平和になるであろう。妄言多謝。                                

 

2020・8・23  記す

  

1万歩と猫

 

 昨日5月1日に3回も外に出た。平生なら別に取り立てて言うべきことではないが、コロナ感染を警戒して「不要不急」の外出はなるべく控えるようにと言われている最中だから、我ながら出過ぎたかなと思う。

いつものように早く目が醒めたので4時半だから直ぐ起きて、数日前から読み始めた漱石の『文学評論』を読んだ。これで3度目だが中に出てくる引用の英文に対しての和訳が実にこなれているのに感心する。恐らく漱石が自分で訳したか、森田草平が訳したのを漱石が後で手を入れたものだと思う。今朝読んだところに有名なジョンソン博士がチェスターフイールドに与えた書簡があった。漱石はジョンソンの書簡を引用するに先立って次のように述べている。

「昔読んだ時から此講義をやる今迄感心している。感心は兎も角も、此書翰は文界にあって個人保護の時代が永久に過ぎ去ったと云ふ記憶に値する事実を尤も露骨に天下に発表したものであるから、此點から見ても文学史上重要の意味を有している。」

 

ジョンソン博士が7年の辛苦の後に英語辞典を完成したときの、チェスターフィールドへの皮肉交じりの手紙が次ぎに続いている。漱石の訳文だけを一部あげて見る。漢字は一部当用漢字にした。

 

此七年辛抱にて、拙著は漸く出版の運びに至り候。寸毫の補助を受けず、一言の奨励を蒙らず、微笑の眷顧を辱ふせずして、漸く出版の運びに至り候。小生は未だ庇護者の下に立ちたる経験なきもの故、庇護者よりかかる御取扱を受けんとは全く小生の予期せざる所に候。庇護者とは人の将に溺れんとする折を冷眼に看過し、漸く岸に泳ぎ付きたる折りを見計らって、わざと邪魔となるべき援助を与えらるるものに候や。小生の労力に対する御推賞は感謝の至に不堪ず候。ただ其遅きに過ぎたるを憾みとするのみに御座候。(以下略)

 

漱石自身が書いたような痛快な文章である。上記の文中「漸く出版の運びに至り候」という言葉が2箇所にある。ジョンソンの出版までの苦労が分かるような気がする。

漱石は当時の東大生に向かって「諸君も定めてご承知だろう」と云っているが果たして学生たちは知っていたか。それにしても今の大学の英文科の学生とはかなりの実力の差はあったと思う。

 

話は昨日に戻って、7時になったので「ログ・ハウス」へ行った。先日買った榊があまり良くなかったので新しいのを買った。これは葉が青々としていて前より束も大きい。外に花とトマトなどを買った。この店の主人は萩高校出身で70歳くらいである。それこそ正月を除いて1年中休みなく毎日、萩市の奥の福井と云うところから野菜や花など色々な食料もトラックで運んでくる。一年を通して店を開く時間が決まって7時だから、冬季に家を出るのは5時半頃と思う。よく頑張るなと何時も感心する。

店への行き帰りに数人の人に逢ったが皆マスクをしていた。私は付けていなかったので一寸気まずく感じた。往復丁度1キロの距離である。

山口市内にも数人の感染者が居るようだが、朝の清々しい空気の中にウイルス菌が飛んでいるとはとても思えないので、「3密」でないから「No Mask」なのである。

帰宅して新しい榊と仏様への花を取り替えて神仏を拝んだ後、朝食の準備に取りかかった。「野菜の煮込み」がなくなっているので作ることにした。まず次の材料を冷蔵庫の中から出して良く洗って、適当な大きさに切って圧力鍋に入れて30分間煮た。材料は次の10品である。牛蒡、人参、蓮根、子芋、馬鈴薯、玉葱、椎茸、蒟蒻、竹輪、あらびきポークウインナーで、それに醤油を少し加えて煮詰めたら出来上がり。

煮上がる迄の間、出口保夫の『ロンドンの夏目漱石』を手に取った。これより前に角田喜六の『漱石のロンドン』を読んで結構面白かったので、同じロンドン滞在中の漱石の動向だが、見方が違うだろうと思って読み比べてみようと思ったのである。出口氏の方が一段と具体的で良く分かる。角田氏のことを知ったのは、彼が『文学論』の「注解」を行っているのを知り、昔買った此の本を再読した野である、彼は5回もイギリスへ行って漱石の足跡を調べているのには流石だと思った。

 

予定通り30分で煮上がったようだから、珈琲を淹れ、ミルクを温めてやっと朝食にありついた。

昼前にふと思いついたのでまた出かけることにした。実は同人誌『風響樹』が刷り上がるので、知人2差し上げようと思い、角封筒を買いに行こうと思ったからである。我が家のすぐ前になるスーパーは食用品が主体だからこういった日常雑貨は品不足である。そこで一番近い所にある店まで歩いて行くことにした。昨日初めてその店まで歩いた。昼前の日差しは結構暑くて家を出て帰るまで1時間15分も掛かった。店内では人並みに手提げ袋からマスクを取り出して付けたが、帰りにはまた除けて歩いた。

一寸見当違いに時間が掛かり、日差しも強かったので少し汗ばんだ野で却って直ぐシャワーを浴びた。

それより前、我が家が見えるところに来たとき、郵便屋さんがバイクに跨がって去ろうとしていたので呼び止めた。現金封筒を渡してくれた。これは1月以上前に萩市在住の妻の親友に妻の友人たちに差し上げて貰いたいと云って、拙著『硫黄島の奇跡』を10冊許り送っていたのであるが、皆さんに買って貰ったと云って其の本代と手紙が入っていた2だ、私は帰って直ぐお礼の電話をした。こうして親切な人も居れば、送っても受け取ったtも読んだとも言わない人も居る。人様々だとこの度人の気持ちの様々なのを知った。

確かに昨日は日中の暑さは格別であった。私は昼食は殆ど取らない。ヨーグルトにリンゴを細切れにして食べたりする程度である。

 

その後は漫然と時を過ごした。4時過ぎに少し本でもまた読もうかと思い。先日妻の親戚の方がわざわざ持ってきて貸して下さった『河上肇の遺墨』と云う実に立派な写真版をまた読み始めた。河上肇は岩国の人で、東大を出て京都大学の教授の時、日本で最初と言えるのだろう大学で社会主義の講義を行い、共産党にも入党し、その為に大学を辞めさせられ、さらに収監の憂き目を見ている。六年の刑を終えて出獄後は、専ら漢詩の研究と書道に打ち込んでいるようだ。其の「遺墨集」である。彼が作った漢詩も良いが、書がまた何と見言えぬ気品と清々しさが感じられる。例えば彼の漢詩の写真だけでも、説明の活字とは比べものにならない。実物を手にしたら一段と感銘を与えるだろうと思った。気に入った漢詩を写真に撮ってみた。私は漱石が東大で彼を教えたかと思って調べたら、明治35年に河上は津大を卒業し、入れ替わりにその年から漱石は東大で教壇に立っていた。ついでに漱石は河上について何か書きいているかと思って調べたら次の手紙が1通だけあった。

明治39年2月3日に野間眞綱宛て野者である。その中に次のように書いている。

 

小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を思ふと河上肇などと云ふ人は感心なものである。彼の位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ。

 

私はこの度初めて『文学論』を読んで、漱石自身精神衰弱を自覚し、それでもこの病があるが故に数々の作品を書くことができたと開き直っているのを知り、河上肇に共感を覚えたのだと感じた。

漱石と弓の句

 

 

 人との出会い、事物との触れあいが多いほど、人生は豊かになると言えよう。漱石は50年足らずの生涯で、多くの良き友人や弟子に恵まれている。また数多くの事物に興味を抱き、真剣に取り組んでもいる。中でも俳句は正岡子規と知り合いになり、その後イギリスに留学するまで、また弓道はそれより前の一時期真剣に打ち込んでいる。 明治27年2月、東京帝国大学大学院に在籍中、漱石は友人に誘われて弓道を習い始めた。同年5月31日の書簡には、「朝夕両度に百本位は毎日稽古致居候」(菊池謙二郎宛)と書いている。また学生時代の友人たちの証言によっても、熱心に弓の稽古をしていたことは明らかである。さらにまた『草枕』や『虞美人草』など初期の作品からも、弓道に関心があったことが十分に窺える。この事について筆者は『風響樹』第二十五号に、『漱石と弓と俳句』と題した小文をはじめて寄せた。その後さらに『漱石と弓』と題して発表した拙稿(注1)の間違いを弓道の専門家から指摘され、また他に、自分でも誤った解釈だと気づいた点がある事が分かった。そこで多少重複する点もあるが、今回は『漱石と弓の句』と題して考察することにした。識者の御教示を仰ぎたい。 漱石は明治22年1月頃から正岡子規と親しくなり、文学的影響を受けるようになる。彼らは共に東京大学予備門であった第一高等中学校に通っていた。『漱石全集』を見ると、第1信からの30通はすべて子規宛のものである。漱石は子規の影響によって、俳句に興味を覚え、句作を始めている。明治22年5月13日、子規宛の最初の書信に2句書き添えている。これを句作の始めとして、翌明治23年には5句、24年には30句と次第に多くなる。  しかし25年には僅かに2句で、26年には皆無、そして27年には13句を数える。この中に弓矢に関するものが4句、はじめて出てくる。

 

(1)大弓やひらりひらりと梅の花

(2)矢響の只聞ゆなり梅の中          

(3)弦音にほたりと落る椿かな

 (4)弦音になれて来て鳴く小鳥かな

 

 上記4句の中の(2)を「弦音の只聞ゆなり梅の中」と改めた句があるが、数えないでおく。 筆者は『漱石と弓』の中で、「弦音にほたりと落る椿かな」を取り上げ、漱石が弓を引いたという事実の傍証とした。今回は上記4句については触れず、異なる角度から検討してみたい。 

 明治28年4月9日、彼は愛媛県立尋常中学校に赴任した。同年8月27日に子規が漱石の下宿に居候を決め込むや、作句数は俄然増加し、464句を数えるほどになる。この中で弓矢に関するものと思われるのを選び出してみると、下記の4句がある。

 

   (5)凩や弦のきれたる弓のそり  

   (6)時鳥物其物には候はず      

   (7)時鳥弓杖ついて源三位      

   (8)月に射ん的は栴檀弦走り    

  

