yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 第十七章「硫黄島~遺骨収集と慰霊巡拝~」

(一)

 終戦から五年経った昭和二十五年の事である。「第一次硫黄島戦没者遺骨収集」の際、芳一の遺品が発見されたという記事が新聞に載った。その後しばらくして、幸の下へ『従軍手帳』が送られてきた。正道にはその日の事が、忘れようにも忘れられないほど、鮮明な記憶として脳裏に刻まれている。

 

 送付された手帳は縱十三センチ、横七センチ、厚さわずか一センチの、黒  色のカバーで覆われた掌の中にすつぽりと収まるほどの小さなものである。奇跡的に発見されたとはいえ、硫黄の臭いの立ち籠める洞窟内で少なくとも五年間、人間には耐えがたい暑熱にさらされていたのである。表紙の一部に焼け痕がありボロボロの状態であった。
表紙に日本陸軍を表象する星印、その下に『従軍手帳』と書かれていて、手帳の最後の頁に世界地図が印刷されていた。その地図の下の欄外に、「昭和20・Jan・7、於小笠原群島硫黄島受領―よしいち、Ogata」とある。

 

 紛れもなく兄芳一のものである。母がこの手帳を掌中の玉のように手にとって、恐る恐る表紙をめくるのを固唾をのんで見つめた。
 「本手帳ハ銃後国民ノ熱誠ナル恤兵(じゅっぺい)寄付金ヲ以テ調製シ従軍者一同ニ頒布 スルモノナリ昭和十七年十月陸軍恤兵部」

 と書かれてある。一枚めくると、二頁にまたがって「恤兵」と横書きで大き な二文字が墨黒々と書かれてあり、その後に「英機」と縦書きで東条英機の署名がある。「恤兵」という言葉は、「出征の兵士の苦労をねぎらって金品を贈ること」と辞書にある。
芳一の死と引き替えに、家族の者はこのささやかな遺品である手帳を手にしたのである。昭和二十年一月七日であった。たしかに兄の几帳面な字である。正道は食い入るように細字で書かれた記述を母の側で読んだ。

 

昭和20・1・7
於小笠原群島硫黄島受領
Ⅲ17R見士緒方芳一
中隊長会報意見具申
補助衛生(12以后)
3・3ニ負傷
人口ョリ3米
資材庫
r.ⅢRippe
r.Bein

 

 母の橫に座った正道は以上の記述を読むと、次のように母に言った。

 「芳一兄ちゃんは三月三日に右側の三番目の肋骨と右脚を負傷したと書いてあります。できたら僕が読んで説明しましようか?」

 

 正道は母にはローマ字も記述内容も理解しがたいものがあろうと思って、今度は自分が手にとって母に読んで聴かせることにした。

 「そうしてつかさえ。わたしには字が細もうてよう読めんからの」

こうして母から手渡された手帳を正道はゆっくり母に読んで聴かせた。

 二頁目に「リンゲル氏代用液の作り方」のことが書かれていた。正道は戦時中田舎で開業していた父も同じように薬品不足に悩まされ、同じ方法でリンゲル代用液を作り、患者に使用していたことを思い出した。

 「二頁と三頁はこれを見られたら解りましようが、医療器具と軍の配備計  画のようなものが簡単に書いてあるだけですからここは飛ばして、五頁にあるこの記述を読んでみましよう」

 こう云って正道は次の文章をゆっくりと母に読んで聴かせた。

 

3月1日
 敵は中央突破ヲ企テ硫黄島神社ニ迫ル 9中隊ハ未ダ本部隊新陣地ニ就 カズ本部隊ョリ急伝令空爆下ニ急ヲ伝フ 時ニ7時ソノ后電話切断状況全ク解ラズ 空爆砲極メテ熾烈 医務室ハ孤立シ万一ニソナヘ歩哨ヲ立テ各人ニ手榴弾ヲ渡シ特機ス タ刻例ニョリ弾雨粗トナリ本部ト連絡スルニ敵は中央を突破シ軍医部ニ迫リ 衛生隊ト連絡タタレ爾後患者ハ全部自隊ニテ収容ノ事 我ガ隊ハ敵前五百米トナル 今夜ハ斬込ミ隊モ我ガ隊ヨリ出ルトノ事ナリ 恩賜ノ煙草兵ニワタリ下給品若千ワタル 夜ハ近来ニナク静カナリサレド時折照明弾、焼イ弾艦砲飛ビ黄燐燃ユ 状況ハ極メテ我ニ不利 四月頃守ル事ガ出来ルダロウカ 兵ノ志気ハ平素ト変リナシ 各兵内ニ覚悟ヲ秘メ平静ニシテ静カナリ
 不思議ナホド静カナ夜 故郷ノ我ガ家新聞ラジオ等ヨリ定メシ心配致シオル事ナラントフト思フ 兵等口々ニ云フ、名モナキ戦線ニテ死スヨリ主戦場硫黄島ニテ玉砕センハ幸ナリト 小サイ声ニテ軍歌ヲ唄フ 患者アリ ソレッ しようばい しようばい

