yama1931’s blog

明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げた小説です。少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」「玉砕」「太平洋戦争」「戦争と家族」

杏林の坂道 第一章「出郷」

f:id:yama1931:20190104223059j:plain

杏林の坂道 第一章「出郷」
 
(一)

 四月から五月にかけて、黄河流域から舞い立った黄砂が、偏西風に乗って山陰のこの海岸一帯を襲うことがある。しかし今日は朝から空は抜けるような青一色。この蒼穹を背景にして、指月山(しづきやま)は翠滴るばかりの青葉若葉に覆われ一段と映えて見えた。

 

 惟芳にとって一つだけ残念なのは、校舎が新築され、併せて弓道場も築かれた、といってもそれは名ばかりで、実際に弓を引くところは青天井であり、垜(あずち)の築いてある場所は差し掛け小屋程度の板葺きに過ぎない。学校は毛利藩の上級武士が住んでいた広大な屋敷跡に建てられたのである。校舎が建っているところは高い土塀で囲まれており、外から内側は見えない。他方運動場周辺は、高さ幅共に二尺ばかりの石垣でできている。一番南側の校舎と土塀の空間に射場が設(しつら)えてあり、垜は図書館の正面に向かって、その右側面を利用して作ったものである。そこは誰も出入りしない安全な場所である。しかし僅か三つしか的の置けないような狭い場所で、おまけに雨天または強風のときは、いくら稽古をしたくとも出来ない。そのような日には、剣道場の片隅に置かれた巻藁に向かって稽古する以外に仕方がない。

幸い今は初夏、花は散ってそよ風が青葉をやさしく揺らしている。他の部員は皆早めに帰った。弓を引くには絶好の日である。

 「よし、一つ頑張ってみるか」

 惟芳はこう言って気合を入れると、袴(はかま)の紐を締め直した。彼は五年生になって、伝統ある萩中弓道部の主将に選ばれた。そのため、新学期になってはじめの数週間は、新入部員へ弓道の手ほどきをしなければならなかった。

 「射は禮に始まり禮に終わる」といった弓道の根本精神をまず徹底させた後、自ら引いてみせて実技を教示し、同時に弓道に関する専門用語なども教えていく。例えば「会(かい)」と「離れ」は仏教語の「会者定離(えしゃじょうり)」に由来するもので、特に「会」とは、「矢束(やづか)一杯に引き込んで、発射の機の熟するまでの間」といったようなことまで、実技を指導しながら教える。また射は正確を旨とするものであることを力説し、そのためには「射法八節」を順序正しく学び体得しなければいけない、と自分がかつて先輩から教えられたことを思い出しながら説明した。こうした基本姿勢の指導でかなりの時間を取られる。したがって彼は、部員が稽古を終えて帰った後、一人残って的に向かうことがよくある。

 

 部員の大半は学校備え付けの弓を使っている。中には自分の弓を持っている者もいる。惟芳も自分の弓を欲しいと思ったが、親に学資を出してもらえるのがやっとで、とても出来る相談ではないことはよく分かっていた。そう思っていた矢先、前年の夏休みのある日、外部から週二回指導に来られる粟屋先生が、一人残って稽古していた惟芳に、

 「緒方君、大分腕が上がったね。私はこのところ年を取ったせいか、今使っているこの弓が少し引きづらくなった。君は若いし、これからもっと強い弓を引くことが出来るようになるだろう。弓は自分の力にあったものが望ましいが、強い弓に挑戦することも大事だ。一寸これを引いてみたまえ。よかったら進呈しよう」

 こう言って先生は自分の弓を惟芳に手渡した。

 これは全く思いも掛けない話であった。彼は願ってもない有難い申し出とは思ったが、こんなに高価なものを「はい、それでは」と言って、簡単にもらえる代物(しろもの)ではないと知って鄭重に辞退した。しかし是非にとの言葉に、彼は心から感謝して頂戴することにした。

 

 弓には肥後三郎の焼き印が押してあった。反り具合といい、色つやといい、まことに申し分のない立派なものである。握りの厚さは六分二厘もある強い弓である。この弓を引くようになってから、彼は稽古にも一段と熱が入り、自分でも大分上達したと実感するようになった。

 

 今日も愛用の弓で二十射ばかり試みた。時折五月の風が頬を撫でて気持ちがよい。熱心に引いたのでじっとりと汗ばんできた。稽古着を脱いで諸肌(もろはだ)になると、小使室の側にある井戸から汲んできた手桶一杯の水に手拭いを浸けてよく絞り、筋骨逞しくなった胸や背の汗を拭きとった。再び稽古着を身に纏い、これで最後にしようと心に決めて、彼は再び射位に立った。

 

 先ずしっかりと足踏みを決めて、胴造りで姿勢を正し、弓手(ゆんで)の手(て)の内(うち)を整えると、的の中心に視線を向け、ゆっくりと打ち起こした。手の内とは弓を握る方法、またその形をいい、射術の上で重要な技法の一つである。彼自身弓を習い始めた頃、手の内がなかなかうまく出来ず苦労したものである。引き分けから会(かい)に移り、離れに至るまでの時間、精神の統一、いわゆる無心にならなければいけないのだが、まだまだ惟芳には至り得ない境地である。粟屋先生が引かれるのを見て彼はいつもそう思うのであった。先生は会に入られて十秒近くも引き絞った状態を保っておられるのである。

 

 粟屋先生の先祖には藩の代表として京都の三十三間堂で通し矢をされた方がおられると聞いていたので、先生の射技を見て惟芳は何時も流石だと思うのであった。

 

 ―この最後の一射は納得の行くように引いてみよう。

 

 彼はこう自分に言い聞かせながら、背筋を伸ばし、両腕、両肩を伸長(のば)しつづけた。出来るだけ引き絞って、ついに矢が弦を離れると、カーンという鋭い音と共に、矢は的に向かって走った。それこそ間髪を入れず、パンという音がして的中したことが分かった。弦音(つるね)と的中したときの音は、惟芳にとって快い響きであった。甲(は)矢(や)についで乙矢(おとや)も思ったより上手くいったのに満足して、彼は垜まで行き、的の中心近くに中(あた)った二本の矢を抜くと、そこをきちんと片づけて弓を引いた場所に戻った。

 

 弓を布で充分に拭い袋に収めた。袋には「弓一筋この道より生きる道なし」の文字が紺地に白く染め抜いてある。先生に頂いた弓を、これだけは大事なものだから、彼は毎日家へ持ち帰ることにしている。他の道具を片付け、制服に着替え学生帽を被ると、左手に弓を持ち、教科書の風呂敷包みと手桶を右手に提げて射場を離れた。

惟芳は小使室に手桶を戻し、本館の正面が左手に見える所まで来た。ちょうどその時、雨(あま)谷(がや)校長が玄関から出て来て、本館の横に待機していた人力車に乗り込もうとしていた。

 「失礼します」

 彼はいったん立ち止まって帽子を脱いで挨拶した。

 「緒方君だね。えらい遅くまで頑張るね」

 「はい、他の部員が早めに帰りまして、気持ちの上でも何だか余裕がありましたから。それでつい熱が入り遅くなりました」

 「そうか、結構なことだ。実は私も大学院にいたとき、少し稽古をしたことがある。何しろあのころ、本(ほん)多利(だとし)実(ざね)と言う日本一の先生が指導に来ておられたからな。当時の東京大学弓道部ときたら、文科の学生の独壇場だったよ。先輩たちは実によく稽古していた。始業前と放課後に百射ずつの稽古をするのはそう珍しい事ではなかった。

 

 二年先輩に夏目さんという方が居られたが、小柄ながら的中率が良かったのを今でもよく覚えている。弓は心身の鍛練に適したスポーツだと思う。まあしっかり稽古を続けたまえ」

 こう言い残すと、校長は人力車に乗って校門を出て行った。惟芳は二年前にはじめて雨谷校長に出会った時のことを、つい昨日のように思い出した。

 

 明治三十二年十月十八日。この日は地元のすべての人が待ちに待った新しい学校、山口県立萩中学校の開校式が行われた日である。萩町は、地元有志の寄付金などによって、校舎を新築して県に寄付したのである。山口県山口中学校萩分校に入っていた惟芳も、この日が来るのを誰よりも待っていた。なぜならこの時から、山口県立萩中学校の新二年生としてスタートし、三年後には萩中第二期生としての卒業が見込まれていたからである。

 

 初代の校長には、郷土出身の大物政治家品川弥二郎を推す動きもあったが、これは実現しなかった。代わりに任命されたのは雨(あま)谷(がや)羔(こう)太郎(たろう)である。彼は水戸の生まれで、水戸学の影響を受け、東京帝国大学で史学を学び、第四高等学校で教鞭をとった後、さらに大学院に進み、十九世紀自由主義社会主義の研究をした俊英であると紹介された。

 

 その時惟芳は、校長が弱冠二十九歳であることを知って驚いたが、校長が古武士の風格を備えた落ち着いた人物であるとの印象を得ていた。彼は校長が学生時代に弓を引いた経験があると話されたことで、弓の稽古が校長の人格形成の一助になったのだろう、と我田引水的なことを考えた。また校長が自分の名前を知っておられたことは嬉かったが、弓を引いたことがあるという校長の言葉に、惟芳は一段と親近感を覚えた。

 

 

(二)

 校門を出てすぐ前の道を、左にまっすぐ北に向かって二百米ばかり行くと石垣にぶつかる。道の両側は白壁や屋根瓦を塗り込めた練り塀が続く。この辺りはかっての上級武士の屋敷跡である。どれも比較的大きな構えで、いまはその敷地内に夏(なつ)橙(だいだい)を植えている家がほとんどである。道の突き当たりが三叉路になっているので、惟芳はそこから右へ向きを変えて進んだ。この道筋も今来た道とほぼ同じような練り壁や石垣が両側に長く続いている。

 

 彼の家は三叉路から五十米ばかり行ったところ、道の左側にある。屋敷と屋敷は垣根か石垣で区切られている。惟芳の家も道に面して石垣が築いてある。その石垣が一間幅ほど築かれていないところに、大人の背丈ほどの四角い御影石の石柱が二本立っている。ここが彼の家の門である。他の家の石垣と違って、分厚い石組みの上に盛り土があり、黒松が等間隔に植えてあるので彼の家は特色があった。

 

 武家屋敷の一隅を占めている彼の家もかなり広い敷地を有しているが、住まいは瓦葺の粗末なもので、広い敷地に比べたら、比較的手狭な平屋建築である。敷地内には夏橙の苗木が多数植えてある。これは維新の後、生活に困窮した貧乏士族救済の対策として奨励されたもので、緒方家も率先して例に倣い、それから上がる収入を惟芳の学資にと当て込んで、彼の父が息子を中学校へ入学させたのである。しかし実際にある程度の収入が得られるまでにはまだまだ数年を要した。

 

 後年、萩町経済に占める比重の多くが、この夏橙の生産によったのであるが、毎年あるいは三・四年ごとに生ずる冷害による被害は止むなきこととしても、害虫の駆除ならびに施肥や除草といった作業は、それまで畑仕事の経験のない者にとっては、決して容易なことではない。従って惟芳の両親も、侍稼業を切り替えての夏橙の育成には、過重な負担を感じていた。

彼は門から玄関まで続く平たい玄武岩の敷石を踏んで家の戸を開けた。

 「ただ今帰りました」

 帰宅の挨拶をした後自分の部屋に入ると、まず畳一枚ほどの床の間に弓を立て掛け、風呂敷包みを机の上に置くと窓外に目をやった。陽(ひ)が西に傾きかけていることは、障子に映る日差しの影で分かる。夕陽が海に沈むまでにはまだ少し間がある。五月になって比較的暖かいときには、日没前に軽く泳ぐのが半ば習慣になっていた。稽古をした後の紅潮した躰を海水に浸すと清新な感じがして気持ちが良い。水温も格別妨げにはならない。彼は一泳ぎしてこようと思った。

 「一寸海へ行ってきます」

 母親に行き先を告げると、すぐ家の裏にある松林の中を通って砂浜に出た。やや黒ずんだ青い海が眼前に広がっている。左手に常緑樹に覆われた指月山が西陽を背にして優美なシルエットを見せている。正面の水平線上には平たい相島(あいしま)が見え、その右側に小さな島々が盥(たらい)を伏せたように浮かんでいるのが目に入る。右端に格好の良い笠山(かさやま)が低く裾野を拡げている。これは市女笠を低い梯形の台の上に置いたような姿である。こうした眼前に広が風景の中にあって、やはり指月山は惟芳にとっては掛け替えのないものである。

 

 阿武(あぶ)川(がわ)河口のデルタが西北に延び、日本海に突出したところにある指月山は、標高一四三メートルの花崗岩で出来た小さな山である。全山が椎、椿、タブ、黒松、赤松などの常緑の自然樹林におおわれている。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は、中国八ヵ国の領地を周防・長門の二ヵ国に減封された。そして日本海に面した僻遠の地、その西北の片隅に位置するこの指月山に、築城をかろうじて許可されたのである。

 

 かつては今の中国五県の太守であった輝元にとっては、これは屈辱の措置であった。せめてこれだけは立派なものにと、ひそかに思って築いたのが萩城である。

 「慶長九年六月一日をもって縄張り作業が行われ、以後、輝元は一門の総力をあげて工事を急ぎ、建設の槌の音が指月山にこだました」と、『萩の百年』(萩市役所発行)に記されているが、城の完成は慶長十三年六月であった。しかし明治七年(1874)にこの偉容を誇った城は無惨にも解体され、その美しい姿を消した。惟芳が生まれるわずか九年前の事である。

 

 この城山に連なる砂浜は、菊ヶ(きくが)濱(はま)という優しい名にふさわしい。大きく湾曲して長く延びて松本川の河口にまで達する白浜、海岸沿いに植えられた濃き緑の松並木、それに澄明な青い空と紺碧の海、まさに絶景の地である。夏ともなると、海水浴客で賑わうこの遠浅の海は、泳ぐことの大好きな惟芳にとっては、身体を鍛える格好の場であった。

 

 ―指月山の美しい樹木は絶対に伐ったり枯らしたりしてはいけない。またこの白砂青松の菊ヶ濱も子々孫々に伝えるべきである。城は無くなったが、萩の住民だけでなく、此の地を訪れる人たちにとっても、将来掛け替えのない憩いの場所となるだろう。美しい自然は人の心を和らげまた浄めてくれる。だから人は、自然の美しさを保たなければいけない。このような良い環境に恵まれ、俺はその意味では本当に幸せだ。

 

 惟芳は砂浜に立つと、この日もこうした思いに駆られるのであった。褌(ふんどし)一つになると、彼は先ず顔を濡らし、背の届くところまで海底の砂を蹴るようにして進んだ。温かくなったとは言え、まだ身が引き締まる水温である。背丈が届かなくなったので、そこから沖に向かって泳いだ。しばらく平泳ぎを続けた。指月山の裏側は、近づいてはじめてよく分かるのだが、かなり切り立った斜面が海面からそそり立ち、基底部の海に接する所にはごつごつした大小の岩石が凸凹として拡散している。彼はこうした情景が目に入る地点まで泳いできた。この辺りは潮の流れがあってさすがに冷たさが身に応える。海の色も深緑で黒ずんでおり、かなり深くなっていることが分かる。彼は引き返すことにした。間もなく沈む夕陽を背にして彼は岸に向かってゆっくりと泳いだ。日暮れ前、潮風に吹かれての散歩を楽しんでいるのか、小さな人影が遠く砂浜を歩いているのが見えた。渚にたどり着くと、彼は上半身の水をあらまし拭きとった。

 

 最近背が伸びて五尺七寸五分、目方も十八貫を超えた。日本人の大人の平均値より大分大きい。特に上半身は一段と逞しくなった。これも弓を引くためだと思うと、彼は嬉しくなった。濡れ手拭いを肩にかけ海の方を見ると、真っ赤な太陽が西の海に沈みかけていた。その帯状に伸びた金色の筋が何本も海上を走っている。その黄金の光の筋は、打ち寄せる小波(さざなみ)の動きにつれて、金箔を繋ぎ合わせたようにきらきらと輝いた。何たる美観か。西の空は茜(あかね)色に染まってきた。                                                                            

 家に帰り夕食を済ますと、惟芳は明日の授業の予習をしようと自分の部屋に入った。

 

 ―理系の学科は何とかなるが、英語は骨が折れる。頓(とん)野(の)先生の発音に比べて、新学期から代わった外人教師の発音は、流暢だとは思うがどうも聞き取りにくい。アメリカ英語だからだろうか。頓野先生と言えばいつも思い出すが、先生が「soilとは土壌という意味だ」と仰有ったとき、級友の一人が、「先生、どじょうとはこれですか?」と言って、両手を合わせて、くねくね動かせて見せたとき、始めは何のことだか分からなかったが、彼の意味するものが、泥鰌(どじょう)だと分かって、クラス全員が大笑いした。その時すかさず先生が、「土壌を泥鰌と間違えるとは、どうじようもないな。」と言われたので、教室内は割れんばかりの爆笑となった。たしかに先生の授業は厳しい面もあったが楽しかったなあ。

 

 彼は英語の教科書を机の上に置いて、中学校一年の時から教えてもらった頓野先生の事を思いだした。

 

 ―四年生のときに訳解に使ったのは、アメリカの小説家ホーソンの書いた『伝記物語』(バイオグラヒカル ストーリーズ)であった。

「これは向こうでは児童向けの本であるので、文章はそれほど難しくはないが、立派な文学作品である」と先生が批評されたが、俺にはすらすらと楽に読める文章ではなかった。

 

 こうしたことを思い出しながら、彼はランプの灯を少し明るくした。そして今習っている英語の教科書を開いたが、今度は壁に貼りつけていた賞状に目をやった。

 

 ―いよいよ俺も五年になった。終業式のときあの賞状をもらったな。

「右ハ一学年間伍長トシテ能ク其任務ヲ盡シタリ仍テ之ヲ賞ス」か。まあ大した任務でもなかったが、今学年も伍長を任命されたからしっかりやろう。

 

 それにしても今習うアーヴィングの『スケッチブック』はかなり難しい。それに外人教師のガフタフソンの発音は流暢で美しいが、日本語を全くしゃべらないから、これまでとは勝手が違う。予習をしっかりしておかないと大変なことになるぞ。毎年点が足りずに原級に止まる者が何人もいるというからな。まあ英語には精を出さないといけない。

 

 どうしたのか今日は日頃と違って、彼は教科書を開いたままであれこれと考えた。一つには最近薄々と感じていた家の経済状態が頭にあって、このまま学業を続ける事が出来るかと、一抹の不安を感じていたからである。しかし彼は思い直して、出来るだけ頑張ろうと心に誓い、小さな横文字に目を移した。

夜も次第に更け風が少し出て来た。海岸の松並木に吹きつける浜風は一段と強まり、潮騒を打ち消すほどである。そのとき奥座敷から思わず、烈しい人声が聞こえてきた。弟の尚春はすでに寝ている。人声と言えば両親以外にはない。何気なく耳を傾けると、果たして二人が言い争っているような声であった。

 「マサや、お前の言うことは儂にもよう分かっておる。しかまあ考えてもみい。折角当てにしておった橙が、去年今年と二年続けて凍(し)みたではないか。それに苗木の借金が年々嵩(かさ)んで、証文もこんなに溜まった。お前が言うようにご拝領の紋付きを売ったところで焼石に水じゃ」

 「そこを何とかなりませんでしょうか。惟芳も今はもう五年生になりました。萩中学校へ入学しましたとき、無理をしてでも卒業だけはさてやりたい、とお父様は言われたではありませんか。折角ここまでやってきましたのです。後一年、いいえ、十ヶ月辛抱したらよいのですから」

 「同じ事を繰り返すな。儂にも痛いほど分かっておる。しかし背に腹はかえられぬ。それに尚春のことも心配じゃ。あの子は脚が悪い。食べて行くには何か手に職をつけるか、専門的な技を身につけさせてやらねばならぬが、いきおい職は限定される。儂は歯医者にでもさせたらよかろうと思うが、それにはやはり金がかかる。

 

 あれこれ考えると、惟芳には申し訳ないが、学校を止めてもらう以外にはどうしょうもない。男は丈夫な身体と気力さえあれば、自分の道を切り開いて行ける。学校だけが学問が出来るところでもあるまい」

 「そのように言われますが、萩であの子が働くところがありますでしょうか?」

 「その点については、惟芳とじっくり話してみるつもりじゃ。何処か他所(よそ)で、働きながら学問が出来れば一番よいのじゃが」

 母の声はもう聞こえてこなかった。惟芳は襖越しに耳にした父の言葉を、ぐっと歯を食いしばって真剣に受け止めた。家の経済状態が逼迫(ひっぱく)していることは中学入学時から感じてはいたが、これほど深刻な状態に立ち至っているとは思ってもみなかった。迂闊(うかつ)だったと自らを責めた。

 

 ―確かにこれまで、爪に火を灯(とも)すような倹約生活ではあったが、これは貧乏士族ならどこも同じで、そう珍しいことではない。しかし父はもうすぐ還暦を迎える。それに弟はまだ小学生、それも低学年だ。父の言うように将来のことを考えてやらねばならない。こうなったら俺が働いて、弟の学資だけは何とかしてやろう。考えてみればこれまで十年近くの間、俺は好きなように勉強をさせてもらった。十八歳といえば昔なら元服を済ませ、一人前の男として独り立ちしなければならない年齢だ。確かにやる気がありさえしたら、勉強は何処ででも出来る。

 

 彼は一夜にして肚を決めた。気持ちが落ち着くと、予習を早めに済ませて床を延べた。

 

(三)

   翌朝いつもより早く起きると、寝間着を脱いで普段着に着替え、兵児帯をぐるっと巻き付け、下駄履きで裏の橙畑に出た。植えて十年以上にもなる成木が二十数本あるが、その他は背の低い苗木で、ざっと数えて百本はある。緑色の葉にしっとりと露が下りている。よく見ると、折角伸びた若葉が縮れて黄ばんでいる苗木がある。これは害虫が葉の養分を吸ったために生じたのである。更によく見ると、虫の食った跡がジグザグ模様の線を引いたようになっている。また冷害で凍(し)みたために、形だけは大きくなった黄色い実が、摘果されずにいくつか成木の上の方に数えられた。

 

 ―冷害だけは不可抗力で致し方ない。父が嘆かれるのも尤もだ。虫害は予防も可能だが、寒波の襲来は本当に困ったことだ。

 

 彼は昨晩の両親の真剣なやりとりを思い出した。

 

 五十年も前になるが、筆者が多少なりとも体験した橙の収穫時の模様を簡単に述べてみよう。夏橙(だいだい)または夏ミカンあるいは簡単にダイダイと呼ばれているこの柑橘は、実際は夏季ではなくて早い畑では四月の終わりには収穫され始める。我が家にも橙畑があったのでよく覚えているが、萩では、出荷用としてもぎ取った橙を、大きい粗目に編んだ竹籠に入れて国内の各地へ発送する。その場合籠の中に満遍なく藁または新聞紙を敷き、外から橙がなるべく見えないようにする。これは輸送するとき果実が傷むのを防ぐためでもある。大きい実の場合およそ八十個を、一つ一つ几帳面に並べて詰めると、やはり竹で編んだ円い蓋を被せ、縦に三本、横に二本、ちょうど米俵のように縄でしっかりと縛る。大きさも米俵を少しずんぐり円くした格好である。

 

 縄で縛るとき「牛の角」に似た道具を使う。この道具は、橙の木がしわくて堅くて折れにくいので、この枝の少し反(そ)ったのを二十五センチ位いの長さに切り、樹皮をすっかり剥(は)いで、その一方の先を細く削ると丁度牛の角のように見える。もう片方の先端近くに円い孔を開け、その孔に長い藁縄の片端を、抜けない長さだけ通して作業をするのである。竹籠の目の間に反った先をぐっと挿し通して引き抜くと、縄も一緒に出てくる。もし手だけでしようとしたら容易ではない。こうして数カ所縄を通して俵を縛って、縄がずれないようにする。実に重宝な道具である。長年の使用に耐え、白い木肌が艶々と光沢を帯びてくる。こうして出来た一籠の目方はおよそ三十キロ。ずっしりと重い。主として京阪神の市場や九州の炭坑、更に朝鮮や満州へ出荷されていた。 

 

 五月は収穫の最盛期である。この時期になると、五弁の小さな白い花が橙畑一面に咲き、武家屋敷跡からこの何とも言えない柑橘の良い薫りが漂い出て、萩の三角州全体を包む。代赭色の土塀や白壁の内側から、大きな黄色い橙の実が、枝も撓(たわ)わむほどにいくつも垂れ下がり、緑の艶やかな葉と相俟って、無数の真っ白い小さな花が芳香を放てば、目に美しく、鼻を刺激し、触ってみたい、食べてみたいと言った気持ちに誘われるのも当然である。

 

 今でこそ夏ミカンは酸っぱいと言って敬遠されるが、戦中戦後食べるものが無くなったとき、萩の市民に取っては容易く手に入る有難い果物であった。筆者など大きく橙色に輝く成熟したやつを、一度に三つも四つも食べたものである。当時は貴重なビタミンCの供給源という意識はなかった。仕事で一汗かいたり遊び回った後、これほど美味い果物は他には無かったように思う。

 

 「山口県外への苗の移出は、明治十三年には愛媛県和歌山県へ、十七年には静岡県へそれぞれ初めて行われ、各地で栽培が普及した」と『萩市史』(萩市発行)に載っている事からも分かるように、当時から萩と言えば夏橙と結びつけて考えられていた。しかし三・四年に一度の割で寒波が襲来すると、寒冷被害が生じ、果実が凍(し)みて苦(にが)くなる。そうなると折角丹誠こめて育てた橙は一文の値打ちもなくなる。

 

 惟芳は夜来の雨に濡れた雑草を踏みながら橙畑の中を通り抜けると、屋敷を取り囲む土塀の裏木戸から外に出た。もうそこは砂浜の海岸で松並木が左右に広がっている。一本の大きな松の根本に下駄を脱ぐと、波がひたひたと打ち寄せるところまで行き、立ち止まって東の方へ眼を向けた。

 

 東雲(しののめ)の空は夜明けとともに次第に明るさを増し、遠くに連なる田(た)床山(とこやま)、唐人山(とうじんやま)、小畑(おばた)富士といった山々が、その稜線をくっきりと見せ始めた。目を海の方へ移すと、海面は湯気が立っているかのように、ほの白く煙って見えた。波はほとんど無く、実に静かな朝景色である。昨夜の風はうそのように収まっている。相島、羽島など沖合に点在する島々も、まだ眠りから覚めずに横たわっている。海上はるか遠くにある見島はもちろん朝靄で見えない。ゆっくり寄せては返す小波(さざなみ)がたてる音は、こうした朝の静寂を破るものでは決してない。沖に白帆が幾つか浮かんでいる。

 ― 春の海 ひねもす のたり のたりかな 

長閑(のどか)ないい歌だな。蕪村はこのような情景を詠んだのだろう。

 

 腕組みをして朝の風景に見とれ、ふとこのような思いに駆られていると、彼の目の前で魚が、それはおそらく鯔(ぼら)であろう、水中から飛び跳ねて、海面に波紋を作った。波紋は次第に広がって彼が立っている水際まで来たかと思うと、寄せ来る波に消された。小魚の跳躍があちらこちらの海面で演出されているのに彼はそれまで気がつかなかった。しかしこうした小事(さじ)を除けば海は鏡のように平静を保っていた。

 

 彼は、昨年出版されて世に出るや、その名文で一躍名を博した、蘆花の『自然と人生』の一節を思い出した。

 「心あらん人に見せたきは此頃の富士の曙。

 午前六時過、試みに逗子の濱に立って望め。眼前には水蒸気渦巻く相模湾を見む。

 灘の果てには、水辺線に沿ふてほの闇き藍色を見む。

 若しその北端に同じ藍色の富士を見ずは、諸君恐らく足柄、箱根、伊豆の連山の

 その藍色一抹の中に潜むを知らざる可し。海も山も未だ眠れるなり」

 

 惟芳が今立っている菊ヶ濱での眺望は、蘆花の描写に決して引けを取らないものだと思った。彼は海に向かって大きく両足を踏ん張り、両腕を伸ばして胸一杯深呼吸を数回繰り返した。こうして朝の清々しい大気を胸一杯に吸い込むと、踵を返して我が家に向かった。母は昨夜の風で落ちた松の小枝を拾ってきて、七輪にくべて火を起こしていた。

 「朝早くから何処へ行ったのかね?」

 「ちょっと海を見てきました。今朝の海は穏やかでした」

 これだけの言葉を残して、彼は奥座敷の方へと足を運んだ。座敷の襖が閉まっていたので一旦座って開け、床の間を背にして座っていた父に向かって敷居の前で両手をついて軽く会釈をした。

 「一寸お話したいことがありますが、宜しゅうございますか?」

 父が是認の態度を示したので、横向きになって襖を閉め、再び向き直ると父のそばへ近づいていった。いつも早く起きる習慣の父尚一は、やや大きな桐の木を刳(く)り抜いて、内側に銅板を張って作った火鉢を傍らにして坐っていた。父は肥(こえ)松(まつ)の一枚板で作った応接台の上に置かれた薄い和綴じの本に目を向けていた。

尚一は最近白髪が目立つようになってきた。しかし確かに年をとったが、背筋をしゃきっと伸ばし、ゆったりと構えており、まだそれほど衰えを見せてはいなかった。だが、こうして近づいてよく見れば、老けたという感じはいなめない。惟芳は今から父に話す事に自信を持った。父の正面に正坐し、両手をついて朝の挨拶を終えると、昨夜寝る前に心に決めた事を静かに話し始めた。

 「父上、昨夜母上とお話しになっていたことを、失礼とは思いましたがお聞きしました。家の経済状態がそれほどだとは知りませんでした。申し訳ありません。私はもう十八歳になりました。明倫小学校入学以来、今年で早くも十一年になります。小学校を出ただけの同級生の多くは、すでに一人前に働いています。それなのに私は中学校へ迄行かせていただき、有難く思っています」

 ここまで一気に、しかし落ち着いて言った。一息入れると彼は続けた。

 「学問はやる気さえあれば何処ででも出来ます。父上もそのように仰有いました。私も全く同感です。来春無事に中学校を卒業しましても、今の時勢では非常に就職が困難だと聞いています。その上、上級学校への進学なんか全く考えてもいません。従いまして、少しでも早く実社会に出て、働きながら勉強した方が良いと思います」

 

 彼は考えていたことを、ゆっくりではあるが真剣に口にした。父の尚一は右肘を火鉢の縁に乗せたまま、前より一層上半身を右に傾けて、半眼の面持ちで息子の言葉に耳を傾けた。

 「それに尚春のことも心配です。あの子はまだ小学四年生です。将来自分に叶った職を見つけてくれたら良いのですが、まだまだこれから当分勉強を続けなければいけません。まだ先の話ですが、お考えのとおり歯科医が向いておるかも知れません。あれでなかなか器用ですから」

 尚一は黙って息子の話を聴いていた。

 「学資は私が働いて何とか出してやりたいと思います。しかし働くにしましても、この萩の町ではとても無理です。少し前ですが学校の掲示板に、長崎の三菱造船所が製図工を募集していると出ていました。教育設備も整っているそうですから、応募したいと思います。学校の推薦状も頂けるはずです」

彼は更に言葉を継いで次のように言った。

 「長崎造船所の初代の所長は渡辺蒿蔵といって、松陰先生の最後の弟子です。この方はイギリスとアメリカで造船技術を学ばれたようです。長崎造船所は当初は官営でしたが、その後民営に移管されました。移管後早々に渡辺さんは民営の下では働かないと言って退所され、現在萩に帰られて、悠々自適の生活を送っておられるようです」

 惟芳は学校で耳にしていたことを父に話した。

 「こうした関係かもしれません、萩中学校に所員の募集が特別にあります。一般からの公募はされないようです。私は海が大好きですから、海に関係した仕事に就けたら幸いです。どうかお許し下さい」

 惟芳は落ち着いて以上の事を述べると父の返事を待った。尚一は腕組みをしたまま、半ば目を閉じて、息子の話を黙って聴いていた。彼は妻とのやりとりを息子に聞かれて、内心多少気恥ずかしかったのかも知れない。聴き終わるとおもむろに口を開いた。

 「惟芳、お前の気持ちはよう分かった。前々から話そうと思うておったが、お前が毎日喜んで通学するのを見るにつけ、一日延ばしにしてきた。今お前の方からそう言うてくれて安堵した。しかし心底済まんと思うておる。今お前の話を聞いて、就職の事が一番気がかりじゃったが、一応安心した。こうなったら人事を尽くして天命を待つのみと儂は考える。どうか辛抱してやってくれ」

高ぶった気持ちを抑えながら尚一はここまで言うと、息子の顔にじっと目を注いだ。以心伝心もうそれ以上の会話は必要ない。惟芳は軽く会釈すると、部屋に入ったときと同じように、座ったままで襖を開け外へ出ようとしたとき、父が一言付け加えるように言った。

 「中途退学の手続きをきちんとしておくように。それからお世話になった先生方への挨拶だけは忘れるな」

 「はい」

 彼は爽やかな気分になって、朝の陽光(ひ)が障子に当たって明るい座敷を出た。

 

 

(四)

 朝食を済ますと惟芳は自分の部屋に入り、教科書と英語の辞書、さらに洋筆と墨ツボを風呂敷に包んで、日頃より少し早めに家を出た。校門を入ると自分の教室へは行かずに、真っ直ぐに進み、玄関前の石畳から一段高くなっている本館の床を踏んだ。分厚い松板の張られた床は木目が鮮やかに見えるほどまだ新しくて美しい。この床に上がると直ぐ右側に職員室の出入り口がある。そこには上半分がガラス張りで、下半分には杉の羽目板の重い引き戸がある。彼はこの戸を静かに開けた。日頃はあまり大声を出さないが、この時は大きい声で言った。

 「第五学年 緒方惟芳、安藤先生に用があってまいりました。入ってもよろしゅうございますか?」

 「宜(よ)し、入れ」 

 大柄の惟芳が安藤先生の席の方へ進むと、居合わせた他の先生たちが、始業前早くから一体何事かといぶかるように、一斉に彼の方へ眼を向けた。

担任の安藤先生は書記を兼ねていた。先生は明倫小学校の校長を勤めていたが、国語漢文の実力を買われて萩中学校の教師になっていたのである。

 

 惟芳が家庭の都合で中途退学を希望する旨を伝え、あらかじめ用意してきた退学願を提出すると、眼鏡越しに先生は惟芳の顔をじっと見た。彼の真剣な様子から、立ち入ってその訳をあえて聞き出すのはよすべきであると思ったのであろう。先生は「そうか」と一言言っただけで、書類を受け取った。そのころ家庭の事情で、やむを得ず退学する生徒が増えていることが念頭にあったからでもある。

 「放課後校長から退学聞き届けの書類を渡してもらうから、そのつもりで今日は最後まで授業をきちんと受けたまえ」

 先生は幾分残念な面持ちで、彼が出した退学願を傍らの木箱の中へ入れた。

 

 今日が最後の授業だと思うと、惟芳は心なし淋しくもあり緊張もした。午前中の授業は無事に終った。午後の最初は、担任の安藤紀一先生の国漢の授業である。先生の名調子の講義はいつ聴いても素晴らしい。今日はそれを聴く最後だと思うと、人知れず真剣にならざるをえなかった。

 

 「冊子を披繙(ひはん)すれば、嘉(か)言(げん)林の如く躍々(やくやく)として人に迫る。顧(おも)ふに人読まず。即ち読むとも行わず。苟(まこと)に読みて之を行はば、即ち千萬世と雖(いえど)も得て盡すべからず。噫(ああ)、復た何をか言はむ。・・・・」

  

 安藤先生は吉田松陰の『士規七則』の冒頭の文を朗々と唱えると、第一則を黒板に書いた。先生の書かれる字は、顔(がん)真(しん)卿(けい)流の見事な楷書で、一点一画をもゆるがせにしない美しい字である、と惟芳は今日も思うのであった。

 

 一、凡生為人宜知人所以異於禽獣

   蓋人有五倫而君臣父子為最大

   故人之所以為人忠孝為本

 (およそ生まれて人たらば、よろしく人の禽獣に異なる所以(ゆえん)を知るべし。けだし人には五

  倫あり、而して君臣父子を最も大なりとなす。故に人の人たる所以は忠孝を本となす)

 

 第二則に続いて先生が書いて説明された第三則と第四則は、惟芳には特に肝に銘じた。彼は自分に武士の血が流れている事を意識した。

 

 一、士道莫大於義 義因勇行勇因義長

    (士の道は義より大なるはなし。義は勇に因(よ)りて行われ、勇は義に因りて長ず) 

 

 一、士行以質實不欺為要 以巧詐文過為恥 光明正大皆由是出

    (士の行いは質実欺(あざむ)かざる以て要と為し、巧詐過(こうさあやまち)を文(かざ)る以て恥と為す。公明正大皆是より出ず)

 

 安藤先生は続けて第五則を黒板に大書して、その言葉を生徒たちに向かって読んだ。

 「一つ、人、古今に通ぜず、聖賢を師とせずんば、即ち鄙夫(ひっぷ)のみ。読書(どくしょ)尚(しょう)友(ゆう)は君子の事なり」

 

 惟芳は先生の説明を聞いて、松陰の言葉は含蓄のある立派なものだと思った。彼は黒板の字を一生懸命に書き写した。安藤先生がまとめとして言われた言葉も、これが最後かと思うと、脳裡に刻み込むかのように真剣に傾聴した。

 「この『士規七則』は安政二年の春、松陰先生が野山獄中から、従弟の玉木彦介の満十五歳の元服加冠の祝に作って贈られたものである。孔子の『十有五にして学に志す』という言葉は、『論語』にあってよく知られている。この他に、『今日よりは幼心(おさなごころ)を打ち捨てて、人と成りにし道を踏めかし』、と決意を述べた時、橋本左内は弱冠十四歳だった。諸生(しょせい)は皆すでに十五歳を過ぎておる。松陰先生は、この『士規七則』で志士としての道を説かれたが、私は志士に限らず、広く人間としての歩むべき道を教えられたと思う。諸生ら拳(けん)拳(けん)服(ふく)膺(よう)してもらいたい」

 

 諄々と諭すような安藤先生の講義は、今までにないほど惟芳の心を打つものがあった。

惟芳は、雨谷校長には報告かたがたお礼を言うつもりでいたので、放課後すぐに校長室のドアをノックした。

 「どうぞ」

落ち着いた声が中から聞こえてきた。彼はドアを開けると校長に向かって一礼し、校長の顔を直視して、気持ちを落ち着けて言った。

 「第五学年 緒方惟芳、この度家庭の事情で退学することになりました。校長先生には大変お世話になりました」

 「まあ入りたまえ」

 校長は部屋にある椅子の一つに座るようにと言って、多分専門書であろう読みかけの分厚い洋書を閉じて傍らに置き、テーブル越しに惟芳の顔をじっと見た。

校長は白いハイカラーをつけ、黒の蝶ネクタイを結んでいた。黒地の背広を着ていて、実際の年齢よりかなり老けて見えた。とても三十歳を過ぎたばかりとは思えなかった。

 

 真一文字に結んだ口、鼻の下に蓄えられた黒い八の字の口髭、二重まぶたの中の大きな目。目は心の窓と言われるが、優しさと誠実さが感じられた。眉は太く、額は秀でている。頭髪はかなり薄い。顔全体は大きくてやや浅黒い。しかし生気に満ちている。惟芳はこうして間近に見ると、校長の偉容が迫ってくるように感じた。

 校長はおもむろに口を開くと、ゆっくり落ち着いた声で話し出した。

 「家庭の事情だそうだが残念だな。君が昨年の修身の時間、熱心に聞いていたのをよく覚えている。それから終業式に賞状を手渡したな。一年間、伍長としてご苦労だった。家の都合による退学だから致し方ないが、君の人生はこれからだ。少し話そう」

 校長は惟芳が家の都合で中退することが余程残念に思えたのであろう、重ねてその事に言及した。そして校長室に掲げてある扁額を指さして次のように言った。

 

 「あの額の言葉が分かるかね?『自彊(じきょう)不息(やまず)』と書いてある。君は弓道を学んでいるからちょうど良い。説明しよう。「彊」とは強い弓と言う意味だ。それから「強くする」さらに「努める」という意味にもなっている。「息」は「休息」の 「息」だね。従って全体の意味は、「自らつとめて一刻も休まない」と言う意味だ。そこで君に忘れないでいて欲しいのは、学問というものはむしろ学校を出てからが大事だ。時間的にもその方がずっと長い。また志を立てるには早ければ早いほど良い。そうだろう、緒方君。ところで中退した後のことを考えているだろうね」

  

 惟芳は校長が父と同じことを考えておられるなと咄嗟に思った。

 「はい、長崎造船所で働きながら勉強出来たらと思っております」

 「なるほど、それはよかろう。君の成績なら大丈夫だ。本校にも公募の通知がきていたから。毎年数人の者が採用されている。しかしすぐ止める者もいる。それほど仕事がきついと聞いている。働きながら学ぶ事は容易ではない。ところで当分の間、弓の稽古が出来なくなるのが残念だな。またいつかその機会は来るとは思うが」

 こう言って校長は、昨日弓道の稽古を終えて帰る惟芳に会った事を思い出したのか、次のような言葉をつけ加えた。

 「ついでにもう少し話そう。我が国では、武道と芸道いずれの場合も、道と名の付くものは先ず第一に人格の向上を目指しておる。『中庸』という書物にも、「射は君子に似たり」とあるように、弓道も単に技術を高めるのではない。技術だけを目的とした者は、年を取り体力が劣えると、老いのみが目立ってくる。しかし人格の向上を目指した人は、たとえ老齢に達しても自ら品格が備わっていて、老醜は全く感じられない。この点が大事だ。学問も同じだね。単なる物知りではいけない。学問をして人間が悪くなる、つまり悪賢くなるのだったら、勉強なんかしない方がまだましだ。緒方君、そう思うだろう」

 校長はここまで話すと少し間をおいて、最後にこう付けくわえた。

 「それではくれぐれも躰に気をつけて頑張りたまえ。帰省したら学校に顔を出したまえ。ご両親に宜しく伝えてくれたまえ」

 話し終わると校長は、山口県立萩中学校と印刷してある証書を惟芳に手渡した。それには墨痕鮮やかに、立派な字で次のように書いてあった。

 

  第四三六号

      第五学年生徒 緒方惟芳

  本日付願家事ノ都合ニヨリ退学ノ

  件聞届

      明治三十四年五月廿八日

               山口県立萩中学校 印

 

 昨年までは山口県萩中学校であったが、この四月から山口県立萩中学校と改称されたので、その大きな印が押してあった。惟芳はこれを受け取ると、校長の言葉を噛みしめながら校長室を出た。

 

 勉強道具を取りに教室へ戻ったとき、菊屋孫輔が声をかけてきた。彼は明倫小学校の時からの友達である。菊屋家は萩でも指折りの素封家である。

 「えらい真面目な顔をしちょるが一体どうしたのか?」

 「いや、ちょっと校長室へ行って来たのだ」

 「何か問題でもあったのか?」

 孫輔が心配顔で訊ねるので、惟芳は別に隠す必要もないから、ありのままに事情をかいつまんで話した。

 「何(なに)ィ! 五年のいま中退する。冗談じゃないよ。後一年足らずで俺たちは卒業だぞ。もうちょっとの辛抱じゃないか。よし、おれが家に帰って親父に頼んでみよう。これまでの努力が水泡に帰すよ。九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠いてたまるか。窮すれば通ずるということもある」

格言めいた言葉を連発して翻意を促す孫輔の、親身になって友達を思う気持ちは確かに有難かったが、惟芳の心はもう決して揺らぐことはなかった。彼はきっぱりと断った。 

中退した後長崎へ行って働きたいという言葉を聞いた時、孫輔は惟芳の決意のほどを確信した。 

 「そうか。そこまで決心をしているのなら、要らんことはすまい。男子志を立てて郷関を出ず。人間至るところ青山ありだ。会者定離とは確かに真理だな。まさかお前とこんなに突然別れなければならないとは夢にも思わなかった。しかし決して無理をするなよ。命あっての物種だからな。帰ったときには是非会おう。それでは元気でな」

 二人は固い握手を交わして別れた。

 

 教室の外に出て図書館が見えるところまで、彼はゆっくりと足を運んだ。この図書館は昨年設置開館したばかりの阿武郡立萩図書館である。さらに言えば県内最初の公立図書館であり、また我が国最初の郡立図書館でもある。

 「ここで静かに本を読むことはもう二度とあるまい」と思うと、右手の松や樟や楓などの立木の植え込みのある植物園の奥に見える図書館が、これまで以上に懐かしく感じられた。また図書館の右片側にある弓道の垜(あずち)、そこで正味四年間熱心に稽古した弓道や部員の事が頭を過(よぎ)り、今こうして立ち去る事は何とも言えない悲痛な思いであった。しかし惟芳はそれらの事を未練がましく思うまいと考え直した。

校門のところまで来ると、いつものように向きを変え、正面の本館の方に向かって深々と頭を下げた。そして後ろ髪を引かれる思いはあったが学舎(まなびや)を後にした。

  

(五)

 帰宅して自分の部屋に座ったとき、肩の荷を下ろしたようでホッとした。と同時に、何だか心淋しくも思った。しかしこれからが大変だとすぐに気持ちを切り替えた。

 彼は雨谷校長が着任されて間もなく、全校生徒に配布された『生徒心得』を取り出した。これからの生活の指針になるものがあるだろうと思って読み直してみた。

 

 一、質素ヲ守リ艱難ニ耐エ努メテ奢侈(しゃし)ノ風ヲ避クヘシ

 一、言行ヲ慎ミ学業ヲ励ミ智徳ヲ淬(さい)励(れい)スヘシ

 一、信義ヲ重シ廉恥(れんち)ヲ貴ヒ苟(いやしく)モ軽佻浮薄ノ風アルヘカラス

 一、摂生ニ注意シ身体ノ健全ヲ図ルヘシ

 

 惟芳はこの『心得』の中にある「淬」について、安藤先生が「淬とは、刀をきたえるとき、鉄を焼いてさっと水に入れること。転じて、気を引き締めて励む」意味だと言われたのを思い出して、これからは学業と知徳の「淬励」を忘れない様にしようと心に誓った。またこのような文章を書かれた校長である。短い期間だったが、立派な校長に会えた事を一つの天恵だと思った。

 

 出立前の準備といっても、大したことはしなかった。履歴書を書き、成績証明書をもらってきた。また就職先で生活するのに最低必要程度の持ち物を揃えた。それでも三日ばかりかかった。父の尚一は、惟芳と話したあの時から覚悟を決めたのか、いつもと変わらない様子で、座敷で煙草を燻(くゆ)らせながら、書見をしたり、好きな棋譜を見ながら、碁盤の上で烏鷺(うろ)の争いを一人で楽しんでいた。

 

 一方母親のマサは、息子の気持ちになってみると、さぞかし残念であろうと思うのか、ここ一両日は家事に手が付かない様子であった。しかし惟芳が中途退学することを全く意に介していないように振る舞っているのを見て、気を取り直し、目前に迫った息子の門出を心から祝ってやろうと思うようになった。

 

 惟芳は、これから当分の間家を離れる、場合によったら盆にも帰省出来ないかもしれない。そうなったら両親はともかくとして、小学生の弟にどれだけ淋しい思いをさせるかと思うと不憫(ふびん)に感じたので、これまでよくしてやったように、尚春を肩車に乗せて砂浜へ向かった。

 

 眼前に広がる日本海は波静かで穏やかな様相を呈していた。一本の大きな松の根元で弟を肩から下ろし、そこで下駄を脱ぐと彼は波打ち際まで歩いた。尚春は砂の中に埋もれた松葉が素足を刺激するのか、「痛い、痛い」と言いながらも、兄の側を離れようとはしない。

 

 波打ち際に沿って平たく長く延びた砂地は、寄せ来る波が引くと、左官が壁にコテを当てて上手に壁土を塗るように、見る間に真っ平らに綺麗になる。規模が大きいので、あたかも姿を隠した優れた左官が、巨大なコテを持って仕上げの作業をしているかのようである。

 

 また打ち寄せた波が引くと、手足が透き通るような小さな蟹が砂穴を這い出して、足早にその綺麗になったばかりの砂の上を走る。何匹も走り回る。次の波がやって来ると、彼等はそそくさと自分の穴へ駆け込む。中には間に合わずに、波にさらわれてひっくり返り手足をばたつかせるのもいる。

 

 少し離れたところでは、名も知らない二羽の小鳥が、細い脚を小波が洗うにまかせていた。それも束の間、この白い身体に黒い羽の小鳥たちは、これらの蟹を啄(ついば)もうとして砂上に松葉の跡を付けながら小走りに駆けて行った。しかしこの足跡も打ち寄せては返す波にすぐかき消されてしまう。これまで雄大で落ち着いた大自然にのみ眼を向けていた惟芳は、今目の前に展開した自然の小さな営みにも、不思議と心を和(なご)まされるのであった。

 

 弟を促して水際からわずかに海の中へと、膝が水に浸かる所まで進んでいった。そこから先へは進めない。そこは波の反転作用で砂が抉(えぐ)られていてちょっと深みになっている。その場所は「ドカ淵」と呼ばれている。ドカッと深く淵のようになっているからだろう。

 

 足の裏に神経を集中させて、足の指先で砂の中をまさぐると、固くて円い感触が伝わる。海中に手を伸ばしてそれを拾い上げると、意外にも大きな蛤(はまぐり)だと分かる。こうして岸辺に沿って進うちに、弟の尚春が取ったのを加えて、両手一杯の収穫があった。惟芳はこうして初夏の一時を弟と過ごし、彼を喜ばすことが出来たことを自らの喜びとした。

 

 いよいよ出立前の晩となった。惟芳は自分の部屋で瞑目して腕を組み、考えるともなく静かに座っていると、奥の座敷から父の呼ぶ声が聞こえてきた。返事をして立ち上がり、座敷へ向かった。父はいつものように床柱を背にした位置に座って居た。父の背後の床には「青山自青山 白雲自白雲」という禅語めいた言葉を縦二行に書いた掛け軸が懸かっていた。惟芳はその意味がはっきりとは分からないので以前父に問うたことがある。その時父は、

 「青山は青山ですべて、白雲は白雲ですべてであって、他のなにものでもない。一人の人間は一人の人間として全(まった)ければ、それが真如、その人の実際であり全人格の現れである」といったように答えたが、まだ彼には真意が十分には呑みこめなかった。しかし彼はこの言葉が何となく好きである。床に向かって右側の長押(なげし)には、弓と槍が架けてある。祖先の誰かか、それとも父が若い時、戊辰戦争の戦場で用いたものであろう。惟芳が自分の前に座ると尚一は語り始めた。

 「さて、とうとう長崎行きも明日になったな。その前に話しておきたい事がある。實は少し前から考えていた事なのじゃが、お前も知っての通り、儂は来年春には還暦を迎える。そろそろ隠居して家督をお前に譲らねばと思うておる。お前は十八になったばかりじゃから、あと二年先のことになる。儂はそれほど達者ではない。いつどうなるか分かりはしない。お前が長崎へ行けば、当分お前には会えないので、この家督相続のことは覚悟しておってくれ。

 それにもう一つ、緒方家のことを話しておきたいのじゃ。ここに『緒方一族』と書いた書き物がある」

 

 尚一は机の上に置いてあった茶色の表紙で、白い絹糸で綴じた薄い冊子を開いて、次のように言った。                                                                

 「お前には初めて見せるが、これによると、緒方家はすべて豊後の国に起こり、鎮西に広く繁茂する一族である。後に鎌倉時代のころから諸国に伝播しておる。お前も知っておるじゃろうが、大坂で適塾を開いた緒方洪庵も、もとはと言えば皆同じ出じゃ。緒方家には惟の付いた名前の人が多いようじゃな。毛利家の家臣にも、緒方十郎左衛門惟貞という小笠原流礼式者がおられ、代々その役を継いでおられる。

 

 我が家の元祖は、緒方飛騨守といって天文年中、石州益田城主の家来で、一千六百石の領地を持っておった。儂は元祖から数えて十三代目になる。明治になって身分制度は廃止されたが、武家の血を引く者として忘れてならぬは、矜持と克己の精神じゃと儂は思う。言っておきたかったのはこの二つじゃ。長崎へ行ったら身体には気をつけ、時には便りをよこせ。十分とは言えないが、これは路銀じゃ」

 

 こう言って尚一は小さな包みを手渡した。惟芳は両手でそれを受け取り自分の部屋へ戻った。かれは自分が緒方家の十四代目であること、そして惟という字が緒方一族と関係があるという事を知って、大きな支えを得たように感じた。

 

 彼は父に呼ばれる前と同じように座って瞑目した。しばらくして今度は母の声が襖の外から聞こえた。

 「ちょっとお邪魔してもええかね」

 母のマサは入って来るなり彼の机の側に座った。彼女は尚一の後添(のちぞえ)で、夫とは十四歳も年齢の開きがある。二十六歳のとき嫁ぎ、二人の男の子の母となった。今はもう五十歳に近い中老に達している。尚一はやや大柄だが、彼女は普通の背格好である。物腰や言葉遣いは至って穏やかである。 

 「惟芳、本当に済まないね。母として何一つしてあげられず申し訳ないことです。さぞかしあんたは残念でしょう。もう後一年足らずで卒業だから。上級学校への進学は無理としても、当たり前に卒業したら、就職の条件はきっと良いはずと思うがの」

 「ご心配をかけますが大丈夫ですよ。長崎の造船所は学校とはちょっとした繋がりもありますから、就職したら勉強も出来ると思います」

 「そうかね。校長先生によくお頼みしなさいよ。このようなご時世になったので、お父様はあの通り、武士は食わねど高楊枝(ようじ)と言って、もう何もなさろうとはしない。もういいお年齢(とし)だから無理もないがね。菊屋さんたち皆さんは上級学校へ行かれるのじゃろう。どうか堪(こら)えておくれ」

こう言って母は息子の前に頭を下げた。

 

 彼は母にこのような心痛な思いをさせたことを心苦しく感じた。しかし自分は若いし健康にも恵まれている。心配しないで欲しい。それよりも留守の間身体に気をつけるようにと言って母を慰めた。

 

 出立の朝いつもより早く起きると、彼は神棚の榊の水を替え、灯明をつけ柏手を拍って礼拝した。続いて今度は仏壇の供花の水を替え、香を焚き静かに手を合わすと、『修証義』の一部を誦(とな)えた。前途は未だ不明、予期しない事が出来(しゅったい)するかも分からないが、気持ちは案外落ち着いていた。朝食をすますと、母は大きな「むすび」を竹の皮に包み、昼の弁当だと言って手渡してくれた。温もりのあるその包みに、母の慈愛の念(おもい)が伝わってくるようであった。彼は胸に迫るものがあったが努めて笑顔を見せた。

 

 戸外に出ると、東の空がほの白く明け始めていた。吐く息がはっきり見える。まだこの辺り武家屋敷は、寂(せき)として寝静まっていた。山口まで八里の道を行くには、徒歩によるのが普通で、乗り物といえば馬車以外にない。惟芳にとっては歩いて行くのが当然である。従って朝早い出発となった。彼は懇(ねんご)ろに父と母に別れを告げた。眠い目を擦りながら起きてきた弟も、今になって兄との別れが分かったのか、幾分淋しそうな顔をしている。彼は声を掛けてやった。

 「尚春、お父さんとお母さんの言われることをよく聞くんだよ。できたらお盆には帰ってくるからな。それまでにもっと大きくなっておれよ」

 門前に佇む親子三人は、手を振りながら別れを惜しんだ。朝靄の中を桜江渡し船で対岸に着くと、歴代藩主の墓がある大照院の前を通って大屋の観音橋に差しかかった。ここは萩の最後の集落である。豆腐屋など数軒を除いてまだ殆どの家は起き出してはいない。かつてはこの街道を往き来した参勤交代も今は止み、往年の繁華な面影はなくなっている。街筋を過ぎると坂道があり、そこを上りきるとわずかに勾配のある細道が続く。道の右下にかなり開けた土地が見える。

 

 以前そこは梅林で梅屋敷があった。嘉永年間に、萩の豪商がこの地を開墾して梅を植えたと伝えられている。しかし今は橙が一面に栽培されている。青い葉と小さな白い五弁の花、それに摘み取られずに残っている大きな黄金色の実。これら三色が合いマッチして歩行者の目を楽しませてくれる。その上その橘花の放つ薫りが辺り一面に漂っている。萩の町をこの時期に訪れる者は真っ先に此の良き薫に迎えられる。

惟芳は梅が好きであるが、橘の香りも捨てたものではない、と故郷を初めて去りゆくにあたり改めて実感した。

 

 ―梅林変じて橙畑になる。風流だけでは食べてはいけないからだろう。我が家でもそうだった。これも時代の流れか。

 

 彼は橙畑を見下ろしながら道を急いだ。少し行くと鬱蒼とした孟宗竹が道の際(きわ)まで生えていた。道の左側には山が迫(せ)り出している。その山の麓に樹齢二百年を優に越える大きな松が、十数本空高く聳えている。吉田松陰が最後に江戸へ護送されたとき、故郷を振り返って詠んだ歌はあまりにも有名である。

 ―先生は自分がまさか江戸で処刑されるとは思われなかっただろう。先生は東へ向かい二度と故郷の土を踏まれなかった。おれは西に行く、しかしおれは帰るぞ。少しはましな男になって。

 

 彼もまた今来た道をふり返った。遥かかなたに日本海とその全面に萩の町が朝靄の中に霞んで見えた。彼は「涙松の歌」を口ずさんだ。

 

  帰らじと 思ひさだめし旅なれば ひとしほぬるる 涙松かな

 

 惟芳は弓道を始めて、それまでとは違い、何を読んでも弓矢に関することが目につくようになった。今この松陰の歌を口ずさみながら、ふと楠(くすのき)正行(まさつら)の辞世の歌を思い出した。

 

 帰らじと かねて思ひし梓(あずさ)弓(ゆみ) 亡き数(かず)に入る名をぞとどむる

 

 ―松陰先生は正行のこの歌を念頭において、涙松の歌を詠われたのではなかろうか。それにしても二人ともあの若さで死を覚悟し、従容として死出の旅路についた。その上このような人口に膾炙(かいしゃ)されるほどの歌を遺すとは、實に見上げたものだ。

惟芳はこのようなことを考えながら、清新な朝の大気の中、緩やかな坂道を黙々と登っていった。しばらく行くと道の両側に、杉木立が並ぶ薄暗い所に差しかかった。木漏れ日がかすかに射している。ここは江戸時代に刑場のあった場所で、放火や近親者殺害、あるいは贋金造りといった重罪人を処刑したところである。

 

 すぐ近くに石の地蔵が立っている。処刑された人たちの霊を弔うためであろう。またここは、宝暦九年(1759)に、栗山孝庵とうい藩医が、日本で最初に女の死体を解剖した所でもある。 

 

 ―医を志す者として、病の原因を突き止めるには、人の躯を切り開いて見たいという思いに駆られるのは、至極当然のことであろう。しかしこうした考えを実行に移す、しかもだれよりも先に手掛けるには、余程の勇気、それに準備がいったであろう。

 人の命を助け、その痛みを和らげることに努力を惜しまないのが、真の医者たるものの取るべき態度である。こうした行為こそ何にも増して尊いものである。だからこそ、そのような医者は世人の尊敬を受けるのである。

 

 彼は今初めてこんなことを考えた。しかし医の道を天職とする考えは、まだこの時の惟芳には思い浮かばない事であった。昼なお暗い刑場跡は、やはり余り気持ちの良い場所ではなかった。深閑とした杉木立に人気は全くない。彼は急ぎ足でその場を通り過ぎると少し明るい所に出た。いよいよ萩ともお別れだ。親元を離れ故郷を後にすると思うと感無量になった。 

 

 男子志を立てて郷関を出ず

 学若し成るなくんば死すとも還えらず

   骨を埋む 豈墳墓の地のみならんや

 人間到る処青山あり

 

 彼は自らを鼓舞するかのように、幕末の詩僧、釈月性の漢詩を大きい声で吟じながら一路山口へと道を急いだ。

杏林の坂道 第二章「長崎散見」

杏林の坂道 第二章「長崎散見」
 
(一)

  山陽鉄道の神戸と馬関(現在の下関市)間が全通したのは、明治三十四年(1901)五月二十七日である。これに伴って徳山(現在の周南市)門司間の航路は廃止され、新たに下関・門司間の航路が開業した。さらに翌年の六月一日に、馬関駅は下関駅と改称した。この全線開通は、惟芳が萩中学校を中途退学した前日である。九州鉄道も、明治三十四年四月十五日の時刻改正で、門司・長崎間の直通列車は、九時間四十分で運転されるようになった。惟芳の乗った列車は、六月十日午後六時十分、時刻表通りに長崎駅に到着した。
 
 今こうして、遠く故郷を離れて西海の地に降り立った彼は、前途に明るい希望を抱きながらも、やはり一抹の不安を隠しきれないでいた。あの日両親の苦衷を察して、自ら退学を決意したことへの後悔の念は露ほどもないが、全く異なる境遇に身を置き、しかも学業半ば、即ち正規の中学校卒としての資格無き者として、気構えだけでこれからやっていけるだろうかと、いささか不安であった。

 長崎駅舎の雑踏の中に一歩足を踏み入れたとき、彼の目の前に、萩では全く予想もしなかった光景が展開した。長いスカートをはいた洋装の女性、山高帽にステッキといった出立(いでたち)の紳士、さらには碧眼紅毛の西洋人や、弁髪の中国人などが立ち混じっていたからである。しかし、こうした様々の人の醸し出す異様な雰囲気の中にあって、かすかに潮の香が何処からともなく漂ってきた。
 
 ―海が近くにあるのかな。磯の香りは良いものだ。ああ、この香りを嗅ぐと何だかホットする。海浜に育った者として懐かしくも嬉しい気持になった。駅員に教えてもらった安宿は、駅前の大きい通りを横切って、急な坂道を東の方へ百メートルも上がったところにあった。案内を請うと、やや小柄の年格好は五十歳前後の女性が、笑顔で現れ愛想よく応じた。
 「山口県とは、そいは随分遠方から来らしたですなぁ。造船所へはここからですと、四十分もあれば行けますばい。さぞお疲れのことでしょう。お風呂の支度は直ぐ出来ますけん、それまでこのお部屋でくつろいどってくださいませ」
 客あしらいに慣れた如才のない応対だと惟芳は思った。こう言って通された二階のこざっぱりとした部屋の窓から、低い山の斜面が間近に迫り、山腹には樟の大樹が新緑鮮やかな枝葉を、前後左右に大きく広げているのが見えた。蝉の鳴き声も聞こえてきた。陽の当たった葉は白く輝いている。目を右の方に移すと、由緒ありげな寺院の甍(いらか)が見えた。一風呂浴びて部屋の柱時計を見ると、すでに針は七時を回っている。しかし窓外にはまだ宵の明るさが残っていた。先ほどの女将(おかみ)さんが夕食の膳を部屋まで運んで来た。彼は食べながら予備知識にと、長崎のことを少し訊いてみた。

 「関門海峡を始めて渡りました。こちらはさすがに暑いですね。ところで、ここへ来るまでに、あれは確か中国人でしょう、弁髪の人を何人も見かけましたが」
 「寛永十一年(1634)に出島が出来まして、オランダとの関係は強うなりましたばってん、そがんいうてもお隣の大国中国は、ここ長崎とは切っても切れんほど深いつながりがありますけんねえ」
 「なるほど、そうですか」
 「元禄時代には、一万人の唐人が市中に散宿していたげなです。なおそのころの長崎の人口は六万人だったそうですけん、驚きますばい」
この程度のことは長崎市民の常識といわんばかりに、年号をすらすらと口にする。
「そうしますと、その人たちの中には、長崎にそのまま居着いて、日本人と一緒になった者も多くいるでしょう」
 「おっしゃるとおりですばい。オランダ人のごたる西洋の人達と違うて、中国の人は言葉こそ違いますが同じ東洋人ですけん、親近感が生まれますよ。長崎では中国人のことば、‘阿(あ)茶(ちゃ)さん’と親しみを込めて呼んでいますばい」
清国との戦いの後、事情に変化をきたしたのではなかろうかと思って訊ねると、  
 「ここではそがん変わりはしません。何世代も前から、長崎の風土や生活に完全に溶け込んで、もう日本人と識別できんのが多かとです。江戸期外国船が来ましたとき、通詞として活躍ばされた方の多くは、もとをただせば中国出身とのことげなです」
 「知識人の祖先には中国人が多いと言うことですね?」
 「そん通りですばい。また長崎には立派なお寺がいくつかありまして、そう言った方々が出資して、向こうから立派なお坊さんば招いて、そいのお寺ば建てられましたとです。

 

 奈良・平安の昔から、仏教東漸(とうぜん)がここ長崎にもその歴史を刻んでいるのかと、彼は感じて聞いた。
 「窓から立派な甍(いらか)が見えましたが、あのお寺もそうなのですか?」
 「聖福寺さんですたい。黄檗宗(おうばくしゅう)のお寺で、鉄心という方が創建したそうです。父親は中国福建省出身の貿易商で母親は長崎の方ですばい。十五歳の時に中国から来られた木庵和尚に師事されたそうで、そのお寺には鉄心の大鐘というて、長崎で一番大きか梵鐘があるとですよ。近くですから、ぜひ行ってみらっさんですか」
 「女将さんは実に詳しいですね」
 「お嫁に来て三十年、朝晩あの鐘の音ば聞いとります。それにお盆とお正月には必ずお参りしますけん、自然にいろいろなことば覚えるとですよ。隠元という中国の偉いお坊さんは、今言うた木庵和尚のお師匠さんです。隠元豆や普茶(ふちゃ)料理も、隠元さんが長崎に伝えらしたそうです」
 
 ここで惟芳は、長崎の市民が三菱造船所のことを、どのように思っているか訊ねてみた。
 「三菱長崎造船所はここでは一番大きな企業でしょうね」 
 「おっしゃるとおりですたい。ここで三菱の職員さんと言うたら一番の高給料取りですばい。そいけん若い娘さんにとっては憧れの的になっとですよ。職工さんの方はそがんでもなかですばってん、正規の職員さんになるのは、とても難しかそうです」
女将さんも若い頃、三菱の職員に憧れた風である。しかし惟芳は自ら職工を目指す者として、そう軽んじてもらっては困るので、一言口を挟んだ。
 「職工になるのも、縁故など手ずるが無ければ難しいようですが」
 「以前はそがんだったと聞いとります」
 職工は相手にならんとばかりに、女将さんは話を続ける。
 「外国のお雇技師の他に、東京帝国大学ば卒業された、優秀な方が何人もおらすらしかです。この方たちのお給料は、たまげるほど多かと聞いとります」
 「そうでしょうね」
 「これから海運業が盛んになるぎんた、やはり造船所に勤めとらす人が、一番お金まわりがよかとですから、お遊びも派手にならすばいね」 

金が入れば自然遊びに使うのだと、普通の者は考えるのだろうと思って、彼は意識して相槌を打った。
 「なるほど、そうかも知れませんね」
 「長崎はその方面にかけては、西日本随一の花街があるとです。時にはお酒ば飲んだり、歌ば歌うたりして遊ぶのもよかでしょう。ばってん気をばつけなきゃいけませんよ。お若い貴方など随分もてるでしょうから」
 心配ご無用と思ったが、軽く受け流して、
 「お金が無ければ遊ぼうにも遊ばれませんよ。ところで現在港には沢山の外国船が入っているようですが、その船員連中は派手に遊ぶのではないですか?」
 「おっしゃるとおりですばい。ここは何と言うても早うからの開港場で、外国からの船が絶えず出入りしとりますけん」

 お国自慢か、女将さんは一段と熱を帯びて話を続けた。惟芳はさらに誘いの水を向けてみた。
 「長崎市民も遊び好きですか?」
 「こがん風な海外に開かれている関係ですばってん、市民の気質は概して明るくおおらかとですよ。江戸の町民は宵越(よいごし)の金ば持たないと言いますが、ここでも似とるところがあるとです。たとえば諏訪(すわ)神社の祭礼には、各町内はこぞって派手にお金ば使うて、景気のいいところば見せようとするとです」
 「中国人も参加していますか?」
 「そんとうりです。この諏訪神社の祭礼ば、ここでは‘長崎くんち’と言うとですよ。八代将軍吉宗大岡越前守が活躍しとらした時代じゃ、‘長崎くんち’の豪華ぶりは、江戸や京の祭りをさえ圧倒しとったそうです。そん時の神前での豪勢か竜(じゃ)踊(おどり)は、唐人屋敷の大船主らの寄付によって出来た奉納踊りとですよ。それと初夏の港での勇壮か行事のペーロン、これは和船競争のことば言うとっとですよ。この競争ば一目見らしたら、長崎市民の祭り好きで派手な気質には、きっとびっくりされますよ」

 

 惟芳は萩中学校にも和船部があったので、同じような舟だろうと想像した。女将さんは悦に入って話す。
 「今も言ったように、長崎には中国人が沢山居りまして、中国人街ば作っとります。そこへ行ってごらんになれば、全く違った風習が見られて面白かですよ。私たちもその人たちのお祭りの時には出かけて行って、中国料理ば食べたり、中国のお菓子ば買ってきたりするとですよ。中国人は商売が本当に上手(うま)かです」
 「そのうち私も行ってみましょう。ところで長崎の人口はどのぐらいですか?」
 「外国からの移住者も次第に増えて、十四万三千人になったらしかです。何でも今や日本で六番目の都市らしかですよ」

萩の五倍もの人間が、山坂の多いこの長崎に居住していることを、彼は如実に知らされ、驚きかつ不思議に思った。しかしいずれにしても、一日でも早くここでの生活に慣れ、また三菱の正社員になって、家への仕送りが少しでも多く出来るように頑張ろうと思った。話し好きの女将にいつまでも付き合う訳にはいかず、最後に造船所への道順を教わり、食事を済ますと、彼は萩を出てから宿に落ち着くまでの出費を手帳に記入した。父にもらったお金は決して無駄には使えない。同じ手帳の余白に彼は次のような事を書いた。
 
 明治三十四年六月十日 予定通リ長崎ニ着ク。長崎ハ早クカラ海外ニ向ケ開ケタ所ト知ル。萩トハ大差アリ。イヨイヨ実社会ヘノ第一歩ヲ踏ミ出ス。肩肘張ラズニ地道ニ行クベシ。弓道ノ精神ヲ生活ノ指針トスベシ。斯ノ道ハ礼ニ始マリ礼ニに終ル。礼ハ物欲ノ節制ニアリ。礼ハ必ズシモ他人ニ対スル事ノミナラズ、自己ニ対スル慎ミ肝要ナリ。
  
 あまりものに動じない惟芳にとっても、女将さんの話を聞いただけでも、長崎は清新にして強烈なものがあった。しかし彼は学校で粟屋先生に言われた弓道の根本精神を、これからの生活の一つの指針にしようと心に誓った。夜の帳(とばり)が下り、あたりが静かになった。柱時計は十時を打った。いつもの就寝時より少し早いと思ったが、長時間汽車に揺られ、多少疲れを覚えたので床に就くことにした。

 

   

(二)

 長旅の疲れも一晩ぐっすり寝るとすっかりとれた。惟芳はいつものように朝五時頃目が覚めた。夜は既に明けている。朝食前に宿の周辺を散歩しようと思って外に出た。昨日は真っ赤な入日が眩(まぶ)しくてよく見えなかったが、今立っているところからは、駅を中心とした長崎の市街の一部が、傾斜した坂道の前方に広がって見えた。またその密集した人家の彼方に、朝の陽光を受けて長崎港が輝いて見える。外国船であろう、大きな船が何隻も停泊している。風が遠くから汽笛の音を運んできた。
 
 嘉永六年(1853)ロシヤ使節プチャーチンも、こうした船を引き連れて来航したのだろうと、遠くに浮かぶこれらの船を見て惟芳は思った。
 ―松陰先生はロシヤ艦隊の長崎来航を聞くと、急遽江戸を発って長崎に向かわれた。先生は明日の日本のことを考えて、命を擲(なげう)って外国船に乗り込み、西欧の文物を学ぼうとされたのだ。しかし折角夜を日に継いで来られたが、ロシヤ艦隊は数日前に出航していた。このことを知られた時の先生の心境はいかばかりであったろう。
 

 それから五年後の安政五年(1858)には、日米修好通商条約、さらに日蘭・日露条約調印と、時代は大きく変わっている。あれからまだ五十年も経っていないのに、今はこの様に多くの外国船が出入港している。時の流れ、人の運・不運という事は確かにあるものだな。安政の大獄で犠牲になった人々は、なまじ先が読めたのが禍(わざわい)したとも思われる。
 
 この様なことを考えた後、目を凝(こ)らして遠くを見ると、船の帆柱と並ぶように見えたのは、対岸にある目指す三菱長崎造船所の工場群の煙突であった。そこは山が海岸近くに迫っていて、その斜面が、工場のすぐ背後からせり上がっているかのように見えた。後日惟芳が仲間と数回登山を試みた稲佐山である。この山の中腹にも、数百もの人家が、へばりつくように密集しているのが遠望できた。

 朝あけて船より鳴れる太笛の
   こだまはながし竝(な)みよろふ山

 斉藤茂吉の歌を惟芳は知るよしもないが、彼に歌心があれば同じような感懐を三十一(みそひと)文(も)字(じ)にしたであろう。
 
 ―こうして見ると長崎では、何処へ行くにも、大なり小なり坂道を上り下りしなければいけないようだ。この様な不便を承知で、長崎の人々が代々ここでの生活を営んできたのは、やはり海外へ開かれた日本唯一の場所、自由な空気が漲(みなぎ)る所として惹(ひ)かれたのかも知れない。また外国との取引にせよ、新しい学問の摂取にせよ、この地より他にはなかったから、志のある人々はこの地に集まり、新しい学問を身につけ、それぞれの故郷(くに)へ持ち帰り、普及に努めたのだろう。中にはこの地に魅せられて、永住を決意する者が出たのもうなずける。

 

 惟芳の第一印象は新奇にして強烈なものであった。宿の前の石畳の道をものの二百メートルも歩くと、唐様の寺院の前に来た。とにかく土地が狭隘(きょうあい)である。道路際の左手に僅かな空地があって、そこに敷かれた石畳の参道を十メートルばかり進むと、その続きに三間幅ぐらいの石段が、見上げるほどにまで山腹にせり上がって延びていた。登りながら数えるともなく数えたら六十段ほどあった。登り切った所、石段の右手に、樟の大樹が鬱蒼たる枝葉を広げていた。正面に二層の堂々たる朱塗(しゅぬり)の山門が立っている。山門の左側には、二層の瓦屋根を持った立派な鐘楼があった。女将さんが言ったのはこの鐘だなと思って、高い鐘楼を見上げた。
  
  聖福寺の鐘の音ちかしかさなれる
    家の甍を越えつつ聞こゆ
  
 斎藤茂吉が長崎医専の教授として、単身赴任したのは大正六年十二月のことである。茂吉が耳にした鐘の音は、長崎で一番大きいここ聖福寺の梵鐘の音である。
 惟芳は朝早くこの鐘の妙音を耳にしたが、今この大きい鐘楼を目にして、出郷前にお参りした菩提寺を思い出した。
  
 ―端ノ坊(はしのぼう)にも、これと同じような立派な鐘楼があったな。おや、屋根の上の扁額には萬寿山と立派な字が書いてある。山号は萬寿山であるが、この寺の名は聖福寺だ。そうすると、比叡山延暦寺高野山・金剛(こんごう)峯寺(ぶじ)と呼称するのと同じだな。
 
 惟芳はこんなことを思いながら正面の建物を眺めた。唐寺と言えば、朱塗を基調とする中国建築様式が普通であるが、この寺は扉など局部を除いて、素(しら)木(き)を主体としているので、彼は全く違和感なしに大雄宝殿に向かった。下半分は板張りで、上部は紙障子の戸が十枚ばかり、正面に横並びにあったがどれも皆閉ざされていた。したがって、守本尊の御姿を拝観することは出来なかった。ここにも頭上に、非常に大きな扁額が二枚あり、その一枚には実に堂々たる字で、「海國人天」と浮き彫りしてあった。この前後二枚の扁額は、天井を圧するほどに大きく見えた。両側の柱四本にも、それぞれ細長の聯が掛けてあり、立派な字が書いてあった。
 
 ―ははぁ、これが女将さんが物知り顔で言っていた、隠元、木庵あるいは鉄心の筆になるものに違いない。素晴らしい字だが意味がよく分からない。きっと教典の文句だろう。いつかここの和尚にでも訊ねてみよう。
 
 惟芳は独りつぶやきながら辺りを見た。境内には樟の大樹や椎の木など数本の常緑樹がある。早朝のためでもあるが実に森閑としていた。ただ敷石の上を歩くとき、カタカタという下駄の音だけが実によく響いた。地面は箒目(ほうきめ)もくっきりと掃き清められていた。さすがに禅寺の朝は早いと惟芳は思った。先ほど目にした市街地の犇(ひしめ)く人家とは打って変わった環境である。惟芳は安らぎの場所として、格好の地を見出したと喜びを覚えた。大きな賽銭箱が目に付いたが、恭しく礼拝しただけで急勾配の石段を下り、宿への道を引き返した。遠くからかすかにサイレンが聞こえた。長崎の朝は造船所のこの朝のサイレンで、一日の活動が始まることを彼は知った。

                   

(三)

 早めに朝食を済ますと、教えられた道順にしたがって造船所を目指した。丁度出勤時なので、何処からともなく多くの人が出てきて皆足早に移動している。落ち着いた気持ちで宿を出た惟芳も、つい皆の歩調に合わせて歩を早めた。駅前の道を海岸に沿って南に七・八百メ-トルも行くと波止場があった。そこは大波止といって、対岸の飽(あく)の浦への小舟が多数待機していることが、ここまで来てみてはじめて分かった。
 

 明治三十九年一月に稲佐橋が開通して、対岸への通行が非常に便利になったのだが、惟芳にとっては二年半の在職中、この渡し船を利用する外はなかった。当時長崎港には外国船の出入りが多かったから、停泊した船と岸を結ぶために、これらの小舟が大活躍していた。造船所の従業員も行き帰りにはこれらの小舟を利用した。これらの舟は中国語でサンパンと呼ばれる縦長の四角い平底船である。この時間の乗船者のほとんどは、三菱造船所およびその関連会社の従業員なのだろう、と惟芳は思った。特に若い工員連中は、だれもネズミ色の作業服に身を包み、いまだ遅(おそ)しと渡し船の来るのを待っていた。惟芳は彼らに混じって一隻のサンパンに乗った。定員は六人、荷物一個でも一人分とられ、渡し賃は一人一銭、六人揃えば即時に出してくれる。

 ―二丁櫓で漕ぐのだな。道理で船足が速い。この調子だと対岸まで五六分とかからないだろう。萩の橋本川渡し船はこれに比べたら悠長なものだ。ああ潮風が頬に当たって気持ちがいい。
 
 久しぶりに潮風を肌に感じながら、彼は舟の中程に立って爽快な気分を味わった。工場や波止場は、長崎湾の奥まったところに築かれている。この湾は五島灘に口を開く幅約一キロ、面積は約三平方キロの細長い矩形状で、湾口の外辺には大小の島がある。外海から内陸部に、約四キロ深く入り込んでおり、いつも波静かで、その上水深が平均十八メートル、最も浅い湾奥部でも五メートルあって、どんなに大きい船でも、港の奥まで入港出来る良港である。
 

 惟芳が海面に目を向けたとき、青々とした深みのある海の色は、陸上では決して目にしない神秘さを漂わせていた。やや白色で透明な、両手で掬えるような小さな浮遊物が、海中に舞うように浮かんでいるのが目に付いた。船足が速いので、これら幾つもの浮遊物は、すいすいと見る間に後方に流れていく。クラゲに違いないと思っていると、職工風の若い男が、突然隣の仲間に話しかけた。
「おい、クラゲが泳いどるのが見ゆっか?この間の昼間、用があって街へ出た帰りに、サンパンに乗ったとばってん、女学生のごた背のすらっとした小学生の女の子と俺の二人だけやったが、船頭は舟ば出してくれたよ」
 「お前とその女の子二人だけで、船頭はよう船を出したな」
 「それが後で分かったとばってん、副所長さんのお嬢さんだったらしか。舟が丁度ここらあたりに来たとき、お嬢さんが日傘ば拡げて海ん中に突っ込ましたとさ。何ばするのかと見とったら、今見えるのと同じかごたあクラゲを、掬い取ろうとしとったっさ。これにはびっくりしたばい」
 「クラゲは獲れたとか」
 「それが、船頭はお構いなしに漕いでいたからたまったもんじゃなかったとさ。あっという間に傘が逆さになって、朝顔のごた格好になって破れてしもうてさ。おれも子供の頃学校帰りに、差していた傘ば小川ん中に入れて、メダカば掬ったことがあるばってん。そいにしたっちゃ活発というか、あのお嬢さんはお転婆のごたったぞ」
「副所長さんのお嬢さんなら、可愛らしゅうしとらんたろ。何か話しかけてみたとか?」
「お前なら厚かましかけん、そがんしたろうな。俺は可愛くて綺麗な女の子だなと思いながら、横顔を見ていただけやったばい。もっとも破れた傘を、元通りの形に直してあげることだけはしてやったばってん」

 こんなやり取りを聞いているうちに、小舟は対岸の飽の浦に着いた。サンパンが接岸するやいなや、我先他に遅れじと同乗の五人が岸に飛び移ったので、先に岸に上がった船頭が艫(とも)綱(づな)をしっかり握っていても、小舟はぐらっと揺らいだ。惟芳は最後に船を離れた。次々に到着するサンパンから下りてくる人の数は驚くほどで、それが列をなすというより、むしろ大きな人の川と成って、海岸沿いの道を、造船所の正門に向かって滔々(とうとう)と流れていった。

 ―萩の住吉神社の夏祭りの時も、身動きならないほどの人出だったが、あのときより遙かに多人数(おおにんずう)だ。なんと皆足早に移動している。これは一体どうしたことか。
 
 彼は内心少なからず驚いたが謎は直ぐ解けた。工員たちは、所内入口にある職札場へと急いでいたのだ。始業五分前、六時五十五分きっかりに鳴るサイレンと共に扉が閉まる。そうなるともう所内へは入れない。皆自分の職札を掛け金に掛けるやいなや、所内に駆け込むのである。職札は小さな細長い木札で、表に職番、裏に氏名が墨書してある。惟芳はもちろん今日が初めてであるので、木札を掛ける手間もなく職域内へ入った。早朝の空気は冷たいが気持ちがいい。

 前方に赤煉瓦造りの堂々たる建物が見えた。正面の入り口の左側に、高い棒柱が立っており、その先に白地に赤の三菱を描いた社旗が、翩(へん)翻(ぽん)と風にひるがえっているのが鮮明に目に映った。恐らくこれが本館であろうと思って、惟芳は気持を落ち着けながら、その建物の方へ向かった。間違いなく本館であった。館内の総務係と明示してあるところへ行って来意を告げると、眉の太い精悍な顔つきの大柄な男性が、
 「こちらへ来給え。三日前だったか、君の中学校の校長先生から、所長宛の手紙が届いていた。そのうち君が来るだろうと待っていたところだ」
こう言いながら、通路の奥まった処にある部屋へと惟芳を先導していくと、彼を残して立ち去った。そこは応接室であった。外部から見た時のこの煉瓦造りの頑丈でどっしりとした様子とは全く趣(おもむき)を異にして、応接室の内部は見るからに寛(くつろ)ぎを与えるようであった。中央に大きな丸いテーブルがあり、その上に鍋島焼の大きな絵柄の花瓶があった。それに生けてある沢山の白百合の花が放つ甘酸っぱい香りと相まって、部屋の雰囲気は一段と華やかになっていた。壁には立派な額縁に収まっている油絵が掲げてあった。長崎港湾に停泊している内外の船舶を描いたもので、此の絵も惟芳の緊張した気持を和(なご)ませてくれた。部屋には大きい縦長の窓が二つあって、上部は半円の形をしていた。彼は洒落(しゃれ)た窓だと思うと同時に、煉瓦の壁が驚くほど厚いということを見てとった。窓が少し開けてあるために、白いレースがかすかに風に揺れていた。程なく先に案内したのとは別の紳士が姿を見せた。

 「私は造船製図場長の山本という者だ。まあそのソファに腰を下ろしなさい」
 入って来るなりこう言って、この長身の男性はテーブルの席に着いた。
 「初めまして、私は緒方惟芳と申します。もっと早く来るつもりでしたが、少し手間取りまして、昨日夕方長崎に着きました」
彼は直立したままで、先ずきちんと挨拶した。
 「まあ掛けたまえ。折角中学五年にまでなって中途退学とは、よほどの事情があったのだろうな。まあしかし人間は、特に青年は大志を抱いて努力すれば、前途は洋々たるものがあるよ」
気さくな物言いで山本場長は話し始めた。
 「実はね、荘田所長の肝煎(きもいり)で、一昨年三菱工業予備学校が新設されたのだ。中学卒はもとより小学校卒でも、ここでしっかり勉強して成績優秀なら、将来職員への登用の途は開けるようになっている。この制度は今言った荘田所長の発案だが、きっと成果が上がるものと、我々皆確信しまた期待もしている。推薦書を見ると君の中学校の成績はなかなか良い。特に理数系の学科が得意のようだから、勉強次第では立派な技師になれるよ」

惟芳は職工であろうと何であろうと、家への仕送りが出来さえすれば、多少辛いことにも耐える覚悟で来たので、この様な制度の恩恵を受けられるようだと知って、内心非常に嬉しく思った。
 「その学校に入れてもらえるのですか?」
 「君の成績なら大丈夫だ。数年勉強して将来造船設計に携わるか、または造機設計に進むかは、本人の希望と適性を勘案して決めることになる。ところで今言ったここの所長は、荘田平五郎と言って三菱本社の重役で、造船所長の仕事を兼務されている。非常に多忙な方で東奔西走され平生(へいぜい)は東京におられる。今年も入所式には見えたが今は上京中だ。そのようなわけで私が代わって、当所への正式採用通知書を渡す。まあしっかり勉強しなさい」

惟芳はその通知書を受け取るべくまず恭しく頭を下げた。
 「君は三菱長崎造船所において、社会人として第一歩を踏み出すことになる。感慨も一(ひと)入(しお)だろう。大きな夢を抱いていることと思う、しかし不安も無いとは言えないだろう。遠慮はいらないから、困ったことがあればいつでも相談に乗るよ」
こう言って笑顔でもって 渡された紙には、墨黒々と次のように書いてあった。
    