  漱石は明治29年4月、熊本の第五高等学校に転勤した後も句作を続けている。松山に居たときの句作241を加えて、この年には、522もの多数の句を詠んでいる。それこそ毎日句作に没頭していると言える。しかし弓矢に関するものは次の3句だけである。

 

   (9)日は永し三十三間堂長し

 (10)屋の棟や春風鳴って白羽の矢

 (11)梓弓岩を砕けば春の水  

 

  第五高等学校では、漱石は本来の英語の授業と研究に専念しながらも句作を続け、明治30年には288句作っている。その中に次の句がある。

 

 (12)よき敵ぞ梅の指物するは誰           

 (13)五月雨の弓張らんとすればくるひたる 

  

  明治31年には句作数は103あるが、関係の句は見あたらない。

 明治32年には350句、この中に次の2句が関連したものとして見出される。

 

  (14)南無弓矢八幡殿に御慶かな   

  (15)梅散るや源太の箙はなやかに  

 

  漱石は明治33年9月、34歳のときイギリスへ留学するが、これ以後50歳で亡くなるまでの句には、弓矢に関するものは見あたらない。結局、23歳で句作を始めて、27年間に2500句を超える句を詠んでいるが、この数多くの句の中で弓矢に関するものは、彼が実際に弓を引いた大学院時代から、熊本へ移ったばかりの6年間で、上記15句を数えるだけである。しかし数少ないこれらの句とはいえ、漱石の弓矢に対する思い入れの程を窺うことができる。

 

                                           二

 

   ここでこの漱石の弓矢に関する俳句を、あらまし2グループに大別してみたい。彼が自ら弓を引いた時の様子を詠んだものと、弓矢に関する文書(戦記物など)を読んで、そこに述べてある情景を詠ったものとである。

 前者に属するものは、漱石が学生時代に自ら弓を引いたときの情景を詠んだもので、初期の俳句、(1)から(4)までの4句が先ず挙げられる。 これらの中で代表的な句、「弦音にほたりと落る椿かな」を、『漱石と弓』で取り上げたことは前述の通りである。

これらの句から共通して感じ取ることの出来るのは、早春の梅が清香を放ち、椿が鮮やかな色に咲き、小鳥の囀りがどこからともなく聞こえてくる大学のキャンパスで、冴えた弦音を響かせて、熱心に稽古を続ける若き漱石自身の清新な姿である。

(5)「凩や弦のきれたる弓のそり」と(12)「五月雨の弓張らんとすればくるひたる」も漱石自らの体験を詠んだものと考えて差し支えなかろう。(12)について、「長雨つづきで、弓の弦もすっかり湿っけをふくんでうまく張れない、という意である」と、『漱石俳句を愉しむ』(PHP新書)に解説してあるが、むしろ湿気で弓の方がくるったと考えるべきだろう。

(9)を弓の句として選んだのは、「三十三間堂通し矢」の故事を漱石が念頭に入れた上での句作と見たからである。弓を引いた経験のあるものなら誰でも、江戸時代、諸藩をあげて競ったこの大きな催しの事は知っている。「三十三間」と言っても、柱と柱の間が33あるためにそのように言われているので、実際は66間で、1間は180㎝だから、約120mもの長さである。この距離を一昼夜24時間内に何本射通すことができるかを、藩の名誉をかけて競ったのである。

  歴史に残る名射手の星野勘左右衛門、そして彼が、紀州の若き射手和佐大八を密かに助けて、空前絶後の大記録(通矢8133本、惣矢13053本)を樹立させたという美談を、漱石も伝え聞いていたであろう。この大八の「通し矢」は想像を絶する偉業である。従って漱石はこの事を思いつつ、「日は永し」「堂長し」と、同じ意味の言葉を意識的に重ねて使ったのではなかろうか。

  ちなみに、この句の前後に、彼は「永き日」を詠み込んだ次の2句を作っている。

 

    永き日や韋陀を講ずる博士あり

   永き日を順禮渡る瀬田の橋

 

  前の句は、東京大学井上哲次郎博士が、ヴェーダの哲学を悠長に講ずる姿を詠み、後の句は終日とぼとぼと順礼の旅に出た信者が、たまたま瀬田の唐橋を渡る様子を想像しての句作であろう。以上3句の中では、「三十三間堂通し矢」の歴史を踏まえた句が、最も優れているように思われる。

 

(10)は、さりげない風景描写であるが、やはりそこには漱石の弓矢との関わりを読み取ることができる。この句は森鴎外が創刊した『めさまし草』三月号に掲載されたものである。端午の節句にはまだ早いが、長い竿の先に取り付けられた白羽の矢が、棟高き屋根越しに、春風に鳴っている光景として見たとき、在りし日、白羽の矢を白木の弓につがえて、真剣に稽古したことを、ふと思い出して詠ったのかも知らない。

 明治28年正月2日、漱石宇佐八幡宮に参詣した。この時の作が(14)の句である。八幡宮といえば、弓矢の神として崇められている。熊本へ転勤したばかりの漱石には、暇をみて弓を引こうという気がまだ十分あったと思われる。現に彼は熊本への転勤に際し、弓をわざわざ持って行くのを知人に見られてもいる。従って「弓矢八幡殿へ御慶」、つまり宇佐八幡宮へ参詣したとき、立派な弓が引けるようにと祈ったかもしれない。しかしこれら2句は別に検討に値する句ではない。

 

                                        三

 

 さて、今回は残りの句について考察してみたい。最初の句(6)の「時鳥物其物には候はず」はひとまずおいて、(7)の「時鳥弓杖ついて源三位」から取り上げることにする。筆者は『漱石と弓』で、「独断的な解釈を試みる」と断った上で、この句について次のように述べた。これは「独断的」というか、誤った解釈であった。

  

 此の句は歌人としても有名な源頼政(源三位入道)が、仁以王を奉じ平氏打倒の兵を挙げ、宇治川の橋合戦で、刀折れ、矢尽き、「弓手のひざ口を射させ、いたでなれば」、つまり左の膝に重傷を負い、「心しずかに自害せんとて、平等院の門の内へひき退て」と、『平家物語』に書いてあることと、親友子規が病苦を押して俳句革新という運動に、文字通り身命を賭していることを考え合わせて句作したものである。 

 実はこれより前、明治25年7月19日、前日試験場に行ったが受験せずに帰った子規に宛てて漱石は、追試験を勧める手紙を書いて次の句を添えている。

 

 鳴くならば満月になけほととぎす

 

  この「独断的な解釈」は『平家物語巻第四』の「橋合戦」を読み、子規といえば時鳥と早合点した結果で、同じ第四巻にある「鵺」の記述と比較したとき、明らかに間違いであることが分かった。問題の箇所を原文を交えて要約すると、

  

 頼政が50歳前後でまだ謀反を起こす前、宮中に仕えていたときのことである。宮中紫宸殿に「黒雲一村立ち来たって、御殿の上にたなびき、頼政きっと見上げたれば、雲の中にあやしき物の姿」あり、そのため天皇は毎夜悩まれた。頼政矢をふたつたばさみ、「変化の物つかまつらんずる仁は、頼政ぞ候」とまかり出て、「これを射損ずる物ならば、世にあるべしとは思わず」、つまり射損じたら生きてはいられないと思い、「南無八幡大菩薩」と心のうちに祈念して、よく引いてひょうと射ると、「てごたえしてはたとあたる」。

  見てみると、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をしていて、なく声は鵺に似て、恐ろしいなどというどころではなかった。天皇は感じいられて、左大臣藤原頼長を通して、獅子王という御剣を頼政にくださった。

「比は卯月十日あまりの事なれば、雲井に郭公、二声三声音づれてぞ通りける。其時左大臣殿、 

 ほととぎす名をも雲井にあぐるかな 

 

 とおほせられかけたりければ、頼政右の膝をつき、左の袖をひろげ、月をすこしそぼめにかけつつ(横目に見ながら)、

      

 弓はり月のいるにまかせて

   

  と下の句を補って、御剣を頂戴した。「弓矢をとってならびなきのみならず、歌道もすぐれたりけり」と天皇も家臣も感動した。

 

 左大臣の歌は、「ほととぎすが空高く鳴き声を立てているが、それと同様にそなたも宮中に武名をあげたことよ」との意味である。これに対して頼政は「弓を射るにまかせて、偶然にしとめただけです」(注3)と謙虚に応えた。

 ここには武骨一辺の荒武者ではなく、詩歌の道の心得があり、その上自己を持するに毅然たる武士頼政の姿を見て取ることができる。漱石は此の情景に共感を覚えて前掲の句、

 

 時鳥弓杖ついて源三位

 

 を詠んだものだと筆者は察し、前回の解釈を改めることとした。

 なお『彼岸過迄』の中に、登場人物の1人である敬太郎が、浅草観音の本堂に上がって、

 

 「魚河岸の大提灯と頼政の鵺を退治ている額だけ見てすぐ雷門を出た。」とある。

 

 漱石が子供の当時、浅草寺頼政の鵺を退治ている額があり、落款に「天明七年丁未夏五月穀旦(筆者注 吉日) 屠竜翁高嵩谷 藤原一雄敬画」とあったと、『漱石全集』の注にあるので、幼少の時から利発で、多くの事に興味を示していたと思われる漱石のことだから、きっとこの額を見ていたであろう。従ってこの句を作るに当たって、この額に描かれた絵が頭に浮かんだのではなかろうか。 

 

 次に(6)「時鳥物其物には候はず」の句について考えてみよう。『平家物語』で人口に膾炙した場面の一つに、「敦盛最後」がある。

 

 源氏の武将熊谷次郎直実が、「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも(卑怯にも)敵にうしろを見せさせたまうものかな。かえさせ給へ」と、扇をあげて招き寄せ、むずと組んで取って抑え、頸を斬ろうと甲を押しのけてみると、「年十六七ばかりなるが、うす化粧して、かねぐろ(元服した貴族がお歯黒で歯を黒く染めている)也。我子の小次郎がよはひ程にて、容顔まことに美麗也ければ」、斬りつけることも出来ず、「抑いかなる人にてましまし候ぞ。名のらせ給へ、たすけまいらせん」と言うと、「汝はたそ」と逆に名を訊かれ、「物、そのもので候はねども(物の数に入るほどの者ではありませんが)、武蔵国住人、熊谷次郎直実」と名乗る。

