yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 第七章「日露戦争従軍日記」

f:id:yama1931:20190107231557j:plain

『図説 日露戦争』(河出書房新社版)
 
杏林の坂道 第七章「日露戦争従軍日記」
 
(一)

 国元の父尚一から封書が届いた。惟芳は早速封を切って読み始めた。巻紙に毛筆で書かれた父の書簡は、次のような内容であった。筆跡はまだしっかりしていると彼は思った。

 この度儂は隠居することにした。かねてより考えておったことであるが、お前が徴兵検査を受ける年になるまで待っていた。もうじきその時が来る。昔は侍の子は十五歳で元服した。儂もそうであった。しかし昔と違って徴兵令の布告によって、男子は二十歳で徴兵検査を受けることになった。そこで二十歳という歳は一つの節目になると儂は思う。世の中はずいぶん変わった。御一新で徳川幕府が瓦解し明治新政府が誕生した。儂が徳川との戦に出た頃を思うと、全く隔世の感がある。

 確かに世の中は目まぐるしく変化したが、人の寿命はそう変わるものじゃない。人生五十年、この激動の時代を儂はよう生き延びた。もう還暦を過ぎた。この際家督をお前に譲ることができるのは有り難い。
 お前が長崎へ行くと言ったときから隠居のことは考えておった。儂が隠居してもこれまでの生活とは別に変わりはせんが、お前に緒方家を継ぐ覚悟だけは早く持ってもらいたかった。これで儂は肩の荷が下りたような気がする。お前が将来お国のために奉公する時がきたら、その時は儂としても覚悟を決める。先のことは言っても詮ない事じゃ。身を天命に任せて、その時その時にできることを、一生懸命にしてくれさえしたら、儂はそれで良いと思うておる。

 

 日付を見ると明治三十六年十月二十一日と書いてある。天保十三年(1842)五月生まれの父尚一は寅年で、数えで六十一歳になる。惟芳は明治十六年(1883)三月に生まれたから、父の年齢からすると、当時としては遅い子である。この事を不審に思って以前母に訊ねたら、父には先妻があり、女の子が二人いたがいずれもも明治九年、十年と相次いで亡くなり、その後しばらくしてから父は再婚し、跡取りの自分が生まれたとのことであった。この事を考えると、今の父の心境は手紙の上では「国のために奉公する時が来たら、覚悟を決める」と言ってはいても、悲痛なものであろうと惟芳は父の身になって考えた。

 

 惟芳が十歳の頃から十年足らずの間に、我が国の歴史の上で未曾有の大きな事件が生じ、月日が音を立てるかのように流れた。中でも日清戦争に勝利し、清国と講話条約を結んだ後、露・独・仏の三国の干渉により遼東半島を還付することになったことは、国民誰しも座視するに忍びない出来事であった。特にロシアが清国と旅順・大連湾租借条約を結び、当の遼東半島を手に入れると、ロシア軍は満州を制圧して居直りを続けた。日本はロシアへ何度も撤退するように抗議をしたが無視された。そのために日本政府は危機感を強め、「ロシア撃つべし」と決意し、軍備の拡張を計り、国民へは臥薪嘗胆を強いる政策をとるに至った。
 
 明治三十六年(1903)十二月十五日、惟芳は山口で徴兵検査を受け、甲種合格して現役入隊した。体格が良いので騎兵隊に所属したが、脚気に罹り転属になった。
今でこそ脚気はヴィタミンB1の欠乏によって起こる病気であると分かっているが、当時は細菌によるものとも考えられていた。これに罹ると、まず末梢神経が犯されて下肢や下腹部がしびれ、足にむくみが出来て歩行困難となり、これが昂じて心臓がおかされ心臓麻痺を起こすと、多くの患者は死亡する。当時主に東大医学部と、同学部を卒業した後陸軍省医務局に入った連中は、脚気の研究に何等の成果も上げえなかった。海軍は麦飯を採用することで予防効果をあげていたのに、陸軍はそれを認めようとせず専ら米飯を支給した。このために日露戦役に従軍した日本陸軍将兵で、脚気にかかった者は二十五万人とも言われている。そして死亡した者は實に三万人に達した。今から考えると由々しき問題である。
 

 惟芳は幸いにも深刻な事態にいたる前に救われた。このために彼は騎兵として敵を殺傷する役から、看護兵として多くの負傷兵を救助する役に回された。
 
 惟芳は自分のことをあまり話すようなことはなかったが、後年ある日の夕食のとき、手綱を取った手つきで、三人の息子達に次のように話した。
 「馬に乗り始めは尻が痛くて夜眠れぬくらいであったが、そのうち慣れてきて、塹壕やクリークのような所でも平気で飛び越えるようになった。馬は賢い動物だ。騎乗が下手だったり、騎手が馬を馬鹿にしたりすると却ってこちらが馬鹿にされる。人間だけが心をもっておるのではない。馬も犬猫も皆心をもっておる。この事を心得ておけよ」

 初めて馬に乗れたことがよほど印象深かったのであろう。あるいは騎兵として戦闘に参加出来なかったことが残念だったのかも知れない。しかし脚気を患っては騎兵として働くことができない。騎兵と言えば、日露戦争でコサック兵と闘った秋山好古を思い出す。もし惟芳が脚気に罹らなかったら名将秋山の麾下で活躍したかも知れない。

 

 明治三十七年二月十日、ロシアに対して宣戦布告した我が国としては、たとえ一兵士といえども遊ばせておくわけにはいかない。馬に乗れなくとも適した役はあるというので、惟芳は看護学修業を命じられた。時に明治三十七年五月八日のことである。
 

 戦雲迫り事態は急を要す。同年八月八日に、僅か三ヶ月の短期養成で、彼は広島にある看護学校を卒業した。そして八月二十八日看護手を申付けられ、歩兵第十一聯隊補充大隊へ転属になった。そして翌二十九日、第五師団野戦病院付として広島の宇品港を出帆したのである。

 

 

(二)

 乗艦若狭丸は波静かな瀬戸の内海をまるで畳の上を滑るが如く航行した。右に左に大小様々の島影が見え隠れする。真っ赤な夕日が西に沈むと、暮色に包まれた対岸の漁家であろう、点々と灯がともり、一方海は底知れぬ暗黒の様相を呈してきた。翌朝六時、天気は晴れ、若狭丸は下関港に着き、石炭、糧食を積込んで午後三時頃出港した。惟芳には、これまで幾度か往き来した関門海峡も何だか狭く感じられた。
いよいよ玄界灘にかかり、本土の景色もこれが見納めになるかと思うと、萩にあって老後を淋しく生きねばならない両親と、小学生の弟尚春のことがやはり心配になった。風波が出てきた。故国を後にして戦場の清国に到着するまでの様子を、惟芳は日記に書いた。
 
八月二十八日 日 晴 午後五時命降ル 被服返納工兵第五大隊ヲ出ヅ 午後八時半
歩兵第十一聯隊ニ入ル 後外出ス


八月二十九日 月 晴 午前十時歩兵第十一聯隊出発 正午前宇品着 午後三時乗艦(若狭丸)午後三時半出帆


八月三十日 火 晴 午前六時下関港着 石炭、糧食積込 午後三時頃出帆 玄海ニ向テヨリ風波アリ


八月三十一日 水 晴 朝鮮海島嶼多ク風波ナシ 支那海ニ向ヒ島少ク夕刻ヨリ海上見ユル島ナシ 風波ナシ


九月一日 木 晴 前日同様島ナシ 夕刻前ヨリ遠クニ島ヲ見ル 午後六時頃南尖海着 風波ノタメ上陸ヲ留ム


九月二日 金 半晴曇 早朝ヨリ上陸準備 午前十時半南尖上陸 午前十一時半ヨリ食事終リテ行軍 一ノ山ナク波形ノキビ畑ノミ 午后八時太狐山着十一時宿泊 食スルコトナシ

