yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

杏林の坂道 第六章「シーボルト」

杏林の坂道 第六章「シーボルト
 
(一)

 惟芳はここ数日間夜遅くまで製図を画くことに専念した。学校で習う教科の復習にはそんなに時間はかからないが、製図にはミスが許されないので神経を集中しなければならない。そのために起床が常よりも少し遅くなることが時々あった。しかし今日は天長節、早めに起きて午前中所内で行われた式典に参加した。天皇陛下の誕生を国民の一人として祝っての帰り道、日の丸が家の門ごとにひらめいている街中を通ると、何だか爽やかな気分になった。


 彼は午後、その日を期して画き上げた図面を満足げに見ていると、隣室の吉川先生が声をかけて姿を現した。

 「お邪魔します。最近遅くまで勉強しておられるようですね。ところで緒方さん。あれから半年経ちますが、五月の同盟罷業後は何事もありませんか?」
 「はい、その後は別に何も聞いておりません。あの時はちょっとびっくりしました。終業前に、鉄工職の一団六百余名のものが背後の丘に集合して、兵児帯の類を旗印の様に高く掲げ、就業している職工を威嚇しようとして暴言を吐いたり、工場内に瓦礫を投げ入れたりしていましたから。遠くから見ていましても物騒でした」〔注〕
 「労働者のこうした大々的な抗議集会は次第に禁止されていますね。私もあのとき新聞を読んで一体どうなるかと心配しました。あの事件の後、やはり五月でしたが、第一高等学校生徒藤村操の華厳の滝への投身自殺がありました。さらにその一カ月後には、東京帝国大学の七博士が主戦論を唱えて建議書を公表しました。ところが先月には幸徳秋水内村鑑三反戦論を発表して『萬朝報』を退社しました。世の中が落ち着かなくなり、その上息苦しくなりました」

 惟芳は藤村操の遺書を新聞紙上で読んで、自分と同じ年齢の青年が書いた文にしてはなかなか立派である。しかしたとえ人生における大きな煩悶があったにせよ、これまで育ててくれた親の恩を顧みないで自殺するとは、何といっても不孝の誹(そし)りは免れないのではないかと感じていた。吉川氏がそのことに言及したので今またそう思った。

吉川先生はこのように最近の大きなニュースを口にしたが、それでもって話を展開させようという意図は別にないようであった。彼は惟芳の机の上に拡げられた図面に目をやった。
 「おや、それは緒方さんが画かれたものですか。たいそうきれいにできていますね。何の図面ですか」
 「ああ、これですか。ここに書いてありますように『スチームランチ汽罐験水器之図』です。これは現尺のものです」
 「ちょっと見せてください。TOTAL LENGTH 360 DAIAMETER 70とありますね」
 「そうです。まあちっぽけなものです。しかしご覧のように、この程度の図面を画くのにも結構手間もかかれば神経も使います。これが大きな船舶の製図ともなれば、膨大な数の図面を必要とします」 

 「そうでしょうね。それにしても細かく寸法が書き込んでありますね」

 吉川先生は半紙四枚分の大きさの紙一面に画かれた験水器の図面にしばらく眼を注いだ。先生はこういったことに多少興味があるのか、惟芳に訊ねた。
 「この図面をこれからどうされるのですか」
 ここで惟芳は設計についてこれまで学んだ事をかいつまんで説明した。
 「初心者と設計技師との間には師弟の関係があると言われています。初心者は一対一で面倒を見てもらいます。教える方も一生懸命ですが、教わる方はそれこそ真剣に学び、作業をしなければいけません。設計室には畳一枚程度の木製の頑丈な製図机がいくつも置かれてあります。この机は脊が高いので、腹を図板に載せないと画けません。それで胸を悪くする人がいます。私がこれまで教わった設計を学ぶ手順を簡単に列挙してみますと次のようになります」

 惟芳は質問に直接答える前に、以上の事を言った後、答えるべき内容を頭の中で整理して話した。
 「最初は比較的簡単な強度計や振動計から画き始めます。今お見せしました験水器も簡単なものです。また部品図や部品表などでも、まず画用紙に鉛筆で下画きしたものをトレース〔敷き写し〕します。トレース紙は絹にパラフィンを流したもので、これに烏口で墨入れをするのですが、失敗したら大変です。非常に手間がかかり苦労します。こうして毎日画き上げた分を技師に見てもらい、承認の判を貰わなければ完了とはいえません。次にでき上った図面や材料表など第一原紙を、写真場に持っていき複写を依頼します。その複写したもの〔青写真〕を現場など関連先に出図します。もちろんその前に船主に図面を提出して承認してもらわなければなりません。こうして承認された設計図を基に、主機関、補機関、および関連装置などが製作されますが、最終仕上げはほとんどヤスリによる手作業でしています」

