yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 第五章「旧師訪問」

杏林の坂道 第五章「旧師訪問」
 
(一)

 朝食を食べ終えて一休みした後、惟芳は母に言われていたので、菩提寺である端坊(はしのぼう)へ参詣した。門を入ると本堂正面に安置してある金箔の阿弥陀仏を礼拝し、本堂の左側奥まった処にある位牌堂へ行って祖先の霊前に手を合わせた。それから庫裏のほうへ行って、母から託されていた上米料(あげまいりょう)を住職に手渡した。お茶でも召し上がれと言われたが、辞退して本堂の階段を下りた。目の前に大きな蘇鉄(そてつ)が真っ青なトゲトゲした葉を茂らせている。すぐその側にあるのは、多くの寺院で見かけるのとは趣を異にした、二層三階の立派な鐘楼である。

 

 貞享三年(1686)三代藩主毛利吉就(よしなり)が、初入国に当たり寄進したもので、階上にある梵鐘は、時鐘、警鐘として長く人々に親しまれてきた。この鐘楼の横を通り、本堂の裏手にある緒方家の墓地へ行った。展墓を済ますと彼は松林山・端坊の山門を後にした。惟芳は今回の帰省の目的の一つに、旧担任の安藤先生宅の訪問を考えていたので、帰宅途中寄ってみることにした。

 先生の住まいは城下町にある。寺からは歩いてものの十分とかからない。瓦町と呉服町の境にある路地を右に曲ると、築地の白塀が道の両側に連なっており、この辺りの屋敷内にも橙の緑の葉が壁越しに見えた。街角から道はごく緩やかに傾斜しており、道幅は一間半程度。道の両側には溝蓋のない一尺幅の溝があり、その深さは一尺よりもっとある。屋敷の構えはどこもかなり大きい。溝に長方形の大きな石が二個または三個渡してあるところが、各屋敷への入り口である。道の進行方向の右手を少し行った処に桂小五郎木戸孝允)の生家があり、その先隣が先生の今住んでおられる家である。街角から四軒目の屋敷であることを惟芳は知った。この道筋では最も大きな門構えのように思えた。門の両側には瓦屋根を乗せた白壁の練り塀がかなり長く連なっていた。しかも門から左右に一間ばかり、瓦屋根の上に竹矢来が設(しつら)えてあるのは、いかにも物々しい雰囲気を醸し出しているように見えた。門の左手の塀越しに、柿の木に似た木肌の大きな木が背高く立っていて、四方に枝を伸ばしており、それらから新芽が今まさに吹き出しそうに見えた。門前の溝の上に、分厚い長方形の大きな玄武岩の敷石が三個ほど渡してあった。この石を踏んで、さらに二段の石段を上っていくと、木組みの立派な門が上から押しかぶさるように立っていた。門には頑丈な扉があり、日頃は閉めてあるのか、その扉に引き戸の付いた入り口が小さく開いていた。

 

 惟芳は背を屈めてこの狭い入り口から邸内に入った。そこは四角い五坪ばかりの空地で、左右は板塀で囲まれている。右手に勝手口がある。玄関の斜め前に山茶花の木が一本あった。白い花をいくつかつけているが、花びらが落ちていないところを見ると、掃除が行き届いているのだろう。そういえば安藤家の道に面した石垣には、雑草は一つも目に入らなかった。ただ石垣の間から芹(せり)か蕗(ふき)のような植物の茎が一本、青く伸びているのが目に留まった。玄関前の庭は日当たりがあまり良くないのか、山茶花はひょろひょろと伸びていた。玄関に入る前に彼はいったん立ち止まると、持参の風呂敷包みに目をやった。そして格子戸を静かに開けて敷居をそっと跨いで玄関に入った。
 「ごめんください」
 家の中はひっそりとしていて物音一つしない。少し間をおいてゆっくりとした足音が奥の方から聞こえてきた。襖が開くと、思いもかけず安藤先生自身が姿をみせた。
 「はい、どなたですか?」
 惟芳が朝の陽光を背に受けて立っていたので、先生は一瞬見分けがつかなかったようであるが、惟芳だと分かると懐かしげに声をかけた。
 「おおこれは、緒方君か。よう来てくれた。まあ上がりなさい。家内は子供を連れて買い物に出かけている。私は朝から松陰先生の手紙を読んでいた。丁度一休みしようと思ったところだ。別に用は無いだろう。まあ遠慮しないで上がりなさい」
 惟芳は玄関先で帰省の挨拶だけして失礼するつもりでいたが、是非にと言われるので、懐かしさも手伝ってお邪魔することにした。玄関の土間から部屋に入るには、薄くて平たい御影石の沓(くつ)脱石(ぬぎいし)から、一尺幅の分厚い框(かまち)の一枚板の上に先ず上がり、さらに三寸ばかり高くなっている敷居を越えて玄関の畳の間に入ることになる。普通の家とは違って、土間から畳までの高さは一尺五寸はあると思った。後で聞いた話だが、武家屋敷は格式によって床(ゆか)までの高さが決められていたという。玄関の間は三畳敷である。部屋の両側は襖で閉(た)てきってあった。先生の後に続いて隣の部屋に足を踏み入れた。そこは六畳の部屋で、左手の障子戸が戸外との境をなしているから、入った途端に明るく感じられた。さらにその次に奥座敷がある。彼はここへ通された。開けられていた襖の間を通って中に入ると、ここも正面の床の間に向かって左側の南に面した障子戸を通して、朝の陽光が明るく射していた。

 