 

 黄海を過ぎ渤海の奥まったに地に向かって航行した乗船は、遼東半島の付け根のありに着岸した。上陸した惟芳は多くの現地人を目にし、ついに支那大陸に一歩を踏み出したと感じた。食事が済むと、隊伍を整えて正午前に出発した。出発に先立ち、江口看護長が次のような心得を全員に伝えた。看護長は口髭を生やし、精悍な感じのする、三十歳前後の経験を積んだ軍医である。
 
満州の夏季はまた雨季でもある。この際最も注意すべきは生水の飲用である。満州の井戸水も河水も飲料に適さない。夏季に伝染病が多く発生するのは生水を飲むことによる。従って行軍に際しては、水筒の水が不足した場合、一時休憩してでも煮沸水を作り、水筒水を十分に補充することを考えねばならぬ。次に降雨の場合、総ての所持品に水が浸透する、従って麺麭などは、防水布もしくは油紙でもってよく包んでおくように。湿潤粉砕して食用に供することが出来なくなるおそれがある。差し当たって以上のことを注意しておく。」

 惟芳はこれからの行軍に備えて、江口看護長の注意は大事だと思うと同時に、異郷の戦場での生活がいよいよ始まるという感を強くした。隊は行軍を続けた。穂先が風に揺れるキビ畑以外には木立もない。茫々たる原野が広がっている。午後八時までの長行軍はさすがにこたえた。現地人の家に宿営したが言葉は通じない。
彼等は寝ても覚めても垢汚れた白木綿の衣服を着ており、煙草を口から離さず、一種異様な臭いがした。また空気の流通が非常に悪い粗末な土作りの家は、最初首を入れた途端に嘔吐を催すほどの臭気を感じた。その日は夕食も摂らなかったが、くたくたに疲れた躯を休めることが出来ただけでも有り難かった。彼は日記だけはいくら疲れても書こうと思った。(筆者注:以下惟芳の日記に基づいて進撃の跡を辿ることにする。カタカナはひらがなに変え、文意を取って数カ所だけ少し書き変えた。)

 

九月三日 太狐山にそのまま滞在し市中を歩いてみた。午後風呂に入り疲れを癒すことが出来た。

 
九月四日 朝から曇天、午前六時半に出発した。背嚢と銃それに治療道具や医薬品が加わって重い荷である。道中困難を極めた。道はやや登り勾配になり、午後一時半土城子に到着した。人家は十戸餘り、民家に分宿した。


九月五日 朝のうちはよい天気、午前七時半出発し山路を進んだ。内地程ではないが灌木が生えていて、内地にいるのと同じ感じを抱いた。この地は新戦場であった。

 

 惟芳はこれまでの生活とは打って変わった戦場にあって、進軍しながら思った。
 -この戦場の跡は、俺たち補充大隊より三ヶ月ばかり前に進軍した第五師団が戦った所であるに違いない。砲弾が炸裂し地形は変じている。ちぎれた服や靴、破損した銃が散らばっている。味方の屍体は片づけてあるが、あれは新しい墓標ではないか。敵の屍体が三々五々畑中に散乱しているようだ。雨に曝され、日に照らされて腐敗して臭気が鼻をつく。
 
 惟芳は思わず銃を持った手を鼻に近づけた。激戦の跡をまざまざと示すこれら新しい墓標を目にして、彼は戦死者の霊に深く頭を下げた。午後四時頃戸数が十足らずの部落に到着した。到着前少し雨が降ったが夜になって上がった。その夜は河辺で野営をすることになった。居住民から食料を買い求めようとしたが、高い値を請求する。やむを得ず言い値で鶏数羽と野菜を買った。夜が更けるにつれて寒さが身に沁みてきた。満天の星空、この光景は満州の地ならではの感を覚えた。

 

 九月六日 火 晴 午前六時半に出発した。畑の中の道を通り山路を辿った。途中峠を二つ越えた。午後三時に岫厳に着いた。この日ついに遼陽が陥落したことを聞いた。

 

惟芳たちが本隊に合流したとき、遼陽の攻防が如何に苛烈を極めたものであったかを聞き知ったのである。惟芳の所属する第五師団の右翼隊・第十一連隊は、この遼陽攻撃では敵の第三堡塁を目標として、敵塁の六百メートル前までたどりついたが、そこまでが限度であった。敵の砲火は激烈を極め、どうすることも出来ず、遂に前進する機会をえられなかった。その後かろうじて敵を撃退したが、前進を阻んだ堡塁は、激戦後の視察記録によると次の様である。

 

 まず散兵壕がある。次に鉄条網がある。その鉄条網の間には、深さ一丈余の狼穽(ろうせい)(落とし穴を連続して作ったもの)がある。その後方に外壕があり、更に高さ一丈二・三尺の外郭がある。外郭の上には鉄条網が埋めこまれているが、外郭をこえると、また内壕、鉄条網があって、堅牢なコンクリート陣地につきあたる。この堅牢な陣地を占領するには、徹底した砲撃で破壊するか、包囲して降伏を待つ以外に方法はない。無理に攻めても無駄な損害を招くだけであり、敵が退却してくれたのは、真に天祐であった。
 
 惟芳は後方にあってこの攻撃には参加しなかったが、遼陽陥落の朗報に接して、彼の隊では祝宴が催され、相撲が行われた。日記には簡単にこの事を書き留めた。

 

九月六日 火 晴 午前六時半出発 畑路山路(二垰)午後三時岫巌着 愈々遼陽陥落ヲ聞ク 為ニ相撲

 この遼陽会戦は明治三十七年八月二十九日から九月四日の間戦われたのである。この激戦で軍人として、また優れた人格者として、多くの者から慕われていた橘周太大隊長は名誉の戦死を遂げた。昭和二十年の終戦までよく歌われていた歌「橘中佐」が早速作られた。

 

  遼陽城頭夜は闌(た)けて 有明月の影すごく
  霧立ちこむる高梁(こうりゃん)の 中なる塹壕聲絶えて
  目醒め勝ちなる敵兵の 肝驚かす秋の風

 

九月八日 午前六時半岫厳を出発した。

 

「土地前日同様内地ノ如ク只山ニ木少ク河多クシテ浅」と日記に書いているが、こうした荒涼たる風景のなかを黙々と進んだ。途中民家に泊り、九月十日午後一時に折木城に到着した。宿を求めるのに困難をきたしたが民家を見つけて宿泊した。

 
九月十一日 この日も午前六時半に出発した。道中はじめは前日同様山道であったが、後に広野となった。午前中は晴れていたが夕立雨に見舞われた。真夜中午前三時半海城に到着した。十二日はそこに滞在し、午後城壁内に入った。市中はやや整頓されていて、いままでで一番良い印象を受けた。


九月十三日 天気はよい。午前七時半出発した。海城には鉄道が通り、ここから遼陽までの距離と、遼陽から奉天までの距離はほぼ同じである。惟芳の一行はこの鉄道線路を行軍し、午後四時半に太比という村に着いた。


九月十四日 晴天がつづく。午前七時に出発した。山間部と畑地を行軍して午後二時半頃七令子というところに着いた。この地の繃帯所には先の戦闘で傷ついた患者が多くいた。惟芳たちは治療並びに看護にあたった。この日は野宿であった。
 