 「四月頃守る事が出来るだろうかとありますが、四月頃まで守れるだろうかというのでしよう」
 「そうじやろうの。兵隊さんは皆死を覚悟されているのじゃね。それにしても、名もなき戦線にて死すより主戦場の確黄島で玉砕せんとは幸いなり、とは本当に何という立派なお覚悟じゃないかの。芳一兄ちゃんは自分の事より家族のことを心しておられるようじやが」

 母はこう云ってそっと涙を拭いた。兄は自分の負傷をおして傷ついた兵士の治療に当たったのだろう。「しようばい、しようばい」と最後に記載されているだけで他には一字もないから、この後は書き込む時間的余裕がなかったのだろう。この後半月ばかりして、手榴弾で自決の道を選んだに違いない。正道もジーンと胸に迫るものを感じた。

 「他にはもう何も書いてないようじゃの。それじゃこの手帳をこれに包んで仏壇に上げておいておくれ。」
 こう云って母は一枚の袱紗(ふくさ)を取り出して正道に手渡した。
手帳の頁数はちょうど百枚で、最初の十頁に芳一は上記の手記を書き留めていた。全頁の十分の一だけの記述である。記述の多寡にはよらない。わずか十頁に書かれた文字ではあるが、家族の者に取って何ものにも代えがたい貴重なものだと正道は思った。

 

 これは後日談になるが、芳一の萩中学校の先輩で、宇田郷村に隣接している須佐町(今は萩市)の医師仁保政敬氏が、平成元年十月に、『阿武郡医師会報』に「亡き友を偲んで」という記事を寄せている。

 

 大学時代同郷で一緒に下宿していた友人緒方君が硫黄島で戦死したらしいとのことを風の便りに聞いた時はまさかと信じることが出来なかった。苛烈な戦闘で全員玉砕の報の中、死亡を確認する資料も遺品もない絶望的な様相ではあったが、捕虜になり米国に渡ってから復員した兵士もいるとの報も流れて家族はもとより皆生還に一縷の望みを捨て切れなかった。
 今年五月思ひかけず宇部で耳鼻科を開業して居られる弟さんよりお手紙と資料の記録を頂いた。それによると昭和二十五年第一次戦没者遺骨収集の際に従軍手帳が発見されて送付を受けたこと、又昭和四十五年三月収集団によって戦死確認され戦死後二十五年ぶりに遺骨と遺品を受け、初めて当時の状況が判明したとあった。
 洞穴内で発見された手帳の表紙は手榴弾の破裂時の爆風で汚れており穴内に約十柱分の自決された遺骨が存在し巻脚絆にはオガタのネームが確認されたとのことであった。
 手帳には「空、艦砲撃烈、我ガ隊ハ敵前五百米トナル、状況極メテ不利、各兵ニ手榴弾ヲ渡ス、兵ノ志気ハ覚悟ヲ秘メ平静、名モナキ戦線デ死スヨリ主戦場硫黄島デ玉砕センハ幸ナリ、小サナ声デ軍歌ヲ歌ウ、患者アリ、ソレ、ショウバイ、ショウバイ」
 学生時代より文学に親しみ、こよなく音楽を愛した心やさしい緒方君が重傷を受けながらもこのような名句を残されていた。軍医として貴い役割を立派に果たして散華された君ではあったが、年を取ったら宇田郷村、須佐とそれぞれ、開業している親父のあとを継いで魚釣りでもしてのんびりやろうぜと語り合った事も悲しい思い出になってしまった。(後略)

 

 月日の流れは誰にとっても同じかと云えば、一概にそうとも云えまい。物理的には時間は万人平等に流れるが、心理的面から考えれば各人それぞれに流れに対する思いに長短がある。瞬く間に過ぎたと思うものもあれば、永遠に苦労の日々が続くのではないかという思いで切ない年月を送った人もいるだろう。  
正道はいつかは硫黄島を訪れて兄の霊を弔おう、その時まではまだまだ兄への篤い念いは続くのであった。