 製作の最終段階がヤスリによる手作業と聞いて吉川氏は驚いた風であった。
 「ヤスリによる手作業で仕上げるのですか?」
 「そうです。だから造機部門ではヤスリ職が最も多くいます」
 「お聞きしますと、作図をはじめとして機関の完成までに非常に手数がかかって、たいそう面倒のようですね。私はどちらかといえば理系より文系でして、この図面を見ただけで圧倒されますね」
 「私の場合、製図だけでも骨が折れますが、教科の授業も専門に入り、次第に難しくなりました。だから学校で教わっただけではなかなか理解できず、家に帰ってお浚いをしているような訳です。一緒に勉強している者の中には、小学校高等科を出ただけという生徒も何人かいますが、頭が良いだけではなく、しっかりしています。中学校まで行った私としては恥ずかしい思いがします」
 「おっしゃる通りです。良くできるのに上級学校への進学を断念せざるを得ない者がいます。私のクラスにもこれまで何人もいました。将来性のある子を何とか高等学校へ進学させてやりたいと思って親とも相談しましたが、家業を継がせないといけないとか何とか言って、どうしても応じて貰えなかったです。まあ、考えてみましたら、一応中学校を卒業したのですから、後は本人の努力次第でしょう。緒方さんもそうでしたね。家計が苦しくて中学校へも入れない者に比べたら、それだけでも宜しとすべきかもしれませんが」

 吉川先生はさらに言葉を続けて自分の考えていることを熱心に語った。
 「お金のかからない官費入学を考えたら、中学校から海軍兵学校陸軍士官学校、或いは高等師範学校といったところがあります。しかし軍人や教師に向かない者もいますから、もう少し幅広い選択ができて、しかも個人負担のかからない学校があればよいと思います」
 「私もそう思います。この点を考えますと、私が入学を許可されました三菱予備工業学校は有難いところです。この学校の設立を思いつかれ、開校にまで持って行かれた荘田平五郎所長は、誰もが言っていますが、卓見の持ち主で偉い人だと思います。慶応大学で福沢諭吉先生の教えを受け、先生の推挙で三菱に入られたそうです。廉潔で誠実、感情に支配されない理知の方だとうかがっています。そうした人柄のために、所内での信望は極めて厚いものがあります。こうした方が上におられますと、働き甲斐がありますね」

 惟芳の三菱礼賛の言葉に素直に耳を傾けた吉川先生は、話題が教育となると自分の専門でもあるので、日頃考えていた事を披歴した。
 「なるほど、荘田所長は立派な方のようですね。そのような人を上に配すれば、結果は自然に出ますね。私は中学校を卒業するに当たり、医学部への進学を一時考えましたので申すのですが、ここ長崎は日本の西洋医学発祥の地と言っても過言ではないでしょう。御存知だとは思いますが、長崎で最初に西洋の医療を施したシーボルトや、その後医者の養成所を開設したポンペなどは、最新の医療技術を伝え、人格的にも非常に優れていたようです」

 惟芳は吉川氏が医学を希望したことがあるとの言葉に、単に英語を教えているだけではなく、かなり幅の有る人だなと感心した。彼の話は続いた。
 「渡辺崋山高野長英という人物を御存知ですか? 時代に先んじた天才は往々にして悲劇的人生を送りますね。吉田松陰もそうではないでしょうか。その長英が『出島で診療している今回の医師は傑出している』という噂を聞くといち早く反応して、彼は江戸から長崎へと馳せ参じ、シーボルトの愛弟子になっています。長英は元々蘭学を学び蘭医でもあったので、新知識の吸収は早かったと思いますね。ところで今日、一人前の医者になるまで教育するとなると、かなりの費用と年月を要します。貧乏人にはとても無理です。家に金が無くても頭が良くて、医学を志すような者のために、官費制度ができたら良いのにとかねてより私は思っています」

 こう言った後、吉川先生は惟芳にとって思いもかけない嬉しい提案をした。
 「緒方さん、シーボルトの事をお話しましたが、彼は長崎に来て鳴滝塾を開いています。もしお暇ならその跡地へ散歩がてら行ってみませんか。実は今日佐賀から妹が祝日の休みを利用して来たいと言っていまして、そのうち着くと思います。妹は今、佐賀県立女学校に通っています。お差し支えなければ一緒に連れて行ってやろうかと思っていますが」

 吉川氏に妹がいることは既に聞いていたがが、惟芳にとって、うら若い女性はこれまで身近にいなかったことだし、それに「男女七歳にして席を同じうせず」という規範というか環境の下に育ったので、若い女性が突然出現するとの予告に接し、心の水面に小波が立った。しかし願ってもない誘いであるので、彼は二つ返事で賛意を示した。

