yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

挽歌

挽歌

 

 

昨日(きのう)まで語りし妻の姿消え 無常ということひしと感ぜり       1

 

無常とは誰もが口にするけれど 容易に実感し難きことぞ

 

絶対に言葉を交わすことなきを 死の現実と知るぞ悲しき

 

寝たきりにならずに逝ける妻なれば これも良きかと独り慰む         

 

これからは独り暮らしの身となれり 余命いくばく無事願うのみ

    

青春も学びの道も投げ捨てて 来たりし妻のまごころ憶う

 

赤々と色づきにけるミニトマト 小さき苗を妻と植えにし

 

次々と青き胡瓜のみのれるも 妻亡き今は他人(ひと)に配れり

 

亡き妻の好物なりと知れる友 巨大な西瓜抱(いだ)き供えり

 

在りし日に妻の姿を求むれば 庭に黙して草を除(のぞ)けり

 

雨上がり日の照る下で黙々と 草取る妻は永久(とは)に旅立つ        10

 

若くして逝きしわが母あの世から 良き女性(ひと)選びてわれにもたらす

 

みどり児のわれを残して逝ける母 妻を選ぶも母の願いか

 

われをおきて妻早々と旅立ちぬ 逆を思えばこれも良きかと

 

大動脈解離(かいり)となりて此の世をば 妻旅立ちぬ死顔美し

 

死ぬまでは学び心を忘れじと 妻の残せしメモの数々

 

高校の授業に数段優れりと ネットを知りて妻の語らう

 

数独にのめりこんだる妻なれば 我が叱(しつ)言(げん)も馬耳東風か

 

後悔は先に立たずと今更に 妻を亡くして知るぞ悲しき

 

世の中に得難き女性(ひと)と思うとき わが人生は幸(さいわい)なりき

 

唐突に妻は逝けども今はただ 清(さや)けき心持ちたきものぞ       20

 

真夜中の異常に思う長電話 妻の日記の最後に記せり

 

真夜中にかかりし友の長電話 妻の急死の一因ならん

 

数多く妻の写真は残れども 孫抱きたる笑顔美し

 

何時何処で何故如何にかは分からねど 死は必然事南無阿弥陀仏

 

降り止まぬ田圃の道を傘さして 仏の花を買いて帰りぬ

 

安らかに眠るが如き亡き妻の つめたき額(ひたい)わが手に残る

 

洗濯機くるくる回る音を背に 一人侘しき朝の食卓

 

食事後の楽しき語らい今はなく ただ黙々と食ベ終らんか

 

真夏日に度重なりしお供えの 生ものだけは処置に困りぬ

 

エアコンの音喧しと亡き妻は 音と暑さに日夜耐えたり        30

 

浄土では音も暑さも感ぜずに 楽しき日々を送りてあらん 

 

夜中まで妻の向かいし木机に われ座り居て同じ書を読む

 

知らぬまに妻の買いたる歴史書を 興味覚えて開いて読まん

 

亡き妻は一人の作家に決めたれば 脇目もふらず読みふけりたり

数独に夢中になりて時の経つ ことも忘れて遅寝遅起き

 

数独に疲れ果てたか床に入り 日高くなりてやっと目覚めり

 

余りにも非常識なる長電話 妻の友から夜かかり来る

 

相手のみ一方的に責められず おしゃべり好むは女の性(さが)か

 

朝起きてああ疲れたと妻の言う また電話かとわれ思うなり

 

スマホにてかける電話は無料とか 友との語らい妻喜びぬ      40

 

良き友に恵まれたるか妻逝きて 弔(とむら)う客の多きに思う

 

父の弟子その子の作りし萩茶碗 わが亡き妻へと供え給へり

 

嫁に来て始めて習う茶法をば 妻受け継ぎて師範となれり 

 

妻逝きて思いもかけぬ遠くより 詣りし友に深く謝すなり

 

万葉集さりげなくしてひもとけば 妻を悼みし人麿の歌

 

仏教の伝わる前の人麿は 亡き妻偲びて山中を行く

 

御仏の教えの何と有難き 浄土の妻は安らぎてあらん

 

食卓に作りし料理並べても 箸持つものはわれ一人なり

 

独り身になりたる上は何事も わが方寸(ほうすん)の赴くがまま

 

死ぬるなら先に逝くこと望まんか これも定めか致し方なし       50

 

人は皆いずれは死ぬと知れるのに 後先言うは愚かなりけり

 

二十五で我を産みたるその年に 死せる実母の数倍生けり

 

若くして我を残して逝きし母 その心中は無限に悲し

 

白内障手術終えたる喜びを 本読むことに妻見出しぬ

 

白内障手術終えたる証なり 妻の文庫の何時しか増える

 

文庫本手軽に読むと妻の言う われは苦手だ小さき活字

 

漱石と鴎外だけは読まねばと 全集揃えて書架に並べる

 

妻の言う内容少しも変わらぬに 高い全集わざわざ買うと

 

死せずして真(ま)幸(さき)くあれば夜遅く 本読む妻の姿ありなん

 

日本海天気晴朗波高し この思い出の日妻の命日 (5月27日)     60

 

日本海夕焼け雲の海浜(かいひん)を 妻と歩きし今懐かしき

 

沙穴の蟹を見つめる妻の傍(そば) 二人の子等は波と戯(たわむ)る

 

砂浜も護岸工事で消え失せて 白砂遠浅見る影もなし

 

妻逝きて晩飯一人食べ終えて 夕暮れ空は暮れなんとす

 

もう少し生きてくれたら良かったと 空しき繰り言今日も言うなり

 

孤独なる言葉の真意つかみても 妻亡き後は空しかりけり

 

妻逝きてあらゆることが空しきと 思う心を変えんと思う

 

亡き妻によく来て呉れたという言葉 遺影見る毎心に思う

 

勘違い結婚なりと妻は言う 我は黙して聞き流すのみ

 

結婚を申し込んだるその時は 妻の快諾夢かと思う          70

 

痛みから解き放たれたと思うとき 妻逝きたるの嘆き和らぐ

 

亡き妻に語りかけても返事なし 短き一生如何に思へり

 

天満(てんまん)の句碑の前にて坐りたる 妻のほほえみ真(まこと)の姿

 

天満の薫の句碑を前にして ほほえみ浮かぶ妻の面影

 

天満の句碑をしばしば訪れし 妻を思いてまた訪れん

 

天満(あまみつ)る薫をここに梅の華 この句を妻は孫に教えり

 

天神を深く信じたわが祖先 梅華の句碑をここに据え置く

 

天満宮妻と参りし度毎に 梅華の句碑を見ざることなし

 

天満る薫の句碑の傍らの 梅の花びらほのかに染まる

 

曾祖父が天満の句を作りしは 夢に天神現れたとき      80 

 

妻逝きて『歎異抄』なる本読めば 暁の空ほのかに明けり

 

図書館で大活字本借りだして 『私の歎異抄』有難く読む

 

残されて一人になりてすることは 掃除洗濯調理に読書

 

妻逝きて残り少なきこの命 清く正しく生きんと思う

 

亡き妻は幼き子等を見る度に にっこり笑みて言葉かけたり

 

亡き母の見えざる力働いて わが結婚は出来たと思う

 

何一つ良き印象も与えぬに 妻わが下によく来てくれた

 

世の中のあらゆる事は自力より 他力に負うとつくづく思う

 

御仏の無限のあわれみ心をば 大悲だとも本願とも言う

   

今の世は市場原理の名のもとで 自己責任を負わされるなり

 

妻逝きて 恥ずかしき生き方は 心に誓ってすまじと思う

 

呆けもせず人の世話にもならずして 眠るが如く死にたきものぞ

  

真夜中に二階の階段這い上り 腰の痛みを妻訴える

  

小学校上がった頃から痛みあり 母に心配かけたと妻の言う

 

足湯やら電気治療を施して 痛み和らぎ眠気催す

 

     

 

 

雑歌(ぞうか)又は戯れ歌

 

 

いたずらに五七五と並べても まともな歌は果たしてありや      1

 

妻逝きて心に浮かぶ歌多し 並(な)べて駄作と知れど留め置く

 

永遠と思えるものを永遠に 求める者を菩薩と言えり

 

永遠のいのちに我等生かされし これを他力と知ること難し 

 

妻逝きてまねて作りし手料理を 独りさびしく食べる日々かな

 

亡き妻の手料理まねて朝夕に 今日も作れり広きキッチン

 

朝起きて夜寝るまでの時間帯 自由気ままな時の流れか

 

何気なくはずし置きたる眼鏡をば 妻亡き今は一人で探す          

 

やることのあれこれあると思へども 無理と怠惰はすまじきことぞ

 

老いの日々怠惰にならず無理もせず 無事に過ごさん死の来たるまで  10

 

硫黄島華と散りたる従兄(じゅうけい)の 面影今も心に浮かぶ

 

硫黄島華と散りにし従兄の やさしき心今に伝へん

 

硫黄島眠れる御霊(みたま)安かれと 島影近く飛ぶ鳥哀し

 

何事もなきが如くに海鳥の 島をかすめて飛ぶぞ哀しき 

 

守備兵の未だ帰らぬ硫黄島 海鳥一羽かすめ飛び去る

 

呆けたる老病人の多きかな 病院・施設に入りて驚く

 

朝起きてパンを探せど見当たらぬ 車の中に放置したまま

 

朝起きて先ず為すことはエアコンの 数値設定二十五度

 

幾種もの野菜を炒め卵焼き 胡瓜(きゅうり)膾(なます)で三品調う

 

朝取りし胡瓜スライス塩揉みし 米酢に干しエビ加えて食べぬ

 

湯を沸かし珈琲淹(い)れてパンを焼き 作りし料理で朝の食卓

 

八時から三種の料理作り終え 時計を見れば九時を過ぎたり

 

一秒の百分の一速かれと 競うてみても空しく思う

 

競争は人の持ちたる性(さが)なれば 悪しき顕れ戦い止まず         30

 

ギリシャにてせめてこの間戦(いくさ)をば 止めて行うオリンピック

 

オリンピアその精神を引き継ぐも 今も止まざる冷たき戦

 

オリンピックボイコットせんと隣国の 反日思想止むことぞなき

 

お供えの梨をおろして食すれば 味も全くなしのがしがし

 

秋野菜三種の種を蒔きたれど 発芽したのは一種のみなり

 

人生は無駄なことのみ多かりき 種まき一つ見ても明らか

 

権兵衛が蒔いた種をばカラスがつつく 発芽しただけ良しと思えり

 

先祖よりお茶を嗜み来たために 抹茶だけは常に欠かさじ 

 

萩焼の茶碗で点(た)てし抹茶をば 作法通りに慎みて喫む

 

来客があれば必ず抹茶をば 出す習わしを今も伝えん       40

 

真夏日に冷えた抹茶を差し出せば 甘露なりとて客の喜ぶ

 

人は皆ピンピンコロリを願えども 願い叶うは稀なることぞ

 

世の中に悲惨な言葉多くあり 生ける屍・褥(じょく)瘡(そう)などと

 

病床で言葉話せず身動き出来ず ただ息しても永らうべきか

 

己が身を客観的に見ることが 出来て初めて一人前か

 

あおられてその上暴力振るわれし テレビの画面止むことのなき

 

犯人が逮捕されたの報道に 後は厳罰望むだけなり

 

盆過ぎて狂ったような真夏日も 一日ごとに遠ざかりゆく

 

朝早く起きて本読む時だけは 老いたる頭多少真面(まとも)か

 

大学で学びし沙翁の作品を 何年振りにか原書繙(ひもと)く

 

中世の英語で書かれしチョサーの 授業は記憶にありあり残る   50

 

男女間怪しき箇所を先生は 飛ばして訳す慎ましきかな

 

大学で中世英語を習いしも 高校にては役立たぬなり

 

今直ぐに役立たずとも教養を 身につけるこそ学問の道

 

六地蔵日に一回は参らんと 妻亡き後に心に決めん

 

炎天下小さき蟻の歩みにも 命の姿ありありと見る

 

六地蔵供えし菓子に群がれる 小さき蟻の動き止まざる

 

左右より歩みよりたる蟻二匹 言葉交わすか瞬時止(とど)まる

 

朝起きて先ずエアコンと掃除機の 二つの機器を作動さすなり

 

その昔さて休むぞと蚊帳の中 うちわ片手にそろり入るなり

 

蚊帳うちわ扇風機さえ忘れ去り エアコンなければ生きていかれぬ   60

 

畑庭朝の水やり一仕事 汗ばむ身体にシャワー浴びたり

 

知らぬ間に蚊に刺されたるむき出しの 腕の各所がポット赤らむ

 

芥川賞をもらえし作品の 受賞の真意何処(いずこ)にあるや

 

雑用と多くの人は言うけれど 成すべき用を雑にするだけ

 

世の中に雑用という用はなし 用を雑にし雑用生ず

 

念ずれば花咲くなりの念の文字 今の心と知らましものぞ

 

人格は自ら考え行動し その責任を取る主体なり

 

白内障絶対ならぬと言われても 拡大鏡はいつも手元に  

 

鴎外の全集読めば大活字 視力弱まる今有難き

 

変えられぬものは静かに受け容れて 変えうるものに強く立ち向け

 

口一つ耳が二つあることは 相手の言葉二倍聞くこと       70

 

愛の反対憎しみと多くの人は思へども 無関心こそその答えなりなり

 

一般に面倒見よき妻(さい)死なば 残りし夫(つま)は慌てふためく

 

甲子園今日の決勝近ければ 奥川投手間近に見たし

 

星稜の奥川投手の笑顔こそ 野球健児の華と讃えん

 

御仏前開いて見れば中身なし 他山の石と老いの身思う

 

結婚は世にも不思議な事なりき 知らざる者と一生送る

 

真夏日に何はさておき冷や水は 喉を潤す甘露なりけり

 

夏野菜最期に残りしトマトをば 根引き抜きて後何植えん

 

良くできたトマトに胡瓜ピーマンは 一人暮らしに持てあますなり

 

食事終え後片付けをしたときに ピーッと促す洗濯機かな     80

 

日に数度眼鏡の置き場忘れたり 呆けの証拠と自嘲するなり

 

妻逝きて仏の教え学ばんと 暗きに起きて読書するなり

 

孔夫子の教えたるのは人の道 釈尊説きしは仏の道か

 