  この後直実は状況やむを得ず、敦盛の頸を掻き切り、「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。武芸の家に生れずば、何とてかかる憂き目をば見るべき。なさけなうも討ちたてまつるものかな」と、さめざめと泣いた。そして出家することになる。

 

  漱石の句との関係について考えたとき、「物、そのもので候はねども」という言葉が、(6)「時鳥物其物には候ず」にそのまま使われている。従って『漱石全集』の注にも、この句は「敦盛最後」を詠ったものだと解釈している。確かにその通りかも知れない。しかしこの句を弓矢に関する物として取り上げてみたいのは、「時鳥」という言葉がどうも納得しかねるからである。もっとも「ほととぎす」という語句は俳句では割と自由に使われるそうであるが、この句は前に挙げた「時鳥弓杖ついて源三位」と同時に漱石が詠んだ句であるので、源三位頼政の弓矢を執った時の気持ちを詠ったもの、と考えることも可能ではなかろうか。

 付言すれば、頼政が「鵺」を退治しようとして、「これを射損ずる物ならば、世にあるべしと思はざりけり」と言って弓を構えたとき、彼は射損じたら死を覚悟しての決意であった。しかし彼は武士としての矜持を身につけている。そこで漱石は直実の口にしたという「物、そのもので候はねども」の言葉を借りてきて、頼政の故事を空往く時鳥を点景としてこの俳句を詠んだ、と解釈してみてはどうかということである。

 

 次に(8)「月に射ん的は栴檀弦走り」の句は、『保元物語-中』にある鎮西八郎源為朝の記述をふまえたものである。弓矢を執れば天下無双の若武者為朝が、敵とはいえ射向かう相手は実の兄義朝である。一の矢をわざと外し、「真向内冑は恐れも候ふ。障子の板か。栴檀弦走り(注3)か胸板の真中。矢壺を慥に承って仕らん」(注4)と言って、余裕と自信をみせ、かつまた兄の命を愛おしむ場面は、修羅の合戦の場ではあるが、武士の情け掬すべき所がある。漱石はやはりこの点に注目し、「月に射ん」という詩的詠い出しをもって、この句を作ったと考えられる。

 (9)の「梓弓岩を砕けば春の水」については、戦記物を手がかりとしたのではない。従ってこのグループには入らない。しかし、例えば為朝が、8尺5寸の剛弓(並の弓は7尺3寸)を、満々と引き絞り放てば、矢は岩をも砕いて水が湧き出る。これは単に誇張的想像に過ぎないが、そこに弓を「張る」と「春」の懸詞の妙、「岩を砕く」力強さと、「春の水」の優しさといったものが描き出されて、剛毅な中にも、何だかほのぼのとしたものを感じ取ることが出来る。

 残りの2句、(11)「よき敵ぞ梅の指物するは誰」と(14)「梅散るや源太の箙はなやかに」は、『源平盛衰記』の「箙の梅」を念頭に置いての句作と考えられる。

 さて、「箙の梅」は、『広辞苑』にも一事項として記載してあるように、「生田の森の源平の戦で、梶原源太景季が、箙に梅の枝を挿して奮戦した故事」である。漱石はこの有名な故事をふまえてこれらの句を作ったことは間違いない。源義経の家来、若き剛勇なる武将梶原景季が、手折った梅の枝を箙に挿して、先駆けの功名を立てようとする勇み心と、かれの美意識に共感を覚えた漱石が、思わず詠んだのであろう。正確にはこれはむしろ「箙」あるいは「梅」を詠ったものである。しかし矢を入れる「箙」ということで、弓矢に関係した句として選んでみた。

 

 余談ながら、今年5月、筆者は神戸市で開催された高校の同期会に出席した。卒業以来半世紀以上を経てはじめて会った同級生もいて、懐旧の念をあらたにした。折角此の地まできたので、翌日三の宮駅近くにある生田神社に詣で、社頭にある「箙の梅」の生木とその側にある「謡曲『箙』と梶原景季」の立て札をカメラに収めて帰った。その立て札には次の古歌が書かれてあった。 

 

 吹く風を何いといけむ梅の花 散り来る時ぞ香はまさりけり

 

「箙」という字を印刷物以外で見ることは稀であろう。蛇足としてもう1つ書き加えると、著者が萩市から山口市に居を移したとき、茶席の床柱だけは記念になると思って大工に頼んで動かした。すると天井裏に大きな欅の一枚板が見つかった。下ろしてよく見ると、縦50㎝、横90㎝、厚さが2㎝の黒ずんだ板一杯に、「箙」の一字が大きく浮き彫りされており、半ば剥げ落ちてはいたが、金箔まで塗られたものであった。金箔は剥げてはいたが、なかなか貫禄のある達筆であった。

 実は明治になる前、我が家は酒造業を萩で営んでおり、曾祖父は天神様を信奉していた。天神と言えば梅である。彼は梅屋の屋号をつけ、酒銘を「箙」としていたと話には聞いていた。従って彼は「箙の梅」なる故事を知っての上で命名したと思う。話の実証となるものを目にしたときは、時が逆行した感じでいささか驚いた。

 以上見てきたように、漱石は弓矢に関する俳句をいくつか詠んでいる。そこには彼自身の体験に基づくものの他に、『平家物語』、『保元物語』そして『源平盛衰記』など軍記物を読み、そこに描かれた武士たちの潔さ、武士としての矜持、敵とはいえ相手をいたわる情け心、さらにものの哀れを感じて、歌にすることさへ出来る教養の高さ、こういったものに共感して句作したと思われるものが数えられる。

 最後に一言。漱石が第五高等学校に転勤して間もなく、「俳句とは一体どんなものですか」という寺田寅彦の質問に答えて、「秋風や白木の弓に弦張らんと云ったような句は佳い句です」と言って、向井去来の句を紹介しているが、漱石も時として、去来と同じ心境になって、「よし、爽やかな秋になった。一つ引いてみるか」と、弓に弦を張ったこともあるだろう。このように考えると、「月に射ん的は栴檀弦走り」も、単に為朝の雄姿を客観的に詠んだだけではなくて、「月影は良し、栴檀の板であろうと、弦走りであろうと、お望みの箇所何処でも射抜いて差し上げよう」と言って、きっと弓を構えた為朝の立場に自らを置いた漱石の、感情移入の句として見ることも、一つの解釈ではあるまいか。

   

(注1)『図書』2002年4月号、『弓道』2003年1月号

(注2)『平家物語』(新日本古典文学大系 岩波書店

(注3)栴檀の板は鎧の具で、胸板の左右の間隙防御の板で、狭義には右の札仕立(さねじた    て)をいう。弦走りは鎧の胴の正面から左脇にかけての部分。

                                            『日本国語大辞典』(小学館

(注4)『保元物語』(中根淑注釈 明治二十四年 金港堂)

 

 参考文献 『漱石全集』(岩波書店1996年版) 坪内稔典著『俳人漱石』(岩波新書

                                                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

随感

 もう二十年以上過ぎた。平成十年九月に萩市から山口市に転居した時は、自分がこんなに長生きするとは思いもしていない。又妻が私を残して死ぬなどと考えてもみなかった。さらに云えば高校の同級生をはじめとして、友人知人の大半が鬼籍に入ることも全く念頭になかった。それどころか今や良く知っていた教え子さへも何人も亡くなっている。これが人生だ、「無常迅速」、淋しくもあり又悲しい事でもある。

 

 こちらに転居した当時、私は長年の義務的立場から解放された感じを抱き、新しい環境において新しい住まいもできたので、これから本当の意味で第二の人生を自由に送れると思った。振り返りみれば過ぎたことと言えるが、こちらに来る前の十数年は、勤務中は忘れていても、一端我が家の門を潜った途端騒音が耳に入り、翌日門を出るまで絶えず頭を悩ました。妻は一日中そのような状況の中にいたから、神経に異常をきたし始めたのも無理からぬことである。暗中模索、出口が見つからない状況下で一番苦しんだのは妻だった。そういった中で曙光が見え始めると、幾つかの問題が続けて解決したのは考えて見ると不思議である。

父が生前云っていた、「まあもう少し辛抱して見たらいい。その内解決する」と。そうは言われても忍耐には限度がある。妻の苦しみは今考えて見ると本当に可哀想だった。私は我が家を見捨ててもいいと決心をした。幸いに「青木周弼旧宅」に避難できたことで、解決の糸口が一時的には見つかった。それでも根本的解決にはならなかった。我が家に買い手がつき、それと同時に長年の懸案だった橙畑が売れたことで救われた。

「もう一年待ったらもっと高く売れる」と云った人もいたが、それは違っていた。それからは萩市内の不動産の売却は日を追って難しくなっていったからである。私はこれらの事は天佑神助、先祖のお蔭だと信じている。本当に有難かった。

 

人間万事塞翁が馬」とか「人生は糾(あざな)える縄の如し」とか云われている。或いは「禍福は寝て待て」との呑気な格言もあるが、苦しみ悩みの渦中にある者にとっては、なかなか心を落ち着けてどっしりと構えることはできることではない。

こうした苦しみの長いトンネルを抜けた今、ここまで来られたのは先にも云った神仏の御加護は別として、多くの人達のお蔭だったことも忘れられない。

 

こちらに来て是までとは違った人生が広がった。私はまだまだこれから何かできるといった気持ちだったから、弓道教室に入門して弓の稽古を始めた。しかし数年して体力的にどうも無理だと分かった。しかしお蔭で弓道に興味を覚え、色々と関係の本を読んでみた。そして弓道というものが実に奥深く、一朝一夕には窮め尽くせるものではないと云うことを知っただけでも、良い勉強になった。

漱石が東大大学院時代に勉強のし過ぎで一寸体調を崩したので、それを癒やす目的もあって一年間ばかり弓を引いている。そしてこの体験を俳句に詠んでいる。私はこの事を知って『漱石と弓』という拙文を書いて岩波書店に送ってみた。一か月ばかりして『図書』に採用してくれた。この事がきっかけで、山口高校の先生連中が始めたという同人誌『風響樹』のメンバーに加わるようにと誘われた。作文など全く苦手だがメンバーの一員になることにした。

