緒方惟芳が歩んだ道
緒方惟芳が歩んだ道
- 緒方惟芳の生い立ち
家庭環境や家族のことなど
文久3年(1864)5月の下関攘夷戦争から、慶応3年(1867)12月の王政復古までの前後5カ年にわたる幕末激動期の歴史は、長州・毛利藩にとっても、また城下町、萩にとっても、文字通り苦難の連続であった。天保13年に生まれた惟芳の父尚一は、士族・緒方家の一員として若くして幕府との戦に従軍、大村益次郎の麾下で活躍。戦後は浪人となって貧乏を強いられる。維新後多くの若者が郷里を去って、軍務や官途に就いたが彼は郷里に止まる。明治9年の「萩の乱」にも加わらない。年齢的に無理だと思ったのだろうか。それとも父母に孝行を考えたのかもしれない。屋敷内に橙を植えて貧しいながらも悠々自適の日を送っていた。
しかし長男の惟芳(明治16年3月19日生)には学問だけはさせたかったのだろう。当時県内には県立中学校はわずかに5校しかない。(明治32年)
萩町(昭和7年に市となる)は、明治2年、山口に政庁が移り,それに伴い多くの人材が萩を離れたので昔と違い寂れていた。
萩は今も同じく山在り、海在り、川在りで、風光明媚な自然に恵まれている。惟芳の生まれた家は日本海の浜辺の直ぐそば、萩城趾のちかくで、昔の武家屋敷が並んでいた場所。
明治30年に萩中学校に入学、明治32年に県立萩中学校と改称。
そのとき校長に迎えられたのは、水戸藩の士族出身で、東京大学・大学院卒の雨谷羔太郞で弱冠28歳。
明治34年5月28日、惟芳は5年生になったとき、家庭の経済が逼迫しているのを知り、自主的に中途退学する。明治34年6月10日、三菱長崎造船所に入所。(18歳)
明治36年10月12日、父の尚一は隠居し、惟芳は緒方家の戸主となる。
少年時代の逸話
彼は寡黙な性格で,自分のことを喋々する事はなかった。妻の幸も,従兄達も
逸話など全く聞いていない。自己に厳しかったので、息子達への躾は、口で諭すより鉄拳制裁だった。従兄(正道)の兄(芳一・軍医で硫黄島で玉砕)への躾は一段と厳しかった、と正道は芳一から聞いている。その一例、幼い芳一を海へ放り投げた事からも分かる。しかし子供達が15歳(昔の元服)になってからはがらりと態度が変わり、自主的に自己を律するようにさせた。
若き日の惟芳の志
貧乏士族で、年下の弟がまだ小学生だったし、家庭の逼迫した経済状態を知るに及んで、5年生になってまもなく卒業を前にして退学を決心した。弟の学資も考えたのだろう。長崎造船所を選んだのは、造船界は将来性があり,また初代の造船所所長の渡辺蒿蔵氏が萩出身だったからか。渡辺氏は吉田松陰の最後の弟子。
萩から多くの人材が出てすでに中央の政財界で活躍していたので、自分も何とか出世の道を選ぼうと考えたのかもしれない。
明治36年彼は20歳の時、徴兵検査の結果、甲種合格、軍隊に入る。最初は騎兵だったが、脚気になる。
明治37年2月10日 日露戦争宣戦布告
明治37年5月看護学修業 8月看護手を申しつけられる。
その翌日第五師団野戦病院付として広島の宇品港出港 戦場へ
明治38年6月26日 父尚一逝去(61歳)の報を戦場にて知る。
明治38年9月1日 日露戦争休戦協議書調印
2.「医は仁術なり」の精神
医師を志したきっかけ
戦場での彼我の多くの死傷者の生々しい現場に直面し、人殺しの悲惨さを身をもって体験した。しかし幸運にも無事に帰還できた事は,ひとえに神仏のお陰だと思ったのではなかろうか。そのために造船所に帰って働くことは、軍艦など武器の製作に従事することになり、また殺人につながると思い、自らの体験で医師として人助けの道を志したと思われる。
医師として直面した逆境や試練
広島陸軍病院(当時は衛戍病院)で働きながらの勉強は生やさしいものではなかった。当時の同僚の話では、衛生下士官が60人勤務していて、彼らだけに特例として医師資格試験の受験資格が与えられていた。明治44年に惟芳が最初にその資格試験に合格、大正4年にもう一人合格、この他には合格者なし。
明治44年宇田郷村の医師になることを受諾後、広島の難波病院で内科、外科、中西病院で産婦人科の研修(28歳)
大正元年12月 山口県阿武郡宇田郷村で開業 (29歳)
影響を受けた人物
少学時代では吉田松陰(士規七則)をはじめとして、郷里の先輩達。
明治天皇(教育勅語を後年子供達に暗唱させる)。乃木大将父子の生き方も考えられる。
萩中学校の校長の雨谷氏の教え。彼の「生徒心得」(『杏林の坂道』)22頁
広島衛戍病院での恩師小川勇氏(昭和15年に宇治山田赤十字病院院長であり、惟芳は伊勢神宮参拝の際に会う)
彼を招聘した宇田郷村長の中山脩三氏と同じく村長で子息の中山発郎氏などが考えられる。発郎氏とは肝胆相照らす間柄であった。
3.緒方惟芳が遺した言葉
名言やそれにまつわるエピソードなど
別になし。自己に厳しく、また子供への躾の厳しさ(『杏林の坂道』130頁以降)看護婦達への教育も非常に厳しかったことは、当時の看護婦達の証言がある。(『杏林の坂道』147頁以降)
例えば、近所の子や兄弟喧嘩をしても殴られ,仲裁しなくても殴られ、玄関の履き物が乱れていたら殴られた。また濡れたタオルをはたいて「バサッ」と音を立てたら殴られた。この音は人の首を切ったときの音だと知らされた。いささか乱暴だが、躾の根底に「侍の子」という概念があっての事だと母に教えられたと正道は述懐している。しかし昔の元服の年齢(15歳)を過ぎた後は全くそういった鉄拳による躾はなかった。
しかし村人やそのほかの人には優しかった。私の父も義兄ほど真に心優しい人を知らないとよく言っていた。また村葬の後、多数の村人が野辺送りをいつまでもしていたのは印象的だったとも言っていた。
常に神仏を敬い、『教育勅語』の精神を遵守して子供達の教育に当たっていた。
「親しき者の死に直面して人ははじめて本当の医者になる」と言っていた。
(先妻の死に続いて次男の死、さらに長男の戦死などを体験)
現代の私たちが受け継ぐべきもの
1 鉄は熱いうちに打て(家庭教育)
2 早く自立の精神を養う 若いときに苦労する(修身)
- 先ず家庭を斉え、そして社会への奉仕(彼の場合、医師として、「医は仁術なり」の精神で患者に接した)。(斉家・治国平天下)
- 武士道の精神を堅持。矜持(自負の精神)を保ち、自彊(自ら努めて励む精神)を実行する。
5.神仏を尊び、運命を従容として受け入れる(自己の死と長男の玉砕に際して)
明治維新を経て我が国は西洋の文物を取り入れ、一気に文明社会へ名乗りを上げました。しかし現代人は概して自己中心的で、責任感に乏しく、金儲けに奔走する傾向が強く見られ、享楽を優先しているようです。また日本古来の神仏を尊崇し、先祖を崇め、また互助の精神を保ち、さらに自然を大切にするといった考えが薄れました。つまり人間としての品格の欠如。これは憂うべき事だと思います。
緒方惟芳は、若くして日露戦争に看護兵として従軍、帰還後は名もなき一介の村医としての生涯を送りましたが、一人の人間の生き方としては実に立派でした。
彼は武家の家に生まれ、自己に厳しく他者には優しく、また昔流の「夫唱婦随」で「亭主関白」の一面はありましたが,頼もしい医者としてまた人格者として村人の尊敬を受けていました。こうしたよき点は学ぶべきでしょう。
なお、惟芳の『日露戦争従軍日記』は非常に貴重なもののようで、近日中に下関市にあります東亜大学の『紀要』に詳しく紹介される予定です。
平成26年6月吉日 山本孝夫 記
閑話偶感
閑話偶感
九月になってから私は毎朝六時過ぎに家を出て、直ぐ近くにある広場へ行き、一周二百メートルの歩道を歩くことにしている。しかし昨日はふと中原中也の墓へ行ってみようと思った。こちらに来て一度参ったことがあるので見当をつけて近くまで行ったが、どうも入り口が見当たらない。二十年にもならないのにもう記憶が薄れている。
おかしいなと思い来た道を引き返したら益々遠ざかる様な気がした。そう思いながら吉敷川にかかる橋のたもとまで行き、そこから川沿いにバックしながら少し歩いた。
川は右側に流れている。左側には人家が点在している。全く人通りのない小径だ。雑草や雑木が川沿いに生えていて栗の木が一本あった。白くて小さな短剣のような鋭い棘が、表面に所狭しと突き出ている真ん丸い実。この栗の実一個だけ枝先にくっついているのが目にとまった。
先日萩市在住の友人がわざわざ栗を持ってきてくれた。彼は丁度八十歳になるというが元気である。数年前に奥さんに先立たれたが、一人になった今も部落の老人クラブの世話をしたり、萩市の観光案内をする傍ら百姓仕事に打ち込んでいる。実に誠実勤勉なな人物である。
有り難いが栗は直ぐには食べられない。実が熟して外皮が割れて初めて中から実を取り出すのだが、それが先ず一仕事。友人はそうした手間を経てわざわざ持参してくれたのである。栗を食するとなると外側の褐色の堅い皮を先ず剥ぎとり、さらに渋皮まで除去しなければならない。なぜ栗の実はこのように二重三重に防御されているのだろうか。「桃栗三年柿八年」と言うが、桃と柿はいとも簡単にもぎ取って食べることが出来るのに。
しばらく歩いておおよその見当を付けて国道へ出た。そうしたら直ぐに「中原中也の墓」の表示が見つかった。無駄な歩みをしたものだと思ったが、どうせ自由の身、朝の爽やかな空気の中をこうして散歩が出来て良かったと頭を切り換えた。
国道の側にあった表示板のところから田圃の小径を直ぐ右側に下りて行くと前方に墓場が見えた。田圃の一画を墓地にしたようで、南側に孟宗竹が高い屏風のように整然と並んで見えた。その背後に吉敷川が流れている筈だ。どちらを向いても寺はない。私の住んでいる地区にはこうした共同墓地が数カ所あるが寺が見当たらない。人口に比して寺院が非常に多い萩にいたので、山口に来て違った感じを受けた。墓地への入り口とおぼしき所にまた同じような表示があったので、安心して大小の墓の中を探しながら進むと、「中原家累代之墓」と刻んだ大きな墓の前に出た。墓前に額づいて立ち上がると、墓の右側におなじみの中也の顔写真のある説明板があった。その中に「刻まれた文字は中也が中学二年のときの書である」とある。私は最初墓に刻まれた文字を見た途端になかなか立派な字だと思ったのだが、これが十三・四歳の少年の字だと知って感心した。帰途、赤く咲き乱れた彼岸花のかなたに、白い雲を浮かべた東の空が朝陽に明るく輝いていた。
「文は人なり」というが、書もその人を現すと言えるかも知れない。実は今朝も散歩の前に佐々木英昭著『夏目漱石』を読んだが、一番最後の頁に漱石の弟子の林原耕三宛書簡からの引用があった。林原氏は大学で直接漱石に習ってはいないが、保証人になってもらい非常に可愛がってもらって居る。大正三年の書翰だから漱石が亡くなる三年前である。これは漱石の死生観とも言えるものだろう。