吉川先生が再び襖越しに声をかけてきたのは、それから小一時間ばかり後であった。
 「緒方さん。お待たせいたしました。妹が先ほど着きました。出かける前にちょっとご挨拶させたいと思います」
 兄の後ろに身を隠すようにして妹が惟芳の部屋に入ってきた。その楚々として兄に従う姿がはっきり惟芳の目に映った。色白でふっくらとした顔立ち、愛らしい目許と優しい口許、笑みを見せた時できる小さな頬の窪み。これらが惟芳には如何にも優しく思えた。

 「悠子と申します。兄が大変お世話になっております」
 これだけの挨拶であるが、明るく澄んだ声に惟芳は何だかほのぼのとしたものを感じた。父を早く亡くし、父親代わりともいえる齢の離れた兄に幾分甘えた所は窺えるが、さすが良家の子女だと惟芳は思った。
 「これは妹が持ってきた佐賀の菓子です。名物に旨いものなし、とよく言われますが、お茶請けに案外喜ばれています。故郷の宣伝になりますが、佐賀では江戸時代既に、さくら羊羹の名で親しまれていました。緒方さんは甘いものはあまり召し上がらないかもしれませんが」
 「有難うございます。喜んで頂戴いたします」
惟芳は羊羹そのものより、わざわざ土産を携えてきた妹の心づくしを嬉しく思った。彼は吉川氏の後ろに控えている悠子に目を向けて礼を述べた。

 

 

(二)

 十一月初旬のこの季節は実に素晴らしい。澄み渡った空、そこに高く懸る巻雲。九州特有と思われる樟の大樹。市中の多くの寺や神社には、必ずといっていいほどこの樟の巨木が見かけられる。しかしその生い茂った緑の枝葉が台風の襲来ともなると、ざわざわと音を立てて大揺れに揺れる様子など、惟芳の故郷である山陰地方では想像もできない風景である。今日は朝から清々しい風の吹き渡る秋日和である。下宿を出ると港の方から漂ってくる潮の香。大樹と海は惟芳にとって何よりも有難い自然の風物である。

 

 彼は長崎に来て誰からともなく教えられたのであるが、現在造船所が位置している「飽の島」という所は、幕末までは人煙稀な丘陵地帯で、半農半漁の人々が少人数いただけであった。彼らは松や杉や雑木の茂った谷間の狭い土地を耕して細々と生活していた。そこへ安政四年(1857)にオランダ人が鎔鉄所を初めて建設したのである。一方シーボルトが鳴滝の地に塾を開いたのは文政七年(1824)それより三十年以上前の事である。

 

 長崎港を隔てて見える造船所では、今や六千人近い人が働いていることを考えると、惟芳は我が国の造船業を初めとして工業の今後の発展に希望を抱いた。しかし事ここにまで至ったのも、考えてみれば、これから訪ねようとしている鳴滝塾で、全国各地からやってきた若き塾生たちが、言語の障害をものともせず、シーボルトの講義に熱心に耳を傾けたことに端を発したといっても過言ではなかろう。こうしたことをあれこれ思うと、惟芳は一段と鼓舞されるような刺激を覚えるのであった。

 

 三人は中島川縁りの小道に沿って歩き始め、その後さらにその支流である鳴滝川を左岸に見ながらゆっくりと進んで行った。道はやや爪先上りに傾斜し、滝つ瀬の音が快く響いてきた。遠近の灌木の茂みや竹藪の中から、小鳥たちの楽しげな囀りが聞こえる。目指す鳴滝の塾跡近辺では、黄金色に輝く稲穂がもうすっかり刈り取られている。その後青葉の出た田圃を過ぎて少し行ったところ。小高い丘の麓にあった。そんなに広い敷地ではないが平坦な場所であった。この鳴滝の塾跡に立った時、惟芳は何だか気持ちの高揚を覚えた。

 

 ―シーボルトから最新の西洋医学の知識を学ぶために、全国各地から馳せ参じた俊英たちの中に、長州からも青木周弼と研蔵の兄弟がいた、と安藤先生が話されたが、同じ長州人として誇るべき事だ。それにしても千里の道を遠しとせず馳せ参じた者もいたというが、その覇気たるや大したものだ。人助けという使命感に燃えていたのだろう。

 その時吉川氏が妹の悠子に話しかけた。
 「シーボルト事件というのを知っているかね?」
 「詳しいことは知りませんが、あの方が帰国なさるとき、禁制品の日本地図などを持ち出そうとされたのが見つかって、大きな騒動になったとか。国史の授業で先生がおっしゃっていましたわ」
 「そうなんだよ。これはね、今から思うと、徳川幕府の狭量な鎖国政策の表われの一つだ。海外の事情はなるべく知りたい。しかし自国の事に関してはできるだけ相手に伝えないようにする。こういった一方的なやり方は、世の中では通用しないからね。シーボルトが江戸へ行った時、彼は幕府天文方高橋作左右衛門のもとに保管されていた伊能忠敬が作った日本地図を見せられたのだ。そのときの彼の驚きたるや我々の想像を絶するものであったと思うね」