     緒方惟芳
 三菱長崎造船所修業生
 日給五拾銭
 明治三十四年六月十日
    社長 岩崎久弥

 社長の大きな印が、三十四年と書かれた四文字以下すべての文字の上に、被(かぶ)さるように押印してあった。彼はこのように事が順調に運んだのは、やはり雨谷校長や先輩たちのお陰だと、感謝の気持ちで一杯になった。
 「それにも書いてある通り、まだ当分は日給だ。専門学校、大学校卒業なら月給がもらえる。したがって一日でも休むと手取りは少なくなる」
 「そのつもりで出来るだけ休まないようにいたします。今朝艀(はしけ)に乗ってこちらに参りましたが、従業員の多いのには驚きました」
 「そうだな、あれだけ多人数の者が、出勤時に殺到するのを見れば、だれでも驚くことだろう。現時点で、正社員だけでも二百三十人、工員は絶えず出入りがあるから正確な数はつかんでいないが、およそ五千人いるよ」
惟芳はこのような大企業の中にあって、存在価値を認められるまでになるのは、容易なことではないと思った。
 「ところで早速だが、明日と言わず今日からの生活を考えなければいけない。君は寮に入るか、それとも下宿を希望するかね?」
 経費の節約を考えて寮をと思ったが、静かに勉強する時間も大切だから、ひとまず下宿の方を選ぶことにした。
 「それでは今日はもうこれでいい。所内を見学するのはまたにしよう。造船所の敷地は海岸沿いにかなり広く伸びている。そのうち何が何処にあるか、何処でどんな物を作っているか、そう言った様子は追々分かるだろうから、ひとまずこの本館内の部屋割りだけを教えておこう。階下にはこの部屋の隣に所長室だけ別に一室あり、副長室・総務係・勤怠係がまとめて一部屋の中にある」
そう言って山本場長は椅子から立ち上がると、応接室を後にして二階への階段をゆっくり上っていった。
 「長船(ながせん)、おっと、ここでは三菱長崎造船所を普通この様に呼称しているがね、長船の仕事は、副所長の水谷六郎という方が、所長に代わってほとんど処理されておる。ここが造船製図場で、隣が造機製図場、その向こうに青写真室がある。造機製図場長は江崎一郎さんだ。そのうち紹介する機会はあるだろう」
 一通り案内し終わって応接室へ戻るとり、山本場長は惟芳に促すようにこう言った。
 「それでは早速下宿探しがあろうから、諸準備のためということで、明日一日は休暇を取りなさい。おお、それから、まだ食堂がないので、所内に売りに来るパンを買うか、弁当を持参するか考えておきなさい。それからこの作業服を着用して出勤しなさい」
 こう言って灰色の制服上下を山本場長は惟芳に手渡した。
 
 見た目とは違って穏やかな物腰で親切な人である。惟芳は山本場長も、女将さんが言っていたように帝大出身に違いないと思った。さし当たり必要な事を聞くと、彼は山本場長に今後よろしくと言って礼を述べ応接室を出た。その足で直ぐ総務係の処へ行き、下宿について訊ねると、心当たりの家を数軒教えてくれた。
 

 本館を出ると、館外は六月の強い日差しが眩しいくらい照りつけていた。それに鉄さびと油の匂い、さらに海からの潮の良い香りが、鼻腔の神経をかすかに刺激した。また造船工場だということを感じさせる機械音や、鋼鉄を削ったり叩いたりする人工的な音も聞こえてきた。こうした暑熱と騒音を含む外気に比べて、館内が意外に涼しく静かに感じられたのは、厚い煉瓦が暑気と騒音を遮断していたのと、天井が高く、机の配置などにゆとりのあるためだと彼は思った。しばらく歩いて振り向いたとき、高く翻る社旗の背後に大きな建物の屋根が見えた。屋根より高い数本の煙突からは、黒煙がもくもくと吐き出されていた。たしかにここは大きな工場だと思うと同時に、何だか異境の地に降り立ったようにも思えた。
 

 

(四)

 こうした思いを抱きながら、朝来た道の逆を辿り駅前に来たので、丁度昼過ぎではあるし、一膳飯屋にでも入ろうと思って辺りを見回すと、長崎チャンポンと看板の出ている店が目にとまった。
 

 店の中はちょうど昼飯時で、一般市民の外に、労務者風の若い男性が多く見受けられた。もうもうと湯気が立ち上り、ジュウジュウといった音がする。全く見慣れない雰囲気であった。何か油を使って料理をしているのだなと彼は思った。郷里の萩では、母が作る料理といえば、野菜は生で食べる他に、漬けるか煮るか、あるいは酢の物として食べ、魚なら焼くか煮付けにする。鮮魚であれば刺身にして食べるので、油でものを炒(いた)めて食べるようなことはまずない。立ちこめる湯気と油煙の中、向こう鉢巻き立ち姿で働いている若い男に向かって、彼は大きな声で思いきって注文した。
 
 「チャンポンを一皿ください」
言葉にはそれなりの内容が当然含まれる。人は普通その意味が分かって初めて口にする。しかしこの場合、彼はこのチャンポンという料理を、その内容を知らずに注文したのである。ほどなくして、
 「はい、お待ちどうさま」
 威勢の良い声と共に、五六合の水でも優に入るぐらいの、大きな白い磁器の碗に盛られて出された料理は、もちろん彼にとっては初めてのものであった。珍しく思いながら箸でかき混ぜてみると、さまざまの食材を使っているのに気が付いた。モヤシ、キャベツ、タマネギ、竹輪、蒲鉾、貝、タコ、イカ、エビ、牡蛎(かき)、豚、鶏肉、それにこれまで食べていたのとは違う饂飩(うどん)玉を加え、だし汁をかけたものである。萩では魚が主で、それも鰯や鰺(あじ)、鯖(さば)といった青魚、赤い魚と言えば金太郎とイトヨリぐらいである。鯛など高級魚は祭りの時に、母が作ってくれる押し寿司の上に、その小さな切り身が乗り、その鯛の粗(あら)で作った吸い物が食べられるだけ。野菜と言えば、大根、ゴボウ、ネギ、人参、白菜、それに海藻として、ワカメ、海苔、ヒジキ、塩昆布。この様な物を食べ慣れた者にとっては、今目の前に出された料理は、立ち上る湯気だけでも、食欲をそそるものであった。これは大して手間の掛からない簡易な料理だと思いながら、美味しく口へ運んだ。代金を払うとき、
 「お客さんはお見かけしたことのない方ですが、チャンポンは初めてですか?」
 「そうです。生まれて初めて食べたが、栄養たっぷりで、なかなか美味いね」
 「有り難うございます。この料理は明治の中頃から始まりまして、広く市民に好まれるようになりました。中に入れる食材は店によって、多少差がありますが、大体似たりよったりです。味の善し悪しは、それらをいかに良い頃合いに炒めるかです。それとだし汁で決まります。また是非お越しください」
 
 こうして、訛りのない言葉で教えてくれた割安で栄養たっぷりの料理で空腹を満たすと、惟芳は戸外の炎天下にまた出た。そして前より一層吹き出た汗を拭きながら、宿への坂道を上っていった。宿へ着き一休みした後、総務係で教えてもらった略図を見ながら、下宿探しに出かけた。
今朝起きがけに参詣した聖福寺の前の石畳の小道を、ものの十分も歩かないうちに、三叉路にぶつかった。右の方に曲がり、だらだら坂を下りると、大きな鳥居があった。そのずっと奥にもう一つ鳥居があり、さらにその彼方に、高い石段が続いており、石段の向こうに立派な神殿が、鬱蒼とした森の樹木を背景にして鎮まっているのが見えた。

 ―これが女将さんの言っていた諏訪神社か。おくんちの奉納踊りはここの広い境内で行われるのだな。萩の住吉祭りは夏だが、ここの祭礼は秋とかいっていたな。一度は見てみたいものだ。さてそろそろ下宿はこの辺かな。 
彼は出来(でき)大工(だいく)町、麹屋(こうじや)町を通り過ぎて、寺町にまでやってきた。さすがにその名に違わず、大小の寺の甍がいくつも見えた。さらに進んで諏訪町の路地に入った処で、頃合の下宿を探し当てることが出来た。
家人は中年の市役所勤めの夫婦と小学校に通う男児、それに奥さんの母親の四人家族。主人は養子だそうである。思ったより広い構えで、数年前から、二階二間を独身の勤め人に貸しているという。
 

 還暦にはまだ達していないようだが、やや猫背で着物姿の母親らしい女性が、自ら惟芳を案内してくれた。階段を上った踊り場で、左右の部屋へ入れるようになっていた。右側の部屋の襖を開けると、そこは六畳敷きで、畳一枚分の床と押し入れが付いている明るい部屋であった。有り難いことに東向きに二枚のガラス障子がある。窓越しに外の景色が見えた。鬱蒼と枝葉の茂った森のような風景が全面に広がって目に入った。ガラス障子を少し開けて彼は目を凝らして見た。すると一面森と見えたところに、人家や緩やかに傾斜した寺院の大きな屋根、さらに墓地や何本もの樟の巨木も判然としてきた。惟芳のそうした動作を見やった後母親は、
 「洗面所とお風呂は、私どもと共用にさせていただきます」
部屋を出ながらこう言うと、左側の部屋を指さして、
 「こちらには、県立長崎中学校にお勤めの先生が居られます。先生は英語を教えておられますのよ。夜遅くまでよく勉強なさっておられます」と、聞かぬ事まで愛想よく教えてくれた。

 そのうちどうせ同宿の人と言葉を交わすことになるが、彼はそれが中学校教師と聞いてよかったと思った。下宿代は月に五円五十銭。会社でもらう日給が五十銭であるから、月収はおよそ十三四円。食事付きの下宿で弁当まで作ってくれるとのことで、こぎれいな部屋であり、また静かな環境なので、この下宿代なら適当だろうと思って、その場で一応話を決めた。正式には主人の帰りを待って契約することになった。
 
 これで一安心だと思い、まだ十分時間があるので諏訪神社を参拝することにした。彼は神社仏閣を訪れるのが好きである。特に由緒ある寺院の境内、あるいは厳かな神域に身を置くと、我が身が清められ高められる様に感じられるからである。西行法師が伊勢神宮に詣でて詠ったという歌を思い出した。

 なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる

 大鳥居を潜って表参道へ出た。石段が長く続いており、二百段は優にある。その途中に石柱があり、左側の石には「知らせる人」、右側の石には「尋ねる人」という文字が刻まれていた。参詣人でごった返えすうちに、我が子を見失うことがしばしばあるために、このような計らいがされたのだろう。
 
 ―そう言えば思い出した。住吉神社の夏祭りでも、迷子がいつも一人二人はいたな。こんな石柱があるところを見ると、ここの人出はものすごいのだろうな。またしても萩のことが思い浮かぶのであった。参拝を済ませて振り返ると、市街地を越えて美しい姿をした山が見えた。雑踏を離れて、こうした高みに身を置くと、海浜で潮風に吹かれるのに似た清々しさを覚える。ここも散歩に適した場所であるので、時々足を向けようと思った。社殿に向かって左の方へ進むと、こんもりと繁った常緑樹の森へと小道が通じていた。森は、樫、椎、樟、栗、橡(とち)といった照葉樹など、今まさに新緑の芽吹きの真最中で、思わずむっとするような息苦しい圧迫感さへ感じられた。蝉(せみ)時雨(しぐれ)もすさまじい。蝉は近づくと、一斉に鳴くのを止めた。少し離れると、待ちきれなかったかのように、また一斉にジィ-と鳴き出した。
 
 ―蝉時雨とは上手い表現だ。盛んに鳴く蝉の声が一瞬止むのを、激しく降っていたかと思うと、いつの間にか止んでいる雨にたとえてのことだろう。実に適切な言葉だ。また耳を聾するほどの蝉の鳴き声が一瞬止んだ時は前より一層静けさを感じる。
芭蕉の有名な「閑さや岩にしみ入蝉の声」の句は、このしぐれ降るような蝉の声が一瞬止んだ時、それまでよりも一段と静寂になったような感じを、岩にしみ入ると詠ったのだろう。流石に芭蕉は自然に対する気持ちが凡人とは違うな。
 
 この降り注ぐような蝉の鳴き声と、生命力にあふれた常緑の森の中にあって、全く別世界に踏み込んだように彼は思った。途方もなく大きな樟の木が、頑丈な根を踏ん張って、根元の巨石を抱きかかえているのがあった。太古の昔からでは勿論ないが、数百年にわたる自然の孜々(しし)たる営み、またその力強さをまざまざと見せつけられる思いがした。しかしこうした樹林の醸し出す濃厚な空間はそんなに続かず、そのうちぽっかりと青空が見える処に出てきた。ちょうどそこには、長崎奉行所跡と刻まれた石の標柱が立っていた。神域の森はそれほど大きいものではなかった。

 諏訪神社の森を出た惟芳は、暑い最中(さなか)、汗を拭きながら宿へ帰った。彼は宿の勘定を早めに済ませた。仮契約した下宿の主人が役所から帰る時刻を見計らって、夕方近くまで宿の部屋に居させてもらうことにした。彼はこの間を利用して、長崎に無事着き、造船所へも行って正規に採用されたこと、下宿も適当なところが見つかったことなど、用件だけだが両親に手紙を認(したた)めた。女将さんに投函をお願いして、畳の上に仰向けに大の字になった。

 
 両手を頭の後ろに組み、目を半ば開いて天井の杉板のきれいな木目を見ているうちに、知らず知らずのうちに眠りに落ちた。午睡の時間はものの三十分もなかったであろう。若い肉体にとって、この程度の休息を取ればまた元気が甦る。そうこうするうちに下宿へ行く頃合いになったので、女将さんにお世話になったと礼を述べて宿を後にした。

 

 

(五)

 今再び下宿に来てみて、この界隈の家々はどこも、塀や生け垣をめぐらしてあり、中には立派な門構えの屋敷もある住宅地であることを知った。下宿として決めた家の門は、やや粗末な冠木(かぶき)門である。その門を潜って玄関まで、真っ直ぐにおよそ六メートルの往来が続いている。飛び石の両側の地面には、この季節にしては好く保たれていると思われるほどに、青い絨毯を敷き詰めたような美しい苔がびっしりと生えてた。恐らく家人が毎日撒水でもしているのだろうと思いながら、飛び石をゆっくり踏んで行った。惟芳はこうした静かな環境にある部屋を、先刻約束した金額でよく貸してくれたなと、口には出さないが心の中で感謝した。
市役所に勤めているという主人は、先ほど帰ったということで、座敷で正式に契約書に署名捺印をすませた。主人は必要以上なことは口にしないと見える。後は母親にまかすといった格好で立ち去った。
 「早速今晩からおやすみになるのに寝具が要りましょう。月額五十銭でお貸ししてもようございますが、どうなさいますか」
 「郷里(くに)から送らすのも面倒ですからお借りすることにします」
 「お食事はお二階の先生と御一緒で、下の廊下を挟んで台所の真向かいのお部屋で、召し上がっていただくことにしています。それで良うございますか?」
 良いも悪いもないので、「私は構いません」と、応えるのみであった。
 「先生は佐賀の方です。貴方より少しご年輩でしょうが、夜遅くまでよく勉強をなさっているようです」と、さきほどと同じ言葉を口にした。
この母親の多弁に付き合うのも程々にすべきだと思って、
 「それでは今後ともなにとぞよろしくお願いいたします」

こう言ってその場を退いて階段を上った。右手の自分の部屋に入るとすぐ出窓を開けた。

 諏訪神社の鬱蒼とした常緑樹の森が西に傾く夕日を受けて美しい。この緑の色は確かに見た目に美しいだけではなく、心身を癒す効果があると、彼は体験的に以前からそう思っていた。
 

 萩の堀内にある家を一歩外に出たら、いつも目に入る指月山の緑と同じである。彼は本当に良い下宿が見つかってよかったと思うのであった。六時のサイレンが遠くから聞こえてきた。食事が出来るとの呼び声で彼は階下へ降りていった。隣部屋の教師はまだ帰っていないようだ。品数も多く、結構美味しい食事を食べ終わると、給仕をしてくれた母親と世間話を少ししただけで二階へ上がった。
 
 一時間も経ったであろうか、入り口の襖戸の向こうから、惟芳は自分の名前を呼ぶ声を聞きつけ、立ち上がって襖を開けた。目の前に、糊のきいた白地の浴衣をきちっと着こなし、太い黒味がかった帯を締めた男性が立っていた。五尺八寸の惟芳から見れば、背は少し低いが、肩幅が広く、太い眉ときりりと結んだ口は、なかなか男性的な魅力に富んでいた。柔和に見える貌(かお)の中にも、眼光は鋭く澄んでいる。何か武道の稽古で鍛えた目つきと体付きが彼の目に飛び込んできた。
 「突然お邪魔してすみません。私は隣の部屋をお借りしている吉川と申す者です。今県立長崎中学校に勤めております。あまりに唐突で失礼とは存じますが、よろしかったらお話においでになりませんか?」

 惟芳は初対面にしては気さくな人だと思った。折角このような誘いを受けたことだし、これからの付き合いを考えて、直ぐに承諾の返事をして、後についてその教師の部屋に入った。そこは押入と床が反対側にあるのを除いて、惟芳の部屋と同じ造りであった。しかし大きな違いは、壁面に一架の本棚があり、和漢洋の本の他に、事典辞書類がぎっしりと並んでいることであった。また床の間に褐色の太い木剣が一本立てかけてあるのが目に付いた。惟芳は、下宿の母親が二度まで繰り返して言っていたように、この教師はかなりの勉強家だと先ず思った。惟芳が着座すると吉川氏はあらためて挨拶した。

 「わざわざお呼びしてすみません。さきほど食事時に、今度貴方が来られたと云うことをお聞きしまして、どうせこれから毎日顔をつきあわす仲なのだから、早目にご挨拶をしておいた方が良かろうと勝手に思って、お声を掛けたような次第です」
吉川氏は気さくな面もあるが、礼儀正しい人物だと思いながら、惟芳もきちんと挨拶した。
 「有り難うございます。私の方こそこちらからご挨拶すべきところ、失礼いたしました。私は山口県の萩から参りました緒方と申します。今後よろしくお願いいたします」
惟芳は相手の清々(すがすが)しくも鋭い目許(めもと)に、言いしれぬ魅力を感じながら、深々と辞儀をした。 
 「萩のご出身ですか。私は詳しくは存じませんが、萩と言えば、伊藤内閣の後を継いで、この度組閣した桂太郎も、松下村塾の出身でしたね。松陰先生はたいした人物だったのでしょう。萩の乱のことも耳にしています。佐賀では、佐賀の乱江藤新平が明治七年に起こしていますが、その後二年して萩の乱が起きましたね。確かその首謀者は前原一誠で、彼も松陰先生の門下生でしたね」
 「そうです。さらにその後、鹿児島での西南の役と続きました。西郷隆盛を含めて、この人たちは皆、保守国粋的な思想を抱いていたために、時代に容れられなかったのでしょう。松陰先生が前原一誠を評して、『八十(やそ)(一誠)は勇あり、智あり、誠実人に過ぐ』と言われたそうですが、江藤新平も、憂国の至情みなぎる純粋な考えの持ち主だったのでしょう」 

 二人は思わず熱心に話を続ける結果になった。
 「西郷隆盛征韓論の主張など、みな同じ考えに基づくのではないでしょうか。しかしやはり時代の流れには抗す術(すべ)も無かったといえますね。あれからまだ二十数年しか経っていませんが、世の中は変わりましたね。こんな事を言っても、若輩の私にはよくは分かりませんが」
 「萩のことに話が及びましたが、萩はまだ町ですよ。(筆者注:市制を布いたのは昭和七年七月)長崎とは比べものになりません。しかし明治維新前、まだ毛利の殿様が萩城に居られた時は、人口は五万以上でした。廃藩置県が明治四年(1871)に施行され、立派なお城を他県に先駆けて取り壊してしまいました。その頃から士族を始め多くの人が萩を去り、人口は半減してしまいました。それに比べますと、この長崎は活気に満ちていますね」
 「やはり長崎は海外貿易が盛んだし、外国から新しい文物が入ってくるからですよ。緒方さん、貴方はシーボルトのことをご存じですか?」
 
 惟芳は初めて聞く外国人の名前に返事をためらっていると、吉川先生は生徒に教えるように次のように言葉を続けた。
 「彼は文政六年(1823)、今からおよそ八十年も前に来日しまして、鳴滝と言うところで塾を開いています。そのため全国から優秀な若者が、西洋の学問を学ぶためにやってきています。毛利藩からも優秀な人が来たのではないですか。出来たらいつか一緒に行ってみませんか?」
 「是非お願いします。長崎は歴史の町ですね。仕事の合間を見て由緒ある所を見学したいと思っていますから」 
 「佐賀にもぜひ来ていただきたいですね。佐賀の乱のことを先ほど申しましたが、実は私の父はそれに関係したために、私がまだ小学校に入る前に亡くなりました」

惟芳は、吉川氏も時代の波に翻弄された一人か、と思うと同時に、彼の話に一層身を入れて聞く気持になった。
 「初対面の貴方にこのような身の上話をするのはどうかと思いますが、母は私と幼い妹を抱えて苦労しました。佐賀の乱に続いて萩の乱、さらに西郷隆盛西南の役がありましたが、これらが同時に起っていたら、さすがの明治新政府もあわてたでしょうね。母は子供の教育だけは、自分は塩を舐めてでもさせなければと思って、私を中学校、さらに熊本の高等学校にまで行かせてくれました。母には本当に感謝しています」
 「高等学校までへ行かれたとは、さぞかし苦学されたことでしょう」
 「確かに苦学しました。母は私以上苦労したと思います。高等学校を卒業したら大学へ進学するのが普通ですが、これ以上母に苦労をかける訳にはいきませんので、就職することにしました。幸い前の長崎中学の校長先生が五高(旧制第五高等学校)出身の先輩だったもので、採ってもらいました」
 「それはよかったですね。今時分大学を出ても、右から左へと、直ぐに良い職が見つからないようですから」
 「確かにそうです。ところで独学も大切ですが、やはり良師に巡り会うということは 非常に有難いことですね。その人の一生を左右する事があると、私自身のささやかな経験からですが、その様に思っています。この点を考えますと、五高へ行けたことで母には感謝しています。おおこれは、思わず一方的に話してすみません。貴方を一目見て何だか気持が通ずるように思いましたので」 
 「わたしも初対面のお方と、こんなに楽しく話したことはありません」

 惟芳はこう言うと同時に、自分には両親が健在であるだけ有り難いと思った。
「そうですか。ところで私が英語の教師になりましたのは、五高で夏目先生に英語を教わり、また菅(すが)虎雄という先生からはドイツ語を教えていただいたからです。このお二人の先生は傍目(はため)にも非常に仲が良くて、正に肝胆相(かんたんあい)照(てらす)という言葉どおりでした」
 「管(かん)鮑(ぽう)の交(まじわり)なのですね」
 「お二人の場合、少年時代からではなく、大学で知り合いになられたそうです。貴方は夏目漱石と云う名をご存じですか。それは先生のペンネームで、本当のお名前は金之助だそうで、自分の名前に金の字があるのは好かないと仰有っていました」
 
 惟芳は漱石という名前を知らないので黙っていると、吉川氏はいかにも五高時代が楽しかったかのように、次のようなことを話し始めた。
 「先生の秀才ぶりは東京帝国大学在学中から夙(つと)に知れ渡っていたそうです。五高での授業は実に厳格で、予習をしていかないと教室に入るのが怖かったです。しかし授業の合間に話される雑談は、当意即妙の比喩や風刺に満ちて、本当に楽しかったですよ。ある時、先生は、『君たちは中学校で鴨長明方丈記を習っただろう。内容的には徒然草の方が数段優れていると思うがなかなか名文だね。僕は大学院にいたとき英語に訳してみた。しかし日本文の構文を何とか保とうと努めたが、言語の性質と表現方法が根本的に違うので、思うようにはいかなかった』こう言われて先生は、例の有名な冒頭の一節、 
  
   ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
 
 この文章の英訳を黒板にすらすらと書かれたのです。先生の英文も素晴らしいと思いましたが、先生が書かれた文字も惚れ惚れするほどの達筆だったのを今でもはっきり覚えています。先生は、日本の古典を英語に翻訳するのは、日本人より、優秀な外国人にまかせた方がいいと思われて、その後はおやめになったようです」
 「私なんか、英語を日本語にするのさえ思うようにいきませんが、日本語、しかも古典の翻訳となると、両方の言語に精通していて初めて可能なのでしょうね」
 「その通りですよ。夏目先生ほどの実力のある方でさえ、断念されたのですからね。ところで先生の学問に対する態度と言いますか、信念には確固としたものが感じられました。先生のつぎの言葉は肝に銘じています」

 吉川氏はこう言うと、書棚から小冊子を取り出して、栞が挟んであるところを開いて、ゆっくり読み始めた。

 「理想を高くせよ、敢て野心を大ならしめよとは云はず、理想なきものの言語動作を見よ、醜陋(しゅうろう)の極なり、理想低き者の挙止容儀を観よ、美なる所なし、理想は見識より出づ、見識は学問より生ず、学問をして人間が上等にならぬ位なら、初から無学で居る方がよし。」

 惟芳は、明治二十三年に発布された教育勅語にある言葉を思い出して、すかさず言った。
 「言葉を替えていいますと、先生は、智能を啓発し徳器を成就せよと、言われたのですね」
 「そうです。とかく金儲けや立身出世のためだけに学問をする、といった風潮を戒(いまし)めて言われたのです。また先生は、大学進学を希望する学生のためを思って、授業開始前の七時から一時間、特別課外授業をしてくださいました。朝早く寒い日もありました。受講した者は誰も感謝していました。また苦学している者の中には、先生に助けてもらったのが何人もいるようです」
 「立派な先生ですね。今まだ居られるのですか」
 「いいえ、五高にとってははなはだ残念なことに、この春先生はイギリスへ留学なさったのです。もう熊本へは帰って来られないでしょう。私も二度とお目にかかることはないのではないかと思います。夏目先生は小柄な方ですが、身体の割には大きい頭で、口髭を蓄えておられ、われわれ学生よりかなりご年輩かと思っていましたが、三十歳を過ぎたばかりだと知って驚きました。それだけ威厳があったと言えますね。本当に先生の御陰で学問の真意を教えられました」
 
 惟芳も長崎にまでやって来るに至った経緯(いきさつ)を話した。吉川氏が浴衣の片袖をたくり上げたときに、色白ながら筋骨隆々とした太い二の腕が目に入った。惟芳は、中学校で熱心に稽古した弓道のことも少し話題にした。吉川先生も武道には興味を持っていた。
 「お互い似たような境遇ですね。私も中学に入って撃剣の稽古を始めました。佐賀は撃剣がなかなか盛んな所です。葉隠れ武士のことはお聞きになった事があるでしょう?」
 惟芳が察したように、吉川氏は学生時代、剣道で心身の鍛練をしたということを知って、一層の親しみが湧いた。吉川氏は、夏目先生には僅か一年しか教わっていないのに、非常に感化を受けた、先生の事は決して忘れられない、といった風であった。時間も大分過ぎたので、五高時代の事など、是非また聞かせてくださいと言って、失礼することにした。

 吉川氏は勉強一途な堅い人物とのみ考えていたので、惟芳としてはいい人に出会ったと思いながら、自分の部屋に戻った。彼は机に向かうと例の手帳を取り出して、簡単に次の様に記した。

 「六月十一日 三菱長崎造船所ニテ採用通知書ヲモラフ。下宿ニ落チ着ク。環境良好。隣室ノ男性ハ中学校ノ英語教師。勉強家ニシテ剣ノ道ニ励ム好漢ナリ。初対面ナガラ気脈ガ通ジタ感アリ。萩ハ井ノ中、大海ヲ知ルベシ。」

 

杏林の坂道 第三章「三菱長崎造船所」

杏林の坂道 第三章「三菱長崎造船所」 

 

(一)

 憧れの萩中学校に入学して、蓬(よもぎ)色の霜降りの制服を始めて着用したとき、「今日から萩中学校の生徒になったのだ」、という自信と誇りを惟芳は感じたのであるが、今ここに支給された長船(ながせん)の制服である灰色のナッパ服に身を包むと、そのゴワゴワとした肌触りも一役買って、あのときと同様に身の引き締まる思いがした。
 

夜来の雨は今しがた上がり、窓から見える諏訪の森の鬱蒼とした緑が一段と鮮やかに目に映った。下宿の玄関を出て門に通ずる路地の両側に生えている苔も、甦ったように濃き緑が美しい。心なしかそうした緑が匂うようである。惟芳はあらかじめ教えてもらっていた大波止への近道を取った。海岸に向って道は少しばかり傾斜している。
 
 濡れた石畳は歩いていても気持ちがいい。滑らないように気をつけながら、彼は下宿で作ってもらった弁当を小脇に抱えて、いつもの様に大股で歩いた。道の左側を三間幅の小川が流れていた。その両岸は石垣で築かれており、石垣の高さは一間以上もある。背の高い惟芳の目から見ると、流れはかなり深い所で音を立てていた。川底は砂利ではなくて岩盤、そこに大小の石が所々突起している。雨で水嵩が増し早瀬となって、水が飛び散っている様子が彼の目に入った。道端のあちこちに紫陽花(あじさい)が丸く盛り上がって群生していた。恵みの雨に濡れて緑の葉陰から、赤、白、紫、といった色とりどりの花が輝いて見えた。

 

 日本特産の紫陽花がドイツ人の医師シーボルトのお陰で広く知れ渡るようになったことは、そのときの惟芳は知るよしもないが、この美しい花を道々眺めながら、彼は二十分足らず歩いて目的地の大波止に着いた。

 ―通勤時間を僅か十分ばかり早めただけでこうも違うのか。サンパンを待つ人の群れは昨日に比べてかなり少ないな。明日からはこの時間帯なら大丈夫だ。とにかく早めに出かけるように心掛けよう。

 

 昨日の洪水のような人の流れに辟易(へきえき)したので、昨日とは打って変わった情景を見て惟芳は咄嗟に思った。彼を含めて六人の職工風の男たちが、分厚い松板を並べた桟橋から、やって来た小舟に乗り移った。乗船定員は六名である。船頭は直ぐに漕ぎ出した。惟芳は同船の他の五人に軽く会釈した。彼らは皆かなり年期の入った職工に見えた。足下(あしもと)を見ると船底に櫓が置いてある。彼は二挺櫓で漕ぐときのものだなと思った。


 中学四年生のとき、クラス対抗の和船競争に出て、橋本川で舟を漕いだことがある。また毛利氏菩提寺の大照院の下手(しもて)の渡し場でも、船頭に代わって何回も漕いだ経験がある。湾内波静かな水面を目にし、早朝の潮風の中に身を置くと、一漕ぎしてみたいという思いに駆られた。惟芳は船頭に声を掛けてみた。
 「船頭さん、この櫓を使ってもいいですか」
 「よかですばい。二挺櫓ならずっと早く着きますたい」
 惟芳は上着を脱ぎ弁当を下に置くと、足下の櫓を持ち上げ、船べりにある鉄製の先が丸くなった突起に、櫓の上部にある臍(へそ)とも言える小さな窪(くぼ)みを先ず慎重にあてがった。羽(水を掻く部分)を先に浸けると、波に攫(さら)われて容易に嵌(はま)らないことを知っているからである。彼は両足の位置をしっかり決めると、舷側に結びつけてある早(はや)緒(お)を取って櫓の上部に掛け、左手は下から、右手は少し離した位置に上から載せて、船頭が漕ぐのに調子に合わせて、前後に身体を揺すりながら漕ぎ始めた。久しぶりに握る木の感触が心地よく身体に伝わる。


  弓を引く動作とは違うが、手前に引くと両腕の力瘤が盛り上がるのがはっきり分かる。押し引きに腰を入れて力強く漕いだ。船足は一段と速まり、サンパンはすいすいと波を蹴って進んだ。濃紺の海中で右左へと規則的に動く羽は、細長い白布を翻(ひるがえ)すかのように見えた。この正確な同じ動きの度に、無数の白い水泡が海中に生じ、上昇して海面に浮かぶのもあるが、大半はすぐ波間に消えていく。
 黒い頬髯を生やした男が惟芳に声を掛けた。
 「お若いの。初めて見掛けるが長船ば行くのかね? それにしてもいい躰をしてるな。二挺櫓はさすがに船足が早い。いつもこうだと有難い。頬髭を気持ちよく風が撫でていく。明日もお願いしたいものだ」

 こう云って惟芳の方を見ながら、男は片手で下から上に向けて頬髯を撫でた。
 「ご一緒の場合なら構いませんよ」
 惟芳は漕ぐ手を休めず軽く受け流して言った。
 対岸の飽(あく)の浦に着くと、船頭の感謝の言葉を背に受けながら、素早く上着を着て職札場へと急いだ。新しい木札に墨書されてある「緒方惟芳」の文字と、表に「修業生」と書かれた職名を見たとき、彼は思わず熱いものがこみ上げて来るのをぐっと堪(こら)えた。

 ―どうやら俺も三菱長崎造船所の一員になったのだ。間違いなく俺の名前が書いてある木札だ。造船所は早速に受け入れてくれたのだ。本当に有り難い。これも多くの人のお陰だ。さあこれからは、粟屋先生がよく言っておられた弓道の精神を一つの指針にしよう。「慎み、和敬、克己、反省」、とにかくしっかりやろう。
彼は長さ七センチ、幅二・六センチ、厚さ六ミリの木札を手に取ると、所定の位置に掛け、本館に向かって急ぎ足で進んだ。本館前にポールが立っているのが直ぐ目に入った。ポールは赤煉瓦造りの堂々たる二階建ての屋根より高かった。先端には白地に三菱を真赤に彩るスリー・ダイヤの社旗が、朝風にはたはたと音をたてていた。惟芳はこの旗を仰ぎ見ながら本館に入った。
 
 「山本場長はほどなく出勤されるでしょう」と事務員の一人が云った。
 果たして待つほどもなく、がっしりとした体躯の場長が姿を現わした。惟芳は朝の挨拶をした。

 「やあ、緒方君か、お早う。支度は出来たのかね?明日から出所してもよかったのだ。よっし、それでは早速三菱工業予備学校を案内しよう。今年三月、君が来る少し前に竣工したのだ。ところで君は中学四年修了なので、本科生ではなく、修業生として工場籍にするから、皆と同じ授業を受けなくともよい。後で具体的に話すが、造船、造機に関係する専門的な教科の授業にだけは出席しなさい。その他の時間は、製図場で実地に実習しなさい。従って本科生と同じ制服を着用しなくてよいのだ」

 本科生の中には尋常小学校を四年で卒業した段階で入学した者もいた。満年齢でいえばまだ十歳を過ぎたばかりである。本科生は五カ年の教育があり、その後修業生教育が約五カ年続く。修業生は工場籍となり、手当をもらった。そして朝または夕に毎日一時間授業を受けた。


 山本場長は惟芳を促して本館を出た。二人は飽の浦波止場の方へゆっくりと歩いていった。そこから左に曲がり、赤さびた大小の鉄くずなどの積んである、かなり広い場所を左に見ながら進んだ。
 「ここは鋳造場スクラップヤードだ、その隣に木型場がある。その先が学校の敷地だ。明治三十二年十月に学校が創立されたときは、元の校舎はこのスクラップヤードの向かい側、直ぐそこにある社宅を仮校舎にしていたのだ」
こう言って山本場長は右手の小さな建物を指さした。これはこじんまりしたものであった。木型場を過ぎて少し行くと土塀が見えた。

 

 余談ながら、この木型場は明治三十一年(1898)七月、第二代所長荘田平五郎氏の時代に建てられたもので、今日なお資料館として立派に役立っている。第二十七代所長相川賢太郎氏の言葉が、正面入り口の左側面のレンガ壁にはめ込まれた銅板に刻まれている。銘文の一部に次のような言葉がある。

 「三菱重工業株式会社発祥の當地に現存する最も古い建物であり、昭和二十年八月
 の空襲に於ける至近弾や、原子爆弾の爆風にも耐えて、九十年の風雪に磨かれた赤
 煉瓦は愈々美しく、我国の近代工業の黎明期に於ける長崎造船所の華やかな門出を
 偲ばせるに充分である。」
 
 山本場長の歩みは颯爽とした足早に変わった。惟芳も歩みを早めて直ぐ後をついていった。土塀に沿って少し歩くと校門があった。校門を潜ると正面に、英国風の二階建て赤煉瓦の、本館より一段と重厚風雅な建築物が目に入った。 
 
 ―あれが学校かな?萩中学校の本館が立派だと思っていたが問題にならん。まるで一流のホテルのようだ。ここが運動場だな。あそこに見えるのは吊輪だろう。その向こうにあるのは肋(ろく)木(ぼく)と鉄棒かな。
惟芳は歩きながら、広々とした運動場の右手にある運動器具に目を向けた。早朝のためか、生徒の姿は見えなかった。建物の正面に大きくアーチ型の入り口がやや飛び出して見えた。上部の湾曲部は二階の窓のあたりにまで達しており、更にその上に二等辺三角形の尖った屋根が載っている。二階正面の窓にもこの入り口と同型のアーチ型の屋根がついていた。正面とほぼ同じ寸法の窓が一階と二階の側面にそれぞれ七つ開いていた。
 
 ―非常に大きくて立派な建物だ。二階の窓の方が大きくて洒落(しゃれ)た格好だ。採光を十分考えてこのように広く開けて作ったものであろう。赤い煉瓦は落ち着いたいい色だ。素晴らしい校舎だな。
惟芳は本館に似たこの建物に思わず見とれて一瞬立ち止まった。山本場長の後について中に入ると、竣工後間もないことが手に取るように分かった。床から壁面、更に天上の隅々に至るまで、新しさと美しさに輝き、木の香りがぷーんと鼻を衝いた。場長は此の立派な建物にいかにも満足しているかのようであった。彼は室内では歩みを緩(ゆる)め内部をゆっくり見渡して説明し始めた。

 「さっき言ったように、今年三月に出来上がったばかりだ。玄関ポーチに続くこの空間は屋内への通路といったところだ。この左右の部屋は生徒の履物や雨具などを置いておく部屋だ。左側の部屋の隣には器具室、右側の部屋に隣接しているのは湯沸室だ。それではホールの中へ入ってみようか」
二階の天井まで吹き抜けの此の大きな部屋はがらんとしていて、中央部左右に階段があるだけであった。角材を四角に組んだ格(ごう)天井(てんじょう)からシャンデリア風の電灯が垂れ下がっていて、惟芳はその豪華さに我が目を疑う程であった。

 

 ―これはすごい。屋根からも光が入るように設計してあるな。二階の天井までは相当の高さだ。広々として気持が晴れ晴れとする。こうした所で伸び伸びと過ごすことは、誰にとってもきっといい影響を与えるだろう。此の学校はこの点だけから言っても素晴らしい。
 惟芳は内部に足を踏み入れた途端、感激して周囲に目をやった。

 「この大きな広間の正面に一番大きな生徒控室があり、その左右に二つずつ合計五つの生徒控室がある。階上には階下の部屋と同じ間仕切りの部屋がある」
山本場長は階段をゆっくり上り、各室を指さしながら説明を続けた。
 「階下の一番大きい生徒控室の真上が講堂だ。講堂の左右にあるのが教室だ。こちら側に四室あり、正面の側にもう一つ、全部で教室は五つある。正面の側には、理化学室、教務室、製図室がある。どうだね、立派なものだろう。各教室にはあのような電灯だけでなく、大理石で作ったマントルピース、つまり装飾的な暖炉もあるのだ。もっともこれは隣の教室と共用の構造だがね。この素晴らしい場所でわれわれもしっかり教えるから、君たちもそれに応えるように頑張らなければいけないよ」
 「はい、有り難うございます。一生懸命頑張るつもりです」
 惟芳はこの新装なった素晴らしい校舎に思わず目を奪われてしばらく見とれていた。我に返ると、このような環境の下でこれから勉強できる幸せを、つくづく有り難く思うのであった。

 「よっし、それでは生徒達もそのうち登校してくるだろうから、講堂で待っていたまえ。今日は最初に、全員に少し話すことがあるから」と言って、山本場長は、分厚い松材で作られた頑丈な階段をゆっくりと下りて行った。 後ろ姿を見送りながら惟芳は、「よっし」が場長の口癖だなと思って思わず苦笑した。

 

 講堂の中には、堅固な作りの木製の長椅子が数十脚整然と並んでいた。惟芳は入り口の真向かいにある窓の所まで行って、ガラスの嵌った大きな扉を左右に開いて外を見た。正面に見えたのは、この校舎の数倍もある貯水池である。その右手にもやや小さな貯水池が見えた。前者は船舶の実験場として使用されているということを後で教えられた。さらにその後方には、貯水池よりももっと横長の立派な建物が遠望できた。これも直ぐ後で判ったのだが三菱病院であった。

 

 左の方に目を移すと大きな工場の建物であろう、幾棟も並んでいるのが目撃できた。鍛冶場か機械場か、朝から鉄を叩いたり削ったりするような甲高い金属音が耳に響いた。湾を隔てて、遠く街の背後の山並みに眼を向けると、朝の太陽がまぶしく輝き、低い稜線は明るく照り映えていた。惟芳は大きく両腕を伸ばして朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。

 ―学校といえば、静かな場所に位置しているのが普通だが、さすが三菱工業予備学校は違うな。こうした環境の中で実践的な教育を施し、将来卒業生に、この所内で働いてもらう目的なのだろう。それでこの様な現場に直結した場所に建てられたのだな。ある程度の喧噪もやむを得ないといえよう。考えてみたらこれは確かに効果的だ。


 惟芳は新たに所員となったためか、全てのことを前向きに考えた。

 窓の側に立ってしばらく外に目を向けた。工場の屋根と屋根の間から垣間見える長崎港のキラキラと輝く海面を、大小の船舶が視界に入っては出ていく。時折「ボー」という何だかもの悲しい汽笛の音が聞こえてきた。惟芳には、日本海の懐かしい眺めと、眼前の港の風景が交錯した。彼は両手で窓を閉めた。
 
 その内、がやがやと人声がし始めたかと思うと、階段を上ってくる本科生たちが三々五々集まってきた。彼等のほとんどは惟芳よりは年少で、立襟背広姿で霜降地の制服を着用していた。中には多少大人びた者もいたが概して年若い。皆目を輝かして友達同士活発に話し合っていた。惟芳は年の割には老(ふ)けて見えたし、その上大柄で落ち着いていたので、どことなく近寄り難く感じたのであろう。誰も敢えて話しかける者はいなかった。年齢に多少の差はあるが、明治三十四年度の新入生四十二名が一堂に会した。
 

 

(二)

 八時の鐘が鳴った。工場は七時始業ですでに活動している。一方授業の開始は八時だから、少しでも時間にゆとりがあるので助かると惟芳は思った。山本場長が講堂に入ってきた。級長の号令で一斉に起立し礼をした後着席した。肩幅の広い背の高い場長が、一段高い講壇に立つと、教場内は水を打ったように静まった。 

 「諸君、お早う。今日この時間は、三菱長崎造船所の歴史についてまず話す。次にそれに関連して君たちの今後の心構えについて、少し話をしようと思う。後ろに座っている者、朝の空気を入れたいから、窓を少し開けなさい」

 こう言って山本場長は一同をまず見渡した。技術専門家と言うよりむしろ海の男といった印象を与える場長は、太く落ち着いた口調で話し始めた。 

 「最初に自己紹介をしておこう。私は造船製図場長で山本長方(ながかた)という。ちょっと変わった名前だ。山本という苗字の者がここにも何人かいるから、長い方の山本だと覚えてもらおう。私は明治三年(1870)に東京で生まれた。江戸が東京と改称されて間もない時だ。十九歳のときにイギリスに渡り、北部のスコットランドにあるグラスゴー大学で造船学を勉強した。約六年修学して工学士の資格を得て、明治二十八年末に帰国した」

 ここで山本場長は外の生徒たちより座高の高い惟芳を認めると、次の言葉を挟んだ。

「私がグラスゴーへいったのが明治二十二年だが、それより三十年近くも前に同じグラスゴーで働きながら造船技術を学ばれた方がおられる。元工部卿であった山尾庸(よう)三(ぞう)という方だ。緒方君知っておるか?」

 場長は惟芳にちょっと訊ねてみたといった感じで、また話を続けた。

 「諸君はおそらく知らないと思うが、山尾さんは山口県出身で、幕末期に藩から選ばれてイギリスへ派遣されたのだ。行を共にした者は五人で、初代の総理になられた伊藤博文さんや、大蔵大臣になられた井上馨さんも一緒だった。伊藤、井上のご両人は長州藩が外国の艦隊と戦いを始めたと聞くや急遽帰国されたが、山尾さんはそのまま留まってネイビア造船所やグラスゴー大学で勉強を続けられた。そのお陰で我が国の造船界の基礎が築かれ、今日の発展を見たのだ。そのような訳で山尾さんは我々の大先輩だな」

 惟芳は伊藤、井上のことはもちろん知っていたが、山尾庸三の事は初耳であった。彼らの他に、我が国の鉄道の父と言われる井上勝や、初代造幣局長になった遠藤謹助といった「長州五傑」については知るよしもなかった。

 

 生徒たちは山本場長が「緒方君」と言ったので、緒方とは一体誰なのかとあたりを見回し、惟芳だと分かると、自分たちとは違って大人びている姿にちょっと驚いた風であった。そのとき生徒の一人が手を挙げて大きな声で質問した。

 「先生、先程からグラスゴーグラスゴーとしきりに言われますが、どんなところですか?」
 「それでは簡単にその場所から教えよう」
こう言って山本場長は黒板に大きくイギリスの略図を描いて説明した。
 「この線から北がスコットランドで、北海に面してこのくびれたところに在るのが首都のエヂンバラだ。グラスゴーはエヂンバラとは反対の大西洋側にある。緯度はほぼ同じでこの位置だ。これら二つの都市は六十キロしか離れていない。グラスゴーの当時の人口は首都のエヂンバラの倍近くあった。それというのも、石炭、鉄鋼、造船といった大型産業の興隆で大いに発展したからだ。私が行ったときは何しろ言葉の訛りがひどくて聞いてもよく分からず、また白夜と言って、夏の夜いつまでたっても暗くならないので本当に難儀をしたよ。しかし住民は気さくで親切だった」

 山本場長は質問に答えると、在りし日を懐かしみながら話を続けた。
 「ところで私がいた頃は、何と言っても英国造船業の最盛期だった。一八九六年の進水量は一一五万トンで、世界の七四パーセントに達し、そのうち三九万トンは輸出船だ。造船技術を学ぼうと世界各国から志のある若者がイギリスへ勉強にやって来たのも無理はない。私は帰国の翌年からここ三菱長崎造船所でお世話になっておる。
 

 当時造船顧問にゼームズ・クラークさんなど八人もの外人がおられ、設計をはじめとして多方面の指導を受けた。技術面だけでなく、人間的にも皆紳士だったよ。ここで進水した常陸丸や天洋丸の設計には私も携わった。できたら後で実物を見に行こうかな」
こう言って山本場長は別に自慢する風もなく、自己紹介を終えると本題に入った。

 

 後日談だが、山本氏は一九一〇年の日英博覧会で渡英したとき、グラスゴー大学から工学博士の学位を授与されている。その後一九二一年に東京大学船舶工学科の教授、三三年には大坂大学工学部の教授になり、三四年に亡くなっている。三菱長崎造船所では造船設計の中心的存在だった。謹厳実直な英国紳士の風があったと、教え子は言っている。


 なお、当時東大、阪大など帝国大学の教授といえば、今日とは比較にならないほど社会的地位は高かった。従って大学教授になることは立身出世である。他方造船所にそのまま止まり、所長や副所長へと栄達するのが、これまた大学出の秀才の辿る道でもあった。しかし、「中には出世コースの道を好まず、無冠のままで各国の書籍や雑誌を読破し、研究に没頭し、功績を上げ、己の固い信念を貫かれた頭の下がる偉い人もいた」と、中島亮一氏は『生成期の長船を築きあげた人々の裏話』に書いている。

 「本所が三菱長崎造船所の名を冠したのは、明治十七年に初代社長の岩崎弥太郎氏が、国からこの造船所の払い下げを受けた時だ。それまでの事を簡単に言うと、幕末、徳川幕府アメリカ、ロシアなどからの外圧をひしひしと感じ、従来採ってきた鎖国政策では、今後の我が国の舵取りは出来ないと痛感し、唯一国交を開いていたオランダと折衝し、技術者を招いて、ここ長崎に我が国最初の製鉄所を建築することを決めた。それは安政二年(1855)のことである。」


 ここまで話すと山本場長は一息入れた。生徒たちの聴講態度が良いのに気をよくして、彼はは話を続けた。
 「安政四年だからもう五十年近くも前のことだが、ヘンドリック・ハルデスというオランダの機関将校が配下の技師を連れて来日した。彼はその時から三年五ヶ月をかけて長崎製鉄所の一期工事の竣工を済ませて帰国した。この間ハルデスたちは次のような事を行っている」
 こう言って山本場長は黒板に向かって大きい字で箇条書きをした。
  
 一、長崎製鉄所の建設指導
 二、海軍伝習所で蒸気理論の講義
 三、伝修生の航海訓練に当たり機関部取扱の実地指導
 四、福岡藩薩摩藩への工業技術指導
 五、ロシア軍艦アスコルド号の修理援助
 六、長崎茂木地区で鉄鉱山を発見 

 

 「なお、このハルデスという人は蒸気機関の名人だったようだ。蒸気船に乗っていて、音を聞いて何処に油が不足している、或いは異変が生じている、とすぐ察知出来たそうだ。いずれにしても、当時の長崎のような辺鄙な土地で、しかも近代科学の応用について全く無知な人々の間で、蒸気機関の施設を設け、今日の基礎を築いてくれた恩人だ。年俸一千金を給したというが、それだけの大金を支給するに足る、と幕府の要人たちは彼らの技術を高く評価したのだ。こうした西洋の新技術を実地に見学し、また指導を受けた我が国の人達は、さぞや驚異の心をもって聞き入ったことと私は思うね。しかしそうした連中の中にも、長崎出身の本木昌造のような有能な人物がいたのだ。彼は既にオランダから輸入されていた書物で、ある程度の知識を持っていたからだ。従って本木氏はのみこみが早く、協力してその後の事業に携わるようになった。ハルデスの帰国後、本木氏は万延元年に製鉄所御用係に任ぜられている。いま市内西ノ浜にある『くろがね橋』は、彼が架設した我が国最初の鉄製の橋だ。本木昌造は製鉄所が購入した蒸気船を、自ら船長として運航している」

 山本場長はここまで話すと、日本人の優秀さにも言及する必要を感じてか、ちょっと話を脇道に逸らした。
 「この本木昌造についてはおそらく諸君は知るまい。彼は若くして和蘭(おらんだ)通詞(つうじ)の家の養子になり、十二歳の時から本格的な通詞の稽古を始めている。君たちとほぼ同じ年齢だね。その後稽古を重ね,三十歳になったときだが、嘉永六年ロシアの軍艦が長崎へ来航した時、使節の通訳を命じられておる。またその翌年、ペリー提督の率いるアメリ使節来朝に際しては、また通詞として下田まで行っている」

 ―下田といえば、あのとき松陰先生と金子重輔が密出国を企てられ、失敗されたのだ。 もし成功されていたら、我が国の歴史も変わったかもしれない。

 

 惟芳は場長の話に、下田という地名が出たので、松陰の事をすぐ思い浮かべた。 
生徒たちは初めて聞く話に熱心に耳を傾けた。山本場長はさらに話を続けた。
 「ハルデスが来日して、海軍伝習所が出来た時、本木昌造は海軍伝習掛として、測量、算術、鉱坑、製鉄など多方面の知識の習得に精魂を傾けている。彼は実に多才の人で、晩年は製鉄と造船を弟子の平野富二という者に託して、西洋活字の研究と活版印刷の普及に当たっている。この平野富二という男も若かったが非常に優れていた。いずれにしても、この本木昌造という人物は、先見の明に富んだ天才だね」

 生徒たちは、長崎出身と聞いて身近に感じたが、この通詞のような職にあった者が、製鉄所を切り盛りしていたという話に、いよいよ真剣に聞き入った。
 「さて、こうして出来た製鉄所は、オランダ人の指導による我が国最初の本格的な洋式工場で、工作機械や立派な設備を完備していたから、慶応二年(1866)、木造軍艦千代田形(一三八トン)の機関を完成させた。六十馬力で、速力は五ノット、これは国産初の機関を備えたスクリュー船だ。しかしこの船は、五稜郭の戦いで座礁した。君たちは五稜郭について聞いた事があるか?」
 場長は一方的に話すのもどうかと思って、生徒の注意を引くためにこんな質問をした。そのとき前列にいた生徒が手を挙げて、きちんと答えた。惟芳はその答えに感心すると同時に、次のような感想を抱いた。
 
 ―明治二年五月か。榎本武揚を中心とした旧幕府軍と維新政府軍が、箱館五稜郭で最後の戦をした事は知っておるが、政府軍から言えば敵の大将であった武揚が、今新政府の高官となっておる事を考えると、彼は余程偉い人物だと見込まれたのだろう。

 場長はまた、一隻の船を取り上げて説明した。
 「その後明治十六年(1883)、我が国で建造された最大の木造汽船、小菅丸(千四百九十六トン)の機関をここで製作した。六四二馬力で当時としては驚異的な大馬力で世人を驚かしたのだ。船の長さは七十三メートル、幅十メートル以上あって、速力は十ノットも出たから、格段の進歩を遂げたことになる。それでも我が国は鉄材の供給が不自由なため、国内に豊富な欅、樫、楠などの良材を用いて入念に建造したから、起工後完成までに七年を要した」

 

 余談であるが、この小菅丸建造に最も寄与したのが、松下村塾で松陰の最後の弟子であった渡辺蒿蔵である。彼は慶応三年に日本を出ると、先ず英国へ、さらに米国で造船学を学び、帰国後長崎造船所創設にあたり、所長に任命されている。明治十七年にここが民営化されると同時に退所した。今から考えると、まだ働き盛りとも言える四十代の若さで、彼は故郷の萩に引退したのである。その後九十七歳の高齢に至るまで、悠々自適の生涯を送った。
 

 松陰の人物評に、「天野 (筆者注 一時養子となって天野清三郎と称していた) は奇識あり、人を視ること虫のごとく、其の言語往往吾をして驚服せしむ。」また、「此の生昨年已来一事も吾が説に同意せず。奇見異識他日必ず異人たらん。」とある。この様に松陰が蒿蔵を評した時、彼は弱冠十四歳であった。後日、長崎造船所が官営から民営に移譲されたとき、民間人岩崎の配下で働くことを潔としなかったのも頷(うなず)ける。

 

 「さて、製鉄所が出来上がると、本来の目的である鉄鋼船の建造ということになるのだ。日本古来の木造船の歴史は古いが、西洋の船舶はその大きさはもとより、何と言っても速度と耐久力が違う。どうしても向こうの技術を学ばなければ事は運ばない。そのため、徳川幕府は、優秀な青年をオランダのライデン大学に派遣して、実地の勉強をさせるといったことも、並行して行っているのだ。」

 ここまで話すと山本場長は、いよいよ三菱造船所について、自分が直接見聞した事をいかにも楽しげに語り始めた。
 「今日、我が三菱長崎造船所は、大学を卒業した優秀な人材を年々採用し、その人たちを海外に留学させて技術の修得向上に勉めている。明治三十一年にここのドックで竣工した常陸丸は、大きさ、速力、機関出力など全ての面で、我が国造船史上画期的な船であり、我が造船技術の進歩を世界に紹介した船だ」
 山本場長は、自ら設計に参与した常陸丸のことを話すのは、やはり嬉しいのだな、と惟芳は思いながら興味深く話を聞いた。
 「ここで君たちに教えておくが、常陸丸の総トン数は六千百七十二トンだ。普通船の総トン数といえば、容積百立方フィートを一総トンとして計る。従って船内全体の容積(立方フィート)を百立方フィートで割ったものが、その船の総トン数になるのだ。
しかし船の安定、衛生に必要な部分の容積は除いてある。分かったかな。今丁度常陸丸が長崎港に錨を下ろしているから、この後見に連れて行こう」
 山本場長の言葉に、若い連中は思わず歓声を上げた。船が好きでこの学校に入ってきただけあって、常陸丸の見学が出来ると言われて、皆大喜びであった。

 

 三菱重工業株式会社長崎造船所発行の『長船ニュース』(昭和五十六年九月一日)に「ながせん今昔」と題して、常陸丸のことが次のように記載してある。当時の我が国の造船界の事情を知る上で参考になると思われる。
 
 「日清戦争の経験により造船能力の不足を痛感した政府は、明治二十九年大型優秀船の建造助成策として造船奨励法・航海奨励法を公布したが、当時わが国造船界は揺らん期にあり、明治二十八年当所で完成した須磨丸「千五百九十二トン)が国産最大の船であったに過ぎない。

 

 明治二十八年、日本郵船会社は欧州航路用大型船六隻を英国に発注する計画であったが、当所はその一隻を引き受けることを申込み常陸丸を受注。工場設備の拡充や、新たにイギリス人造船顧問を雇い入れる等万端の準備を整え、明治二十八年起工以来一方ならぬ苦心を重ねながらも、工事は順調に進捗していたところ、ロイド検査委員との間に意見の衝突をきたし、予定より九ヶ月遅れて進水した。
就航の結果は外国建造のものに比して何ら遜色なく、我が国造船技術の優秀なことを実証、以後当所の技術・能力の揺るぎない自信となって、後世へ伝承されたのであった。
常陸丸は日露戦争で陸軍御用船となり、明治三十七年六月、玄界灘で敵艦隊の攻撃をうけて沈没。のち琵琶曲に歌われ永く国民に哀惜された。」

 姫路市在住で琵琶歌について造詣のある金沢史典氏から、次の琵琶曲を教えていただいたので、そのさわりの部分だけ記しておこう。

 頃は明治三十有七年  水無月中の五日
 心づくしの島離れ   玄海灘のただ中に
 日の丸掲ぐる常陸
   (中略)

 ただ一すじに走り来て   我を取巻く敵の艦
 何事と云う間なく     乱射乱撃雨(あめ)霰(あられ)

 進み遁れんひまもなし

   (中略)

 運送船の悲しさは   進退ここに谷(きわ)まりて

 詮方なくも敵艦に   任せはてしぞ是非もなし
   (中略)

 海に投じて死すもあり  敵弾ますます加われば

 甲板の上は屍の山     流るる血潮に玄海

 浪は朱(あけ)にぞ変じける
   (中略)

 国に殉ぜし眞(ま)雄夫(すらお)の  清き其の名は萬代も
 響の灘に立つ浪の     絶ゆる時なく仰がれて 

 末まで遠くながるらん   末まで遠くながるらん

 

 琵琶の哀調を帯びた弦の響きを伴奏に、この悲しい琵琶曲に耳を澄ませば、悲憤梗概、ロシア憎しの感情が、澎湃(ほうはい)としてわき起こったであろうことは想像に難くない。

 

 山本場長は、常陸丸の竣工の遅れについて思い出すのも嫌なのか、それともイギリスとの友好関係を考慮したのか、それ以上は言及せずに話を続けた。
 「さて清国との戦は我が国の勝利で終ったが、船舶の需要は加速度的に増加し、国も全面的に助成してくれているので、物資の輸送にあてる貨物船建造の注発が大幅に増した。しかし軍艦建造に関しては、まだ我が国の技術は世界の水準には達していないので、イギリスやイタリーなど先進国に注文している。これからは軍艦の建造も視野に入れなければならない。いまも言ったように、本所は帝国大学を卒業した優秀な方々が沢山おられる。君たちはそういった先輩から直接教えてもらえる事を喜びとし、また誇りとしなければいけないよ。この学校はその点においては日本一だと言える」

 惟芳は山本場長の顔をじっと見ながら、熱の籠もった話に耳を傾けた。その顔は色白のインテリの顔とは異なり、長年の海上生活でやや赤銅の色を帯びているようだった。一時的にも海軍に籍を置き、技術将校として実戦の経験があるのではないか、と惟芳は密かに思った。
 「ところで、君たちも承知しているように、日清役が勝利のうちに終わったとは言え、いわゆる三国干渉による遼東還付の一事は、西欧諸国の横暴まさに許し難い事件だ。彼等はまるで死体にたかる禿鷹のように、中国の領土をむしり取っている。なかでもロシアは二十九年六月、早くも東清鉄道敷設権の獲得と、我が国を明らかに仮想敵とする露清密約を成立させ、つづいて三十年には突然、艦隊による旅順港を占拠しそのまま居座っている。さらに三十一年三月にいたって、長春旅順間の鉄道敷設権までも併せて、遼東半島の長期租借権をもぎ取ったのだ」
場長の話は益々熱を帯びてきた。
 「不凍港を求めて漸東政策を続けるロシアの触手は止まるところがない。ロシア艦隊に日本海を制せられたらどうなるかは、諸君も考えるまでもないことだろう。こういった世界の情勢の中、我々は如何に対処すべきか、自ら答えは明白だ。今君たちに銃を手に執って戦えとは誰も言わないが、国民の一人として、臥薪嘗胆、報復の気構えをもって、今は課せられた職務、つまり一生懸命に勉強にしなければいけないのだ。始業に当たり先ずこのことを言っておきたいので、集まってもらったのもそのためだ。よっし、それではこれから常陸丸を見学しよう。五分後に全員玄関前に集合!」

  萩においては、こういった時事問題は、切実な話題として耳にすることはほとんどなかったが、いまこうして山本場長の訴えるような話を聞くと、惟芳としては家計を助けるといった事とは別に、もっと高い次元で、生き方を考えなければとも思うのであった。


 明治の時代、県立中学校を卒業しただけでも選ばれた者として世間は見ていた。まして帝国大学出身、あるいは外国で学んだとなると、驚異的なエリートとして遇された。惟芳は本場イギリスで造船学を学んだという山本場長の顔をじっと見ながら、決意を新たにしたのである。

 一同が集結すると、山本場長は常陸丸が停泊している岸壁へと生徒たちを先導した。建物と建物との間は幅広い通路で、その中央にトロッコ用のレールが縦横に走っている。見上げるような大きな起重機も設置してあった。目に入るもの全てが珍しい。常陸丸が視野に入った途端、生徒たちはこの初めて目にした国産の船が、予想以上に大きいのに思わず喚声を上げた。興奮した若者たちに囲まれて場長は説明を始めた。
 「どうだ、思っていたより大きいだろう。全長四五五フィート、幅が四九フィートある。メートルに換算したら、おい君、いくらになるかね?」
すぐ前にいた生徒は、出し抜けの質問に戸惑っていると、場長は笑いながら、
「すぐには答えられないだろうな。およそ一三五メートルの長さで、幅は一五メートルある。先ほども言ったように、六千トン級の船はそれまで我が国では建造されていない。主機関は何と言っても、三千八百四七馬力の出力の蒸気機関だ。それに我が国初の発電機や電灯を装備した電化船とも言える。その上十四ノットの速力も画期的なものだ」

 山本場長はここまで話すと、生徒たちの興味を引くために、船の進水の模様を話題にした。
 「これだけ大きな船を進水さすのは容易ではない。船(せん)殻(かく)工事が出来あがると、進水工事に入る」
 「船殻工事とは何ですか?」生徒の一人が訊ねた。
 「船殻とは船体だけで、家でいえば家具などがまだ収納されていない外枠までの工事を船殻工事というのだ。」 場長は質問に分かりやすく答えた。
 「さて、進水工事に入ると、まず船体の下に固定台を設け、船が海上へ下りる道をつくる。その上を滑走台が船を載せたまま滑り下りるという算段だ。固定台にヘットを流すヘット流しが進水工事の中でも最も要領のいる仕事だ。高価なヘットではあるが節約し過ぎて船が思うようにスムーズに滑らないとたいへんだ。しかし反対に滑りすぎても問題だ」 
 「ヘットて、ベトベトしたものなんやろうか。」誰かが頓狂な声をあげた。
 「ヘットの主要成分は牛脂、木蠟、これはハゼの果皮から採った脂肪だ、それとパラフィンなどだ。中小の造船所で売れば結構お金になる。従って船が進水するとこのヘットが海上一面に浮かぶので、小舟によるヘット争奪戦は見物(みもの)だ。常陸丸の時も、進水した勢いで一度に押しやられた海水が、大きな津波のようになって、ヘットを取るために来ていた小舟たちをまるで木の葉のように翻弄した。中には海に飛び込んで掬い取る強者(つわもの)もいたよ」

 山本場長は進水時の様子を目の当たりに見るかのように、手振りを添えて話したので、生徒たちは真剣に聞き入った。彼はさらに話を続けた。
 「ところで船舶の建造工程は、起工、進水、完工と大きく三区分されるが、何と言っても進水式ほど関係者が緊張するときはない。また船が無事海面に浮かぶ門出のときほど感激することはない。その船にとっては事実上の誕生日だからね」
ここで山本場長は、常陸丸の進水式の時の様子を思い出して、一段と詳しく話し始めた。
 「進水式の時は、船主、造船所の代表、招待客が全員立ち会って、その船の無事進水と将来の航海安全ならびに繁栄を祈り、その誕生を祝福するのだ。塗装の色も鮮やかな船には万国旗が翻り、威勢のいいバンドの吹奏に送られて、船は進水を待つばかりだ。ただ一本の支綱が銀の斧で切断されると、支綱の先端に結ばれていたシャンペン・ボトルが船体にあたって砕け、船は洗礼される。それと同時に巨体は静々と進水台を滑り始める。くす玉が割れ、紙吹雪の散る中を船は次第に速度を増して行くと、万雷の拍手が起こるのだ」
 惟芳は船の進水の情景を頭に描きながら聞き入った。
 「船体が滑り始めて海上に浮かぶまで約十秒、最大速度は秒速四ないし五メートル。この間ヘット作業に携わった者たちは天にも祈る気持ちだ。分かるだろう? 私にとっては生涯決して忘れることのできない光景だった。よっし、それでは最後に言っておくが、君たちは実に運が良かった。この常陸丸は日本郵船会社に所属していて、普段は欧州航路用だから滅多には見られない。まあここからじっくり見ておきなさい」

 均等な間隔で並んだ四本の高いマストがやや後ろに傾いている。マストから四方へ張り廻らされた太い索綱が揺れているのが見えた。船橋の真後にわずかに傾斜した黒い煙突がある。これは驚くほど大きい。その煙突からもくもくと黒煙が立ち上っていた。甲板にはほとんど人影が見えない。船尾に日章旗がはためいていた。数羽のカモメがマストすれすれに飛び交い、小魚を見つけては水面に舞い降りていた。


 生徒たちは常陸丸の雄姿にしばし見入っていた。惟芳も生まれて初めて見るこの巨大な船に息を呑んだ。その前を行き来する漁船やサンパンはもとより、停泊中の外国船に比べても巨大な船体である。彼は我を忘れて立ちつくしていた。

 

 初日の出勤を無事に終えて下宿に帰った惟芳は、山本場長の話の後半に出た時事問題を、切実な事として真剣に考えた。


 ―維新の幕開けと同時に我が国は世界へ門戸を開き、お陰で工業技術において飛躍的進歩を遂げたことは場長の言われた通りだ。先ほど見た常陸丸にしても、短日月のうちによくもあの様な素晴らしい船を造り上げたものだ。たとえ何人かのお雇い外人技師がいたとしても、我が国で完成させたのだからたいしたものだ。
 しかし山本場長の話を聞くと、世界の情勢は緊迫の度を強めている。とくにロシアが極東へとその魔手を伸ばしている今、決して安閑とはしておれない。軍艦の建造も早急に着手されることになるだろう。俺としても、設計をはじめとして、多くのことを勉強しなければいけない。俺はこれまで、家計を助けるといった考えしか無かったが、我が国の将来の事を思うと、もっと高い次元で生き方を考えなければならないのではなかろうか。

 

 惟芳は山本場長の話を反芻するかのように、考えをめぐらした。
―明治二十二年(1889)に帝国憲法が公布される前、同年一月に徴兵令の本格的改正により、徴兵猶予の制度が廃止され、国民皆兵の原則が確立したことは、俺も耳にはしていたが、我が国の緊急事態をこうして知らされると、何か緊迫したものを感じる。固い決意で立ち向かわなければならないものが目前に迫りくるような気がしてならない。

 

 こうした緊迫した現状を考慮して、惟芳はさらに次のような事を真剣に考えた。
 ―俺は幼い時から男の生き方として、潔さを教えられてきた。一旦緩急の際には、国のために身命を捧げることはもとより覚悟の上だとは言え、年老いた両親や小学へ入ったばかりの尚春の事を考えると、戦に出て親の死に目に会えない、ましてや親より早く死ぬことは、不孝の極みだ。しかしこうした事は、国民誰しも大なり小なり懸念もし、またある程度覚悟しなければなるまい。

 

 惟芳は机の前に正座して腕組をし、両眼を閉じてしばらくこう言ったことを考えていたが、その後は弓を射る時にいつも心がけていた動作、つまり臍下丹田に力を入れて、無念無想の境地に近付けるようにとじっと瞑目していた。

 

 

(三)

 吉川先生とは朝夕の食事を共にするうちに、お互いますます堅苦しさが溶けて、惟芳は心底気心が合うように思えた。先生は夕食の後など時々話しかけてきた。そのときの話題は時事問題を始めとして、文学や哲学などなかなか幅広く、惟芳としても、これまで明倫小学校や萩中学校で学んだ事や、ここ長崎の造船所の予備学校で習得するのと違った知識が得られるので、先生が提供する話には興味深く耳を傾けた。
今日も夕食を済ませて二階の自分の部屋に入り、窓を大きく開け放ち、黄昏近くの暗緑色に沈んだ諏訪の森を横目に見ながら、机に頬杖をついていると、先生が外から声をかけてきた。         
 「緒方さん、ちょっとお邪魔してもいいですか?」
 「はい、丁度休んでいたところです。どうぞお入りください」
 肩幅の広い先生が浴衣姿で入ってきた。部屋の入り口の襖戸は開けたままにしてあるので、初夏の涼風が心地よく吹き抜けて行く。郷里の萩は寺が多く墓地の花筒で蚊が発生し、さらに橙畑が多いので藪蚊は悩みの種であった。ここ長崎も蚊の攻撃にはやはり気を使う必要があった。蚊帳を吊るほどではないが、惟芳は寝る前には何時も蚊取り線香に火をつけていた。彼は線香を部屋の片隅に置き換えて吉川氏の座る場所を作った。
二人は胡坐(あぐら)をかいて向き合った。惟芳も浴衣に兵児帯といった寛(くつろ)いだ姿である。先生は浴衣の袖をまくり上げていて、片手に扇子を持っていた。音もなく忍び寄る蚊を退散さすための用意である。着座すると一冊の雑誌を傍らに置いた。

 「お邪魔します。今日は風があっていいですね。学校の勉強はどうですか、本格的な設計の勉強は始まりましたか?」
 「いいえ、設計というより製図から少しずつ教えてもらっている段階です」
 「製図と言えば思い出しますが、烏口(からすくち)を使っての線引きを私も中学校でさせられたことがあります」
話題が製図で始まったので惟芳は少し積極的に話した。
 「あの製図用の小さな器具はなかなか精妙にできています。墨汁を適量含ませなければいけません。多すぎた時は、あてがった定規を伝わって墨汁が浸み出して、それまで描いた画面がわずか一本の歪(いびつ)な線で台無しになりますから」
 「そうですね。折角の努力が水泡に帰して、私も最初からやり直した事が何度もありました」
 「そのためにも、何時も一定のきれいな線が引けるように、烏口の先を研ぐ事が必要です。まあしかし、何回か失敗すれば次第に上手にはなりますがね」
 「烏口の先を研ぐのですか?」
 「はい。その研ぐにもコツがありまして案外難しいです。この『製図概説乃幾何図法』にも書いてありますが」
 こう言って惟芳は学校で使用している薄い教科書を取り出して吉川先生に見せた。
 「ここにも図示してありますように、烏口の刃先は鋭角の三角形になっています。研ぐ時に、刃先が角張ったり、偏(かたよ)ったりしないで、丸みを帯びた状態に研がねばいけません」 
 こう云いながら惟芳は両手を「八の字型」にして、実際に研ぐ仕草をしてみせた。
 「また線引きの場合、主にT定規と三角定規を使いますが、これらの定規に烏口を真っ直ぐ平行にあてて、圧迫の度を変えない様にしなければいけません。慣れたらなんとか巧く出来ますが、始めのうちは難しかったです」
 「なるほど、さすがにその道の専門家ともなると芸が細かいですね」
 「専門家なんてほど遠い話です。それから製図用の鉛筆にしましても、硬筆の3H,4H、5Hを使います。鉛筆の削り方も鑿(のみ)形扁平で、正面から見ますと矩形、側面から見て鋭角に絶えず保っていなければなりません。線の太さも五種類ありますので、それぞれに適応するように何本も削っておかねばなりません」
 「そうですか。五種類もの線を引きわけて描くとは知りませんでした。緒方さんは大きな手をしておられますが、見掛けによらず器用のようでうね?」
こう言われて惟芳は大きな両手を開いて、
 「いや、それほどではありませんが、人並みには描くことが出来るようになりました。しかし製図はさておいて、学科の勉強では予復習に時間を取られます。高等数学や船舶の構造に関することを習っていますが、私がこれまで中学校で習ったのとは違ってかなり高度なことですので、しっかり勉強しないといけないと思っています。その上船舶構造に関する教科書はほとんど英語の原書ですから骨が折れます」
 「なるほど、でも緒方さんはこれまで中学校で英語を習って来られたからよいとして、予備学校に入って初めて英語を習うのもいるでしょう?」
 「そうですね。小学校を出ただけで入った者もいますが、流石に入校出来たものは利口でその上根性がありますから、真剣に取り組んでいます」
 「家が貧しくて中学校へ行けなかっただけで、元々頭がいい連中でしょう」
 「確かにあの連中には感心です。先生方も、開校したばかりの三菱予備工業学校の将来が懸っているということで、気合の入った授業をされています」
 「兵式体操はありますか?」
 吉川先生は五高時代、この兵式体操で鍛えられたこと、また文科系の学生の中には、これに反発するものがいたことを思い出して質問した。
 「日清戦争のお陰で、軍需産業が飛躍的に伸び、今またロシアの脅威が叫ばれていますから、特に長船は今後軍艦建造といったこともありまして、我々の学校でも兵式体操は重要な教科の一つに考えられています。先日も稲佐山の山頂まで走って上りました」
 「そうですか。なかなか鍛えられますね。ところで話は変わりますが、緒方さんがこちらへ来られるおよそ一カ月前に、私の中学校へ高田早苗博士が見えて、教職員と生徒一同に講演をされました。緒方さんは高田博士を御存知ですか?」

 吉川先生はこの事についてぜひ話したいと思っていたのか、急に話題を変えた。
 「いいえ存じません、どのような方ですか?」
惟芳は博士の名前をつい最近新聞紙上で知っただけである。話題が変わったのを機会に、喉が乾いたら飲もうと用意していた番茶の冷めたのを、湯呑に注いで吉川氏にすすめた。
 「八女茶の上等ならよいのですが、お粗末な番茶で失礼します」
 「喜んで頂きます。夏の暑いときはこれに限りますよ。番茶と聞くといつも思い出しますが、五高時代に誰かが夏目先生に、『番茶を英語で何と言いますか』と問うたとき、先生はとっさに、『それはサヴェジ・テイーだよ。』とおっしゃったのです。サヴェジには粗野なとか野蛮なといった意味はありますが、粗末なという意味はありません。それを承知で先生は面白おかしくお答えになったのですが、なかなか当意即妙の名訳だと思いました」
 「なるほど、流石ですね」
 吉川先生は冷めた茶をいかにも美味そうに飲み干すと、湯呑を右の膝頭のあたりに置き、居ずまいを正して話し始めた。
 「ところで、高田博士のことですが、博士は東京帝国大学を明治十五年に卒業され、同年、東京専門学校(筆者注:早稲田大学の前身)創立と同時に同校の講師になられました。そして国会の開設以来代議士に選出されておられます。立派な教育者でしかも優れた政治学者もあります」
 「どんな要件で見えたのですか?」
 「先日の『鎮西日報』に載っていましたが、今回こちらへ来られたのは、東京専門学校を私立大学に昇格したいための資金集めが目的のようです。博士は大隈重信氏の信望が極めて厚いと聞いています。大隈氏は御承知だと思いますが佐賀の出身です」
 吉川氏は大隈重信の名を口にするとき、郷土の大先輩として尊敬と親しみの気持ちを抱いているように見えた。
 「学校での講演の内容は、教育に関することでした。かいつまんで申しますと、今日、国民教育の方針として博士が唱道される事柄は、立憲思想の普及と、対外概念の発達、この二つであると先ず申されました」

 吉川氏は大隈氏の言葉を反芻するかのように、少し改まったような口調で話を続けた。
 「明治二十二年の紀元節に帝国憲法が発布されて以来、我が国は立憲政治の国となり、国民は憲法の命ずるところに従って、立憲政治の民とならなければいけない。しかしこの思想はまだ普及していない、と言って面白いことを申されました」.
 「どんな面白い事があったのですか?」
 吉川先生はその話を思い出して,いかにも可笑しいかのように一人笑いをした。
 「それはですね、次のような事があったというのです。憲法発布の当日に、東京市中は非常に賑やかで、あたかも祭礼のごとく市民は狂騒したそうです。そのときある人が市民の一人に、『なぜこんなに喜び騒ぐのか?』と問うたところ、『今日は何でも政府よりケンプ(絹布)のハッピ(法被)が下さるとのことだ』とか、また『今日は弘法大師の兄弟分のケンポー大師のご開帳がある』と答えたとか。全くの笑い話ですが、今日と雖も、国民の立憲思想の発達は、あの時とさほど変わらない情けない状態だと、博士は申されたのです」
 「憲法発布を絹布の法被とは笑わせますね。それで立憲思想を発達さすには、具体的にどうせよと言われたのですか?」
 「立憲思想の発達しない国では、公徳の腐敗が起こり、その結果人心は退廃する。今日各種議員選挙の状況を見ると、競争の弊害は年々加わり、議員の選挙費用は歳々に増加の傾きがある。従って代議士の選挙は実に大切で、我が国の安寧のみか東洋の安危も実にこれに繋がる、とこう声を大にして言われました」

 選挙に一体どれくらい費用がかかるのだろうかと思いながら、惟芳は耳を傾けた。
 「この大切な代議士の選挙に、このように金銭を費やせば、代議士になった後、悪事をなしてもその埋め合わせをすることになり、賄賂も行われる。これが我が国の現状である。これを救済する方法は、ただ立憲思想の普及を計り、公徳の養成に勉めることである、と博士は申されたのです」
 惟芳は政治家の中に、公徳心の欠如が生じているといって、具体例が新聞紙上に載っているのを思い出した。吉川先生の言葉は続いた。
 「博士はさらに言葉をついで、元来選挙権なるものは、自己のみの権利のようだが、そうではなくてそれは公権である。青年諸君も学校教育なり家庭教育においても、立憲思想の養成に勉め、他日選挙権の行使を誤らず、社会の公徳を維持する覚悟がなければならない、と熱弁を振るわれました」

 吉川先生は高田博士の講演に余程興味を覚えたのであろう、その内容をかなり詳しく話して聞かせた。惟芳はこれまでの学生の身分とは異なり、一社会人としての自覚がこのところ萌しているので、先生の熱弁に呼応するかのように時々自分の考えや感想を述べた。
 「選挙権は私権ではなく公権であるから、正しく行使しなければいけないと云うのですね? 博士の話は他にもう一つありましたね?」
 「はい、それは対外観念の発達についてです。このことにつきましては、今更事新しく喋喋する必要はない、と博士は先ず断わられた後、次のように言われました。今日の日本は昔日の鎖国時代ではなく、開国進取の時代である。しかし我が国の現状はその必要を知りながら、未だ対外観念は十分に発達していない、いや寧ろ島国根性のみであって、対外観念は毛頭なしといった有様である、と」
 吉川先生は高田博士の口調を真似るがごとく熱っぽく話を続けた。惟芳も、日頃造船所内で交わす会話とは次元の違う話の内容に耳を傾けた。
 「今日世界の有り様は民族統一主義より一進して、民族的帝国主義となり、欧州の諸国は勿論、米国の如き自由主義の共和国も一変して、帝国主義の政策を取るに至っています。この事は新聞を読めば誰にも理解できます。そしてこれら欧米諸国の勢力拡張の目的地は何処であるかといえば、緒方さん、何処だと思われますか」
 「そうですね。私は清国だと思います」
 「その通り、勢力拡張の目的地は東洋、なかんずく支那であります。博士は、列国は競って利益を収めようとしている、と明言されました。私もそう思います。そこでこのような現状に際して、我が日本はいかなる方針を取るべきか、と博士は問いかけるようにお話になったのです。緒方さんはどうしたらよいと思われますか?」
 「そうですね。やはり我が国も外に目を向けて、とりわけ東洋の国々との友好的な交易を促進すべきではないでしょうか」
 「博士もそのような主旨を述べられました。即ちここ長崎が開港せられてよりほとんど半世紀も経つが、我が国の貿易は片貿易であって、外国人は来て盛んに取引をするが、日本より出かける者が極めて少ないのが現状のようです」
 「そんなに海外へ出かける人は少ないのですか?」
 「博士が言われるには、日清戦争後、日本より要求して開かせた清国開港場における幾多の専管居留地は、今なお草茫々として昔のままであるそうです。これらの現象は即ち我が国民の対外観念が発達していない証拠であるので、もし今日これを矯正しなければ、世界における日本の勢力は日に日に縮小し、遂に滅亡するの他はないと申されました」
 「えらい悲観的ですね。日本の国民性ですかね」
 「まあそうとも言えるでしょう。そこで博士は国民教育の目的とは何か、と言って次のように発言されました」
 吉川先生は、博士の講演に感銘を受けたと言わんばかりの話しぶりである。
 「我が国民の長所たる団結力をますます強固にすると同時に、その短所である未熟な対外観念の伸長に勉めることである。我が日本も日清戦役後は小国より大国になったかのようであるが、未だ世界国と称するに至っていない。これより世界的の観念を発達させて、少なくとも世界国とならなければいけない。まあ以上のような主旨で講演を締めくられました」

 萩にあっては、このような話を聞いてもそれほど感じなかったかも知れないが、惟芳は今置かれている立場を考えて、確かに心に訴えるものがあった。それには吉川先生の熱意のこもった話しぶりも一役買っていた。
ちなみに、高田博士の献身的な努力で、東京専門学校は創立二十周年目の明治三十五年に、早稲田大学と改称した。明治十五年に生まれた俳人種田山頭火は山口中学を卒業後、早稲田の学生となり青春を謳歌している。惟芳は明治十六年生まれ、二人は全く異なる道を選んでいる。

 「もっとお話ししたいですが、夜も大分更けてきました。今日はこれで失礼させていただきます。夜風が出て多少涼しくなりましたね。団扇は結局いりませんでした」
こう言って吉川氏は、右手に持った団扇を兵児帯の後ろに差しいれながら立ち上がりかけた。
 「おお、忘れるところでした。この雑誌を読んでみませんか?」
彼は肩までたくり上げていた浴衣の袖を下ろして、筋肉隆々たる太い上腕部を隠すと、惟芳の部屋に入ったとき、傍らに置いた新刊雑誌を取り上げた。
 「実はね、これは五高時代の友人が東京からわざわざ送ってくれた『太陽』という雑誌です。これに高山樗牛の「美的生活を論ず」という論文が載っているのです。樗牛は御存知かもしれませんが、東京帝国大学在学中に、読売新聞の歴史小説及び脚本募集に応じて書いた『滝口入道』が、首席当選となって、彼は金時計をもらっています。あの小説はなかなかの名文だと思います。緒方さんは読まれましたか」
 「話には聞いていますがまだ拝見していません」
惟芳はこう言った小説の類(たぐい)にはそんなに興味を抱いていないので、きっぱりと否定的に答えた。
 「樗牛は頭がよくて帝国大学でも秀才の名で通っていたようです。別に急ぎませんから、まあこの論文を読んでみてください。ご感想はまた後日お聞かせください。遅くまでお邪魔しました。それではおやすみなさい。」

 吉川先生の話は概して耳新しく、その内容もかなり高度なので、惟芳にとってはいつも良い刺激になった。この論文も先生がわざわざ紹介されたので、ぜひ読もうと思った。惟芳はこれまで、こういった新刊誌など手にしたことがないので、多少物珍しさも手伝ってページを繰ってみた。


 「美的生活を論ず」という題名が一寸興味を引いたので、読んでみることにした。読み進むうちに、樗牛なる人物の考えに段々同調できないと思うようになった。
特に次の一節はいささか極端な考えではないかと惟芳は思った。

 

 「道徳と理性とは、人類を下等動物より区別する所の重なる特質也。然れども吾人に最大の幸福を与え得るものは是の両者に非ずして、実は本能なることを知らざるべからず。蓋し人類は其の本然の性質に於いて下等動物と多く異なるものに非ず。世の道学先生の説くところ、理義如何に高く、言辞如何に妙なるも、若し彼等をして其の衷心の所信を赤裸々に告白する勇気だにあらしめむか、必ずや人生の至楽は畢境性欲の満足に存することを認むるならむ。」

 

 およそ中学校の教科書には載らない、それどころか一般社会においても通用しない内容に、惟芳は我が目を疑った。謹厳実直な安藤先生がもしこのような文章を読まれたらどのように言われるかと彼は咄嗟(とっさ)に思った。帝国大学にまで行ってこのような考えを天下に公表するとは驚きである。吉川先生はこれを読んでどのような感想を抱かれたのか、又自分に読んでみたらと言われたその心境を彼は忖度(そんたく)しかねた。彼は一読して、あまりに自由奔放と言うか、いやむしろ、人間としての節度も矜持もない説に、到底容認できないものを感じた。やはり彼にとっては、もっと自己の人格を高めるような思想こそ人間にふさわしく、その方が美的生活と言えるように思えた。
人間がいかなる理由でこの世に生まれたかは分からないが、生きる目的は幸福を求めるにある、という樗牛の言っていることは至極当然だが、幸福とは本能の満足これのみ。つまり性欲を満足さす、これこそ美的生活であるとの彼の説は極端に走るものだと思った。