私が生よりも死を択ぶといふのを二度もつづけて聞かせる積もりはなかったけれどもつい時の拍子であんな事を云ったのです然しそれは噓でも冗談でもない死んだら皆に棺の前で万歳を唱へてもらひたいと本当に思ってゐる、私は意識が生のすべてであると考へるが同じ意識が私の全部とは思はない死んでも自分はある、しかも本来の自分には死んで始めて還れるのだと考へてゐる〔中略〕私は此点に於て人を動かしたくない、〔中略〕然し君は私と同じやうに死を人間の帰着する最も幸福な状態だと合点してゐるなら気の毒でもなく悲しくもなく却って喜ばしいのです。
私は林原耕三という名前を思い出した。書棚の中を探したら『漱石山房回顧・その他 林原耕三随筆集』(桜楓社)という橙色の箱入りの瀟洒な本が見つかった。昭和五十年出版だがまだ新しい。昔買ったのは憶えているが中身は記憶にない。私は読んでみることにした。すると、「漱石先生の書体」といった文章と漱石の書翰がそのまま印刷されてあり、その下に内容の文面が活字に移してあった。明治三十八年に東京帝国大学予備門時代の同窓に宛てたもので、林原氏は「この古い友人に対して示された温情と誠意、それを如実に示している文体もさることながら、先生の若さと個性とがいかにも美しく現れてゐる、この流麗な書体が私は最も好きである。後年の良寛流の筆蹟よりも一層懐しく一層好きである。」と書いている。
私の乏しい見地における限りでは、良寛と鷗外と漱石の筆蹟が好きである。今ここに林原氏が如上の見解を述べているのを知って我が意を得たようで嬉しかった。こうした気持ちを抱きながら階下に降りて郵便受を見たら一通の封書が入っていた。差出人は私が母校へ帰り最初に教鞭を執ったときの女性からのもであった。先日萩へ墓参に行ったとき、ある人に会ったら、彼女が私の事を話題にしていたというので、懐かしく思って帰り道だから訪ねてみた。彼女は高校卒業後、国立大学の薬学部に入り、今は薬局を経営している。もうあれから五十年になる。会ってみて昔の面影が完全に残っており直ぐ判った。帰りがけに土産をもらったので礼状を出したその返事である。
私は普通手書きでなくてパソコンを利用して手紙を認める。彼女がくれたのは便箋にボールペンで書いたものだ。文面も要領よく書いてあったが、それよりも一字一字が実に明確に書かれてあり、一見して清冽な感じを受けた。漱石の流麗な書体とは対照的だが、これも彼女の若々しさと美しさを反映しているようで嬉しかった。
閑日偶感
閑日偶感
平成29年9月19日
台風18号は九州、四国等各地でかなりの被害をもたらしたが、山口県は無事通過したようだ。相当な風雨が見込まれるというので、昨日午後からすべての雨戸を閉めて対処したが、それこそ杞憂に過ぎなかった。
今朝も早く目が覚めた。時計の針は丁度3時を指している。思い切って起きる事にした。早速先月の初めから読み続けて居る『森鴎外』の伝記を読む。700頁の大作も残り10数頁になった。全くの遅讀、蝸牛に似た歩みであるが、焦ることはない。今日読んだ箇所に次のようなことが書いてあった。
鴎外は大島陸軍次官に辞表を出す直後から、「歴史その儘」の信念に基づいて伝記を書き始めている。最初の作品『渋江抽斎』は非常に優れた作品として評価されているが、続いて『伊澤蘭軒』と『北条霞亭』、さらにほとんど世間に名が知られていない人物『小嶋寶素』など多くの人物を取り上げて新聞等に連載した。これら数々の伝記は、読者はもとより掲載した新聞社さえ掲載中止を申し出るほど不評であった。なぜ面白くもないとも言えるこのような作品を書き続けたのか、これについて上記『森鴎外』の著者小堀桂一郎氏は次のように忖度している。
〈人に嚼蠟の文を笑われても好い。わたくしの犠牲になるのは前賢のためである〉と言ってゐる。作者はこの一篇が蠟を嚼む様な無味乾燥の記述になってしまふことについて、既に覚悟がついてゐた。これは自分の文名にとって得になる様な作ではない。それどころか作者はここで己の文名を〈犠牲〉にしてこれを書いたのだと言ふ。つまりこの作は自分の文学的制作欲の満足のためではなく、もとより読者への奉仕ではなく、書いたのはただ〈前賢〉たる小嶋寶素の事蹟が、〈全く湮滅に帰せむことを恐れたからである〉と。ここでも鴎外は専ら歴史家としての自恃と使命感に拠って筆を執ったまでであった。
金と権力、さらには名誉欲の横行する世の中にあって、鴎外のこうした態度は希有とも言える。お陰で私は今朝鷗外が書いた『大下藤次郎年譜』を読むことによって、楽しい一時を送った。大下藤次郎なる人物は明治三年に生まれ、二十六歳の時鷗外の親友で画家の原田直次郎と交りを結び、後にこれに師事している。師原田直次郎は藤次郎が三十歳のとき没した。その後彼は一年ばかりアメリカイギリスなどを歴訪し、帰国後三十六歳のとき、雑誌「みづゑ」を発行したり、日本水彩画会を興したり、さらに水彩画研究所を開いたりして、この方面で活躍が期待されて居たが、四十二歳で病没した。生前水彩画家として有名な三宅克己とは最も親しかった。
私は大下藤次郎がどのような水彩画を遺しているかと思って、「ユーチューブ」を開けて見た。そうしたら彼の作品が出て来た。確かに上手く画いてある。そのとき加藤英という画家の水彩画も出て来たのでついでに見てみた。これはまた一段と良く画いてある。加藤の作品が次から次へと素敵なバックミュージックを伴って画面にあらわれ、暫く目と耳の保養になった。中でも「イギリスの田舎」を画いたスケッチは素晴らしく、昔習ったワーズワスの「The Solitary Reaper」(ひとり麦刈りにいそしむ乙女)の詩を思い出した。
視るがよい、麦畑でただ独り
あの孤独なハイランドの乙女が、
ただ独り、歌いつつ麦を刈るのを。
歩を止めて視よ、さもなくばそっと去るのだ。
ただ独り麦を刈っては束ね、
憂愁にみちた歌を歌う。
聞くがよい、深い谷間は
その歌聲で溢れる。
・・・・
その歌が何であれ、乙女は歌い続く、
終わりを知らぬがごとく。
乙女は歌う、働く手を休むことなく、
麦刈る鎌の上に身を屈めて。
私は耳を欹てた、身じろぎもせず。
そして丘を登り行く道すがら、
乙女の声は私の心に焼き付いていた、
もはや歌声の聞こえぬのちのちまでも。
(岩波文庫『ワーズワス詩集』)
私は十数年前、一人の親しい友とイギリスの「湖水地方」を旅して、ワーズワスの生活していた場所などを訪れたが、実に良い環境だったことを覚えている。それにしても「ユーチューブ」は有り難い。昨日は「目からウロコの日本の歴史」なる番組を視聴して、我が国の縄文時代に世界最古の土器が出土したことや、稲作はわが国で世界で最初に行われていた可能性が高い、といったこと、あるいは戦後間もなく、江上波夫の「騎馬民族系王朝の日本征服・統一国家(大和朝廷)樹立説」が話題になったが、これは日本を貶めるために策謀したGHQによって書かされたと、江上氏本人が言ったことなど。それにしても、現在、考古学は科学知識をバックに非常に進展しているようだ。
こうして読書が脇道に逸れたが、時刻は六時になったので、窓を開けると朝焼けが美しい。何時もの散歩を試みようと、カメラを提げて外に出た。昨日は台風一過、その後素晴らしく美しい虹が見えたが、今朝は東の空はまだ朝日の昇る直前。茜色に染まった空、とくに遠くの山際が美しかったのでカメラを向けた。豊かに実った稲を前景に撮ったが果たしてよく撮れたかと思いながら、一週200メートルの小さな公園を四周ばかり回って我が家の門の前まで来たら「ヒトツバ」の葉が無数に散らばっている。いささかみっともないので竹箒で寄せ集めた。
朝食前に知人の女性から電話がかかった。「敬老の日お目出度う御座います」の言葉に、始めて今日が祝日であることを知った。忘れずに電話を掛けてくれる人が居るとはありがたい。こうして早朝だけ元気な私の時が過ぎたのである。
閑日随感
閑日随感
荷風の『断腸亭日乗』を読むと、簡潔で実に上手い文章が目につく。とてもこのような名文は書けないが、真似して筆を執ってみる、と言っても実際はパソコンのキーを叩くのである。
昨日二時五十分の新幹線で家内は神戸へ向かった。家内にとっては愛娘(まなむすめ)の如き姉の長女からの招きに応じて出掛けたのである。新山口駅まで車で送った。それから大袈裟に言えば数日間の独居である。自由な一人身の生活が楽しめればと、半ば解放感。
七月十六日。 昨夜九時半に床に就く。「カントの時計」の如く正確ではないが、最近は一時から三時の間によく目が覚める。今日は丁度三時であった。トイレに行ってまたベッドに横臥したが、眠れそうにないので、読みかけていた渡部昇一の『知的余生の方法』(新潮新書)を読むことにする。彼は『知的生活の方法』というよく売れた本を書いて三十四年経ったいま、丁度八十歳でこの本を書いたとある。
「知的余生のための肉体について」という小項目で、彼はこれまで九十五歳まで生きようと提唱してきた。その為には「肉体的基盤」が必要であると言い、一例として漢字学者白川静氏との対談で「先生は毎日規則正しく仕事をし、規則正しく散歩する事が「健康の秘訣」だとおっしゃった」と書いている。
このように提唱した渡部氏であるが、昨年だったか転んで肋骨を折り、それが原因で体調を崩し、今年八十七歳で急逝した。さぞかし残念だったと思う。やはり人間は天命に任す以外にはないようだ。
この文庫本を読み終えたら時計の針は四時半を指していた。今更寝るわけにはいかないのでまた階下に降りて、気持ちをすっきりさせようと思い、風呂場でシャワーを浴びた。
二階は寝室兼書斎である。渡部氏も書いているが「夫婦生活にとって重要になってくるのは、年を重ねれば重ねるほど、夫婦それぞれの空間が必要になってくる。そのために、なるべくなら広い家に住む。そして、顔を合わせる機会を少なくする。その方が、お互いに不平、不満が少なく、またそれを聞かずにすむ。より快適に生活できると思う。」
我が家も早寝早起きの自分と、全く逆の宵張りの家内とでは生活のリズムが違うので、階上と階下と、各自別の部屋を常の居場所にしてすでに数年経っている。
さて、身体を洗ってすっきりしたので、机に向かうことにした。私は坐り机の方が落ち着くので、いつものように座布団の上に腰を下ろした。そして森鴎外の『北條霞亭』と注釈書の二冊を机上に置き読み始めた。今現在、鴎外のこの伝記を読む人は恐らく非常に少ないと思う。私は彼の書いた名作『渋江抽斎』は数回読んだ。続いて『伊澤蘭軒』を読もうとしたが、難しい上にどうも面白くないので途中で止めていた。しかし数年後改めて意を決して何とか読み終えた。鴎外の伝記三部作で残るのは『北條霞亭』だけである。今年六月二日にこの伝記を読み始めてすでに一月半になる。まことに遅々として進まずであるが、とにかく今度こそは読み終えよう。識者の中には此の作品を最高傑作と言っているのもいるから。今日読んだ個所に華岡青洲の事が載っていた。
「紀州華岡の事などくわしく申来候。春秋病人夥敷集り候節治療を見候ヘば益有之候由,當今の華陀神醫なるよし」
注釈書にこうある。
「華陀 三国の魏の名医。養生の術に暁り、方薬に精しく医術を以って著わる。曹操が頭痛に苦しみ、陀を召して針せしめたところ、手に随って快癒した。のち召せども至らぬため操の害するところとなる。(「後漢書」方術伝)