 この座敷は大きな部屋で、正面に幅が一間以上で、一段高くなった床の間があり、太いい床柱の右側には違い棚があり、さらにその上に戸袋があった。小さいながらその戸袋には二枚の引き戸があって、色絵具と金銀を使って草花が描いてあるのが目に入った。部屋の中央に大きなテーブルがあり、古い手紙らしい紙の束が片隅に置かれてあった。惟芳はこの座敷に入ると直ぐに、天井が高い部屋だと思った。床には大きな栗の木をくりぬいて作った盆に、小振りの白磁の香炉が据えてあった。壁には「春入千林処々鶯」と書いたやや細長い軸が掛けてあった。この季節に相応しい文句であると彼は思った。檜の一枚板を張ったテーブルの傍らに、桐の木をくりぬいて、中に銅(あかがね)の薄板を張った手あぶりが、胡坐(あぐら)をかいているかのごとくどっしりと座っていた。その中に五徳が据えてあり、南部鉄製の鉄瓶がかけてあった。長押(なげし)の上には壁との間に、透かし彫りの戸障子が嵌められていた。惟芳はざっとこの程度の観察をした。そして中級以上の武家屋敷とはこのような造りをさすのだろうとひとり合点した。彼は造船所へ行ってからというもの、建造物に興味を覚えるようになっていた。

 先生は座敷の隅に重ねてある座布団を一枚取り、惟芳に座るように言うと、床柱を背にした側に行き、惟芳と向き合う位置に座った。安藤先生は温厚篤実な学者肌の人で、萩中学校の教師になる前、明倫小学校長の経験が既にあった。年齢はまだ四十歳になっていない。しかし和服姿で落ち着いた物腰は、そう若くには見えなかった。惟芳は座布団に着座する前、畳に両手をついて深々と辞儀をした。
 「本日は突然参上いたしまして申し訳ありません。先生にはお元気なご様子で何よりと存じます。私は昨日帰省いたしました。先ほどお寺参りをすませまして、帰りにちょっとご挨拶だけして失礼するつもりでした。お忙しいところをすみません。これはつまらないものですが」
 惟芳はこう言って風呂敷を解いて、持参のカステラの包みを差し出した。
 「そう気を遣わないでくれたまえ。まあ折角だからありがたく頂戴しよう」
 先生はカステラの包みを取り、半ば後ろ向きに包みを床の片隅に置くと、向きを元に戻し、惟芳に膝を崩すように言って、あらためて教え子の顔に目をやった。

 「君があの時、突然退学届けを出したのにはちょっと驚いたね。家にはそれぞれ事情もあるだろうと思って、根ほり葉ほり訊くことはしなかったが、よく決断したね。ご両親も賛同なさったのだろうから、私としては何も言うことは無いがね。ところでご両親はお元気かね?君が帰省してさぞかし喜ばれたことだろう」
 「はい、お陰で何とか無事に暮らしておりますようで、私といたしましては安心いたしました」
 「そうかね、それはよかった。ところで、日清戦争が終わったとは言え、三国干渉後ロシアが満州に居座って、何だか不穏な情勢になりつつあるようだね。長崎では市民はどんな様子かね?君が勤務している会社では、一段と緊迫した感じだろう」
 学問一筋と言っていいような先生も、まずは世間的な話題を口にした。
 「はい、確かにそのためでしょう、今年から所員の募集を始めています。まだ軍艦建造はしていませんが、海上輸送の需要が最近とみに増えていまして、そのために商船の建造はかなり増加しておるようです。そのうち工場でも軍艦建造に切り替える時が来ると思います」

 

 

(二)

 先生はやはり学問的な話が性に合うのか、直ぐ話題を変えた。
 「冬季休みに入ってこのところ毎日、松陰先生の手紙を整理している。先生は一字一画わりと几帳面に書いておられる。崩した字も中にはあるがそう読みにくいのはない。片仮名と平仮名が混じって、しかも右上がりの特徴のあるものだよ」

