yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 第十三章「硫黄島からの手紙(前編)」

(一)

遠路広島まで芳一を訪ねたものの会うことが出来なかった惟芳と幸は、残念というか、空しくも寂しい気持ちで村に帰った。その後直ぐに芳一は両親に詫び状を書いたのである。この手紙を受理した後音信がぷっつりと切れた。およそ一ヶ月後の八月十日に待ちに待った手紙が届いた。それは硫黄島からの第一報で、硫黄島からということが文面の最後から察せられた。その後芳一はこの絶海の島から次から次へと多くの手紙を書き送った。それらは皆家族の者にとっては非常に貴重なものであった。

 

 戦後七十数年を経た今、改めて読んでみて、これらの通信は読んだ人に何らかの興味を覚えさせ、また感慨を抱かせるような内容ではないだろうかと筆者は思う。何故かといえば、今や世界の情勢は絶えず変化して来ている。この間にあって我が国は著しい経済発展を遂げた。従ってあの戦時中の過酷な体験を知らない者が大半を占め、いささか平和呆けとも云えるような安穏な生活に安住して居る。これとは真(ま)逆(ぎゃく)の死に直面した極限の状態に在りながら、芳一の手紙はその時その場の状況を、ユーモアを交えて面白く述べており、また色々と考えさせられる内容でもあるからである。彼は自分を含めて従軍兵士たちの苦境を敢えて手紙には書かなかった。家族の心中を慮ってのことだと筆者は思う。

 

 もう一つ言える事は、同じ硫黄島で今なお多くの兵士の遺体が島にあって収納されないで居るという現実である。本人はもとより家族の者にとって、未だ本当の心の安らぎが得られていないと思われる。芳一の遺体は奇跡的にも洞穴内で発見され、『従軍手帳』まで見つかった。此の事は奇跡とも云える。こうした事を考えて筆者は彼の手紙の総てを読者に読んで貰いたいのである。


 「3S(スリーエス)」という言葉を戦後耳にした事がある。これはGHQが戦後の日本国民に対する占領政策を示すものであると言われていた。これは頭文字が三つのSで始まる文字である。すなわち、「セックス・スポーツ・スクリーン」の三つである。今は「スクリーン」は「スマホ」というべきか。これらのものは人生を享楽的に過ごす要素を多分に含み、真面目に生きる糧にはあまり成らないと云えるのではなかろうか。こういったことに国民の関心を向けることによって、これまで培われてきた良き日本人の精神をなきものにして、愛国心を失わさせ、強き日本へ二度と立ち上がらせまいとした政策だと言われている。たしかにその政策は功を奏している。例えばテレビは朝から晩までこの「3S」関連の事を専ら放映していると言えないでもない。

 

 話をもとに戻そう。
 芳一は家族への手紙で、一言も愚痴や不平をこぼさず、むしろ老いた父をはじめとして家族の身の上を案じ、また愛すべき弟たちを励まし元気づけている。硫黄島からの最初の一報には次のようなことが書いてあった。

 

 御元気でございますか 私は元気で頑張って居ます 先日手紙で書きましたとほり寺尾さんと病院で会いました 外科です 羨ましい限りでした 暑さは相当なものです 島の生活は水に苦労です 天水ですがわかしても下痢です 赤痢が多いです 一人死にました チブスも多いです 今寺尾さんの所に虫垂炎の患者をつれて来ました 寺尾さんの所迄一里半位ひです 家中皆様御丈夫の事と存じますが何卒御無理のない様にお願ひ致します

 

 手紙は仲々出せません 当分御返事も御無用です 外傷も多いです 死ぬ者もあります 乱筆走書きにて失禮致します何卒御大切に御無理のない様お願ひ致します 硫黄が多いです!(御想像下さい)
八月十日

 

 この手紙は東京都中野区在住の寺尾武彦の名を借りて出している。寺尾氏は芳一の部下で病気になったので、彼を硫黄島より薬品を内地に取りに行かせた時、芳一はその機会を利用したのである。手紙の最後に細字で「硫黄が多いです!(御想像下さい)の記載で、芳一が硫黄島に居ることが家族に分かった。この手紙は昭和十九年八月十日に書かれたものであるが、硫黄島に居る事は軍事秘密で、その場所を知らせるのは厳禁だったのだ。芳一は「羨ましき限りでした」とちょっと不平を覗かせているが、これは最初だけでその後は一切このような言葉はない。後で述べるが、洞穴内で発見された『従軍手帳』にも書いてあったように、硫黄島を死に場所と考えて早々に生存を諦め、いやむしろ達観の境地に達したと云えるかも知れない。

 

 その後長らく音信はなかったが、八月二十六日になって今度は芳一の名前で硫黄島から二通の葉書が届いた。内地を離れた事がそれとなく分かる内容である。父に宛てて次のように書いている。

 

 その后お変わりございませんか 盆もすぎ気候の変わり目ですから特にお身体に御注意をお願ひ致します 私は次第に土地に慣れ身体の調子も上々ですし隊の仕事にも慣れ御奉致して居ります故御安心下さいませ
御返信は以后左記の宛名でお願ひ致します
横須賀局気付ウ27膽七一五七部隊藤原部隊本部 見習士官 緒方芳一
それからお願ひがございます。二階の本棚に外科、各論上中下3冊及外科診断の指針及外科医臨床の為に(小さな青色表紙)を送って戴きたう存じます(後略)

 

 また妻の睦子に、送本に際してのこまごまとした指示を同じはがきに書いている。もう一通の葉書の宛名は睦子となっているが、実際は弟達と妹に宛てたものである。

 

