yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

「礼」について

夜中に目が醒めた。時計の針は2時15分を指していた。起きるには少し早いので、床の中で吉川英治氏の『私本・太平記』を電子書籍で読んだ。これだと室内の明かりなしで読めるから有り難い。息子が買ってくれたお蔭で、私はこれまで同じ吉川氏の『宮本武蔵』など数冊の長編を読んだ。

 

数日前から読み続けて今はほとんど最後の部分である。主人公の足利尊氏が癰(よう)という腫れ物で亡くなった事が書いてあった。吉川氏は楠木正成とその妻久子、並びに息子の正行(まさつら)を優れた人物として書いている。また後醍醐天皇に対して尊氏の、敵対関係にありながらも、心から敵視できない気持ちを描写している。恐らく此の事は歴史的事実だろう。その証拠に天皇崩御後直ちに尊氏は、天竜寺の造営といった大事業を行っている。それにしても天下を取るまで、頼みにしていた最大の味方であった実弟の直義を毒殺したり、自分の庶子であって、直義の養子となった子を戦で破り、彼は行方知らずになっている。

 

人間の運命ということだが、天下を取っても本当の幸せだとはとても考えられない。

この後長男の義(よし)詮(あきら)についで三代将軍足利義(よし)満(みつ)の室町幕府の成立(1378)、南北朝の統一(1392)、日(にち)明(みん)貿易の開始(1404)と続く。さらに1467年の応仁の乱や各地での大規模な一揆の発生、そして戦国時代へと我が国は更なる激動の中へと入っていく。

 

それまでの武士は貴族の番犬のような立場だったろうから、礼儀・作法もあらばこそ、力強きものが威を張っていたと思われる。礼節とか信義と言った徳目は、余り重要視されなかったのではなかろうか。家康が征夷大将軍になったのが1603年で、この時から250年の間、戦のない平和な時代が長く続いた。

 

歴史を見ると、この平和な時代の丁度250年後に、アメリ使節ペリーが浦賀に来航した。それは1853年であった。この間德川幕府は「武家諸法度」を施行し、士農工商の厳格な階級の別や上下関係が確立された。この頃から、いわゆる「武士道」が重んじられてきたのだろう。その為に一般庶民の言動もこう言った制度に基づいていったと考えられる。こうしたことは、早やくも75年の昔になったが、太平洋戦争が終わるまで、日本人の生活の良き規範になったと考えられる。

 

30分ばかり『私本・太平記』を読んだろうか、その内少し眠気を覚えたので電子書籍を閉じて寝た。起きたのは4時半だった。

 

私は前にも書いたが数冊の本を併行して読む癖がある。今朝起きて、もう一度読み直してみようと思ったのは、新渡戸稲造著『武士道』(岩波文庫)である。矢内原忠雄の名訳である。原文がないからこの訳本を読むことにした。その中の一項目に「礼」があった。渡辺京二氏の『逝きし世の面影』を読むと、明治維新前後に我が国に来た外国人が、日本人の礼節に驚きと称賛の言葉を残している。

 

この『武士道』の「礼」の項目の最初に、新渡戸稲造博士はこう書いている。

 

作法に慇懃(いんぎん)鄭重(ていちょう)は日本人の著しい特性として、外人観光客の注目を惹くところである。もし単に良き趣味を害うことを怖れてなされるに過ぎざる時は、礼儀は貧弱な徳である。真の礼はこれに反し、他人の感情に対する同情的思いやりの外に現れたるものである。  

 

それはまた正当なる事物に対する正当なる尊敬、したがって社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する。何となれば社会的地位は何らかの金権的差別を表すものではなく、本来はじっさいの価値に基づく差別であったからである。

 

礼の最高の形態は、ほとんど愛に接近する。吾人は敬虔なる心をもって、「礼は寛容にして慈悲あり、礼は妬(ねた)まず、礼は誇らず、驕(たかぶ)らず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤(いきどお)らず、人の悪を思わず」と言いうるであろう。

 

このような礼を身に付けた日本人が明治の初めには多く見うけられたのである。しかし今はどうか。茶道や武道に於いては今も礼を学ぶ。「柔道は礼に始まり礼に終わる」言って、青少年の育成が行われているのは頼もしいことである。私が山口に来て少しの間弓道の稽古をした時も、同じ教えを受けた。

論語』の「八佾(はちいつ)第三」に次の文章がある。

 

子曰く、君子は争う所無し。必ずや射か。揖譲(ゆうじょう)して升下(しょうか)し、而して飲ましむ。

其の争や君子なり。

 

【通釈】孔子言う、君子は人と得失を争い、勝負を競うことを決してしないが、もしするとなれば、まず弓の競射であろうか。その場合も極めて礼儀が正しい。二人一組の選手が鄭重に譲り合って堂に上り、射を演じて堂から下りる。勝敗が決したら、また礼儀正しく堂に昇って酒を飲み合う。その進退すべて礼儀を失わない。其の争いたる、まことに君子人らしい美しい争いである。

(「『論語』新釈漢文大系」明治書院

 

孔子は身の丈216センチもあり、「六芸」に通じていたと言われている。「六芸」とは礼(作法)楽(音楽)射(弓術)御(馬術)書(書道)数(数学)である。必ずや素晴らしい射をしたであろう。 

 

大相撲でモンゴル勢が活躍している。彼等は勝つ事を第一目標にしているから、国技たる相撲の根本精神を中々体得できないのではなかろうか。朝青竜にしても白鵬にしても、此の點はどうかと思う。山口県出身で大関にまでなった魁(かい)傑(けつ)という力士がいた。彼は勝っても負けても相手に対してきちんと礼をしていたので見ていて気持ちが良かった。

 

この国技である大相撲は、「礼に始まり礼に終わる」、という精神を取り戻してほしいものである。

 

5時になったので散歩に出かけた。朝のやや冷たくて澄んだ空気の中を歩くのは最高の気分である。いつものように、気に入っている水田の直ぐ傍らにある幅1メートルばかりの朝露に濡れている小道を選んだ。陽が昇って朝焼けに染まった茜色の空を前方に見ながら歩いていたら、かなり年輩の女性がこちらに向かっているのが目に入った。彼女は私の姿を見るとちょっと立ち止まってマスクをつけた。私は朝の爽やかな空気を満喫出来るし、この時間には滅多に人に出会わないので、いつもマスクなしで歩いている。そのうち私と老婦人はすれ違う距離にまで接近した。

 

私はハンチングを被ったままで「お早うございます」と軽く挨拶して通り抜けようとした。一方この女性は、立ち止まると深々と両手を膝に当てて頭を下げ、「お早うございます」と丁寧に挨拶された。私は内心恐縮した。昔はこのような挨拶をされる女性を見かけることはそれほど珍しいことではなかった。しかし戦後この方このように几帳面にお辞儀をする人は殆どないい。

 

明治初期にやってきて東北地方を旅したイギリス女性イザベラ・バードは、絶えずこうした日本人、特に女性の淑(しと)やかで礼儀正しい態度を目撃したと書いている。今更ながら「礼」の良さを知ったのである。

 

亡き妻には特に仲の良い友達が萩と山口に一人づついた。二人共「淑子」と言う名前である。一人は「としこ」で、もう一人は「よしこ」と呼ばれていた。しかしいずれにしてもこの「淑」という字は、「しとやか。つつましい。上品。主に女性についていう。」と『広辞苑』に載っている。我が娘がかくあれと親が彼女達に付けられたのであろう。戦前は女性にはこれに似たような、「和子」とか「静子」とか「靖子」といった名前が案外多かった。ところで今気づくことだが、「子」のついた女の子をほとんど見かけない。此の事を見ただけでも戦後の日本は変わった。

 

一番目立つのは、特に女性の自己主張・自己宣伝である。控え目の真反対で、身体まで露出して憚(はばか)らない。先日大阪で日本陸上選手権が行われた。私は陸上競技が好きだからテレビで観戦した。全ての女子選手が胸元だけ隠して、短いタイツのパンツを履いている。従って臍は丸見えである。競技場だからこのようなスタイルで良いのだが、いつからこうした半裸体の姿になったのか。私は高校に勤めていたとき陸上競技部の顧問だったことがある。60数年前のことであるが、当時競技場でこのような姿は全く見なかった。今では却って臍を隠した方が異常に思われる。

 

流石に決勝に残った選手は、皆スラリと脚が長くてスタイルがよい。色白で器量の良いのも数人いた。これも言うなれば自己宣伝かなと思わないでもなかった。

 

100メートルと200メートル競争の日本記録保持者の福島千里選手は予選で敗退した。見ていて気の毒だというか哀れに感じた。往年の溌剌たる姿ではない。もう彼女は勝つ事は出来ないだろう。まだ30歳未満だが、こうして頂点に立ったがこれからは下降のみである。問題は彼女がこれから如何に生きるかである。後進の指導なりに全力を傾けて、人間的に成長してくれることを祈って止まない。

 

SPORTとは本来「娯楽」とか「慰め」の意味ある。これが複数形のSPORTSとなって相手と争う競技という意味をもつようになった。これに反して我が国の武道は相手と争うと言うより、自らの技芸、さらにその基となる精神を鍛え高めることにある。だから戦後暫くGHQは学校でも武道の禁止を決めて中々復活させなかった。彼等は戦いに於ける日本人の強さの拠り所がこの武道だと思ったからである。しかし実際は今も書いたように敵を倒すのではなくて、己の伎を磨く、その為には己の精神を錬磨することが武道の本質なのである。

 

私は以前次のような事を聞いた事がある。剣道を稽古していた同僚が、或る範士八段の高齢の師範と対戦した時、「先生の姿があの一本の竹刀の中に隠れて見えなくなった。全く隙がない。だからどうしようもなかった」と言った。剣道でも弓道でも80歳90歳の高齢者が稽古されているのを見聞きする。いわゆるスポーツすなわち運動競技ではこのような事はあり得ない。結局我が国の武道は「礼」に裏打ちされているから、高齢になればなるほど、品位が現れて、立派に出来るのではなかろうか。

 

短期間関係しただけであるが、弓道の昇段試験の時は、試合場に入るとき正面に向かってきちんと礼をし、射が終わって道場を出るときも同様に礼をしなければならない。審査する人はこの最初から最後までの動作をつぶさに観察して判定する。矢が二本とも見事に的中しても、礼を失するような行動があれば失格である。昇段は無理である。外のスポーツではこれほど厳格ではないだろう。

 

今ふと思い出したが、私が子供の頃、着ている衣服の前が乱れて開いていたら、「そんな開(はだ)けた恰好をして臍を出したら、雷様に取られるぞ」と叱られたものだ。男の子に対してもこのような叱言がなされていた。世の中も変わったものである。

 

約30分の散歩から帰ると畑の野菜に水をやり、家の中に入って急に思い出して各部屋の清掃に取りかかった。私は10日毎に上下階を掃除することにしている。つい先日したばかりだと思いながら掃除機とモップを手にした。世の中も変わるが、月日の経つのも早いと感じながら掃除をした。      

  

2021・6・30  記す

 

 

焼く

子供の頃学校から帰って来ると、「仏様にお盛り物が上げてあるから、あれを下ろしてきて食べなさい。」と云われて喜んで食べたことがある。今の人に「お盛り物」と云って直ぐ分かるかなと思った。これは仏壇に御供えしたものだが、最近は我が家の近くの造成地に次々と新しい家が建てられて居るが、仏壇や神棚があるかどうか分からない。家の周辺に植木を施していないのが目立つ。「家庭」とは「家と庭」と書くが、最近多く見かける家は、おしなべて、小さな窓の付いた四角い箱形の建物だけである。外見から想像するに、まず床の間はなかろう。ひょっとして神棚は勿論、仏壇もないかも知れない。

 

 私は毎朝、神棚の榊と仏壇の供花の水、それに供えてある水を替えて拝む事にしている。また仏壇には何か果物とお菓子を欠かさずに供えている。つまり「お盛り物」である。長いこと供えておく訳にいかないので時々それを替える。貰った菓子でもあれば良いが、そうでないとスーパーなどで買って来る。

 

一昨日も何か適当な物はないかとスーパーへ行ったら、美味そうな「どら焼き」が目に入った。私はこれを三つ、外に「桃山」を二つほど買って帰った。これらをお供えして、どら焼きだけは私が食べる目的で余分に一つ買ったので、後で抹茶を点てて食べてみた。結構美味しかった。

 

戸外は風もなく穏やかな陽気である。しかし我が家に入ると、居間はだだっ広くて陽が射し込まないので、外に比べると室温は大分低い。暖房を付けるほどではないが一寸肌寒いので、私は南側のガラス窓の傍に陽が当たっているのでそこで寝転んだ。そこは床から43センチの高さで、窓から55センチ幅の狭い場所である。普通は鉢植えの花を置いたり、本を並べたりして居る。現在は本だけは並べているが、花を置いていないので、陽に当たりながら寝転ぶのに恰好の場所として、私はここに横になったのである。

 

こうして横になっていたら先日茶室の隣の部屋から持ち出してきた「銅鑼」が目に付いた。この銅鑼は転居に際して萩から持ってきた物である。萩に居たとき、「お懐石」すなわち茶会を父が催していたとき、お客への合図によく利用していた物である。いまではその用をなすことはないが、叩くと中々響きが良い。

 

私はこの銅鑼を見て、先日お盛り物にと買って来た「どら焼き」を連想した。試しに『辞書』を引いてみたら、「どら焼き」は漢字で「銅鑼焼き」とも書いてあった。そしてこう説明してあった。

「小麦粉・砂糖・卵などを原料にして焼いた銅鑼形の皮二枚の間に粒餡をはさんだ和菓子。」

ついでに「桃山」を引いてみると、「白餡に砂糖・卵黄と少量のみじん粉を錬りまぜて焼き上げた和菓子。餡を包んだもの。」            (以上『広辞苑』より)

 

確かに「銅鑼焼き」は、私の目の前にある本物の「銅鑼」に形と色が似ているなと思った。方(かた)やその音を楽しみ、他方は食べるので違いはあるが。

私はここで、「銅鑼焼き」とか「鯛焼き」は食べることが出来るが、「炭焼き」とか「きも焼き」さらに「世話を焼く」とか「手を焼く」いう言葉があることに思いついた。

同じ「焼き」でもいろいろと意味の違いがあるのだと思い、また辞書を引いてみた。まず「焼く」と言う言葉を辞書で見ようと思った。しかしそれより先に「銅鑼」を引いてみた。

 

【銅鑼】 金属製の打楽器。多く唐(から)金(かね)で造り、盆形をし、紐で吊り下げて桴(ばち)で打ち鳴らす。大小各種あり、中央部にいぼ状の隆起を持つものもある。桴も種類が多く、用途によって組み合わせはさまざま。仏教の法要や歌舞伎囃子、獅子舞などの民俗芸能のほか、茶席などにも用い、出帆の合図にも打ち鳴らす。仏教用は鐃(にょう)と称す。                        

(『広辞苑』)

 

ここに「茶席などにも用い」とあるので、父が叩いていたのが納得できた。さて、それでは「焼く」を、これは少し詳しく見てみよう。

 

  やく【焼】

[一]火・光・薬品などによって、物の状態を変える。

  • 火を点けて燃やす。燃焼させる。たく。
  • 燃やして形をなくす。燃して灰にする。
  • 火にあてたり、くべたりして作り上げる。加熱して食べたり、使用したりできるようにする。

    [二]心の働かせ方を比喩的に言う。

     ① 心をなやます。胸をこがす。

② 種々に気を配る。あれこれ面倒を見る。

  •  嫉妬する。
  •  うれしがらせを云う。おだてる。

                        (『日本国語大辞典』『小学館』)

  

それぞれの意味に例文が引用してあるが、それは省略するとして、我々は日頃何となく使っている[焼く]と言う言葉が、これほど多義に別れているとは知らなかった。しかし無意識に何とか上手に使っている。[餅を焼く]と「焼き餅を焼く」では大違い。[焼栗(やきぐり)]と[焼(やけ)糞(くそ)]も同様である。こうした意味の違いはやはり人との会話や読書によって培われていく。英語教育も大事だが国語教育は一層必要だと思う。もう少しこの言葉に関連して思った事を書いてみよう。

 

「焼く」と同じような言葉に「たく」とか「くべる」という言葉がある。「たく」は「炊」とか「焚」の字が宛てられている。「くべる」は「焼」の字が宛てられていた。

焚書(ふんしょ)坑儒(こうじゅ)」という言葉がある。これは秦の始皇帝が自分の政治を批判するもとになる復古的な書物を焼き捨て、学者数百人を生き埋めにしたという故事だが、現在においてもこれに似たことが、世界のいくつかの国で行われて居るのではなかろうか。

 

私は昔途中まで読んで止めた本、新井白石の『折りたく柴の記』の題名が「折りたく」となっているのを思いだして、この本の解説を見てみた。仏文学者の桑原武夫氏が最初に次のように言っている。

 

折たく柴の記』は、十八世紀初頭の日本がもちえた偉大なアンシクロペディスト(百科全書家)、新井白石(一六五七~一七二五)の自叙伝として、私たちの誇りとすべき作品である。

そして、この白石の自叙伝の題名について、桑原氏の言葉があるので、ここに引用してみよう。

 

    思ひいづるをりたく柴の夕けぶり

      むせぶもうれしわすれがたみに

 

折たく柴の記』という題名は、この後鳥羽院の哀傷の名歌をふまえたものである。後鳥羽院は多芸多能で気骨のある人物であったが、承久の乱で一敗して隠岐に流された。一世をおおう才能をもちつつ今や権力の座から追放された白石は、みづからをこの謀叛をした天皇に比したのであろう。ともかく、この本がたんなる子孫のための家訓にとどまらず、はげしい自己主張と同時に深い自己愛惜を含むことは確実で、それが魅力となっている。

 

このように紹介されているから読まなければと思うが、今のところどうも気が進まない。せめて後鳥羽院の和歌の意味だけ見て居よう。

 

京都の「五山の送り火」という行事がある。これは盆の八月十三日に「迎え火」を、そして十六日には「送り火」を焚いて亡き人をあの世に見送るものである。この事を踏まえて後鳥羽院が読まれた歌だとある。

 

「亡き人を思い出す折りに焚く夕べの煙にむせてむせび泣くのもうれしいことであるよ。それも忘れ形見と思えば」

 

中々良い歌だと私も思う。最後に「焼く」という人間の行為について考えて見た。

もし「焼く」ということがなかったら今の世の中はどうなるだろうか。先ほども「ゴミ収集車」が来て呉れてこの地区のゴミを全て持っていってくれた。毎週火曜日と金曜日に来る。その都度ゴミ置き場にはゴミ袋が積まれている。これほど多くのゴミが各家庭から出ている。昔はこのような事は無かった。しかし戦後は経済成長が著しくて、その為に大量生産・大量廃棄という現象が生じた。使い捨ての時代になった。特に都会ではこのゴミ処理が深刻な問題となっている。

 

 昔は「焼き場」といえば人間が死んで死体を焼く「火葬場」のことを意味していた。萩市では「火葬場」といわずに「西の浜」と云っていた。何故なら萩市の西側に位置している西の浜に火葬場があったからである。また火葬場で死体の処理をする人を「おんぼう」と云っていたが今は死語になっている。