 

 子曰く、君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人は是に反す。

論語』の授業で、安藤先生が講釈された孔子の言葉が思わず頭に浮かんだ。惟芳はそのときの先生の説明をはっきりと思い出した。

 「君子は他人の善事や成功を喜んで、それが成就するように願い、他人の悪事や失敗については、これを隠して、そうならない様にする。人の美や長所を褒めそやすことは難しいものだが、これが出来なくては、君子とは言えない。」

 

 真の美的生活とはこのようなものではなかろうかと思い、彼は雑誌を閉じて机の上に置き床を延べた。すっかり夜は更けていた。森々たる静けさの中、彼はいつしか深い眠りに落ちた。

杏林の坂道 第四章「帰省」

 

杏林の坂道 第四章「帰省」
 
(一)

 鹿(か)背坂(せがさか)隧道の難工事は、萩町と明木村との境をなす峠の下を掘削することによって始まった。工事が無事終わったのは明治十七年(1884)七月。惟芳はその一年前に生まれた。長さ約180メートル、幅約4.2メートル、高さ約3.9メートル、県下最初の石造隧道である。この隧道の完成によって、明治十五年から進められた小郡・萩間の県道改修工事のすべてが完了したのである。萩の笠山産の玄武岩で作られた石組みは一分の隙間もなく、実に見事な出来映えである。

 

 平坦に敷き詰められた甃(いし)石(だたみ)を踏みしめるごとに、洞内に靴の音が反響する。水滴が両側の溝に落ちて冴えた音を響かす。これらは予想以上に大きな反響音である。穹窿に積み重ねられた無数の石、薄暗闇の中にあって、この石の天井から水滴が襟元に落ちたとき、惟芳は何とも言えぬ不思議な境に入ったような気がした。前年六月出郷に際してもこの隧道を通った。しかしあのときは早朝で、その上先を急いでいたのでそれほど気にもしなかった。隧道の暗がりと冷気を抜け出て、ほっと一息ついて振り返って見たとき、暗黒の彼方に小さくぽっかりと明(あ)いた入り口が、目の前の大きな出口と相似形を成してくっきりと見えるのが印象的であった。

 

 ―これだけ立派な隧道を造るのは生やさしいことではなかっただろう。大した道具も持たない石工たちが、主に鑿(のみ)と槌をふるって完成させたのだろう。彼等の心意気たるや大したものだ。しかしこのように自然の山や川を相手に、隧道を掘削したり、橋梁を架けたりするには、工事の基礎となる綿密な調査と作図が絶対に必要である。船舶の設計も同じことだ。俺も設計を習い始めたが、頑張らなくてはいけない。

造船所での製図のことが惟芳の頭を過(よ)ぎった。出郷して一年半、明治三十五年の師走、いまこの寒空の下、故郷はどんな佇(たたず)まいを見せているだろうか、と隧道を後にした惟芳は、懐かしさも手伝って歩みを早めるのであった。

 

 山裾を迂回してすぐ右手に、風に梢の揺れる幾本かの松が高く聳えている。松陰の詩で有名になった「涙松」である。そこは故郷の萩を旅立つ者が、萩の町を望むことのできる最後の場所である。そしてまた、他郷より帰った者が、萩の町を最初に目にする地点でもある。彼は道の左斜面の麓、山間(やまあい)にある橙畑に目を移した。青黒い葉がこんもりとよく繁り、上から見ると開いた大きな番傘を無数に並べたようである。成熟にはまだ少し早いが、黄色い実が暗夜の灯火のごとく、葉陰からいくつも顔を覗かせている。かなり傾斜したその斜面には、藪椿が所々に真っ赤な花を咲かせ、群生している水仙は白い花をつけていた。大小の梅の木が道沿いに何本も並んでいる。中太の枝から、細くて青い新枝が、長く真っ直ぐに幾本も伸び、それに小さな蕾が沢山ついている。中にはほころびかけたのもあるが、ほとんどまだ固い蕾である。しかしどこからともなく鶯の鳴き声が聞こえてきた。以前はこの辺りは鶯(うぐいす)谷(たに)の名で知られていた。今はこの地名を鶯(おう)谷(や)と音読みにして、さらに大屋(おおや)の字を宛てている。寒風に耐え積雪を被(かぶ)りながらも、凛として馥郁たる香りを放つ梅の花に、貴婦人の名を呈した歌人がいたなと惟芳はふと思った。こうして大屋の部落を見始めとして、懐かしい故郷の景色を目にすると、ああ帰ってきたとの思いを彼は強く抱くのであった。

 

 長崎に落ち着いてしばらくして、彼は母へ手紙で、生活や仕事が軌道に乗るまでは帰郷は見合わすと伝えていた。一方往き帰りの経費も馬鹿にならないので、余程のことがない限り帰省はすまいと考えていたのだが、やはりこの正月休み、こうして一年と半歳を過ぎての帰郷は、家族も喜ぶだろうと思うと同時に、惟芳本人にとっても嬉しいことであった。


 昼下がり、久しぶりに見る萩の風景、とくに涙松を過ぎると遙か遠くに望まれる空と、水平線を境にその下に広がる青い日本海。盆を伏せたような平たい島々、そして何よりも懐かしい指月山、さらにこの城山を左端に置いて、今も残る城下の商家の櫛比する街並みは、いやが上にも帰心をかき立てるのであった。

 

 一年半前、故郷を後にした時通った路と違って、帰りは金谷(かなや)天神の前の目抜き通りを歩んだ。彼は大きな石鳥居のところで立ち止まり、聳立(しょうりつ)する十数本の老松の奥に鎮座する朱塗りの社殿に向かって深々と頭を下げた。
 
 ―秋の天神祭りの大名行列も無事終わっただろうな。長州一本槍はたしか三間(5.5m)もあるということだが、今年も見事な槍の扱(しご)きが披露されたことだろう。 
 
 惟芳は萩の二大祭礼のことを頭に浮かべた。それは町中(まちなか)を多人数で曳かれる「御船(おふね)」と、そのとき謡われる「お船(ふな)謡(うた)」で賑わう住吉神社の夏祭り。そしてもう一つは、この金谷天神の秋の祭礼である。天神祭りでは、町内を練り歩く大名行列、とりわけ藩主の乗った黒塗りに、「一(いち)に三星(みつぼし)」の金泥(きんでい)の紋の入った駕籠の前にあって、超長毛槍を持つ者の槍捌きは見物人を魅了する。正にこれは行列中の花と言える。「下(シタ)ニー 下(シタ)ニー」の掛け声でしずしずと進む行列が止まると、奴(やっこ)衣裳に身を固めた男が六方を踏むような格好で、約百本の竹ヒゴを束ねたといわれる、黒漆塗り千段巻きのこの驚くほどの長槍を、地面すれすれにまで回転さすと、槍はしなやかにうねって、槍先のふさふさとした毛が宙に舞う。
 
 子供のころから見慣れた大名行列を思い浮かべながら、彼は天神様の前を足早に通り過ぎた。少し進むと橋本橋にさしかかった。県下で二番目に長い阿武川は、ここから少し上流で松本川と橋本川に分かれている。その分岐点では河床に落差があり、その上、水の流れが早いためか、河水の音がごうごうと轟く。何時の時代からかは知らないが、その場所を「太鼓(たいこ)湾(わん)」と呼称しているが、それもうなずける。この二つに分かれた川の堆積土でもって萩の三角州は形成されたのである。このデルタの地に、関ヶ原の戦いに破れた毛利の家臣が、打って一丸となって城下町を作ったのは、今からおよそ三百年の昔かと惟芳は感慨にふけった。

 

 人は生まれ故郷を一時的にでも離れてみると、違った感懐でもって故郷を眺める。惟芳もこの度そうした気持を実感した。この橋本川沿いの堤に百株は優に越す桜樹が植えられてある。花見時、川面に映る桜並木の情緒ある風景は、白砂青松の菊ケ浜の海の景色とはまた違った情景である。

 

 数ヵ月後に迫った花見時の陽気な様子を思い浮かべながら、惟芳は街中へ入っていった。御許(おもと)町(まち)から唐(から)樋(ひ)町(まち)を過ぎ、左折して東西の田町筋を通って西の方へと歩を進めた。さすがに節季(せっき)で町家(まちや)商家(しょうか)は家ごとに門松を立て、正月の飾り付けをして、きれいに掃き清めてある。街には新年を迎えようとする清新な気配が漂っていた。瓦町を過ぎて呉服町に来たとき、門構えの立派な家の前で、他家とは違った形の大きな門松が目に入った。

 
 ―孫輔の家か、さすが大きなものが設(しつら)えてある。かれは元気にしているかな。


 小学校から中学校まで、共に机を並べた友人のことを思い出しながら、立派な門構えと格子戸の連なった、間口の広い家の前を通り過ぎようとしたとき、
「やあ、惟芳じゃないか  これは驚いた。久しぶりだなあ。朋(とも)遠方より帰るか」 
突然背後から声を掛けられて惟芳は振り返った。きちんと羽織を着た孫輔が近づいてきた。

 「おお、孫輔か、 元気そうだな。一年半ぶりの帰省だ。お前、高等学校へ行っているのだろう?卒業後、大学は東京か、それとも京都か?」
高等学校へ通う孫輔を羨望する気持ちが惟芳の心を一瞬過(よ)ぎった。
 「うん、京都を考えちょる。まだ当分親の脛をかじることになる。それにしても、『士別れること三日なれば、即ち更に刮目(かつもく)して相待つ』というが、惟芳、お前しっかりした顔つきになったな。造船所の仕事はどうか?新聞を読むと、ロシアの南下政策のことがよう載っちょる。ここと違うて長崎では、風雲急を告げるといった緊張感が漂っちょるのではないか?密雲不雨という言葉があるが、そのうちザーッと降り出したら、俺たち若者は、戦場に駆り出されるやも知れんぞ」
 「うん、そのようなことはあちらの新聞でもよく論評されちょる。確かに工場の雰囲気はちょっと違うな。ましてや中学校にいた時分とは比べものにならん。やはり皆気合いが入っちょるようだ」
 「そうだろうな、それにしてもお前、造船所で働く決心をようつけたな。今でも俺は感心してちょるぞ」
 「渡辺や石光はどうした?」
 惟芳は在学中特に印象深かった二人の同級生のことを訊ねた。渡辺はちょっと変わった人物であった。頭がよくて、初めて目にする漢文でもすらすら読んだ。彼は「退屈な授業を受けるより、海岸の砂浜に寝ころんで、白雲が青空に浮かぶのを眺めていている方がよっぽどましだ」と、禅坊主が言うような言葉を吐いていた。ところが同じ年頃の中国人が書いた文章を読んでいたく感心し、「おれのような盆暗(ぼんくら)は、いくら逆立ちして勉強しても追いつけない、おれは天下の秀才のために、学問ができるように助けてやる」と、ある日突然言ったのには誰もが驚いた。

 

 一方石光は柔道部主将で、身体はそれほどではないが、飛び抜けて強かった。稽古を終えての帰り、柔道着に黒帯を巻き付けたのを肩に担いで、橙の出荷場所である別院の前を通ったとき、橙の仲買人足達にからかわれた。

 「おい。中学校の兄さん。柔道衣に黒帯を巻きつけて、強そうなそうな格好をしちょるのォ-。チャンチャラ臍(へそ)が茶を沸かすでよ」
 「何言うか? お前らこそ法被(はっぴ)姿で豪(えら)そうな格好をしちょるが、口先だけじゃないか。よし、それじゃ勝負しようか」

 売り言葉に買い言葉。日頃から別院の前を通るたびに、中学校の下級生たちが嫌がらせを言われているという事を耳にしていたので、今日こそはどうしても腹の虫がおさまらなかった。彼は殴りかっかってきた屈強の人足たちを相手に、払い腰、背負い投げといった得意の技で、片(かた)っ端(ぱし)から何人も投げ飛ばした。それで一躍萩の町中で知らぬ者のない存在となった。
 「渡辺は蔵前の高等商業(筆者注:一橋大学の前身)へ行った。有言実行ということだ。一儲けしたら天下の秀才のために人肌脱ぐつもりだろう。石光は軍人志望で陸士に入った。柔道は講道館に通って続けちょるそうだ。講道館ではさすがの彼も所詮田舎者、井の中の蛙であることを知らされたと言っちょったよ。おお今思い出した。お前が中退した年だが、渡辺のやつ、ど豪(えら)い事をしたのだ」
 「辺(なべ)さんが」
 惟芳は思わず在学中の呼び名で訊ねた。
 「そうだよ、九月だったかな、町会議員の連中が業者から賄賂をもらったとかで問題になり、彼らは身の証(あかし)を立てるため公会堂で説明会というか弁明の会合を開いたのだ。ところが奴(やつこ)さん、かれらの不正を見破ったのだ。連中は弁明のしようがなくなり、結局一同土下座をして、平謝りに謝ったということだ。それにしても白面(はくめん)の一中学生が、海千山千の政治屋どもに頭を下げさせたちゅうから痛快じゃないか。この事も一時町中の話題になったよ」
 「そうか、見てみたいものだったなあ」

 惟芳はそれぞれに活躍している同級生の消息を聞いて懐かしく思った。
 「ところで休暇は何日までか? 出来たら話に来いよ。商売屋は年の瀬は何かと忙しい。お袋に頼まれた用事があるから今日は失敬する、また会おう」
 右手に風呂敷包みを抱えた孫輔は、空いている方の左手を挙げて、別れを告げた。
 思いもかけない邂逅を喜びながら、惟芳は菊屋家の前を通過すると、土塀越しに日本海が見え隠れし、潮騒の聞こえてくる海沿いの道をわが家に向けて歩を早めるのであった。 

 

 

(二)

 門を入ると右手は橙畑である。帰るとやはり橙の出来不出来が一番気になる。成木の枝には黄色い実が多くなって、地面に垂れ下がっているのもある。徒長(とちょう)といって、いたずらに長く伸びた枝には、決していい実はつかない。葉は青黒くつややかで、害虫も取り付いていないようだ。施肥も十分になされたのであろう。若木も思ったより良く生育している。橙の世話で一番手が掛かるのは、何と言っても春先から盛夏にかけて、猛烈に繁茂する蔓草など雑草の除去である。これを怠ると通風が悪くなり、おまけに害虫が繁殖する。留守中おそらく母がこまめに世話をしたのであろう。惟芳は母の苦労を思いやった。

  
 玄関の格子戸を開け元気な声で帰宅を告げると、心待ちにしていたのか、母と弟が揃って足早に現れた。二人の後すぐ姿を見せた父も、「おお無事で何よりじゃ。さあ上がるがよい」と、日頃に似合わぬ口調で声を掛けた。

 

 挨拶は後でと、惟芳は出船の格好に靴をきちんと揃えて父の後から座敷へ向かった。父はいつものように机の向こう側、床柱を背にして座った。傍らの火鉢の中から、父が急いで叩(はた)き落としたのであろう、煙草の吸いかすから細い煙が上っていた。五徳に掛けた鉄瓶からは、かすかに湯気が立っている。床には蒼海に日の出を描き、前面に老松が斜めに延び、その太い樹幹に二羽の鶴を配した双幅対の軸が掛けてあった。父は毎年正月ともなると、蔵から出してこの目出度い軸を掛けることにしている。
一段高くなっている床には、三宝(さんぼう)にお重ねの餅が飾り付けてあった。そういえば門と玄関にもささやかながら門松と「うらじろ」の輪飾りがしてあった。母と弟も二人に続いて入り、机の横に座った。弟は嬉しくてたまらない様子である。
 「ただいま帰りました。父上、母上には恙(つつが)なくお過ごしのご様子で安心いたしましたしかし留守中何かとご苦労があったと思います。私はお陰で元気に勤務しておりました」 
 しばらく会わなかった両親の思ったより元気な姿に接し、惟芳は内心安堵した。しかし父は壮年時代の矍鑠(かくしゃく)たる面影はとっくに失せて、かなり老けて見えた。他方子供の成長は早い、八歳違う弟は見違えるほど背が伸びていた。先ず帰宅の挨拶をすますと、職場の様子を手短に話した。

 「過日お便りを差し上げました通りすっかり仕事にも慣れ、元気に勤めています。ただ教わることが日毎に増え、学科内容も次第に難しくなっていきますので、しっかり勉強しなければと思っています。しかし先輩をはじめ所員の皆さんは親切ですし、やる気満々ですので毎日が楽しく過ごせて、大変ありがたく思っています。これは今月の給料です」
 こう言って彼は内ポケットの中から状袋を取り出して、父の目の前に差し出した。
 「正規の職員には年末の慰労金が出ますが、私は未だいただけません。頑張って早く正職員にならなければと思っています。一応仏様にお供えいたします。それにこれはカステラという菓子です」
 今度は、信玄袋の中から割と大きめな紙包みを出して机の上に置いた。
 「これは福砂屋という店で売っています。何でも寛永元年の創業とここにも書いてありますから、二百年も昔になりますが、この店の主人がポルトガル人からこの南蛮菓子の作り方を習って工夫を重ね、今ではこれは長崎の銘菓となっております。この辺りでは珍しかろうと思って買ってきました。私も滅多に口にはしませんが、結構美味しいものです」
 「ほう、珍しい御菓子だね。有り難く頂かせてもらおう。それにしても高かっただろう。あまり無理をしないでおくれ」
 始めて見る洋菓子を前にして、母は喜ぶと同時に、心配顔をちらっと見せた。弟は菓子と聞いてさも嬉しそうである。
 「これもひとまずお供えしておきますので、あとで召し上がってください。それから尚春、学校は楽しいか。これはお前へのお土産だ。遠目(とおめ)鏡(がね)と言って遠くのものがよく見える。浜から沖合いを見たら、見島もよく見えるだろう」
この他、母へは長崎特産の鼈甲の櫛を一枚買ってきた。こう言ってささやかながら持ち帰ったった土産物を家族の前に広げて見せた。

 惟芳はこの後早速仏間へ行って給料袋と唐菓子をお供えし、線香に火を点じて拝むと、元の座敷へ引き返した。午後の冬日が暖かく、南向きの障子が一枚分開けてあるが少しも気にならない。敷居の外に三尺幅の濡れ縁があり、そこから門の両側に連なる石垣まではおよそ四間ある。そして横幅が六間ばかりの面積をもつ地所が、座敷から見える庭のすべてである。門から玄関までの、飛び石伝いの通路と庭との境は、竹垣で仕切られてある。玄関脇に、庭への出入りが出来る小さな枝折戸がある。枝振りのいい松の木が庭の中央に一本あって広く場所を占めている。その下に雪見灯籠が一基据えられてある。庭の左隅にあってこんもりと球形に刈り込まれたキンモクセイは、毎年オレンジ色の小さな花に覆われ、強い芳香を放つのであるが、今はすでに散っていた。松の木の右手、濡れ縁近くにある寒椿は、真っ赤な花を今年も咲かせてくれている。その花が庭石の上に幾つか落ちていた。樹の根本にある万(お)年(も)青(と)の大きな青々とした葉の間に、真っ赤な円い実が二つ三つ、おのれの存在を忘れてもらっては困るといった風に輝いて見えた。

 

 濡れ縁近くにある古い梅は惟芳が一番好きな木で、蕾が一杯ついており、蕾の先がほんのりと紅に染まって、開花を待ち受けているようであった。四季が巡り来れば間違いなく、こうして人の目を楽しませてくれる自然の草木の、健気さというか誠実さというか、とくにこの清香を放つ梅の古木の花咲く季節になると、惟芳はいつも感慨を深めるのであった。

 -此の先幾年も寒風に耐えて、この梅の木は清楚できれいな花をつけてくれるだろう。このわずかな期間の開花のために、黙々と地中に根を張り、栄養を摂取するのだ。こうした目に見えない努力のお陰で花が咲く。正月が来たら俺は数えで二十歳(はたち)になる。じっくり英気を養って、大きく踏み出さなければいけない。

 こうした思いに耽っていると、父が座敷から声をかけた。 
 「ご時世というか、御維新から後この萩もずいぶんと変わった。それより前、儂が十六歳のとき父が亡くなられたので、緒方家の家督を継いだ。それから八年後の慶応二年(一八六六)の第二次長州征伐に参加した時の話じゃが、石州口の戦で浜田城を落して勝ち鬨の声をあげたとき、大村益次郎さんが、『こんな小城を落して有頂天になるな、日本全部を取ってから喜べ。』と言われたのをよう覚えておる。何しろ初戦に挙げた成果だから、われわれは思わず『万歳』と叫んだ。あの方は確かに大物じゃった」
 惟芳は座敷の方へ振りかえり、父の話に興味の顔を向けた。

 「父上はそのときどんなお役目でしたか?」
 「儂は毛利藩の砲術師範をしていたから、大村さんにはいろいろと教わった。あの方は本来医者じゃったが、実に頭の良い人で、洋学、特に西洋の戦術を学ばれ、それが幕府との戦いで非常な功を奏したのだ。もっと長く生きておられたら、我が国の軍隊、いや我が国にとってきっと良かったであろうに、本当に惜しい人を死なせたものじゃ」
 惟芳は大村益次郎が若い頃、緒方洪庵適塾で学んだこと、先生の洪庵は当時日本を代表する医者であったこと、そして緒方姓は元来九州から出ていることなど、そういった事を聞いておるので、洪庵と自分の間に、目に見えないながらも、何らかの繋がりがあるような気がするのであった。

 

 父は一昔前の若い時分の事を思い出して、ゆっくりと話を続けた。
 「藩庁が萩から山口に移ってからというもの、若い者の多くが萩から山口へだけじゃない、江戸や上方へも出て行った。儂も気が動かんでも無かったがのう。その後前原騒動があって武士の世は完全に潰(つい)えた。あのときは多くの者が、敵味方に分かれて一時はどうなる事かと思った。お上の力を始めて見せつけられたが、時の流れは早いものじゃのう。それにしても、前原一誠を始め何人かの主立った者たちは、結局捕らえられて処刑された。あの連中にも言い分はあったじゃろうに、これも勝てば官軍じゃいのう」
 父はここまで話すと、煙管(きせる)に刻み煙草を詰めて紫煙をくゆらせた。 父はまた話し始めた。
 「御維新前までは儂も二本差しで歩いていたが、こうしてお前が洋服を着て立派になったのを見ると、何だか夢のようじゃ」
 「私も長崎へ行きました当初は、見るもの聞くもの皆新しくて、こちらとは全くと言っていいほどの違いにちょっと驚きました。弁髪のシナ人も珍しかったです」
 「確かにそうじゃろう。しかしお前にこれだけは言って置きたい。お前が萩を出るときにも、似たようなことを言ったと思うが、なんぼ時代が変わっても、正しく生きるためには、人間はして良い事と悪い事を、自分でよく見極めて振る舞うことじゃ。また人助けの道を忘れてはいけない。天子様は四海平等と言われたが、やはり武士たるの気構えは忘れてはいけんのう。そして武士道の根本は、儂は仁と考える。仁とは、お前も学校で習ったじゃろうが、人を愛すことじゃ」

 日頃造船船舶に関する西洋の科学知識を専ら注入され続けている惟芳は、つい忘れがちであったこの東洋の思想を、やはり肝に銘じておくべきだとあらためて思うのであった。


 

(三)

 父との四方山話を済ますと、彼は例のごとく畑の中を通って裏木戸を開け、砂浜に出てみた。初夏の深緑と青を混ぜたような紺青(こんじょう)の海の色とは異なり、鉛色の冬空を映す海は、一段と落ち着いた深みのある様相を呈していた。沖から吹く風が顔面にあたった。次から次へと寄せ来る波、その波頭(なみがしら)から白い飛沫が飛び散る様(さま)がよく分かる。こうした男性的な日本海の姿はいつ見ても魅力あるものである。夏ならば一も二もなく海に飛び込むのだが、それも出来ないので下駄を脱ぐと、それを手に持って、濡れた砂をザックザックと踏みしめながら、浜崎の港の方へと渚(なぎさ)沿いに歩いて行った。

 

 歩いた後打ち寄せる波で、足跡は直ぐ消されるが、消えずに残こるのもある。この踵(かかと)で踏みしめた丸い窪みの底から、海水がじわっと湧き出てくる。海の水は思ったより暖かい、しかし水を出て寒風に足首を晒すと、冷たさが感じられる。防風林ともいえる松並木の尽きるところまで来た。左前方の海が幾分白濁して見える。町中(まちなか)からの家庭廃水が流れ出ているからだ。この辺りの波打ち際から、釣り糸を投げて鯔(ぼら)を引っかける人をよく見かける。今日も三人の若者が鯔をかけるのに熱中していた。広々とした海はここを除けば、冬の海は鈍重な色を湛えていた。低く連なった砂山には海辺特有の蔓草が、地面に這いつくようにして生えている。よく見ると白に淡い紅をさした可憐な花が咲いていた。

 

 彼は砂山を登り切ると下駄を履いた。そこから海岸沿いに走っている小道まで行き、右手に海を見ながら引き返すことにした。途中小高い丘とまではいかないが、ちょっとした土塁の麓にさしかかった。ここが俗に言う「女(おんな)台場(だいば)」である。
惟芳は土塁の一番高くなった所まで上って、遙か彼方の水平線の方に目を向けたとき、父から聞かされていた土塁築造当時の様子を思い浮かべた。

 
 文久三年(1863)五月十日、萩藩は下関海峡通行の米艦砲撃で攘夷決行の火蓋を切ったものの、翌月には米、仏、英、蘭の四国軍艦の報復攻撃を受け、萩の士民の間には、今にも敵艦が来襲するかも知れぬ、と人心はすこぶる動揺した。しかしこうした恐怖心の半面、旺盛な敵愾心も起こり、ついに浜崎在住の庶民が、菊ヶ浜土塁築造の建白を出し、政府の容れるところとなって、工事は同年六月から始まり、三ヶ月足らずの短日月でほぼ完了したのである。この間、お城の女中衆から武家の妻女、町家のご寮(りょう)まで、思い思いのいでたちで、馴れぬ手に鍬を持ち、モッコを担いで、文字通り老若男女が上下一致して実労働に参加し、また上は家老から下は庶民に到るまで、各々分に応じた積極的金品の献納をしたという。明治四年までここに砲台があったらしい。(注)

 

 ―文久三年と言えば、俺が生まれたのが明治十六年(1883)だから、今から数えても四十年にはならない。それにしても我が国は随分変わったものだ。高杉晋作奇兵隊の挙兵も確か同じ年だった。幕府の軍隊が攻めてきたとき長州はよく戦った。父は大村益次郎に従って浜田城攻め落としに参加されたのだった。戊辰戦争では晋作を始めとして多くの若者が国ために命を捧げ、長州も大きな犠牲を払ったなあ。本当に時世が変わった。三、四十年前までは「攘夷 攘夷」と叫んでいたのが、今や「開国 富国強兵」の一点張りだ。俺自身のことを考えてみても、今長崎の造船所で働く身、本当に隔世の感と言えよう。こんなに世の中が日進月歩しているのも、攘夷をすぐに開国へと切り替えたからだ。目先が利くというか、先が見える者が時代の変わり目には出てくるのだろう。しかし事をなすには、じっくり構えて取り組む必要があるのではなかろうか。
 
 台場の周辺の松の梢をさわさわと風が渡る。惟芳はこうしてしばらく佇んでいると、夢から覚めたかのように、思わず緊張感が体内を走るのを覚えた。長崎の海を見たのではそれほど実感しなかったが、今こうして日本海を目の前にして立つと、この海の彼方には朝鮮半島があり、ロシアはそれを虎視眈々と狙っているという、この事が地理的状況から現実味を帯びて強く感じられるのであった。
 
 -ロシアがもし朝鮮半島を席巻するようなことにでもなったら、山口県は目と鼻の先、一番近いのではないか。昔元の大軍が押し寄せた時は、幸いにも『神風』が吹いて国難は回避できたが今度はそうはいくまい。「相模太郎時宗、胆甕(かめ)の如し」と漢文の本にあったが、あの若さで日本の国運を双肩に担った時宗は、実に偉い男だった。
 
 彼は少し高ぶった気持ちを抱いて台場を下りた。畑の裏木戸を通って橙畑の中に入ると、魚を焼く匂いがしてきた。はたして母が背戸(せど)で、七輪の上に金網を置いて鰯を焼いていた。脂が滴り落ちるたびにジュウと音を立てて赤い炎がパッと立ちあがる。煙が辺りに漂うが、戸外だからさほど気にはならない。
 「脂の乗った大きな鰯ですね。旨そうですね。久しぶりに鰯の匂いを嗅ぎました」
 「このところよく獲れるそうだよ。子持ちの鰯を今朝も浜崎から魚売りのおばさんが持って来たから、あんたが帰るし丁度よいと思って多めに買っておいた。あとで沢山食べておくれ」
 こう言いながら母は時々小木(こぎ)を七輪に焼(く)べながら、小腰を屈(かが)めて油紙を張った大きな団扇でパタパタ扇(あお)いでいた。

 

 親子四人久しぶりに揃っての夕餉(ゆうげ)の食卓では、父がとくに嬉しそうであった。黒く焦げた熱々(あつあつ)の大きな鰯を箸でさばいて口に入れ、奥歯で噛むと、鰯独特の甘美な味がじわっと口中に広がり、これまたいい匂いが鼻腔を刺激する。これに小芋の味噌汁が加わり、さらにチシャ膾(なます)まで揃っている。惟芳は酢味噌に新鮮なチシャを漬けて食べるこの郷土料理が大好きである。酢味噌の中の鰯の切り身も酢で締まって美味い。
 「このチシャは畑で採れたのですか。やわらかくて本当においしいですね」
惟芳は山海の珍味にも勝る馳走だと、今更ながらお袋の味に舌鼓を打つのであった。若い時はかなりの酒豪で鳴らした父も、勤めを辞めてからは、一合の晩酌を楽しみにしていた。今日は特別に三合入りの徳利が用意してあった。

 「向こうでは飲むことがあるか?今日はお前が帰るので二人で一杯やろうと思って大きめの徳利を用意してもらった。お前も儂の若い頃に似て結構いけるじゃろう。たったこれだけじゃ、蟇(ひき)が蝿を舐(な)めたほどもなかろうが、まあ一杯やるがいい」
こう言いながら父は、徳利を傾けて惟芳の前にある萩焼ぐい呑みに地酒を注いでくれた。
 「あちらでは滅多にお酒は口にしませんが、時たま先輩に奢ってもらったり、同僚に誘われて飲みに行くことはあります。九州の人は焼酎で鍛えているのか、一緒に飲みに行った連中は皆強いのには驚きました」
 彼は父の嬉しそうな姿を見て、帰省して本当に良かったと思うのであった。
 「久しぶりの郷土の味は格別ですね。このお酒も美味しいです。こうしてくつろいだ気持ちで食事が出来るのが何より有り難いです。おや、尚春、鰯は骨まで食べられるよ。そんなに身を付けたまま残しては勿体ないよ」
 弟が悪戦苦闘しながら焼き魚に箸を使っているのを見て声を掛けながら、彼は頭だけ残して、むしゃむしゃと美味しく、一匹の鰯を骨ごとたちまち平らげた。こうして彼は父の盃にも酒を注ぎながら、生まれて初めての父との飲酒を楽しんだ。

 

 酒が入ったというより、独り立ちした息子の姿に接して、父の尚一は日頃とは違って口数が多くなった。
 「長州と長崎は昔から相当に往来(いきき)があったように聞いておるが、毛利の殿様が積極的に海外の文物を取り入れる姿勢を取られたためじゃろう」
 父は話を続けた。 
 「しかし良いことばかりじゃない。御維新になって直ぐ、長崎の浦上と言う所から確か六十六人、その後二年して今度は二百人以上のキリシタンが萩に連れてこられて、堀内の清水屋敷と岩国屋敷に収容されたのを儂はよう覚えておる」
 キリシタンのことを父の口から聞くのは初めてである。惟芳が長崎で働いているから、関連したこととして話すのであろうと惟芳は思った。
 「ほとんどの者が改宗したらしいが、津和野へ連れて行かれた者の中には殉教者も出たと言うから、考えてみると本当にむごい話じゃのう。いま西の浜にキリシタン墓地があるが、行ってみたことがあるか?」
 惟芳は一二度其の墓地の辺りを歩いたことはあるが、その時は別に気にもとめてはいなかった。それよりむしろ、『五郎太石事件』といって、萩城築城工事中の紛争事件に関連して、藩の重臣で工事の総宰であった二人の人物を、この場所で死刑に処したことを示す大きな石塚は記憶していた。人物の一人が蓮生坊で有名な熊谷次郎直実の直系で、キリスト教徒であり、彼を棄教させようとした裏話があったと聞いていた。  
 「故郷を棄てるということがどんなに悲しいことか、気の毒な事をしたものじゃ」
カステラで異人に関連したことを思い出したのか、それとも息子が帰ってきたことで、日頃の寡黙な口が多少ゆるんだのか、父は以上のような事を話した。惟芳はやはり両親、特にこのところすっかり老(ふ)けた父を残して働きに出るということには、一抹の不安を覚えないでも無かった。彼は話題を明るい方に向けるようにして、夕食を楽しく終えた。
 
 冬は夜の帳(とばり)は早く下りる。惟芳は自分の部屋に入って静かに座っていると、ゆったりと落ち着いた気分になった。確かに下宿生活、特に造船所での生活は、所員のためにいろいろと便宜が図られてはいるが、こうして長年寝起きした自分の部屋と比べると、便利さはさて置き、言うに言われぬ暖かみに欠けることは否(いな)めない。惟芳にとってはやはり、子供の時から聞き慣れた潮騒と松籟が、何といっても一番心を和(なご)ませてくれるものであった。

 しばらくすると、襖越しに声を掛けて、少し屈み腰の母が彼の部屋に入ってきた。惟芳が長崎へ旅立つ前に部屋に入ってきた時と同じように、机の側に来てきちんと座ると、次のようなことを言い出した。
「さっきはお父様はよくお話になったが、あの様なことは珍しいよ。あんたが家を出てからというもの、一日中座敷で書見をしておられるか、時々ぶらっと家の周辺を散歩されるぐらいでね。前ほど元気もないようで、私としてはちょっと気がかりでね。口に出しては言はれないが、やはりあんたに側におってもらいたいのでしょう」
 「勝手な振る舞いをしまして申し訳ありません」
 「そんなことはないよ、私たちも結局同意したのだから」
 惟芳は一年半前の襖の向こう側での父と母とのやりとりを思い出した。
 「しかし月々送ってもらうお給料は、本当に助かると言っておられる。まったく痛し痒しだね。長崎のように遠方じゃあなくて、せめて県内だったらよかったのじゃが、今更こんなことは言っても始まらないことじゃがね。まああまり気にせんで、せいぜい身体に気をつけて頑張っておくれ」
 母はちょっと間をおいて、今度は弟の事を付け加えた。
 「尚春はあんたが出て行ってから、淋しいのか一時しょんぼりしていたが、もう今では慣れて、元気に学校へ通うておる。私もこれで安心しておるよ」
母は以上の事だけは、どうしても言わずにはおれなかったのか、一方的に話し終えると、部屋を出ていった。惟芳はただ黙って聞いていた。

 

 惟芳も造船所に勤めるようになって、時々両親の気持ちも考えてみることはあった。しかし今の母の言葉を耳にして、当分はこのまま働こうとあらためて胆を決めた。
 
 

(四)

 一晩ぐっすり休んだ後、彼は早朝に目を覚ました。寝床を片付けると菊ヶ浜へ出てみた。潮風が顔に優しく触れ、潮の香りが鼻腔に流れ入るのが感じられた。沖に向かって大きく手足を伸ばして、爽やかな朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。海上に浮かぶ島々は薄い朝靄に包まれており、まだ醒めやらぬ様子である。

 

 今日は大晦日。寺参りを母から頼まれていたが、まだ十分時間があるので、朝食前の運動にと、久しぶりに指月山に登ってみようと思った。萩中学校に入って体操の時間、山頂まで駆け上がったことがあるが、そういった強制的な登山とは別に、二三の友人と話しながらゆっくり登ったことは、懐かしい思い出として残っている。

 砂浜伝いに歩き、土橋を渡って東門より入ればもう城内である。大小様々の形の石を巧く組み合わせた約三メートルの高さの石垣が、道の両側に築かれている。歩くうちに、葦の生えた濠を取り囲む城の石垣の上から、指月山の全容がいっきに目に入って来た。濠の手前には数本の松が並んでいる。その中に際立って大きい黒松が一本、根本近くから太い幹が数本枝分かれして堂々と立っていた。濠に懸かっている石橋を渡って左へ曲がると、大きい御影石の鳥居が見えた。この鳥居周辺は広々とした平地で、やや色あせた芝生が一面に広がっている。

 

 明治二十五年(1892)に植えられた千本の桜樹は、開花時ともなると多くの町民を誘い出すまでに成長している。鳥居の下を通って少し歩くと左手に書院風の平屋が目に入った。これに付属した庭がそのさらに奥に作ってある。庭には太鼓橋の懸かった心字の池がある。橋を渡ると直ぐその先に、数十段の石段が高く連なっている。それを上ったところに、鬱蒼とした森の懐に抱かれているかの様に、志(し)都(づ)岐山(きやま)神社の素朴な白木造の社殿がひっそりと鎮座している。惟芳は萩中学校に入る前から、時々この神域まで散歩がてらに来て、城跡の石に腰をおろして休んだり、椎の実を拾ったりしたものである。また入学後も心を澄ます目的で一人で来ては、濠に臨んで屹立した城壁に登り、石の上に坐して、座禅を組んだこともある。ここは静寂そのもの、心を落ち着かせるには格好の場所だと、来るたびに感じていた。しかし今日は橋の手前で立ち止まり、そこから社殿の方に向かって柏手を打って拝礼だけして、左手の登山口の方へと直ぐに歩を移した。途中左手に、藁葺きの『花乃江茶邸』が、数本の大きな松の下蔭に隠れるようにある。旧藩主毛利敬(たか)親(ちか)が茶会にこと寄せて、維新の大業を画策したと言われている所である。茶邸から百メートルも歩けば登山口である。
 
 朝の清々しい空気に包まれるというよりむしろ、鬱蒼たる樹木の緑に彼は圧倒されそうな気になった。さすがに鳥たちは早起きだ。姿は見えないが各種の鳥の鳴き声がしきりに聞こえてくる。彼らは夜明けの朝をいかにも享受しているかのように囀っていた。四囲はシイ、タブ、カシ類その他の常緑樹林で、朝まだき、その広葉樹は全体にしっとりと露に濡れ、ほの暗き山中には幽邃、森厳な気配が漂っていた。

 一筋の細い登山道は、勾配の緩やかな所もあるが、概して急な坂道で、所々赤土の山肌が出ていた。場所によっては散り敷かれた落ち葉が深々と重なり合っている。頭上は厚く枝葉で覆われて、木漏れ日が僅かに射し込むだけである。この坂道が葛篭(つづら)折(おり)りになって頂上へと延びている。シイの大木が一カ所道を塞(ふさ)ぐ様に倒れ掛かっていた。
 
 -往時侍達がこの道を上り下りしていた時には、こうした倒木は直ぐにでも片付けられたであろうに。今はこうして山はまた元の原生林に帰っていくのだな。これがこの指月山の本来の姿だ。みだりに手を入れて自然を破壊しない方がいい。
 
 彼は倒木の下を潜りながらこんなことを思った。距離にしてわずか七百メートル、山の高さは百五十メートルにも達しない。しかし途中休まずに登ったので頂上近くに達したときにはさすがに少しばかり汗ばんだ。山頂のすぐ手前に数段の石段があり、その側に目通りの直径が一メートル以上もありそうな樅の喬木が、一本空高く伸びていた。
 
 -同じような樅の大木が登り口にもあったが、恐らく築城に際してわざわざ植えられたのであろう。城は取り崩されたがこれらの樹木も、年月が経てば自ら寿命が尽きる時が来るだろう。萬物は常ならずか。それにしても真っ直ぐによく伸びている。
 
 こうした思いを抱いて石段を上りきったとき、急に天井が抜けたように、明るい空が顔を出した。山の頂上はちょっとした広さの平地で、そこには詰丸が設けられてあったのだ。今はそれが取り壊されて、四角錐の形をした巨石と大きな水溜があり、淀んだ水底にわずかに泥が沈澱しているのが見て取れた。東の際まで行って遙か東方に目を向けた。朝の陽光が雲間から射して、山の端を照らしていた。下方に目をやると、菊ヶ浜の海岸線が巨大な弓のようの大きくカーブして見えた。渚に立っていつも目に入る情景とは違って見えた。長く続いている青い松並木、岸辺に向かって打ち寄せる幾重もの波。これらの波が渚近くで数本の白い帯となり、最後に砕けて砂上に広がる様子がはっきりと俯瞰できた。 
 「おお、絵のような美しさだ。朝凪で静かな海面だが、ここまで波の音が聞こえてくる」 
 惟芳は思わず独り言を言った。ゆったりとした波が渚近くで、ザブンと気だるい音を残して打ち寄せたかと思うと、ザーと足早に引いていく、この単調な音が、はるか眼下で繰り返されている。この微かに聞こえる波の音と鳥たちの囀りの他はほとんど耳に入らず、山頂は静寂そのものであった。
 
 -海はいつどこから見てもいいものだな。絶えず変化しているようで実際は変わってはいない。かと言って変わらないでいるかと思うと絶えず変わっている。一面鏡のような静止した海。悠揚迫らずゆったりと打ち寄せる海。それが台風の襲来ともなれば、一変して怒濤逆巻き、まさに阿修羅の形相をもって迫ってくる。春風駘蕩たる様相も俺は好きだが、寒風肌を裂く秋から冬にかけての時化(しけ)たときの姿もそれなりに魅力がある。
 
 惟芳はこの季節ごとに織りなす海の変化を頭に描いてしばし佇んでいた。折しも、海面の一部が朝の日の光を受けて、金砂銀砂をばらまいたようにキラキラと輝いていて見えた。彼は反対側、西の海が見える方へと歩を移した。ここからの景色はまるで違っていた。鉛色をした冬の海が広がり、点在する島々も物寂しげに横たわっている。目を凝らすと遙か彼方に、見(み)島(しま)のうっすらとした島影が、水平線上に浮かんで見えた。気持ちよく吹く風に汗も乾き、彼は引き返すことにした。帰りは樹間の清浄な空気を呼吸しながら、滑らないように一歩一歩気をつけながら下りた。それでも登りに比べて短い時間で麓に達した。
 帰りの道々、惟芳は考えた。
 
 -緒方家は元を正せば九州の出であるが、何時の時代だろうか先祖が石見の国に移り、またいまや萩にまでやって来た。時代の波、社会の変動で、家も移り変わるし、人の一生もどうなるか分からない。俺としてもまさか、萩中を中退して長崎にまで働きに行こうとは、入学時思いもよらなかったことだ。これからも何が起こるか分からない。徴兵制度も敷かれたことだし、軍隊に入ることはこの年になったら考えて置くべきことだ。両親のことが気がかりだが、国民誰しも免れないことなら、潔く対処せずばなるまい。


 それにしても故郷の山や海、この自然は俺に取っては、なにものにも代え難い有り難い物だ。今度何時こうしてこの城山に登れるだろうか。ああ、今朝は気分が良かった。
 
 家を出て帰宅まで二時間足らずであったが、故郷を象徴するこの指月山頂への散策を、惟芳は久しぶりに満喫した。

(注)菊ヶ浜にこの土塁を築造したとき、気勢を上げるために歌われたのが、今日郷土民謡の『男なら』である。しかしこの歌は誰が作ったか定かでなく、口々に歌ったものであるから、現在の歌詞に定着するまでには、種々に伝えられていたそうである。

   男なら

  お槍かついで お仲間となって
  ついて行きたや 下関

  国の大事と 聞くからは

  女ながらも 武士の妻
  まさかの時には しめ襷(だすき)
  神功皇后さんの 雄々しい姿が
  鏡じゃないかいな
  オオシャリシャリ

 「オオシャリシャリ」は「おっしゃるとおり」の意味である。  
 なお、戦前歌われていた歌詞は、「神宮皇后さんの雄々しい姿」ではなくて、「神宮皇后さんの三韓(筆者注:古代朝鮮南部に依った馬韓辰韓弁韓の総称)退治」であった。 この事は戦後の国際情勢を考慮に入れての変更である。

 

 『平家物語』に、「仲哀天皇二年に、長門国にうつッて豊(とよ)良(らの)郡に都を建つ。其国の彼(かの)みやこにて、御門(みかど)かくれさせ給しかば、きさき神宮皇后御世(おんよ)をうけとらせ給ひ、女躰として、鬼界・高麗・荊(けい)旦(たん)(注:薩南諸島・朝鮮・契丹)まで攻めしたがえさせ給ひけり」と書いてある。これは、古代日本が下関の長府に都を置き、神宮皇后を主と仰ぎ、外敵に当たったことを物語るのもので、維新直前に起こった、この米・仏・英・蘭四カ国の軍艦の報復来襲に対して、萩の女性を奮い立たせるにふさわしい歌詞と言える。            

杏林の坂道 第五章「旧師訪問」

杏林の坂道 第五章「旧師訪問」
 
(一)

 朝食を食べ終えて一休みした後、惟芳は母に言われていたので、菩提寺である端坊(はしのぼう)へ参詣した。門を入ると本堂正面に安置してある金箔の阿弥陀仏を礼拝し、本堂の左側奥まった処にある位牌堂へ行って祖先の霊前に手を合わせた。それから庫裏のほうへ行って、母から託されていた上米料(あげまいりょう)を住職に手渡した。お茶でも召し上がれと言われたが、辞退して本堂の階段を下りた。目の前に大きな蘇鉄(そてつ)が真っ青なトゲトゲした葉を茂らせている。すぐその側にあるのは、多くの寺院で見かけるのとは趣を異にした、二層三階の立派な鐘楼である。

 

 貞享三年(1686)三代藩主毛利吉就(よしなり)が、初入国に当たり寄進したもので、階上にある梵鐘は、時鐘、警鐘として長く人々に親しまれてきた。この鐘楼の横を通り、本堂の裏手にある緒方家の墓地へ行った。展墓を済ますと彼は松林山・端坊の山門を後にした。惟芳は今回の帰省の目的の一つに、旧担任の安藤先生宅の訪問を考えていたので、帰宅途中寄ってみることにした。

 先生の住まいは城下町にある。寺からは歩いてものの十分とかからない。瓦町と呉服町の境にある路地を右に曲ると、築地の白塀が道の両側に連なっており、この辺りの屋敷内にも橙の緑の葉が壁越しに見えた。街角から道はごく緩やかに傾斜しており、道幅は一間半程度。道の両側には溝蓋のない一尺幅の溝があり、その深さは一尺よりもっとある。屋敷の構えはどこもかなり大きい。溝に長方形の大きな石が二個または三個渡してあるところが、各屋敷への入り口である。道の進行方向の右手を少し行った処に桂小五郎木戸孝允)の生家があり、その先隣が先生の今住んでおられる家である。街角から四軒目の屋敷であることを惟芳は知った。この道筋では最も大きな門構えのように思えた。門の両側には瓦屋根を乗せた白壁の練り塀がかなり長く連なっていた。しかも門から左右に一間ばかり、瓦屋根の上に竹矢来が設(しつら)えてあるのは、いかにも物々しい雰囲気を醸し出しているように見えた。門の左手の塀越しに、柿の木に似た木肌の大きな木が背高く立っていて、四方に枝を伸ばしており、それらから新芽が今まさに吹き出しそうに見えた。門前の溝の上に、分厚い長方形の大きな玄武岩の敷石が三個ほど渡してあった。この石を踏んで、さらに二段の石段を上っていくと、木組みの立派な門が上から押しかぶさるように立っていた。門には頑丈な扉があり、日頃は閉めてあるのか、その扉に引き戸の付いた入り口が小さく開いていた。

 

 惟芳は背を屈めてこの狭い入り口から邸内に入った。そこは四角い五坪ばかりの空地で、左右は板塀で囲まれている。右手に勝手口がある。玄関の斜め前に山茶花の木が一本あった。白い花をいくつかつけているが、花びらが落ちていないところを見ると、掃除が行き届いているのだろう。そういえば安藤家の道に面した石垣には、雑草は一つも目に入らなかった。ただ石垣の間から芹(せり)か蕗(ふき)のような植物の茎が一本、青く伸びているのが目に留まった。玄関前の庭は日当たりがあまり良くないのか、山茶花はひょろひょろと伸びていた。玄関に入る前に彼はいったん立ち止まると、持参の風呂敷包みに目をやった。そして格子戸を静かに開けて敷居をそっと跨いで玄関に入った。
 「ごめんください」
 家の中はひっそりとしていて物音一つしない。少し間をおいてゆっくりとした足音が奥の方から聞こえてきた。襖が開くと、思いもかけず安藤先生自身が姿をみせた。
 「はい、どなたですか?」
 惟芳が朝の陽光を背に受けて立っていたので、先生は一瞬見分けがつかなかったようであるが、惟芳だと分かると懐かしげに声をかけた。
 「おおこれは、緒方君か。よう来てくれた。まあ上がりなさい。家内は子供を連れて買い物に出かけている。私は朝から松陰先生の手紙を読んでいた。丁度一休みしようと思ったところだ。別に用は無いだろう。まあ遠慮しないで上がりなさい」
 惟芳は玄関先で帰省の挨拶だけして失礼するつもりでいたが、是非にと言われるので、懐かしさも手伝ってお邪魔することにした。玄関の土間から部屋に入るには、薄くて平たい御影石の沓(くつ)脱石(ぬぎいし)から、一尺幅の分厚い框(かまち)の一枚板の上に先ず上がり、さらに三寸ばかり高くなっている敷居を越えて玄関の畳の間に入ることになる。普通の家とは違って、土間から畳までの高さは一尺五寸はあると思った。後で聞いた話だが、武家屋敷は格式によって床(ゆか)までの高さが決められていたという。玄関の間は三畳敷である。部屋の両側は襖で閉(た)てきってあった。先生の後に続いて隣の部屋に足を踏み入れた。そこは六畳の部屋で、左手の障子戸が戸外との境をなしているから、入った途端に明るく感じられた。さらにその次に奥座敷がある。彼はここへ通された。開けられていた襖の間を通って中に入ると、ここも正面の床の間に向かって左側の南に面した障子戸を通して、朝の陽光が明るく射していた。

 

 この座敷は大きな部屋で、正面に幅が一間以上で、一段高くなった床の間があり、太いい床柱の右側には違い棚があり、さらにその上に戸袋があった。小さいながらその戸袋には二枚の引き戸があって、色絵具と金銀を使って草花が描いてあるのが目に入った。部屋の中央に大きなテーブルがあり、古い手紙らしい紙の束が片隅に置かれてあった。惟芳はこの座敷に入ると直ぐに、天井が高い部屋だと思った。床には大きな栗の木をくりぬいて作った盆に、小振りの白磁の香炉が据えてあった。壁には「春入千林処々鶯」と書いたやや細長い軸が掛けてあった。この季節に相応しい文句であると彼は思った。檜の一枚板を張ったテーブルの傍らに、桐の木をくりぬいて、中に銅(あかがね)の薄板を張った手あぶりが、胡坐(あぐら)をかいているかのごとくどっしりと座っていた。その中に五徳が据えてあり、南部鉄製の鉄瓶がかけてあった。長押(なげし)の上には壁との間に、透かし彫りの戸障子が嵌められていた。惟芳はざっとこの程度の観察をした。そして中級以上の武家屋敷とはこのような造りをさすのだろうとひとり合点した。彼は造船所へ行ってからというもの、建造物に興味を覚えるようになっていた。

 先生は座敷の隅に重ねてある座布団を一枚取り、惟芳に座るように言うと、床柱を背にした側に行き、惟芳と向き合う位置に座った。安藤先生は温厚篤実な学者肌の人で、萩中学校の教師になる前、明倫小学校長の経験が既にあった。年齢はまだ四十歳になっていない。しかし和服姿で落ち着いた物腰は、そう若くには見えなかった。惟芳は座布団に着座する前、畳に両手をついて深々と辞儀をした。
 「本日は突然参上いたしまして申し訳ありません。先生にはお元気なご様子で何よりと存じます。私は昨日帰省いたしました。先ほどお寺参りをすませまして、帰りにちょっとご挨拶だけして失礼するつもりでした。お忙しいところをすみません。これはつまらないものですが」
 惟芳はこう言って風呂敷を解いて、持参のカステラの包みを差し出した。
 「そう気を遣わないでくれたまえ。まあ折角だからありがたく頂戴しよう」
 先生はカステラの包みを取り、半ば後ろ向きに包みを床の片隅に置くと、向きを元に戻し、惟芳に膝を崩すように言って、あらためて教え子の顔に目をやった。

 「君があの時、突然退学届けを出したのにはちょっと驚いたね。家にはそれぞれ事情もあるだろうと思って、根ほり葉ほり訊くことはしなかったが、よく決断したね。ご両親も賛同なさったのだろうから、私としては何も言うことは無いがね。ところでご両親はお元気かね?君が帰省してさぞかし喜ばれたことだろう」
 「はい、お陰で何とか無事に暮らしておりますようで、私といたしましては安心いたしました」
 「そうかね、それはよかった。ところで、日清戦争が終わったとは言え、三国干渉後ロシアが満州に居座って、何だか不穏な情勢になりつつあるようだね。長崎では市民はどんな様子かね?君が勤務している会社では、一段と緊迫した感じだろう」
 学問一筋と言っていいような先生も、まずは世間的な話題を口にした。
 「はい、確かにそのためでしょう、今年から所員の募集を始めています。まだ軍艦建造はしていませんが、海上輸送の需要が最近とみに増えていまして、そのために商船の建造はかなり増加しておるようです。そのうち工場でも軍艦建造に切り替える時が来ると思います」

 

 

(二)

 先生はやはり学問的な話が性に合うのか、直ぐ話題を変えた。
 「冬季休みに入ってこのところ毎日、松陰先生の手紙を整理している。先生は一字一画わりと几帳面に書いておられる。崩した字も中にはあるがそう読みにくいのはない。片仮名と平仮名が混じって、しかも右上がりの特徴のあるものだよ」

 こう言いながら先生は、卓上の束から一通の手紙を選び出して惟芳の前に広げて見せた。
 「これは品川弥二郎あての書状だ。先生の死生観が書いてあるから一つ読んで見よう」   
 こう言って安藤先生はうす汚れたような書状を読み始めた。
 「但し死生の悟りが開けぬと言ふは余り至愚故、詳(つまびら)かに言はん。十七八の死が惜しければ三十の死も惜しし。八九十百になりても是で足りたりと言ふことなし。草虫水虫の如く半年の命のものあり、是れ以て短とせず。松柏の如く数百年の命のものあり、是れ以て長とせず。天地の悠久に比せば松柏も一時(いちじ)蝿(はえ)なり。何年程生きたれば気が済むことか、前(さき)の目途でもあることか。浦島・武内も今は死人なり。併し人間僅か五十年、人生七十古来希、何か腹のいえる様な事を遣って死なねば成物(しようぶつ)は出来ぬぞ。」
 「緒方君、君は勿論、私もまだそれほど年ではないが、人は七、八十の高齢になれば、体力も気力も弱まり、あるいは身体の節々が痛んでくる。そうなると、苦しみながら生きているより、むしろ死を望むこともある。しかしこれは決して悟りではない。先生は酔生夢死、徒(いたずら)に長く生きることを決して望まれなかった。至誠にして動かざる者未だ之有らざるなり、いま自分は国のために死ぬ、この国を思う誠の気持ちはいづれかは分かってもらえる。こう言われて、従容として死を迎えられた。先生が身を以て我々に示されたあの最後の瞬間は、本当に感動的だ」
 安藤先生の松陰尊崇の念が惟芳にはひしひしと感じられた。彼も自分の意見を述べてみた。
 「松陰先生を初めとして、高杉、久坂といった維新の志士たちは、誰もみな若くして立派な死生観を持っていたと思います」
 「その通りだ。維新の大業を前にして多くの若者が命を落とした。考えてみると残念なことだ。だが彼らは皆しっかりしていたね。ところで緒方君、話しはちょっと飛ぶが、君の所にも橙を植えているだろう。萩が夏みかんの生産地として知られ、今後特産品として、その需要は増すと私は思うのだが、是の栽培育成(注)に最も貢献したのが小幡高政という人だ。屏山(へいざん)の号でむしろ知られている。現在九十歳近いのではないかな。この方はなかなかの人物でね、若い時から萩藩士として要職につき、維新後は中央出仕の行政官として活躍されたのだ。明治九年に公職を辞されたのだが、その年に前原騒動、つまり萩の乱が起きたのだ。私は十歳ぐらいだったが、日本海の沖から官軍の軍艦が発砲した時、どーんという砲声が聞こえたのを今でもよく覚えておる」
 惟芳も萩の乱の事は父から聞いていたので話を合わせた。
 「私の父も、子供の頃経験したようです。前原騒動とその後の前原一誠を始め、主立った者たちの処刑のことを、よく話していました」
 「ああそうかね。この騒動は詰まるところ、維新後士族に生業が与えられず、生活不安にさらされた事への不満が爆発したのだ。小幡翁は屋敷の空き地に橙を栽植したらいいに違いない、とふと思いつかれてその考えを実行に移されたのだ。お陰で困窮した士族救済に大変役立った。ここ青木家でも栽培されたのだろう、後ろの畑に沢山橙の木がある。君の家にも橙畑はあるだろう。」(注)
 「はい、今は母が畑の世話をしています。今年の橙の成りは思ったよりいいようです。」
 ここで安藤先生は本題へ入った。
 「松陰先生の最後の事を話そうと思ってつい前置きが長くなったが、実は安政六年(1859)十月二十七日、松陰先生は、この時は浪人吉田寅二郎であるが、江戸伝馬町で処刑された。この事は君も良く知っているだろう。明治維新とは切っても切れない出来事だからね。この処刑が行われたとき、留守居役であった小幡翁が、刑申し渡しに立ち会われたのだ。」
 惟芳は是は初めて聞くことだと思って緊張して耳を傾けた。
 「歴史的事件を実際に見聞されたのですか?人間一生の間でも、そう度々体験出来ることではありませんね」
 「確かにそうだね、翁がそのときの状況を話されたとき、私はさすが松陰先生は偉い、至誠の人だと、粛然たる気持ちになったよ」
 安藤先生は以前翁から直接聞いた松陰処刑の模様を、感動も新たに小幡翁自らの言葉をもって、惟芳に向かって話し始めた。  
 「奉行等幕府の役人は正面の上段に列座し、私は下段右横向きに座っていた。ややあって、松陰は、潜り戸より獄卒に導かれて入り、定めの席にに就き、一揖(いちゆう)して列座の人々を見回した。鬢髪(びんぱつ)蓬々、眼光炯々(けいけい)として、別人の如く一種の凄味があった。直ちに死罪申し渡しの文が読み聞かされて、『立ちませ』と促されると、松陰は起立し、私の方に向かい、微笑を含んで一礼し、再びくぐり戸を出ていかれた。その直後、朗々とした吟誦の声が聞こえてきた」
 ここまで一気に話すと、安藤先生は松陰の辞世の詩を低い声で吟じた。
   
   吾今國の為に死す 
   死して君臣に負(そむ)かず
   悠々たり天地の事
   鑑照明神に在り
  
 「その時にはまだ幕吏等はなお坐に在り、粛然襟を正して之を聞いていた。私は肺肝(はいかん)をえぐられる思いがした。護卒もまた傍らにありながら制止するのを忘れたかの如く、朗誦が終わると我に返り、狼狽して松陰を駕籠に入れて、伝馬町の獄へ急いだ」 
 惟芳はこの時始めて松陰の最後の有様を聞き、肌に粟を生ずるような思いをした。安藤先生自身も感に入ったように、話を続けた。
 「このように松陰先生は従容とて死を迎えられたのだ。これより一週間前の十月二十日、死罪は免れまいと予感して、家人に永訣の書を書き残しておられる。その冒頭に次のように書いてある」
 こう言って安藤先生は一枚の紙片を取り出して読んだ。
 
  平生の学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず、非常の変に立到り申し候。嘸々(さぞさぞ)御愁傷も遊ばさるべく拝察仕り候。
  
  親思ふこころにまさる親ごころ けふの音づれ何ときくらん

 「先生は実に心優しい人でもあった。本当に親孝行だったと思う。また年下の者への心配りには感心させられる。やはり同じ頃、獄中から妹の千代へ宛てた手紙があるが、最後にこんな事を書いておられる」
 こう言いながら安藤先生は手紙の束の中から前より少し長めの手紙を出して、自ら内容を噛みしめるようにゆっくりと読んでいった。
 「兄弟甥姪の間へ、楽が苦の種、福は禍の本と申す事を得(とく)と申して聞かせる方が肝要ぢや。拙者不孝ながら、孝に當る事がある。兄弟内に一人でも否様の悪い人があると、跡の兄弟も自然と心が和らいで孝行する様になる。兄弟も睦まじくなるものぢや。夫れで是からは拙者は兄弟の代わりに此の世の禍を受け合うから、兄弟中は拙者の代わりに父母へ孝行して呉れるがよい。左様あれば縮(つづま)る所兄弟中皆よくなりて果ては父母様の御仕合せ、又子供が見習ひ候へば子孫のため是ほど目出度い事はないではないか。」
 松陰の話となると、安藤先生は止まるところを知らない。惟芳もこういった話は好きだし、郷土の大先達として、尊敬しているので黙って耳を傾けていた。
 「先生ほど親孝行な人を私は知らない。その先生が、親より早く死ななければならない自分の不孝を、内心親に詫びながら、この禍が転じて福となる、つまり此の禍によって一層兄弟仲良くなり、ひいてはその事が孝行に繋がるようにと念じながら、直ぐ下の妹に宛てて出された最後の手紙だ。」
 安藤先生の話はなかなか尽きない。惟芳はそろそろ失礼しなければと思った。先生の話が一段落したようなので、南向きの障子の方に目を向けた。白梅がちらほら美しく咲いているのが、少し開けてある障子の間から目に入った。
 「先生、いい枝振りの梅の木ですね。まだ開花には間がありますが、先生が植えられたのですか?」
 「いや、是は青木周(しゅう)弼(すけ)という人が植えたのだよ。緒方君、君は青木周弼という人を知っているかね。この人には研藏という五つ年下の弟がいて、この兄弟二人は大島郡の医家の出だ。医学を萩と長崎、さらに江戸で学び、後に萩藩医に召し出された、幕末日本屈指の医者だったのだ。よく知られた話だが、高杉晋作が十歳の時重い痘瘡にかかったが、周弼、研蔵兄弟たちの適切な治療によって奇跡的に助かった。これも兄に命じられた研蔵が再度長崎へ行って種痘の研究をしたお陰だ。そう言えば君は今長崎に行っている。今言ったようにこの兄弟は、我が国に本格的な西洋医学を最初に紹介したシーボルトのことを知ると、真っ先に教えを乞いに長崎まで行って勉強している。弟の研蔵は僅か十五歳だったと言うが、すでにオランダ語が読めたのだね」
 「秀才兄弟ですね。それにしましても、長崎まで行ったり来たり、しかもそんなに年若かったとは大したものですね」
 惟芳は自分より年の若い研蔵が、すでにオランダ語を物にしていたことを知って、いったい何時勉強を始めたのかと、驚くと共に感心した。
 「いま私が住んでおる此の家は、周弼が安政四年(1857)に建てたものだ。周弼は毛利敬親侯の御典医だった。彼には子供がないので弟の研蔵を養子にして、その弟の娘に婿養子を取らせて、医家である青木家の跡継ぎを考えたのだ。それが青木兄弟に勉強を習っていた青年だ。ところが婿なる人がこれまた飛び抜けた秀才であってね、どうも医者として大人しく患者の脈を診るといったタイプの人ではなくて、折角医学の勉強にドイツまで行ったのに、途中心変わりして政治学を学び、その上ドイツの女性と結婚までしたのだ。何でも貴族の娘さんとかで、思い切ったことをしたものだ。彼は青木周弼の周と、研蔵の蔵をとって、周蔵と名乗っている」
 「そうですか、しかし研蔵の娘さんはどうなったのですか、何だか二重結婚のようで、複雑な関係の様な気がしますが」
 「そう言えばそうだね、まあそれはともかく、木戸さんが岩倉具視等の欧米巡視の副使としてドイツへ行かれたとき、折しもドイツに留学していた周蔵は木戸さんにお願いして、医業を止めて政治の道へと大きな転換をしたのだ。帰国後彼は山縣内閣の時、外務大臣になられたが、最近外交官として大層活躍しておられることは、君も知っているだろう」

 

 話が逸れるが、森鴎外の『獨逸日記』を読むと、鴎外は衛生学を修めるようにとドイツへ派遣された。着くと早々に、当時ドイツ公使であった青木周蔵のところへ挨拶に行っている。その日の『日記』には比較的長い記述がある。

 

 明治十七年十月十三日。橋本氏(筆者注 陸軍軍医総監 橋本左内実弟)に導かれて、大山陸軍卿に見えぬ。脊高く面黒くして、痘痕ある人なり。聲はいと優く、殆女子の如くなりき。この日又青木公使にも逢ひぬ。容貌魁偉にして鬚多き人なり。(中略)公使のいはく衛生學を修るは善し。されど歸りて直ちにこれを實施せむこと、恐らくは難かるべし。足の指の間に、下駄の緒挟みて行く民に、衛生論はいらぬ事ぞ。學問とは書を讀むのみをいふにあらず。歐洲人の思想はいかに、その生活はいかに、その禮儀はいかに、これだに善く観ば、洋行の手柄は充分ならむといはれぬ。

 

 鴎外が青木公使の忠告を素直に受け容れて、在独中専門の衛生学の他、文学書や哲学書に読み耽ったことも、『日記』から窺える。

 

 「そうしますと、この家でその方々が起居されたことがあるのですね。それにしましても医家に婿養子に来て、医者の道を捨てて政治家になり、その上外国人の女性と結婚するとは思い切ったことをしたものですね」
 「これもご時世だよ。封建時代ならお家断絶、打ち首かもしれないな。ハハハ、まあ人間、天職を見つけるということは、運命的な面もあって何とも言えんが、本当に見つけた人は幸いだね。君も今は造船所で働いているが、今後どんな廻り合わせで、違った職業に就くやも知れん。親が医者でも子は政治家になることもあれば、その逆に政治家の家に生まれた者が医学の道を選ぶこともあろう。その点緒方洪庵の家は代々医業を継いでいるがね。ところが周弼が亡くなり、弟の研蔵も、この人は出世して明治天皇の侍医頭にまでなったが、天災で気の毒にも命を落とした」
 「それは知りませんでした。人の運不運は分からないものですね」
 「その様なことがあって、此の家が処分されると聞いたので、由緒ある家だから、私は十年前の明治二十五年八月にこの家屋敷を購入して、後世に残すべく、大事に保存に努めながら住んでおるのだ。見たら分かるように随分敷地が広くてね、間口奥行き共に二十間だから、丁度五百坪あるよ。建坪は母屋に蔵、それと門を入って直ぐ右手にある仲間部屋を併せると、七十坪ばかりになる。
青木兄弟二人は相前後して藩の医学館長を務めているが、自宅でも診療に当たっていたようだ。この座敷の直ぐ後ろの部屋が診察に使用した所だ。その当時も家の周囲は畑として利用されていたと思うが、春先から夏にかけてよく草が伸びるのには閉口だね。ここの一軒先隣が木戸孝允が生まれられた家で、当時は裏の畑から自由に行き来が出来ていたようだ。まあしかし、実に閑静な処で私は気に入っておる」
 「本当に閑静な佇まいですね。私の家は菊ケ浜の直ぐ側ですから、絶えず波の音や松風が聞こえます。子供の時から聞き慣れていますので、別にどうということはありませんが、ここは確かに静かな良いところですね。おや鶯の鳴き声が聞こえますよ」
 惟芳は街中では珍しい鶯の鳴き声に、何かしらホット心の休まるものを感じた。
 「そうだよ。今時分梅が咲き始めると、どこからともなく鶯がやってきて、終日鳴いているよ。その鳴き声を聞くと、書見などで疲れた頭が休まる。恐らく周弼も書斎にあって、鶯の鳴き声に耳を傾けただろう。周弼は梅が好きだったと見えて、敷地内に何本も梅の木がある。ほら、今君が言ったその白梅と、向こう左手に少し後れて咲き出す紅梅があるが、彼はこの座敷からいつもそれらを愛(め)でていたのだろう。私も梅が好きだから、枯らさないように大事に見守っている。それはそうと、折角君は長崎に居るのだから、シーボルトと萩藩、いやシーボルトだけではない、長崎と長州の関係など調べてみると面白いかもしれんな」
 安藤先生のシーボルトへの言及を心にとめて、惟芳は年の瀬も迫った時に、これ以上長居をするのはどうかと思って失礼することにした。
 「先生、突然お伺いいたしまして失礼致しました。いろいろと良いお話を聞かせいただいて有り難うございました。学生時代にもどったような気になりました。長崎へ参りましたら、勉強が待っておりますが、暇を見て先生がいま言われた長崎と長州との交流など、少し調べてみましょう。本日は本当に有り難うございました。次第に寒くなりますから、どうかお大事になさってください。帰省しましたら又お邪魔させていただきたく存じます。奥様によろしくお伝えください」
 「そうかね。折角来てくれたのに、家内が留守でお茶も出さずに失敬したね。くれぐれも元気で頑張りたまえ。帰省したらまた遊びに来たまえ」
 先生はにっこり笑って再訪を促した。惟芳は立ち上がり座敷を後にし、玄関を出て門の所に差し掛かると、そこまで見送るために出てきた先生は、足を止めて惟芳に、右手の塀の向こうから枝を差し伸べている大きな木を指さして、
 「此の木は杏(あんず)の木だよ。医者の家には此の木がよく植えてある。なぜだか知っているかね?」
 「何か謂われでもあるのですか?」
 「それがあるのだ。中国の三国時代、呉の国に董奉(とうほう)という人が病人を治療した礼に、重病人には五本、軽傷者には一本の杏の木を植えさせ、数年で杏の林が出来たといった故事があるのだ。毎年此の木を見ていると、花は春に昨年の枝につき、葉より早くに咲く。桜や梅の花も綺麗だが、薄桃色の花が木一面に咲くと見事なものだよ。果実は生のまま、または乾燥して食べられるが、種子は薬として用いられたようだ。
中国北部原産というから、医者が昔から重宝したのだろう。医者の美称(びしょう)として杏林(きょうりん)という言葉があるのも、今言った故事に由来しているのだね。ああ、又引き留めてしもうたな。今日はよう訪ねて来てくれた。また来たまえ。今度は手ぶらで来なさいよ」
 「それではこれで失礼いたします」
 再度別れを告げると、惟芳は門を出て、先ほど通った道を逆にゆっくり歩いた。少し歩いて振り返ると、安藤先生はまだ立ってこちらを見ていた。春ともなれば、きっと咲くであろう杏の、薄桃色の美しい花を想像しながら、彼は次の言葉を思い出した。
 
桃李不言下自成蹊 (桃李言わざれども下自ずから蹊を成す)

 

 ―先生はまだお若いが、学識があり品格を備えておられる。これから先長く、教鞭を執って行かれたら、先生を慕う弟子がきっと多く出るだろう。
 
 路地を左に曲がって呉服町筋に出ると、前方に指月山の円やかな美しい姿が目に入った。母が待っているだろうと思って、彼は大股で歩き始めた。

 

 

(三)

 年も改まって明治三十六年(1903)正月元旦。屠蘇を祝うと惟芳は弟の尚春を連れて家を出た。長いこと構ってやれなかったので、帰省している間は、せめて話し相手になってやろうと思うのであった。片方の足が不自由なので歩みがままならない尚春は、兄の側に居ることが嬉しくて、一生懸命離れずに付いてくる。惟芳も意識してゆっくり歩いた。


 道々彼は弟に話しかけた。八歳も年下であるから、まるで親子のような感覚である。
 「尚春、冬休みに入ったが、学校は楽しいか?どんな科目を習っているのかね?」
 弟はちょっと立ち止まって考えると、直ぐ後から小走りに兄の横まで来て、背の高い兄を見上げながら答えた。 
 「修身、国語、算術、体操の四つです」
 惟芳は、弟は足が悪いので体操は苦手であろうと可哀想に思った。
 「そうか、それで何の科目が好きかね?」
 「僕は算術が一番好きです」
 弟は兄にこう答えられるのがいかにも嬉しそうであった。
 「担任の先生のお名前は?」
 「西村乙市先生です。先生は悪(わる)さをしたら怒られますが、いつもは優しいです」
 惟芳が明倫小学校にいたときは、西村という先生はおられなかったが、きっと良い先生だろうと想像した。と同時に小学時代が夢のように過ぎたと、今更ながら歳月の早さを実感した。彼は幼い弟に向かって次のような事を言った。
 「兄さんはね、長崎という処で船を造る会社で働いて居る。これは兄さんが自分で決めてやったことだ。そのために尚春、お前とは分かれて生活することになった。淋しくても、男の子は我慢するのだよ。それからよく言って置くが、お父様とお母様の言われることは良く聞かなくてはいけないよ。例えば、朝起こされる前に起きるようにするんだよ。それから学校での勉強も大事だが、先生の言われたことを忘れないようにすること。これがもっと大事だよ」
 こう言って彼は昔小学校でもらった『学校家庭通知表』を思い出した。その備考に次のような言葉が書いてあった。

 学業と操行とを学期毎に調査して其の評点と評定とを通知す。評点は0より10までの11階級とし6点に足らざるものは保護者が特別に注意せられたし。評定は学業点と操行点とを見合して定む。

 

 尚春の操行点が少しでも良くなることを願って、以上の事だけ優しく言って聞かせた。
 「うん、僕、明日から起こされる前に起きよう」
尚春は兄の言葉に素直に答えた。惟芳はこの幼い弟のためにも頑張らなければと思うのであった。

 
 余談であるが、筆者の父が明治三十七年(1904)四月に明倫小学校でもらった『学校家庭通知表』を目の前に置いている。表には『学校定期通知欄』とあって、一学期、二学期、三学期毎の学業操行の成績と、出欠席及び身体状況が記載してある。裏面には『保護者への希望』として、『連絡』、『教訓』、『出席欠席及登校禁止』、『服装携帯品』と詳細をきわめた文章がある。今日の小学校の通知表がどうなっているか知らないが、面白いと思う処だけ一部抜粋してみよう。

 

 教訓は実践躬行せしめて、確固となるものなれば、学校には、其の方針にて、訓練すれども、事項によりては、家庭の状況によりて、保護者が、ぜひ自ら、訓練せられねばならぬこともあり。(中略)実行は、保護者にて、躾られたし。また、應待、挨拶、座作(たちい)進退(ふるまい)の作法より、日常普通の家においてなすべき行為は、学校にて、教授もし、練習もすれど、普通の人家とは、萬事に、状況の異なる所でのことなれば、実際に活用すること充分ならざれば、これらは家庭に好き機会のあるたびに、児童相応に、実行せしめられたし。さすれば、自然、その家風に應じた躾方もできて、却て都合よろしからん。

 

 今から百年以上も前の『通知表』である。当時家庭では大なり小なり、児童に対して躾がきちんと為されていたと思われる。これに反し一部とはいえ、今日の無為放任とも言える有様は実に情けない事である。

 

 兄と弟二人の行き先は氏神様を祭った春日神社である。萩中学校の校門の前を南に直進し、突き当たりの三叉路を左に曲がり、およそ百メートル行くと前方に、傾斜した檜皮葺(ひわだぶき)の神社の屋根が、神域内に高く聳える数本の老松の樹幹の間に見えてきた。神社前の石鳥居を潜って、直ぐ左手の手水所(ちょうずどころ)で口を漱ぎ両手を洗い浄めた。清水(せいすい)が真新しい手桶に汲んであり、木製の柄杓が添えてあった。手桶には小さな輪飾りが結ばれて、これだけでも正月の清々しさが窺えた。

 

 こざっぱりとした身なりの老若男女の参詣姿の中に、羽織袴に身を包んだ紳士の後ろ姿が惟芳の目を引いた。常日頃は洋服を着しているので、思わず見間違える所であったが、雨谷校長であった。
 「明けましておめでとうございます。緒方でございます。ご無沙汰いたしております。あれから一年半になりますが、その節は大変お世話になりました」
 校長は思いもかけない邂逅に少し驚いた風であったが、いつものように落ち着いて、
 「おお緒方君か、これは思いもかけない所で会ったな。おめでとう。元気にしているかね。そちらは弟さんかね。おめでとう」
 校長は尚春にも愛想よく声を掛けた。
 「緒方君、正月休みはいつまでかね。私は四日からは出校しているから、それまで帰省しておれば、学校へ話しにきてもいいよ。そちらの状況を聞かせてくれたまえ。今日は一寸急ぐ用があるから失敬する。元気でね」
 在校中に感じた謹厳な様子とは違って、校長の幾分うち解けた対応に接し、懐かしい母校を訪れて見ようと彼は思うのであった。

                   

(四)

 親子四人揃って過ごした正月三箇日(さんがにち)も無事に済んだ。惟芳は長崎への出立を明日に控えてはいたが、久しぶりに母校を訪れて、出来たら雨谷校長にも会いたいと思った。そこで母に行き先を告げて出掛けることにした。校門の真正面にある本館の玄関を入って、直ぐ左手にある事務室の小さな窓を開け、当直の事務員に来意を告げた。八日からの始業で、学校内は全く人影がなく、静閑として物音一つ聞こえなかった。事務室と向かい合わせに廊下を隔てて教員室がある。

 

 在学中教員室に入る時、「何々先生に用があって参りました。入っても宜ろしゆうございますか?」と、大きい声で言って入っていた教員室の戸口は、当然のことだが閉まっていた。
 「声が小さい。」と言われて、何回も言い直させられた級友もいたなと、惟芳は在りし日の事を懐かしく思った。
応接室で待つようにと言われて、彼は事務室の右隣りの部屋に入った。待つほどもなく雨谷校長が入ってきた。いつも見かけていた黒っぽい色の背広姿ではなくて、和服を着ていた。そのためか何となくくつろいだ雰囲気が感じられた。

 「よう来てくれたね。就職してまもなく、またその後もう一度手紙を貰ったが、どうしているかなと思っていたところだ。仕事や勉強で忙しいようだね。工場は中学校と違い、時間的ゆとりがあまりないだろう。しかもこの時世だからな」
 「はい、確かに学校に通っていた時に比べまして、かなり違った日々を送っています。毎日が緊張した時間の連続ですが、私としましては充実した日々であり、お陰で生き甲斐を感じています」
 「なるほど、そうだろう。ところで君が在学中、的場で弓を引く様子を放課後一二度見たことがあるが、向こうではそうしたゆとりはまだあるまい」
 こう言って雨谷校長は、惟芳が弓道部に属していたのを思い出して、話を続けた。
 「私も大学院を卒業してからは、こうして勤めるようになったので、時間的にも、また気持の上でも、なかなか的に向かうことができない。しかし色々な本を読んでいると、時々弓矢に関係する事項が目に留まる。矢張り弓道は、我が国の良質の伝統文化を継承するものだと改めて痛感する。それで今日君が訪ねて来たら記念に進呈しようと思って、ここに色紙を二枚書いてきた。どちらでも気に入った方を取り給え」
 校長はこう言って、新聞紙に包んだ色紙を開いて惟芳の目の前に拡げた。墨痕鮮やかに、きちんとした楷書で書いてあった。書はその人物を表す面があるというが、なかなか立派な書体であると、惟芳は一見してそう感じた。

 「この『射ハ君子ニ似タルアリ』 は、『中庸』にある言葉だ。色紙の裏に全文を読み下し文で書いて置いた。」
こういって先生は色紙を裏返しにして、惟芳が読みやすいように向けると、ゆっくり読み始めた。
 「『子曰く、射は君子に似たるあり。諸(これ)を正鵠(せいこく)に失へば、返りて諸を其身に求む』この文章を分かり説明するとこうなるのだ」
こう言って校長はこの言葉を説明した。
 「弓を射る人の心は君子の心に似ている処がある。何となれば、弓を射て的の中心、つまり正鵠を射ぬく事が出来ない時は、立ち返って其の原因を自分の身に求め、決して己に勝ちたる者を怨まなかった。まあこのような意味だ。それにしても正鵠を射るとは素晴らしい腕前だ」
 「清々しいですね。礼を失わず射を行う事は実に難しいとことだと思います。在学中稽古をしていました時、的に中たるかどうかが気になって、今から考えますと、本当にお恥ずかしい限りです」
 
 勤務が忙しくて弓道の事をすっかり忘れていたが、雨谷校長の話を聞いて、惟芳は弓道の稽古を熱心にした学生時代を思い出した。校長は話を続けた。
 「孔子の時代、有能な人材を見分けるために、弓の試合が行われていたと言われている。孔子自ら正しい射を行っていて、彼は全て的中、しかも一つとしてまぐれに中るということのない,『百射正中』だったそうだ。ところが孔子は自らを評して、『其の人となりや、憤を発して食を忘れ、楽しみをもって憂いを忘れ、老の将に至らんとするを知らず』と言っているが、幼いときから死ぬまで、それこそ寝食を忘れるほど学問が好きだったと言うから、この点孔子こそ、まさに文武両道の達人と言えよう」
 先生はこう言って、孔子に代表される中国古代の風習に感心したかのような面持ちであった。
 「もう一枚の方は、韓非子の言葉で、恃自直之箭(じちょくのやをたのめば) 百(ひゃく)世(せい)無矢(やをうしなう) と読むのだ。箭(や)とは君も知ってるように矢竹のことだね。自然に真っ直ぐな矢竹のできるのを待っていれば、どんなに長い時間待っていても、矢を得ることはできない。つまり学んだり修養したりせずに、優れた人間はできあがらないことの喩えなのだ。どちらが気に入ったかね?」
惟芳は君子の文句もいいが、今まだ修養の身であることを考えて、韓非子の言葉を選んだ。この後雨谷校長は、更に色紙と一緒に携えてきた小冊子を拡げて見せた。 
 「これはね、君はまだ知らないが本校の開校記念歌だよ。君が退学した翌年の明治三十五年十月十八日に、第三回開校記念の式典が済んで、その後運動会が始まるといった一連の行事があったのだ。それらが全部夕方までに終わったら、その夜は提灯行列を行うという予定であったので、式の両三日前に、安藤紀一先生にお願いして、作ってもらったのだ。作曲も先生がされたのだ」
 惟芳は安藤先生が作詞はともかくとして、作曲が出来ると聞いて驚いたが、校長の次の言葉を聞いてなるほどと思った。
 「生徒達はすっかり気に入って、提灯行列の時の合唱は大したものだったよ。安藤先生は君の旧担任でもあったし、これも差し上げるから読んで見たまえ。さすが先生の家は代々毛利藩で雅楽に携わってこられたと言われるだけあって、一夜にしてこの様に素晴らしい歌を作られたのには感心したよ」
 校長はこう言って、小冊子を惟芳の方へ押しやった。彼は安藤先生の作ということで、格別な思いで、その記念歌なるものに目を向けた。
    
            一
    四方(よも)に薫を敷島の  大和錦の麗しき
    色に花咲く萩の名の  中学校と呼び初(そ)めし
    明治三十有二年  時も秋なる十月の
    十八日を忘れじと   行う今日の記念式

            二
     昨日祝いし神嘗(かんなめ)の  佳辰(かしん)につづくこの祝
     捧げし稲の八束(やつが)穂(ほ)の  稔りに寄せて諸共に
     八千代寿(ことほ)ぐ大御代の  栄(さかえ)につれて年々に
    我校運の比(たぐ)いなき  精華を愈々祈るなり

 

 筆者が旧制萩中学校に入学したのが昭和十九年。入学早々先輩達に強制的に覚えさせられ、歌わされたのがこの開校記念歌と、これまた安藤先生の作詞作曲になる萩中学校の校歌である。同級生が集まった宴席では、蛮声を張り上げて歌うのがこの懐かしい校歌である。校歌は大正七年十月十八日、第十九回開校校記念日を期して、新たに定められたのである。


 漢文の大家安藤紀一先生によるその歌詞は、この年齢になって読んでみると、実に名文句だと思うので、第一番だけ記載してみよう。

 

            第一  質実
    徒(あだ)には立たじ学(まなび)の道に  徒には読まじ千巻(ちまき)の書(ふみ)を
   文(ふみ)の林に花は咲くとも 実(み)を結ばずば何にかはせむ
   表面(うわべ)の飾は儚(はかな)き頼(たのみ) 心の誠ぞ貴き寶
   松を粧(よそお)ふ雪も一時 本(もと)の緑は千歳(ちとせ)も消えず
   守れ質実天地に愧(はじ)ぬ 光明正大これより出でむ

 

 惟芳は思いもかけぬ良い物を貰って、校長に心から礼を述べた。長崎での生活や仕事について色々と訊かれたが、出来るだけ詳しく答えて校長も満足げであった。別れに臨み校長はつぎのようなことを言った。
 「新井白石が『折たく柴の記』の中で、男児はただ事に堪ふる事を習ふべき也、と言っている。確かに人生は波乱万丈、苦しいこと、切ないことがいつ何時降りかかって来るやも知れない。しかしこれらの全てをまともに身に受けたら、大抵の者は潰れてしまう。そういったとき、現実への視点をほんの少しずらすことで、現実との摩擦を避けることができ、嫌悪すべき対象が微笑むべき対象に転化して、好ましい一面さへ現れてくる。イギリス人はこういった人生の知恵をもっている。これが英国的笑いというものだ。君も真面目一方では肩が凝るから、今後生きて行くにあたって、こういった知恵も学ぶと良い」

 大学でイギリスの社会制度を勉強し、イギリス人の気質の美点を学んだ校長にして言える感想であると、惟芳は思った。家に帰ったら、「風呂が沸いているから入るように」と母に言われて、彼はゆっくりと湯船につかりながら、安藤先生といい、雨谷校長といい、共にこれからの生き方を教えて下さったのだと、有難く思うのであった。

 -校長は俺の気質を見抜いて言われたのかも知れない。確かに俺には不正を嫌う気持ちが人より強く、それがために馬鹿正直な面がある。正直は最善の政策である、と修身の授業で校長は言われた。しかし正直者が馬鹿を見ることもあるから、賢明に振る舞えとも言われた。誠実にして、しかも人から嘲笑されないように生きるには、相手の人間性を察知しなければいけないのだ。これが出来るには、実社会での経験が相手より大であれば、可能なのだろう。まあ、いろいろと勉強することだ。それにしても校長先生は良いものを下さった。韓非子の言葉は気に入った。「自直の箭を恃(たの)めば、百世矢を無う」か。