そうなると、いくらつまらない文章でも何か絶えず書かなければならないという半ば義務的な立場に置かれることとなった。この事は私にとっては亦別の意味でのプレッシャーになった。しかし同人誌への寄稿は年に一二回の緩やかなものだから、それほど精神的には負担に思えなかった。それでも締め切りが近づくとやはり気がもめることがあった。第一、長年書き慣れているメンバーの中にずぶの素人が入ったのだから気が引けた。

そういったこともあったが書くということは生きる上で一つの目標となり、ささやかながら生き甲斐にも思えた。それまで文章を書くなど夢にも思わなかった事だから、やはり不思議な縁だと思う。是に加えて、先に述べた『図書』を読んだと云って、全く未知の方、一人は姫路市、もう一人は神戸市在住の文学好きの、私とほぼ同年配の人と付き合うようになった事は望外の喜びとなり、また励みにもなった。人の縁とは本当に不思議だとつくづく思う。縁と云えばそれまで全く未知の二人が結ばれる結婚。これこそ最も縁の深い出合いと言えるかも知れない。

 

妻はこちらに来て無二の親友ができた。萩でも親友に恵まれていてその点では妻は幸せだったと思われる。山口での仲良しになったのは萩高校出身で妻とは同学年の女性である。二人は殆ど毎週一度と云っていいほどよく会って話していた。先日もこの人から私宛に手紙が来た。妻の一周忌の法要と納骨を無事に済ませたと知らせた事への返信であった。

人柄を彷彿させるようなやさしく素直な字が「矢次淑子用箋」という和紙の便箋に書かれていた。

「過日はおじゃま致しまして色々なお話しやお写真も見せて頂きなつかしく少しは元気が出ました。

この一年想い出しては涙する日々でございました。本当に寂しくて・・・」

人生では本当の意味での良き友に出合うという事は全くの運のような気がする。確かに自力によるよりは他力のお蔭だと私は思って居る。「莫逆(ばくぎゃく)の友」という言葉は「逆らうこと莫(な)き友」、「歩みや考えを共にせざるをえない友」という意味だろう。このような友に恵まれた者は幸せだと言える。その意味に於いて妻は幸せだった。この他にも我々はこちらに来て良き方々に出合うことができた。お蔭でこうした家族と萩に居た時の知人夫妻たちと、一緒に国内各地の旅を楽しむ事が出来たのは、今から思うと良き思い出になる。

 

しかし月日は着実に流れ、時は刻々と刻まれていたのである。若いときは、『徒然草』を読んでも、『方丈記』を繙いても本当の意味で読んではいないのだ。ただ書かれた内容を上辺だけで知解したに過ぎない。だから名著は繰り返して読む必要がある。

 

私は妻が亡くなってたまたま『漱石全集』の中の「思ひ出す事など」を読んで、漱石修善寺大患後の心境の変化を文章に綴り、その時の気持ちを漢詩に表現しているのを知った。そこで私は是が最期になるだろうが、もう一回はじめから漱石の全作品を読み直そうと決意した。是まで作品によっては幾度か読んでいるが、『文学論』など実際には読んでいない作品もあるから、まずこの『文学論』に最初に挑戦した。この難解な英文混じりの論文を曲がりなりにも読み終えた。それこそ字面を追ったに過ぎないが何とか最期の頁にまでは辿り着いた。

さて、これでいよいよ「第一巻」『吾輩は猫である』から読み始めることにした。『猫』や『坊っちゃん』などには死の片鱗さえ窺えない。その後の作品だと思うのでこれからが楽しみである。

 

先に述べた「思ひ出す事など」の中にある最後の漢詩で、彼はこう詩(うた)っている。

 

 眞蹤寂寞杳難尋    真蹤(しんしょう)寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難く

 欲抱虚懐歩古今    虚懐を抱いて 古今に歩まんと欲す

 碧水碧山何有我    碧水碧山 何ぞ我(が)あらんや  

 蓋天蓋地是無心    蓋(がい)天蓋地(てんがいち) 是れ無心

 依稀暮色月離草    依(い)稀(き)たる暮色 月 草を離れ

 錯落秋聲風在林    錯落(さくらく)たる秋声 風 林に在り

眼耳雙忘身亦失    眼(げん)耳(に)双つながら忘じて 身(しん)亦た失し

空中獨唱白雲吟    空中に独り唄う 白雲の吟

 

森羅万象の真実の相は、ひっそりとして静寂であり、まことに深遠で容易に知ることはできない。自分はなんとかして私心を去って真理を得ようと東西古今の道を探ねて生きてきたことである。一体、此の大自然にはちっぽけな「我」などないし、仰ぎ見る天や俯してみる地は、ただ無心そのものである。

自分の人生の終りを象徴するかのように暮れようとする黄昏どき、無心の月が草原を照らし、吹きわたる秋風が林の中を通りぬけていく。この人生の最期に立って、もはや自分は小さな我の欲望や感覚を越え、自らの存在すらも無にひとしいように感じるのだが、そのような心境で空を飛ぶ純白のあの雲のような自由さに想いをよせて、自分の「白雲の吟」を唄うのである。

                  (佐古純一郎著『漱石詩集全釈』より)

 

 佐古氏はこの詩の【補説】で次のように云っている。

「この詩を作った翌々日の十一月二十日に、漱石胃潰瘍の発作で病床に臥し、それが死の床となった。それゆえにこの詩が文字どおり、漱石の最後の作品となったわけである。漱石が晩年に志向した「則天去私」のイメージがまことに鮮明に表現されて、漱石文学の精髄といってもけっして誇張ではないと思う。

漱石は、十二月九日の午後六時四十五分永遠の眠りに就いたのである。」

 

今年令和二年になって、山口在住の知人が、「主人が買って読んでいましたが、老人施設に入りましたので、お読みになれば差し上げます」と云って大判の立派な河上肇の『遺墨集』をわざわざ持参された。彼女は妻を通して知ったのだが、私とあまり年は離れておられないが、バイクに乗ってわざわざ持参されたにには恐れ入った。私はその親切を有り難く思い早速手にとって読み始めた。写真版の河上肇の運筆というか墨蹟の味わい深さに打たれて頁を繰った。実に良い字である。いわゆる書家の上手な筆運びではない。自ずから人格が現れて居るとも言えるものだと思った。

何故此処に突然河上肇の事を書くかというと、漱石が自分の弟子に宛てた手紙の中で、河上肇に言及して居るのを思い出したからである。

明治三十九年二月三日に野間眞綱に出した手紙に次のように書いている。

 

「小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を思ふと河上肇などゝ云ふは感心なものだ。あの位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ。(中略)

人間は外が何といっても自分丈安心してエライといふ所を把持して行かなければ安心も宗教も哲学も文学もあったものではない。」

 

私は先に述べた『河上肇の遺墨』に載っている「河上肇年譜」を見てみた。すると彼は明治三十五年に東京帝国大学を卒業、同年に結婚している。年齢は二十三歳。翌年に東京帝国大学農科大学講師になっている。そして明治三十八年に『読売新聞』に「社会主義評論」を連載し、その年に伊藤証信の無我苑に入って居る。明治三十九年、即ち漱石が野間宛ての手紙の出した明治三十九年に、肇は無我苑を出て読売新聞記者になっている。

ついでに書けば、彼は明治四十一年、二十九歳の時、京都帝国大学法科大学講師になり、昭和三年四十九歳まで大学で教鞭を執っているが、その年に筆禍事件などで辞職、昭和八年五十四歳の時検挙され、小菅刑務所に入れられ、昭和十二年に五十八歳になって刑期満了で出獄して居る。こう見ると漱石がいみじくも云った如く筋の通った「豪傑」である。

「獄中秘曲の中より」という書がこの本に載っていた。

 

筋骨の逞しい若者たちと一緒に

風呂に入る私の裸姿をば、

初めて見たる人々は、

世にはこんなにも痩せた人閒が居るものかと、

驚きもし怪しみもするでせう。

そして哀れにも思ふことでせう。

 

だが私自身はひそかに自分を慰める。

おれの肉体こそこんなに痩せて居るが、

おれの精神は少しも痩せては居ないつもりだ。

獄中生活もやがて三年になるのに、

魂だけは伸びてふとりこそすれ、

痩せもせず、衰へもせず、老いもしない。

 

さう思ふ私は、

ざわめく湯槽の波に身を任せて、

黒い鐵棒のはまった窓から、

灰色の見張塔の閒近に聳ゆる

青空の一角を静かに眺めながら

ひとり自らほほえむ

 昭和十年十一月夜書 河上肇

 

これを書いた二年後に彼は出獄する。それから彼は表向きは共産党の活動はしないで、獄中から取り寄せて読んでいた漢詩の研究に半ば没頭している。私は彼の書いた『陸放翁観賞』を山口県立図書館で借りて読んだことがあるが、今回彼の遺墨を始めて見て、その中に載っている歌とその墨蹟が気に入ったから、その一つを書き写してみよう。

 

 我裳亦落葉爾埋留苔清水安流可難伎香乃閑曽希佐耳生久

 

万葉仮名を普通の言葉にすると、

「我もまた落ち葉に埋る苔清水 あるかなきかのかそけさに生く」

 

彼は晩年は無欲恬淡、自然を友として「かそけさに生き」、生涯を終えたように思う。

                         

2020・6・14 記す

ジョルジュ・ルオー

 神戸在住の知人から『随感』と題した文章と、それに添えて半切の便箋に書かれた手紙が来た。この便箋にはエル・グレコの宗教画が印刷されてあった。以前にも同じ便箋が使われていたので、私は彼が此の宗教画家エル・グレコに関心があるのかと訊ねたら、メールで、エル・グレコはあまり知らない。ルオーを好む、と言ってきた。私もルオーに魅せられた事があるので、久し振りに福島繁太郞編著『ルオー』を書架から下ろして読み返すと同時に当時のことを思い出した。

 

昭和二十八年の秋に私は初めて上京した。大学三年の時だった。漱石の『英国詩人の天地山川に對する観念』という論文を読んで、漱石がワーズワスに次いで評価しているスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズの存在を知った。ワーズワスは誰もがその名を知っているので、バーンズを卒論に選ぼうと思った。併せてこの詩人の肖像画も気に入ったからである。そこで適当な参考文献を求めるために上京したいと言ったら父が賛成してくれた。 