 

徒然草』の「第七段」に「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山(とりべやま)の煙立ち去らで」と書き出しにあるが、「あだし野」は、京都市の嵯峨の奥、愛宕山の麓にあった、昔の墓地。「鳥部山」は、京都市の東山にあった、昔の火葬場、と註にある。

 

父が昭和五十七年の五月に亡くなって丁度四十年になる。当時はまだ「西の浜」の火葬場が使用されていた。焼却が終わるまで外に出て待っていたら、五月晴れの青空、翠滴る指月山を背景に、煙突から静かに煙が立ち上った。私は「父がとうとうあの世に逝ったのだ」と思ったことを忘れない。

 

話が逸れたが、今は何処の町や市でも立派な火葬場ができている。もし死体を焼くとことが出来なければどうなるだろうか。現今もの凄い量の物品だけでなく、人の死体を含めて動植物が焼却されている。人間は太古の昔に火を発見し、それを大事にしてきた。お蔭で今日の文明が出来上がった。人間は「焼く」という数多くの行為を繰り返し、最後はこの言葉と共に終わるのである。

 

2021・4・20 記す

和倉温泉と和太鼓

前にも述べたが、自分一人でも西田幾多郎鈴木大拙の記念館を訪ねようと思っていたところ、林さんに話したら直ぐに一緒に行こうと云ってくれたのは本当に有難かった。お蔭で彼の提案で能登半島の付け根に位置する和倉温泉へ初めて行くことが出来た。彼は地理が専門だから何処に何があり、あの山は何山で此の川は何川だとか、この路線はどこそこに繋がりどこで別れていると云ったことに詳しい。お蔭で車窓から見える河川や山などについて時々教えてくれた。和倉温泉も有名だから、折角近くまで来たのだから是非行って見ようということで行くことになったのだ。

 

西田記念館から宇ノ気駅にクシーで着いたとき数分前に電車は出ていた。当初予定していた時間が4時50分だったから、もう少し早めにタクシーに来て貰うようにすれば良かった。北国の日の暮れは早い。したがって次第に肌寒くなったので薄手のジャンパーを出して羽織った。

 

和倉温泉まで七尾線で各駅停止だからまた一時間の乗車である。途中高校生たちが時々乗り込んできた。少し行った処で羽咋(はくい)という駅を通過した。この地名は私の妻の姉が夫の勤務上一時住んでいた所だったことを思い出した。このような所に来ていたのかと初めて知った。

 

林さんが「咋という字は昨に似ておるが珍しい字だね、喰という字と同じ意味だろう」と云った。帰って辞書を見てみると、「作や昨と同じ発音である。意味は喰うと同じである。だから「はくい」と読むのだろう。『解字』には「口+乍」で乍は積むの意味で、口の中に食べもの入れて積むことから喰う・喰(か)む」と説明してあった。

 

和倉温泉駅に着いた時はもう6時前だった。思ったより周辺は活気があって家々には皆電灯が付いて明るい感じだった。駅舎の中に「あえの風」というホテル名の歓迎旗らしきものを手にした従業員が我々を迎えに来ていて、ホテル差し向けの車に乗せてくれた。

 

「あえの風」とは聞き慣れない言葉なので『広辞苑』を引いて見ると、「あえのこと【饗の祭】石川県奥能登地方の収穫行事、旧暦11月5日に、主人みずから田の神を迎えに行き、入浴させ、饗応する。新嘗祭大嘗祭と同源の民間行事」とあった。

ついでにネットを見てみると一段と詳しく載っていた。

 

加賀屋姉妹館 あえの風 

  大伴家持能登を旅したとき万葉集の歌に詠んだ「東風」。海から訪れるこの風は、豊漁、豊作、幸福をもたらすとされ、能登では「あえの風」と読んでいます。

 

私はついでの家持の歌を調べてみた。

 

四〇二五  志雄路から直(ただ)越え来れば羽咋の海(み)朝なぎしたり船梶もがも

大意 志雄の道から、直接に越えて来ると、羽咋の海が朝凪してゐる。船や梶もほしいものである。                 (土屋文明著『万葉集私注 八』)

 

さて、従業員は我々を案内すると、「一寸待って下さい」と云って同宿予定の客を迎えにまた駅の構内へ行った。しばらく待ったが中々戻ってこない。そのうち、車椅子に乗った老婆を若い女性がゆっくり押しながらやって来るのが目に入った。「お待たせして済みません」と若い女性が我々に言った。「どういたしまして」と我々は優しく応じた。この女性は老いて足腰の不自由な母親を温泉に連れてきたのだろうか、感心な人だと私は思った。

 

車は街灯で明るい通りを走ったが直ぐにホテルに着いた。同じ柄の着物姿の女性が数人我々を迎えた。想像以上に立派で大きなホテルである。コロの付いた旅行鞄をその内の一人が私の手から取って小さな運搬用の車に移した。林さんのリュックサックもそれに乗せてわれわれの部屋の中まで運んでくれた。ここには「加賀屋」という一流ホテルがあって、我々の泊まったのはその姉妹館だということだ。「加賀屋は宿泊費が非常に高いからこちらにした」と林さんが云ったのを思い出した。それでも山口の湯田温泉には此れ程の立派なホテルはない。加賀屋は日本各地にチェーン店を持つ日本一のホテルだということだ。

 

広いロビーには客が沢山いた。我々の部屋は6階にあったが、その階までのエレベーターも中々凝った外見だった。いささか遅く着いたので入浴は後回しにして先に夕食にしようと話し合い、7時になったので一階の食堂へ下りていった。食堂は広々としていて、差し向かいのテーブルに次々に馳走を運んできた。生ビールと冷酒で北陸の蟹や魚料理を美味しく食べていると、会場の中央に設けられた舞台に和太鼓が運び込まれた。それからの展開に我々は目を見張った。

 

 夜叉面や男女の幽霊の面、さらに老いぼれた男の面など、それぞれ違った面を付け、長い髪を垂らし、膝までしかない筒っぽ姿、その中の一人だけは半裸に晒しを巻いた総計六人の男たちの演舞が展開したからである。

 

最初は二人だけ現れると、一人が太鼓を両手に持った撥(ばち)で連続的に打ち鳴らし、もう一人がその周囲を踊りながら間欠的に両手を振り上げて撥で太鼓を叩く、その時の音は会場に鳴り響くほどである。こうした動作がしばらく続くと今度はさらに同じ姿の二人組が交代し同じ演技を続ける。最初の組が引き下がるとまた別の組が出てきた。立ち替わり入れ替わりで見ていて飽きることがない。その内六人全員が掛け声かけて太鼓の周囲を踊ったり叩いたりで最高潮に達した。すべて妖怪とも云うべき奇面を付けたかなり大きい男性ばかりのが、舞台狭しと足踏みならして踊り、掛け声もろとも太鼓を打ち鳴らすこの演技は実に壮観だった。そしてパッと鳴り止んだとき、思わず万雷の拍手が会場から起こった。初めて見聞する和太鼓の演技に私は非常に満足し、この和倉温泉への宿泊を提案して呉れた林さんに感謝した。人生では思いも掛けない邂逅がこうした喜びを与えることがある。

 

私は旅から帰ってユーチューブで、「鼓童」の和太鼓の演奏『道』を見てみた。言葉では言いがたい感動を覚え、とめどなく涙が流れた。演技者全員が「和」となり、一心不乱、神にこの演技を捧げつつも、終には神とも合一しているように思えた。和倉温泉での和太鼓の演技も素晴らしかったが、鼓童のそれには精神性が漲っているように思えた。図らずも日本の芸能文化の一端を知るよすがになった事を有り難く思った。

 

食べ終わったらもう9時前になっていた。朝早くからの移動でいささか疲れたので入浴は明日朝に延ばすと云ってベッドに横になった。これまでもう一人の仲間と毎年どこかへ出かけていたが、我々はいつも夕食後長く歓談するということはない。9時過ぎには皆休む、しかし朝の目覚めは早い。5時前には皆目を覚ます。今回も長い列車の旅で疲れたのであろうすぐに寝入った。

 

朝起きて東の方を窓越しに見ると波静かな七尾湾と低くて平らな能登島が目に入った。昨晩は全く見えなかったからこの光景には驚いた。この島へ行くには島の両サイドに立派な橋が架かっている。山口県の角島への架橋と同じような橋だと思った。ホテルに近い橋は右手に大きく見えたが、左方の橋は遙か彼方に見えるだけだった。遠くてよく見えなかったが.この方は吊り橋だと帰って知った。穏やかな湾内に一艘の舟も見えなかったが、その内小舟が現れて網を投げ入れたかと思うと、航跡を残しながら去って行った。

 

時計は六時である、私一人で大浴場へ行った。一階まで下りていき浴室で裸になり風呂場に入った途端、先に見た光景が一段と間近に見えた。

 

湯煙の立った浴場はかなり広いが、とくに湾に面した大きなガラスは二枚続きで、一枚が目分量で8メートルの幅、高さがその半分くらい。この大きさだから展望は抜群である。正に絶景といえる。露天風呂の方へも入ってみた。入浴客はその時は一人もいなかった。こうして一人静かに入浴を満喫できるとは何と有難い事か。

 

ホテルが呉れたパンフレットを見ると、この大浴場(殿方)は「夕なぎの湯」とあり、(婦人)の方は「露天風呂 朝なぎの湯」とあった。いずれにしても「もてなしの風」を感じてくれるようにとの配慮・嗜好が感じられた。

                  

                 (2019・12・5 記す) 

 

鈴木大拙館

11月27日。和倉温泉での早朝の入浴。これこそ温泉宿での最高のもてなしだ。小原庄助さんの「朝寝、朝酒、朝湯が大好き」の心境が分かる。食堂にはすでに多くの泊まり客がいた。バイキング方式の食事だから、皆盆を手にして歩き廻っている。朝食を終え部屋に入ったがまだ出発予定の時間まで充分ゆとりがあるので、急ぐ必要はなくしばらく二人で雑談に時を過ごした。10時前に一階のロビーへ降りて行き、林さんが精算を済ませている間売店へ行った。前日部屋にあったのと同じ菓子を土産に求め、宅急便で帰宅の翌日の29日午前中に届くように頼んだ。間違いなくこれは時間通りに届いた。

 

戦後此の宅急便が急成長したのは、流通組織の改善・発達により時間通りに配達可能のためか。戦前、戦後間もない時の事を思うと隔世の感がある。お蔭で重い荷物を持ち運ぶことなく旅が楽しめる。ついでに云えば、コロの付いた旅行鞄である。昔は大きな重いトランクを持ち運ぶのが旅に伴うきつい条件だった。

 

出発時間になり従業員たちの見送りを受け、多くの泊まり客と一緒にホテルの送迎用バスに乗り、和倉温泉駅へと向かった。駅からは昨日来た時とは違い、金沢を経て大阪までの特急サンダーバードに乗車。約1時間の早さで金沢駅に到着した。途中窓外の冬景色は寒々としてそんなに印象に残るようなものはなかった。海の見える路線ではないからか。10年ばかり前一人で良寛の里、出雲崎を訪ねた時は、列車の窓から日本海が見え、特に日没の素晴らしい景色も目に映った。少年時代いつも見慣れた菊が浜の海に続いていると思い、懐かしかったのを思い出した。

 

金沢駅は流石に広々として利用客が多く、海外からの観光客の姿が目立った。中国や韓国から来た者もいただろうが、一見しただけでは判らない。背が高く色白ですらっとした若い女性や、堂々とした体躯の男性などを多く見かけた。中には色の黒い濃い髯を生やした者もいた。そして彼らは概して薄着である。兼六公園で一人の中年の男がにこりと笑ったので話しかけたら、オースとラリアから来たと云っていた。彼はこの寒空に半袖のランニングシャツ一枚だった。

 

金沢駅を出て直ぐ目的地の鈴木大拙館を訪れようと思い、荷物を一時預ける所をと考え、駅前の一事預かり所へ行ってみた。

日航ホテルにお泊まりでしたら直接行かれたら良いでしょう」とのそこの係員の言葉に従い、日航ホテルへ行ってみた。チェックインの時間に関係なく荷物を受け付けて呉れた。「さー、これでフリーになった」と心の中で思い、「金沢周遊のバス」に乗るためにもう一度金沢駅に戻ることにした。今度は横断歩道を渡らずに地下街を通ることにした。階段を下りその地下の空間に入ったとき、その広々としていていること、また地上を支えている太くて丸い大きな柱が何本も立っており、きれいなタイル張りの地面は僅かにスロープしているのに驚いた。山口県内にはこういった地下空間は何処にもないのではなかろうか。「ここでスケートボードなど一切のスポーツ用具を禁止します」との表示があった。確かにこういった表示がなければ縦横に遊べる広い空間のように思えた。

 

地上に出てしばらく待つとバスが来たので乗り込み、「本多町」という停留所で降りた。記念館の方角へと歩いて行くと、数メートル先を大柄の外人男性が若い日本人女性と話ながら大股で歩いて居るのに気が付いた。一瞬何処へ行くのかなと思ったが、彼らも我々と同じ目的で鈴木大拙館を訪れるのだ。大拙は外国人にもよく知られた存在だからだ。案の定すたすたと記念館目指して早足に歩いて行った。

 

記念館はバス通りから少し入った所にあり、清楚にして清閑な感じの外観は静観に値すると思った。受付を終えて館内から直ぐに外に出られた。正方形の広々とした貯水池と、その周囲の紅葉が、浅くて澄み通った池面に映じている光景が目に入った。真四角ともいえる白亜の建物がその池の中に突き出るように設定してある。風に僅かに揺れて見える広々とした水と、湖面に映る四囲の移りゆく姿、幾何学的なコンクリートの建造物が西洋の精神を象徴しているとしたら、この微かに風に揺れる水こそは東洋精神といえよう。この二つの大きな精神の和合ともいうべきもの、これはまさに大拙の生き方、心境を空間的に構成したものだと感じられる。

 

私は今回大失敗をした。息子が呉れた小型のSONYのカメラを持ってきたのはよいが、中に装填するチップを入れ忘れたのだ。現像するためにパソコンに入れたままにしていた。近くにカメラ屋がないので諦めた。館内での撮影は禁止と云われたので、屋外の貯水池の側で林さんに数枚撮って貰った。実に静かな落ち着いた佇まいである。館外に出て分かったのだが、敷地の直ぐ側には小高い丘のようなものがあり、非常に大きな欅か楠などが紅葉していて、さらに古い石垣も見えた。記念館に此の地を選んだ訳が判った。大拙の誕生地は記念館の近くにあった。そこは街中の感じだった。そこには大拙の半身像と掲示板が建っていた。外人の観光客がこの後も数人訪れていたが、誰一人としてものを云う者はいない。

 

中に若い男女がいた。男性の方がただ一人池の中に突き出たようになって居る四角い建物の中で、湖面に向かって静座しているのを私は背後から見た。建物の中は何一つ無い空間で、彼のシルエットと建物の四角い出入り口が枠となって湖面だけが目に入り、何というかその全体が目に焼き付けられるような被写体だった。男性はじっと湖面の見つめていたか、それとも目を瞑って瞑想していたかは分からない。いずれにしても彼は此処に来たのだから、大拙を知ってその考えに興味を持ったのだろう。この青年が外国人であるだけに、彼の静かな佇まいを背後から見て、私は大拙が世界的に知られた存在の証だと思った。

 

旅を終えて帰宅したら、記念館でもらってきたパンフレットがあった。良く見ると英語と中国語で書かれたものだった。これを見ると、「展示空間」と「学習空間」と「思索空間」の三つの「空間」で全体が成り立っていることが分かった。英語の説明を読むと次のように書いてあった。

 

展覧概念

本館は色々な展示物を見るだけでなく、訪問客が開放的な心をもって鈴木大拙に出会い、その結果この「展示空間」を移動しながら、彼らが自分の考えをじっくり考えるようにと意図されている。「学習空間」では鈴木大拙の書、写真、本を通して彼の生涯について知り、また彼の精神と哲学を学び、「思索空間」では訪問客に内省の気を促すようにと、それぞれの空間を提供している。

 

確かに先の外人の若い男性の思索的な姿は、この「思索空間」の中おいて、まことに似合ったものであった。

 

 「西田幾多郎記念哲学館」でもらったパンフレットに、西田が大拙について書いた文章が載っていた。

 

 君は一見羅漢の如く人間離れをしているが、しかも非常に情に細やかな所がある。無頓着のようであるが、しかも事に忠実で綿密である。君は学者を以て自らおらないであろうし、また君を目するに単なる学者を以てすべきではないと思うが、君は学才の豊かな洞察に富む人と思う。しばしば耐え難き人事に遭遇して、困る困るとはいっているが、どこか淡々としていつも行雲流水の趣を存している。私は多くの友を持ち、多くの人に交わったが、君の如きは稀である。君は最も豪そうでなくて、最も豪い人かも知れない。私は思想上、君に負うところが多い。(鈴木大拙著『禅と日本文化』「序」より)

 

またこのようにも評している。

 

大拙君は高い山が雲の上ヘ頭を出しているような人である。そしてそこから世間を眺めている、否、自分自身眺めているのである。全く何もない所から、物事を見ているような人である。そのいう所が時に奇抜なように聞こえることがあっても、それは君の自然から流れ出るのである。君には何らの作意というものはない。その考える所が、あまりにも冷静と思われることがあっても、その底には、深い人間愛の涙を湛えているのである。

                 (鈴木大拙『文化と宗教』「序」より)  

 

 このパンフレットの表面にこう書いてあった

 

西田幾多郎鈴木大拙は、ともの明治3年に生まれ、金沢の第四高等中学校で知りあい、生涯を通した親友となりました。互いに励ましあい、尊敬しあい、それぞれの立場から教えあうことで、学者という枠を超えた日本を代表する思想家へと成長しました。ともに新しい西洋の文化・思想を深く吸収しながら、東洋の伝統的な考え方・生き方を大切にして、東西を結びつける世界文化を創造しました。

 

 来年は2020年、西田と大拙が生まれて丁度150年になる。恐らく彼らに関しての催しが各地で行われるであろう。そして彼らは益々世界に知られるようになると思う。東洋と西洋がお互いにもっと知りあい、真の意味での世界的な和合の思想が生まれる事を彼らは願っていたのではないかと思う。私は来年には米寿を迎える。今年彼らの記念館を訪れることができて念願叶い良かった。私にも良き友がいて有難い。

 

 冬の空 友と旅せし 北陸路 思いつれづれ 筆のすさびに

 

                      (2019・12・27 記す)

 

 

 

旅立

                 一   

 

昭和三十九年四月、山口国体の翌年に私は母校の萩高校に転勤した。その後一人の国語の教師と知り合いになった。彼は今生きて居たら丁度九十歳になる。彼は数奇な運命を辿っている。生まれは徳島県で三木泰博という名であった。徳島には戦前には三木武吉、戦後には三木武夫という二人の宰相が出ている。彼の家はこれらの三木家とつながりがあると云っていた。

 

彼は地元の中学校を卒業後上京し、大東文化学院大学に入るが、在学中から日本画家として有名な伊東深水に師事して日本画の勉強をしたと懐かしく語っていた。

 