自らの心をすてて他力のみ たのみまいらす人もありけり

 

人はみな迷いの心断ち切れず ただ天運に任すのみなり

 

他力にと教えられたる正道(せいどう)を 歩める人は幸せなり

 

御仏のわれに示せる道なりと 信じて進む人は幸せ

 

人はみな無心になれというけれど 無我の境地はさらにその奥

 

人はみな多少なりとも我執あり これを除けば無我に達せん

 

人間が人間であるかぎり 我執を捨てるは難き事なり

 

朝早く雑草除きシャワー浴び 裸身のままで食事するなり        90

 

最近は前の開かぬパンツあり 知らずに買って返されもせず

 

立小便これも今や死語なるか 男も便器に座して用足す

 

亡き妻の清き心に比ぶれば わが心根は未だ澄まざる

 

清水に魚住まずと人の言う 俗世に染まる者の言い訳

 

清純な心を死ぬまで保つこと 仏の力に頼る他(ほか)なし

 

世の人は金さえあればと言うけれど 真の生き甲斐外に求めん

 

パチンコや株に現(うつつ)を抜かす者 金儲けのみ頭にありや

 

生きるとはただ一回のことなれば 徒(あだ)疎(おろそ)かに過ごすべからず

 

亡き人を想いて善事を実践す これぞ真(まこと)の追善供養

 

処暑を過ぎ秋風にわかに吹きくれば 亡き妻想いそぞろに淋し     100

 

出版と決めた「奇跡のゲートル」を 涙をもって読み返すなり

 

亡き妻が愚かな事と止めおきし 拙稿ここに世に問いてみん

 

父も子も医は仁術の道を行く 人と生まれて尊くぞあり

 

わが伯父は息引き取りし間際まで 矜持の心保ちたるなり

 

わが孫の「笑瑠」と名づけしその意図は 笑う宝となれとの願      110

 

ペルシャの詩人は歌いたり)

何処(いずち)よりまた何故(なにゆえ)と知らでこの世に生まれ来て

荒野を過ぐる風の如(ごと)行方(ゆくえ)も知らで逝(ゆ)くわれか

 

不可知論生ある限り楽しめと ペルシャの詩人は歌いたるなり

 

年古(ふ)りて命の葉をば振り落とし 古木となりていつか倒れん

 

寿命とは命の続く間なり 短くあれど寿(ことほ)ぐ命

 

草木にも寿命あるぞと思うとき 彼らの命大切にせん

 

悲しみを心の底に秘めおきて 笑みを浮かべし大和撫子

 

テレビにて喜怒哀楽を姦(かしま)しく 朝から晩まで叫ぶタレント  

 

孫娘山本笑瑠と書いたとき 名前の中で山笑うなり

 

終戦後届いた骨壺見てみれば 骨の代わりに白木の位牌

 

硫黄島玉砕せりと送られし 白木の位牌骨壺の中

 

骨でなく白木の位牌見て思う 遺体はきっと洞穴の中

 

   

 

 

   

納骨

 妻の納骨を十月十三日と決め、その日から二週間ばかり前に萩へ行きお寺とも打ち合わせをし、伊勢島の石屋にも会って当日までに戒名などを彫って貰うようにした。さらに行事の後の食事にと、市内の三つの食事処を廻ってみたがいずれも予約で一杯だと言って断られた。帰宅後泰之が電話して一軒見つけてくれたのでこれでやれやれと安心し、今日の日が来るのを待っていた。

ところが一週間前になって天気予報によると猛烈な台風十九号が発生し、丁度十二・十三の連休に日本列島を襲うということを知った。まさかの場合を懸念して少し待って様子をみていると、台風は西日本を逸れて東海から関東・東北を直撃するとのことである。しかし交通機関は用心して新幹線を止めるかも知れない。最近の予報は大体間違いない。しかし大阪からの列車がもし止まると大変だと思い、思い切って納骨を延期することにしてお寺等へも連絡した。

 

今日は十三日である。やはり予想通りこちらは朝から快晴。昨日は曇り空で多少風が吹いた程度だった。西日本新幹線はほぼ平常通りだったようである。従って納骨は実施すれば恐らく可能だったと思う。

さてそれでは改めて何日が良いかと、息子や息子の嫁達の都合を聞いてみたら、今月は皆都合が悪い。来月は十六日だけ誰も差し支えがないと分かりお寺に電話すると、その日に限ってお寺の都合が悪いとの返事。思い切って十二月にしようかと思い大栄さんに電話するとどうも良くないそうだ。

 

達夫が「お母さんはまだ家にいてお父さんの傍が良いと云っているんだよ」と云った。 そういえば不思議な事に今日のこのように決めた日が台風騒動で流れ、外に色々と当たってみた日が皆駄目である。やはり妻はもう少し我が家にいたいのかも知れない。そこで考えた。来年一周忌の法要を済ませた後の良い日を選ぼう。できたら一周忌の法要の当日でもよかろう。いずれにしても妻の遺骨は当分我が家に安置して毎日見守る事にしよう。妻も喜んでくれると思うと私としても心が安らいだ気持ちになった。

納骨の日を決めるというささやかな事だが、思ったより難しい事が分かった。又何だか不思議な力が働いているようにも思った。その内きっと最も良い日に決まると信じている。

 

私は妻が亡くなった時から、遺骨を安置している座敷に床を敷いて休み、朝起きたら掃除をして、供花の水を替え、朝夕手を合わすことにしている。普通四時前後に自然に目が醒め、その時起きる。早いときは三時、遅くとも五時前には床を出る。

そして洗顔の後二時間ばかり本を読む。もう亡くなって五ヶ月以上になるが、真夏の暑い時はクーラーをかけたままで寝ていたが、十月に入り薄い夏布団では少し寒く感じる。

私は妻が結婚前にくれた手紙を久し振りに読んでみた。こんな事が書いてあった。

「ブラジルの父に、結婚しようと思っていますと連絡したら、それは自分で決めることだから、自分で良いと思ったらそうしなさい。問題は結婚しても絶えず勉強して自己の人格を高めるようにすることだ」。

 

数年前に妻の提案で「家庭内別居」と云ったら聞こえが悪いが、食事の時を除いて、それぞれが自分の時間を自分の部屋で自由に使うことにした。私はそれまで今思えば自分勝手だが、食事後は二階の部屋で自由に時間を過ごしていた。ところが妻は食事後もそのまま居間に残っていた。こうした事を解消しよう云う妻の提案に私は賛成した。その為にこれまで一緒に使っていた寝室を妻だけが用いて、私は二階にベッドを持ち込んで二階で専ら過ごすようにと部屋を模様替えした。

 

これはわれわれにとって、特に妻にとっては良かったと思う。何しろ私は早寝早起き、妻は真反対で、夜中の一時過ぎまで起きていたりして、その為に朝八時過ぎまで起きてこないことがある。従って妻はその間好きに時間を使ったのである。亡くなった後知ったのだが、『般若心経』を筆ペンで謹書したものが大きな箱一杯あった。五百枚近く知らないうちに書いていたのだ。外にいろいろな作家の作品や教養書といったものがあった。それも全て文庫本で、妻はいつも軽便で安価だからといって文庫本を愛用していた。

 

さて私は妻が亡くなったあと或る日、妻の気持ちを忖度してみた。

「私はこのように貴方より早く旅立ちます。貴方は後に残ってまだまだ勉強して自分を高めるようにしてください。私が居ないから自分の時間をこれまで以上に自由に使えるでしょう」

このように思い、これからの日々の生活を律しようと考えた。今後幾年元気で居られるか分からない。出来るだけ健康を保ち、そして時間を有効に使おうと思う。そうすることが妻へのせめてもの供養になり、息子や孫達への自分の生き方を示すことになるだろう。

 

先日、県立図書館へ行き書棚を見ていたら、井筒俊彦氏の著書が目に入った。『老子道徳経』である。早速借りて読み出したら難しいが結構面白い。孔子の『論語』とは違って老荘の思想に触れることが出来有難かった。これを読み終えたので次に若松英輔著『井筒俊彦 叡智の哲学』を借りて来た。これを読んで知ったのだが、井筒氏は三十カ国語をマスターした語学の天才である。しかも宗教学者、哲学者としても世界的な碩学である。良き著者に巡り会えたのも妻のお陰かかもしれない。確か以前彼が書いた『マホメット』の文庫本を買ったので我が家にある筈だと探してみたら見つかった。頁を繰ってみると所々に線を引いてある。しかし私は内容をすっかり忘れていたので改めて読むことにした。本の裏表紙に「今なお世界史を揺るがし続ける砂漠の宗教の誕生を、詩情豊かに描ききる名著の中の名著」と書いてあった。私も此の度再読して、確かに素晴らしい名著だと思った。

例えばこの『マホメット』にこのような文章を井筒氏は書いている。

 

マホメットはかって私の青春の血潮を妖しく湧き立たせた異常な人物だ。人生の最も華やかなるべき一時期を私は彼とともに過ごした。彼の面影は至るところ私についてまわって片時も私を放さなかった。第一に生活の環境がそれを私に強要したのだった。朝起きてから夜床に就くまでアラビア語を読みアラビア語を喋りアラビア語を教え、机に向かえば古いアラビアの詩集やコーランを繙くという、今にして憶えばまるで夢のような日々を送っていたその頃の私に、どうしてマホメットのことを忘れる暇などあり得よう。しかも精神的世界の英雄を瞻望して止まなかった当時の私の心には、覇気満々たるこのマホメットという人物の魁偉な風貌が堪え難いばかりの魅惑となって迫っていたのだった。あの頃の放恣な情熱的な生活の狂躁がようやくおさまり、耳を聾するばかりだった喧囂の声も遠い仄かな潮騒の音にしか聞こえなくなってしまった今日、書肆の要求に応じてマホメット論の筆を執るべく憶いを彼の上にひそめて見れば、彷彿と眼底に浮かんで来るこの情熱的な砂漠の児の面影とともに、青春の日の我れと我が身の様々な姿が奇怪な幻想のように次々に忘却の淵から現れて来て、自らにして胸の若やぐのを禁ずる事ができない。

 

確かに名文である。あるイギリス人の学者が言っていた。井筒氏の英文はシエイクスピアの全作品と聖書を完全にマスター人が書くような文章であると。井筒氏は世界の古典を全てその言葉で読んでいたそうだ。ともかくも希有の人物である。彼の文章はセンテンスが長い。彼の英文も同じだと先のイギリス人の学者が半ば驚嘆しながら褒めていた。

慶應義塾大学出版部から彼の著作集が日本文と英文で出ているようだ。出来たら少しでも読んで、早朝の楽しみが続けられたら有難い。その為には毎日規則正しい生活をすることに尽きるだろう。

2019・10・13 記す

 

    

 連休に猛烈な台風十九号の襲来が予告されている。前回の台風十五号より規模が大きいとのことで、進行方向の右側は又甚大な被害が生ずるのではなかろうか。幸いにも山口県を避けているようだ。しかし備えをするようにテレビでは警告を流している。このために新幹線が不通になることを考えて十三日の納骨は取り止めた。

台風が来るのはまだ数日先のことだから今朝など雲一つない快晴。猫の額ほどの狭いところに葉野菜を植えているのが、日照り続きだから水をやろうと思ってホースを手にして水をかけたら、その水が小さな半円の弧となり虹色に輝くではないか。私はこの現象に目を見張った。水を止めれば勿論直ちに虹は消える。水を出すと今度は二重の虹が生じた。これは珍しい現象だと思い、カメラを持ってきて片手にホースから水を出し、一方の手でシャッターを切って虹を写してみた。

 外側から赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色にはっきりと見えた。そのときふと私は思った。何故「虹」と云う字は「虫偏」なのかと。そこで撒水を済ますと二階へ上がって漢和辞典を引いてみた。すると「にじ」と云う漢字は「虹」の外に幾つかあるということを知った。まず「虹」の説明にはこうあった。

 

 「虫」は大蛇のこと。「工」はつらぬくこと。従って天空を貫く大蛇に見立てた呼び名。

 「霓」と「蜺」も「にじ」を意味し、「昔、にじにも雌雄があると考え、雄を「虹」雌を「蜺」または「霓」といった。

 

昔の人が、[虹]を天空を貫いて輝く蛇のように見立てたのには驚いた。英語は平凡に

RAINBOW(雨の弓)で誰にも頷ける。

ここで私は又「雌雄」という言葉について一寸気になった。不通「男女」とか「夫婦」と云った語順で「オトコ」が先に来るのに何故「雌雄」では逆になって居るのかと。これは人間以外の生物の場合、何と云っても「メス」が生殖の主体だからだろうと思った。

こうした愚にもつかない事を考えたが、「虹」と云えばどうしてもワズワースの有名な詩を思い出す。

 

  My heart leaps up when I behold

A rainbow in the sky:

So was it when my life began,

So is it now I am a man,

So be it when I shall grow old

Or let me die!
      The child is father of the Man;

And I could wish my days to be

Bound each to each by natural piety.