 

 

(二)

 戦後すでに二十五年の歳月が過ぎ去っていた。母の幸は亡き夫と苦楽を共にした家に出来るだけ長く住みたいと云って、日本海岸の片田舎にそのまま一人留まっていた。長男の戦死に続いて主人が急逝し、正道を筆頭にまだ成人に達しない四人の子供を抱え、一時幸は前途暗澹たる思いであった。当時幸はちょうど五十歳であったので、あれから二十五年、今や七十五歳の高齢に達していた。

 

 正道は耳鼻咽喉科医として宇部市で開業、次弟の幡典も同じ宇部市にある山口大学医学部の教員として勤務しており、末弟の武人は建設省職員として東京に在住、そして妹の信子も嫁いで皆故郷を離れていた。

 

 先に記したように、芳一の手帳は昭和二十五年の「第一次硫黄島遺骨収容団」により発見されて届けられたものである。手帳の表紙が一部破損し焼け痕が見られるのは、遺骨受領の際の資料から、手榴弾による自爆の時の焼け痕だと察せられた。

 

 昭和四十五年三月七日の夜、読売新聞の記事に「三月六日遺骨収集団が帰り、兄の遺骨が確認された」と記してあったと母から電話があった。喜びと驚きの気持ちを抱きながら、正道は翌日県庁に電話し収骨状況が判ったら早く知らせて頂きたいとお願いした。しかし県議会等の関係で三月二十七日に、兄の故郷である宇田郷で遺骨の伝達式を行うとの回答であった。

 

 昭和四十五年三月二十七日、芳一の故郷で遺骨伝達式が行われた。遺族代表として正道が手にした遺骨は桐の箱に入っていた。彼は遺骨を箱から慎重に取り出して、医者の立場から、弟の幡典と詳しく調べてみた。

 「これらは頭蓋骨の破片だろう、大きいのも小さいのもある。それからこれとこれは左右の大腿骨の一部だね。内蔵は全くなくなっている。そうするとやはり兄ちゃんは手榴弾を抱いて自決したのはほぼ間違いない。」
 「僕もそう思うよ」

 幡典も正道の意見に賛同した。これが兄の遺骨であるとした手掛かりは、遺骨と一緒に発見された巻脚絆であった。それに縫い込まれた「オガタ」の文字が直接外気に触れないように巻かれていて、ちょうどそこの断片だけが奇跡的に発見されたのである。正道は今更ながら母の祈りが通じた思いであった。

 

 三日後の三月三十日に緒方家の菩提寺である萩市の端ノ坊で先祖の眠る墓に芳一の遺骨を収納した。戦死後実に二十五年振りに兄は故郷に帰ったのである。
読売新聞に載っていた遺骨収集の記事を見て、芳一の実母の妹婿である小田忠生氏が『緒方芳一君の霊魂に捧ぐ』という弔辞を幸に寄せている。

 

   芳一君の霊魂に捧ぐ
  
 色白く柔和なあの顔 糸切り歯を見せて笑みを浮かべる面ざし 堂々とした大きな軀 その芳一君の姿が彷彿として瞼の中を去来しております
 二十六年振りに親愛なる芳一君の霊魂と共に遺骨を緒方家の御仏壇に迎へてお母様を始め正道君等緒方家の者と共に血縁に継がる親族一同は今日の日の長かったことを追想して感慨無量の新しい涙が胸を刺しております 
 芳一君二十六年間硫黄の燻ると聞く異郷の島でほんとうに苦しかったことでありませふ 帰りかったことでありませふ
 お父様は芳一君の立派な葬儀をしてやり度いと心に懸けられ 私の方へ三度もご相談に来られましたがその都度 硫黄島の玉砕部隊の中にも若干の生存者があるとのことで 非戦闘員である関係上或いはその生存者の中にでもと一縷の望みを懸けて生存者の発表がある迄待たれる様にとお慰めして帰しましたが それもハッキリしない中に 只其のことのみを心に懸けらえて突然黄泉の人となられました
 此の一瞬の現実は昨日に変わる緒方家を黒いベールで包んだのであります 勉学途上の四人の弟妹をかかえられてお母様の御心中は今思い出しても想像に余りあるものがあったと思いますが 幸いに良妻賢母の聞へ高いお母様 四人の弟妹を立派に養育されてそれぞれ社会人として一歩一歩緒方家盤石の道を踏み進んでおります ドーゾ御安心下さい
 昨年九月十四日の晩と云えば確か御父上様の祥月命日と思いますが 髯ボーボーと痩せ衰へられたお父様が軍服姿で「戦地から今帰って来た」と宇田の玄関に辿り着かれたまま倒れられた夢を見ました 夢は五臓の疲れと聞いておりますので唯私の心の中に秘めておりましたが 芳一君の遺骨が漸く帰られる様になったお知らせであったのでありませふ
 そしてお父様も屹度御安心せられたことと本月七日の読売新聞を見て其の夢のナゾが判った様に思います 去る二月二十八日には正八位薫六等の叙位叙勲の伝達を受けられ今又確認せられた遺骨を迎えることが出来てお父様も定めし御安心せられたことと思います
 古来武門の誉れを伝へる緒方家の墓地に更らに武勲に輝く芳一君の遺骨を納めることが出来てその栄誉を永へに伝へることと思います お父様と共に心安らかに御冥福をお祈り申上げます