夏休みの暑い盛りに、毎日午前中汗びっしょりになって橙畑の草刈りをしたので、それをねぎらう気持ちもあったのだろう。当時一人の従兄が東京にいたので彼の下宿に二三日世話になることにした。

これより前、私は斎藤勇氏の『イギリス文学史』にHans Hecht著『ROBERT BURNS』という研究書が挙げてあったので、是非これを入手したいというのが主な目的であったが、従兄が一度東京に出てみないかと誘って呉れたことも上京のもう一つの要因である。

東京に着いて早速丸善書店へ行き、この赤い表紙の本が書棚にあるのを見つけてホッとした。著者はドイツのゲッチンゲン大学の教授でドイツ語の原文を英訳したものであった。 

 

私は所期の目的を達したので、一人でぶらっと銀座通りの一軒の画廊に入ってみた。展示されていた作品を一通り見て立ち去ろうとした時、着物姿の大柄な老人と背広を着た二人の中年の紳士が入ってきた。見るからに威厳のある老人である。二人は此の老人の従者のように見受けられた。私は一廉の人物だろうと想像した。彼が自分の名前を記帳するのを陰ながら見たら、墨黒々と達筆で「武者小路実篤」と書いた。 

明治十八年生まれの実篤はその時六十八歳である。黒みがかった着物に濃い渋茶色の羽織姿の恰幅の好い人である。特に坊主頭が人並み以上に大きかった。彼はステッキを傍らに置いて署名した。私は全く偶然だとは言え、この偉大な小説家を間近に見て圧倒させられた感があった。

興奮冷めやらぬ気持ちを抱いたまま、私の足は上野公園へと向かった。秋晴れの爽やかな良い季節で、園内を歩いていたら広々とした芝生の一處に、「ルオー展」と書かれた立て看板があるのが目に入った。私はルオーという名前をそれまで知らなかった。折角上京したのだから、絵画展や画廊の一つくらいは見物してみようと考えていたので、私は軽い気持ちで今度は「ルオー展」の会場を訪れた。

 

昭和二十八年と言えば、戦後間もない時で、街頭には白衣で松葉杖をつき、喜捨を求めて紙の箱を首から提げている傷痍軍人の姿があり、駅の構内などには戦災孤児が何人も見かけられた。まだ戦争の傷跡は各所に残っていた。私はこうした状況を見て胸が痛んだのを覚えている。

さて、最近はこうした催しが各地で行われると、大した展示会でもないと思われるのに、猫も杓子もわんさと押しかけている。あの当時も東京での開催だから、美術愛好家は多くいたであろう。しかしその時は割と閑散としていた。後で考えてみたら、閉館の時間前だったから、入場者の多くは会場を後にしていたのかも知れない。そうとは知らずに私は切符を求めて展示場へ一歩踏み入れた。

最初に目にとまったのは「石臼をまわすサムソン」の素描であった。はっきりとは覚えていないが、横幅が1メート位で縦がそれより長い画用紙に書かれた絵が画架に立てかけてあったように記憶している。私はそれまで絵画展などへ足を運んだ経験がないが、初めて見るこの絵に引きつけられてしばらく足を止め、石臼をまわす盲目の半裸体の男の苦しそうな表情をじっと見た。

この後数年して「サムソンとデリラ」という『旧訳聖書』に出てくる物語の映画を見てサムソンのことを知ったのだが、その時は只なんともなく引きつけられたのである。この絵の外に数点の油絵を見たがそれらがどんな絵であったかは覚えていない。ところが一つの肖像画の前に来たとき私は釘付けになった。何故その様な心理状態になったかを説明できない。ただ何となく崇高な念に打たれた感じであった。それは一人の女のピエロを描いたものと説明してある。ピエロと言えば一般的には下層の女性である。それが何とも言えない不思議な気品を湛えている。

私はここでも亦じっと見入った。今回は随分長く立ち尽くしたのを覚えている。そうしているうちに閉館の合図があった。私は我に返ったような気持ちで会場を後にした。結局入場料を払って二枚の作品だけを見たことになる。それでも充分満足できたと思う。それから私は此の初めて知ったフランスの偉大な画家にとりつかれたと言っても過言ではない。先に挙げた福島繁太郎の本を買ったのもその為である。此の度それこそ半世紀以上も経って開いてみたら、アンダーラインを引いた箇所があった。それを今読んで、ルオーを日本に最初に紹介した慧眼の画商・福島氏の文章に、私の言わんとする気持ちがそのまま代弁されているように思えた。

 

 どんな卑俗な人達を主題にとっても、以前の聖書による主題をとった時のと同じく厳粛な宗教的サンチマン(引用者注:芸術品に現れる情趣、洗練された感情)を感じさせる。(これは当時に於いて理解されず、ただ醜悪のもののみを描くと誤解された。)社会の下積みの人達を主題とするルオーの絵が、他の作家のバイブルより題を得た所謂宗教画より、はるかに宗教的の感じがするのは如何なる理由であろうか、固い信仰心が自ずとにじみ出てくるとしか説明がつかない。それほどルオー芸術は精神的である。これがまたルオーが一世の巨匠となっても一人の追随者もなく、常に孤独である所以である。外形は模倣し得ても精神的のものは真似し得ない。そして精神を除いてはルオー芸術は凡そ意味がないからである。

 

誠に核心を衝いた評言だと思う。なぜ彼がこのような精神的な画家となるに至ったのか。その訳は彼の生まれ育った環境に見られることを、これも福島氏の本によって知った。

 

ルオーは1871年5月27日にパリの労働者街に生まれた。丁度その頃はパリ・コンミユンの動乱の真最中で、その街区はヴェルサイユ政府軍の砲撃を受けて砲弾がしきりに落下している有様で、ルオーの母は地下室に難を避け、そこで彼は生まれた。無事に育ったのはひとえに母方の祖父の至れり尽くせりの心尽くしによるという。

ルオーの父は生まれはブルトンブルターニュ人)で、ケルト系の頑固一徹な性格だった。職業は塗物師で仕事熱心な名工であった。宗教的にも正直一徹な人で、ラムネーというカトリック教会に厳しい批判をしていた人の教えに帰依していたとある。

ルオーは幼いときから絵を描くのが好きで、学校を終えた十四歳の時に職業を選択する際、父もルオーの性格や祖父の希望を考慮して、絵に幾らか関係のあるスティンドドグラスの職人の徒弟になった。彼は毎日の仕事が終わった後、国立装飾美術学校の夜学に通い、デッサンを勉強した。

文字通りの苦学であった。そして誰にも告げずに美術学校の試験を受けて見事及第し、職人の足を洗う決心をして親方に告げたところ、親方は飛び上がって驚き、給料を何倍にもするからと言って引き留めたが、彼はどうしても画家になりたいからと言って職場を去った。

美術学校ではギュスタヴ・モローの弟子になり、モローは忽ちルオーの才能を認めたようである。ここにも一つの運命的な出会いを感ずる。モローと言えば聖書に出てくる洗礼者ヨハネサロメの話を主題にした『出現』を私は思い出す。サロメが彼女の父に強引に願ってヨハネの首を求めた物語である。モローはそれを描いている。画面右方の空中に黒い髪を長く垂らしたヨハネの生首が燦然と輝いて浮かんでいる。一方左側に凜々しくも体を反らすようにして立ったサロメは、宝石をちりばめた薄衣を纏った半裸の姿で右腕を真っ直ぐに伸ばしてその首を指さし、傲然と凝視している図である。

モローはこういった数多くの宗教画的な作品を残しているようだが、ルオーもこの面で師匠の影響を受けたと思われる。しかし師弟の間で大きな違いは、「モローは神の存在を許容したものの、自由主義的な考えを持った知識人であった。穏やかな人であったから芸術も革命的なところはなく、伝統的なレムブラントの明暗法に生涯つきまとわれていた。ところがルオーは、火のような情熱家で、神をひたむきに信仰し、その信仰の態度は中性的とも言える位。性格は狷介で常に反逆的である。従って芸術も革命的で、遂にレムブラントの明暗法を逸脱して色彩の価値を強く認識していた。二人の共通点を求めればただ精神主義であるという一点に止まる。」と福島氏は述べている。

モローの死後、ルオーは家庭的にも不幸でしばらく貧困と孤独の中にあって彼は黙々と絵を描き続けている。その後のことについては省くが、彼が世に出たのは六十歳を過ぎた晩年である。

 

今考えると、このルオーの作品だけではない、私が西洋画を初めて目にしたのがルオーの作品だったのは、何とも不思議な因縁に思われる。

最後に最近幸田露伴の本を読んでいたら、尾形乾山について次の文章を目にした。ルオーと乾山と言えば洋の東西で時代も違い、お互い全くの交流も影響もないが、一脈通ずる点があるように感じたのでその文章を紹介してみよう。

 

乾山は雅趣のある陶器を造ったので有名な人であるが、此の乾山の窯法釉法を書いた無題簽(無署名)の一冊の写本があったのを自分は写して、仮に乾山傳窯法と名づけて持って居る。別に面白い事があるでも無いが、ただ其中の記事によって、其一巻は乾山が弟子の清吾といふものに授けた法で、清吾はまたこれを古萬古焼の祖となった沼波弄山に伝へたといふ事が分り、従って古萬古の陶法が乾山の系統を受けて居るといふ事を証する一徴となる。そればかりでなく、巻中の處々に「能々勘弁可有事也」だの、「銘々発明によって如何やうとも工夫あるべき也」だの、「我等存命の内は随分教へ可申事に候、何事もただただ工夫勘弁さへ致し候へば獨りできる事也」だの、「勘弁才覚次第面白き事出来るもの也」だの、「随分工夫して幾度も幾度も焼き覚え申さるべく候」だのといふ、人をして自ら奮って我より古(いにしえ)をなすに至らしむるやうな語気の多い事は、実に乾山其人を想はしむるに足るもので、自分をして甚だ愉快を感ぜせしむ」

 

何故私は乾山に思い至ったかというと、以前乾山と署名のある「向付」の皿を手に取った事がある。その時私は深みのある釉薬の色彩と力強い文字が、ルオーの黒色の縁取りと濃い鮮やかな色彩に似たものを感じ取ったからである。乾山(1663一1743)は八十一歳で亡くなり、ルオー(1871-1958)は八十七歳の長寿を保っている。この偉大な東西の芸術家は共に大器晩成だったのであろう。

