yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

擬・徒然草 雨の朝

 

 去る七月十三日はしとしとと雨が降った。亡くなった妻の「四十九日の法要」を行ったが、いわゆる「涙雨」と言うべき天候であった。東京、滋賀、大阪からも親族縁者が参列して呉れて有難かった。その後の「セント・コア」ホテルでの会食も無事に終わりこれで葬式後の行事が一つ済んだ。

 時が早く過ぎゆく感じである。法要の日からもう一週間になる。台風の影響だろう、昨夜から断続的に雨が降っている。朝五時に目が醒めたので、妻が使っていた部屋で何時ものように『枕草子』を少し読んだ。

 

 『古典日本文学全集』(筑摩書房)に載っている島崎藤村和辻哲郎の批評も読んでみたが、今読んで居る島内裕子の『枕草子 校訂訳』(ちくま学芸文庫)の最後の解説の方が分かりやすくて良かった。それにしても同じ古典の現代語訳が訳者によってかなりの違いを感ずる。訳者の思い入れ如何によってこんなにも異なるとは。原典を忠実にかつ上手く分かりやすく訳すかということは、結局訳者の力量によると痛感した。日本語がそうだから外国語の翻訳となると、一段と難しいだろう。

 清少納言は、一条天皇中宮である定子が数えの十七歳の時から二十五歳で亡くなるまでの八年間のことを書いている。定子は長保二年(一〇〇〇)に亡くなっている。その後は藤原道長の娘彰子が中宮となって居る。それからは紫式部の『源氏物語』の世界だろう。

 私は定子の死が二十五歳で、それも産褥熱だとあるので、私の母が全く同じ二十五歳で産褥熱で亡くなったことを思い出した。ついでに言えばこの古典を愛読した樋口一葉も二十五歳の時結核で亡くなっている。

 「清少納言の正確な没年は未詳だが、万寿二年(一〇二五)に六十歳で没したとも言われている。その様な彼らの活躍を遠く眺めて、清少納言は定子亡き後の、二十五年の歳月を、どのように送ったのか」と島内裕子は書いている。我が国の文学史上稀に見る才媛も晩年は寂しさの中、中々死を迎えることが出来なかったのかも知れない。或いは案外「ピンピンコロリ」だったかとも思う。

 こんなことを言うと差し障りがあるかも知れないが、私の知る限りでは、私の父も、妻の父も又父の友人たちも皆長く病床に患うことなく実にあっさりとこの世から立ち去っている。「雄々しい」という言葉には良い響きがあるが「女々しい」というと何だか未練がましく弱々しい感じがする。これ亦私の知る限り年老いて長患いの女性を多く知るからでもある。この点妻は性格がそうだったように死に方もあっさりしていた。

 

 七時になったので寝床を片づけて座敷や仏間などに掃除機をかけた。神棚の榊を見たらいささかくたばっているので新しいのと取り替えようと思った。時計の針は八時を回ったばかりである。「ログ」にはまだ榊など残っているかも知れない。こう思って私は車で行くことにした。普通天気の良い日には往復一キロばかりの田圃の中の小道を歩くのだが、今朝は車を利用した。「ログ」の名称にふさわしいバラック建ての小さな丸太小屋のような店は、今は萩市に合併された紫福の山間部の地から、主として野菜などを中型トラックに積んで毎日やって来て七時に開いている。常連の客は七時前に行って待っている。店主は萩高校を卒業し、宮崎大学農学部を出たと言っていた。萩高校で彼の担任だった平島氏は私の同僚だったが、その後県の教職員課長のとき自動車事故で亡くなった。早い死であった。榊の外に玄関の花瓶に挿した白百合の花などもくたばっているので、これも換て新しい花にしようと思った。

 店の前の広場に車を止めて店に入ってみると、青々とした葉の立派な榊と、白と薄紫の可憐な花があったので全部で八百円出して買って帰った。ペットボトルに入れて冷蔵庫で冷やしている水を榊や仏壇の花立て、さらに玄関の間の花瓶に注いだ。これで当分は新鮮な花や榊が見られて気持ちが良い。次いで仏壇と妻の遺骨を安置している仮の仏壇の香炉の灰も、燃え残りの線香を小さな金網でおろして綺麗にした。

 神仏を拝んで玄関の外に出ると、テラスの上で先ず習慣としている簡単な柔軟体操をして木剣を三十回元気よく振った。その後歩を移して萩から持ってきた石の地蔵様の前に行き、屈んで拝んだ。小さな雨が降っていたが気にするほどではない。これまで良く成ってくれていた胡瓜がもう先が見えてきたので、先日買ってきた二本の胡瓜と数本のオクラの苗をこの地蔵の傍に植えたが、その成長を見るのが毎日のささやかな楽しみである。いずれもこの雨の御陰で良く育っている。

 今日はゴミ出しの日である事を思い出した。痛んだ花などはビニールの中型の袋に全部収まったので、我が家に隣接している金網で囲ってある廃棄物の置き場へ持って行こうとしたら、すぐ前の徳田さんが杖をついて同じくゴミ出しをして居られた。

 「水が溜まっています。排水孔の蓋を取ったら良いです」と言われたので、蓋を取ると見る間に水が孔に流れ込んで綺麗さっぱりとなった。ゴミを出し終えて私は徳田さんに「一寸待って下さい。胡瓜を食べてなら上げます」と言って急いで帰り、冷蔵庫に昨日収穫してビニール袋に入れていた胡瓜とミニトマトとピーマンを彼に渡した。

 徳田さんはこの地区の生まれで、若いときから森林組合で働き、また地域の消防活動更に氏神様の土師(はじ)八幡宮の世話など良くして居て、この地区の事には精通した有難い存在である。

 彼の言によると、この地区は四十数年ばかり前には住宅は三十軒しかなくて、田畑だけの広がる人口の希薄な淋しい地区だったそうだが、その後住宅が急増して今は一大住宅地に化している。直ぐ近くに小さな公園も出来、幼い子供を連れた若い親の姿も沢山見かける。毎朝七時頃から小学生たちがランドセルを背にして小学校に通うのが見られる。こうした子供たちの元気な姿を見ると何だか元気づけられる。

 平成十年、今から二十一年前に私達が萩から来てここに家を建てた。その直ぐ後に自動車道路が通り、スーパーまで出来たので、住宅地としては申し分のないところとなった。私にとっては「冷蔵庫がいらない」とまで言える場所である。

 徳田さんは今言ったように此の地の出身で今日まで此の地と密接に関係してこられたので正に生き字引的存在である。私より一つだけ年長の八十八歳である。我々が萩からここに家移りした時には、この地区の事など詳しく話して聞かされた。彼は元来人の世話を良くする人だったが、「家内が老人施設に入って十七年になります。」と先日も言われたが、彼は毎日自家用車を運転して施設に行かれるようである。所謂「老老介護」がこの地区でも増えてきた。

 徳田さんのたった一人の娘さんは全日空かどこかの飛行機のスチュワーデスだったが、フランス人と結婚されて、今はフランスに住んで居られるようで、私が見かけたのは一度だけである。スチュワーデスとか国際結婚とか、若いときは華々しくて良いようだが、老いた両親を残して異国に住んで居れば、彼女の心中如何なものかと他人事ながら思うのである。

 徳田さんと別れ、それでは朝食にしようかと、昨日の朝作って半分残していた炒め物をチンして温め直し、お湯を沸かして珈琲を淹れ、牛乳も温め、昨日買ってきた食パンを焼き、これ又昨晩作っておいた胡瓜ナマスを冷蔵庫から出して大きなテーブルの上に並べた。

 この大きくて頑丈な樫の木で出来た食卓は、家を建てた後に妻と一緒に広島まで出かけて買ったものだが、今一人暮らしの身にとってはいささか大きすぎる。こうして今日も侘しく妻の写真を見ながら朝食を摂っていると、山陽小野田市の須山君や伊勢市の堀之内さんから、香典返しを受けとったという電話がかかってきた。まだ妻の死の余波が続いている感じである。しかしこうして電話があるのも有り難い。雨は降り止んでいるが、その内また降り出すことだろう。

 ここまで書いてふと時計を見ると針は一時半を指している。私は途端に歯科医院との十一時半の予約を思い出した。もうそんな時間かなと不審に思い階下に降りて別の時計を見ても同じ時刻である。昨夜わざわざ忘れない様にと、小さな紙片にも其の事を書いていたのである。歯科医院の診療は午後二時からだから後電話してみよう。一人になり、しっかりしなければいけないとつくづく思うのである。