 正道殿 もう扁桃腺も良くなってぴんぴんしてゐる事と思ふ 健康第一に願ひます いよいよ二学期も迫って来ました 一生の分かれ目ですから頑張って希望の学校に入るよう祈って居ります 勉強は要領よく無駄のない様に 要領と云えば此んなのもある 小づるく世の中を要領よく泳ぎ回ってちゃっかりと、ずうずうしく甘い味を吸ってゐる奴が居る あんなのは外から見るとがつがつしていて見っともないしメッキは直ぐ剥げて終ふ あんな品のない奴は軽蔑してゐる あんなのにならぬ御用意
幡典殿 元気ですか 陸士海兵の発表は未だですか 大いに頑張って下さい 暑さに負けないように こっちも暑いよ 何度? それは軍秘です 日向に寒暖計を出して置いたら破れて終ふよ だけど日陰は涼しい 珍しい事も沢山あるよ 修養になる事も沢山あるよ それは皆㊙
武人殿 元気ですか 今年はエビはとれましたか 川が乾いたので駄目ですか 今年はお前達のさざゑを御馳走になるつもりだった 御大切に。
信子殿 きうりはどうだったの? とまとは元気ですか大きなのがありましたか 信子ちゃんのとまとが食べたいな さようなら
御元気でね
睦子殿エート、お名前だけ拝借してすみませんなァ

 

 芳一は三人の弟と、親子ほども歳の違う妹にまで心のこもった便りを書き送った。この後、硫黄島から来た総ての手紙は最後の一通に到るまで、差出人は上記の場所からになっていて、それらの封書、葉書に「軍事郵便」と「検閲済」の押印があった。以下彼が書き送ったほとんど総ての書信を転載しながら、この章を書き進める事とする。

 

 

(二)

九月十二日に芳一は父と母に宛てて別々に葉書を書いた。耐え難い地熱と灼熱の太陽、それに飲み水に事欠く硫黄島。このような状況下に置かれた身ではあるが、彼はユーモアを忘れていない。父に宛てては、

 

 その后如何ですか内地は次第に秋めいて参りました事と存じます こちらは常夏ですから変化はほとんどありません お手紙は三日前に受け取りました 皆様御元気の由安心しました
 私も陽に焼け垢と一緒で眞黒で元気に御奉公させて頂いて居ります 比の頃スコールが来ないので顔をこするとぼろぼろと黒いものが落ちます
 それから顔に付いて特筆大書しなければならぬ事は鼻の下に生えたヒゲを残し他は鋏でつみました処髭の如きものが出来ました 以来約半ヶ月段々と形を整へましたがどうも未だ大隊で一番まずい髭らしく野戦病院へ行ったら寺尾君に笑はれました 誰も良い鬚だと云ふものがありません 鋏でつんでしまほうと思ったら 髭をのばせのばせと僕をけしかけた衛生兵共はいやそんなに悪い髭でもありませんよと止めますので未だ鼻の下にくつついて居ります 
 下士官兵以下は髭を延ばす事相ならん事になって居りますので下士官や兵でないと云う看板になるらしく効果はその程度ですから 髭の命もそう長くはなさそうでお目にかける事もありますまい どうもむづむづして余り気特ちが良くありません 下らぬ事を永々書き恐縮です

 

 母に宛てたもう一枚の葉書の表に、

 

 御元気の由、なによりと喜んで居ります。私もお陰様で未だピンピンして御奉公致して居ります。之れも神仏の加護に依るものでございませう。益々軍務に精励御役に立たねば相すまぬと思って居ります。祖国に対する考へや日本の現状が此処にきて、もっと現実的に切実に考へさせられます。私の捧げた小さな命がお役に立つのなら何と有り難い事だろうと考へて居る事を何か未熟な者の様に思へて恥ずかしい気が致します。自分の命も他人の命もあるもんか何でもかでも祖国を守らねばならぬ七度でも八度でも生まれ変わってこの国を守らねばならぬと思われます。
 夜は美しい星がでます。御大切に御無理のない様に。

 

 親の元を離れ、故郷を後にして初めて親の恩、故郷の良さが分かるという。芳一は内地を遠く離れた絶海の孤島と云うべき硫黄島での守備隊の任務に就いて、祖国の事をしみじみと思い、「七生報国」、おれは「何が何でも祖国を守らねばならぬ」とう強い念を抱くに到ったのだ、と思われる。同じ葉書の裏面に小さな字で妻に宛てて、

 

 睦子殿 相変わらず御多忙の事と思ひます 御元気の由何より 厚東のお父さん一男さん(筆者注・睦子の身内)皆お国の為に出られてお母さんもお淋しい事だと思ひますが祖国にとっては皆必要な人だ 君も負けないように御奉公を願ひます 御奉公は唯一つ本分を盡す事 そんな事は云はなくも解ってゐると思ひます それよりも虱の話でもしませうかね 比の頃は僕も一人前の兵隊になったと見へて虱氏と同居ですわ 防空壕に入って暇な時には先づ虱取りです 暗くてなかなか見つからぬが生けどりにした奴を競争させるのも面白いよ 昔支那の七賢人とか何とか云う連中が日なたぼっこしながら虱を取って居たそうで支那人と云ふ奴はキタナイ奴だと思って居たが自分で取って見るとそんなに悪くもない 但し刺されて痒いのだけは余り感心しない
 こちらに来て読んだ本は大佛師運慶、草忱、夢十夜、召さるる日まで 君は? 何卒御身体を御大切に父上様母上様をお願ひします

 

 米軍の硫黄島への攻撃が始まる前で多少時間的にも余裕があったのか、しかし防空壕の中は炎暑の厳しい環境である。芳一はユーモアのある虱の話などして、敢えて妻の心配を払拭するようにと努めている。また寸暇を惜しんで好きな漱石の本などを読んでいた。彼は両親と新妻の三人にそれぞれ今の状況を書き送った。続いて九月二十六日に睦子に宛ててまた葉書を出した。