大学卒業後、彼は本州最西端の山口県、それも日本海に面する県立萩高学校の教師として赴任したのである。外にも國學院大學を卒業したほぼ同年配の国語の教師がいた。彼は新潟県の出身と言っていた。二人とも遠く他県から来たのには何らかの縁があったのだろう。

 

彼等が着任した頃は戦後間もないときで、まだ本格的な男女共学ではなかった。男子学生は元の萩中学校で、女子学生もやはり元の萩高等女学校で別々に授業が行われていたので、普通科を教えていた教師は、自転車で休み時間に両校の間を行き来しなければならなから、大変苦労したとも語っていた。そのうち男女共学で授業がおこなわれるようになった。私が赴任した頃にはもうそうした不便はなかった。

 

私が彼と付き合ったときには伊藤という姓に変わっていた。しかし教師間では昔ながらに「三木先生」と言ったり、「伊藤先生」と話しかけたりしていた。私は不思議に思ったのであるがその訳を知った。彼は教師になってしばらくして、萩市に隣接した三隅町の伊藤家の養子になったのである。しかし不幸にもその後奥さんと別れて暮らしていた。後で聞いてみると奥さんには息子が一人いて、彼は所謂後夫として伊藤家の籍に入ったのである。彼は此の息子を可愛がっていた。

 

そうした事情はともかくとして、彼には実に多才な面があった。本来国語漢文の教師だから専門の知識は勿論だが、外に書道、日本画、染色、ろうけつ染め、茶道、華道など、とても一人でこなしきれないほどの芸道に優れた才能を示していた。言ってみればいささか女性的な趣味があったから奥さんとしては物足りなかったのではないかと思われる。

 

彼は余り健康ではなく、いつも医者からと言って数種類の薬を服用していた。やはり一人住まいで栄養が偏っていて、その上帰宅後もこうした才芸に没頭したために運動不足で健康を害したのかも知れない。今なら便利なコンビニがあるので独身男性でも結構生活できるが、当時は男性にとっては自炊生活は不便であった。一度私は彼が一人で仮住まいしている家を訪れたことがある。窓を全部閉め切って昼間から電灯を付けていた。入った途端に空気が悪いと感じたから、何故窓を開けないのかと訊ねたら、「開けると騒音が喧しいから」との返事だった。

 

或る日の休み時間に私が図書室で本を読んでいたときだったと思うが、一つの長細い風呂敷包みを持って近づいてきた。彼はその包みを解(ほど)いてレンガ色の長細い四角な厚紙の箱を取り出した。その紙箱の中には桐箱がきっちりと収められていた。木箱の蓋には「旅立」の二字だけ墨書されてあり、紙箱には「旅立(芭蕉) 伊藤泰博(千秋)」と書いた小さな紙が貼ってあった。「千秋」とは彼の雅号である。

その時彼はこう言った。「これは僕が画いたものだ。これを貴方に上げようと思う。今は開けないで家に帰って床に掛けてみておくれ」

私は大層な物を貰ったような気がして一寸戸惑ったが、彼は「別に大したものではない。画こうと思えばこの程度の絵ならいつでも画くことが出来る。そんなに礼には及ばない」と云って去って行った。

私はその日帰宅後早速此の掛け軸を床に掛けて見た。表装も新しく何だか新鮮な匂いすら感じられる立派なものであった。

 

近づいて見て初めて良く読めたが、最初に「旅立」と書いてあり、行を換えて数行の文章が縦書きに書かれていた。一気に書いたのであろう、書き始めの文字は墨黒々とあって、次第に墨の色が薄くなっている。墨の濃淡があって見た目に美しい。

 

月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也

舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて

老をむかふる物は日々旅にして旅を栖(すみか)とす

古人も多く旅に死せるあり

予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて

漂白の思ひやまず                芭蕉  

 

ここまで書いてあった。なかなかの達筆である。言わずと知れた有名な『奥の細道』の冒頭の文である。

 

此の文章の下に、馬に乗った宗匠頭巾の芭蕉と、そのやや後ろに菅笠をかぶった曽良が杖を持って歩く姿、そして馬の手綱を引く馬子の三人が描かれていて、その下に「千秋」と署名がされてあった。

何とも言えない悠長なと言うか、長閑(のどか)な雰囲気を醸し出す絵である。特に芭蕉の微笑んだ顔が良く描いてあった。私は改めて伊藤氏の才能に思いを致した。

 

あの時から随分と時は流れた。今日は三月三日、平成の最後の雛祭りの日である。我々夫婦には息子が二人いるだけで娘がいないから、桃の節句だからといってこれまで別に意識することはなかった。しかし端午の節句には、床の間に兜や太刀を飾ったことはある。それも昔の話である。ところが一人の孫娘が生まれ、今年十歳になる。先日も小学校で半成人式なるものが行われたと言っていた。そこで息子の家でもお雛様を飾ったかなと思い、私は『奥の細道』の最初に出てくる芭蕉の俳句を思い出して、上記の掛け軸を取り出して掛けて見ようと思ったのである。

上記の文章に続いて芭蕉はこう書いている。

 

海浜にさすらへ去年の秋

江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて

やや年も暮春立てる霞の空に

白川の関こえんと 

そぞろ神の物につきて心をくるはせ

道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず

もも引きの破れをつづり笠の緒付けかえて

三里に灸すゆるより

松島の月先心にかかりて

住る方は人に譲り

杉風が別墅に移るに

 

 草の戸も 住替る代ぞ 雛の家       芭蕉

 

長々と引用したが、最後の此の句である。

「草の戸」とは草葺きの粗末な家という意味だろう。芭蕉は奥州への長旅を決意し、これまで住んでいた粗末なわが家を人に譲り、弟子の杉風の持つ別墅に移った。新しい入居者には女の子がいると聞く。そうするとこれまでの破屋にも華やかさが出現するだろう。もうすぐ桃の節句である。時季が来たらお雛様が飾られて、「家」らしく見違えるようになることだろう。芭蕉は実際にそうした変化を見たのではなかろうが、心にそのような様子を思い描いて、此の句を詠ったのではなかろうか。

 

「草の戸」に関連して「草莽」という字が頭に浮かんだ。特に「莽」という字は上下に「草かんむり」が書かれている。辞書を引いてみると、「莽」と言う字は「猟犬が草むらに姿を没するさまをあらわす」と言う意味だとあった。従って「草莽の臣」とは「草むら」つまり「在野、民間」にいる「仕官していない臣」が「崛起」つまり「すっくと立ち上がる」事を意味するのだと知った。松陰先生がこの「草莽崛起」と言う言葉によって若き門下生を奮起させたのだと改めて知ったのであるが、今の母校の生徒諸君は志を胸に崛起しているだろうか。

 

息子が孫を連れていつ来るかは分からないが、私はこの掛け軸を久し振りに出してみて、親切な伊藤氏の事を思い出し、同時に『奥の細道』をまた読んで見ようかなと思ったのである。考えて見ると、彼は非常に気の毒であった。停年を待たずに病死した。萩市内のお寺で葬儀が行われ、私は友人代表として弔辞を捧げた。もう少し長く生きて自由の身になったら、屹度素晴らしい作品を創作したと思うと、本当に残念でならない。

彼はろうけつ染めの帯も家内にと言って呉れた。これも実に見事なものであった。天は二物を与えないというが、彼は多物の所有者だった。

                    平成三十一年三月四日 記す

 

地所の処分

                   一

 

今年は萩から移植したモミジが例年より赤く染まり、吹く風に「裏を見せ表を見せて」しきりに散り、茶席の庭は一面緋の毛氈を敷いたようになった。パソコンを開いて偶然にも丁度一年前に書いた文章が出てきた。「落ち葉」(注:この文章を『風響樹』次号に載せます)と題した小文である。ああもう一年経ったのかと思う。この間何があったか? 最も記憶に残るのは従兄が昨年のこの頃、「萩の菊が浜にあるおよそ400坪の地所を萩市に寄付したいと思うから、相談に乗ってくれないか」と云った事だ。そこでわたしが市と折衝してみようと云って早速新しく市長になった藤道健二氏に次のような手紙を書いた。

 

平成三十年一月七日

萩市市長  藤道健二 様

 

拝啓 清々しき新年を迎え心よりお喜び申し上げます。明治維新150年の記念すべき年にあたり、市長をはじめ職員の皆様には、地域社会の充実・発展のために、気持ちを大いに高めておられるものと拝察いたします。

 

さて、突然お手紙を差し上げます失礼の段、まずもってお許し下さい。この手紙の内容に関しては、最初に係の方に連絡するのが適切かとも思いましたが、貴方が昨年新しく市長になられ、幾分の親しみを感じていましたので、お手紙を差し上げようと思った次第です。

 

用件に先立ちまして簡単に自己紹介させて頂きますと、私は現在山口市に住んでいますが、生まれ育ったのは萩市浜崎新町上ノ町です。住吉神社や浜の鳥居を降りたところの砂浜や海は子供時代の遊び場でした。昭和19年に県立萩中学校に入学し、藤道昭和氏(注:市長の父の弟)と一緒に通学したものです。そのとき貴方の祖母様が笑顔を持って我々を送り出された事を鮮明に覚えています。 

 

 昭和39年からちょうど20年間私は母校にお世話になりました。その間理数科が最初に出来た時、貴方のお兄さんの秀次氏を1年だけ教えました。さらに申しますと、貴方の父君が萩商業に通学されていたことなども覚えています。

 

こうしたささやかなご縁がありますので、この度あえてお手紙を差し上げる気になりました。それでは用件を申し上げます。

 

 実は先日私の従兄(緒方正道・萩中第45回卒)に会った時、菊が浜の海水浴場に入る道の左側の地所を萩市に寄付したいから、その折衝に当たってくれないかと相談を受けました。今その地には数十本の松が生えているだけの空き地で、その隣に「千春楽ホテル」が建っています。

 

 従兄が申しますには、昭和の初期に、ここには「避病院」があったが、その後病院は現在「郷土博物館」がある場所へ移築され、さらに病院は「市立病院」として現在の地に再建されたそうです。話は戻って、昭和の初めに「避病院」が移築された後、誰も気味が悪いといって跡地を入手しようとしないので、時の萩町長であった土井市之進氏に頼まれて、従兄の父(緒方惟(ただ)芳(よし))と門田医院の2人で分割購入したとのことです。

 

 緒方惟芳について簡単に申しますと、彼は私の父の姉の夫、つまり私の伯父にあたります。彼は明治16年に堀内の菊が浜のこの地所に隣接する地に生まれ、明治34年に県立に昇格したばかりの萩中学校を5年生の時家庭の事情で中退し、三菱長崎造船所に勤務しました。20歳になったとき日露戦争に従軍し、看護兵として戦いました。戦いに勝って無事帰還後、戦場での体験が心を強く打ったのでしょう、これからの人生、人助けに尽くしたいと決意し、三菱長崎造船所を退所して、広島陸軍病院に勤務の傍ら猛勉強して医師の資格を取得しました。ちょうどそのとき、現在の阿武町、当時の宇田郷村の中山村長に懇望されて宇田郷村の医師になりました。それから終戦の年まで伯父は村の医療のために昼夜を分かたず尽瘁し、患者を診ながら急逝しました。享年62歳でした。又その年に長男(緒方芳一・萩中第32回卒)も、陸軍軍医でしたが硫黄島で玉砕しました。

 

 伯父は菊が浜で青春時代を送りましたので、この風光明媚な日本海に面した地をこよなく愛していたと思います。私は以前、青春時代の伯父の思いを忖度して、拙い文章にしたことがあります。

 

「指月山の美しい樹木は絶対に伐ったり枯らしたりしてはいけない。又この白砂青松の菊が濱も子々孫々に伝えるべきである。城はなくなったが、萩の住民だけでなく、この地を訪れる人たちにとっても、将来掛け替えのない憩いの場所となるだろう。美しい自然は人の心を和らげまた浄めてくれる。だから人は自然の美しさを保たなければいけない。このような良い環境に恵まれ、俺はその意味で本当に幸せだ。」  

 

こうした思いを私の従兄は受け継いで、今日まで彼は父から譲り受けた地所を守ってきました。この間「千春楽ホテル」をはじめ、多くの業者から是非譲ってくれと言われましたが頑として拒絶してきたと申します。自然を破壊すれば元に戻すことはほとんど不可能です。この指月山を左に見、海上はるかに浮かぶ島々、さらに右手の笠山の遠望は何と云っても萩市では最高の風景です。ここに商売目的の不似合いな建物が建ったら折角の風景が台無しになります。このような意味において、彼はこの白砂青松の景勝の地を、一部だけですが守ってきたと思います。

 

ところで、従兄は現在92歳になり山口市の病院付属の老人病棟にいます。長男が同じ山口市耳鼻咽喉科医として開業していますが、息子と相談の上先に述べましたように、市に寄付することに決めました。そのとき一つの条件として、この地所をそのまま保存して頂きたい。400余坪の地所ですが、海水浴場への入り口にありますので、お役に立つのではないかと申します。

 

以上のようなわけですので、何かとご多用な事とは思いますが、ご配慮下さいますよう何とぞよろしくお願い致します。なお今後の折衝は私の方にご連絡頂ければ結構です。

最後に貴殿のご健勝と萩市のますますの発展を心より祈念いたします。  敬具 

 

                二

 

 

この手紙を出して丁度一ヶ月経って下記の返事が来た。

 

                     萩 総 第 223 号

                     平成30年 2月 7日

 

 山本 孝夫 様

                     萩市長 藤道 健二 印

 

 時下、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。平素は萩市政の発展にご

協力を賜り大変感謝しております。

 

 さて、平成30年1月7日付けでお申し出がありました菊が浜の土地の寄付

の件につきまして、現地を確認させていただきました。

 

 貴重な土地であるということは認識していますが、「このまま保存する」とい

う条件では、寄付受納後の草刈り、剪定等の年間の維持管理経費の負担から考え

ますと、残念ながら貴殿のお申し出に沿うことが難しいと思われます。しかしな

がら、現在の景観を維持しつつ、駐車場等何らかの形で利活用させていただける

のであれば、少しお時間をいただき活用について勉強させていただきたいと考え

ております。

 何卒、ご理解を賜りますよう宜しく御願いたします。

 

このような返事があったので従兄に話し、市当局も検討してくれると分かって一先ずホッとした。ところがそれからなかなか事は運ばない。催促するのも憚れるので萩にあったわが家を市が購入してくれたとき、その折衝に当たって今は退職している知人に電話してみたら、「その様な事は市役所に出向いて頼まなければ、おいそれとは腰を上げません」との返事だった。わたしはこちらから出向いてまでお願する気がないので5月になったので電話してみた。そうしたら担当が代わったので少し時間が掛かるからもう少し待ってくれとの返事だった。失礼だなと思いながら、それでは待ってみようと思っていたらそれから程なくして電話がかかってきた。「5月24日に山口にお伺いしたい」とのことであった。

 

10時過ぎに萩市観光政策課の職員が二人来た。初対面で二人とも若くて感じは良かった。わたしはこの菊が浜の地所については格別の思いがあるので、それについて拙著『杏林の坂道』にも言及して居るので、出来たら読んでみてくれと言って本を貸し与えた。

 

やれやれという思いである。これで何とか事は運ぶだろうと安堵の胸をなで下ろした。

ところがそれからまた事は容易には進まない。6月29日になって電話があり、「盆まで待ってくれ」とのことである。ところが8月9日にまた「盆過ぎまで待ってくれ」と再度の電話があった。

 

8月31日になったので市の観光政策課に電話したら、「もう少し待ってくれ」とのことであった。なるほど市の行政はおいそれとは動いてくれないのだなと思うに至った。

 

10月10日に前に来た同じ人物が二人揃ってわが家に来た。そして「土地の寄付契約書」を持ってきた。「藤道市長が了承し、その後検討して書類を作成し、幾つかの部署の印を貰わなければならなかったので遅れました」と云っていた。たかが地所一つの寄付に関しても面倒なことだと思った。

 

わたしは思うに、藤道市長は野村前市長の政策に反対して市長選に出馬して運よく当選したのである。その時彼が訴えていた「旧明倫学舎」の校舎存続の問題や、この度新に浮上した「イージス・アショア」の設置などで頭を悩ましていたときだから、こちらが持ち込んだ事案についてはおいそれとは回答出来なかったのではなかろうかと。

11月5日に萩市役所から、「地所の登記簿に載っている所有者の現住所と今の現住所が違っているので、変更する必要がある」という電話がかかってきた。

実は92歳になる従兄と彼の妻は両人とも身体が不自由になったので、長年住んでいた宇部市の家を今後処分することにして、山口市の老人ホームに居を移し、そこを現住所として住民登録していたからである。

 

わたしは山口市の地方法務局へ出向いて訊いてみたら、「素人では手数がかかるから、司法書士に頼んだら良い」と教えて呉れたので、名前だけ一寸知っている司法書士にお願いしたら、「時間が掛かるから、一週間ばかり待ってくれ」との返事だった。そして約束の書類を調えて5日後に持ってきた。作成費用が1万5千円だった。

 

ところがまた一寸したミスがあった。それは従兄が書いた現住所の部屋番号と市役所から書いてきた其の番号が違っていたのに気がついたので、また書類を書き換えるように電話した。翌日訂正した書類がきたので従兄のところへ行って捺印をして萩市役所へ送ったのが11月27日である。こうしてやっと何とか目処(めど)が付いた感じである。

そして終に12月14日、その日は雨交じりで寒かったが、先に来訪した時と同じ市の職員二人が来たので彼等を山口市内の老人施設にいる従兄のところへ案内した。その時市長からの礼状を渡された。一片の紙に印刷されたものに過ぎなかった。これで一件落着と云うことになったが、父祖伝来の土地がこのような形で譲渡されて一寸空しく淋しく感じた。ところがその翌朝の事である。『道元禅師のことば「修証義」入門』と云う本を読んでいたら、次の言葉が目にとまった。

 

衆生(しゅじょう)を利(り)益(やく)すというは四枚の般若あり、一者(ひとつには)布施(ふせ)、二者(ふたつには)愛語、三者(みつには)利(り)行(ぎょう)、四者(よつには)同事(どうじ)、

是れ則(すなわ)ち薩埵(さった)の行(ぎょう)願(がん)なり(以下略)」

 

この文の説明で著者の有福孝岳師(注:高校一年のとき教えました。今は偉い学者になっています。ネットでみて下さい)は「真実の布施行為は、施しをする者(施主)と、施しを受ける者(受)者)と施物(法財)が清浄無垢な境地になければ、成立不可能です。是を仏教では三輪(さんりん)空(くう)寂(じゃく)と呼ぶのです」と言っている。

従兄は是まで長年にわたり母が茶杓を削り奈良の薬師寺に差し上げてきたのを手助けし、母の死後はそれを継承して、その数は五千本に達する。是は患者を診ながら亡くなった父と硫黄島で玉砕した兄の鎮魂のための布施の行為と云える。今回の松林の寄付はその意味では良い布施だったのかと私はひそかに思った。

 

                 三

 