 参考までに、日露戦争当時の医療体制について、加藤健之助著『日露戦争軍医の日記』の記事を引用する。
 
 繃帯所は、第一線部隊と行動を共にする衛生隊勤務の場所で、そこでは軍医は、弾雨のなかで負傷者を収容し、応急手当をほどこして、野戦病院に後送するという任務を負っていた。当時の日本軍の医療体制は、野戦病院に後送された負傷者には、そこで応急の手術などを行った後、後方の兵站(へいたん)病院に送り、短期間で治癒の見込があるものはそこに入院させ、後送する必要があるものは更に後方の大連などに設置された設備のよい定立病院に送り、病院船によって国内に還送して国内の予備病院に入院させるシステムになっていた。日露戦争での負傷者十五万余のうち、衛生隊・野戦病院段階で治療した者が一割、入院を要したものが九割、国内に後送されたものは負傷者全体の七・四割になっている。

 

九月十五日 空は曇っている。午前九時に出発した。目的地の大楽屯に着くと遼陽に到着せよとの指令で直ちに向かう。路中道に迷ったが午後七時に遼陽の東門前に駐屯していた第五師団司令部に到着した。上陸して二百キロ踏破した。

 

惟芳達は、敵の砲兵陣地を見たとき実に堅固なのに驚いた。戦死者の墓標が無数に立っている。人馬ともに戦死したのだと思うと、惟芳は胸の詰まるような思いがした。砲弾の跡が生々しい。その夜は民家に泊まった。


九月十六日 天気はよい。午前十一時頃出発して南八里庄というところにある第四野戦病院に向かった。土地は不案内だし病院の所在地も不明だったが、午後四時半になんとか大楽屯第四野戦病院に到着した。その夜は本部に宿した。


九月十七日 惟芳は江口看護長の指揮の下、病室事務附となった。

 

ここに初めて彼は第五師団第四野戦病院附に編入されたのである。

九月十八日 日曜 言うまでもないことだが、戦地では日曜も平日も変わらない。雨が降り寒い。惟芳は患者三十九名を潘家炉の戦地病院へ転送せよとの命を受け、看護卒三名と共に無事転送し日没前に帰着した。


九月十九日 半晴曇 次第に寒気を覚えるようになった。患者の入退院で混雑した。

 

九月二十四日 午後二時頃第十師団衛生予備員に患者引継を為し、直に南八里庄に向かい宿営した。この日をもって最初の野戦病院での勤務は終わった。 

 

九月二十五日 天気はよい。日曜だからと言うわけでもないが、宿営して終日休んだ。夜間に明日出発の命が下った。日没時刻に至り、事務官が人員を集めて、遼陽陥落を嘉(よみ)する陛下の詔書および過日の侍従武官の講評を伝えた。


九月二十六日 また行軍が始まった。晴天。午後二時頃より新家屯(南八里庄より西南南二里余の所)に向かい、路中鞍部を通過した。此地は露国の防衛工事のあった所で、その麓は土穴、鉄条網などを以て固めてあったが、ついに我が軍の占領する所となる。この所露国軍人の屍の腐敗の為臭気甚だしかった。五時頃目的地の新家屯に着いた。


九月二十八日 晴 午前中休み。昼食後より前々日通行の鞍部前の第二連隊の所に至り看護卒一名と共に恤兵部(じゅっぺいぶ)(筆者注:出征の兵士の苦労をねぎらって金品を贈る部署)よりの寄贈品を受けて帰り、分配した。


九月二十九日、朝から曇り日で少し風が吹いていた。後雨になった。惟芳はこの日は終日屋内にあって休んでいたが、看護卒数名に誘われて、運動のために豚の捕獲を試みた。戦地にあってこうして無聊を慰めることができるのは有り難いことであった。翌三十日も終日屋内に在って、内地より送られた新聞を隅から隅まで読んだ。


十月一日 この日からしばらくの間、戦地にありながら、終日屋内にあって休む比較的平穏な日が続いた。


十月七日 曇 冷い風が甚しい。少々感冒に罹ったのであろう。寒気に苦しんだ。防寒用被服を支給された。

    

十月十四日 朝から雨。午前六時出発準備を行い命令を待っていた。昼食を終えて午後一時命令を受けたので出発。東方に向って進むこと五里、路中烈しい雷雨で身体ずぶ濡れとなった。日没後何とか宿営出来た。この日松永旅団の命令の下に繃帯所を開設する筈であったが、患者が少数のため開設しなかった。砲声は打ち続き、非常に近くで小銃弾の一斉射撃の音が聞こえた。宿営地に来る途中、ロシア兵二名の戦死体があり、一方我が軍馬の道に倒れている数は多かった。もの言わぬ軍馬が悲しげな目をこちらに向けているのを見ると、一時騎兵として馬の世話をしたことのある者として、何とも言えない切ない気持で胸のふさがる思いをした。前々日風邪を引き、その為に非常に苦しかったので、宿営するや大火を以て数時間身体および衣服を乾かした。

 

十月十六日 晴 午前六時起床、直ちに食事の後出発した。途中露国将校以下四名の捕虜に出会った。正午高地に至り命を待った。殷々たる砲声が聞こえた。


十月十八日 雨 昨夜来の雨なお止まず。天明の頃出て半里程西方の双子台に至り命を待ち宿営した。ここ数日間敵の夜襲に備えた。


十月二十日 曇 午前七時より出て西方西双台子と言う地に至り命を待った。午後五時頃より西方一里ばかりの所にある新庄に到着した。此処には第六師団野戦病院があり、此の地に至り宿営した。数日前からの病気はなお全快せず終日宿舎に滞在した。


十月二十四日 晴 患者四十名を煙台定立病院(第五師団)に転送の命を受け看護卒四名、輜重輸卒(しちょうゆそつ)三名と共に出発し、午後零時四十分無事患者を引き渡し、同五時頃帰着した。  煙台は南方三里余の地にあった。風邪の病症なお治らず、加えて歯痛や下痢の為に非常に苦しんだ。しかし病院勤務を怠る訳にはいかなかった。


十一月一日 曇 午前十時頃本部前に集合し満州軍に賜った詔勅の奉読がなされ、更に看護手及び衛生隊の二卒に対する総司令官よりの感状が読まれた。同時に来たる三日の天長節の祝賀に就いて一言された。そこで宿舎に帰ると天長節の余興に就いて皆で話し合った。次はその日の日記である。

 

十一月三日 木 晴 本日天晴レ一点の雲ナシ 午前九時頃一同式場ニ集合シ君ガ代ヲ斉唱シ次デ天皇陛下ノ萬歳ヲ称ヘ両手ヲ上グ
思ヒキヤ敵ニ祝砲打タセツツ君ガ千トセヲ祝フベシトハ 
  後余興ニ向ヒ早駈、二人三脚、盲目旗取ヲナシ次テ式場ニテ昼食ヲナシ午後ヨリ球取武装競走、旗渡及ビ角力ヲナシ一同解散シ夜ニ入リ看護卒有志集リ芝居ヲ為ス

惟芳は砲聲の聞こえる戦地において、しかも敵国から占領した満州で愉快に天長節を祝すことが出来たのを大いに快(こころよし)としたのである。

 

十一月九日 晴 惟芳はこの日炭薪の木切りを命ぜられた。これから冬季に向かうにあたり暖を取る必要がある。凍てつくような寒さは将兵にとっては、敵の銃弾に比すべきものである。日露戦争では脚気と凍傷による死傷者はかなりの数に達している。彼と二人の同僚は近くに住む支那人の農家へ行き、広々とした畑の中の細い水路に沿って立ち並んでいる柳楊を六十本ばかり買った。
遠くに赤茶けた岩山が連なる殺風景な満州の平野にあって、今や枝葉も緑を失ってはいるがこれらのすらりとした立木は、心を慰める物であると思いながらも、惟芳は鉈を振り下ろした。彼は農家の者達を使役させて昼までに作業をすませた。この後数回惟芳はこの仕事を命じられた。木切り作業や野犬を殺して食べるための犬打ちといったことも、初めての経験であった。