 

 今までで一番多忙です。夜も余り眠れないがすこぶる元気である 僕の身体はそんなに安物ではないと見へて中々無理がきくよ 家にいた時見たいに熱を出すこともない そちらも忙しいだろうね 宜しく頼みますよ 寺尾君は病気で内地に飛行機で帰った(中略) 
さよなら家の事は頼むよ 少しも心配しないで御奉公に専念している

この絵葉書に堀文子の「落下傘を造る少女」の絵が画いてある。その横に軍刀を提げ、夏季の軍装をした自分の姿を描いて、「エッヘン 我が雄姿?」と書いている。芳一はこうしてこの後も、時々ユーモア溢れる内容の書信を書き送り、努めて家族の者に自分が元気であるということを伝えたのである。

 

 十月二十日に睦子宛てに送本催促の葉書を出した。極めて多忙で時間がない様子が手に取る様に分かる。五回も手紙を出したのに妻からは一回しか来ていないと云っているところは、漱石がイギリス留学中、妻の鏡子からの手紙が中々来ないのを非難している事を連想させる。

 

 御元気ですか 父上様母上様も御元気の事と思ってゐる とても忙しくッて手紙も時間一杯に大急だ こちらからは五回だがそちらからは一回だけ 頼んだ小包は来ぬ 他の人には度々来て居る所を見ると変だと思ふ
 直ぐ内科書(上・下)2冊送ってください 著者額田、茶色クロース薄表紙(呉・垣本著ノ大キイ方デハナイ)煙草でも入れて呉れれば尚結構、小包は送れるらしいよ兵隊には度々来ているよ、さようなら 御大事に 時間一杯だ そちらも忙しいだろうね

 国を挙げての戦いとなった。昭和十九年八月十六日、萩中学校の第三学年以上の生徒全員は光海軍工廠へ学徒動員となった。したがって四年生だった幡典と三年生の武人は共に勤務に就いた。芳一は弟の幡典に葉書を出している。

 御手紙有難う。二通来た。直ぐ返事を出せなくてすみません。毎日御苦労さんだね
お前の造った武器で兵隊さんも一生懸命御奉公してゐると思ふ。身体を大切にして働いてください。そして一生懸命勉強して下さいませ。学徒は学徒らしく決して工員ではない。勉強に仕事に学徒の面目を発揮して下さい。
 十一月に海兵予科を受験とのこと成功を祈ります。此処にもお前達と同じ年令の少年兵が来てる元気だよ。
 身体を丈夫にして学徒の本分を忘れない様に働いて下さい。さようなら

 

 この葉書の裏面には、伊東深水画伯の南方の農民親子が稲刈りをして一休みしているところが画いてある。その絵の側に芳一はさらに書き加えていつ。

 

 ふるさとは 皆たしやでか 小鳥なく

 此処には目白と鶯が居る、その他飛んでゐるものは蝶や蠅に飛行機、それから鶏も野生だから高い木に飛び上がるよ

 

 十一月十三日に父と正道、さらに睦子と信子には連名で四人に宛てて三枚に葉書を出している。多少なりととも時間に余裕を見出したのかも知れない。父への葉書だけ見てみよう。

 御手紙がまいりませんので心配して居りました 外の者には小包や手紙が度々参りますのに自分の所にはちっとも来ないので何か変わった事でもないかと心配して居りました所次々とお便りに接し安心致しました。
 有馬君より葉書が参りその次の日に父上様より28/8出、正ちゃんの26/8睦子27/9その次の日が萩中創立記念日幡ちゃみたいんの23/9それに本の小包が二つその次の日母上様の九月はじめその次の日に父上様の17/9睦子の28/8正ちゃんの12/9が参りました それ迄戦友の所にばかり行く手紙に指をくはえて見て居りましたがどっと一遍に、へんどんなもんですと云う具合です 
 毎日晝飯を食べると一通り読み返します 士官殿もう解りましたよ 余り見せびらかさなくてもいいですよと兵隊たちにひやかされます 何もかも忘れて御奉公致して居るつもりでしたがやはり手紙が来ぬと心配します
 小遣ひはいらぬかとの有難い思召(おぼしめ)なれど此処では一文もいりません 銭なぞ此処四ヶ月近く見たこともない状態です 国防献金致すつもりそんな状態ですから此処で本等とても買へません 冬のシャツとズボン下なくなりました あったら悪いのを送って下さい 冬になるといるかも知れません 夜になると涼しいですから 御多忙の御様子何卒御身体を御大切にして下さいませ   

 

 待ちに待った手紙や小包が四日続けて来たときの喜びが手に取る様に分かる。「士官殿もう解りましたよ 余り見せびらかさなくてもいいですよ」と兵隊たちにひやかされたと書いているが、父の惟芳も丁度40年前、日露戦争に従軍していたとき、内地から手紙や慰問品が来たときの喜びを思い出したことであろう。家族からの手紙を待ちこがれ、それが来た日を几帳面に書き留めている。それを見ると手紙を投函した日の順番に彼の手元へ届いていない。こうした事は戦時中だから考えられるが、手紙が届いたときの喜びはまるで子供のようである。よほど嬉しかったのだろう。今手紙が届いただけでこうした歓喜を覚えるような者が果たして居るだろうかと思う。戦時中は多くの兵士がこうした体験をしたのだろう。
 
 芳一は九月十二日に正道に宛てて一変して真面目な励ましの詞を送っている。

 

 御手紙有難う、傍らにはり付けて毎日見てゐる。勉強に銃后の御奉公に御多忙の事と思ひます。
 遠く戦場より激励の詞を送ります。必ず試験に合格される様祈ります。
    
   『待ったはない』
   自然に待ったはない
   冬が来る。その次は春だ。木の芽はぐんぐん延びて行く。
   人生に待ったはない。
   生れる、育つ、少年はやがて大人になる。
   戦争に待ったはない。
   陣地だ 壕だ 建設は進む。
   B29がそれをたたきこはしていく。
   その為にどんどん犠牲があったとしても
   又陣地だ 壕だ。
   再建は進められねばならぬ
   試験にも亦決して待ったはない。  
   日々の準備が即ち決戦 
   戦は決して勝利のその日にあるのではない
   かかって日々の準備にあるのだ
   決して待ったはない!