 こう言いながら先生は、卓上の束から一通の手紙を選び出して惟芳の前に広げて見せた。
 「これは品川弥二郎あての書状だ。先生の死生観が書いてあるから一つ読んで見よう」   
 こう言って安藤先生はうす汚れたような書状を読み始めた。
 「但し死生の悟りが開けぬと言ふは余り至愚故、詳(つまびら)かに言はん。十七八の死が惜しければ三十の死も惜しし。八九十百になりても是で足りたりと言ふことなし。草虫水虫の如く半年の命のものあり、是れ以て短とせず。松柏の如く数百年の命のものあり、是れ以て長とせず。天地の悠久に比せば松柏も一時(いちじ)蝿(はえ)なり。何年程生きたれば気が済むことか、前(さき)の目途でもあることか。浦島・武内も今は死人なり。併し人間僅か五十年、人生七十古来希、何か腹のいえる様な事を遣って死なねば成物(しようぶつ)は出来ぬぞ。」
 「緒方君、君は勿論、私もまだそれほど年ではないが、人は七、八十の高齢になれば、体力も気力も弱まり、あるいは身体の節々が痛んでくる。そうなると、苦しみながら生きているより、むしろ死を望むこともある。しかしこれは決して悟りではない。先生は酔生夢死、徒(いたずら)に長く生きることを決して望まれなかった。至誠にして動かざる者未だ之有らざるなり、いま自分は国のために死ぬ、この国を思う誠の気持ちはいづれかは分かってもらえる。こう言われて、従容として死を迎えられた。先生が身を以て我々に示されたあの最後の瞬間は、本当に感動的だ」
 安藤先生の松陰尊崇の念が惟芳にはひしひしと感じられた。彼も自分の意見を述べてみた。
 「松陰先生を初めとして、高杉、久坂といった維新の志士たちは、誰もみな若くして立派な死生観を持っていたと思います」
 「その通りだ。維新の大業を前にして多くの若者が命を落とした。考えてみると残念なことだ。だが彼らは皆しっかりしていたね。ところで緒方君、話しはちょっと飛ぶが、君の所にも橙を植えているだろう。萩が夏みかんの生産地として知られ、今後特産品として、その需要は増すと私は思うのだが、是の栽培育成(注)に最も貢献したのが小幡高政という人だ。屏山(へいざん)の号でむしろ知られている。現在九十歳近いのではないかな。この方はなかなかの人物でね、若い時から萩藩士として要職につき、維新後は中央出仕の行政官として活躍されたのだ。明治九年に公職を辞されたのだが、その年に前原騒動、つまり萩の乱が起きたのだ。私は十歳ぐらいだったが、日本海の沖から官軍の軍艦が発砲した時、どーんという砲声が聞こえたのを今でもよく覚えておる」
 惟芳も萩の乱の事は父から聞いていたので話を合わせた。
 「私の父も、子供の頃経験したようです。前原騒動とその後の前原一誠を始め、主立った者たちの処刑のことを、よく話していました」
 「ああそうかね。この騒動は詰まるところ、維新後士族に生業が与えられず、生活不安にさらされた事への不満が爆発したのだ。小幡翁は屋敷の空き地に橙を栽植したらいいに違いない、とふと思いつかれてその考えを実行に移されたのだ。お陰で困窮した士族救済に大変役立った。ここ青木家でも栽培されたのだろう、後ろの畑に沢山橙の木がある。君の家にも橙畑はあるだろう。」(注)
 「はい、今は母が畑の世話をしています。今年の橙の成りは思ったよりいいようです。」
 ここで安藤先生は本題へ入った。
 「松陰先生の最後の事を話そうと思ってつい前置きが長くなったが、実は安政六年(1859)十月二十七日、松陰先生は、この時は浪人吉田寅二郎であるが、江戸伝馬町で処刑された。この事は君も良く知っているだろう。明治維新とは切っても切れない出来事だからね。この処刑が行われたとき、留守居役であった小幡翁が、刑申し渡しに立ち会われたのだ。」
 惟芳は是は初めて聞くことだと思って緊張して耳を傾けた。
 「歴史的事件を実際に見聞されたのですか?人間一生の間でも、そう度々体験出来ることではありませんね」
 「確かにそうだね、翁がそのときの状況を話されたとき、私はさすが松陰先生は偉い、至誠の人だと、粛然たる気持ちになったよ」
 安藤先生は以前翁から直接聞いた松陰処刑の模様を、感動も新たに小幡翁自らの言葉をもって、惟芳に向かって話し始めた。  
 「奉行等幕府の役人は正面の上段に列座し、私は下段右横向きに座っていた。ややあって、松陰は、潜り戸より獄卒に導かれて入り、定めの席にに就き、一揖(いちゆう)して列座の人々を見回した。鬢髪(びんぱつ)蓬々、眼光炯々(けいけい)として、別人の如く一種の凄味があった。直ちに死罪申し渡しの文が読み聞かされて、『立ちませ』と促されると、松陰は起立し、私の方に向かい、微笑を含んで一礼し、再びくぐり戸を出ていかれた。その直後、朗々とした吟誦の声が聞こえてきた」
 ここまで一気に話すと、安藤先生は松陰の辞世の詩を低い声で吟じた。
   
   吾今國の為に死す 
   死して君臣に負(そむ)かず
   悠々たり天地の事
   鑑照明神に在り
  
 「その時にはまだ幕吏等はなお坐に在り、粛然襟を正して之を聞いていた。私は肺肝(はいかん)をえぐられる思いがした。護卒もまた傍らにありながら制止するのを忘れたかの如く、朗誦が終わると我に返り、狼狽して松陰を駕籠に入れて、伝馬町の獄へ急いだ」 
 惟芳はこの時始めて松陰の最後の有様を聞き、肌に粟を生ずるような思いをした。安藤先生自身も感に入ったように、話を続けた。
 「このように松陰先生は従容とて死を迎えられたのだ。これより一週間前の十月二十日、死罪は免れまいと予感して、家人に永訣の書を書き残しておられる。その冒頭に次のように書いてある」
 こう言って安藤先生は一枚の紙片を取り出して読んだ。
 