                        2019・7・19 記す

生と死と

 山口市内には、私が知っているだけでも、書店が大手スーパー内にあるのを含めて6軒ある。しかし私が時々行くのは、山口大学の構内正面入口の直ぐ近くにある「文栄堂」という書店である。昨日そこへ出かけた。急にどうしても行こうという気になった。車でなら簡単だが、歩くとなると片道3キロはあり、多くの車の行き交う道に沿って行かなければならない。私は来年2月で自動車の運転を辞めようと思っている。丁度88才の誕生日を迎えるからである。そこで今のうちに岩波文庫の『コーラン』を買っておかねばと思い、急に思い立って出かけたのである。
 『コーラン』を手に入れたいと思ったのには一寸した理由がある。実は妻が亡くなって少し考えることがあり、多少真面目に読書をしようと思うようになった。そこで先日何か良い本はないかと県立図書館へ行き書架を見て回っていたとき、ふと目にとまったのが井筒俊彦氏の『老子道徳経』という本である。これまで孔子の『論語』は幾冊かを読んでいるが、『老子』とか『荘子』といった所謂老荘思想の本を読んだことは一度もない。そこで早速借りだして毎朝早く起きて食事前に読むことにした。私は昔から早寝早起きの習慣だから,大抵4時前後には目を覚ます。この本を読み出したところ私にはかなり難しくて半知半解ながら結構面白かった。この時著者の井筒氏のことを少し知りたく思い、これを返却した際に今度は若松英輔というかなり若い人の書いた『井筒俊彦 叡智の哲学』という本を借りて来て読むことにした。これは先に読んだ『老子道徳経』より一段と難解だがやはり何となく惹かれた。著者は実に良く勉強して居ると思い感心した
 若松氏の本の中に井筒俊彦氏が若いときに原典から訳した『マホメット』という本についての言及があった。わたしは随分昔だがこの『マホメット』という本を買って読んだ記憶がある。そこで二階の書棚を探してみたら見つかった。以前読んだ形跡が所々に傍線を引いているのでそれだと分かるが、内容はすっかり忘れていた。此の度再読して実に良い本だと実感した。これは井筒氏が昭和27年に38歳の時「アテネ文庫」から出版している。執筆を始めたのは30歳の頃だ。彼は『講談社学術文庫』版の「まえがき」で次のように書いている。

 今から四十年近くの前の作品。若い日の私の胸中に渦巻いていたアラビア砂漠の浪漫を、なんの制約もなく、ただ奔放に形象化したような、私自身にとってこよなく懐かしい書物である。

 慶應義塾大学井筒俊彦氏の講義を直接聞いた牧野信也氏が、この本の「解説」でさらに突っ込んだ事を書いているのでこれも敢えて引用してみよう。

 本書は僅か百ページそこそこの小著であるけれども、今日、日本の世界に誇る碩学の一人である著者にとって、若き日の夢と情熱をそのまま文字に表したような懐かしい作品であるとともに、日本におけるイスラーム研究の歴史において独自の地位を占めるものである。そしてまた注意すべきことに、マホメットという一個の特異な宗教的実存の姿を我々に示すのみにとどまらず、さらに重要なこととして、著者が若き日より今日まで半世紀の間、様々な研究の分野や領域にわたって展開してきた驚くほど広く、しかも同時に限りなく深い、文字通り巨大な学問的業績を産み出すもととなったエネルギーはそもそもどのようなものであるか、何が著者をしてこのような研究へ駆り立てたか、を示す一つの具体的なケースなのである。

 私は井筒氏に益々惹かれて、彼が原典から訳した『コーラン』を読んでみようという気になった。だから上述のように書店を訪ねたのである。これも読みもしないで上巻だけ買っていたので、書店の書棚を探したら運よく岩波文庫で上中下の3冊が揃っていたので中下の2冊だけ買った。「2017年10月5日 第61刷発行」とあるのには驚いた。このような本でも結構多くの人が読んでいるのだ。
 上記の若松氏の本には井筒氏の詳しい年譜が載っている。井筒氏は稀に見る語学の天才である。30カ国語をマスターし、言語学者にして、また哲学者として、高く評価された世界的な碩学とある。

 井筒氏の事はこれぐらいにして、実はこの「文栄堂」という書店の直ぐ近くに、私のかっての同僚の家があり、彼は目下百姓仕事に専念している。私は時々本を買いに行ったついでに彼を訪ねる。留守の場合が多い。昨日は運よく在宅して居た。
 彼は私より3つ4つ年下だからもういい歳である。彼と初めて会ったのは私が大学を卒業して最初の赴任校から宇部高校に転勤した時である。彼も私もまだ独身で同じ下宿で世話になっていた。もうかれこれ半世紀になる過去のことである。私はこの学校に3年だけ勤務した後、母校の萩高校に転勤した。その後彼とは一度も会わなかった。しかし年賀状のやりとりは続けていた。
 再び彼と会うようになったのは、平成10年私が萩を出て山口市に居を移した事と、彼が山口大学の近くの家に養子に迎えられていたためである。養子先は農家のようだが、どうゆう訳で婿入りしたかは知らない。農業仕事の外に、大学生の寄宿寮を3棟も持っており、学生が40人ばかり入っておると言っていた。
昨日も行ってみると、家の前に大きなビニール袋2個にボトルの栓だけが一杯入っているのが目に入った。以前彼がこう云っていた。
 「学生は食べ物や飲み物の後始末がでたらめだから、こうして燃えるゴミとそうでないものを仕分けしなければならない。40人も居るからその日は一日仕事だよ」
私は聞いただけで大変だと思った。今日も彼の言葉を思い出して、先日テレビで見たインドの汚穢に満ちた市街地の様子が目に浮かんだ。日本人は本来清潔な国民だが、次第にそうでは無くなるかも知れない。

 私が山口に来た当時彼はまだ元気で、奥さんも健在だった。しかし数年前に亡くなられて、子供さんたちとも別居だから今は一人暮らしである。娘さんは秋吉にあるサファリパークに勤務していて、以前「白虎」の飼育に携わっていた。大学の獣医学部出身で何よりも動物が好きだとの事で結婚もしていない、と父親の彼は言っていた。彼女は毎週一回帰り、数日分の食事の仕度をしてくれるとも言っていた。彼は親切でいつぞや自分の山に出来たからと言って、大きな筍を持ってきてくれた。又私の妻が亡くなったと知って悔やみにも来てくれた。
 彼にはほかに息子が一人居る。息子さんの母親つまり彼の奥さんが数年前に亡くなって、父親の手助けと思って一時他郷での仕事を辞めて帰省したが、適当な良い仕事がないと言って又故郷を離れたと嘆いていた。彼には孫がいて、一人が東大の大学院工学部を出て小さな企業に入っている。もう一人は九大の農学部の学生である。以前彼に会ったとき次のような事を云っていた。
「俺にこんな孫がいるのは不思議だよ。将来ロボット工学を研究したいと言っておる。大学院を出て大手の企業から声が掛かったが、そこでは先輩格の研究者が多くいて自分の好きな研究が出来ないから、最近出来たばかりの小さな企業へ入ったそうだ。それでも年収800万円と言うから驚くよ」
 彼は折角養子に行ったのに奥さんに先立たれ、今は一人で田畑の耕作に専ら従事して居る。しかしいつ行っても愚痴一つ言わずに忙しく立ち働いているように見える。しかし何と云っても高齢者。耳が遠くなったと言っていた。
 
「今苺の苗を植える畑を作ってきたところだ」と私を見かけると言った。
「大きな苺でピンポン球くらいになる。出来たら持って行こう。来年6月頃には出来る」
 彼は親切にこう言った。
 無精ヒゲが伸び放題で、泥まみれのようなズックを履いていた。その昔高校で数学を教えていた面影は全くない。初めてこちらに来た時彼が次のように話したのを私は覚えている。
 「菅直人が総理になったね。宇部高にいた時私が2年の担任だったが、彼が夏休みに九州一周の自転車旅行をしたいから付き添っていただけませんかというので,一緒に旅行した事がある。あの頃から積極的だったが総理にまでなるとは思わなかった。」
宇部高の卒業で、昨年医学ノーベル賞を受賞した本庶氏は、我々が世話になる2年前に卒業していた。

 書店から彼の家まで車で行くこともあるが,昨日はそこの駐車場に置いたままで歩いて彼を訪ねて。道から逸れて彼の家の敷地内に入った途端、筵2枚に拡げられた薩摩芋がまず目に入った。彼は綺麗に並べられた紅色と白っぽい芋を指さしながら、「紅色の方はよく売れるが,白い方はどうも買い手がつかないね。味は変わらずどちらも美味いのだが。」
 こう云ってビニール袋を持ってきて私に呉れるというので、「一人暮らしだから少しで良いよ」といったら「大きいのは中々買い手がつかないから」といって大きな紅白の芋と中くらいのを3個袋に入れてくれた。
 私は彼に促されて家の敷地に隣接している田圃の方へ移動した。
「この田と向こうに2枚田があって皆で5反ある。この辺の者は稲刈りだけは農協に頼んで居るが、私は全部を1人でやる。稲刈り、乾燥、籾摺りで3日かかる」
 私はどれくらい収穫があるか尋ねてみた。
「今年は出来があまり良くなくてこの田で1反について7俵くらいだった。昨年は9俵できた。コシヒカリが早くヒトメボレは遅く出来る」
今我が国では、米を作っても安い外国米の輸入で、むしろマイナスだと聞いたことがある。彼の場合どうだろうか。
 このような雑談をして、「それではまた会おう」といって帰りかけたとき、
「あんたもそうじゃろうが、女房が死んで女房の有り難さがよう分かる。生きていたときは案外我が儘を言うたが、もう少しようしてやれば良かったと思うよ」。
「そうだね、私もその様に思うよ」
 こう云って再会を約して私は手を振りながら別れた。