華岡青洲と言えば有吉佐和子の小説で有名で、その映画『華岡青洲の妻』を思い出す。
注釈書を参考にしながら十頁ばかり読む。六時になったので降りて洗濯ものを洗濯機に入れて作動する。それから先ず神棚の「さかき」の水を替えて拝み、次に仏壇の花の水を替える。見ると先日供えた「桔梗」の紫の花だけが少し傷んでいたので庭に出て同じ紫色の一枝を剪って挿し替える。白い花の中にあって一本だけの紫色は目立って美しい。
その後、今度は玄関の戸を開けて瓦敷きの「たたき」で何時ものように、我流の体操をし、庭に下りてそこに安置してある石地蔵に向かって手を合わす。こうした神仏への祈りは私の朝夕の習慣的行為である。
さて、実は先日来運動不足を感じていたので、今朝はそれこそ一人身、勝手な時間が有るので、また先に読んだ白川博士の事を思い出して、近くにある「土師(はじ)八幡宮」の参拝を兼ねて、すこし散歩を試みることにした。
六時半に家を出た。五百メートルばかり行くと、神社の入り口にさしかかる。路のすぐ側の鳥居を潜ると、そこからは坂道で石段が続いている。数えながら石段を登ったら百歩で石段は尽き、そこからはごく緩やかな勾配の道を百五十歩で神社正面に達した。神域は杉の木に囲まれた丘陵地でまことに静寂。鶯が一声啼いた。頂上にこじんまりとしたお社がある。しかしこの神社はこのあたりの氏神で、季節ごとの祭礼には参詣者は少なくない。
反対側にある裏の参道を降りて廻り道で帰路につくことにした。往きも帰りも殆ど人影を見ない。途中ついこの間まで田圃だったところが、宅地造成されていたのには驚いた。山口市でもまだ住宅の需要があるのだろう。聞くところによれば、数十年前に出来た住宅地は段々と空き家が増えていると言う。しかしこうした市の中心部から少し離れた所には結構新しい家が建てられている。だがこうして建てられた家もやがて子供が独立したら、同じ憂き目を見るだろう。つまり子育てを済ませ、定年退職した人たちの老後の住処となるのは目に見えている。地方創生の謳い文句は良いがわが国の前途はどうも明るくない。
我が家のすぐ近く、歩いて一分のところにスーパーが出来たのは有難かった。一寸立ち寄って納豆、豆腐、ヤクルトの三品を仕入れて来た。こうして我が家に着いたのは七時十分、朝の新鮮な大気の中の散歩は、久しぶりに気分爽快であった。
帰りついて、猫の額程の菜園だが、胡瓜とトマトがよく出来ているので、胡瓜三本取って路を隔てた向かいのアパートの奥さんに差し上げたら、「この前は美味しかったです」と言って喜んで受け取って貰えた。丁度洗濯ものが出来上がっていたので、座敷の縁側に乾した。こうしてひと汗かいたのでもう一度シャワーを浴び、一人食卓についた。
『断腸亭日乗』 大正十二年に、荷風は次のように記している。
七月十六日 雨やまず、書窗冥々。洞窟の中に坐するが如し。紫陽花満開なり。
七月十七日 曇りて蒸暑し、終日伊澤蘭軒の伝を読む。晩食の後丸の内の劇場に往き女優と談笑す。帰宅の後再び蘭軒の伝を読み暁三時に至る。雨中早くも鶏鳴を聴く。
七月十八日 今日も終日蘭軒の伝を読む。
流石に名文だと思う。
閑日偶感
閑日偶感
九月二十二日
大相撲秋場所が行われ、連日満員御礼の垂れ幕が下がっている。海外に目を向けると、北朝鮮の水爆実験への言及、それに対してトランプ大統領の威喝演説、世はまさに大戦前夜の様相を呈しているのに、我が国民は太平楽を構えている感じ。とは言うものの、私も此の相撲だけはテレビ観戦して愉しんでいる。
明治三十一年漱石三十一歳の時、彼は『ホトトギス』に「不言の言」という文を寄稿している。この中にいくつかの英文を引用している。訳文を付けていないが当時の読者はもちろん理解出来たのであろう。
「ウオーヅウオース」がThe good die first.と言ひ「バイロン」がHeaven gives its favour-ites early death. といヘるは、共に悪まれつ子世に憚るの裏を見せたるものなり。
An old man is twice a child.は「シエクスピヤー」「マツシンジャー」を始めとして所々に見えたる語にて、一寸六十の本卦還りとでもいふべし」
ワーズワスとバイロンの言葉はいずれも「佳人薄命」を意味するが、最後の英文に関連して、漱石が「六十の本卦還り」という言葉をなぜ用いたのかしらと思い『日本国語大辞典』を引いてみた。
「本卦還り」とは「数え年六一歳になること」と説明してある。そこで「卦」を引いてみると、「易で占った結果あらわれる象(かたち)。」さらに「八卦」は「易で、陰と陽とを示す三個の算木を組み合わせて、できる八種のかたち。」とある。
私が最初に大相撲のことに言及したのは、テレビを見ていると、行司が「はっけよい。のこった」という掛け声をかけるので、「本卦還り」や「八卦」といった言葉と関連があるのではなかろうかと思って調べてみたのである。
「はっけよい」の説明は「《感動》相撲の行司が土俵で力士にかけるかけ声。〈語源説〉八卦良イの意」とある。「のこった」は「《感動》(相撲で、土俵ぎわまでまだ余裕がある意)取り組む力士に向かって行司の発するかけ声」とある。
以上の説明で大体の意味は分かった。要するに「はっけよい。のこった」は「今がチャンスだ、まだ土俵際まではゆとりがある。頑張れ」との掛け声だろう。
漱石の相撲好きは有名である。明治四十二年六月十四日の『日記』に次のように書いている。
陰。烈風。朝虚子と国技館に行く。九時から六時迄居る。色々な相撲と色々な取り組みを見る。然し花相撲に於ける若い力士が無暗に取る様な際どいもの一つもなし。
相撲の筋肉の光澤が力瘤の入れ具合で光線を受ける模様が変わってぴかぴかする。甚だ美しきものなり。中村不折は到底斯ういふ色が出せない。だから不可ないといふのである。
朝の九時から夕方六時まで相撲見物とは恐れ入った。勝負だけを見ているのではなくて筋肉の光沢などやはり力士の肉体美にも目を向けていたことが判る。
最近大型の力士が激増し、筋肉が締まって躍動感に溢れた力士同士の相撲があまり見られないのは残念である。徒に巨体をぶっつけるだけで技の切れというものが見られないのは相撲の醍醐味に欠けるといえる。その上「張り手」がやたらに増えた。これも見苦しい。漱石なら恐らく不満の言葉を残しただろう。
そろそろ相撲も後半の取り組みが始まる。テレビを付けて観戦することとしよう。
閑日偶感
閑日偶感
平成二十九年八月二十九日
「二十九」の文字が並んだ。長い夏休みも過ぎ、あと三日したら二学期が始まる。孫は宿題を済ませただろうかと、いらぬ心配をしてみたが、Everyday is Sun-day の我が身にとっては、暑い八月もやっと終わるかと云った感じが率直な気持ちだ。
今朝はむしょうに早く目が覚めた。トイレに下り二階に上がったが直ぐには眠むれそうにないので、唐木順三の「朴の木」という随想を読んだ。彼は教師と百姓が最高の職業だと言っている。その考えには共感するが、威厳を以って生徒に対しなおかつ慕われるとなると容易ではない。自然に親しむのは良いことだが百姓だけで生活するとなるとこれも難しかろう。数ページ読んで時計を見ると丁度三時。どうもまだ眠れそうにないので思い切って起きようと思いまた下りて洗顔し二階に上がった。
今度は正式に机に向かい、小堀桂一郎の『森鴎外』の「第5章 雌伏時代-學理と生理との葛藤」の中の小節「4 小倉勤務の日々・公務と私的交友」を読む。
読みだして何気なしに「雌伏」と言う文字が気になったので辞書を引いてみた。
【雌伏】①鳥の雌が雄に従い伏する。転じて、(将来雄飛することを期して)人の下に屈服する。〔後漢書、趙典傳〕大丈夫當雄飛、安能雌伏。
漢文は「大丈夫当ニ雄飛スルニ当タリ、イズクンゾヨク雌伏センヤ」と読める。
「雌雄を決せず」とか「雌雄を決す」とかいう言葉があるのを思い出す。雌伏の反語は雄飛である。始め雌は雄の下に屈しているが時がたてば飛び立つとなれば「雄飛」ではなくて「雌飛」ではないかと思う。戦後ウーマンパワーと言って、女性の力が強くなった。「雄伏雌飛」にならんとも限らん。
東大医学部の同期で陸軍軍医部内でも常に密接な関係を保ちつつほぼ雁行的に昇進してきた小池正直が、明治三十一年に突如として医務局長になった。これは森鴎外にとっては寝耳に水の予想外のことであり、今後小池の部下として命に復することになる。その上小倉の第十二師団軍醫部長に任命された時、彼はこのことを左遷と思い非常な屈辱を感じたことは『小倉日記』に記され周知のことである。
問題はこの期間如何に彼がその任に堪えそして実力を養成したか。これがここに云う「雌伏の時代」である。この間彼は勤務の傍ら、フランス語を学び、クラウゼヴィッツの『戦論』を講じ、『即興詩人』を訳了するなど余人には到底できない様な事を行った。これ又周知の事実である。
私がこの度初めて知ったのは、彼が「小倉安國寺の記」という文章を書いていることである。小堀氏が「森の『小倉安國寺の記』は、森の小倉在住の記念というだけの意味を越えた、晩年の歴史家としての高志の萌芽を既に含んだ好文字である」と書いているので『鴎外全集 第二十五巻』を書架から取り出して読んでみた。流石に名文である。書き出しを少し写して見よう。
小倉安國寺の記
九州鉄道の下り列車小倉停車場を発しておほよそ六七丁も過ぎ来ぬらんと思ふ頃左手の車窓より外面を望見すれば破屋傾棟見る影もなき堂宇の亂松疎竹の間より隠顕するあり是なん太平山安國寺なりける。屋上に雑草の茂生したるだにすさまじきに瓦は概ね落ち尽して梁木朽ち床板破れ心怯なるものは白昼猶入り見んことを懼る。(中略)
此寺や今こそ斯く迄に荒涼惨憺の境となりたれ其来歴を聞けば往昔光明帝の暦應二年足利尊氏叡旨を奉じて六十余州に各々一伽藍を造営し国家の為に安寧を祈り人民の為に教化を布く處となす。小倉の安國寺も葢し其一なり。開基は世にも名高き夢想国師なりき。
(中略)
開祖夢想国師の事跡の如きは流布の史傳に詳なれば左に中興以降高徳なる諸師の言行二三を抄録し読者をして安國寺衰運の外境一時の横禍に過ぎざりしことを悟らしむ云爾。
以下に高徳の諸師の事跡というか逸話が三つ挙げてある。なお上記文章の最期の言葉「云爾」は「しかいふ」と振り仮名がある。 (旧漢字を一部新漢字にする)
鴎外は大正四年に『二人の友』とい心温まる作品を発表している。その中の一人が安國さんで、この破れ寺の住職であった。なお鴎外の『小倉日記』と『獨逸日記』はいずれも、彼の数々の名作とは違った面白みがある。しかし森鴎外はこれを書きなおし、当初漢文で書いていたが読まれて不都合な個所を除いて書きなおしたと言われている。
さて、時計を見ると五時半。讀書に飽いたので階下に降りて散歩に出かけることにした。四囲は冷気を帯びていて歩くと気持ちが良い。東の空が曙光に輝いて薄く紅に染まっている。すぐ近くに田圃がまだ残っているのでその畦道を行くことにした。