  平生の学問浅薄にして至誠天地を感格すること出来申さず、非常の変に立到り申し候。嘸々(さぞさぞ)御愁傷も遊ばさるべく拝察仕り候。
  
  親思ふこころにまさる親ごころ けふの音づれ何ときくらん

 「先生は実に心優しい人でもあった。本当に親孝行だったと思う。また年下の者への心配りには感心させられる。やはり同じ頃、獄中から妹の千代へ宛てた手紙があるが、最後にこんな事を書いておられる」
 こう言いながら安藤先生は手紙の束の中から前より少し長めの手紙を出して、自ら内容を噛みしめるようにゆっくりと読んでいった。
 「兄弟甥姪の間へ、楽が苦の種、福は禍の本と申す事を得(とく)と申して聞かせる方が肝要ぢや。拙者不孝ながら、孝に當る事がある。兄弟内に一人でも否様の悪い人があると、跡の兄弟も自然と心が和らいで孝行する様になる。兄弟も睦まじくなるものぢや。夫れで是からは拙者は兄弟の代わりに此の世の禍を受け合うから、兄弟中は拙者の代わりに父母へ孝行して呉れるがよい。左様あれば縮(つづま)る所兄弟中皆よくなりて果ては父母様の御仕合せ、又子供が見習ひ候へば子孫のため是ほど目出度い事はないではないか。」
 松陰の話となると、安藤先生は止まるところを知らない。惟芳もこういった話は好きだし、郷土の大先達として、尊敬しているので黙って耳を傾けていた。
 「先生ほど親孝行な人を私は知らない。その先生が、親より早く死ななければならない自分の不孝を、内心親に詫びながら、この禍が転じて福となる、つまり此の禍によって一層兄弟仲良くなり、ひいてはその事が孝行に繋がるようにと念じながら、直ぐ下の妹に宛てて出された最後の手紙だ。」
 安藤先生の話はなかなか尽きない。惟芳はそろそろ失礼しなければと思った。先生の話が一段落したようなので、南向きの障子の方に目を向けた。白梅がちらほら美しく咲いているのが、少し開けてある障子の間から目に入った。
 「先生、いい枝振りの梅の木ですね。まだ開花には間がありますが、先生が植えられたのですか?」
 「いや、是は青木周(しゅう)弼(すけ)という人が植えたのだよ。緒方君、君は青木周弼という人を知っているかね。この人には研藏という五つ年下の弟がいて、この兄弟二人は大島郡の医家の出だ。医学を萩と長崎、さらに江戸で学び、後に萩藩医に召し出された、幕末日本屈指の医者だったのだ。よく知られた話だが、高杉晋作が十歳の時重い痘瘡にかかったが、周弼、研蔵兄弟たちの適切な治療によって奇跡的に助かった。これも兄に命じられた研蔵が再度長崎へ行って種痘の研究をしたお陰だ。そう言えば君は今長崎に行っている。今言ったようにこの兄弟は、我が国に本格的な西洋医学を最初に紹介したシーボルトのことを知ると、真っ先に教えを乞いに長崎まで行って勉強している。弟の研蔵は僅か十五歳だったと言うが、すでにオランダ語が読めたのだね」
 「秀才兄弟ですね。それにしましても、長崎まで行ったり来たり、しかもそんなに年若かったとは大したものですね」
 惟芳は自分より年の若い研蔵が、すでにオランダ語を物にしていたことを知って、いったい何時勉強を始めたのかと、驚くと共に感心した。
 「いま私が住んでおる此の家は、周弼が安政四年(1857)に建てたものだ。周弼は毛利敬親侯の御典医だった。彼には子供がないので弟の研蔵を養子にして、その弟の娘に婿養子を取らせて、医家である青木家の跡継ぎを考えたのだ。それが青木兄弟に勉強を習っていた青年だ。ところが婿なる人がこれまた飛び抜けた秀才であってね、どうも医者として大人しく患者の脈を診るといったタイプの人ではなくて、折角医学の勉強にドイツまで行ったのに、途中心変わりして政治学を学び、その上ドイツの女性と結婚までしたのだ。何でも貴族の娘さんとかで、思い切ったことをしたものだ。彼は青木周弼の周と、研蔵の蔵をとって、周蔵と名乗っている」
 「そうですか、しかし研蔵の娘さんはどうなったのですか、何だか二重結婚のようで、複雑な関係の様な気がしますが」
 「そう言えばそうだね、まあそれはともかく、木戸さんが岩倉具視等の欧米巡視の副使としてドイツへ行かれたとき、折しもドイツに留学していた周蔵は木戸さんにお願いして、医業を止めて政治の道へと大きな転換をしたのだ。帰国後彼は山縣内閣の時、外務大臣になられたが、最近外交官として大層活躍しておられることは、君も知っているだろう」

 

 話が逸れるが、森鴎外の『獨逸日記』を読むと、鴎外は衛生学を修めるようにとドイツへ派遣された。着くと早々に、当時ドイツ公使であった青木周蔵のところへ挨拶に行っている。その日の『日記』には比較的長い記述がある。

 

 明治十七年十月十三日。橋本氏(筆者注 陸軍軍医総監 橋本左内実弟)に導かれて、大山陸軍卿に見えぬ。脊高く面黒くして、痘痕ある人なり。聲はいと優く、殆女子の如くなりき。この日又青木公使にも逢ひぬ。容貌魁偉にして鬚多き人なり。(中略)公使のいはく衛生學を修るは善し。されど歸りて直ちにこれを實施せむこと、恐らくは難かるべし。足の指の間に、下駄の緒挟みて行く民に、衛生論はいらぬ事ぞ。學問とは書を讀むのみをいふにあらず。歐洲人の思想はいかに、その生活はいかに、その禮儀はいかに、これだに善く観ば、洋行の手柄は充分ならむといはれぬ。

 

 鴎外が青木公使の忠告を素直に受け容れて、在独中専門の衛生学の他、文学書や哲学書に読み耽ったことも、『日記』から窺える。

 