なお「勘弁」という言葉には「考えて事を決める」という意味もあることを知った。ルオーも乾山も作品の製作に生涯心血を注いだ事であろう。

                        平成三十一年三月二十日 記す

『杏林の坂道』の読後感

 

                  一

 

本誌『風響樹』に2001年(平成13年)から連載してきた伝記小説『杏林の坂道』を、昨年末に私家版として400冊ほど上梓した。当初は、残部が多く出たら処置に困ると思っていたが、幸いにも今は手元に殆どない。

文章を書くなど思いもしなかったのであるが、全く偶然の動機から書き始め、どうにか完成にこぎ着けることが出来た。それだけでも満足しているが、知人はもとより未知の方からかなりの数の読後感を頂戴した。これは私にとって望外の喜びで非常に有難かった。この喜びをそっとしておく方が慎みのある態度だと思うが、今回敢えてその中から数編を選び、筆者の承諾を得て披露させていただくことにした。考えて見れば、この長編をじっくり読んで、その上このような読後感想文に纏めるのは、決して容易なことではないと思う。私としては敬意と感謝の気持ちを表したいのである。

 

事を為した後、他人の評価を全く度外視して、淡々と何事もなかったように振舞う事は、凡人にはなかなかできない事である。『風響樹』に連載中、数人の方から寄せられた読後感は、私にとって励みにもなった。2007年(平成19年)8月23日の『読売新聞』の「時評・小説」に、松本常彦氏が『風響樹35号』を取り上げて下さった。これは全く思いもかけない事であった。以下はその全文である。

 

山本孝夫「杏林の坂道」は、緒方惟芳という医師の生涯を辿る連載長編の伝記である。緒方は、明治十六年に山口県に生まれ、日露戦争では看護兵として従軍し、広島の陸軍病院に勤務しながら苦学して医師になった人物で、「第八章・医師への道」と題された今号は、その明治四十年前後から大正に至る間のこと、つまり緒方の二十代半ばから後半にかけてのことが書いてある。

基本的には、緒方の残した日記や写真などの資料に基づき、その紹介に則しつつ人生を再現するという書き方である。謹厳な医師が残した日記の引用は、場合によっては無味乾燥な趣を与えかねない。しかし、この伝記の場合、緒方が日露戦争中に撮った写真など、資料自体の面白さに加え、資料を直接に引用・紹介することで記述の客観性を保証する。それだけでなく、資料についての解説を平易な語り口で記し、また、資料全体を見渡した上で主人公や関係者の心理にまで踏み入ることを恐れていないため、生身の人の姿を伝える伝記小説としても十分に楽しめるものになっている。

著者は、同時代的な事件や歴史事項にも十分に意を払っているが、その意図は、歴史それ自体の再現にあるのではなく、歴史を生身の人間として生きた生の再現にあると感じられた。(筆者は九州大学大学院比較社会文化研究院教授)

 

この三年後の2010(平成22年)12月27日の『毎日新聞』に、松下博文氏の書評が載った。これは短評だがやはり有難かった。

 

山本孝夫「杏林の坂道」(「風響樹」39号)が第十二章に入った。今号では実母の死から県立萩中学校へ進学、日大医学部への入学、父祖の地での医業開業、その後の結婚、そして召集令状によって硫黄島に行くまでの緒方芳一の足跡が描かれている。中でも父や継母や妻や兄弟にあてた硫黄島からの手紙はその後の玉砕を知るものにとってはやりきれない思いがする。(筆者は筑紫女学園大学教授)

 

これに引き続いて『長周新聞』に、「硫黄島から家族にあてた手紙」と題して『風響樹40号』の書評が載った。記者の竹下一氏の懇切適切な書評には、流石にプロだと感心させられた。その一部を取り上げて見よう。

 

芳一からの初期の手紙は、灼熱と硫黄臭にむせびアメーバー赤痢などの伝染病と戦う地下壕の中から、両親や妻へのいたわりと期待を込めて書かれたもので、文芸的な感性を確かめる心のゆとりを感じさせるものであった。部隊の兵士たちが何よりも、家族からの手紙や慰問品に喜んでいることを伝えていた。

芳一はそこで、家族に「生きる上での心構え」を綴っていた。それは当地と内地との「考える尺度」の違いについて、「内地では理屈が多く実行が少ない」「精神だけひどく緊張して神経衰弱みたい」だというもので、「内地はもっと落ち着いて心の余裕を持たないと神経衰弱になるのではないか」「何かすると非国民と思われはしないかとビクビクしてゐる者」もいるが、「もっとノフードーに図太く考えて居る人も欲しい」と諭していた。

 

『風響樹41号』でもって私は連載を終えた。これにも『長周新聞』紙上に竹下記者の好意的にして実に要を得た書評が載った。一部転載してみよう。

 

小説は、惟芳とその周りで生きた当時の人人に特有な素朴な人情のなかに質実剛健、誠実実直さを秘めた気分感情を、その家族,親戚はもとよりさまざまな知人、友人の証言、関連する公文書、書簡や手記などの諸資料の紹介を通して描いている。また、そのような一家族の営みを吉田松陰高杉晋作など維新の傑物、漱石や鷗外などの文豪、中国の古典などから豊かな人間的素養を織り交ぜて、社会的歴史的広がりのなかで浮かびあがらせている。(中略)

最終稿となる今号は、芳一に続いて、夫の惟芳を失った妻の幸が残された四人の子どもを女手一つで育てあげ、百一歳の長寿をまっとうするまでの半生に光をあてている。

一家の大黒柱を失った幸は、背負わされた生活の困難を正面から受けとめる。小説では、その局面で幸が娘時代に父親から聞いた、維新前夜の祖父母の経験を思い起こす内容をくわしく展開している。幸の祖父・梅屋七兵衛は、迫り来る幕府にうち勝つ必要から長崎にわたって洋式銃の購入を命じられるが、当時の緊迫した複雑な情勢から、上海に一年間ほど逃れ滞在し、任務をなし終えた人物であった。

幸は父親がこの話を通して、「(難局に立ち向かうとき)歯を食いしばって辛抱し、苦難を乗り切った体験こそが、心の貴重な支えになるのだ」と教えようとしたのだと思い起こすのである。

小説では、これと関連して、七兵衛が上海に滞在した三年前に、高杉晋作が同じ上海に渡航した様子を高杉の『上海日記』から多く引用して印象づけている。(中略)

こうした山口県の父祖たちのたたかいと気骨を受け継ぐ幸は戦後この地にも、戦前、戦中とは違った風潮が浸透しており、都会では「自由主義」「民主主義」が上ずった調子で叫ばれるなかで、「美しい人倫が崩壊し、人としての矜持が失われていく」ことへの強い危惧を覚えるのである。(中略)

作者は、明治生まれの格式を重んじる一人の婦人の生き方を通して、それを単純に古いものとして片づけるのではなく、そこから今日の荒廃に対置,継承すべきものを引きだそうとしている。それは、この小説全体を大きく貫くテーマだといえる。

 

                   二

 

『風響樹』への連載は14章をもって最終稿としたが、私家版にはこれに一章を加え、さらに主人公惟芳が撮影した「日露戦争の写真」ならびに惟芳と妻の幸、および硫黄島で玉砕した芳一の肖像写真と芳一の遺品等の写真を載せた。

先に述べた『長周新聞』に、またも竹下氏の好意的な書評(今回は割愛する)、引き続いて『サンデー山口』にも書評を載せて頂いた。これらを読まれた方々から拙著の注文があった。その中の一人に原田という方がおられ、原田氏を介して拙著を読まれたA氏(匿名を希望)が読後感を原田氏に送られた。それを原田氏が私のところへわざわざ送って下さったのである。A氏は私にとって全く未知の方である。最初にこのA氏の読後感を紹介する。

 

お贈り下さった『杏林の坂道』を読み進むうち、格調高い文体と丹念な資料、適切な引用、多面的な展開に引き込まれ、つよい感銘を受け、感想をしたためることに致しました。

今や「医は仁術」がすっかり死語となりました。「世のため人のため」すなわち自ら使命感をもって医業に従事するのではなく、一職業、単なる金もうけのため安易に医学部へ進む子弟が少なくありません。他方国民皆保険制度が崩壊し、重なる悪法のためやむなく病院から患者を追い出したり、あるいは貧しい者が満足に医者にかかれぬ有様。「医は算術」の荒廃と残酷さは年ごとに度を増しています。ニュースで報じられる介護上の艱難や病苦・自殺の悲劇が繰り返されるのを見るにつけ、この国のあすを思うと胸が痛みます。

本来あるべき医者の姿、つまり「医は仁術」の精神を、身を以って実践された緒方惟芳先生。松陰先生や高杉晋作を生んだ誇りある萩に育ち、古武士の風格そのままに「至誠」を生涯貫かれました。生活困窮のため萩中を五年で中退、長崎三菱造船所で猛勉強、世が世なら造船技師としての輝かしい未来がありました。折からの日露戦争で出兵、戦場の地獄を見て衝撃を受け、負傷兵看護の任にあたるなか命の尊さにつよく目覚め、先生は苦学覚悟で医師への坂道を選ばれました。

都市部での勤務条件がありながら敢えて望まず、乞われて寒村へ赴き、三五年間、悪路・悪天候、戦時下の医薬品欠乏の困難にうちかち、村人に誠心誠意、たゆみなく徹底的に奉仕されました。内科・外科にとどまらず、歯科・産科まで研鑚を積み、医学雑誌で日々新知識を身につける熱心さでした。山坂を超えての往診、盆正月もなく、夜を徹しての姿は、まことに杏林として称賛に価します。

貧しい農漁民が治療費に困るとき「いつでもよい、孫子(まごこ)の代になってでも、払えるようになった時払ったらよい」と言われた。さらには診断を一度も受けずに死亡する例を幾度も見て、往診料を取らないことに決めた。先生はまた村の河川で汚物や野菜を洗う衛生環境について注意を喚起し、トラホームの撲滅に努めるなど、四六時中、村民の健康と安全のために心を配っておられました。