 

 こうして、惟芳にとってこの度の帰郷が、二人の旧師に会うことによって、思わぬ収穫があったことを、何よりも喜ばしいことだと思うと同時に、この二人の恩師をはじめとして、これまでお世話になった方に、いつか恩返しをしなければと固く心に誓った。しかし人生は有為転変、無常の風はどこからともなく吹いて来る。
樹静かならんと欲すれども風止まず、子養わんと欲すれども親待たず。『風樹の嘆』は恩師についても言えるのであった。彼がこの後長崎へ行って二年と経たない明治三十七年十月十二日、不幸にも雨谷校長は腸チフスのために三十四歳の若さで急逝した。儚きは人の命である。

(注)萩市における夏橙の育成は、吉岡市熊(明倫館剣道指南役)が、長門の大日比より、夏柑の原木を萩の武家屋敷に持ち帰り、接ぎ木として毛利の家老宍戸家(現萩高校)の橘(別名きこく)を用いたことに始まる。当初非常に酸味が強く一般向きでなかったが、後に小幡高政が改良した結果、一般向きの青果として広く普及し、萩の主たる生産物となった。それは概して炭坑へ送られていた。 なお明治初年より、市熊の長男米蔵は、夏柑の出荷販売を家業とした。さらに昭和に入り、彼の子息東作は、夏柑の加工を試み、各種の製品を世に出し、今日に至っている。

杏林の坂道 第六章「シーボルト」

杏林の坂道 第六章「シーボルト
 
(一)

 惟芳はここ数日間夜遅くまで製図を画くことに専念した。学校で習う教科の復習にはそんなに時間はかからないが、製図にはミスが許されないので神経を集中しなければならない。そのために起床が常よりも少し遅くなることが時々あった。しかし今日は天長節、早めに起きて午前中所内で行われた式典に参加した。天皇陛下の誕生を国民の一人として祝っての帰り道、日の丸が家の門ごとにひらめいている街中を通ると、何だか爽やかな気分になった。


 彼は午後、その日を期して画き上げた図面を満足げに見ていると、隣室の吉川先生が声をかけて姿を現した。

 「お邪魔します。最近遅くまで勉強しておられるようですね。ところで緒方さん。あれから半年経ちますが、五月の同盟罷業後は何事もありませんか?」
 「はい、その後は別に何も聞いておりません。あの時はちょっとびっくりしました。終業前に、鉄工職の一団六百余名のものが背後の丘に集合して、兵児帯の類を旗印の様に高く掲げ、就業している職工を威嚇しようとして暴言を吐いたり、工場内に瓦礫を投げ入れたりしていましたから。遠くから見ていましても物騒でした」〔注〕
 「労働者のこうした大々的な抗議集会は次第に禁止されていますね。私もあのとき新聞を読んで一体どうなるかと心配しました。あの事件の後、やはり五月でしたが、第一高等学校生徒藤村操の華厳の滝への投身自殺がありました。さらにその一カ月後には、東京帝国大学の七博士が主戦論を唱えて建議書を公表しました。ところが先月には幸徳秋水内村鑑三反戦論を発表して『萬朝報』を退社しました。世の中が落ち着かなくなり、その上息苦しくなりました」

 惟芳は藤村操の遺書を新聞紙上で読んで、自分と同じ年齢の青年が書いた文にしてはなかなか立派である。しかしたとえ人生における大きな煩悶があったにせよ、これまで育ててくれた親の恩を顧みないで自殺するとは、何といっても不孝の誹(そし)りは免れないのではないかと感じていた。吉川氏がそのことに言及したので今またそう思った。

吉川先生はこのように最近の大きなニュースを口にしたが、それでもって話を展開させようという意図は別にないようであった。彼は惟芳の机の上に拡げられた図面に目をやった。
 「おや、それは緒方さんが画かれたものですか。たいそうきれいにできていますね。何の図面ですか」
 「ああ、これですか。ここに書いてありますように『スチームランチ汽罐験水器之図』です。これは現尺のものです」
 「ちょっと見せてください。TOTAL LENGTH 360 DAIAMETER 70とありますね」
 「そうです。まあちっぽけなものです。しかしご覧のように、この程度の図面を画くのにも結構手間もかかれば神経も使います。これが大きな船舶の製図ともなれば、膨大な数の図面を必要とします」 

 「そうでしょうね。それにしても細かく寸法が書き込んでありますね」

 吉川先生は半紙四枚分の大きさの紙一面に画かれた験水器の図面にしばらく眼を注いだ。先生はこういったことに多少興味があるのか、惟芳に訊ねた。
 「この図面をこれからどうされるのですか」
 ここで惟芳は設計についてこれまで学んだ事をかいつまんで説明した。
 「初心者と設計技師との間には師弟の関係があると言われています。初心者は一対一で面倒を見てもらいます。教える方も一生懸命ですが、教わる方はそれこそ真剣に学び、作業をしなければいけません。設計室には畳一枚程度の木製の頑丈な製図机がいくつも置かれてあります。この机は脊が高いので、腹を図板に載せないと画けません。それで胸を悪くする人がいます。私がこれまで教わった設計を学ぶ手順を簡単に列挙してみますと次のようになります」

 惟芳は質問に直接答える前に、以上の事を言った後、答えるべき内容を頭の中で整理して話した。
 「最初は比較的簡単な強度計や振動計から画き始めます。今お見せしました験水器も簡単なものです。また部品図や部品表などでも、まず画用紙に鉛筆で下画きしたものをトレース〔敷き写し〕します。トレース紙は絹にパラフィンを流したもので、これに烏口で墨入れをするのですが、失敗したら大変です。非常に手間がかかり苦労します。こうして毎日画き上げた分を技師に見てもらい、承認の判を貰わなければ完了とはいえません。次にでき上った図面や材料表など第一原紙を、写真場に持っていき複写を依頼します。その複写したもの〔青写真〕を現場など関連先に出図します。もちろんその前に船主に図面を提出して承認してもらわなければなりません。こうして承認された設計図を基に、主機関、補機関、および関連装置などが製作されますが、最終仕上げはほとんどヤスリによる手作業でしています」

 製作の最終段階がヤスリによる手作業と聞いて吉川氏は驚いた風であった。
 「ヤスリによる手作業で仕上げるのですか?」
 「そうです。だから造機部門ではヤスリ職が最も多くいます」
 「お聞きしますと、作図をはじめとして機関の完成までに非常に手数がかかって、たいそう面倒のようですね。私はどちらかといえば理系より文系でして、この図面を見ただけで圧倒されますね」
 「私の場合、製図だけでも骨が折れますが、教科の授業も専門に入り、次第に難しくなりました。だから学校で教わっただけではなかなか理解できず、家に帰ってお浚いをしているような訳です。一緒に勉強している者の中には、小学校高等科を出ただけという生徒も何人かいますが、頭が良いだけではなく、しっかりしています。中学校まで行った私としては恥ずかしい思いがします」
 「おっしゃる通りです。良くできるのに上級学校への進学を断念せざるを得ない者がいます。私のクラスにもこれまで何人もいました。将来性のある子を何とか高等学校へ進学させてやりたいと思って親とも相談しましたが、家業を継がせないといけないとか何とか言って、どうしても応じて貰えなかったです。まあ、考えてみましたら、一応中学校を卒業したのですから、後は本人の努力次第でしょう。緒方さんもそうでしたね。家計が苦しくて中学校へも入れない者に比べたら、それだけでも宜しとすべきかもしれませんが」

 吉川先生はさらに言葉を続けて自分の考えていることを熱心に語った。
 「お金のかからない官費入学を考えたら、中学校から海軍兵学校陸軍士官学校、或いは高等師範学校といったところがあります。しかし軍人や教師に向かない者もいますから、もう少し幅広い選択ができて、しかも個人負担のかからない学校があればよいと思います」
 「私もそう思います。この点を考えますと、私が入学を許可されました三菱予備工業学校は有難いところです。この学校の設立を思いつかれ、開校にまで持って行かれた荘田平五郎所長は、誰もが言っていますが、卓見の持ち主で偉い人だと思います。慶応大学で福沢諭吉先生の教えを受け、先生の推挙で三菱に入られたそうです。廉潔で誠実、感情に支配されない理知の方だとうかがっています。そうした人柄のために、所内での信望は極めて厚いものがあります。こうした方が上におられますと、働き甲斐がありますね」

 惟芳の三菱礼賛の言葉に素直に耳を傾けた吉川先生は、話題が教育となると自分の専門でもあるので、日頃考えていた事を披歴した。
 「なるほど、荘田所長は立派な方のようですね。そのような人を上に配すれば、結果は自然に出ますね。私は中学校を卒業するに当たり、医学部への進学を一時考えましたので申すのですが、ここ長崎は日本の西洋医学発祥の地と言っても過言ではないでしょう。御存知だとは思いますが、長崎で最初に西洋の医療を施したシーボルトや、その後医者の養成所を開設したポンペなどは、最新の医療技術を伝え、人格的にも非常に優れていたようです」

 惟芳は吉川氏が医学を希望したことがあるとの言葉に、単に英語を教えているだけではなく、かなり幅の有る人だなと感心した。彼の話は続いた。
 「渡辺崋山高野長英という人物を御存知ですか? 時代に先んじた天才は往々にして悲劇的人生を送りますね。吉田松陰もそうではないでしょうか。その長英が『出島で診療している今回の医師は傑出している』という噂を聞くといち早く反応して、彼は江戸から長崎へと馳せ参じ、シーボルトの愛弟子になっています。長英は元々蘭学を学び蘭医でもあったので、新知識の吸収は早かったと思いますね。ところで今日、一人前の医者になるまで教育するとなると、かなりの費用と年月を要します。貧乏人にはとても無理です。家に金が無くても頭が良くて、医学を志すような者のために、官費制度ができたら良いのにとかねてより私は思っています」

 こう言った後、吉川先生は惟芳にとって思いもかけない嬉しい提案をした。
 「緒方さん、シーボルトの事をお話しましたが、彼は長崎に来て鳴滝塾を開いています。もしお暇ならその跡地へ散歩がてら行ってみませんか。実は今日佐賀から妹が祝日の休みを利用して来たいと言っていまして、そのうち着くと思います。妹は今、佐賀県立女学校に通っています。お差し支えなければ一緒に連れて行ってやろうかと思っていますが」

 吉川氏に妹がいることは既に聞いていたがが、惟芳にとって、うら若い女性はこれまで身近にいなかったことだし、それに「男女七歳にして席を同じうせず」という規範というか環境の下に育ったので、若い女性が突然出現するとの予告に接し、心の水面に小波が立った。しかし願ってもない誘いであるので、彼は二つ返事で賛意を示した。

吉川先生が再び襖越しに声をかけてきたのは、それから小一時間ばかり後であった。
 「緒方さん。お待たせいたしました。妹が先ほど着きました。出かける前にちょっとご挨拶させたいと思います」
 兄の後ろに身を隠すようにして妹が惟芳の部屋に入ってきた。その楚々として兄に従う姿がはっきり惟芳の目に映った。色白でふっくらとした顔立ち、愛らしい目許と優しい口許、笑みを見せた時できる小さな頬の窪み。これらが惟芳には如何にも優しく思えた。

 「悠子と申します。兄が大変お世話になっております」
 これだけの挨拶であるが、明るく澄んだ声に惟芳は何だかほのぼのとしたものを感じた。父を早く亡くし、父親代わりともいえる齢の離れた兄に幾分甘えた所は窺えるが、さすが良家の子女だと惟芳は思った。
 「これは妹が持ってきた佐賀の菓子です。名物に旨いものなし、とよく言われますが、お茶請けに案外喜ばれています。故郷の宣伝になりますが、佐賀では江戸時代既に、さくら羊羹の名で親しまれていました。緒方さんは甘いものはあまり召し上がらないかもしれませんが」
 「有難うございます。喜んで頂戴いたします」
惟芳は羊羹そのものより、わざわざ土産を携えてきた妹の心づくしを嬉しく思った。彼は吉川氏の後ろに控えている悠子に目を向けて礼を述べた。

 

 

(二)

 十一月初旬のこの季節は実に素晴らしい。澄み渡った空、そこに高く懸る巻雲。九州特有と思われる樟の大樹。市中の多くの寺や神社には、必ずといっていいほどこの樟の巨木が見かけられる。しかしその生い茂った緑の枝葉が台風の襲来ともなると、ざわざわと音を立てて大揺れに揺れる様子など、惟芳の故郷である山陰地方では想像もできない風景である。今日は朝から清々しい風の吹き渡る秋日和である。下宿を出ると港の方から漂ってくる潮の香。大樹と海は惟芳にとって何よりも有難い自然の風物である。

 

 彼は長崎に来て誰からともなく教えられたのであるが、現在造船所が位置している「飽の島」という所は、幕末までは人煙稀な丘陵地帯で、半農半漁の人々が少人数いただけであった。彼らは松や杉や雑木の茂った谷間の狭い土地を耕して細々と生活していた。そこへ安政四年(1857)にオランダ人が鎔鉄所を初めて建設したのである。一方シーボルトが鳴滝の地に塾を開いたのは文政七年(1824)それより三十年以上前の事である。

 

 長崎港を隔てて見える造船所では、今や六千人近い人が働いていることを考えると、惟芳は我が国の造船業を初めとして工業の今後の発展に希望を抱いた。しかし事ここにまで至ったのも、考えてみれば、これから訪ねようとしている鳴滝塾で、全国各地からやってきた若き塾生たちが、言語の障害をものともせず、シーボルトの講義に熱心に耳を傾けたことに端を発したといっても過言ではなかろう。こうしたことをあれこれ思うと、惟芳は一段と鼓舞されるような刺激を覚えるのであった。

 

 三人は中島川縁りの小道に沿って歩き始め、その後さらにその支流である鳴滝川を左岸に見ながらゆっくりと進んで行った。道はやや爪先上りに傾斜し、滝つ瀬の音が快く響いてきた。遠近の灌木の茂みや竹藪の中から、小鳥たちの楽しげな囀りが聞こえる。目指す鳴滝の塾跡近辺では、黄金色に輝く稲穂がもうすっかり刈り取られている。その後青葉の出た田圃を過ぎて少し行ったところ。小高い丘の麓にあった。そんなに広い敷地ではないが平坦な場所であった。この鳴滝の塾跡に立った時、惟芳は何だか気持ちの高揚を覚えた。

 

 ―シーボルトから最新の西洋医学の知識を学ぶために、全国各地から馳せ参じた俊英たちの中に、長州からも青木周弼と研蔵の兄弟がいた、と安藤先生が話されたが、同じ長州人として誇るべき事だ。それにしても千里の道を遠しとせず馳せ参じた者もいたというが、その覇気たるや大したものだ。人助けという使命感に燃えていたのだろう。

 その時吉川氏が妹の悠子に話しかけた。
 「シーボルト事件というのを知っているかね?」
 「詳しいことは知りませんが、あの方が帰国なさるとき、禁制品の日本地図などを持ち出そうとされたのが見つかって、大きな騒動になったとか。国史の授業で先生がおっしゃっていましたわ」
 「そうなんだよ。これはね、今から思うと、徳川幕府の狭量な鎖国政策の表われの一つだ。海外の事情はなるべく知りたい。しかし自国の事に関してはできるだけ相手に伝えないようにする。こういった一方的なやり方は、世の中では通用しないからね。シーボルトが江戸へ行った時、彼は幕府天文方高橋作左右衛門のもとに保管されていた伊能忠敬が作った日本地図を見せられたのだ。そのときの彼の驚きたるや我々の想像を絶するものであったと思うね」

 吉川先生はシーボルトに関心があるのか、なかなか詳しい。彼は妹に話して聞かせると同時に、惟芳にも聞いてもらいたいといった風で話を続けた。
 「何しろシーボルトは我が国の歴史、地理、風俗、そして植物には特別な関心を寄せて、在日五年間に、一千点以上の植物標本を集めたと言われているのだ。だから、目の前に拡げられた日本地図は、彼にとっては垂涎(すいぜん)の的だっただろう」
 「兄さん。スイゼンノマトて何のことなの」
 「垂涎とは、ものを欲しがることだよ。犬が餌を見たら涎を垂らすだろう。的というのは対象となるものだ。だから垂涎の的とは、欲しくてたまらないもの、という意味だよ」
 吉川先生は教室で生徒の質問に答えるように妹に説明すると、また話を続けた。
 「高橋は禁制品だとは知りながら、シーボルトのたっての願いと、相手が学者である、しかも我が国にとって有難い恩人であるという純粋な気持ちから、この地図を彼に譲ったのだと兄さんは思うね。悠子、伊能忠敬が何歳の時からのこの地図作成に当たったか知っているか?」
 「いいえ」
 「彼は十八歳の時伊能家に養子に入り、家業の酒造の興隆につとめる傍ら、算数、測量、天文などを研究し、五十歳で家督を譲ったその後からだよ。その時から彼は全国を隈なく歩いて、当時としては実に精巧な日本地図を作ったのだ。だからシーボルトはこれを一目見るや、入手したいと思ったのは当然だ。あの頃五十歳といえば、もう老人で隠居するのが普通だから、彼の生き方には頭が下がるよ」

 吉川氏は惟芳と悠子の二人が熱心に耳を傾けているのを見て、さらに話を続けた。
 「ところがだね、シーボルトが帰国するに当たって、彼の乗船予定の船が台風で破損しして、今の三菱造船所の近くの稲佐浜に打ち上げられたのだ。それで彼の荷物の中から,国の禁制品として海外持ち出し不許可のこの日本地図が見つかったのだ」
 「幕府側から言えば『天網恢恢(てんもうかいかい)、疎(そ)にして漏(も)らさず』といったところですね」
 惟芳は口を挟んだ。
 「まあそう言えるだろうね。そのためにシーボルトは嫌疑を受けて、翌年日本から永久追放されたのだ。また高橋をはじめ、彼の門下生の多くが連座して取り調べを受けたのだよ。高橋は最後には拷問によって獄中で死んだが、実に気の毒な事だ」
 「確かに大きな事件だったのですね。シーボルトは医師として当時最新の西洋医学と技術を我が国へもたらしたこと、その面しか知りませんでしたが、それにしても徳川の鎖国政策は時代遅れだったと思いますね」
 「私も同感ですわ」

 悠子の賛意に気をよくして、惟芳はそのときふと思いだしたことを二人に告げた。
 「これは私が中学校で担任の先生から聞いて初めて知ったのですが、郷里の萩にシーボルトから贈られたというピアノがあります。シーボルトは音楽にも造詣が深かったようです」
 「シーボルトはピアノも弾けたのですか。何でもできたのですね」
 思わず悠子が驚きの声を上げた。
 「恐らくそうでしょう。実は幕末の萩藩に熊谷五右衛門という一人の御用商人がいました。彼は萩藩の財政に大いに貢献したほか、熱心な文化愛好家で、異国趣味もあったようです。彼は優れた医家や芸術家の後援もしています。たまたま彼がこの長崎へやって来た時、膝や足の診察をシーボルトから受けました。それが機縁となって二人は知り合うようになり、シーボルトは熊谷の求めに応じて、愛用のピアノを贈ったようです。普段は蔵にしまってありますが、夏祭りには表座敷に展示されると聞きました」

 惟芳は安藤先生から聞いた話を二人に伝えた。
 「まあ、そうですか。どんな音がするか聞いてみたいわ」
 悠子は音楽に興味があるのか、はずんだ声を挙げた。
 吉川先生も惟芳の話に興味の耳を傾けているようだった。惟芳が話し終わると、また先生は話を続けた。
 「鳴滝での講義は、医学の他に、薬学、動植物学、鉱物学、地理学、さらに歴史、地理などの社会学の分野にまで及んでいたそうです」
 「偉い方だったのですね。日本にいらした時は、まだ三十歳になっておられなかったとお聞きしていますが、どこでそんなお勉強をなさったのですか」
 悠子は兄の話に興味を持って質問の矢を放った。
 「彼はオランダ東印度会社の医官として、文政六年(1823)に出島へやって来たのだが、実際はオランダ人ではなくてドイツ人なのだ。しかもドイツ医学の名門の家に生まれているので、当時のドイツにあって、最高の医学教育をヴュルツブルク大学で受けている」
 「オランダ人でもないのに、鎖国の日本によく来られたものですね」
 悠子はまた不思議がった。
 「たしかに出島で見慣れたオランダ人とは一見して違うし、少々精悍すぎる風貌で言葉にも訛りがあるので、通詞仲間ではその素性が一時怪しまれたそうだ。しかし貿易主事が機智を働かせて、『シーボルトは山オランダと言うのだ。自分は山国で育った男だから、言葉にも訛りがあるし、風采も異なる』こう言ってごまかした事は今では周知の事実だ。まあ、いずれにしても、彼は非常に秀才で、我が国の事を知りたいと云う強い気持ちが、来日を可能にした一番の理由ではないかね」

 吉川先生はかつて医学を志したと云うだけにシーボルトについて詳しく説明した。また彼は悠子に答えるというよりはむしろ、惟芳の心を医学に向かわせようとするかのように、彼の方に向かって話すのであった。
 惟芳はここで自分の意見を少し述べた。
 「志を抱けば何でも可能になるといったものではないでしょう。シーボルトの場合、天が味方したといえます。私はよく思うのですが、もし松陰先生が渡海に成功されていたら、日本の歴史は随分変わったのではないかと」
 「全く同感ですね。松陰と行動を共にした人は何とか云いましたか?」
 「金子重輔です」
 「ああ、そうでしたね。あの事件は安政元年(1854)ですから、今からわずか五十年前のことですよ。緒方さん、彼らが夜陰に乗じて下田の海岸から小舟を漕ぎ出して、沖合に浮かぶアメリカの軍艦に向かった事は一つの歴史的事件ですね。国禁である海外渡航を企てるなんて、当時の日本人で誰が考えたでしょう。それにしても、この下田踏海の失敗が惜しまれるのは、今もあなたが言われたように、もし松陰のような攘夷思想と革新的な精神を持ち合わせた人間がアメリカへ行き、我が国とは全く異なる高い文物や制度に接したら、確かに精神的ショックだけでなく、大きな影響も受けたと思いますね」

 吉川氏は維新前夜の歴史についてもなかなかの蘊蓄を披露した。
 「あの時の松陰は敵情視察という任務を帯びた攘夷論者でしょう。書物を通じて当時の世界情勢を多少は知っていたとはいえ、彼は本質的には儒学的教養を身につけていたので、きっと思想において格闘し、儒学だけでは解決できない事に気がついたかもしれませんね。咸臨丸に乗って勝海舟福沢諭吉アメリカへ渡ったのは、松陰たちの失敗からわずか三年後の事を思うと、不運と言わざるを得ませんね。福沢たちは時代の波に上手く乗れたのですから、松陰の失敗は実に痛恨の極みです。本当に気の毒です。最後にはこの事が災いして処刑されましたからね」
 「人間は偶然的運命に支配されるとよく言われますが、運命は考えようによっては必然的とも言えましょう。その場合、その人の運命は多分に性格に因るのではないでしょうか。松陰は直情径行型の人だったようです。もし彼がもう少し慎重に事を運んでいたら、或いは天も味方してくれたかもしれません」
 惟芳は先ほどと同じ意見を述べた。
 「シーボルトが遠く我が国へやって来たことから話が発展しましたが、古今東西、人間の知識欲、とりわけ青年のそれは、歴史を動かすものがあると私は思います」
吉川先生は新しき知識を求めて止まなかった松陰や諭吉といった人たちの旺盛な知識欲を思って、心を高ぶらせて話す風であった。

 

 ここで少しペンを遊ばすことにする。シーボルトヴュルツブルク出身であるという事を筆者が知ったのは、この稿を書くようになってからである。実は縁あって、平成六年(1994)八月中旬にその地を訪れた。前もって知っていたら彼に関連した史跡を訪ねることもできたであろう。しかしこの古都の印象は忘れ難く、その思い出は今も懐かしいものがある。

 

 ドイツ中南部に位置する地方都市ヴュルツブルクは、ドイツの空の玄関口といわれるフランクフルトから、特急列車で南へ一時間ほどのところにある。「ここは中世以来、通商、交通の中心地として発展し、その面影を今も留めている素敵な観光地である」と、観光案内書に載っているが、氷河で削られた岩肌の見える丘陵の間を流れるマイン川は、町の中心部で川幅百メートルはあろうか、大きく湾曲して美しくゆったりと流れていた。そこに懸る石造りの橋の欄干には、この町の歴史と深い関係のあるという人物の等身大の像が、いくつも立っているのが目を奪った。また橋に備え付けられた古風な街灯も、この堂々として由緒ありげな橋の趣を一段と深めるものに見えた。

 

 橋を渡って丘の上に建つマリエンブルク城に上り、城内の見物を終えて眺望のきく石の城壁のところへやって来た時、眼下のマイン川が遥か彼方にまで細く延びており、その穏やかな水面を平底船がゆっくり行き来しているのが見えた。対岸には石や煉瓦造りの比較的低い家屋が、赤や黄、またオレンジと、色とりどりの美しい甍を並べていた。こうした街中にあって、教会の尖塔だけひときわ高く聳えているのが、幾つか目に入った。先刻渡った橋の上に幾人もの人が豆粒ほどに見えたが、街中には人影は遠くて見えなかった。これが城壁の木陰からの望まれた旧市街の様子である。


 おりしもこれらの教会から、澄んだ鐘の音が前後して聞こえてきた。視覚だけでなく聴覚にも訴えるこの中世の古都の落ち着いた佇まいは、再び訪れたいと云う思いを抱かせるものであった。この美しい街並みの背後に目をやると、緩やかに起伏する丘が連なり、丘の斜面には手入れの行き届いたブドウ畑が、夏日を受けて緑色に輝いているのが遠望できた。明治二十年九月十七日、鷗外は『獨逸日記』に次の詩を書いている。

 酒山夾江起 (酒山江を夾みて起ち)
 緑影落清波 (緑影清波に落つ)
 有客涎千尺 (客有り涎千尺)
 何唯遭麴車 (何ぞ唯麴車に遭うのみならんや)(筆者注:「麹車」は酒を積んだ車)

 川の両岸の丘陵地帯にワイン作りのための葡萄畑が延々と連なり、その緑の影をマイン河の青い水面に落としている。その地の情景を、鷗外は最初の二行で巧みに描写している。

 

 この地を案内してくれたゲールト・グリムという青年は、身長が百八十五センチは優にある、堂々とした体躯の持ち主で、きりっとしまった顔付きをしていた。しかし彼は愛想良く面倒をみてくれて、感じのいい人物であった。ゲッチンゲン大学で筆者の長男と知り合った仲だというが、誠心誠意私たち日本から訪れた一行をもてなしてくれたことは、未だに忘れられない。夕食を市内のレストランでとったとき、ワインの新酒を「この地で醸造したものです」といって飲ませてくれたことも忘れられない思い出である。

 

 シーボルトはこの素晴らしい町で生まれ育ったのである。彼の家は祖父の代から貴族階級に属し、また彼の父を含めて三代前から、医者として誉高かったのである。なお、当時ドイツでは、シューベルトやベートーベンといった偉大な音楽家が活躍していたので、上流階級に属するシーボルトが音楽に興味を抱いた事は当然であろう。

 

 

(三)

 鳴滝塾からの帰り道、吉川先生は妹にこんな問いかけをした。
 「悠子、シーボルトが鳴滝でどれくらいの期間教えたと思うかね?」
 「存じません。でも、そんなに長い間ではなかったのでしょう」
 「そうだよ。彼が長崎に着いたのが、前にも言ったように文政六年(1824)八月で、鳴滝に学塾を開いたのが翌年の春だ。そして出島商館医員の任期が切れたのが文政十一年(1828)だ。この最後の年に例のシーボルト事件が起きたのだよ。彼はこの間江戸への参府に随行してしばらく長崎を留守にしたこともある。しかも実際に教えたのは毎週一日だけだったようだ」

 惟芳は吉川氏がシーボルトについて年月まで良く知っているのに驚いた。
 「そうしますと、実際にはそんなに長くは教えていらっしゃらなかったのですね」
 「そうだよ。その上さっき言ったように、彼はドイツ生まれで、彼の話すオランダ語には訛りがあった。ところが彼自身が驚いた事に、教えを受けた弟子たちの方がむしろオランダ語がよくできたので、言葉の障害はそれほどなかったことも、鳴滝での授業成功の一因だったそうだ。緒方さん、私は英語を教えていますからあえて申しますが、これからは語学の習得が大事になりますよ。造船関係は英語ですね。医学を学ぶには今のところドイツ語でしょう」

 秋空の下、こうして三人の会話はまだまだ楽しく続いた。
 「緒方さん、唐突な事を申しますが、『万葉集』を読んでいますと、『ますらを』という言葉で始まる歌が沢山あるのに、私は最近気付きました」
 「そうですか。私はよく知りませんが、それは防人のことでしょうか?」
 「防人に限りませんが、立派な男、強く逞しい男子という意味でしょう。防人といえば、東国、つまり今の関東地方から徴集されて、はるばる九州筑紫の地までやってきていますね。先の日清戦争では、軍人は支那大陸へ渡って行きましたが、万葉時代に九州まで来るとなると、時間的にもまた危険度からいっても、大陸へ渡るよりもっと厳しかったのではないでしょうか」
 「なる程、考えてみればそうですね」
 「彼ら防人にとっては、武器といえば弓矢が最高のものだったでしょう。その弓もあの頃のことですから、せいぜい竹と木を貼り合わせて作っただけです。この簡単な武器を携えて故郷を後にしています。ところが彼らは、皆とは言いませんが、実に大らかというか、じめじめした所がありません。いわゆる『ますらを』の名に恥じぬ男と言われるのが、彼らの望みだったようです。そうあることを誇りとしていたように思います。
山上憶良の歌に『ますらをは名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐかな』とありますが、上代の男たちは、名誉を重んじ、語り継がれることを望んだのでしょう」

 吉川先生の話題の豊富なのに感心しながら、惟芳は耳を傾けた。
 「そこで思うのですが、維新以来我が国も諸外国と国交を開くようになりました。その結果友好関係を保てばいいのですが、摩擦を生じ、戦端を開くようなことも起こりました。現にロシアが朝鮮半島に食指を伸ばそうとして、隙あらばと迫ってきています。そのとき果たして『ますらを』たるの気概を持って若者は立ち向かうでしょうか」
 「大丈夫ですよ。誰にも愛国心がありますから」
 惟芳は自信をもって答えた。

 

 諏訪神社の拝殿正面に掲げてある大きな国旗が風に揺れていた。天長節だから掲げてあるのだろう。親子連れの参詣者など多数見かけられた。三人は小高い丘の上にある神社の境内をゆっくり歩いた。西に傾きかけた太陽の日差しが幾本もの大きな松や樟の木に遮られて、地面に縞の影を作っている。その樹蔭は、長く歩んで少し汗ばんだ肌には有難かった。


 境内にある茶店で一休みしようと吉川氏が提案した。三人はこぢんまりした茶店に入った。銘々皿に三個ずつ載せて出された牡丹餅を食べながら、吉川氏が妹に向かって言った。

 「久しぶりに食べるが,やはり美味しい。悠子どうだ、美味いだろう」
 彼は見る間に三個平らげると、低い声でこんな歌を口ずさんだ。

 長崎名物 チャンポン カステラ ドーハッセン
 諏訪の牡丹餅ャ ウマヵ!

 最後の「ウマヵ!」を、いかにも美味い、といった風に、この言葉を強く響かせて歌った。惟芳は「ドーハッセン」とは何だろうかと思っていると、悠子が早速兄に訊ねた。
 「兄さん、ドーハッセンって何ですか?」
 「ああ、それは落花生のことだよ」
 茶店を出ると三人は諏訪神社への参道ともいえる長い石段を下りた。途中、かなり大きな鳥居が二個所に立っていた。
 「あら、あんなところで蝉が鳴いていますよ」
 悠子の指さす方を惟芳が見た途端に、それまで御影石の太い柱にとまって「ジージー」と、暑苦しい声で鳴いていた油蝉が、「チッ」と一声発して、褐色のやや不透明な翅をふるわせて飛び去った。

 

 ―尚春は今年も一人で蝉を捕って遊んだろうか。桐の木に登ることができたかな。
夏休みになると、弟を連れてよく蝉捕りに行った時のことを惟芳はふと思い出した。
三人は鳥居を潜ってしばらく行き、出大工町の通りに出た。そこから西方へと石畳を歩いて行った。大光寺と書かれた門前を過ぎると、隣接した寺の門柱には光永寺という門札が掲げてあった。惟芳は寺の名前を記憶にとどめようというつもりは別になく、ただ歩きながら長崎という所にはやたらに寺が目立つ、おまけにどの寺の境内にも樟の大樹が鬱蒼と枝葉を茂らせているなと思った。そのとき悠子がまた兄に話しかけた。
 「兄さん、長崎には随分沢山お寺がありますね」
 「そうだよ。墓も多いよ。それに悠子、もう一つ坂が多いのにも気づいただろう」
 「はい、平坦に続く道はあまりありませんね」
 「悠子、あのね、『長崎名物は、坂、墓、バカ』とも言われているのだよ」
 「坂とお墓が多いのは見て分かりますが、バカはどうしてなの」
 「先ず坂と墓から言うと、長崎には平地が少ない、だから坂が多いのは事実だ。したがって多くの寺は、寺の背後の山の傾斜面を利用して、上へ上へと墓地を造成せざるをえなくなるのだ。最後にバカと言うのはね、おっと、そこの橋を渡ればもうすぐ下宿だよ」

 三人が本大工町に差しかかったとき、吉川氏はこう言って橋のある方へと左へ向きを変えると、話を続けた。
 「長崎の人は自分たちを自嘲してバカと言うのではないよ。何事によらず度を越して行う気質を持っているので、そういった気持ちをバカと言っているのだそうだ。『クンチ馬鹿』とか『祭り馬鹿』とか言ってね。言うなれば自己陶酔して悔いを残さない気持ちをむしろ自賛して、そう言っているのだろう」
 こうした兄妹の睦まじい会話を聞いて、惟芳は萩の両親の膝下にいる年齢の離れた弟の事をまた思った。


 ―尚春はその後元気に通学しているかな。俺が小学生の時は、十一月になればいつも放課後は運動会の稽古だったが、尚春もそうかな。足の悪い弟はしょんぼりと見学しているとしたら可哀想だな。

 

 程なく彼等は下宿の門前にやって来た。悠子は兄の下宿に一晩泊って、明朝早く佐賀へ帰ると言った。夕食後惟芳は数学の本を取り出して問題を解こうとした。割と得意な科目であるが、気持ちが少し散漫として集中できないので、机の上に頬杖をついて、先刻の吉川氏兄妹との鳴滝への散策の事を考えるともなく考えた。
 「あっ、思い出した。そうだあの詩だ」
 惟芳は本箱の中から、これだけはと思って持ってきていた漢文の教科書を取り出した。中学校で安藤先生の国漢の授業だけは熱心に聞いていたので、手放し難く思ったからである。彼は教科書の初めの頁を開いた。

 桃夭(とうよう)
 桃の夭夭(ようよう)たる
 灼灼(しゃくしゃく)たる其(そ)の華(はな)
 之の子于(ゆ)き帰(とつ)がば
 其の室家に宜ろしからん

 桃の夭夭たる
 有にも蕡(ふく)れたる其の実
 之の子于き帰がば
 其の家室に宜ろしからん

 桃の夭夭たる
 其の葉蓁蓁(しんしん)たり
 之の子于き帰がば
 其の家の人に宜ろしからん  (岩波書店『中国詩人選集』)

 

 安藤先生がこの詩について、自分の青春時代を回顧されるかのように、楽しげに講義をされたのを惟芳は思い出した。

 「いつ読んでも佳い詩だね。嫁ぐ前の清純にして可憐な女を、つやつやと美しく咲いた桃の華に喩えている。この女はさぞかし容色華麗だっただろう。ふくよかに実った桃の実に比している。さらにふさふさと繁った桃の葉にもなぞらえている。これは『詩経国風』という中国の詩歌集に載っている有名な詩だ。孔子が編者というから我が国の万葉や古今よりもずっと古いものじゃ。しかし考えてみたら、古今東西、美しいものは美しく、可愛いかものは可愛いと感ずるのが人の感覚だな。この詩の比喩表現は適切にして明白、実に素晴らしい。だから婚礼の席などでよく謡われるのだろう。しかし女性は結婚したら変わる。なまじ世間智が増すとそれだけ清純さが失われる。まあしかし、本当に心優しく賢い女性はそんなことはない。年老いてもいつまでも美しく清らかな姿を保っている。このような女性を見かけたことが諸君にもあろう。男女を問わず、老いてますます清く美しくありたいものだ。君たちもこのような女性にめぐり合いたいと思えば、それに相応しい人物になるよう自らを高める努力が必要だね。昔からよく云うじゃあないか、『割れ鍋に閉じ蓋』とか『似合いの夫婦』とか。ハハハ」

 謹厳実直な先生にしては珍しく声を出して笑われた。惟芳はあの時の情景を思い出し、詩に詠われた少女に吉川氏の妹を重ね合わせた。しかしこうした一瞬の甘い情感も、自ら置かれている立場を考えた途端、秋の涼風と共に吹き抜けていった。

 

 吉川氏の妹は一日だけ兄の下宿に泊まって佐賀へ帰った。彼女は清々しい印象を惟芳に与えた。しかし吉川氏がシーボルトについて語った話は、惟芳の心を深く揺り動かすものであった。とりわけシーボルトが医師として当時最新の西洋医学の知識を我が国へ招来したこと、またそれより前に吉川氏が自分は医者になりたかったが、理系の才能が無いので断念したと言い、惟芳に医者になる事を暗に勧める様に言った事が思い出され、その晩何故か不思議に眼が冴えてなかなか寝付けなかった。

〔注〕「明治三十六年五月、梅雨前に至り、立神鉄工職により、雨天の際は休業致し度との申し出があったが、要求通らず不許可となり、従来通り従業せしむることとなったため、五月十四日,鉄工九百二名の出勤者が就業せず、午前八時全部無断退場し、造船場丘上に集合し、工場内に土石を投じ、就業者に脅迫暴行したので、警察官が出張説諭の上退散せしめたが、工場内の残留職工・人夫は暴力を恐れ、二七〇二人の内二五九二人は早退し、就業者ないため午後二時閉場した。
十五日は鐵工六百余人入場したが納札せず退場した。そのほか各職人夫も、後難を恐れ就業せず、一六四五人の内六四一人早退したので、その筋の警戒を厳にしたところがその後異常なく、十九日に至り平常通り無事就業した。なおその後二十五日まで警官出張し、事後の警戒をした」(三菱造船所労働組合史)

 

杏林の坂道 第七章「日露戦争従軍日記」

f:id:yama1931:20190107231557j:plain

『図説 日露戦争』(河出書房新社版)
 
杏林の坂道 第七章「日露戦争従軍日記」
 
(一)

 国元の父尚一から封書が届いた。惟芳は早速封を切って読み始めた。巻紙に毛筆で書かれた父の書簡は、次のような内容であった。筆跡はまだしっかりしていると彼は思った。

 この度儂は隠居することにした。かねてより考えておったことであるが、お前が徴兵検査を受ける年になるまで待っていた。もうじきその時が来る。昔は侍の子は十五歳で元服した。儂もそうであった。しかし昔と違って徴兵令の布告によって、男子は二十歳で徴兵検査を受けることになった。そこで二十歳という歳は一つの節目になると儂は思う。世の中はずいぶん変わった。御一新で徳川幕府が瓦解し明治新政府が誕生した。儂が徳川との戦に出た頃を思うと、全く隔世の感がある。

 確かに世の中は目まぐるしく変化したが、人の寿命はそう変わるものじゃない。人生五十年、この激動の時代を儂はよう生き延びた。もう還暦を過ぎた。この際家督をお前に譲ることができるのは有り難い。
 お前が長崎へ行くと言ったときから隠居のことは考えておった。儂が隠居してもこれまでの生活とは別に変わりはせんが、お前に緒方家を継ぐ覚悟だけは早く持ってもらいたかった。これで儂は肩の荷が下りたような気がする。お前が将来お国のために奉公する時がきたら、その時は儂としても覚悟を決める。先のことは言っても詮ない事じゃ。身を天命に任せて、その時その時にできることを、一生懸命にしてくれさえしたら、儂はそれで良いと思うておる。

 

 日付を見ると明治三十六年十月二十一日と書いてある。天保十三年(1842)五月生まれの父尚一は寅年で、数えで六十一歳になる。惟芳は明治十六年(1883)三月に生まれたから、父の年齢からすると、当時としては遅い子である。この事を不審に思って以前母に訊ねたら、父には先妻があり、女の子が二人いたがいずれもも明治九年、十年と相次いで亡くなり、その後しばらくしてから父は再婚し、跡取りの自分が生まれたとのことであった。この事を考えると、今の父の心境は手紙の上では「国のために奉公する時が来たら、覚悟を決める」と言ってはいても、悲痛なものであろうと惟芳は父の身になって考えた。

 

 惟芳が十歳の頃から十年足らずの間に、我が国の歴史の上で未曾有の大きな事件が生じ、月日が音を立てるかのように流れた。中でも日清戦争に勝利し、清国と講話条約を結んだ後、露・独・仏の三国の干渉により遼東半島を還付することになったことは、国民誰しも座視するに忍びない出来事であった。特にロシアが清国と旅順・大連湾租借条約を結び、当の遼東半島を手に入れると、ロシア軍は満州を制圧して居直りを続けた。日本はロシアへ何度も撤退するように抗議をしたが無視された。そのために日本政府は危機感を強め、「ロシア撃つべし」と決意し、軍備の拡張を計り、国民へは臥薪嘗胆を強いる政策をとるに至った。
 
 明治三十六年(1903)十二月十五日、惟芳は山口で徴兵検査を受け、甲種合格して現役入隊した。体格が良いので騎兵隊に所属したが、脚気に罹り転属になった。
今でこそ脚気はヴィタミンB1の欠乏によって起こる病気であると分かっているが、当時は細菌によるものとも考えられていた。これに罹ると、まず末梢神経が犯されて下肢や下腹部がしびれ、足にむくみが出来て歩行困難となり、これが昂じて心臓がおかされ心臓麻痺を起こすと、多くの患者は死亡する。当時主に東大医学部と、同学部を卒業した後陸軍省医務局に入った連中は、脚気の研究に何等の成果も上げえなかった。海軍は麦飯を採用することで予防効果をあげていたのに、陸軍はそれを認めようとせず専ら米飯を支給した。このために日露戦役に従軍した日本陸軍将兵で、脚気にかかった者は二十五万人とも言われている。そして死亡した者は實に三万人に達した。今から考えると由々しき問題である。
 

 惟芳は幸いにも深刻な事態にいたる前に救われた。このために彼は騎兵として敵を殺傷する役から、看護兵として多くの負傷兵を救助する役に回された。
 
 惟芳は自分のことをあまり話すようなことはなかったが、後年ある日の夕食のとき、手綱を取った手つきで、三人の息子達に次のように話した。
 「馬に乗り始めは尻が痛くて夜眠れぬくらいであったが、そのうち慣れてきて、塹壕やクリークのような所でも平気で飛び越えるようになった。馬は賢い動物だ。騎乗が下手だったり、騎手が馬を馬鹿にしたりすると却ってこちらが馬鹿にされる。人間だけが心をもっておるのではない。馬も犬猫も皆心をもっておる。この事を心得ておけよ」

 初めて馬に乗れたことがよほど印象深かったのであろう。あるいは騎兵として戦闘に参加出来なかったことが残念だったのかも知れない。しかし脚気を患っては騎兵として働くことができない。騎兵と言えば、日露戦争でコサック兵と闘った秋山好古を思い出す。もし惟芳が脚気に罹らなかったら名将秋山の麾下で活躍したかも知れない。

 

 明治三十七年二月十日、ロシアに対して宣戦布告した我が国としては、たとえ一兵士といえども遊ばせておくわけにはいかない。馬に乗れなくとも適した役はあるというので、惟芳は看護学修業を命じられた。時に明治三十七年五月八日のことである。
 

 戦雲迫り事態は急を要す。同年八月八日に、僅か三ヶ月の短期養成で、彼は広島にある看護学校を卒業した。そして八月二十八日看護手を申付けられ、歩兵第十一聯隊補充大隊へ転属になった。そして翌二十九日、第五師団野戦病院付として広島の宇品港を出帆したのである。

 

 

(二)

 乗艦若狭丸は波静かな瀬戸の内海をまるで畳の上を滑るが如く航行した。右に左に大小様々の島影が見え隠れする。真っ赤な夕日が西に沈むと、暮色に包まれた対岸の漁家であろう、点々と灯がともり、一方海は底知れぬ暗黒の様相を呈してきた。翌朝六時、天気は晴れ、若狭丸は下関港に着き、石炭、糧食を積込んで午後三時頃出港した。惟芳には、これまで幾度か往き来した関門海峡も何だか狭く感じられた。
いよいよ玄界灘にかかり、本土の景色もこれが見納めになるかと思うと、萩にあって老後を淋しく生きねばならない両親と、小学生の弟尚春のことがやはり心配になった。風波が出てきた。故国を後にして戦場の清国に到着するまでの様子を、惟芳は日記に書いた。
 
八月二十八日 日 晴 午後五時命降ル 被服返納工兵第五大隊ヲ出ヅ 午後八時半
歩兵第十一聯隊ニ入ル 後外出ス


八月二十九日 月 晴 午前十時歩兵第十一聯隊出発 正午前宇品着 午後三時乗艦(若狭丸)午後三時半出帆


八月三十日 火 晴 午前六時下関港着 石炭、糧食積込 午後三時頃出帆 玄海ニ向テヨリ風波アリ


八月三十一日 水 晴 朝鮮海島嶼多ク風波ナシ 支那海ニ向ヒ島少ク夕刻ヨリ海上見ユル島ナシ 風波ナシ


九月一日 木 晴 前日同様島ナシ 夕刻前ヨリ遠クニ島ヲ見ル 午後六時頃南尖海着 風波ノタメ上陸ヲ留ム


九月二日 金 半晴曇 早朝ヨリ上陸準備 午前十時半南尖上陸 午前十一時半ヨリ食事終リテ行軍 一ノ山ナク波形ノキビ畑ノミ 午后八時太狐山着十一時宿泊 食スルコトナシ

 

 黄海を過ぎ渤海の奥まったに地に向かって航行した乗船は、遼東半島の付け根のありに着岸した。上陸した惟芳は多くの現地人を目にし、ついに支那大陸に一歩を踏み出したと感じた。食事が済むと、隊伍を整えて正午前に出発した。出発に先立ち、江口看護長が次のような心得を全員に伝えた。看護長は口髭を生やし、精悍な感じのする、三十歳前後の経験を積んだ軍医である。
 
満州の夏季はまた雨季でもある。この際最も注意すべきは生水の飲用である。満州の井戸水も河水も飲料に適さない。夏季に伝染病が多く発生するのは生水を飲むことによる。従って行軍に際しては、水筒の水が不足した場合、一時休憩してでも煮沸水を作り、水筒水を十分に補充することを考えねばならぬ。次に降雨の場合、総ての所持品に水が浸透する、従って麺麭などは、防水布もしくは油紙でもってよく包んでおくように。湿潤粉砕して食用に供することが出来なくなるおそれがある。差し当たって以上のことを注意しておく。」

 惟芳はこれからの行軍に備えて、江口看護長の注意は大事だと思うと同時に、異郷の戦場での生活がいよいよ始まるという感を強くした。隊は行軍を続けた。穂先が風に揺れるキビ畑以外には木立もない。茫々たる原野が広がっている。午後八時までの長行軍はさすがにこたえた。現地人の家に宿営したが言葉は通じない。
彼等は寝ても覚めても垢汚れた白木綿の衣服を着ており、煙草を口から離さず、一種異様な臭いがした。また空気の流通が非常に悪い粗末な土作りの家は、最初首を入れた途端に嘔吐を催すほどの臭気を感じた。その日は夕食も摂らなかったが、くたくたに疲れた躯を休めることが出来ただけでも有り難かった。彼は日記だけはいくら疲れても書こうと思った。(筆者注:以下惟芳の日記に基づいて進撃の跡を辿ることにする。カタカナはひらがなに変え、文意を取って数カ所だけ少し書き変えた。)

 

九月三日 太狐山にそのまま滞在し市中を歩いてみた。午後風呂に入り疲れを癒すことが出来た。

 
九月四日 朝から曇天、午前六時半に出発した。背嚢と銃それに治療道具や医薬品が加わって重い荷である。道中困難を極めた。道はやや登り勾配になり、午後一時半土城子に到着した。人家は十戸餘り、民家に分宿した。


九月五日 朝のうちはよい天気、午前七時半出発し山路を進んだ。内地程ではないが灌木が生えていて、内地にいるのと同じ感じを抱いた。この地は新戦場であった。

 

 惟芳はこれまでの生活とは打って変わった戦場にあって、進軍しながら思った。
 -この戦場の跡は、俺たち補充大隊より三ヶ月ばかり前に進軍した第五師団が戦った所であるに違いない。砲弾が炸裂し地形は変じている。ちぎれた服や靴、破損した銃が散らばっている。味方の屍体は片づけてあるが、あれは新しい墓標ではないか。敵の屍体が三々五々畑中に散乱しているようだ。雨に曝され、日に照らされて腐敗して臭気が鼻をつく。
 
 惟芳は思わず銃を持った手を鼻に近づけた。激戦の跡をまざまざと示すこれら新しい墓標を目にして、彼は戦死者の霊に深く頭を下げた。午後四時頃戸数が十足らずの部落に到着した。到着前少し雨が降ったが夜になって上がった。その夜は河辺で野営をすることになった。居住民から食料を買い求めようとしたが、高い値を請求する。やむを得ず言い値で鶏数羽と野菜を買った。夜が更けるにつれて寒さが身に沁みてきた。満天の星空、この光景は満州の地ならではの感を覚えた。

 

 九月六日 火 晴 午前六時半に出発した。畑の中の道を通り山路を辿った。途中峠を二つ越えた。午後三時に岫厳に着いた。この日ついに遼陽が陥落したことを聞いた。

 

惟芳たちが本隊に合流したとき、遼陽の攻防が如何に苛烈を極めたものであったかを聞き知ったのである。惟芳の所属する第五師団の右翼隊・第十一連隊は、この遼陽攻撃では敵の第三堡塁を目標として、敵塁の六百メートル前までたどりついたが、そこまでが限度であった。敵の砲火は激烈を極め、どうすることも出来ず、遂に前進する機会をえられなかった。その後かろうじて敵を撃退したが、前進を阻んだ堡塁は、激戦後の視察記録によると次の様である。

 

 まず散兵壕がある。次に鉄条網がある。その鉄条網の間には、深さ一丈余の狼穽(ろうせい)(落とし穴を連続して作ったもの)がある。その後方に外壕があり、更に高さ一丈二・三尺の外郭がある。外郭の上には鉄条網が埋めこまれているが、外郭をこえると、また内壕、鉄条網があって、堅牢なコンクリート陣地につきあたる。この堅牢な陣地を占領するには、徹底した砲撃で破壊するか、包囲して降伏を待つ以外に方法はない。無理に攻めても無駄な損害を招くだけであり、敵が退却してくれたのは、真に天祐であった。
 
 惟芳は後方にあってこの攻撃には参加しなかったが、遼陽陥落の朗報に接して、彼の隊では祝宴が催され、相撲が行われた。日記には簡単にこの事を書き留めた。

 

九月六日 火 晴 午前六時半出発 畑路山路(二垰)午後三時岫巌着 愈々遼陽陥落ヲ聞ク 為ニ相撲

 この遼陽会戦は明治三十七年八月二十九日から九月四日の間戦われたのである。この激戦で軍人として、また優れた人格者として、多くの者から慕われていた橘周太大隊長は名誉の戦死を遂げた。昭和二十年の終戦までよく歌われていた歌「橘中佐」が早速作られた。

 

  遼陽城頭夜は闌(た)けて 有明月の影すごく
  霧立ちこむる高梁(こうりゃん)の 中なる塹壕聲絶えて
  目醒め勝ちなる敵兵の 肝驚かす秋の風

 

九月八日 午前六時半岫厳を出発した。

 

「土地前日同様内地ノ如ク只山ニ木少ク河多クシテ浅」と日記に書いているが、こうした荒涼たる風景のなかを黙々と進んだ。途中民家に泊り、九月十日午後一時に折木城に到着した。宿を求めるのに困難をきたしたが民家を見つけて宿泊した。

 
九月十一日 この日も午前六時半に出発した。道中はじめは前日同様山道であったが、後に広野となった。午前中は晴れていたが夕立雨に見舞われた。真夜中午前三時半海城に到着した。十二日はそこに滞在し、午後城壁内に入った。市中はやや整頓されていて、いままでで一番良い印象を受けた。


九月十三日 天気はよい。午前七時半出発した。海城には鉄道が通り、ここから遼陽までの距離と、遼陽から奉天までの距離はほぼ同じである。惟芳の一行はこの鉄道線路を行軍し、午後四時半に太比という村に着いた。


九月十四日 晴天がつづく。午前七時に出発した。山間部と畑地を行軍して午後二時半頃七令子というところに着いた。この地の繃帯所には先の戦闘で傷ついた患者が多くいた。惟芳たちは治療並びに看護にあたった。この日は野宿であった。
 
 参考までに、日露戦争当時の医療体制について、加藤健之助著『日露戦争軍医の日記』の記事を引用する。
 
 繃帯所は、第一線部隊と行動を共にする衛生隊勤務の場所で、そこでは軍医は、弾雨のなかで負傷者を収容し、応急手当をほどこして、野戦病院に後送するという任務を負っていた。当時の日本軍の医療体制は、野戦病院に後送された負傷者には、そこで応急の手術などを行った後、後方の兵站(へいたん)病院に送り、短期間で治癒の見込があるものはそこに入院させ、後送する必要があるものは更に後方の大連などに設置された設備のよい定立病院に送り、病院船によって国内に還送して国内の予備病院に入院させるシステムになっていた。日露戦争での負傷者十五万余のうち、衛生隊・野戦病院段階で治療した者が一割、入院を要したものが九割、国内に後送されたものは負傷者全体の七・四割になっている。

 

九月十五日 空は曇っている。午前九時に出発した。目的地の大楽屯に着くと遼陽に到着せよとの指令で直ちに向かう。路中道に迷ったが午後七時に遼陽の東門前に駐屯していた第五師団司令部に到着した。上陸して二百キロ踏破した。

 

惟芳達は、敵の砲兵陣地を見たとき実に堅固なのに驚いた。戦死者の墓標が無数に立っている。人馬ともに戦死したのだと思うと、惟芳は胸の詰まるような思いがした。砲弾の跡が生々しい。その夜は民家に泊まった。


九月十六日 天気はよい。午前十一時頃出発して南八里庄というところにある第四野戦病院に向かった。土地は不案内だし病院の所在地も不明だったが、午後四時半になんとか大楽屯第四野戦病院に到着した。その夜は本部に宿した。


九月十七日 惟芳は江口看護長の指揮の下、病室事務附となった。

 

ここに初めて彼は第五師団第四野戦病院附に編入されたのである。

九月十八日 日曜 言うまでもないことだが、戦地では日曜も平日も変わらない。雨が降り寒い。惟芳は患者三十九名を潘家炉の戦地病院へ転送せよとの命を受け、看護卒三名と共に無事転送し日没前に帰着した。


九月十九日 半晴曇 次第に寒気を覚えるようになった。患者の入退院で混雑した。

 

九月二十四日 午後二時頃第十師団衛生予備員に患者引継を為し、直に南八里庄に向かい宿営した。この日をもって最初の野戦病院での勤務は終わった。 

 

九月二十五日 天気はよい。日曜だからと言うわけでもないが、宿営して終日休んだ。夜間に明日出発の命が下った。日没時刻に至り、事務官が人員を集めて、遼陽陥落を嘉(よみ)する陛下の詔書および過日の侍従武官の講評を伝えた。


九月二十六日 また行軍が始まった。晴天。午後二時頃より新家屯(南八里庄より西南南二里余の所)に向かい、路中鞍部を通過した。此地は露国の防衛工事のあった所で、その麓は土穴、鉄条網などを以て固めてあったが、ついに我が軍の占領する所となる。この所露国軍人の屍の腐敗の為臭気甚だしかった。五時頃目的地の新家屯に着いた。


九月二十八日 晴 午前中休み。昼食後より前々日通行の鞍部前の第二連隊の所に至り看護卒一名と共に恤兵部(じゅっぺいぶ)(筆者注:出征の兵士の苦労をねぎらって金品を贈る部署)よりの寄贈品を受けて帰り、分配した。


九月二十九日、朝から曇り日で少し風が吹いていた。後雨になった。惟芳はこの日は終日屋内にあって休んでいたが、看護卒数名に誘われて、運動のために豚の捕獲を試みた。戦地にあってこうして無聊を慰めることができるのは有り難いことであった。翌三十日も終日屋内に在って、内地より送られた新聞を隅から隅まで読んだ。


十月一日 この日からしばらくの間、戦地にありながら、終日屋内にあって休む比較的平穏な日が続いた。


十月七日 曇 冷い風が甚しい。少々感冒に罹ったのであろう。寒気に苦しんだ。防寒用被服を支給された。

    

十月十四日 朝から雨。午前六時出発準備を行い命令を待っていた。昼食を終えて午後一時命令を受けたので出発。東方に向って進むこと五里、路中烈しい雷雨で身体ずぶ濡れとなった。日没後何とか宿営出来た。この日松永旅団の命令の下に繃帯所を開設する筈であったが、患者が少数のため開設しなかった。砲声は打ち続き、非常に近くで小銃弾の一斉射撃の音が聞こえた。宿営地に来る途中、ロシア兵二名の戦死体があり、一方我が軍馬の道に倒れている数は多かった。もの言わぬ軍馬が悲しげな目をこちらに向けているのを見ると、一時騎兵として馬の世話をしたことのある者として、何とも言えない切ない気持で胸のふさがる思いをした。前々日風邪を引き、その為に非常に苦しかったので、宿営するや大火を以て数時間身体および衣服を乾かした。

 

十月十六日 晴 午前六時起床、直ちに食事の後出発した。途中露国将校以下四名の捕虜に出会った。正午高地に至り命を待った。殷々たる砲声が聞こえた。


十月十八日 雨 昨夜来の雨なお止まず。天明の頃出て半里程西方の双子台に至り命を待ち宿営した。ここ数日間敵の夜襲に備えた。


十月二十日 曇 午前七時より出て西方西双台子と言う地に至り命を待った。午後五時頃より西方一里ばかりの所にある新庄に到着した。此処には第六師団野戦病院があり、此の地に至り宿営した。数日前からの病気はなお全快せず終日宿舎に滞在した。


十月二十四日 晴 患者四十名を煙台定立病院(第五師団)に転送の命を受け看護卒四名、輜重輸卒(しちょうゆそつ)三名と共に出発し、午後零時四十分無事患者を引き渡し、同五時頃帰着した。  煙台は南方三里余の地にあった。風邪の病症なお治らず、加えて歯痛や下痢の為に非常に苦しんだ。しかし病院勤務を怠る訳にはいかなかった。


十一月一日 曇 午前十時頃本部前に集合し満州軍に賜った詔勅の奉読がなされ、更に看護手及び衛生隊の二卒に対する総司令官よりの感状が読まれた。同時に来たる三日の天長節の祝賀に就いて一言された。そこで宿舎に帰ると天長節の余興に就いて皆で話し合った。次はその日の日記である。

 

十一月三日 木 晴 本日天晴レ一点の雲ナシ 午前九時頃一同式場ニ集合シ君ガ代ヲ斉唱シ次デ天皇陛下ノ萬歳ヲ称ヘ両手ヲ上グ
思ヒキヤ敵ニ祝砲打タセツツ君ガ千トセヲ祝フベシトハ 
  後余興ニ向ヒ早駈、二人三脚、盲目旗取ヲナシ次テ式場ニテ昼食ヲナシ午後ヨリ球取武装競走、旗渡及ビ角力ヲナシ一同解散シ夜ニ入リ看護卒有志集リ芝居ヲ為ス

惟芳は砲聲の聞こえる戦地において、しかも敵国から占領した満州で愉快に天長節を祝すことが出来たのを大いに快(こころよし)としたのである。

 

十一月九日 晴 惟芳はこの日炭薪の木切りを命ぜられた。これから冬季に向かうにあたり暖を取る必要がある。凍てつくような寒さは将兵にとっては、敵の銃弾に比すべきものである。日露戦争では脚気と凍傷による死傷者はかなりの数に達している。彼と二人の同僚は近くに住む支那人の農家へ行き、広々とした畑の中の細い水路に沿って立ち並んでいる柳楊を六十本ばかり買った。
遠くに赤茶けた岩山が連なる殺風景な満州の平野にあって、今や枝葉も緑を失ってはいるがこれらのすらりとした立木は、心を慰める物であると思いながらも、惟芳は鉈を振り下ろした。彼は農家の者達を使役させて昼までに作業をすませた。この後数回惟芳はこの仕事を命じられた。木切り作業や野犬を殺して食べるための犬打ちといったことも、初めての経験であった。

 

十一月十四日 この日は寒気が特に甚だしく、池沼が氷ってその上を歩くことが出来た。

この日も彼は橋本看護手と共に木切りの監督を命じられ、自らも運動と思って切った。戦場にあっても割と平穏な日々を過ごしているが、馬賊の襲来に見舞われたこともある。

 

十一月十七日 晴 昨夜馬賊ト疑ワシキモノ我ガ村ニ来タルト支那人告グルタメ本日午前二時頃ヨリ歩兵守備ニ来ル 然レドモ無為ヲ以テ正午頃帰ル

 

十一月二十一日 晴 この日惟芳は遼陽での買物を命じられ出張した。午前三時起床し準備を整えると五時に宿舎を出た。煙台停車場に向かって鉄道線路を歩いて七時四十分同地に着いた。

 

 途中惟芳は知る人もない異国の自然の中を独り歩きながら、素晴らしい光景を目にした。東の空が曙光に染まり、夜も白々と明けはじめた頃、目を西の空に移すと、そこには天高く月が皓々と冴え、しずかに町の家々を照らしていた。惟芳は思わず安藤先生に習った『唐詩選』の中にある李白の詩「子夜呉歌」を口ずさんだ。

  長安一片の月、萬戸衣を打つの聲
  秋風吹いて尽きず、総て是れ玉関の情
  何れの日にか胡虜を平げて、良人遠征を罷(や)めん
 
 しばらく待って八時二十分発の列車に乗り遼陽に到着した。早朝の寒さは特別で、防寒具を用いても寒気のため手足の痛みを覚えた。遼陽に着くと直ちに城壁内に入り、命じられた買物をし、市中を縦横に歩き午後二時頃停車場に至り、三時三十分の列車にて煙台に向かい、四時二十分に着き、直ちに輜重車両に乗って宿舎に向かった。  
帰途惟芳が目にしたのは、所々耕作はされているが広漠たる大地、その中を走る細い水路、そしてそれに沿って生えている楊柳の立木であった。梢に至るまで散り尽くした木々は、ほっそりとした裸身を見せている。彼は満州に来て初めて落ち着いた気持ちで沈みいく太陽を見た。内地で見る太陽よりずっと大きく真っ赤である。遙か遠く夕靄に霞んだ地平線に夕日は徐々にその姿を没した。


 薄く茜色に染まった西の空を背景に、彼方こなたに、土と藁で作った粗末な民家が蹲(うずくま)っている。民家から夕餉(ゆうげ)の煙が一筋立ち昇っている。家の傍らには数本の喬木が立っている。そのうちに陽は完全に沈みあたりは一段と夕闇に包まれた。
ここが数日前には敵味方死闘を演じた戦場であったかと思うと、この寂寞たる風景が異常に思えた。惟芳はその瞬間、自然は本来こうあるべきだ、世の中は平和でなければいけないと思った。彼が宿舎に帰った時は、日没後一時間経っていた。帰隊すると惟芳はまた一兵士としての心境に立ち戻り、夕食後疲れた躯を横たえると、今日一日の事を思いめぐらした。
 
 -遼陽行きは天気が良くて幸いした。それにしても寒い日であった。汽車の中でも寒気を覚えた。長時間の歩行のため足は痛んだが、初めて見るラマ教寺院の塔は實に壮観だった。それに広軌の線路が幾本も走っており、またロシア人が建てた頑丈な煉瓦造りの停車場は、これまで見なかった風景で心ひかれカメラに撮ったが、遼陽城の南門から望んだ市外の風景も見事だった。

 いま筆者の手許に、従軍中の惟芳が撮った数十枚の写真がある。上記の停車場や遼陽城で撮ったもの、更に戦死者の葬儀を写したものなどあり、百年前のものだが鮮明に写っており、彼の軍隊手帳と相俟って貴重な資料である。これらの写真はぜひ紹介したい。

 

十一月二十五日 曇天で雪が降り出した。この日も木切りの勤務に従事した。昼食後より雪片々として終に銀世界となった。戦地にある兵士にとっての慰めは、辛党や甘党のための酒や菓子、更に煙草の支給である。惟芳は酒と煙草を嗜む。この日銘柄「敷島」を二十本支給された。翌日は晴天であったが前日来の雪は溶けなかった。
 
惟芳は戸外に出て、細い枝先にまで氷の花で覆われた楊柳を背景に、防寒具に身を固めた四名の同僚を写真に撮った。その写真に次の言葉を添えた。
 
  満州特異ノ景ニシテ楊柳ニ附着シタル霜アタカモ我国ノ櫻花ニ擬セラル
 
 十二月に入って寒気は益々烈しさを増した。十一日と十三日の日記には次のように書いた。


十二月十一日 零下二十度 晴 本日寒気最モ烈シクテ零下二十度ニ降ル 鼻水モ手ニツク水も氷ル 終日家ニ在リ夕食後村辺ヲ散歩 寒甚ダシ

 

十二月十三日 零下十八度 晴 本日寒気昨日ト等シ 終日宿舎ニアリテ休養ス 天候寒キナカ夜半ヨリ遼陽ヘ買物ニ向カイタル一行ハ煙台ニテ機関車ノ凍結ノタメ目的ヲ達セズシテ帰ル 終日宿舎ニ在リ

 

十二月末日までは終日宿舎に在って、時に軍医の衛生講話を聞いたり、清潔検査を行ったりの割と平穏無事の日が続いた。その年最後の日記である。

 

十二月三十一日 晴 本日ヲ以テ愈々本年終ル 新シキ年ヲ迎ヘント松竹ヲ立テル 新年ノ下給品ヲ分配ス 戦地ニ於イテ愉快ニ本年ヲ送ル  
                    

 

(三)

 戦争は明治三十八年に突入した。惟芳は元旦の日記に次のように記載した。

 

一月元旦 日 晴 午前八時床ヲ出テ祝賀ノ盃ヲ挙ゲ雑煮ヲ食フ 戦地ノ為祝賀式ヲ簡略シ分隊ヨリ代表ノミ参列シテ礼ヲナス 本日ハ愉快ニテ我ガ国民ノ頭ヲ離レザル旅順口ヲ降伏セシム

 

 惟芳は会報によって旅順陥落を聞いた。正月二日は家にあった。日没より、軍医、看護長全員が彼の分隊に来て共に大いに祝し、その賑わいは出征来初めてのものであった。しかしその中にあって一人、浮かぬ顔をちらっと見せた戦友がいた。彼はそっと話しかけた。
 
 「山田さん、陥落を祝して一杯どうですか? 皆あのように気炎を上げていますよ。」
 「有り難う。何もかも忘れて祝宴の輪に入りたいのですが、戦死した弟の事を思うと、やはり悲しい気持ちになります。」
 「弟さんは何処で戦死されたのですか」
 「昨年十月三十日に日本軍は二百三高地を一時占拠しました。その後敵の逆襲は猛烈を極め、その時弟は名誉の戦死を遂げました。」
 「それはお気の毒でしたね。ご冥福をお祈り致します。」
惟芳は祝賀の盃を重ねるのを止めて、山田看護卒の話に耳を傾けた。
 「有り難うございます。弟は身体が強壮で性質は活発でして、私と違って子供の頃は室内で読書するより、外で遊ぶのを好んでいました。大きくなったら兵隊になると言っていましたので、待望の陸軍士官学校に合格したときは、弟は得意満面、我が家一同の誇りでもありました。」
 「よく出来たのですね」 
 「いやそれほどではありませんが、何しろ躯が丈夫な上に、率直で闊達な性格でしたから、首尾良く士官候補生になれたのでしょう。」 
惟芳はもし自分が長男でなければ、同じ道を進んでいたかも知れないと、話を聞きながら思った。
 「この戦いが始まって、間もなく弟は出征しました。そしていま申しました二百三高地で戦死しました。あの激戦では多くの兵士が山頭の露と消え去っています。友を亡くし兄弟を失うのは軍国の常なる事で、今この時にいたずらに私情を述べ、弟の事にこだわるのは忠実なる他の戦死者や、私情を忍んで黙しておられる他の奥床しい人々に対して恥ずかしい心地がします。ましてや私は今こうして戦場にいます。しかしかけ替えのない弟の無念の死を思いますと、皆様と一緒に、我を忘れて酒を飲む気になれませんので、つい緒方さんの目にとまる結果になりました。面目もありません。まあ私の事は忘れて折角の機会ですから楽しんでください」
こう言って山田看護卒はまたちょっと寂しい風を見せたが、それからは何もなかったように笑顔に戻った。
 
 この後数週間を経て、惟芳は会報によって、第三軍司令官乃木希典大将の二人の子息の戦死と、将軍の詠んだ二つの漢詩を知ったのである。
 
    爾(に)霊山(れいざん)
 
  爾霊山険なれども豈(あに)攀じ難からんや
  男子功名克艱(こっかん)を期す
  鉄血山を覆(くつがえ)へして山形改(あらた)まる
  萬人斉しく仰ぐ爾霊山

    金州城
 
  山川草木轉(うたた)荒涼 
  十里風腥(なまぐさし)新戦場
  征馬前(すす)まず人語らず
  金州城外斜陽に立つ

 

 平成十六年(2004)三月、奇しくも二百三高地の激戦が終わって丁度百年後に、筆者は此の地を訪れた。緩やかな丘陵地といった感じで、四方が見渡せる景勝の地であった。バスから降りると直ぐさま、日だまりにたむろしていた十数人の青年達が、薄汚れた駕籠を手にして近寄り、執拗(しつよう)につきまとって乗るようにと言ってなかなか離れない。
やっとの思いで彼等の手を逃れ、なだらかな勾配の歩道を少し歩いたら、前方に銃弾の形をした高い記念碑が直立しているのが目に入った。近寄って記念碑の傍にある掲示板の文面を見ると、次の言葉が、中国語、英語、日本語の順で書いてあった。
 
「203高地は1904年日露戦争時の主要戦場の一つであった。日露両軍はこの高地を争奪するために、殺しあっていた。その結果、ロシア軍は5000人以上、日本軍は1万以上死傷した。戦後、旧日本第三軍司令官である乃木希典は死亡将士を記念するために、砲弾の残片から10.3mの高さの銃弾のような形の塔を鋳造し、自から「爾靈山」という名を書いた。これは日本軍国主義が外国を侵略した犯罪の証拠と恥辱柱となっている。」
 
 麓の売店で購入した『旅順口近代戦争遺跡』という本の「まえがき」を読むと、劈頭次のようなどぎつい文が載っていた。
 
 この書は、日本とロシアの二侵略者が、旅順地区において前後して二度起こした、中国領土を侵略し、中国の主権を犯すことを目的とした罪悪戦争に関する遺跡を指して述べたものである。(中略)両侵略者国家が植民地主義の利欲に駆られて良知をなくし、更には、人間性をも全く喪失して、中国の地において甚だ大きな犯罪行為を犯したことを、確固として暴露している。今日、その内容を世間に公表することによって、正義感を持つ世の人々の公憤を掻き立て、戦争狂人を永遠に歴史的 恥辱の柱に磔(はりつけ)にし、その悪名を後世に残していくものと信じる。
 
 日露戦争は旧満州の国土で行われた。戦いが終わってすでに百十数年を経ている。しかし今や中国政府の厳しい反日感情は日を追って烈しくなっているようだ。筆者はあの時すでに鎮まることのない憎悪の気持ちを強く感じた。
 
一月三日 夜になって惟芳は父からの来信を見て、昔を思って少し悲しい気持ちになった。満州の地に渡って父からの手紙はこれで二度目である。父は旅順口の激戦で多くの戦死者を出した事に言及し、惟芳が立派な働きをした上で、無事帰還することを願っていると述べていた。彼はこの親心を思うにつけても、国恩に報じて戦死のやむなきにいたる事と、何とか無事生還して親の恩に報いる事の両立しがたい事を思うにつけ、戦争というものの悲惨さを改めて感じた。しかし彼は戦場にある者として、おのれの覚悟を父と母に宛てて、次のように伝えた。
    
拝復 寒気厳しき折、御両親様にはお障りもなくお暮らしの由、何よりと嬉しく存じま
す。私は渡満以来相変わらず健全に勇気勃々(ぼつぼつ)奉職いたしております故ご安心ください。私は衛生隊に属していますので、最前線において敵と死闘を交える事は、これまではありませんでした。他方戦死者を弔うことや負傷者の看護に日夜当たっています。しかしこれから敵の大攻勢が予測されます。
  今回の戦争は、一家一族の名利にかかわるような小事ではなく、日本帝国興廃の分かれ目となる大事であることは、申すまでもございません。私といたしましては、何時にても国家のために、喜んで死ぬ覚悟でございます。如何なる人も死せんと欲して死する能わず、生きんとして生くる能わず、生死の如きは念頭に掛くるに足らざるものかと存じます。
  今は何一つ思い残す事もなく、勇往直進、我が任務を遂行し、聊(いささ)かなりとも国恩に報じ奉らんと欲しております。二十余年の間御愛育下さいました御洪恩を謝し奉ります。
 一月三日                             緒方惟芳
 御両親様

 

 春雪解けとともに、敵味方全軍を投じての大戦闘が確実視されているので、惟芳は自ら覚悟を固め、その場限りの気休めの言葉を両親に伝える気にはなれなかった。そして武士として生きてきた父であるから、まさかの時の覚悟は出来ているものと、惟芳は思うのであった。しかし無事生還して父と母を喜ばせたいと、心ひそかに期したのである。

 惟芳のいたところでは、正月明け当分は戦地とは思えないほどの気楽な日が続いた。

 

一月五日 晴 本日戦地ニ於イテ新年宴会ヲ開ク 酒盛ンニシテ支那車両ニ臥シテ暖ヲ取ル


一月六日 晴 本日昼ボタ餅ヲ作ル 内地ヲ発シテヨリ初物ナリ 然レドモ為ニ暖炉熱シテ毛布二枚焼ク


一月七日 晴 本日午前十時頃橘隊ヨリ軍曹蓄音器ヲ持来リ正午マデ吾ガ宿舎ニテ音楽ヲ為ス 内地ニテハ蓄音器ハ珍シカラズ 然レドモ戦地ニテ是ノ如キ音ヲ聞クトハ思ワザリキ

 氷点下十五、六度の寒さは依然として続いておる。一月十五日の日記に彼は屋外の様子を次のように書いた。
 本日曇 霧最モ甚ダシクシテ十間前ノ物ヲ見ルコト能ワズ 冷気ノ為草木ニ凍結シタル霧アタカモ梅花ノ如ク殊ニ太陽之ニ光射シタルハ一層ノ美観ナリ

 

一月二十五日 零下十六度の降雪の中、午後五時頃急に出発準備の命令があり、直ちに準備を整え命令の下るのを待った。敵は我が左翼に来たという。翌朝も早く起きて命令の下るのを待ったが、惟芳の第五師団は待機することになった。会報により露国の皇帝皇后行方不明ということが伝わってきた。また敵は我が軍に囲まれたことを知った。戦況は次第に緊迫の様相を呈してきた。惟芳はこれを三日間の日記にやや詳しく記載した。

 

一月二十七日 零下十度 雪 昨日午後十二時頃床ニ就クヤ本日午前一時半頃師団ヨリノ命ヲ以テ直チニ本日ノ食事ノ用意ヲナシ準備終リテ又少時眠リニ就ク 五時半頃床ヲ出デ愈々出発ノ事定マル 前日第八師団向カイ本日第五師団ノ九旅団オヨビ騎兵先発トシテ向イタルト言フ 本日ツイニ出発ノ命ナシ 出発準備ヲ為シ床ニ就ク


一月二十八日 零下十六度 雪 本日同ジク出発準備ヲナシ命ヲ待ツ 本朝ヨリ支那車輌ノ監視ヲ命ゼラル 午後四時頃急ニ出発命下リ直チニ食事ヲ終エ午後五時頃ヨリ李家達連溝ヲ出デ半里ホドニテ日没トナル ソレヨリ夜行軍ヲナシ明午前三時小煙台ニ至リ露営ス 支那車輌ヲ営兵司令所トス 終夜一睡ヲ得ルコトナクシテ朝ヲ迎フ 夜間風無キモ寒冷甚ダシク氷柱口辺ニ連ナル(里程六里)


一月二十九日 日 零下十度 晴 本日午前八時出発ノ命下リ村ヲ出テ西方狼洞溝ニ至ル 前日ノ行軍ト不睡トニヨリテ非常ノ疲労ヲ得 正午目的地ニ至ル里程二里余 途中露降兵二隊と我負傷兵ノ一隊ト出逢フ 本邑ニ至リヨウヤクニシテ一民家ヲ求メ宿営ヲナシ午後十時半命令ノ伝達ヲ聞ク ソノ大要ハ明日滞在 我五師団ハ予定ノ陣地ヲ占領ス

 陣中日記に惟芳は清酒一合菓子三十匁、あるいは煙草の分配等、無聊を慰める事をたびたび記載した。兵士にとって、こういう嗜好品の給配はよほど有り難いのである。
 
 本日同分隊員棚田氏近傍ノ河ニテ氷ヲ砕キ「ナマズ」ヲ捕エテ食ニ供ス 実ニ上陸以来ノ生魚ノ初物ナリ

 最前線では戦闘が続いている。惟芳は戦地で最初の紀元節を迎えた。


二月十一日 本日快晴一点ノ雲ナク実ニ我ガ国威ガ満州ニ末長ク輝カン事ヲ思ハシム 無事紀元節ヲ祝ス 特別下給品トシテ酒、煙草、菓子等珍シクアリ


 二月末日まで何時でも出発できる準備をしていたが、三月一日午前四時頃惟芳たち衛生隊は食事がすむと北方二里余のところにある太台という所において命令を正午まで待った。是より前進中の様子を彼は日記に次のように記した。
 
 十時頃銃砲ノ聲盛ン 大激戦大地モ為ニ一変スルヤト思ハシム 正午ニ至リ三丈子ニ至リ野戦病院ヲ開設スベキ命ヲ受ケ西北方一里程ナル村邑ニ至ル 其ノ地ハ我ガ砲兵陣地ノ在ル所ニシテ実ニ敵弾来タル事夥(おびただ)シ、殊ニ我ガ近傍数メートルノ所ニ落下シ危険甚ダシ 此ノ地ハ衛生隊第一中隊ノ開設スル所ニシテ之ト交代スル筈ナリシモ前方落弾烈シキ為衛生隊進ミ得ズシテ又当地ニ帰ル 為ニ南方半里強ノ古城子ニ至リ野戦病院ヲ開設ス 日ノ没スル頃ヨリ翌日ノ日出マデニ千人ノ収容ヲナス 吾ハ長瀬看護長ノ許ニテ三百バカリ収容ス 忙シキコト例エガタシ

 

 三月一日に野戦病院を開設し、その後負傷兵の収容と看護は十日間ばかり続いた。惟芳は後年彼の妻に、患者の救護に力を尽くし、何とか一息ついたとき、高梁畑で数日の間、人事不省、まるで丸太棒のように横臥したと話している。その後近傍において、日本兵及びロシア兵の死体検査と片付けを行った。奉天会戦が如何に熾烈を極め悲惨であったかが分かる。真下飛泉の詩「戦友」は三善和気の哀調を帯びた曲と相俟って、今なお広く歌われている。しかし当時帰還した兵士にはとても歌えなかった。
惟芳は軍歌を含めてどんな歌も口ずさまなかった。無粋と言うより謹厳さが身に付いていたからだと言える。

  戦友

ここはお国を何百里 離れて遠き満州
赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下
思えばかなし昨日まで 真先駈けて突進し
敵を散々懲(こ)らしたる 勇士はここに眠れるか

ああ戦の最中に 隣りに居ったこの友の
俄(にわか)にはたと倒れしを 我はおもわず駆け寄って
軍律きびしい中なれど これが見捨てて置かれようか
「しっかりせよ」と抱き起こし 仮繃帯も弾丸(たま)の中

折から起こる突貫に 友はようよう顔あげて
「お国の為だかまわずに 後れてくれな」と目に涙
あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体
「それじゃ行くよ」と別れたが 永の別れとなったのか
 
戦いすんで日が暮れて さがしにもどる心では
どうぞ生きて居てくれよ ものなど言えと願うたに
空しく冷えて魂は くにへ帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと 動いているも情なや

 

三月十九日 この日彼は満二十二歳になった。三月二十一日の会報で惟芳は奉天の北方にある開元を我が軍が占領したことを知った。その後一週間病院での勤務を続けた。


三月二十八日 朝のうちは曇天、その後烈しい風雨に見舞われた。朝食を終えて南方二里余の所にある沈旦堡と言う所へ行った。此の地は惟芳の第五師団の中央軍の第一線であった。彼我の距離僅かに二千メートルの近距離であったので、近傍の樹木は両者の弾丸の為蜂巣の如く、当時の激戦が如何にすさまじかったかを思って、惟芳は心胆の寒きを覚えた。


三月三十日 午前二時命が下った。午前八時に出発し北方の崔家堡に向かった。そこに宿営病院を開設するためである。氷雪片々として道路が悪く、大きく横たわっていた渾河は、以前は二回共氷上を踏んで渡る事ができたが、全て氷解していて、工兵隊が架けた軍橋によって渡った。崔家堡に到着したのは午後二時半で、直ちに宿営病院開設に取り掛かった。その日患者は無かった。
 

 

(四)

 四月一日から二冊目の軍隊手帳に日記を書き始めた。最初の手帳は横長の小さいものであったが、今度は縦長で縦十五センチ、横九センチで厚い表紙のついたものである。

 

四月一日 土 曇 本日曇天風少シクアリ 本日ヨリ起床午前六時半 朝食同七時半 昼食十二時 夕食午後六時消灯八時 服務時間午前八時ヨリ午後四時迄ト定ム 本日入院患者二名


四月二日 日 半晴 本日半晴半曇風ナシ 本日ヨリ鐘号を定メテ起床点呼等ヲ行フ 午前中発看部本部ノ業務ニ従事 午後ヨリ事務官ニ従テ勤務ス 本日別ニ異常ナシ

 

 その後数日間、異常のない日々が続いた。惟芳は日記に日付と「晴、曇、雪」など、至極簡潔に天気の状況を記し、それに「無異」とのみ書き足した。四月九日第五師団の招魂祭が行われた。

 

四月九日 日 曇 風甚シク数尺前ヲ弁ゼズ 本日沙埋子ニ於テ第五師団招魂祭ヲ行ワル 本日ハ患者ニ差支ヘナキ人員ヲ以テ午前八時集合 村ノ東北方一里半ナル同地ニ向ウ 梨本宮ヲ始メトシテ満州軍総司令官参列シテ午前十一時ヨリ参拝ノ式行ワル 式終リテ各隊ヨリ余興、角力、競馬等アリテ甚ダ盛大ナリ 然シ早朝ヨリ吹キタル風十一時頃ヨリ強ヲ加ヘ砂土天ニ舞ヒ数尺ヲ弁ゼズ 午後五時帰営ス
 
 その後十日間ばかり、また何ら異とすることなく日は過ぎ去った。しかし二十五日のことである。午後零時半頃第二野戦病院より看護手が患者一名を護送して来た際、かねてより先輩風を吹かせて威張っていた永田という看護卒が、次のようなことで怒り惟芳を侮辱した。この患者を担架から下ろすときに、大柄で身動きできない患者が重いために、付き添いの看護手が患者を少し無理な姿勢で抱えたので、患者がうめき声を上げた。左足に貫通銃創を受けており、激痛が走ったのであろう。その時のことである。何一つ積極的に手伝おうとしない永田が、惟芳の落ち度だと言って彼をひどく叱責したのである。

 「緒方、貴様は暇さえあれば碌でもない本を読んでいるが、少しは負傷者の身になって取り扱い方法を考えたらどうだ。」
 惟芳は自分の落ち度ではないが、看護手の手前じっと我慢して、この負傷した兵士を病室へ運び入れた。


 永田が言っていた本とは、数日前吉川先生からの慰問袋の中に入っていた、新渡戸稲造著『武士道』についての桜井鴎村の解説書である。永田は小学校高等科しか出ていないので、惟芳に対してコンプレックスを抱いているのである。惟芳は中学校を五年で中退したが、雨谷校長からも言われた、社会に出てからの勉強が本当の勉強だという事を心懸けるようにしていた。惟芳は、高杉晋作の結成した奇兵隊士の一人三浦梧楼が、「文事あるものは武備あるというが、自分は軍務に服していても学事を忘れず、毎日の日課として司馬温公の『資治通鑑』を二巻ずつ必ず読むように定めておった。」と言ったということ聞いたことがあるので、吉川先生がわざわざ送ってくれた『武士道』を、暇を見ては少しずつ読んでいたのである。なおその袋には赤い糸を玉にして作った千人針の布も入れてあった。先生からの手紙で、令妹が同級生の多くに依頼して作ったものだと知ったとき、惟芳はシーボルトの旧蹟を三人で訪ねたときの、悠子の若くて美しい姿をありありと思いだし、懐かしく思うとともに、かれら兄妹の親切を心から感謝した。
 
 五月になって命じられていた機密の図書、図面の整理を事務官室で行った。しかし午後四時頃病院患者後送の命を受け、直ちに同患者を崔家堡定立病院へ後送した。その日急に病院が閉鎖されたために、多忙を極めた。五月も無事に終わり六月に入った。


六月八日 午前七時半頃起床し、各品を整頓の上十時頃第二班に至った。その日は各班共に出発の準備をした。三日ぶりの入浴でさっぱりし十時頃床に就いた。


九日は晴天、五時起床、朝食を終えて午前六時半集合、七時愈々同地を出発した。同地には二十九日間滞在したことになる。道を北方にとって南英城、北英城、和順屯、八宝屯などを経て揚堡に到着した。路中三回小休止をなし、正午目的地に着いた。四里の距離はゆるやかな行軍だった。宿舎に就いて掃除の後昼食、その後昼眠をした。昼寝はここ二、三週間で始めてのことで、身も心も休養になったと感じた。休養後午後九時頃床に就き明日の命を待った。