 

十一月十四日 この日は寒気が特に甚だしく、池沼が氷ってその上を歩くことが出来た。

この日も彼は橋本看護手と共に木切りの監督を命じられ、自らも運動と思って切った。戦場にあっても割と平穏な日々を過ごしているが、馬賊の襲来に見舞われたこともある。

 

十一月十七日 晴 昨夜馬賊ト疑ワシキモノ我ガ村ニ来タルト支那人告グルタメ本日午前二時頃ヨリ歩兵守備ニ来ル 然レドモ無為ヲ以テ正午頃帰ル

 

十一月二十一日 晴 この日惟芳は遼陽での買物を命じられ出張した。午前三時起床し準備を整えると五時に宿舎を出た。煙台停車場に向かって鉄道線路を歩いて七時四十分同地に着いた。

 

 途中惟芳は知る人もない異国の自然の中を独り歩きながら、素晴らしい光景を目にした。東の空が曙光に染まり、夜も白々と明けはじめた頃、目を西の空に移すと、そこには天高く月が皓々と冴え、しずかに町の家々を照らしていた。惟芳は思わず安藤先生に習った『唐詩選』の中にある李白の詩「子夜呉歌」を口ずさんだ。

  長安一片の月、萬戸衣を打つの聲
  秋風吹いて尽きず、総て是れ玉関の情
  何れの日にか胡虜を平げて、良人遠征を罷(や)めん
 
 しばらく待って八時二十分発の列車に乗り遼陽に到着した。早朝の寒さは特別で、防寒具を用いても寒気のため手足の痛みを覚えた。遼陽に着くと直ちに城壁内に入り、命じられた買物をし、市中を縦横に歩き午後二時頃停車場に至り、三時三十分の列車にて煙台に向かい、四時二十分に着き、直ちに輜重車両に乗って宿舎に向かった。  
帰途惟芳が目にしたのは、所々耕作はされているが広漠たる大地、その中を走る細い水路、そしてそれに沿って生えている楊柳の立木であった。梢に至るまで散り尽くした木々は、ほっそりとした裸身を見せている。彼は満州に来て初めて落ち着いた気持ちで沈みいく太陽を見た。内地で見る太陽よりずっと大きく真っ赤である。遙か遠く夕靄に霞んだ地平線に夕日は徐々にその姿を没した。


 薄く茜色に染まった西の空を背景に、彼方こなたに、土と藁で作った粗末な民家が蹲(うずくま)っている。民家から夕餉(ゆうげ)の煙が一筋立ち昇っている。家の傍らには数本の喬木が立っている。そのうちに陽は完全に沈みあたりは一段と夕闇に包まれた。
ここが数日前には敵味方死闘を演じた戦場であったかと思うと、この寂寞たる風景が異常に思えた。惟芳はその瞬間、自然は本来こうあるべきだ、世の中は平和でなければいけないと思った。彼が宿舎に帰った時は、日没後一時間経っていた。帰隊すると惟芳はまた一兵士としての心境に立ち戻り、夕食後疲れた躯を横たえると、今日一日の事を思いめぐらした。
 
 -遼陽行きは天気が良くて幸いした。それにしても寒い日であった。汽車の中でも寒気を覚えた。長時間の歩行のため足は痛んだが、初めて見るラマ教寺院の塔は實に壮観だった。それに広軌の線路が幾本も走っており、またロシア人が建てた頑丈な煉瓦造りの停車場は、これまで見なかった風景で心ひかれカメラに撮ったが、遼陽城の南門から望んだ市外の風景も見事だった。

 いま筆者の手許に、従軍中の惟芳が撮った数十枚の写真がある。上記の停車場や遼陽城で撮ったもの、更に戦死者の葬儀を写したものなどあり、百年前のものだが鮮明に写っており、彼の軍隊手帳と相俟って貴重な資料である。これらの写真はぜひ紹介したい。

 

十一月二十五日 曇天で雪が降り出した。この日も木切りの勤務に従事した。昼食後より雪片々として終に銀世界となった。戦地にある兵士にとっての慰めは、辛党や甘党のための酒や菓子、更に煙草の支給である。惟芳は酒と煙草を嗜む。この日銘柄「敷島」を二十本支給された。翌日は晴天であったが前日来の雪は溶けなかった。
 
惟芳は戸外に出て、細い枝先にまで氷の花で覆われた楊柳を背景に、防寒具に身を固めた四名の同僚を写真に撮った。その写真に次の言葉を添えた。
 
  満州特異ノ景ニシテ楊柳ニ附着シタル霜アタカモ我国ノ櫻花ニ擬セラル
 
 十二月に入って寒気は益々烈しさを増した。十一日と十三日の日記には次のように書いた。


十二月十一日 零下二十度 晴 本日寒気最モ烈シクテ零下二十度ニ降ル 鼻水モ手ニツク水も氷ル 終日家ニ在リ夕食後村辺ヲ散歩 寒甚ダシ

 

十二月十三日 零下十八度 晴 本日寒気昨日ト等シ 終日宿舎ニアリテ休養ス 天候寒キナカ夜半ヨリ遼陽ヘ買物ニ向カイタル一行ハ煙台ニテ機関車ノ凍結ノタメ目的ヲ達セズシテ帰ル 終日宿舎ニ在リ

 

十二月末日までは終日宿舎に在って、時に軍医の衛生講話を聞いたり、清潔検査を行ったりの割と平穏無事の日が続いた。その年最後の日記である。

 

十二月三十一日 晴 本日ヲ以テ愈々本年終ル 新シキ年ヲ迎ヘント松竹ヲ立テル 新年ノ下給品ヲ分配ス 戦地ニ於イテ愉快ニ本年ヲ送ル  
                    

 

(三)

 戦争は明治三十八年に突入した。惟芳は元旦の日記に次のように記載した。

 

一月元旦 日 晴 午前八時床ヲ出テ祝賀ノ盃ヲ挙ゲ雑煮ヲ食フ 戦地ノ為祝賀式ヲ簡略シ分隊ヨリ代表ノミ参列シテ礼ヲナス 本日ハ愉快ニテ我ガ国民ノ頭ヲ離レザル旅順口ヲ降伏セシム

 

 惟芳は会報によって旅順陥落を聞いた。正月二日は家にあった。日没より、軍医、看護長全員が彼の分隊に来て共に大いに祝し、その賑わいは出征来初めてのものであった。しかしその中にあって一人、浮かぬ顔をちらっと見せた戦友がいた。彼はそっと話しかけた。
 