実は昨日の事だが、久しぶりにと言っても半年くらい前、近くの吉敷川に沿った土手を歩こうと、歩をその方に向けてしばらく行った。土手には桜並木があって春花の下を歩くのは気分が良い。しかし今は初秋。今年も青々とした稲田が目に映るだろうと思いきや、川沿いの一面に広がっていた田圃は、全て宅地造営に区画整理されているではないか。これには驚き、何だか裏切られた様で淋しかった。
九月に入れば、白露、秋分もすぐ来る。そうなると薄緑の稲穂は黄金色に輝いて重たげに垂れさがる。「実るほど頭を下げる稲穂かな」、これぞ「瑞穂の国」の情景である。マンションの立ち並ぶ都会では想像もできない風景だろうに、今や此の山口市においても田圃は急速に姿を消している。結局農業の継ぎ手がいないからである。唐木氏は昭和三十二年に「相模原の片隅から」という随筆の中で、彼の知人の息子に就いて次の様に書いている。
「むすこも実に働き者で、早朝から暗くなるまで、よく働き、また農業の勉強もしてゐたが、このごろ百姓をやめたいと言ひだしたのださうだ。百姓をしてゐたのでは嫁のきてがないといふのださうだ。百姓から上がる利益はこれこれしかじか、土地を売った金から上がる利益は是これしかじかと計算したさうだ。親父さんはこれを聞いて、一週間ほど腹が立って眠れなかったさうだ。俺の百姓はソロバンではない、精神だといってみたさうだ。しかしむすこのいやだといふのを自分が強制はできないと心にきめて、土地を手放すことになったさうだ。
この文章は昭和三十二年に書かれてある。今から丁度六十年昔である。私が萩からこちらに転居した二十年前、同じ町内の一人の老人が、
「ついこの前まではこの吉敷の地区に家は八十軒しかありませんでしたが、今は千軒を越えています。若い者は皆出ていきました」
そう言った本人の一人娘さんも、スチュアーデスとなりフランス人と結婚してむこうに住んでいるとか。従って老夫婦だけの淋しい二人暮らしだ。
今朝歩いた畦道の左右には豊作を予想させる稲穂が全て東の方角に向かって垂れさがっていた。私は一斉に同じ向きの稲穂を見て不思議に思うと同時にホッとした気持ちになった。こうして辛うじて未だ田圃が残っており、目を楽しませてくれるのは有難い。だがこれも時間の問題だとも思うと一抹の寂しさを禁じえなかった。
雨の投票日
雨の投票日
降り続く雨は一向に止む気配がない。今日は参議院議員の投票日だ。六年間の安倍政権の是非が問われるとテレビでしきりに報じている。今朝も早く四時過ぎに目が醒めた。いつものように『枕草子』を二時間ばかり読んだ後、座敷や仏間などの掃除、神棚の榊と仏壇の花の水を入れ替え、外に出て体操と木剣の素振りなど、いつもの日課を早めに済ませた。
七時過ぎたので投票に傘をさして歩いて行くことにした。妻がいたときは昼前に車で一緒に行っていたのだなと歩きながら思った。通常は車が数台見かけられたが、今日は朝早かったからだろう一台の車もなく、会場には外には誰もいないで私だけだった。
しかし三人の立会人はこれまでと同じ顔ぶれである。いずれも元町内会長でその中の二人は顔見知りである。投票を終え、その内の一人に簡単に挨拶して会場を後にした。
散歩のつもりで歩いたのは良いが、降り注ぐ雨でズボンの裾が少し濡れたので帰って履き替えた。
私と妻が山口のこの地区に萩から居を移した時、先に述べた立会人の一人が地区の町内会長だった。彼は元自衛隊の幹部クラスだったようで、今は市の福祉関係の仕事をして居られる。家移りしてまだ幾ばくもない時だったが、この人が我が家に来て、町内会の副会長の役を引き受けてくれ言われた。移ったばかりで地区の事情も分からないので何とか断ろうとしたが、それほどの仕事ではないと云われ結局は引き受けた。
どうやら任期を終えた後、今度は町内会長をと言われたが、これだけは断乎としてお断りした。会長を経験したら選挙の立会人にされたかも知れない。人にはそれぞれ適不適というものがある。私は自ら考えるに人の世話を積極的にするタイプではない。
高校時代の友人の一人に萩市役所を定年退職した後、選挙管理委員になったのがいる。選挙の度に忙しくしていたようだが、立会人となれば結構小遣いになると言っていた。この級友が亡くなって既に十年以上になるだろう。彼が亡くなったと聞いて、萩市郊外の三見という部落にある彼の家まで友人二人と行ったことも思い出になるが、その時の同行の友人二人共、今は入院中で身動きが出来ない。その内の一人が偶然にも今朝病院から電話してきた。声だけは元気のようだったから頑張るようにと励ました。
人はいくら元気であっても病にたおれ必ず死ぬ。生老病死。こうして時は移りゆく。まさに諸行無常である。高校の同級生で今なお何とか元気にして居るのは果たして幾人いるだろうか。小学、中学、高校、大学と一緒に学ぶというより共に遊んだ多くの連中は今や殆ど鬼籍に入っている。
妻が亡くなってからも時々弔問の客がある。駄文を書いていたら萩からの電話があって「今から伺っても良いですか」とのことだ。時計を見ると丁度十時である。萩からなら一時間かかる。夫婦二人で来るというのだ。先にも書いたように私は積極的に人の世話をしたことは殆どない。例えば結婚の仲人の役も「座り仲人」だけは十回ばかり頼まれたが、この二人だけは特別で、最初から世話をした。かって同じ職場で働いて居た女性で、実に気立ての良い人だから、何とか良き相手をと思っていたら、長男が「大学の一年先輩に田中さんという良い人がいる」と言うので二人を見合わせたところ、お互い結婚の意思を示した。今彼らには子供が二人いて、息子さんは大学三年で、娘さんは高校一年で幸せな家庭を築いている。その彼らからの電話だから嬉しかった。妻が生きていたらきっと喜んだことだろう。
こうして幸せな結婚生活を営んでいる者も居れば、突然電話してきて「ぜひ仲人をお願いします」と頼み込んだ教え子が、その後夫婦の間が上手くいかず、破鏡の運命に立ち至ったのも私に関しては一組だけある。二人の間には良い子供がいるのにと思うと、一目惚れの恋愛結婚は、必ずしも幸せにはならないのではないか、特に子供たちにとっては不幸な事だとつくづく思うのである。
2019・7・21 記す
老人介護施設
老人介護施設
友人からこんな話を聞いた。彼の娘さんは老人介護施設に勤務している。彼女は朝7時に家を出て、介護の必要な人の家庭に行って、本人を車に乗せて施設に行くのである。一人ではなく何軒かに立ち寄って四・五人を同時に運ぶのである。こういった介護を必要とする老人の家では、その間ホッと一安心するだろうが、この娘さんのような介護士はそれからが大変だということを私は初めて知った。
食事の世話などもあるが一番手のかかるのは入浴の時である。すんなりと入浴してあまり手のかからない人も居るが、中にはわめき散らして入浴を拒んだり、叩いたり噛みついたりといった暴力沙汰に及ぶ男性も居るようである。また浴室の中で排便をし、糞尿が顔などに飛び散ることもあるという。
勤務は夕方6時にまた彼らをそれぞれの家へ送り届けなければいけないのだ。入浴を拒んだ家でその事を言ったら、「何故お風呂に入れてくれなかったのですか。折角料金を払っているのに」と、文句を言う家庭もあるようである。
或る日、昼間に娘さんが汗だくで帰って来たので、友人が問うたところ、「お風呂の中でウンチをして顔に飛び散ったので、どうも我慢出来ないから帰って着替えようと思ったの」と言う答えが返ってきたそうである。
聞けば毎日が汗みどろの格闘である。老人といえども大柄の人も居てそういった人を抱きかかえなければならないから重労働である。
「非常に安い手当で働かされてるようだ。個人病院が経営しているから仕方がないが、もう少し病院側も考えてくれたら良いのに」と友人は言っていた。
友人は「貴君の所にお悔やみに行かなければいけないのだが、娘がこんな風に忙しくて暇が取れないのですまん」と言った。
彼は遠距離の車の運転は娘さんに言われて止めている。それは正しい選択である。私も来年2月になったら免許の更新は止めるつもりだ。
私は「わざわざ来なくても好いよ。それよりもお互い無理をしないで元気で居れるようにしよう」と言って電話を切った。
老人介護施設で殺人事件があった。マスコミは一方的に加害者の非道を喧伝したが、呆けて暴力を振るような老人の介護は聞いただけでも大変だとつくずく思った。ロボットが発達して入浴などといった作業が出来るようになればよいな、と友人と話したのである。
これから寿命が延びて益々こう言った介護を必要とする人が増えるのは間違いない。国家としても一番の問題だ。長命は昔ほど褒められないようになった。しかし長生きは決して悪いことではない。大事なことは如何に健康を保つか、健康老人であり続けるかである。そしてころりと死ねばこれこそ大往生だろう。
妻を亡くし一人暮らしの今、これから如何に生き、そして死を迎えるか。人の一生はもう定まった事かも知れないが、自らの心掛けも大いに関係すると思うのである。
老いては子に従う
老いては子に従う
私は高校時代には親しく付き合った同級生はあまりいなかった。在学中真面目に勉強はしないし、クラブ活動は全くしなかった。土曜・日曜には、また長期の春、夏の休みには、橙畑の草刈りだけはよくした。大学に入ってもやや同じような生活を送った。しかし二年生になって英米文学科を選んだので英語の辞書を引いたり、また教科書以外の本も少しは読み始めた。卒業に当たり、主任教授の岡崎虎雄先生のお世話で小野田高校に就職出来た。小野田高校の小川五郎校長が旧制山口高校で、先生の同僚だったというお蔭かと思う。私はこの二人の先生と、在学中大変教えを受けた池本喬先生を生涯の恩人として感謝して居る。こうして私は運よく小野田高校に就職して六年間勤務した。その後宇部高校へ転勤した。ノーベル医学・生理学賞を授与された本庶佑氏が卒業された翌年である。私が宇部高校に転勤した時、「本庶という秀才がいた。」と同僚から聞かされたことを今にして思い出す。
私は宇部高校に僅か三年しかいなかった。父が急に脳溢血で倒れたので事情やむを得ず帰郷して母校に勤めることになった。昭和三十九年の四月のことである。
丁度その年は、我々昭和二十五年に高校を卒業した期の者が、同窓会の世話をする当番に当たっていたので、同期の者がその準備のために度々会合を持つ事になった。定例となっている八月八日に無事大会を終えた後の打ち上げの席で、是から毎年我々だけの同期会を持とうと云う事になった。卒業が昭和二十五年だったので会の名称を『二五会』と決めた。
その同期の一人についてここに書いて見よう。彼は確井敏夫という名前で、高校時代私にとっては全く知らない存在だった。彼は東部汽車通学生で、奈古、現在の阿武町から通っていた。父親がそこにある耐火煉瓦工場に勤務していたからと思われる。彼も高校卒業後は同じ会社に勤務していたが、私が知り合った時は萩市内に住んでいた。