六月十日 午前五時頃眠を覚まして命を待った。敵は遠く退却したが師団は滞在する筈なので我が病院も当分滞在することと決まった。そこで舎内外の清潔を計り庭作り、浴場設置を終え、入浴の後故郷への書状を認め、午後十時眠に就いた。その後別に変わったことはない。兵士の中には手紙を書くのが苦手の者がいた。

 

六月十四日 雨 本日入浴ノ後昼食終リ野川曹長ノ宿営ニ至リ彼ノ手紙五、六本ヲ認メ供応ニ逢ウテ 午後十時頃営ニ帰ル


音楽を聴いたり、交誼上「花合」をしたりして遊ぶのは楽しみであったのが、惟芳は将来の事を思って勉強しようと決心した。衛生上、清潔検査は時々行われた。種痘を実施した。
 
六月十五日 晴 本日曇天一点ノ雲ナシ 午前六時半起床本日ヨリ心ヲ決シテ物理学ノ研究ヲナサントス


六月十七日 晴 本日午前九時ヨリ全院ノ種痘ヲ行ウ 坪内軍医主任ニテ小生助手トナリ十一時全ク終ル 他異ナシ 本日清酒一合、煙草二十本分配ス


六月十八日 日 晴 本日午前中冷気ヲ利用シテ舎外ノ大清潔法ヲ行イタルニ午後ヨリ当舎ヲ出テ西方ニ転舎スベキ旨伝ヘラレタルニ失望シタルモ止ムヲ得ズシテ午後ヨリ先方ノ清潔ヲ行ヒ之ニ轉舎ス 本日午後十一時不意ノ下痢ヲ生ジ其後夜間一回大下痢ヲシ非常ニ苦シム
 
 惟芳は数日間下痢と疲労で診断を受けて休養することにした。二十二日になってどうやら快復したので、故郷や知人に手紙を認め、また物理学の勉強を始めた。
 惟芳は日本の連合艦隊日本海でロシアのバルチック艦隊を破った事、またその後日露講話問題の事が閣議で話されていることを新聞紙上で知り、そのうち戦争も終わり無事に内地へ帰れるだろう、その時には元気な姿を家族の者に見せることが出来る、そう思った矢先の事である。家から一通の書信が届いた。彼は次の様に日記に記載した。
 
七月六日 晴 本日恤兵品(じゅっぺいひん)トシテ煙草二十本手拭一本、歯磨一袋、葉書二枚、封筒葉書四枚、慰問袋ヲ分配ス 然レドモ慰問袋ハ抽選ノタメ不幸不受セリ ソノ他下給品トシテ煙草二十、酒一合ヲ分配ス 夕食終ワリ用事ノタメ他所セル途中石田ヨリ一書ヲ受ケ開封スレバ父ノ死亡通知 不幸ノ極ミニテ甚ダ落膽セリ

 

 母からの手紙で、父の死亡したのが十日前の六月二十六日だと知った。概して人間は、肉親、特に親や子の死を直接経験した時、それまでとは違った心境になる。つまりより深くものを考え、より真剣に生きていこうと思うようになる。惟芳は今日のあることは出征以来覚悟していたので、それほど心を動かすようなことはないと思っていたが、非常に落胆した。父という支柱が消え失せ、遠き国にさまよう旅人のような心持ちになった。現に国土を遠く離れて満州の戦場にあり、寂寥の感は耐え難いものであった。しかし夜の静寂とともに、彼は是ではいけないと思った。
 
 -父上は俺に緒方家の家督を譲り、肩の荷を下ろしたように感じたと言われた。今こそ俺がしっかりして今度は俺が支柱となって、母上や尚春を助けてやらなければいけないのだ。幸いにこの戦も近々終わることだろう。運良く俺は生き延びることが出来た。戦死した者も、負傷して元通りの生活が出来ない者も實に多い。本当に気の毒だ。この人達のためにも、俺は医者として生きることによって、彼等の無念を晴らしたい。運命の不思議というか、看護兵として従軍出来たのは、有難い天の計らいであったと言える。俺はやるぞ。

 

 惟芳はここに将来医師として身を立て、少しでも世のため人のために働き、そして母への孝養も尽したいと思うのであった。二日後の七月八日、雨で清潔検査が中止になった。彼は図書の取り調べをする傍ら、内地の母に、下記のような自分の気持ち含んだ、慰めと励ましの書信を認めた。

 拝啓 酷暑の候となりました。その後ご無沙汰いたしております。母上様にはお元気にお過ごしのことと拝察いたします。 
 さて、この度父上御逝去の報に接し、痛恨の極みに存じます。杖とも柱とも頼んでおられた父上のこと故、母上様のお嘆き、また寂しさはさぞやとお察し申し上げます。私がお側にいて少しでもお慰めし、お役に立つことが出来れば、これに越したことはございませんが、御承知の通り、遥か遠き戦場にあっては如何ともし難く、ただ手をこまぬくだけでございます。この不孝何卒お許し下さいませ。
 日露の戦いは今や峠を越した感があります。日本軍の勇猛果敢な攻撃に、ロシア軍は撤退をはじめました。私は医療の任務ですから前線の後方で、負傷兵の治療、看護を行っております。
 この度の戦いで實に多くの戦死者や負傷者が出ました。これを思うと、今日まで無事に勤務できましたのは、ひとえに神仏のご加護の賜物だと感謝いたしております。
 国のためとは言え、戦友の多くが、身命を華と散らしていったことを思うと、戦争の悲惨さ、空しさは言葉では言い尽くされません。また人の命が實に儚いものであり、またそれ故に、如何に尊いものであるかということを心底感じました。私は戦場に赴く前に、脚気に罹り、看護手となりました。お陰で人の命を救うことの如何に大切かということ身を以て体験致しました。此の尊い体験を踏まえ、今後医の道を進むことは、私の天職だと考えるようになりました。私が無事帰還できましたら、医師として生きていく覚悟でございます。
 母上様にはくれぐれもご自愛下さいますようお祈り致します。なお尚春には、体に気をつけ、しっかり勉強するようにお伝え下さいませ。私も健康に留意し、与えられた務めを果たす所存でございます。それでは今日はこれにて失礼致します。        
敬具

 

 惟芳は母に手紙を出して一安心した。そしてこれまで毎日丁寧につけてきた日記を書き続ける気がしなくなった。十日ばかり休んでこれまでのことを回想し、思い出すままに少し書いて最後とした。この時の書体は几帳面な楷書ではなく、流れるような草書体の筆跡になった。
 
 筆者がこれまで惟芳の日記を何とか判読しえたのは、インキではなく鉛筆書きのために文字が消磨されなかったからだと思われる。其の最後の日記の内容をここに伝えて、『日露戦争従軍日記』を擱筆することとする。

 期間内楊堡滞在も五十一日もの長期に亘った。始めて当地に着いたときは高梁も二、三寸の幼芽に過ぎなかったが、暑さの増すにつれて丈が延びて人も馬も隠すほどで、芭蕉のような感じにまでになった。中でも楊堡に「ケシ」花が非常に多く残っていて、休養室は前後左右この花で囲まれており、花盛りには内地の花園に遊ぶような感想を抱かしめた。  殊に阿片取りの支那婦人が花の中で仕事をしている様子は、これを情のある日本婦人にさせたらどれほど見栄えがするだろうかと、皆がささやき合った。何と情緒のある風景であったことか。(中略)
 本日午前中に南嶺に至り野戦病院を開設せよとの命令があり、眠りの夢を破られた。近々出発して病院を開設することは覚悟していたが、この命令は少し間違いではないかと半信半疑で準備をし、確かな事を問い合わす他には仕方がないと思っていたところ、正午に正しい命令が降った。昼食をすませ全員集会して出発した時は零時半であった。
 酷熱の時分で、殊に日中の日差しは強く、背嚢だけでも一荷あるのに、その上衛生用品を背負い、高梁を押しのけながら北方目指しての行軍は耐え難かった。半曇の空は暗く、そのために射す日は弱くなったが、それでも蒸し暑さは甚しくて、額からは汗が滝のように流れ、背中にはこれまた汗が河をなして流れ、たちまち湯をかぶるような感じがして疲労を覚えた。こうしているうちに益々曇天が加わり、灼熱は少し減じたが、午後四時頃より俄に雨が降ったかと思うと止み、また降り出して、後には土砂降りになり、汗に染まった夏服も雨で洗われる始末。このような有様で、ぬかるんだ雨後の悪路には所々水が溢れ出て、行軍の疲労は益々加っていった。  
 夕日は西の山に傾いたが南嶺はなお遠く、各人の惨状は一様ではない。手でもって南嶺を引き寄せたい気持ちで、二、三の同輩は数人の支那人を御者として道を急ぎ行き、人の顔が判別できる時までに南嶺に着いたとか。
 足を引きずりながら南嶺に着いたが、身体は湿潤甚だしく疲労は益々加わって来た。悪寒がしてきたが躯を温めるのに薪がない。空腹だが食べものはなく、飲むべき湯水もない。悪路のため輸送車両はぬかるみにはまりこんで動かず、兵は倒れ馬も斃れ、昨年の沙河戦闘の際を思い起こした。こうしているうちに、同輩が少しばかりの薪を集めて火を点けてくれた。ようやくにして少しく暖をむさぼり、元気が出てきたので、携帯の食糧を出し合って漸く熱い食物にありついた。  
 南嶺は楊堡を去ること七里、昌図の南方七、八百メートルの高地にあって、眼下に昌図の市街を見下ろせた。ここ南嶺は数戸からなる村落で家屋こそ多少大きいが、いろいろなものが不足しており、不潔を極めていた。病院を開設するのは極めて困難だろうと思いつつ空を見上げた。数日は晴の日が続くだろう。

 この後惟芳は南嶺において、七月三十日から十月七日まで舎営病院の業務に従事し、十月十五日に三等看護長に任命された。そして明治三十八年十二月二十七日に病院の業務を終え、鉄嶺で乗車して帰途についた。同月三十日に大連で乗船し、翌明治三十九年一月三日宇品に上陸した。同年一月六日に解隊、同日広島予備病院附となり、二月十二日に残務を終了した。
 なお四月一日、三十七・八年戦役の功により、惟芳は勲八等白色桐葉章及び金弐百円、並びに従軍記章を下賜された。
 日本は九月五日、アメリカのポーツマスにおいて、日露講和条約に調印した。

参考文献 児島 襄著『日露戦争』 加藤健之助著『日露戦争軍医の日記』 
     茂沢祐作著『ある歩兵の日露戦争従軍日記』
週刊朝日百科日本の歴史 第11巻』


 最後に一言。「第七章」を書くにあたり、惟芳が遺した『従軍手帳』を借覧し全面的に利用した。そして不思議に思うことがあった。それは、日本歴史上、空前の死傷者を多出したと考えられる日露戦争に従軍し、しかも彼らに接する機会の多い野戦病院にあって、その惨状を惟芳がほとんど記載していないことである。察するに、敵味方共に傷つき死ぬのは戦の常。従って阿鼻叫喚の修羅の巷を殊更に記述する筆を持たなかったからではなかろうか。更に言えることは、惟芳は常日頃、喜怒哀楽を面に出すことが少なかった。これは今の日本人と違って、武士たる節度を若くして植え付けられた、明治の人間が抱く矜持だったのかも知れない。

杏林の坂道 第八章「医師への道」

(一)

 満州の曠野では、看護兵といえども毎日が死と隣り合わせであった。九死に一生を得て帰還した惟芳は、今は銃声も聞こえず弾雨も飛び交うことのない内地で、平穏な朝を迎えることができた。東西南北どちらを向いても雲一つない清々しい明治四十年の元旦である。

 ―ちょうど二年前の今日だった。遼陽の近くの戦場で元旦の祝いを終えたとき、我々は旅順開城の吉報を耳にした。だれもが思わず快哉の叫びをあげたが、今朝のこの喜びはあの時とは違って、心の底にしみわたる静かな喜びだ。


 しかし一年前の奉天の激戦のことは忘れられない。あの戦いでは実に多くの者が斃れた。内地でなら出来るだけの手当を施し一命を取り留めることができたかも知れない者たちだ。未だに夢に現れる。砲煙弾雨の中、仮看護所で応急の処置をしていたときのことが。血まみれで苦しみもだえて叫ぶ兵士たちに対して、俺は手の施しようがなかった。看護兵として申し訳なく思う、また残念でならない。どんな状況下でも素早く適切な処置が出来るようになってこそ始めて立派な医師と言えるのだ。よし、頑張って勉強するぞ。
 
 帰還後三菱長崎造船所への復職をきっぱりと断念し、戦地での貴重な体験の下に生じた、この止むに已まれぬ気持ちを抱いて、医師として生きる道を選んだ惟芳は、明治三十九年一月六日、第五師団軍医部から、陸軍三等看護長として広島預備病院附を命ぜられていた。そして同年十一月一日には、陸軍二等看護長に昇進した。
 惟芳はその年十二月二十八日に「精勤ノ賞トシテ金四圓九拾銭ヲ賜與」された。内地で勤務して初めての下賜金である。彼は故郷の萩で寂しく正月を迎える母と弟のことを思って、早速その日のうちに下賜金全額を送り、勤務の都合でどうしても帰省できない旨の手紙を添えた。

 

 年が明けた正月の佳き日である。食事を済ますと、彼は出勤時まで生理学の本を開いた。間借りの下宿の二階に朝日が射して一段と爽やかな気持ちになった。惟芳はこの日は当直勤務の出勤時間が午前十時なので、それまでの時間を研究にあてることが出来た。その後出勤して本院の第十二号室で、病院下士の互礼会が行われた。宴が終わって病院中庭において一同記念写真を撮った。在院中は諸事に忙殺されてゆっくり生理学の本などを読むことは出来なかった。当直勤務を終えて下宿に帰り床に就いたのは夜中の二時であった。床に入る前、戦地でつけていた日記を今年も続けようと思い、小型の日記帳の表紙の裏に、次の言葉を毛筆で明瞭に書き付けた。
 
 記入規定 就床前当日ノ事項ヲ記入スル事
      記入ヲ怠リタル際ハ理由ヲ記載スベキ事

 

 陣中で毎日欠かさず付けたように、まず日時と曜日、それに天候状態、さらに起床時間と就蓐(しゅうじょく)時間を記入した。二日から四日まで瞬くうちに過ぎていった。

二日 水曜 雪 起床七時二十分 就蓐十時三十分
 当直申送を松原君ニ依頼シ分病室ニ至リ雑務ヲ終エタル後患者収容ノ為メ宇品ニ出張 収容ヲ終ワリテ帰宅シタルハ一時半ナリ 其レヨリ年始礼トシテ一、二ノ自宅ヲ問フ 午後七時半ヨリ十時マデ福田君ト西方ニ向カッテ散歩ス 本日益スル事ナシ

 

三日 晴 木曜 起床八時 就蓐十時四十分

 午前中新聞ヲ覧ル 午後入浴ノ後散歩ノ目的ヲ以テ白島ニ至リ約一時半ノ後帰宅日没後高村夫人来問ス 夜ニ入リ約二十分散歩ヲナス 本日別ニ益スルノ点ナシ

 

四日 金曜 晴 起床七時二十分 就蓐十二時
 本日定時出勤ス 帰宅時橋本君来問中ナリ 一応ノ談話ヲ終ワリ酒宴ノ後西方ニ散歩シ午後十時帰宅ス 本日益スルノ点ナシ
 
過去三日間の日記を読み返してみたとき、「本日益スル事ナシ」または「本日益スルノ点ナシ」と、こうした同じ言葉を吾知らず書いたことは、正月とはいえ、勉強を怠ったことへの自責の念の現れだと、惟芳は思わず苦笑した。

 

 正月三箇日(さんがにち)も当直勤務で出勤した惟芳は、その年最初の日曜日となった六日は、八時過ぎまで床に就いていた。幸い天気もよく、そう寒くもない。部屋の窓から陽光が射し込み気持ちが良い。朝食を済ますと、彼は部屋の窓を開けて朝の新鮮な空気を入れた。しばらくしてまた窓を閉めて机に向かった。今直ぐになすべき仕事も無いので、今日はじっくり生理学を研究しようと思って本を開いた。

夕刻になったので、少し頭の疲れを癒す意味で、近くの日治山に登ろうと下宿を出た。下山の途中、頭が重く不快を感じた。夜に至り机に就いたがどうも悪寒を発したように思えるので、まだ八時にはならないが止むを得ず床に就いた。しかし日記の最後には、「本日比較的益スル事多シ」と記した。

 

 翌七日は月曜である。晴天に促されて思い切って七時二十分に起床した。定時出勤したが頭痛がし、悪寒発熱のため不愉快な日を送った。下宿に帰ると早目に床に就いた。時計を見るとまだ六時五十分であった。日記の欄外の記載事項「桂内閣瓦解し西園寺内閣成る(三十九年)」に目を止め、次のような感懐を抱いた。

 ―第二次山縣内閣が明治三十一年に始まって、続いて第四次伊藤内閣、さらに第一次桂内閣と、郷里の先輩たちによってこれまで内閣が引き継がれたのだな。明治三十九年になって一旦切れたことになるのか。日露戦争を遂行した時の首相は桂さんだったが、皆命がけだったに違いない。児玉源太郎大将は戦後急逝されたが、それこそ国を守る為に身命を賭して戦われたのだ。児玉大将だけは徳山の出身だったな。

 

 八日も天気はよいが病気が治らないので終日床に就いていた。同僚の四茂野が午前と午後二度訪ねてきた。何か言いたいことがあったようだが帰っていった。日記に「本日益スルノ点ナシ」とまた書き付けた。
 九日になっても病はまだ治らない。終日床にあって休養した。夜になって四茂野夫人が来て話すには、
 「緒方さん、昨日主人が訪ねて来ませんでしたか? 最近何だか落ち着きがないように見えるのです。また時々変な愚痴をこぼします。『俺はもう医者になる頭がないことがよう分かった。それになろうという気力も薄れた』と、こう申すのですよ。私としては折角陸軍病院に勤める事ができたのだから、医者への道を進んでくれたら本当に有難いことだと思っていましたのに、主人の最近の態度を端(はた)から見ていますと、一寸不安になります。主人はまたこうも言います、『俺は戦地で緒方君が撮った写真を見て、写真の技術を習得すれば、これで十分食べていけるし、一家を養っても行けると思う』。 緒方さん、どう思われますか?」

 細身の体を地味な着物に包んだやや蒼白い顔をした夫人は不安な面持ちで彼に訊ねた。
惟芳は藪から棒にこのような相談話を持ちかけられて、咄嗟に適切な意見を述べることが出来なかったが、昨日午前と午後二度も四茂野が訪ねてきた訳が、これで察しがついた。

 

 惟芳は陸軍病院に勤務しながら医師を目指して勉強しているが、資格を取るのはなかなか容易ではないということを知っていた。大学の医学部を出れば自動的に医師としての資格が手に入る。また医学専門の学校に入れば受験して医者になることも必ずしも難しくはない。しかしあくまでもこうした学校を卒業すればの話であって、第一こうした学校へ入ること自体、学費を考えただけでも貧乏暇無しの一般庶民のよくするところではない。
他方陸軍病院において働きながら勉強して医師を目指すのは、時間的にかなり無理を強いられる。この厳しい境遇と言うか、条件を克服してはじめて道が開ける。従って、余程肚を決めてかからなければ途中で挫折する。こうして医師資格試験を受けて、見事合格出来るのが、三十人に一人あるなしといった難関であることを惟芳は聞いていたので、それとなく以上のことを説明して、ご主人の気持ちも一考に値するのではないかと言って夫人を少し慰めた。

 

 しかし惟芳が戦地で撮った写真を見せたとき、四茂野が写真に無上の興味を示して、 
 「記録写真はすごいな。趣味と実益を兼ねるには写真家になるに限る」と、やや興奮気味に話したことは、夫人に話すのを控えていた。

 夫人は惟芳の話を聴いて却って心配になったのかもしれない。「遅くにお邪魔して済みませんでした」と言って寂しげに帰っていった。

 

 惟芳は日記を開いた。その欄外の「慶応三年今上天皇践祚し給う」の記載を目にして我が身を省みた。
 
 -今上天皇が即位されて丁度四十年になるのか。時の経つのは早いものだ。その間世の中は日進月歩した。医学もこれからどんどん進歩するだろう。こうして病気なんかして何時までも休んではおれない。もっと自己管理に注意を払おう。
 
 惟芳は病気の具合も大部良くなったので、思い切って床を上げようと考えたが、やはり大事を取って、夫人が帰った後いつもより早く寝ることにした。

 

 翌日病はかなり快方に向かっているようだったので、七時三十分には起きて出勤した。業を全うして帰ったものの、完治しない身には多少無理だったので、帰宅後また直ちに床に就いた。午後七時三十分松原看護長より当直の通知があったので、止むを得ず直ちに下宿を出て服務についた。惟芳は宮仕えの辛さ、厳しさをしみじみと実感するのであった。帰宅して就寝したのは夜中の十二時過ぎであった。

 

 翌日は当直明けであったので正午に帰宅した。夕刻に至り四茂野の細君がまた姿を見せた。今回は惟芳も奥歯に物の挟まったような言い方ではなく、彼の将来に関して自分の考えを率直に述べた。
 「奥さん、あなたのお気持ちはよく分かります。しかし医者になるのがすべてではありません。ご主人は努力されているようですから、合格の見込みは十分あるでしょう。しかし昨日も申しましたように、何しろ厳しい試験です。今以上に勉強して力を試されたらいいですよ。そうすれば自分の力が分かります。もし事志と違うた時、如何に対処すべきか。その時はお二人で真剣に、また冷静に考えなければいけません。本人が将来の生き方をはっきり表明されたら潔くそれを尊重され、励まされることが、一番良いのではないでしょうか。」

 四茂野の勉強振りを見ている惟芳には、今の状態ではなかなか難しいと密かに思った。従って、来春受けるこの難しい医師資格試験のことを考えると、四茂野夫人の揺らぐ気持ちが分からないでもなかった。今日も自分の言葉は、安心の矢として彼女の心に達する事は出来なかっただろうと思うと、戸口まで出て夫人を見送った後、とっぷりと暮れた夜空に星の瞬くのを見上げて、彼は悲しくもやるせない気持ちになるのであった。


 第二日曜日に四茂野夫人の三度目の来訪があった。彼女の話を聞き、惟芳も意見を述べたが堂々巡りの感があり、なかなか結論は出なかった。しかし彼女も次第に理解の色を見せるようになり、彼としても多少は安堵することができた。
 毎日が勤務と勉強ばかりではない。惟芳は十九日の日記にこう記載した。

 

十九日 土曜 晴 起床三時 就蓐翌午前〇時三十分 
 午前三時ヨリ夜警勤務ニ服ス 正午退庁宅ニ帰ル 夕食ヲ早々終リテ福田君ト共ニ新地座川上音二郎ノ演劇ヲ見物シ十二時半帰宅床ニ就ク

 

 川上音二郎といえば、明治二十年代自由民権運動の一翼を担ったかのオッペケペー節で国民の人気の的となり、明治三十三年(1900)にはパリ万博では名女優貞(さだ)奴(やっこ)を伴って大好評を博し、帰国後は正劇運動と銘打って興行形態を改革し、『オセロ』や『ハムレット』などの西洋劇を上演して、興行師として成功を収めている。惟芳が見物したのは、上記のシエイクスピア劇のいずれかであっただろう。ちなみにオッペケペー節の一つを紹介すると、
 
 不景気極まる今日に 細民困窮かえりみず
 目深にかぶった高帽子 金の指輪に金時計
 権門貴顕に膝を曲げ 芸者幇間(ほうかん)に金を撒き
 内には倉に米を積み ただし冥土のお土産か
 地獄で閻魔に面会し 賄賂使うて極楽へ
 行けるかえ 行けないよ
 オッペケペー オッペケペッポー ペッポッポーイ 

                   

 
(二)

 惟芳は昨年中の新患者表を新に作ることに取り掛かった。作成にあたり書棚を整理していたとき、『明治三十七八年戦役廣島預備病院衛生事蹟一般外科』『一般内科』と書かれた分厚い二冊の綴りの文書を見つけた。彼はページをぱらぱらとめくっているうちに、次の記述に思わず目を留めた。なお、廣島衛戍病院は日露戦争の間は「廣島預備病院」と呼ばれていた。
その記述は脚気と凍傷に関するものであった。先ず脚気については、概況として、調査主任陸軍一等軍医が次のように書いていた。彼は津々たる興味を覚えながら読み始めた。

 脚気 其一 流行ノ概況
  當戦役間脚気病ノ預防ニ就テハ當事者終始幾多ノ注意ト多大ノ勵精ヲ払ヒシニ係ラス其発生頗ル夥(か)多(た)ニシテ而モ帰還患者ノ最大部分ヲ占ムルニ至レリ即チ明治三十七年三月六日廣島預備病院ヲ開設セシ已来同三十九年九月盡日(じんじつ)ニ至ル期間ニ収療シタル脚気患者数ハ六万九千九百二十一名ニシテ尚他病に兼發セシモノヲ合スレハ實ニ七万一千三百二名ノ多数ニ達セリ今之レヲ當院に収容セシ諸種ノ総患者ニ對比セハ三一・八〇%ニ該當セリ蓋(けだ)シ戦役中脚気ノ戦闘力ニ如何に尠(すく)ナカラサル影響ヲ及ホセシカヲ察知スルニ足ルヘシ

 

 この概況を読み終えると、惟芳は心臓性脚気(横隔膜麻痺ニ因リ死亡シタルモノ)と書かれた記述に目を移した。これは第五師団第二兵站糧食縦列輜重(しちょう)兵一等卒の発病と死に至る具体的な内容であった。この兵士は明治十三年生れであることを知った。惟芳は戦場で華と散ることなく、脚気という不名誉な疾患により病院で亡くなった自分より三歳年長のこの兵士の身の上に思いを致すとき、気の毒でならなかった。彼は真剣にこの詳細な記述に目を通した。

 

出生地 廣島縣安藝郡熊野村 
職業 鍛工 
既往症 天資健康ニシテ曽テ著患ヲ知ラス明治三十八年一月十四五日頃清国盛京省牝牛屯ニ於テ輸送勤務中下肢ノ麻痺及ヒ浮腫ヲ来シ荏苒(じんぜん)治(ち)ニ至ラス同月三十日煙臺兵站(へいたん)病院ニ入院
入院當時ノ現症及ヒ爾後ノ経過 體格営養共ニ中等體温三十七脈搏九十六至ヲ算ス胸部ハ聴診上心悸亢進シ肺動脈第一音不純ナリ下腹部及ヒ下肢ハ僅カニ浮腫ヲ呈シ腓腸筋緊満握痛アリ膝蓋腱反射ハ亢進ス食機ハ不振ニシテ便通ハ下剤に依リ一日三行


二月一日 遼陽兵站病院ニ収容昨日来嘔気アリ胃部ニ停滞ノ感ヲ訴ヘ便通ハ下剤ニヨリ佳良其他ノ症状前日ニ同シ

 

同 三日 脈搏百至知覚麻痺増進シテ下腹部一般ニ及ホセリ

 

同 四日 大石兵站病院ニ収容 脈搏八十至心悸亢進甚シカラス知覚ノ異常ハ専ラ下腹部下肢ノ内側ニシテ手指ニモ之ヲ波及セリ

 

同 九日 大連兵站病院ニ収容 脈搏ハ大ニシテ軟九十二ニ至ヲ算ス舌ハ乾燥胸内苦悶ヲ訴フ尿利ハ多量其他ノ症候前日ニ同シ其後病院船ヲ経テ二月二十一日廣島予備病院ニ収容當院ニ収容後ノ症候及ヒ経過 脈搏百二至胸内苦悶呼吸促迫腹痛アリ時々嘔吐ス呼吸ハ胸式ニシテ鼻翼呼吸ヲナシ心気亢進心部壓痛アリ依テ應急ノ處置ト共ニ増進ノ報ヲナス午後七時三十分不時診断ヲナスニ脈搏ハ九十至整胸内苦悶アレトモ呼吸困難稍々減少ス浣腸施行後排便二回嘔吐一回時々乾嘔ヲ發ス鼻翼呼吸歇マス頻渇アルニ依リ氷片ヲ嚥下セシム尿利ハ減少セリ

 

二月二十二日 脈搏九十三體温平常心悸ハ亢進シ心個部ニ窘(きん)縮(しゅく)ノ感ヲ訴フ昨夜来数回ノ吐嘔気及ヒ嘔吐アリ回虫一條ヲ吐出ス舌ハ乾燥四肢腹部共ニ知覚鈍麻心尖ハ稍々右下方ニ偏シ心尖部ノ第一音旺盛心濁音部ハ擴大シ該部ニ疼痛ヲ訴フ腹部殊ニ胃部ハ少シク膨満シ按壓ヨリテ疼痛アリ尿利減少大便ハ秘シ浣腸ニヨリテ之レヲ利ス

 

同二十三日  脈搏ハ九十至ニシテ弱ク嘔気及ヒ嘔吐依然歇マス(吐物ハ胃液ノミ)腹部殊ニ胃部ハ膨満シ壓痛ヲ有シ打テハ鼓音ヲ發ス心尖部ノ舒期音不純ナリ

 

同二十四日  脈搏ハ幽微ニシテ殆ント觸ルルヲ得ス呼吸ハ著シク促迫シ股動脈音ハ高調ナリ刻ヲ逐ヒ諸症増悪シ呼吸筋及ヒ横隔膜ノ麻痺症状ヲ呈シ呼吸ハ頻数極度ノ困難ヲ来シ百方力ヲ盡セシモ其効ナク竟ニ本日午前十一時三十五分横隔膜麻痺ヲ以テ死亡ス

 

 惟芳は一気に読んだ。「百方力ヲ盡セシモ其効ナク」死亡したと書かれた最期の言葉に至ったとき、発症から死亡までの日数を算して丁度四十日という短時日なのに唖然とした。今この時点で陸軍の最高の治療を以てしても患者は「麻痺及ヒ浮腫荏苒治ニ至ラス」苦悶の果てに死を迎えるという脚気の恐ろしさに身の氷る思いをした。生来健康で元気にしていた兵士が次々にこの病に罹りその数夥(おびただ)しく、現にこの病院内にも死を待つものが多くいることを思い彼はやるせない気持ちになった。自分も入隊後騎兵として訓練を受けていたが、間もなく脚気と分かって急遽看護兵に職務転換された。軽症の時に治療を受け、一命を取り留めた僥倖を神仏に感謝した。

 脚気についての具体例に次いで、凍傷による死亡例が記載してある文面にも惟芳は真剣な目を向けた。彼自身零下二十度の極寒の地に我が身を曝した経験がある。しかしあの時は外気に触れる時間が短かったので凍傷の怖さを予感するだけで終わったが、もしそのままあの極寒の曠野で戦闘を続けなければならなかったら、自分も凍傷に罹ったかもしれないと思うと、他人事とは思えなかった。彼はそうした思いを抱きながら文面に目を走らせた。最初に調査主任陸軍三等軍医の「凍傷緒論」を読んだ。

 

  今回の戦役ニ於テ普通外傷中吾人ノ特ニ憂慮セシハ凍傷ナラン過去二十七八年ノ戦役ニ徴シ當局者ハ勿論一般ニ之カ預防経営ニ付テハ幾多ノ注意ト諸般ノ設備トヲ払ヒ比較的良好ナル効果ヲ奏セリ然レトモ彼ノ明治三十八年一月下旬黒溝臺附近ノ戦闘ニ至リ計ラスモ多数ノ患者ヲ發生セシハ實ニ遺憾トスル處ナリ
 
 惟芳は二年前の一月十五日、零下十六度の降雪の中、午後五時頃急に出発準備の命令があり、直ちに準備を整え命の下るのを待っていたが、あのとき体験した極寒の厳しさはいま思い出しても耐え難いものであった。
彼は具体例に目を通した。患者は第五師団歩兵第四十二聯隊第八中隊の預備歩兵一等卒であった。この兵士も先の脚気で死亡した者と同じ明治十三年生まれであるので、年齢からすれば、満二十七歳の働き盛りの若者であったのを知った。
 
病名 両足指第三度ノ凍傷
原因及経過 明治三十八年一月二十六日清國奉天省大台附近ノ戦闘ノ際本症ニ罹ル依テ同日受診直ニ第五師団第三野戦病院ニ収容ス 
現症 両足指尖端紫藍色ヲ呈シ水疱ヲ悉ク形成ス

 

二月一日 現症ノ通リ依テ水疱穿破(せんぱ)及凍傷膏貼用

 

同  日 小煙台定立病院ヘ轉送ス

 

同 二日 経過佳良

 

同  日 第三師団患者輸送部ヲ経テ遼陽兵站病院へ轉送ス

 

同  日 局部ハ水疱ヲ生シ且ツ變色シテ歩行ニ困難ナリ

 

同 四日 タルニー兵站病院ニ轉送ス

 

同 五日 前記症状ノ如シ依テ石樟軟膏塗布

 

同 六日 病院船ロヒウ丸ニ轉送ス

 

同 九日 患部ハ皮膚剥脱シ真皮ヲ犯サレ分泌物多シ拇指ハ一部分ハ黒變セル皮膚ヲ以テ蓋ハレ中央部ハ環状ニ皮膚剥脱セリ左方ノ指モ右方ト同様ナリ繃帯交換ヲ施ス

 

同十一日 廣島預備病院ヘ轉送ス

 

同十三日 手術ヲ要スルニ付キ本院ニ轉出セシム

同  日 各指ハ僅カニ著明ナル分界線ヲ主シ居レリ明日手術ヲ行フ
      両足共ニ第一ヨリ第五指ニ至ル指関節以下變色壊疽(えそ)ニ陥リ分界線ヲ作ル

 

同十四日 手術クロロホルム麻酔ノ下ニ両足第一ヨリ第五ニ至ル指節ヲ各指共ニ指裏関節以下離断シ沃度ホルムガーゼ挿入創口開放ス

 

同十六日 手術後嘔気ナシ昨夕体温三十九度一分今朝三十八度四分脈百三十一ヲ弄ス患部疼痛ナシ

 

同十八日 熱發食欲不振右胸前面笛聲時々咳嗽アリ規赤水壱千右一日三回分服

 

同十九日 左足分泌多カラス小指断端ニ於テ動脈ノ出血ヲ来スニヨリ結索ヲ行フ右足左足ト同状ナリ繃帯交換

 

同二十日 昨夕体温三十八度二分今朝三十七度八分咳嗽大イニ減セリ

 

同二十一日 少許ノ壊死組織及少量ノ分泌創面に附着セリ状況佳良ナリ(両足同様)繃帯交換同二十三日 体温殆ト平温に復ス

 

同二十四日 異常ナシ創面肉芽良分泌稍多シ

 

同二十六日 右手腕関節以下運動麻痺左手モ脱力ス依テ感電電気ヲ處ス

 

同二十八日 胸部知覚鈍麻腓腸部握痛アリ腱反射消失ス便通尿利異常ナシ

 

三月二日 左右肘線ヲ觸ル諸症同断

 

同 三日 両足指断端分泌中等ニシテ肉芽ハ佳良ナリ

 

同 八日 両足肉芽両分泌少シ

 

同 九日 本日第二分院へ轉出ス右上膊知覚異常アリ依テ規赤水壱千右一日三回分服

 

同十二日 両足創面狭少ス肉芽良

 

同十五日 肉芽良

 

同二十三日 右足創面良左創面ハ分泌去ラス肉芽發生良

 

同二十五日 両上肢ノ知覚異常及脱力ハ依然タレトモ心悸異常ナシ

 

同二十八日 分泌減少肉芽面佳良ナリ

 

四月一日 上肢ノ知覚異常及脱力漸次快方依テ塩赤水壱千一日三回分服

 

同 三日 右足創面殆ト治癒ニ近シ右足創面ハ肉芽良ニシテ皮膚ヲ發生シツツアリ前方を處ス

 

同 九日 益々佳良

 

同十三日 右側創面ハ治癒ス左足創ハ僅カニシテ小豆大の肉芽ヲ有ス

 

同十八日 両肢ノ知覚鈍麻依然タリ而シテ膝蓋反射欠乏ス脊推上部ヲ押打スルニ知覚過敏ナル部分ヲ認ム

 

同二十一日 右足創面ハ殆ト治癒ニ近ク左足創面モ亦治癒ニ近シ恩賜繃帯

 

五月六日 上肢ノ運動及知覚麻痺ハ殆ト回復シ握力ハ未タ減弱シテ回復セス下肢運動ハ稍々軽快セラル者ノ如クナレトモ知覚麻痺ハ依然タリ依テ前方ヲ處ス

 

同 八日 以降變化ナシ前方ヲ與フ

 

同二十五日 漸次軽快ヲ認ム前方

 

六月六日 本院ニ轉出セシム両足指裏関節以下欠損創部ハ全治ス塩赤水壱百一日数回分服

 

同 八日 脈膊七十搏中等下肢稍々削痩シ知覚鈍麻セリト云フ

 

同  日 創部全治恩給診断ノ為メ第一分院へ轉出セシム

 

同十三日 恩給診断ヲナスモノト決定ス

 

同十六日 恩給診断結定ニ付第七号室へ轉出セシム

 

明治三十八年七月二十五日兵役免除退院セシム

 

 惟芳はこの二つの症例の詳細な記述を読み終わって暗澹たる気持ちになった。一方は脚気で若き命を落とし、他方凍傷に罹った兵士は無事一命を取り留めはしたが、両足指を切断され傷痍軍人としての恩給生活を強いられる事になったのである。これから先の長い人生はこの兵士にとっては決して生易しいものではないことに思いを致し、惻隠の情が沸々と湧くのを抑えることができなかった。

 ―これが戦争のもたらす最大の悲劇だ。護国の為に戦闘で名誉の戦死を遂げたのとは異なり、こうして戦傷者として今後辛い日々を生きながらえることは、当人はもとよりその家族にとっても本当に不幸な事だ。両脚の切断や両眼失明の憂き目を見た兵士も数多いる。俺がこうして脚気にも罹らず凍傷にもならずに無事帰還出来たのは、考えてみれば奇蹟といってもいい。国のために尊い命を犠牲にした戦友や傷ついた兵士あるいは軍馬の事を思うと言葉もない。ようし、しっかり勉強して医師になり、彼らの無念を晴らそう。

 

 惟芳は我に返るとまた書類の整理を始めた。彼は新患者表を作った後帰宅した。この夜は何故か分からないが翌午前三時まで眠れなかった。

 

 八日、勤務から帰って萩の母へ手紙を出した。夕飯時、下宿の主人から六日に起きた足尾銅山における大争動のことを聞いた。

惟芳は長崎の造船所で働き始めたその年だから明治三十四年十二月の事だが、田中正造という人物がこの足尾銅山鉱毒事件で、天皇へ直訴したことを載せた新聞記事を思い出し、当時の新聞を探して読んだ。

 

  萬ノ人民産ヲ失ヒ業ヲ離レ餓エテ食ナク病テ薬ナク老幼ハ溝壑(こうがく)に轉シ壮者ハ去テ他国に流離セリ如此ニシテ二十年前の肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅(こうぼう)白(はく)葦(い)満目惨憺の荒野ト為レリ
  臣夙(つと)ニ鉱毒ノ禍害ノ滔々底止スル所ナキト民人ノ苦痛其極ニ達セルトヲ見テ憂悶手足ヲ措(お)くクニ處ナシ

 

 惟芳は鉱毒の惨状を訴える田中正造のこの血の出るような切々たる嘆願書を読み返し、あの奉天付近の一望千里広漠たる曠野で、敵味方が死闘を繰り広げた時の惨憺たる阿修羅の情景、さらにその大地に生きる農民たちに思いを馳せた。

 ―「壮者は去テ他国ニ流離セリ」とあるが、思えば満州の地の農民たちは、折角大地を耕し種まきも終えたであろうに、あの激戦で畑地は軍靴と馬蹄に踏み荒らされ、薪炭となる立木も戦禍で焼け、他郷へ去ることも出来ず、降って湧いたようなこの戦禍に、我が身の不運を嘆いたのではなかろうか。何処の國、何時の時代でも農民の悲劇は起きている。

 

 

(三)

 惟芳には囲碁の趣味がある。彼は時々友人と酒を酌み交わすことや、囲碁に楽しみを見出していた。しかし帰宅後は概して医師資格試験の準備に専念した。そのために彼が研究した学科名は、生理学、生理循環学、調剤学、有機化学無機化学看護学、物理学、植物学、解剖学、神経学、顔面骨学、伝染病学、排泄生理学、運動生理学、解剖生理学、消化生理学、血管学等で、日記には殆ど毎日これらの学科の内いずれかを研究したと記載している。ところが研究を妨げる事態が生じ、そのためにかなり頭を悩ました。それは弟の尚春が突然萩から彼のもとに来たからである。
 尚春が来る数日前の日記に惟芳は次のように書いた。
 
二月十六日 土曜日ナルヲ以テ午後二時ヨリ退庁 帰宅入浴食事後修道学校ニ到リ校則ヲ受ケ帰リ一書ヲ尚春ニ認メ有機化学ノ研究ヲナス

 

 尚春に手紙を出した二日後の二十八日は前日が当直で非番であったけれども、彼は午後四時半まで勤めた。帰宅してみると、弟の尚春が来ていたのである。

 

 これより一週間ばかり前に、母からたどたどしい文字で書かれた一通の手紙が届いていた。それによると、弟は萩を出て惟芳の下で勉強したいと言うので、しばらく面倒を見てやってくれまいかというのであった。惟芳としては勤務と自分の勉強で非常に忙しく、とても弟の世話までするような状態ではないが、折角弟が向学心に燃えているのなら、何とかその意を汲んでやろうと思った。就職して少しでも親を助けたいという思いで、萩中学校を五年で中退して長崎で働いた我が身の来し方を振り返る一方、惟芳は弟の気持ちを好意的に考えた。しかし尚春が家を出ていった後、老いた母が一人残ることは、惟芳には忍び難いことであった。そこで彼は弟の本心を訊ねる次のような主旨の手紙を少し遅くなったが出していたのである。

 

 過日母上からお前が広島に来て勉強したいから、面倒をみてやってくれないかとの手紙を受け取った。全く寝耳に水の依頼で驚いた。兄さんはお前と違って、両親と十分相談した後萩を出て長崎の造船所で働くことに決めたのだ。中学校に五年まで通っていたのを中断することは残念でならなかったが、事情やむを得ない選択であった。先ず父上が、つづいて母上も納得された。今もしお前が苦学を志すと言いながら、内心萩の田舎を嫌って都会生活に憧れておるのならば問題だ。

 

 勉強は頭で考えているように易しいものではない。やるからには必死になって取り組まなければいけない。本当に真剣に勉強したければ、兄さんとしても何とか考えてみる。しかし実を言うと、今は病院の勤務がある上に、自分の勉強にも時間がいくらあっても足りないくらいだから、朝から晩までお前の傍らにいて、面倒をみるわけにはいかない。お前は自学自習を心掛けなければいけない。時々お前の質問を受けるといった程度になると思う。しかしここで一つ心配なのは、お前が萩を出たら、母上が一人残られて非常に寂しい思いをされ、また何かあったとき困られることだ。
以上の点をよくよく考え、母上ともじっくり相談して、お前のはっきりした気持ちを知らせてくれ。自分の将来に関することだから、軽挙妄動だけは慎むように。

 以上のような主旨の手紙を書き送っていたのに、その返事もくれないで、尚春は出立の二日前に「今日発つ」という手紙を寄こしただけであった。惟芳はその日は徐役表の記載を終え、有機化学の研究も全部終わってホッとして帰宅したところであった。そして中一日を置いた今日、こうして弟の姿を見たので、惟芳は内心腹立たしく思ったが、旅の疲れのためか、あるいは兄への気まずい思いのためか、部屋の隅に信玄袋を側に置いて、絣の着物をだらしなく着て、しょんぼりと坐っている八歳年下の弟をみると、つい怒りの感情も和らぎ、兄としてやさしく話しかけるのであった。

 「夜汽車は混んでいただろう。さぞかし疲れただろう、近くに蕎麦屋があるから後で連れて行こう。それにしても萩から小郡までどうして出たか?」

 惟芳は足の悪い弟が山坂四十キロの道を来たことを思うと、気になって先ず訊ねた。
 「丁度小郡へ行く荷馬車がありましたので、それに乗せてもらいました。朝早く発ちまして途中大田(おおだ)で昼食を取り、小郡では夜汽車に十分間に合いました」
 
 尚春は兄がやさしく話しかけてくれたので、元気を取り戻して答えた。夕刻が迫ったとき、宿主は尚春が出てきたということで親切にも小宴を開いてくれた。兄の惟芳と比べたとき、弟は小学校を卒業した後中学校へは入らずに二年間家にいたので、まだどことなく子供らしい様子に見えたから、宿の主人は不憫に思ったのかも知れない。食事が済むと、二人は中之島まで散歩した。

 

 こうして兄弟二人の下宿生活が始まった。しかし惟芳としては、これまで通りの生活を維持しなければいけないと改めて強く思った。そうは思いながらも、兄として弟の勉強になるべく便宜を図ってやろうと考えた。

 

 その後の惟芳は、「帰宅後弟ノ為ニ教授ス」「帰宅後書留ヲ留守宅ニ送リ入浴後弟ノ為ニ教授シ又生理学ノ研究ヲナス」「算術ニ就イテ弟ニ教授ス」など「弟ノ為ニ教授ス」という言葉を日記に頻繁に書き込んだ。こうして自分の勉強時間を割いてまで弟の勉強を見てやったが、弟には自覚に欠けた点があったので、強く尚春を誡め諭したりもした。その後しばらくは自分の勤務と研究をした上で弟の面倒をみるという多忙な日が続いた。

               

 
(四)

 定時出勤と毎週一度はある日直勤務を繰り返すうちに、三月も半ばに入った。前もって就労休暇の願書を出していたが、さらに定例休暇の追加願を提出して長期の休みをもらった。

 

 三月は弥生と呼ばれる。この春暖を思わせる呼称にもかかわらず、「春寒料峭(りょうしょう)」、春風が肌にうすら寒く感じられ寒気はなかなか去らなかった。しかし曇った空から白雪が片々と舞っていた前日と異なり、帰郷を思い立った三月十七日は、朝から陽日が射していた。午後十時下宿を出て松原駅に至り午後十一時十分の列車に乗車し小郡に向った。車中乗客が多く、立ち往生の状態であった。後刻漸く席を見つけて時々坐睡をした。午前四時小郡駅に着いた。前日来睡眠不足であったので、駅前の旅館において眠りを嗜(むさぼ)った。
 
 目が覚めたのは八時頃であった。朝食を終えて馬車に乗り小郡を発した時は時計の針は九時三十分を指していた。小郡を出立する時、天は晴れて暖かだったのでこの分なら大丈夫だと考えていたが、ものの一里も進むと、寒気が増し所々雪が白く残る村落にさしかかった。さらに歩を進めると一面銀世界となり、加うるに降雪甚だしく車中も屋外と同様に白雪が片々と体に降りかかり、着ていた外套が雪で覆われるほどであった。小郡と萩のほぼ中間点にある大田に着いたとき、宿主の談話によれば、萩大田間の降雪が甚だしいため、人も車も全く通らないという。交渉の結果漸く二頭馬車で出発することにきめた。惟芳は家へはこの日に帰ると連絡していたので、母の心配した顔を思い浮かべた。帰宅出来ないのではないかという思いが杞憂に終わったのは九時間後の事であった。大田を出るとき彼は思った。

 

 ―山陽と山陰の隔たりは距離にすれば十二里もなかろうが、山路に入ってこれほど天気が変わるとは思わなかった。普通春雪は解けるのが早い。しかし雲雀(ひばり)峠(だお)だけは別だ。おまけに積雪が五、六寸に達しているというから、無事に峠は越せるだろうか。峠は急峻なところもあるから、もし道が凍っていたら馬車は滑ってとても通ることは出来まい。

 

 春とはいえ思わぬ降雪に遭遇した惟芳であったが、幸い危惧したほどのこともなく、馬車に揺られてその日の午後六時半頃萩に着いた。鹿(か)背(せ)随道を抜けて故郷の土を踏み、夕闇の中に暮れんとする故郷の静かな佇まいを目にしたとき、彼はつくづく思うのであった。
 
 ―日露戦争という未曾有の大事件を中に挟んで、三年半の時を経ての帰省は感慨深い。この間俺は筆舌に尽くせない貴重な経験をした。しかし父の死に目に会えなかったことは悲しくも残念な事だった。だがこの美しい山河に囲まれた萩の景色は、その悲しみを癒してくれるのに十分だ。人は遅かれ早かれいつかは死を迎える。父は六十三歳まで生きてこられたのだから、年には不足はなかっただろう。維新という激動の時代を無事に乗り切られたし、晩年は貧しいながらも、武士としての矜持を保ち、悠々自適の生涯を送られた。長男の俺が父の最期を看取らなかったのは、父にとって心残りであったろうが、これも運命だ。この度の帰郷は、父の三回忌の法要を営むことが最大の目的だから、これだけは手抜かりのないように営もう。せめてそれが亡き父への恩返しだ。 
 
 人の顔がかろうじて見分けられる時刻に橋本橋にさしかかった。橋の上からの風景は懐かしい。左手前方の川岸には太い幹の松が適当な間隔をおいて十数本枝を広げている。それらの松が黒々と並んで見え、一方右手にはまだ蕾を固く閉ざした桜の並木が夕暮れの闇の中にぼんやりと見えた。橋のすぐ下を流れる水は暗くて定かには見えないが、遠くに目を向けると微かに小波(さざなみ)が立っているのが分かる。

橋を渡れば三角州つまり町中である。道の両側に並んだ民家は既に戸を閉めている。東田町で馬車を降り荷物を下ろして、そこからは人力車で我が家に向かった。家に着いた時には日はとっぷりと暮れ八時半になっていた。母とは久しぶりの対面であったので、積る話を終えた後、漸く眠りに就いたのは十一時過ぎであった。母は惟芳が無事に帰ったことが無上に嬉しかったのであろう、彼が着替えをして床に入ると、仏間から鉦の音と読経の聲が静かに聞こえてきた。 

 久しぶりの帰郷である。潮騒と松籟の聞こえる我が家でくつろげることが何よりの骨休みになる。そう思って翌日午前中家にいたが、午後から出かけることにした。まず親戚の香川津の田中へ行き法事の案内をし、日没後坂田家に至り積る話に夜も更け終に坂田家に泊めてもらう事となった。翌朝八時三十分に起きた。空は晴れて風も無く、本格的な春になったのだと彼は思った。午前九時半坂田家を辞して帰宅した。
三月十九日は彼岸の入りであり、惟芳の二十四歳の誕生日ということで家内で小宴を開いた。二年前の丁度この日、日本軍が開原を占領した事を思い出した。その夜就寝前に日記に次のように記した。

  本日ヨリ彼岸ニ入ル天晴風無ク又春ヲ悟ラシム 午前九時半坂田ヲ辞シ帰宅ス 本日我ガ誕生日ナルヲ以テ家内小宴ヲ開ク 二年前ノ今日日本軍開原ヲ占領ス

 

 翌二十一日は降雨で南風が烈しいので終日家にあって、日露戦役の際撮った写真を整理し、さらに簡単に説明文を書き添えることにした。

 

 惟芳は戦地で撮った写真をかねてより整理しようと思っていた。しかしこれまでなかなかその暇がなかった。今日は有難いことに久しぶりに取り立てて用もない。朝食を終えると彼は自分の部屋に入り、戦地で撮った七十枚ばかりの写真を紙袋から取り出して机の上に並べた。次に丈夫な和紙を二十枚ばかり、押入の引き出しから取り出してそれを半分に折って、その片面に二センチばかりの切れ目を上下合わせて八カ所斜めに入れ、上下二枚、裏面にも同様に二枚の写真をさし込めるようにした。半分のサイズの写真もあるので、片面に四枚並べることが出来るようにしたのも数枚作った。こうした後で彼は写した時と場所を思い出しながら一枚一枚さし込んでいった。この作業をやっと終えると、最期に筆でそれぞれの写真についての説明を簡潔に書き添えていった。
 
 最初の一枚は厚い土塀に囲まれた寺院を写したものである。整然と葺かれた甍、その屋根はひどく傾斜している。この屋根は頑丈な大きな造りの本堂を覆っている。全体は粘土で作った建物である。よく見ると屋根の上に鴉と思える鳥が四羽止まっている。本堂に通ずる門が手前にあって、これもがっしりとした同じような造りで、土塀の中央にでんと構えている。土塀の前は広々とした庭で、門の直ぐ前に軍馬が二頭淋しげに立っている。人影はない。土塀越しに葉の落ちた高い楡のような立木が五、六本右手に傾(かし)いで見え、全体としてうら寂しい光景である。彼はその景色を思い出すと筆を執って、写真の上部の紙面に右から左へと二行に次の言葉を書き入れた。

 

 奉天戦役ノ際開設シタル奉天南方五里ナル
 崔家堡野戦病院ニシテ寺院ヲ代用シタル将校病舎

 このように説明文を認めたものの、この写真を見て惟芳つくづく思うのであった。
 
  ―この写真では皇帝の色とされる黄褐色の屋根瓦や代赭色に映えた土塀が写し出せず残念だ。ましてや満州特有の乾燥した大気や身を切るような寒気は、写真では実際に感じ取る事が出来ない。まあそう言っても仕方がない。こうして何とか写して帰ったので後々きっと何かの参考にはなるだろう。俺に取ってはよい従軍記念にはなった。
 
 こういった臆(おく)念(ねん)を抱きながら、この寺院の写真の下のもう一枚の写真には、「開原ニ於ケル羅馬塔ノ壮観」と簡単に書き込んだ。この写真は誰が見ても一目瞭然、空高くに堂々たる六角形の石塔が屹立したものである。それに銃を持った兵士が二人前方に立っているだけの、これも荒涼寂寞たる風景写真である。

 

 この裏面には惟芳が一人で遼陽へ使いにいったとき写した写真がある。彼は「遼陽停車場ノ実況 面中ノ家屋は露國ノ建築ニヨル停車場及兵営」と書いた。ここには後方に堂々とした石造りの駅舎が建ち並び、その前方に広軌の鉄道線路が七本走っている。一番手前の線路上に十人ばかりの労働者が後ろ向きで車輌でも押しているのか固まって写っている。

 

 この下の写真を見ると、惟芳は一人で使いに行ったときの事を思い出して、「南門ヨリ望ミタル遼陽城市街」と書いた。こうして次々に写真を見ながら当時を思い出しては説明文を書き添えた。全ての書き込みを終えると、全部の紙をきちんと重ね、錐で右側に上下四つ穴を開け、和紙を細長く切って観世子縒(かんぜこより)を二本作って、穴に通して二箇所をしっかりと結んだ。こうして立派な写真帳がやっと出来上がったとき、母が昼食の支度ができたと呼びに来た。

 「朝から何をしておいでかと思うとったがそれは何かね?」
 母は机の上にある分厚く和紙 の重なったのを見て問いかけた。
 「これは私が満州で写して来ました戦場の写真です」
 「写真とは珍しいね。私はあんたが萩中学校に入ったときに先生とみんなで撮った写真と、佐世保の写真館で記念に撮ったと言って送ってくれた写真しか近う近来見たことがない。あんたの写真は仏壇に上げてあんたが戦地に行っている間毎日ご先祖様に無事をお祈りしておったよ。まあ一寸その写真を見せておくれんか?」 
 
 こう言って母は惟芳の部屋に入り机に近づいてきた。昼食のことは忘れたのか惟芳の側に坐ると母は好奇の目を写真に向けた。そこで彼は母がこのように興味を示すので、戦争の様子がよく分かるのと、満州の風物で特徴のあるのを数枚見せようと思った。
 惟芳は写真帳の頁を繰って負傷した十数名の兵士を撮った写真を母に見せた。

 「これらの将士は皆遼陽の戦いで名誉の負傷をした人です。右の机の上に重ねて置いてあるのは皇后陛下から頂いた恩賜繃帯です。ここに『恩賜繃帯』と書いてあるのが見えるでしょう。後ろの列に立っている兵士たちは頭部を、その前に腰かけいる者たちは腕や胸部を、前列の地面に坐って脚を投げ出したり組んだりしているのは腿や脚を負傷した連中で、全部で十六人ここに写っています。これらの負傷兵は恩賜の繃帯を巻いてもらったばかりです。この人たちはこの程度の負傷で済んだのですが、多くの将兵が遼陽の戦いで戦死しました。」
 「この兵隊さんたちはみんな傷ついて痛かろうにしゃんとした姿で写っておいでじゃの。」
 「そうです。痛いなんて言ってはおれません。身体に入りこんだ弾を取り出すときなんか、兵士は誰も痛さを必死で堪えていました。だから私たち看護に当たった者も、出来るだけ素早く適切な処置をしなければと一生懸命にがんばりました」
 
 こう言って彼は次に一枚の小さい写真を貼った頁を開けた。これは一人の年若い母親がボロ布に包んだ幼児の死体を茣蓙(ござ)の上に横たえ、その傍らにしゃがんでこちらに哀しげな目を向けている写真である。惟芳は先程書いた説明文を読んで聞かせた。

 「満州土民ノ習慣トシテ小児七才ニ満タザレバ死魂ヲ祭ラズ道路ニ放棄シテ鳥獣ノ食トナス醫術ノ発達セザル彼地ニ於テノ小児倒レルモノ多シ 或ル一村ニ於ハ腐敗ニ傾キタル小児数名ヲ見ル コノ面ハ今ヤ死セントスル小児ヲ屋外ニ運ビタル実況ナリ」
 
 惟芳はあまり悲惨な写真ばかり見せてはいけないと思って、今度は樹木が霧氷に被われた写真を見せ、その美しい情景を母に説明した。
 
 「満州特異の景色です、気温が非常に下がると楊柳の細く垂れた枝に氷が附着して、そこに出来た霧氷の霜はまるで日本で櫻の花が樹木一面に咲いたようです」
 
 次に「滞在中ノ娯楽小宴ノ実況」と書いた写真を見せて、 
 「左にいますのが私です、盃を戦友に勧めるところです。二人の間にいて酒を入れた水筒を両手に持っているのは満州人の子供です。この子はよく手伝ってくれました。いまどうしていますかね。」
 「鍋の中身はお豆腐のようじゃね。大きく切ってあるね」
 母は質素だが楽しげな小宴の写真を食い入るように見た。最期に彼は「南岑(なんしん)舎営病院手術室ニ於テ寫ス」と先程書いた写真を母に見せた。

 

 机を前にして自分一人だけを写したものである。坊主頭の顔をほんの僅か左に向け、固く口を結び前方を凝視した姿である。着衣の左腕には赤十字の腕章をつけ、両手を目の前の机に乗せ、机上には大小十本ばかりの薬瓶と軍帽が置かれている。背後の壁には日頃は脱いでいる手術衣が掛けてある。

 

 惟芳は最近目の薄くなった母にもよく分かるだろうと思ってこの写真を選んで見せた。母は息子が一人前になった写真を見ると、
 「よう撮れているね。あんたもお国のお役に立つようになってくれた。亡くなられたお父様に見せてあげたらさぞかしお喜びのことじゃったろうに」と、目をしょぼつかせながら小声で言った。
 「この写真を撮ったのは裏を見たら書いてありますが、明治三十八年八月下旬で、私が二十二歳五ヶ月の時です。」
 こう言って、彼はこの他に「陣中之風呂」、「珍奇ナル負傷兵士」と簡単に説明の言葉を書いた写真なども母に見せた。
 
 三月二十六日、彼は六時二十分に起きた。晴天であった。この日は父の三年祀、祖父の五十年祀にあたるので潔斎し仏壇の清掃を行った。午前九時半より端坊の坊様が来られて仏前での礼拝読経があり、昼食を挟んで午後一時に終った。その後親族知人の来客があり、午後三時より寺参りをして帰った。

 

 こうして惟芳は無事に父並びに祖父の法要を済まし、数日滞在して四月に入ったので廣島へ帰ることにした。馬車及び人力車を予約しようとしたが、応じられないというので止むを得ず徒歩で出発することにして、荷物を御許(おもと)町(まち)の馬車屋に依頼した。惟芳は萩を出て小郡から乗車し、廣島の下宿に着くまでの様子を日記にかなり詳しく書き止めた。 
 
三日水曜 晴 起床五時 就蓐翌午前三時五十分
  午前六時宅ヲ出テ分(わかれ)ヲ告ゲ出発ス 途中明木トンネルニ至リタルモ尚オ荷馬車ノ来ラザル為徒ニ独進シタルトテ其効ナキニ依リセンカタナク萩ニ向テ再ビ帰ル 然ルニ椿町ニテ宿セントスルニ尚オ荷馬車ノ陰モ見ズ 止ムヲ得ズ橋本町ヲ過ギ今ヤ御許町ニ達セントスル中漸ク馬車ニ出逢ウ事ヲ得止ムヲ得ズ同車ト同行ス 途中明木市マデ徒歩ソノ後乗車或ハ徒歩シ ヒバリ山前ノ茶屋ニテ喫食ノ後大田ニ着セシム 
午後四時当地ニテ事情アリタル為約一時間ノ休息ノ上午後五時同地ヲ発シ 約半里ヲ距タル点ニテ一行ノ馬車ニ逢ヒタルニヨリ直チニ荷物ト共ニ之ニ乗ジ幸イニシテ日没迄ニ小郡ニ着スル事ヲ得タリ 依ッテカシベ旅館ニテ夕食ヲ喫シ午後九時二十九分ノ列車ニテ広島ニ向カイ途中無異

 

翌四日午前三時頃広島駅ニ着 一寸茶屋ニ入リ休憩ノ後人力車ヲ飛バシテ向島ナル下宿ニ着シタルハ午前三時四十分ナリキ 其レヨリ直チニ眠リニ就ク 就蓐午前三時五十分

 

 今なら萩を朝の六時に出れば二時間後には廣島に着ける。百年前には十倍の時間を要したことになる。
                    

 

(五)           
 四月六日は土曜である。惟芳は七時に起床し、九時頃より基町の分院並びに陸軍衛戍病院本院に行き帰広を告げ、直ぐ帰宅してその後十時から生理学の研究をした。午後は東照宮まで散歩した。

 

 自転車の練習を試みたりもしたが、あくまでも気分転換の為で、研究と弟の教授に大半の時間を費やした。ところが弟は依然として気合が入っていない。そのために時々訓戒を与え将来について考えさせたりした。また惟芳は弟を連れて友人に相談に行ったりもした。


二十一日 日曜なので午後から自転車の練習をして、漸く数間走れるようになった。

 「わが所謂(いわゆる)乗るは彼等の所謂乗るにあらざるなり、鞍に尻を卸(おろ)さざるなり、ペダルに足を掛けるざるなり、ただ力学の原理に依頼して毫も人工を弄せざるの意なり、人をもよけず馬をも避けず水火をも辞せず驀地(まっしぐら)に前進するの義なり、去る程に其格好たるや恰も疝気持ちが初出に梯子乗を演ずるが如く、吾ながら乗るといふ字を濫用して居らぬかと危ぶむ位なものである、去れども乗るは遂に乗るなり、乗らざるにあらざるなり、兎も角も人間が自転車に附着して居る也、而も一気呵成に附着して居るなり」

 

 これは漱石の『自転車日記』である。額面通りにはとれないが、漱石が乗車を試みた時点から五年ばかり後に、惟芳も初めて自転車の試乗を行った。乗馬訓練したときのことを思うと、馬とは違い、相手の気持を考えなくてすむ自転車乗りは思ったより簡単に出来た。事実彼は後に開業医となったとき、山坂の多い村で患者の家への往診に、当時としては珍しいオートバイを利用したこともある。

 

二十三日 帰宅後生理学の研究を約二時間行い、その後また尚春の教授をした。しかし尚春の勉強ぶりをみるとどうも自覚がない。将来を誡めて奮起を促した。この日明治三十七・八年戦役従軍記章を授与せられた。弟の事だけでも頭が痛いのに友人の四茂野がほろ酔い気分でやって来て約二時間話していった。惟芳は彼に対しても将来を誡める言葉を吐かずにはおれなかった。

 

五月四日 一日付けで昇給の辞令を受けた。昇給は有難い、少しでも多く貯金して将来に備えなければいけない。こうした思いで土曜の夜を迎えた。明くる日は日曜である。朝から雨が降ったので終日物理学のお浚いをした。夜になって尚春を中島に買い物に行かせたところ、就蓐後夜半に至るも尚春が帰宅しない。惟芳は無益の空想を抱いて不眠に陥っていると弟が一時頃帰宅した。やっと安心したが、一時間余寝付かれず漸く安眠することができた。惟芳は思うのであった。
 
  ―弟は両親の遅い子だから親の厳しい躾を受けていない。特に晩年の父は好々爺になられたし、母も口やかましく云われなくなったようだ。それに加えて弟が足を痛めてからは特に不憫に思われたのだろう。そのために弟は‘お鷹ポーポー’になったようだ。俺が側におればなんとか指導できたのに。困ったことだ。
 
 惟芳は弟の尚春が廣島に来てからの言動を見てみるに、しっかりと腰を据えて勉強していないのを心配していたが、今日のように無断で遅くまで帰宅しない事実に直面して、ひどく頭を痛めるのであった。
 
 読者はお鷹ポーポー’という言葉を御存知だろうか。筆者が子供のころ父がよく口にしていた。これは鷹が狩りに向く性格、つまり出来るだけ攻撃的な性格を発揮するようにと、鷹匠が鷹を自由気ままに振る舞わさせ、そのために鷹匠は自分の腕に載せた鷹によって、その腕を嘴や爪で傷つけられるようなことがあっても、敢えて鷹をひどく叱ることをしないそうである。このように飼育された鷹に似て甘やかされた人間を‘お鷹ポーポー’と云っていた。

 

 五月に入ってからは、物理学と化学の学科の授業を受け、帰宅後はそれらについて研究を重ねた。お陰で物理学上巻は全部を終え、化学上巻を再び研究することにした。この他解剖の研究も行った。日曜日には宮島参拝に出かけた。気分転換と合格祈念を兼ねてである。五月二十一日の日記に彼は書き記した。
 
 本日ハ多忙ヲ極メ脳少シ悪シ 夕食後前期受験ニツイテ計画スルモ未ダ遠キコト多キヲ以テ明年春ノ受験ニ決シ合ワセテ明春ノ受験ニハ直チニ及第スル如キ決心ヲ以テ益々努メル事ヲハカル並ビニ将来ニ対スル計画表ヲ作リ実施スベク努メトナス ソノ後諸学科ノ復習ヲナス

 

 手元に一枚の写真がある。「明治四十一年五月に廣島衛戍病院手術室で撮影」と裏に書いてある。寝台に横たわっている患者を囲んで男性の医師が七名と看護婦が九名写っている。全員白衣を着て白い帽子を被っている。鼻髭を蓄えた長身の惟芳が右端に立っている。今から百年前の写真だが、女性は皆ずんぐりとした堅太りで健康そうである。彼女らが下駄を履いているのには驚く。何の手術か分からないが、患者は白布で目隠しされており、看護婦の一人が脈を取っている。こちらを見ている者もいて全体的におっとりとした雰囲気が漂っている。

 

 ここで惟芳とは全く関係のない一人物について逸脱の筆を走らすことにする。その人物とは高村光太郎である。

 

 彼は明治十六年三月十三日に呱々の声を上げた。日露戦争終結した翌年の明治三十九年に彼は渡米し、ニューヨークの安下宿に身を置くと、「餓鬼のやうに勉強した」、「アメリカで私の得たものは、結局日本的倫理観の解放ということであったろう」と後年書いている。惟芳が生まれたのは明治十六年三月十九日、光太郎の誕生に遅れること僅か六日である。惟芳も明治三十九年の日記にみるように猛勉強をしている。

両者が目指すものは異なるが、日露戦争終結の後、志を立て一生懸命に勉強したことは、軌を一にしていて、当時の青年像の一端が窺えて面白い。その後の光太郎の生涯は周知の通りである。一方惟芳は「日本的倫理観」に基き、一村医として、「医は仁術」の一生を送った。いずれもその人その人の運命であろう。
 
 惟芳は日記には相変わらず寸暇を惜しんで研究したことを記載した。

二十二日 本日夜警勤務トシテ夕食後登院ス勤務中化学問答集ヲ研究ス

 

二十五日 勤務多忙 吉田軍医休暇ヨリ帰リ教授ス 午後一時半ヨリ解剖学ヲ授ケラル
帰宅後解剖、物理、化学の研究ヲナス 台北丸ニテ台湾患者二十二名収容

 

二十六日 日曜 終日家ニアリテ化学ノ研究ヲナス

 

二十七日 定時出勤 午後三時ヨリ解剖学ヲ授ケラル 帰宅後解剖学ノ復習 化学ノ研 
 究

 

二十九日 定時出勤 午後三時ヨリ解剖学科ヲ受ケ帰宅後解剖学及ビ化学全部ノ復習ヲナス

 

六月に入った。日記の記載は相変わらず諸学科の研究を主としたものである。

 

三日 出勤前解剖学研究 物理解剖学を午後三時ヨリ始メ六時退庁帰宅後顔面骨学ノ研   
 究

 

四日 定時出勤 午後二時半ヨリ伝染病予防、三時ヨリ化学、植物ノ学科 昨夜ノ睡眠不足ノ結果(?)脳痛アリ身体ヲ考慮シテ市街散歩ヲナス 帰路中島集産所ニ至リ生花ヲ買ヒ帰ル

 

五日 終日雨降ル 定時出勤 日報月報調査ソノ他 午後三時ヨリ物理、解剖ノ学科アリ 帰宅後化学ノ復習及ビ頭骨ニ関スル靱帯及ビ筋肉ノ研究

 

六日 時々少雨アリ 勤務前日ニ同ジ 午前二時ヨリ伝染病ノ学科 三時ヨリ化学学科アリ帰宅後解剖ノ研究 精神益々強固トナルヲ信ズルモ尚一層奮励シ進歩ヲ早ムベシ

 

七日 起床六時 就蓐十一時半
  勤務前日ト大差ナシ 前日ト同ジク益々研究ノ度ヲ増ス

 惟芳は病院で手術の見学、もしくは助手を務めたことについても日記に記した。

 

十月三日 本日ノ命令ニヨリ事務室ヨリ手術室兼包帯交換所附キトナル依ッテ午後ヨリ引キ継ギ為ニ本日化学ノ学科ナリシモ出席セズ 夜ニ入リ器械ノ名称ニ就イテ研究ス

 

四日 本日午後二時ヨリ右鼠谿(そけい)ヘルニア兼左頸腺炎患者並ビニ鎖骨腐骨疽患者ノ手術ア 
 リ

 

十一日 定時出勤 本日痔核、痔瘻ノ手術アリ 

 

十二日 本日手術室ノ勤務ニツイテ大野看護長ヨリ精シキ申送リヲ受ク 外科ニツイテ少シク研究ス

 

十五日 鎖骨銀線抜出及ビ痔核ノ焼灼術アリ

 

十八日 臀部貫通銃創後切開排膿及瘤疽ノ掻爬手術アリ赤十字社看護婦見学ニ来ル

 

二十九日 勤務平日ニ同ジ手術並ビニ外科的療法ニ就イテ院長ヨリ注意ノ件伝達セラル 帰宅後有機化学研究

 


 

(六)

 病院での勤務と帰宅後の研究、その上僅かの暇を得て弟の勉強を見てやることで、惟芳は時間的ゆとりの殆ど無い多忙の日々を送っていた。それでも病院で昼食時のホッと一息つける間に、彼は食堂にある『大阪朝日新聞』に出来るだけ目を通して、社会の情勢に関心を払うことにしていた。

 

 彼は明治四十一年九月一日から新聞に連載され始めた夏目漱石の『三四郎』を読むと、自分がこれまで体験したものとは全く異なる世界で青春を謳歌している若者のいることを知った。一方では国の為に若い命を捧げ、あるいは生死の岩頭に立つという過酷な体験をした数多くの若い兵士をみてきた惟芳には、彼等が送った生活と、『三四郎』に登場する大学生や美しい女性たちの恋愛感情を描いた生活との間には、大きな隔たりがあるように感じられた。

 

 第一次西園寺内閣で文相となった牧野伸顕は、戦後国民的志気が弛緩(しかん)し、それが特に学生層に瀰漫(びまん)しているのを見て、「学生の思想風紀取締に関する訓辞」を出したが、漱石の作中人物たちはこの訓辞に対して全く馬耳東風といった態度であるように思えた。惟芳は文相の訓辞をもっともだと思いながらも、『三四郎』を面白く思って、新聞閲覧を昼食時の楽しみにしていた。

 

 漱石はイギリス留学から帰国後一時大学で教鞭をとったが、間もなく辞職して朝日新聞社に入社し、その後新聞紙上に次々と連載小説を書いて来たことを知った時、惟芳はふと二人の人物を思い出した。一人は四年前に亡くなられた中学校時代の恩師雨谷羔(こう)太郎校長である。校長は東京大学で、先輩であった漱石が一時弓道に凝って「朝夕毎度百本の射を試みた」と噂されていたと話された。もう一人は長崎で同じ下宿にいた吉川先生が、第五高等学校で漱石に英語を教わったと話していたことであった。

 

 そこで惟芳は病院に備え付けの文庫から『草枕』を借りて読んでみた。主人公は惟芳もその名を知っている熊本の鄙びた温泉宿に泊まっている画工である。それに浮世離れした老人や出戻り娘、あるいは寺の和尚と小坊主、こういった俗界を離れた人物を配した漱石の描く世界は、自分とは別世界の話だと思いながらも、こういった桃源郷を、作者の漱石も夢見ているのではなかろうかと思いながら頁を繰った。作品の終わり近くの文章を読んだとき、彼は漱石が確かに弓を引いた経験があるなと思った。

 

 居眠りをしていた老人は、舷から、肘を落して、ほいと眼をさます。
 「まだ着かんかな」
  胸膈を前へ出して、右の肘を後ろへ張って、左手を真直に伸して、ううんと欠伸をする序に、弓を引く真似をして見せる。女はホホホと笑う。
 「どうもこれが癖で、・・・・」
 「弓が御好と見えますね」と余も笑いながら尋ねる。
 「若いうちは七分五厘まで引きました。押しは存外今でも慥かです」と左の肩を叩いて見せる。
 
 惟芳はこれを読んだ時、既に十年近く前になるが、萩中学校に入学し弓道部に入り、先輩たちの射、特に粟屋先生の見事な射を初めて見たときの感激を思い起こした。
 
 惟芳にとって充実した日々が続いた。衛戍病院で勤務する一方、学校での授業、帰宅後の研究で時間はいくらあっても足りないように思えた。こうした勉強の成果が実って明治四十一年春に行われた第一回前期試験に合格した。第二回後期試験は明治四十三年三月に行われると発表された。歳月はこうして足早に過ぎて行った。しかし惟芳には緊張の毎日であった。
 
 明治四十二年も終わり近くの十月二十六日に、伊藤博文ハルビンの駅頭で朝鮮人安重根に射殺されたというニュースは衝撃的な事件であった。しかし惟芳にとって忘れることの出来ないほどのショックを受けたのは、さらにその翌年の明治四十三年四月二十一日、病院で休憩時間に新聞を手にしたときの事である。

 

 それは潜水艦の事故と佐久間艇長の遺書を載せた新聞記事である。彼の両眼は紙面に釘付けにされ、彼は手に持った新聞を思わず固く握りしめ、息が止まった。腹の底から熱いものがこみ上げるように感じ、遂に感極まって唇を噛みしめた。それは艇長以下十四名の死を悲しむのではなく、その最期があまりにも立派であったからである。彼等の死は、武人として「斯(か)くあるべき」、と惟芳が常日頃思っていたような最期であった。惟芳は日露戦争に従軍するに当たり、今は亡き父が言った言葉を思い出した。
 「武家の血を引く者として、矜持と克己の精神だけは忘れるなよ」

 

 ―あのような呼吸困難の中にあって、かくも沈着冷静に事を処理し、しかも自分の事は顧みず、ただ部下の事のみを思いやり、さらに遺族への気配りができるとは武人の鑑だ。佐久間艇長は常日頃から平常心を心掛けておられたのだろう。實に立派な方だ。
 
 惟芳は感銘を受け再度遺書に眼を通した。そしてこの簡潔な文章は心情を吐露した名文だと感心した。

 

  小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨク職ヲ守リ沈着に事ヲ処セリ・・・・
  謹ンデ陛下ニ白(もう)ス 
   我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ
  我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミナリ ・・・
  十二時三十分 呼吸非常ニ苦シイ  
 
 新聞を手にとってしばらく瞑目していると、午後の勤務始めを告げるベルが鳴った。惟芳は我に返ると、また日頃の多忙な現実世界に戻っていった。

年月の経過と共に惟芳は等級も上がり、また精励賞として金銭も賜与された。授与書を年代順に記すと以下の通りである。

 

明治四十年十二月一日    給二等給

 

明治四十年十二月二十三日  精励ノ賞トシテ金捨六圓参捨錢を賜與ス

 

明治四十一年六月十五日   給一等給

 

明治四十一年十一月五日   任陸軍一等看護長

 

明治四十一年十二月十五日  精勤ノ賞トシテ金拾九圓八拾錢ヲ賜與ス

 

明治四十二年十二月二十日  精勤ノ賞トシテ金貳拾壹圓ヲ賜與ス

 

明治四十四年二月二十八日  給二等給

 

明治四十四年三月三十一日  精勤ノ賞トシテ金貳拾八圓貳拾錢ヲ賜與ス

 

明治四十五年三月三十日   精勤ノ賞トシテ金拾圓参拾貳錢ヲ賜與ス

 

 『日本醫籍録』という分厚い本がある。その中の「山口県阿武郡」の項を見ると次のような記載がある。

 

 緒方惟芳 宇田郷村
 内科医 緒方医院 明治十六年三月十九日生 
 明治四十四年試験及第第「登」二九三八七号爾来廣島市難波病院ニ内外科中西病院ニ産婦人科擔任大正元年十二月現地開業日露戦役従軍叙勲六等 鉄道省嘱託醫宇田郷村縣嘱託 學校醫 趣味圍碁讀書書畫

 

 この医事時論社出版の『日本醫籍録』(昭和四年第四版発行)によれば、惟芳は明治四十四年に試験に及第して、医師としての資格を得ている。大正末年現在で、山口県内の医師会員数は779名である。しかしプライバシイの問題で調査員の質問に正しく応答したかどうかは疑わしい。従って必ずしも正確な数値とは言えないが、上記779名の内で大学や専門学校を卒業しないで医師免許を取得している者は138名。試験及第者と記載されているのは豊浦郡を除けば、下関市1名、熊毛郡3名、それに阿武郡で開業していた惟芳を加えて僅かに5名である。なお名前から推察して女医は県内で7名を数えるのみ。

 

 惟芳は上記の通り明治四十四年開業試験に及第した後、陸軍病院では習得出来なかった産婦人科の治療法を廣島市内の中西病院産婦人科で学んだ。そして大正元年阿武郡宇田郷村で開業したのである。廣島陸軍病院に勤務しながら前期、後期と受験して合格したのは三十数名中、惟芳ただ一人であった。
  
 参考までに医師になる資格は、明治三十九年五月に公布された『医師法』を見ると、次のように書いてある。

 

 ①帝国大学医科大学医学科または官立、公立、もしくは文部大臣の指定した私立医学専門学校医学科を卒業した者。 ②医師試験に合格した者。 ③外国医学校を卒業し、または外国において医師免許を得た者で命令の規定に該当する者。
 また、惟芳が受験したときの試験問題は次の通りである。

明治四十一年第一回前期試験問題
 〔化学〕①「クローム〕ノ記号、所在及「重クロームカリウム」の性状、応用
     ②「マンニット」ノ所在、性状及其化学的構造上糖類ト異ナル点
 〔物理学〕①熱と光トハ如何ナル性質ニ於テ相類スルヤ
      ②「ダイヤモンド」ノ夜光石ナル名称ヲ得タルハ其理如何
 〔解剖学〕①神経繊維ノ構造如何
      ②胡蝶骨ノ聯接及交通孔ハ如何
      ③膝  及其 中を経過スル血管及神経ヲ記載セヨ
 〔生理学〕①迷走神経ノ胃及心ニ及ボス作用如何
      ②呼吸ノ血圧及脈搏ニ及ボス作用
      ③消化液ノ種類及其作用如何

 

明治四十三年第二回後期試験問題
  ①骨接ノ種類並ニ症候
  ②甲状腺腫ノ種類、徴候及療法
  ③腸管創傷ノ症候及療法
  ④主要ナル皮膚刺激剤ノ名称、生理的作用及医治効用
  ⑤「サリチール酸」及其誘導体ノ名称、生理的作用、医治効用、用量及一二ノ処方
  ⑥脾臓ノ腫大ヲ起スヘキ疾患ノ名称及其交互の鑑別
  ⑦延髄球麻痺ノ症候及之ヲ来スヘキ疾病ヲ挙ケヨ
  ⑧肥大性肝臓硬化ノ原因、症候及鑑別ヲ挙ケヨ
  ⑨炎性緑内障ノ症候及療法
  ⑩涙嚢炎ノ症候及療法
  ⑪婦人骨盤ノ内外計測法及其距離
  ⑫妊娠中及後産期ニ於ケル出血ノ原因
  ⑬気温ノ衛生上ニ及ホス影響
  ⑭百斯篤(注ペスト)ニ対スル細菌学的検査法

 

杏林の坂道 第九章「村医者となる」

(一)

 明治四十四年の暑い夏も終わり、せわしく鳴いていた蝉の聲もいつしか弱まり、日中暑熱に耐えていた庭木も秋風に生気を取り戻してさやかに揺れていた。
 

 惟芳は下宿の五右衛門風呂に身を沈め、時の早い移ろいを感じながら、独り閑かに思いに耽るのであった。

 

 ―稔りの秋、収穫の季節も長くは続かない。そのうち秋も深まるだろう。ぐずぐずしてはおれん。開業に向けて拍車をかけねばいけない。学歴のない者には最難関と言われていた医師開業試験に無事合格できた。これで肩の荷をひとまず下ろすことができた。しかし今後医者としての第一歩を踏み出す前に、もう少し研鑽を積みたい。一方一日も早く実地で働きたいという気持ちもある。母にはまだ苦労を掛けることになるが許してもらおう。あれこれ考えると今一つ気持ちが落ち着かないな。

 

 こうした錯綜した感情を抱いていたある日のこと、廣島予備陸軍病院の惟芳のもとに未知の人物が刺を通じてきた。この人物は山口県阿武郡宇田郷村の村長で中山脩三と名乗った。しかし惟芳にとっては全く見ず知らずの間柄であった。村長は惟芳が前年に医師開業試験に合格したのを官報で知ると直ぐに、阿武郡医師会に先ず手を打って内諾を得た上で、遠路廣島まで来たのである。
 「緒方先生、この度は開業試験に及第されおめでとう御座います。早速ですがたってのお願いに参りました。実は先生に是非ともわが宇田郷村に来て頂いて、私共を助けて頂きとう御座います。私の村には今開業医はおられるにはおられますが、何しろご高齢で七十歳を過ぎでおいでです。従いまして往診はもとより急患への対応もご無理です。お若いときには郡の医師会長もされたようですが、人間誰しも歳には勝てませんね。
私も還暦を過ぎました。村長の職をぼつぼつ代わってもらいたいと思っているところです。やあ、これは話が逸れてすみません。まあ、こんな訳で今は私の村は無医村に近い状態でありまして大変困っております。」

 村長はこう云って話を切り出すと、言葉を続けた。

 「この度萩町御出身の先生が開業試験に見事及第されたことを聞き及びまして、好機逸すべからずと考え、早速阿武郡医師会へもお願いして、ここにまかり越した次第で御座います。村民挙げてのお願いで御座います。どうか私どもの苦衷をお察し頂いて、村医をお引き受けくださいますよう心からお願いいたします」
 
 中山村長は村(そん)夫子(ぷうし)然(ぜん)とした、温厚篤実な風格のある人物に見えた。落ち着いた風姿で、眼鏡の奥の両眼には人を射すくめるような鋭い輝きと同時に優しさが見えた。また胸元にまで達する美髯(びぜん)は見事と言う他はない。惟芳は一目見てこれは一(ひと)廉(かど)の人物だと思った。後で知ったのだが、中山氏は寒村である宇田郷の村長になる前、厚狭郡、豊浦郡の各郡長、さらに三田尻町長などの要職を歴任していた。そろそろ隠居でもと思っていた時、名ばかりでもと請われて故郷の村長に就任したのである。実務は助役が執っていた。
 
 中国南宋陸游(りくゆう)(1125~1209)の詩に、

 「果たして能く善人と称せらるれば、便(すなわ)ち郷里に老ゆ可し」とある。

中山脩三氏のあとを發郎氏、更に修氏と中山家親子三代が郷里の町・村長を勤めた。 「郷里に老いた」善人と言えよう。

 中山村長は熱意をこめて村医受諾を惟芳に迫った。惟芳はこの降って湧いたような話に一瞬とまどったが、少し考えた後ゆっくりと次のように応対した。
 「先程から中山様は私のことを『先生、先生』と仰有いますが、私は医師の資格は取ったもののまだ開業していませんので、『先生』と言われますのは心苦しく存じます。ましてや村長であられます中山様は私より遙かに先輩で御座います。どうか『先生』と言った呼称は私が医者になった後ならいざ知らず、今は『緒方』とだけ言って頂きとう御座います。」

 惟芳は先ずこう言った後で、条件次第では受諾しても良いと思ったので話を聞くことにした。村長が示した条件は、最低五年間村の医療に携わって欲しい、また村には産婦人科専門の医者はもとより産婆もいないので、出来たら惟芳に産婦人科医としての資格を取得して来てもらいたいということであった。
 

 惟芳は村長の申し出は別に無理な事ではないので、後は萩でこれまで長い間自分の帰りを待ってくれている老いたる母を説得し、母にもう少し辛抱してもらいさえしたら、話に乗ってもよかろうと思った。そこで即答を避けて、近日中にご返事致しますと言って、村長に深々と辞儀をして別れた。
 