 「山田さん、陥落を祝して一杯どうですか? 皆あのように気炎を上げていますよ。」
 「有り難う。何もかも忘れて祝宴の輪に入りたいのですが、戦死した弟の事を思うと、やはり悲しい気持ちになります。」
 「弟さんは何処で戦死されたのですか」
 「昨年十月三十日に日本軍は二百三高地を一時占拠しました。その後敵の逆襲は猛烈を極め、その時弟は名誉の戦死を遂げました。」
 「それはお気の毒でしたね。ご冥福をお祈り致します。」
惟芳は祝賀の盃を重ねるのを止めて、山田看護卒の話に耳を傾けた。
 「有り難うございます。弟は身体が強壮で性質は活発でして、私と違って子供の頃は室内で読書するより、外で遊ぶのを好んでいました。大きくなったら兵隊になると言っていましたので、待望の陸軍士官学校に合格したときは、弟は得意満面、我が家一同の誇りでもありました。」
 「よく出来たのですね」 
 「いやそれほどではありませんが、何しろ躯が丈夫な上に、率直で闊達な性格でしたから、首尾良く士官候補生になれたのでしょう。」 
惟芳はもし自分が長男でなければ、同じ道を進んでいたかも知れないと、話を聞きながら思った。
 「この戦いが始まって、間もなく弟は出征しました。そしていま申しました二百三高地で戦死しました。あの激戦では多くの兵士が山頭の露と消え去っています。友を亡くし兄弟を失うのは軍国の常なる事で、今この時にいたずらに私情を述べ、弟の事にこだわるのは忠実なる他の戦死者や、私情を忍んで黙しておられる他の奥床しい人々に対して恥ずかしい心地がします。ましてや私は今こうして戦場にいます。しかしかけ替えのない弟の無念の死を思いますと、皆様と一緒に、我を忘れて酒を飲む気になれませんので、つい緒方さんの目にとまる結果になりました。面目もありません。まあ私の事は忘れて折角の機会ですから楽しんでください」
こう言って山田看護卒はまたちょっと寂しい風を見せたが、それからは何もなかったように笑顔に戻った。
 
 この後数週間を経て、惟芳は会報によって、第三軍司令官乃木希典大将の二人の子息の戦死と、将軍の詠んだ二つの漢詩を知ったのである。
 
    爾(に)霊山(れいざん)
 
  爾霊山険なれども豈(あに)攀じ難からんや
  男子功名克艱(こっかん)を期す
  鉄血山を覆(くつがえ)へして山形改(あらた)まる
  萬人斉しく仰ぐ爾霊山

    金州城
 
  山川草木轉(うたた)荒涼 
  十里風腥(なまぐさし)新戦場
  征馬前(すす)まず人語らず
  金州城外斜陽に立つ

 

 平成十六年(2004)三月、奇しくも二百三高地の激戦が終わって丁度百年後に、筆者は此の地を訪れた。緩やかな丘陵地といった感じで、四方が見渡せる景勝の地であった。バスから降りると直ぐさま、日だまりにたむろしていた十数人の青年達が、薄汚れた駕籠を手にして近寄り、執拗(しつよう)につきまとって乗るようにと言ってなかなか離れない。
やっとの思いで彼等の手を逃れ、なだらかな勾配の歩道を少し歩いたら、前方に銃弾の形をした高い記念碑が直立しているのが目に入った。近寄って記念碑の傍にある掲示板の文面を見ると、次の言葉が、中国語、英語、日本語の順で書いてあった。
 
「203高地は1904年日露戦争時の主要戦場の一つであった。日露両軍はこの高地を争奪するために、殺しあっていた。その結果、ロシア軍は5000人以上、日本軍は1万以上死傷した。戦後、旧日本第三軍司令官である乃木希典は死亡将士を記念するために、砲弾の残片から10.3mの高さの銃弾のような形の塔を鋳造し、自から「爾靈山」という名を書いた。これは日本軍国主義が外国を侵略した犯罪の証拠と恥辱柱となっている。」
 
 麓の売店で購入した『旅順口近代戦争遺跡』という本の「まえがき」を読むと、劈頭次のようなどぎつい文が載っていた。
 
 この書は、日本とロシアの二侵略者が、旅順地区において前後して二度起こした、中国領土を侵略し、中国の主権を犯すことを目的とした罪悪戦争に関する遺跡を指して述べたものである。(中略)両侵略者国家が植民地主義の利欲に駆られて良知をなくし、更には、人間性をも全く喪失して、中国の地において甚だ大きな犯罪行為を犯したことを、確固として暴露している。今日、その内容を世間に公表することによって、正義感を持つ世の人々の公憤を掻き立て、戦争狂人を永遠に歴史的 恥辱の柱に磔(はりつけ)にし、その悪名を後世に残していくものと信じる。
 
 日露戦争は旧満州の国土で行われた。戦いが終わってすでに百十数年を経ている。しかし今や中国政府の厳しい反日感情は日を追って烈しくなっているようだ。筆者はあの時すでに鎮まることのない憎悪の気持ちを強く感じた。
 
一月三日 夜になって惟芳は父からの来信を見て、昔を思って少し悲しい気持ちになった。満州の地に渡って父からの手紙はこれで二度目である。父は旅順口の激戦で多くの戦死者を出した事に言及し、惟芳が立派な働きをした上で、無事帰還することを願っていると述べていた。彼はこの親心を思うにつけても、国恩に報じて戦死のやむなきにいたる事と、何とか無事生還して親の恩に報いる事の両立しがたい事を思うにつけ、戦争というものの悲惨さを改めて感じた。しかし彼は戦場にある者として、おのれの覚悟を父と母に宛てて、次のように伝えた。
    
拝復 寒気厳しき折、御両親様にはお障りもなくお暮らしの由、何よりと嬉しく存じま
す。私は渡満以来相変わらず健全に勇気勃々(ぼつぼつ)奉職いたしております故ご安心ください。私は衛生隊に属していますので、最前線において敵と死闘を交える事は、これまではありませんでした。他方戦死者を弔うことや負傷者の看護に日夜当たっています。しかしこれから敵の大攻勢が予測されます。
  今回の戦争は、一家一族の名利にかかわるような小事ではなく、日本帝国興廃の分かれ目となる大事であることは、申すまでもございません。私といたしましては、何時にても国家のために、喜んで死ぬ覚悟でございます。如何なる人も死せんと欲して死する能わず、生きんとして生くる能わず、生死の如きは念頭に掛くるに足らざるものかと存じます。
  今は何一つ思い残す事もなく、勇往直進、我が任務を遂行し、聊(いささ)かなりとも国恩に報じ奉らんと欲しております。二十余年の間御愛育下さいました御洪恩を謝し奉ります。
 一月三日                             緒方惟芳
 御両親様

 

 春雪解けとともに、敵味方全軍を投じての大戦闘が確実視されているので、惟芳は自ら覚悟を固め、その場限りの気休めの言葉を両親に伝える気にはなれなかった。そして武士として生きてきた父であるから、まさかの時の覚悟は出来ているものと、惟芳は思うのであった。しかし無事生還して父と母を喜ばせたいと、心ひそかに期したのである。

 惟芳のいたところでは、正月明け当分は戦地とは思えないほどの気楽な日が続いた。

 

一月五日 晴 本日戦地ニ於イテ新年宴会ヲ開ク 酒盛ンニシテ支那車両ニ臥シテ暖ヲ取ル


一月六日 晴 本日昼ボタ餅ヲ作ル 内地ヲ発シテヨリ初物ナリ 然レドモ為ニ暖炉熱シテ毛布二枚焼ク


一月七日 晴 本日午前十時頃橘隊ヨリ軍曹蓄音器ヲ持来リ正午マデ吾ガ宿舎ニテ音楽ヲ為ス 内地ニテハ蓄音器ハ珍シカラズ 然レドモ戦地ニテ是ノ如キ音ヲ聞クトハ思ワザリキ

 氷点下十五、六度の寒さは依然として続いておる。一月十五日の日記に彼は屋外の様子を次のように書いた。
 本日曇 霧最モ甚ダシクシテ十間前ノ物ヲ見ルコト能ワズ 冷気ノ為草木ニ凍結シタル霧アタカモ梅花ノ如ク殊ニ太陽之ニ光射シタルハ一層ノ美観ナリ

 