 

 この弔辞は芳一の手紙を含む全ての遺品の中に入っていた。母が大事にして居たのである。正道は読み直してみて確かに兄が戦死した昭和二十年に父も急に亡くなり、一家は小田氏の云われたように「一瞬黒いベールに包まれたように」前途暗澹たる状況に陥った。その時の母の心境は今考えても実に心細く辛かっただろう。正道はその時の母の気持ちを思うと、良く耐えてくれたと今更ながら母に感謝するのであった。

 

 小田氏の弔辞に、父の祥月命日に、父が軍服姿で痩せ衰えて戦争から帰った夢をみたとあるが、正道もしばしば兄の夢を見たと筆者に語っている。小田氏の夢と合わせ考えたとき、シェークスピアの『ハムレット』の中で、王子の父の亡霊が甲冑に身を固め、蒼ざめた面持ちで現れる有名な場面があるが、夢見の現象はたしかに不思議なものである。又同じ遺品の中から「靖国神社社務所」からの通知も入っていた。   

 

 正道はこれも改めて読んでみた。葉書より一回り大きい厚紙の上部に十六の菊の花瓣、その中央に櫻の花が凸版されていて、その下に次の文章が書いてあった。兄の階位と名前だけは実に見事な楷書で墨書されていた。
 
陸軍少尉 緒方芳一 命

右昭和二十年十一月十九日招魂 本殿 
相殿ニ奉遷 昭和二十八年十月六日
本殿正床ニ鎮斎相成合祀ノ儀相済候條
此段及御通知候也

昭和二十九年十一月
靖国神社宮司    筑波藤麿 
遺 族 御 中

 

 正道はこれらを読んで兄の霊魂も安らぎを得たことであろうと思った。
これより前、彼は県から頂いた資料を母に見せた後、母の気持ちを考えて遺品はしばらくの間母の手元に置くことにしたが、六枚綴りの資料だけは宇部に持ち帰った。

 

 

(三)

 正道は休診日を選んで資料を全部書き写そうと決心した。日頃は患者が多く来て多忙を極めた。これは正道にとっては有り難いことであるが、肉体的にはかなり応えた。しかし兄の苦境を思えばこんな事は間題にならないと、気持ちを奮い立たせた。まず用紙を二つに折ると、後で数部コピーするつもりで、ボールペンを手にすると、左から右へと横書きに几帳面な字で書き始めた。

 

第二次硫黄島戦没者遺骨収集の実施について

期間 昭和45年2月5日から3月6日まで
派遣人員厚生省職員 15名(確黄島復員者6名を含む)
(山口県関係者緒方芳一氏の遺骨を持ち帰った)
第二次硫黄島戦没者遺骨収集団は3月6日に帰還した。
計41名(参加者)
防衛庁職員 26名(事業支援のため)
本名の履歴
1.本籍地        山口県萩市堀内401
2. 所属部隊名      独立混成17連隊第3大隊
3. 階級指名及生年月日  故陸軍軍医少尉 緒方芳一
                  (大3.4.28 生)
4.死亡年月日及場所    昭和20年3月17日 硫黄島
5.遣族の現住所      山口県阿武郡阿武町宇田大字宇田2340
6.遺族の氏名及続柄    母       緒方 幸
7.死亡公報発行日     昭和20年10月30日