我々が高校に入学したのが昭和十九年である。卒業した時は戦後僅か五年しか経っていないので、食料は乏しく現在の飽食時代とは全く違っていた。家に多少の田畑といった不動産がある長男や私のような一人息子は、大学進学を今ほど当然のこととは考えなかった。当時国立と私立の大学の授業料はかなり格差があったので、成績の良い連中は皆国立の大学志望だった。しかしそれでも大学進学と言えば下宿料などやはり馬鹿にならない。萩高校は旧制中学校の伝統を受け継いではいるが、当時は高校を卒業してすぐ就職する者がかなりいた。彼もその一人だった。
萩高校の同窓会名簿を見ると、確井という名字の卒業生は、彼と彼の息子さんと娘さんの三人だけと云っても良い。外に昭和二十年に萩高女を卒業された女性の名前だけ一人載っていた。彼女は住所も経歴も載っていない。この女性は兎も角として「確井」姓は彼ら親子三人だけだと初めて知った。こちらでは珍しい姓である。卒業生の中には「臼井」という姓の人は何人かいる。明治三年に藩校明倫館が廃止され、萩中学になって今年、令和二年に、創立百五十周年を迎えた。この間卒業生の数は三万三千を越えている。勿論この中の多くは亡くなっているが、県下では伝統のある学校である。
或る日確井君がこんなことを言ったのを思い出した。
「俺の祖先は源氏方で、源平合戦の時関東から九州にまで攻めてきて、戦後そのまま九州の阿蘇山の山麓に止まって、そこで農業を営んできたと聞いている。確井という名字は碓氷(うすい)峠に関係があると思う。阿蘇山麓のあの辺りには同姓の家族が今も何軒もあり、親戚付き合いをして居る。俺の親父は若いとき北九州の戸畑へ行って会社勤めをして居たが、技術を持っているからと言って、阿武郡の奈古にある耐火煉瓦工場に招かれたのだ」
こういうわけで彼は元来山口県とは全く無関係の存在である。付き合って見て彼には何処か一徹な面というか、同級生に対しても好き嫌いの面をはっきりさせて接していたように見うけられた。しかし彼は正義派であった。また武士は食わねど高楊枝といった面があった。そういえば彼はよく爪楊枝を咥えて我々の集まりに出て来た。遠い祖先の侍気質が遺伝子として伝わっていたのかも知れない。
彼の趣味は写真撮影で、我々の集まりには何時も上等のカメラを持ってきて記念写真を撮ってくれた。何時だったか突然山口の我が家に来て、途中の道の駅で買ったといって新米の五キロ袋を持ってきてくれた。その時自分が撮ったといって一輪の深紅の薔薇の写真を、「是を奥さんにあげます」といって差し出した。妻は見事なその薔薇の写真を当分居間に飾っていた。萩市内の各所を写してそのアルバムを呉れた事もある。平成二十四年に私家版で『杏林の坂道』を上梓するにあたり、私は彼が写した指月山を背景とした菊が浜の松並木の写真を、本の表紙に利用させてもらった。しかし彼は「俺は文学は苦手だ」と言っていたから、この本は恐らく読まなかっただろ。
碓氷峠は群馬県の西部に位置して、長野県の直ぐ近くにある。群馬県は上州と呼ばれ、股旅物の国定忠治で有名である。現在の有名人と言えば、戦後、小渕、中曽根、福田親子の四人の総理大臣を挙げることが出来る。私は群馬県へ行った事はないが、養蚕で有名だということだけは知っている。そして初代の群馬県知事が松陰先生の妹と結婚した楫取素彦である。この程度の知識しかない。隣の長野県へは数回行ったが群馬県の事はこのように未知なのでネットで一寸調べて見た。面白い記事が載っていた。
上州名物の三つの「か」は、「かかあ天下」と「空っ風」と「雷」です。空っ風と雷は地形と気象の問題。かかあ天下とは、女が働き者だったという話です。
上州では養蚕が盛んであった。この仕事は女性が行うため、一家の経済の主導権が女性にあることが多く、発言権も大きかった。(中略)彼女らの収入は、男性のそれよりもはるかに高額だった。所で上州では女が男を捨てる。
まあこんなことが書いてあるのには驚いた。話は元に戻るが、もう四年ばかり前になるか、彼からこんな電話が来た。
「運転免許の更新で筆記試験を受けたら、不合格になった。病院へ行って検査して見よと言うから行って検査したらやはり駄目だった。従ってもう自動車の運転は出来ない」
一見したところ何処もどうと云うことはないのだが、認知症の徴候が現れたのである。その後しばらくして腰を傷めたかどうかで入院し、それから急速に症状が重くなったようである。
数日前に全く突然に「確井の息子です。此の度群馬の方へ父を連れて帰ることにしました。途中先生に父を会わせたいと思いますが、会って頂けますか?父は先生の事をよく口にしていましたから。」
私は快く了承してその時を待っていた。息子さんを萩高校で教えているが私はどうも思い出せない。試みにネットで「確井茂夫」を調べたら、徳島大学卒業後、富士重工株式会社に就職して「前方認識センサによる運転支援技術」の開発で著名な存在だと知った。今はスバル用品株式会社という関連会社で、やはり自動車の開発部門に従事していると言って、会ったとき名刺を呉れた。
その日がやって来た。我が家の直ぐ近くのスーパーに立ち寄るからのことで、僅かに雨が降っていたので傘をさして行ってみたら、着いたばかりの所であった。
私は車椅子に乗った儘の友人に会い、しっかりと手を握って励ましの言葉を掛けたが、果たして意思が通じたかどうか危ぶむ。しかし手を握り返してじっと目を向けたので分かったと思う。往年の元気な姿は見る影もなかった。
彼の奥さんと娘さん夫婦も一緒だった。彼は息子のいる群馬で近くの施設に入り、奥さんの方は広島の娘さん夫婦の家で暮らすとのことだった。こうして老いて夫婦が別れて生活する事になるという。悲しい事だがやむを得ないことだ。先にも書いたように、彼の遠い先祖は碓氷峠のある現在の群馬県に居住して居たから、こうして遠い父祖の地に彼だけ帰り、そこで骨を埋める事になるとは、考えてみると不思議な因縁と言える。
「老いては子に従う」と言うが、それにしても親孝行な二人の子供を持って、数え年で九十歳になっているが、幸せな男だと私はつくづく思うのである。思えば彼は日本酒が好きだった。宴席でも酒だけ飲んで会を盛り上げていた。考えて見れば好きな酒を飲み、この年齢まで長生きして、最後は立派になった息子に面倒を見て貰えるとは、彼の一生は恵まれていたと言うべきだろう。
私が山口に転居したのは平成十年である。それからは墓参りなどで萩へ行った時にはいつも高校の同級生と、萩市民館の近くの喫茶店で集まって話していた。その時私は確井君に前もって連絡した。彼は同級生に呼び掛けて、皆を誘い出してくれていた。大抵六・七人は集まっていた。しかし数年前から一人また一人と亡くなっていき、其の集まりも自然消滅した感がある。今では連絡の取れる同級生は萩市内には二人残るだけになった。
「逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(や)めず」
私は今朝起きて十日に一度の室内の掃除をしながら、思わず孔子の「川上(せんじょう)の嘆」を口ずさんだ。
令和二年十一月十日 記す
*硫黄島の奇跡(文庫本の紹介文)
『硫黄島の奇跡 - 白骨遺体に巻かれたゲートル』
山本孝夫
山口中学校萩分校は、明治三十二年(一八九九)に正式に山口県立萩中学校として発足した。その翌年に岩国と徳山のそれぞれの分校も県立中学校となった。当時は豊浦中学校を加えて、これら五校しか県下には県立中学校はなかった。緖方惟(のぶ)芳(よし)はそれまでその前身の萩分校に通っていた。彼はそのとき三年生であった。二年後の明治三十四年(一九〇一)五月、彼は五年生になったばかりであったが、家庭の事情で、自ら学校を中退して三菱長崎造船所に入社した。彼が順調に卒業していたら県立萩中学校の第二期の卒業生である。そうしたら彼の人生は変わっていたであろう。
私が県立萩中学校に入学したのは昭和十九年(一九四四)で太平洋戦争の末期、先輩達は皆動員学徒として軍需工場で働いていた。われわれ一年生は工場へは行かなかったが、働き手のない農家の手伝いや、上陸用舟艇の基地建設などに従事させられた。戦争が終わり、戦後の学制改革で県立萩中学校は県立萩高等学校へと名称が変わった。われわれは同じ学校に六年間通ったが男女共学は経験しなかった。
私は昭和二十五年(一九五〇)に萩高校第二期生として卒業した。緖方惟芳は私の父の姉の夫である。従って私にとっては伯父である。伯父ではあったが、私にとっては全くかけ離れた存在だった。彼が萩中学校を中退して五十年の歳月が流れている。この間我が国は三つの大きな戦争にも巻き込まれそして大きく変貌した。すなわち日露戦争、第一次世界大戦、太平洋戦争、そして数々の大事件である。
この日露戦争に惟芳は明治三十八年(一九〇五)から戦争が終わるまで、看護兵として兵役に従事することになった。満州の曠野において特に冬季は氷点下二十度を超える極寒の中、筆舌に尽くしがたいほどの戦争の悲惨を目の当たりしたことは、彼が書き残した『軍隊手帖』で窺うことができる。戦後無事に帰還した後、彼は思うところがあって造船所を退職し、広島陸軍病院に勤務した。彼は病院に勤務しながら医師の資格を得るために猛勉強をし、受験者三十人の中で一人だけ合格した。
このことを知った当時阿武郡宇田郷村の村長、中山脩三氏がわざわざ広島にいた彼の下を訪ね、村の医者になってくれと懇望した。彼はその熱意に感じて村医になる決心をした。ときに明治四十五年(一九一二)十二月のことである。彼はそれから昭和二十年(一九四五)まで三十年以上の長きに亘り、「医ハ仁術」の精神で昼夜を分かたず村民の医療に身を捧げたと云っても過言ではない。太平洋戦争が終わった昭和二十年の夏、宇田郷村で伝染病が流行していて、彼は隔離病棟へ行って患者を診た直後、突然倒れ三日後に不帰の客となった。当時としては六十二歳の老人であった。
彼の長男芳一(よしいち)は子供の時から父の生き方を見て、医者を志し日大医学部を卒業した後、東京の芝済生会病院に勤務していた。老いた父がまだ診療を続けているのを見るに見かねて、彼は昭和十八年(一九四三)に宇田郷村に帰り、父の後を継いで医療に従事する決心をした。帰村後、彼は程なくして結婚した。しかし運命は非情である。結婚後わずか四ヵ月で召集令状が舞い込んできた。彼はその時ちょうど三十歳であった。戦争は今や最後の段階に近づいていた。アメリカ軍は硫黄島を占拠してそこからB29による日本本土への空爆を行おうとしていた。彼が硫黄島へ派遣されたのは昭和十九年三月のことであった。
周知のように、硫黄島はこの日米の戦いに於いて空前の激戦地となった。
「昭和20年2月19日、米軍は艦砲射撃と艦上機の銃爆撃による支援のもとに、0900ごろ上陸用舟艇約250、水陸両用装甲車約500をもって南海岸に上陸を開始した。」
(硫黄島読本』より)
芳一は島の北側、指令本部のある洞穴の近くの別の洞穴にいたから、三月十七日の最後の全員突撃まで、米軍の上陸後数日間生きてはいたと思われる。しかし洞穴内の状況は「強烈な暑熱と硫黄ガスの臭気は、この地を踏んだ者でなければ、おそらくわからないであろう。かかる切迫した状況下に、日本軍は24時間、交代で穴を掘らなければならなかった」と先の『硫黄島読本』に記されている。