一月二十五日 零下十六度の降雪の中、午後五時頃急に出発準備の命令があり、直ちに準備を整え命令の下るのを待った。敵は我が左翼に来たという。翌朝も早く起きて命令の下るのを待ったが、惟芳の第五師団は待機することになった。会報により露国の皇帝皇后行方不明ということが伝わってきた。また敵は我が軍に囲まれたことを知った。戦況は次第に緊迫の様相を呈してきた。惟芳はこれを三日間の日記にやや詳しく記載した。

 

一月二十七日 零下十度 雪 昨日午後十二時頃床ニ就クヤ本日午前一時半頃師団ヨリノ命ヲ以テ直チニ本日ノ食事ノ用意ヲナシ準備終リテ又少時眠リニ就ク 五時半頃床ヲ出デ愈々出発ノ事定マル 前日第八師団向カイ本日第五師団ノ九旅団オヨビ騎兵先発トシテ向イタルト言フ 本日ツイニ出発ノ命ナシ 出発準備ヲ為シ床ニ就ク


一月二十八日 零下十六度 雪 本日同ジク出発準備ヲナシ命ヲ待ツ 本朝ヨリ支那車輌ノ監視ヲ命ゼラル 午後四時頃急ニ出発命下リ直チニ食事ヲ終エ午後五時頃ヨリ李家達連溝ヲ出デ半里ホドニテ日没トナル ソレヨリ夜行軍ヲナシ明午前三時小煙台ニ至リ露営ス 支那車輌ヲ営兵司令所トス 終夜一睡ヲ得ルコトナクシテ朝ヲ迎フ 夜間風無キモ寒冷甚ダシク氷柱口辺ニ連ナル(里程六里)


一月二十九日 日 零下十度 晴 本日午前八時出発ノ命下リ村ヲ出テ西方狼洞溝ニ至ル 前日ノ行軍ト不睡トニヨリテ非常ノ疲労ヲ得 正午目的地ニ至ル里程二里余 途中露降兵二隊と我負傷兵ノ一隊ト出逢フ 本邑ニ至リヨウヤクニシテ一民家ヲ求メ宿営ヲナシ午後十時半命令ノ伝達ヲ聞ク ソノ大要ハ明日滞在 我五師団ハ予定ノ陣地ヲ占領ス

 陣中日記に惟芳は清酒一合菓子三十匁、あるいは煙草の分配等、無聊を慰める事をたびたび記載した。兵士にとって、こういう嗜好品の給配はよほど有り難いのである。
 
 本日同分隊員棚田氏近傍ノ河ニテ氷ヲ砕キ「ナマズ」ヲ捕エテ食ニ供ス 実ニ上陸以来ノ生魚ノ初物ナリ

 最前線では戦闘が続いている。惟芳は戦地で最初の紀元節を迎えた。


二月十一日 本日快晴一点ノ雲ナク実ニ我ガ国威ガ満州ニ末長ク輝カン事ヲ思ハシム 無事紀元節ヲ祝ス 特別下給品トシテ酒、煙草、菓子等珍シクアリ


 二月末日まで何時でも出発できる準備をしていたが、三月一日午前四時頃惟芳たち衛生隊は食事がすむと北方二里余のところにある太台という所において命令を正午まで待った。是より前進中の様子を彼は日記に次のように記した。
 
 十時頃銃砲ノ聲盛ン 大激戦大地モ為ニ一変スルヤト思ハシム 正午ニ至リ三丈子ニ至リ野戦病院ヲ開設スベキ命ヲ受ケ西北方一里程ナル村邑ニ至ル 其ノ地ハ我ガ砲兵陣地ノ在ル所ニシテ実ニ敵弾来タル事夥(おびただ)シ、殊ニ我ガ近傍数メートルノ所ニ落下シ危険甚ダシ 此ノ地ハ衛生隊第一中隊ノ開設スル所ニシテ之ト交代スル筈ナリシモ前方落弾烈シキ為衛生隊進ミ得ズシテ又当地ニ帰ル 為ニ南方半里強ノ古城子ニ至リ野戦病院ヲ開設ス 日ノ没スル頃ヨリ翌日ノ日出マデニ千人ノ収容ヲナス 吾ハ長瀬看護長ノ許ニテ三百バカリ収容ス 忙シキコト例エガタシ

 

 三月一日に野戦病院を開設し、その後負傷兵の収容と看護は十日間ばかり続いた。惟芳は後年彼の妻に、患者の救護に力を尽くし、何とか一息ついたとき、高梁畑で数日の間、人事不省、まるで丸太棒のように横臥したと話している。その後近傍において、日本兵及びロシア兵の死体検査と片付けを行った。奉天会戦が如何に熾烈を極め悲惨であったかが分かる。真下飛泉の詩「戦友」は三善和気の哀調を帯びた曲と相俟って、今なお広く歌われている。しかし当時帰還した兵士にはとても歌えなかった。
惟芳は軍歌を含めてどんな歌も口ずさまなかった。無粋と言うより謹厳さが身に付いていたからだと言える。

  戦友

ここはお国を何百里 離れて遠き満州
赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下
思えばかなし昨日まで 真先駈けて突進し
敵を散々懲(こ)らしたる 勇士はここに眠れるか

ああ戦の最中に 隣りに居ったこの友の
俄(にわか)にはたと倒れしを 我はおもわず駆け寄って
軍律きびしい中なれど これが見捨てて置かれようか
「しっかりせよ」と抱き起こし 仮繃帯も弾丸(たま)の中

折から起こる突貫に 友はようよう顔あげて
「お国の為だかまわずに 後れてくれな」と目に涙
あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体
「それじゃ行くよ」と別れたが 永の別れとなったのか
 
戦いすんで日が暮れて さがしにもどる心では
どうぞ生きて居てくれよ ものなど言えと願うたに
空しく冷えて魂は くにへ帰ったポケットに
時計ばかりがコチコチと 動いているも情なや

 

三月十九日 この日彼は満二十二歳になった。三月二十一日の会報で惟芳は奉天の北方にある開元を我が軍が占領したことを知った。その後一週間病院での勤務を続けた。


三月二十八日 朝のうちは曇天、その後烈しい風雨に見舞われた。朝食を終えて南方二里余の所にある沈旦堡と言う所へ行った。此の地は惟芳の第五師団の中央軍の第一線であった。彼我の距離僅かに二千メートルの近距離であったので、近傍の樹木は両者の弾丸の為蜂巣の如く、当時の激戦が如何にすさまじかったかを思って、惟芳は心胆の寒きを覚えた。


三月三十日 午前二時命が下った。午前八時に出発し北方の崔家堡に向かった。そこに宿営病院を開設するためである。氷雪片々として道路が悪く、大きく横たわっていた渾河は、以前は二回共氷上を踏んで渡る事ができたが、全て氷解していて、工兵隊が架けた軍橋によって渡った。崔家堡に到着したのは午後二時半で、直ちに宿営病院開設に取り掛かった。その日患者は無かった。
 

 

(四)

 四月一日から二冊目の軍隊手帳に日記を書き始めた。最初の手帳は横長の小さいものであったが、今度は縦長で縦十五センチ、横九センチで厚い表紙のついたものである。

 

四月一日 土 曇 本日曇天風少シクアリ 本日ヨリ起床午前六時半 朝食同七時半 昼食十二時 夕食午後六時消灯八時 服務時間午前八時ヨリ午後四時迄ト定ム 本日入院患者二名


四月二日 日 半晴 本日半晴半曇風ナシ 本日ヨリ鐘号を定メテ起床点呼等ヲ行フ 午前中発看部本部ノ業務ニ従事 午後ヨリ事務官ニ従テ勤務ス 本日別ニ異常ナシ

 

 その後数日間、異常のない日々が続いた。惟芳は日記に日付と「晴、曇、雪」など、至極簡潔に天気の状況を記し、それに「無異」とのみ書き足した。四月九日第五師団の招魂祭が行われた。