 

 ここまでは既に知っている内容である。この先を書き写すにつれて、兄の最後の状況が少しづつ明らかになった。

 

遺骨収集時の概況

北観音から約1Omか20m行った処とアスファルト道路から約5~6m行った処に洞穴があった。そこは米軍の爆破で跡形もなくなっているが、その橫に別に穴があり、この穴は45度の傾斜で掘り下げられている。洞穴内は無数の支洞からなっており、本名が発見された処は入口から少し入った処(別図参照)に上の方に向かって縦穴があり、それを昇ると6疂くらいの部屋ができている。同所は通信隊がいたらしく無線機等が散乱していた。本名は部屋の入口附近において、宮崎県出身者、独立混成314大隊陸軍兵長故持原春吉氏と一緒に並んで死亡していた。当時の状況からして自決したのではないかといふ事が推測される。なお、遺体はズボン(軍袴)に巻脚絆をつけ生存当時の姿のままに横たわっていた。氏名は巻脚絆に本名のネームが糸にて縫いつけられていたことより確認されたものである。

 

 このように書いて正道は、書斎の机の上に両肘を載せ、頬杖をついて瞑目しながら、兄の遺骨と一緒に遺品として届けられたた破損した巻脚絆の断片を思い浮かべた。

 ―あの茶色の巻脚絆の断片。下部が丸くて上部が破損していたほんのわずかな切れ端のようなものだが、それに母が右から左に糸でオガタと糸で縫いつけていた。お陰で兄のものだと分かったのだ。母の気持ちが通じたのだろう。単なる断片に過ぎないがよくぞ母の願いを叶えてくれた。正道は瞑っていた目を開くとまた先を書き写した。硫黄島の概略図も別の用紙に出来るだけ正確に写し取った。

 

御参考

米軍は南海岸から上陸、擂鉢山攻略のうえ北方に向かって進攻した。同島は水なく飲料水は天水を求め、水の割当量は1日わずかに2合であった。このような状況にもかかわらず、同島を死守遂にやぶれた。

 

収骨穴の様子(別図参照)

 

 正道は写し終えると再び兄に思いを馳せた。

 ―島は暖流の流れる黒潮に囲まれた大海原である。亜熱帯に位置していて 時々スコールの襲来がある。その時にはあらゆる容器に天からの恵みの水を受け取ったと、兄からの手紙にあったが、それも島に着いたはじめの頃だけ。米軍の進攻に備えて栗林将軍の指揮の下、洞穴掘削作業を進め、守備隊員全員が地熱の充満した地中深くモグラのように身を隠す段になってからは、ここにあるように一日わすかに一人二合、それもアメーバー菌がいるかも知れないような水を飲んで命をつないだのだ。兄の遺骨を手にしたときの事を思い出しながら、最後に「後記」と題して今の気持ちを書き添えることとした。

 

 兄が硫黄島戦に参加していると云ふ事は、昭和20年2月、当時硫黄島に居る兄の命により、薬品の補充のために飛行機で東京に帰った部下の方に言付け、東京より発送した、当時としては公に出来ない手紙で所在がわかっていた。従って硫黄島戦で同年3月に玉砕したであろうことは、当時生存していた父を含め家族全員が覚悟して居り、兄も手帳の内に家族も心配して居るだろうと記している。昭和20年10月30日戦死の公報が入った。

 

 しかし、戦後玉砕の硫黄島でも戦傷のため俘虜となって米国に渡り、後に復員した方も有る事を知り、死亡を確認する資料も遺品も全くなかった時期には、或は、兄も生存しているのではないかと一縷の望みを捨てきれなかった。逆に、戦時下に日露戦役に軍医として出征した父の教育を受けた兄としては、例え、負傷生存して俘虜となっても何らかの方法で自決したのではなかろうかとも想像された。戦後9月に病死した父を失ったあとの家族としては、兎に角、生きて帰還してくれたら、家族、親族一同どんなにか喜ぶだろうと思っていた。

 

 戦後25年と云ふ日時の経過と共に、兄が帰還して眼前に現れたと云ふ夢を見る頻度も次第に少くなり、本当に戦死したらしいと云ふ実感を持つようになったが、新聞、雑誌等に硫黄島の記事があると、兄に関するものはないかと観る習慣が何時とはなしに付いていた。

 