 

空の虹を見ると 

 私の心は踊り立つ、

子供の時分にそうだった、

大人になった今でもそうだ、

老人になってもそうありたいものだー

そうでなかったら私は死ぬ。

子供こそは大人の親だ 

そうして私は生涯一貫して

親に對にする本然の尊敬心の如き尊敬心を子供に對して

持っていたいものだと思う。

            山宮 允著『英詩詳釋』

 

 この最後の二行がワズワースの虹を見ての感想の主眼だろうが、純真無垢の童心を彼は何時までも持っていたいとは流石だ。

 

子供に罪はない。ところが最近幼児虐待と云ったとても考えられないような事件が頻繁に起こっている。「出来ちゃった結婚」で結婚後すぐ離婚し、女性は暮らしていけないから又別の男性と一緒になる。そうすると新しい夫は前の男性の子供が邪魔になる。その子は当然なついてくれない。その結果虐待という仕打ちになってしまう。

 今は少子高齢化と云われている。若い者が中々結婚しないし、しても生活に追われて出産を控える。この傾向は今後まだ進むかも知れない。昔は仲人という者がいて双方の家に相応しい相手を心配して居たが、今はそういったものがなくなった。その為につい一目惚れで結婚しても直ぐ熱が冷め、子供が生まれるとその子の運命は不幸になることが多い。

明治の『教育勅語』を戦後悪の根源のように排斥して来たが、そこに書かれている親孝行とか兄弟仲良くし、夫婦相和す事は人間として一番大事なことだと思う。

 

それにしても天然の色彩は実に美しい。豊旗雲とか茜色の夕空など実に美しい。今朝の撒水という何気ない動作の中に、こうした自然現象を発見したのは良いが、愚痴に終わってしまった。もう一度虹の写真を見てみよう。

2019・10・10 記す

 

                                   

都鳥

 私は毎朝五時前後に起きる。目覚まし時計をセットはしないが、夜九時には床に就くので七時間は熟睡したことになる。従って睡眠時間は充分足りているから、起きたとき頭はすっきりしている。まあそうは言っても頭が回転するのは朝食迄くらいだろう。起きたら直ぐ机に向かって好きな本を読むことにしている。

 最近は梅原猛の『法然の哀しみ』と『平家物語』を再読している。なぜこのような本を読むかというと、妻が亡くなって人生の無常をつくづく感じるからである。法然上人が布教活動をしたのが丁度源平の確執があった頃だし、『平家物語』には無常感が漂っているからである。こうして一時間か一時間半ばかり経つと、ちょっと一休みして私は抹茶を点てて一服する事にしている。

その時使用する抹茶茶碗と菓子皿はいつも決まったもの使用する。茶碗は先代の玉村松月という萩焼作家の作ったもので、口径が十四センチ、高さが十センチのかなり大振りの茶碗で、私が一番気に入っているものである。此の作品は玉村氏が息子さんと一緒に私の父の所へお茶の稽古に来ておられたとき、試作品として父が貰ったもので、箱に入った正規のものではない。しかし両手の掌で包んで抱えるような、かなり大きな見事な茶碗である。肌は薄い飴色で、貫入が小さな網の目のように綺麗に入っておる。私はこの茶碗でお茶を飲むのが朝の楽しみの一つである。

抹茶は「又(ゆう)玄(げん)」という銘のものである。私はこれが残り少なくなると、いつも「河崎茶舗」に電話で頼んで持って来て貰うことにしている。この「又玄」はネットを見るとかなり宣伝してあった。「幽玄」という言葉はよく耳にする。これは「奥深く微妙で、容易にはかりしることのできないこと。又、味わいの深いこと。情趣に富むこと。あるいは、上品でやさしいこと。優雅なこと」と云った説明が『広辞苑』に出ている。そこで「又玄」とはどういう意味かと思って調べたら、奈良の薬師寺の123代の管主橋本凝(ぎょう)胤(いん)師が命名されて、「奥深い上にもなお奥深い道」という意味だと分かった。「又」には「また、さらにその上」という意味が確かにある。

 

玉村氏は小学校を出ただけで陶工の道を進まれ、山口県名工の一人として、県の『人間国宝』にまでなられた。彼の長男の登陽さんも萩焼作家として名を成したが、惜しいことに数年前に亡くなった。私の家内が亡くなってしばらくして、彼の奥さんと長男が「父が生前差し上げたいと言っていたものですが」と言って桐箱に入った立派な抹茶茶碗を家内の仏前に供えて下さった。これは「紅(べに)萩(はぎ)」と言って登陽さんが研究を重ねて作った赤味のある立派な茶碗である。私は恐縮した。その彼が次のような事を云ったのを私は良く覚えている。

「父は大きな手をしていました。力強かったものですから、一日に三百箇の抹茶茶碗を作ったことがあると言っていました。私なんか精々百箇作れたら上出来です」

学校での教育が小学校で終わっていても、人間はそれからの精進次第で立派になる。

 

さて今度は私が此の拙文の題とした「都鳥」について書くことにしよう。抹茶を服すには何らかの菓子を同時に口にするので、私はその時の菓子器も、先にも云ったように、いつも決まったものを使うことにしている。これは我が家に昔からあるもので、五枚一揃いになっている。いずれも手書きで鳥の素描をあしらってある。それぞれの皿は多少違った絵柄になっており、そこに「言問」という二文字が書かれてある。大きさは直径十六センチもあるから、菓子皿としてはかなり大きい物である。薄卵色で絵は黒い線で描かれている。恐らく私の曾祖父か祖父が京都で手に入れたものだろう。楽焼きかと思われる。

私はこれらの皿を萩から山口に移って初めて日常に使い始めた。それまでは父がお客用に使用していた。従ってそれまでは此の皿に特別関心も注意も払わなかった。しかしある日、妻に促されて注意を向けて調べて見たら、中々興味深いものだと知った。

ここまで書いたとき電話がかかってきた。肺ガンで自宅療養していた妻の弟に関してのものだった。

「大栄さんが重篤(じゅうとく)で、心臓がいつ止まってもおかしくないと医者が言われました」

彼の妻からの電話だった。私の妻と弟は仲が良くて、妻が亡くなるまでしばしば夜遅く長電話をしていた。妻は生前「昨夜も遅くなって大栄が電話してきたのよ」と朝起きてきた途端によく語っていた。

話を元に戻そう。「都鳥」についてだが、『伊勢物語』に次の歌があるのを知った。

 

 名にし負はばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと

 

菓子皿のどれにも「言問」の二字が、崩しの書体で書かれてある。この「言問」の二文字と鳥の素描でこの歌の謂われが分かった。そこで改めて『伊勢物語』を読もうと思い、昼過ぎて時刻は三時前だったが、『古典文学全集』(筑摩書房)の「王朝物語集」を開いたら載っていた。現代語訳である。

ここまで書いたらまた電話があって、妻の弟は遂に亡くなったと知らせてきた。諸行無常、人の命の儚さを痛切に感じた。昨年五月の妻の一周忌の法要には大坂から来て呉れたのだ。その後肺ガンだと診断され、治療に専念していたのである。思いも掛けない事になった。悲しい事だが仕方がない。これが人生というものかと思う。

 

伊勢物語』「第9段」の該当の文章だけ引用してみよう。

 

なお旅をつづけていくと、武蔵の国と下総(しもうさ)の国との境にたいそう大きな河がある。それを隅田川という。その河の岸辺に一行が集まって、旅のあとを思いやると、まあなんと限りなくも遠く来てしまったものだなあという気がして、互いに旅愁をわび合っている折しも、渡守(わたしもり)が「早く舟に乗りなさい、日も暮れてしまいますぞ」というので、乗って渡ろうとするにつけても、皆はなんとなくわびしくて、都に残してきた愛人がないわけでもないので、その人のことを思って旅愁もひとしお身にしむものだった。そうした折も折り、嘴と脚との赤い、鴫(しぎ)の大きさほどの白い鳥が、水の上に遊びながら魚を食っている。都では見られない鳥なので、誰も見知ったものはない。渡守に尋ねると、「これがあの都鳥ですよ」というのを聞いて、

名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと

(都鳥よ、お前がその名にそむかないならば、さあ尋ねよう、都にいる私の愛人は無事でいるだろうか、どうだろうかと)

と詠んだので、舟の中の人々は一人残らず泣いてしまった。

 

これだけの背景を持った菓子皿である。それも一枚一枚が手書きであるのが良い。昔の陶工にはこのような風流というか文学的趣味を持つ者がいたのだろう。果たしていまこのような作品があるだろうか。先ず一枚一枚が手書きというのはないように思う。現在は確かに精巧で美しい絵模様の磁器だが、大抵は皆プリント印刷したものだ。

十数年前にイギリスの田園地帯を巡るバスツアーに参加した時、ワーズワスの住んで居たところとして有名な、イングランド北西部の「湖水地方」を一人の友人と訪れた。その時一揃いの小さな皿を目にした。それには皆同じ黄水仙の絵と彼の有名な詩がプリントしてあった。私は記念になると思って買って帰り今でも愛用しているが、やはり印刷では味気なく思うのである。しかしこれは私の好きな詩だから訳文を書いておこう。なお原詩はネットなどで見てもらうことにする。

 

 谷や小山の上の大空高く漂うている雲の様に

 一人寂しく(山地を)逍遙していた時、

忽然として私の目に入ったのは、

湖水の岸辺に、又木の下蔭に咲き乱れ、

微風に吹かれてはためき踊っている

夥しい数の黄金色の黄水仙の花だった。

          ウイリヤム・ワーズワス

           1770-1850

               (『英詩詳釋』山宮允訳)

 

原詩に比べたらそれほど良い訳とは思えない。英語の詩には二個所素敵な脚韻がある。これが訳文では出せないからだ。ワーズワスは丁度80歳で亡くなっている。当時としては長命である。私の妻と妻の弟は共に享年79だった。この文章の始めにちょっと言及した法然上人は、享年80で亡くなっている。釈迦は満80歳で亡くなっている。あの昔80歳と云えば今なら150歳くらいだろう。プラトンも同じ80歳で死んで居る。こう言った有名人の臨終の様子を、私は山田風太郎著『人間臨終図巻』で知った。参考までに名前だけ挙げてみると、次の人たちである。

世阿弥尾形乾山、カント、幸田露伴、ド・ゴール、永井荷風トーマス・マンなど。  

皆満年齢の80歳で死んでいる。現代は医学が進歩して、確かに長生きの人が格段に増加した。しかし病床に臥して、ただ呼吸をして居るだけで、自意識のないような老人が多い。気の毒だがこれもその人の運命だろうか。私は知らないうちに80歳をとっくに過ぎてしまった。そのうちお迎えが来るだろう。それまでは何とか元気で居たいものだと思う。後は天に任すだけである。

最後に萩高校の教え子で、気象庁を退職した後、探鳥を趣味として全国を旅している上野達雄君から、彼が撮影した多くの「都鳥」、つまり「ユリカモメ」の写真を送ってくれた。その中から二枚だけ載せておこう。彼はこの鳥について次のように書き送ってくれた。

 

カモメの類は、成長するに従って形態を変えるので、その分、識別が面倒になります。

ユリカモメの場合、幼羽、第一回冬羽、第一回夏羽、成長夏羽、成長冬羽の順で変化します。夏に生まれて2年で成鳥となるようです。日本へは冬鳥としてやって来るので、ほとんどの場合、冬羽しか見れません。たまに夏羽を目に出来ることがありあます。夏羽は頭が真っ黒になります。

 

 彼のお蔭で、私はこの鳥について初めて多くの事を学ぶ事が出来た。彼は雪国の新潟に住んでいるが、今年の積雪は「3年振り」の大雪だといって、雪景色の写真も送って呉れた。早く雪が解けて、彼から珍しい鳥の写真がくるのを楽しみにしている。

2021・1・17 記す

 

          

「調子」という言葉

 幼いと云っても中々馬鹿にならない。もうすぐ1年生になる孫娘が、家内にしかられて咄嗟に言った言葉には思わず吹き出した。

 

「笑瑠(えみる)、また、そんなことをして」との家内の叱声に間髪を入れず、

「あ、調子に乗った」と、上手く受け答えたのである。

 

日頃我々は「調子に乗るんじゃない」と言って軽はずみな言動を非難するときに使う。普通このように否定的に用いるこの言葉を肯定的に使って、それこそ上手く調子を合わせたのには感心した。

言葉を間違いなく使うのは大人でも難しい。「調子」という言葉一つをとっても、たとえば、「体の調子が良い」とか、「エンジンの調子が良い」と言えば文字通りの意味だが、「あいつは調子が良い」と云えば、いわゆる「お調子者」として人の顰蹙を買う軽侮の意味である。

学生時代英語の授業で、「FINE」という言葉には全く相反する意味があると教えられた。「a fine view」といえば「壮大な眺め」でこのfineは「雄大な」とか「広々とした」という意味であるが、「fine rain」と云えば、「小ぬか雨」で、この場合のfineは「細かい」「繊細な」といった意味である。

先に挙げた「調子」という言葉だが、もし「調子よくやれよ」と書かれた日本文を他言語に翻訳する場合、それを文字通り「体にも気を付けて調子よく立派にやれ」の意味にとるか、それとも「相手と調子を合わせて抜かりのないよううまくやれ」といった意味を持たせているかは、前後の文脈から推して翻訳しなければなるまい。だからこの翻訳の仕事は容易ではない。両者の言語はもとより、それぞれ異なる文化にも精通する必要がある。そういった観点から、世界的な文学作品などの翻訳に、我はと思う訳者がこれまで数多く挑戦してきた。しかしそれは往々にしてa translator  is  a  traitor 「翻訳者は反逆者」の烙印を押される危険を冒してである。 

(平成27年3月29日)

朝の一服

 目が醒めたのは午前三時。まだ起き上がるには早いと思い、用便を済ませて又床に入った。やはり床の中は暖かい。しかしもう眠気はない。床の中で亡妻の事をあれこれと考えたりしてしばらくの後、やはり起きようと思って灯を点けて時計を見ると、針は四時前を指している。洗顔の後、居間の暖房を弱めにして机に向かって坐り、昨朝から読みはじめた久松真一著『茶道の哲学』(講談社学術文庫)を続けて読んだ。

この文庫本は二百七十頁ばかりのものであるが内容的には実に豊かで、茶道の精神を詳しく又ある程度分かりやすく解説してある。我が家では曾祖父が明治の初めに大阪に出ていたとき小堀遠州流の茶の宗匠青木宗鳳師と知り合い、その宗匠を萩に招致してこの流派を広めたということだが、その後米相場で大失敗をしたとかで萩に帰り、したがって息子である私の祖父は商売を見捨てて茶道と華道の研鑽と伝授に半生を捧げている。そして私の父も教員生活を辞めると直ぐに茶道に携わり、死ぬ直前までお茶を嗜んでいた。

そういった意味では私にはお茶に関して多少の遺伝的な要素があると云えるかも知れない。私が結婚して昭和三十九年に萩高校に転勤して帰った当初、僅かの期間父からお茶の手前を習っただけである。

子供の頃、父が「お懐石」を催す度に、庭に樹齢二百年にもなる大きなタブの木があるが、その枝から絶え間なく落ちる木の葉を徹底的に掃除せよと命じられたり、茶席の床に活ける椿の花を近くのお寺へもらいに行かされたり、またお客の中にいつも決まって遅刻する人があって、我が家に電話がないので呼びに行かされたことなど、また、お懐石の料理に使うからと云って遠くにある田圃の芹を冬の寒いときに採ってこいと言われたことなど、面白くもない思い出が沢山ある。以上の事は外に兄弟の無い私一人がしなければならなかった。さらに云えば、お懐石が始まって最後にお客が皆帰られるまでの間、物音一つ立てないで静かにしていなければならないことは、一種の苦痛であったことを良く覚えている。だから当時は内心お茶に対して反発していた。