 村長は別れ際に、「村の従来の開業医は西洋の医療ではなくて漢方の医療を主に施しておられます。緒方先生は西洋医学を学ばれ、難関と言われる開業試験を突破されたので、私ども村人には本当に願ってもないお方です」と、何だか人を持ちあげるように聞こえる言葉を口にしたので、惟芳はちょっと気を殺(そ)がれるようにも思った。しかし村長の真剣な眼差しと、切実な訴えに彼は心を打たれた。年齢の差はあったが村長と惟芳にはお互い志を同じくするものがあった。惟芳は村長と別れた後、独り静かに考えて次のような結論に達した。
 
 ―よし、これも天の定めかもしれん。好機逸すべからずだ。こうなるともうあまり時間はない。陸軍病院でもっと研鑽を積もう、そして市内の開業医の所で産婦人科について学ぶ必要がある。そうしたら村長の要望に応える事も出来よう。宇田郷村へ行けば萩での開業は先延ばしになるが、母には分かってもらおう。長年淋しい思いをさせて申し訳ないが、これがいまのおれには取るべき最善の道だろう。  

 

 こうして彼は母へ自分の意志を伝え、村長に嘱託医受諾の意向を手紙で通知した。
これは惟芳の生涯における大きなエポックメイキングな出来事であった。時あたかも明治天皇崩御により、年号は明治から大正へと代わったのである。明治天皇崩御は明治の御代に生まれ育った者たちに大きな衝撃を与え、後世の者には想像しがたい雰囲気を国中に醸し出した。現に、天皇の大葬の日に決行された乃木大将夫妻の自刃は、鴎外をして『興津弥五右衛門の遺書』を書かせたし、漱石は『心』の中の先生に、次のように述懐させている。

 「すると夏の暑い盛りに明治天皇崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残ってゐるのは畢竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました」

 

 惟芳はこの先生のように、「生き残るのは時勢遅れ」とは考えはしなかった。しかし時勢が大きく変わるのは間違いないような気がした。これから先、時代の波がどのように流れ渦巻いても、自分は自ら選んだ医者としての道を歩まなければならないと思った。
 また乃木大将自刃の報に接し、この我が長州の尊敬すべき偉大な将軍や、戦死した数多くの戦友に思いを致したとき、この先医療に専念することが、自分に託された唯一の道であり、この道を進むのは自分の責務だと改めて強く感じた。
 
 今私の手許に、大正元年九月十八日(水曜日)発刊の『大阪朝日新聞付録』がある。惟芳が購読していて遺したものである。色あせて手荒に扱えばすぐ裂けそうな一枚の古新聞である。乃木将軍の敵味方を問わぬ人間味溢れた逸話が掲載されているので、少し長いが引用してみよう。なお、当時の新聞には、全ての漢字にふりがなが付けてあるが煩(はん)を避けて大半を省略する。

 

 又除幕式當日夜會の席上には、露國側の参列員中、現に松樹山(しょうじゅざん)に楯(たて)籠(こも)って中村将軍の組織せる白襷隊の斬り込みを受けて負傷したものや、黄金山の砲臺で負傷したものや、其の他種々の戦歴を有せる人が居た、中にも砲兵大尉のヴァーネーフといへる人は、東鶏冠山(ひがしけいくわんざん)北砲臺で、一部隊の指揮に當り、健闘力戦、四十有餘の重軽傷をうけ、遂に人事不省の儘松山俘虜収容所に送られた武人であるが、此の事を聞かれたる大将はトンと床踏み鳴らして立ち上がり、左(さ)る勇士の此の席上に在らんとは知らざりしとて、つかつかと大尉の前に進み寄り、其の両手を堅く握りて振り動かし、遂に互いに相抱合して暫しが程は離しもやらず今は大将も感迫り胸塞(ふさが)りて見えたる後、いと荘重な口調にて、『凡そ敵として最も恐るべき人は、味方としてまた最も頼むべき人なり』と許(ばか)り満々たる三(しゃん)鞭(ぺん)をぐッと一息に飲み干しながら、日本流は斯(か)くすとて、手づから盃を大尉に與へられた、大尉の感激は言うまでもなし、この光景を見てゲルングロス将軍や、チチヤコフ将軍の如きは、感嘆措(お)かず『此神の如き老人は果して幾歳の壽を保つべきや』と叫び出たのであった。 
 
 「凡将乃木」と言う者がいるかもしれない、しかし惟芳にとって、乃木将軍は郷土の大先輩であった。彼は人格者乃木希典の死を心から悼(いた)んだ。
 
 明治四十五年七月三十日から大正元年となった。先に述べたように、前年十月に宇田郷村の中山村長の切なる頼みを聞き入れた惟芳は即座に行動に出た。まず上官にそのいきさつを上申し、病院勤務を続ける傍ら廣島市内の中西産婦人科医院で研修をすることの許可を得た。彼はこれより前、開業に備えて既に廣島市内の難波病院で内科と外科の実地の研修を二年前から行っていた。今や彼には何時でも医師としての一歩を踏み出す自信はあり、医師になったばかりの者がとかく抱く不安はそれほど感じてはいなかった。
 
 大正元年十一月一日には陸軍病院から技倆証明書を附与され、同月三十日に現役満期となり、さらに十二月一日に後備役編入となった。かくして彼は陸軍病院を退職することとなった。

 思えば明治三十六年十二月十五日に兵役に服し、明治三十九年十一月三十日まで三カ年、さらに三十九年十二月一日から大正元年十一月三十日までの六年間の再服役を合わすと、九年間軍務に服したことになる。

 帰省すると阿武郡医師会への挨拶から始まって、開業への諸準備、とりわけ看護婦の確保は必要な事であるので医師会にお願いし、年若い看護婦を一人斡旋してもらった。こうしてあっという間に大正元年は足早に過ぎ去ろうとしていた。
 
 惟芳は村人の願いを一日でも早く叶えなければと思ったので、年明けを待たずに出発する決意をした。年の瀬も迫ったある日、朝早く起きるとまず神仏を拝み、朝食を済ますと、前夜準備を整えていた荷物を傍らに置き、母に別れを告げた。
 「母上、宇田郷村はここからそう遠くではありませんが、医者という立場上、患者が診てくれと頼みに来たら何時でも対応しなければいけません。それは昼夜を問わないと私は思います。そのような訳でなかなか暇が取れませんので、好きなときにおいそれとは帰れないと思います。しかし約束の五年後には必ず帰って参ります。どうかそれまでお体にはくれぐれもお気を付け下さい。しかし私の方へは何時でもお出かけ下さっても構いません。暮れも間近になり寒さも増してきます。どうかご無理をなさらないように。それでは行って参ります。」 

 

 その日は山陰特有のどんよりした冬空が珍しく晴れた穏やかな日であった。彼は気持ちも晴れやかに一台の馬車に身を託し、改修されたばかりの日本海沿いの県道を宇田郷村へと目指したのである。まさかこの先、生まれ育った我が家での生活ができなくなろうとは、その時の惟芳は夢にも思はなかった。宇田郷と萩は距離にして僅か五里(約二十四キロ)、このように目と鼻の先にありながら、彼は生涯この宇田郷村という僻陬(へきすう)の地を離れることなく、遂にこの地で生涯を閉じることになった。ひとえに運命と言う他はない。

 

 

(二)

 惟芳は萩中学校で、国漢の安藤紀一先生が、『松下村塾記』の中の言葉を黒板に書いて、学生たちの志気を高められた事をふと思い出した。
 
 「長門は僻(へき)して西陬(せいすう)に在りと雖も、其の天下を奮発して、四夷を震動するも、亦未だ量(はか)るべからざるのみ」
 
 城のある萩を中心とした長門を松陰は「僻して西陬に在り」と言ったが、今惟芳が足を踏み入れた宇田郷村は、大正元年には戸数四〇六、現住人口二二二一人、一戸当たりの現住人口は五、四七人の半農半漁の小さな村であった。彼が村医として赴任したときはやっと県道の改修が済んだばかりで、鉄道が全線開通したのはずっと先の話である。

 我が国に鉄道運輸が開始されたのは、明治五年東京新橋と横浜間であることは周知の事である。それが西に延びて廣島へは明治二十七年、徳山(現在の周南市)へは三十年、そして馬関(下関)へ到達したのが三十四年であった。この鉄道を利用して惟芳が生まれて初めて長崎を訪れたことは既に述べた。こうして全国に鉄道網が敷き詰められていったのであるが、山陰線が全線開通したのは昭和八年二月二十四日、実に鉄道開始の日から六十年が経過し、山陽線が全通してからでも三十年後の事である。

 県道が改修されるまでは、宇田郷の村人たちは隣村の木与村、さらにその先の奈古町へは海際の崖っぷちの危険な道を辿るか、急峻の丘を越えるかしなければならなかった。他方反対側の須佐町へは、これまた大刈峠という難所を越えるか、海に突き出た岩山を、先人たちが命を賭けて削り作ったであろう小道を辿りながら、迂回して行かなければ達せなかった。現在、宇田郷を挟んで木与と須佐とは距離にして約十五キロしかないが、この間に大小の鉄道のトンネルが九つもある。この中でも須佐・宇田郷間の鉄道工事は最大の難工事であった。

 「この区間は延長二二一五メートルの大刈トンネルと惣郷下の白須川河口の鉄橋があるため工期は昭和二年十二月二十一日から五年二月二十一日まで二年余を有し、工費は一一五万円を要した」と『阿武郡史』に記してある。

 惟芳が村医として赴任した丁度その頃、海岸に沿って人や馬車が通る県道だけが改修を終えていたのである。
 

 これをもう少し具体的に見てみると、萩から大井を経て奈古の間の県道改修は明治三十四年から三十六年に、さらに奈古から木与までは明治三十九年から四十年の間に改修を終えていた。一方島根県境から須佐までの道路改修も明治三十四年から三十五年の間に完了した。残るは木与から須佐まで里数にして約四里の区間が明治四十年までは未改修であった。この間の工事がいかに難事であったかは、この県道と平行して海岸沿いに敷かれた鉄道を通すのに、九つのトンネルを掘らなければならなかったことで想像がつく。
 

 要するにこの木与村と須佐町の間に位置する宇田郷村の人びとにとって、それまで往来(いきき)に如何に難儀をしたかという事は容易に頷ける。惟芳はこのような僻陬(へきすう)の地に単身赴任したのである。
 

 開業以来、彼は山坂の小道を上り下りして毎日往診した。満州の曠野をある時は雨に打たれ、またある時は降雪を冒して幾日も行軍を続けた苦渋に満ちた体験と、多くの戦友の死の犠牲のもとに今の自分があるという自覚は、これしきの山道何するものぞという気持ちを抱かせるのであった。
 

 彼は午前中診療所で患者の診察治療にあたり、午後は聴診器や注射器など必要な医療器具を入れた黒い皮鞄を提げて患者の家を一軒一軒歩いて廻っていた。しかし何分にも患家はここに一軒あそこに一軒と散在しており、そこまでの往来にあまりに時間がかかる非能率さを考えて、彼は思いきって当時としては非常に高価な自転車を購入し、坂道に差しかかるまでの平坦な道を、この自転車に乗って行くことにした。しかし自転車を利用できる距離並びに時間は徒歩を強いられる距離や時間に比べたら僅かであった。
 
 ここで宇田郷村の部落の概要を述べてみよう。診療所のある所は元浦(もとうら)といい、川幅十間ばかりの宇田川に架かる橋を挟んで、西隣の部落は今(いま)浦(うら)という。この両部落に比較的人家が集まっており、宇田郷村のいわば中心部である。そこから海岸伝いに平坦な道を西へ三キロばかり行ったところに田部(たぶ)という部落がある。田部への途中から山間部に入ったところに井部(いぶ)田(た)という小部落がある。今浦から川を遡った所に葛(つづ)籠(ら)という部落がある。文字通り葛籠道を辿らなければ行けない。また元浦から山間部に入って行くと郷(ごう)、さらに山奥に平原(ひらばら)という辺鄙な部落がある。診療所から海岸に沿って反対の東の方へ一キロばかり行くと畑(はた)、その先一キロばかりの所に尾(お)無(なし)、さらに進むと下惣(そう)郷(ごう)、上惣郷という部落があり、その先に名振(なぶり)、そして大刈トンネルで有名な大刈(おおがり)という部落が坂の上に位置している。

 宇田郷村の部落は以上数にしたら僅かだが、それぞれが離れて点在しており、大部分山坂を上り下りしなければいけない所に位置しているので、惟芳としては折角の自転車も十分には利用できず、徒歩での往診を余儀なくされる毎日であった。
 

 ここで一言付加しておく。こうした山坂の道を辿る以上に難渋したのは、冬季遠くシベリヤ方面から吹き寄せる猛烈な寒波である。山陰の冬は日本海の遙か彼方、シベリヤから来る。現在は地球温暖化に伴い冬の寒さは昔ほどではない。
このような訳で冬の嵐の日など、海岸沿いの道を田部の部落へと西に向かって進めば、右側の海から、他方大刈の部落へと東に進めば、今度は左側から、それこそ目も開けられず、自転車では到底進めない程に寒風が容赦なく吹き付けたのである。特に吹雪の闇夜の往診は想像を絶する厳しいものがあった。こうした状況の下にあって、惟芳は一年三百六十五日休むことなく往診を続けた。それは結局昭和二十年終戦の年、患者を診察していて脳卒中で倒れるまで三十五年の長きにわたった。
 
 さて、惟芳は医師として生活する目途がついたので、生涯の伴侶を得たいと思った。たまたま中山村長から妻帯の話が出たので、彼は信頼しまた尊敬する村長にこれを一任した。
 

 これまでの惟芳の履歴をみれば女性の存在は無きに等しい。「男女七歳ニシテ席ヲ同ジウセズ」という儒教の教え、この明治の教育方針が当時の日本人には一貫して流れていた。彼の場合も、小学校から中学校、さらに三菱長崎造船所においては勿論、軍隊に入ってももこの精神に変わりはない。ただ看護兵として勤務したときの看護婦たちの存在は、女性として当然考慮すべきものではあったが、当時の軍医と看護婦との間には今日とはかなり違った意識の差がみられた。確かに看護婦たちの助力なくしては軍医の仕事は成り立たないが、あくまで主従の関係に近いものであった。
 

 彼は帰還後間もなく、長崎の下宿で親しくしていた吉川先生に手紙を書いた。その時先生の妹の心のこもった「千人針」のお陰で無事故国の土を踏むことが出来たということも書き添えた。この手紙に対する返事で、先生は、「この度妹を同僚の教師の所に嫁がせ、その後自分も結婚した」と書いて寄こした。惟芳としてはたった一度の事ではあるが、吉川先生の妹の悠子が彼の下宿に兄を訪ねて来たとき、彼女を始めて女性として意識した。これが彼の結婚前の人生途上における唯一の女性であったと言っても過言ではない。
 

 帰国後の廣島陸軍病院での勤務においては、多くの看護婦に接したが、勤務中はともかく勤務を離れたら、「女よりはむしろ酒」と言った感じで、下宿での勉強に倦んだときには、仲間と酒を飲んで時々息抜きをしていたに過ぎなかった。しかし今や、惟芳は医師として働くことにより妻を娶って一家を支えていく自信を持つことができた。また年齢から言っても二十九歳になったのだから、結婚をぼつぼつ考えてもよいと思った。彼の母親のマサも彼が宇田郷村に向かう前の晩に結婚を考えてみたらどうかと言った。惟芳は医者の仕事に関心を持ってくれる女性が望ましいと思っていた。

  惟芳は大正二年一月十九日に結婚した。彼は丁度三十歳になっていた。相手は、奈古町で代々漢方をもって医業としていた小田家の長女であった。明治になって漢方ははやらず、戸主たる彼女の父はやむを得ず稼業を止めて、寺子屋で子供たちに読み書きを教えていたが、生活は苦しかったようである。惟芳は小田家の窮状を知った上でこの結婚を受諾した。彼女は名を小田シゲといい、明治二十七年生まれで十九歳であった。彼女には二人の妹とその下に弟が一人いた。すぐ下の妹も後に萩市の医師である綿貫秀雄の許に嫁いだが、跡取りの弟が若くして死んだので、第三女が養子をもらって小田家を継ぐことになったのは後日の事である。

 

 

(三)

 話を少し前に戻そう。惟芳が宇田郷村に村医として着任したとき、一軒の独立家屋を住居として貸し与えられた。それは築後そんなに年月も経っていない、小さな庭付きのこざっぱりとした家であった。彼はこの家が気に入った。早速一番大きな一室を診察室に使うために板張りの床にした。残り三部屋は畳敷きである。手狭な平屋であるが独り者にとってはさし当たり十分だと考えた。看護婦は近くの民家に下宿させて通ってもらうことにした。惟芳の三度の食事は、診療所の真向かいにある梅六という鮮魚を扱う店の女房が面倒を見てくれるということで安心した。そこの主人は惟芳と同い年の明治十六年生まれであるが、惟芳の方が二ヶ月ばかり年上であった。梅田六七が正式の名であるが、近所の者はもとより多くの村人たちも彼とその店を「梅六」と呼んでいた。
 
 梅六は小柄ではあるがそれこそ「一心太助」のような、気っぷのいい元気で気さくな働き者であった。惟芳とは初めからよく気が合い、「先生に食べてもらわんにゃ」と言って、毎晩の酒の肴には彼が捕った魚をこれだけは自分で刺身にこしらえて家内に届けさすのであった。

 彼は丁年で徴兵検査を受けたとき、「甲種合格」の基準である身長が五尺(一五二㎝)に達していないので軍隊に入ることができなかった。日露戦争当時、「甲種合格」者のみが軍隊に採用された。しかし梅六は背が低くても若いときから海で鍛えた身体には自信があり、小さいながらも肝っ玉は太く、その上才覚にも恵まれていた。徴兵検査に落ちたとき、同じように検査にはねられた村の若い衆を誘って次のような破天荒の計画を打ち出した。
 「おれは背が低いばっかりに軍隊に入ってお国のために役立つことができない。残念でならない。お前たちも同じ気持ちだろう。しかし兵隊にならずとも國のためにできる仕事はある。毎日漁に出るだけが能じゃない。ここで一つ思いきった事をしてみようではないか。聞くところによると、朝鮮や満州では内地の物資、なかでも味噌・醤油とか梅干しといった日常なくてはならぬ食品が一番望まれているし高値で売れているそうだ。そこで相談だが、手漕ぎの船に乗って行って一儲けしてみようじゃないか。二人一組の四人が一緒に船に乗り、凪を見計らって夜昼ぶっ通して交代で漕いで朝鮮を目指したらどうだろう。行き帰りに数日かかるだろうがな。なーにいざというときにゃ死ぬ覚悟でやりゃできんこたーない。」
 こういった今から考えると無謀とも思える計画を二十歳代前半に実施した痛快な男である。彼とその仲間たちは現代の南朝鮮の釜山まで漕いでいって商売をしたのである。

 

 惟芳は県嘱託医として着任以来目が回るような忙しさで、ゆっくり海を眺める暇も無いほどだった。今日は幸い春分の日、村人たちは墓参りに行くので、診察を頼む者は少なかろうと思い、いつもより早く起きると外へ出た。朝食にはまだたっぷり時間がある。漁師たちも平日なら朝早くから漁に出かけるが、この日は漁も休みなのか人気(ひとけ)は全くない。そう思っていたとき梅六が声を掛けた。
 「やあ、先生お早う御座います。朝早くからどちらへお出かけですか?」
 「お早う。いや別に何処へ行こうとも思ってはいない。今日は春分の日だから患者は少ないだろうし、来てもそう早くからではないだろうから、浩然の気を養うために、海でも見ようかと思っているだけだ」 
 「そうですか。お供をすればいいのですが、朝飯の前に私一人で墓参りをしようと思って出かける所です。おお、今思い出しました、昨日家内がお墓へ行ったとき咲いていたと行って取ってきました梅が一枝あります。丁度今が見頃です。」
 こう言って梅六は出てきた店の戸を開けてまた中に入り、数輪の白い花が細く伸びた青い枝に咲いているのを持って現れた。
 「先生、診療所の戸口に置いておきますから」
 梅六は、こう言い残すと去っていった。惟芳は梅と聞いて、我が家の庭にある梅の古木を思い出し、今は亡き父がこよなく此の梅を愛でていたことを懐かしく思った。
 
 惟芳は海の方へと歩を進めた。流石に鶏は朝が早い。近くの漁師の家の軒下にでも多分飼われているのだろう。雄鶏の「コケコーコー」という威勢の良い鳴き声が朝の静寂(しじま)を裂くように聞こえてきた。
 

 この診療所の横を海岸沿いに街道が走っている。県道とは名ばかりで、改修はされたものの、幅二間足らずの粗末な舗装の道で、質素な漁師の家々や、それよりは多少ましな民家が道の両側に肩寄せ合った状態で並んでいる。一方この街道と十字に交わる道が診療所の前にも走っている。この道のほうが古くからある道である。改修工事で海岸沿いに隧道ができる前は、海にまで延びた岩山を迂回しながらこの道を通って須佐へ行かなければならなかった。かって松陰が『北浦廻(きたうらかい)浦(ほ)』の巡検をしたときは、萩から須佐までは船を利用してこの難所を避けている。
 
 その難所と言うのは診療所前の道の背後にそそり立った岩山である。山と言っては大袈裟で、海岸まで突き出た低い丘と言った方がよい。今回の県道改修でこれを掘削して隧道が出来たので非常に便利になった。松陰の時代にはまだこのトンネルはなかった。この丘を左手に見ながら診療所の前の道を進むと、村役場や小学校、さらに八幡宮の鎮守の森があり、その先は平原(ひらばら)という山間の部落へと通じている。

 山間部と反対方向の海への道は海岸沿いに並ぶ二軒の家の間を通っており、道幅が一間あるなしで非常に狭くて薄暗い通路である。彼はこの狭い道を通り抜けた時、暗所から明るく開けた所に出たような気がした。直ぐ目の前に、小さな港と数隻の漁船が見えた。子供の頃から見慣れていた萩の菊ヶ浜の景色とは違った風景である。
 
 街道に平行して小道が海の直ぐ傍にもう一本通じていた。この小道に沿って並ぶのは主として漁師の小屋で、そこには漁網や櫂(かい)、碇(いかり)、生け(いけ)簀(す)用の大きな竹籠など漁具が置かれていた。さきほどの鶏もこうした小屋の軒下に飼ってあり、惟芳がそばを通るとかさこそと囲いの中を逃げまどうようにした。
この小道は緩やかに左にカーブして半円を描き、小さな港を抱きかかえるようになっている。小道が尽きた所にやや平坦な地所があってそこに古さびた粗末な木造の社(やしろ)と御影石の低い鳥居が建っており、社の周囲に黒松が数本生えているのが見えた。またこの鳥居のすぐ下から海に向かって御影石の石段が数段あり、それが海中に達しているのも目に入った。
 

 港内には手漕ぎの漁船が数隻、太い綱に繋がれていて、寄せては返す波に揺れて静かに海面に漂っていた。惟芳は久しぶりに潮の香を鼻腔に感じた。
 
 彼は下駄を脱いで社の鳥居の傍に置くと、裸足で社のまえの防波堤の上を歩いて突端(とったん)まで行ってみた。そこから沖合を見たとき、また景色が一変したように思った。小さいながらも防波堤に遮(さえぎ)られている港内は比較的波静かであったが、防波堤の外側では沖合から低く白波が次々と寄せて来るのが見えた。彼が裸足で立っていた石は比較的大きな石で、そこから数十間ばかり離れたところの岩礁に白波が打ち当たると、飛沫が上がるのがよく見えた。沖から吹く風が心地よく顔面を撫でた。海上遠くに目を移すと、円味を帯びた三角形の島が見えた。島の中程から上の方には青々とした松が、岩だけで成り立っているような島にしてはよく繁茂しており、島を美しく彩っていた。

 松が生えて美しいこの島の左側後方、三キロは離れていると思えるが、沖合に梯形の平たい島が浮かんでいた。後で教えてもらったのだが、三角形の島は姫島、梯形の島は宇田島と呼ばれていた。宇田島と呼ばれるようになったのには、いきさつがある。

 

 まだこの島の所属がはっきりしないとき、宇田郷村とその隣村の木与との村境から、双方同数の若者が二艘の手漕ぎの舟に分乗し、この島まで競漕し早く島に着いた方が島の所有権をうるということで合意し、結局宇田郷村が勝ったので、この島が宇田島と呼ばれるようになった、と梅六がいつぞや得意げに話したのを思いだした。そのとき惟芳は咄嗟に思ったのである。

 

 ―日本人同士でもこうして一つの島や土地をめぐって所有権を争うのだから、事が国に関与する問題となれば、命を賭けて争うのも無理はない。日露の戦いのそもそもの発端が、ロシアの極東への領土確保のための強引な進出に起因するもので、わが国としてはこれをただ指をくわえて座視するに忍びず、決然として立ったのだ。幾万もの若き命を犠牲にして戦ったのだ。幸い自分は無事に帰還できたが、戦死した者の事を考えると本当に胸が傷む。
 
 惟芳は事ある度に、いまだにあの満州の曠野での死闘を思い出すのであった。同時に今目の前に拡がる紺青の色を深く湛え、白波騒ぐ日本海を見て、ふと萩中学校を五年で中退した翌朝早く、菊ケ浜に出て旭光を仰ぎ見た時の若き自分の姿を脳裏に浮かべた。
 
 ―十年一昔というが、萩を出て長崎の三菱造船所へ入所し、その後兵隊に取られて満州奉天にまで行って戦い、無事帰還して廣島に住むようになるまで十年の歳月が流れた。そして廻り廻ってこんな所にやってくるとは、人間の運命は計り知れないものだ。
 

 安藤先生はよく松陰先生の話をされたが、その時はいつも目の色が輝いて見えたな。松陰先生が「鎮西遊歴」の旅に上られたのは嘉永三年で、二十一歳の時だったと言われた。そうするとおれが出郷したときは十八歳だったから、おれの方が三歳若かったな。先生はそれまで萩の郊外に住んで居られ、専ら読書と教育に没頭されていたが、精神の拡大暢達の機会を他郷に求めて先ず長崎に向かわれた。最後には世界の情勢を知ろうとして渡海を企図されて失敗し、結局二十九歳の若さで刑死されたが、二十九歳と言えば今のおれと余り違いはない。

 何だか先生とおれとは一寸符合するものがある。それにしても先生はさぞかし心残りだったろう。しかし三十年足らずの短い生涯で、素晴らしい事を為して死なれた。おれの人生はこれからだ。当分この宇田郷村で頑張るとするか。

 惟芳は潮風を胸一杯に吸い込んだ。爽やかな気持ちになってもと来た小道を帰った。小一時間ばかりの散歩であったが、村人たちの姿をほとんど見かけなかった。

 

 

(四)

 長男の芳一(よしいち) が生まれたのは大正三年四月二十八日であった。結婚して子供ができると女性は母性愛に目覚め、母になった喜びを強く感じ、一方男性は妻子を養わねばならぬという事を自覚し、より真面目に働き出すのは世の常であろう。しかし現代のような共稼ぎの時代となると事情は違ってくるようだ。戦前までは母親は母親らしく家事と子供の養育に身を捧げ、父親は父親らしく一家の支柱として仕事に専念することで円満な家庭を築いていた。そこには夫婦だけではなく、夫の両親や弟妹が存在する大家族制の場合もある。そうした場合、全く未知の家庭の中へ入っていくことになる女性にとっては、相当厳しい現実だったと思われる。しかしそうした忍耐を要する身であるからこそ、子供への愛は深度を増し、また子供は母親の苦労を見るにつけ、その労をいたわり、将来父親以上に母に孝を尽くしたいという気持ちになるのではなかろうか。
 
 今は親子、夫婦、兄弟姉妹間の良い意味での「序」や「違い」が消し去られ、まるで親子や夫婦また師弟の関係が戦前とは逆になったような現象さえ見られる。果たしてこれが人間としての進歩向上と言えるであろうか。
 

 この点から言えば惟芳の人生観、つまりいかに生くべきかという考えは微動だにしなかった。その根底は何と言っても「孝は百行の基」の教訓(おしえ)にあり、また規範として子供たちに遵守させたのは明治三十二年に発布された『教育勅語』の精神であった。
  
 芳一が生まれて四年後の大正七年十月二十三日に次男の勇夫(いさお)が誕生した。しかし彼は大正十三年に六歳で早世した。不幸は重なると言うが、惟芳にとって悲しいことに、妻のシゲも次男の亡くなった翌年、大正十四年五月二十七日に産褥熱が因(もと)で亡くなった。享年三十であった。
 

 惟芳はその年十二月に後妻をもらった。萩市出身の山本幸である。幸(こう)については後で詳しく述べることにする。
 

 医学が進歩した現在では産褥熱で亡くなるということは稀になった。しかし戦前には出産後この病で死亡することは珍しくなかった。
 

 私事で恐縮であるが、筆者の母も産褥熱ではないが、私を産んだその年に二十五歳で亡くなった。山本幸は筆者の伯母つまり父の姉である。義妹が亡くなったとき惟芳は十四歳も年下の義弟に向かって、両手をついて深々と頭を下げてこう言った。
 
 「親戚に医者がおりながらこのようなことになって誠に申し訳ありません。どうか許して下さい。」

 その時の義兄の真摯な態度に余程感銘を受けたのであろう。後年父は次のように語った。
 「おれは緒方の義兄(にい)様(さま)のような誠実で心の優しい人に是まで会ったことがない。あの時義兄様はただ手術に立ち会われただけで責任は全くない。それなのにおれに向かって心からの許しを乞われた。おれはあの時の事が決して忘れられない。あのように真心から謝罪されて、むしろおれの方が義兄様に申し訳ないような気がした」

 先にわが子を失い続いて妻を亡くし、そして今ここに義妹の死に直面して、彼は医者として慚愧に堪えず責任を痛感したのであろう。

 

 幸には、正道(まさみち)、幡(ばた)典(のり)、武人(たけと)の息子三人と、娘の信子が生まれた。惟芳と幸にとって悲しくも驚いた事に、最初の子である正道を産湯に浸けたとき、左足が伸びないことに気がついた。普通乳幼児を産湯に浸けると両脚を伸ばして排尿するのである。これより数日前に不明熱が出た。これらの事を考えて惟芳は正道が小児麻痺であると診断した。ウイルスによって脊髄を冒されたためである。彼は電気治療を試みた。乾電池バッテリーで患部に一日に何回も電気をあて、また足のマッサージを行った。四歳の頃まで正道は子守りの背中に負ぶさっての生活であった。ようやく歩けるようになったのは昭和五年、後で述べるが新しい家ができた頃である。惟芳は正道の足の悪い事について誰にも言及させなかった。   

 

 惟芳は正道と一つ違いの弟の幡典、また昭和四年に生まれた武人の兄弟三人を全く平等に扱うように家族の者に命じた。しかし彼等が悪戯をしたとき、また弟のいずれかが叱られるときは、正道は兄としてもっとも厳しい責めを受けた。だがこうした平等の扱いのために、正道が小学校を卒業して萩中学校に入り、萩の叔父(母の弟)の家に下宿して中学校に通い始めるまでは、自分の足が普通ではないということを知らなかった。
萩で近所の悪童連中が「チンバー、チンバー」と麻痺の残る左足をみて嘲笑した時はじめて自覚したと筆者に語った。これは一寸信じられない事である。

 惟芳は戦場で手足や目を負傷した傷痍軍人たちの多くが、退役後立派にまた逞しく生きている姿を目の当たりにしているので、愛しいわが子が人一倍強く生きることを願って臨んだのであった。これが本当の親心だと確信し、幸を始めとして、子守りや看護婦たちにも自分の気持ちを伝えたのである。正道は後年次のように述懐した。
 「僕が小学校を卒業して萩中学校を受験したのは昭和十三年でした。太平洋戦争はまだ始まってはいなかったが、僕のような身障者は県立の中学校には容易に入れなかった。そのために一年浪人した。父と叔父が石井校長に掛け合ってくれたので翌年入学できた。当時は軍事色一色で、軍事教練は必修であったが僕は免除された。また軍事教官が僕の歩く姿を見て、特別自転車通学を許可してくれた。それは一学期が終わったときです。当時萩中学校の生徒で川外からの者は別として、三角州内から通学する者は徒歩でした。今はどうですかね?それまで自転車に乗った事は勿論ない。僕は夏休みの間、宇田小学校の運動場で猛練習をした。左足がガクンと折れてどうしても乗れない。血みどろになって練習し、一ヶ月後にやっと乗れるようになった。」
 
 漱石がはじめて乗車を試みたときの事を、『自転車日記』に次のように書いている。
 「自転車の鞍とペダルとは何も世間體を繕ふ為に漫然と附着して居るものではない、鞍は尻を懸ける為めの鞍にしてペダルは足を載せ且つ踏み付けると回転する為のペダルなり、ハンドルは尤も危険の道具にして、一度び足を載せ且つ踏み付けるときは人目を眩せしむるに足る目勇しき働きをなすものなり。」

 

 五体満足の漱石にしてこの苦労、これがいささかオーバーな表現だとしても、片足が麻痺してペダルを踏めない正道がいかに悪戦苦闘したかは容易に想像できる。彼の話を続けよう。
 
 「昭和十九年に卒業したが、戦時中であったので、山口、岡山、久留米、福岡の医学専門学校を受験したが何処も不合格だった。障害者は軍医養成の対象にならないというのだ。戦時のために十九歳で徴兵検査を受け、甲種合格者のみならず乙種合格者も、丙種合格者までも戦場へ送り出されていた。しかし僕のような丁種の者は戦えないから国費を使って勉強さす必要はないと言うのだろう。
 

 石井校長は『君の成績なら大丈夫だ』と言って推薦状を書いて下さったが、結局戦争が終わるまで医学部には入れなかった。しかし戦後宇部医学専門学校に入ってからは、指導教官にどんなに厳しく指導されても平気だった。他の者は教授の雷がいつ落ちるかと戦々恐々としていたが、僕は父の厳しさに比べたら教授の叱責はそんない怖くはなかった。」
 
 謹厳実直な惟芳でも時には思わぬ失敗をして、後々まで語り継がれるようなこともしている。幸と結婚して間もなく、ある患者の家の上棟式に惟芳は招かれた。その時大杯に一升の酒が注がれ、上座に坐らされた惟芳の所へ先ず持ってこられた。この目出度い酒を参加者全員で廻し飲みするとは知らないで、独りで盃を開けなければいけないのかと思って一気に飲んでしまった。宴会の主催者にしても惟芳が飲んでいる途中で止めて下さいとは言えず、彼が全部の酒を飲み干した後、「あれは廻して飲んで頂くのが此の地のしきたりです」と言い、再び大杯に一升の酒がなみなみと注がれた。酒には強い方だが流石にその日は応えたのか、「ああ、酔うた、酔うた」と言いながら我が家に帰ると、そのまま床に就いたのである。夫がこのような酔態を見せたのは後にも先にもその時だけであった、と幸は子供たちに後年話した。
 
 戦前小学校高学年生になると、学校では彼等に『教育勅語』を覚えさせていた。正道は「父の思い出」として次のような文章を書いている。彼が小学四年、次弟の幡典が小学三年、末弟の武人が小学一年の頃であった。

 

 神棚に勅語が掲げられてあり、小四、小三、小一の三兄弟は正坐して、夕方より暗唱が始まります。予定通り進まぬ者には拳骨が落ちます。一週目、朝起きると腿がピリピリ痛み、太股に大人の手形をした出血斑があります。母に理由を尋ねると、

 「昨夜あんたが、お父さんの側に寝て夜中にお父さんをけっ飛ばしたので、お父さんがあんたの足を叩いて起こし、『教育勅語』を称(とな)えたら堪(こら)えてやると言われた。そうしたらあんたは「朕惟フニ」から「御名御璽」まで初めて誤りなく称え、「お休みなさい」と言って床に入った。あれを覚えていないのかと言って笑いました。小学校時代、一事が万事この調子、「鉄は熱いうちに打て」の諺通り厳しく躾られました。中学校に入学すると、元服の年齢に達したという理由で、薄気味悪い位黙って、私たちの行動を見守ってくれました。幼い私たちに世間のルールを一日も早く身につけさせようとした親心の現れであったと思います。」

 

 このような教育は今ではとても考えられない事であろう。しかしこれに類した事はその昔、武士道を重んじた家庭では別に珍しい事でもなんでもない。松陰が叔父の玉木文之進から英才教育を授けられたのは十歳未満のときであった。その時の文之進の峻烈極まる教え方を妹の千代が後年次のように語っている。
 「実父も叔父も極めて厳格なる人なりしかば、三尺の童子に對するものとは思はれざること屡々(しばしば)なりしと。母の如き側に在りて流石(さすが)に女心に之を見るに忍びず、早く座を立ち退かばかかる憂目に遇はざるものを、何故に寅次郎(松陰)は躊躇するにやとはがゆく思ひしとか。かく松陰は極めて柔順にしてただただ命のままに是れ従ひ、唯だ其及ばざらんを恐れたり」

 

 玉木文之進の松陰に対する躾の厳しさを彷彿させるほど、惟芳は子供たちを厳しく躾けた。しかし文之進の場合にも言えることだが、子供を躾ける師としての、又男親としての愛がそこにある。愛があるからこそ師弟また親子の絆が一段と強固になるのである。
 

 正道はまた「わが家の家庭教育」について次のような事も言っている。

 わが家の家庭教育で出来るのは躾だけで、他は何も出来ません。この躾については、私が子供時代に明治生まれの両親より受けたものを、そのまま子供に再現しているだけの事、今の時代には疑問な点もありましようが、幼児期より問答無用で押しつけたのが実情です。
 

 私は田舎医者の子供として過ごしました。父が多忙のため、小学校三、四年生になると、父の代理で結婚式や法事に出席させられました。田舎の事ですから、村長さん、小学校の校長さんと同格に上座に座らされます。数日前より落語の八さんよろしく、口うつしに当日の口上を教えられ、食事の作法を叩き込まれて出かけたものでした。
 

 田舎で過ごした小学生の頃は、電灯も夕方にならぬと点灯しない時代でした。夕方まで外で遊んで帰り、点灯後に神仏にお灯明を付けたのがわかると、御先祖様を暗い目に合わせた。何とお詫びするのかと目から火が出る程ぶん殴られたのも思い出となります。
 

 今考えると御先祖様いますが如しの教育だったわけです。一事が万事この調子で、躾は物心が付きかけた時期より意味もわからぬまま、実行に移さないとなかなか身に付かぬものだと信じて居るのが現在の私です。さてわが家の子供達どんな成人になりますやら。
 
 人は生まれた環境やその時代の思想に多大の影響を受ける。従って惟芳が『教育勅語』をもって子供達を躾けようとしたのは、当時の国民感情として至極当然のことだと考えられる。しかし当時、違った卓見を表した者もいた。ここで一通の書簡の一部を紹介してみよう。独りの青年が友人に書き送ったものである。

 

 思想の自由と云へば、国民の大多数が万世一系の帝統を無上の栄誉となし、教育勅語又は、維新の勅語などを何かと云ふと口にして、人の思想感情を束縛せんとするは迷妄の極なり、万世一系は日本の隠遁的国民なるを証し、勅語を楯とするは思想に独立不羈の力なきを証するもの、予は文部大臣が嘗て此の如きつまらぬ勅語を出して国民が自由の思想と感情とを桎梏(しっこく)したるを大いに慨するものなり。(中略)這般(しゃはん)の議論は今日の我邦にては公に言ふを得ず、而して其言ふを得ざる所以は即ち我国民の思想において、宗教において頗る幼稚なるを説明す。(注1)

 

 これは明治三十年米国において仏教を勉強中の若き鈴木貞太郎、後の世界的宗教学者鈴木大拙が、生涯の友である西田幾多郎に宛てて書いたものである。大拙はその後帰国して明治四十二年から大正十年まで学習院で教鞭を取っている。その時の学習院の院長は乃木希典大将であった。

 「乃木院長の教育方針は教育勅語に則り、大楠公山鹿素行吉田松陰の思想を背景とし、質実剛健を貴び、懦弱(だじゃく)を蛇蝎(だかつ)の如くいやしむ武士的教育でありました」と、そのとき中等科二年生であった日高第四郎氏は述懐している。
 

 一方大拙先生の印象として、
 「当時院内の軍隊様式の生活潮流の中で、先生はどことなくゆとりのある独特な風格を通じて、いわゆる富や名誉や権勢に超然たる心境を我々若者共に自ら示され、時には雑誌等に、外部にのみ眼を注がずに“心の奥底の光に眼を向けよ”とか、自律を貫いて“随処に主となる”ことが大切だなどと、あとから考えれば、当時としては極めて稀な、自主的自発的人格主義の教育論を示されました」
 
 日高氏はこの『乃木大将と鈴木大拙先生の印象及び想い出』の文を次のように結んでいる。
 「乃木大将の他律的教育法と大拙先生の自律に重きをおく教育法の間に対立衝突があったのではないかという想像があったのですが、そういう事実又は噂はついぞ耳にしたことがありませんでした。外からの厳しい躾による鍛錬の方法と、内心からの悟りを促し待つ助成の方法とはたしかに対立し易いものでありますが、指導の窮極において、“無私の忠誠”と“小我の解脱による悟り(菩提)”とは相通ずるものがあるのではないか。大将は単なる武骨一点張りの方ではなく、人情の機微を弁え、詩情をも解する人物、先生は人をも物をも内側から見る直感の禅者として武道の奥義をもとらえ得た人、互いに誠実に打たれて相ゆるすに到ったのではないかと思うようになりました」(注2)

 

 惟芳のわが子に対する躾は今の親から見たら非常に厳しいものであった。長男芳一に対するスパルタ的な教育の場合を見てみよう。

 漁師の子は小学校へ上がる前から海に入って波と戯れる。惟芳は芳一が小学校に上がる年頃になってもまだ海を恐れているのを知ると、夏休みのある日、息子の手を引いて防波堤の中程まで行くと、彼を抱きかかえるやいなや港内の海中に投げ入れた。そして後ろも見ずに彼は帰っていった。付近にいた漁師たちは一瞬唖然として思わず海面に目を向けた。子供は必死になって波打ち際に向かって手足をばたつかせている。救いの手を差し出す前になんとか窮地を脱した子供を見て、漁師たちは内心ホッと胸をなで下ろした。

 芳一はそれ以後海を恐れることがなくなった。惟芳にしても一見無謀とも思える行動に出たが、わが子を信じ又周りに漁師たちがいることを計算に入れての事である。しかしこうした行動は世の親の容易にできる事ではない。
 
 以上惟芳の「子供への躾」の一端を見てきたが、ここには明治にまで受け継がれた「武家の躾」の伝統がある。この事は敗戦直後の昭和二十四年に出版され、それこそ洛陽の紙価を高くした池田潔氏の名著、『自由と規律』の中に述べられたイギリスパブリック・スクールの教育方針と揆(き)を一(いつ)にする。池田教授は次のように述べている。
 
 (前略)それはパブリック・スクールの教育の主眼が、精神と肉体の鍛錬に置かれているからに外ならない。これは、よい鉄が鍛えられるためには必ず一度はくぐらねばならない火熱であり、この苦難に堪えられない素材は、到底、その先に待つさらに厳酷な人生の試練に堪えられるものとは考えられないからである。叩いて、叩いて、叩き込むことこそ、パブリック・スクール教育の本質であり、これが生涯におけるそのような時期にある青少年にとって、絶対必要であるとイギリス人は考えているのである。
 

 

(五)

 惟芳は村人たちが衛生観念に乏しいのをかねがね心配しており、是非とも衛生思想を普及しなければいけないと思った。貧しい村なので自宅に井戸のない家庭もあり、また井戸はあってもポンプがなく、釣瓶(つるべ)で水をくみ上げる家が大多数である。洗濯など大量の水を必要とするときはどうしたか。それには川水を利用する以外に方法がない。今浦と元浦の二つの部落を分断した形で流れている宇田川は、この川の周辺に居を構えている者に取っては大事な生活用水である。洗濯、灌漑にこの川の水を利用するのは当然として、肥担(こえ)桶(たご)を洗っているつい鼻先で、野菜を洗い米をといだりするのも、それほど珍しいことではない。甚だしい場合は、上流で汚物のついたものを洗濯し、その下流では刺身を作るといった有様である。また夏ともなれば、子供たちはこの川中で海老や田螺(たにし)などを取って遊ぶ。確かにかれらにとっては掛け替えのない水域である。しかしこうした不衛生のためにトラホームや赤痢・疫痢などの伝染病がよく発生した。
 
 惟芳は村人に糞尿を川に流すことのないように、とくに梅雨期になると伝染病の発生源になるので、生ものは加熱するように、子供たちには川で遊んだ後井戸水で手や顔、特に目をよく洗うようにと度々警告していたが、長年の習慣は一朝一夕には改善されなかった。  

 このような不衛生な状態が続いたので、毎年梅雨期に入ると、爆発的に赤痢や疫痢といった法定伝染病が発生し、一家全員が罹患することもしばしばであった。そのために村は山口市から派出看護婦を雇い入れ、村の隔離病舎を臨時に開けて患者を収容した。惟芳はそうしたとき病舎への往診治療にあたった。そして惟芳もそこで最後の息を引き取ったのである。この事については後の章で少し詳しく述べてみたい。
 

 赴任して間もない時の事である。彼は大正元年、陸軍軍医総監医学博士文学博士森林太郎の署名で『戦友』に掲載された「トラホームと其預防」の記事を思いだした。村人たちはトラホームにより失明にいたる危険性を知らないので、彼は「トラホームとは何ぞや」という森博士の記事を周知徹底させ、予防処置を執ることにした。 

 「トラホームは通常極めて慢性に経過し、往々数年乃至数十年に亘る。初め結膜(筆者注: 眼瞼の裏面と眼球の表面とを覆う無色透明の粘膜)を侵し、角膜及眼瞼(注:眼球の上下をおおい、角膜を保護する皮膚のひだ)に進み特殊の病変を起こす。其病毒は眼の分泌物中に多く存在し、時としては直接之れに接触するに依り伝染することあれども、多くは患者の使用せる手拭洗面器衣服等を介し間接に伝播す。初めは其の症状極めて軽きを常とし、僅かに羞(しゅう)明(めい)(注:眩しがること)ありて小量の分泌物あるに過ぎざるを以て、不知(しらず)不識(しらず)の間に治療期を失し易し。病勢は漸次進んで分泌物増加し、毎朝睫毛(せんもう)を膠著し、結膜面は發(はつ)赤(せき)肥厚(ひこう)し、顆粒(かりゅう)を生じ、眼内異物の感ありて眼の疲労し易きを覚ゆるに至る。此の時期に於いて適当の治療を施さざる時は病変は更に角膜を侵し視力減退するに至る。此期に及んで倉皇(そうこう)(注:あわてて)醫を訪うふも治療容易ならずして視力の障碍を貽(のこ)し、甚だしきは遂に失明す。全国盲人中其の失明の原因種々なりと雖(いえども)、トラホームに依るもの亦頗(すこぶ)る多し。」

 

 惟芳は博士のトラホーム預防法に則り、小学生を通じて各家庭に注意事項を伝達した。しかし必要な伝達を行ったものの、宇田郷のような寒村では、「手拭洗面器を各自専用にせよ」とか、「石鹸で手指や洗顔をせよ」という事項でさえ、実施できる家庭は一握りである。またこの村では、貧困家庭で病人が出ても医者に診せようとしない。従って診断を一回も受けずに死ぬ。そうなると惟芳としては「死亡診断書」が書けない。しかしその死体を火葬か土葬にしなければ葬式ができないので、彼等は「死体検案書」を書いてくれと惟芳に頼みに来る。

 

 このような悲惨な状況を多く目撃して彼は往診料を取らないことに決めた。また治療費も払えないような家庭の場合、何時でもよい、たとえ孫子(まごこ)の代になっても、払えるようになった時払ったらよいと言った。しかしそのために惟芳は往診を渋ることはなく、真夜中でも急診の訴えがあれば必ず出かけていった。ある夜など三回も往診し、結局その夜は徹夜した、と後日幸は子供たちに語った。夫が夜間の往診に応ずれば妻として寝ずに帰りを待つのは当然のことである。 
 
 参考までに、平成19年7月分の山口県警察管内発生の死体検案数の合計は150、その内訳は、自殺42、病死86、他殺2、他過失2、自過失13,災害0,その他5である。 
  〔山口県医師会報 第1765号〕
 
 また薬代は盆と暮れの二回の支払いであった。しかし全額支払いのできる村人は少なく、三割か四割の支払いで済まして、それでは気が済まないと思うのか、米や野菜あるいは魚を黙って台所の隅へ置いていく者もいた。

 

 こうして惟芳は献身的に村民医療に当たったので、彼等もそれに応えて惟芳に何時までもこの村に居て欲しいと切に願うようになった。五年契約の期限はもうとっくに過ぎていた。惟芳としては子供の数も増え、彼等の教育の事を考え、また萩の堀内には生まれ育った家屋敷があり、その敷地面積はかなりあるので病院を建てるのに他の土地を物色する必要はない。そこで村医を辞退して萩で開業したいと村役場に申し出た。ところが村長は是非村に止まってくれと惟芳に翻意を促した。
 
 それまで惟芳は、宇田郷村に住んで村人の医療にあたり、昼夜の隔てなく患者に接した。そのために患者から頼りにされ、手を引くにも引く時機を見つけることが難しいと思っていた。その間萩の家で長男の帰りを待っていた老母は大正七年十二月五日に六十二歳で亡くなった。惟芳は母の許にあって孝養ができず、「風樹の嘆」を痛切に感じた。せめて心を休めることができたのは、将来どうなることかと懸念していた弟の尚春が無事歯科医の免許を取り、萩で独り立ちして母を安心させたことである。

 村長ならびに村民たちの強い願いを受け入れ、宇田郷村に自分の医院を持とうと決心したのは、昭和三年の夏も終り近い頃であった。後妻の幸を迎えたことは既に述べたが、その年には幡典が生まれ、三番目の子も出産間近であった。一方先妻の息子の芳一は県立萩中学校に入学して寄宿生活をしていた。こうした事情をいろいろと検討した結果、彼は漸く気持も定まったのである。

 

 これより前、惟芳は今の仮住まいの診療所から目と鼻の先の所の地所一五〇坪を、宇田郷村で代々酒造業を営み、大敷網(おおしきあみ)の家元でもある金子秀蔵から購入していた。彼がこの地所を購入し、病院を建てる気になったのは、先に述べた鉄道工事で建設工事人ならびにその家族が宇田郷村に多くやって来て、にわかに宇田郷村の人口が増加したためである。大正元年に二二二一人であった人口が昭和四年から五年にかけて、四〇〇〇人近くにまでふくれ上がった。そこで当然怪我人も出れば病人も多く出るようになる。建設現場で働く者だけではなく、彼等の家族にも当然病気になる者もいた。惟芳はこれらに自分一人で対応した。四十歳代の彼はまさに働き盛りであった。
 
 その日も朝から夕暮れまで眼が廻るほどの多忙な日であった。無事に全ての診察と往診を終えると、父の帰りをいまや遅しと家族の待つ食卓についた。彼は二人の息子にも分かるように語りかけた。
 「正道、幡典、行儀よくしていたか。お母さんに心配をかけてはいけないよ。親として何が一番心配かと言ったら、子供が病気になったり怪我をしたりすることだ。兄弟仲良くして元気で遊ぶのが親にとって一番嬉しい。今日も大刈トンネルの工事現場で怪我をしたといって若い人が運ばれて来た。これは本人の不注意によるものと考えられるが、周りの者の心配は大変だ。左手首を骨折し首筋も痛めていたので応急の手当をしておいたが、当分作業はできまい。そうなると周りの者に迷惑をかける事になる。自分一人の不注意が全体に影響を与える。お前たちにも分かるだろう。家庭内でも同じことだ。よし、それではお腹もすいただろう。よく噛んで食べるのだよ。」
 
 子供たちはいつも食前特に夕食の時、父の話を正坐して聞くことになっていた。小学校に入学する前からの子供に対する躾である。話し終えると惟芳は、梅六が作ってくれた新鮮な魚の刺身を酒の肴に杯を重ねながら、多忙な今日という日を振り返った。多忙な一日を過ごすと、彼は奉天の激戦で、負傷兵の手当てや看護で何日も不眠不休で対応した時のことをしばしば思い出しては、気力を奮い立たせるのであった。
 
 ―あの時は誰もが必死で働いた。予想を遙かに超える数の負傷兵が次から次へと運び込まれて、殆ど十日間は休む暇も無いほどだった。皆よく辛抱したと思う。不思議にもあの時は普通では考えられない気力が生じ力も湧いた。やはり何をするにも気力が一番だ。やる気がなければいけない。まだ当分大刈の鉄道工事は続くだろう。あの時のことを考えたらこれしきのこと、辛抱できないことはない。

 

 こうして昭和四年から数年間、未曾有の大工事で宇田郷村の人口は急増し、医者として惟芳は、非常に忙しい日々を送ることになったが、充実した毎日であった。
 
 参考までに宇田郷村の人口の推移は、昭和五年に二六二九人、昭和十五年は一九六八人、終戦後一時海外からの引き揚げ者で昭和三十五年には二三〇一人にまた増えたが、四十年には一九三七人、その後漸次減少して、平成二年には一〇五五人、そして十二年には八六九人にまで激減した。

 

 ちなみに一人の医者が扱うときの人口はおよそ一五〇〇人である。従ってこの数字の倍の人口を相手にした惟芳が超多忙であったのは想像するに難くはない。

注1 西村惠信編 『西田幾多郎宛 鈴木大拙書簡』(岩波書店) 
注2 『鈴木大拙-人と思想』(岩波書店

杏林の坂道  第十章「村人たち」

(一)

 山陰線は地形上、山陽線に比べてトンネルが多い。とくに宇田郷駅を間に挟んで、木与駅須佐駅の間は異常なほどで、長短十二ものトンネル(現在は線路改修で十本)があった。また山陰線が開通したとは言え、宇田郷村は僻遠の地に変わりはなく、一時村役場に勤めていた正道の言によると、昭和二十年に宇田郷村は阿武郡内でも六島村(現萩市)に次いで人口が少なく、郡内で最も財政の乏しい村であった。 

 

 前章で既に述べたが、昭和のはじめ、惟芳は村人の治療費の支払いが悪く、また自分の子供達の数も増え、その教育を考えた結果、嘱託医としての約束の年限もとっくに過ぎたので、村医を辞退して萩市で開業したいと村役場に申し出た。ところが時の村長小川十郎が、診療を是非続けてもらいたい、新しい診療所建設のための用材は自分が捜す、などと言って村人を代表して惟芳へ慰留を訴えた。彼は村長の熱意に感じ、また村人たちの強い要望に応えて、結局宇田郷村に止まって医療を続けることを決意した。そこで彼は、村から提供されて使用している診療所では間数が絶対に足りないので、この際思いきって自分の医院を建てようと思った。
 
 海岸線にまで山が迫って平地が極端に乏しい宇田郷村は、村の人口の半分以上が、川幅十間足らずの宇田川を挟んで、元浦と今浦の二つの地域に集まっている。ここには村の小学校をはじめとして、役場や郵便局などの公共施設があるので、彼は役場と小学校のある方の元浦を医院建設の適地と考えた。

 

 世の中の住宅事情は変わった。現在、田舎ではともかくも、都会地ではマンションやアパート住まいが浸透しており、また建て売り住宅を購入して住む者が多い。自ら土地を購入して建てたにしても、周辺の者にとっては、誰が何処に建てようが「我関せず」で、関係すると言えば日照権や騒音を問題として、場合によっては裁判沙汰になるといった事ぐらいであろう。
しかし戦前、特に田舎では男が一生一代において、自分の家を建てると言うことは、徒(あだ)疎(おろそか)な事ではない。周辺に住む者も多大の関心を寄せ、出来れば建築に手を貸そうとするのである。ましてや惟芳の場合、村人の要望に応えて村医として止まり、そのために終(つい)の棲家を建てようと言うのであるから、村人を思う彼の心意気に感激して、彼等も感謝の気持ちを行動に移したのである。
 
 惟芳に是非止まってくれと頼んだ村長の小川十郎は、木与の山中にある阿武郡随一の大きい檜を探し出して、木挽(こびき)に命じて切り出さすことにした。この木があまりに大きくてそれを一時寝かせておく場所がないので、これまたある村人が好意を示して、自分の田を一町(ひとまち)犠牲にして、そこで木割の作業を木挽にさせることにしたのである。惟芳はこの事を聞いた翌日早速、午前の診察を終えると現場へ行ってみた。
 
 診療所の前の道を役場や小学校のある方へと歩き始めた。日中の日射しはそんなに強くはない。潮風が爽やかに吹いていた。彼は急いだものだから思わず聴診器を頸に掛けたままでいたのに気がつくと、それを外して診察衣のポケットに入れ、右手で聴診器のゴム管がはみ出ないようにポケットの奥へと押し込んだ。ものの二百米ばかり行くと、道のすぐ右手に空き地が見えた。そこは道から川の土手までの間のやや細長い田圃だが、いまは何も植わっていない。川土手の方から人声が聞こえてきた。そこが提供された木挽きの作業場であるとすぐ分かった。はたして数人の村人たちが仕事ぶりを見物に来ていた。
 
 身の丈五尺八寸近く、体重二十貫の大きな躰を白衣に包み、黒い口髭を生やした惟芳は当時四十歳の半ば、男として心身ともに最も充実した時である。もう村人には彼の顔はすでに馴染みではあるが、診療所では見慣れたこの姿も、こうした場違いの所で見かけることは珍しいので、居合わせた者たちは思わず慌てたように惟芳に道を明けて挨拶した。

 

 木挽は四人いた。木っ端でもさすがに真新しい檜の材である。惟芳は近づいて行くと、何とも言えない良い香りが周辺に漂っているのを感じた。木挽きたちは檜の鋸屑や木屑が散らかっているところに敷いた筵(むしろ)に腰をおろしていた。鋸幅が一尺もある大きな木挽き鋸が彼等の傍らに置いてあるのが見えた。彼等は食べ終わった大きな昼弁箱を新聞紙に包んで側に置いたままで、煙管(きせる)に詰めた刻み煙草をうまそうにくゆらしているところであった。惟芳を見ると銜えていた煙管を口から除け、頭の鉢に結んだ日本手拭いを取り外して辞儀をした。惟芳は木挽たちに近寄って言葉を掛けた。
 「ご苦労だね。こうしてみると随分大きな檜だが、伐り出すのは大変だったろう」
 「はい、なにしろ木与の山奥で長いことほとんど人目に触れずに育っていたのでしょう。二百年から三百年は経った代物(しろもの)です。私たちも間近まで行ってじっくりと見たのはこの度が初めてでした。奥深い山中にこれほどの巨木が堂々と聳え立っている姿には一種神々しいものがありました。

 

 伐り出す前にお神酒(みき)を上げてお祓いをしました。根本に近い処から鯨尺(約36㎝)で二十尺の長さの処で切断し、梢までの残りの部分と二つにして、この二本の丸太の大木をまず海岸まで運び下ろし、そこから筏にして元浦まで海の上を運びました。とにかく運び出すのに難儀しました。短く伐って運びやすくすればそれほど手間はかからないのですが、こうして長いままで伐り出すようにとの注文でしたから、思ったより骨が折れました」
 「そうだろう、本当にご苦労だったね」

 惟芳は巨木の現物を目の前にして、木挽の言うとおりだと思った。満州薪炭用として満人から分けて貰った楊柳は、田圃のあぜ道に沿って生えていた細長い立木であった。彼はそれらを伐り倒して荷車に山積みして運んだ事を思い出したが、いま目の前にあるこのような巨木の搬出は、あの時とは比べものにならない作業だと言うことは一目瞭然であった。惟芳は重ねて言葉を掛けた。

 「今度は木割が大変だね」
 「先生、そうなんです。これをよう見て下さいませ。年輪がじつによく詰んでいます。ざっと数えても二百以上あります。これは日本海からやってくる風雪、俗に言うシベリヤ颪(おろし)に鍛えられ、夏は昼間に海から吹き上げ、夜は山から吹き下ろす風に暑さを凌いだ結果です。長いこと木挽きの仕事をしていてこのような立派な木に会ったのははじめてです」
 四人の木挽のうち一番年嵩(としかさ)の者がやや興奮気味に話した。彼は続けて惟芳に話しかけた。 
 「三寸角の柱ならこれで三十六本は取れます。木割はまた一苦労ですが、仕事の為(し)甲斐(がい)もあります。皆で力を合わせてやりますから、まあお任せ下さい」

 村には製材所がないので、柱一本作るにも木挽に頼らざるを得ない。惟芳はこの年期の入った木挽の自信に満ちた言葉を嬉しく受け取った。またこうした木挽一人の口の端からも、惟芳に村に止まってもらいたいという願い、またそのためには一(いっ)臂(ぴ)の力を貸すのも惜しまないという彼等の強い思いが、村医としての彼に伝わって来た。
 
 -『骨を埋むるに豈墳墓の地ならん哉』か。よし、こうして村人たちの善意のお陰で医院も建つとなると、この村にじっくり腰を据えなければいけないな。まあそれもよかろう。
 
 このように考えて彼はぐっと歯を噛みしめると、その後すぐに彼等にねぎらいの言葉をかけ、礼を言ってその場を立ち去った。

 

(二)

 医院の設計において惟芳が特に意を用いたのは採光である。道路側にある診察室は窓ガラスを通して入る光で明るいが、その奥にある調剤室は、診察室との間に薬品棚などの仕切りがあって一段と暗くなるので、そこを吹き抜けの天井にして、二階の障子を開けたら、調剤室が真下に見えるようにした。こうして二階の窓からの採光を考えた。何分にも土地が狭隘で隣家とは細い溝一つで接しておる。従って一階は外光を取り入れるのに何らかの工夫をしなければならない。

 

 後にこの構造を見た惟芳の義弟(先妻の妹婿で医師)の綿貫秀雄が、「こんな構造は見たことがない。きっと義兄は長崎の造船所で見聞した艦船の艦橋の設計からヒントを得て、調剤室を吹き抜けの天井にして採光を考えられたのであろう」と言っていた。 
 なお参考までに、惟芳の孫に当たる緒方龍太郎が、信州大学の森林科学科に籍を置いていたとき、『夏期休暇課題』として、「地域の素材で建てられた家屋について」の中で次のように推定している。

 柱:柱は一本の檜から割り出された。木の一部がこの家の蔵に残されていた。この資料と、家のそれぞれの柱の容積、本数とから計算すると、おおよそ次のような大きさの檜であったと推定される。
 柱の縦横 12×12㎝
   高さ 約6,3m(床上5,7m 床下0、6m)

 

 家の見取り図から見て、一本の檜から36本の柱を取り、少なくとも直径105㎝の巨木であったと推定される。この家が建てられて約六十年(1991年現在)、二階まで一本の柱を使い、吹き抜けまで付けたにもかかわらず、ほとんど狂いの無いのも、風雪に耐えた木の持つ性質によるのであろう。
 敷居:阿武郡で最大の桜を用いたとされる。今回は敷居については調査しなかったが、2間の長さの敷居が数本あるので、これも相当大きな桜の木であったと推定される。

 

 こうして建築に必要な主たる用材が確保されると、今度は敷地の問題である。建設予定地が道より三尺ばかり低かった。宇田川の洪水でこれまで何度か橋が流されたので、道路改修の際、橋の位置を高くしたので、それに通ずる道路もそれまでより当然高くなった。従って従来の人家は低い位置にそのまま在ったのである。幸いにも鉄道のトンネル工事で多量の土砂が出たので、建設予定地にそれを運んできて道と水平になるまで埋めることが出来た。そのために地固めが必要である。重量のあるローラーといった機械類が無いので、皆人力に頼らざるを得ない。  太くて重い樫の丸太に手頃な棒を二本取り付けて、それを持ち上げて地固めをする。これは一人で出来る作業である。一方家の柱を立てる場所は特別に重量がかかるから基礎工事はゆるがせに出来ない。基底に格好の礎石を置き、しっかりと地固めをする。そのためには長い三本の杉の棒を上部でしっかりと縛って下部を拡げて三脚にして立て、縛ったところに滑車を付けて、その滑車に綱を通し、その綱に重い樫の丸太を括り付けて数人で綱を引っ張って丸太を持ちあげ、かけ声諸共礎石の上へどすんと落として地固めをするのである。村民総出と言っては大袈裟だが、多くの村人たちの積極的奉仕のお陰で作業は順調に進捗した。

 

 ブルドーザーやクレーンといった土木機械が無い当時にあっては、梃子(てこ)や滑車を利用して作業をしていたが、やはり人力が何よりの手段だと考えられていた。そうなると力の強い人間が重宝がられるのは自明のことである。
 
 緒方医院のすぐ前に、道を距てた海側の家に竹本寅一という青年がいた。彼は大正三年生まれで、惟芳の長男である芳一と同年齢であった。その時彼は数え年で十七歳になっていた。二人は幼いときから遊び友達であったが、芳一が宇田小学校を卒業して県立萩中学校へ入学し、寄宿舎生活を始めてからは、お互いに異なった人生の道を歩むことになった。  

 

 寅一は小学校高等科を卒業すると早速稼業の漁師の仕事に携わっていた。宇田郷村一番の分限者で、前にも言及したが、惟芳が医院を建てるのに敷地を分けてもらった金子家で寅一は働いていた。金子家は当時大敷網の網元でもあった。寅一は鰤(ぶり)漁などその時季になると、大敷網の船に乗っての仕事に従事していた。しかし日頃は酒造業といってもその実、米俵など物の運搬を手伝うのが主な仕事で、それも無いときは自分の家の小舟で沖合に出て漁をしていた。

 

 彼は力の強い男であった。その秘密は先ず彼の出生から物語る必要がある。野良仕事に出ていた彼の母親が、急に産気付いて寅一を産み、持っていた鎌で臍の緒を切って大きな蕗の葉に赤子を包んで家に帰ったという。彼女は豊胸の大女で、授乳時には子供を背負ったままで、乳房を持ちあげて肩越しに飲ませていた。彼女ほどではないが、筆者が子供の頃は、このような垂乳(たらち)根(ね)の母を見かけることは時としてあった。此の母にして此の子ありで、彼はすくすくと育ち、十七歳で身の丈六尺、肩幅も廣く、一人前の大人を優に負かす程の立派な体躯の持ち主になっていた。

 

 大正三年生まれは寅年である。竹本家の長男であるから寅一と親は名付けた。近所の者は誰もが彼を「寅マー」と呼んでいた。当時五歳の正道も寅年生まれであるから、十二歳の年の開きはあるが彼を「寅マー」と呼んでいた。一方寅マーは正道を「正道坊ちゃん」といってよく可愛がっていた。
 
 その日は礎石に大きな石を据える作業が朝から続いていた。二人ではとても無理だから、三人がかりでその石を転がして目的の箇所へ運ぼうとするのだが、足場が悪くて三人一緒で同時に力を出すことが出せない、従って石は梃子でも動かない状態である。

 「こりゃ困ったことになったのう。この石を動かさないことにゃ、仕事が進まんでや」
 「そうじゃのう。どうしたものかのう」
 傍らで別の作業をしていた女性が二人のやりとりを耳にして、
 「寅マーに来てもらってみーさい。寅マーなら動かすことが出来るかもしれんで」
 早速男の一人が金子家へ走って行くと、彼を伴ってきた。
 寅一は指された石を見ると、裸足になり上半身裸になると、一本の丈夫な樫の棒を石の下にぐいと突っ込み、手に持った棒の片方を右肩にあてて力をこめて棒を持ちあげた。大人三人でもびくともしなかった石が動き出した。固唾(かたず)を呑んで見守っていた者たちが思わず一斉に声を掛けた。
 「よいしゃ頑張れ。寅マー頑張れ」
 こうして石は据えられるべき場所へ難なく移動させられた。
 
 その後幾年か過ぎ、秋九月中頃から十月末にかけての台風のシーズンのある日のことである。朝からひどい暴風雨でとても漁に出られる状態ではない。それでも漁師の習慣で寅一は早く起きて朝飯を食べていた。大きな飯茶碗で三杯目を食べようとしていたときのことである。激しく雨戸を叩いて叫ぶ者がおる。彼は箸を置いて立ち上がり、戸口へ行った。

 「大敷網の船が流された、直ぐ来てくれ」と、戸外の声が叫ぶ。戸を開けると、傘を手にしてはいるが全身びしょ濡れの男が叫ぶように言った。
 「寅マー直ぐ来てくれ、大変だ。船が沖へ流されちょる」
 家の中におるとこれほどとは思わなかったが、篠突く雨である。寅一は咄嗟に駈けて直ぐ隣にある小屋へ飛び込んだ。輪にして巻いて置いてあった太めのロープを肩に掛けると、男を促して流れ行く船が見える海岸へと走った。大きな波が打ち寄せ雨は横殴りに降りかかってくる。風はビュービューと唸る。大時化である。件(くだん)の船が沖合に雨飛沫の中に霞んで見えた。虎一は防波堤の上を走りその先端のところまで行った。波は彼が立っている防波堤の大きな組石を洗うように打ち寄せた。彼は海上に目をやった。ここからは船が一層よく見えた。船は高波に翻弄されて大きく左右に揺れながら次第に沖へ流されているのが寅一にはっきり分かった。幸い船は防波堤をそう遠くには離れていない。

 

 彼は自分が乗り込んで漁をする船が波間に浮き沈む様を目にすると、肩に掛けていた一巻きのロープを左肩から右の脇へと斜に懸けるやいなや褌一丁荒海に飛び込んだ。抜き手を切って彼は船に向かって泳いだ。さすがは海の男、荒れ狂う怒濤の中を彼は船に近づいていった。間近まで泳いで行くと、船が大揺れに揺れて、寅一のいる側が大きく傾いたとき彼は船縁(ふなべり)に手を掛けると、両腕に力をこめて船内に転がるように飛び込んだ。彼は直ぐに帆柱にロープの片端をしっかり括り付けた。彼はそのロープを全部延ばした。全長二十米は優にある丈夫なロープである。今度は片方の端をしっかり自分の腰に結び付けると又海に飛び込んだ。
 

 彼は逆巻く荒海の中を防波堤に向かって必死で泳いだ。船は次第に陸地に近づいた。烈しい風雨の中、急を聞いて集まって来た漁師たちは、寅一の無謀とも言える行動を防波堤の端に立って、祈るような気持ちで見つめていた。

 「おお、船が近づいてきたぞ、寅マーが船を曳っぱて来たぞ」
 漁師達は一斉に歓びと驚きの声を上げた。高波に見え隠れしていた寅一の逞しい躰と腰に巻いた綱が近づいて、手に取るように見えたとき、数人の若者が彼を手助けするためにつぎつぎに海に飛び込んだ。また彼が腰に括ったロープに継ぎ足すためのロープを投げ入れた。寅一の瞬時の判断に基づく決死の行動で船は助かった。しかしこれは誰にも出来ることではない。まかり間違えれば命を落とす危険な行為である。また並大抵の力では出来ることでもない。さすが海で鍛えた度胸と躰、彼は後々まで語り継がれる快挙を成し遂げたのである。(注1)  

 「気は優しくて力持ち」とはよく言ったもので、寅一は正道を可愛がってくれた。惟芳は我が子をあやしたり、優しい言葉を掛けるような男ではない。先にも述べたように、正道は小児マヒで身体が不自由であったが、そのために手加減するようなことは、表面的には決してしなかった。それは息子の将来を考えて心を鬼にしての言動であったと思われる。その点第三者は違う。寅一は正道の身の不自由をみると、そこに憐憫の情が働くのであろう。
 「正道坊ちゃん。虎マーが面白いことをするから、よう見てみなさんせ」
 こう言って彼は輪切りにした直径十センチばかりの孟宗竹を右手に持つと、ぐいっと力を入れて握りしめた。竹はめりめりと音を立てて割れていった。もの凄い握力である。今度は丸太ん棒のような太い腕を延ばして、正道に二の腕に藁縄をしっかり結びつけるように言った。正道は力一杯結びつけた。
 「いいですか坊ちゃん、よおー見ておりさんせ」、こう言って拳を固く握って肩に近づけると隆々と力瘤が出来て、その縄はプツンと切れたのである。正道はその時の驚くべき光景を未だによく覚えていると言う。正道はその力強い腕にぶら下がったり、背高い肩車に乗せてもらって遊んでもらったこともあった。
 
 大きなマグロが数頭捕れたことがあった。船から降ろして魚市場まで運ぶのに、マグロを綱で縛って天秤棒に通し、その棒の両端を二人が肩に担いで運ぶのであるが、容易に持ち上げられないので、もう一本天秤棒を交差させて結局四人で運んだ。これを見た寅一は天秤棒の前後の綱に、この大きな魚一頭ずつ吊るし、左右の手で吊した綱を持って運んだ。
 

 また次のようなことは朝飯前だった。酒造業の金子家には仕込みの時期ともなると、大八車に積んだ米俵が運び込まれる。その都度一人一俵肩に担いで蔵の中に運び込むのが常識だが、虎一は両手に俵を一つずつ提げて蔵まで持っていくと、蔵の一隅の置き場に、左右の手に提げてきた十六貫の米俵を、いとも軽々と積み上げていくのであった。
 

 この寅一が丁年になって、身体検査を受けたとき、甲種合格にならなかったから不思議である。そのことを検査から帰って惟芳に告げた。惟芳は問うてみた。
 「お前が不合格とは合点がいかんが、どこか躰具合でも悪いところがあるのではないか?」 
 「いいえ、別に何処と言って悪いところはございません。ただ耳が少し遠いのではないか、と検査官にいわれました」
 「そうか。お前は耳の垢を取ったことがあるか?なんなら一つ診てやろう」
 こういって惟芳が虎一の耳を覗いてみると、黒い耳垢でびっしり詰まっている。
 「これじゃ聞こえないはずだ。それにしても検査官はのんびりしたものだ。おそらく お前さんが竹本家の跡取り息子で、一家の働き手であることを考慮して、乙種合格で留めたのであろう」
 惟芳はこのように言って寅一を慰め、同時に海の男の仕事に一層精を出すようにと励ました。

 

 寅マーの武勇伝を付け加えておこう。ある時宇田郷で強盗事件があった。駐在所の巡査が駆けつけたが、取り押さえるどころか、反対にその強盗に押さえつけられた。そこへ寅マーがやって来て強盗の片腕をぐいっと掴んだ途端、「離してくれ腕が折れる」と強盗は悲鳴を上げた。こうした稀代の力持ちであった寅マ一は、先に述べたように戦役を免れたが、その後海の遭難で若い命を落としたのは実に残念なことである。この事を最後に簡単に述べておく。
 
 彼が亡くなったのは二十八歳頃で、まさに働き盛りの年齢になったばかりの時であった。当時宇田郷村には発動機を付けた小型船は三艘しかなかった。彼は同僚四人と河豚(ふぐ)釣りに出かけた。漁場は日本海の沖合、宇田の港から十里(約40㎞)の所にある見島の海域である。ここには魚群が集まる良い岩礁がある。寅一はそこでまずクラゲを捕ってクラゲの足を餌にして河豚を釣っていた。漁師は天気具合を読みとってでなければ漁には出ない。しかしこの予想が絶対外れないと言うことはない。だから時に遭難事件が起こる。
 

 その日も予想に反して時化(しけ)となり、不運にも寅一と彼の同僚は帰らぬ人となった。時化が収まった翌日地元から捜索に出かけた船が寅一たちの乗っていた転覆した船を見つけた。彼を含めて五人の遺体が船にそのままあった。彼独特の結び方で、死を覚悟した同僚を帆柱に括り付けていたお陰である。
 「こねーな結び方ができるのは寅マーより他に誰もおりゃせん。皆どっかへ流れ着いたかも知れんし、鱶に食われたかもしれんのに、よう佛になってこうして見つかった、こりゃ何と言うても寅マーのお陰じゃ。ほんまに哀しいことじゃのう。『板子一枚下は地獄』とはよう言うたものじゃ。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 漁師仲間のこの言葉を聞いて、遺族たちは遺体が流失しなかったことに感謝したという。なお、そのとき寅一の死体はまだ温もりが残っていたとも言われている。
  

 

(三)

 さて話を医院建設に戻そう。無事に診療もできる住まいが竣工したのは昭和五年の春である。土蔵に残っていた設計図で分かったのだが、二階まで通しの柱が三十四本あり、それが皆一本の檜で作られたことは既に述べた。家中のすべての敷居も、葛(つ)籠(づら)というところの伊藤という素封家が提供してくれた桜の木で出来ていた。当時千円の家は千円普請と言われて珍しがって人が見に行くほどだが、惟芳が設計した家はとてもその金額では済まなかった。

 

 当時銀行からの融資が叶わなかったので、村の有志が頼母子講を作ってくれて、お陰で資金の調達が出来た。惟芳はその返済には可なりの年月を覚悟したが、鉄道工事に伴う治療などで思っていたより早く終わった。しかしそのために惟芳は夜を日に次いで診療に従事した。一方妻の幸も家事万端に加えて三人の子育てもあって、一日三時間しか眠れない日が続いたと、後年語っている。
 
 こうして村民の協力の下に建てられた医院は、単なる民家とは違う建て方である。医院正面の硝子戸を開けて踏み込んだところはタタキの土間で、そこには往診用の自転車やオートバイあるいは幌のついた人力車の置かれてあり、左手に待合室があり、その奥に診察室があった。診察室の反対側に調剤室があった。患者は玄関のタタキの奥へは入らなかった。一方家人や客人はそのタタキの正面の格子戸を開けて玄関から居間へと入った。居間は二間あって奥まった方にある居間に仏壇と床の間が並んであった。床の間前面の壁には天皇皇后の御真影が掲げてあった。
 

 居間の南側は廊下で、戸外に面したガラス戸から充分な採光が得られ換気もできるようになっていた。台所と浴室ならびにトイレは鍵の手に曲がったところにあり、すべて廊下で繋がっていた。廊下の突き当たりのガラス戸を開けたところが台所である。そこは板敷きで、三度の食事のときは家中全員が集まり、惟芳が箸を執るまでは家族のものは小さな座布団に正坐して、いわばお預け状態で待つのであった。家族一同はもとより、女中も看護婦も惟芳の生存中この習慣を守った。
 
 「往診も無く家族皆が揃っての夕食は、先ず坊ちゃん方は先生の方へ顔を向けられ先生のお許しがでて始めてお箸をとられるのが常でありました。一日のお子様方の健康状態を顔色一つで確かめて居られるのだと後で気がつきました。」
 これは昭和十年代に緒方医院で看護婦見習として働いていた渡辺福代(とみよ)(旧制佐伯)という女性から筆者がもらった手紙の一節である。
 
 板敷きの台所を一段下がったところが調理をする場所で、あとでも述べるがそこには特殊なポンプが備え付けてあった。調理場の奥に漬け物や米・味噌など食糧を貯蔵した小室があり、その先にどっしりとした土蔵が立っていた。
 

 この家の最大の特徴は前述のように、調剤室が二階の天井まで吹き抜けになっていたことで、これは換気と採光を考えての事である。この他に二階の雨戸を開けて出ると屋根の上にベランダに似た物干台が設置されていた。縦横二間くらいの広さで、ここに洗濯物ならびに包帯やガーゼなどを乾していた。そこには水槽つまりタンクが据えてあるのも特徴だと言える。台所にある特殊なポンプのスイッチを切り替えることによって、水を汲み上げることが出来るようになっていた。そしてこのタンクから配管して診察室と調剤室また便所へと随時水を流すことが出来るようになっていた。勿論水道などの全くなかった時代の事である。採光や換気に加えて、こうした工夫は惟芳が艦船の設計からヒントを得たものと思われる。
 
 戦時中の事であるが、宇田の沖合で病院船が機雷に触れて沈んだのであろう、海岸に膨大な数の箱とその中から出た包帯が漂着して海岸が白一色になったことがある。戦時中物資が乏しかったので看護婦をはじめ村民たちもそれを拾うのを手伝い、それを五右衛門風呂で熱湯消毒してこの物干台で乾した。その時浜風に翻る無数の白い包帯が今でも筆者の瞼に焼き付いて居る。さらにそれを丹念に巻いたことまで不思議に覚えている。やはり珍しい事件だったからだろう。

 

 右左の隣家は一段と低いところに位置していた。そして隣家との間には幅二尺ばかりの溝があるだけ、また背後の隣家とは壁一つで接していた。このように狭い空間を最大限に利用して惟芳は自分の家を建てたのである。
 
 先に言及した看護婦だった渡辺さん広島県福山市内海町(架橋前は瀬戸内海の横島)に住んでいて、結婚前は佐伯福代(とみよ)と言った。彼女は大正十一年に宇田郷村で生まれた。彼女は生まれたときは母親に乳が出なくて祖母に育てられたのである。両親は仕事の関係で萩町(昭和七年に市制施行)へ行き、彼女と弟は祖父母の使い走りをするために残された。祖母の佐伯トキという女性は村でも有名な「佐伯の婆様」といって、誰知らぬ者のない「やり手」だった。此の婆様は男勝りで曲がったことが大嫌い、しかし主人は好々爺であった。
 

 明治十四年生まれの佐伯トキは、惟芳の人柄に信服して、孫娘が小学校高等科を卒業した昭和十一年に、緒方医院へ看護婦見習いに出した。福代こと「福(とみ)さん」はそのとき十五歳になっていて、祖母に似て大変利口でしっかりした子であった。小学校を一番で卒業しており、自分では県立萩女学校へ入りたかったが、婆様の鶴の一声、絶対に逆らえなかった。村で有名だったこの佐伯の婆様について、福さんは八十年にもなろうとする昔のことを生き生きと話してくれた。

 「弟がまだ小学三年生の時でした。夕方暗くなって帰ってきました。『こんなに遅くなるまで何処へ行っておったか』祖母はひどい剣幕で弟を叱りますと、弟は『校長先生の所で遊んで居った』と申しました。弟と仲良しの子がおられたからです。『校長先生ともあろうものが、日が暮れてもよその子を遊ばすとは何事か、それでもお前が早く帰らんのが悪い』こう言って弟の片手を掴んで川向こうの小学校の運動場まで引っ張っていって、鉄棒の柱に弟を縛り付けて、後も見ずにすたすたと家に帰ってきました。
  私としては手が出せませんが心配で家の陰から見ていました。隣家の爺様も一部始終を見ていたのです。少し経って弟を連れて来て、『儂が代わりに詫びを入れるから、この度だけは許してやってくれさい』と祖母に頭を下げて言われたので、祖母も仕方なく許したことをよく覚えています」
 
 今ならさしずめ児童虐待でとやかく言われるであろう。このような祖母に鍛えられたから福さんもしっかりしていたと思われる。

 「先生の第一声は、看護婦の仕事は、人命を預かる医者の仕事を忠実に守り、細心の注意をして絶対に間違いのない様に補佐することである。その為には先ず「ハイ」と返事をし、云われた通り必ず復唱し、聞き間違いのなきこと、と軍隊式そのものでありました。緒方先生はとても厳格で責任感の非常に強いお方で、その信頼度は村でも大変評判になっていました。

 村の人も先生に診て頂いたら安心して療養に努めたものでありました。宇田郷は部落があちこち点在しているので、いざ急患となると暑い寒いも云われずに、井部(いぶ)田(た)や畑(はた)のような遠い部落へも山坂越えて往診をされて居られましたが、そんな時は先生の背中を後ろから押し乍ら、患家までお伴をしたものでその苦労は大変なものでありました」

 

 さらにもう一人別の女性の話を紹介しよう。彼女は福(とみ)さんより一学年下で、平成二十年八十六歳で亡くなった。やはり宇田小学校を卒業と同時に緒方医院へ看護婦見習いとして入った。彼女も成績は非常に良かった。家は漁師で貧しかった。西村フユ、通称「フユさん」と呼ばれていた。色白で可愛い靨のある明るい彼女の笑顔を今でも覚えている。

 

 彼女は終戦助産婦の資格を取得して、故郷の宇田郷村(その後町村合併で阿武町となる)で、実に六十六年の長きにわたって医療の仕事に携わり、平成三年四月に、春の叙勲で宝冠章勳六等を授かった。筆者が生前老人医療センターに見舞いに訪れたとき右手を出して見せて、
 「この指をご覧なさいませ。このように第一関節が皆『く』の字に曲がっていますでしょう。これは赤ちゃんを母胎から引き出すとき、その頭をしっかり持って引き出さなければならないからです。私は二千人の子を取り上げました。」と、慎ましくも誇りを持って語った。

 

 

(四)

 ここで二人からもらった手紙と直接会って聞いた話を通して、惟芳の人となりなどをさらに詳しく見てみることにする。福(とみ)さんが惟芳から開口一番看護婦としての心得を注意されたことは先に述べたが、フユさんは手紙で次のようなことを書いて寄こした。

 「昭和十二年四月に小学校を卒業して早速緒方医院に勤める(見習看護婦として)ことになりました。私が緒方医院に勤めるようになった最初の日に先生が、『当時の青年学校に入学するほどの勉強はさせるからどんな辛い事があっても辛抱しなさい』と、諭されました。ところが一週間ぐらい経った頃、他の看護婦さんが机の端に置いていた医療器具(洗眼ビン)に私は触れて、それを落として壊したのでひどく怒られ涙がぽろぽろ出ました。そのとき先生が『悔しいか』と言われました。私は『いいえ嬉しいです』と言いましたが、私は怖くて自分の家に帰りましたら先生が迎えに来られました。これが私の第一印象でした。先生は軍医だったので大へん厳しい人柄でした、しかし先生のお陰で看護婦の試験に一回で合格することが出来ました」
 
 福さんは私に、「私は緒方医院に六年間勤めました。最初の頃二階の物干し台から丘の上のお寺が見えます。その丘の麓に私の家がありますから、我が家恋しさに涙を流しました。しかし祖母は私が立ち寄ることさえ頑として許しませんでした。お正月とお盆の二日だけ家に帰ることが出来ました。だから六年間で十二日お暇をもらっただけです」と、当時を懐かしむ様に語ってくれた。
 
 フユさんも手紙の中で次のように述懐している。 
「現在のように土曜、日曜など全くありません。一年中無休でお盆も正月もありません。当時は宇田郷地区は車も何もありませんので徒歩で往診しなければなりません。田舎で遠い山坂を一人の病人の為に三・四時間もかかって往診することが度々ありました。厳しい先生でしたが心はほんとうに優しい人で、特に病人に対しては上下の隔てなく診療しておられました」
 

 フユさんの言葉は続く。
 「私等にも食事や私生活は全部一緒でした。食後はいつも世間話で処世とか人にたいしての心得をよく話して下さいました。あるとき珍しい御菓子を『食べさい』と言って下さいました。『坊ちゃんにあげて下さい』と言ったら、『まだあるから食べさい』と言われました。上等の生菓子なんかめったに口に入れるどころか、見ることも出来ないので、今でも忘れられません」
 