 親孝行をお願いします! それは丈夫でご勉強! 国家も兄も希ひます!

 

 芳一は妻や弟たちへの便りには必ずと云っていいほど「親孝行を頼みます」と書き加えた。東京の芝済生会病院での勤務を中断して、父に代わって村の医療に携わろうと決心して帰郷したのに、間もなく硫黄島に派遣された。彼としては孝行が出来なくなったことが、何よりも心残りだった。親孝行を自分に代わってしてくれと頼むと同時に、どのような境遇にあっても、学生の本分は勉強だと言い続けた。しかし同じ日に書き送ったもう一枚の妻と妹へ連名の葉書では、弟たちとは違ったゆったりした趣のある内容である。
 
 御手紙有難う毎日忙しい事と思ひます 一生懸命親孝行して呉れる様子に安心して元気に御奉公してゐます 本と写真5枚届いた 10月二十一日には端書も着いた もうすっかり秋らしくなった頃と思ふ 柿や栗は食べられないがバナナ、パイナップル、パパイヤは食べた その内手に入ったら皆の写真に供へて上げようと思ってゐる 今日は僕の誕生日 お献立は乾燥野菜を粉醤油で煮たの 内地では食べる事の出来ぬもの、でも生の魚も時には食べるよ 食ひしんぼうな話は止めにして 僕の所は君が想像してゐる所とぴったり合ふ
 それから 汗流し露台に寝ころび月見かな 業し終へ露台に月を露濡るる 今日も亦南に戦果月白し
 寝ころんで月見は余りのんきでおっとりしすぎる、一日の激しい仕事をなしとげ風呂上がり浴衣に着かへほっと一息露台で月見としゃれる、ゆっくりと落ち着いた気持ちで月を仰ぐ色々の想ひを月に語るふと気が付くと静かな今宵いつしか夜露がしっとりと露台に濡れてゐた

 

 筆者はこの妻への手紙を書き写していて、ふと蘇東坡の「春夜」の詩を思い出した。時代も所も、さらに季節も全く異なるが、蘇軾が若いときの作品で、江戸時代から我が国では広く知られていたとのことである。

 

春宵一刻値千金     
花有清香月有陰
歌管樓台声細細
鞦韆院落夜沈沈

 春の宵の一時は千金の値がある。清らかな香気を放つ花。おぼろにかすんだ月。高殿の方から聞こえるか細い歌声と笛の音。ぽつんと一つ、しずかにたれているぶらんこ。

芳一も昼間の激務の後露台にでて、秋の月を一人静かに眺めながら望郷の念に駆られるような一時の余裕を持てたのか。手紙はさらに続いている。

 

 親孝行を頼みます御元気で頑張りなさい
冬シャツの悪いのを送ってください 食べるものが欲しい 歌か詩集、画もミタイ、コレコレゼイタクは敵だ,初め頃の僕が出したハガキを良くみて下さい 御大切に
信子ちゃんお手紙有難う トマトときうりがそんなに良く出来たときいてびっくり 畑の仕事なくなって困ったね 兄さんは今信子ちゃんの畑がどこかなあと思って考えてゐる ここの鳥は目白とうぐいすとひよしか居ない
 油虫と蟻とはえが沢山ゐる、ものすごいほど居るよ,寒くなるからかぜをひかないように 

 

 十一月二十七日に芳一は父に宛てて又葉書を書いた。その裏表に彼は蠅の頭のような小さい字でびっしりと書いた。その最後に「8回」と有る。此は父宛の8回目の通信を意味する。

 

 皆様お変わりありませんか 僕は至極元気で御奉公致して居ります 父上様よりの絵ハガキ届きました 今日小包二ヶ届きました 皆様の御心尽くしの数々故郷の香り高き品々眞に有難うございました 包の新聞も皆でむさぼる様に読みました 小包の紐はすだれを編み病室に使いました 箱は手箱に油紙は患者に新聞は薬包紙に厚紙は蠅たたきに利用致しました 兵隊は廃物利用が上手です 罐詰の空罐とリンゲルの空アンプルとでランプを造ってくれましたお陰で夜暇なれば勉強が出来ます 七月の終り頃から軍医中尉殿は居なくなり下士官も一人になり部員一同未だ仕事も始めたばかりで気心も知れない頃自分一人で非常に多忙でありましたが最近はやっと一通り形も付きよその患者も診て居りますが仕事も能率的に行く様になりました そして今度見習士官と下士官が来てくれましたので勇気百倍御奉公に万全を期して居ります そんなに身体が弱くて召集になったら御奉公出来るかとよく父上様に言われて居りましたが不思議なほど頑張りがききました 例に依って時々三八度以上の熱をも出しましたが少しも休まず御奉公出来ました 此の頃は熱も出なくなり極めて好調です 部隊長殿も貴官も案外強いなァと度々云われました 今にして思へば本当に神仏の御加護に依るものだと思はれました しかし之しきの事ではなくもっともっと頑張らねばならぬ時が来ると思って居ます 十月迄の俸給と小遣ひの余り三百五十円送りました 内十円村へ寄付して下さいませ標準農村のお喜びです 僅かですが兵隊さんの寄付ですから気持ちだけです
  どうぞ呉々も御身体を大切に決して御無理のない様に御願ひ申し上げます 御奉公は二人分致します故何卒御無理のない様重ねてお願ひ申し上げます 