高校時代の一人の友人がいる。彼は高校卒業以来萩を離れて関西に住んでいる。萩には500坪にも及ぶ広い家屋敷がある。年に一二度帰ってその管理をしていて、そのような時、数回わたしは山口から出かけて彼の家で会ったことがある。狭い道路を通って裏口から何時も訪れる。鉄の門扉を開けると広々とした空間があり、その先に彼の家がある。表通りも幅の狭い道路だから不法駐車になるので裏口から入ることにしている。玄関の間を入るとすぐ居間や台所などがあり、細長い廊下伝いで書斎というか客間に通ずる横に長い家屋である。どの部屋も庭に面している。庭には手が入っておらず侘しい感があるが、新築当時は庭の眺めも良く恐らく素敵な佇まいであったろうと想像される。

 

縁側にはガラス障子があるが、客間の紙の障子を開けると、いつも正面の床に幅広の掛物が懸けてあった。やや古びたもので、薄くて細い字で和歌のようなものが書かれていたと記憶する。とても判読できそうにもないので、別に目を留めて見たわけではない。彼が言うには「小松内府の署名があってこれは平重盛が書いたものだと伝え聞いている」と。

 

もしこれが本物なら家宝として珍重する価値があろうがまさかと思う。位人臣を極め横暴の限りを尽くした父の清盛を、息子の重盛が諫めつつも父に先立って死んだという話を聞いたことがあるが、その優しさがこの字に表れて居るのかとも思った。しかし一寸考えられない。彼の祖先には明倫館の先生だった人がいるし、祖父と父は共に陸軍の将官だったから家柄としては立派である。

 

彼は此の家を友人に貸していてしばらくは家賃が入っていたが、また税金と管理費だけを要するマイナス状態になっていた。最近片目が見えなくなり、補聴器も壊れて不自由していると言っていたが、趣味のハーモニカだけは今も同好者と楽しんでいるようだ。しかしもう萩には帰れないし後を継ぐ者も居ないので、生まれ育った先祖から受け継いだ此の家屋敷を何とかして処分したいと決心したのだろう。なかなか買い手がつかない様子だったが、終に謂わば「捨て値」で業者と話がついたと先日手紙を呉れた。坪1万円でも業者は買おうとせず、一方坪15万円の算定で地所の所有税がかかるようだ。交渉は彼の奥さんがされたようだが、女だからと云って足下を見られたのではなかろうか。

 

今や山陰ばかりではない。過疎地はもとより、都市部でも不便なところにある土地は「負の遺産」とまで言われている。このような事を考えると、今回市に寄付した菊が浜の土地が、観光に役立ててもらえるのは有り難いと思うべきかも知れない。今は亡き伯父も、またそこを今日までしっかり守って来た従兄もこれで安心したと思う。

 

                 四

 

思えば昨年の暮れから丁度1年。あっという間に時が過ぎた。まさに光陰矢の如し。一昨年の暮れからまだ2年と僅かしか経っていないが、高校時代の同級生が相次いで亡くなり、今現在分かって居るだけでも8人を数える。無常迅速・諸行無常だとつくづく思う。

 

その中の1人は小学校から高校まで同学年で良き友だったので在りし日が偲ばれる。

実は、亡くなったとは知らずに、先日久しぶりに電話したら、「主人は、今年3月になりますが、夕飯後イチゴを口にしながらそのまま倒れたかと思うと、静かに息を引き取りました。何もかも主人が書いたりしていましたので御知らせ出来ませんでした」と彼の奥さんが電話の向こうで語った。大往生である。あやかりたいものだと思った。 

 

彼は4人兄弟の末っ子で、「四男(しなん)だからお前は死なん、と親爺が言っていた」と笑いながら話した事がある。いくら「死なん」でも米寿に近い歳になれば、誰しも「死なん」わけにはいかない。彼は小学校の時わたしと同じクラスで良く出来ていた。習字も上手で教室の後ろの壁に張り出されて居て、彼の書いたのはいつも右端にあった。

 

われわれが高校を卒業したのが昭和25年で、当時の萩はまだ活気があった。今とは違って長男で家業を継いだり、広い田畑がある者は必ずしも大学へ進学しなかった。彼は恐らく高校へ入った段階では進学を夢見たであろうが、兄たちが皆戦死したか病気で早世したかで、進学を断念して家業を継がざるを得なくなったようである。

 

彼の家は「鋸製作所」であった。今は寂(さび)れた通りになっているが、当時は彼の家は松陰神社に通ずる町筋に面し、各種の店などが賑やかに建ち並んでいた中にあった。今でこそ「電気鋸」の普及で個人が鋸を製作するようなことはないが、当時は沢山の木(き)樵(こり)たちが大きな「木挽(こび)き鋸」の目立てなどで彼の店をしばしば訪れていたと思う。

 

目立ての需要も減った頃、一度通りがかりに彼の店に立ち寄ったとき、彼はたった一人の従業員と差し向かいで、黙々と幅広い大きな鋸の目立てをしていた。狭い作業場であるが神棚があり、そこはきれいに掃き清められていた。無駄話はいけないと思って早々に辞退したが、一心不乱に精魂を込めての仕事ぶりに感銘を受けた。当時は最早鋸の製作注文はなくなったが、こうした大きな鋸の目立てだけは時々頼まれるとのことであった。

 

彼は色白の温和しい口数の少ない性格で真面目な人物だった。こうした昔気質の誠実な職人が次第に減っていく。何もかもが工業化し、使い捨ての時代になった。その後彼は家業を止め、娘さんが防府市に住んでいるから呼び寄せて呉れたと云って、奥さんと転居していた。それまで住んでいた家と作業場は解体し更地にして買い手を待っているとも云っていた。「更地にすると税金が高くつく」とこぼしていたが、その後しばらくして売れたようである。

 

鋸の製作現場を見たわけではないが、恐らく鉄板を切ったり叩いたりすれば相当な喧噪だったろう。数年前防府天満宮に参詣した折に彼を訪ねた。彼の家はのどかな郊外にあり、周囲にはまだ多くの田圃が残っていた。その時は秋で刈り取られる前の稲穂がたわわに実っている静かな環境の中にあった。久しぶりに会ってみると「もうすぐひ孫が生まれる」とか云っていた。平凡ながらも安楽に過ごしていて、まさに好々爺然として居り、晩年を幸せに暮らしているなと嬉しく思った。

 

同級生が次々に鬼籍に入っていく。我が身もそう先の話ではなかろう。最近「断捨離」とか「身辺整理」と言った言葉をよく耳にする。わたし自身も早く考えなければと思いながらも、徒に時の過ぎ逝くのを感じる今日この頃である。

 

 最後に敢えて付言すれば、上記のような地所の売買や寄付においても、譲渡に当たって双方の意思の疎通が先ず必要であり、その後の手続きなども案外手間暇がかかっている。これを思うと、今我が国が抱えている竹島北方領土の問題は、彼我の国民感情が相反するから容易には解決しないのではなかろうか。兎に角難しい問題だと思う。 

    

平成三十一年 二月 立春 

 

雷電と天神

                                                                      1 

 

 令和4年1月23日(日) 朝からしとしとと氷雨が降る。『風響樹』の合評会を我が家で行うので、7時に起きて居間を片付けた。昼過ぎ1時前、3人の同人が雨の中に見えた。早速冊子の出版費を各自執筆したページ数に応じて支払う。今回は私が一番多く書いたので多額の支払いとなった。まあ病気になったりパチンコや競輪・競馬などの投機的なことで散財することに比すれば良いだろう。

 

 各自の作品について当たり障りのない批評を行い、次期原稿の締め切りを6月末として散会となる。私の作品『梅薫る』に小見出しを付けたほうがよいとの意見に賛成する。丁度3時になり、彼らはまだ小雨の降り続く中を帰っていった。この間有難いことにヘルペスの痛みは感じなかった。

 

 締切日のことを萩の小松氏に電話し、次号にもぜひ執筆されるようにと頼む。私が昭和19年に県立萩中学校に入った時、彼は2年上級だったことを後で知ったが、小松氏も先年奥さんにに先立たれて独居生活。自転車で毎日買い物に出かける事が健康維持に繋がると話していた。私にとって見習うべき良き先輩である。

 

 そうこうするうちに5時前になった。今日は大相撲千秋楽。最後の取り組みで御嶽海が照ノ富士を破れば3回目の優勝ということだが、勝負は割と簡単についた。照ノ富士の体調が良くないのが幸してか御嶽海は賜杯を手にし、同時に大関昇進も決まった。御嶽海は長野県出身で、長野県出身の力士と云えば、古今を通じての名力士・雷電為右衛門がいる。10数年前、長野を訪ねたとき、高原の一本道に面した一軒の売店で、大きな餡と野菜の入った餅を食べたのを覚えている。店の傍らに雷電の等身大の銅像が立っていて、その筋骨隆々としたまわしを付けた姿に、思わず見入ったのを思い出した。ネットを見ると実に詳しく彼の事が載っていた。

 

 雷電為右衛門は明和4年(1767)に生まれ、文政8年(1825)に亡くなっている。信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市大石)出身で、現役生活21年、江戸本場所在籍36場所(大関在位27場所)で通算黒星が僅か10個、勝率962の大相撲史上未曽有の最強力士とあった。横綱制度確立以前だから、彼が横綱の免許がないとのことである。御嶽海の大関昇進で同郷の大力士雷電の事を人は思い出すだろう。長野県の人にとっては歓びに耐えないことと思う。

 

 テレビ観戦を終え夕食をすませて、まだあまり力の入らない右下半身を温めようと、入浴して9時前に床に入った。その前に長男とその嫁から安否を気遣う電話が入ったが、今の所徐々に快方に向かっているし、またコロナ感染が増加の一途をたどっているので、心配無用、当分来なくてもいいと電話した。こうして気にかけてくれるのは有難い。

 

 早く床についたためか、夜中の2時に眼が覚めた。その後はなかなか寝付けない。何かしら歌でも詠んでみようかと思い、明かりをつけて雑記帳に鉛筆で数首、ミミズの這うたような字で書きつけた。

 

 翌朝7時に目が覚めたので、夜中に詠んだ歌を思い出そうとしたがどうも正確には思い出せない。書きつけた雑記帳を見てこんな歌だったかと思い出すことができた。次の10首余りの歌である。

 

 

  夜空には姿はなくもその光なお輝ける星あまたあり

 

  願わくば死したる後も消え失せで光り輝く星のごとくに

 

  歴史上清き光と輝ける偉人はこれぞ星と讃えん

 

  ひさかたの夜空の星を仰ぎ見て心の清く覚えたるかな

 

  澄み渡る夜空の星の輝きの失せし原因科学にぞあり

 

  人類に幸せもたらす道のみぞ科学の道と我思うなり

 

  金権や独裁政治に加担する科学の歩み邪道なり

 

  唐突に死は来るものと覚悟せよ人の命の儚きものぞ

 

  長々と病の床の臥すよりは苦痛少なく死にたきものぞ

 

  我が家にて眠るがごとく死せるなら我が一生は幸いなりき

 

  この世にて無数の人と結ばれし縁(えにし)の不思議またして想う

 

  世の中に不思議な事の多かりき中でも目立つは人との出会い

 

  共稼ぎお陰で我ら爺婆(じじばば)は孫子(まごこ)と遊ぶ至福の時を

 

                    

 朝起きて以上のようなつまらん歌を書きつけていたのを知る。漱石に『夢十夜』という小品がある。彼は夢に見たのを朝起きて思い出して書いたのか、それとも夢見て直ぐ夜中に概略書いていたのか。その真相は分からないが、十日も続けてこのような佳品を書くとはさすがだとつくづく思った。その中に仁王像を大木の中から彫りだす事を書いたものがある。私は雷電の筋骨たくましい裸像を思い出してその作品を読み返してみた。

 

  運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいるという評判だから行ってみると、「あの鑿と槌の使い方を見給え。大自在の妙境に達している」と見物人の一人が言う。

  運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を縦に返すや否や斜に、上から槌を打ち下した。堅い木を一と刻み削って、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒りの側面が忽ち浮き上がって来た。その刀の入れ方がいかにも無遠慮であった。そうして少しも疑念を挟んで居らんように見えた。

 

 私はここまで読んで、かってイタリアの古都フィレンツェを訪ねた時、市街地を見下ろすように、高台に立っているミケランジェロ作の偉大なる彫塑「ダビデの像」を思い出した。これは実物と同じ大きさに作ったもので、本物は美術館に保存されているというが、台座から像の先端までは優に7・8メートルに達するほどの巨大なものであった。ミケランジェロは4メートルもの大理石の石塊を山から掘り出し、仕事場に持ち運んで、それこそ鑿一本であの人類史上最高の傑作を彫り出したと言われている。私はミケランジェロに匹敵するのが木彫りの天才運慶だと思う。洋の東西を問わず、天才にはこのように彫り出すべき実態が木や石の中に見えるのであろう。

 

                     2

 

 『暮らしの365日 生活歳時記』(三宝出版)という本を私は昭和55年に購入し、爾来愛読している。初版は昭和53年で、55年には19刷印刷・発行とあるからよく売れたものだと思う。定価が3500円とあるから当時としてはかなり高価である。しかし小百科事典ともいうべきもので、年間を通して、毎日次のようなことが要領よく記載してある。「今日の言葉」の項には古今東西の有名人の言葉が、「今日の歳時記」には文字通り自然・人事百般の事が、他に「今日のこよみ」、「今日のできごと」、「食べものの四季報」、「暮らしのヒント」、「物知りコーナー」、「手作り生活の知恵」、そして最後に「日本の祭り」と、実に生活の全分野にわたっての教えともいうべき事が、日繰りのカレンダー形式で、1148ページのこの分厚い本の中に満載・凝縮されている。

 

 どのページを開いても目新しい知識を与えられるので、私は先にも述べたように重宝している。今日は1月25日。ここを開けたら「今日の言葉」に「道ということ」と題して司馬遷の『史記列伝』から引用してあった。

 

  法令は人民を指導する理念である。刑罰は悪事を禁止するための強制力である。理念と力が完全にそなわなければ、良民は不安を感ずるであろう。しかし、人格をみがきあげた人ならば、官職についてけっして 乱れることはないのである。職務を守り、道理に循って行動するだけでも、民政をうまく行うことはできる。力ずくできびしくおさえることは、必ずしも必要ではないのである。

 

 また「ますぐなものの極致は、曲っているごとくに見える。「道」という第一原理はほんらいうねうねとしたものである」といった老子の言葉も載っていた。

 

 今現在、自由民主主義陣営と共産独裁政治陣営とひどく争っている、いずれの側の指導者も人格的に立派だとは言えないのではなかろうか。したがって国民は不安を感じている。両陣営に人格の優れた本当に優れた指導者が出ることを願わずにはおれない。しかし当分望みは持てそうにない。人間は本来が我欲の塊で、自分さえよければと思うものだから。この『歳時記』の1月25日の「今日のこよみ」の欄に【天神様とは】といって次のように書いてあった。

 

  天神とは本来天変地異を支配する神が天神であり、雷電鳴動はその神威である。非業の死をとげた人の怨霊が天に響いて雷電を起こすと考えられ、この天神と御霊神が結びついたわけである。

 

  さて菅原道真左大臣藤原時平のねたみを受けて太宰権師に左遷され九州でわびしく没したのだが、ところがまもなく京都で雷電そのほか天変地異がしきりに起こった。人々は道真公のたたりであるといって恐れ、朝廷も慰霊に力を尽くした。以後、天神は道真に独占されて、道真が生前すぐれた学者であったところから、天神はいつしか文道の大祖として祭られるようになった。また道真の命日である二月二五日を主として、毎月二五日参詣が行われる。

 

 我が家の神棚に昔から二重箱の入った掛け軸が安置してある。それはずいぶん古いもので、桐の外箱の中に黒塗りの中箱があり、その箱の蓋に梅の枝花が金泥で見事に描かれてある。その中に掛け軸があり、「南無天満大自在天神」の文字が一行だけ書いてあって、なかなか雄渾な筆跡である。

 

 掛け軸と一緒に「極札」と書かれた小さな紙が包んであって、これには「尊圓親王天満宮神号」と書いた紙があり、その中に細い字で「大乗院宮尊圓親王」と書いた「極札」が包んであった。

 

 さて尊圓親王とは一体どのような人物であろうか。平成8年4月7日(日曜日)の『読売新聞』に梅原猛氏が『地霊鎮魂 京都もののかたり」という文を寄稿してる。それを読むと次のように書いてある。

 

 「最高の門跡寺院」関白・藤原師(もろ)実(ざね)の子・行玄(ぎょうげん)に始まり、慈円によって確立された最高の門跡寺院としての青蓮院の権威は、院政期から幕末に至るまでなお保たれていた。この代々の青蓮院の門主の中で、特に私が興味を持つ人間が二人いる。

 

 一人は伏見天皇(在位1287~1298)の第五皇子青蓮院の尊円(そんえん)入道親王(1298~1356)である。尊円親王は何よりも書道・青蓮院流の祖として有名である。父・伏見天皇も書が巧みであったが、世尊寺(せそんじ)行尹(ゆきただ)に学んだ彼は父を超える書の名人であり、父の「伝えて家の流れとせよ」という命令によって、この青蓮院流は御家流(おいえりゅう)とも称せられた。現青蓮院門主東伏見慈洽(じごう)師から聞いたところによれば、尊円親王の書体が父・伏見天皇と違うのは、彼が慈円の書体を受け継いでいるからであるという。尊円は慈円の『拾玉集』の編者でもあり、彼はこの青蓮院門跡の権威を確立した慈円という僧をよほど厚く尊敬していたのであろう。(以下略)

 

 私は思うに、曽祖父、俗名・梅屋七兵衛が天神様を尊崇していたので、ひょっとしたらこの掛け軸を大阪に出ていた時、手に入れたのではなかろうかと。それより前かもしれないが、金襴表装の二重箱入りだから、代々伝わっているこの軸を、私は尊圓親王の直筆だと思っている。

 

 なお、「南無天満大自在天神」の文字の中に、先に引用した漱石の『夢十夜』の中に書いてある「あの鑿と槌の使い方を見給え。大自在の妙境に達している。」を思い出し、「大自在」という言葉を辞書で引いてみた。

 

  【大自在天】 ヒンズー教シヴァ神の異名で、万物創造の最高神。仏教に入って護法神となる。

         自在天のこと。

 

 漱石の用いたのは「自由自在」ということで、思いのままにする意味で、「大自在」とは違うのだと知った。 

 

 ついでに『歳時記』から拾った知識。1月25日は「法然上人忌」ということである。我が家は法然の開いた浄土宗を信仰していて、私は朝晩仏前で上人の『一枚起請文』を唱えている。この起請文の最後に「建暦二年正月二十三日 大師在御判」とあるから、法然はこの起請文を書いて二日後に亡くなったのである。                              

                      2022・1・25 記す

野菜のクラスター

カクテルとは「ウイスキー・ブランデー・ジン・ウオッカ・リキュールなどの洋酒をベースとして、シロップ・果汁・炭酸飲料・香料・氷片などを調合した混成酒。」と『広辞苑』に載っていた。随分手の込んだ酒だと思う。洋酒のチャンポンに過ぎないのでないようだ。

 

コロナ感染が世界中を危機に陥(おとしい)れ、「クラスタ-」になるのを避けて下さいと、この言葉を耳にしない日はない。最近は何でもかんでもカタカナを用いる。年寄りはなかなか付いていけないのではなかろうか。要するに「人混みに入るな」とか「密集を避けよ」とか「群がるな」ということである。