これは戦前の事だが、我々が結婚して萩へ帰った当時はまだお茶が結構盛んで、若い女性ばかりでなく、大人の男女も我が家にお茶の稽古に来ていた。妻にとっては初めての経験であったろうが、お茶によく携わり稽古も良くしたと思う。しかし正月にお弟子さんたちへの「稽古懐石」が数日続くので、その準備も含めてで、折角の正月休みが我が家には全く無かった。同僚の先生の中には家族ぐるみで温泉旅行を楽しんだという者もいたが、我々にとっては高嶺の花も良いところだった。此の年中行事は父が亡くなった昭和五十七年まで、我が家では当然のこととして続けられた。しかし今となっては懐かしい。

 

しかしそのような事も昔のことである。妻を亡くし完全に暇になり一人暮らしになった今、この本を読んでみると茶道は総合的な日本文化だと書いてあり、なるほどと頷ける。子供にはこの精神はそう容易くは理解出来ないと思う。父がお茶の精神を表すものとしてか、次の歌を聴かせてくれたくれたことがある。この本にも載っていた。

 

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮れ

 

花をのみ待らん人に山ざとの雪間の草の春を見せばや

 

私は萩から山口に移るに際して、茶席だけはと思い同じ寸法の茶席を建て、床柱としてこれだけはとの思いで、我が家の茶室にあった実物を持ってきた。これは曾祖父が酒造業を営んでいたとき、酒の麹の入った酒袋を搾るのに使った古い欅かそれともセンダンか、いずれにしても大きな柱を利用したのだと聞いているが、中々堂々とした床柱である。

久松氏は茶道と禅は不可分なものとして、七つの性格を挙げている。第一 不均衡、 第二 簡素、第三 枯(こ)高(こう)、第四 自然(じねん)、第五 幽玄、第六 脱俗、第七 静寂。

この中の一つでも欠けてはいけないし、これらが渾然一体とならなければいけないと述べている。私は今茶席に据え置かれた直径四十センチ、高さが百九十センチの床柱をみると、この大きな床柱一つにも以上七つの茶道の精神が反映されているように思う。

紹鷗や利休たちがそれまでの絢爛豪華で遊興的なお茶に大改革を施して、侘茶を創設したことにより日本独特の文化を生み出したということを知った。茶道が総合的な日本文化だと云って久松氏は次のように述べている。

 

「芸術という点では、まず建築としての茶室、庭園としての露地、工芸品として茶道にもちいられているさまざまな道具類や美術品があるし、また茶の作法には道徳的な意味もあるけれども、動作の美しさということもまたはなはだ大切なことである。人間の身体の動き方にも洗練せられた芸術があると申さねばならぬ。それらの芸術はすべて茶道以外にはみられぬ一つの形式をもっている。また道徳としても茶道は実に卓れた深いものを持っている。茶道には単に茶席の点前のみならず、日常生活にいたるまで多くの規矩すなわち茶人の行為の規範が定まっている。」(以下略)

 

確かにそうだと思うのであるが、如何せん今更お茶の稽古をする気は無い。妻も萩にいるとき父に習ってお茶を学び師範の資格まで取ったが、こちらに来て長く座ることは苦痛であり、また茶を嗜む仲間もいないので、完全にお茶から身を引いた。

このような訳で、私は毎日朝早く起き、朝食前に静かにお茶を点て喫することがある。今朝もしばらくの読書の後一休みしようと思い、まずお湯を沸かし、萩焼の素朴な平茶碗を取り出し、「又(ゆう)玄(げん)」という銘の中程度の抹茶を冷蔵庫から出して茶碗に掬い、お湯を注いで先日新たに求めた茶筅で点てた。茶碗一面に浮かんだ極小の緑色の沫は見た目に爽快な色である。茶菓子には先日妻の弟が持ってきてくれた伊勢の銘菓「赤福」があったので、それをまず賞味しながら朝の一服を喫した。

 

朝まだき 寒気覚える中にいて 甘露なるかな 一服の茶

 

さきに引用した茶道精神の七つの性格の中に、「温かさ」と云った要素が見当たらない様な気がしたが、「和敬静寂」の中にあるのかなと思った。

(2019・11・21)

孫の世話

 土曜日は何時もの如く萩のお寺から坊さんが来られる日である。「一度だけは手を合わせたく思いまして」といって、姿を見せたのはお寺の長男だった。檀那寺には息子さんが2人とも僧侶の資格を得ている。お経が終わるとこの若い坊さんはニコニコ顔を見せながら話を始めた。どうでもいいような話が続くので、私は遂に「今日はどうも有り難うございました」といってお引き取りを願う言葉をかけた。

前日の金曜日にわざわざ来てくれた妻の姪は、彼女の母親が60歳になる前に亡くなってからは、妻を母親代わりに慕い、妻も非常に可愛がっていた。彼女は妻を大事に思ってくれている。お陰で私のことを心配して一泊だけだと言って、わざわざ滋賀県から来てくれた。何と云っても有りがたい。

姪と私と長男夫婦と次男の5人だけの集まりだと思っていたが、長男の嫁の弟が広島へ出張したからと言って、急に母親と一緒に見えた。土曜日毎にこうして息子や嫁たちが来てくれるのも来週の土曜日までであろう。

次の土曜日7月13日は萩から坊さんの来られる最後の日である。その日には「忌明けの法要」を行うことになっている。法要のあと出席の返事を貰った方々に食事を出すことにしているので、その会場を次男と下見に行った。思ったより感じの良い部屋だったので出席者の人数を伝えて宜しくと頼んで帰った。

帰りに息子が補聴器を買ったらどうかと言うので、「眼鏡市場」というチェーン店に立ち寄った。商売柄親切に私の両耳を詳しく検査してくれた。問題は補聴器の値段である。最新式のものであろうが、片方だけでも25万円もするというので、このままもう少し我慢することにして店を後にした。目が見えないとそれこそ生活に支障をきたすが、耳が遠いくらいではまだ暮らしていけると思ったのである。

亡くなる前の4月、妻と私は萩市郊外の木間という超過疎地に住んでいる吉岡さんを訪ねた。人里離れたと言うべき此の地に、彼が萩焼の窯を築き新居を構えてから、私は妻とよく訪ねたものである。もう恐らく行くことはなかろう。私はかつがつ目は見えるが、運転免許を返上しようと思っているからだ。かれら夫婦との付き合いは30年にも及ぶ。その時彼は目が悪くなって新聞も読めないと云っていた。目が不自由ではさぞかし難儀だろうとつくづく思った。

そこで早速使っていないカセットを持って行った。聞くだけの生活は不便な上にさぞかし味気ないだろうがそれでもよかろうと思って。

次男と長男の嫁は学校関係の仕事があるといって昼前に帰って行った。長男と姪は夕方まで居たが、彼らも夕食後は帰って行った。また本来の一人暮らしに戻った。少し疲れたので9時には就寝した。

 

今朝は4時に目が醒めた。何時も5時前には起きることにしているが決まった時間ではない。起床時間だけは「融通無碍」と云えよう。先に述べた吉岡さんは萩市内で「無碍庵」という小さな萩焼の店を開いていたことがあるが、今は萩焼を作るどころか目も見えないと言うから本当に気の毒な状態である。

起きると直ぐ昨日読まなかった『徒然草』を少し読んだ。この古典は今回改めて読むことにしたのだが、島村裕子氏の【評】がなかなか参考になって面白い。この他に『精選女性随筆集 須賀敦子』をすこしばかり読んだ。彼女の名前が妻と同じ「敦子」だから何気なしに図書館で借りて読んでみたのである。始めて彼女の作品を手にしたが、知的で文章が上手いのに感心した。またイタリアの風物誌がエキゾチックに思えた。

その後掃除と洗濯に取りかかったとき、次男から「今日どこかへ行く予定がある?」と電話がかかった。

「別に予定はない」と言ったら、「それでは笑瑠をみて貰いたい。8時に連れて行く、5時頃には迎えに行く」というので待っていると、孫がその内一人で戸口から姿を見せた。

小学5年生の孫は来るなり直ぐテレビを見始めた。何時もこのような有様で一応教科書は持ってくるがどうも勉強は嫌いのようだ。外に「厚紙で組み立てる『金閣寺』の模型」を持ってきた。これにはテレビを見聞きしながら、一生懸命精を出して瞬く間に紙細工の立派な金閣寺が出来上がった。

9時になったのですぐ前のスーパーへ一緒に行って買い物をし、11時になったので今度は車を運転して「ザビエル・カンパーナ」へ食パンを買いに行った。育ち盛りの孫は蛋白質の食品を好むようである。その時コロッケと豚肉の揚げ物を自ら選んだ。さしずめ私など食指が動かないものばかりである。

 帰宅して孫の好むチャーハンを作ってみた。孫は美味しいと言って食べてくれたが多すぎたようで半分残した。食事が終わるとまたテレビにかじりついている。

「1時になったら勉強するのだよ」と私は言った。その時間が来たのでテレビを消して算数の問題集などを拡げたと思ったら、いつの間にか両脚をソファーに載せ、床に寝転んで熟睡している。その内起きて真面目に問題集に取り組んでくれれば良いがと思いながら、私がこうして雑文を書いていたら2時間ばかりして目を醒ました。

思えば私もまた息子たちも、子供時代自ら進んで勉強するようなことはなかった。「栴檀は双葉より芳し」とはとても言えない。親も子も孫も皆同じ。遺伝は争われないものだ。

手元のパソコンの前方2メートルばかりの位置に妻の写真が置いてある。数年前に妻の従弟の嫁が作ったバラ園に招かれたとき摂ったもので、咲き誇った色とりどりの美しいバラの花をバックにした妻の姿が、思ったより良く撮れていたので、拡大して額に入れたのである。妻はこの孫娘を生まれたときから非常に可愛がった。今はあの世からこの子の成長をきっと見守ってくれているだろう。 

2019・7・7 記す 

早醒

 このところ朝早く目が醒める。「早醒」という字句があるかと思って『廣漢和辭典』を引いてみたが見当たらない。しかし驚いたことに「そうせい」と読む語彙がこの辞典に丁度40ほど載っていた。これらの語彙を見ただけでは意味不明なのが多い。これには驚き恥じた。  

 

例えば「双星」とは「牽牛・織女」で、「双生」とは「ふたご」だとあり、これらは何とか分かるが、「蚤世」が「若死に」とは知らなかった。「蚤」が「のみ」以外に「時間的に早い」意味があり、その反対の語が「晩」だと知った。「晩学」もいいところである。「吾、晩学にして師無し」という例文があった。

 

 「醒」の意味は「酔いや眠りからさめて頭がすっきりする」とあるから「早醒」なる語彙も加えることが出来るだろう。と云うわけで、最近は早寝早起きが昂じて今朝も早く目が醒めた。枕元の明かりをつけ時計を見ると、針は3時15分を指している。不思議に昨朝もほぼ同時刻だったので今朝も床を出て、階下に降り顔を洗って机に向かった。

 

一寸気になることがあるのでパソコンを開いた。実は正月からネットやスマホでも自由に見られるようになった拙著へのアクセスが、昨日はいくらあったかと思ってみたら50件を超えていた。一昨日も同じくらいの数値だったので50人ばかりの人が続けて読んでくれているのかと思うと有りがたい。数が急増していたのは『杏林の坂道』の全部が見られるようになったからかと思う。まあしかし少しでも有りがたい。

 

 これを確認して、今日も梅原猛著『法然の哀しみ』と云う大著を読むことにした。

山口に移って五重塔で有名な瑠璃光寺で毎週日曜日に行われて居る座禅会に丁度10年参加した。しかし凡骨にはおよそ悟りと云った体験は得られなかった。先日県立図書館で借りた『夏目漱石西田幾多郎―共鳴する明治の精神』(岩波新書)には彼等が坐禅したこと,特に西田が真剣にこれに打ち込んだと書いてある。

 私はそう言ったわけで10年間を無駄に過ごしたように思うが、やらないよりはましだと自らを慰めている。ところが上記の『法然の哀しみ』は専修念仏を説いているので禅の自力と違い他力、つまり阿弥陀仏の称号を唱え、弥陀の本願に頼る事で極楽往生が可能となる教えの方が私には近づきやすく思えた。700頁を超す大著の3分の1しか読んでいないが少しづつ読もうと思う。

何故こうした気持ちになったかというと、やはり遺伝的なものがあるのかと思う。わが家の菩提寺は浄土宗で宗祖が法然である。以前叔母が話してくれたのだが、叔母の父つまり私の祖父が今はの際に、「『お前ら皆、南無阿弥陀仏と唱えてくれ』と言って、自分でも両手を合わせて唱えながら亡くなられた」と云ったのを思い出したからである。

 

この本に『観無量寿経』のことが度々出ているのでネットを開いてみた。文明の利器は有難い。色々の方法で此のお経を僅かだが理解できる。私は僧侶達が集団で読経する音声、これは耳には心地く響くが意味不明だが、同時にそのお経の内容が画面の下に文字で出てきたのでその意味が分かり、このお経の内容を初めて知った。この他にもう一つ内容を数十枚の絵にして女性が解説するのも見てみた。これは面白い物語であると初めて知った。我ながら余りにも遅まきである。

 

観無量寿経』はその設定自体がドラマチックだ。その背景となる物語は、「王舎城の悲劇」と呼ばれる。王舎城の頻婆娑(ひんばしゃ)羅(ら)王は息子の亜闍(あじゃ)世(せ)によって幽閉され、獄中の王にひそかに食物を運んでいた后の韋提(いだい)希(け)もまた捕らわれてしまう。悲嘆の中で救いを求める韋提希の前に、釈迦仏が神通力で現われ、浄土の観想を教えたのが『観無量寿経』の中心部分である。この物語は父母の愛と哀しみという永遠のテーマを扱っているので、浄土教の民衆布教に当たって大きな役割を果たした。

           (末木文美士著『仏典を読む―死からはじまる仏教史』より)       

 

人は皆死ぬ。先日も高校の友人が電話してきて、「家内が暮れに亡くなった。自分でも苦しかったろうが愚痴もこぼさずよく耐えた。不憫に思う。丁度今日は家内の誕生日で86歳になる。俺たちは結婚生活60年になる。母はまだ生きている」と云っていた。

実は彼の愛妻は高校の家庭科の先生で、定年退職後しばらくして床につき、そのまま病臥生活が約20年続いたのである。その間彼は食事洗濯と云った家事を殆ど一人でしていた。その上彼の母親が今は入院して居られるが100歳を過ぎるまで元気で、今は107歳の超高齢である。

人間の運命は分からない。昨日まで元気だったのが急に病気になり、また死ぬここさえある。まさに諸行無常であり無常迅速と云える。これを思うと我が身は何時どうなるか分からない。ただ今を感謝して生きなければ行けないと思う。

 

こんなことをふと思い、二時間ばかり読んだ『法然の哀しみ』を止めて、今度は気分転換に、山宮 允著『英詩詳釋』(吾妻書房)を開くことにした。この本は昭和28年に出版されたものだからかなり字句が古くさい。400円の値段が付いていた。これは大学の恩師から戴いたものであるが、今回初めてじっくり読もうと思い、書棚からおろして机上に置いている。

たまたま開いた頁に、ウイルヤム・ブレイクの「虎」の詩が出ていた。此の詩は大学の授業で習ったもので懐かしかった。今から60年以上前、赤い表紙の研究社出版の教科書を思い出す。あの頃は授業で先生が使われる本を買わなければいけなかった。英詩の父と言われるチョーサーの詩集は中世英語で書かれていて、ちんぷんかんぷんだったが高い本だった。これなんか1年間で全頁の50分の1も進まないような本であった。ブレイクの詩集は授業では3分の1くらい読んでいる。だがあの頃は中学校で習った英語とは違って皆難しく英語の詩はさらに難しく思った。ところが今読んでみると何とか理解できる。別に実力は付いていないが面白い。年を取った為に少しは分かるのだろう。

 

しかしこういった英語の詩の如何なる名訳でも、韻律を踏まえた原典を読んだときの感じは得られないような気がする。此の詩はブレイクの詩の中では最も有名な詩だと言われている。最初の一節は今でも覚えている。

 

Tyger!  Tyger!  burning bright

In  the forests  of the  night,

What immortal  hand or eye

Could  frame thy  fearful symmetry?