 

四月九日 日 曇 風甚シク数尺前ヲ弁ゼズ 本日沙埋子ニ於テ第五師団招魂祭ヲ行ワル 本日ハ患者ニ差支ヘナキ人員ヲ以テ午前八時集合 村ノ東北方一里半ナル同地ニ向ウ 梨本宮ヲ始メトシテ満州軍総司令官参列シテ午前十一時ヨリ参拝ノ式行ワル 式終リテ各隊ヨリ余興、角力、競馬等アリテ甚ダ盛大ナリ 然シ早朝ヨリ吹キタル風十一時頃ヨリ強ヲ加ヘ砂土天ニ舞ヒ数尺ヲ弁ゼズ 午後五時帰営ス
 
 その後十日間ばかり、また何ら異とすることなく日は過ぎ去った。しかし二十五日のことである。午後零時半頃第二野戦病院より看護手が患者一名を護送して来た際、かねてより先輩風を吹かせて威張っていた永田という看護卒が、次のようなことで怒り惟芳を侮辱した。この患者を担架から下ろすときに、大柄で身動きできない患者が重いために、付き添いの看護手が患者を少し無理な姿勢で抱えたので、患者がうめき声を上げた。左足に貫通銃創を受けており、激痛が走ったのであろう。その時のことである。何一つ積極的に手伝おうとしない永田が、惟芳の落ち度だと言って彼をひどく叱責したのである。

 「緒方、貴様は暇さえあれば碌でもない本を読んでいるが、少しは負傷者の身になって取り扱い方法を考えたらどうだ。」
 惟芳は自分の落ち度ではないが、看護手の手前じっと我慢して、この負傷した兵士を病室へ運び入れた。


 永田が言っていた本とは、数日前吉川先生からの慰問袋の中に入っていた、新渡戸稲造著『武士道』についての桜井鴎村の解説書である。永田は小学校高等科しか出ていないので、惟芳に対してコンプレックスを抱いているのである。惟芳は中学校を五年で中退したが、雨谷校長からも言われた、社会に出てからの勉強が本当の勉強だという事を心懸けるようにしていた。惟芳は、高杉晋作の結成した奇兵隊士の一人三浦梧楼が、「文事あるものは武備あるというが、自分は軍務に服していても学事を忘れず、毎日の日課として司馬温公の『資治通鑑』を二巻ずつ必ず読むように定めておった。」と言ったということ聞いたことがあるので、吉川先生がわざわざ送ってくれた『武士道』を、暇を見ては少しずつ読んでいたのである。なおその袋には赤い糸を玉にして作った千人針の布も入れてあった。先生からの手紙で、令妹が同級生の多くに依頼して作ったものだと知ったとき、惟芳はシーボルトの旧蹟を三人で訪ねたときの、悠子の若くて美しい姿をありありと思いだし、懐かしく思うとともに、かれら兄妹の親切を心から感謝した。
 
 五月になって命じられていた機密の図書、図面の整理を事務官室で行った。しかし午後四時頃病院患者後送の命を受け、直ちに同患者を崔家堡定立病院へ後送した。その日急に病院が閉鎖されたために、多忙を極めた。五月も無事に終わり六月に入った。


六月八日 午前七時半頃起床し、各品を整頓の上十時頃第二班に至った。その日は各班共に出発の準備をした。三日ぶりの入浴でさっぱりし十時頃床に就いた。


九日は晴天、五時起床、朝食を終えて午前六時半集合、七時愈々同地を出発した。同地には二十九日間滞在したことになる。道を北方にとって南英城、北英城、和順屯、八宝屯などを経て揚堡に到着した。路中三回小休止をなし、正午目的地に着いた。四里の距離はゆるやかな行軍だった。宿舎に就いて掃除の後昼食、その後昼眠をした。昼寝はここ二、三週間で始めてのことで、身も心も休養になったと感じた。休養後午後九時頃床に就き明日の命を待った。


六月十日 午前五時頃眠を覚まして命を待った。敵は遠く退却したが師団は滞在する筈なので我が病院も当分滞在することと決まった。そこで舎内外の清潔を計り庭作り、浴場設置を終え、入浴の後故郷への書状を認め、午後十時眠に就いた。その後別に変わったことはない。兵士の中には手紙を書くのが苦手の者がいた。

 

六月十四日 雨 本日入浴ノ後昼食終リ野川曹長ノ宿営ニ至リ彼ノ手紙五、六本ヲ認メ供応ニ逢ウテ 午後十時頃営ニ帰ル


音楽を聴いたり、交誼上「花合」をしたりして遊ぶのは楽しみであったのが、惟芳は将来の事を思って勉強しようと決心した。衛生上、清潔検査は時々行われた。種痘を実施した。
 
六月十五日 晴 本日曇天一点ノ雲ナシ 午前六時半起床本日ヨリ心ヲ決シテ物理学ノ研究ヲナサントス


六月十七日 晴 本日午前九時ヨリ全院ノ種痘ヲ行ウ 坪内軍医主任ニテ小生助手トナリ十一時全ク終ル 他異ナシ 本日清酒一合、煙草二十本分配ス


六月十八日 日 晴 本日午前中冷気ヲ利用シテ舎外ノ大清潔法ヲ行イタルニ午後ヨリ当舎ヲ出テ西方ニ転舎スベキ旨伝ヘラレタルニ失望シタルモ止ムヲ得ズシテ午後ヨリ先方ノ清潔ヲ行ヒ之ニ轉舎ス 本日午後十一時不意ノ下痢ヲ生ジ其後夜間一回大下痢ヲシ非常ニ苦シム
 
 惟芳は数日間下痢と疲労で診断を受けて休養することにした。二十二日になってどうやら快復したので、故郷や知人に手紙を認め、また物理学の勉強を始めた。
 惟芳は日本の連合艦隊日本海でロシアのバルチック艦隊を破った事、またその後日露講話問題の事が閣議で話されていることを新聞紙上で知り、そのうち戦争も終わり無事に内地へ帰れるだろう、その時には元気な姿を家族の者に見せることが出来る、そう思った矢先の事である。家から一通の書信が届いた。彼は次の様に日記に記載した。
 
七月六日 晴 本日恤兵品(じゅっぺいひん)トシテ煙草二十本手拭一本、歯磨一袋、葉書二枚、封筒葉書四枚、慰問袋ヲ分配ス 然レドモ慰問袋ハ抽選ノタメ不幸不受セリ ソノ他下給品トシテ煙草二十、酒一合ヲ分配ス 夕食終ワリ用事ノタメ他所セル途中石田ヨリ一書ヲ受ケ開封スレバ父ノ死亡通知 不幸ノ極ミニテ甚ダ落膽セリ

 

 母からの手紙で、父の死亡したのが十日前の六月二十六日だと知った。概して人間は、肉親、特に親や子の死を直接経験した時、それまでとは違った心境になる。つまりより深くものを考え、より真剣に生きていこうと思うようになる。惟芳は今日のあることは出征以来覚悟していたので、それほど心を動かすようなことはないと思っていたが、非常に落胆した。父という支柱が消え失せ、遠き国にさまよう旅人のような心持ちになった。現に国土を遠く離れて満州の戦場にあり、寂寥の感は耐え難いものであった。しかし夜の静寂とともに、彼は是ではいけないと思った。
 
 -父上は俺に緒方家の家督を譲り、肩の荷を下ろしたように感じたと言われた。今こそ俺がしっかりして今度は俺が支柱となって、母上や尚春を助けてやらなければいけないのだ。幸いにこの戦も近々終わることだろう。運良く俺は生き延びることが出来た。戦死した者も、負傷して元通りの生活が出来ない者も實に多い。本当に気の毒だ。この人達のためにも、俺は医者として生きることによって、彼等の無念を晴らしたい。運命の不思議というか、看護兵として従軍出来たのは、有難い天の計らいであったと言える。俺はやるぞ。