 

クラスター」とは元々「花や実などの房」の意味だが、「同種のものが集まってつくる一団・群れ」の意味だと、これまた同辞典に載っていた。

そうなるとカクテルは、数種の酒類クラスターである。

 

私は野菜のクラスターを毎朝食べる。そこで今日はこの事について一寸紹介しよう。

家内が亡くなり一人暮らしになったので、朝晩何を食べたら良いかと考えた。私は昼食は抜くことにしている。有り難い事に吉敷に家を建てたら数年後に、我が家の直ぐ近くに食品スーパーが出来た。従って料理の素材は簡単に手に入る。既製の食品も数多く並んでいるが、私はなるべくそれらは買わないことにしている。家内がそうしたものを極力食べないようにしていたからである。何と云っても自分の家で作ったものが新鮮で味も自分の味覚に合うからだ。そうなると自分で調理しなければならない。そこで考えたのが数種類の野菜を大きい鍋で煮て食べたら良かろうと思ったのである。そうは言っても刺身・コロッケ・ソーセージ・豆腐・キムチなどは買って来る。

 

今朝も作って冷蔵庫に入れておいたのを丁度食べ終えたので、散歩のついでに帰りにスーパーへ寄って必要な野菜を買ってきた。試みに今流にカタカナで書いて見ると、次のようなものである。

 

ダイコン・ニンジン・ダイズ・ハクサイ・ネギ・ゴボウ・カボチャ・シイタケ・

ジャガイモ・モヤシ・コンニャク

 

さて、これらの野菜類を漢字で書けと云われて、全部正確に書ける人は少ないだろう。

大根・大豆・人参・白菜なら何とか書けるが残りとなると難しい。

 

 葱・牛蒡・南瓜・椎茸・馬鈴薯・萌やし・蒟蒻

 

私はこれらの野菜を適当な大きさに切って、大きい鍋に入れ、これらと一緒に小さなネットに煎り子を入れて味付けとする。そして少し酒をふりかけ、醤油を注いで三十五分ばかり煮たら出来上がる。出来たら大きい二つ器と一つの丼鉢に移して、冷蔵庫に入れておき、毎朝それを適当な量だけ皿にすくい取って、鶏卵を一個割って一緒にしてチンして食べる。これにミルクコーヒーとパン一枚が朝の食事である。

 

こうして一週間は、あまり手がけずに朝の食事を済ますことが出来る。私は毎日九時には床に就くので、目が醒めるのは大体四時から五時の間である。起きたら洗顔の後机について好きな本を読む。今朝も四時半から七時まで梅原猛の『水底(みなそこ)の歌』を読んだ。今朝丁度上巻を読み終えた。中々面白い。それにしても学者は実に良く調べるものだと感心する。彼の次の言葉が気に入った。

 

私はソクラテスの門弟として、やはり権威より真理を重んずることを、人生に処する根本的な態度としている。

 

『水底の歌』は、柿本人麿のことを梅原氏が調べて、これまでの学説を覆した論攷である。人麿があれほど優れた歌人であるのに、歴史書にその名が載っておらないのは何故か、と云うことから彼は追求して、遂に人麿は島根県益田市の沖にある鴨島で刑死されたと結論づけている。明日から下巻を読むのが楽しみである。

ついでだから私は野菜に関する言葉を一寸辞書で見てみた。知らない事が沢山あって勉強になった。

 

大根役者(芸の下手な俳優をあざけっていう語)

大根足 (大根のように太くてぶかっこうな女の足)

葱   (葱白く洗ひたてたる寒さかな  芭蕉

人参飲んで首縊(くく)る (貧乏人が病気にかかって高価な朝鮮人参を飲み、財政に窮して首を縊るの意。転じて事は良く前後を考えてなすこと。良い事もかえって悪い結果になるたとえ。)

牛蒡抜き (牛蒡を土中から引き抜くように、一気に抜き上げること。人材を他から引き抜いて採用したり、競争などで多人数を一気に抜き去るなど)

蒟蒻問答 (旅僧のしかけた禅問答を住職に化けたこんにゃく屋の主人が受け、相互の誤解に基づいて、滑稽なやりとりをする落語から、話しのかみ合わない会話。とんちんかんな問答)

南瓜野郎 (容貌の醜い男をののしって云う語)

芋の子を洗うような混雑  私は子供の頃風呂屋へ行ったら何時もこのような状態だった。漱石の『吾輩は猫である』には「白い湯の方を見ると是はまた非常な大入りで、湯の中に人が這入ってると云はんより人の中に湯が這入ってると云ふ方が適当である」と書いている。

 

椎茸髱(たぼ) (江戸時代の御殿女中の髪の結い方で、左右の鬢(びん)を張り出して椎茸のような形にしたもの。またその髪を結った御殿女中)

瓜(うら)なり (末生り・末成り 顔色の青白い顔気のない人 『坊ちゃん』に英語の先生で青ぶくれしたのを「うらなり君」と呼んでいる)

瓜に爪あり爪に爪なし (間違いやすい「瓜」と「爪」との字画の異同を覚えさせるための句)

瓜二つ (瓜を二つに割った形がそっくりなところから、兄弟などで容貌が甚だよく似ていることを云う)

瓜実顔 (色白く中高でやや細い顔)

青菜に塩 (人が力なくしおれたさま)

大豆 (大豆(だいず)に対して小豆(あずき)と云って「しょうず」とは云わない。私は「こまめな」を「小豆な」と書かないかと思ったら、「まめ」は「忠」と書くのを知った

 

私は大学で英文科に入ったとき、高校の授業とは全く違った専門の講義を受けた。その時、Onionと云う学者の書いた英文法の教科書を使用した。難しくて歯が立たなかったが、この学者の名前は日本語で「玉葱」という意味である。この事だけは今も覚えている。当時はテレビはなくて、映画が唯一の娯楽だった。アメリカ映画ではゲーリー・クーパーが有名だった。彼は1901年に生まれて1961年亡くなっている。クーパーとは「おけ屋」とか「樽製造者」という意味だと知って、これも面白いなと思った記憶がある。随分昔のことである。『広辞苑』には彼の事が載っていた。

 

アメリカの映画俳優。アメリカ的良心の象徴のような強くて善良なヒーローを演ずる。『真昼の決闘』『誰がために鐘は鳴る』」

 

クラスターがとんでもない話しになったが、あの頃はどこの映画館も「超クラスター」だったと今にして思う。萩には「喜楽館」という映画館があった。何時も超満員でそれこそ天井桟敷まで観客で一杯だった。映画が終わって兄(あん)ちゃん連中は自分が今見た映画の主人公にでもなった様に、肩を怒らして映画館から出て来た。

 

詰まらんことを話題にしたが、要するに私が毎朝食べる料理は「野菜の雑多煮」である。現代風に云えば「煮野菜のクラスター」と云うことか。

                     2021・2・28 記す  

無私と無心

父が残してくれた本が我が家に『茶道全集』以外に20冊ばかりある。蔵書と言える數では決してない。その中に『大日本讀本』という国語の教科書がある。厚紙で出来た帙に収めてある。私が愛読しているもので、これは昭和6年6月に冨山房から発行されている。今私が読んでいるのは「昭和十年十月十六日新制第二刷訂正発行」とある。全部で10巻あり、巻1から巻4までが60銭、巻5から巻10までが55銭の価格となっている。今から約90年昔の物価がこれでほぼ見当がつく。和綴じの手に持って感じのいい装丁である。

 

 この教科書をざっと読むと、戦前の教育がどの様なものであったかが推察できる。昭和7年に生れた私にはやはり懐かしいものに思われる。というのも戦いに負けたわが国は、戦後GHQの施策により、ちゃぶ台をひっくり返したように、戦前の我が国の思想を全部抹殺して、左翼的な思想が主流を占め、伝統のある日本精神をすべて悪しきものとして打ち消した。そして自由平等という名のもとに、礼節とか謙譲の美徳、親兄弟の和合といったものまで否定して、家族制度の崩壊さえ憚らぬといったことにまでになった。これは人間として決していいこととは思われない。GHQはそれほどまでに日本の長き良き伝統を恐れたのである。

 

 『教育勅語』に書かれている全てが良いとは言わないが、あの中には人間としていかに生きるべきかを教える内容が多く盛られている。このような事を言ったり書いたりすると、右翼だというレッテルを貼られるが、凡ての人類が平等で平和な生活をという共産主義が、実際は独裁的権力者による弾圧的な政治と言っても過言ではない現状を見ると、そのように思わずにはおれない。考えてみると、人類と雖も知力だけ異常に発達した動物だから、相手をやっつけ、権力を手に入れたいというのは、人間も動物と同じく、本能のどうしようもない悪しき性かと思う。

 

 前置きが長くなったが、『大日本讀本』に話を戻そう。私は普通夜9時前後になると眠気を催して床に就く、昨夜も風呂から上がってまだ9時前だったが床に入った。亡くなった家内は寝つきが悪くて、夜中の1時過ぎてもなかなか寝れないと言っていたが、私は枕元の本を手に取ってみてもそれに読みふけるということは全くない。ものの5分もすると電気スタンドの灯を消してそのまま寝入ってしまう。ところがこのように早く寝ると夜中にトイレに起きることがよくある。昨夜も夜中に目が覚めた。時計を見るとまだ2時半だった。こうして夜分に起きたらすぐには寝られない。仕方がないので手元の本をいつも読むことにする。そのとき読んだのが昨夜は先に挙げた読本の「巻一」である。

 

 ここまで書いて気分転換に散歩に出かけた。11時過ぎだった。麗らかな春の陽射しを受けて桜が満開なので、いつもとは違ったコースをと思い、吉敷川の川辺を歩くことにした。途中車の通れない小径に沿った幅1メートルばかりの溝川に、澄み切った水がさらさらと流れていて、そこに薄桃色の小さな桜の花びらが次から次へと浮かび流れていた。吉敷川の両岸に道があるが、私が到達したこちら側の道は車が通れるが、向こう側は人が歩けるだけの小道である。そこに桜並木があって今が一番華やかで美しい。私は車道から水の流れる方へと、川土手の石段を下りて行った。そこは川の流れに沿って6から7メートル幅の平坦な草地がある。そこからもう少し降りたところを普通は水が流れている。実際の水の流れはわずか5メートばかりの細い流れである。水深なんて言えたものではない。浅い川底は大小の角のとれた白っぽい石を敷き詰めたようである。上流には大きな岩盤が川底を形成している。対岸に行くのはちょっと脛を濡らしただけで簡単に可能である。しかし大雨が降ると草地にまで水が溢れて、20メートルばかりの川幅となる。昨年大雨の後行ってみたら轟轟と音を立てて水が激しく流れていた。流れの向こう側にも同じような平坦な草地がある。そこに親子連れだろう10数人が、花見の弁当を広げているのが目に入った。このようなのどかで家族団欒といった風景を見ると、つくづく平和の有難さを感じる。このように思うのも、今この地球上でロシアによるウクライナへの侵攻が行われ、残虐な戦闘が行われているからである。

 

 黄色い菜の花が所々に咲いていたので、対岸の桜並木を背景にスマホを取り出して写真を数枚撮った。夕方近くになるとここから見える風景は、まさに「山紫水明」と言える素晴らしい場所である。少し上流に向かって歩き、また斜面を登って車道に出てもう少し歩を進めた。小さな橋が架かっている。この橋は蛍橋と言ってその季節には蛍の乱舞が見られるのだろう。橋の上からさらに上流を見ると、両岸に桜並木が目に入ったので、中々美しいのでこれもカメラに撮った。この橋を渡って今度は対岸の小径を下流へと歩くことにした。道の左右に名も知らない草花が咲いていて目を楽しませてくれた。そのうち先ほど川向うに見えた桜並木に差し掛かった。ふと川面を見たら、2羽の鴨が仲良く遊んでいる。これも良き景色になると思ってカメラを向けた。

 

 こうして昼前の散歩を楽しんで帰途に就いた。我が家の直ぐそばに小公園がある。まだあどけない幼い子が若い母親に手を引かれて公園内をよちよちと歩いていた。これより少し年長のまだ小学に入らない子供たちも無心に遊んでいた。春ののどかな風景だった。こうして我が家に着いたのは12時15分過ぎだった。約1時間、散策を楽しんだことになる。

 

 萩商業高校に勤めていた時、入学式が終わって、同僚と一緒に指月神社の境内で、桜の花を見ながら盃を傾けたことを思い出す。もうあれから40年近くなる。その後花見をした覚えはない。山口に来ても桜の花の下を歩いたことは何度もあるが、弁当を広げて「花より団子」といったことはしていない。先ほどの親子の楽しそうな様子を見て、彼等の幸せを私自身の幸せと感じた。

 

 話をもとに戻そう。夜中に寝床で見た中に「御勉学時代の今上陛下」という文章があった。散歩から帰って、これをあらためて読んでみた。著者は二荒(ふたら)芳徳(よしのり)という人物である。この人は伯爵、貴族院議員、少年団日本連盟理事長、東京市の人、明治16年生まれである。人物的にはしっかりした人だと思われる。今上天皇と言えば昭和天皇の事だが、天皇学習院時代と初等科卒業後、東宮御所での日常の事や勉学の様子が書かれてあった。その一部を書き写してみよう。

 

  當時の御日常を拝しますれば、午前六時に御起床になりまして、直ちに御洗面の上、更に浄水をもって御手洗を遊ばされ、御拝の間に入らせられましてまず伊勢神宮をはじめ奉り、宮城なる明治天皇昭憲皇太后に御遥拝を遊ばされ、更に御両親陛下に御拝の後、御朝餐をおとりになりまして、規則通りの御日課をお修めになるのでありました。夜分は午後八時頃には御寝になったのであります。

 

  御学業に就いては、すべての科目に御熱心であらせられましたが、わけて博物には御興味をおもち遊ばしまして、魚介・鳥獣・草木・鉱物などを御採集になり、これを一々御みづから御分類・御整理遊ばされました。

 

  学校で御習得の漢字なども字画正しく御記憶になり、そしてまたよくこれを御使用になりました。

 

  御日記は御幼少の頃から御始めになって、興味ある出来事は常にお書きとめになっていらせられましたが、大正三年頃からは、日々規則正しく御記入遊ばされ、今なお御継続になっていらせられるやに拝聴いたします。

 

  学習院時代には乃木大将に、御学問所時代には東郷元帥に御傅育をお受け遊ばしたのであります。明治時代  の日本が、国を賭して戦った日露戦役に、幾萬の忠烈な同胞を率ゐて決戦の衝に當り、国家興廃の一大事を己が双肩に擔って、全日本国民の信頼を一身に集めたこの両大将が、身命をささげて夢寐の間も兢兢として皇儲の教育に盡された苦心は、我々国民の一員として最も深い感銘を覚えるのであります。

 

  以上の文章を読むと、昭和天皇は若くして優れた人物の指導の下で、真面目に勉学に勤しんでおられたことがわかる。それにしても尊敬語で書かれたこのような文章は、今の若い人には違和感を覚えるのではなかろうか。最期に次の文章があったので、私の興味を引いた。

 

  杉浦重剛氏が或日、「殿下の御愛誦の章句は何でございますか。」とお尋ね申し上げましたところ、陛下は即座に「『禮記』の『日月、私照なし。』であります。」と仰せられたとの御事であります。

 

 私はこの孔子の言葉を今初めて目にした。そこで調べてみたら詳しく説明してあって実に良い言葉だと思った。流石に昭和天皇座右の銘にされたのだと感心した。ネットに以下のように書いてある。

 

 『日月無私照』(じつげつにししょうなし)とは、『天無私覆、地無私載、日月無私照 奉斯三者、以労天下 此之謂三無私』の中にある孔子の言葉で、意味は天は選り好みせずに地上の全てを覆い、大地は選り好みせずに地上の全てを載せ、太陽と月は私心に偏ることなく地上の全てに光を降り注ぐ。

 この三つを大切にし、宇宙に存在する全てのものを労り、全てを大切に思う。これを『三つの無私』というそうです。

 『日月無私照』 太陽や月が、私心に偏ることなく全てのものに光を届けるように全てのものは、この世に中において同じ恩恵を受ける定めにある。

 

 このようになかなか含蓄のある言葉だと知った。無私とは、私心つまり利己心に対する言葉である。つい最近『斎藤成也 佐々木閑 生物学者と仏教学者 七つの対論』という本を家内の従弟に勧められて讀んだ。およそ理科的な素養のない私にはなかなか理解できかねる点があったが、生物学がこれほどにまで進歩しているのかと驚くばかりだった。此処には無私をさらに徹底させた心の状態である無心の事が検討されている。無私とは私利私欲のないこと。「公平無私」といった言葉がある。一方無心は心に雑念や邪念のない妄念を離れた状態である。

 

 これも最近読んだ本だが、1924年に東北帝国大学講師として来日した哲学者オイゲン・へリゲルが、1929年に帰国するまでの間に、当時わが国で最高の弓道師範阿波研造弓道の教えを受ける。その時の師範の指導の下に彼が到達した弓道の精神をつぶさに紹介した名著『弓と禅』の新訳が、『角川ソフィア文庫』から出ていると知って買って読んでみた。これを読むと驚くことに、弓は無心で引かなくてはいけない。矢は自然に弦を離れなければいけない。的は決して狙ってはいけないとある。これは容易に到達できることではない。しかしへリゲルは真剣に稽古してその域に達している。すなわち無心に弓を引く事が出来たのである。私も停年退職して数年間弓道教室に通ったが、到底こういったことは出来なかった。

 

 今や4年に1度開かれるオリンピックの祭典は、勝ち負けの心で争われ、さらに言えば金儲けの場になっていて、健全なスポーツでは決してない。選手は相手に勝ち、記録を伸ばそうという点では有心と言えるがこれは別に悪いことではない。当然の心掛けでる。しかしこれが金銭に結び付くと邪道になる。この点を考えると、我が国の伝統的な武道では弓道と剣道がやや面目を保っているといえよう。これはいわゆるスポーツではないからである。もう少し書いてみる。以下は先に挙げた生物学者の言葉である。

 

  こころなき 身にも

  あはれは 知られけり

  しぎたつ澤の 秋の夕ぐれ

 

 この西行の歌にはいろいろな解釈があるが、人間にはこころがないのだと、素直に読んでいいのではないかと思うこのごろである。まだ解明されていないが、脳神経系の玄妙な働きによって、私たちは自分にこころがあるのだと、錯覚しているだけなのかもしれないのだから。

 

 以上のように生物学者は言っていた。科学が益々進歩したら心など人間は考えなくなるようになるだろうか。

                     2022・4・4  記す 

『坊ちゃん』にある「擬態語」

最近たまたま図書館で井筒俊彦のことを書いた本を借りて帰り読んだ。彼は古今東西の思想・哲学を本当に知るには、それを書いたその国の言葉を理解しなければ駄目だと決心して、英・独・仏語はもとより、ギリシャ語、ラテン語、さらにヘブライ語からロシア語、この他サンスクリットや古代の中国語など三十カ国語以上をマスターしたという天才であることを知った。

 

わたしは以前『坊っちゃん』読んだとき、「擬態語」が頻繁に出てきたので、これを外国語に正しく翻訳することは出来ないのではないかと思ったことがある。今日も此の事を歩きながら思い出して、帰って『坊っちゃん』を見てみた。

最初の三十頁の中だけでも面白い表現が一杯あった。例えば次ぎのような『擬態語』は英語でどのように翻訳したらいいのだろうか。

 

「ぐいぐい押した」「ざあざあ音がする」「のそのそ出てきた」「うとうとしたら」「がらがら通った」「がやがやする」「にやにや笑っている」「むづむづする」「つるつる、ちゅうちゅう食う」「砂でざらざらしている「すたすた帰る」「くさくさした」

 

先日歩きながら「散歩」という言葉が頭に浮かんだ。辞書を引いてみたら、「そぞろあるき」「ぶらぶらあるき」「散策」と説明してあった。そこで「散策」を見たら漢和辞典では「杖をついてぶらぶら歩く」とあったが、『日本国語大辞典』(小学館)には、「気晴らしや健康などのために、ぶらぶら歩くこと。とくに目的がなくぶらぶら歩くこと。散歩」とあって、この説明が一番良いと思った。

 

ついでに漢和辞典で『散』を引いたら、他動詞として、「ちらす、はなつ」の意味だとあり、「散華」「散見」「散財」の意味は分かったが、「散適」が「そぞろ歩きして気を晴らす」。「散髪」の本来の意味が「髪の毛を振り乱す。転じて官位をすてて世をのがれ隠れること」とは知らなかった。

 

翻訳に関連することだが、これも最近気が付いたことをついでに書いてみよう。毎年歳末に萩のお寺へ墓参りに行った時、『浄土宗 月訓カレンダー』をもらう。これには毎月教訓めいた警句と、それに対する英文が載っている。十二月に次の言葉があった。

 

わがこととして

                                                          

われわれ日本人には分かるが、果たして外国人にはどうだろうかと思って、この下に小さい字で書いてある文章を読んでみた。

 

「他人の笑顔に喜び、涙に悲しむ。ささやかな寄り添いに、人は救われるものです。

We should stand beside others, making their joys and sorrows our own.