 

山宮氏は次のように訳している。

 

夜の林に焔のごとく

焔のごとくに輝く虎よ

いかなる神の技巧(たくみ)に成れる

その怖しくもよろしき貌(かたち)

 

違った訳はないかとネットを開けたらブレイクの研究者として有名な寿岳文章氏の訳が出ていた。

 

虎よ! 虎よ! あかあかと燃える

闇くろぐろの 夜の森に

いかなる不死の手、また目が

おまえの怖ろしい均整を

つくり得たのか?

 

原文に忠実な訳である。しかし原文にある虎の凄さはどうも伝わらない。

  

次の読んだのはワーズワスの「麦刈る少女」であった。此の詩も昔習って思い出深い実に良い詩である。便利な世になったものだ。ネットを開けば、原文も和訳も、解説も皆載っている。

こうしてあれこれするうちに、忽ち時間が経ったので階下に降り、神仏を拝み、外に出て体操をした。このようにして老後の日々が過ぎていくが、果たしてこの先何年こうした生活が続くのだろうか。今日は昔の紀元節である。寒空の中、紅梅がまだ美しく咲いていた。

平成31年2月11日

                            

                          

北陸路の旅

その一 

 

西田幾多郎記念哲学館

 

 

西田幾多郎鈴木大拙の記念館がいずれも北陸にあるというので、是非訪れて見たいと思っていたところ、林さんが我が家に来たときそれとなく打診したら、直ぐ行こうと云ってくれたのは有難かった。彼は地理が専門だから何処へ行っても関心があるとのこと。早速日程を決めていつものように切符と宿の手配を交通公社に頼んでくれた。

出発の日は令和元年11月26日である。旅行で一番心配なのは天候だが幸いに雨も降らず氣温もそんなに寒くない。彼は6時50分頃我が家に来てくれた。萩から我が家まで丁度1時間掛かるから、夜明け前に彼は家を出たことになる。

新山口駅を7時50分発の新幹線に乗り新大阪で乗り換え、金沢駅に予定時間の12時56分に到着した。午后1時半過ぎ、金沢駅から支線の七尾線に乗り換えて、「かほく市・宇野(うの)気(け)駅」で下車、タクシーで西田幾多郎記念哲学館へと向かう。勾配の緩やかな丘陵地を上り記念館に近づくと、鉄筋の四角い建物が見えてそれだと直ぐ分かった。大きいガラス張りの建物の上にそれより小さな四角い鉄筋コンクリートの上層部が載っていて、見た目には殺風景な構造物である。建築家・安藤忠雄の設計で「哲学の博物館」と銘打ってある。情緒を廃し、理知的で幾何学的な、この名称を象徴したような建物といった印象をまず受けた。 

訪問客は我々二人だけで外には誰もいない。四囲は北陸独特の風景であろう。空はどんよりと曇り、下方に田畑と人家が集まった街区が見え殆ど平屋か二階家、高いビルは全く無い。その向こうは低い山並みが連なっている。その日はこの季節にしてはそれほど寒くなく有難かった。もし雪でも降っていたらその山並みは冠雪で一段と寒々と見えただろう。人口は2万人ばかりの小さな集落である。このような田舎町から日本人で最初の西欧近代哲学の祖といわれる人物が生まれたのは不思議だ。

遠くまた近くに寒々とした立木が多く見受けられ、紅葉樹も有るように思えたがくっきりとは映えては見えない。蕭蕭として物寂しい風景である。人影や車の動きも全く目撃出来ない。

目にした印象はこのようだたったが、後で私は西田が故郷を懐かしく思って書いている文章を知った。それを引用してみよう。

 

「私の故郷は決して好ましい所ではない、良い景色があるのではない。賑やかな晴れ晴れしい所でもない。野も山も深き雪に鎖されて、荒れ狂う木枯の音のみ聞く、長き冬の夜は言うまでもなく、小春といわるる秋の日も鉛色の雲重く垂れて、地平線上入日の光赤暗く、」(以下略)

 

館内に入って直ぐに受付があり、山口県から来たと言ったら、「遠くからようこそお出で下さいました」と云って受付の若い感じの良い女性が笑顔で応対した。彼女は我々の話しぶりが方言丸出しで珍しいと云って笑った。鉄筋コンクリートの厚い壁で各部屋が仕切られているが一寸迷路のようになって居る。西田博士ならびに家族や弟子たちの写真、中でも若いときからの親友だった鈴木大拙、山本良吉、藤岡作太郎の写真や手紙、さらに歌などを書いた掛け物や扁額が数多く展示してある。特に彼の書は、いやみのない、飄々として、質朴というか純心で悟りの境地に達した人にして初めて可能な筆跡のように思えた。中には余りに崩した書きぶりで読めない字もあった。

どの写真にも笑顔は全く無い。鋭さの中にも暖かみのある眼差しである。丸い大きな眼鏡をかけた頭頂骨の顔が特徴的である。彼の弟子の言葉が幾つもあった。師弟が固い絆に結ばれ、お互いの人格を尊重した稀に見る関係だと分かる。よき師の下には良きで弟子が自ずから集まるものだとつくづく思う。西田の場合に似た例といえば「漱石山脈」だろう。

翌日金沢の「鈴木大拙館」でもらったパンフレットに次の文章があった。

 

 鈴木先生は、その相好から所作や言動までが、無心で屈託がなく、あだかも飄々茫々として抑えどころのない水上の胡廬子(瓢箪)の如くであった。応対も極めて無造作で隔意がなく、黙っていてぎこちなさを覚えず、語って抵抗を感じない。・・・西田先生は、鈴木先生とはいささか趣を異にし、風貌も、強度の近眼鏡の奥には、炯々たる眼光が鋭くきらめき、鼻穴太く、唇吻は一文字に大きく結び、顱頂は尖り、額は高く、双肩稜稜と聳え立ち、黙々兀座した威容はあたかも羅漢のようで、相対して、言わねば強い威圧感を感じ、言えば竹篦返しをくらい、語黙ともに打たれ、まさに寸鉄人を殺す底のものがあった。              (久松真一大拙と寸心」より)

 

これは二人に間近に接した弟子の見聞だが、大拙は西田についてこう語っている。同じパンフレットに書いてあった。

 

 彼を一言で評すると「誠実」でつきる。彼には詐りとか飾りとかいうものは不思議になかった。自分などは人前に出ると何かにつけて本来の自己の上に何かを付け加えたがるものである。が、西田君はどこへ出しても同じ人間であった、余計に見せようともなければ、割引しても出さなかった。田舎老爺のような素朴な姿でー内外共にーそのままであった。 

 

しかし次のようにも評している。

 

 元来が冷静のみに出来た性格の持主なら、只管に意力で推し進むことができたかも知れぬが、西田は頗る情に厚い暖かな心を持っていた。この情と相戦いながら思想の糸をたぐって、次から次へとそれを発展させて行く彼の心情には、普通の人間以上の何物かを彼は持っていたと考えなくてはならぬ。事実をいうと、この暖かい心が動いていたればこそ、彼の智も意も絶えざる燃料の補給を得たのだと、予は信じている。彼の論理には何かしら血が通っている。          (「わが友西田幾多郎」より)

     

一階と二階の展示室を見た後、エレベーターで五階の展望室へ昇った。ガラス越しに見えたのは先に述べた風景の一段と広々とした眺望であった。

また一階に下りて別の一室に入ったら、そこには書架が室内一杯にあって、主に哲学や宗教関係の書籍が数千冊ぎっしりと並んでいた。西田についての研究書も数多く見受けられた。室の奥に小さな閲覧室があり、テーブルと椅子が数脚あって、若い学生らしき女性が一人で漫画本を読んでいた。ここにあるのだから、恐らく哲学の漫画本だろう。邪魔をしたと思って私は早々にその場を離れた。

タクシーが来るまでまだ充分時間があるので館外に出て、西田幾多郎の書斎である「骨(こつ)清(せい)窟(くつ)」をガラス窓越しに覗いて見た。大きな木の机と椅子が目に入ったが、何もかも色あせていて、およそ華やかさとは縁遠い寥寥とした感じだった。

 

この書斎は京都にあった西田の家の一部で、これだけが移築され国の登録有形文化財として保存されている。受付で貰ったパンフレットに次のように書いてあった。

 

一九二二(大正十一年)西田幾多郎は、初めて自分の家を持つことになった。西田が保証人をしていた京大生・三井高公の父であり、三井財閥創立社・慈善事業家であった三井八郎右衛門高棟の好意によって、新築・贈与されたのである。

家の間取りは、近代日本家屋の典型的なものであった。例えば、各部屋が廊下で分けられ、別の部屋を通ることなく目的の部屋に入ることが出来た。また、玄関の横には洋風の応接間が置かれ、来訪者は家族の居住空間に入ることなく、家の主人に面談することができた。西田は、この応接間を自らの書斎とし、その南側にテラスを設け、庭を眺めることができるようにした。現存するこの書斎は、その家の一部である。

 

風は飛泉を撹(みだ)して冷声を送り

前峰月上がりて竹窓明らかなり

老来殊に山中の好きなるを覚ゆ

死して巌(がん)根(こん)に在れば骨もまた清し

 

西田はこの洋風の書斎に、室町時代の禅僧・寂室のこの句から「骨清窟」と号をつけている。ここで西田は、独り思索を重ね、次々に論文を執筆していた。

 

旅から帰って上田閑照著『西田幾多郎とは誰か』(岩波現代文庫)を読みなおしてみたら「骨清窟」について書いてあった。私は西田が書斎に此の庵号を付けた意味が良く分かった。少し長いが引用してみよう。

 

 骨と言えば、西田は京都での住まいの書斎に「骨清窟」と名前をつけていました。これには出所があります。近江永源寺の寂室(1290~1367)という禅僧の詩に「老来殊に覚ゆ山中の好きことを。死して巌根に在れば骨も也(また)清し」という句があり、西田はこの句を愛していました。「也」の字を抜いて「骨清窟」。このように自分の書斎や住まいに名をつけることは伝統的に禅僧や文人などがしてきたことですが、おもしろいことです。因みに、大拙は「也風流庵」と名づけています。これは「風流ならざるところ、也(また)風流」という禅語から来ています。骨清窟と也風流庵、いかにも西田と大拙のそれぞれの風格です。

西田が「死して巌根に在れば・・・」の句を斎号につけたのも、さきほどの「我死なば故郷の山に埋もれて昔語りし友を夢みむ」の歌もまだ四十歳そこそこです。若いときからすでに死ということを真剣に考えたとうことでしょう。生きることはどう死ぬかと一つのことだということがはっきり気持ちの上にあるのです。宗教的な道を歩む場合にはことにそうです。「死して巌根に在れば骨も也清し」は「死して巌根に在らば骨も也清し」という読み方もあります。「在らば」というと、仮定、あるいは将来自分が死んで骨だけになったならば、その時には、というように先の話になりますが、私は「死して巌根に在れば骨も也清し」と読みたいと思います。こうして生きているこの現在、自分の骨が巌の根っこにゴロンとしている、それが見えている。あらゆるものが削ぎおとされて骨だけ、それが清しということです。西田もそう感じて受け取ったのだと思います。同じ屋根の下で「子は右に母は左に床をなべ春は来れども起つ様もなし」と、そのように詠いながらも、「骨清窟」で「かの椅子によりて物かく此床に入りて又ふす日毎夜毎に」と生きてきた西田の骨が、この世のゆかりの三つの場所に休らっています。

 

昭和二十(一九四五)年六月七日、寸心居士・西田幾多郎は亡くなりました。

 

この記念館でもらったパンフレットを読んで、この書斎がなぜ移築されたか分かった。それにしても息子の保証人にこれだけのものを進呈するとは、三井氏も西田幾多郎なる人物によほど惚れ込んだのだろう。

各展示室に小さなやや厚い紙が置いてあって、それに西田の言葉が印刷してあった。自由に取ってもいいようなので数枚貰って帰った。表に大きい字で彼の有名な言葉が印刷してあり、その裏面にその言葉を含んだより詳しい文章が載っていた。

 

人間というものは時の上にあるのだ

過去というものがあって

私というものがあるのだ

過去が現存しているということが

またその人の未来を構成しているのだ 

 

西田幾多郞から親友・山本良吉への手紙(昭和2年2月9日付)

 