 彼は一見元気で楽しく田畑の仕事を一人でこなしているようだが、やはり寄る年波で、仕事を終えて夜1人になったときなど、在りし日の奥さんとの生活を思い、又子供や孫達がいた時の賑やかな時を回顧したとき、これからの我が身の生き方に一抹の不安を覚えて、思わずあのような言葉が口をついて出たのだろう。明日の身は誰にも分からない。

 井筒俊彦の『年譜』に次のような記載があった。

1993(平成5)年 78歳
   1月7日、朝、執筆を終え、寝室へ向かう途中、絨毯につまずき転倒。
何ごともないかのように立ち上がり、妻豊子に「お休み」と声をかけ
たがこれが最後の言葉となる。午前9時、寝室で脳出血を起こす。
同日、午後4時45分鎌倉市の病因にて死去。葬儀は本人の遺志で行
われなかった。

 私はこの『年譜』を読んで、「おや!」と思った。井筒氏は私の妻と同年齢で亡くなっている。その上死に方まで似ている。妻は昨年行けなかったから、今年は是非にといって、高校時代の仲良しグループの集まりに、北九州の門司にあるホテルへ行き歓談を楽しんだ。その後2人部屋にそれぞれ別れ、「それではお先にシャワーをかかってきます」といって浴室に入り、脱衣を始めたとき突然倒れたのである。病名は大動脈解離で、そのまま息を引き取ったようである。
 人それぞれの生き方、又死に方がある。妻は死ぬ前日、新山口駅のプラットホームで、
「それでは行ってきます。」との最後の言葉とともに永遠に旅立った。
 出会いも運命なら別れもそうなのだろうとつくづく思うのである。
                     2019・10・16 記す

ONLY ONCE (唯一度)

                  一

 

 妻は毎年3年連続の日記をつけていた。いつも同じ「高橋の3年日記」で、正式名は『2019-2021 THREE YEARS  DIARY』である。妻は2019年の5月27日に旅先で急逝した。5月25日(土)に最後の記載をしている。従って2年半以上は空白のページが永遠に残ることになった。亡くなる6日前の19日(日)に次のように記している。

 

 「エディオンでたまたま見かけたマッサージ機がなぜか気になり、よくよく検討してみようと、最近買われた田村さんの物を見せてもらいに行く。以前欲しくて泰之に対処してもらった苦い思いがある。今回のは小ぶりでメーカーもしっかりしていて、たまたま3日間の売り出しで割安になっていて、やはり買っておきたいと夫も言うし、田村さんの帰りにそのままエディオンにゆく。」

 

 妻が見かけたというのが良いと思われたので購入し、品物の届くのを待っていた。5月24日の日記に次のように書いている。

 

 「矢次さんと会う。その前に葵へ行く。患者さんのすいている時はいつもより長く治療してもらえる(中略)共に足は悪いけれど、腰掛で食べたり話したりはいくらでもできる。売り出しでスイカが1200円になっていたのでふたりで買って帰る。家につくとマッサージ椅子が届いていて、早速かかると気持ちよくて居眠りしてしまう。これから毎日身体をほごすことができるのでとてもありがたい。」

 

  妻は長年にわたり足腰の痛みを訴えていて治療にも行っていた。然し考えてみると折角こうして入手したマッサージ椅子の恩恵にあずかったのはわずかに一度だけである。3年日記は半年近く書いたがこちらはあまりにも少ない。人生にはこうしたことが多い。「折角〇〇したのに」と言って、思わぬ挫折や事故で事が成就せずに残念に思うだけならいいが、自己責任ではなく、何らかの他の要因で悲惨な事態になることも人の一生の内には珍しいことではない。

 折角苦労して新築した家に入る寸前に病気になったり、また事故に遭って死ぬ人もいる。折角大学を卒業したのに就職できないといったこともよくある。結婚式を挙げた直後に一方が事故に遭ったということも聞く。数え上げれば千差万別無数にある。これが人生なのだろう。

 しかし「七転び八起き」という言葉があるように、打ち勝つことのできる障害には勝たなければいけない。これを思うと、妻が死ぬ前にマッサージ椅子に一度でもかかって喜びを感じたのは有難かった。つまらん歌を詠んだので書いてみよう。

 

          マッサージ(按摩)椅子

 

   按摩とは腰をかがめて杖をつく老いた盲人頭に浮かぶ

 

    按摩には盲人(めくら)の意味も辞書にあり戦後は死語となりたるものか

 

   按(あん)も摩(ま)も優しく撫(な)でる意味なれど按摩となると違うイメージ

 

   按摩椅子こうは言わずにカタカナでマッサージチェアと呼ばれたり

 

   二人して探し求めた按摩椅子妻死ぬ前にやっと手に入る

 

   待望の按摩機なれど亡き妻はたった一度用いただけか

 

   亡き妻の形見となりし按摩椅子代わりて座する秋の日々かな

 

   死ぬ前にたった一度の利用だが椅子に座したる妻のほほえみ

 

   肩が凝り首筋痛む老いの身を機械なれども有難きかな

 

   何事も機械化したる現代は人の情けの薄れゆくなり

 

 妻の日記にある田村さんとは私の大学時代からの友人である。彼は80歳になるまでは非常に元気で、町内会長なども引き受けていた。しかし辞めたとたんに急に体調を崩して、入退院を繰り返すなどしていたが、最近やっと多少元気になり顔色もよくなった。2人のお孫さんがよく出来て、兄の方が今年高校2年になった時点で、選ばれてスコットランドのハイスクールに留学した。大学を卒業するまでの5年間、学費は勿論生活費も出るそうで、彼としては嬉しいことと思う。弟も東京の一流中学で一番になったとか。こういったこともあって元気回復に繋がったのかもしれない。

 彼は毎週一度市内巡回バスで我が家に話しに来る。こうして人と話すのも元気回復につながるようようだし、私としても彼が元気になってくれたらいいので、いつでも歓迎である。その彼がいつも私にマッサージをしてくれる。機械と違って気持ちがいい。彼は奥さんにもこうしたサービスをしていると言っていたので、私は遠慮なく彼の好意を受け入れることにしている。

 

                     二

 

 ここまで書いて昨晩は入浴後すぐに床に入った。「明日の朝は気温が4度にまで下がりますからお気を付け下さい」とテレビが報じたので、室内のエアコンをつけたままにして寝た。お陰で夜中に一度もトイレに行かなかった。目が醒めたのは5時半だった。醒める直前に私は夢を見た。

 今月初めの11月1日に妻の姉の娘が滋賀県彦根から来た。妻はこの姪を小さい時から可愛がっていたので、生前には年に一度は必ず来ていた。そうして妻が亡くなった後も来てくれる。私としては非常にありがたい。来るとき必ずといっていいほど「埋れ木」という彦根の銘菓を土産に持ってきてくれる。

 

  世の中をよそに見つつも埋れ木の 埋れてをらむ心なき身は  直弼公御歌

 

 「埋れ木」という名は・・・彦根城第 十三代藩主・井伊直弼公が、若き日に過ごした「埋れ木舎(うもれぎのや)」に因み、その名をいただきました。

 

 銘菓の宣伝文にこのように書いてあった。井伊直弼大老に就く前に彦根城の一隅の「埋木舎」に居て茶道の研鑽を積み、「一期一会」の精神を身につけたとある。妻が唯一度だけ按摩椅子にかかって亡くなったことと関連して、この言葉を夢に見たのだろう。私は起きてネットで井伊直弼のことを調べてみた。

 

  文化12年(一八一五)第13代彦根藩主・井伊直中の十四男として生まれ、母は側室で、父の隠居後に生まれて庶子だった。父の死後自らを花の咲くことのない埋れ木に例え「埋木舎」(うもれぎのや)と名付けた邸宅で17歳から32歳までの15年間、部屋住みとして過ごした。

  この間国学を学び、茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌や禅、兵学居合道など学ぶなど、聡明さを早くから見せている。

 茶の湯に関して『茶の湯一会集』の巻頭には有名な「一期一会」がある。

 

 私はこの「一期一会」もネットで見てみてなかなかの名文だと感心した。

  

   抑(そもそも)茶湯の交會(こうかい)は一期一會といひて、たとへば、幾度おなじ主客交會するとも、今日の會にはふたたびかへらざる事を思へば、實に我(わが)一世一度の會なり。さるにより、主人は萬事に心を配り聊(いささか)も麁末(そまつ)なきやう、深切實意を盡し、客にも此會に又逢ひがたき事を辯(わきま)へ、亭主の趣向何一つもおろそかならぬを感心し、實意を以て交わるべき也。是を一期一會といふ。