 

説明文としては申し分ないが、元の格言的な簡潔な言葉を思うと、やはり翻訳は難しいことだと、これを見ても分かる。

 

『方丈記』を読む

 久しぶりに『方丈記』を再読した。このような古典は年齢に応じて読後感が異なるというか、理解が深まるように思う。とくに身の回りの変化、つまり環境の変化に伴い心境も変わって来ているので、古典を読むことで、自分の事や世の中の事をより深く考えるようになる。そうなると古典の言わんとすることが、さらに身に染みて実感できるような気がする。この意味で古典は時を隔てて幾度も読むと良いとは識者の言である。家内が亡くなってあと2か月余りで3年になる。この間家内の弟をはじめとして、友人・知人が次々に亡くなった。人生無常を感ずる。『方丈記』を読むと、最初に人口に膾炙した書き出しのあの名文がある。少し長いが引用してみよう。

 

  ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。たましきの都のうちに棟(むね)を並べ、甍(いらか)を争へる高き賤(いや)しき人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年(こぞ)焼けて、今年作れり。或は大家ほろびて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中にわづかにひとりふたりなり。朝に死に夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人いづかたより来りて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主(あるじ)と栖(すみか)と無常を争ふさま、いはばあさがほの露に異ならず。或は 露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。

 

 私はこの文章を読んだとき、ペルシャの詩人ウマル・ハイヤーム(1048~1131)の4行詩『ルバイヤート』にある詩を思い出した。この詩人は鴨長明とほぼ同時代の人である。

 

 いづちよりまた何故(なにゆえ)と知らでこの世に生まれ来て 

   荒野を過ぐる風のごと行方も知らでゆくわれか

 

 長明はこの後安元3年(1177)の京都での大火、続いて治承4年(1180)の辻風の描写する。辻風とは今で言う旋風、竜巻の事で、「冬の木の葉の風に乱るるがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、全て目も見えず。おびただしく鳴りとよむほどに、もの言ふ聲も聞こえず。かの地獄の業の風なりとも、かばかりこそはとおぼゆる。」と続く。

 

 アメリカ南部諸州をしばしば襲うハリケーンをテレビなどで見て、我々はその恐ろしさを知っているが、直接こういった被害に遭った長明は、京都の惨状を実につぶさに描写している。この辻風が起きた治承4年には、平清盛の身勝手な福原遷都が行われている。独裁者による独断的な行動は、大多数の国民が多大の迷惑を被り、場合によれば命を絶たれることになる。ロシアのウクライナへの侵攻は、ウクライナの国民はもとより、ロシア国民にとっても迷惑至極のことと思われる。

 

 福原への遷都は天災ではなくて人災だが、この後「飢渇」の凄惨な情景が描かれている。「歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢え死ぬる者のたぐひ、數も知らず、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ちて、変わりゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり。」この様な中にあって、人間としての愛情の哀切さを描いた場面がある。

 

  いとあはれなる事も侍りき、さりがたき妻をとこ持ちたる者は、その思ひまさりて深き者、必ず、先立ちて死ぬ。(現代語訳:別れられない妻や夫をもった者は、愛情のより深い者のほうがきっと先に死ぬ)その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあいだに、稀稀得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子ある者は、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子のなほ乳を吸ひつつ臥せるなどありけり。

 

 昔から「地震・雷・火事・親父」と言っていたが、今は「親父」の権威は失墜したが、「地震」だけは依然として猛威を振るっている。政府は膨大な予算を計上して、地震の予知や防災に対策を講じても、一旦生じたらお手上げの体である。『方丈記』にはこの大地震の事が最後に書かれてある。

 

 結局天災に対しては「仕方がない」と言って、それの為すがままにしておかなければならないということである。しかし現在の人間社会は「仕方がない」とは言わずに「仕方がある」と言って自然に挑戦しているが、見方によれば自然破壊に通じ、より大きな災害をもたらすのではないかと思うことがある。電力不足を懸念して太陽光発電の為に山林を切り倒して、器具を設置したために斜面が崩壊して多数の人が亡くなるといった事があった。自然破壊が如何に大事故をもたらすか、よくよく考えるべきことである。自然破壊ではなく自然を尊重して、いざというとき安全な場所に避難するかを真剣に考えるより他には「仕方がない」ように思われる。次のような描写がある。

 

  おびただしく大地震ふること侍りき。そのさま世の常ならず、山は崩れて河を埋め、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬は足の立ち処を惑わす。都のほとりには、在々所々堂舎塔廟ひつとして全からず。

 

 たまたまこの文章を書いていた時テレビが、東日本大災害を教訓として、富士山の噴火と、南海トラフとによる大津波の発生は、明日起こっても不思議ではないと言っていた。もしこうした事が起きたら、東京・名古屋・大阪などの大都会は壊滅的な被害が生じ、数十万人の死者が出る。今のウクライナ情勢は1人の狂信的独裁者による人災だが、地震による噴火や津波は天災である。安閑としては居れないのだが、政治家をはじめとしてほとんどの国民は安穏な生活がいつまでも続くと思っているようだ。結局起こった時に何とかしよう、いや何とかなるだろうと思っているのだろう。昔からこうした天然の災害に遭遇し、いわば慣れてきた国民性かもしれない。しかし外敵の侵攻は「仕方がない」では済まされない。中国共産党チベットウイグルへの暴威、今起こったロシアのウクライナへの侵攻っといった事件は肝に銘じなければいけない。

 

 「四大種のなかに、水火風は常に害をなせど、大地にいたりては、異なる変をなさず」と誰しも安心しきっていたのに、と長明は一般国民の気持ちを代弁して言っている。ここから『方丈記』は一変して長明自身の生い立ちから今の状況、心境を述べている。私自身物心ついてからこの方、約80年を振り返って見ると、この先いかに生きるかということを教えられる。

 

 長明は30歳過ぎてから、それまで住んでいた父方の祖母の家を出ざるを得なくなり、自ら求めて一つの草庵を結んだ。これはそれまでの家の10分の1の小さな家であった。しかし雪が降ったり風が吹いたりするたびにひやひやものだった。おまけに河原近くだったので加茂川の氾濫という水の心配があり、さらに盗賊のおそれもある。そういう不安の中で無事を祈りつつ、30年ばかり過ごしてた。長明は『方丈記』に歴史的事件については何も書いていない。これはちょっと不思議に思える。彼が生まれたのが恐らく1153年で、亡くなったのは1216年である。当時としては長生きである。平均年齢80歳以上の現在から考えて、長明の63年の生涯は80歳以上と考えられる。この間の歴史的事件を見てみと、次のようなものがある。

 

 1156年7月 保元の乱

 1160年3月 源頼朝、伊豆へ配流

 1167年2月 平清盛太政大臣となり、5月に退位

 1173年12月 清盛兵庫島を築く(神戸への遷都)

 1180年8月 頼朝挙兵

 1192年7月 頼朝、征夷大将軍に任ぜられる

 1199年1月 頼朝没す

 1203年9月 将軍源実朝 執権北条時政

 1207年2月 源空法然上人)、親鸞の配流 

 1212年3月 『方丈記』成る

 1216年   此の年に長明没す

 

 この後の事として一つ付け加えておくと、1223年に道元は入宋し、天童山の如浄に会って悟りを開き、1227年に帰国。その後道元は曹洞禅の弘布につとめた。また政治の面では、北条、足利と、最後の徳川幕府まで、貴族の政治に代わって武家政治が続くのであるが、長明は激動の時代に生きていた。源平の葛藤を描いた『平家物語』とは全く趣を異にして、長明は前にも述べた如く世の有様を述べるに、災害だけにしているのは何とも不思議である。

 

 そういえば長明とほぼ同時代に生きた西行の生き方とどことなく似ている。しかし西行は23歳の時、北面武士としての地位を捨て、出家して諸国を行脚、「自然歌人といわれている中にも人間臭さの強い歌風で後世に影響を与えた」と言われている。しかし最後は「願はくば花のもとにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」の願い通り、建久元年2月16日に入滅したから立派である。長明もこのような最期を願ったのかも知れない。『方丈記』に有名なくだりがある。

 

  ここに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉の宿りを結べる事あり。いはば旅人の一夜の宿を作り、老いたる蚕の繭を営むがごとし。これをなかごろの栖にならぶれば、また、百分が一に及ばず。

 とかくいふほどに齢は歳々にたかく、栖は折折に狭し。その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわずかに方丈、高さは七尺が内なり。

 

 ここに「方丈」とう言葉が出てきた。『日本古典文学全集』(小学館)の注を見ると、「一丈平方。約九平方メートル。ただし一間半(約二・七メートル)四方の四畳半と考えてよかろう」とある。

 長明はこの今で言うプレハブの小さな庵を、京の都の東南の方角約70キロの日野の山中に結び、そこで起居して悠々自適の最期の数年を送った。

 

  その所のさまをいはば、南に懸樋あり、岩を立てて水をためたり、林の木近ければ爪木(注;薪にする小枝)をひろふに乏しからず。

  春は藤波を見る。紫雲のごとくして西方ににほふ。夏は郭公を聞く。語らふごとに死出の山路を契る。秋はひぐらしの声耳に満てり。うつせみの世をかなしむほど聞ゆ。冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま。罪障にたとへつべし。もし念仏もの憂く、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづらおこたる。さまたぐる人もなく、また恥ずべきひともなし。

 

 長明は 実に倹(つま)しい生活をしている。また目にするもの耳に聞くものを皆、冥土へ行く援けというか繋がりのように考えている。しかし決して無理はしない。念仏読経も気のむくままに行っている。時には僅か10歳の小童を連れて山野を歩くといった心慰む遊行をしている。彼はかなりの健脚で、「もしうららかなれば、峰によじ登りて、はるかにふるさとの空をのぞみ、木幡山、伏見の里(日野から6キロ)、鳥羽(日野から7キロ)羽束師(日野から8キロ)を見る。勝地は主なければ、心をなぐさむるにさはりなし(現代語訳:山々は風光がよく、個人の所有地でもないから、心ゆくまで展望が楽しめる)。

 彼はさらに「歩み煩いなく、心遠くいたるときは」と言って、琵琶湖の畔の石山寺にまで行っているのには驚く。彼は一人住まいであるので、日々の食事はどうしていたかと思ったが、出家の身であるから乞食をしていたのだと知った。次のように書いている。

 

  それ、三界はただ心ひとつなり。心もしやすからずは象馬七珍もよしなく、宮殿楼閣も望みなし。

 今、さびしき住ひ、一間の庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でて身の乞食となれる事を恥づといへども、帰りてここにをる時は他の俗塵に馳せる事をあはれむ。

 

 長明は彼一人の経験から、昔はこんな楽しみがあるとは思わなかった、と言っているが。私はふと思った。現在都会にはニートなる連中がいて。広場や公園などで、段ボール箱のような中で暮らしている様だが、案外彼らは気楽に思っているのかもしれない。さらに彼らの中に、こうした状態でも将来に備えて心に期するものを持っている者がいるかとも思う。

 『方丈記』の最期に長明はこう書いている。現代語訳を引用する。

 

  思えば私の一生も、月が山の端にはいろうとしているようなもので、もう余命いくばくもない。

 まもなく三途の闇に向かおうとしている。この期に及んで、ああでもない、こうでもないと、いまさら愚痴を言ってみたところで、何になろう。仏の教えに従えば、何につけても執着は禁物なのである。自分は、この草庵の閑寂に愛着を抱いているが、愛着してみたところで、ただ、それだけのことであう。これ以上不要の楽しみを述べて、貴重な時間を空費するのも、どうかと思われるから、もう言うまい。(『 日本古典文学全集』小学館

 

 彼は『方丈記』を建暦2年(1212)3月に書き終えた。この年1月に法然上人が80歳で亡くなっている。長明はその2年後に64歳で死んだ。ネットを見ていたら、今の人間は年齢に0.8を掛けてみたらいい。したがって今20歳も青年は16歳くらいであるし、反対に明治時代より前の人間は、その年齢を0.8で割ったらいい。そうなると長明が64歳で亡くなったので丁度80歳。ついでに言えば法然は100歳の天寿を全うした事になる。ついでに計算すると、親鸞は89歳で亡くなったから今でいえば111歳。90歳の私はまだ72歳ということになる。それにしても昔の人はしっかりしていた。

 

 私はこの拙文の最初にも書いたが、この度再読して一つの生き方というか、最後をいかに送るべきか、その手本となるべきものを教えられたような気がした。長明は手足を積極的に動かすようにと言っている。これは健康を十分考えたからであろう。山中での独居生活では先ず健康でなければ生きてはいけない。次に彼は自然を楽しむことと同時に、世の中の事にも案外目を配っている。ということは心身の健康、呆けないように心掛けていた。今から800年の昔だから、生活の便利さなどは雲泥の差である。第一照明もなければ冷暖房の設備もない、冷蔵庫もなければ車もない。こうした不自由不便な中でも実悠々自適、心爽やかに生きている。そして執着心をなくせと言っている。やはり大いに見習う点があるとつくづく思った。

 

                    2022・3・16 記す

 昭和七年(1932)十一月七日は実母の祥月命日である。母は明治四十年(1907)二月二十日に生まれている。私を産んで九ヶ月後に亡くなった。二十五歳の若さだった。母が亡くなる前に、「孝夫をよろしく頼みます」と、父の妹である私の叔母に云った、と叔母から聞いた。母の心中は察するに余りあるものがある。

 

私は生まれたとき虚弱で百日咳の手術をしている。母も実母が早く亡くなり養母に育てられたのである。私にとってその養母つまり義理の祖母が、私の母が亡くなると私を実家に連れて帰り、生まれたばかりの私を養育して私をまるまると元気にさせたので、父が「加来の祖母様の恩を忘れるな」とよく言っていた。「加来」とは母が嫁に来る前の姓である。

 

幼い頃の私には記憶のないその手術の痕が喉に残っている。又脱腸の手術もしていてこの傷跡もある。

 

明倫小学校へ入学したときは叔母が付き添ってくれていることは、その時のクラス写真で分かる。昭和十三年の事で、その後間もなく叔母は結婚して当時の朝鮮へ渡った。その後父は再婚して私にとって継母が来た。私は父の結婚式には出ていないが、母が来た事は覚えている。私は感受性の強い児ではなかった。ただそれまで一人子として育てられた事と、これは父に似て遺伝的なものがあると思うが、生来非常に恥ずかしがり屋で、電話に出ることさえ苦手だった。従って、新しい母に対して甘えるようなことはなく、「お母さん」と呼んだことはない。此の事を考えると新しい母はあまりいい気がしなかったと思う。

 

父はよく可愛がってくれたが、健康第一と考えて勉強せよとは一度も言わなかった。しかし畑仕事は中学校に入ったときから強制させられた。萩市の郊外にある一町歩ほどの橙畑の草取りが主な仕事だった。春夏の長期休暇中は毎朝暁に起き、自転車を漕いで約五キロの道を行き、着いたら小屋で着替えをし、昼まで鎌を両手に持っての除草は、今から考えると可なりの労働だった。正午まで働き、作業が終わったら真っ裸になって深い井戸の水を頭からかけた時の爽快さは今も忘れられない。またその時食べた橙の味も格別だった。私は父が喜ベばと思って仕事には精出した。こうして父との間には何ら隔たりを感じなかったが、母に対しては普通の親子の間にある情は結局生まれなかった。しかし母には感謝して居る。また母が在世中は実母の事を意識することはなかった。

 

私が結婚してから妻に、「実母のことは何とも思わない。全く知らないのだから」と言ったことを妻は良く覚えていて、不思議がって時々口にした。これは考えて見ると、継母が生きていた間は、無意識の中にも実母のことを忘れようとしていたのかも知れない。実母のことを意識することは、継母に対して悪いのではないかという気持ちが内々に手伝っていたのかとも思う。そういう意味では繊細な面がある。私はそれなりに継母にも孝養を尽くした。八十八歳に亡くなったが、最後の数年間認知症的な面も出たが妻もよく介護してくれた。

 

継母が亡くなって私は実母のことを時々思うようになった。実母についての思い出となるような事は全く記憶にない。ただ数枚の写真でその面影を想像するだけである。父は母が「女優の山田五十鈴に似ていた。」と言ったのを覚えている。それにしても今考えてみるに、嬰児を残して死ななければならなかった母の心情を察すると、言葉に云えないほどの悲痛なことだったと思うのである。父もその点悲しかったに違いない。母が亡くなったとき「観音様の絵」を画いて、表装して掛け軸に仕立てている。私は今その軸を、妻が亡くなって床の間に掛けている。

 

人の運命は判らない。私の父と祖父は二人とも彼らが成人した後までも、それぞれの母親は生きて居た。しかし私の曾祖父は私と同様に彼が一歳の時に母が亡くなり、さらに十歳の時父親も亡くなっている。非常に哀しい運命に幼くして直面している。曾祖父の写真を見た人が、「貴方と横顔がよく似ています。そっくりですね。」と言うのを聞くが、そうかなと思わぬ事はない。まあ何らかの遺伝子が伝わっているのだろう。曾祖父は幕末に命を賭して上海まで行き、イギリスの商人から鉄砲を購入するといった商才と胆力があったが、私はどう考えてもその様なものを受け継いでいない。