 本年2月硫黄島に遺骨収集の派遣がある新聞記事を見て、今度こそは何かわかるのではないかと期待した。その後、発表された『週刊朝日』の3月13目号に写真と詳細な記事を読み、この写真の遺骨の中に兄の遺骨があるのではないか、確認する方法はないものだろうか、出来たら自分で島に渡り確かめたいものだと考えていた。

 

 本年3月7日夜、読売新聞の記事に3月6日収骨団が帰り、兄の遺骨が確認されたと記してあると田舎の母より電話があった。翌日県庁に電話して収骨状況がわかったら早く知らせて頂くようお願いした。県議会等の関係で3月27日兄の生まれた故郷で戦死後満25年振りに遺骨の伝達式を受け、前記の収骨状況の資料と遺骨、遺品を頂いた。(遺骨の確認は巻脚絆に縫付けたオガタのネームにより判明した)

 

 今回の遺骨収集状況の資料と、第一次の収集の際頂いた従軍手帳を比較して兄の戦死した当時の状況が始めて判明した。

 

 最後に正道は次の言葉を書き添えた。

 硫黄島に於て玉砕された数万名の遺族の方々の殆ど大部分は未だ遺骨遺品も現在全くなく、私達が第一次、第二次の遺品遺骨を頂く前に抱いていた何か確認する資料がないものかとお考えの方々が居られることを考えた時、兄は本当に運の良いしあわせな人だったとっくづく思い、少年時代を過ごしたなつかしい郷里で安心して永眠できたことを喜んでいる。

 

昭和45年4月
弟 緒方正道

 

 「後記」を書き終えると正道はボールペンを擱(お)き、机の右上隅に置いてある硯箱を手前に引き寄せ、蓋を開け水指から水をわずかに注ぎゆっくりと墨を摺った。小筆を手にして彼は用紙の縦半分の真ん中に「芳忠院釋一道居土 玉砕の記録」と、上から下へ楷書で几帳面な字を書いた。

              

 

(四)

 平成六年二月に天皇陛下硫黄島を訪間されたときの御製がある。

 精魂を込め戦いし人未だ地下に眠りて島は悲しき
 

 平成十九年一月二十九日から三十日までの二日間、正道は硫黄島慰霊巡拝に団の一員として参加した。一行は政府職員(厚生労働省職員)六名と遺族四十七名からなっていた。その時の状況を『宇部医師会報』(2008・7 NO.164)に「硫黄島慰霊巡拝」として寄稿している。参考になる事及び彼の感想をこの中から少し抜粋してみよう。厚生省から送付された詳細な日程表によると、

1月29日(月)
 15:00 埼玉県飯能市マロウドイン飯能に集合 結団式
1月30日(火)
 08:00 自衛隊機で入間基地発
 10:20 硫黄島
 15:30 硫黄島
 17:50 入間基地着

 

 硫黄島の滞在時間は約5時間であることが分かりました。〔中略〕巡拝は玉砕した地点を巡るルート別に自衛隊のマイクロバスに各15名程度で分乗することが分かりました。しかしながら兄の玉砕地である北観音が停車地に含まれていなかったので、結団式が終わった後に厚生省の係官に北観音を含むルートに変更していただけないかとお願いしました。何故かと理由を問われたので、持参した昭和45年第2次硫黄島戦没者遺骨収集の資料を見て頂きましたところ、

 『明日出発前に北観音を停車地に加えた新しいルート表を全員に配布しましょう。この度の参加者で遺骨が見つかっているのは貴方だけです、遺骨がまだ見つかっていない遺族が悲しまれるといけないので変更理由は伏せておきましょう』と、私の希望を聞き入れて下さいました。

 出発前後の様子については次のように書いている。

 結団式での説明では、硫黄島は太平洋上の平坦な島であるので、強い横風があると軍用機でも着陸出来ない場合がある。本日同島へ向かった機体も着陸出来ず引き返してきたので、明日も同じ状況であれば明後日に出発する場合もあるとの事。〔中略〕

 1月30日の出発は広大な入間基地から、航空機は軍用車両運搬用の軍用機1機でした。機体後方の大きな車両用搬入口より搭乗しました。此の度の巡拝の為に機首より後方に3列用意された布製の席に座りシートベルトを着用しました。遺族の他、厚生省の係官、約60名の自衛隊員が一緒です。機体の急上昇、急降下の度に隣の方とぶっつかります。軍用機の為か窓は背の届かない上部に採光用の小さな円形のものが片側に8個あるのみで外の景色は窺い知れません。旅客機ではないので防音はされておらず凄まじい爆音で会話は不可能です、案内書に耳栓持参の事と書いてある理由がよく判りました。
 風も弱かったので無事定刻通りに着陸できました。硫黄島は埼玉より1,200km南に位置し亜熱帯気候なので冬である同日でも気温は19℃と寒くありませんでした。