 

 睦子殿 親孝行を頼みます元気で頑張って下さい 小包有難う 内科書は送って呉れたかい 冬シャツ頼むボロで良い医学雑誌有難う 雑誌は医事新報だけで良い お陰で医学界がのぞかれる 取り残されなくてすむ 煙草はいいな 久し振りで黴の生えない煙草を吸った 正ちゃんのサザエ有難う 兄思ひの心尽くし涙がこぼれる 今夜副官殿の病気全快のよろこびにサザエとパパイヤの葉を煮て食べることにした 今年は栗はだめかと思ったら食べられた 欲しいものは手紙 せめて月三十通 送って貰ひたいものは印鑑鉛筆歯磨き粉インキ(パイロット)少しづつ ぜいたくを云ふなら魚のヒモノ佃煮スルメも良い 但し罐詰類はいらない 忙しいだろうが勉強してゐますか 生活の探求(筆者注:島木健作の長編小説)なんかむつかし過ぎはしないかと思って居る 字は段々上手になった様な起臥するお母さんに習ふと良い 精神修養にもなるよ 注文が多くてすみませんなァ 時々小畑(筆者注:睦子の家元)に挨拶に行った方が良い さよなら御元気で頑張って下さい 正ちゃん画を頼む 色でも鉛筆でもいいから

雨の夜は痛むか創が 万歳と呼びし兵士 潮なりの音
ふるさとは 皆たしやでか 小鳥なく         8回

 

 たった一枚の葉書に芳一は以上の事を縷々書いた。明日をも知れぬ最果ての戦場で寸暇を惜しんで書いたのである。

 

 

(三)

 ここにもう一通ある。芳一が言及している手紙の一覧表から算定すると、十一月三日から十一月二十日の間に書かれたと思われる正道宛の手紙である。芳一はB5判の大きさの便箋の裏表に、細かくて几帳面な字でびっしりと、自分の考えを弟に切々と訴えている。現状を正しく見極め、明日の日本を夢見て、学徒はどのような覚悟を持つべきか、また如何なる立場に於いても勉強すべきだと論じている。今や彼は自らの死を覚悟し、日本の将来を若い者に託す気持ちで、こうした戦場から手紙を書いたのである。以下全文を筆写する。

   

 正道殿
 度々御手紙有難う 伸々とした明るい美しい字だ 字が上手になったのに驚いて居ます 正ちゃんの手紙は26/8 12/9 6/10 9/10 25/10 3/11 の六通届いた 正ちゃんの便りが一番多い 画は2枚来た鉛筆画は素敵である 兄思ひのお前の気持ちを本当に有難いと思ふ さざゑ有難う 未だ半分とってある 十二月八日に食べる事にしようと思ってゐる 内地も七月以来更に国民は緊張し総ては戦争完遂の為に動員されてゐる様子、中学生も動員されたとの事 幡ちゃん達は光で兵器増産をして呉れるとの事有難い事だ 前戦に居る者にとって内地の緊張振りを知るとボヤボヤしてゐては銃后に申し訳ないと思ってゐる 尚一そうの御奉公に万全を期さねばならんと思ってゐる
 国学者北畠親房は戦塵の間に神皇正統記を著し皇国の大義を説きながらも一途に戦った 維新に於ける多くの学者志士の奮戦 之等は総て國難に馳せ参じた学者学徒の眞面目であり日本の伝統的精神である 既に大学高専の学徒は学園を棄てて征戦の野に立ってゐる 彼等こそ学即兵の実践者である 
 銃后にあっては兵学一体の精神は学労一体でなければならぬ 何故ならば今日労働力が戦力培養即ち兵器増産の基本である お前達の先輩である大学生は既に手本を示してゐる 中学生も之に続かねばならぬ 兄は今が学労一体と云った もっと解り易く云へば教室だけで教へる学ではいけない 松陰先生が米を搗きながら本を読まれた あれを工場へ農村へ移さねばならないのだ 学労一致には2つの意味がある 一つは所謂生きた学問 実社会・実生活に直接結び付いた実行力のある学問 例へば教室で勤労と云ふ修身の授業を止めて実際に工場で勤労させて勤労の精神を教へ込む事 いま一つは人手が少ないから学生が働くのである 学徒動員―学徒は工場に農村に、世間の人々は拍手を以って之を迎へ大げさにワイワイ騒ぎ立てる。もう教室で教へる授業は時代遅れだ ハンマーを振る事それが勉強だ そんな風に云って居るのではあるまいか また学徒がそんな風に感(ママ)違ひしてゐるのではあるまいかと恐れる 教室は工場に移動した従って教へ方は変わって行かねばならない 然し学問がいらなくなったのではない 勉強する時間を縮めて働かねばならなくなったのだ
 学校だけが戦場から離れてのんきの勉強してゐた それが今度働くようになった 当り前の事だ それを世間ではまるで世の中が変わった様にワイワイ騒ぎ学生の増産を云ふ 学生が働き出した事だけを問題にしてゐる様だ 働く事だけが大事な様に云ってゐる様である 之は行き過ぎと云ふもの 一つの時代が去り新しい時代がくる
過度期には何時も此の行き過ぎがある
 明治維新后我々の祖先は初めて世界を見渡した時如何に西洋文化のすぐれて居るかい驚き 西洋文化の吸収に大童になり西洋文化を吸収する事が急である余り その儘無条件に西洋文化は移入され 終に勢ひ余って西洋崇拝となり英米崇拝となった 我々は決して行き過ぎてはならない 一度立ち止まって良く考えて見よう 学徒は学園を后に工場に農村に進出した 我が祖国が決戦の此の時に学徒のみがのんきに勉強して居られ様か 然し学問が決していらなくなったのではない 学徒はあくまでも学徒である 職工の真似をしに工場へ行くのなら学校を止めて職工になれ

