緒方惟芳が歩んだ道
- 緒方惟芳の生い立ち
家庭環境や家族のことなど
文久3年(1864)5月の下関攘夷戦争から、慶応3年(1867)12月の王政復古までの前後5カ年にわたる幕末激動期の歴史は、長州・毛利藩にとっても、また城下町、萩にとっても、文字通り苦難の連続であった。天保13年に生まれた惟芳の父尚一は、士族・緒方家の一員として若くして幕府との戦に従軍、大村益次郎の麾下で活躍。戦後は浪人となって貧乏を強いられる。維新後多くの若者が郷里を去って、軍務や官途に就いたが彼は郷里に止まる。明治9年の「萩の乱」にも加わらない。年齢的に無理だと思ったのだろうか。それとも父母に孝行を考えたのかもしれない。屋敷内に橙を植えて貧しいながらも悠々自適の日を送っていた。
しかし長男の惟芳(明治16年3月19日生)には学問だけはさせたかったのだろう。当時県内には県立中学校はわずかに5校しかない。(明治32年)
萩町(昭和7年に市となる)は、明治2年、山口に政庁が移り,それに伴い多くの人材が萩を離れたので昔と違い寂れていた。
萩は今も同じく山在り、海在り、川在りで、風光明媚な自然に恵まれている。惟芳の生まれた家は日本海の浜辺の直ぐそば、萩城趾のちかくで、昔の武家屋敷が並んでいた場所。
明治30年に萩中学校に入学、明治32年に県立萩中学校と改称。
そのとき校長に迎えられたのは、水戸藩の士族出身で、東京大学・大学院卒の雨谷羔太郞で弱冠28歳。
明治34年5月28日、惟芳は5年生になったとき、家庭の経済が逼迫しているのを知り、自主的に中途退学する。明治34年6月10日、三菱長崎造船所に入所。(18歳)
明治36年10月12日、父の尚一は隠居し、惟芳は緒方家の戸主となる。
少年時代の逸話
彼は寡黙な性格で,自分のことを喋々する事はなかった。妻の幸も,従兄達も
逸話など全く聞いていない。自己に厳しかったので、息子達への躾は、口で諭すより鉄拳制裁だった。従兄(正道)の兄(芳一・軍医で硫黄島で玉砕)への躾は一段と厳しかった、と正道は芳一から聞いている。その一例、幼い芳一を海へ放り投げた事からも分かる。しかし子供達が15歳(昔の元服)になってからはがらりと態度が変わり、自主的に自己を律するようにさせた。
若き日の惟芳の志
貧乏士族で、年下の弟がまだ小学生だったし、家庭の逼迫した経済状態を知るに及んで、5年生になってまもなく卒業を前にして退学を決心した。弟の学資も考えたのだろう。長崎造船所を選んだのは、造船界は将来性があり,また初代の造船所所長の渡辺蒿蔵氏が萩出身だったからか。渡辺氏は吉田松陰の最後の弟子。
萩から多くの人材が出てすでに中央の政財界で活躍していたので、自分も何とか出世の道を選ぼうと考えたのかもしれない。
明治36年彼は20歳の時、徴兵検査の結果、甲種合格、軍隊に入る。最初は騎兵だったが、脚気になる。
明治37年2月10日 日露戦争宣戦布告
明治37年5月看護学修業 8月看護手を申しつけられる。
その翌日第五師団野戦病院付として広島の宇品港出港 戦場へ
明治38年6月26日 父尚一逝去(61歳)の報を戦場にて知る。
明治38年9月1日 日露戦争休戦協議書調印
2.「医は仁術なり」の精神
医師を志したきっかけ
戦場での彼我の多くの死傷者の生々しい現場に直面し、人殺しの悲惨さを身をもって体験した。しかし幸運にも無事に帰還できた事は,ひとえに神仏のお陰だと思ったのではなかろうか。そのために造船所に帰って働くことは、軍艦など武器の製作に従事することになり、また殺人につながると思い、自らの体験で医師として人助けの道を志したと思われる。
医師として直面した逆境や試練