 

 私の父は生前お客を招いて幾度も「お懐石」なる茶事を行っていた。私はその時いつも庭の掃除を命じられた。お客が来られたら物音を立てずに静かにしているように言われたのをよく覚えている。客が帰られた後「一期一会」について父が語ったことも記憶にある。このような事が潜在的に私の中にあったから、先に書いたようなことを夢見たのかもしれない。

 

   明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

 

 これは親鸞聖人が9歳の時仏門に入られる決心をされて、天台座主である慈円を訪ねられたが、すでに夜だったので「明日になったら得度の式をあげましょう」と言われた。しかし聖人は「明日まで待てません」と言われて、その時詠まれたのがこの歌であると言われている。

 9歳でこのような歌を詠むとはやはり凡人ではない。

 先に挙げた井伊直弼は「安政の大獄」で、吉田松陰橋本左内など勤王の志士を斬首したので、後に桜田門外の変で殺害された。これまで我々は特に長州の人間は直弼をよく思っていなかったが、考えてみると直弼はそれまでの鎖国の戸を開いた開明的な英雄だ。歴史というものは見方によって違ってくる。

 彼は1815年11月29日に生まれ、1850年11月21日に亡くなった。45歳の若さである。肖像画を見るとじつに立派である。後2日で170回の祥月命日ではないか。それにしても元寇の時の北条時宗といい、維新前夜の井伊直弼の立場といい、諸外国からの開国を迫る脅威は、わが国にとって最大の国難であった。この時、直弼は死を覚悟して対処したと思う。時宗は当時25歳の若さだったというから驚く。このように真に国を思い、己の命をかけて行動するような優れた政治家が出てくれることを、心から望むのは私だけではないだろう。

 妻がたった一度だけ按摩椅子に座ったことからこうした駄文を書いたが、「人生唯一度」ということをやはり真面目に考えるべきだと此の歳になって思った。テレビを付けたら、大谷翔平選手がMVPに満票で選ばれたと報じていた。彼は日本人に明るい希望を与えてくれている。彼は唯一度ではなく来年も受賞を目指して活躍するであろう。

                            

                   2021・11・19 記す

 

 

マスコミと学説

                   一

梅原猛氏の『隠された十字架 法隆寺論』を読んだ。法隆寺は再建されたのだ、ということは戦後になって立証された。なぜ再建されたか。この事について梅原氏は、聖徳太子ならびに太子一族を殺した藤原氏に対する太子たちの怨念を、封じ込めるのが最大の目的であった、と述べている。梅原氏の説は中々説得力があって面白かった。私は引き続いて、彼の書いた『水底(みなそこ)の歌』を長男に頼んでアマゾン通販で手に入れたので昨日から読み始めた。文庫本で上下二巻の千頁に達するような大部なものである。上巻のはじめに、梅原氏はこれまでの柿本人麿の死に関しての諸説、そして特にこの事に関しての斎藤茂吉の自説を詳しく紹介している。私はまだ此の最初の部分しか読んでいないが、梅原氏がこの茂吉の得意然たる自説を、これからいかに完膚なきまでに覆すか。これが今から予測できるような書きぶりである。

 

「詩人茂吉の空想力の奔放さにはほとほと感嘆せざるをえないのである。むしろ私は、幻想力の強烈さにあきれざるをえない、というべきかもしれない。何が何でも茂吉は、この地に人麿をつれてきて、この地で人麿を殺さずにはいられないのである。」

 

茂吉の言によれば、下級の地方官であった人麿が、奈良の都から石見(いわみ)の国府(現在の島根県仁摩市)に派遣されたとき、その近くの江(ごう)ノ川の上流にある湯抱(ゆかかえ)と云うところで頓死した。その時詠んだのがこの歌である。

 

鴨山(かもやま)の 磐根(いはね)し枕(ま)ける われをかも 知らにと妹(いも)が 待ちつつあらむ 

万葉集巻二―二三)

  (鴨山の岩を枕として居る吾を知らずに、妹が待ち待って居ることであろう)

 

実は昨年(令和二年)十一月下旬に、私はかって勤めた高校の同僚と三人連れで、「島根県中部、出雲・石見の国境にある溶岩円頂丘群。標高1126メートル」と『広辞苑』に載っている「三瓶山」の山麓にある温泉へ行った。一泊した後江(ごう)ノ川の清流に沿った道を、同僚の一人が運転する軽自動車に乗って下流へと進む途中で、彼が「ここに斎藤茂吉の記念館がある」と云って停車した。

山奥にあるその記念館は閉ざされていて、誰も、それこそ猫の子一匹いなかった。私は今想像する。斎藤茂吉が此の地で日本最高の歌人・柿本人麿が亡くなったと大々的に宣伝し、また当時の錚錚(そうそう)たる国文学者の殆どが、茂吉の説に賛同したので、このような山奥にこうした記念館が建てられ、お蔭で何人もの見学者が訪れたことであろう。ところが梅原氏の『水底の歌』が発刊された後は、恐らく見学者の数は減ったのではあるまいか。我々が立ち寄ったときは既にコロナ感染で不要不急の外出を禁じられていたが、それにしても余りにもひっそり閑としていた。館員はいなくて閉館されていた。館員は日頃はさぞかし淋しい毎日を送って居たのではなかろうか。しかし今回思いもかけず、一時有名になったと考えられる湯抱の地に下り立つ事が出来て、私としては良い記念になった。

話が逸れたが、梅原氏の研究の成果は、これからこの『水底の歌』を読めば、いかにこれまでの人麿の死について間違っていたかが判るだろう。彼の説が絶対に正しいかどうか、私は勿論判らない。しかし、彼の「法隆寺論」が大変に説得力のあるものであったので、私としては大いに期待している。

さてここでこの拙文に『マスコミと学説』と云う題を附けたので、それに関して少し述べてみよう。私は今日、朝食を食べながら次のような駄句を幾つか作った。

 

  マスコミはおのれの事は棚に上げ他人(ひと)の粗(あら)のみ探す輩(やから)か

  朝日毎日読売は発行部数を誇れども世の真相を伝えておるや

  年寄りは新聞テレビに頼るだけネットを彼らに見せたきものぞ

円錐は上と横とで違って見える世の出来事も見方によるぞ

  英雄を多くの人は仰ぎみる見方によれば大悪人だ

  英雄は色を好むと云うけれど彼らの肚は色黒きかな

  神のみの持てる真相知る力人が持つのは無理な話か

  マスコミに真相知らせて欲しいのにおのれの主義で曲げて伝える

  一言が致命傷になったのか元総理の哀れな末路

  真実を見抜く力を得ることは何にもまして難(かた)きことなり

 

今回のオリンピック組織委員長森氏の辞任騒ぎは、何時ものように、マスコミが焚きつけたように考えられる。確かに森氏の発言には女性蔑視ととられる面はあったが、これは彼の持論では決してないと思う。それが、有る事無いこと取り上げて、鬼の首でも取ったように、誹謗中傷の渦の中に彼を叩き落とした感がある。日本人には昔は『惻隠(そくいん)の情』というものがあった。

私が先に述べた梅原氏が茂吉氏の学説に挑戦する態度は、学者として長年の研究の成果を世に問うものであるから、これは正当な発言で立派だと思う。マスコミの言動は自分たちの主義に添わない人間なら、何が何でも非難して、訳の分からない一般民衆を扇動しているように思えてならない。矜持とか他人の人格を尊重するといったモラルをもっと身につけて欲しいとかねてより思って居る。いわゆる「社会の木鐸(ぼくたく)」となってもらいたい。

 

                   二

 

我が家に柿本人麿の肖像を描いた掛け物がある。「柿本太夫」とそれに書いてある。柿本人麿は役人として「太夫」の地位にあったといわれている。私がこの掛け軸を知ったのは、萩から山口に移住したときのことである。このたび梅原氏の本を読み始めて、棚から出して柱に掛けて見た。烏帽子をかぶり、脇息(きょうそく)に凭(もた)れたよく見る人麿の肖像である。肖像画の上部に薄い字で和歌が書いてある。これは『古今集和歌集』の「巻第六 三三四」にある歌だと知った。

 

梅の花それとも見えず久方のあまぎる雪のなべて降れれば

 

掛け物に書いてある字はこうした読みやすい活字では決してない。私は『古典日本文学全集』(筑摩書房)を書架から下ろして調べて見た。それにこう書いてあった。

「題しらず よみ人しらず」その次に、この歌が載っていて、その後に「この歌ある人のいはく、柿本人麿が歌なり」とあった。参考までに窪田章一郎氏の評釈を引用しよう。

 

 一首の意は、梅の花が、それとはっきり区別して見えない。空を霞ませて降る雪が、あたり一面に降っているので、というのでる。

 空を暗くするほどに、雪があたり一面に降りしきって、枝に咲いている白梅の花が、雪と見分けもつかない状態になっているのを歌っている。この歌は自然の事象そのもので、当時としては素朴な、古風なものであった。よみ人しらずと撰者たちは扱ったが、左注に人麿の作だという伝えのあったのを、参考のために記しているのは、この歌風のためであったろう。(以下略)