 「そうしますと、この家でその方々が起居されたことがあるのですね。それにしましても医家に婿養子に来て、医者の道を捨てて政治家になり、その上外国人の女性と結婚するとは思い切ったことをしたものですね」
 「これもご時世だよ。封建時代ならお家断絶、打ち首かもしれないな。ハハハ、まあ人間、天職を見つけるということは、運命的な面もあって何とも言えんが、本当に見つけた人は幸いだね。君も今は造船所で働いているが、今後どんな廻り合わせで、違った職業に就くやも知れん。親が医者でも子は政治家になることもあれば、その逆に政治家の家に生まれた者が医学の道を選ぶこともあろう。その点緒方洪庵の家は代々医業を継いでいるがね。ところが周弼が亡くなり、弟の研蔵も、この人は出世して明治天皇の侍医頭にまでなったが、天災で気の毒にも命を落とした」
 「それは知りませんでした。人の運不運は分からないものですね」
 「その様なことがあって、此の家が処分されると聞いたので、由緒ある家だから、私は十年前の明治二十五年八月にこの家屋敷を購入して、後世に残すべく、大事に保存に努めながら住んでおるのだ。見たら分かるように随分敷地が広くてね、間口奥行き共に二十間だから、丁度五百坪あるよ。建坪は母屋に蔵、それと門を入って直ぐ右手にある仲間部屋を併せると、七十坪ばかりになる。
青木兄弟二人は相前後して藩の医学館長を務めているが、自宅でも診療に当たっていたようだ。この座敷の直ぐ後ろの部屋が診察に使用した所だ。その当時も家の周囲は畑として利用されていたと思うが、春先から夏にかけてよく草が伸びるのには閉口だね。ここの一軒先隣が木戸孝允が生まれられた家で、当時は裏の畑から自由に行き来が出来ていたようだ。まあしかし、実に閑静な処で私は気に入っておる」
 「本当に閑静な佇まいですね。私の家は菊ケ浜の直ぐ側ですから、絶えず波の音や松風が聞こえます。子供の時から聞き慣れていますので、別にどうということはありませんが、ここは確かに静かな良いところですね。おや鶯の鳴き声が聞こえますよ」
 惟芳は街中では珍しい鶯の鳴き声に、何かしらホット心の休まるものを感じた。
 「そうだよ。今時分梅が咲き始めると、どこからともなく鶯がやってきて、終日鳴いているよ。その鳴き声を聞くと、書見などで疲れた頭が休まる。恐らく周弼も書斎にあって、鶯の鳴き声に耳を傾けただろう。周弼は梅が好きだったと見えて、敷地内に何本も梅の木がある。ほら、今君が言ったその白梅と、向こう左手に少し後れて咲き出す紅梅があるが、彼はこの座敷からいつもそれらを愛(め)でていたのだろう。私も梅が好きだから、枯らさないように大事に見守っている。それはそうと、折角君は長崎に居るのだから、シーボルトと萩藩、いやシーボルトだけではない、長崎と長州の関係など調べてみると面白いかもしれんな」
 安藤先生のシーボルトへの言及を心にとめて、惟芳は年の瀬も迫った時に、これ以上長居をするのはどうかと思って失礼することにした。
 「先生、突然お伺いいたしまして失礼致しました。いろいろと良いお話を聞かせいただいて有り難うございました。学生時代にもどったような気になりました。長崎へ参りましたら、勉強が待っておりますが、暇を見て先生がいま言われた長崎と長州との交流など、少し調べてみましょう。本日は本当に有り難うございました。次第に寒くなりますから、どうかお大事になさってください。帰省しましたら又お邪魔させていただきたく存じます。奥様によろしくお伝えください」
 「そうかね。折角来てくれたのに、家内が留守でお茶も出さずに失敬したね。くれぐれも元気で頑張りたまえ。帰省したらまた遊びに来たまえ」
 先生はにっこり笑って再訪を促した。惟芳は立ち上がり座敷を後にし、玄関を出て門の所に差し掛かると、そこまで見送るために出てきた先生は、足を止めて惟芳に、右手の塀の向こうから枝を差し伸べている大きな木を指さして、
 「此の木は杏(あんず)の木だよ。医者の家には此の木がよく植えてある。なぜだか知っているかね?」
 「何か謂われでもあるのですか?」
 「それがあるのだ。中国の三国時代、呉の国に董奉(とうほう)という人が病人を治療した礼に、重病人には五本、軽傷者には一本の杏の木を植えさせ、数年で杏の林が出来たといった故事があるのだ。毎年此の木を見ていると、花は春に昨年の枝につき、葉より早くに咲く。桜や梅の花も綺麗だが、薄桃色の花が木一面に咲くと見事なものだよ。果実は生のまま、または乾燥して食べられるが、種子は薬として用いられたようだ。
中国北部原産というから、医者が昔から重宝したのだろう。医者の美称(びしょう)として杏林(きょうりん)という言葉があるのも、今言った故事に由来しているのだね。ああ、又引き留めてしもうたな。今日はよう訪ねて来てくれた。また来たまえ。今度は手ぶらで来なさいよ」
 「それではこれで失礼いたします」
 再度別れを告げると、惟芳は門を出て、先ほど通った道を逆にゆっくり歩いた。少し歩いて振り返ると、安藤先生はまだ立ってこちらを見ていた。春ともなれば、きっと咲くであろう杏の、薄桃色の美しい花を想像しながら、彼は次の言葉を思い出した。
 
桃李不言下自成蹊 (桃李言わざれども下自ずから蹊を成す)

 

 ―先生はまだお若いが、学識があり品格を備えておられる。これから先長く、教鞭を執って行かれたら、先生を慕う弟子がきっと多く出るだろう。
 
 路地を左に曲がって呉服町筋に出ると、前方に指月山の円やかな美しい姿が目に入った。母が待っているだろうと思って、彼は大股で歩き始めた。

 

 

(三)

 年も改まって明治三十六年(1903)正月元旦。屠蘇を祝うと惟芳は弟の尚春を連れて家を出た。長いこと構ってやれなかったので、帰省している間は、せめて話し相手になってやろうと思うのであった。片方の足が不自由なので歩みがままならない尚春は、兄の側に居ることが嬉しくて、一生懸命離れずに付いてくる。惟芳も意識してゆっくり歩いた。