 

 正道は兄芳一が玉砕した北観音の地での供え物に関して次のような事を書いている。

 兄が医学生時代に帰省した際に、当時小学生の私にゴールデンバットという煙草を買ってくるようにと7銭渡した記憶がありましたので、お供え物にしようと市内で売っている店を探しましたが見つけることが出来ませんでした。しかし姪がインターネットで売られているのを見つけて手に入れることが出来ました。また日本酒を好んでいましたので宇部の男山を求め、母が薬師寺より頂いた香りのよい線香と共に持参しました。いざお供えしようと煙草と線香に火をつけようとすると、火災が起きた場合消火用の水が無いので島内では火気厳禁ですと自衛隊員に咎められました。また、兄の部隊名が記された碑にお酒をかけようと栓を抜くと、お酒に含まれる糖分に毒蟻が集まるので止めて下さいと再び咎められましたので、煙草、酒,線香全てをそのままお供えして帰りました。全く本土では考えられない状況です。〔中略〕

 この度ご一緒したご遺族の方々が、肉親が玉砕した地に辿りつくと、辺りで肉親の遺品が無いかと懸命に探しておられました。そのお姿はとても辛くて直視出来ませんでした。

 

 最後に正道は、「戦中戦後を生きてきた私としては此の度の慰霊巡拝を終えてやっと私の戦後に一区切りが付いた思いがします」と書いている。三人兄弟の中では芳一と一番年の差が少ない、といっても丁度一回り違うが、彼にとって芳一は掛け替えのない兄であった。巡拝を終え兄への感謝の誠を捧げることができて、心爽やかになったことであろう。

 

 

(五)

 最後に一つの挿話を記してみよう。芳一が硫黄島で玉砕したこと知って、昔の事を筆者に語って呉れた老爺がいる。もちろん彼は宇田郷村出身である。

 

 萩市に「串安」という看板を掲げた一杯飲み屋があった。暖簾を潜って狭い店の中に入ると左側に椅子が五脚ばかり並んでいる。この店を営んでいる主人が毎日小舟を漕いで宇田の海の沖に出て、自分で釣ったり潜って捕獲したチヌやクロアイ、あるいはアジやイカなど新鮮な魚を、器用な手つきで、それも左手に小さな包丁を持って、手早く刺身にして目の前に出してくれる。と同時に燗のついたコップ酒も提供してくれる。店主も客と話しながら時折自分でもコップ酒をひっかけては次々と酒の肴を出してくれる。全く遠慮のいらない、どことなく暖かい雰囲気の店だから常連の客足が絶えない。陽に焼けた白髪頭の七十歳くらいの朗らかな親爺さんと、同年配くらいの奥さんと二人だけで店を開いていた。

 

 ある時筆者は、彼が毎日宇田の海で捕ってきた魚と云うから、緒方医院の事を問うてみた。

 「私はのんた、宇田郷村の井部田の出身で白石と云います。子供の頃具合が悪いときは緒方先生に診てもらいに行きよりました。そこに私より五つ六つお若かったと思いますが、正道坊ちゃんと幡典坊ちゃんがおられました。どちらだったかよう覚えておりませんがのんた、竹を細う削って虫籠を作って、バッタや蟋蟀(こおろぎ)などを捕って籠に入れて差し上げたことがございます。」
 「私が召集を受けて海軍に入ったとき、宇田の駅まで見送りに来られた人 たちの中に緒方先生が居られました。先生は当時軍友会の会長でした。私の側までお出でになって、
 『お国のために頑張って来いさい。しかし決して無駄死してはいけんで、無事に帰ってくるのやで』
 と仰有られて、私の顔をじっと慈しみの目で見られました。その時、着ておられたオーバーの中からミカンを三つほど取り出して私の手に渡して下さいました。考えてみればたかがミカン三個です。しかし私は嬉しかったですいのんた。先生が今から国のために命を捧げようとする若者に、何かしてやりたいという、そのお気持ちがひしひしと感じられたからです。今でもあの時のことは忘れることが出来ません。先生は本当に優しいお方でした。」