 吉川先生はシーボルトに関心があるのか、なかなか詳しい。彼は妹に話して聞かせると同時に、惟芳にも聞いてもらいたいといった風で話を続けた。
 「何しろシーボルトは我が国の歴史、地理、風俗、そして植物には特別な関心を寄せて、在日五年間に、一千点以上の植物標本を集めたと言われているのだ。だから、目の前に拡げられた日本地図は、彼にとっては垂涎(すいぜん)の的だっただろう」
 「兄さん。スイゼンノマトて何のことなの」
 「垂涎とは、ものを欲しがることだよ。犬が餌を見たら涎を垂らすだろう。的というのは対象となるものだ。だから垂涎の的とは、欲しくてたまらないもの、という意味だよ」
 吉川先生は教室で生徒の質問に答えるように妹に説明すると、また話を続けた。
 「高橋は禁制品だとは知りながら、シーボルトのたっての願いと、相手が学者である、しかも我が国にとって有難い恩人であるという純粋な気持ちから、この地図を彼に譲ったのだと兄さんは思うね。悠子、伊能忠敬が何歳の時からのこの地図作成に当たったか知っているか?」
 「いいえ」
 「彼は十八歳の時伊能家に養子に入り、家業の酒造の興隆につとめる傍ら、算数、測量、天文などを研究し、五十歳で家督を譲ったその後からだよ。その時から彼は全国を隈なく歩いて、当時としては実に精巧な日本地図を作ったのだ。だからシーボルトはこれを一目見るや、入手したいと思ったのは当然だ。あの頃五十歳といえば、もう老人で隠居するのが普通だから、彼の生き方には頭が下がるよ」

 吉川氏は惟芳と悠子の二人が熱心に耳を傾けているのを見て、さらに話を続けた。
 「ところがだね、シーボルトが帰国するに当たって、彼の乗船予定の船が台風で破損しして、今の三菱造船所の近くの稲佐浜に打ち上げられたのだ。それで彼の荷物の中から,国の禁制品として海外持ち出し不許可のこの日本地図が見つかったのだ」
 「幕府側から言えば『天網恢恢(てんもうかいかい)、疎(そ)にして漏(も)らさず』といったところですね」
 惟芳は口を挟んだ。
 「まあそう言えるだろうね。そのためにシーボルトは嫌疑を受けて、翌年日本から永久追放されたのだ。また高橋をはじめ、彼の門下生の多くが連座して取り調べを受けたのだよ。高橋は最後には拷問によって獄中で死んだが、実に気の毒な事だ」
 「確かに大きな事件だったのですね。シーボルトは医師として当時最新の西洋医学と技術を我が国へもたらしたこと、その面しか知りませんでしたが、それにしても徳川の鎖国政策は時代遅れだったと思いますね」
 「私も同感ですわ」

 悠子の賛意に気をよくして、惟芳はそのときふと思いだしたことを二人に告げた。
 「これは私が中学校で担任の先生から聞いて初めて知ったのですが、郷里の萩にシーボルトから贈られたというピアノがあります。シーボルトは音楽にも造詣が深かったようです」
 「シーボルトはピアノも弾けたのですか。何でもできたのですね」
 思わず悠子が驚きの声を上げた。
 「恐らくそうでしょう。実は幕末の萩藩に熊谷五右衛門という一人の御用商人がいました。彼は萩藩の財政に大いに貢献したほか、熱心な文化愛好家で、異国趣味もあったようです。彼は優れた医家や芸術家の後援もしています。たまたま彼がこの長崎へやって来た時、膝や足の診察をシーボルトから受けました。それが機縁となって二人は知り合うようになり、シーボルトは熊谷の求めに応じて、愛用のピアノを贈ったようです。普段は蔵にしまってありますが、夏祭りには表座敷に展示されると聞きました」

 惟芳は安藤先生から聞いた話を二人に伝えた。
 「まあ、そうですか。どんな音がするか聞いてみたいわ」
 悠子は音楽に興味があるのか、はずんだ声を挙げた。
 吉川先生も惟芳の話に興味の耳を傾けているようだった。惟芳が話し終わると、また先生は話を続けた。
 「鳴滝での講義は、医学の他に、薬学、動植物学、鉱物学、地理学、さらに歴史、地理などの社会学の分野にまで及んでいたそうです」
 「偉い方だったのですね。日本にいらした時は、まだ三十歳になっておられなかったとお聞きしていますが、どこでそんなお勉強をなさったのですか」
 悠子は兄の話に興味を持って質問の矢を放った。
 「彼はオランダ東印度会社の医官として、文政六年(1823)に出島へやって来たのだが、実際はオランダ人ではなくてドイツ人なのだ。しかもドイツ医学の名門の家に生まれているので、当時のドイツにあって、最高の医学教育をヴュルツブルク大学で受けている」
 「オランダ人でもないのに、鎖国の日本によく来られたものですね」
 悠子はまた不思議がった。
 「たしかに出島で見慣れたオランダ人とは一見して違うし、少々精悍すぎる風貌で言葉にも訛りがあるので、通詞仲間ではその素性が一時怪しまれたそうだ。しかし貿易主事が機智を働かせて、『シーボルトは山オランダと言うのだ。自分は山国で育った男だから、言葉にも訛りがあるし、風采も異なる』こう言ってごまかした事は今では周知の事実だ。まあ、いずれにしても、彼は非常に秀才で、我が国の事を知りたいと云う強い気持ちが、来日を可能にした一番の理由ではないかね」