 

 私は何故この掛け軸がわが家にあるのか一寸考えて見た。実は私の曾祖父は若いときに、それまで我が家は「北前船」の船主であったが、これを止めて、酒造業と毛利藩の武具の取り扱いをしている。その為に長崎などへ数回行き、最後は木戸孝允に頼まれてイギリスの商人から鉄砲を千挺ほど購入している。その為に命を賭して今の中国の上海まで行き、一年間そこに滞在し、鉄砲を積んできたイギリスの船に乗って山口県の仙崎に寄港している。これは戊辰戦争が丁度終わった慶應二年である。彼はこうした商売をする傍ら、韻事(いんじ)にも関心があったようで、近藤芳樹(山口県出身の国文学者。明治天皇の侍講でもあった)とも親交があった事は間違いない。我が家には近藤芳樹の書いたものが幾つかある。ところがこの人麿の歌にもあるように梅を歌ったものがいくつかある。その訳は曾祖父がまだ若いときに、夢に菅原道真すなわち天神様を見て、それ以来天神様への信仰を持つようになったからだと聞いている。防府天満宮に曾祖父は自詠の梅の句碑を寄進している。

 

夢想 天満る 薫をここに 梅の華     佳兆

「夢想」とは「夢の中に神仏の示現があること」と『広辞苑』に説明してあるが、曾祖父はまだ二十歳代の若いときに、萩市郊外に沢山の梅を植えて「梅屋敷」を造っている。松陰先生も着流し姿で来られた、と私は聞いている。「佳兆」は曾祖父の俳号である。彼はその後大阪へ出て商売をしたようだが、米相場で大失敗して萩に帰り、それからは全く金儲け仕事を止めて、故郷の萩で隠者の如く、茶の湯を嗜み、また歌などを詠んで、余生と云っても僅かな年数だが、静かに六十二歳の生涯を終えたようである。明治十六年三月二日だから、もう亡くなって百三十八年になる。漱石没後百年と云うがそれより大分前である。私は昨年天満宮の許可を得た上で、二人の兄と相談して、この句碑の傍に説明板を建てた。

 

昨日から今朝にかけて珍しく天気が荒れ、一面の銀世界が展開した。庭の紅梅もすっぽりと雪に覆われてしまうほどであった。人麿の歌にある梅は白梅だろうが、我が家に咲き始めたのは紅梅である。白雪に包まれたような梅の花は見た目に美しい。

それにしてもこの時季にこうした降雪は珍しい。昔父がよく云っていた。「紀元節が過ぎたらもう大丈夫だ。橙は凍みはせん」

実は先に述べた梅屋敷を、我が家では祖父の代になって橙畑に変えていた。橙が戦前は萩市では大きな産業だった。どこの家屋敷にも橙が栽培してあった。

『水底の歌』から今日の雪景色へと話しが飛んだが、もうそろそろ暖かい春が訪れてくれると有り難い。私は萩に居るとき、それも若いときは、この橙畑で汗水流してよく働いた。しかしその後橙の市場価値は激減して、今は何処の家でもかって収益をもたらした橙畑を持てあまして居る。私もこの畑を手放すのに長年苦労した。運よく買い手がついて有り難かった。思えば曾祖父と私とは、不思議な縁で結ばれているような気がする。

        

2021・2・18 記す

ソフトボール

 孫娘が今年中学一年生になり、クラブ活動にソフトボール部を選んだ、と息子が電話してくれた。この子は戸外での活動が大好きのようだ。始めテニス部に入ろうかなと言っていたらしいが、結局ソフトボール部に決めたようだ。土・日も午前中練習があるようで、今日は土曜だからと言って午後久しぶりに顔を見せた。毎日の練習のお蔭か背丈が少し伸びていた。まあ元気であってくれたら外に云う事は無い。欲を言えば勉強も好きになってくれたらいいのだが、これは自覚を待つのみか。

 ボールとグラブ(グローブ)を二つ持ってきた。そこで我が家の隣に空き地があるのでキャッチボールをした。息子はちょっと用があると言って出かけた。

 

 考えて見たら、私がこのソフトボールに最初に接したのは、今から六十六年も昔になる。昭和三十年に大学を卒業して、先ず赴任したのは県立小野田高校である。クラブ活動の顧問として、ソフトボール部の世話をすることに既に決まっていた。部長は山口市から通っていた私より多少年長の先生だった。この先生は非常に熱心で、生徒に良くハッパをかけていたが、生徒には慕われていた。私はそれまでソフトボールを手にしたことはなかった。しかし子供の頃から草野球でよく遊んでいたので、別に抵抗はなかった。私は内外野のノックをしたりして部長の手助けをした。春の県の体育大会で優勝したので、西宮球場で行われる全国大会に向けて、夏休みに入ると合宿を行ったのも今は懐かしい思い出である。

 全国大会では一回戦で負けた。しかし折角此処まで来たので、生徒達の要望もあって宝塚少女歌劇団の催しを見に行った。天井桟敷で見学した事だけは覚えている。それから時が経ち、かっての女子部員達に招かれて、小野田市のホテルで楽しい一夕を過ごした。その時から既に二十年にはなるだろう。彼女達はあの時既に還暦を迎えていたから。

 

 翌年から私は陸上競技部の部長になった。たまたま優秀な選手が数人いた。中でも男子砲丸投げ円盤投げ、さらに男子の短距離競争と走り幅跳びに二人の良い選手がいて、かれらたった二人の活躍で、中国大会で総合二位の成績を収めた。小野田高校には六年世話になった。最後の一年だけ硬式野球部の部長にさせられた。その為にバッティングピッチャーをして選手の打撃練習や外野ノックなどもした。まだ若かったから元気がよかった。

 当時は今と違って教員の雑用は少なかった。時々臨時の職員会議があったが、それは主にバイクなどの無免許運転が見つかった生徒の処罰といったものであった。これは萩高校に行ってからの話だが、私が生徒補導の係だった時、クラスの生徒がこうした問題を起こした。職員会議の席上、「消防署が火事を起こしたようなことになって、申し訳ありません」と言ったら、「いい譬えだったね」と後で年輩の教師に言われたことを今でも覚えている。

 まだ若かった私は、授業を終え掃除が済むと、運動のできる服装に着替えて、陸上競技部の選手達が練習しているグランドに出て、彼等と一緒に身体を動かす事もあった。こうしたお蔭で授業中教えた生徒より、クラブ活動で接した生徒との繋がりが強いような気がする。教師冥利に尽きるとはこうした事だろう。しかし残念な事にそのうちの何人かは亡くなっている。無常迅速である。

 

 さて話しは戻るが、このような訳で、私は久しぶりに孫とのキャッチボールを暫くの間楽しんだ。是もソフトボールに関する一つの思い出だが、クラブの顧問としてではなく、教員間のソフトボールの試合にはよく駆り出された。母校の萩高校に転勤した当初の数年間、屢々教員の試合に出た。今から考えたら私が四十歳代の時である。一度九州の高校の教員のチームと試合をした事がある。相手チームの投手の速球に手も足も出なかった。こんなに速い球を投げることがどうして出来るのかと思うほどであった。その内オリンピックで日本の女子選手が優勝したが、その時の投手の球の速いのにも驚いた。

 人間の身体能力は徐々に進歩する。あれからもう五十年近くの時が経った。当時試合に出た教員連中はほとんど鬼籍にはいるのではなかろうか。それからはソフトボールを手にしたことはない。

 

 そして今日久しぶりに孫と空き地でボール投げをしたのである。この空き地は我が家の敷地に隣接している。萩から山口に移るに当たり適当な住宅地を捜していて、ここが宅地造成中だったのでここに家を建てようと決めた。その後次々に若い人が家を建て、今では二十家族以上が住んでいる。ところでこうした団地には必ずこのような避難場所が設置されている。そしてここが子供たちの恰好の遊び場となっている。

 平成十年だから今から二十三年前にここに家を建てて間もない頃は、この団地には子供がたくさんいて、彼等がよくこの空き地でボールを蹴ったり、投げたりして遊んでいた。空き地の四囲は金網のフェンスで囲ってある。ボールが我が家の敷地内に飛び込んでくることもよくあった。ある日下記のような事があった。私は妻が話してくれた事に感心ので、『朝日新聞』の「声」の欄に投稿した。

 

笑みを誘った幼い兄弟の姿

 

 桜の若木が一本だけ植えられた、公園とは名ばかりの空き地が、我が家に隣接している。近所の子供たちがサッカーボールを蹴ったり、ボール投げに興じている姿がよく見かけられる。

 金網で仕切られたこちら側に、家内は春の草花を育てて楽しんでいる。ある日、いつものように外に出ていると、金網を越えてボールが飛び込んできて、家内の足下に落ちた。   

 四、五歳の男の子が可愛い顔をのぞかせて、「ボールが入った、取って」と言うと、おそらく兄であろう、少し年かさの男の子が背後から、「取ってではない、取って下さいと言うのだ」と、弟をたしなめた。その子は、「取ってください」と言い直した。