 

 惟芳はここに将来医師として身を立て、少しでも世のため人のために働き、そして母への孝養も尽したいと思うのであった。二日後の七月八日、雨で清潔検査が中止になった。彼は図書の取り調べをする傍ら、内地の母に、下記のような自分の気持ち含んだ、慰めと励ましの書信を認めた。

 拝啓 酷暑の候となりました。その後ご無沙汰いたしております。母上様にはお元気にお過ごしのことと拝察いたします。 
 さて、この度父上御逝去の報に接し、痛恨の極みに存じます。杖とも柱とも頼んでおられた父上のこと故、母上様のお嘆き、また寂しさはさぞやとお察し申し上げます。私がお側にいて少しでもお慰めし、お役に立つことが出来れば、これに越したことはございませんが、御承知の通り、遥か遠き戦場にあっては如何ともし難く、ただ手をこまぬくだけでございます。この不孝何卒お許し下さいませ。
 日露の戦いは今や峠を越した感があります。日本軍の勇猛果敢な攻撃に、ロシア軍は撤退をはじめました。私は医療の任務ですから前線の後方で、負傷兵の治療、看護を行っております。
 この度の戦いで實に多くの戦死者や負傷者が出ました。これを思うと、今日まで無事に勤務できましたのは、ひとえに神仏のご加護の賜物だと感謝いたしております。
 国のためとは言え、戦友の多くが、身命を華と散らしていったことを思うと、戦争の悲惨さ、空しさは言葉では言い尽くされません。また人の命が實に儚いものであり、またそれ故に、如何に尊いものであるかということを心底感じました。私は戦場に赴く前に、脚気に罹り、看護手となりました。お陰で人の命を救うことの如何に大切かということ身を以て体験致しました。此の尊い体験を踏まえ、今後医の道を進むことは、私の天職だと考えるようになりました。私が無事帰還できましたら、医師として生きていく覚悟でございます。
 母上様にはくれぐれもご自愛下さいますようお祈り致します。なお尚春には、体に気をつけ、しっかり勉強するようにお伝え下さいませ。私も健康に留意し、与えられた務めを果たす所存でございます。それでは今日はこれにて失礼致します。        
敬具

 

 惟芳は母に手紙を出して一安心した。そしてこれまで毎日丁寧につけてきた日記を書き続ける気がしなくなった。十日ばかり休んでこれまでのことを回想し、思い出すままに少し書いて最後とした。この時の書体は几帳面な楷書ではなく、流れるような草書体の筆跡になった。
 
 筆者がこれまで惟芳の日記を何とか判読しえたのは、インキではなく鉛筆書きのために文字が消磨されなかったからだと思われる。其の最後の日記の内容をここに伝えて、『日露戦争従軍日記』を擱筆することとする。

 期間内楊堡滞在も五十一日もの長期に亘った。始めて当地に着いたときは高梁も二、三寸の幼芽に過ぎなかったが、暑さの増すにつれて丈が延びて人も馬も隠すほどで、芭蕉のような感じにまでになった。中でも楊堡に「ケシ」花が非常に多く残っていて、休養室は前後左右この花で囲まれており、花盛りには内地の花園に遊ぶような感想を抱かしめた。  殊に阿片取りの支那婦人が花の中で仕事をしている様子は、これを情のある日本婦人にさせたらどれほど見栄えがするだろうかと、皆がささやき合った。何と情緒のある風景であったことか。(中略)
 本日午前中に南嶺に至り野戦病院を開設せよとの命令があり、眠りの夢を破られた。近々出発して病院を開設することは覚悟していたが、この命令は少し間違いではないかと半信半疑で準備をし、確かな事を問い合わす他には仕方がないと思っていたところ、正午に正しい命令が降った。昼食をすませ全員集会して出発した時は零時半であった。
 酷熱の時分で、殊に日中の日差しは強く、背嚢だけでも一荷あるのに、その上衛生用品を背負い、高梁を押しのけながら北方目指しての行軍は耐え難かった。半曇の空は暗く、そのために射す日は弱くなったが、それでも蒸し暑さは甚しくて、額からは汗が滝のように流れ、背中にはこれまた汗が河をなして流れ、たちまち湯をかぶるような感じがして疲労を覚えた。こうしているうちに益々曇天が加わり、灼熱は少し減じたが、午後四時頃より俄に雨が降ったかと思うと止み、また降り出して、後には土砂降りになり、汗に染まった夏服も雨で洗われる始末。このような有様で、ぬかるんだ雨後の悪路には所々水が溢れ出て、行軍の疲労は益々加っていった。  
 夕日は西の山に傾いたが南嶺はなお遠く、各人の惨状は一様ではない。手でもって南嶺を引き寄せたい気持ちで、二、三の同輩は数人の支那人を御者として道を急ぎ行き、人の顔が判別できる時までに南嶺に着いたとか。
 足を引きずりながら南嶺に着いたが、身体は湿潤甚だしく疲労は益々加わって来た。悪寒がしてきたが躯を温めるのに薪がない。空腹だが食べものはなく、飲むべき湯水もない。悪路のため輸送車両はぬかるみにはまりこんで動かず、兵は倒れ馬も斃れ、昨年の沙河戦闘の際を思い起こした。こうしているうちに、同輩が少しばかりの薪を集めて火を点けてくれた。ようやくにして少しく暖をむさぼり、元気が出てきたので、携帯の食糧を出し合って漸く熱い食物にありついた。  
 南嶺は楊堡を去ること七里、昌図の南方七、八百メートルの高地にあって、眼下に昌図の市街を見下ろせた。ここ南嶺は数戸からなる村落で家屋こそ多少大きいが、いろいろなものが不足しており、不潔を極めていた。病院を開設するのは極めて困難だろうと思いつつ空を見上げた。数日は晴の日が続くだろう。

 この後惟芳は南嶺において、七月三十日から十月七日まで舎営病院の業務に従事し、十月十五日に三等看護長に任命された。そして明治三十八年十二月二十七日に病院の業務を終え、鉄嶺で乗車して帰途についた。同月三十日に大連で乗船し、翌明治三十九年一月三日宇品に上陸した。同年一月六日に解隊、同日広島予備病院附となり、二月十二日に残務を終了した。
 なお四月一日、三十七・八年戦役の功により、惟芳は勲八等白色桐葉章及び金弐百円、並びに従軍記章を下賜された。
 日本は九月五日、アメリカのポーツマスにおいて、日露講和条約に調印した。

参考文献 児島 襄著『日露戦争』 加藤健之助著『日露戦争軍医の日記』 
     茂沢祐作著『ある歩兵の日露戦争従軍日記』
週刊朝日百科日本の歴史 第11巻』


 最後に一言。「第七章」を書くにあたり、惟芳が遺した『従軍手帳』を借覧し全面的に利用した。そして不思議に思うことがあった。それは、日本歴史上、空前の死傷者を多出したと考えられる日露戦争に従軍し、しかも彼らに接する機会の多い野戦病院にあって、その惨状を惟芳がほとんど記載していないことである。察するに、敵味方共に傷つき死ぬのは戦の常。従って阿鼻叫喚の修羅の巷を殊更に記述する筆を持たなかったからではなかろうか。更に言えることは、惟芳は常日頃、喜怒哀楽を面に出すことが少なかった。これは今の日本人と違って、武士たる節度を若くして植え付けられた、明治の人間が抱く矜持だったのかも知れない。