 吉川先生はかつて医学を志したと云うだけにシーボルトについて詳しく説明した。また彼は悠子に答えるというよりはむしろ、惟芳の心を医学に向かわせようとするかのように、彼の方に向かって話すのであった。
 惟芳はここで自分の意見を少し述べた。
 「志を抱けば何でも可能になるといったものではないでしょう。シーボルトの場合、天が味方したといえます。私はよく思うのですが、もし松陰先生が渡海に成功されていたら、日本の歴史は随分変わったのではないかと」
 「全く同感ですね。松陰と行動を共にした人は何とか云いましたか?」
 「金子重輔です」
 「ああ、そうでしたね。あの事件は安政元年(1854)ですから、今からわずか五十年前のことですよ。緒方さん、彼らが夜陰に乗じて下田の海岸から小舟を漕ぎ出して、沖合に浮かぶアメリカの軍艦に向かった事は一つの歴史的事件ですね。国禁である海外渡航を企てるなんて、当時の日本人で誰が考えたでしょう。それにしても、この下田踏海の失敗が惜しまれるのは、今もあなたが言われたように、もし松陰のような攘夷思想と革新的な精神を持ち合わせた人間がアメリカへ行き、我が国とは全く異なる高い文物や制度に接したら、確かに精神的ショックだけでなく、大きな影響も受けたと思いますね」

 吉川氏は維新前夜の歴史についてもなかなかの蘊蓄を披露した。
 「あの時の松陰は敵情視察という任務を帯びた攘夷論者でしょう。書物を通じて当時の世界情勢を多少は知っていたとはいえ、彼は本質的には儒学的教養を身につけていたので、きっと思想において格闘し、儒学だけでは解決できない事に気がついたかもしれませんね。咸臨丸に乗って勝海舟福沢諭吉アメリカへ渡ったのは、松陰たちの失敗からわずか三年後の事を思うと、不運と言わざるを得ませんね。福沢たちは時代の波に上手く乗れたのですから、松陰の失敗は実に痛恨の極みです。本当に気の毒です。最後にはこの事が災いして処刑されましたからね」
 「人間は偶然的運命に支配されるとよく言われますが、運命は考えようによっては必然的とも言えましょう。その場合、その人の運命は多分に性格に因るのではないでしょうか。松陰は直情径行型の人だったようです。もし彼がもう少し慎重に事を運んでいたら、或いは天も味方してくれたかもしれません」
 惟芳は先ほどと同じ意見を述べた。
 「シーボルトが遠く我が国へやって来たことから話が発展しましたが、古今東西、人間の知識欲、とりわけ青年のそれは、歴史を動かすものがあると私は思います」
吉川先生は新しき知識を求めて止まなかった松陰や諭吉といった人たちの旺盛な知識欲を思って、心を高ぶらせて話す風であった。

 

 ここで少しペンを遊ばすことにする。シーボルトヴュルツブルク出身であるという事を筆者が知ったのは、この稿を書くようになってからである。実は縁あって、平成六年(1994)八月中旬にその地を訪れた。前もって知っていたら彼に関連した史跡を訪ねることもできたであろう。しかしこの古都の印象は忘れ難く、その思い出は今も懐かしいものがある。

 

 ドイツ中南部に位置する地方都市ヴュルツブルクは、ドイツの空の玄関口といわれるフランクフルトから、特急列車で南へ一時間ほどのところにある。「ここは中世以来、通商、交通の中心地として発展し、その面影を今も留めている素敵な観光地である」と、観光案内書に載っているが、氷河で削られた岩肌の見える丘陵の間を流れるマイン川は、町の中心部で川幅百メートルはあろうか、大きく湾曲して美しくゆったりと流れていた。そこに懸る石造りの橋の欄干には、この町の歴史と深い関係のあるという人物の等身大の像が、いくつも立っているのが目を奪った。また橋に備え付けられた古風な街灯も、この堂々として由緒ありげな橋の趣を一段と深めるものに見えた。

 