 

 当時筆者は萩中学校一年生だったから工場への動員へは行かなかった。然し学校での授業はなくて農村へ稲刈りの手伝いとか、上陸用舟艇の基地建設などの労働をさせられた。その時果たして何人の者がこうした作業の合間に勉強しただろうか。殆どの者は授業から解放されたとい思いだったように思う。他の者はいざ知らず、自分は芳一の云う「学労一致」の精神からほど遠い存在だった。

 

 芳一はここまでを便箋の片面に書き、更に「裏へ」と記入して書き続けた。

 

 前戦に居て何より欲しいのは武器である 兄は実際に之体験してゐる 内地で皆一生懸命増産しても未だ足りない 今度は学徒にも増産に馬力をかけて貰わねばならぬ 更に必要なら総ての学校も閉鎖しなければならぬだろうし書物の出版も止めねばならぬかも知れない 然し学徒の心の中に学に対する熱さへあれば学問の道は自ら拓けて行く 此の戦争は二年や三年で終るのではない
 戦争しながら建設して行かねばならないのだよ 将来の日本はお前達の手の中にある 学問も工業も敵にをくれて居るのだ 戦争を続けながら学問も工業も発達させねば英米に勝つ事は出来ない 一つの優秀な武器は百人の兵隊 百の武器を相手に戦へるのだ
 学問特に科学は進歩しなければならぬ その時学生が勉強を止めたら日本の将来はどうなるか 敵も勉強して居る 毎日進歩してゐるぞ 兄は此の事を此の目で良く見て来た
 戦局は決戦段階に入った 前戦も銃后も熱狂して戦って居る 神風隊を見よ ペリリュー島を見よ 日本人なら誰でも此の戦列に加はらねばならない 此の時お前は身体の為に工場へ行けなくて一人で勉強しなければならない 兄はお前に同情する 「幡ちゃん達にすまない様な気がする、学校から光へ行けと云われた夢を見る」との事 若い日本人だ無理もない、其処までお前が戦争を考へて居るのに頭が下がる
 負ふた子に教へられた様な気がする 然しそんな弱い事ではいけない
 ドンと腹をすへて戦局を見て居なさい お前にはお前の進むべき道がある お前の勉強が今工場で働くより百倍の力になって國のお役に立つ時が来る 戦争は決し二年や三年で終るのではない 福沢先生の慶應義塾で講義が行われてゐた時上野では官軍と彰義隊とが一戦を交へ様としてゐた 若い塾生はもうじっとして勉強して居られなかった

 一人去り二人去り塾生は減って戦いに行った そして上野の戦いは終り維新となり日本は世界の舞台に出場した その時最后迄踏み止まって勉強した者達は新しい日本の経済界でどれ程偉大な貢献をした事か かっての日卑怯者と云はれた彼等学徒が 今直ぐに役に立たなくても良い 今にきっとお前の勉強が役に立つ時が来る それ迄は米英撃滅の熱情を勉強にぶち込むんだ 労働奉仕も良い稲刈りも大事である 然しその為に勉強の能率を下げたら申し訳ないよ 日本はまだまだ腰をすへて遠大な計画を樹てねばいけない サイパンが陥ちた内閣が変った東京が空襲された台湾沖比島沖で戦果が挙がった その度に一喜一憂してゐる様では島国根性と云ふものそんな事は小さい 敵が九州に上陸しても日本は必ず勝つ 然しその間に科学も工業も発達させねばならぬのである
 長々とお説教みたいな事を書いてすまない では御身体を御大切に勉強して下さい もうだいぶ寒くなった頃ですがどうですか こちらは夜少し涼しいですが晝はシャツ一枚で丁度いい位ひです 幡ちゃんから端書が来たが此の度は返事が出せないから宜しく云ってください 海兵の合格を祈ると云ってね そして学徒は学徒らしく単なる産業戦士に終わらない様に云ってね さようなら親孝行を頼みます

 

 芳一はこの手紙を書いた後、四ヶ月足らずでは玉砕している。当時一部の識者を除いて誰もが戦争は未だ容易には終わらないと思っていた。芳一も同じ考えだったのだ。  
然し彼は戦いの中でも学問特に科学と工業の発達が大切である。その為に学徒は勉強を忘れてはいけないと云い、正道が小児麻痺で動員へ行かれないのを知った芳一は、上野の戦いに中にあって福沢諭吉が講義を続けた事を引き合いに出して弟を元気づけた。正道は此の時兄の教えを強く胸に留めたのは間違いない。 

      

 

(四)

 十二月十九日、芳一は妻の睦子に宛ててまた長い手紙を書いた。妻への愛情がユーモアを交えて書かれている。便箋五枚に美しく几帳面なペンで認めたものである。未だこの時点では過酷な状況下ではあるが、島での生活も楽しいものだと敢えて語ることで、家族の者を安心させようとしている。 

 