 福さんは実にしっかりした字で次のような事も書いて寄こした。
 「日本海の冬の海は毎日が大時化続きとなります。毎日緒方様の夕食のお魚は、二・三軒先の梅六と呼ばれる魚屋さんが引き受けで、どんな時化でも一年中品切れにならぬ様に港の中に魚が活かされてありました。先生が往診でご帰宅が遅い時は坊ちゃん方は夕食を先にすまされ二階の勉強室で本を読んで居られます。私達と先生方の食事になりますが、時化の時は先生だけしかお刺身がつきません。先生が私達のお皿に目を向けられると奥様が、今日は先生だけで子供達にもお刺身は有りませんとおっしゃると、先生は、『ネーヤ(注:女中のこと)や皆(みんな)が居てくれるので儂達が助かって居るのだ』と、御自分のお箸で一切れずつ私達の口に入れて下さった温かい先生のお情けは今でも忘れる事が出来ません」
 
 フユさんの手紙に「先生のお陰で一回で看護婦の試験に合格できた」とあるが、福さんは具体的こう書いている。
 「私達三人は夜は二階で看護学の勉強をすることに決まっておりましたが、昼間の疲れでいつの間にかうたた寝となり、下から柱を叩かれても聞こえず、高い階段を上って来られる先生の足音で吃驚してとび起き、充血した赤い目が寝ていた証しで大叱られし気まずい思いをしたものです」

 惟芳は預かっている彼女達が、将来家庭に入るべき者として、行儀・作法などを身に付け、女性としての躾や嗜みを習得すべきだと考え、この事を妻の幸に一任した。この点幸は適任者だったと言える。彼女については本稿の最後の章で少し書いてみたい。
 先ずフユさんの手紙には、「奥様は私が奉公に行った時からとても親切に女として、行儀・作法を教えて戴きました。又他の病院では出来ない生花、謡曲等も教えて戴きました」とある。

 福さんはもっと具体的に述べている。
 「先生は私達に『あんた達がうちに居る間に色々な事を奥さんから習っておきなさい、何でも役に立ち、何処へ行っても辛抱できるから』と私達の先のことまで心配して頂き本当に有難く思ったものであります。また奥様は明治時代の典型的な日本女性の鑑(かがみ)とも云えるお方でありました。午後の往診のない時には、私達にお花やお茶、お作法など女の嗜みとして教えて下さり、私達の部屋の襖にも、“言葉を選みて静かに語り、礼儀を守りて寂やかに行ふ”と紙に毛筆され貼り付けてありました。従って襖の開け閉めにも心せざるを得ませんでした」
 
 宇田郷村のような小さな社会では、村長、小学校長、警察署長、駅長といった公職についている者と同じく、嘱託医の惟芳も、何か行事があれば来賓として招待された。そうしたとき無芸で酒ばかり飲んでいては座が白けるのではないかと妻に言われて、惟芳は謡を習う事にした。

 

 渡辺福代さんに会ったとき、次のように話してくれた。 
 「時折山口市下立小路より喜多流謡曲師範内田五郎先生をお迎えになり、お二階でお稽古されておられました。私達もそのお陰で謡曲をわからないままに教えて戴きました。若い時なので忘れることなく、今でもお目出度いお席など役に立たせて頂いておりますが、緒方様との御縁は私の生涯心の糧として消えることは有りません」
 
 話は逸れるが、平成二十年五月八日、新山口駅宇部市から来た従兄の正道と落ち合った筆者は、九時六分発の新幹線で福山駅まで行き、そこからバスに乗って目的地の内海町横島に向かった。バスはやや丘陵地の田舎道を走った。しばらく走ると内陸部が突然開けて瀬戸の海が見えてきた。今度は海沿いの道をしばらくの間走行した。バスは非常に立派な近代的な橋に差しかかった。橋の中央部分が「く」の字に曲がった珍しい橋である。この橋は本州と瀬戸内海の田島の間に架橋されたものである。これを渡って又暫くバスは走った。今度はやや小さな橋が見えた。この橋が目的地横島への架橋である。これを渡ると直ぐにバスは指定されていた内海町農協前で停車した。時刻はもうすぐ正午であった。初めての場所は人を多少不安にさせる。
 

 バスを下りるとその辺りは海の香というよりむしろ魚の干物の匂いがした。福さんの色艶のいい笑顔、しゃんと背筋の伸びた姿、明るくて大きな声、これらに接して、先刻の気遣いは一瞬にして飛散した。彼女はとても八十七歳の老媼には見えない。背丈もかなりある。自転車をついて出迎えてくれていた。案内されて彼女の家へ向かった。山手の方へ少し傾斜した狭い坂道をものの十分も歩いたら、円い大小の石を数多く壁土に塗り込んだ、厚さが八十センチもあるような土塀に囲まれたやや古い屋敷が見えた。これが彼女の家である。家の前の道をもう少し上った先にお寺の黒っぽい甍が銀杏の青葉の陰から光って見えた。そこは渡辺家の菩提寺で、後ほど我々は参詣した。周囲を土塀で囲ったこの大きな家に、彼女はたった一人で住んでいると言った。
 

 門構えの立派な家である。「大万屋」という門札が掲げてあった。この島でこの屋号を知らない人はいないというから、可なり由緒のある家のようである。門を潜ると正面に平屋の大きな構えの家が見えた。前庭が広くて立派な石組みの築山と前栽として躑躅が紅白の花を咲かせており、ソテツの大きな植え込みなど、鄙びた感のある漁師町でこのような構えの邸宅に一寸違和感を覚えた。
 

 後でも述べるが彼女は国立岩国海軍病院に看護婦として勤務したとき、指導教官であった人と知り合い、昭和二十年終戦の年に、宇田郷村から夜行列車に揺られながら、この瀬戸内海の離れ島(その当時は前述の橋はなかった)に小舟に乗って嫁入ったのである。それからの苦労は並大抵ではなかったが、生来前向きで利発な彼女はそれを乗り越えて来たようである。話を戻そう。
 
 「まだ緒方医院に入って一年も経たないときでした。その日の仕事も一段落し、片付けも終わったのでので、診察室の寝台の上で枕に頭を載せて、『ああいい気持ち』と言って横になっていたら先生に見つかって、『そこはお前が寝るところか?』『ハイ、分かりました』と言って飛び起きました。また毎日掃除が終わった夕方、使用済みの脱脂綿やガーゼなどを不潔缶に入れて海へ捨てに行きました。今なら不法投棄でいけないことですが、あのころは皆捨てたものです。ハッハッハ」

 

 彼女はこう言うと大きな声で笑った。実に愉快なおばあさんである。
 「フユさんと二人でこの不潔缶を提げて行きました。捨てる場所は人道のトンネルを抜けると直ぐのところで、道路から海面まで七・八米もある崖下に『一、二の三』と言って放り投げるのですが、強い風が海から吹き上げてくる日など、折角投棄した汚物が舞い上がって私達の上に落ちてくるような事もありました。頭の上に降りかかるものですからこうして払いのけました」
 こう言って昔を思い出すように彼女は両手でその仕草をした。ここで従兄が話に口を差し挟んだ。
 「この場所は『寄り仏』という名で呼ばれておった。潮流の関係か風の吹き具合によるのか、時化などで難船し腐乱した遺体がよく漂って来た場所です。そうすると須佐の警察署の者が来て調査していました。また風の強かった翌朝そこへ行ってみると、サザエやワカメといった海藻が道の上にまで沢山吹き上げられてゴロゴロしていました。今では考えられないことです」
 福さんの話は続く。
 「人道のトンネルに差しかかるとそこで道は曲がって、振り向いても人家が目に入りません淋しい場所です。そこで私はフユさんに声を掛けて、『フユさん、誰もいないし、誰にも見られないから、謡の練習をここでしようや』といって、トンネルの中で大きな声で謡ったものです。小学校を出たばかりの女の子のそんな光景を見た人がいたら、さぞかし変に思ったでしょう。ハッハッハ」

 またしても大きな声で笑い出した。とにかく愉快な人である。とても老婆とは思えない。我々はその日彼女の親戚が経営しているレストランで夕食の馳走になりながら、彼女の話に聞き入った。波の音が窓外に聞こえ、対岸の造船所の灯りが夕まぐれの彼方に見えた。瀬戸内は干満の差が著しい。この海中に支柱を立ててその上に建てられた食堂から外を見ると、すぐ目の前の防波堤はその基底部も露わに、牡蠣の白くくっついた跡が見えた。また海底の砂の上に貝殻や小石が散らばっていて何か雑然として汚れた状態であった。朝起きてこの同じ食堂からの眺めに驚いた。潮が満々と湛えられ、水位の高まった海面が美しく拡がっていた。昨夕とは全く違った光景であった。その上しとしとと小雨が降っていて、瀬戸内の情緒をかき立てるようなものがあった。つまらない風景描写だが、日本海岸ではこうした目立つほどの干満の差はない。

 「私は緒方医院に六年間お世話になりました。その後萩市の玉木病院で外科や産科など看護婦になる為の総合的な勉強をして、山口市の日赤病院付属の看護婦養成校を志願しました。八百人受験して合格したのは八十人だけでした。そのとき婦長さんのような方に呼ばれて、これを入学式で読みなさいといって宣誓書を代表で読まされました。
 

 入学式のあと歓迎会の催しで、都会から来た人の中にはピアノを弾いた人もいましたが、私は他に藝がありませんから、『よーし、緒方先生の奥様から習った謡曲をここで謡おう』と思いまして、謡曲『三千歳』を一生懸命に謡いました。
そうしますとね、それまでざわついていた会場が水を打ったようにシーンと静かになり、来賓の県知事さん以下お歴々の方がジーッと耳を澄まして聞き入って下さいました。田舎出の小娘が堂々と謡曲を謡ったので吃驚なさったのでしょう。

 

 看護婦養成校を卒業しますと、その後正規の看護婦として国立岩国海軍病院に召されました。宇田から女で召集されたのは私が初めてでした。武運長久・佐伯福代と私の名前を大きく書いた幟を立てて、村の人が沢山駅まで見送りに来られ、私は歓呼の声に送られて故郷を後にしました。あの時の感動は今でも忘れられません」
 福さんはこう言って、「召集状」を取り出して来て見せてくれた。普通の縦長の状袋だが所謂「赤紙」と言われるもので薄いピンク色で、表書きに「阿武郡宇田郷村大字宇田一五四七ノ一 佐伯福代殿」と達筆の筆書きで、その傍らに「召集状 本人不在ノ場合ハ家族又ハ同居者ニ於テ開封セラルヘシ」と小さい字で印刷してあった。差出人は、日本赤十字社山口支部とあった。召集状の内容を見せて貰ったので参考までに記しておく。

     應召ニツキ注意スヘキ事項

一、携行品ハ理髪用具以外ハ出来得ル限リ數量ヲ減少シ手提「トランク」一個ニ納マル限度トスルコト
二、公用衣服行李ヲ支部参着ノ上貸與ス其ノ中ニハ給與又ハ貸與ノ肌着、靴下、看護衣、外套其他服装用品ヲ容レテ尚約半分ヲ餘スニツキ前記「トランク」に納マラサル必要缺クヘカラサルモノアル際ハ風呂敷包等トシテ支部迄携行セラルルコト
三、汽車割引證ヲ切符購入ノ際出札係ヘ差出シ五割ノ減額ニ利用セラルルコト
  (この横にペンで「支払タル金額ヲ記憶シオカルヘシ」の記載)
四、参着時刻ヲ厳守スルコト
五、印章、社員章ノ携行ヲ忘レサルコト
六、派遣先ハ岩国海軍病院ナリ
七、制服類ハ本日小包ニテ発送セリ(この事項は線を引いて消してあった)
八、市町村役場ニ召集通報ヲ發送セルニ付挨拶ニ赴ク方可ナルヘシ
九、出発ハ四月三十日山口驛發八時三十三分
                    
彼女はこの令状に基づいて出征したのである。


                  

(五)

 話を福さんに戻そう。海軍病院で勤務したのは僅か半年のことであるが、彼女は廣島に投下された原子爆弾の「きのこ雲」が立ち上がる様を、避難していた病院の近くの小高い丘の上からつぶさに見たとも言っていた。その後被爆者が多く担ぎ込まれて病院は大変だったこと、そのために全く休む暇無く働いたことなど語ってくれた。記憶力が非常に良いのには全く驚かされる。

 

 終戦の年に彼女は前にも述べたように、病院で上司であった海軍軍人と結婚した。その後の彼女の人生について少しだけ付言すると、舅となった人はこの島では有名人で非常に体格のいい人であった。先妻に五人、後妻に五人の子供がいたが、二人の奥さんに先立たれ、九十五歳まで長生きされたので、先妻の長男だった福さんの夫が六十歳で亡くなった後、彼女はこの舅をはじめとして、義理の弟や妹の面倒を一人で見た。彼等の中には対岸の倉敷の学校へ連絡船で通学するのもいたので、毎朝四時に起きて弁当を六個作ったとも言っていた。福さんには実子が無いが、年の離れた義理の弟や妹たちを可愛がったので、今はそのお陰でかれらによくしてもらっているそうである。
 

 こうした母親代わりのような仕事が片づくと、島にある病院で看護婦長として勤め、また女性でありながら地区の自治会長に推されたこともある。しかし今は悠々自適、趣味に生きた楽しい日々を送っているとのことであった。
筆者はその後数年間文通を続けていたが突然途絶えた。もしかしたら亡くなられたのかも知れない。もしそうなら心から御冥福を祈る。

 

 最後に「村人たち」の長(おさ)である中山発郎村長と惟芳との交友関係について書いてみよう。 前章の冒頭で述べたように、惟芳を宇田郷村の村医へと懇望したのが当時の村長中山脩三であった。その後、清水百合七、小川十郎、さらに小野安三郎と続いて、昭和十一年四月八日に脩三氏の長男の発郎氏が宇田郷の村長に就任した。
 

 筆者は平成十七年五月に発郎氏の御子息で元阿武町の町長であった中山修氏を宇田郷のご自宅に訪ねた。親子三代にわたって、同じ町村の長であったのである。低い丘の上に自宅があって、丘の斜面は石垣で築かれている。丘の麓は今は空き地だが、以前そこには村役場があった。中山氏が自分の地所を提供したのである。従って村長は自宅の玄関を出て坂を下って毎日出勤していたのである。道路脇に車を駐め、やや急なこの坂道を上って中山氏を訪うた。修氏はもう閑職で読書や囲碁を楽しんで居られ、悠々自適の余生を送っておられるように見受けられた。従兄の正道とは竹馬の友と言った関係であった。最初から打ち解けて、質問にこころよく答えてもらった。心の寛い社交好きな人に思えた。
 
 「親父は中山発郎(いつろう)と申します。明治十七年一月十五日生まれです。正道君のお父さんは明治十六年ですか? 親父は中肉中背で村長になって顎髭を伸ばしました。はじめは短い髭でしたが、蒋介石に似ているからと言って、南京陥落の時から長くしました」
 中山脩三氏が見事な美髭であったように、発郎氏の髯も白くて目立つほど美しかったのを筆者は微かに覚えている。写真で見ると脩三氏の厳格な様相に比して発郎氏の方はもっと穏やかな風貌である。
 「山中(旧制山口中学校)を卒業して推薦で盛岡高等農林(現岩手大学)に入りました、第一期生でした。林野庁に入って、長野営林署、静岡営林署(修氏は静岡で生まれる)さらに廣島営林署と勤め、ここが最後でした。当時造林を国是とする動きがありました。ドイツの造林事業を範としようという上司に対して、『日本はドイツのような平原ではない』との異なる意見を主張して意見が合わず、結局親父は停年(五十五歳)を待たずに五十三歳で辞職しました」
 
 正道の話では、「転職、転職では子供に故郷というものがなくなるから、子供のためを考えて宇田に帰ることにした」との理由もあったようである。
 
 「当時、村長は選挙で選ばれるのではなくて、県議会が任命していました。それで親父は村長に命じられたのです。県知事は国が命じていました。これまで知事が県下の視察に来ると村の主立った者が総出で田部まで出迎え、『閣下、閣下』と歓迎の意を示していましたが、親父は一人で行っていました。民選の初代の山口県知事は田中龍夫です」
 当時村役場に勤務していた正道が、「村長の中山さんは、『今から県知事の誰(だれ)某(それ)君(くん)に会いに行ってくる』と言って、いつも気軽に出かけておられた。それというのも中山村長の方が県知事より階位が上だったから」と言っていた。今から考えると珍しいことである。
 
 「親父は優しい人柄でした。声がかすれていましたが、これは山中時代に水銀を飲まされて声帯を傷めたためだったのです。歌は上手かったです。宇田には部落が十三あります。毎月夜一度、部落の集会に出向いていました。そうした集会には緒方先生、郵便局長、小学校長、駐在署長、駅長なども出席され、部落民と誠意を持って話し合っていました。部落の家々が点在していますので、廣島で買ってきた手回しのサイレンを鳴らして集会の時間を知らせるのに利用していました。父は歩くのが好きで遠くの部落まで夜歩いて行っていました」
 
 惟芳については、修氏は次のように言っていた。
 「緒方先生とは気が合うのでしょう。看護婦さんが前もって打診に来て、その後先生が話によく見えていました。碁を一局といったこともあったかも知れません。いつも二人は正坐で向かい合って話しておられました。戦時中のことですから、軍事国債とか愛国婦人会、あるいは米の供出など問題が多かったと思います。また疫痢など伝染病がよく発生していましたから、川で食べ物を洗ったり、刺身を作ったりしないようにと、衛生面のことも話し合われたでしょう。」
 「私が陸士(注:陸軍士官学校)に入ったとき、『馬はね、坊ちゃん、馬鹿にすると、反対に馬鹿にしますよ』と言われたのをよう覚えています。少し乗馬の練習をしようと思って田部(たぶ)の馬に乗って向きを変えたとき落馬して、先生に手当をしてもらいました。ハッハッハ。父も先生も共に礼儀正しかったです。お互い尊敬しあっていたようですね」

 村長と惟芳が年齢的に近かっただけでなく、共に幼いときからの厳しい躾と礼節を貴ぶ家庭に育ったことが、こうして肝胆相照らし、お互い信頼と尊敬の念を生むに至ったものと考えられる。

 数十年振りに訪れた宇田郷は惟芳が診療していた頃とは違って、日本海岸にひっそりと淋しげに横たわっていた。その日は穏やかな天気で、昔ながらの澄んだ青い海は美しく、寄せ来る波の音のみ聞こえてきた。
 

 以前この村はそれなりに活気があった。こうした有様はここだけの話ではない。我が国で一般に見られる衰退していく村落の現状である。しかしそうした場所で真摯に生活していた人々の哀歓の歴史は、語り継がれて欲しいものである。

 

注1)終戦後から昭和30年頃までは、宇田浦の大敷網の船は、10人乗り2艘、13人乗り1艘あった。その頃は手漕ぎで沖合約3㎞の姫島の北の日本海で、定置網で漁をしていた。網に入った魚は何でも捕っていたが、冬場の鰤漁が主体で、漁が好調であったときなど、1日にⅠ万匹以上の水揚げがあった。
 漁にでるのは9月中旬から翌年の7月頃までで、夏は午前5時頃、冬は午前7時頃から約一時間半の作業であった。手漕ぎの時代は時化の時には転覆の事故なども有っ    たが、昭和30年以降、エンジン付きの船になってからは事故は一度もない。冬場は    時化が多いので人命第一で危険と感じたら出漁は控えた。
 8月下旬頃より次の漁期に向けて準備の為に、「前仕事」と呼ばれる仕事を1日8    時間くらいしていた。現在は漁業を取り巻く環境が厳しく、平成15年以降、50年    続い大敷組合もついに廃止となった。
(以上の事は、宇田郷在住で萩中時代の級友・角力庄一君から教えてもらった)

 

杏林の坂道 第十一章「惟芳と息子たち」

(一)

 宇田郷村には川と呼べるものが二つある。その一つ宇田川は村の長い海岸線の中央あたりに位置し、海岸線に対してほぼ直角に流れている。この海岸線に沿った県道と、川の左岸の小道だけはやや平坦である。小道は上流に向かって一キロばかりのびている。したがって地形の上で、この大きい丁字形の道筋だけは勾配が緩やかなので、惟芳は自転車を十分に利用できた。しかし山間部に点在する部落へ行くには自転車は役に立たない。

 

 もう一つの川は宇田川から約三キロ北へ行ったところの惣郷という部落を流れている。そもそも宇田郷という名称は、宇田と惣郷の郷からできたものである。この川の水源は近くの白須山にあるためか、白須川と呼ばれている。その右側に沿って小道がある。こちらも一キロ行くと山道に入り、さらに一キロ登ると大刈(おおがり)という最後の部落に達する。いずれにしても急坂にさしかかれば、惟芳は自転車を乗り捨てて、そこから歩いて往診しなければならなかった。

 

 山道を上下した時いかに難儀な目にあったかを、緒方医院の看護婦だった渡辺福代(とみよ)さんや西村フユさんが話してくれたことはすでに書いた。惟芳がかりに自家用車を持っていても、そのころの道路事情は今とは違って格段に悪かったので、県道を除く道への乗り入れはおそらく無理だったろう。
 
 昭和四年になって、惟芳はついに意を決し、当時田舎にあっては誰一人見たこともないオートバイを購入して、往診に利用することにした。日露戦争中、カメラを手に入れて、数多くの写真を撮った彼には、新奇で便利なものに興味を抱く性質があった。たしかにオートバイは一般にはほとんど普及しておらず、それを扱う業者は近いところで広島市にしかいなかった。惟芳はオートバイの乗用を昭和十三年ころまで続けた。
 
  前章ですでに述べたように、幸との間に三人の男の子が次々に生まれた。一番年下の武人(たけと)は二人の兄より元気が良かった。長兄の正道は小児麻痺のために左足が不自由である。次兄の幡(はた)典(のり)は戸外で遊びまわるよりは、むしろ室内でおとなしく本を読むことを好んだ。私事になるが、筆者は小学生のとき春・夏の長期の休みになると、萩から宇田郷へ行き、従兄たちと遊ぶのを何よりの楽しみとした。その際、年齢が一番近い武人が一番の遊び相手になってくれた。
山や海や川は子供たちの格好の遊び場である。塾だの習い事など一切無い。食事や家の手伝いで止むを得ず家に居る時を除けば、村の子供たちは自然を相手に朝から晩まで心行くまで時を過ごした。武人も同様に自然を相手に遊ぶのが大好きであった。

「川の石には苔が付いていて裸足で歩いたら滑るから、草履(ぞうり)をはいたままで入ったほうがええ。エビは後ろへツッと動くから、このソウケ(注:竹で編んだザル)をこうやってエビの後ろに向けておいて掬い取るんで。えーかね。僕があの石を静かに起こしてみるから、エビが動いたらすぐにソウケを持って行かんといけんで。えーかね」
 
 武人は川の中に生えている葦を避けながら、抜き足差し足でエビが隠れていると睨んだ石に近づいた。かなり大きな石である。その片側を静かに持ち上げると、それまで安全圏にいた数匹のエビは虚を突かれて、一斉に後方へさっと身をひるがえして逃げた。

 「そらみんさい。逃げたろうが。エビはすばしこいからなかなか捕まらんで。よーし、今度は僕がやってみよう。あそこの石の下にはおるかも知れんで。今度は交代しよう。あそこの石をゆっくりもち上げてみんさい。えーかね」

 こうして私たちは川の流れの中にあって、時の経つのも忘れて、エビの捕獲に興じたのである。
 

 武人は川より海の方で一層活発であった。波止の先端までやってくると彼は家で用意してきた蠅を防ぐ網を拡げた。今は蠅の姿をほとんど見かけないが、昔はどこの家でも五月蠅(うるさ)いほど飛び回っていた。「うるさい」を「五月蠅い」の字を宛てているのでも想像がつく。飯台の上の食べ物をハエから防ぐために、食事の前後にはいつもこの網を拡げて被せていた。

 

 武人は古くなってもう使えなくなった網を拡げて逆さにし、四隅に長さ三十センチばかりの紐をくくりつけ、その四本の紐を一か所で結んだ。さらにその結び目に長い一本の紐を取り付けた。こうして魚を掬い取る仕掛けを家でまず用意したのである。この小型の四手網の中へ、サザエを割って小さくちぎったものや、ガゼ(注:黒くて鋭いトゲのある雲丹)を割ったものを餌として入れ、さらに錘にと浜辺で拾ってきた手頃な小石を加えて、網をゆっくりと沈めると小魚たちがすぐ集まり、網の中の餌をつつき始める様子が波止の上からでも覗われるのであった。

 

 今思うと、アユに似ていて、緑色と薄赤い色の横縞が入った「ノメリコ」という小魚が一番多かった。問題は小魚たちが少しでも多く網の中に入っているのを見定めて、網を引き上げなければならないことである。網が引き上げられていくのを魚に気取られないようにゆっくり操作しなければ、魚は瞬時にして身を翻して逃げていく。武人はこういった事細かな事にかけて、私には到底及ばない知識と技を持っていた。

 「僕が下りて行って魚が網の中に入ったのを見たら合図をするから、ゆっくり網を引き揚げるのでね。えーかね」
 私は波止の上で網に取り付けた長い紐を持っていた。彼はこう言うや否や、草履を脱ぐと、まるで猿が岩場を降りるようにすばやく波止の石組を降りて海面にまで行った。そこで岩に生えた海藻をちぎって水中眼鏡を洗って頭にかけ、半ば体を海水に沈めて顔を水中に漬け魚たちの動きを注視した。

 

 彼はまた素潜りにかけてもなかなかの名人で、波止のすぐ沖合の海中に潜っては大きなサザエやアワビをよく捕っていた。当時はそのような場所においても大物が生息していて捕獲も可能であった。

 

 緒方家では夏になると時々、この波止へ出かけて行って、家族一同、看護婦たちも一緒に、そこにある大きな平たい岩の上で、夕涼みを兼ねて夕飯を楽しんだものである。親戚の泊り客などがあると、客をもてなす意味で、わざわざそうした食事をした。その際、子供たちもそれぞれに各自分担して、茶碗や箸などは勿論、飯櫃や鍋などを、台所から渚を通ってこの岩まで行き来して運んだ。

 

 食事が終わったときである。武人はパンツ一枚の裸になって海に潜り、サザエやアワビなどを取ってきては、その場で割って中身を海水で洗って皆に提供した。彼は満面笑みを浮かべてはまた海中に姿を没した。

 

 こうした子供時代の遊びが後年思わぬところで役立った。武人は萩中学校を卒業後、官立宇部高等専門学校(現山口大学工学部)に入学し、昭和二十六年に同校を卒業した。その年彼は国家公務員試験に合格した。建設省の本庁に入省しないかという話があったが、当時は朝鮮戦争の真最中で、最高指揮官のマッカーサーがこの戦いを止めさせるために、トルーマン大統領に原爆の使用を進言し、そのために突如司令官の職を解雇された時代である。  

 

 当時我が国は米軍の補給基地であり、東京はいつ爆撃を受けても不思議ではない時期だったので、武人は地方の建設省事務所勤めを希望した。希望がかなって最初、徳島県吉野川工事事務所に勤務し、数年後今度は、島根県建設省斐伊川(ひいがわ)工事事務所に転勤した。

 

 「出雲市の東を流れて宍道湖に注ぐ斐伊川一級河川ではあるが典型的な天井川で、宍道湖周辺では洪水が多発し、そのために江戸から平成にかけて様々な対策が行われてきているが、いまだに洪水の被害から解消されていないとう厄介な河川である」と、上記事務所は公表している。

 

 この川はスサノオノミコトが八(や)岐(またの)大蛇(おろち)を退治したという伝説で有名な川である。この伝説は、この川が本来暴れ川で、雨期になるとしばしば氾濫したので、ミコトがこの川の治水に力を尽くしたこと、また昔からこの水域で良質の砂鉄(さてつ)が採れていたことが、この伝説になったのではないか、という古老の話を、武人が伝え聞いて語ってくれたことがある。

 

 さて、武人が建設省斐伊川工事事務所に転勤して早々、上記の理由で、事務所が何度架橋しても、失敗して困っていた場所があった。

 「私が潜って見てみましょう。原因が分かるかも知れません」

武人はこういって事務所長の承諾を得ると、原因究明のために水に潜って見た。すると、架橋予定地の上流に大きな花崗岩があり、その岩の下部が大きく抉(えぐ)られていて、大きな渦が発生し、そのために橋脚をしっかりと支えておることが不可能だと分かった。

 「あの大岩を破砕して水の流れを真っ直ぐにすべきだと思います」

彼はこのように進言した。ところで水中に潜った際、武人は渦に巻き込まれ溺れそうになった。海水と異なり川水には浮力がなく、さすがの彼もやっとの思いで脱出できた。危険を冒しての調査結果を所長に報告すると、事務所では武人の意見を取り入れて架橋の計画を変更して橋はようやく完成した。武人はほどなく係長に昇進した。そのとき「モグリ係長」と言われたと、苦笑しながら話していた。現代なら専門の潜水夫を入れて調査するであろうが、当時はそうしたことをまだしてはいなかった。
 武人が出雲から私にくれた葉書(消印 昭和31年6月13日)が手元にある。

 「三月始より、今まで色々と斐伊川について調査して来た事を全部まとめて改修計画の立て直しにかからねばならなくなり、以後残業、残業です。後一カ月程すれば大体の骨組は出来上がり、後は少しゆっくりさせてもらはなくてはと思って居りますが、どうなる事か分かりません。」


         

(二)

 さて、武人が小学生であった時分に話を戻そう。惟芳がオートバイを購入したのは昭和の初期、山陰本線の鉄道工事で村の人口が増加し、収入がかなりあったためでもある。アメリカ製の「インディアン」という赤い車体であった。武人は次のような思い出を書いている。

 

 父は若い頃往診にオートバイを使っていた。当時村には自動車はなかった。オートバイも父が使っているのが一台だけだった。そのような時代だから、村の道を自動車が通過するのは一日に一台か二台に過ぎなかった。したがって、父の乗っているオートバイの音は、遠くからも聞こえたので、村人は早くから道を開け、オートバイに乗っている父に頭を下げた。

 

 オートバイが故障すると、萩にも修理する人がいなかったので、広島の購入先に電話をかけるために、母は郵便局へ行った。当時はなかなか電話が通じないので、申し込んで一時間以上待つのは当たり前であった。母は忙しいので、私が郵便局で待っていて、電話が通じたら走って家まで帰り、母も走って郵便局へ行き、要件を話した。
郵便局までは百五十㍍ばかりある。なお、修理工は広島からわざわざ宇田郷まで泊まりがけで来た。車検に出すときも同様に、修理工が宇田郷へ来て点検し、それに乗って広島で車検を受け、また乗って戻ってきた。

 

 ある時、オートバイでの往診の途中、狭い道路で種牛とすれちがった。坂道にさしかかり加速したので、その音に牛は非常に驚いたのだろう。ちょうど発情期で気が高まっていた牛だったので、手綱を振り切ってオートバイを蹴った。バランスを失い、父は数メートル下の川に落ちた。幸い頭に被っていたヘルメットが凹んだだけで身体はどうもなかった。しかしこのような事故を二度と起こさないようにと、村人が心配しまた忠告したので、父はオートバイの乗車を断念した。

 

 オートバイに乗るのを止めることにした理由が他にもある。正道の言によれば、当時のオートバイは、エンジンを始動さすとき、ペダルを強く踏み込まなければいけないのだが、バネ仕掛けでペダルが跳ね返るので、余程の注意を要した。一度でエンジンがかかればよいが、頻繁な使用でプラグが消耗していたりすると、何回もペダルを踏まなければならない。

 

 ある時、急を要し気が焦っていたのか、惟芳はペダルを踏み損なって、アキレス腱を切断した。その時、萩市の玉木病院へ急いで行ったので、レントゲン写真を撮る際に、古い下着のままであったので、恥ずかしかったと妻の幸に語っている。惟芳は常日頃から、着る物にはあまり頓着しなかったが、その時ばかりは気になったのであろう。
オートバイに乗っていたために、このような事故で二度も入院したので、彼はやむなく乗物を替えることにした。支那事変が昭和十二年(1937)七月に始まり、続いて我が国は太平洋戦争へと突入したので、軍需必要物資のガソリンの入手も厳しくなった時でもある。

 

 そこで今度は輪タクに切り替えた。輪タクとは、幌を被せたリヤカーに人を乗せ、それを自転車に乗った者が運転するものである。幌にはセルロイド製の窓がついていた。また入り口をボタンでとめ雨風を避けるようになっていた。運転者は最初中島の鉄(てつ)兄(にー)という若い男性であった。しかし彼が応召したので近所の別の男性が受け継いだ。そして最後にこれも医院の近くに住んでいた柳井作男がしてくれた。作男はもうすぐ五十に手の届く年齢であったが、惟芳より四・五歳若くて元気な百姓であった。近所の者は「作(さく)兄(にー)」と呼んでいた。

 

 二度あることは三度あるというが、惟芳はまた輪禍に遭った。夏も終わり秋のはじめのある夜のことである。下弦の月が仄白く光って見えていたが、雲間に入るとあたりは急に暗くなった。波が絶え間なく打ち寄せては引いていく。ここの海岸は奇麗な丸い小石で埋め尽くされているので、波が引く時の「ザー」という音は夜の静寂によく響いた。この間断なき波音を除けば、人気(ひとけ)の全くない寂しい夜であった。時刻はすでに九時を過ぎていた。  

 

 惣郷への往診の帰り道である。宇田郷駅の前の大きな松の木が暗闇の中に暗い影を落として高く聳えていた。低い屋根の駅舎を過ぎた。それまで懐中電灯の明かりを頼りに海岸沿いの道を走っていたが、その灯が突然消えた。

 「先生、電池の灯が消えましたが、何遍も通った道でありますので、闇夜でもよう分かって居りますから大丈夫でございます。遅くなりましたから、急いで帰りましょう」
 「もうすぐトンネルだね。それを過ぎたら人家の灯も見えてこよう。それではあともう少しだ、ご苦労だが頼むよ」

 この日は夜分に入って急患の呼び出しがあったので、帰りの時間が遅くなったのである。このころ彼はすでに五十歳の半ばに達していたので、患者も心得て夜間の往診を頼むことはそんなに頻繁ではなかった。

 

 日頃通っている道でよく知っているとはいえ、夜道をこうして自転車を漕ぐのは作兄にとって、そう慣れたことではない。彼はせわしくペダルを踏み続けた。道はトンネルの手前で左にカーブしている。生憎海からは時々強い風が吹きつけた。作兄はそのカーブを曲がり切れずに断崖から自転車もろとも落下したのである。

 「ちょうど落ちた処に平らな岩があってよかった。それにしても運がよかったな。急に身体がスーッと落下するなと思っていたらドスンと衝撃を喰ったが、幌のおかげで助かった。これがなかったらひどい目に会ったかもしれん。お前は大丈夫か? 怪我はなかったか?」

 惟芳は肋骨を痛めたように思ったが、作兄の事が気がかりで訊ねた。

 「いいえ、別に大したことはありません。サドルで尻をガツンとひどく打ちましたが、歩くには差し支えはしませんから」
 「そうかね。その程度だけならよいが。それにしてもちょっと困ったな。暗闇であたりがよく見えないが、この崖をどうして上ろうか」
 「ここへはサザエや雲丹を取りによく来ております。ここには上り下りの道はついておりません。しかしいつもトンネルの外をぐるっと回って泳ぎながら来ますので、岩の配置は大体分っちょります。上り道はありませんが、松の根が張っておりますからそれを掴んで岩を上ってみましょう。私が先に行きますから、先生、私の後をついてきてくださいませ。」
 「奉天に攻め入った時、市街地を囲む数丈もの高い城壁を兵士たちは無我夢中でよじ登った。後で見たらとても登れるような城壁ではなかった。あれを思えばこれくらいの崖が登れぬものか。」

 ふとあの昔の激戦地の模様が頭をよぎった。惟芳は自らを元気つけるために大きい声でこう応えると、作兄の後から痛みをこらえながら、断崖に噛みつくように張った松の根を掴み、また岩の間のわずかな土に生えている小さな灌木を手掛かりに、やっとの思いで人道に出ることができた。そこから医院までは二百㍍もない距離である。二人は無事帰り着くことが出来た。途中作兄は思いもかけないことを口にした。

 「先生、申し訳ないことをいたしました。いま思いますとキツネに化かされたような気がいたします。実際は曲がっておりますのに、道が真っ直ぐに見えましたから。」
 こう云って作兄は頭を下げた。幌が落下の衝撃を幾分防いだといっても、下を見れば足が竦むような高い断崖である。後で判明したことだが、惟芳は座っていて、落下の際膝で胸を強打したので、肋骨が数本折れていた。一方作兄も尾骶骨を折っていた。
 帰りの時刻が予定していたよりあまりに遅いので、家中の者は皆心配した。十時を大分過ぎて惟芳と作兄が見るも無惨な濡れ鼠の姿で玄関に立った。しかしこうしたひどい怪我にもかかわらず、医院にたどり着けたのは、二人とも気が勝っていたからである。

 

 この事故から七十年ばかり経った平成二十一年五月一日、筆者は現場へ行ってみた。その日は朝から快晴で海は濃藍の色を呈していた。車外に出ると正午の太陽が照りつけ汗ばむほどであった。当時の状況そのままに、切り立った断崖の下は、ごつごつした茶褐色の花崗岩の岩場である。打ち寄せる波が大きい岩に当っては砕け、白い飛沫となって散り、海面には水の泡を作っていた。荒天のときなど、波(なみ)飛沫(しぶき)とともに、海藻やサザエなどが道路にまで打ち上げられていたと、正道が子供時代の事を語ったのを読者は覚えておられるだろう。

 

 私は道の上から錘をつけた糸を垂らして実測を試みた。一番高いところは海面まで十㍍もある。彼らが墜ちた場所だと思えるあたりの崖は、平均して七・八㍍の高さであった。崖にはかろうじて使用できるセメントの階段がつけてあった。降りてみるとそこには発泡スチロールの容器や塊がすぐ目についた。白い塊はブイだと思えた。ペットボトルや絡(から)み合った網やロープなどが堆(うずたか)く寄り集まっていた。ハングル文字があるので、韓国から流れ着いた残骸であるのは一目瞭然である。

 

 凸凹した大小の岩の上を、落下地点と思われる場所まで行ってみた。そこにはかなり大きな平たい岩があった。この岩の上からでも路上まで五㍍は優にある。ちょっと見ただけでは容易に上れそうもない崖がそそり立っていた。このような高い絶壁を、五十歳に達した男たちが、それも暗闇の中、骨折という痛みを押してよじ登り、よくぞ家に帰り着いたものである。泥にまみれた姿を見た時、家族の者たちの心配と驚き、そして安堵の気持ちは想像に難くない。

 

 このように輪禍が重なった。戦争で少しでも働けるものは召集され、人手が無くなったので、惟芳はまた自転車で往診することにした。足腰が弱くなり、片道三キロの惣郷までの道のりに加えて、そこからの山道は骨が折れた。前章でも言及したように、緒方医院に入ったばかりの看護婦の福さんやフミさんが、自転車の荷台を押し、また坂道にかかると、惟芳の腰のあたりを後ろから押したと語っていたが、彼らの涙ぐましい姿が想像される。

 

 墜落の現場を見たついでに、私はさらに惣郷の部落まで足をのばした。今は立派な自動車道路ができているが、この道路は以前緒方医院など人家が密集していた街中と二人が墜ちたところの隧道を迂回して、その先で昔の道とつながっている。またこの自動車道は惣郷の部落には入らずに長い大刈トンネルを通って、須佐町へ抜けているので、私はトンネルの手前から海岸線に沿って進んだ。しばらくして惣郷の鉄橋が突然見えてきた。コンクリート製の堂々とした橋脚が立ち並んでいる。海中に建てるために鉄製では腐食するのでコンクリートにしたのだ。この上を山陰線が走っている。
 
 昭和八年の山陰本線の開通は、大刈の鉄道トンネルとこの惣郷の鉄橋が架設されて初めて可能になったのである。この立派な鉄橋を間近に見て、当時難工事だといわれたことが納得できるような気がした。川幅が急に狭くなった。両岸に赤瓦の家が数軒見えてきた。中年の女性が畑で鍬を動かしていたので車を止めて訊ねた。

 「八十歳代の人はおられませんか?」
 「ここに居るものはみんな年寄でございます」

 彼女の紹介で三人の老婆に会った。

 「私どもは皆惣郷で生まれ育って、ここで結婚してここから出たことはありません。ここでもうじき死にましょう。緒方先生には疫痢や赤痢がはやったとき助けてもらいました」

 鍬を担いでいた八十二歳だという老婆がこう言った後で、別の老婆が、先が少し短く爪が変形した右の薬指を出して見せて言った。

 「私は六つのときギーコバッタン(注:米を搗く装置で、ダイガラとも云う)でこの指を詰めたとき、先生に治療してもらいました。ガーゼを取りかえられる時そりゃー痛かったです。そのとき先生が,『痛かろうが我慢しなさい。あとでこの金魚をあげるから』と言われましたが、本当に痛うございました。いまでもよう忘れません。それから、先生は看護婦さんにはひどくて、福さんをよく叱っておられましたことも覚えております。しかし病人にはやさしゅうございました」
 「先生も日露戦争に行かれたのですか? 私の主人の父親も日露戦争に行って金鵄勲章と百円もらったそうです。そのことがお墓に刻んであります」

 これを聞いた三人目の老婆が口をはさんだ。

 「あのころの百円ちゅうたら、今の百万円もするでの。たいしたもんじゃの。そりゃそうと、西村フユさんと佐伯の福さんもよう覚えております。先生とここまでよう来ておいでましたから」

 彼女たちの一人は八十五歳で膝が痛いと言っていた。誰もみな惣郷の田舎で生まれ、この地の男性と結婚し、他の地を知らずにここで一生を終えることを当然と心得ている風であった。屈託のない話は続くが、「気をつけて御帰りなさいませ」という三人の言葉を後にして私は彼女らと別れた。心安らかな人たちである。畑には麦が青々とよく育っており、新緑の山から鶯の鳴き声が時々聞こえてくるのどかな田舎の風景であった。

 

 そこからさらに車を走らせて自動車道路に出た。その少し先にある立派なトンネルの手前を鋭角に左折して急な山道を上って行った。このトンネルが出来る前には、須佐へはこの左右に曲がりくねった急峻な山道を人も車も通らねばならなかった。特に車の場合、細心の注意を必要とした。

 

 戦前のある日、太刀魚を満載したトラックが墜ちたことがある。夜間だったので、太刀魚が放つ燐光をたよりに、運転者は道まで這い上がることができたという。そのような道をおよそ二キロばかり行くと、谷間の向こうに山中にしてはなかなかしっかりした家が二軒見えた。家の周りには大きな椎とタブの木がこんもりと葉を茂らせていた。谷間にも狭い畑があって、青々とした麦の穂が風にさわさわと揺れていた。昔はここに五軒の百姓家があったと、そこで運よく見かけた女の人が云った。

 

 ここまで車で来ても大変である。徒歩で往診したとなると、確かに骨が折れたことであろう。そう度々ではなかったにせよ、医院から片道五キロ以上ある。三キロの道を自転車を漕ぎ、さらに山道を医療器具の入ったカバンを抱えての往診である。惟芳は自転車を麓に置いて、急な坂道をただ一人でよく歩いて上っていた。私が訪ねたときは一年で一番良い季節で、新緑が目を楽しませ、鶯の鳴き声が皐月(さつき)の空に響いていたが、冬ともなれば、海岸沿いの道は吹雪に悩まされたことであろう。また夜道を懐中電灯の小さな明りを頼りに、小道を辿らねばならないこともある。そのような時心配した正道は、駅近くまで父の帰りを迎えに行ったこともある、と言っていた。
医師として病人を助けたいという義務感あるいは使命感に基づく行動は、たった一度の自動車による追体験で、それを忖度できるような軽薄なものではないことを筆者は思い知った。

       

 

(三)

 『杏林の坂道』を執筆するにあたり、多くの資料を提供してくれたのは惟芳の三人の息子たちである。武人は父について次のような事を書き遺してくれた。「遺してくれた」というのは、残念なことに、二人の兄に先だって平成十四年九月に亡くなったからである。

 

 彼が生まれた時は大変大きな丈夫そうな子であった。惟芳はこの子を立派な軍人にしたいと思い、「武人(たけと)」と名付けた。武人は子供の時、よく父から「大きくなったら何になるか?」と聞かれ、始めは「兵隊さんになります」と言った。そうすると父の機嫌が悪かった。その後武人は聞かれたときはいつも「大将になります」と言ったら、大変機嫌がよかった。これに似たエピソードがある。

 

 武人は昭和十七年に県立萩中学校に入り、課外活動で射撃部を選んだ。彼は、射撃は軍人には必要で、父も喜んでくれると思い、この事を報告すると、惟芳は「射撃は兵隊がすることだ。なぜ剣道部に入らなかったか」といって叱った。
 

 惟芳としては、いやしくも軍人になろうというのなら、わが子が指揮官を目指すことを期待していたのである。しかし武人は次のような事を書いている。

相手を殺傷し、自らも死を覚悟しなければならない軍人より、人を生かす医者になることを父は心の底では望んでいたのかもしれない。私が小学生のとき父が母に、「子供たちは将来医者になって、一緒に病院でも開いてくれたら良いな」という言葉を耳にした。 

 

 今にして思えば、父がこのような希望をもっていたから、子供たちを厳しく教育したのだ。兄弟の中で唯一人医者にならなかった私について、いま父が生きていたら何と言うだろうか。

 

 惟芳は武家に生まれその教育を受けたとはいえ、戦って相手を斬り倒すことを真の目的とはせず、矛を収めることに武の本質があると考えていた。
正道が風呂からあがって濡れたタオルを絞ってさらに水気を取るために、「バサッ」とタオルを振り下ろした時、その音を聞いて惟芳が、「タオルをそのように振るな。刀で人を斬る時、それに似た音がするから」と注意した。

 

 医者の立場を離れて、惟芳が村人たちに優しく接していた姿を、武人は伝えている。戦時中のことである。時の政府は国民を鼓舞激励するために、いろいろなスローガンや標語を出していた。ある時診察に来た近所の老婆が、「先生、滅私奉公とはどういうことですか?」と訊ねた。彼はその質問に対して例をあげて、田舎の老婆にも分かるように丁寧に説明した。そばで聞いていた子供の武人にも、その意味がよくわかった。惟芳は医師としての仕事だけでなく、村の中でこのような事も行っていた。
「滅私奉公」という言葉の説明を聞いて、父親の日頃の生活態度こそそうではないのかと、武人は子供ながらに思った。

 

 戦前の日本人は概して神仏を敬っていた。緒方家では次のようであった。
子供は毎朝当番で神棚と仏壇の拭き掃除をし、榊と花の水を入れ替えた上で灯明・拝礼を行わなければならない。特に神棚が安置してある部屋まで手桶の水をこぼさない様に運ぶのは、幼い身にとってはなかなか容易ではない。まず台所のポンプで水を汲み、そこから廊下、階段、また二階の廊下を通って神棚のある部屋に入り、そこで小さな梯子を立て懸けて上らなければ出来ない作業であるからである。

 

 国の祝日は勿論、毎月一日と十五日(八幡宮の祭り日)、それに家族の者の誕生日には神様にお神酒を供えた。特に毎年一月十五日には神主に来てもらって、家の祭を行った。白衣をまとった神主が祝詞(のりと)をあげるのを、惟芳はじめ家族全員揃って、頭を下げて聞くのであった。祝詞が終わると、神主は白衣の袖を大きく左右に払って、大きな拍手を打つ。正道は子供心に、「如何してあんなに澄んだ音がでるのか」と不思議に思った。

 

 それから神主は、朝早く汲んできた海水の入っている手桶に海藻を浸けて、それでもって家族全員の頭上にパラパラと潮水を降り注いでお祓いをした。これが終わると、御神米を頂いて、カリカリと噛むのである。惟芳をはじめ家族全員が、神妙な顔をしての行事である。この間清新で静かな時が流れた。その日の夕食には、お神酒を皆で頂くことになっており、未成年の時から、お神酒だけは許されていた。また、亡くなった先祖の祥月命日には、一日中精進料理であった。
 
 医者としての父に接した子供たちの思い出を少し述べてみよう。当時は今のような冷房装置はない。夏の暑い日、惟芳が往診から帰った音が聞こえると、母の言いつけで、子供たちは大きな団扇を持って玄関へ走っていき、「お帰りなさいませ」と、声をそろえて言って皆で父を扇いだ。母に言われるまでもなく、暑い日中、汗を流して帰ってきた父に対して、こうすることは当然のことだと思っていた。
ある時、母の妹が萩から来てこの光景に接し、「緒方の兄様は大したお方だ」と、やや皮肉めいた口吻を漏らした。それを聞いて、武人は母と未婚の叔母では考えに違いがあると思った、と思い出を述べている。

 

 筆者もそのような場に居合わせたことがある。惟芳が往診から帰ると、大きな渋(しぶ)団扇(うちわ)を持って玄関へ駆けつけて、従兄たちの後ろから、それを両手に持ってバサバサと動かしたことを、はっきりと覚えている。
そうした後、看護婦が消毒液の入った噴霧器に圧をかけて、まだ白衣のままの惟芳を消毒した。そのとき彼は身体を一回転して満遍なく消毒してもらうのであった。

 

 深夜の往診もよくあった。患者の家族が医院の入り口のボタンを押すと、二階のベルが鳴り、看護婦が起きて玄関を開ける。妻の幸はすぐ目を覚まして惟芳を起こす。「うん。そうか」と云って、惟芳はすぐ起きた。彼は死にいたるまで、変わることなくこのように患者に対応した。寒い季節の往診も大変だが、夏特別暑い日の往診も、年を取った身には応えた。患者の家に着くと、上着を脱いで、シャツの上に白衣を着て診察する。終わった時、井戸水で冷やしたタオルを固く絞って、バサッと肩にかけてくれたりする家もあった。「冷やしたタオルをかけてもらった時は生き返った気がした」と、医院に帰った惟芳は幸に話した。

 

 午前中の診療が終わり、昼食後の休憩時に、両手で太股の大きさを測って、年齢と共に体力が次第に衰えていくのを感じた。今とは違い、人生五十年と言われていた時代である。六十歳に手の届く齢になっていた惟芳は、足腰の痛みを覚えるようになった。夕方往診から帰って入浴した後、足や腰の痛みの治療を行うのであるが、戦時中で適当な薬品がもうなくなっていた。彼はカンフル注射の液を綿棒につけて、看護婦に局部に塗らせていた。

 

 疲労が烈しい時は、昼休みに看護婦に足や腰を揉んだり叩いたりしてもらっていた。ある時、看護婦が惟芳の腰を揉みながらうとうととし出した。そのうち眠りが深くなって、惟芳の身体にかぶさるように寝てしまった。惟芳と幸は笑いながら、「しばらくそっとしてやろう」と言って、そのままじっとしていた。
 「大きな木魚にすがって寝ている小僧さんのようでありますね」
と、幸は笑って言った。そのころ緒方医院で働いていた看護婦の中には、小学校を出て間もない者もいた。

 

 雪の深く積った夜のことである。惟芳は往診からまだ帰って来ない。幡(はた)典(のり)たち子供は床に就こうとしていた。そのとき、幼児を連れた若い夫婦が来院した。彼らは葛篭(つづら)という山奥の部落で炭焼きをしていて、三キロばかりの道を、幼児を背負って来たものと思われた。幸は急いでその子を幡典の寝床の横に寝かすと、火鉢の火を熾(おこ)し、洗面器で湯気を立てて部屋を暖め、夫の帰りを待った。
子供は次第に弱って行くように見えた。幡典は炬燵の上に手を載せて、身を乗り出すようにして幼い子の足元から顔までをじっと見ていた。父の帰りが遅いので母が看護婦にカンフル注射をさせた。しかし幼児は唇を微かにゆがめただけで反応は鈍かった。そのうち、ゆっくり左右に動かしていた黒眼が静かに止まった。父が帰ってきたときには、すでに息を引き取っていた。

 

 その若い夫婦は礼を言って、幼児の亡骸を背負って、深い雪道をとぼとぼと帰って行った。幡典はその時の後ろ姿を今でも忘れられないと言う。

惟芳は常々、幸に次のような事を言っていた。
 「医者は自分の手の中で、患者がだんだん冷たくなって行くのを体験して初めて、本当の医者になれる。自分の親や妻や子を死なせた場合、一層そうなるのだ」
 
 惟芳は近親者の死にも直面したが、日露戦争で多くの戦死者に接し、続いて広島衛戊病院、さらに宇田郷村で、村人の診療にあたり、多くの死者と対面した。この言葉は自らの貴重な体験に裏打ちされていると言える。

 

 惟芳はすでに述べたように、オートバイに乗っていて牛に蹴られたり、人力車もろとも高い崖から落ちて大怪我をしたりした。また過労により足腰の痛みを訴えたこともある。しかし、生死にかかわるような問題で、家族の者をはじめとして、村人たちを心配させたことはこれまでなかった。ただ一度だけこんなことがあった。
 

 支那事変が始まって間もないある日の夕方、激痛が彼を襲った。尿管結石が原因であった。随分苦しんだが漸く病状が落ち着くと、村人の多くが見舞いに来た。寝床の周りに人垣が出来て、子供には父の顔が見えない程であった。彼らが帰った後、惟芳は家族の者に遺言めいた事を言った。幡典はその時のことをはっきりと覚えていた。
 
 母は台所へ通ずる廊下の途中、その右横の鏡台が置いてある小さな部屋に入って、一人ボロボロと涙を流していた。見舞客がいる間は泣くそぶりを全く見せなかった母が、一人になると涙を流す姿を子供心に強く印象つけられた。

 

 また、父がまだ病床に臥していたとき、村人の一人が。「先生、この神様のお札を飲まれましたら、きっと治ります」と言って、小さな紙切れを差し出した。医者としてそんなことをしても、何の役にも立たないという思いもあっただろうが、母に水を持って来させて、その村人の目の前でそのお札を飲んだ。村人の好意をあえて無にするようなことをしなかったのである。

 

 

(四)

 昭和十五年(1940)は皇紀二千六百年である。国を挙げて建国の祝いの行事が各地で行われた。惟芳はかねてより伊勢神宮橿原神宮の参拝を望んでいたので、「今のところ急に悪くなるような病人は村におりません」と言って、中山村長に五日間の休暇を願い出た。村長は喜んで許可を与えた。
大正元年に開業し、昭和二十年九月十四日に急逝するまでの三十三年間、それこそ一年三百六十五日、一日二十四時間、惟芳は無休で村民の医療にあたった。病気や事故による休診を除けば、彼が診療を休んだのは、この伊勢・橿原の両宮参拝の五日間だけであった。

 

 惟芳は正道を伴って念願の旅に出た。なぜ正道だけを連れて行ったのか。正道はその時の父の気持ちを次のように忖度している。

 

 武家の子として育てられた父は、息子たちの教育にあたり、その武家の躾をもってした。昔は男児十五歳に達すれば、元服して一人前の男と見なされる。親はわが子がその年齢になるまでは、人としての基本的な躾を厳しく教え込んだ。私は十五歳になった。父は私が世の中に出て一人立ちできるように、この際世間を見せてやろう。こうした親心に基づいて、私一人を連れて行ったのであろう。

 

 昭和十五年、我が国は支那事変においてまだ有利に戦いを進めていた。したがってこうした建国を祝う気持ちを国民は等しく抱いていた。惟芳は両宮参拝を千載一遇の好機として、日露戦争に従軍した時の戦友や、戦いが終わって勤めた広島陸軍衛戊病院時代の恩師に会うことを計画したのである。

 

 二人は昭和十四年十二月三十日正午頃、宇田郷駅から列車に乗り込んだ。途中山陰線の浜田駅で下車した。日露戦争の戦友で、広島衛戊病院でも一緒であった井廻藤三郎氏に会うためである。惟芳には戦友がもう一人いた。山口県の、現在の光市在住の山本恭助氏である。山本氏は写真業を営んでいたが、当時はすでに引退していて、長男が歯科医となっていた。

 

 話は飛ぶが、昭和二十年八月十四日、太平洋戦争が終わる前日、光市の海軍軍需工場で勤労学徒として働いていた幡典は、米軍の空爆に遭って大怪我をした。その時援助の手を差し伸べてくれたのが山本恭助氏であった。不思議な縁と言える。数年後、正道、幡典、武人の三兄弟が一緒に挨拶に行った時、山本氏は次のような昔話をした。

 「日露戦争の後、衛戊病院に衛生下士官が約六十人ほど勤務していました。この者たちに対して、特例として医師資格試験の受験資格が与えられました。あなた方のお父さんが大正元年に最初に合格され、次に井廻藤三郎氏が大正四年に合格されました。合格はこの二人だけでした。私は何度も受験しましたが失敗しましたので、終に諦めて、好きな写真を生業として暮らすようになりました。お父さんはよく勉強しておられました。あの頃の成績表がここにあります。お父さんがいつも一番で、私はこの通り二番でした」

 

 井廻氏は惟芳と同じ明治十六年生まれで、その時召集されて浜田の陸軍病院に勤務していた。惟芳も、戦時下のことで自分もいつ召集されるかもしれない、そうなった時、残した患者の処置をどうすべきか、といった相談や、日露戦争ならびに広島衛戊病院時代のこと、さらに新しい痔の治療法など、話が尽きなかった、と正道は筆者に話してくれた。

 

 その日の夕刻浜田駅から京都行きの寝台車に乗った。上中下三段の寝台があり、二人とも下段に指定されていた。上段より揺れは少ないはずだが、初めての寝台列車で、各駅のポイントを通過する度に横揺れがあって、正道はなかなか寝付けなかった。明け方少しまどろんだかと思うと父に起こされた。午前六時に京都駅に着いた。二人が乗った車両には彼らの外にもう一組いて、乗客は四人だけであった。

 

 「今日の夕方までに宇治山田に着けばよい。それまで時間があるので、京都見物をしよう」惟芳はこう言って、タクシーの運転者と交渉を始めた。当時、一日の貸切が十円、半日が五円であった。彼らは半日の乗車で市中を見て回った。戦時中で観光客はほとんど見当たらなかった。西本願寺清水寺銀閣寺、三十三間堂を訪れた。三十三間堂の通し矢の天井に、多数の矢が突き刺さっているのが正道には最も印象深かった。彼は翌年県立萩中学校に入って弓道部に入部し、自ら弓を引くことになるが、ここにも不思議な因縁を感じることが出来る。

 「弓道を習った者は皆承知しておる事だが、普通弓を引く時、的までの距離は十五間(約二十八メートル)である。しかしこの三十三間堂の場合、間口が六十六間(けん)で、普通二間(けん)を一間(ま)として三十三間(ま)あるので全体の長さは約百二十メートルである。しかも天井が低いので、余程の強弓でないと矢は的には届かない、そして、そのような弓が引けるものはまさに豪の者だ。江戸時代に和佐大八郎という武士が、一昼夜ぶっ通しで通し矢を試みて一万五千本の中八千百三十三本成功した、というが、空前絶後ともいえる偉業だ」

 惟芳は今は弓を全く手にしないが、弓を引いた萩中時代を懐かしんで、息子に語りかけた。市内の見物を終え、京都駅を午後出発して、東海道線亀山駅で伊勢行きの列車に乗り換えた。宇治山田駅に着いたのは、昭和十四年も大晦日の十二月三十一日午後六時過ぎであった。駅で、衛戊病院時代の恩師小川勇氏の御子息の出迎えを受けた。列車が着いて乗客のほとんどが改札口を出て行ったので、次の列車で来るのかと思っていたら、跛(びっこ)を引く男の子を連れた父親が最後にやってくるので、初対面ではあるがすぐ分かったそうである。
 「お前が足が悪いと言っておいたから、すぐ分かったのだろう。小児麻痺も時には役に立つことがある。」と、惟芳は笑いながら言った。
 
 小川氏は宇治山田日赤病院の院長をしていた。院長の宿舎へ行く途中、解体して内臓を取り出し、皮を剥いだ牛の大きな塊が多数天井から吊り下げてある肉屋の前を通った。正道の住む田舎では、魚は毎日食べるが、牛肉を食べることは稀である。それでも、萩から月に一度位肉屋が来てはいたが、その時売るのは少量の肉片であるから、解体したままの牛の姿は彼の眼に強く焼き付いた。
宿舎に着くと早速立派な応接間に通された。小川氏は今は赤十字病院院長であるが、元来陸軍軍医である。口髭を生やし恰幅のいい落ち着いた人であった。彼は和服姿で大きな虎の敷物の上に端坐していた。惟芳は久闊を叙すことが出来た。

 「十年一昔と言いますが、一別以来三十年になりますね。いつもお便りは頂いていますが、緒方さんにはお元気のようで何よりです。」
「はい。お陰で何とか無事に過ごしていますが、やはり年齢には敵いません。しかしこの非常時ですから、戦いに勝つまでは、国民の一人として、働けるだけは働くつもりです」
 「私も同感です。六十歳にもうすぐなりますが、銃後にあって出来るだけ御奉公しなければと思っていますよ」
 院長はこう言った後正道の方に目をやって、
 「坊ちゃん。この虎は生きてはいませんから大丈夫。怖がらないでお座りなさい。」
 
 正道は虎の眼が義眼とは知らないで、本物の目のように自分を睨んでいるので、なかなか怖くて座れなかった。
 「この虎は満州にいる部下が仕留めて送ってくれました。あちらには今もこのような大きな虎がいて、夜に入って咆哮すると、流石の兵隊たちも肝を冷やすと言っていました。ところで緒方さん。このご時世で、日赤病院でも医薬品などが不足がちですから、個人の医院ではさぞかしお困りでしょう」
 「はい、おっしゃる通りです。これから益々窮乏してくると思いますので、どうしたらいいか心配です」

 

 支那事変から太平洋戦争に入ると、入手できる医薬品は月ごとに減少し、緒方医院では、阿武郡医師会から配給される薬品を、正道が受け取りに行っていた。一か月分の薬品と衛生材料の量は、小さな風呂敷に収まる程度で、これでは満足な治療はとても出来なかった。したがって惟芳は正道に次のようなことを命じた。
 「正道、萩中学校の中にある郡立図書館へ行って、薬品になるものを調べてきなさい。治療に役立ちそうな草木を探してきて、家で製造してみようじゃないか。」

 二人が工夫して作った代用薬品をあげてみると、

 

① ジキタリスの代用として、夾竹桃の葉を強心剤に使用した。この木が自宅の台所の傍にあるので、その新芽を集めて自然乾燥させ、お茶の葉を乾燥させる器具でさらに乾燥させて、茶臼で挽いて服用してみた。ジキタリスの十倍量を使って同程度の効果があった。
田圃の畦道に自生したセンブリを採取し、乾燥して胃腸薬に使った。
③ 南京豆、カボチャなどの種を煎じ、サナダムシの患者に服用させたら、長い虫が出たと言って患者が持ってきた。

 

 話が逸れたが、惟芳が広島衛戊病院で教えを受けた多くの教師の中で、小川勇先生に特別恩顧を感じ、宇田郷村で開業後も親交を続けたのは、先生が軍医であるが戦いを好まず、「医は仁術なり」を実践され、そうした生き方を貫いておられると見たからである。   

 

 小川氏は現在の九州大学医学部の前身である京都大学医学部福岡医学校の第一回生であった。小川氏から年末になると、いつも大きな伊勢エビが贈られて来た。

 「緒方さん、日支関係が今日の如き不和に陥り、結局戦火を交えるの他無きに立ち至ったのは残念なことです。此の事は、張作霖、張学良父子等が悪いためではあるが、満蒙現地に於ける日本人にも悪い点があると私は思いますね。即ち正義のために戦うのではなくて、利権のために戦うという、間違った考えを持つに至ったためですよ」

 戦時下、これはなかなか勇気のある発言だと、惟芳は感心して耳を傾けた。

 「緒方さん、私は思ったことを上官にもずけずけと言ったものです。昭和十三年の頃、徴兵検査成績に基づいて、寺内陸相が、壮丁の体位低下の兆しがあるのを指摘されて以来、国民の体位向上の急務が絶叫され、内務大臣からわざわざ日本医師会に対し、国民の体位向上に関する具体的方策如何、という諮問の案件が発せられました。私はこれに対して卑見を医学誌上に発表しましたが、上部では真剣に考えてくれなかったね」
 「どんなご意見を発表されたのですか?」

 小川氏は惟芳にもタバコを勧めながら、自ら一服くゆらすと、医学誌上に発表したままの言葉で、次のような意見を述べた。
 
 「国民の体位低下の原因は種々あろうが、その主なものは結核の蔓延である。しかも年を追って農漁村の奥地にまで蔓延したのは、一つには、製糸、紡績工場が増設されて、田舎の女子が女工として多数採用されるが、最初は心身共に健康であった田舎娘が、都会に出て、殊に結核病の発生し易い工場作業に服するため、数年ならずして発病するものが多い。まずこのような意見を述べました」
 「確かに私もそう思います。日露戦争のときは多くの兵士が脚気で苦しみましたが、今日若い者がこうして結核になるのは大問題ですね」
 小川氏は相槌を打った。
 「その通りです。発病した者は帰郷療養がよいという理由で帰されるが、元々出稼ぎのために女工になったような貧家の女子が多いから、入院させるような資力はなく、家業の手伝いは思うようにできず、結核菌を散乱させながら、幼児の子守りでもして毎日ぶらぶら遊び廻っておる。」
 「その中には軽快するものもあるが、多くは増悪して長く呻吟しながら死亡する始末。衛生とか予防とかに無知な農家のことであるから、不知不識の間に、家族はもとより、親戚とか隣人にも漸次感染するというような結果になる。まあ以上のような趣旨です。」
 小川氏は一気に意見を開陳した。惟芳も全く同意見であるので、前に言ったと同じ言葉を口にした。
 「若者の多くが結核に罹るのは我が国にとって由々しき問題ですね」
 「そうですよ。軍隊においても同じことが言えます。私はその対策としてこう申しました。工場で発病した女工は工場においてあくまで加療し、入隊後発生した病兵は、あくまで軍部に置いて加療する。その方法として、軍部では結核師団を特設して、それぞれ適当な作業療法を行ったらいいと。まあざっとそんな意見を具申したのですが、反戦思想の持ち主と評されましたよ。ハッハッハ」
惟芳はこれも勇気のいる発言だと思った。

 

 

(五)

 皇紀二千六百年の一月元旦に、それも午前零時に伊勢神宮の内宮に参拝する目的で、その時間に合わせて、小川院長の案内で三人は歩いて出かけた。宇治橋の上から五十鈴川の上流に向かったとき、暗闇で山々は目に入らず、清い流れもざわざわという音のみ聞こえていた。しかし、境内は静謐(せいひつ)で神々しい雰囲気がひしひしと感じられた。

 なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

 

 小川氏は歩きながら、西行法師のこの有名な和歌を低唱した。神域に入ると、多数の参詣者がいたが、誰もみな何時とはなしに黙して語らなくなっていた。参道に踏み入ると、両側に並ぶ樹齢千年に近い杉が天を被っている。所々に明かり取りのためか、二坪ほどの大きさの穴が掘ってあって、その中で直径三十センチ位の大木が盛んに燃えていて、火の粉があたりに飛びはぜていた。穴の周りには多くの人が長い竹竿の先に針金で餅を吊るして焼いていた。正道は不思議に思って訊ねると、
 「この餅を食べると病気をしないと信じられているのだよ」と、小川氏は教えてくれた。
 途中ちょっと道を逸れて五十鈴川で口を漱ぐ場所へ下りて行くと、大きな鯉が多数寄ってきて正道を驚かせた。田舎を出て初めて接する風物は、彼にとっては何もかも珍しく驚きの連続であった。

 

 小川氏と惟芳・正道の親子は内宮の拝殿前にたどりついた。時あたかも皇紀二千六百年の元旦である。全国津々浦々から集まった参詣者でそこは大混雑を呈していた。一メートルもある大きな幅の石段を一つ上る毎に、数分もかかるほどであった。

 

 念願通り正月元旦の午前零時に無事参拝を済ますことが出来た。惟芳は胸中深く、日露戦争で戦死した兵士の御霊の安らかならんこと、合わせて世界の平和と繁栄を神に祈念した。その後、今度はバスで外宮を参拝し、午前二時頃ようやく院長宅に帰り着いた。早速入浴を勧められた。ここでも正道には驚くべきことがあった。

 

 宇田郷の家では、浴槽は鉄製の五右衛門風呂である。釜の底が熱いので丸くて厚い板を足で踏み押えながら身体を沈めなければいけない。ところが今入ろうとする湯船は木の香も新しい檜風呂である。自分たちのためにわざわざ新しく作られたのではないかと、正道は思った。

 

 午前三時頃、二階の客間で正道は父と並んで床に就いた。睡眠の妨げにならないようにとの配慮で雨戸が閉めてあったのと旅の疲れで、二人が目を覚ましたのは午前十時であった。雨戸を開けて外を見ると、一面の畑が目に入った。畑には、高さ三・四メートルの木組みがあり何段にも漬物用の大根が干してあった。

 

 朝寝坊を詫びて朝食の膳についた。正月料理が出された。雑煮の椀には四角い焼いた餅が入っていた。家で食べる餅は丸い。また雑煮の味付けはあっさりしていて、これも違った感じであった。朝食を終え、今度は小川氏の御子息に案内されて、列車で二見浦へと向かった。風が強く波飛沫が烈しく飛び散っていた。有名な夫婦岩を日の出の時刻に見ることは出来なかった。  

 

 多くの参拝者に混じって歩いて行く途中、サザエの壺焼きの店が多く並んでいるのに正道はまた目を見張った。七輪の上に金網を載せて焼いているが、金網が何段もあって、効果的な焼き方だと思った。田舎では一枚の金網の上に数個置いて焼いていたからである。

 

 午後から宇治山田市内の土産物を売る店に立ち寄った。惟芳は妻に買い物を頼まれていたからである。丁度この祝年は二十年毎の伊勢神社遷宮の年と重なっていたため、木曽の御料林から切り出して、遷宮に使われた木材の切れ端が業者に下賜されたのか、それでもって作った木製品が各店に多く陳列してあった。惟芳は妻が書いてくれたメモを見ながら、大量に買い求めて、家へ送る手続きをした。

 

 惟芳は普段は財布に三十銭から五十銭ほどの小銭しか入れていなかった。祝日や村に二つある神社の祭に、往診の途中お参りしたとき、賽銭として使うだけのものであった。村には本屋はない。他に金を使う必要がない。日常必要な食糧などを買うのは「通い帳」で行い、盆(ぼん)節季(せっき)の勘定期にまとめて支払っていた。その他生活に必要な物品は幸が萩へ出た時買っていたので、惟芳としてはこれまで、自分で多額の金額を払うということはなかった。

 

 したがってこの度の伊勢参りを前にして、幸が「もう百円用意していますから、持ってお行きなさいませ」と勧めるのを、「これだけあれば十分だ」と言って、どうしても持って行こうとしなかった。彼は自ら音頭を取って始めたラジオ体操に参加する子供たち全員(約五十人もいた)への土産も買って帰ろうとした。しかし金がどうも足らない。
「あの時ばかりは困った」と帰って妻に言ったが、普段お金を使わなかった惟芳には、どの程度のお金を持っていけばよいのか分からなかったのだろう。

 

 その晩、小川氏のところにもう一泊させてもらい、二日の朝宇治山田駅を出発して、奈良の橿原神宮に向かった。ここでも皇紀二千六百年を記念して、社殿は新築されていた。真新しい桧皮葺(ひわだぶき)の屋根は美しく、正道には印象深いものであった。広大な敷地はまだ未整地の個所が数か所見受けられた。

 

 平成二十一年六月二十五日の朝日新聞に、「検証昭和報道 神がかりへの道」と題した記事に添えられた「橿原神宮で土木作業を手伝うナチス・ドイツの青年たち」の写真が載っていた。「紀元二千六百年奉祝記念の大規模な事業は、のべ121万人を超す勤労奉仕であった。」と、あるが、そういった最中に惟芳・正道の親子は橿原神宮を参拝したのである。

 

 こうして惟芳は念願の参拝を無事に終えることが出来、感無量であった。一息ついたので奈良見物をすることにした。奈良駅前で二台の人力車に分乗して、二人は大仏殿、二月堂、春日神社など多くの神社仏閣を見て回ったが、正道には、何処をどう廻ったかあまり記憶がない。ただ人力車に乗っていて、車夫の歩行に合わせて身体が上下に揺れ、ふわふわとして気持ちが良かったことと、乗る前に買った煎餅をかざすと、鹿がその煎餅が無くなるまでついてきたことだけは楽しい記憶の底に残った。

 

 往きの山陰線と違って、帰りの山陽線の車内は満席だったので、二人は止むを得ず食堂車に席を取った。ところが、土産物を買い過ぎて残金が殆ど無く、紅茶一杯ずつ啜っただけで厚狭駅に着くまで、飲まず食わず寝ずに頑張った。厚狭駅美祢線に乗り換え、三日の正午頃やっと宇田郷に戻ることが出来た。惟芳はホット息つく暇もなく、その日の午後早速往診に出かけて深夜に帰宅した。

 

 正道は昭和十四年に県立萩中学校を受験したが足が悪くて不合格になったことはすでに述べたが、そのために彼は宇田小学校高等科に一年間通った。その間に彼は父と伊勢神宮に参拝したのである。

 

 昭和十二年七月に支那事変が起こると、村内の婦人会では、戦地の兵隊へ慰問袋を送る運動が始まった。婦人会からの依頼で小学校でも、「兵隊さんご苦労様」という趣旨の慰問文を子供たちに書かせた。正道も担任の先生に言われて、伊勢神宮参拝の旅日記を便箋に四・五枚書いて提出した。

 

 この慰問文が支那派遣軍の榎(えのき)英治という一人の兵士の手に渡った。榎氏は学校の教師だったようである。彼から返事が来て、その後月に一回の割合で文通が始まった。

 

 ある時榎氏から「智仁勇」と「盡忠報國」と書かれた二枚の書が届いた。添えられた手紙に、榎氏は次のように書いて寄こした。

 

 私は今孔子が生まれられた曲阜(きょくふ)という所におります。ここで孔子から数えて七十七代目の孔徳成という方と知り合いになり、お願いしてこの書を書いてもらいました。しかし戦場のことですから、何時戦死するかも知れませんので、あなたの旅行記のお礼にと思って送りました。これからも一生懸命勉強して、お国の役に立つ立派な人になってください。

 

 正道は二枚の紙に書かれた書を父に見せた。惟芳は「智仁勇」と書いてあるほうを手に取ってじっくり見た後、正道に訊ねた。

 「立派な字が書いてある。さすがに孔子の子孫だな。七十七代とは長く連綿と続いたものだ。智、仁、勇,どれもいい言葉だ。正道、お前はどの言葉が一番大事だと思うか?」
 「僕は勇だと思います。何をするにも、勇気がなくては実行出来ませんから。」
 「確かに勇気は大事じゃ。松陰先生も、士の道は義より大なるはなし、義は勇に因(よ)りて行われ、勇は義に因りて長ず、と言っておられるから。しかしお父さんは仁が一番だと思う。医は仁術なりという言葉をお前は知っておろう」
 「はい。その言葉はこれまで聞いた事があります」
 「孔子は『論語』の中で、この仁について最も多く語っておられる。仁者愛人とう言葉があるが、仁なるものは人を愛すと読むのだが、つまりすべての人に愛や同情の心を持って接することだ。その場合、智慧を働かせ、勇気を持ってすれば、仁の精神は一層発揮される。良いものをもらったな。表装してあそこへ掲げておいたらよかろう」

 惟芳はこう言って、座敷の鴨居あたりを指さした。
 一方「盡忠報國」の額は宇田小学校に寄付することにした。しかし戦後になって、進駐軍が来た時、この言葉を問題にする恐れがあるからと言って、校長が過剰判断して焼却したとのことである。惜しいことをしたものだと、正道は話した。

 

 孔徳成氏は一九二〇年に中国山東省曲阜に生まれ、十六歳から本格的に書の勉強をしている。書聖・王羲之顔真卿の書法を学びまた甲骨文字や金石文の研究にも打ち込み、その後台湾大学の教授,台湾人事院総裁といった要職にも就いていて、二〇〇八年に亡くなっている。したがって正道がもらった書は、孔徳成氏が昭和十五年に書いたとしても、二十歳の時の珍しいものと言える。今も「智仁勇」の扁額が緒方家の居間の壁に掛けてある。運筆の冴えが素晴らしく、格調高い書であるのは一目瞭然である。片方を焼き捨てたことはやはり残念な事である。


.