飲めるような水が全くない炎熱の耐え難い洞穴の中から、彼は家族に宛てて多くの手紙を書いた。その手紙で、「たとえ工場で働いても学生は学ぶことを忘れてはいけない」とか、「お前達は自分に代わって親孝行を頼む」、と妻や三人の弟たちに切々と書き送っている。しかし上記のような過酷な状況下にあって、彼は少しも深刻ぶらないで、たえず家族の者を安心させようと、ユーモアを交えた手紙も書き送っている。
父の惟芳が極寒の満州でロシア兵と戦ったのが明治三十八年(一九〇五)である。それからちょうど四十年後の昭和二十年(一九四五)に長男芳一は炎熱の硫黄島でアメリカ兵と戦い、終に洞穴の中で自爆した。何とも言えない不思議なものを私は感じる。わずか四十年の間に、これほどの事が日本の一家族の上に生じたのである。
戦後、厚生省から昭和二十年三月十七日、芳一が戦死したとの通知が来た。恐らく重傷を負っていたので、手榴弾を胸に抱いて自爆玉砕したと思われる。昭和四十五年(一九七〇)の『第二次硫黄島遺体収納団』によって奇跡的に見つかった「白骨遺体に巻かれたゲートル」の断片から、本人だと確認されたが、胸部の骨はみあたらなかった。
この昭和四十五年から令和二年(二〇二〇)の今年でちょうど五十年経過している。硫黄島には、未だに収集されないで地中に埋まっている遺体が数多くあり、発掘作業が続けられている。既にこれまでに収集されたとはいえ、殆どの遺体は誰のものか確認できない。このような中になって、本人の遺体だと確認できたのは、全く奇跡だとしか言いようがない。
私は以前『杏林の坂道』(私家版)と題して、一介の村医者としてその生涯を貫いたと言える緖方惟芳と彼の家族のことを書いた。平成二十九年(二〇一七)十二月に文芸社という出版社が作品の応募をしているのを知って、この本を社に送ってみた。翌年の二月に、全面的に社の負担での出版はできないが、応分の援助をするから是非出版するようにとの通知が来たが私は断った。
その年の五月に妻が旅先で急死した。妻は出版には反対していた。葬儀を終え私の気持も落ち着いた八月に、また文芸社から今度は「文庫本 10作限定」の企画があるからとの文書が届いた。そこで今度は硫黄島で玉砕した芳一を中心にして書いた原稿を送ってみた。そうすると是非出版するようにとの要請を受けた。
全国から数多くの応募作品があり、社の中で検討して選出したとのことだが、何しろかなりの費用が掛かるので私はまた断った。その後も企画についての詳しい文書を送るなどしてくれた。度重なる要請なので息子達とも相談してみたら、一生に一度の事だからやってみたらと言ってくれた。そこで芳一の弟の緖方正道(私の従兄)に話したら費用の半分を出すと云ってくれたこともあり、文芸社に出版了承の旨を伝えた。
その時、文庫本の表紙に相応しい写真があるのを思い出して、出版社に二枚の写真を上下に重ね合わせて送った。それは母校の萩高校で教えた上野達雄君が送ってくれたものである。彼は探鳥の旅で小笠原群島の中にある硫黄島を遠望した素晴らしい写真と、紺碧の海の上、雲一つない青空を飛ぶネッタイシロオチョウの写真を送ってくれていたのだ。彼は九州大学の理科(大学院)を出た後、気象庁に勤務していたが、数年前に定年退職した後、全国を廻って鳥の写真を撮ることを趣味としていると言っていた。彼は萩高校を昭和四十五年(一九七〇)に卒業した第二十二期だから、第二期卒の私より二十歳若いことになる。彼は卒業して今年でちょうど五十年になる。私はこれまで五十年という時の経過に三度言及した。たかが五十年、されど五十年、という感じである。
ほどなく文芸社から具体的な出版に関する書類などが送ってきた。何しろ初めてのことで不安だったが、書面を見ると校正などもきちんとしてくれるようなので、後は相手を信用するほかはないと思った。私は「あとがき」だけは書いていたが、『序』を書き加えて載せてくれるように頼んだ。
出版費を前もって送っていたのだが、その後原稿に綿密な校正を加えて送ってきた。私はこれを見て安心した。その数日後、今度は本の表紙と「腰帯」だけが見本として送ってきた。私は最初『奇跡のゲートル―硫黄島からの手紙を含む』という題を考えていたが、送ってきたのは『硫黄島の奇跡―白骨遺体に巻かれたゲートル』となっていた。さすがは出版のプロだと思った。私が付けていた題より、この方が読者の注目を引くと思われる。さらに「腰帯」に書かれた文章も私としては充分満足のいくものだった。次のように書いてくれていた。
母が彼の無事を祈って
縫い付けた名前。
それが奇跡をうんだ――。
(腰帯の表)
1945年2月19日、硫黄島にアメリカ軍が上陸した。ここか
ら激烈且つ凄惨な闘いの幕が上がる。軍医として召集され、洞窟
内で自爆玉砕した緖方芳一は、名前もわからない遺体が多いなか、
奇跡的に身元が判明した数少ない一人である。彼が残した焦げ跡
の残る手帳と、家族にあてた手紙から、当時の島の様子、また残
された家族の複雑な心情を見る貴重な歴史的資料として後世に残
すべき書。
(腰帯の裏)
人間の一生は目に見えない他力や因縁によって大いに左右される、と私は思っている。例えば結婚など運とか縁によって実現するのではなかろうか。前にも触れたように、昨年五月に私は妻を亡くした。ところが十一月末に従兄の緒方正道の妻が亡くなった。そして今年一月、彼は思わぬ事故で大腿骨を折って入院している。彼はこのささやかな本を書くにあたり沢山の資料を提供してくれた。
縁は異なものと言われているが、先に述べた文庫本の表紙の写真を送ってくれた上野君が、先日山口県での探鳥のついでといって訪ねてくれた。彼はその日のうちに新潟に帰らなければならないからと、長居はしなかったが、ほんの少しだが探鳥について話してくれた。
鳥は普通深山と人里の境において発見される。また渡り鳥はシベリアから南へと大移動する際、日本列島や朝鮮半島を縦断して風に乗りながら、そして所々で羽を休めながら飛び続けるのだが、中に群れからはぐれて迷い鳥となる。そうしたのが珍しい鳥としての探鳥仲間の狙いで、見つけた者は連絡しあって、その鳥の撮影をするのだと言っていた。だから漠然とこのあたりにいたと言ったのでは決して見つからないで、点ポイントでその発見場所を教えまた教えられて初めて発見できるそうである。
それでも場合によっては二日も三日もカメラを構えることがありとか。さらに鳥が飛び立つ時を狙ったシャッターチャンスとなると、容易なことではない。私はこれを聞くまでは全国に鳥を求めて遊び回る楽しい趣味だと思っていたが、実際は極めて厳しく忍耐を要するものだと初めて知った。だからそうして新発見の鳥を見つけたときの喜びは格別だとも言っていた。
彼は探鳥の外に全国各地で開催されるマラソン大会にも出場していて、これまでに二百回近く参加したと言っていた。探鳥も体力と気力と運がなければできないことだと知った。
硫黄島の周辺の海上を飛んでいた白い海鳥の写真も、こうした彼の話を聞くと、色々な条件のもと、運よく瞬間的に捕らえた貴重な写真だとつくづく思った。
上野君は帰りがけに、「こうして珍しい鳥を探し求める事が出来る今の日本は幸せです。つくづく平和の有り難さを感じます」と言った。
八年ばかり前に私家版で『杏林の坂道』を上梓した時、題名が良いと褒められたが、今回も表紙の写真だけは褒められるかも知れない。まあいずれにしても、米寿を迎える私にとって、こうして出版することができたのも、ここに至るまで多くの人達のとの不思議なご縁やお蔭だと思うと、本當に有難く感謝する次第である。
令和二年一月吉日
明治三十八年の日記
明治三十八年の日記
明治三十八年
一月元旦 日 睛
午前八時床ヲ出テ
祝賀ノ盃ヲ上ゲ
正月ノ規定ノぞーに
を食フ本年ハ戦地
ノ為メ祝賀式ヲ畧
シ分隊上官代表
シテ礼ヲナス
本日ハ愉快〇〇我
国ノ頭ヲハナレザル
旅順口ヲ降服セ
シム
一月二日 月 睛
本日午后迄家ニ在
リテ愉快ニ遊ブ
午后四時頃旅順
降服ノ報ヲ聞クヤ
酒ヲ買テ大ニ祝ス
日没ヨリ〇〇ノ
看護長全部
我分隊ニ来リ
共ニ大ニ陥落ヲ
祝セリ
其勢出征来
ノ初メナリト云フ
一月三日 火 睛
本日午前中家ニ在リ
午后ヨリ捕犬ヲナス
夕刻ヨリ寺尾分隊
ニ至ル夜ニ入リ父ヨリ
来ル信書ヲ見テ
フルキヲ思ヒ悲〇ノ
大トナル
一月四日 水 睛
午前午后ヨリ
清潔検査ヲ行
フ又午后ヨリ日直
トナル
一月五日 木 睛
本日戦地ニ於テ新
年宴会ヲ開ク酒
盛ニトテ支那車輌
ニ卧シテ寒ヲ取ル
一月七日 土 睛
本日午前十時頃〇隊
ヨリ軍曹蓄音器
ヲ持来リ正午迠
吾宿舎ニテ音楽ヲ
為ス内地ニテハ蓄音
器ハ何ノソノ然レドモ戦
地ニテ是ノ如キ音ヲ
聞クヤ内地ヲ思ハシム
一月六日 金 睛
本日正午ニ於テぼた
もちを作ル内地ヲ発
シテヨリノ初物ナリ然レドモ
為ニ暖爐シテ
毛布二枚焼ク
一月八日 日 睛
本日陸軍初メノ祝日ヲ
以テ加給品ノ酒ヲ分配
セラル
一月九日 月 睛
本日午后ヨリ室内外ノ
清潔検査ヲ施行ス
本日ヨリ帝国憲法
学ヲ学ブ
一月十日 火 睛
本日午后ヨリ日直トナル
終日家ニ在リ
一月十一日 水 睛
本日無異
一月十二日 木 睛
一月十五日 日 霧
本日雲霧最モ甚シク
シテ十間前ノ物ヲ見事
能ハズ冷気ノ為メ草木
ニ凍結シタル霧恰モ
梅花ノ如ク凍ル太陽
之ニ光謝シタルトキハ一層
ノ美観ヲナセリ
一月十六日 月 同
一月一七日 火 同
一月二十五日 水 -16 雪
本日午后五時頃急ニ出
発準備の命令アリ直ニ
之ヲ整ヘ命ノ降ルヲ待ツ
敵ハ我左翼ニ来ルト云フ
一月二十六日 木 -15 雪
本日早朝ヨリ起キ命ヲ
待ツ我師団ハ當分ノ
間必要無キ様ニテ一時
中止セリ本日ノ会報ニ依
レバ露国ノ皇帝皇
后ハ行方不明トナレリ
云フ敵ハ我軍ノ為メ
囲マレタリト云フ
一月二十七日 金 -10 雪
昨日午后十二時頃床ニ就
クヤ本日午前一時半頃
師団ヨリノ命アリテ直
チニ本日ノ食事ノ用意ヲ
ナシ準備終リテ又少時
眠ニ就ク五時半頃床ヲ
出デ愈出発ノ事定マル
前日第八師団向ヒ
本日第五師ノ九旅団
及騎兵出発〇〇〇
向ヒタルト云フ
本日終ニニ出発ノ命ナシ
出発準備ヲナシ床ニ
就ク
一月二十八日 土 -16 雪
本日同ジク出発準備ヲナシ
命ヲ待ツ本朝ヨリ支那
車輌ノ監視ヲ命ゼラル
午后四時頃急ニ出発
命降リ直ニ食事ヲ
終ヘ午后五時頃ヨリ
李家達連溝ヲ出ヅ
村ヲ出テ半里程ニテ
日没トナル其レヨリ夜
行軍ヲナシ明午前
三時小煙台ニ至り
軽急露営ヲナシ支那
車輌営兵司令トナリ
終ニ終夜一睡ヲ得
ル事ナクシテ明朝ヲ
向フ夜間風無キモ
寒冷甚シクシテ氷柱
口辺ニ連リ其冷気
最モ甚シ(里程六里)
一月二十九日 日 -10 睛
本日午前八時出発ノ命
降リ村ヲ出テ西方狼
洞溝ニ至ル前日ノ行
軍ト不睡トニヨリテ非常
ノ疲労ヲ得正午目的
地ニ至ル里程二時餘
途中露降兵二隊
及我負傷兵ノ一隊ト
出逢ヒ知ラザルノ感アリ