広島陸軍病院(当時は衛戍病院)で働きながらの勉強は生やさしいものではなかった。当時の同僚の話では、衛生下士官が60人勤務していて、彼らだけに特例として医師資格試験の受験資格が与えられていた。明治44年に惟芳が最初にその資格試験に合格、大正4年にもう一人合格、この他には合格者なし。
明治44年宇田郷村の医師になることを受諾後、広島の難波病院で内科、外科、中西病院で産婦人科の研修(28歳)
大正元年12月 山口県阿武郡宇田郷村で開業 (29歳)
影響を受けた人物
少学時代では吉田松陰(士規七則)をはじめとして、郷里の先輩達。
明治天皇(教育勅語を後年子供達に暗唱させる)。乃木大将父子の生き方も考えられる。
萩中学校の校長の雨谷氏の教え。彼の「生徒心得」(『杏林の坂道』)22頁
広島衛戍病院での恩師小川勇氏(昭和15年に宇治山田赤十字病院院長であり、惟芳は伊勢神宮参拝の際に会う)
彼を招聘した宇田郷村長の中山脩三氏と同じく村長で子息の中山発郎氏などが考えられる。発郎氏とは肝胆相照らす間柄であった。
3.緒方惟芳が遺した言葉
名言やそれにまつわるエピソードなど
別になし。自己に厳しく、また子供への躾の厳しさ(『杏林の坂道』130頁以降)看護婦達への教育も非常に厳しかったことは、当時の看護婦達の証言がある。(『杏林の坂道』147頁以降)
例えば、近所の子や兄弟喧嘩をしても殴られ,仲裁しなくても殴られ、玄関の履き物が乱れていたら殴られた。また濡れたタオルをはたいて「バサッ」と音を立てたら殴られた。この音は人の首を切ったときの音だと知らされた。いささか乱暴だが、躾の根底に「侍の子」という概念があっての事だと母に教えられたと正道は述懐している。しかし昔の元服の年齢(15歳)を過ぎた後は全くそういった鉄拳による躾はなかった。
しかし村人やそのほかの人には優しかった。私の父も義兄ほど真に心優しい人を知らないとよく言っていた。また村葬の後、多数の村人が野辺送りをいつまでもしていたのは印象的だったとも言っていた。
常に神仏を敬い、『教育勅語』の精神を遵守して子供達の教育に当たっていた。
「親しき者の死に直面して人ははじめて本当の医者になる」と言っていた。
(先妻の死に続いて次男の死、さらに長男の戦死などを体験)
現代の私たちが受け継ぐべきもの
1 鉄は熱いうちに打て(家庭教育)
2 早く自立の精神を養う 若いときに苦労する(修身)
- 先ず家庭を斉え、そして社会への奉仕(彼の場合、医師として、「医は仁術なり」の精神で患者に接した)。(斉家・治国平天下)
- 武士道の精神を堅持。矜持(自負の精神)を保ち、自彊(自ら努めて励む精神)を実行する。
5.神仏を尊び、運命を従容として受け入れる(自己の死と長男の玉砕に際して)
明治維新を経て我が国は西洋の文物を取り入れ、一気に文明社会へ名乗りを上げました。しかし現代人は概して自己中心的で、責任感に乏しく、金儲けに奔走する傾向が強く見られ、享楽を優先しているようです。また日本古来の神仏を尊崇し、先祖を崇め、また互助の精神を保ち、さらに自然を大切にするといった考えが薄れました。つまり人間としての品格の欠如。これは憂うべき事だと思います。
緒方惟芳は、若くして日露戦争に看護兵として従軍、帰還後は名もなき一介の村医としての生涯を送りましたが、一人の人間の生き方としては実に立派でした。
彼は武家の家に生まれ、自己に厳しく他者には優しく、また昔流の「夫唱婦随」で「亭主関白」の一面はありましたが,頼もしい医者としてまた人格者として村人の尊敬を受けていました。こうしたよき点は学ぶべきでしょう。
なお、惟芳の『日露戦争従軍日記』は非常に貴重なもののようで、近日中に下関市にあります東亜大学の『紀要』に詳しく紹介される予定です。
平成26年6月吉日 山本孝夫 記