 家内がボールを拾って手渡してやると、幼い子はにこっと笑って「ありがとう」と礼を言った。すると年上の子が「ありがとうございましたと言うのだよ」と再度たしなめた。弟はおとなしく「ありがとうございました」と、重ねて礼を言った。

 年端もいかない兄の教え、それに素直に従った弟。二人の何とも言えないほほ笑ましい様子に接して、家内も「どういたしまして」と、思わず笑顔で応えた。親から子へ、兄から弟へと、善きしつけが水の流れるがごとく、自然に伝えられる家庭のあることを知り、私も明るい気持ちにさせられた。

 

 以上の事を妻は家の中に入って私に話してくれた。

 二〇〇一年三月二十七日の朝刊に載ったから、丁度二十年前の出来事である。懐かしい思い出である。思えば亡き妻もあの頃はまだ元気であった。

 

 孫とキャッチボールをしていたら、その内息子が帰ってきた。「九十歳の老人が孫とボール投げをしているのは珍しかろう。スマホで動画を撮るからそのまま続けて」と言って、スマホを向けた。果たして上手く撮れたかどうか。まあいずれにしても久しぶりにボール投げをして楽しい一時を過ごすことが出来た。

 この空き地で楽しく遊んでいた子供たちの姿は今は全く無い。皆成人して親元を離れて居る。彼等は大学を出た後、どこか都会で働いて居るのではなかろうか。ひょっとしたらもう家庭を持って一児か二児の親になっているかも知れない。そうしたら彼等は子供の時に親から受けた躾を今度は自分の子供たちに施しているだろう。

 時は流れゆくが、こうした良きき躾や伝統が、受け継がれていくことを私は願うのである。今はこの空き地には雑草が一面に生えていて昔の面影はない。八十坪ばかりの面積だが、日頃は誰一人入らずに物寂しい様相を呈している。時々雀や鳩が来て何かを啄んでいるのを見かけるだけである。

 

                       2021・7・18  記す 

かなし

                   一    

 

主人が買って読んでいたと言って先輩の奥さんが、梯(かけはし)久美子著『散るぞ悲しき』(新潮文庫)を持ってきて貸して下さった。私はこの本が出版された事は知っていたが、未だ読んでいなかったので興味を持って読み終えた。著者が本の題名として選んだ「散るぞ悲しき」について、あらまし次のように述べている。

硫黄島総指揮官・栗林忠道は、大本営への決別電報の最後に三首の辞世を添えている。その最初の辞世は次の一首である。

 

国の為重きつとめを果たし得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき

 

ところが大本営はこの最後の文句を「散るぞ口惜(くちお)し」と改変して国民に知らせた。何故そのような事が行われたか。国のために死んでいく兵士を、栗林は「悲しき」とうたった。それは、率直にして痛切な本心の発露であったに違いない。しかし国運を賭けた戦争の最中にあっては許されない事だった。この事を知って著者はこの本を書くきっかけになったと言っている。

この本の解説でも柳田邦男氏は此の點を取り上げて次のように書いている。

 

「悲しき」が「口惜し」に置き換えられているのだ。これによって歌の意味は全く違ったものになってしまう。「かなし」は、日本古来の文化の中で、意味が多様で深みのある言葉として大事にされてきたキーワードだ。人間がこの世に生まれ人生を生きていく中では、様々な波乱があり、非情な運命にも遭遇する。人はそういう「かなしみ」を内に秘めて生きている。文人肌と言われた軍人だった。ジャーナリストになろうかと思った時期もあった。その栗林中将が、「散るぞ悲しき」という表現を使ったのは、人間の運命や人生の不条理に対する深い哀感を表現したものであったろう。ところが、「散るぞ口惜し」となると、「勝利をおさめられなくて悔しい」といった、極めて表面的な意味になってしまう。

 

                   二

 

実に立派な「解説」だと私は思った。そしてここに書いてある「かなし」について詳しく調べてみる気になった。私は「かなし」は「悲しい」という意味よりほかには考えた事がなかったからである。私は辞典を見て「目から鱗」、多くのことを教えられた。私が今持っている最も詳しい辞典『日本国語大辞典』(小学館)から引用してみよう。

 

かなし・い【悲・哀・愛】

 感情が痛切にせまってはげしく心が揺さぶられる様を表現する。悲哀にも愛憐にもいう。反語は「嬉し」

 

  • 死・別離など、人の願いに背くような事態に直面して心が強くいたむ。なげかわしい。いたましい。

(万葉-五・七九三)

世の中は空しきものと知る時し 

いよよますます加奈之可利(カナシカリ)けり     大伴旅人

   (万葉-一七・三九五八)

     ま幸(さき)くと云ひてしものを白雲に

立ちたなびくと聞けば可奈思(カナシ)も       大伴家持

  • (愛)男女・親子などの間での切ない愛情を表す。身にしみていとおしい。

      かわいくてたまらない。

   (万葉-一八・四一〇六)

   父母を見れば尊く妻子(めこ)見れば

可奈之久(かなしく)めぐし             家持

  • 関心や興味が深くそそられて、感興を催す。心にしみて面白いと感ずる。

しみじみと心を打たれる。

(万葉-一八・四〇八九)

   百鳥(ももとり)の来居て鳴く声春されば

聞きの可奈之(カナシ)も              家持

  • 副詞的に用いることが多い。

  みごとだ。あっぱれだ。 

  • 外から受けた仕打ちがひどく心にこたえるさま。

残念だ。くやしい。しゃくだ。

  • 貧苦が身にしみてこたえる。貧しくてつらい。

 

以上長々と書き写して見たが、これほどに「かなし」の意味が多くあるとは知らなかった。だから外国の言語を翻訳することが容易でないことが分かる。試みに「かなしい」を私が持っている『研究社新和英辞典』で引いてみた。七つの単語が出ていたが、いずれも上記の①の意味の単語である。そうなると、②や③意味だと分かれば『和英辞典』で「かなしい」を引いても見つからないことになる。日本語がそうであるように英語の単語も多義を有する。たとえば、「fine」を辞書で引くと次の意味が載っている。

➊(並以上に)立派な、素晴らしい、見事な、結構な、綺麗な、美しい。

❷《主に英》〈天候・日が〉晴れた、好天の、《米》では通例fair,beautiful,niceを用いる。

❸元気な、健康な、〈場所などが〉健康によい、快適な〈物・事が〉結構な、十分な、

❹〈粒などが〉細かい、細い。

❺洗練された、上品な、上品ぶった

〈言葉・文体などが〉飾り立てた、派手だが実のない

➐人格が高潔な

❽刃などが鋭い、鋭利な

❾〈金・銀などが〉精製された、純良な

 

このような訳で、例えばHe is fine.と言った文章でも、「彼は高潔である」のか、「彼は元気」なのか、あるいは「彼は上品ぶっている」のか、文脈によって意味が違ってくるから翻訳は難しい。これまで多くの人が、シエイクスピアやゲーテドストエフスキーの作品を日本語に翻訳してきた。しかし完璧な訳は恐らくあり得ないだろう。だから自分こそはと思って、次から次へと翻訳者が現れ挑戦して居る。「翻訳者は反逆者」だと言われる所以(ゆえん)である。

 

                   三

 

上にあげた家持(やかもち)の歌に「百鳥」という言葉があるのに関連して、次の歌があるのを知り、ふとあることを思い出した。まずその歌を紹介しよう。

 

(万葉-五・八三四)

梅の花今盛りなり毛々等利(モモトリ)の 

声恋ほしき春来るらし             (氏未詳)

 

土屋文明の『萬葉集私註 三』をみると次のような大意が載っている。

梅の花がいま盛りである。多くの鳥の聲の戀しく思はわれる春が来るであらう。」

 

この『巻五』には「梅花歌三二首並序」とあって梅の歌が続けて載っている。

さて、私が「百(もも)鳥(とり)」という言葉に注目したのは外でもない。実はこの「百(もも)鳥(とり)」という言葉を今から凡そ十年ばかり前に妻が口にした。

 

「私達の集まりに何か名前を付けたらいいね。こう云って皆が自分の意見をのべたのよ。しかし中々良い案がでなかった。私は『百鳥』はどうかしらと言ったら、皆がそれが良いと言って決まったのよ」

 

妻が『万葉集』の歌を知っていて提案したとは思わない。若しそうだとしたら感心だが。私は妻の話を聞いて、女性連中はおしゃべりが好きだから、「小鳥の楽しげな囀り」を連想して、相応しい命名だと思っただけであった。

 

妻と私が萩から山口に移って十年くらいして、妻の高校時代の仲の好い者達の集まりが始まったと思う。大抵一泊か二泊の旅行で、県内外に住んでいる者が順番に世話をしていた。令和元年は門司のホテルで会合となっていた。実はその前年の会合には、妻は足腰が痛むので欠席した。しかし今年は近くではあるし、何としてでも出席しようと云って無理を押して出かけた。この事は前にも書いたと思うが、出かける日に朝、妻は何時もより一時間も早く起きてきた。私はどうかしたのかと思って声をかけたら、