繰り返して言うが、母親の死は残された子供にとっては悲しい事だが、幼い児を残し

て死ななければならい母親にとってはそれよりもはるかに哀しい事だと思う。

 

親思ふ 心にまさる親心 今日のおとずれ 何と聞くらむ

 

これは江戸へ送られると決まったとき、松陰の有名な永訣の歌である。わたしは妻が亡くなった後、「死と生」について考え、こういったことを書いた本がとかく目にとまるようになり、つとめて読むようになった。例えば西田幾多郎鈴木大拙、あるいは井筒俊彦加賀乙彦若松英輔の本など。ところが彼らは殆ど皆母や妻といった最も大切な身内を亡くし、その後独りでの生活を余儀なくされている。そして彼らは皆死者の霊魂と言ったことを信じており、その事を書いている。

 

生者は現象界つまりこの世において可視的な存在であるが、死者は実存の世界に於いて不可視的である。しかしそれが真の存在である。つまり霊は永遠に存在すると言っている。

 

私は彼らの考えというか確信的な言葉を読んで確かにそうだと思うようになった。だから妻の死をそれほど淋しいとは思わない。知性とか感性で死者を考えるのではなく、霊的な見地で死者を見たとき、本当の死者の存在が確認できるのである。このように皆異口同音に言っている。しかし誰もがこういった心境に入るわけでもないとも言っている。

 

私は妻が急死したとき直ぐ緊急病院に駆けつけて、ベッドに横たわっている妻の美しい死に顔を見たとき、悲しいけれども涙は出なかった。数時間前まで元気だったからどう考えても信じられなかった。その内目覚めて蘇る様な気さえした。しかし葬儀も終わり、今日でもう十ヶ月の時が経つと、妻はもう絶対に生き返らない事が厳然たる事実だと分かり、日増しに寂しく悲しい気になる。しかし死者こそ本来の実存だと教えられると、気持ちは落ち着く。妻は結婚から五十七年間私と共にあった。よくしてくれた。

 

私はふと思った。私を生んでその年に亡くなった母が今生きておれば百十二歳になる。私は母の三倍以上の年月を生きてきた。この母が私の妻を選び私に結びつけて呉れたのではないかと。私は妻と結婚する前、教師の立場にあったが、妻に対して良い印象を少しも与えていない。それどころか意地悪な印象をさえ抱かせたような事が度々あった。それでも私のところに来てくれたのは、実母の愛とも言える「他力」によるものだと私はよく思うのである。私の実母の名前は寿子という。ところが妻の父の名前は寿である。此処にも私は不思議な因縁を感じる。親子の繋がりは当然だが、男女の結びつきも、考えてみたら自力よりは他力による方がはるかに大きいのではないか。私は亡き母と妻に心から感謝している。

去る二月二十六日に従兄と防府天満宮へお参りして、祈願のお神楽をあげて貰った。お宮の境内に曾祖父が建てた句碑がある。 

 

天満る 薫を此処に 梅の華    佳兆

 

二月二十五日は私の誕生日で、満年齢で八十八歳になった。二月二十五日は菅原道真が、太宰府で亡くなった日である。従って私はこの日を良く覚えている。

米寿を迎えるまで生き長らえ、しかも何とか元気でおれるのも、神仏、先祖並びに多く方々のお蔭であると思うと、私は心から感謝の誠を捧げるのである。

 

                   2020・2・28  記す

乃木大将と夢

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    令和4年2月18日(金)の朝、寒い中を起きて外へ出てみたら、屋根や地面に、また庭木にも真白な雪が降り積もっていた。玄関の傍にある梅の古木の枝に積もっている白い雪と、ちらほらと咲き始めた薄桃色の花が調和していて、なかなか風情のある景色だと思って、カメラを取ってきていろいろな角度から撮った。

 

 私は何時も起きて直ぐ洗顔をすまし神仏を拝んだ後、玄関の土間の片隅に置いてある木剣を持って戸を開けて外に出る。そしてまず我流の体操をし、そのあと木剣の素振りを33回行う。この回数は大体決めている。それから庭へ下りて敷地内の北側に据えてある石の地蔵様を拝む。今朝、拝み終えて立ち上がり北西の方角を見ると、標高742メートルの西鳳翩山の山頂はもとより、山腹も真っ白で寒々とした感じであった。今朝はこの後最初に書いたようなことをしたのである。

 

 最近は寒いためか夜9時ごろ床についたら、必ずと言っていいほど夜中の1時か2時ごろ目が覚める。トイレに行きまた床の入るがなかなか寝付かれない。その為に寝る前に枕許に数冊の本を置いていて、電気スタンドを点けて読むことにしている。小1時間ばかり読むと流石に眠気を催して再び寝込んでします。そして再び目が覚めるのは6時から7時の間である。

 

 今朝は夜中の3時に眼が覚め、少し読書して寝込んだと思ってまた目が覚めたのは5時半だった。再びトイレに行き、今度は大学時代の恩師から頂いていた数十枚のハガキを讀んだ。昭和33年に頂いていたものには、現代のハガキ同様に表面の左上に印刷がしてある。薄緑色でやや丸い楕円形で国会議事堂が描かれていて「5」とあるから、当時ハガキが5円だったことがわかる。現在64円だからハガキの値段が約13倍になっている。

 

 数日前に続いて今朝も不思議な夢を見た。全く思いもかけない人物が夢に出て、私はその人物と話をした。彼は私とは血は繋がってはいないが従兄である。10歳以上年長で、すでに20年以上前に亡くなっている。常日頃全く考えていない人物である。なぜ彼が夢に出てきたか分からない。

 

 夢を見るのは熟睡した時ではなくて、眠りが浅い時だとネットに説明してあった。先にも書いたように、今朝5時半にちょっと目を覚まし、それからまた寝入って7時過ぎに起きるまでの間に見たのである。私はこの年になって「レム睡眠」という言葉を初めて知った。「レム」とは英語のRapid Eye  Movement、即ち「敏速な眼球の動き」を表す英語の頭文字の「REM」をローマ字読みしたものである。夢を見るとき眼球が速く動いているようで、その時の眠りは浅いのである。だから私は起きる前に夢を見たのだと分かった。

 

 問題はその夢の内容だが、三日前に見たのは、驚くことに乃木大将と面と向かって話をした夢だった。話したと言っても、広い部屋で私ともう一人私の友人2人だけが乃木さんと向かいあって座っていた。乃木さんは浴衣がけで、白い口髭を蓄えていて、これもよく覚えているが、白い歯を見せながら目を細めて笑顔で応対されていた。そのうち立ち上がって何か飲み物を取ってくると言って栄養ドリンクを持ってこられた。次第に人が集まって来た。その日は乃木さんを囲んでの何か歓迎会がある予定で、乃木さんは今日は酒を飲まされるから、あらかじめ栄養ドリンクを飲んであまり酔わないようにしなければと言っておられた。私は何を話したかは覚えていないが、乃木さんが始終ニコニコと笑顔で居られたことだけは鮮明に覚えている。

 

 何故このような夢を見たのだろうかと起きて考えてみると、その日の明け方私は父が買っていた戦前の国語教科書『大日本読本』を読み、その中に乃木大将の事が書いてあったからだと思うのである。印象に残る文章だから一部写し取ってみよう。

 

  東郷元帥と乃木大将と雙方の性格がよくあらはれてゐる話がある。明治四十四年、イギリス皇帝ジョージ五世陛下の戴冠式に際し、両将軍がイギリスを訪問して帰国のをり、東郷元帥は北米合衆国を訪問し、乃木大将は獨・佛・墺・バルカンの諸国を巡遊することになったのだが、乃木大将はこのついでにロシアに入り、かって半年の久しきにわたって砲火の間に相見えた敵将ステッセルを慰めようと思った。乃木大将からその話を聞いた東郷元帥は、暫く考えてから、その訪問を思ひとまるやうに勧めた。「ロシアは戦敗国の屈辱を被り、就中旅順開城はステッセルにとって致命の傷手である。乃木大将の武士道的同情による慰問も、むしろステッセルにとっては新しい恥辱を感じさせはしないか」というのである。両将軍のステッセルに対する深い同情は同じであるが、いかにも乃木大将らしいところ、東郷元帥らしいところが窺われる話である。

 

 この文章は「巻三」に載っていた「偉人東郷元帥」という文章から抜粋したのである。その為であろう、乃木大将の事は副次的に添えて書かれていて、主として元帥を持ち上げたものであった。実は私は三日前に「乃木大将と馬」という文章をやはり同じ『大日本読本』の「巻三」で読んでいたのである。これからも印象に残った箇所を書き写してみよう。

 

 或日、鳥取県東伯郡以西(いさい)村、佐伯友文氏の家に乃木さん夫妻の姿が現れた。乃木さんは茶をすすりながら、佐伯氏に、馬のその後の様子を聞いた。佐伯氏は、馬は至って達者で、沢山の子もできたことを話した。乃木さんはそれを聞いて非常に喜んだ。 

 

  暫くして乃木さんは佐伯さんに案内されて厩へ行った。そこには白い馬が長い睫をしばたたきながら、四本の脚を行儀よく揃へて立ってゐた。

  それは乃木さんが旅順でステッセルから贈られた馬で、ステッセルの名に因み、「壽(す)号」と命名したものであった。壽命を全うするやうにといふ意味であった。

  乃木さんは壽号の鼻面を撫でながら、「お前も無事でいいのう」といひながら、懐かしさうに見入った。

 馬は乃木さんの顔を優しい目で見詰めた。旧主のことも思ひ出されたらう。

 乃木さん夫妻は草などを与へて、別れがたなに立ち去った。

 

  この壽号を乃木さんは佐伯氏の手で育ててもらう際に、「この馬はアラビア産の牡馬である。前脚に傷がある。ス氏が戦線巡視中、日本軍の砲弾の破片が岩に中り、その砕片を受けたものである。

 

 ス氏から贈られた時は跛行してゐたが、数箇月後に癒った。性質は極めて順良、爆弾の音にも驚かなかった。ス氏は常に戦場でこれを使っていた」という意味をしたためている。

  壽号は六十余頭からの子の親となった。その一頭が乃木号と命名され、乃木さんに飼われてゐた。乃木さんは自刃する朝、カステラを盆に山のやうに載せて厩へ行った。

 馬はちゃうど秣を食ってゐて、カステラに見向きもしなかった。乃木さんは盆を持って部屋へ帰って行ったが、暫くしてまた厩へ行った。

  馬は乃木さんの手に持つカステラを見ると、前掻をしてほしがった。乃木さんはカステラを馬へ与へながら、鼻面を撫でて別れを惜しんだ。

  それが「壽号」の子と乃木さんとの最後の別れであった。

 

『偉人東郷元帥』に、「東郷元帥は古来の英雄や豪傑についてしばしば感ぜられるところのあの芝居気といふもののない人である。(中略)常に科学者の冷静な考察によって裏づけられてゐた。対馬沖に於けるかの敵前転回の前には、精根を傾けた細心極まりない研究があったのだ。かくして東郷元帥は、一面膽斗の如き事務家であったともいへるだろう。」とある.

 

「膽斗の如し」とは肚が坐っていることだが、両将軍それぞれに人間味のある武人だったと思われる。以上のような訳で、特に乃木大将に関する文章を二つ読んだことが原因で、私は夢に乃木さんに会えたのだろう。それにしても夢とは不思議である。誰か特定の人に夢で逢いたいと思ってもできる相談ではない。又夢見たことは直ぐに忘れる。夜中にでも起きて書き留めておけばいいのだが、そうまでするような夢はない。漱石に『夢十夜』という作品がある。これは漱石の創作か実際に見た夢かは知らないが、面白い作品だと思う。これからも多くの夢を見るだろうが、これはと思った夢を見たら、その時すぐ書き留めて置いたら案外面白いかもしれない。

 

  最後にこれは有名な話だが、乃木大将は旅順の戦いに敗れたステッセル将軍が、日露戦争が終わり、その責任を取らされてロシア皇帝より銃殺刑の宣告を受けた。これを聞いた乃木さんは、直ぐにロシア皇帝に手紙を送り、ステッセル将軍が旅順で死力を尽くして祖国ロシアの為に戦ったことを切々と訴え、処刑の取り止めを願った。この手紙により皇帝は心を動かされ処刑を止めて、シベリアへの流刑に罪を減じた。乃木さんはステッセルの家族へ亡くなるまで支援を続けた。

 

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 私が下関市長府にある乃木神社へ行ったのは、小学2・3年生の頃だったと思う。実母は私を産んだ年に亡くなったが、継母が私が小学校に入った年に来た。この母の父親が長府の助役だった関係で、母が私を連れて実家へ帰った時、乃木神社へ連れて行ってくれたのである。私はその時紙を折って作った飛行機を、神社の境内で飛ばしたことを今でもはっきり覚えている。飛ばしては落ちてくる紙飛行機を拾っては、何回も空に向かって飛ばした。考えてみたら80年以上も昔の事である。

 

 その時から60年ばかり経って、私はまた乃木神社を訪れる機会があった。参拝を終えて私は神社の近くにある商店に入った。その店は「生姜入りの煎餅」で知られていると前もって聞いていた。また、そこの女主人が、私が教師になって最初に受け持ったクラスの生徒だと聞いていたので、行ってみる気になったのである。彼女が卒業して40年ばかりになるが、私は彼女の面影をよく覚えていたので懐かしかった。小柄で色白で優しい顔の姿は変わらないように思えた。

 

 私は先に述べた乃木大将の夢を見たことに関連して、乃木神社とその鳥居の前で煎餅を売っていたかっての教え子の事を思い出した。私は彼女がどうしているかと思い電話をかけてみた。その前に若しやと思ってインターネットで「長府の煎餅」を調べたら、店や菓子の写真などいろいろと宣伝の記事などが出てきた。そこで思い切って電話をかけてみたのである。運よく彼女が出てきたが、最初すぐには分らなかったようであった。そのうち私だと分り少し話すことができた。

 「主人が数年前に亡くなりましたし、息子も後を継がないで病院のレントゲン技師になりましたので、2年前に店を畳むことにしました」

 「それでもネットにはお宅の事が載っていましたよ」

 「そうです。あれも早く除けてもらわなければと思っています」

 私は後で思ったのだが伝統のある暖簾を受け継ぐということは容易ではなかろう。私が20年ばかり前にこの店を訪ねたときは周辺にいろいろな商店が並んでいて、門前、市をなすの様相を呈していたように記憶する。今回のコロナ感染による客足の急な減少で、立ちいかなくなったのだろう。本当に気の毒に思った。彼女は今80歳を超えたばかりである。元気で暮らしていきなさいと言って電話を切った。

 

  乃木大将のことに関連してもう少し書いてみよう。彼には2人の兄と妹がいたが、兄たちは夭折している。彼は体が虚弱で泣き虫だったから妹にもいじめられたとか。少年時代ある寒い朝、「寒いなら暖かくしてやる」と言って、父親は彼を井戸端に連れて行き、井戸水を頭からかけた。この井戸水が長府の乃木神社の境内にあったように記憶している。このことがあって以後彼は逞しくなったとか。またこれは彼の情愛の深さを物語る事柄だが、やはり少年時代彼がぐずついて起きないので、母親の壽子が蚊帳を取り外して彼を叩いたとき、蚊帳の金具が彼の左目に中り彼は失明した。しかし彼はそのことを決して他言しなかったそうである。言えば母の心を悲しませると思ったから。こういった人の気持ちを思いやり優しさにまつわる逸話は、乃木さんには他にも多くある。先に書いたステッセル慰問の事や、愛馬との最後の別れなど。

 

 私はこれまで「壽」という文字を2度書いた。ステッセルから贈られた馬に「壽号」と名付けたこと。乃木さんの母親の名前が「壽子」だということ。実は私の生母も壽子という名である。さらに言えば亡き妻の父の名が壽である。私はこうしたお陰でこれまで90年もの壽命を保つことが出来たのかもしれない。まあ独り善がりの思いだが。

 

 私は小学校の時、一番苦手の教科は音楽だった。その理由は楽譜が読めないといった高度のものではなくて、教室で教壇の上に立って皆の方に向かって独唱をしなければならないからであった。私は非常に引っ込み思案の性質だった。今でもそれはあまり変わらない。そういった性格は人生ではかなり損をする。父がそうだったようだから遺伝だろう。然し世の中に出て、これではいけないと自覚して治す人はいる。世界的に有名な哲学者のバートランド・ラッセルが、初めて人前で話をしなければならなくなった時、天変地異でも起きて中止になればと思った、とどこかで書いていた。生まれながらに物怖じしない人はその点恵まれている。

 

 小学校の時音楽が嫌いだったと言ったが、当時誰もが歌っていた紀元節の歌や軍歌などは今も多少覚えている。『水師営の歌』は今でも3番までは歌うことができる。私は今回初めてこの歌の歌詞を全部読んでみた。最初の1番と2番は多くの人の知るところであるが、4番、7番、8番は読んでいて思わず涙が込み上げてきた。それらを紹介してみよう。なおこの歌の歌詞は歌人の佐々木信綱、曲をこれも有名な岡野貞一が作っていることも知った。

 

               

                水師営の歌

 

   一              二               四

 

旅順開城約成りて        庭に一木棗の木        昨日の敵は今日の友

敵の将軍ステッセル       弾丸跡も著るく       語る言葉も打ち解けて

乃木大将と会見の        崩れ残れる民屋に      我は讃えつ彼の防備 

所はいずこ水師営        今ぞ相見る二将軍      彼は讃えつ我が武勇

 

 

           

 

 

 

                                        七               八

 

         両将昼食(ひるげ)ともにして       「厚意謝するに余りあり

         なおも尽きせぬ物語り       軍の掟に従いて 

         「我に愛する良馬あり       他日我が手に受領せば

          今日の記念に献ずべし」     長く労り養わん」

 

 私は平成16年3月、二百三高地の激戦が終わって丁度百年後にこの地を訪れた。緩やかな丘陵地で、四方が見渡せる景勝の地であった。しかしそこに掲示されていた文章を読んで感じが悪かった。このように当時から中国は反日政策を取っていたことが、今にしてよく分る。

 

  日本とロシアの侵略者国家が植民地主義の利欲に駆られて良知をなくし、更には、人間性をも全く喪失して、中国の地において甚だ大きな犯罪行為をしたことを、確固として暴露している。

 

 前にも一度言及したことがあるが、いつも座右に置いて愛読している本がある。『暮らしの365日 生活歳時記』という本で、日記風に、名言や歴史上その月日にあった事件、また亡くなった有名人の事など、多種多様の事が書かれていて非常に啓発される。たまたま2月17日のページには、この本の編者である國學院教授・樋口清之氏の文章が載っていた。これは彼の著作『梅干しと日本刀』からのものである。これまで書いたことと関連した内容で、この拙文の締めく括りとして適切だと思うので、これまた引用してみよう。

 

  日本人の人間関係の特異なものとして、さらに義理人情が挙げられる。打算というものを、仮に合理とした場合、利害を越えた義理人情というものは、不合理である。「義理」は元来、道義的な言葉だった。しかし、日本人はその義理の中に、いつも感情をこめており、単なる道徳ではない。 

 