たとえば診療所作りに当たって、村民が欅や櫻の大木を寄進したり、総出で地固めの胴突きを手伝い、あるいは先生に欠かさず刺身のつくりを届けるなど、まさに水魚の交わりでした。常日頃、人々を信じ村民の安寧と幸せを心から願っておられたのでしょう。死期が近づいたとき、「このお札(ふだ)を呑めば治る」との一村民の訴えにも、従容として飲み下した、その度量の深さ大きさには感服のほかありません。

「人の評価は棺のフタが閉じて定まる」といわれるように、六二歳という若さで先生を失い、村人がどれほど大きな悲しみに包まれたか、それは村民葬、村長弔辞から十分にうかがえます。戦後、奥様が食糧買い出しの際に至る所で「先生のご恩は忘れておりません」と言われ、励まされたことからも、惟芳先生の人徳の大きさが偲ばれます。

成ろう事ならば先生を顕彰し、記念の石碑を診療所跡へ建立して、先生の生き方に学び、業績を称え後世に伝えるべきとさえ思いました。労作『杏林の坂道』はその意味で、地域や親族・関係者のみならず、広範な人々を励ます記念碑的な役割を立派に果たしております。また幸奥様が薬師寺へ収めた四千余本の茶杓作りは、なみなみならぬ信念と努力の賜であり、一八一四人からの礼状へご返事されるなど感動的です。患者や看護婦さん、ご近所の方々への思いやり、戦後の混乱困窮にあっての育児等々は、昨今失われつつある美徳として、緒方先生の生き方が偽りなき真実一路だったことの証です。ご子息が先生の意志を継ぎ、杏林の道を歩んでおられることにも心打たれます。

それにしても先の大戦で前途あるご長男の命を硫黄島の激戦で失わしめ、終戦前日に弟さんの右腕の自由まで奪った、そのことへの無念さ、言いようのない憤りを禁じ得ません。朝鮮半島争奪をめぐる帝国主義諸国による戦争から百二十年経ち、今なお日本列島をとりまく空と海は平穏無事でなく戦火の危機をはらんでいます。無益な戦いを繰り返すことは緒方惟芳先生の最も望まぬ、許し難い破滅と不幸の道であろうかと思います。

一九世紀ロシアの文学者が「社会のためにならないような学問ならば、止めた方がよい」と述べていました。越前の渡辺洪基(初代帝国大学総長)もそれを強調しました。同様の言葉を緒方先生の信念の中に見てたいへん心強く感じました。それは科学や文学に限らず、芸術やスポーツにあっても同じだろうと考えます。

敗戦後わが国でも急速に自己中心の思想に毒され、「金がすべて」の風潮が蔓延しています。「寸善尺魔(良いことが少なく悪いことが多い)」の世が世にあって、人々の願いにあくまでも奉仕する先生の気高い精神、どんな境遇にあっても信念を曲げない強靭な意志は、こんにち最も必要とされる人間像です。すなわち「人はどのように生きるべきか」「生き甲斐とは何か」「銭金より大切なものがある」ことを、緒方惟芳先生は、自らの実践をとおして教え諭しておられます。この度の上梓の意義もそこにあろうかと痛感します。私同様に本書を一読した全ての人々の胸に先生の面影と息づかいが宿り、日々の生活において行く手を照らし勇気づけてくれるでしょう。現在も寒村僻地や離島、あるいは未開の異境で医業に携わっている人が少なからずいます。緒方惟芳先生の気高い精神は脈脈と生きており、人の世のある限り「杏林の道」が絶えることはありません。真の杏林の名に最もふさわしい惟芳先生、さらに先生にたいする著者の熱い敬愛の念、一〇年にわたる作業に心から感謝、お礼を申します。 (二〇一三年一月一七日」

 

贅言を要しない。私はこの読後感を読み、涙が出るほど嬉しかった。もう一つ、これに勝るとも劣らない長文の立派な読後感を頂戴した。姫路市在住の金沢史典氏からのものである。 

人生には不思議な出会いがあるものである。2002年4月号の『図書』に「漱石と弓」と題した私の小文が載った。これを読まれた金沢氏は岩波書店に筆者の住所を問い合わされ、手紙を下さった。これが金沢氏との出会いの始まりである。金沢氏は琵琶に非常な関心を寄せておられ、琵琶に関する数多くの文献にあたって研究を続けておられる。漱石は琵琶の俳句を詠んでいる。彼には弓を詠った俳句も幾つかある。漱石の俳句が縁となって、爾来金沢氏と私は幾度となく文通を重ね、お会いする機会も得た。

それではここで金沢氏から頂いた読後感を紹介しよう。過褒の内容なのでいささか面映ゆいが、敬意を表して全文を載せる。

 

 

        『杏林の坂道』(山本孝夫先生・著)を読んで

 

 山本孝夫先生が十年がかりで書き進められてこられた『杏林の坂道』がついに完成、昨年末、一冊のご本となった。ご恵投戴いた、ずしりと思い大著を手にし、感無量である。

いくたび上梓されるようおねがいしたことであろう。それがやっと実現、目の前にあるのである。なににもまして嬉しいできごとである。

書き始められたのは先生古稀の年である。ご縁を得て一読者となった小生は、六十七歳であった。書き終えられた先生は傘寿を、一読者である小生も喜寿を迎えた。

過去、小生はあれこれの著者に、いささかのかかわりを持ったことがあるが、この著はまさしく、それらの中で最もこころに残る著書である。

 

『杏林の坂道』は、一言で言えば、医師を志した一群の人々が如何に生を貫いたか、そしてまた、今なお生き続けているか、の物語である。

この物語の主人公は、時の流れに従って、父「緒方惟芳」(敬称略、以下同じ)から、長男の「芳一」へ、そして、母の「幸」へと移る壮大な大河の様な物語である。

これらの主人公たちを大木の柱として、子供たちや、その外多くの人々が枝葉となって青々としげり聳え立っている物語である。

 物語の中で最も大きな柱である「惟芳」が、若き日、恩師の「安藤先生」を訪ねたとき、先生は、庭の杏(あんず)の木を指差して、中国の故事を話された後、「医者の美称(びしょう)として杏林(きょうりん)という言葉があるのも、今言った故事に由来しているのだね」(74頁)と語られるところで、この著の題名の由来が暗示され、「終章」の末尾で、『彼(注・惟芳)は「杏林」つまり医者としての一筋の「坂道」を登り続けた』と著して、高々と『杏林の坂道』を完結に導いておられる。

 

 今まで、会誌『風響樹』で拝読してきたときと、このたび、一冊にまとめられた作品として読んだときとは、感動は大違いである。

 一冊の著書になるということで、作品に新たな命が吹き込まれたとさえ思われる。

もしも会誌掲載だけで終わっていたら、天は嘆いたことであろう。「惟芳」はじめ、「幸」も、「芳一」も、多くの関係者も無念に思ったことであろう。

 ただただ、よくぞ完成させ、一冊の大著にしてくださいました、と満腔の感謝の誠を捧げるのみである。

 

 著書は、原稿用紙にすれば千枚をはるかに超える大作である。

 大著を拝受後、遅読癖のある小生はメモを取りつつ、一月余を費やしてやっと読了できた。メモは60ページにもなった。それほど、著書には、見落してはならない大きな内容が含まれていたのである。

 この著は、幕末から、明治、大正、昭和、平成と、連綿として途切れることなく続く刻の流れのなかで、緒方家と、山本家の人々がいかなる困難に遭遇したか、それらの困難をいかにして乗り越え、生きてき来たかを語っている。

 激動する時代の中で、それぞれの家が、どのように時代に立ち向かい、どのような役割を果たしてきたか、その間、それぞれの登場人物がどのように考え、どのように身を立ててきたか、が大きな川の流れのごとく描かれている。

 また、随所に、歴史上の出来事等がつかず離れず挿入され、登場人物の生きざまを際立たせている。先生がいかに、膨大な資料を渉猟されたかを垣間見るのである。

 

 主人公「惟芳」の、中学生時代から、出征、帰国、医師になり、寒村での献身的な医療行為、いきざま、思想、そして死は、物語の大きな流れの中でさまざまな証言によって活き活きと描かれている。「惟芳」の生き様が、物語を「貫く棒」となって屹立している。時代の精神を反映してのことであろうが、「惟芳」が、子供たちにスパルタ教育をしていたと書かれているが、今生かされて在るご子孫たちの証言を読めば、社会に独り立ちし、社会において自分の役割を果たせるような立派な人間を作り上げるための「愛の鞭」であったと理解できるのである。今、盛んに問題になっている「体罰」とはいささか趣を異にしたものといえよう。

 

 「惟芳」を支えた第一の人に「幸」をあげなければならない。主人公といって差し支えないであろう。

 「先妻」の子、「芳一」と、自分が産んだ子供たちをわけへだてなく、というより、最も大事にし、母子の情を通わせていたことがわかる。

 夫に対しては、心底、尊敬の念を抱き、深夜の往診に出かけているときは、一睡もせずに待っていたなど、いまどき考えられないような献身振りが描かれている。

 そして、夫の霊前に、残された子供たちを立派に育て上げると誓いを立て、その約束をみごと実践し、晩年は、茶杓作りを通して社会貢献を果たされた生涯であった。

 育児放棄が盛んに言われる現今、このような「慈母」が居られたことに感嘆するのみである。今、こうした「母」が数多くあって欲しい。必要である。その意味でこの「母」の存在を世にひろく知らせる意味においても、この物語は、大きな意義を持つといえよう。

 

 もう一人の主人公ともいうべき、「芳一」は、「惟芳」や「幸」、恩師らに育てられ、実に優しく、たくましい人物に成長して行った。父や母へ孝養を尽くし、弟や妹、そしてわずかな期間ではあったが、妻であった「睦子」への、愛情あふれる手紙には感涙を禁じ得ない。

 戦争なかりせば、「惟芳」を継いで、現代の赤ひげ先生といわれ、人々に慕われる名医になったことと思われる。

 戦争は、多くのすぐれた人々の命を、海に、山に、空に散らしてしまった。

 その一人、「芳一」の手紙には、過酷な戦場の中でもユーモアを忘れず、父母、弟妹はじめ、戦場の部下に温かく接している様子があふれている。まことに、戦争は残酷である。あたら有為な青年を自決に追いやったのである。

 