御手紙誠に難有拝見した 何十年目にしてはじめて君に逢った様な心持ちがする 

君には毎年一回位は逢っているが此手紙は真に旧知に逢った様な心地がする 人間

というものは時の上にあるのだ 過去というものがあって私というものがあるのだ

過去が現存しているということがその人の未来を構成しているのだ 七八年前家内

が突然倒れた時私は実に此感を深くした 自分の過去というものを構成して居る重

要な要素が一時になくなると共に自分の未来というものもなくなった様に思われた

喜ぶべきものがあっても共に喜ぶものもない悲しむべきものがあっても共に悲しむも

のもない・・・

                     『新版 西田幾多郎全集 第20巻』

 

*山本良吉は四高学生時代からの旧友です。幾多郎がこの手紙を書いた二年前には、

病気で五年余り床に臥していた妻寿美が亡くなっています。まだ深い悲しみの中にい

た幾多郎は、山本からの手紙を受けて過去を追懐し、最後に「我死なば故郷の山に埋

もれて昔語りし友を夢みむ」という自作の歌を記しています。

 

西田は若くして生涯の友とも云うべき親友に恵まれている。家庭的には悲運の連続だが、友人や弟子に関しては、彼は幸運に恵まれていたと私は思った。

私には、生涯の友と云うべき学生時代からの親友はいないが、良き伴侶はいた。その妻が急逝し、やはり寂しさ・侘しさは覆うべくないが、これから僅かに残された余命を何とか前向きに生きなければと思う昨今である。

 

タクシーが予定の時間に来たので受付の女性に分かれを告げて記念館を後にした。近ければもう一度初夏の良き日に再訪し、心ゆくまで思索の道などを散策したいと思うような静かで眺望のきく丘陵地であった。

(2019・12・13)

車馬の喧(かまびす)しきなし

 陶淵明の『飲酒 二十首并序』の「其の五」に有名な詩がある。

 

  盧を結びて人境に在り

而かも車馬の喧(かまびす)しきなし

君に問う 何ぞ能(よ)く爾(しか)るやと

心遠ければ地も自ずから偏なり

菊を采(と)る 東籬(とうり)の下(もと)

悠然として南山を見る

山気(さんき) 日夕(にっせき)に佳(よ)く

飛鳥 相(あ)い与(とも)に還(かえ)る

此の中に真意有り

弁(べん)ぜんと欲して已(すで)に言を忘る

              (『陶淵明 中国詩人選集』より)

 

私が初めて妻を萩市の浜崎新町にあるわが家に連れてきた時、その時妻は言わなかったが、後になって、「あの時は不安でたまらなかったのよ。東萩駅から松本橋を渡って大きなお寺のある町筋に入った時、流石に城下町の佇まいは静かで良いと思ったら、今度は浜崎新町の何だかゴミゴミした、その上魚の匂いのする筋道に入ったものだから、一体何処へ連れて行かれるのかと心配したのよ。しかし門を入ってお庭が見えて大きなタブの木があるのでホッと一安心した」と、このように言った。

私は生まれ育った場所だから少しも気にはしていないが、萩と言えば静かな城下町を思い浮かべていた妻にとっては、ここ浜崎の町筋は予想外だったろう。なぜなら浜崎はその昔は海上交通が主な手段であったから三角州の中では最も活気を呈していた地域だった。『萩の百年』に次のような記述がある。

 

旧萩藩御船倉 

浜崎は阿武川の分流である松本川尻河口港に沿う町であり、この御船倉は、今では明治以降の埋立の結果、河岸から100メートル距たったところにあるが、往時は、松本川に接して船が自由に出入できる位置にあった。(中略)

天保年間編さんの八江萩名所図画には四棟の船倉が描かれているが、明治初年に、北側の一棟、昭和十八年ごろに南側の一棟ずつ取りこわされた事が判明している。この種の屋根を備える旧藩船倉で、今日残るものは全国唯一であると云われ、珍しい文化財として保存の重要性のあることから、昭和三十七年に国庫補助を受けて、防火壁・防護壁・避雷針などの防災工事を施行した。」 

 

我が家もその昔、明治維新の前までは浜崎で「北船問屋」として海運業を営んでいた。

時代は移ったが、私の子供時代から中学、高校へと通った頃までは、まだどの家にも子供が多く居て、彼らはしばしば路上で、特に住吉神社の境内と日本海に面した砂浜では、そこを恰好の遊び場としていた。

「浜崎出合い」という言葉がある。これは「浜崎の連中の付き合いや言葉遣い」といった意味だろうが、「活気があって景気は良いが、反面粗野」といったやや軽蔑の念を込めたものと思われる。私が明倫小学校へ通学していたとき、秋の運動会では、校区内の各地区の父兄を交えたリレー競争では、何時も浜崎が優勝していた。私が高校に入って終戦後、硬式野球部が出来た時、投手と捕手のバッテリーは二人とも私と同学年で、浜崎出身の通学仲間だった。投手だったのは卒業後プロ野球に入団し、捕手で活躍したのは大学卒業後長く高校で監督していた。しかし今や二人とも鬼籍に入った。

話が逸れたが、私はこうした環境で生まれ育った。しかし今は往年の姿は見る影もなく子供が全くといっていいほど居ない。「地方創生」といった掛け声はあるが、大都市以外は年毎に寂れていくのが我が国の現状である。しかし私が結婚して萩へ帰った昭和三十九年頃には、市全体、特に浜崎には子供も多くいて活気があった。今ではまるで火が消えたようで考えられないことである。浜崎は海に面しているから、海運業は廃れても魚市場もあって、水産業はまだ盛んだった。我が家のある町筋にも何軒かの水産加工を生業(なりわい)とする家があった。

先にも書いたように、我が家は門を入り長い露地を通って行くと庭と母屋がある。200坪ばかりの敷地に過ぎないが、庭に築山と樹齢200年を超える大きなタブの木が目に入るので、人によっては別天地の感があるという。確かに騒々しい物音が全く聞こえず閑静な場所であった。だから妻も一安心したようである。

所がある日突然異変が生じた。私たちが帰郷して一時父母と一緒の家で生活して居たが、次男が生まれて年寄りとの生活の時間帯が異なることなどから、僅かばかりの野菜を作っていた畑地に我々だけの別棟を建てて生活して居た。其の場所は隣家の橙畑に接していた。水産加工を業としていた隣家は、その空地に煎り子など生魚を天日で干していた。しかし其所に大きな乾燥用の建物を建てたのである。「晴天の霹靂」という言葉があるが、ある日の朝、床にまだ入っていた時に、猛然たる騒音が耳を聾した。「何事ならん」と外に出てみたら、乾燥機から出る音である。大きな電気扇風機を設置した建物の出入り口が、我が家の方に直接向いていて、距離にして5メートルばかりの近さである。扉を開けたときの音は耐えがたいものだった。早速隣家へ行き、また市当局にも抗議をしたが、結局やや音を小さくする程度で、規定以内の音と言うことで市もこれ以上善処しなかった。特に夏季窓を開けて風を入れようにも音がうるさくて出来ない。夜も低周波の震動が体に伝わってくる。一方的泣き寝入りである。実に腹が立ったが、先方も一生懸命に生きているのだと思い、何とか耐えることにした。

 

私は学校へ行っているからまだ良いとしても、妻は一日中家に居るから、それでなくても神経過敏な性質ときているから、妻は辛抱しきれなくなって、一時滋賀県の姉の所へ避難したこともある。そして終に最悪の事態が生じた。精神的に一寸異常が見られるようになったので、大学病院で診察して貰った。もうこうなっては我が家を出て何処か静かな所へ移る以外に方法がない。父は「もう少し待ってみろ、その内何とかなるだろう」と言っていたが、父はそれこそ「その内」、昭和57年に亡くなった。

 

これまでは我が家は文字通り「車馬の喧しきなし」だったが、そこで我々だけでもどうにかしなければならないと考え、市内の城下町にある「青木周弼旧宅」に移ることにした。母に関しては、母の妹が幸いに一緒に住んでくれることになったので助かった。父と母が住んでいた母屋は私の所から少し離れて居て、母は耳も遠くなっていたから心配なかった。

「捨てる者もおれば、拾ってくれる者もおる」と言うべきか、偶々青木周弼の旧宅にそれまで管理人として住んで居られた田中助一先生御夫妻が、其所を出られることになったので、その後に入ることが出来た。安政四年に建てられた儘の古い家屋(今は復元して新しい)だったので、風呂と便所、台所と言った常日頃使う所は実に不便だった。建具も長年の建造で傾いていて隙間風も入っていた。また今でも思い出すが大きな蜘蛛やヤモリ等もしょっちゅう見かけた。それでも静かな点では申し分なかった。何しろ周囲を土壁で囲まれた五百坪もの広い敷地。その中に母屋と門の脇の小屋と立派な土蔵があり、それらの周辺は庭と畑地で、梅、ミカン、ビワなどの樹木が沢山植えてあった。しかし何と云っても一番困ったのは昔ながらの便所、「雪隠」と言う言葉が似つかわしいものであった。

しかしともかくもこうして我々はホッと安堵の胸をなぜ下ろした。そして此処に移れたことを感謝した。私にとっては此処に住むようになったことにより、青木周弼・研蔵・周蔵の三人の存在を知ったこと、特に青木周蔵森鴎外の関係を知ったことなどは大きな収穫だった。勤務校の萩商業もここからはずっと近くて助かった。

青木周弼は梅を愛して居たようで、梅の木が十数本植えてあり、書斎の窓から硝子越しに見えた。春ともなれば鶯の鳴き声さえ聞こえた。また大きくて立派な門を入ると、左側の板塀の向こうから大きな杏の木が枝を差し伸べていた。時期が来ると薄桃色の可憐な花を咲かせた。青木周弼・研蔵兄弟は天下に名だたる医者であった。だからこの杏の木を植えていたのだと知った。「杏林」とは医者を意味する。しかし今はこの杏の木も枯れて無くなった。

 

我々はこの広い家屋敷に多少の不便を託ちながら8年ばかり住んだ。「その内」母が認知の症候が見えたので我々のところへ連れてきて介護することになった。

市長が代わって家の中まで観光客に見せると言うことになったので、我々はまた我が家へ戻らなくてはならなかった。帰ったら依然として乾燥機の騒音が聞こえてきた。早晩絶対に転居を決めなければならない。我が家は狭い露地を入って母屋に達する謂わば「ウナギの寝床」のような敷地だったので、買い手がなかなか見付からず、その為に長い間苦労した。それこそ「その内」、我が家の裏側にあった家が解かれて、我が家に達する道が出来た。そうして有難い事に買い手が見つかった。

そうしたらその直後、市当局が浜崎のこの地区を全国で60番目の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定し、我が家を「伝統的建造物再生モデル事業」の一環として改修工事することになった。そのときの「記録誌」に次のように書いてある。

 

この度、改修工事を行った梅屋七兵衛旧宅は、幕末に長崎へ行き鉄砲千丁を仕入れてくるよう藩から密命を受け、一年間上海に亡命するなど命がけで鉄砲を買い求めてきた梅屋七兵衛が、明治14年に建て晩年を過ごした建物であり、伝統的建造物に特定されているものです。これは、市が平成12年に街なみ環境整備事業により取得し、15~16年度に同じく国の補助を得て伝統的建造物再生モデル事業として、外観は伝統的な姿を保ち、内部は現代生活に適応する仕様に修理したものです。(以下略)

 

そこで市が已に決まっていた買い手と折衝してくれて我が家を買って呉れた。今では解体復元して「梅屋七兵衛旧宅」として市の所有するところである。

 

こうなると絶対に立ち退かなければならない。そこで萩市内はもとより最後は山口市まで出掛けて行き適当な住居地を探さなければならなくなった。詳しい事は省くが以上のような経緯で、我々は平成10年9月に山口市に転居した。もうその時から21年の歳月が流れた。萩の我が家に居るときは学校から帰っても、騒音に妨げられて、落ち着いて読書することが出来なかった。父は「その内、何とかなる」と言っていたが、当時は前途暗澹たる思いだった。お蔭でこちらに来て妻も私も静かな生活を楽しむことが出来た。しかし昨年妻が亡くなった。それ以後のことを少し書いて見よう。

 

「吉凶は糾(あざな)える縄の如し」というが、山口へ移ってからの20年間は先ず騒音を免れたことで大変有難かった。それに加えて新幹線から近くなって交通が便利になり、病院や図書館と言った施設も今までより容易に利用できて有難かった。しかし妻も私も寄る年波で、特に妻は近年足腰の痛みを訴えて、病院はもとより、鍼灸や指圧等にも常に通っていた。妻は足腰が立たなくなって、病床に臥すようになったら大変だと何時も言っていて、その為に絶えず治療をしていた。ところが全く思いも掛けない事に旅先で急死した。

私にとってはこれまで妻との平穏な生活が一挙にして覆った思いだった。人生において幸せは決して永続しないと言うことを知らされた。

 

「その内」妻の葬儀を終え暑い夏も過ぎた。或る日ぶらっと本屋に入ったら『100分deで名著 善の研究』のNHKテキスト があったので買って帰って読んだ。すると「西田幾多郎の真の後継者は井筒俊彦である」と書いてあった。私はこのテキストを書いた若松英輔という人物が、私よりずっと若い1968年生まれだと知って驚くと共に感心した。そこで今度は県立図書館で井筒氏が英語で書いた本の日本語訳『老子道徳経』を借り来て読んで見た。これは井筒氏がテヘラン大学の同僚の教授と『老子』を英訳して解説したのである。井筒氏は語学の天才で27カ国語をマスターした世界的叡智の人だと初めて知った。そこでまた県立図書館で探したら、若松英輔著『井筒俊彦 叡智の哲学』があった。私は若松氏がこの本を執筆していた時、彼の奥さんが末期ガンで非常に苦しみながらも、痛みに耐えて夫の執筆に協力していたことを知って感動を覚えた。彼ら若き夫婦の愛を感じた。奥さんはその後亡くなっている。

このような事があって、私は妻が亡くなり、一人で暮らすようになったのだが、余命幾ばくもないかと思うが、これからの人生を真面目に生きて行かなければと思うようになった。私は大学に入るまでは全く本を読んでいないが、2年になって英文科に籍を置くようになったので、漱石だけは読むべきだと思った。卒業後丁度10年して昭和40年に岩波書店から『漱石全集』が出版されたので、毎月1冊づつの配本を楽しみにして少しづつ読み始めた。そしてそれ以来今日まで時に応じ、気が向いたら書架から取り出して読むことにしている。私にとっては鴎外と漱石は座右の書と言える。そこで此の度もまた読もうと思って『思ひ出す事など』を手にした。以前読んでいたと思うのに全部を読んでいなかった。