 

「昨夜は明日が『百鳥会』があるのでちゃんと支度を済ませて、疲れるといけないので早めに床に入ったら、夜中になって三回もKさんから電話がかかってきたのよ。その為に朝までよく寝られなくて、結局気になるから起きてきたのよ」

 

私はこの言葉を聞いて「またか」と思った。彼女は妻の早くからの友人で、こうした長電話をよくかけてくる。タイミングが悪かった。妻は寝付きが悪い。ぐっすり寝たときは痛みも和らぐと云っていた。その上その日は一人で知らない場所まで行かなければならない。朝食を終えて十一時頃の在来線に乗って下関駅まで行くというので、十時過ぎに新山口駅まで連れて行った。

恐らく妻は足腰の痛みに堪えていたと思う。駅に着いたら普通はその場で別れるのだが、その日に限って私は妻をまず下ろし、二階の改札口へ行くようにといって、車を駐車場に置いて改札口へ行って見たら姿が見えない。ちょっと不安になったので入場券を買ってプラットホームまで行って見たらベンチの傍に立っていた。そこには中年の男が長々とベンチを独り占めにして寝ていた。私は一人だけ座れるので妻を腰掛けさせて、傍らに立って列車の来るのを待った。

 

「切符売り場で私がぐずぐずしていたら、若い女の人が片道切符を買ってくれたのよ。私は往復切符を買うつもりだったのだが。まあ良い、明日また帰りの切符を買おう。もう大丈夫です。帰っても良いよ」

「折角だから汽車が来るまでいるよ」

 

こう云って私は妻としばらく話し、列車が来たので妻が乗り込むのを見届け、

「それじゃ、明日帰りの時間を知らせてくれ。迎えに来るから」

こう言って別れたのが永遠の別れになった。

 

その日の夜中午後十一過ぎに、妻がたおれたから直ぐ来て呉れとの電話がかかった。真夜中に次男の車で門司の病院に駆けつけた。長男は既に来ていた。しばらして看護婦さんに案内されて奥の一室に入ったら、妻は安らかな死顔を見せてベッドに横たわっていた。

あれだけ楽しみにしていた仲良しグループ『百鳥会』は、こうして妻の急死により「哀しい」ことになってしまった。葬儀の後、彼女達は遠くからわざわざ弔問に来て呉れた。その後コロナ感染で『百鳥会』は中止になっているようだ。妻は決しておしゃべりといった印象を人に与えなかったが、誰とでも会話を楽しんでいたから、彼女等はさぞかし淋しく、また哀しく思っているだろう。

 

 コロナ禍を知らずに妻は逝きにけり 今し思えばこれ幸いか 

 

 思い出の入場券のみ残りたり 妻は永久(とわ)に旅立ちにけり

                        

2021・4・16 記す   

冬日の想い

 朝起きて窓のカーテンを開けて外を見ると、夜間の寒さに何とか耐えたかのように、菜園に植えてあるチシャやエンドウ豆の蔓と葉が萎れた姿でぐったりしていた。私はもうかれこれ2週間になるが、ヘルペスの痛みが完治しないので、午前中は一歩も外に出ないでじっとしていた。この間手紙を2通認めた。朝から青空で天気は良いが寒さはこの季節にあっては当然だろう。午後になってまた窓の外を見ると先に述べた野菜は陽の光を受けて元気になったように見えた。私は外に出てエンドウ豆の蔓が横倒れになっているのを持ち上げて、ネットにしっかり絡まるように細い紙糸で括ってやった。

 

 私はこれまでこのような処置を心を込めてした覚えはない。しかし今日はちがった気持ちで行動した。齢を取り独り暮らしの身となって、自然に生きるすべての命あるものに、憐れみを覚え、共に生きようという気持ちを強く感じるようになったためかと思う。

 私の友人の一人は、彼も独り暮らしを私より早くから続けているが、毎日植木鉢に水やりをして、その生き生きとした生育を愛でていると言っていた。このように自然を愛で、自然と気持ちの上で一体化するのはやはり年を取り、さらに言えば独居生活を余儀なくされたとき一段と強まるのではなかろうか。

 

 私は昨日から上田三四二氏の『短歌一生』という文庫本を読んでいる。「老いと円熟」という題で彼は次のように言っている。

 

  短歌が青春の文学であることを私は首肯するが、よりいっそう、老年の文学であることを確信する。もっとも、青春において輝かなかった者が老年において輝くことはむつかしいかもしれないが、人の生き方はさまざまである。私の短歌によせる期待と確信は青春になく、老年にある。

 

著者は最後にこう書いている。

 

  人間には老いることが必要である。老いは必然だが、本当は、また、必要なのではあるまいか。

 老いはよき死のために必要である。そして、よき死は良き生の立証にほかならない。

 

 上田氏は1923年に兵庫県に生まれる。京都大学医学部卒業。歌人、文芸評論家、作家。

 1989年没。とある。彼は昭和23年に大学を出て、インターンを終わったあと、大学に残って内科学を専攻して、日夜励んでいた時、体を壊して結核になっているが、そのころから短歌を始めていて「ひどく晩生(おくて)であった」と書いている。

 

 私は卒寿という年齢になってもう先が見えている。最近何かしら歌の良さを多少感じるようになった。そして自分でも下手な歌を詠んでみる気になった。思うに私の血脈の中を僅かながら歌を愛でる何らかのものが流れているのかもしれない。私の歌は、到底歌と云えるものではないが、一人詠って楽しめばそれで良しとすべきだと思う。

 私はこの文庫本を著者が亡くなって3年後の1992年に購入している。少しは読んだがそのまま書架に飾っていた。この度何気なく手にして良い本だ思って読んでいるのである。

                 

 

 

 

             エンドウ豆

 

 

    去年撒きしエンドウ豆の青き蔓嫋やかなれどたくましきかな

 

    寒空にエンドウ豆の蔓伸びて小さき命生きんとしける

 

    暖炉なく日差しをのみぞ待ちたるかエンドウの蔓青く輝く

 

    この寒さエンドウ豆よよく耐えた雄々しき命我見習はん

 

    これまでは目にも留めざる草花の生きる命のたくましきかな

 

 

                      2022・1・19 記す

    

 

    

Godiva(ゴダイヴァ) 夫人

  漱石の『明暗』を先日やっと読み終えた。以前にも2回ほど読んでいるが、今回この作品が漱石の最高傑作だと評されている訳が判ったように思う。漱石は『明暗』を書く前に、次から次と作品を発表している。逆に並べたら、絶筆となった『明暗』が最初に『朝日新聞』紙上に掲載されたのが大正5(1916)年5月26日で、その年の12月9日に彼は死んだ。しかし掲載は14日迄続いて、その日の掲載でもって永久未完の儘に終わった。
 この『明暗』の前に『道草』が出版されたのが大正4年10月である。同じ大正4年4月に『硝子戸の中』を出版、その前の大正3年10月に『心』、同年1月に『行人』と、名作を年毎に新聞紙上に連載し、それを本として出版している。しかし驚くことに、その間彼は胃潰瘍や痔の手術を受けたりしてしばしば病床に臥している。

 漱石は数え年50歳で亡くなった。今から考えるとまだ若い。今なら停年にはまだ10年以上あり、これからばりばり仕事をし、停年を迎えた暁には、その後の数十年を生きるのが普通である。それにしても漱石の死ぬ前の数年間の仕事振りは尋常ではない。今をおいて時間がない、だから書かなければならない、と使命を受けたが如く、命をすり減らして書いた結果が、こうして永久に名作として読み継がれていくものとなった。

 しかしこうした傑作を彼が矢継ぎ早に書くことが出来たのは、彼が明治33(1900)年10月にイギリスのロンドンに着き、明治35年12月に帰国する迄の、僅か2年間のイギリス留学中の気が狂うまでの猛勉強が、その後の小説など制作の最大の糧(かて)となって居ると考えられる。明治33年と言えば今から丁度120年前の事である。
この「糧となった」ことは、漱石が帰国した翌年の明治36年9月から、東大で講義をした『文學論』を読めば、ある程度頷けるのではないかと思う。私は以前この学術論文的な著作に挑戦したが、英文の引用が多くて、しかも非常に論理的な構想の下に書かれているので途中で投げ出した。だから如何に優れた研究かは判らなかった。そこで先にも述べたように彼の小説を一通り読み終えたので、今度こそはと思って『文學論』を書架から取りだして、朝起きてすぐ読むことにした。今朝も早く起きて読んでいたら面白い文章があった。

 小泉八雲が、「本は先ず序文とあとがきを読め、そうしたら著者が何を言わんとしているか、また本の値打ちも大体分かる」と何処かで書いていたが、漱石の此の『文學論』の「序」はまさに名文で、漱石が如何にこの作品に心血を注いだか、そしてこれに重きを置いていたかが解るような気がする。漱石のこの「序」は確かに名文で、漱石のもの凄い気迫が伝わって来ると言っても過言ではない。数カ所抜萃してみる。