 道々彼は弟に話しかけた。八歳も年下であるから、まるで親子のような感覚である。
 「尚春、冬休みに入ったが、学校は楽しいか?どんな科目を習っているのかね?」
 弟はちょっと立ち止まって考えると、直ぐ後から小走りに兄の横まで来て、背の高い兄を見上げながら答えた。 
 「修身、国語、算術、体操の四つです」
 惟芳は、弟は足が悪いので体操は苦手であろうと可哀想に思った。
 「そうか、それで何の科目が好きかね?」
 「僕は算術が一番好きです」
 弟は兄にこう答えられるのがいかにも嬉しそうであった。
 「担任の先生のお名前は?」
 「西村乙市先生です。先生は悪(わる)さをしたら怒られますが、いつもは優しいです」
 惟芳が明倫小学校にいたときは、西村という先生はおられなかったが、きっと良い先生だろうと想像した。と同時に小学時代が夢のように過ぎたと、今更ながら歳月の早さを実感した。彼は幼い弟に向かって次のような事を言った。
 「兄さんはね、長崎という処で船を造る会社で働いて居る。これは兄さんが自分で決めてやったことだ。そのために尚春、お前とは分かれて生活することになった。淋しくても、男の子は我慢するのだよ。それからよく言って置くが、お父様とお母様の言われることは良く聞かなくてはいけないよ。例えば、朝起こされる前に起きるようにするんだよ。それから学校での勉強も大事だが、先生の言われたことを忘れないようにすること。これがもっと大事だよ」
 こう言って彼は昔小学校でもらった『学校家庭通知表』を思い出した。その備考に次のような言葉が書いてあった。

 学業と操行とを学期毎に調査して其の評点と評定とを通知す。評点は0より10までの11階級とし6点に足らざるものは保護者が特別に注意せられたし。評定は学業点と操行点とを見合して定む。

 

 尚春の操行点が少しでも良くなることを願って、以上の事だけ優しく言って聞かせた。
 「うん、僕、明日から起こされる前に起きよう」
尚春は兄の言葉に素直に答えた。惟芳はこの幼い弟のためにも頑張らなければと思うのであった。

 
 余談であるが、筆者の父が明治三十七年(1904)四月に明倫小学校でもらった『学校家庭通知表』を目の前に置いている。表には『学校定期通知欄』とあって、一学期、二学期、三学期毎の学業操行の成績と、出欠席及び身体状況が記載してある。裏面には『保護者への希望』として、『連絡』、『教訓』、『出席欠席及登校禁止』、『服装携帯品』と詳細をきわめた文章がある。今日の小学校の通知表がどうなっているか知らないが、面白いと思う処だけ一部抜粋してみよう。

 

 教訓は実践躬行せしめて、確固となるものなれば、学校には、其の方針にて、訓練すれども、事項によりては、家庭の状況によりて、保護者が、ぜひ自ら、訓練せられねばならぬこともあり。(中略)実行は、保護者にて、躾られたし。また、應待、挨拶、座作(たちい)進退(ふるまい)の作法より、日常普通の家においてなすべき行為は、学校にて、教授もし、練習もすれど、普通の人家とは、萬事に、状況の異なる所でのことなれば、実際に活用すること充分ならざれば、これらは家庭に好き機会のあるたびに、児童相応に、実行せしめられたし。さすれば、自然、その家風に應じた躾方もできて、却て都合よろしからん。

 

 今から百年以上も前の『通知表』である。当時家庭では大なり小なり、児童に対して躾がきちんと為されていたと思われる。これに反し一部とはいえ、今日の無為放任とも言える有様は実に情けない事である。

 

 兄と弟二人の行き先は氏神様を祭った春日神社である。萩中学校の校門の前を南に直進し、突き当たりの三叉路を左に曲がり、およそ百メートル行くと前方に、傾斜した檜皮葺(ひわだぶき)の神社の屋根が、神域内に高く聳える数本の老松の樹幹の間に見えてきた。神社前の石鳥居を潜って、直ぐ左手の手水所(ちょうずどころ)で口を漱ぎ両手を洗い浄めた。清水(せいすい)が真新しい手桶に汲んであり、木製の柄杓が添えてあった。手桶には小さな輪飾りが結ばれて、これだけでも正月の清々しさが窺えた。

 

 こざっぱりとした身なりの老若男女の参詣姿の中に、羽織袴に身を包んだ紳士の後ろ姿が惟芳の目を引いた。常日頃は洋服を着しているので、思わず見間違える所であったが、雨谷校長であった。
 「明けましておめでとうございます。緒方でございます。ご無沙汰いたしております。あれから一年半になりますが、その節は大変お世話になりました」
 校長は思いもかけない邂逅に少し驚いた風であったが、いつものように落ち着いて、
 「おお緒方君か、これは思いもかけない所で会ったな。おめでとう。元気にしているかね。そちらは弟さんかね。おめでとう」
 校長は尚春にも愛想よく声を掛けた。
 「緒方君、正月休みはいつまでかね。私は四日からは出校しているから、それまで帰省しておれば、学校へ話しにきてもいいよ。そちらの状況を聞かせてくれたまえ。今日は一寸急ぐ用があるから失敬する。元気でね」
 在校中に感じた謹厳な様子とは違って、校長の幾分うち解けた対応に接し、懐かしい母校を訪れて見ようと彼は思うのであった。

                   

(四)