 橋を渡って丘の上に建つマリエンブルク城に上り、城内の見物を終えて眺望のきく石の城壁のところへやって来た時、眼下のマイン川が遥か彼方にまで細く延びており、その穏やかな水面を平底船がゆっくり行き来しているのが見えた。対岸には石や煉瓦造りの比較的低い家屋が、赤や黄、またオレンジと、色とりどりの美しい甍を並べていた。こうした街中にあって、教会の尖塔だけひときわ高く聳えているのが、幾つか目に入った。先刻渡った橋の上に幾人もの人が豆粒ほどに見えたが、街中には人影は遠くて見えなかった。これが城壁の木陰からの望まれた旧市街の様子である。


 おりしもこれらの教会から、澄んだ鐘の音が前後して聞こえてきた。視覚だけでなく聴覚にも訴えるこの中世の古都の落ち着いた佇まいは、再び訪れたいと云う思いを抱かせるものであった。この美しい街並みの背後に目をやると、緩やかに起伏する丘が連なり、丘の斜面には手入れの行き届いたブドウ畑が、夏日を受けて緑色に輝いているのが遠望できた。明治二十年九月十七日、鷗外は『獨逸日記』に次の詩を書いている。

 酒山夾江起 (酒山江を夾みて起ち)
 緑影落清波 (緑影清波に落つ)
 有客涎千尺 (客有り涎千尺)
 何唯遭麴車 (何ぞ唯麴車に遭うのみならんや)(筆者注:「麹車」は酒を積んだ車)

 川の両岸の丘陵地帯にワイン作りのための葡萄畑が延々と連なり、その緑の影をマイン河の青い水面に落としている。その地の情景を、鷗外は最初の二行で巧みに描写している。

 

 この地を案内してくれたゲールト・グリムという青年は、身長が百八十五センチは優にある、堂々とした体躯の持ち主で、きりっとしまった顔付きをしていた。しかし彼は愛想良く面倒をみてくれて、感じのいい人物であった。ゲッチンゲン大学で筆者の長男と知り合った仲だというが、誠心誠意私たち日本から訪れた一行をもてなしてくれたことは、未だに忘れられない。夕食を市内のレストランでとったとき、ワインの新酒を「この地で醸造したものです」といって飲ませてくれたことも忘れられない思い出である。

 

 シーボルトはこの素晴らしい町で生まれ育ったのである。彼の家は祖父の代から貴族階級に属し、また彼の父を含めて三代前から、医者として誉高かったのである。なお、当時ドイツでは、シューベルトやベートーベンといった偉大な音楽家が活躍していたので、上流階級に属するシーボルトが音楽に興味を抱いた事は当然であろう。

 

 

(三)

 鳴滝塾からの帰り道、吉川先生は妹にこんな問いかけをした。
 「悠子、シーボルトが鳴滝でどれくらいの期間教えたと思うかね?」
 「存じません。でも、そんなに長い間ではなかったのでしょう」
 「そうだよ。彼が長崎に着いたのが、前にも言ったように文政六年(1824)八月で、鳴滝に学塾を開いたのが翌年の春だ。そして出島商館医員の任期が切れたのが文政十一年(1828)だ。この最後の年に例のシーボルト事件が起きたのだよ。彼はこの間江戸への参府に随行してしばらく長崎を留守にしたこともある。しかも実際に教えたのは毎週一日だけだったようだ」

 惟芳は吉川氏がシーボルトについて年月まで良く知っているのに驚いた。
 「そうしますと、実際にはそんなに長くは教えていらっしゃらなかったのですね」
 「そうだよ。その上さっき言ったように、彼はドイツ生まれで、彼の話すオランダ語には訛りがあった。ところが彼自身が驚いた事に、教えを受けた弟子たちの方がむしろオランダ語がよくできたので、言葉の障害はそれほどなかったことも、鳴滝での授業成功の一因だったそうだ。緒方さん、私は英語を教えていますからあえて申しますが、これからは語学の習得が大事になりますよ。造船関係は英語ですね。医学を学ぶには今のところドイツ語でしょう」

 秋空の下、こうして三人の会話はまだまだ楽しく続いた。
 「緒方さん、唐突な事を申しますが、『万葉集』を読んでいますと、『ますらを』という言葉で始まる歌が沢山あるのに、私は最近気付きました」
 「そうですか。私はよく知りませんが、それは防人のことでしょうか?」
 「防人に限りませんが、立派な男、強く逞しい男子という意味でしょう。防人といえば、東国、つまり今の関東地方から徴集されて、はるばる九州筑紫の地までやってきていますね。先の日清戦争では、軍人は支那大陸へ渡って行きましたが、万葉時代に九州まで来るとなると、時間的にもまた危険度からいっても、大陸へ渡るよりもっと厳しかったのではないでしょうか」
 「なる程、考えてみればそうですね」
 「彼ら防人にとっては、武器といえば弓矢が最高のものだったでしょう。その弓もあの頃のことですから、せいぜい竹と木を貼り合わせて作っただけです。この簡単な武器を携えて故郷を後にしています。ところが彼らは、皆とは言いませんが、実に大らかというか、じめじめした所がありません。いわゆる『ますらを』の名に恥じぬ男と言われるのが、彼らの望みだったようです。そうあることを誇りとしていたように思います。
山上憶良の歌に『ますらをは名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐかな』とありますが、上代の男たちは、名誉を重んじ、語り継がれることを望んだのでしょう」