私は今回これを読んで深い感銘を覚えた。漱石胃潰瘍で治療を受けた後、修善寺で転地療養をしていたとき、吐血して30分間人事不省になった。彼はその間の事を全く覚えていなかったのである。そしてその後知人や未知の人からの励ましや親切を身に受けて、彼は今までと違って心から感謝の気持ちを抱くようになった。そのことがこの本に書かれている。その上漱石は東京に帰って胃腸病院で寝ているときにその時の心境を漢詩に託して居る。この漢詩が『思ひ出す事など』の各節の終わりに添えてある。私はこれまで漱石漢詩を真面目に読んでいなかったので、今回漱石の「漢詩文」をじっくり読んでみたくなった。そこで『漱石全集第十二巻』に集録されている吉川幸次郎訳注「漱石詩集」と、佐古純一郎著『漱石詩集全釈』(二松学舎大学出版部)を手元に置いて、毎朝目が醒めたらすぐ読むことにした。

私は夜の9時過ぎには床に就くことにしているので、朝は4時前後には目が醒める。3時を過ぎていたら起きることにしている。

 

此処でやっと冒頭に引用した陶淵明の詩に戻ったのである。此処で少し漱石漢詩について書いて見よう。

大正元年11月の『日記及び断片』に「山水の畫と水仙豆菊の畫二枚を作る」とあり、「水仙の賛に曰く」としてこの詩が記されている。

 

 獨坐聴啼鳥  独坐 啼(てい)鳥(ちょう)を聴き

 關門謝世嘩  門を関(とざ)して世嘩(せいか)を謝す

 南窓無一事  南窓 一事無く

 閑寫水仙花  閑(かん)に写す 水仙の花

 

佐古純一郎氏はこの詩についてこう説明している。

【語釈】関門-門を閉ざすこと。陶淵明の「帰去来辞」に「門雖設而常關」(門を設けたりと雖も常に関す)」とある。謝世嘩―世の中のやかましいことを断つ事。俗世間と交渉を断つこと。陶淵明の「飲酒」に「而無車馬喧(而も車馬の喧無し)」とある。嘩と喧は同義。南窓-南側の窓。陶淵明の「帰去来辞」に「倚南窓以寄傲」(南窓に倚りて以て傲を寄せ)」とある。

【通釈】 門を関ざして俗世間との交渉を断ち、一人座って鳥のさえずりを聴いて居る。南側の窓辺では何事もなく、ひまにまかせて水仙の花を写生している。

 

漱石はこの詩を作るにあたり、陶淵明漢詩を念頭に浮かべて作ったことが良く分かった。そこで私は『陶淵明詩集』を久し振りに開いてみたのである。そうしたら彼の有名な詩が出て来たので、思わず駄文を弄したしという次第である。

漱石がこの詩を作ったのは先にも云ったように大正元年の11月である。明治45年7月30日に明治は終わり大正の時代になった。漱石はその時数え年で45歳であった。彼は大正5年12月9日に永眠したので、この詩を作った時から凡そ4年間に多くの漢詩を作っている。晩年の有名な言葉「則天去私」に関係した詩がある。この詩は漱石の最晩年大正5年9月3日の作で「無題」とある。これについての佐古氏の解説は私にとって目から鱗であった。

 

獨往孤来俗不齊   独往弧来 俗と斎(ひと)しからず

山居悠久没東西   山居悠久 東西没(な)し

巌頭晝静桂花落   岩頭 昼静かにして桂花落ち

檻外月明澗鳥啼   檻外(かんがい) 月明らかにして澗(かん)鳥(ちょう)啼く

道到無心天自合   道は無心に到りて天自ずから合し

時如有意節将迷   時に如(も)し意あらば節将(まさ)に迷わんとす

空山寂寂人閑處   空山 寂寂 人閑(しずか)なる処

幽草芊芊満古蹊   幽草 芊芊(せんせん) 古蹊に満つ

 

【通釈】 独り世間の人々と離れて長く山中で生活してきたので、今では東西の方向すらわからなくなってしまった。静かな昼には、岩のほとりにもくせいの花が散り、月の明るい夜には、欄檻の外で谷川の鳥が啼く。

人の道も無心になれば、天の道と一致するものであり、時間も意志が働けば、季節の運行も迷い混乱してしまうだろう。このひっそりとした山の、人の静かに住むところには、名も知れない草が盛んに生え、古い道をおおっている。

 

 私はこの後に載っていた佐古氏の【補説】を読んだ時なるほどと教えられた。

 

第五句の「道到無心天自合 (道は無心に到り天自ずから合し)」は「則天去私」への志向を示す句である。この句は「道」と「天」との関係を示す大事な表現であるが、両者の合一において「無心」という境涯が要請せられている。この「無心」は明らかに「時如有意節将迷」の「有意」の「意」が「我意」であることは明白なことであろう。(中略)漱石が「則天」というときその「天」は、けっして何らかの超越的な実在が考えられているのではない。それは、けっきょく、「天然自然」という場合の「天」と同じ意味のものである。「道」もまた「天然自然の道」であう。そこに到る唯一のてだては、「我意」を去って「無心になることである。それが「去私」ということにほかならない。

 

漱石は毎日午後こうした悠々自適の境地を心に求めて詩を作って居た。しかし午前中は男女の愛と憎しみや欲深い金銭問題といった「我意」の葛藤を、『行人』から『心』さらに『道草』そして絶筆となった『明暗』に描いている。そのことと関連するような漢詩が「漢詩文」の中にあった。これについてはまた考えて見ることにする。

 

人はいろいろな事情で長く住んでいた土地を離れ、また住み家を替える。我が家の祖先もその昔戦国時代は現代の広島県に居たのだが、関ヶ原の戦で負けた毛利に従って萩の地に来た。そして今で言うリストラにあって、武士を辞めて商人になった。爾来三百有余年萩に住んできた。だから私が住み慣れた萩を去って山口に家移りしたことを知人の多くは不審に思った。

我々が此処に来て何とか落ち着いた或る日のこと、私と妻はこんな会話をした。

 

「こうして山口に来る事が出来たのも、考えて見たら君のお蔭かもしれないな。何しろ騒音に悩まされたから」

「そうかも知れませんね。あのまま浜崎に居たら、私は気が狂ったかもしれないよ」

「まあともかくもこうして静かなのが何より有難い。これも神仏のお蔭だと思う。」

「そうですね。また天神さまにお参りしましょう。」

「これで長い間の苦しみから解放されたな」

「まあ私たちの生きている間は大丈夫でしょう。しかし何が起こるか先の事は分かりませんよ」

 

この最後の妻の言葉で、私は『道草』の健三の言葉を思い出した。

 

「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こった事はいつ迄も続くのさ。ただ色々な形に変わるから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」

 

今世界は新型コロナウイルスで大騒ぎをしている。こうした事は世界歴史上何回か起こっているのだろう。如何にも今が初めてのようにマスコミは騒ぎ立てている。こうした状況を見ながらこんなことを言うのは憚られることだろうが、今の私の気持ちは次のようである。

私が今住んでいるところは、萩から移った当時は周囲が殆ど田圃に囲まれていて、春は青々とした稲が芽を伸ばし、雨季には蛙の合唱が聞こえ、秋になると黄金の稲穂が垂れていた。しかしその後事情が急変して、田圃にはつぎつぎと宅地造成され、箱形の似たような新興住宅が建っている。しかし有難いことに、こうした住宅地の中ではあるが、「車馬の喧しきなし」の閑静なところと言える。

私も漱石が憧れそして到達したと考えられる「我意」去って無心の境地に近づく事が出来たら、一人暮らしも亦良かろうと思うのである。

 

2020・3・6 記す

成道会(じょうどうえ)

 「成道会」と云っても殆どの人はその意味が分からないと思う。今日は12月9日で日曜である。私はある決意を以て山口市内にある禅寺に向かった。昨日から急に寒くなり、今朝の気温は零度に近い。身支度して朝7時10分に車を運転して家を出た。国宝五重塔で有名な瑠璃光寺の本堂に着いたのは坐禅が始まる数分前であった。男女10数名が参加していた。7時30分になり、老若の親子二人の僧が本堂に姿を現した。

先ず若い僧の、と云ってももう40歳台と思うが、読経から始まり、それが済むと全員が『般若心経』を読誦する。さらに続けて今朝は『修証(しゅしょう)義(ぎ)』の「第五章 行持報恩」をこれまた皆で唱えた。この中に次のような言葉がある。一部省略すると、

 

「病(びょう)雀(じゃく)尚お恩を忘れず(中略)、窮(きゅう)亀(き)尚お恩を忘れず、(中略)、畜類尚お恩を報ず、人類争(いかで)か恩を知らざらん」

 

またこのような言葉もある。

 

「光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、身命は露よりも脆(もろ)し、何れの善巧方便ありてか過ぎにし一日を復び還(かえ)し得たる、徒らに百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり」

 

この程度の文章は分かるが良く理解できない言葉が多い。これが終わるといよいよ坐禅である。本堂には石油ストーブが幾つか置かれて居るが今日は流石に寒かった。私は平成21年の2月から参加した。年を取っているので「結跏趺坐」が出来なくて、「半跏趺坐」を当初からしている。鐘の合図で三十分間の坐禅開始である。雑念妄想が何時も浮かび、「無」の境地からはほど遠い。この間若い方の坊さんは警策を持って静かに座って居る者たちの後ろを数回巡回する。その影が近づくと思わず姿勢を少しでも正すようにする。僅か30分の坐禅であるが、時に長く感じたりそれほどでもなかったと思うこともある。これで見ると、人間の時間に対する感覚は、その日の体調や気分によって随分と変わるものだと思う。

坐禅が終わると、そのままの姿勢で、今度は老僧の先導で皆が『普(ふ)勧(かん)坐禅(ざぜん)儀(ぎ)』を唱える。之は道元禅師の書かれたもので、これまた字句が難解であるが優れた文章だと思う。

この後今度は若い僧の短い講話があった。

 

「昨日の12月8日はお釈迦様がお悟りを開かれた大切な日で、永平寺など禅宗のお寺では「成道会(じょうどうえ)」と称して、今月1日から8日間坐禅を行います。この間睡眠も座ったままで僅か3時間だけといった厳しい修行を行います。現在はそれほど厳しいことはありませんが。今から二千五百年ほど前に、インドの一地方の王子だった方で後のお釈迦様が、その地位を捨て、妻子も捨て、二十九歳で城を出て、難行苦行を6年間も続けられたが、その後苦行を止めて菩提樹の下で瞑想にふけられ、十二月八日の日の出の前、明けの明星を眺められ、悟りを開かれた事にちなんで、仏教徒坐禅をするのです。之を成道会と申します」

 

 ほぼこのような話であった。いつもこうして坐禅を主とした全ての行事が終ると、ほとんどの参加者は別室に移動し、茶菓の提供を受けながらしばらく雑談して、散会ということになる。

私はこの文の始めに「ある決意を以て禅寺に向かった」、といささか仰々しい言葉を書いたが、実は此の茶話会の席で、立ち上がって皆さんに挨拶した。

 

「本日を以て坐禅を止めることに致しました。お寺様始め皆様方には大変御世話になりました。10年前に坐禅に参加させて貰いましたが、この間色々と学ばせて頂き本当に有り難く思います。先ほど、『十二月八日はお釈迦様が悟りを開かれた日』とお聞きしましたが、私にはこの日は太平洋戦争が勃発した忘れられない日です。此の事に関して軍医であった従兄が硫黄島で玉砕し、国のために若き命を捧げたことも忘れられません。

それはともかくとして、年が明けたら私は直ぐに87歳になります。最近体力も気力も衰えましたので、今何とか元気な内に身を引いて、人生の最後を無事に送りたく思います。ここ2年間に私の高校時代の級友が8人も次々に亡くなりました。そういったことで、最後の我が身の整理をこれから考えなければと思います。10年と云えば長いようで短い期間ですが、本当に御世話になりました」

 

最近坐禅へ行くのが幾らか負担に思っていたので、なんだか重荷を下ろしたように感じた。しかし良い体験ではあった。帰宅してよく手にする『暮らしの365日 生活歳時記』(三宝出版)を読んでみた。この本は昭和53年に初版が出ているが、私は重宝にしていてよく読む。多彩な内容で非常に役立ち便利でもある。「12月8日」に『宗教と私』と題した坂本繁二郎の文章が載っていた。実に良い文章だと思うので書き写してみた。

 

 人間の根本問題はやはり宗教でしょうね。そういう意味で私にとって絵は宗教とも言えるでしょう。何教を信じているわけでもありませんが、しいて言えば自然教―とでも言いましょうか。気持ちとしては仏教の、それも禅宗に近い感じです。禅僧には絵をかく人が多いでしょう。

自然の中で、人間以外の動物は泣きも憎みもしないで自然のままに生きて、死んでいるでしょう。人間だけですよ、悩んでマゴマゴしているのは。

絵の指向そのものには矛盾がありません。それに私は引かれて絵かきになったのです。それでも、この年になってもやっぱり死ぬのはいやですね。悟りを開いて火の中で焼け死んだ禅僧の境地が理想ですが・・・。

  絵の目的は第一に自然を、その美しさをどこまで実感できるか、第二にそれを表現すること、つまり作者自身の趣味性の高さ―それだけです。しかしそんなことにはお構いなしに自然は過去から現在、そして未来へと実在していくでしょう。自然はあまりに偉大です。

  しかしかいた絵は「私」です。「私」そのもので、自然ではありません。私は一生絵をかいてい生きたことを、しあわせに思っています。世の中に絵をかいて後悔している人はいないと思います。   『私の絵 私のこころ』より

 

 私はこの文章を読み、今こうして書き写して、坂本繁二郎の「放牧の馬」の絵を昔見たのを思い出した。朦朧とした何とも言えない安らぎを覚える絵であった。作者の人柄がやはり出ていたのだろう。清貧に甘んじ淡々として好きな絵を描いて87歳の長い人生。悠々自適の生涯を送られた老画家にあやかりたいものである。

 