 君からの便りは28/8 27/9 16/10 21/10 24/10の五通と小包4ケである 便りは何よりの楽しみです 忙しい中にも一生懸命頑張ってゐる様子にて安心した 親孝行第一にやって呉れて居るらしく何より嬉しく有り難く思ってゐる 睦べエに一カン借りた無事に内地に帰ったら大事にしてやるべえと思ってゐる余りあてにしないで待ってゐてくれ 俺は元気で御奉公してゐる 一時坊主頭に眼鏡をかけてヒゲを生して色あく迄も黒くカマキリの如く骨皮筋ェ門となりまるで断食中のガンジーの如くであったが昨今は腹一杯食べられる様になり肥り出した お前は夏痩せしなかったかい 冬だから又肥った事と思ふ冬シャツを注文したが毛布をもらったのでいらないと思ふ それより他のものを送って呉れ鉛筆二本小刀歯磨粉(プラシや石鹸はある風呂には一度も入らない)インキ色鉛筆便箋封筒大学ノートー冊(2階にある使ひかけの分で良い)印鑑(二ヶ位ひ欲しい)後は食べるものイカの塩カラかイリコの佃煮の様なもの 煙草は配給らしいから遠慮する 内科書未だなら頼むよ 

 

 島に渡った当初は環境の激変で食べ物も喉を通らず芳一はやせたのだと思う。それにしても「一時坊主頭に眼鏡をかけてヒゲを生やして色あくも黒くカマキリの如く骨皮筋工門となるまで断食中のガンジーの如くであった」と面白可笑しく自分を客観視して居る。手紙はさらに続いている。

 

 少し時間が出来たので送って貰った本を読んでゐる その他軍陣医学書も手に人ったので計画的に勉強してゐる その他文芸物では保田氏の文明一新論、武者小路の日蓮、実朝の死、義時と泰時、信長と秀吉、チェーホフの三人姉妹、シュニツラーのリべライ、鴎外の妄想、蛇、百物語、文藝春秋十月号、ゴリキーの零落者の群、キップリングの詩集等読んだ。お前は生活の探求を読んでゐるそうだが、俺が君に読書を奨めるのは読書の歓びをお前に興へたいからである。俺は医学を学んで科学の世界を知った 又その前に読書に依り素晴らしい文学の世界を知った 魂の故郷を見つけた 苦しい時悲しい時淋しい時それは俺の唯一の慰めであり相談相手であり先生であった
 世の中が如何に汚れ様と世俗にけがされる事なしに本当に真なるもの善なるもの美しいものが与えられ人間らしい生き方を教へて呉れた 此の素晴らしい世界をお前に与へたいと思った 読書と云ふものは之見て呉れ式に単なる知識の累積を希ふものでもなければ比う云ふ事も一通り知って置かねば恥になるから読むと云った有閑夫人の芸当の一つではいけない お茶や花よりもっと直接人生を真剣に生きる生き方を教へて呉れるものなのだ 俺が傍に居れば何を読みなさいと云ふのだがそれが出来なくなった だが何でもいいから読みなさいそのうちに自然と解って来るよ 読書をするのは今だもっと年をとると人間が固まってしまって駄目になる包容力が小さくなる
 しかし読書の中だけに人生があるのではない 夜遅くなったのに無理して身体をこはしてはいけない 僕が読めと云ふからとて眠いのに夜更ししては可愛さうだ 俺はお前に宿題を出すのを止めるお前の重荷にならない様に好きな様にして呉れ 唯、今の世の中に女は本を読まなくてもいいと云ふ考へは大間違ひである 決して読書はお道楽ではない 本当に今の世の中を真剣に生きるなら生きる程本当に人間らしく生きるなら生きる程読まねばならぬと云う事だけを知って貰ひたい 俺は激しい前線に居て本当の読書の有難身が解ったよ 弾と一緒に書物も送られて来る 中には低級のものもあるが大部分立派なものである

 

 自分が経験した読書の喜びを、生きて居る間に妻に是非伝えたいという気持ちがひしひしと伝わってくる。芳一は大学時代に読書の習慣を身につけたと思われる。今の大学生は漫画に夢中になっていると云われる。手紙は続く。

 

 色々と変わったことがあるが手紙には書けない 内地では想像も付かぬ事もあるが苦しいとかつらいとか思った事は一度もない 唯充分に治療が出来ない時つらいだけである お茶の中にぼうふらが居ても風呂が一度もなくてもしらみがわいていても面白く少し痒いだけである 顔をこすると垢が落ちる 「オイ君、内地では顔を洗ったもんだね」「そうだ。暇になったら海迄行って来ようや」てなもんである。根が不精者と来てゐるので此の際甚だ好都合である

 此処の空は美しいよ 夢の様だ おとぎばなしの様に美しい 毎日空を見る度にびっくりしてゐるよ 明るい鮮明な透きとほる様な雲が流れていく朝やけも夕やけも唯々言葉もない だから月も星もすばらしいよ この空におぴったり合う木がある 柳の葉の様な葉が付いて空の色との配合が実に素敵である 枝ぶりも良い 名をきけばサウシジュとの事 俺は双思樹と云う名を付けてゐる 飛んでゐるものは目白と鶯とヒヨと蝶と蠅と蚊と飛行機だけ
 目白と鶯は上出来だが鳴き方は下手である 鶯は田舎者である 俺の口笛にだまされて鳴きくらべにやって来る 目白は兵隊が焼いて呉れたので粉醤油で食べたがうまくない蛋白質の補給だと思って食べた 今目白を二匹かってゐる 之は赤ん坊の頃巣から取って来た 籠を作って軒先に下げて置いたら親鳥が餌を運んだ もう一人前になったので親鳥は来なくなった 信子ちゃんに話してやって呉れ 今は病人の兵隊さんが蠅を食べさしてゐる さようなら 下らんことを長々と書いた
 御身体を大切に 親孝行を頼みます
 それから手紙も 小包も
 