 吉川先生の話題の豊富なのに感心しながら、惟芳は耳を傾けた。
 「そこで思うのですが、維新以来我が国も諸外国と国交を開くようになりました。その結果友好関係を保てばいいのですが、摩擦を生じ、戦端を開くようなことも起こりました。現にロシアが朝鮮半島に食指を伸ばそうとして、隙あらばと迫ってきています。そのとき果たして『ますらを』たるの気概を持って若者は立ち向かうでしょうか」
 「大丈夫ですよ。誰にも愛国心がありますから」
 惟芳は自信をもって答えた。

 

 諏訪神社の拝殿正面に掲げてある大きな国旗が風に揺れていた。天長節だから掲げてあるのだろう。親子連れの参詣者など多数見かけられた。三人は小高い丘の上にある神社の境内をゆっくり歩いた。西に傾きかけた太陽の日差しが幾本もの大きな松や樟の木に遮られて、地面に縞の影を作っている。その樹蔭は、長く歩んで少し汗ばんだ肌には有難かった。


 境内にある茶店で一休みしようと吉川氏が提案した。三人はこぢんまりした茶店に入った。銘々皿に三個ずつ載せて出された牡丹餅を食べながら、吉川氏が妹に向かって言った。

 「久しぶりに食べるが,やはり美味しい。悠子どうだ、美味いだろう」
 彼は見る間に三個平らげると、低い声でこんな歌を口ずさんだ。

 長崎名物 チャンポン カステラ ドーハッセン
 諏訪の牡丹餅ャ ウマヵ!

 最後の「ウマヵ!」を、いかにも美味い、といった風に、この言葉を強く響かせて歌った。惟芳は「ドーハッセン」とは何だろうかと思っていると、悠子が早速兄に訊ねた。
 「兄さん、ドーハッセンって何ですか?」
 「ああ、それは落花生のことだよ」
 茶店を出ると三人は諏訪神社への参道ともいえる長い石段を下りた。途中、かなり大きな鳥居が二個所に立っていた。
 「あら、あんなところで蝉が鳴いていますよ」
 悠子の指さす方を惟芳が見た途端に、それまで御影石の太い柱にとまって「ジージー」と、暑苦しい声で鳴いていた油蝉が、「チッ」と一声発して、褐色のやや不透明な翅をふるわせて飛び去った。

 

 ―尚春は今年も一人で蝉を捕って遊んだろうか。桐の木に登ることができたかな。
夏休みになると、弟を連れてよく蝉捕りに行った時のことを惟芳はふと思い出した。
三人は鳥居を潜ってしばらく行き、出大工町の通りに出た。そこから西方へと石畳を歩いて行った。大光寺と書かれた門前を過ぎると、隣接した寺の門柱には光永寺という門札が掲げてあった。惟芳は寺の名前を記憶にとどめようというつもりは別になく、ただ歩きながら長崎という所にはやたらに寺が目立つ、おまけにどの寺の境内にも樟の大樹が鬱蒼と枝葉を茂らせているなと思った。そのとき悠子がまた兄に話しかけた。
 「兄さん、長崎には随分沢山お寺がありますね」
 「そうだよ。墓も多いよ。それに悠子、もう一つ坂が多いのにも気づいただろう」
 「はい、平坦に続く道はあまりありませんね」
 「悠子、あのね、『長崎名物は、坂、墓、バカ』とも言われているのだよ」
 「坂とお墓が多いのは見て分かりますが、バカはどうしてなの」
 「先ず坂と墓から言うと、長崎には平地が少ない、だから坂が多いのは事実だ。したがって多くの寺は、寺の背後の山の傾斜面を利用して、上へ上へと墓地を造成せざるをえなくなるのだ。最後にバカと言うのはね、おっと、そこの橋を渡ればもうすぐ下宿だよ」

 三人が本大工町に差しかかったとき、吉川氏はこう言って橋のある方へと左へ向きを変えると、話を続けた。
 「長崎の人は自分たちを自嘲してバカと言うのではないよ。何事によらず度を越して行う気質を持っているので、そういった気持ちをバカと言っているのだそうだ。『クンチ馬鹿』とか『祭り馬鹿』とか言ってね。言うなれば自己陶酔して悔いを残さない気持ちをむしろ自賛して、そう言っているのだろう」
 こうした兄妹の睦まじい会話を聞いて、惟芳は萩の両親の膝下にいる年齢の離れた弟の事をまた思った。