  坐禅を止めて気持ちの負担がなくなったように感じはしたものの、これから自由で放縦な生活に入ってはいけないので、これまで坐禅に参加したら必ず読誦(どくじゅ)していた『修証義』を改めて読もうと思い、一冊の本を書架から取り出した。『道元禅師のことば「修証義」入門』(宝蔵館)である。著者は有福孝岳氏である。

「謹呈 山本孝夫 先生 H24・10・30 有福孝岳」と、本の見開きにある。

 私はこの本を息子を通して貰った時、有福氏が私のことを覚えていてくれたかと思うと嬉しかった。

実は私は昭和30年に大学を卒業し、県立小野田高校に赴任した。その二年目に彼は入学したので、私は彼の居た1年生のクラスで、新米教師として教壇に立ったのである。此のクラスには彼ともう一人秀才が居て、この生徒から私は何時も質問攻めに逢って、お陰で教えると言うより教わるといった状態だったことを今でも良く覚えている。有福氏は質問は全くしないで黙ってつまらない授業を我慢して聞いていたのだろう。彼は京大で西洋哲学を学び併せて禅の修業もしている。もう一人は東大にはいり、統計学を研究してその道の権威になった。

たった1年間だけ授業に出て、拙い授業をして恥をかいたことのみ記憶にあるが、「先生」と言われて汗顔の至りである。

こう言ったいきさつで、以前生半可に通読したこの本を今度はじっくり読んでみようと思い、昨日の朝から読み始めている。今朝も早く起きて「第一章 総序」の「第一節 生死の問題を明らかにする」から「第六節 今生の我が身の大切さ」を読んだ。

 諸行無常と因果応報が詳しく説かれていて、今を生きる大切さなどを改めて強く感じた。有福氏は来年には満80歳になるだろう。高杉晋作の挙兵で有名な下関の功山寺の住職として禅の精神を教えていると思うが、今や彼のほうが私にとってはよき師である。

 

                            

随感 

 もう二十年以上過ぎた。平成十年九月に萩市から山口市に転居した時は、自分がこんなに長生きするとは思いもしていない。又妻が私を残して死ぬなどと考えてもみなかった。さらに云えば高校の同級生をはじめとして、友人知人の大半が鬼籍に入ることも全く念頭になかった。それどころか今や良く知っていた教え子さへも何人も亡くなっている。これが人生だ、「無常迅速」、淋しくもあり又悲しい事でもある。

 

 こちらに転居した当時、私は長年の義務的立場から解放された感じを抱き、新しい環境において新しい住まいもできたので、これから本当の意味で第二の人生を自由に送れると思った。振り返りみれば過ぎたことと言えるが、こちらに来る前の十数年は、勤務中は忘れていても、一端我が家の門を潜った途端騒音が耳に入り、翌日門を出るまで絶えず頭を悩ました。妻は一日中そのような状況の中にいたから、神経に異常をきたし始めたのも無理からぬことである。暗中模索、出口が見つからない状況下で一番苦しんだのは妻だった。そういった中で曙光が見え始めると、幾つかの問題が続けて解決したのは考えて見ると不思議である。

父が生前云っていた、「まあもう少し辛抱して見たらいい。その内解決する」と。そうは言われても忍耐には限度がある。妻の苦しみは今考えて見ると本当に可哀想だった。私は我が家を見捨ててもいいと決心をした。幸いに「青木周弼旧宅」に避難できたことで、解決の糸口が一時的には見つかった。それでも根本的解決にはならなかった。我が家に買い手がつき、それと同時に長年の懸案だった橙畑が売れたことで救われた。

「もう一年待ったらもっと高く売れる」と云った人もいたが、それは違っていた。それからは萩市内の不動産の売却は日を追って難しくなっていったからである。私はこれらの事は天佑神助、先祖のお蔭だと信じている。本当に有難かった。

 

人間万事塞翁が馬」とか「人生は糾(あざな)える縄の如し」とか云われている。或いは「禍福は寝て待て」との呑気な格言もあるが、苦しみ悩みの渦中にある者にとっては、なかなか心を落ち着けてどっしりと構えることはできることではない。

こうした苦しみの長いトンネルを抜けた今、ここまで来られたのは先にも云った神仏の御加護は別として、多くの人達のお蔭だったことも忘れられない。

 

こちらに来て是までとは違った人生が広がった。私はまだまだこれから何かできるといった気持ちだったから、弓道教室に入門して弓の稽古を始めた。しかし数年して体力的にどうも無理だと分かった。しかしお蔭で弓道に興味を覚え、色々と関係の本を読んでみた。そして弓道というものが実に奥深く、一朝一夕には窮め尽くせるものではないと云うことを知っただけでも、良い勉強になった。

漱石が東大大学院時代に勉強のし過ぎで一寸体調を崩したので、それを癒やす目的もあって一年間ばかり弓を引いている。そしてこの体験を俳句に詠んでいる。私はこの事を知って『漱石と弓』という拙文を書いて岩波書店に送ってみた。一か月ばかりして『図書』に採用してくれた。この事がきっかけで、山口高校の先生連中が始めたという同人誌『風響樹』のメンバーに加わるようにと誘われた。作文など全く苦手だがメンバーの一員になることにした。

そうなると、いくらつまらない文章でも何か絶えず書かなければならないという半ば義務的な立場に置かれることとなった。この事は私にとっては亦別の意味でのプレッシャーになった。しかし同人誌への寄稿は年に一二回の緩やかなものだから、それほど精神的には負担に思えなかった。それでも締め切りが近づくとやはり気がもめることがあった。第一、長年書き慣れているメンバーの中にずぶの素人が入ったのだから気が引けた。

そういったこともあったが書くということは生きる上で一つの目標となり、ささやかながら生き甲斐にも思えた。それまで文章を書くなど夢にも思わなかった事だから、やはり不思議な縁だと思う。是に加えて、先に述べた『図書』を読んだと云って、全く未知の方、一人は姫路市、もう一人は神戸市在住の文学好きの、私とほぼ同年配の人と付き合うようになった事は望外の喜びとなり、また励みにもなった。人の縁とは本当に不思議だとつくづく思う。縁と云えばそれまで全く未知の二人が結ばれる結婚。これこそ最も縁の深い出合いと言えるかも知れない。

 

妻はこちらに来て無二の親友ができた。萩でも親友に恵まれていてその点では妻は幸せだったと思われる。山口での仲良しになったのは萩高校出身で妻とは同学年の女性である。二人は殆ど毎週一度と云っていいほどよく会って話していた。先日もこの人から私宛に手紙が来た。妻の一周忌の法要と納骨を無事に済ませたと知らせた事への返信であった。

人柄を彷彿させるようなやさしく素直な字が「矢次淑子用箋」という和紙の便箋に書かれていた。

「過日はおじゃま致しまして色々なお話しやお写真も見せて頂きなつかしく少しは元気が出ました。

この一年想い出しては涙する日々でございました。本当に寂しくて・・・」

人生では本当の意味での良き友に出合うという事は全くの運のような気がする。確かに自力によるよりは他力のお蔭だと私は思って居る。「莫逆(ばくぎゃく)の友」という言葉は「逆らうこと莫(な)き友」、「歩みや考えを共にせざるをえない友」という意味だろう。このような友に恵まれた者は幸せだと言える。その意味に於いて妻は幸せだった。この他にも我々はこちらに来て良き方々に出合うことができた。お蔭でこうした家族と萩に居た時の知人夫妻たちと、一緒に国内各地の旅を楽しむ事が出来たのは、今から思うと良き思い出になる。

 

しかし月日は着実に流れ、時は刻々と刻まれていたのである。若いときは、『徒然草』を読んでも、『方丈記』を繙いても本当の意味で読んではいないのだ。ただ書かれた内容を上辺だけで知解したに過ぎない。だから名著は繰り返して読む必要がある。

 

私は妻が亡くなってたまたま『漱石全集』の中の「思ひ出す事など」を読んで、漱石修善寺大患後の心境の変化を文章に綴り、その時の気持ちを漢詩に表現しているのを知った。そこで私は是が最期になるだろうが、もう一回はじめから漱石の全作品を読み直そうと決意した。是まで作品によっては幾度か読んでいるが、『文学論』など実際には読んでいない作品もあるから、まずこの『文学論』に最初に挑戦した。この難解な英文混じりの論文を曲がりなりにも読み終えた。それこそ字面を追ったに過ぎないが何とか最期の頁にまでは辿り着いた。

さて、これでいよいよ「第一巻」『吾輩は猫である』から読み始めることにした。『猫』や『坊っちゃん』などには死の片鱗さえ窺えない。その後の作品だと思うのでこれからが楽しみである。

 

先に述べた「思ひ出す事など」の中にある最後の漢詩で、彼はこう詩(うた)っている。

 

 眞蹤寂寞杳難尋    真蹤(しんしょう)寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難く

 欲抱虚懐歩古今    虚懐を抱いて 古今に歩まんと欲す

 碧水碧山何有我    碧水碧山 何ぞ我(が)あらんや  

 蓋天蓋地是無心    蓋(がい)天蓋地(てんがいち) 是れ無心

 依稀暮色月離草    依(い)稀(き)たる暮色 月 草を離れ

 錯落秋聲風在林    錯落(さくらく)たる秋声 風 林に在り

眼耳雙忘身亦失    眼(げん)耳(に)双つながら忘じて 身(しん)亦た失し

空中獨唱白雲吟    空中に独り唄う 白雲の吟

 

森羅万象の真実の相は、ひっそりとして静寂であり、まことに深遠で容易に知ることはできない。自分はなんとかして私心を去って真理を得ようと東西古今の道を探ねて生きてきたことである。一体、此の大自然にはちっぽけな「我」などないし、仰ぎ見る天や俯してみる地は、ただ無心そのものである。

自分の人生の終りを象徴するかのように暮れようとする黄昏どき、無心の月が草原を照らし、吹きわたる秋風が林の中を通りぬけていく。この人生の最期に立って、もはや自分は小さな我の欲望や感覚を越え、自らの存在すらも無にひとしいように感じるのだが、そのような心境で空を飛ぶ純白のあの雲のような自由さに想いをよせて、自分の「白雲の吟」を唄うのである。

                  (佐古純一郎著『漱石詩集全釈』より)

 

 佐古氏はこの詩の【補説】で次のように云っている。

「この詩を作った翌々日の十一月二十日に、漱石胃潰瘍の発作で病床に臥し、それが死の床となった。それゆえにこの詩が文字どおり、漱石の最後の作品となったわけである。漱石が晩年に志向した「則天去私」のイメージがまことに鮮明に表現されて、漱石文学の精髄といってもけっして誇張ではないと思う。

漱石は、十二月九日の午後六時四十五分永遠の眠りに就いたのである。」

 

今年令和二年になって、山口在住の知人が、「主人が買って読んでいましたが、老人施設に入りましたので、お読みになれば差し上げます」と云って大判の立派な河上肇の『遺墨集』をわざわざ持参された。彼女は妻を通して知ったのだが、私とあまり年は離れておられないが、バイクに乗ってわざわざ持参されたにには恐れ入った。私はその親切を有り難く思い早速手にとって読み始めた。写真版の河上肇の運筆というか墨蹟の味わい深さに打たれて頁を繰った。実に良い字である。いわゆる書家の上手な筆運びではない。自ずから人格が現れて居るとも言えるものだと思った。

何故此処に突然河上肇の事を書くかというと、漱石が自分の弟子に宛てた手紙の中で、河上肇に言及して居るのを思い出したからである。

明治三十九年二月三日に野間眞綱に出した手紙に次のように書いている。

 

「小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を思ふと河上肇などゝ云ふは感心なものだ。あの位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ。(中略)

人間は外が何といっても自分丈安心してエライといふ所を把持して行かなければ安心も宗教も哲学も文学もあったものではない。」

 

私は先に述べた『河上肇の遺墨』に載っている「河上肇年譜」を見てみた。すると彼は明治三十五年に東京帝国大学を卒業、同年に結婚している。年齢は二十三歳。翌年に東京帝国大学農科大学講師になっている。そして明治三十八年に『読売新聞』に「社会主義評論」を連載し、その年に伊藤証信の無我苑に入って居る。明治三十九年、即ち漱石が野間宛ての手紙の出した明治三十九年に、肇は無我苑を出て読売新聞記者になっている。

ついでに書けば、彼は明治四十一年、二十九歳の時、京都帝国大学法科大学講師になり、昭和三年四十九歳まで大学で教鞭を執っているが、その年に筆禍事件などで辞職、昭和八年五十四歳の時検挙され、小菅刑務所に入れられ、昭和十二年に五十八歳になって刑期満了で出獄して居る。こう見ると漱石がいみじくも云った如く筋の通った「豪傑」である。

「獄中秘曲の中より」という書がこの本に載っていた。

 

筋骨の逞しい若者たちと一緒に

風呂に入る私の裸姿をば、

初めて見たる人々は、

世にはこんなにも痩せた人閒が居るものかと、

驚きもし怪しみもするでせう。

そして哀れにも思ふことでせう。

 

だが私自身はひそかに自分を慰める。

おれの肉体こそこんなに痩せて居るが、

おれの精神は少しも痩せては居ないつもりだ。

獄中生活もやがて三年になるのに、

魂だけは伸びてふとりこそすれ、

痩せもせず、衰へもせず、老いもしない。

 

さう思ふ私は、

ざわめく湯槽の波に身を任せて、

黒い鐵棒のはまった窓から、

灰色の見張塔の閒近に聳ゆる

青空の一角を静かに眺めながら

ひとり自らほほえむ

 昭和十年十一月夜書 河上肇

 

これを書いた二年後に彼は出獄する。それから彼は表向きは共産党の活動はしないで、獄中から取り寄せて読んでいた漢詩の研究に半ば没頭している。私は彼の書いた『陸放翁観賞』を山口県立図書館で借りて読んだことがあるが、今回彼の遺墨を始めて見て、その中に載っている歌とその墨蹟が気に入ったから、その一つを書き写してみよう。

 

 我裳亦落葉爾埋留苔清水安流可難伎香乃閑曽希佐耳生久

 

万葉仮名を普通の言葉にすると、

「我もまた落ち葉に埋る苔清水 あるかなきかのかそけさに生く」

 

彼は晩年は無欲恬淡、自然を友として「かそけさに生き」、生涯を終えたように思う。

 

2020・6・14 記す