本邑ニ至リ露営ノ積
ナルニ幸ニモヨウヤクニシテ
一民家ヲ求メ舎営ヲ
ナシ午后十時半命
令ノ傳達ヲ聞ク其大
要明日滞在吾五師
団ハ予定ノ陣地ヲ占領
ス
一月三十日 月 -10 睛
本日滞在 入浴ス
一月三十一日 火 -8 睛
本日同分隊員棚田氏
近傍ノ河ニテ氷ヲ壊キ
「ナマズ」ヲ捕ヘ食ニ供ス
実ニ上陸以来ノ生魚
ノ初物ナリ
二月一日 水 -21 睛
本日精酒一合菓子三十
匁ヲ分配ス
滞在ニシテ無異
二月二日 木 -26 睛
我満州軍ノ左翼軍ニ
参加シタル将卒ニ向ヒ陛下
ヨリ詔語ヲ賜リタルヲ以テ
午前十一時頃本部前面
ニ於テ奉読式ヲ施行
二月三日 金 -26 睛
本日午後五時頃ヨリ宿
営撰定ソノ為メ東方
一里程ナル張家寓棚
ニ至リ宿営シ本体ノ来
ルヲ待ツ本日ハ旧暦ノ
年末ナリ
二月四日 土 -23 睛
本日本隊ヨリノ報ニ依
レバ當地ハ外部隊ノ
宿営地ト撰定シタル
トノ事ヲ以テ不得止旧
宿営地ニ帰ル
本日加給品トシテ酒一合分
配ス
二月五日 日 -19 睛
本日陛下ノ侍従武官
ヨリ陛下ノ御意ヲ傳ヘラ
ル外無異
二月六日 月 -21 睛
二月七日 火 -22 睛
二月八日 水 -24 睛
本日正午ヨリ衛生司令
命ゼラレ明正午迠務ム
二月九日 木 -24 睛
本日正午衛兵ヲ終ル
二月十日 金 -21 睛
二月十一日 土 快晴
本日快晴一点ノ雲ナク実ニ
我国満州ニ末長ク輝カン
事ヲ思ハシム
無事紀元節ヲ祝ス
特別加給品トシテ酒煙草
菓子等数多アリ
二月十二日 日 睛
二月十三日 月 睛
本日天皇陛下ヨリ恩賜ノ
煙草、菓子ヲ分配セラル
二月十四日 火 睛
本日午後ヨリ明正午マデ衛
兵ヲ勤ム
二月十五日 水 睛
二月十六日 木 快晴
本日靴足袋ヲ分配ス
二月十七日 金 睛
二月十八日 土 快晴
本日清潔検査施行
二月十九日 日 睛
本日午前十一時頃ヨリ西南
方一里程ナル徐家台ニ
至リ宿営ス午後六時ヨリ
衛兵ヲ命ゼラル
二月二十日 月 曇睛
睛曇トテ風烈シ本日午前
九時ヨリ西南一里半ナル
曹家寓棚ニ宿営ス
二月二十一日 火 睛
二月二十二日 水 快晴
二月二十三日 木 降雪
二月二十四日 金 睛
二月二十五日 土 睛
本日ヨリ以後何時ニテモ
出発スルニ應ズル様命アリ
本日新任事務官
笹村駒十郎氏来ル
二月二十六日 日 降雨
寒気甚シ
昨日ヨリ本日夕刻マデ
衛兵勤むヲ行フ
二月二十七日 月 睛
寒気最モ強シ
入浴ヲ行フ
本日児玉主計転任ス
二月二十八日 火 睛
寒気強シ
本日午前一時ヨリ出発
準備ヲナシ何時ニテモ
出発シ得ル様トナス
三月一日 水 睛
本日午前四時頃床ヲ出テ
直チニ食事ノ用意ヲナシ
同六時ヨリ當地ヲ出テ
北方二里餘ノ太台ニ至リ
命ヲ待ツトキニニ境年三
及八谷俊一ニ面会シ
正午迠命ヲ待ツ是
ヨリ前途中十時頃ノ
銃砲声ノ盛ナル大撃
戦大地モ為ニ一変
スルヤト思ワシム正午
ニ至リ三丈子ニ至リ野戦
病院ヲ開設スベキ命
ヲ受け西北方一里
程ナル村邑ニ至ル其地
ハ砲兵陣地ノ在ル
所ニシテ実ニ敵弾
来ル事夥シ殊ニ当
近傍数米突ノ所ニ
落下シ危険甚シ当
地ハ衛生隊第一中隊ノ
開設スル所ニシテ之ト
交代スル筈ナリシモ前
方落弾烈シキ為メ
衛生隊ノ進ミ得ズシテ
又当地ニ帰ル為メニ
南方半里強ノ古
城子ニ至リ野戦病院
ヲ開設ス日ノ没スル頃
ヨリ明日出迠ニ千人
ノ収容ヲナシ吾ハ長瀬看
ゴ長ノ許ニテ三百許
ヲ収容シイソガシキ事
倒ヘガタナシ
三月二日 木 雪
本日雪降前日ノ
患者ニ手を盡ス
三月三日 金 睛
三月四日 土 曇
本日正午迠ニ外病
院ニ〇ルトノ一説
ノ為メ非常ノ繁雑
ヲ来ス
三月五日 日 睛
本日正午迠ニ第六師団
衛生予備員ニ引渡
シ前進ノ命降ル
午后四時ヨリ北東方
三里餘ノ新台子ニ
至リ命ヲ待ツ
三月六日 月 睛
本日午前六時頃ヨリ
宿舎ヲ出テ東北
五里程ノ崔家堡
ニ至リ命ヲ待ツ午后
五時命降リテトウチノノ
北方ニ於テ野戦病
院ヲ開設ス時ニ〇〇
将校病院ヲ受ケ
収容患者九百八十三
三月七日 火 睛
三月八日 水 睛
本日〇〇シタ患者ニ
力ヲ盡ス午后五時頃
ヨリ南方一里半ナル
蘇胡堡ニ患者百
六十名ヲ転送ス
三月九日 木 大風曇
本日南風烈シ
三月十日 金 睛
三月十一日 土 睛
本日正午迠ニ第四師団
衛生予備員ニ引継
グ午后五時頃ヨリ東
北方半里ナル大楡樹林ニ
至ル
三月十二日 日 睛
本日午前八時頃ヨリ
西南方新台子ニ至ル
三月十三日 月 酒煙草 風 睛
本日午前九時頃ヨリ
将校ノ用事トシテ服
ス
本日鉄嶺落トスト云フ
三月十四日 火 睛
本日近傍ニ於ケル彼
我ノ死体検査ニ至ル
三月十五日 水 酒煙草 睛
昨日取調ベタル死
体ヲ取片付ク
三月十六日 木 曇
三月十七日 金 酒煙草 睛
三月十八日 土 睛
本日午後三時ヨリ前
院長氏家秀雄ノ
分〇幷ニ後任青
木秀三郎ノ信任式
施行
三月十九日 日 睛
本日午前九時ヨリ前
院長ヲ村ノ東北ニ於テ
集合シ送ル(酒煙草)
三月二十日 月 睛
本日清潔検査下調ヲ
行フ(菓子三十匁分配ス)
三月二十一日 火 半曇
本日午后一時ヨリ新院長
各宿舎ヲ検査ス
昨日ノ開報ニ開原ヲ我
軍占領スト
三月二十二日 水 睛
三月二十三日 木 睛
三月二十四日 金 睛
三月二十五日 土 睛
本日ヨリ看護〇〇〇
学実科施行ス
三月二十六日 日 半曇
精酒一合分配
三月二十七日 月 睛
本日休業
三月二十八日 火 睛
本日曇天南風強シテ午
前八時食事終リテ
同十時頃ヨリ南方二里
餘ノ沈旦堡ニ至ル当地ハ我
中央軍ノ第一線ニシテ彼
我ノ距離僅ニ千米突
ニシテ其近傍ノ樹木彼
我両者ノ弾丸ノ
為メ蝉巣ノ如シ以テ
当時ノ状態如何
ナリシカヲ思ヘバ心ヲ寒
カラシム之ヨリ西南方ニ
進ミ柳〇口ニ至ル村ハ
一小部邑ニシテ砂山ハ我
師団ノ最も注意スベキ
古戦場ナリ之ニテ昼食
ヲ終リ新台子ニ向テ
帰路ニ着ク時ニ
午后後五時頃
帰村前微雨トナル
帰路ノ〇〇〇〇
本日精酒一合ヲ分配
当村前院長及新任
院長ヨリ精酒を分配ス
夜ニ入リ酒宴盛ナリ
三月二十九日 水 雨
本日雨天学科ヲ
施行ス
三月三十日 木 雪雨
本日午前二時命下ル曰ク
午前八時当地出発
翟家堡ニ舎営病
院ヲ開設スベシト
予定ノ時間ニ至リ
当地ヲ出テ北方ニ向ヒ
翟家堡ニ至ル
本日水雪冷々トシテ
道路悪シ渾河
ハ前二回共に氷上ヲ
踏ミ至リシモ全テ氷
解ケテ軍橋ノ力ニ
ヨリテ渡ル翟家堡
ニ至リタルハ午後二時
半直ニ前所ニテ
舎営病院開設
ニ取掛ル当時我ハ
発看部附トナル
本日入院患者ナシ
三月三十一日 金 半睛
本日入院一名水島
中佐ニミ外異ナシ
盆前の朝の一時
盆前の朝の一時
毎日33度に達する猛暑が続いている。昨日は鳥取で37度になったとか。これに加えてコロナ感染が増加の傾向にある。山口県でも6人の感染者が出たと報じていた。クーラーがあるから助かっているが、これが無ければ国民の多くは熱中症で皆死んでしまうだろう。昔は扇風機さえなくて皆団扇(うちわ)か扇子(せんす)で涼を取っていた。またヤブ蚊が多かったので寝るときは蚊帳(かや)に入って休んだ。夏は毎晩蚊帳をつり、朝起きたら蚊帳を畳んだが、今の若い者は蚊帳どころか団扇でさえ知らないだろう。この程度で済んだので、今はやはり異常だと思われる。
今朝は丁度5時に目が醒めた。直ぐ起きてリビングへ行ったら寒暖計は28度を指していたので、クーラを26度に設定し先日来読んでいた『日本と韓国』という論文をやっと読み終えた。神戸の知人が書いて送ったものだから、どうしても読み終えなければと思って数日かけたやっと読了した。彼は今85歳だと思うが、膨大な史料を参考にして我が国と韓国との悲しい歴史を辿った論攷である。彼が依拠した書籍は概ね左翼系の学者が書いたものの様だが、史実として恐らく間違いはないと思われる。読んでいて殆ど場合日本人に非があるように書かれているから、あまり気分が良いものではなかった。だから一気に読み終えることは出来なかった。しかし歴史的事実を踏まえて書かれたものだと言うことはよく理解できて、その面においては勉強になった。
維新以降山口県出身の総理が多い。伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、これらの宰相は伊藤を除いて皆陸軍大将である。彼らの指導の下で日本は朝鮮や満州、さらに中国へと進出したことは間違いない。この行為を一方的に弾劾(だんがい)するのは少し考えものだと私は思う。欧米列強の東洋での植民地政策に直面した我が国は、若し他の東南アジア諸国のように、侵入者のなすがままになって居たら国は亡びたと思う。その点大和民族は違うのではなかろうか。先の論文の最後に著者は次のように書いていた。
「自分の好まぬ歴史の事実を、自虐史観の名をかりて隠蔽する未熟な国であってはならない。自国の栄光とともに、汚辱の歴史をも引き受ける成熟した国家の在り方である。加害の歴史を墨で塗り潰しても、被害の国がもつ人々の記憶を消し去る事はできない。拙稿は日本人にとって好ましくない、敢えて捕らえようとしなかった、別種の魚を釣り上げようとするものである。」
確かに実に詳しく良くこれほどにまで纏めて書いたものだと感心した。戦後アメリカは彼らに取って都合の悪い書類や本を全部焼却した。そして一方的にGHQの考えを押しつけた。戦争の帰趨がもう確定しているのに無辜の民を原爆で大量虐殺した。この事は決して許されるべき行為ではない。戦争というものは勝てば官軍、負ければ惨めな者である。東京裁判はその良い例である。
昨日庭で蜻蛉の空中静止の姿を見て「オスプレイ」という駄文を書いて、人間のどうしようもない残虐性を一寸考えて見たが、生存競争は人間を始め全ての生物に埋め込まれた遺伝子によるものだと思う。知的には人間は進化するが精神的には遅遅として進まないように思われる。こうした事を考えて論攷を送って呉れた知人にお礼のメールを書き送ったら丁度7時になった。今日は10日に1度行う室内の掃除の日である。まず洗濯物を洗濯機に入れ、掃除に取りかかった。最初に掃除機で上下階の部屋を綺麗にしたら丁度30分かかった。それから今度はモップで階段などを拭き掃除すると15分を要した。それで汗になったので身体をシャワーで洗い、今度は神棚の榊、仏壇の花瓶等三つの水と、お供えのお水を取り替えてやっと手を合わせて礼拝した。昨日長男の嫁が多忙の中、わざわざ立派な花と野菜を持ってきて花を花瓶に生けたので、その分手間が増えたがやはり美しい花は見た目に心を喜ばす。彼女は県庁の学校安全・体育課に勤めていて、コロナの発生で日曜もないほど忙しくしていると言っていた。今度は外に出て軽く体操し、木剣を33回素振り、その後、庭にある地蔵像を拝んでやっと朝食前のスケジュールが終わった。
それから又室内に入り朝食の支度、パンを焼き珈琲を淹(い)れ、ソーセージを焼き、野菜をチンして食卓に並べたら、又鳩が来たので少し玄米を撒いてやった。こうしてやっと朝食にありついた。まあこうして今のところ何とか身体が動くが、若し私が先に死んだら妻は痛む身体を抱えて、地獄の日々とまではいわないが苦しい毎日を送ったと思うと、せめて私の方が生きて良かったと思う。