 こう云って俎(まないた)の側に置いてあるコップ酒を一口ぐいと飲むと、白石さんは話を続けた。

 「私は生まれが漁師でありますから海軍を志願しました。こまい時から海は私の遊び場でありますからのんた、少々海が荒れてもへっともありゃしません。軍艦に乗ってシンガポール沖で魚雷にやられて海中に放り出されました。それがのんた、幸い怪我が軽かったからよかったので、なるべく体力を消耗しないようにと、しばらく波間に漂っておりましたいの。そこへ味方の駆逐艦が来て助けてくれました。それで一時除隊になって宇田へ帰って先生にご報告しますと、先生は非常に喜んでくださいました。その後また召集を受けてやはり同じ目に会って、その時も無事に助かりました。」

 「人間の一生は全く運でありますのんた。戦(いくさ)が終わって帰還しました時には先生は亡くなっておられました。それから一時他所(よそ)へ出て働きました。定年になって仕事を辞めて宇田へ帰り、毎日朝のうち海へ出て潜ったり、一本釣りで捕ったりした魚を萩へ持ってきましてのんた、こうして皆さんに食べて貰っているのでございます。多くの戦友が先の戦いで死にましたがのんた、私なんか本当に運が良かったです。先生が『無事に帰ってこいょ』と仰有られましたが、先生の御長男は硫黄島で戦死なさったそうで、さぞかし哀しかったことでありましょうのんた」

 こう云って赤銅色に輝く顔をほころばせながら、包丁の手を休めないで語るのであった。白石さんは恐らくあの有名なレイテ島沖の戦い、我が海軍の興亡をかけた海戦を体験して、無事帰還した勇者だったと思う。

 

 筆者が最後に白石さんに会ったのは平成五年頃だった。その頃彼は七十歳をおそらく過ぎていたであろう。以前のようには潜りも一本釣りも良くは出来ないから魚市場で仕入れているそうであった。彼の潮焼けした顔、白い歯を見せた明るい笑顔が今も忘れられない。

 

 最後に芳一の硫黄島玉砕に相応しい詩を紹介してこの章を閉じよう。

         
            戦死者を悼ふ  
                       ローレンス・ビンヨン

  誇らしげなる感謝を以て、母はその子を、
  英国は海の彼方のその死せる兵士を悼ふ。
  英国の肉を分ちしもの、英国の精神(こころ)を享けしものなりき、
  自由のために斃れし彼等。

 

  厳かに太鼓は鳴り渡る、尊くも華やかなる「死」は
  悲の歌を神の国へと歌ひ上ぐ。
  寂寞のさ中に楽音あり
  また吾等の涙の上に輝く栄光あり。

 

  彼等は歌ひて戦に之(ゆ)きぬ、彼等は年若く、
  手足すこよかに、眼(まなこ)たしかに、着実にして意気に燃えぬ。
  彼等は最後まで忠実にまた数知れぬ苦難に堪へぬ、
  彼等は敵に面を向けて斃れぬ。
  彼等は後に残りしわれらの老ゆるが如く老ゆることなからん、
  老齢のために彼等は疲憊(ひはい)することなく、

 

  年長けて廃頽(はいたい)することなけん。
  日の沈む時また朝明くる時
  われら彼等を憶ひ出でん。

 

  彼等は再び戦友の中に交りて談笑することなけん。
  彼等もはや親しき家庭の食卓につくことなけん。
  彼等もはやわれらが晝の仕事に加はることなけん-
  彼等は英国の泡立つ海の彼方に眠れり。

 

  されどわれらの欲望(のぞみ)をかくる所、われらの念願(ねがひ)の存する所、
  目に見えぬ泉の水の如くにさやけく、
  彼等の国土の奥處(おくが)に彼等はしるけし、
  夜空の星のしるけき如く。

 

  われらみまからん時天の原進み動きて
  輝きてあらむ星の如く、
  我世の闇に燦として輝く星のごとく、
  常久(とことは)に、常久に、彼等は存せん。

              (山宮 允著『英詩詳釋』より)


 作者はローレンス・ビンヨンという英国の詩人並びに美術批評家である。1914年の第一次世界大戦勃発の年に此の詩をロンドン・タイムズ紙に発表したとある。彼は来日して各地で美術に関する講演を行っており、美術評論家として我が国では知られている。詩の中の「英国」を「日本」に置き換えてもう一度読んでみていただきたい。