杏林の坂道 第十二章「硫黄島への軌跡」

(一)

 繰り返して言うが、惟芳が先妻のシゲと結婚したのは大正二年一月である。第一次世界大戦が勃発する五カ月前の事である。シゲは二人の男の子を生んだ。長男の芳一が生まれたのは大正三年四月である。寅年生まれである。次男の勇夫は大正七年十月に生まれた。しかし同じ年の大正七年十二月五日に惟芳の母であるマサが六十二歳で亡くなった。彼は萩で開業するという母との約束を結局果たすことが出来ず母を送った事になる。

 

 長男の芳一にとってかけがえのいない弟の勇夫が、大正十三年六月わずか六歳で亡くなった。芳一は弟の死に悲痛の思いをし、声を挙げて泣いた。彼には此の後さらに悲しい運命が待ち受けていたのである。母親のシゲがその翌年、大正十四年五月二十七日に不帰の客となった。三十一歳の若さであった。  

 

 遺体を安置した部屋に親戚の者たちが集まっていた。芳一もその場にしばらく座っていたが、何だか居たたまれない気になってこっそりと抜け出した。彼の足は日頃小学校の友達たちと遊び廻っていた裏山へと向った。山への登り道は一家が住んでいる診療所の直ぐ後ろにあるので、彼にとっては我が家の庭続きといった感じの場所である。裏山の先端はそそり立つ崖となって海岸にまで伸びている。その崖下を掘削してトンネルが作られたのは、昭和八年に宇田郷駅が開設され山陰線が開通した時の事で、これについては「第九章」で述べた。そのお陰で宇田から須佐への海岸沿いの道が近くなり、また通行も便利になった。トンネルの出来る前、この岩山の上の松林が子供たちの格好の遊び場であった。ガキ大将の芳一は此の崖の上に高く聳えている大きな松の木に登るのを好んだ。

 

 此の日も彼は黒松の太い幹の途中、根元から三メートルばかり登り、そこから海に向かって伸びている直径二十センチほどの枝に跨り、幹に背を凭せかけて、いつものように両足をぶらぶらさせているうちに、なんだか無性に悲しくなった。
 「お母さーん お母さーん」 
 彼は沖に向かって大声で叫んだ。沖から波頭を押し立てて次から次へと白波がやってきては、崖下の岩に砕ける。その砕けては散る波の音は、彼が座っている樹上においても聞こえた。しかし沖から強く吹き付ける潮風によって、彼の叫び声は打ち消され、路上を行き来する村人の耳には入らない。路上から彼が位置しているところまでは、優に二十メートルを超える高さである。下を見れば道行く人影が小さく見えた。ふと彼は泣き叫ぶのを止めた。彼は急に黙り込んで眼をつむり、亡き母の面影を脳裡に描いた。

 

 小学校五年生になった時のことである。芳一は、昼弁当を食べ終えると、クラスの仲間たちと、学校から道を隔ててすぐ前にある八幡様の境内へと走って行った。社殿に向かって左側に、枝を四方八方に伸ばした大きな樟の樹がある。その日も彼等はそれに登ったりして「かくれんぼ」をして遊んだ。休み時間の終わりを告げる鐘の音が聞こえてくると、皆一斉に教室に向かって駈け出した。
五分後には担任の先生が来られる。その前に教室に戻っていなければいけない。芳一は便所へ行く時間がないので、手早くすまそうと思って、校門を入ってすぐ左手にある池に向かって小便をし始めたが、それを学級担任の村上先生に見つかった。

 「芳一! こら待て。池の中に小便をするとは何事か! こっちへ来い。」
 先生はそう言って自分の教室の方へと足早に歩いた。芳一は言われるままに担任の後について行った。
 「放課後先生が来るまで、おとなしく此処に座っておれ!」
 厳しくこう言って先生は隣の教室に芳一を閉じ込めた。この部屋には天皇・皇后の御真影が安置してあった。宇田郷村は貧乏村であるために、奉安殿を作るゆとりがないので、さしずめ普通の教室を整理して御真影を安置していたのである。
夕方になり日も暮れて部屋の中は薄闇に包まれてきた。御真影がぼんやりと霞んで見える。芳一は先生が放課後来ると言われたので、黙然と座って待っていた。村上先生は帰宅して、その日も無事に終わりやれやれと思った途端に、芳一を罰として居残した事を思い出した。彼は取るものも取りあえず学校に駆けつけて、芳一のいる部屋のガラス戸を大急ぎで開けた。
 「バー!」
 暗闇の中から大きな声がした。芳一は幽霊の手つきを真似て先生を脅(おびや)かそうとしたのである。

 

 十数年後、担任の村上先生が、偶然にも芳一の弟の幡(はた)典(のり)の担任になった時、上のような事があったと彼に話した。

 「お前の兄さんは全く腕白だったよ。手に負えなかったなー。あの時ばっかりは驚いた。戸をあけた途端に、暗がりの中から、お前の兄さんが大きな声を出して、こうして幽霊の手つきで出たもんだから」

 日が暮れても帰らない我が子の安否を気遣って、母親のシゲはその日、何回も玄関前に出てみたのである。暗がりの中から芳一が「ただいまー」と大きな声で叫んだとき、ホットと一安心したものの、遅くなった理由が分かると、彼女は芳一に言った。
 「芳一、お前は為(し)て良いことと、悪いことの区別が出来ないことはなかろう。なんぼ便所へ行く時間がないからといって、鯉の飼ってある池に小便をするとは何事か。これは決して許されることではないよ。明日私が学校へ行って先生にお詫びをするが、此の事はお父様には言わないでおくからね。まだ往診からお帰りでない。帰られたら夕飯にするから、先にお風呂に入っておきなさい」
 
 またこんな事もあった。芳一は父に似て同級生の中では飛び抜けて背が高かった。従って腕白もそれ相当なものであった。医院の隣に中野誠という同級生がいた。二人が喧嘩して中野君が泣きだしたら、彼の父親が芳一を追っかけてきた。芳一は素早く我が家の二階へ駆け上がって、大きな声で叫んだ。
 「子供の喧嘩に親が出た!」

 一方勉強もよく頑張っていた。当時小学校で、一年生から六年生まで同じ試験を受けて、合格したら上級の試験を受ける制度があった。不合格の生徒は放課後補習を受けなければならなかった。彼は何時も自分の在籍する学年に相当する試験はもとより、更に一学年上の試験にも合格していた。こうした点でも芳一は誰からも一目置かれる存在であった。

 

 しかし彼がいたずらをした時、いつも母が先生や近所の人にお詫びに行ってくれていた。その母が今急にいなくなった。悔いても始まらない。芳一はすまないことをしたと心底母に詫びた。生前何かにつけてかばってくれた優しい母が、今忽然と姿を消したのだ。芳一は今更ながら我が身の不幸を嘆くとともに、死んだ母に対して申し訳なかった、もっと孝行すべきであったと思うのであった。

 

 葬儀が終わり父と親戚の者たちが帰った後、松の木から下りた芳一は、悲しい気持ちを抱いて我が家に入った。それから数日間弔問客の来訪など人の出入はあったが、その後は、午前中患者が来る、そして午後になれば父は往診に出かけるという、今までと変わらない日課が繰り返されるようになった。そうなると学校が退(ひ)けて帰宅した時、家には家事の世話をする女中以外に誰もいない。昨年までは弟もいた。つい先日までは家に帰れば母が待ってくれていた。しかし今は天涯孤独の感じである。彼は近所の友達と遊ぶのも控えるようになった。

 

 母が亡くなった年の十二月、翌日から冬休みに入るというので、芳一は寂しさ半分、楽さ半分の複雑な気持ちであった。終業式が終わって家に帰った芳一に、父の惟芳が待っていたかのように呼びかけてきた。

 「芳一、ちょっと来なさい」 
 彼は父の後から居間に入った。
「芳一、そこへ座りなさい。これから話すことは大事な事だからしっかり聞くのだ。分かったか」
 「はい」
 芳一は素直に返事をした。
 「最近お前の日常生活を見ておると、どうも前ほど元気がない。恐らく弟が亡くなり、またお母さんが居なくなったことが原因だと思う。私としてもお前の気持ちは分からんでもない。きっと寂しかろうし又悲しいことだろう。しかし芳一、ここが大事な事だ」

 こう言って惟芳は芳一の顔をじっと見た。息子はやや不安げに父に目を向けた。

 「お父さんは中学五年生になった時、自ら決心して学校を中退して家を出て、長崎にある造船所で働いた。今のお前の年齢から言うたら未だ先の事だが、十八歳の時だ。それから二十歳(はたち)になった時軍隊に入って満州まで行って戦った。
その時の事だが、銃弾に当たって負傷した兵士を担架に載せて運んでいたとき、相棒が突然あっと言って前のめりに倒れた。敵の撃った流れ弾に当たったのだ。お父さんは咄嗟に身を伏せて、銃声の止むまでじっとしていた。その後無我夢中で負傷者を一人で担いで仮包帯所まで運んだ。一方倒れた相棒はもう手の施しようがなく即死していた」

 ここまで惟芳は一気に話した。少し間をおいてまた話を続けた。

 「戦闘が終わって穴を掘って相棒の死体を埋めた。こんな事がしばしば戦場ではあったのだ。芳一分かるか?人の命というものは一寸先が闇だ。今の今まで元気でいたものが眼の前で死ぬことがある。そうした時、何時までも泣き悲しんでいたら、何も出来はしない。悲しさや苦しさに耐え、それを乗り越えなければいけない。生きて行く上ではこうしたことがよくある。これが人生というものだ。今のお前にはまだ難しいことかもしれん。だがよう聞くのだよ。武士の子として生まれたお前は、強い心を持たなければいけない。此の宇田郷村では、村長の中山さんのところと、緒方家だけが士族で侍の血が流れて居る。何時までもめそめそしていたら御先祖様に申し訳ない。分かったか。それに来年三月には、お前は萩中学校を受験しなければならない。気持ちを引き締めて勉強しないと通らんぞ。まず中学校に合格することが亡くなったお母さんへの孝行になる。お父さんはそのように思う」

 

 惟芳は以上の事をじっくりと息子に話して、深い慈しみの眼を彼に注いだ。母が生きていた時は、優しく諭してくれるのは母であり、父にはいつもひどく叱られていた。しかし今日の父の態度は違っていた。芳一は父のこれまでと異なった一面を見た思いがした。そして今は頼りになるのは父の他には誰もいないと思った。と同時に、今後はなるべく父に心配をかけないようにしなければとも思うのであった。

 

 

(二)

 大正十四年の暮れのことである。当時萩町長であった土井市之進は、土井家と縁戚関係にある山本家を訪れた。土井氏は惟芳の後(のち)添(ぞ)えとして山本家の長女幸に白羽の矢を立てたのである。彼は日露戦争の時、日本陸軍の最初の将校斥候として活躍した。彼はラマ僧に変装して敵の情勢を探った歴戦の勇士で、金鵄勲章を授与された。後に少将にまで昇進したが、戦後請われて萩の町長になった。子供のいない土井氏は、この幸を養女にもらい受けたいと思っていた。しかし山本家の実情を考えて断念していたが、幸の先行きについてはかねてより気にしていたのである。同じ陸軍に籍を置いた身として、男の子一人残され、村の医療に携わっている惟芳の事を耳にすると、矢も盾もたまらず、幸を惟芳に引き合わせようとしたのである。

 

 幸が丁度一回りも年の違う惟芳のもとへ、その上先妻の忘れ形見とも言うべき男児、多感な年頃であった芳一のいる緒方家に入籍したのは、大正十五年二月十二日である。先にも述べたように、正道が生まれたのが同年の十月十九日であるから、結婚は土井氏の斡旋直後であった。幸にとってその年は悲喜こもごもであった。父の友一郎が二月二十一日に心臓病で亡くなったからである。享年七十四であった。嫁ぎゆく愛娘(まなむすめ)のことを気遣って父が語った言葉を、幸は父の死に当たり今改めて思うのであった。
 「幸(ゆき)さぁや、お前が三十歳(さんじゅう)にもなって嫁に行くようになるとは、縁がなかったものじゃのぅ。これまで色々と稽古事をさせたりしたのが却って仇になったのかもしれん。まあしかし、人間の運は分からんものじゃ。土井様のお陰でお前も嫁に行く事が出来て、わしは本当に良かったと思うとる。緒方さんは立派なお医者だと聞いとる。宇田郷という片田舎へ嫁にやるのは親としてせんない事じゃが、まあ辛抱してくれさい。この上は一人でも良い子を産んでくれたら有難い。やはり女に生まれたからには、自分の腹を痛めた我が子を持つことが一番の幸せじゃ。しかし聞けば、小学生の男の子が一人おると言うことじゃ。ええか、よー言うとくが、その子を我が子以上に可愛がってやらんといけんでや。どんなにその子が悪(わる)さをしても、決して叱りつけたりしてはいけん。ええか、この事だけは胆に銘じておきさいや。その内必ずなついてくるもんじゃ」

 

 幸の父は七十余年の比較的長い一生を送ったが、先妻との間にできた子に相次いで先立たれ、人生の苦しみや悲しみを人一倍経験していた。彼は人の悪口を決して言わない、また人が誰かの悪口を言って居れば、そっとその場から立ち去るといった情けのある人であった。その父が、こうして嫁ぐ前にしみじみと語ってくれた言葉は、幸としては決して忘れられないものであった。

 

 惟芳の先妻シゲは明治二十七年の二月七日生まれである。新しく迎えた幸はシゲより僅か一歳だけ若く、明治二十八年三月二十八日生まれであった。従って惟芳のところへ嫁して来た時、幸は当時としては行き遅れとも言うべき三十一歳であった。こうして土井氏の媒酌によって幸を迎えたこと、そして彼女が先妻とあまり年齢に違いがないことは、惟芳にとって有難いことであった。

 

 山本家の長女として生まれた幸は、大正三年三月、阿武郡立実科高等女学校(県立萩高等女学校の前身)を卒業し、大正四年四月、二十歳の時、生まれて初めて汽車に乗り、父に連れられて上京した。小堀遠州流の宗家で茶道を学ぶためである。彼女は父の姉の嫁ぎ先である三好家から小堀家へ通いながら一年間稽古を続けた。修行を済ませた大正五年にいったん萩に帰り、更に翌年には京都妙泉寺に宿して、池坊宗家専啓師に師事して華道を学んだ。こうして幸は、茶道、華道のそれぞれを宗家で学んだ後故郷の萩に落ち着くと、その後は父の指導の下、稽古を積む傍ら弟子たちを指導した。彼女は二十七歳で遠州流の奥義に達し、梅楽庵の庵号を授かり、山口県師範代になった。また三十歳で池坊の華道教授にもなった。こうして茶道と華道の師範として一人立ちが出来るようになったその矢先に、結婚の話が舞い込んだのである。

 

 現代なら、これだけの資格があれば、職業婦人としての道を選ぶのが普通であろう。或いは初婚の身でありながら、先妻の残した子供のいる齢の離れた人と一緒になるなど、今ではとても考えられないことではなかろうか。しかし当時は未婚の女性は暖かい目では見られなかった。幸は結局世間の常識に従って、惟芳の後妻として嫁ぐことに決めたのである。

 

 結婚後立て続けに生まれた三人の男の子の養育や医師である夫の手助け、更に太平洋戦争も酣(たけなわ)となると、国防婦人会の特別会員としての公務に忙殺されて、茶道や華道を顧みる暇は全くなくなったのである。

 

 茶・華道の修練が出来ないのは覚悟の上だが、これまでと全く違う境遇に身を置くことになった幸にとって一番気になるのは、やはり中学生になったばかりの芳一への気配りであった。また彼の祖母、つまり姑(しゅうとめ)の存在は幸の意識に重く圧し掛かってきた。結婚当初、いたたまれず我が家に帰りたく思ったこともある。しかし良き相談相手の父は亡くなり、今更離婚など考えることは出来ない。その内次々と、男の子が生まれてくるようになり幸は決心した。此の上は、村民の医療に骨身を惜しまず働いている夫に従って行こう、と。

 

 幸にとっての最初の子正道が生まれたのは、先にも述べたように大正十五年十月である。その年十二月二十五日、大正天皇崩御と共に年号が昭和に変わった。次に幡典が生まれたのが昭和三年一月十五日、さらに翌年の昭和四年十二月六日には三番目の男の子武人が誕生した。それから少し間をおいて昭和八年十二月十八日に待望の女の子の信子が生まれた。逝く者もおれば、生れ来る者もおる。悲喜こもごもこれが人生である。このように異母弟が次々に誕生して来た事は、芳一にとって、それまでの悲しい思いを次第に消してくれた。  

 

 彼は昭和二年県立萩中学校へ合格することが出来た。今と違い、宇田郷村のような田舎の小学校を卒業した者が、県立の中学校に入学するということは珍しかった。また通学に関しては、山陰線が開通したのが昭和八年二月のことであるから、昭和二年に萩中学校に入学した芳一には、中学在籍の五年間、列車通学とは縁がなかった。
当時、遠くの町村の出身者は、萩の街中に縁者があればその家に下宿するか、学校の寄宿舎に入る以外に通学する方法がなかった。

 

 芳一は田舎者で初めて親元を離れると言う不安もあって、最初の数ヶ月間、萩の街中に在った母幸の実家から通学することにした。十三歳と言えば多感な年齢である。父のあまりにも早い再婚は容易に受け容れがたい事に思えた。しかし芳一にとって、寄宿舎生活は、これまでと環境が違うというだけではない。上級生と下級生という絶対に越え難い壁に向き合わなければならない。このような厳しい現実が彼の前に立ちはだかるのである。この苦境に耐える事を考えたら、新しい母の実家から通学する方が、彼にとってむしろベターな選択であった。

 

 芳一が萩中学校へ入った時、幸の実家にいた母の京は未だ健在であり、弟の忠之は県立萩商業学校に勤めていた。そして幸と十三歳も年の違う妹の貞子がいた。貞子は県立萩高女を卒業したばかりであった。このほかに手伝の女性が一人いて、身を粉にして働いてくれていた。この女性は両親に幼くして死に別れていたが、幸の父が不憫に思って引き取り、わが家で面倒をみて結婚までさせたので、恩義を感じてよく来ては手伝ってくれていたのである。

 

 新たに親戚になった山本家の世話になることで、惟芳は芳一を連れて挨拶に行った。当時中学校に入った者は必ず保証人を必要とした。惟芳は義弟に保証人にもなってくれるように頼むことにした。忠之が教職についていたからである。その時惟芳は義弟に向かって、自分の教育方針を述べた。

 「芳一がこの度無事萩中学校に合格致したものの、通学について心配していました。しかし下宿させていただけるという事で安心致しました。また保証人についても御了承いただき有難うございました。何かとご迷惑をおかけいたしますが、何卒よろしくお願いいたします。」
 十四歳も年下の義弟に向かって、惟芳は律義に挨拶した。彼はそのような男であった。
 「保証人については私でなくても適当な方がおられましょうに」
 「いや、教職について居られる貴方が一番適しています。」
 「私でよければ喜んでなりましょう。芳一さんについては姉からも聞いています。たいしてお役には立てませんがよろしゅうございます」

 忠之は姉から前もって云われていたことだし、義兄の頼みを断ることはできなかった。彼は芳一の保証人になる事を了承した。その時惟芳は居ずまいを正して次のように言った。

 「私は子供の教育についてかねてより考えていることがあります。此の事を芳一にも話しておかなければいけないと思っていましたから、この際丁度良いから貴方にも聞いていただきたいのです」

 惟芳は傍らの息子に聞かせるつもりでゆっくりと話し始めた。 
 「私は教育の指針になるのは何と言っても教育勅語だと思っています。あの中に述べられています言葉は、じっくりと噛みしめるべきものばかりです。その中でも孝が一番だと思います。『孝は百行の本なり』と昔から言いますが、もとより親が子供に親孝行を押し付けるのではなく、自然にそうなるようになるようにしなければいけません。そのためには親がまず子供の事を考えて我が身を正しくしなければいけないでしょう。私は昔中学校で、貴方も御存知の安藤先生が、松陰先生の事をよく話されていたのを今でも覚えています。松陰先生の辞世の句『親思ふ心にまさる親心 けふのおとずれ何ときくらむ』を、先生が低唱されたのを今でも忘れません。松陰先生の行動の基は親孝行にあったのですが、先生のご両親が親として実に立派な手本を示されていたからでしょう」
 惟芳はこう言って少し間をおくと話を続けた。
 「これともう一つ大事なのは、人間はお互いに助け合わなければいけないと言うことです。私は日露戦争に行って多くの傷ついた兵士の手当てをしました。我が国の兵士だけでなく、負傷したロシアの兵士にも優しく接したら本当に喜びました。医者になろうと決心したのもそのためです。考えてみたら人助けは人間としての本務ではないでしょうか。孝行と仁愛を教える事が教育の根本だと思いますね。勉強は勿論大事ですが、自ら勉強をする気になるのは、子供によって早い遅いがあります。しかしこの二つの事は、先ず家庭で親が、そして学校に入ったら先生が子供にしっかり教えなければいけない事だと私は思います」
  
 その時の様子がよほど印象深かったのだろう。当時の事を思い出して忠之は、義兄が終戦の年に亡くなったとき彼の息子に話した。
 「どっちが先生か分からないようだったよ。緒方の兄様はおれに向かって、教育方針を諄々と諭されたものだから。兄様は見たところ厳しかったが実際は心の優しい人だった。一生を通して医は仁の道を歩まれた。仁とは慈しみの精神だからな。」

 

 

(三)

芳一が県立萩中学校に入学したのは昭和二年である。

 「入学者の選抜は試験によるものであり、募集人員百四十人、志願者二百二十人、入学者百三十八人、入学率六十二・七パーセントであった。しかし同年十一月二十二日、文部省の通達で中学校入学試験制度の改革が行われ、翌三年からは入学者選抜は第一段階は出身小学校における成績で適宜志望者を選抜し、第二段階として第一次選抜者に対して、平易な口頭試問による人物考査(常識・素質・性行など)と身体検査を実施することになった。」(『山口県立萩高等学校百年史』より)

 

 いずれの制度であれ、昭和の初期、中学校への入学者の数は現在とは違って格段に少なく、中学校へ進学した者のレベルはかなり高かった。この事は、卒業後の彼等の進路を見ればよく分かる。文武両道は歴代の校長の教育方針に基づくもので、芳一が入学した当時の萩中学校は運動の面でも大変活躍していた。昭和二年と三年には県の体育大会で総合優勝、四年には関西中学校陸上競技大会で総合優勝している。

 「萩中はもう県体には出場して欲しくない」と県下の他の中学校が言っていた。と芳一は弟の正道に語っている。確かに当時の萩中学校は文武両面で県下に名を轟かしていた。芳一が入学した昭和二年に第六代河内才蔵校長が就任した。校長は東京帝国大学文学部の卒業で、浜口雄幸元首相に風貌が似ているのでライオンのニックネームで生徒たちに親しまれていた。

 

 現在、萩高等学校のキャンパスに「百万一心」の石碑が建っている。よく見ると「一日一力一心」と彫ってある。これは「日を一にし、力を一にし、心を一にす」を意味するものである。河内校長はこの石碑を建てて「協同一致」の精神を鼓舞した。つまり校長は人の和を強調し、また生徒の個別指導を重視するなど、生徒の訓育と健康教育に意を用いた。

 

 この石碑については『山口県立萩高等学校百年史』に次のように記載されている。

 「百万一心」は毛利元就の語で、元就が中国地方一〇か国を領するにおよび、芸州吉田庄(広島県高田郡吉田町)の郡山城の姫丸壇を増築する時、人柱に代えて「百万一心」の語を石に刻んで埋め、城が堅固であるように願ったといわれている。またこの字を書くとき、これは仏語であるというので、特に百字の一画を除いて一日とし、全体を分解して、「一日一力一心」の六字に読ませ「日を一にし、力を一にし、心を一にす」という意味を兼ねさせた。すなわち、四字をもって「協同」をすすめ、六字をもって「一致」を教えてものである。(以下略)

 

 こうした環境のもとで芳一は五年間の中学校生活を送った。父惟芳の厳しい家庭教育の延長であるような雰囲気の中学校生活は、彼にとっては別に違和感はない。ただ当時は大正のロマンチズムが終わり、次第に軍国調の波が押し寄せていたので、学校でも配属将校による軍事教練は厳しさを増し、卒業生の多くが陸海軍への道に進んだ。卒業までに生徒は「教練検定合格証明書」を取得しなければ将来軍隊に入っても幹部にはなれない。芳一がその後大学を卒業し、近衛師団に入隊するに際しては、この「教練合格証明書」が物を言った。参考までに芳一の証明書を示すと、下記の通りである。

 

第一二〇號
教練検定合格證明書
本籍地 山口縣萩市大字堀内四〇一番地
緒 方 芳 一 
右ハ昭和七年三月三日當校(中等学校)卒業ノ際教練の検定ニ合格シタルコトヲ證ス
山口縣立萩中学校(所在地萩市
昭和十六年四月三十日  配属将校陸軍中尉 住本 勝 印


 さて、話はもとに戻るが、芳一が萩中学校に入学する前後に三人の弟たちが生まれた事はこれまで何度も述べた。これは彼にとって大きな喜びであった。 芳一には四つ違いの弟がいたが、その弟は小学校に入る前に亡くなっていた。このことにも既に言及した。芳一は大正三年生まれの寅年である。三人の異母弟たちの中で一番年上の正道も寅年であるから丁度一回り年が違う。芳一は遥か年下の弟たちを可愛がったし、弟たちは兄によく懐(なつ)いた。

 

 実家の周辺に住んでいる漁師たちの男の子は四五歳で皆上手に泳ぐのに、芳一は海を怖れて泳ぐことができない。これを見た惟芳は、小学校に入ったばかりの芳一の襟首を掴んで、波止の中ほどから海中に投げ入れた。こうしたスパルタ教育の事は既に述べたが、芳一が正道に泳ぎ方を教えたのは、そんなに手荒なやり方ではなかった。正道は次のように語っている。

 「私が兄から泳ぎ方を習ったのは、小学三年生の時でした。当時兄は日大の学生でしたが、夏休には帰省していました。兄は褌に長い紐を結び、その先に米研(と)ぎ桶をくくり付けて、海に潜ってサザエやアワビを採っていました。或る日兄は私を連れ出すと、肩に両手をかけて、両足を延ばすようにと言って、私を背負った格好で、沖へ向かって泳いで行きました。そこで、手を離し足を延ばして海水に顔を付けたら体が浮く、呼吸が出来なくなったら顔を上げて手足を動かしたら泳げると教えてくれました。海の潜り方も教えてくれました。昭和十九年戦争が烈しくなった時です。旧制中学校の三年生以上の生徒は動員で軍需工場に駆り出されました。私は小児麻痺で足が不自由なため、動員免除となり、宇田郷に帰省していました。食料が不足していたので、夏になると私は毎日海に潜ってサザエやアワビを採っていました。戦時中で元気な男性は軍隊か工場に行っていましたので、海に潜る人は全くいません。私のような素人でも一度潜れば大量の収穫がありました。私はサザエの身だけを取り出し、茹でて乾燥させ、当時硫黄島に従軍していた兄へ送りました。兄からの手紙に、中隊長の誕生日の祝いに皆で食べて、中隊長に喜んでもらった、とありました。昔兄に潜り方を教えてもらった恩返しが出来たと思います」

 

 もう一人の弟幡典も、兄芳一についての思い出を持っている。

私が小学生の頃、兄は医学生で上京中でした。夏休みに兄が帰ってくるのが何よりも楽しみでした。朝目を覚ますと母の「二階に良いものがあるよ」との言葉を聞くや否や、嬉しさのあまり二階に駆け上がり、前夜遅く帰って来た兄の布団の上に跨って、嬉しく騒いだものです。その頃『小学何年生』といった雑誌が、私には唯一の子供向けのものでしたので、兄からの贈り物で一番嬉しいものは、「「はい、お土産」と言ってもらう本でした。中でも鮮明に記憶にあるのは、鈴木三重吉編集の『赤い鳥』で、これは兄自身が大切に思っていたのかも知りませんが、十数冊はありました。その表紙絵の斬新さに感動した事を今でも覚えています。
 
 また次のような思い出も忘れないでいる。

兄は即席の物語をするのが大変上手でした。父が夕食をとっている間、子供たちは患者さんが来たら、それを告げるために玄関番をしているのですが、その時兄は私達によく話をしてくれました。
 「だいりき正兵衛」「ひょっとこ幡兵衛」「ぼてやん武兵衛」の私たち三兄弟の物語は、決まりきった主題ながら筋は自在に変化する、わくわくする話でした。

 

 芳一は確かに弟たちを可愛がった。此の事を誰よりも嬉しく思ったのは、幸である。結婚の話があっとき、多感な年頃の芳一の存在について、ひそかに思い悩んだ事が杞憂に過ぎなかった。芳一の優しい心根によるものとして、彼女は芳一に心の中で感謝し、我が子以上に芳一の事を思うようになった。

 

 彼は中学校を昭和七年(1932)に卒業した。その年五月十五日に起こった「五・一五事件」に象徴されるように、軍部の台頭は次第に政治に影響を及ぼし始めた。若い男児は丁年に達すれば軍隊に取られることを覚悟しなければならなくなった。芳一は父惟芳の強い希望にそって医師の道を進むことにしたが、中学校を卒業した年、彼は旧制山口高等学校を受験した。しかし試験場で鼻血を出して結局不首尾に終わった。
彼は出来たら高校、大学といったコースを進みたかったのである。彼はこれまで父の厳しい躾を受け、また中学校に入っても、何かと制約された生活であったので、そういったものから解放されたいと思った。従って、高校受験に失敗すると上京して予備校に通った。父の惟芳も息子を何時までも束縛する気はなかった。ある程度の自由とそれを可能にする経済的ゆとりを持たせてやることにした。

 

 芳一は本来文学を好んだ。従って上京すると一時演劇に熱をあげたりした。ともかくも彼は上京して親元を離れ、多少なりとも解放感を味わうことが出来たのである。二年浪人した後、彼は日本大学と慶応大学の両方の医学部に無事合格した。日本大学を選んだのは創立者が郷土萩出身の山田顕義であったからである。芳一は後になって、「慶応大学に行っていたら良かった。」と言っている。
 
 昭和十一年(1936)二月二十六日に大事件が起きた。東京は三十年振りの大雪で一面の銀世界。雪の降りしきる寒い朝、芳一が登校しようと下宿を出ると、街中に戒厳令が出て足止めされた。「二二六事件」である。「何が起こるか、恐ろしかった」とその年の夏休みに帰省した芳一は家族に話した。
昭和十六年三月、彼は無事日大医学部を卒業した。太平洋戦争が勃発する前から、国民の義務として、男子は二十歳になると、徴兵検査を受けて兵役に就かねばならなかった。但し、医学系と工学系は卒業まで兵役を免除するという国策があった。
              

 芳一は二十七歳で大学を卒業すると、千葉県の習志野連隊に入り軍事教育を受けた。当時は中国との戦いが泥沼に入り込み、医学部卒業生も何時召集がかかるか分からない状態であった。芳一は昭和十六年に近衛師団の衛生兵としての訓練を受けた。彼が幹部候補生を希望して採用願を提出する際に必要としたのが、中学校で受けた教練の検定合格書であった。この合格証明書がなければ幹部候補生にはなれなかった。手許に残っている採用願は次のようなものである。

 

幹部候補生採用願

幹部候補生ニ採用相成度候也
本籍地 山口県萩市大字堀内四百壹番地
現在地 東京都中野区新井町五百拾四番地清水政意方
昭和拾六年五月拾日
本人 緒方芳一 印
大正参年四月貳拾八日生
陸軍大臣殿
資格 軍医

 

 芳一は当時の日本人の平均身長からすると非常に背が高く、百九十センチもあり、大学では二番目の長身であった。入隊すると合う軍服がなくて、「服が短いと言ったら、上官に、服に身体を合わせと言われた。軍隊とは全く理屈の通らない世界だ」と、正道に話した。芳一はまた、「自分たちを教育する下士官が、教育を終えた段階で自分たちの部下になる不思議な世界だ」とも語っている。

 

 一定の訓練期間が終わると予備役になり、東京芝済生会病院に勤務した。外科医として勤務しながら、医学博士の取得を目指して書いた研究論文がある。彼は「肺外結核症に於ける寒性自家血球凝集反應の消長に就いて」という論文を「日本整形外科學會雑誌第十八巻第五號別刷」(昭和十八年八月二十五日發行)に載せた。

 

昭和十八年十月二十一日、冷たい雨の降りしきる中、明治神宮外苑陸上競技場で、「文部省主催の出陣学徒壮行会」が行われた。出陣学徒たちは学業半ばにして戦場へ赴いたのである。翌月一日には兵役服務年限が五年間延長されて四十五歳までになった。
このように時局が切迫して来たので、召集令状が何時来るか分からない。父は老体に鞭打ちながら片田舎で黙々と医療に携わっている。いま親孝行をしなければ一生悔いることになる。このまま病院勤務を続ける気にはなれない。彼はいても立っても居れない気持ちになった。後ろ髪を引かれる思いはあったが、思いきって済生会病院を辞めた。

 

 

(四)

 芳一は故郷の宇田郷村で医業に携わる決心をし、昭和十九年、年が明けると早々に医師開業届を山口縣知事に提出した。

 

醫師開業届

一 氏 名  緒方芳一
二 男女別  男
三 住 所  山口縣阿武郡宇田郷村大字宇田第貮千四拾番地緒方医院内
四 本 籍  山口縣萩市大字堀内四百壱番地
五 年 齢  大正三年四月貮拾八日生
六 族 籍  山口縣 士族
七 業務ノ種類 医師
八 免許ヲ得タル事由 日本大学専門部醫学科卒業
九 免許証番号及
  下附年月日 第九六六〇一號昭和拾六年四月十一日下附
十 開業場所 山口縣阿武郡宇田郷村大字宇田第貮千参百四拾番地緒方医院内
十一 奉職ノ官公署 無
十二 転住ノ年月日 昭和拾八年拾貮月貮拾九日
  右及御届候也
  昭和拾九年壱月六日
右  緒方芳一
緒方医院管理者  緒方惟芳
山口縣知事 熊谷憲一殿

 

 彼は大学卒業後外科を専攻したので、郷里でも外科手術をしようと考え、大量の医療機器を求めて帰った。惟芳は芳一が帰郷すると診療は息子に任せて軍友会の仕事に専念したので、芳一は折角父にゆっくり休息してもらうつもりで帰ったのに、何のために帰ってきたかわからないと嘆いた。

 

 専門が外科だからでもあるが、村で医療をしていて疑問に思うことによく遭遇した。そういう時彼は経験豊かな父に尋ねるのであった。

 「父に何を訊いても適切に答えてくれました。大学の先生でもこれほどではなかったです」と、芳一は叔父の忠之に語っている。惟芳は長年の医療経験から実地の知識を得たのであろう。しかし彼は田舎にあっても、新しい医療の知識を求めて暇さえあれば勉強をしていて、子供たちはそういった父の姿を見ている。これは小学生であった頃の幡典の記憶に残る父・惟芳の姿である。

 

 夕食後一休みすると、仏間にある大きくがっちりした机に、仏壇に向かって左側に母、右側に父が座っていた。母はその日の診療報酬について台帳に整理していた。父の側に銅の火鉢があり、中に小ぶりの鉄瓶がかかっていた。父は敷島という巻煙草の吸い口を縦横に軽く押さえて一服しながら、眼鏡をかけてその日の新聞を読み始める。眼鏡は無造作に机上に置いてあった。ガラスの真ん中に傷があって曇って見えたと思うが、父は別に気にしないようである。煙草と新聞が終わると、医学雑誌に目を通すのである。

 

 医学雑誌は新しい医学情報を次々に追加して送って来るので、毎年一度、二階の広間に雑誌を拡げて、新旧の差し替えを母とやっていた。医学雑誌は母が何時も座るすぐ後ろの押し入れにあった。押し入れには三段の棚があり、その雑誌は上段にきちんと並べてあった。厚さ五センチから七センチに及ぶ綴じ込み式のもので、これが十数冊あった。二段目の棚には医学専門書があったが、その大部分は古いもののようであった。

 

 惟芳は村人の要望に応えて、内科・外科はもちろん、全科の診療をしなければならなかった。このため、それまで経験したことのない疾病にあうと、仏間の押し入れに整理してある医学綜合雑誌(全科の疾病を分類記載してある)を見て、可能な限り対処するのであった。子供たちの虫歯の抜歯も行うこともあった。

 

 話を元に戻そう。芳一が帰郷して診療に携わった二月のある日、朝からちらちらと小雪が舞っていた。午後になって雪は烈しさを増し、自転車に乗った芳一の黒い外套を真っ白にした。彼はその日、惣(そう)郷(ごう)という部落に住んでいる老いた男性の具合が急に悪くなった、との知らせを受けて往診したのである。

 

 診察を終えわが家に辿りついて、自転車と身体一面に吹きつけられた雪を払いのけると、やれやれといった気持ちになった。玄関の重いガラス戸をあけて中へ入った。時計を見るともう五時を過ぎている。彼は夕食を終えて二階の座敷の間に入った。依然として風が止まない。戸袋から一枚ずつ雨戸を繰り出してガラス戸の外側を閉て切った。それでも強風に煽られて内側のガラス戸までガタガタと音を立てて揺れていた。

 

 帰郷後、芳一は夕食を済ますと二階ヘ上がり、専門の外科よりはむしろ内科に関する医学書に目を通すことにしていた。その後は床に入って眠気を催すまで、書架から取り出して好きな本を読むのを楽しみとした。

 

 この日も数日前から読み始めていた森鷗外の作品集を枕元に持ってきた。彼は鷗外のドイツ留学後に書いた三部作、『舞姫』『うたかたの記』『文づかい』を、瑞々(みずみず)しい作品としてすでに興味をもって読んでいた。ところが今読み始めた作品に彼はそれまでとは違って惹きつけられた。彼は寝そべって読むのを止め、床から起き出ると、寝る前に脱いで掛け布団の足元に置いていた丹前を再び纏い、机に向かって正座してページを繰った。それは『カズイスチカ』という短編である。

 

 老いた開業医である翁(鷗外の父)を、大学で近代医学を勉強した花房医師(鷗外)が観察した記録ともいえるノンフィクションである。翁は宿場町の町医者に過ぎないのではあるが、長年の経験で、死期の近い患者を診て、その死ぬ日時を的確に推定した。また彼は如何なる患者に対しても、またどんな些細な症例に対しても、常に誠心誠意向き合っている。さらに翁は達観した生き方で日常生活を送っている。ここには珍奇な患者の症例(カズイスチカ)に専ら関心を向けている花房、つまり鷗外自らへの反省の気持ちも描かれている。

 

 芳一は読み終えると、卓上にある栗の木を刳って作った煙草入れからゴールデンバットを一本とると、燐寸を擦って火をつけ深々と吸った。彼はこの作品が自分の気持ちを代弁しているような気がして、何だか身につまされる思いがした。

 

 ―鷗外とその父との関係が、自分と父との今の関係に似ている。医は仁術なりを心掛けた父が、もっと年を取ったら鷗外が描く「翁」の生き方に一層近づいて行くだろう。

芳一は花房の想いに似たものを今自分も抱いていると思わずにはおれなかった。彼は鷗外の次の文章には特に惹かれた。

 

 若い花房がどうしても企て及ばないと思ったのは、一種のCoup d'oeil〔筆者注:一見しての判断〕であった。「この病人はもう一日は持たん」と翁が云うと、その病人はきっと二十四時間以内に死ぬ。それが花房にはどう見ても分からなかった。只これ丈なら、少花房が経験の上で老花房に及ばないと云うに過ぎないが、實はさうでは無い。翁の及ぶべからざる處が別に有ったのである。翁は病人を診てゐる間は、全幅の精神を以て病人を見てゐる。そして其病人が軽からうが重からうが、鼻風だらうが必死の病だらうが、同じ態度でこれに對してゐる。盆栽を翫んでゐる時もその通りである。次の文章にも芳一は共感した。

 

 熊沢蕃山の書いたものを讀んでゐると、志を得て天下國家を事とするのも道を行ふのであるが、平生顔を洗ったり髪を梳ったりするのも道を行ふのであるといふ意味の事が書いてあった。花房はそれを見て、父の平生を考へて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父は詰まらない日常の事にも全幅の精神を傾注してゐるといふことに気が附いた。

 

 宿場の医者たるに安んじてゐる父の諦観の態度が、有道者の面目に近いといふことが、朧気ながら見えて来た。そして其時から遽に父を尊敬する念を生じた。実際花房の気の付いた通りに、翁の及び難いところはここに存じてゐたのである。

 

 芳一は今までと違って父の労苦に思いを致し、慙愧の思いに駆られた。彼はその日、夕食を食べながら父と話した事を思い出した。

 「今日はひどい風で小雪も混じっていたようだが、惣郷までの往診、御苦労だったな。こんな日に往診をしなければならないのは、確かに身にこたえるのう」
 「はい。往きも帰りも海から吹きつける小雪交じりの風がひどくて、自転車を漕ぐのに往生しました。こんなことは帰って初めてです。しかしお父さんはこの様な経験は何度もされたでしょう」
 「いや、このような吹雪の日に往診を頼まれることはそう再々ありはせん。それにしてもひどかったのう。しかし惣郷の患者は喜んだことだろう」
 「はい、そりゃ喜んでくれました。肺炎の初期症状ですから、安静にして居れば回復すると云って、安心させておきました」
 「そうか、そりゃよかった。まあしかし診断は難しい。ほんの鼻風邪と思っていたのが命取りになる事もあるからな。だから儂は田舎に居っても医療に関する新しい知識には絶えず目を配ってきた」

 このように医者としての心構えを至極当たり前のように言った父であるが、考えてみると父は三十数年もの間よく辛抱したものだ、と芳一は父のこれまでの生きざまに思いを馳せた。

 

 ―父は日露戦争が終わってすぐ、広島陸軍病院で医師を目指して勉強を始めた。その時は宇田郷の様な寒村で医療に携わる事は恐らく考えてはいなかったであろう。しかし一旦腹を決めたら、脇目も振らずにそれに打ちこんできた。その父は、去年が還暦だった。これまで父の労苦は頭では分かったつもりで、東京にいても決して忘れてはいなかったが、本当に苦労をかけたな。俺は二十歳前に上京して今日まで、親の脛を齧り通しだった。ああ申し訳なかった。

 

 翌朝起きて雨戸を開けた時、昨夜とは打って変わって朝の陽光が燦々と射していた。ふと下を見ると、中庭に父の姿が見えた。芳一は階段を足早に下りると、顔を洗いに真っ直ぐに風呂場へは行かないで、廊下を右に歩いて座敷の方へ行った。

 「何をしておられるのですか?」
 「昨日の風で盆栽が傷んではいないかと心配したが、大丈夫じゃった。これは俺の父が丹精こめて手をかけてこられた梅の古木で、母が亡くなった後、堀内の家から持ってきたのだ。このように蕾を付けておる。どうだ、なかなか良い枝振りじゃろう」

 

 芳一は父に盆栽の趣味がある事を初めて知った。たまたま昨晩読んだ鷗外の作品にでてきた「翁」が「盆栽を翫んでいる時も、全幅の精神でもってやっている」という一節を思い出して、ここにも父と似た姿が見られると思うのであった。

 

 盆栽を唯一の嗜みとしていた夫に、幸がこれとは別に謡の稽古を勧めた事を先に述べたが、この稽古と多少関わりのある次のような逸話がある。

 

 緒方家の二階で稽古が始まると、近所に住んでいた一人の老人が欠かさず聞きに来ていた。彼は「恵美奈の爺さま」といって、豆腐屋だった。夜中の零時過ぎに起きて大豆を挽くことから豆腐作りの作業を始め、早朝より天秤を担いで豆腐を売り歩いていた。この爺さまの唯一の楽しみは、夕食時一杯の焼酎をひっかけることであった。
恵美奈の爺さまが豆腐を作る時かどうかは不明だが、全身大やけどの重傷を負い、当時の治療法では回復不能の状態になった。惟芳は毎日往診し治療に心血を注いだが、薬石効なく遂に死期が迫った。その時家族の者がびくびくしながら惟芳に相談に来た。

 「お爺ちゃんが焼酎を飲みたいと言っていますがどうしたらよいでしょうか?」
 「好きなだけ焼酎を飲ませてあげなさい」

 惟芳はこの老人の病状を承知していたので、好きなだけ飲むようにと指示したのである。臨終が近付いた時、惟芳がその枕元に座ると、

 「旦様のお陰で好きなだけ焼酎を飲み、この世に思い残すことが無く、安心して死ねます」

 こう云って惟芳の手を握って大往生を遂げた。思えば、これは現代の医療では望むことの出来ない、一人の人間の臨終の姿だと言えよう。

 

 

(五)

 さて、芳一の帰りを一日千秋の思いで待っていた女性がいる。彼の実母の母、つまり祖母の小田ミヨであった。彼女は孫の芳一が、緒方家の跡取りとして、医業を立派に継いでくれることを誰よりも強く望んでいた。そのためにも彼に嫁を心配することを、至上命令の如く自らに課していた。

 

 孫が可愛いのは人情である。孫が成人に達してもこの気持ちは変わらない。しかし孫にとっては何時までも子供扱いにされる事は煩わしく感じられる。ましてや都会の自由な空気を吸ったものと、老いて田舎に閉じこもっているものとでは、自ずからギャップが生ずるのは当然である。

 

 ミヨは芳一の母である娘が亡くなった後も緒方家によく来ては泊っていた。この事は幸にとっては「嫁と姑」の関係で、あまり歓迎すべき事ではなかった。しかし惟芳は亡き妻の母を大事に思った。このため、芳一の結婚話を祖母が持ち込んだ時、敢えて反対はしなかった。

 

 芳一は東京芝済生会病院に勤めていた時、心を惹かれる女性がいた。彼女は看護婦長であった。都会感覚の、今でいうキャリアウーマンを、汽車の便が一日に数度しかなく、しかも因循姑息な人々の住んでいる片田舎へ連れ帰ることは、どうしても無理だとは分かっていた。それで彼は心を決めかねていた。またその時、祖母が実妹の孫娘を自分の嫁にと考えていることに薄々気がついていた。その女性は芳一にとっては「ふたいとこ」の関係になる。そういう女性との間に子供が出来るのは、遺伝的にあまり好ましくはない。そのためにも宇田郷へ帰ることはそれほど乗り気ではなかった。しかし先にも述べたように、老齢の父を思うとやはり今の内に孝行しなければという気持ちが強く働いたのである。結婚話が明らかになった時、芳一は父に言えない胸の中を幸に語った。

 「お母さん。僕にはこれはと思う女性がいました。彼女は同じ病院に勤めていたのです。頭がよく気立ても良いのですが、胸の病気がありました。そうでなかったら結婚を申し込んだのですが」
 「そうかね。しかしもし連れて帰ると言ったら、奈古の御祖母様は反対されるでしょうよ。親戚の娘さんを考えておられますから。それにお父様も同意されないでしょう」
 「僕もその事が分かっているから、腹を決めて帰って来たのです。それに戦争がこうした状態では、結婚しても何時召集されるか分かりません。そうなれば生きては帰れないかもしれません。そうした時、こんな片田舎で知らない人ばかりの所に一人残しては気の毒です。ここで生まれ育ったものなら再婚もし易いでしょう。考えてみたら、これはと思うような好きな女性と一緒になれる男は幸せですね。結婚なんてその人の運命だと僕は思いますよ」

 芳一は、父には言いづらい事を幸には言えるまでになっていた。

 「そうかも知れんね。御時世とも言えるかもしれんよ。しかし戦場へ行けば必ず死ぬなんて考えてはいけんで」

 戦死と言う言葉を聞くと、一瞬不安な気持ちがよぎったが、幸は芳一の心の内を思うと、可哀想でならなかった。

 

 昭和十九年三月五日、芳一は厚東睦子と結婚した。宇田郷村の八幡宮の神前で二人は結婚の誓詞を読んだ。

 

 昭和拾九年参月五日緒方芳一厚東睦子ノ両人畏クモ産土大神ノ大前ニ永遠渝ルコトナキ夫婦ノ契ヲリ結ブ惟フニ之レ尊キ神慮ノイタストコロ誠ニ恐懼感激ニ堪ヘズ爾今互ニ敬愛信頼シ喜憂苦楽ヲ共ニシテ清キ明キ直キ正シキ家庭ヲ造リ忠孝ノ道ヲ全ウシ一心同體以皇国ノタメニ奉仕センコトヲ誓ヒマツル

昭和拾九年参月五日   新郎  緒方芳一
新婦  厚東睦子
媒酌人 永田重三

 

 これほど非情な運命があろうか。「忠孝ノ道ヲ全ウスル」という言葉には今日との時代の違いを感じるが、「苦楽ヲ共ニシ清キ明ルキ直キ正シキ家庭ヲ作リ」といって二人が神前で誓ったその日から四ヶ月後の七月に、芳一に召集令状が来たのである。
これは国民の負うべき義務であった。惟芳は古刀を軍刀に仕立て直して我が子に与えて言った。彼は多言を弄しなかった。

 「国を守るために一身を捧げることは武士の本懐と言えよう。日本男児として恥ずかしくない行動をとってくれ。武運長久を祈る。後の事は心配するな」

 跡取り息子の芳一が、老境に達した自分を助けようとして、望ましい勤務先をわざわざ辞めて帰り、その上自分の望む通りに結婚してくれた矢先の召集令状である。国のためとはいえ、惟芳としては実に切ない事であった。しかし考えてみたら丁度四十年前、自分も同じ思いを父にさせた。こう思うと運命の不思議を感ぜざるを得なかった。

 

 余談になるが、この稿を書いている時、『旧約聖書』を読んでいて、次の文章に目がとまった。

 「ある人が新妻を娶ったときは、その者は兵役に就いてはならない。彼には何の義務も負わせてはならない。一年の間、彼は務めを免除されたまま自分の家にいて、娶った妻を喜ばせなければならない。」(『申命記二十四―五』)

 紀元数世紀前からこのような人道的な法があり、これによってイスラエルの民は護られていたのかと思うと、「赤紙」による有無を言わさぬ召集は無惨といえよう。

 

 さて、芳一の軍籍は最初近衛兵として病院船勤務だった。だがその頃米軍は、日本の病院船が武器を運搬していることを察知して攻撃を加え、病院船は次々に撃沈されていた。そのために芳一の乗船すべき船がなくなっていたので、彼は昭和十九年七月五日に、広島の第五師団に軍医として入隊した。芳一が入隊して直ぐ後、惟芳と幸は遠路広島に彼を訪ねたが、事情の急変で会う事が出来ず空しく帰った。芳一は父母に手紙を書いた。

 

 遠路わざわざお出で下さいましたが、その上土砂降りの雨の中をお出で下さいましたが、急にお目にかかれなくなり真に申し訳けございませんでした。途中無事にお帰りになれましたやらと心配して居ります。私は元気一杯に御奉公致して居ります。
三十一才の今日迄想像もつかぬ程の大恩を受けましたが何一つ御恩返しの真似も致しませんでしたお赦し下さいませ。これから一生懸命に御奉公する事だけが今私に出来ます唯一の孝の道でもあると感ぜられ父上の分迄御奉公致します故、何卒御身体を御大切にして下さいます様お願ひ申しあげます。有難うございました。
父上様   芳一
母上様

 

 さらに、新妻に宛てては、

 

 后は宜しく頼む、父上様を御大切に二人分の孝行を頼む、もう厚東ではない緒方睦子である事をお忘れにならぬ様諸事宜しく頼みます、急に忙しくなったので何処にも失礼するから宜しく頼みます健康に注意の事
睦子殿

 

 同時に弟妹達に書いた手紙には、兄としての心情が吐露されている。

 

 「正道 幡典 武人 信子 殿   兄より
 お前達が遅く生れ兄とは年齢差が大きく、兄は勉学の為に家を離れて居たので一緒に暮す間も短かったが、兄思ひのお前達は此の兄を大切にして呉れて有難う。兄として何一つお前達の役に立ってやれなかった事を申し訳けなく思ふ。兄は立派な死に場所を得たので最早居ないものと思って父上様母上様を頼みます。正道殿は是非医学校に入学される様に頑張って下さい。他の者は夫々自分の進むべき道を進まれる様お祈り致します。如何なる職にあらうとも日本人として忠孝一番は勿論ながら如何なる境遇にあらうとも、人生を真剣に生き人間性と学問と芸術を愛する人間になって戴ける様に修養して下さい。
 自分が本当に正しいと思った事は小さな周囲の事情に負けないで大膽に卒直に実行される勇気を持たれる様にお願ひします。眞に眞なるものを眞とし本当に正しいものを正しいとし、本当に美しいものを美しいと感ぜられる様に勉強と修養が大事です。
幼ない者達は今私の云ふ事は解らないだらうが、もう少し大きくなったらきっと解って戴ける事と思ふ。お前達がこんな人間になって呉れたらどんなに有難い事か。
さようなら  御大事にね」

 

会津八一が学生に書いて与えたという「學規四則」なるものがある。

一、ふかくこの生を愛すべし
二、かへりみて己を知るべし
三、學藝を以て性を養ふべし
四、日々新面目あるべし

 

 このような箇条書きではないが、芳一も「人生を真剣に生き、人間性と学問と芸術を愛する人間になって戴けるように修養して下さい」と、手紙を書いた。一番齢の近い正道とでも十二歳の違いである。末の妹の信子とは二十歳の開きがある。しかし芳一は「兄は立派な死に場所を得たので最早居ないと思って父上様母上様を頼みます」と先ず述べ、そして妹にまで、「今私の云う事は解らんだらうが」と言って、この手紙を書いたのである。

 

 芳一は、自分が何処かの戦場へ派遣されると覚悟はしていただろう。しかし軍事機密のために家族へは何一つ言えなかった。このため家族の者にとっては、その後しばらくの間、彼の行動は杳として分からなかった。

 

 ここに一通の葉書がある。昭和十九年七月九日の消印があり、差出人は東京都杉並区高円寺六ノ七二三 松本旅館 永田晴二とある。妻の姓を使って芳一は父に宛てて書いているが、これほどの秘密保持が必要だったのであろう。

ご無沙汰致しました お変りございませんか いろいろ御世話を頂きましたが仕事の都合此の度こちらに参りましたが直ぐ又横浜に立ちよりそれから任地に参ります 御伝言を頼まれましたが林にも寺尾氏にも誰にも面会する時間がありませんでした どうぞ悪しからず

 

 如何にも他人行儀の文面だが、自分が内地を離れて硫黄島へ派遣される事は、この段階では恐らく分かっていたであろう。

 

 平成十九年一月十六日、正道は硫黄島への「厚労省主催の慰霊巡拝」に参加する機会に恵まれた。これによって初めて、広島から硫黄島で玉砕するまでの芳一の足取りが判明した。

 

昭和十九年七月七日広島港出港。
同月十日横浜港出港。
同月十八日父島沖で米潜水艦の魚雷攻撃で乗船が沈没。彼は泳いで父島へ上陸した。その時軍刀とピストルを失くした。
七月二十一日父島出港。七月二十三日硫黄島に上陸した。

杏林の坂道 第十三章「硫黄島からの手紙(前編)」

(一)

遠路広島まで芳一を訪ねたものの会うことが出来なかった惟芳と幸は、残念というか、空しくも寂しい気持ちで村に帰った。その後直ぐに芳一は両親に詫び状を書いたのである。この手紙を受理した後音信がぷっつりと切れた。およそ一ヶ月後の八月十日に待ちに待った手紙が届いた。それは硫黄島からの第一報で、硫黄島からということが文面の最後から察せられた。その後芳一はこの絶海の島から次から次へと多くの手紙を書き送った。それらは皆家族の者にとっては非常に貴重なものであった。

 

 戦後七十数年を経た今、改めて読んでみて、これらの通信は読んだ人に何らかの興味を覚えさせ、また感慨を抱かせるような内容ではないだろうかと筆者は思う。何故かといえば、今や世界の情勢は絶えず変化して来ている。この間にあって我が国は著しい経済発展を遂げた。従ってあの戦時中の過酷な体験を知らない者が大半を占め、いささか平和呆けとも云えるような安穏な生活に安住して居る。これとは真(ま)逆(ぎゃく)の死に直面した極限の状態に在りながら、芳一の手紙はその時その場の状況を、ユーモアを交えて面白く述べており、また色々と考えさせられる内容でもあるからである。彼は自分を含めて従軍兵士たちの苦境を敢えて手紙には書かなかった。家族の心中を慮ってのことだと筆者は思う。

 

 もう一つ言える事は、同じ硫黄島で今なお多くの兵士の遺体が島にあって収納されないで居るという現実である。本人はもとより家族の者にとって、未だ本当の心の安らぎが得られていないと思われる。芳一の遺体は奇跡的にも洞穴内で発見され、『従軍手帳』まで見つかった。此の事は奇跡とも云える。こうした事を考えて筆者は彼の手紙の総てを読者に読んで貰いたいのである。


 「3S(スリーエス)」という言葉を戦後耳にした事がある。これはGHQが戦後の日本国民に対する占領政策を示すものであると言われていた。これは頭文字が三つのSで始まる文字である。すなわち、「セックス・スポーツ・スクリーン」の三つである。今は「スクリーン」は「スマホ」というべきか。これらのものは人生を享楽的に過ごす要素を多分に含み、真面目に生きる糧にはあまり成らないと云えるのではなかろうか。こういったことに国民の関心を向けることによって、これまで培われてきた良き日本人の精神をなきものにして、愛国心を失わさせ、強き日本へ二度と立ち上がらせまいとした政策だと言われている。たしかにその政策は功を奏している。例えばテレビは朝から晩までこの「3S」関連の事を専ら放映していると言えないでもない。

 

 話をもとに戻そう。
 芳一は家族への手紙で、一言も愚痴や不平をこぼさず、むしろ老いた父をはじめとして家族の身の上を案じ、また愛すべき弟たちを励まし元気づけている。硫黄島からの最初の一報には次のようなことが書いてあった。

 

 御元気でございますか 私は元気で頑張って居ます 先日手紙で書きましたとほり寺尾さんと病院で会いました 外科です 羨ましい限りでした 暑さは相当なものです 島の生活は水に苦労です 天水ですがわかしても下痢です 赤痢が多いです 一人死にました チブスも多いです 今寺尾さんの所に虫垂炎の患者をつれて来ました 寺尾さんの所迄一里半位ひです 家中皆様御丈夫の事と存じますが何卒御無理のない様にお願ひ致します

 

 手紙は仲々出せません 当分御返事も御無用です 外傷も多いです 死ぬ者もあります 乱筆走書きにて失禮致します何卒御大切に御無理のない様お願ひ致します 硫黄が多いです!(御想像下さい)
八月十日

 

 この手紙は東京都中野区在住の寺尾武彦の名を借りて出している。寺尾氏は芳一の部下で病気になったので、彼を硫黄島より薬品を内地に取りに行かせた時、芳一はその機会を利用したのである。手紙の最後に細字で「硫黄が多いです!(御想像下さい)の記載で、芳一が硫黄島に居ることが家族に分かった。この手紙は昭和十九年八月十日に書かれたものであるが、硫黄島に居る事は軍事秘密で、その場所を知らせるのは厳禁だったのだ。芳一は「羨ましき限りでした」とちょっと不平を覗かせているが、これは最初だけでその後は一切このような言葉はない。後で述べるが、洞穴内で発見された『従軍手帳』にも書いてあったように、硫黄島を死に場所と考えて早々に生存を諦め、いやむしろ達観の境地に達したと云えるかも知れない。

 

 その後長らく音信はなかったが、八月二十六日になって今度は芳一の名前で硫黄島から二通の葉書が届いた。内地を離れた事がそれとなく分かる内容である。父に宛てて次のように書いている。

 

 その后お変わりございませんか 盆もすぎ気候の変わり目ですから特にお身体に御注意をお願ひ致します 私は次第に土地に慣れ身体の調子も上々ですし隊の仕事にも慣れ御奉致して居ります故御安心下さいませ
御返信は以后左記の宛名でお願ひ致します
横須賀局気付ウ27膽七一五七部隊藤原部隊本部 見習士官 緒方芳一
それからお願ひがございます。二階の本棚に外科、各論上中下3冊及外科診断の指針及外科医臨床の為に(小さな青色表紙)を送って戴きたう存じます(後略)

 

 また妻の睦子に、送本に際してのこまごまとした指示を同じはがきに書いている。もう一通の葉書の宛名は睦子となっているが、実際は弟達と妹に宛てたものである。

 

 正道殿 もう扁桃腺も良くなってぴんぴんしてゐる事と思ふ 健康第一に願ひます いよいよ二学期も迫って来ました 一生の分かれ目ですから頑張って希望の学校に入るよう祈って居ります 勉強は要領よく無駄のない様に 要領と云えば此んなのもある 小づるく世の中を要領よく泳ぎ回ってちゃっかりと、ずうずうしく甘い味を吸ってゐる奴が居る あんなのは外から見るとがつがつしていて見っともないしメッキは直ぐ剥げて終ふ あんな品のない奴は軽蔑してゐる あんなのにならぬ御用意
幡典殿 元気ですか 陸士海兵の発表は未だですか 大いに頑張って下さい 暑さに負けないように こっちも暑いよ 何度? それは軍秘です 日向に寒暖計を出して置いたら破れて終ふよ だけど日陰は涼しい 珍しい事も沢山あるよ 修養になる事も沢山あるよ それは皆㊙
武人殿 元気ですか 今年はエビはとれましたか 川が乾いたので駄目ですか 今年はお前達のさざゑを御馳走になるつもりだった 御大切に。
信子殿 きうりはどうだったの? とまとは元気ですか大きなのがありましたか 信子ちゃんのとまとが食べたいな さようなら
御元気でね
睦子殿エート、お名前だけ拝借してすみませんなァ

 

 芳一は三人の弟と、親子ほども歳の違う妹にまで心のこもった便りを書き送った。この後、硫黄島から来た総ての手紙は最後の一通に到るまで、差出人は上記の場所からになっていて、それらの封書、葉書に「軍事郵便」と「検閲済」の押印があった。以下彼が書き送ったほとんど総ての書信を転載しながら、この章を書き進める事とする。

 

 

(二)

九月十二日に芳一は父と母に宛てて別々に葉書を書いた。耐え難い地熱と灼熱の太陽、それに飲み水に事欠く硫黄島。このような状況下に置かれた身ではあるが、彼はユーモアを忘れていない。父に宛てては、

 

 その后如何ですか内地は次第に秋めいて参りました事と存じます こちらは常夏ですから変化はほとんどありません お手紙は三日前に受け取りました 皆様御元気の由安心しました
 私も陽に焼け垢と一緒で眞黒で元気に御奉公させて頂いて居ります 比の頃スコールが来ないので顔をこするとぼろぼろと黒いものが落ちます
 それから顔に付いて特筆大書しなければならぬ事は鼻の下に生えたヒゲを残し他は鋏でつみました処髭の如きものが出来ました 以来約半ヶ月段々と形を整へましたがどうも未だ大隊で一番まずい髭らしく野戦病院へ行ったら寺尾君に笑はれました 誰も良い鬚だと云ふものがありません 鋏でつんでしまほうと思ったら 髭をのばせのばせと僕をけしかけた衛生兵共はいやそんなに悪い髭でもありませんよと止めますので未だ鼻の下にくつついて居ります 
 下士官兵以下は髭を延ばす事相ならん事になって居りますので下士官や兵でないと云う看板になるらしく効果はその程度ですから 髭の命もそう長くはなさそうでお目にかける事もありますまい どうもむづむづして余り気特ちが良くありません 下らぬ事を永々書き恐縮です

 

 母に宛てたもう一枚の葉書の表に、

 

 御元気の由、なによりと喜んで居ります。私もお陰様で未だピンピンして御奉公致して居ります。之れも神仏の加護に依るものでございませう。益々軍務に精励御役に立たねば相すまぬと思って居ります。祖国に対する考へや日本の現状が此処にきて、もっと現実的に切実に考へさせられます。私の捧げた小さな命がお役に立つのなら何と有り難い事だろうと考へて居る事を何か未熟な者の様に思へて恥ずかしい気が致します。自分の命も他人の命もあるもんか何でもかでも祖国を守らねばならぬ七度でも八度でも生まれ変わってこの国を守らねばならぬと思われます。
 夜は美しい星がでます。御大切に御無理のない様に。

 

 親の元を離れ、故郷を後にして初めて親の恩、故郷の良さが分かるという。芳一は内地を遠く離れた絶海の孤島と云うべき硫黄島での守備隊の任務に就いて、祖国の事をしみじみと思い、「七生報国」、おれは「何が何でも祖国を守らねばならぬ」とう強い念を抱くに到ったのだ、と思われる。同じ葉書の裏面に小さな字で妻に宛てて、

 

 睦子殿 相変わらず御多忙の事と思ひます 御元気の由何より 厚東のお父さん一男さん(筆者注・睦子の身内)皆お国の為に出られてお母さんもお淋しい事だと思ひますが祖国にとっては皆必要な人だ 君も負けないように御奉公を願ひます 御奉公は唯一つ本分を盡す事 そんな事は云はなくも解ってゐると思ひます それよりも虱の話でもしませうかね 比の頃は僕も一人前の兵隊になったと見へて虱氏と同居ですわ 防空壕に入って暇な時には先づ虱取りです 暗くてなかなか見つからぬが生けどりにした奴を競争させるのも面白いよ 昔支那の七賢人とか何とか云う連中が日なたぼっこしながら虱を取って居たそうで支那人と云ふ奴はキタナイ奴だと思って居たが自分で取って見るとそんなに悪くもない 但し刺されて痒いのだけは余り感心しない
 こちらに来て読んだ本は大佛師運慶、草忱、夢十夜、召さるる日まで 君は? 何卒御身体を御大切に父上様母上様をお願ひします

 

 米軍の硫黄島への攻撃が始まる前で多少時間的にも余裕があったのか、しかし防空壕の中は炎暑の厳しい環境である。芳一はユーモアのある虱の話などして、敢えて妻の心配を払拭するようにと努めている。また寸暇を惜しんで好きな漱石の本などを読んでいた。彼は両親と新妻の三人にそれぞれ今の状況を書き送った。続いて九月二十六日に睦子に宛ててまた葉書を出した。

 

 今までで一番多忙です。夜も余り眠れないがすこぶる元気である 僕の身体はそんなに安物ではないと見へて中々無理がきくよ 家にいた時見たいに熱を出すこともない そちらも忙しいだろうね 宜しく頼みますよ 寺尾君は病気で内地に飛行機で帰った(中略) 
さよなら家の事は頼むよ 少しも心配しないで御奉公に専念している

この絵葉書に堀文子の「落下傘を造る少女」の絵が画いてある。その横に軍刀を提げ、夏季の軍装をした自分の姿を描いて、「エッヘン 我が雄姿?」と書いている。芳一はこうしてこの後も、時々ユーモア溢れる内容の書信を書き送り、努めて家族の者に自分が元気であるということを伝えたのである。

 

 十月二十日に睦子宛てに送本催促の葉書を出した。極めて多忙で時間がない様子が手に取る様に分かる。五回も手紙を出したのに妻からは一回しか来ていないと云っているところは、漱石がイギリス留学中、妻の鏡子からの手紙が中々来ないのを非難している事を連想させる。

 

 御元気ですか 父上様母上様も御元気の事と思ってゐる とても忙しくッて手紙も時間一杯に大急だ こちらからは五回だがそちらからは一回だけ 頼んだ小包は来ぬ 他の人には度々来て居る所を見ると変だと思ふ
 直ぐ内科書(上・下)2冊送ってください 著者額田、茶色クロース薄表紙(呉・垣本著ノ大キイ方デハナイ)煙草でも入れて呉れれば尚結構、小包は送れるらしいよ兵隊には度々来ているよ、さようなら 御大事に 時間一杯だ そちらも忙しいだろうね

 国を挙げての戦いとなった。昭和十九年八月十六日、萩中学校の第三学年以上の生徒全員は光海軍工廠へ学徒動員となった。したがって四年生だった幡典と三年生の武人は共に勤務に就いた。芳一は弟の幡典に葉書を出している。

 御手紙有難う。二通来た。直ぐ返事を出せなくてすみません。毎日御苦労さんだね
お前の造った武器で兵隊さんも一生懸命御奉公してゐると思ふ。身体を大切にして働いてください。そして一生懸命勉強して下さいませ。学徒は学徒らしく決して工員ではない。勉強に仕事に学徒の面目を発揮して下さい。
 十一月に海兵予科を受験とのこと成功を祈ります。此処にもお前達と同じ年令の少年兵が来てる元気だよ。
 身体を丈夫にして学徒の本分を忘れない様に働いて下さい。さようなら

 

 この葉書の裏面には、伊東深水画伯の南方の農民親子が稲刈りをして一休みしているところが画いてある。その絵の側に芳一はさらに書き加えていつ。

 

 ふるさとは 皆たしやでか 小鳥なく

 此処には目白と鶯が居る、その他飛んでゐるものは蝶や蠅に飛行機、それから鶏も野生だから高い木に飛び上がるよ

 

 十一月十三日に父と正道、さらに睦子と信子には連名で四人に宛てて三枚に葉書を出している。多少なりととも時間に余裕を見出したのかも知れない。父への葉書だけ見てみよう。

 御手紙がまいりませんので心配して居りました 外の者には小包や手紙が度々参りますのに自分の所にはちっとも来ないので何か変わった事でもないかと心配して居りました所次々とお便りに接し安心致しました。
 有馬君より葉書が参りその次の日に父上様より28/8出、正ちゃんの26/8睦子27/9その次の日が萩中創立記念日幡ちゃみたいんの23/9それに本の小包が二つその次の日母上様の九月はじめその次の日に父上様の17/9睦子の28/8正ちゃんの12/9が参りました それ迄戦友の所にばかり行く手紙に指をくはえて見て居りましたがどっと一遍に、へんどんなもんですと云う具合です 
 毎日晝飯を食べると一通り読み返します 士官殿もう解りましたよ 余り見せびらかさなくてもいいですよと兵隊たちにひやかされます 何もかも忘れて御奉公致して居るつもりでしたがやはり手紙が来ぬと心配します
 小遣ひはいらぬかとの有難い思召(おぼしめ)なれど此処では一文もいりません 銭なぞ此処四ヶ月近く見たこともない状態です 国防献金致すつもりそんな状態ですから此処で本等とても買へません 冬のシャツとズボン下なくなりました あったら悪いのを送って下さい 冬になるといるかも知れません 夜になると涼しいですから 御多忙の御様子何卒御身体を御大切にして下さいませ   

 

 待ちに待った手紙や小包が四日続けて来たときの喜びが手に取る様に分かる。「士官殿もう解りましたよ 余り見せびらかさなくてもいいですよ」と兵隊たちにひやかされたと書いているが、父の惟芳も丁度40年前、日露戦争に従軍していたとき、内地から手紙や慰問品が来たときの喜びを思い出したことであろう。家族からの手紙を待ちこがれ、それが来た日を几帳面に書き留めている。それを見ると手紙を投函した日の順番に彼の手元へ届いていない。こうした事は戦時中だから考えられるが、手紙が届いたときの喜びはまるで子供のようである。よほど嬉しかったのだろう。今手紙が届いただけでこうした歓喜を覚えるような者が果たして居るだろうかと思う。戦時中は多くの兵士がこうした体験をしたのだろう。
 
 芳一は九月十二日に正道に宛てて一変して真面目な励ましの詞を送っている。

 

 御手紙有難う、傍らにはり付けて毎日見てゐる。勉強に銃后の御奉公に御多忙の事と思ひます。
 遠く戦場より激励の詞を送ります。必ず試験に合格される様祈ります。
    
   『待ったはない』
   自然に待ったはない
   冬が来る。その次は春だ。木の芽はぐんぐん延びて行く。
   人生に待ったはない。
   生れる、育つ、少年はやがて大人になる。
   戦争に待ったはない。
   陣地だ 壕だ 建設は進む。
   B29がそれをたたきこはしていく。
   その為にどんどん犠牲があったとしても
   又陣地だ 壕だ。
   再建は進められねばならぬ
   試験にも亦決して待ったはない。  
   日々の準備が即ち決戦 
   戦は決して勝利のその日にあるのではない
   かかって日々の準備にあるのだ
   決して待ったはない!

 親孝行をお願いします! それは丈夫でご勉強! 国家も兄も希ひます!

 

 芳一は妻や弟たちへの便りには必ずと云っていいほど「親孝行を頼みます」と書き加えた。東京の芝済生会病院での勤務を中断して、父に代わって村の医療に携わろうと決心して帰郷したのに、間もなく硫黄島に派遣された。彼としては孝行が出来なくなったことが、何よりも心残りだった。親孝行を自分に代わってしてくれと頼むと同時に、どのような境遇にあっても、学生の本分は勉強だと言い続けた。しかし同じ日に書き送ったもう一枚の妻と妹へ連名の葉書では、弟たちとは違ったゆったりした趣のある内容である。
 
 御手紙有難う毎日忙しい事と思ひます 一生懸命親孝行して呉れる様子に安心して元気に御奉公してゐます 本と写真5枚届いた 10月二十一日には端書も着いた もうすっかり秋らしくなった頃と思ふ 柿や栗は食べられないがバナナ、パイナップル、パパイヤは食べた その内手に入ったら皆の写真に供へて上げようと思ってゐる 今日は僕の誕生日 お献立は乾燥野菜を粉醤油で煮たの 内地では食べる事の出来ぬもの、でも生の魚も時には食べるよ 食ひしんぼうな話は止めにして 僕の所は君が想像してゐる所とぴったり合ふ
 それから 汗流し露台に寝ころび月見かな 業し終へ露台に月を露濡るる 今日も亦南に戦果月白し
 寝ころんで月見は余りのんきでおっとりしすぎる、一日の激しい仕事をなしとげ風呂上がり浴衣に着かへほっと一息露台で月見としゃれる、ゆっくりと落ち着いた気持ちで月を仰ぐ色々の想ひを月に語るふと気が付くと静かな今宵いつしか夜露がしっとりと露台に濡れてゐた

 

 筆者はこの妻への手紙を書き写していて、ふと蘇東坡の「春夜」の詩を思い出した。時代も所も、さらに季節も全く異なるが、蘇軾が若いときの作品で、江戸時代から我が国では広く知られていたとのことである。

 

春宵一刻値千金     
花有清香月有陰
歌管樓台声細細
鞦韆院落夜沈沈

 春の宵の一時は千金の値がある。清らかな香気を放つ花。おぼろにかすんだ月。高殿の方から聞こえるか細い歌声と笛の音。ぽつんと一つ、しずかにたれているぶらんこ。

芳一も昼間の激務の後露台にでて、秋の月を一人静かに眺めながら望郷の念に駆られるような一時の余裕を持てたのか。手紙はさらに続いている。

 

 親孝行を頼みます御元気で頑張りなさい
冬シャツの悪いのを送ってください 食べるものが欲しい 歌か詩集、画もミタイ、コレコレゼイタクは敵だ,初め頃の僕が出したハガキを良くみて下さい 御大切に
信子ちゃんお手紙有難う トマトときうりがそんなに良く出来たときいてびっくり 畑の仕事なくなって困ったね 兄さんは今信子ちゃんの畑がどこかなあと思って考えてゐる ここの鳥は目白とうぐいすとひよしか居ない
 油虫と蟻とはえが沢山ゐる、ものすごいほど居るよ,寒くなるからかぜをひかないように 

 

 十一月二十七日に芳一は父に宛てて又葉書を書いた。その裏表に彼は蠅の頭のような小さい字でびっしりと書いた。その最後に「8回」と有る。此は父宛の8回目の通信を意味する。

 

 皆様お変わりありませんか 僕は至極元気で御奉公致して居ります 父上様よりの絵ハガキ届きました 今日小包二ヶ届きました 皆様の御心尽くしの数々故郷の香り高き品々眞に有難うございました 包の新聞も皆でむさぼる様に読みました 小包の紐はすだれを編み病室に使いました 箱は手箱に油紙は患者に新聞は薬包紙に厚紙は蠅たたきに利用致しました 兵隊は廃物利用が上手です 罐詰の空罐とリンゲルの空アンプルとでランプを造ってくれましたお陰で夜暇なれば勉強が出来ます 七月の終り頃から軍医中尉殿は居なくなり下士官も一人になり部員一同未だ仕事も始めたばかりで気心も知れない頃自分一人で非常に多忙でありましたが最近はやっと一通り形も付きよその患者も診て居りますが仕事も能率的に行く様になりました そして今度見習士官と下士官が来てくれましたので勇気百倍御奉公に万全を期して居ります そんなに身体が弱くて召集になったら御奉公出来るかとよく父上様に言われて居りましたが不思議なほど頑張りがききました 例に依って時々三八度以上の熱をも出しましたが少しも休まず御奉公出来ました 此の頃は熱も出なくなり極めて好調です 部隊長殿も貴官も案外強いなァと度々云われました 今にして思へば本当に神仏の御加護に依るものだと思はれました しかし之しきの事ではなくもっともっと頑張らねばならぬ時が来ると思って居ます 十月迄の俸給と小遣ひの余り三百五十円送りました 内十円村へ寄付して下さいませ標準農村のお喜びです 僅かですが兵隊さんの寄付ですから気持ちだけです
  どうぞ呉々も御身体を大切に決して御無理のない様に御願ひ申し上げます 御奉公は二人分致します故何卒御無理のない様重ねてお願ひ申し上げます 

 

 睦子殿 親孝行を頼みます元気で頑張って下さい 小包有難う 内科書は送って呉れたかい 冬シャツ頼むボロで良い医学雑誌有難う 雑誌は医事新報だけで良い お陰で医学界がのぞかれる 取り残されなくてすむ 煙草はいいな 久し振りで黴の生えない煙草を吸った 正ちゃんのサザエ有難う 兄思ひの心尽くし涙がこぼれる 今夜副官殿の病気全快のよろこびにサザエとパパイヤの葉を煮て食べることにした 今年は栗はだめかと思ったら食べられた 欲しいものは手紙 せめて月三十通 送って貰ひたいものは印鑑鉛筆歯磨き粉インキ(パイロット)少しづつ ぜいたくを云ふなら魚のヒモノ佃煮スルメも良い 但し罐詰類はいらない 忙しいだろうが勉強してゐますか 生活の探求(筆者注:島木健作の長編小説)なんかむつかし過ぎはしないかと思って居る 字は段々上手になった様な起臥するお母さんに習ふと良い 精神修養にもなるよ 注文が多くてすみませんなァ 時々小畑(筆者注:睦子の家元)に挨拶に行った方が良い さよなら御元気で頑張って下さい 正ちゃん画を頼む 色でも鉛筆でもいいから

雨の夜は痛むか創が 万歳と呼びし兵士 潮なりの音
ふるさとは 皆たしやでか 小鳥なく         8回

 

 たった一枚の葉書に芳一は以上の事を縷々書いた。明日をも知れぬ最果ての戦場で寸暇を惜しんで書いたのである。

 

 

(三)

 ここにもう一通ある。芳一が言及している手紙の一覧表から算定すると、十一月三日から十一月二十日の間に書かれたと思われる正道宛の手紙である。芳一はB5判の大きさの便箋の裏表に、細かくて几帳面な字でびっしりと、自分の考えを弟に切々と訴えている。現状を正しく見極め、明日の日本を夢見て、学徒はどのような覚悟を持つべきか、また如何なる立場に於いても勉強すべきだと論じている。今や彼は自らの死を覚悟し、日本の将来を若い者に託す気持ちで、こうした戦場から手紙を書いたのである。以下全文を筆写する。

   

 正道殿
 度々御手紙有難う 伸々とした明るい美しい字だ 字が上手になったのに驚いて居ます 正ちゃんの手紙は26/8 12/9 6/10 9/10 25/10 3/11 の六通届いた 正ちゃんの便りが一番多い 画は2枚来た鉛筆画は素敵である 兄思ひのお前の気持ちを本当に有難いと思ふ さざゑ有難う 未だ半分とってある 十二月八日に食べる事にしようと思ってゐる 内地も七月以来更に国民は緊張し総ては戦争完遂の為に動員されてゐる様子、中学生も動員されたとの事 幡ちゃん達は光で兵器増産をして呉れるとの事有難い事だ 前戦に居る者にとって内地の緊張振りを知るとボヤボヤしてゐては銃后に申し訳ないと思ってゐる 尚一そうの御奉公に万全を期さねばならんと思ってゐる
 国学者北畠親房は戦塵の間に神皇正統記を著し皇国の大義を説きながらも一途に戦った 維新に於ける多くの学者志士の奮戦 之等は総て國難に馳せ参じた学者学徒の眞面目であり日本の伝統的精神である 既に大学高専の学徒は学園を棄てて征戦の野に立ってゐる 彼等こそ学即兵の実践者である 
 銃后にあっては兵学一体の精神は学労一体でなければならぬ 何故ならば今日労働力が戦力培養即ち兵器増産の基本である お前達の先輩である大学生は既に手本を示してゐる 中学生も之に続かねばならぬ 兄は今が学労一体と云った もっと解り易く云へば教室だけで教へる学ではいけない 松陰先生が米を搗きながら本を読まれた あれを工場へ農村へ移さねばならないのだ 学労一致には2つの意味がある 一つは所謂生きた学問 実社会・実生活に直接結び付いた実行力のある学問 例へば教室で勤労と云ふ修身の授業を止めて実際に工場で勤労させて勤労の精神を教へ込む事 いま一つは人手が少ないから学生が働くのである 学徒動員―学徒は工場に農村に、世間の人々は拍手を以って之を迎へ大げさにワイワイ騒ぎ立てる。もう教室で教へる授業は時代遅れだ ハンマーを振る事それが勉強だ そんな風に云って居るのではあるまいか また学徒がそんな風に感(ママ)違ひしてゐるのではあるまいかと恐れる 教室は工場に移動した従って教へ方は変わって行かねばならない 然し学問がいらなくなったのではない 勉強する時間を縮めて働かねばならなくなったのだ
 学校だけが戦場から離れてのんきの勉強してゐた それが今度働くようになった 当り前の事だ それを世間ではまるで世の中が変わった様にワイワイ騒ぎ学生の増産を云ふ 学生が働き出した事だけを問題にしてゐる様だ 働く事だけが大事な様に云ってゐる様である 之は行き過ぎと云ふもの 一つの時代が去り新しい時代がくる
過度期には何時も此の行き過ぎがある
 明治維新后我々の祖先は初めて世界を見渡した時如何に西洋文化のすぐれて居るかい驚き 西洋文化の吸収に大童になり西洋文化を吸収する事が急である余り その儘無条件に西洋文化は移入され 終に勢ひ余って西洋崇拝となり英米崇拝となった 我々は決して行き過ぎてはならない 一度立ち止まって良く考えて見よう 学徒は学園を后に工場に農村に進出した 我が祖国が決戦の此の時に学徒のみがのんきに勉強して居られ様か 然し学問が決していらなくなったのではない 学徒はあくまでも学徒である 職工の真似をしに工場へ行くのなら学校を止めて職工になれ

 

 当時筆者は萩中学校一年生だったから工場への動員へは行かなかった。然し学校での授業はなくて農村へ稲刈りの手伝いとか、上陸用舟艇の基地建設などの労働をさせられた。その時果たして何人の者がこうした作業の合間に勉強しただろうか。殆どの者は授業から解放されたとい思いだったように思う。他の者はいざ知らず、自分は芳一の云う「学労一致」の精神からほど遠い存在だった。

 

 芳一はここまでを便箋の片面に書き、更に「裏へ」と記入して書き続けた。

 

 前戦に居て何より欲しいのは武器である 兄は実際に之体験してゐる 内地で皆一生懸命増産しても未だ足りない 今度は学徒にも増産に馬力をかけて貰わねばならぬ 更に必要なら総ての学校も閉鎖しなければならぬだろうし書物の出版も止めねばならぬかも知れない 然し学徒の心の中に学に対する熱さへあれば学問の道は自ら拓けて行く 此の戦争は二年や三年で終るのではない
 戦争しながら建設して行かねばならないのだよ 将来の日本はお前達の手の中にある 学問も工業も敵にをくれて居るのだ 戦争を続けながら学問も工業も発達させねば英米に勝つ事は出来ない 一つの優秀な武器は百人の兵隊 百の武器を相手に戦へるのだ
 学問特に科学は進歩しなければならぬ その時学生が勉強を止めたら日本の将来はどうなるか 敵も勉強して居る 毎日進歩してゐるぞ 兄は此の事を此の目で良く見て来た
 戦局は決戦段階に入った 前戦も銃后も熱狂して戦って居る 神風隊を見よ ペリリュー島を見よ 日本人なら誰でも此の戦列に加はらねばならない 此の時お前は身体の為に工場へ行けなくて一人で勉強しなければならない 兄はお前に同情する 「幡ちゃん達にすまない様な気がする、学校から光へ行けと云われた夢を見る」との事 若い日本人だ無理もない、其処までお前が戦争を考へて居るのに頭が下がる
 負ふた子に教へられた様な気がする 然しそんな弱い事ではいけない
 ドンと腹をすへて戦局を見て居なさい お前にはお前の進むべき道がある お前の勉強が今工場で働くより百倍の力になって國のお役に立つ時が来る 戦争は決し二年や三年で終るのではない 福沢先生の慶應義塾で講義が行われてゐた時上野では官軍と彰義隊とが一戦を交へ様としてゐた 若い塾生はもうじっとして勉強して居られなかった

 一人去り二人去り塾生は減って戦いに行った そして上野の戦いは終り維新となり日本は世界の舞台に出場した その時最后迄踏み止まって勉強した者達は新しい日本の経済界でどれ程偉大な貢献をした事か かっての日卑怯者と云はれた彼等学徒が 今直ぐに役に立たなくても良い 今にきっとお前の勉強が役に立つ時が来る それ迄は米英撃滅の熱情を勉強にぶち込むんだ 労働奉仕も良い稲刈りも大事である 然しその為に勉強の能率を下げたら申し訳ないよ 日本はまだまだ腰をすへて遠大な計画を樹てねばいけない サイパンが陥ちた内閣が変った東京が空襲された台湾沖比島沖で戦果が挙がった その度に一喜一憂してゐる様では島国根性と云ふものそんな事は小さい 敵が九州に上陸しても日本は必ず勝つ 然しその間に科学も工業も発達させねばならぬのである
 長々とお説教みたいな事を書いてすまない では御身体を御大切に勉強して下さい もうだいぶ寒くなった頃ですがどうですか こちらは夜少し涼しいですが晝はシャツ一枚で丁度いい位ひです 幡ちゃんから端書が来たが此の度は返事が出せないから宜しく云ってください 海兵の合格を祈ると云ってね そして学徒は学徒らしく単なる産業戦士に終わらない様に云ってね さようなら親孝行を頼みます

 

 芳一はこの手紙を書いた後、四ヶ月足らずでは玉砕している。当時一部の識者を除いて誰もが戦争は未だ容易には終わらないと思っていた。芳一も同じ考えだったのだ。  
然し彼は戦いの中でも学問特に科学と工業の発達が大切である。その為に学徒は勉強を忘れてはいけないと云い、正道が小児麻痺で動員へ行かれないのを知った芳一は、上野の戦いに中にあって福沢諭吉が講義を続けた事を引き合いに出して弟を元気づけた。正道は此の時兄の教えを強く胸に留めたのは間違いない。 

      

 

(四)

 十二月十九日、芳一は妻の睦子に宛ててまた長い手紙を書いた。妻への愛情がユーモアを交えて書かれている。便箋五枚に美しく几帳面なペンで認めたものである。未だこの時点では過酷な状況下ではあるが、島での生活も楽しいものだと敢えて語ることで、家族の者を安心させようとしている。 

 

 君からの便りは28/8 27/9 16/10 21/10 24/10の五通と小包4ケである 便りは何よりの楽しみです 忙しい中にも一生懸命頑張ってゐる様子にて安心した 親孝行第一にやって呉れて居るらしく何より嬉しく有り難く思ってゐる 睦べエに一カン借りた無事に内地に帰ったら大事にしてやるべえと思ってゐる余りあてにしないで待ってゐてくれ 俺は元気で御奉公してゐる 一時坊主頭に眼鏡をかけてヒゲを生して色あく迄も黒くカマキリの如く骨皮筋ェ門となりまるで断食中のガンジーの如くであったが昨今は腹一杯食べられる様になり肥り出した お前は夏痩せしなかったかい 冬だから又肥った事と思ふ冬シャツを注文したが毛布をもらったのでいらないと思ふ それより他のものを送って呉れ鉛筆二本小刀歯磨粉(プラシや石鹸はある風呂には一度も入らない)インキ色鉛筆便箋封筒大学ノートー冊(2階にある使ひかけの分で良い)印鑑(二ヶ位ひ欲しい)後は食べるものイカの塩カラかイリコの佃煮の様なもの 煙草は配給らしいから遠慮する 内科書未だなら頼むよ 

 

 島に渡った当初は環境の激変で食べ物も喉を通らず芳一はやせたのだと思う。それにしても「一時坊主頭に眼鏡をかけてヒゲを生やして色あくも黒くカマキリの如く骨皮筋工門となるまで断食中のガンジーの如くであった」と面白可笑しく自分を客観視して居る。手紙はさらに続いている。

 

 少し時間が出来たので送って貰った本を読んでゐる その他軍陣医学書も手に人ったので計画的に勉強してゐる その他文芸物では保田氏の文明一新論、武者小路の日蓮、実朝の死、義時と泰時、信長と秀吉、チェーホフの三人姉妹、シュニツラーのリべライ、鴎外の妄想、蛇、百物語、文藝春秋十月号、ゴリキーの零落者の群、キップリングの詩集等読んだ。お前は生活の探求を読んでゐるそうだが、俺が君に読書を奨めるのは読書の歓びをお前に興へたいからである。俺は医学を学んで科学の世界を知った 又その前に読書に依り素晴らしい文学の世界を知った 魂の故郷を見つけた 苦しい時悲しい時淋しい時それは俺の唯一の慰めであり相談相手であり先生であった
 世の中が如何に汚れ様と世俗にけがされる事なしに本当に真なるもの善なるもの美しいものが与えられ人間らしい生き方を教へて呉れた 此の素晴らしい世界をお前に与へたいと思った 読書と云ふものは之見て呉れ式に単なる知識の累積を希ふものでもなければ比う云ふ事も一通り知って置かねば恥になるから読むと云った有閑夫人の芸当の一つではいけない お茶や花よりもっと直接人生を真剣に生きる生き方を教へて呉れるものなのだ 俺が傍に居れば何を読みなさいと云ふのだがそれが出来なくなった だが何でもいいから読みなさいそのうちに自然と解って来るよ 読書をするのは今だもっと年をとると人間が固まってしまって駄目になる包容力が小さくなる
 しかし読書の中だけに人生があるのではない 夜遅くなったのに無理して身体をこはしてはいけない 僕が読めと云ふからとて眠いのに夜更ししては可愛さうだ 俺はお前に宿題を出すのを止めるお前の重荷にならない様に好きな様にして呉れ 唯、今の世の中に女は本を読まなくてもいいと云ふ考へは大間違ひである 決して読書はお道楽ではない 本当に今の世の中を真剣に生きるなら生きる程本当に人間らしく生きるなら生きる程読まねばならぬと云う事だけを知って貰ひたい 俺は激しい前線に居て本当の読書の有難身が解ったよ 弾と一緒に書物も送られて来る 中には低級のものもあるが大部分立派なものである

 

 自分が経験した読書の喜びを、生きて居る間に妻に是非伝えたいという気持ちがひしひしと伝わってくる。芳一は大学時代に読書の習慣を身につけたと思われる。今の大学生は漫画に夢中になっていると云われる。手紙は続く。

 

 色々と変わったことがあるが手紙には書けない 内地では想像も付かぬ事もあるが苦しいとかつらいとか思った事は一度もない 唯充分に治療が出来ない時つらいだけである お茶の中にぼうふらが居ても風呂が一度もなくてもしらみがわいていても面白く少し痒いだけである 顔をこすると垢が落ちる 「オイ君、内地では顔を洗ったもんだね」「そうだ。暇になったら海迄行って来ようや」てなもんである。根が不精者と来てゐるので此の際甚だ好都合である

 此処の空は美しいよ 夢の様だ おとぎばなしの様に美しい 毎日空を見る度にびっくりしてゐるよ 明るい鮮明な透きとほる様な雲が流れていく朝やけも夕やけも唯々言葉もない だから月も星もすばらしいよ この空におぴったり合う木がある 柳の葉の様な葉が付いて空の色との配合が実に素敵である 枝ぶりも良い 名をきけばサウシジュとの事 俺は双思樹と云う名を付けてゐる 飛んでゐるものは目白と鶯とヒヨと蝶と蠅と蚊と飛行機だけ
 目白と鶯は上出来だが鳴き方は下手である 鶯は田舎者である 俺の口笛にだまされて鳴きくらべにやって来る 目白は兵隊が焼いて呉れたので粉醤油で食べたがうまくない蛋白質の補給だと思って食べた 今目白を二匹かってゐる 之は赤ん坊の頃巣から取って来た 籠を作って軒先に下げて置いたら親鳥が餌を運んだ もう一人前になったので親鳥は来なくなった 信子ちゃんに話してやって呉れ 今は病人の兵隊さんが蠅を食べさしてゐる さようなら 下らんことを長々と書いた
 御身体を大切に 親孝行を頼みます
 それから手紙も 小包も
 
 昭和十九年の年の瀬も迫った三十日に、芳一からこの年最後の手紙が届いた。

 

 父上様
 母上様
 その后お変わりございませんか 相ひ変らず御多忙の事と存じます この月はとても忙しくててんてこ舞ひでございましたがもう少しすると楽になるかも知れません 正月には一息することにしようと皆にも言って居ります
十二月八日には正ちゃんに送って貰ったサザエを食べるつもりでおりましたがそれどころではなく飯も食えない忙しさでございました 正月まで延ばす事にして楽しみにして居ります
 しかし身体の方は益々調子が良く少し肥へたぐらひでございます 他の者は皆痩せるのに士官殿は肥へられるから此の土地は士官殿に合ふのでせう等と皆からひやかされる位ひでございます
 

 「心頭を滅却すれば火もまた涼し」とは、禅僧快川の有名な言葉であるが、芳一も死を覚悟して却って身体の調子が良くなったのかも知れない。そうは言っても彼は悪条件の下で超多忙の日々を送っていながら、両親に余り心配を掛けないようにといささかオーバーに表現をしたんではなかろうか。彼は戦地で支給される俸給、本俸四十円、戦時手当四十円、合計八十円を毎月留守宅へ送って貰う手続きをした旨を伝えている。そしてこの手紙の最後に次のように書いた。

 

 次第に寒さが厳しくなって参ります 寒い北風の中を惣郷へ田部へ往診されるのではないかと思ふとハラハラして戦地に居りましても余り良い気持ちが致しません 御奉公もさる事とながら御自愛御自重をお願い致します 心配でございます 特に便りの無い時には心配致します 何卒御自重をお願日申し上げます 
 夜十一時カンテラの下で走り書き 失禮

 

 芳一は戦地にあって父の事を心配し続けた。その心配が杞憂に終わらず惟芳は終戦の日から僅か一ヶ月後、昭和二十年九月十四日に隔離病棟へ往診していたときに倒れ、三日後に急逝した。長男の芳一がそれより半年前の三月に硫黄島で玉砕した。この悲痛な事にも耐えて老躯をおして午前と午后の二回、毎日かなりの距離を病棟へ通っていた。しかし長男の死で力を落としたことは間違いない。此の事については次章で述べる。
芳一は同時に妻へも手紙を書いた。

 

 寒くなったね 霜やけ出来たかい まあ頑張ってくれ 頑張る事も楽しい事だと思はないかね
 春には春 秋には秋 冬には冬の美しさがあり 歓びがあり愁ひがあり悲しみがある 何時までも過ぎ去った美しさを想ひ悲しみを追ふのは賢明とは言へない 夏が来たら夏と取り組もふ 冬が来たら冬と戦って行かう そうすれば又其処には冬の美しさがあり喜びがある 娘時代には娘時代の歓びと愁ひがある 嫁いだら嫁いだ時 年老ひたら年老ひたる者のみが知る歓びと悲しみがある筈だ

 

 彼はこの世においてはもう二度と会えない妻に向かって、生きて行く上での覚悟を切々と訴えた。そして又紙神風特別攻撃隊に付いて言及した。

 

 戦局は重大だね 神風