 一度、恩を受けた。だから、どういう事情があろうと、返さなければならない。返す相手がたとえ不合理なことをやっていても、返さなければならない。これは明らかに道義だけでは割り切れない。とすると、やはり、不合理を含めた感情表現が日本人の義理なのだといえる。

  さて、「人情」というのは、これは一切打算を越えた感情の事で、合理主義とはまったく関係がない。そこで日本人は義理と人情を二つ重ね、人間同士が生きていくうえでの、社会生活を支える靭帯、絆として、封建時代から定着させてきたものである。

 

 私は思うのだが、こうした義理人情といったものが戦後非常に薄れてきて、何でも金、金で、また享楽に走るようになった。今中国の北京で冬季オリンピックが開催されているが、これも今や全く商業主義に汚染され、クーベルタンが提唱した民族の友愛は二の次になった感じである。

 

 選手たちは猛練習を積んで皆純粋な気持ちを持っているだろうが、テレビを見ていて何だかピンと来ないものを感じる。世界がグローバル化した今日、義理人情だけではやっていけないのは当然だが、なんだか暖かさのない寂寞たる感なきをえないのは、私のような老人の繰り言だろうか。

 

 朝の雪は昼過ぎには完全に消えていた。先日スーパーで買って植えていたエンドウ豆の緑の葉が、蔽われた雪に耐えて姿を現し、生き生きとしているのを見て、この小さなものの逞しさを感じた。

 

                  2022・2・19 記す

  

白色の美

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 戸外を歩いていてこれは白いと思うものはいくつかある。 白蓮はその名の如く真白い花である。我が家の畑にはシロヤマブキが咲いていているし、エンドウには白い花がついている。散歩道には白いチューリップが植木鉢の中に、また名も知らぬ小さな白い草花を道ばたで目にする。道路に白線が引かれていて白い車が走る。白いガードレールや白壁の家など白い物は数多く目に入る。空を見上げたら白い雲が浮かんでいる。しかし目が覚めるほどの白いものは中々見当たらない。これらはどれもハッと驚くほどのものとは言えない。私は驚きの目を見張るような白いものを昨日に続いて今日も目撃した。

 

 私は前日に歩いた吉敷川沿いの小径を、更に上流まで歩こうという気になってとぼとぼと歩を進めた。春の陽気に誘われた点もあるが、来年になったらできないかもしれない。今年は何とか可能のような気がする。こう思ったので大袈裟に聞こえるがあえて挑戦した。マイペースでゆっくり歩きながら、川土手に今を盛りに咲き誇っている桜の垂れ下がった枝、時に吹く風に散る桜吹雪、清らかな水の流れ、空は澄み渡って暖かい日差し、こうした良い条件に恵まれて、気分良く歩いていたら、何処からともなく翼を広げた一羽の白鷺が川面をスーと滑るようにして下りてきた。

 

 これはまさに天来の客のように思えた。目が覚めるほどに純白の一羽の鷺である。鷺は流れの直ぐそばの石の上に舞い降りた。周囲の景色は色とりどりでいずれも美しいと言えるが、このサギは目を疑うほどの純白である。一点の穢れもなければ汚れもない。それが大きな白い羽を上下に動かしながら悠然と飛ぶ様は現実のものと思われない幻想の世界のように目に映った。私はこの鷺の飛翔をカメラに撮ろうと思い、スマホを取り出して静かに近寄った。私が歩いている小径と鷺の舞い降りた川床までの距離は約20メートルほどである。私はなるべく鷺に見つからないようにと腰をかがめて桜の枝に身を隠すように距離を少しずつ狭めた。そして鷺が飛び立つのと同時に、タイミングよくシャッターを切ろうとした矢先に、鷺は私の存在に気が付いてさっと羽を広げて10メートルばかり前の方へ移動した。

 

 私は自分の姿を隠したつもりだったが鷺はいち早く私を認めて逃げたのである。今度はうまく近寄ってやろうと思い、慎重に近づいて行ったがまた逃げた。こうした試みを5回ばかり繰り返したが結局飛翔の姿を撮ることは出来なかった。静止しているところでさえなかなかうまく行かない。ましてや両翼を広げて飛び立った時の美しい姿は私の手には負えなかった。それにしても鷺の周囲のものへの用心というか知覚の鋭敏なのには驚いた。各種の生き物はそれぞれ素晴らしい感覚や行動力を持っている。その点人間の所有する感覚や運動能力は大したものではないのではなかろうか。

 

 天来の客かとまごう白鷺の脚下近く花びら流る

 

 多彩なる春の景色の中にいて一際白き鷺の舞立つ

 

 大いなる翼広げて悠然と我が目の前を白鷺の舞う

 

 実は今朝、本を読んでいた時、何か動く気配がした。何かいるなと思って目を近づけたら、それこそ1ミリメートルにも足らないような実に小さい蜘蛛がいるではないか。昔ならちょっと指先で抑えて殺すところだが、これも命あるものだと思い、外に出してやろうと思って小さな紙きれを傍に置いたら、蜘蛛は一寸躊躇して紙の上に乗ってこない。そのうち紙の上に這い上がったかと思うと、目に見えない小さな足を動かして紙の上を走ったかと思うと、また机の上に移動した。もう一度試みたら上手く紙の上で動きを止めたので、私はその蜘蛛を外に逃がしてやろうとして立ち上がったら、蜘蛛は紙の裏側に回ってスーと糸を垂らして宙ぶらりんになってゆらゆらと揺れている。そのうちまた糸を伸ばして垂れ下がって見る間に姿を消してしまった。

 

 この目に入れても痛くないほどの蜘蛛は薄い灰色であった。そしてその糸たるや殆ど目に見えないほどの小さなものである。この極細の糸をあの小さな体から紡ぎ出すのは、考えたら神秘に近い現象である。走ったり跳んだり泳いだり、更には飛行体を利用して人間は空中を自由に飛べるようになったが、蜘蛛のように自由に糸を繰り出して空中に身を支えるといった技はまだ出来ないのではないように思う。さらに言えば蜘蛛は繰り出した糸と共に風に吹かれて空中を移動するとか。この目にも止まらないほどの小さな生き物も、生物学者に言わせたら、皆最初は細胞から成り立っているというが、実に不思議である。ネットを見たら、世界には3万5千種もの蜘蛛がいて、日本には1千4百種もいると書いてあったのには驚いた。

 

 島根県の津和野町の神社で毎年「白鷺の舞」という行事が行われている。私は一度見学した事があるが、竹に白い紙を貼って翼状のもの作り、それを西洋の絵に出てくる天使のように背中に負い、頭上には鷺に似た首を被り、ゆっくりと翼を動かしての舞い踊りである。これも考えたら、あの真白い鷺の飛翔が美しいので、それこそ神の使者のように考えてこうした行事が始まったのではないかと思う。これはわが国で唯一継続している鷺舞踊りで400年の伝統のある文化遺産だそうである。そういえば白い鷺草が思い出される。

 

 スズメやカラスは問題外として、鷲や鷹や鳶といった鳥たちも悠然と空高く舞う姿は確かに見事である。しかし純白でゆったりと翼を動かして飛翔する鷺とはやはり趣が異なる。昨日見た鷺は大自然の中からそれこそ抜け出たような、他の色とは全く対比した白色で、本当に忘れがたい情景だった。

 

 私は思い切って更に上流へと歩を進め、古い社である赤田神社まで行った。この神社は四の宮とも言われている。非常に古い神社である。直ぐそばの吉敷川の細い流れは見た目にも清々しい。真昼時分であるためか、境内には人気は全くなかった。私は参拝の後、本堂の天井に龍の絵が描かれてあると知って、靴を脱いで上がって天井を見上げた。一面白く塗られた天井に、墨黒々と龍の絵が見事に描かれてあった。黒白の色が鮮明に浮き出て実に素晴らしい天井画であった。

 

 赤田社の格天井の龍の絵に見入りて我はしばし佇む

 

 四の宮の龍を描きし格天井生けるがごとく我を睨めり

 

 参拝を終えて帰りかけたら、一匹の蛇が社殿から10メートルばかり前の石段をするすると上るのを目にした。1メートルは優にある長さだった。丁度そこへ1人にご婦人が来られた。

 「あそこに大きな蛇がいますよ」と言ったら、彼女は目にして、「まあ大きな蛇ですね、そろそろ出て来る時期になりました」と言って、別に恐れる様子もなく、蛇を横目に見ながら石段を登って行かれた。

       

                    

 

 

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 久しぶりに昨日同様、春の陽気に誘われて維新公園まで自転車でドライブした。3日連続の遠出となる。出かけたのは10時半だった。平日であるが桜の木の下で多くの人が弁当持参で花見をしていた。いつになく若い男女の多くが皆きちんとした正装で集まっているので何事かあるのかと思っていたら、大きな立て看板に「山口大学入学式 1時半開始」と書いてあるのが目に留まった。今から70年もの昔、同じ大学に学んだ自分としては今昔の感に打たれるものがあった。これら多くの学生は青春の意気を胸に秘めていることだろうと思った。こうした中にひときわ目立つような1人の女性がいた。

 彼女はすらりと背が高く美しい容姿で、やや薄いレンガ色のスーツを着ていて、それには黒い縦横の線が入っていた。そして上着の襟元を少し開けていて、そこに純白のリボンというか襟飾りをつけていた。私にはその白い色が非常に美しく輝くように見えた。これも特別に目についた白色である。

 

 私はまた自転車に乗ってやや離れたところにある公園内の弓道場へ行ってみた。今から20数年前、萩から山口に来た私は、定年退職後をいかに過ごすべきかと考え、たまたま知った弓道教室に志願して弓道の稽古をした。そのことを懐かしく思って人気のないような道場に入った。私はかってこの場で稽古した時に感じたような厳粛な気持ちになった。正式に矢を射る道場には入らないで、その出入り口に坐った。そこからはるか向こうの的山(あずち)に、横一列に並んだ的を目にして、実にすがすがしい感を受けた。私の坐っている所から約40メートルの距離である。的の直径は38センチメートルで、黒白の同心円が遠くからでも鮮明に見えた。

 そのうちかっての同好の士であった夫妻が稽古に来られた。

 「今日は的貼りです。また稽古を始めませんか」と言って話しかけて呉れたが、

 「いやもう無理ですよ」と言って別れた。彼は元警察官で72歳になると言っていた。

 

 帰宅したのは1時間後であった。家の中に入って少ししてまた外に出た。昼前の空は雲一つなく澄み渡っている。そう思っていたら東の上空から真白い一筋の飛行機雲が伸びて来て、南の方へと定規で線を引いたように真っ直ぐに広大な青空を截然と区切りながら進行しているのが見えた。急いでスマホを持ってきてシャッターを切った。これは白鳥の鮮やかさに匹敵する人工の見事な白色である。私はこれまでにこれほど見事な飛行機雲を見たことがない。昨日の白鳥と今見た飛行機雲。いずれも容易には目に出来ないようなものを続けて目にして何だか嬉しい気になった。

 

 紺碧の空を断ち切る如くにて飛行機雲の白く伸びゆく

 

 飛び行くにつれて伸びゆく一筋の真白き線の青空に映ゆ                          

                           

                    2022・4・5 記す

梅雨明けの朝の一時

テレビは東北地方の梅雨明けを報じていた。西日本はそれより二日くらい早かった。一昨日第二回目のワクチン接種を受けたが、熱も出ず痛みも感じなかった。ただ昨日は前夜早く寝たためか二時過ぎに目が醒めたので、頭がどうもすっきりしなかった。今朝は日頃と変わらなかった。目覚めて時計を見ると四時十分だったので直ぐ起きた。

 

昨日、全く思いも掛けないことがあった。重い紙箱の荷物が届いた。開けて見たら見事なメロンが二個入って居た。送り主は萩の郊外で萩焼を作っている人物である。このようなものを貰う訳がどう考えても見当たらない。

 

一昨年の秋だったか、彼が母親と二人一緒に、妻が亡くなったので悔やみに来た。その際彼の父が亡くなる前に作ったと言って、紅色を帯びた抹茶茶碗を呉れた。

「父が長年工夫を重ねてやっと出来た茶碗です。生前に差し上げるところ突然亡くなりましたので、この度もって参りました。使ってみて下さい。」こういって立派な桐箱に入った茶碗を差し出した。そのような事があったので、私は後に萩へ行ったついでに、彼の家へ行き礼を言い、伯母が作った茶杓と楊枝を差し上げた。

 

昨日早速電話したら母親が茶杓のことを話された。私としては自分が削った茶杓でもないのに、このようなものを貰い済まないと思ったので、礼状に添えて粗菓と私が書いた文庫本の『硫黄島の奇跡』をお返しとして送っておいた。

 

彼は今萩焼の陶工として家業を継いでいる。広島大学、それも大学院まで卒業しているが、一念発起して萩焼作家になったようである。私は彼の父親とは話したことがある。こんな話しをして居た。

「私の親父は大きな太い手をしていまして、萩焼を一日で三百個も作ったことがあります。私なんか其の半分どころか十分の一作ったら良い方です。」

 

この親爺さんという方は、小学校を出ただけで、小さいときから手先が器用で、小学を卒業すると直ぐに萩焼の弟子入りをし、その道一筋で、後に「県の人間国宝」になった人である。もう少し長く生きたら「国の人間国宝」になったと私は思う。

 

数代前の萩市長だった菊屋さんと小学校が同期で、「彼は勉強は出来なかったが手先が器用で、いつも粘土をこねくり回して遊んでいた」といった事も聞いている。

 

私の父は定年退職し小堀遠州流のお茶を教えていた。「来る人は拒まず」の考えに基づいて、誰とでも接し歓迎していたので、色々な人がお茶を習いに来ていた。この陶芸家親子もそうした関係で日曜日毎に来ていたのを私は知っている。

 

このような関係で、父の亡くなった後も付き合いが細々と続いている。実は私は毎日朝早く起きて暫く本を読み、一休みするとき抹茶を点てて飲む。その時はいつも決まって、あの人間国宝の試作品として父が貰った茶碗を使用する。我が家に数多くある茶碗の中で私はこれが一番気に入っている。可なり大きいものであるが、それほど重く感じない。何とも言えない薄い飴色で「貫入(かんにゅう)」が無数に入って実に貫禄のある茶碗である。これを両手の掌に乗せてゆっくり飲むと実に気分が良い。一服点てて気持ちが落ち着き爽やかな気分になる。その時使う茶は「又(ゆう)玄(げん)」という抹茶である。それほど高価ではない。私はなくなったら電話で頼んで手に入れる。「又玄」という言葉が気に入っている。「玄之(げんの)又(また)玄(げん)」とうのだろう。「玄」には「奥深い、静か、非常にすぐれている。更に、老子の説いた道の性質。時間・空間を超越して存在し、天地万物の根源である絶対的な道の性質を玄という。このように『広辞苑』に載っていた。「又玄」とはそういう「玄」の更なる「玄」と言うことだろう。

 

話しを元に戻してメロンのことだが、箱の表面に印刷されていた紹介文というか宣伝の文句が気に入ったのでここに書き写してみよう。

 

 「メロン大使」

清らかな水、澄んだ空気が自慢の萩の山ふところに位置する緑の村。昼夜の温度差が激しく、甘いメロンが成育するのにもってこいの好環境です。しかし一本の苗から収穫するのは一個のみです。農家でひとつひとつ愛情を込めて育てあげました。こうして人と大地の愛をいっぱい呼吸して育った緑の使者があなたのもとに緑の香りをお届けいたします。ぜひご賞味ください。

箱を開けると、生産者の顔写真があって、似たような文章があった。やや具体的な文面を書き写してみる。

 

 山口県萩市福栄・むつみ地域は、萩市街から東へ15㎞程度中国山地に入った中山間地に位置し、標高200~300m。清流と緑に囲まれた昼夜の温度差が激しい気象と良質の土壌に恵まれ、甘いメロンが成育するにもってこいの所です。この好環境の中に育って呉れたメロンがメロン大使です。

太陽と大地の恵みと愛情が育てたメロン大使

 

これだけ読むと食べない先から食指が動く。食べ頃は今月十九日と書いてあった。私は早速仏前に供えた。大地にしっかりと生き、自然の恵みを受けて生活出来る人は本当の幸せを感じているのではないかと思う。都会の工場で流れ作業で自動車などの生産に日々を送る人に比べたらの話しだが。日本は戦後農業に携わる人口が激減した。若者は皆都会生活に憧れて故郷を後にした。先日も息子の車で萩へ行ったついでに、かっての阿武郡宇田郷村へ行ってみたが、全く人気がなかった。寂しいという言葉以上に死んだような有り様だった。此の點を考えると、「メロン大使」を生産している人は恵まれている。益々の発展を願わずには居れない。

 

四時過ぎに起きて暫く唐木順三の全集を読んだ。「日本人の心の歴史」という文章である。教えられる事が多々あって良い本だと思う。

一遍上人の歌が出ていた。

 

身をすつるすつる心をすてつればおもひなき世にすみ染めの袖

咲けばさき散るはおのれと散る花のことわりにこそ身はなりにけり

 

一遍は「一心の本源は自然に無念なり」といふ。称名も無念、念仏もまた自然、その無念自然の三昧が、「称名が称名する」「念仏が念仏してゐる」といふ姿であろう。

 

一遍は其の自然無念の境にゐて、ある日突然に、歓喜の余り踊り始めた。所は信州の佐久、多分うららかな日であったろう。このとき一遍は四十一歳であった。世人から踊り念仏といはれたこの踊躍歓喜を一遍は次のようにうたふ。

 

はねばはね踊らばをどれ春駒ののりの道をばしる人ぞしる

ともはねよかくてもをどれ心ごま弥陀の御法(みのり)と聞くぞうれしき

 

当に「捨(すて)聖(ひじり)」である。私としては、せめてもっと身辺整理をしなければと思った。読んでいたら五時半になったので、早朝の散歩に出かけた。その前に洗濯機に洗濯物を入れた。

 

梅雨も明け、早朝の空気は肌にやんわりと冷たさを感じられて気持ちが良い。マスクをつける必要はない。自動車が数台走っていたが人通りはない。

 

いつものコースを歩いた。自動車道路を斜めに横切ったら小道に入る。その小道の傍を山からの清らかな水がさらさらと静かに音を立てて流れていた。「潺々(せんせん)たる水の流れ」という言葉に相応しい状景だと思った。

 

まだ誰一人と言っていいほど人影を見ない。田圃の稲はすくすくと青く育っている。東の空は薄い桃色に染まっている。陽は既に昇っているが薄雲に遮られて見えない。この季節は「満目青一色」と云って良いほどだ。四囲は濃淡の青色に包まれている。道から十メートルばかりの小高い所まで上ったら、ヤマユリの花が沢山咲いていた。オレンジ色に黒い斑(ぶち)が点々とついている。この色を除けば全て山も木も草も青色である。今朝は思いきって最長の距離を歩いたので丁度一時間かかった。

 

帰って直ぐ畑に出てみた。たった一本のニガウリと二本のキュウリが良くできて青々とした大きな葉を拡げている。葉の中をよく見たら大きなニガウリが三本なっていた。独り者の自分にはとても食べきれないので、新鮮なうちにと思い隣家へ持っていって差し上げた。家に入り汗ばんだ身体にシャワーを浴びて一息ついた。

 

                    2021・7・15  記す