実は昨日妻の従弟が電話して後やって来た。彼の奥さんが今施設に入って居るそうだが、その前に日赤病院に腎臓疾患で入院させたところ、コロナのために面会謝絶。その為に精神的に異常を来たし、医者が薬を投与したところ、それが却ってマイナスの効果となり、狂乱状態にまでなって医者は匙を投げたとか。医者の無責任も甚だしい。その為に彼は奥さんを家に一端連れ戻したが、その興奮状態は収まらず、まるまる3日間一睡もできなかった。そしてやや小康状態になったので、いろいろ手を尽くして今の施設に入れることが出来たといって、全く憔悴した面持ちだった。娘さんが東京とアメリカにいるが帰れば2週間隔離されたりするので帰りたくても帰られないとも言っていた。
話を聞くだけでも実に悲惨な気の毒なことである。思えば彼の妻なる女性は広島大学の医学部を出て大学で教えていた。私の妻が家にいて主婦業だけで何もしないのでハッパをかけるような言葉を口にしていたが、まさか彼女がこのような状態に変わるとは予想だにできないことである。人間の命、その生涯は棺桶の蓋を覆うまで分からない。本当に明日の命が分からないどころか、どの様な死が待ち受けているかも、予想不可能である。突然の豪雨に見舞われて流されたり、無謀運転の犠牲になって死ぬ人もいる。原爆の犠牲になった純真な小学生が先生と一緒に写っている写真を見ると、彼女達は何とも言葉がないほど気の毒だし、若し其の親が生きていれば親の生涯は地獄だったと思う。戦争のない真の平和が来ることを願ってやまない。
ここまで書いてやっと、数日前までの生活に戻れるような気がする。漱石の三部作の最後の作品『門』と、今度は吉川英治の『私本・太平記』を読むことにしよう。
2020・8・10 記す
翻訳の難しさ
翻訳の難しさ
この季節にしては朝から冷たい雨が降っていた。息子と孫が昼前にちょっと寄って呉れた。車で20分ばかりの処に住んでいるので、気にかけて時々来てくれる。数日前に彼が勤めている「セミナパーク」へ連れて行ってくれた。此処は「総合教育支援センター」と言う施設で環境が抜群に良い。息子と孫の3人で桜を見ながらゆっくり歩いた。確かに此処は広々とした敷地で、桜の木も多く植えられていて、300メートルのトラックもあり、また一寸した森もあって絶好の環境である。今年は転勤だろうと思っていたのにそのまま留まることができて有難いと言っていた。
我が家で昼食を済ませて息子と孫は帰った。3時過ぎになって雨は少し小止みになったので、いつものように散歩に出かけた。先日逆回りのコースを歩いて「六地蔵」に向かっていたら、地蔵像の真上の墓地に小型のブルドーザーが見えた。近づいたら外にもう一台運搬車のようなものが道路にいて、墓石を積んで傍にあった小型のトラックへと運んでいた。作業をしていた人に尋ねたら「墓じまい」だと言った。何でもこの墓の持ち主が身寄りがなくて、老人施設に入ることになったので、これまでのように墓参りができない。そのために「墓じまい」を頼まれたとのことであった。今世の中はコロナウイルスが猖獗をきわめて収束の見込みが立たない状態である。従ってこれから、「店じまい」は多く起こるのではないかと思うが、「墓じまい」とは驚いた。
今日行って見るとかって数基の墓があったところは綺麗に整地されていた。私は何だか心淋しい感じがした。数年前京都の洛北にある太田垣蓮月の墓を訪ねたとき、大きな古い桜の木の根元にこじんまりとした蓮月尼の墓を見つけて、生前の勤王の歌人もこうしたところで永遠の安らぎを得ているのか、と感慨を催したことを思い出した。
なまじっか大きな墓を造っても、こうして後を見守ってくれる者が居なくなった時のことを思うと、徒に大きく立派な墓を建てることは考えものだと思った。今現在、樹木葬とか山や海での散骨ということが流行っているようである。さもありなんと思うのである。
こうして何時もの散歩を無事終えて帰ったのであるが、帰りに、レンガを敷き詰めた歩道を歩いたら、桜の花びらが雨のためか風に飛ばされずに一面に張り着いていた。花びらの絨毯とまではいかないが、一枚一枚がレンガにびっしりとくっついていた。
これを見たためか、帰宅してふと柱に掲げてあるお寺から貰ったカレンダーに目をやると、次の言葉が読み取れた。4月に入って既に12日になるのに今日初めて気が付いた。
咲いて散って また咲く準備
このカレンダーはこうした気の利いた文句に英訳が添えてあるので、私は興味を持って見ることにしている。先ずこの言葉の下ある説明文と英訳を書き写してみると、
一度散って、終わりではありません。苦労も辛抱も、あなたが、また輝くためのプロセスとなるはず。ほら、舞い落ちる桜もエールを送ってくれていますよ。
そしてこの言葉の英訳は次のようにあった。
Enduring and overcoming today’s sufferings
will nourish a brighter future.
敢えて拙訳してみると「今日の苦しさに耐えて打ち勝てば、より輝かしい未来を育成できよう」
それにしても最初の言葉をこのように英訳したのには感心した。つまり翻訳が如何に難しいかということをこの短い文章からも教えられた。
さて、問題は、余命幾ばくもない老境に達した自分である。「今日の苦しきに絶えて打ち勝つ」と行った心境ではない。せめて今日一日を平穏無事に、そして楽しく過ごすことができたらと思うのみである。カレンダーの言葉も老若いずれを対象とするかで、その訴える意味合いが違ってくるように思われる。
2020・4・12 記す。
防府天満宮参詣
防府天満宮参詣
十一月七日は私の実母の祥月命日である。亡くなって八十七年になる。年月が経ったものである。この日に防府天満宮へお参りしようと思っていたが、事情があって翌日の八日になった。息子からは遠距離のドライブはしないようにと言われていたが、これだけはと思って実行した。
私は妻が亡くなって彼女の書き残した六冊の日記を時々見る。我々が山口市に転居したのは平成十年(1998)だった。妻は2004年からいつも同じ『高橋の3年日記』を用いている。彼女の日記を見ることで、「あの日に何があり、誰が来たか」といったことを確かめることができるからである。
私も3年連続日記を用いているが、出版社はまちまちである。この点を考えただけでも、妻はすることなすことがきちんと徹底していた。性格が字に現れるとも言われるが、妻の書いた文章は日々のスペース一杯に、しかも一字一字はっきりと黒のボールペンで明瞭に記載している。私はその点でも出鱈目で、紙面一杯に書くこともあれば、半分くらいで余白を残すこともある。おまけに書体はかなり崩れているので他の者には容易に読めないかも知れない。これは思うに、私は九時頃床に就くので、その日のことを思い出すがままにメモ的に記載するのに反して、妻は夜遅くまで起きているのでじっくり考えを纏めて書いたのだろう。まあ一事が万事、几帳面な妻に対して私はルーズというか、物事を大体で済ます傾向がある。言うなれば妻はやや神経質で、私はいささか大雑把といわれても仕方あるまい。
日記への記載一つをとってもこのような違いがあるが、こういったことも結婚してみて初めて分かる事である。だから世の中では折角一緒になっても、性格の不一致で破綻をきたす事もあるのはやむを得ない事だと思う。そこを破鏡に至らずに済むには、人のよく言う結婚には「忍耐と妥協」が必要なのかも知れない。何百何千という人の中から縁あって結ばれたのだから、やはりこのご縁を大事にすべきだろう。我々も、とくに妻の場合そう思ったのかも知れない。時々妻は冗談交じりに「勘違い結婚だった」と言っていた。
話が逸れたが、昨年の妻の日記を見たらこんなことを書いていた。
「朝食の時夫が今日天神さまにお詣りしようかと言う。ちょうどいい頃合いなので私も
乗り気になる。梅は峠を越しているとは言えまだ充分きれいだった。年と共にだんだん
お詣りの時期がずれて遅くなったが、なぜか天神さまへお詣りできたらほっとする。帰りは佐波川添いの宇佐八幡宮にも寄ろうというのでそこもお詣りをし、徳地の南大門や仁保の道の駅にも寄る。ふと角のそば屋が営業していたので、月曜会を懐かしみながらそばを食べて帰る。」
防府天満宮には私の曾祖父が寄進したというか、建てているかなり大きな長方形の御影石に俳句が刻まれてある。それが大きな自然石の上に据え付けてある。そしてその両側に紅白の梅が植えてある。
曾祖父は若いときに夢に天神さまが現れたとかで、それ以後天神さまを信じて、酒造業を萩で始めた時屋号を「梅屋」とし、酒銘を「箙」としたと聞いている。天神さまと梅は密接な関係があることは周知のことである。太宰府の天満宮には有名な「飛び梅」の樹があるし、境内では「梅が枝餅」を売っている。酒の銘を「箙」としたのは『広辞苑』にも載っているように「箙の梅」という故事を知って命名したのだろう。故事とは、生田の森の源平の戦いで、梶原源太景季が箙に梅の枝を挿して奮戦した事である。
句碑には「夢想」という字が横書きに刻まれ、その下に縦書きに彫られた俳句が読み取れる。
天満る 薫を此処に の梅の華 佳兆
「佳兆」は俳号である。
「夢想」とは、「あてもないことを心に思うこと。空想」の意味と「夢の中に神仏の示現のあること」の意味だと『広辞苑』に説明してあるが、此処では勿論後者の意味である。。先にも述べたように曾祖父は若いときに夢に天神さまを見て信仰するに至っている。
妻は結婚した当初、私が曾祖父の事を話したら、「鉄砲を買うとか何とか云っても、単なる商売人じゃないの」と馬鹿にしていたが、この鉄砲購入のことが『萩市史』に載っている事を知って、天神さまと曾祖父の事を多少見なおしたのか、上記の日記に書いていているような気持ちになって、我々は天神さまへ毎年必ずお詣りしていた。
このような訳で、今回は最後だと思い、昨年と全く同じコースを独りでドライブした。「そば」は徳地から山口への峠の途中にある店で食べた。爽やかな天気で紅葉がきれいだったが、傍らに話しかける妻のいない行程80キロの運転は、やはりこれを最期にしようとつくづく思った。そば屋の女将さんが「御元気ですね。お年にはとても見えません」と言って呉れたが、やはり運転には気を遣う。
妻の日記に「月曜会を懐かしみながら」と書いているのは、我々が山口市に移り程なくして二組の御夫婦と知り合うようになり、毎年一度我々三組、その後萩の知人ご夫妻も加わって合計八人の老夫婦が国内を方々旅行した。また毎週月曜日には市内の数カ所の食堂で昼食会を楽しんでいたからである。それも一組のご主人が亡くなられ、残りの老夫妻も鎌倉に行かれた。或る日「角のそば屋」でそばを食したことが思い浮かんだのであろう。
人生に於ける邂逅と離別は避けることのできないことである。最後は残った者がこの現世を後にして、次はあの世で又相まみえることになるかも知れない。その時は姿は見えないが、霊として実存しているのであろう。
(2019・11・11)