 親子四人揃って過ごした正月三箇日(さんがにち)も無事に済んだ。惟芳は長崎への出立を明日に控えてはいたが、久しぶりに母校を訪れて、出来たら雨谷校長にも会いたいと思った。そこで母に行き先を告げて出掛けることにした。校門の真正面にある本館の玄関を入って、直ぐ左手にある事務室の小さな窓を開け、当直の事務員に来意を告げた。八日からの始業で、学校内は全く人影がなく、静閑として物音一つ聞こえなかった。事務室と向かい合わせに廊下を隔てて教員室がある。

 

 在学中教員室に入る時、「何々先生に用があって参りました。入っても宜ろしゆうございますか?」と、大きい声で言って入っていた教員室の戸口は、当然のことだが閉まっていた。
 「声が小さい。」と言われて、何回も言い直させられた級友もいたなと、惟芳は在りし日の事を懐かしく思った。
応接室で待つようにと言われて、彼は事務室の右隣りの部屋に入った。待つほどもなく雨谷校長が入ってきた。いつも見かけていた黒っぽい色の背広姿ではなくて、和服を着ていた。そのためか何となくくつろいだ雰囲気が感じられた。

 「よう来てくれたね。就職してまもなく、またその後もう一度手紙を貰ったが、どうしているかなと思っていたところだ。仕事や勉強で忙しいようだね。工場は中学校と違い、時間的ゆとりがあまりないだろう。しかもこの時世だからな」
 「はい、確かに学校に通っていた時に比べまして、かなり違った日々を送っています。毎日が緊張した時間の連続ですが、私としましては充実した日々であり、お陰で生き甲斐を感じています」
 「なるほど、そうだろう。ところで君が在学中、的場で弓を引く様子を放課後一二度見たことがあるが、向こうではそうしたゆとりはまだあるまい」
 こう言って雨谷校長は、惟芳が弓道部に属していたのを思い出して、話を続けた。
 「私も大学院を卒業してからは、こうして勤めるようになったので、時間的にも、また気持の上でも、なかなか的に向かうことができない。しかし色々な本を読んでいると、時々弓矢に関係する事項が目に留まる。矢張り弓道は、我が国の良質の伝統文化を継承するものだと改めて痛感する。それで今日君が訪ねて来たら記念に進呈しようと思って、ここに色紙を二枚書いてきた。どちらでも気に入った方を取り給え」
 校長はこう言って、新聞紙に包んだ色紙を開いて惟芳の目の前に拡げた。墨痕鮮やかに、きちんとした楷書で書いてあった。書はその人物を表す面があるというが、なかなか立派な書体であると、惟芳は一見してそう感じた。

 「この『射ハ君子ニ似タルアリ』 は、『中庸』にある言葉だ。色紙の裏に全文を読み下し文で書いて置いた。」
こういって先生は色紙を裏返しにして、惟芳が読みやすいように向けると、ゆっくり読み始めた。
 「『子曰く、射は君子に似たるあり。諸(これ)を正鵠(せいこく)に失へば、返りて諸を其身に求む』この文章を分かり説明するとこうなるのだ」
こう言って校長はこの言葉を説明した。
 「弓を射る人の心は君子の心に似ている処がある。何となれば、弓を射て的の中心、つまり正鵠を射ぬく事が出来ない時は、立ち返って其の原因を自分の身に求め、決して己に勝ちたる者を怨まなかった。まあこのような意味だ。それにしても正鵠を射るとは素晴らしい腕前だ」
 「清々しいですね。礼を失わず射を行う事は実に難しいとことだと思います。在学中稽古をしていました時、的に中たるかどうかが気になって、今から考えますと、本当にお恥ずかしい限りです」
 
 勤務が忙しくて弓道の事をすっかり忘れていたが、雨谷校長の話を聞いて、惟芳は弓道の稽古を熱心にした学生時代を思い出した。校長は話を続けた。
 「孔子の時代、有能な人材を見分けるために、弓の試合が行われていたと言われている。孔子自ら正しい射を行っていて、彼は全て的中、しかも一つとしてまぐれに中るということのない,『百射正中』だったそうだ。ところが孔子は自らを評して、『其の人となりや、憤を発して食を忘れ、楽しみをもって憂いを忘れ、老の将に至らんとするを知らず』と言っているが、幼いときから死ぬまで、それこそ寝食を忘れるほど学問が好きだったと言うから、この点孔子こそ、まさに文武両道の達人と言えよう」
 先生はこう言って、孔子に代表される中国古代の風習に感心したかのような面持ちであった。
 「もう一枚の方は、韓非子の言葉で、恃自直之箭(じちょくのやをたのめば) 百(ひゃく)世(せい)無矢(やをうしなう) と読むのだ。箭(や)とは君も知ってるように矢竹のことだね。自然に真っ直ぐな矢竹のできるのを待っていれば、どんなに長い時間待っていても、矢を得ることはできない。つまり学んだり修養したりせずに、優れた人間はできあがらないことの喩えなのだ。どちらが気に入ったかね?」
惟芳は君子の文句もいいが、今まだ修養の身であることを考えて、韓非子の言葉を選んだ。この後雨谷校長は、更に色紙と一緒に携えてきた小冊子を拡げて見せた。 
 「これはね、君はまだ知らないが本校の開校記念歌だよ。君が退学した翌年の明治三十五年十月十八日に、第三回開校記念の式典が済んで、その後運動会が始まるといった一連の行事があったのだ。それらが全部夕方までに終わったら、その夜は提灯行列を行うという予定であったので、式の両三日前に、安藤紀一先生にお願いして、作ってもらったのだ。作曲も先生がされたのだ」
 惟芳は安藤先生が作詞はともかくとして、作曲が出来ると聞いて驚いたが、校長の次の言葉を聞いてなるほどと思った。
 「生徒達はすっかり気に入って、提灯行列の時の合唱は大したものだったよ。安藤先生は君の旧担任でもあったし、これも差し上げるから読んで見たまえ。さすが先生の家は代々毛利藩で雅楽に携わってこられたと言われるだけあって、一夜にしてこの様に素晴らしい歌を作られたのには感心したよ」
 校長はこう言って、小冊子を惟芳の方へ押しやった。彼は安藤先生の作ということで、格別な思いで、その記念歌なるものに目を向けた。
    