 昭和十九年の年の瀬も迫った三十日に、芳一からこの年最後の手紙が届いた。

 

 父上様
 母上様
 その后お変わりございませんか 相ひ変らず御多忙の事と存じます この月はとても忙しくててんてこ舞ひでございましたがもう少しすると楽になるかも知れません 正月には一息することにしようと皆にも言って居ります
十二月八日には正ちゃんに送って貰ったサザエを食べるつもりでおりましたがそれどころではなく飯も食えない忙しさでございました 正月まで延ばす事にして楽しみにして居ります
 しかし身体の方は益々調子が良く少し肥へたぐらひでございます 他の者は皆痩せるのに士官殿は肥へられるから此の土地は士官殿に合ふのでせう等と皆からひやかされる位ひでございます
 

 「心頭を滅却すれば火もまた涼し」とは、禅僧快川の有名な言葉であるが、芳一も死を覚悟して却って身体の調子が良くなったのかも知れない。そうは言っても彼は悪条件の下で超多忙の日々を送っていながら、両親に余り心配を掛けないようにといささかオーバーに表現をしたんではなかろうか。彼は戦地で支給される俸給、本俸四十円、戦時手当四十円、合計八十円を毎月留守宅へ送って貰う手続きをした旨を伝えている。そしてこの手紙の最後に次のように書いた。

 

 次第に寒さが厳しくなって参ります 寒い北風の中を惣郷へ田部へ往診されるのではないかと思ふとハラハラして戦地に居りましても余り良い気持ちが致しません 御奉公もさる事とながら御自愛御自重をお願い致します 心配でございます 特に便りの無い時には心配致します 何卒御自重をお願日申し上げます 
 夜十一時カンテラの下で走り書き 失禮

 

 芳一は戦地にあって父の事を心配し続けた。その心配が杞憂に終わらず惟芳は終戦の日から僅か一ヶ月後、昭和二十年九月十四日に隔離病棟へ往診していたときに倒れ、三日後に急逝した。長男の芳一がそれより半年前の三月に硫黄島で玉砕した。この悲痛な事にも耐えて老躯をおして午前と午后の二回、毎日かなりの距離を病棟へ通っていた。しかし長男の死で力を落としたことは間違いない。此の事については次章で述べる。
芳一は同時に妻へも手紙を書いた。

 

 寒くなったね 霜やけ出来たかい まあ頑張ってくれ 頑張る事も楽しい事だと思はないかね
 春には春 秋には秋 冬には冬の美しさがあり 歓びがあり愁ひがあり悲しみがある 何時までも過ぎ去った美しさを想ひ悲しみを追ふのは賢明とは言へない 夏が来たら夏と取り組もふ 冬が来たら冬と戦って行かう そうすれば又其処には冬の美しさがあり喜びがある 娘時代には娘時代の歓びと愁ひがある 嫁いだら嫁いだ時 年老ひたら年老ひたる者のみが知る歓びと悲しみがある筈だ

 

 彼はこの世においてはもう二度と会えない妻に向かって、生きて行く上での覚悟を切々と訴えた。そして又紙神風特別攻撃隊に付いて言及した。

 

 戦局は重大だね 神風隊には涙がこぼれる 有難い事だ 然し名もない神兵が外にも沢山あるよ 神風隊を思ふと何故神風隊が出来ねばならなかったか それを造った幹部の心中もさぞかしの事と思ふ 日本の科学が工業力が遅れてゐるからだ もちょ優れた武器が沢山あったら神風隊もなくて住んだ事と思ふ 然しそんな事は不平どころか素振りにも出さないで飛び散った神鷲に涙がこぼれる
 正ちゃんに言って呉れ 勉強するんだ アメリカの科学が日本の科学に及び付かぬだ け日本の科学を進歩させる心意気で勉強して呉れと

 

 こう書いて彼は最後にロマンチックな言葉を添えた。芳一はこの世では最早叶えられない夢を心に抱く余裕があり、部下にもそういった気持ちを持たせた。

 

 此の頃は曇天が多い スコールだけかと思ったら しとしとと霧の様な雨も降る スコールの爽快さに比べて之れは中々ロマンチックである 目白がぢっと止まっ動かない バナナの葉から露がポタリと落ちる 嗚呼 蛇の目傘をさして高下駄で歩いて見たい 然し 此処の風景に蛇の目ではどうかと思ふと考へたら思はず苦笑せずには居れなかった 雨はいいね気持ちが静かになって「雨々降れ降れ母さんが」を皆と静かに唄ったよ 楽しかったよ さよなら
 親孝行を頼みます 御身体を大切に頑張って下さい 僕も一生懸命御奉公いたします  神風隊に比べたら御奉公の中に入らぬかもしれないが(後略)

 

 戦況が日々厳しさを増して行く状況下、芳一は妻に宛てに真心の籠もった手紙を書き送った。人の一生には春夏秋冬と移り変わる自然と同じく、歓びに溢れるとき、美しさに輝く時がある。こうした時の想いだけを追うのではなく、愁い悲しむ時にもそれに背を向けないで強く向き合えば、そこに美しさや歓びを見出すことが出来ると彼は教えた。その昔萩中学校の受験を前にして、母と弟が相次いで亡くなったとき、父が慈愛の眼をもって、強く生きよと言ってくれた言葉を彼は思い出したのであろう。

 

 このように芳一が家族に宛てて手紙を出し続けたのは、一つには硫黄島守備隊の最高司令官栗林忠通中将が部下の兵士達に、そうするようにと勧めて居たからでもある。
戦いの前の静けさと云うべきか。史上稀に見る米軍機動部隊の猛攻撃は目前に迫っていた。かくして硫黄島守備隊にとって、昭和十九年は何とか無事に過ぎたのである。