 ―尚春はその後元気に通学しているかな。俺が小学生の時は、十一月になればいつも放課後は運動会の稽古だったが、尚春もそうかな。足の悪い弟はしょんぼりと見学しているとしたら可哀想だな。

 

 程なく彼等は下宿の門前にやって来た。悠子は兄の下宿に一晩泊って、明朝早く佐賀へ帰ると言った。夕食後惟芳は数学の本を取り出して問題を解こうとした。割と得意な科目であるが、気持ちが少し散漫として集中できないので、机の上に頬杖をついて、先刻の吉川氏兄妹との鳴滝への散策の事を考えるともなく考えた。
 「あっ、思い出した。そうだあの詩だ」
 惟芳は本箱の中から、これだけはと思って持ってきていた漢文の教科書を取り出した。中学校で安藤先生の国漢の授業だけは熱心に聞いていたので、手放し難く思ったからである。彼は教科書の初めの頁を開いた。

 桃夭(とうよう)
 桃の夭夭(ようよう)たる
 灼灼(しゃくしゃく)たる其(そ)の華(はな)
 之の子于(ゆ)き帰(とつ)がば
 其の室家に宜ろしからん

 桃の夭夭たる
 有にも蕡(ふく)れたる其の実
 之の子于き帰がば
 其の家室に宜ろしからん

 桃の夭夭たる
 其の葉蓁蓁(しんしん)たり
 之の子于き帰がば
 其の家の人に宜ろしからん  (岩波書店『中国詩人選集』)

 

 安藤先生がこの詩について、自分の青春時代を回顧されるかのように、楽しげに講義をされたのを惟芳は思い出した。

 「いつ読んでも佳い詩だね。嫁ぐ前の清純にして可憐な女を、つやつやと美しく咲いた桃の華に喩えている。この女はさぞかし容色華麗だっただろう。ふくよかに実った桃の実に比している。さらにふさふさと繁った桃の葉にもなぞらえている。これは『詩経国風』という中国の詩歌集に載っている有名な詩だ。孔子が編者というから我が国の万葉や古今よりもずっと古いものじゃ。しかし考えてみたら、古今東西、美しいものは美しく、可愛いかものは可愛いと感ずるのが人の感覚だな。この詩の比喩表現は適切にして明白、実に素晴らしい。だから婚礼の席などでよく謡われるのだろう。しかし女性は結婚したら変わる。なまじ世間智が増すとそれだけ清純さが失われる。まあしかし、本当に心優しく賢い女性はそんなことはない。年老いてもいつまでも美しく清らかな姿を保っている。このような女性を見かけたことが諸君にもあろう。男女を問わず、老いてますます清く美しくありたいものだ。君たちもこのような女性にめぐり合いたいと思えば、それに相応しい人物になるよう自らを高める努力が必要だね。昔からよく云うじゃあないか、『割れ鍋に閉じ蓋』とか『似合いの夫婦』とか。ハハハ」

 謹厳実直な先生にしては珍しく声を出して笑われた。惟芳はあの時の情景を思い出し、詩に詠われた少女に吉川氏の妹を重ね合わせた。しかしこうした一瞬の甘い情感も、自ら置かれている立場を考えた途端、秋の涼風と共に吹き抜けていった。

 

 吉川氏の妹は一日だけ兄の下宿に泊まって佐賀へ帰った。彼女は清々しい印象を惟芳に与えた。しかし吉川氏がシーボルトについて語った話は、惟芳の心を深く揺り動かすものであった。とりわけシーボルトが医師として当時最新の西洋医学の知識を我が国へ招来したこと、またそれより前に吉川氏が自分は医者になりたかったが、理系の才能が無いので断念したと言い、惟芳に医者になる事を暗に勧める様に言った事が思い出され、その晩何故か不思議に眼が冴えてなかなか寝付けなかった。

〔注〕「明治三十六年五月、梅雨前に至り、立神鉄工職により、雨天の際は休業致し度との申し出があったが、要求通らず不許可となり、従来通り従業せしむることとなったため、五月十四日,鉄工九百二名の出勤者が就業せず、午前八時全部無断退場し、造船場丘上に集合し、工場内に土石を投じ、就業者に脅迫暴行したので、警察官が出張説諭の上退散せしめたが、工場内の残留職工・人夫は暴力を恐れ、二七〇二人の内二五九二人は早退し、就業者ないため午後二時閉場した。
十五日は鐵工六百余人入場したが納札せず退場した。そのほか各職人夫も、後難を恐れ就業せず、一六四五人の内六四一人早退したので、その筋の警戒を厳にしたところがその後異常なく、十九日に至り平常通り無事就業した。なおその後二十五日まで警官出張し、事後の警戒をした」(三菱造船所労働組合史)