            一
    四方(よも)に薫を敷島の  大和錦の麗しき
    色に花咲く萩の名の  中学校と呼び初(そ)めし
    明治三十有二年  時も秋なる十月の
    十八日を忘れじと   行う今日の記念式

            二
     昨日祝いし神嘗(かんなめ)の  佳辰(かしん)につづくこの祝
     捧げし稲の八束(やつが)穂(ほ)の  稔りに寄せて諸共に
     八千代寿(ことほ)ぐ大御代の  栄(さかえ)につれて年々に
    我校運の比(たぐ)いなき  精華を愈々祈るなり

 

 筆者が旧制萩中学校に入学したのが昭和十九年。入学早々先輩達に強制的に覚えさせられ、歌わされたのがこの開校記念歌と、これまた安藤先生の作詞作曲になる萩中学校の校歌である。同級生が集まった宴席では、蛮声を張り上げて歌うのがこの懐かしい校歌である。校歌は大正七年十月十八日、第十九回開校校記念日を期して、新たに定められたのである。


 漢文の大家安藤紀一先生によるその歌詞は、この年齢になって読んでみると、実に名文句だと思うので、第一番だけ記載してみよう。

 

            第一  質実
    徒(あだ)には立たじ学(まなび)の道に  徒には読まじ千巻(ちまき)の書(ふみ)を
   文(ふみ)の林に花は咲くとも 実(み)を結ばずば何にかはせむ
   表面(うわべ)の飾は儚(はかな)き頼(たのみ) 心の誠ぞ貴き寶
   松を粧(よそお)ふ雪も一時 本(もと)の緑は千歳(ちとせ)も消えず
   守れ質実天地に愧(はじ)ぬ 光明正大これより出でむ

 

 惟芳は思いもかけぬ良い物を貰って、校長に心から礼を述べた。長崎での生活や仕事について色々と訊かれたが、出来るだけ詳しく答えて校長も満足げであった。別れに臨み校長はつぎのようなことを言った。
 「新井白石が『折たく柴の記』の中で、男児はただ事に堪ふる事を習ふべき也、と言っている。確かに人生は波乱万丈、苦しいこと、切ないことがいつ何時降りかかって来るやも知れない。しかしこれらの全てをまともに身に受けたら、大抵の者は潰れてしまう。そういったとき、現実への視点をほんの少しずらすことで、現実との摩擦を避けることができ、嫌悪すべき対象が微笑むべき対象に転化して、好ましい一面さへ現れてくる。イギリス人はこういった人生の知恵をもっている。これが英国的笑いというものだ。君も真面目一方では肩が凝るから、今後生きて行くにあたって、こういった知恵も学ぶと良い」

 大学でイギリスの社会制度を勉強し、イギリス人の気質の美点を学んだ校長にして言える感想であると、惟芳は思った。家に帰ったら、「風呂が沸いているから入るように」と母に言われて、彼はゆっくりと湯船につかりながら、安藤先生といい、雨谷校長といい、共にこれからの生き方を教えて下さったのだと、有難く思うのであった。

 -校長は俺の気質を見抜いて言われたのかも知れない。確かに俺には不正を嫌う気持ちが人より強く、それがために馬鹿正直な面がある。正直は最善の政策である、と修身の授業で校長は言われた。しかし正直者が馬鹿を見ることもあるから、賢明に振る舞えとも言われた。誠実にして、しかも人から嘲笑されないように生きるには、相手の人間性を察知しなければいけないのだ。これが出来るには、実社会での経験が相手より大であれば、可能なのだろう。まあ、いろいろと勉強することだ。それにしても校長先生は良いものを下さった。韓非子の言葉は気に入った。「自直の箭を恃(たの)めば、百世矢を無う」か。

 

 こうして、惟芳にとってこの度の帰郷が、二人の旧師に会うことによって、思わぬ収穫があったことを、何よりも喜ばしいことだと思うと同時に、この二人の恩師をはじめとして、これまでお世話になった方に、いつか恩返しをしなければと固く心に誓った。しかし人生は有為転変、無常の風はどこからともなく吹いて来る。
樹静かならんと欲すれども風止まず、子養わんと欲すれども親待たず。『風樹の嘆』は恩師についても言えるのであった。彼がこの後長崎へ行って二年と経たない明治三十七年十月十二日、不幸にも雨谷校長は腸チフスのために三十四歳の若さで急逝した。儚きは人の命である。

(注)萩市における夏橙の育成は、吉岡市熊(明倫館剣道指南役)が、長門の大日比より、夏柑の原木を萩の武家屋敷に持ち帰り、接ぎ木として毛利の家老宍戸家(現萩高校)の橘(別名きこく)を用いたことに始まる。当初非常に酸味が強く一般向きでなかったが、後に小幡高政が改良した結果、一般向きの青果として広く普及し、萩の主たる生産物となった。それは概して炭坑へ送られていた。 なお明治初年より、市熊の長男米蔵は、夏柑の出荷販売を家業とした。さらに昭和に入り、彼の子息東作は、夏柑の加工を試み、各種の製品を世に出し、今日に至っている。