 物語を読めば、「惟芳」も、「芳一」も、根っからの軍国主義のかたまりではなかったことがわかる。そのことは、人の命を救う「医の道」を選んだことからも明らかである。

 しかし、時代の風というものはおそろしい。為政者と、そのお先棒を担ぐマスコミによって、国民は次第に軍国主義の風潮に巻き込まれ、それこそ一億国民が戦争へと突き進んで行ったことを忘れてはいけない。先の大戦時、愚老も、小学低学年であったが、B29が撃墜されるのを目のあたりにして拍手喝采したものであった。

 沖縄を始め、東京、大阪、名古屋、神戸、そして姫路の地も、お城だけを残して灰燼に帰する爆撃など、内地の人々も、大きな被害を受けたのは広く知られているとおりである。

 「芳一」の弟、「幡典」も終戦間際の爆撃により負傷させられている。

 物語は、声高にではないが、戦争の無残さ、非戦、反戦を訴えかけている。

 いま、新聞や、週刊誌のタイトルを見れば、「北」の核実験強行を始め、中国の尖閣諸島接近、竹島問題など、まさに開戦前夜のような様相であると伝えている。これらの見出しにはぞっとさせられるが、狂った人間の一本の指がスイッチを押し、一発のミサイルが発射されでもすれば、それこそ破滅的な戦争を引き起こす恐れは十分あるのである。

 終戦後数十年、人々は、早や戦争の悲惨さを忘れたのであろうか。先の大戦で何千万の人が犠牲になったことか。

 わが国の侵略によって近隣諸国の人々は多大の被害をこうむり、またわが国自身も何百万という犠牲者を出したことを忘れたのであろうか。

 もう戦争はやめろ、殺し合いはやめろ、と多くの「芳一」が、泉下から声を大にして叫んでいるのが、聞こえないのであろうか。

 「芳一」らの望んだのは、軍事大国になることであろうか。そうではないはずだ。なんとしても現代の危機を回避すべきである。それこそが、先の大戦尊い命を捧げた多くの「芳一」の願いではなかろうか。

              

 作品には、いろいろな関係者が登場して来られるが、それぞれの方が、深い感慨に打たれておられることであろう。

 愚生にとって望外の喜びは、「第三章 三菱長崎造船所」の「二」に、お送りした「常陸丸」に関する琵琶詞を引いていただいたことである。

 「姫路市在住で琵琶歌について造詣のある金沢史典氏から、次の琵琶曲を教えていただいたので、そのさわりの部分だけ記しておこう」(48ページ下段)、

 とあり、まことに光栄、感激の極みである。

 「詞」のあとに、先生は、「琵琶の哀調を帯びた弦の響きを伴奏に、この悲しい琵琶曲に耳を澄ませば、悲憤(ひふん)慷慨(こうがい)、ロシア憎しの感情が、澎湃(ほうはい)としてわき起こったであろうことは想像に難くない」とつづけておられる。

 この曲を、宮城県出身の亡父が若かった頃、幾度も演奏したであろうと思うと、まことに不思議なご縁といわなければならない。

 この作品に「常陸丸」と愚生の名を載せていただいたことによって、この著書を読んだ人々が、「金沢」という人間が確かに存在していたのだな、と、目の端にでも止めて下さるだけでも光栄である。  

取り上げてくださった先生へ、限りなき感謝を申し上げたいと思う。

 また、「芳一」の実弟「正道」氏が、鎮魂のために硫黄島の戦没地へ参拝されるとお聞きして、止むにやまれぬ思いからささやかな志をお送りしたところ、後になって知ったことだが、愚生の名でもって献花していただいたことを知り、余りにも、出すぎたことをしたものだと、慙愧の念に駆られたことを思い出す。まことに申し訳ないことをしたものである。

 このように、この作品に思いもかけぬかかわりを得たことは、他の人々とは、一つ違った生涯の思い出となった。

 この作品には、「惟芳」の従軍日記や、「芳一」の軍人手帳、「惟芳」を知る人々の証言、がみごとに生かされている。

 また、作者である先生が、あちこちへ取材に出かけられ、物語を大きく膨らますことに成功しておられる。

 作品は、机の上で書くものではなく、脚で書くべきであるということを如実に思い知らされた。

 山本先生には、この物語を書くべく天命が与えられたというべきであろう。

 その大役を受けとめついに完結させられたことによって、天も、今はなき縁者も、多くの関係者も限りない賞賛を送り続けることであろう。

 

 この作品をぜひ読んで欲しいと思う二人の知人に、先生の著書を送った。一人は高知県在住の友人であり、もう一人は、島根県出身の元・上司である。

 さらに、この著を、一人でも多くの人々に読んでもらいたいと心から願う次第である。

 この著書が、思わぬ形でブレークすることを乞い願うものである。(終)

                         平成25年3月4日

                             金沢 史典

 

 

                 四

 

 金沢氏の読後感想文を転記し、あらためて氏に感謝を申し上げる。以上数名の方からの読後感を紹介したが、この他にも多数頂戴したし、また筆には乗せないが、電話などで気持ちを述べて下さった方も多くあった。著者冥利に尽きると言えよう。

 最後に「読後感」をもう一つ紹介させていただきたい。神戸在住で金沢氏の紹介で親交を結ぶことが出来た尾端三郎氏からのものである。

 

 導入部分の主人公「緒方惟芳」の出郷から長崎造船所、そして日露戦争にいたる軌跡は、方言による会話体などを駆使され、生き生きと活写されていました。いかに資料があるにせよ、山本様にイマジネーションなくしては表現できなかったでありましょう。森鴎外の「歴史其の儘と歴史離れ」ではありませんが、歴史の虚実というものに興味をもっている小生としては、どこまでが「虚」であり「実」であるのだろうかと考えていました。読了したあとで「あとがき」を拝見し、「主人公惟芳が萩中学校で弓道の稽古をする、といったフィクションを一部織り交ぜながら書き出した」との一文に接し、小生の考えが氷解した次第です。

 当作品は虚実が渾然一体となった史実を基調とした「大河小説」と看取したところです。歴史書でないかぎり、物語を展開するうえでの「フィクション」は不可欠であります。紹介されていました『長周新聞』も、たしか「山本孝夫氏の小説」という言葉を使っていたと思います。日露戦争、三菱長崎造船所、無医村の宇田郷村での医療活動、そして長男芳一の硫黄島での最後、後妻幸の「茶杓」と薬師寺管長高田好胤との奇縁など、何れも写真や書簡や資料、関係する人々の証言や例証などから描かれており、「ノンフィクション」といってもよい内容でありました。「フィクション」の一部は、あくまで史実と史実を繋ぐ接着剤の役目を果たしているものと拝察しました。

 

 私は尾端氏のこの書評を読んで教えられまた大いに安堵もした。実は私自身は、文章の最初の部分と最後の部分で印象が違ってきたのに気付きながらも、致し方ないと諦めていた。それは本編を書き始めた時には、資料が乏しく想像を交えざるを得なかったのが、のちに次第に資料が手に入るようになると、資料に忠実に筆を進めたからである。「虚実が渾然一体」と評してもらい恐縮の至りだが、「虚実の混然」たるものをどうにか書き終え、その上このように多くの方に読み、かつ評していただき、改めて感謝する次第である。

 

今年五月の大型連休中、山口県立美術館で「生誕100年 松田正平展」を見た。彼は晩年には、飄々として透明感のある画を描き九十歳の長寿を全うしている。シベリヤ・シリーズで有名な山口県出身の画家香月泰男の作品と比べると、受ける印象が全く異なる。もし二人の運命が入れ換わっていたらと、愚かなことを考えてみたが、人間の運命は人それぞれに定まっているのかと思う。香月氏は1911年に日本海岸の現代の長門市で生まれた。松田氏は1913年に島根県の津和野に生まれている。そして硫黄島から家族へ切々たる手紙を書き残して戦死した芳一は、これまた又日本海に面した宇田郷という僻村で1914年に生まれた。

滋賀県の小川という方から次のような手紙を頂いた。この方はビルマ戦線で死の密林を彷徨し、マラリアに罹ったお陰だと言っておられるが、奇跡的に生還され、九十三歳の今も元気に活躍して居られる。

 

硫黄島からの手紙は圧巻でした。人間が最後の間際にあのような余裕を持って冷静に対応できる事が可能なものか、私も戦場で生死の際を歩きましたが、私は残念ながら真似できないと思います。脱帽です。

 

上記の三人は殆ど同じ時代に東京で一時の青春を謳歌している。いわゆる大正ロマンの時代に大学生活を送っている。しかし彼等を待ち受けていたその後の運命は異なる。運命は異なり、天の与えた命の長さは違っても、彼等は共に戦争のない平和な世の中を希求していたのではなかろうか。私はその日、帰りに県立図書館で加賀乙彦著『科学と宗教と死』(集英社新書)を借りて読んだ。これは小冊子だが良書であると思った。加賀氏は幼年学校から東大医学部を経て、医者として、また小説家として「二足の草鞋(わらじ)」をはいてこられた。晩年の2008年に、それまで非常に元気であった奥さんが70歳で急逝された時、加賀氏はもうすぐ80歳になろうとしておられた。その3年後の2011年に心臓の手術を受けておられる。その入院中に『荘子』と芭蕉の著作を全て読んだとして、次のように書いておられる。

 

そして次に、その芭蕉が師と仰いでいる荘子を読みました。『荘子』にこんなことが書いてあります。人間は生きている間は働いて、年を取ったらもうだんだん働けなくなりますけれど、天が人をそうゆうふうに作っているのだと。もう働かなくてもいいようにするために老いがあって、もう休ませるために死がある。

 

これは私が『杏林の坂道』の最後に引用した『荘子』の言葉である。加賀氏は次のようにも述べておられる。

 

人はなぜ死ぬかというのはわからない。戦争はなくならない。天災はなくならない。病気もなくならない。人は必ず死にますが、いつどうやって死ぬのかはわからない。死を考える事は、結局生を考えることにつながります。私はどう生きるのか。やがて来る死の瞬間まで、どう生きるのか。

荘子』の言葉を最後にもう一度引用させてもらおう。

 夫(そ)れ大塊は、我を載(の)するに形を以てし、我を勞(くる)しむるに生を以てし、我を佚(やす)んずるに老を以てし、我を息(いこ)わしむるに死を以てす。故に吾が生を善しとするものは、乃(すなわ)ち吾が死を善とする所以(ゆえん)なり。