  春秋は十を連ねて吾前にあり。學ぶに餘暇なしとは云はず。學んで徹せざるを恨みとするのみ。

  余は下宿に立て籠りたり。一切の文學書を行李の底に収めたり。文學書を読んで文學の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に文學は如何なる必要あって、此世に生れ、発達し、廃頽するかを極めんと誓へり。余は社会的に文学は如何なる必要あって、存在し、興起し、衰滅するかを極めんと誓へり。

 余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所に傍注を施し、必要に逢ふ毎にノートを取れり。

 留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり。帰朝するや否や突然講師として東京大学にて英文学を講ずべき依嘱を受けたり。

   倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英國紳士の間にあって狼群に伍す一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。倫敦の人口は五百萬と聞く。五百萬粒の油のなかに、一滴の水となって辛うじて露命を繋げるは余が當時の状態なりといふ事を断言して憚らず。

   帰朝後の三年有半も亦不愉快の三年有半なり。去れども余は日本の臣民なり。不愉快なるが故に日本を去るの理由を認め得ず。日本の臣民たる光栄と権利を有する余は、五千萬人中に生息して、少なくとも五千萬分一の光栄と権利を支持せんと欲す。 

 漱石は帰朝後も心身共に正常ではなかった。しかしそのような一種極限状態でありながら、大学での講義を立派に行っている。しかし家庭にあってはいらだたしさを破裂させて、異常な行動に出ている。此の事は漱石の死後鏡子夫人の口述になる『漱石の思ひ出』によって多くの読者が知るところとなった。例えばこんな記述がある。

 此頃は何かに追跡でもされてる気持なのかそれとも脅かされるのか、妙にあたまが興奮状態になってゐて、夜中によくねむれないらしいのです。夜中、不意に起きて、雨戸をあけて寒い寒い庭に飛び出します。何をするか知れたもんじゃありませんから、ついて出たいのですが、そんなことをしようものなら、あべこべに何をされるか分からないし、第一大きな聲で呶鳴(どな)られでもしたら、四邊(あたり)近所(きんじょ)に面目もないし、息を殺して寝た振りをして、聴き耳を立てて居ますと、やがて何事もなく戻って参ります。かと思ふと真夜中に書斎でドタン、バタン、ガラガラとえらい騒ぎが持ち上がる事があります。これも仕方がないんで出たいのをじっと堪えて居りますと、やがてそれも一時で騒ぎもひっそり鎮まって了ひます。まあ良かったと翌朝學校へ出るが早いか書斎へ入って見ますと、ランプの火屋(ほや)は粉微塵に割れてゐる。火鉢の灰は疊一面に降ってゐる、鉄瓶の蓋は取って投げたものと見えてとんでみないところにごろついてゐる、二目と見られた部屋の模様ぢゃありません。留守の間に大掃除をしておくと、帰って来て又けろりとしてそこに入って居ります。

又このような記述もある。

  其頃書斎に入って見ると、机の上に墨黒々と半紙にかういふ意味の文句が書いてのせてありました、
―予の周囲のもの悉く皆狂人なり。それが為、予も亦狂人の真似をせざるべからず。故に周囲の狂人の全快をまって、予も佯狂をやめるもおそからずー 

天才ときちがいは紙一重と云うが、確かに漱石の当時の言動は異常であったように思われる。しかし『文學論』に書かれたことは實に緻密で理路整然として、驚くほど内容の充実したものだといえるのではなかろうか。公私の立場での態度が此れ程違っていたとは不思議な気がする。
 いささか脱線したが、『文學論』を読んでいて面白い文章が目にとまった。それは中世のイギリスの高貴な女性の身の上に起こったことである。
現在、チョコレートを好むのは男性より女性の方ではないかと思われる。しかしバレンタイン・デイにチョコレートを女性は男性に贈る。この事が戦後一つの社会行事として定着している。これは商業ペースに巻き込まれた現象だと考えられる。しかし貰った男性は果たしてチョコレートが大の好物かどうかは分からない。人気のある若い男性が山のように多くのチョコレートを貰ったとテレビで言っているのを見たことがある。
 さて、その時買われる高級チョコレートの1つが「Godiva」であろう。この有名なチョコレートの商標は、裸馬に乗った裸身の女性が長髪を棚引かして疾駆する騎馬像である。このチョコレートを買った女性で、これに目を留めるのはあまり居ないだろう。目に留めても「Godiva」は「ゴジラ」の親戚ぐらいに思っているのではなかろうか。私もこの度『文學論』に漱石がこの「Godiva」の事を書いているのを読んで初めて知った。そして妻や姪達が口にしていたこのチョコレートの名前であるのを思いだしたので、漱石の文章を興味深く読んだのである。前置きが長くなったが、漱石からの文章をもとに概略を書いて見よう。

 「これは一個の事実(少なくとも口碑に伝わる古い話)で、近世英文学で2人の文豪が取り上げている。有名な批評家が『数多き会話のうち、美しさに於いて、これの右に出づるものなし』とある、と漱石は書いている。そこで話を見てみると、

 新婚の夫婦がCoventryに遠乗りするのに始まる。新婦のGodivaが夫に向かって「レフリックどの、御領地は飢饉に苦しんでいます。干魃が何週間続いたかお考え下さいまし。レスタシャーの奥の牧場でさえ同じでございます」さらに下民の惨状を訴えて、「私たちは勇敢な槍兵や熟練した射手たちを多勢従えておりました。それでも、主人たちの貧窮のため家を追われた農家の犬どもが引き裂きむさぼりあっている動物たちのそばを通るのは剣呑でございました。」
 これに対して夫は、それなら私も町に入り聖ミカエル寺に籠もり夜を徹して神に禱願(とうがん)しよう、と云う。そのとき妻も「私もお祈りいたします、しかし私の愛する夫はお聞き届けくださいますかしら、もっとたやすいことー神様のなさる御業(みわざ)にも似た事を遊ばすようにとお願いいたしましたら」と云って、飢饉、干魃の際であるから彼らの租税を免ずようにと乞い願う。
 すると夫のレフリックは怒って「彼らは余の先祖たちが定めた税を届けるのを怠ったのだ。われらの婚儀の事も、それに入用な費用や祝典のことも知りながらだ。また、このような困窮の折には、余の統括地だけでは不足のことも知っているはずだ」
 その時妻は訴えて云う、「あの者たちの中には、私の幼いときにキスをしてくれた者、また、洗礼盤のところで私を祝福してくれました者たちがおります。レフリックどの、私がまず会う老人が、そういう者たちの一人かと思います。その人が与えてくれた祝福と、私がお返しに与える祝福(ああ、悲しいこと)とを考えることでしょう。胸から血が流れ、張り裂けることでしょう。老人はそれを見て泣くでしょう。彼に対してひどい仕打ちを布告し、彼の家族に死をもたらす暴君の妻のために、あわれにも泣いてくれることでしょう」

 それよりいろいろ問答の末、夫は妻の乞いを容れかつ条件を付していう、「よろしい、ゴダイヴァ、神聖な十字架に誓って市民を許そう、お前が真昼間、裸で馬に乗り、街中を通ったなら。」

漱石は上記の文中会話はそのまま英文を載せている。さらに文章を引用してこう述べている。
 妙齢の奥方ともあるべきものが白昼市街を、裸体にて、しかも馬上に乗り回すことは常人として忍びがたきもの、しかも忍ばざれば幾多細民の疾苦を救うことあたわず、すなわち同感と体面とのあいだに介立したる煩悶に陥らざるべからず。
むしろ体面を欠くも同感を満足せしむべしと決心したる女は言う、
「でも、清い心からする事ですから、非難はされますまい。私と同じく汚れのない者たちが、なんと大勢恐怖と飢餓にさらされていることでしょう。私を見る目は、みな涙を流していた目ばかりでしょう。こんなにたくさんの市民の母親として私は何と若いのでしょう。私の若さが障りになるでしょうか。神様のお導きで、若さも勇気の源になります。朝はいつ来るでしょう。昼はいつ終わるでしょう。」

 もう一人の文豪は有名な桂冠詩人テニスンで、彼はこれより一歩進めて、彼女が裸体にて市中を乗り回すところまでを叙述している。先ず彼女は、
「こうして一人になると、さまざまな胸の思いが、あらゆる方位からの風が吹き乱れるように、一時間も互いに争ったが、ついに惻隠の情が首位を占めた。」とようやく煩悶を切り抜けたゆえ伝令使をして市中に広告させて、「正午に至るまで何人も外出するなかれ」と。かくてゴヴァイダは衣を脱ぎ捨て、屠所の羊のごとき気分にて門を出で、首尾よく町をお駆けめぐりおわる。そのおり一人の愚物がいて物数寄にその様子を垣間見んとしたが、忽然明を失った。

 ついでに言うとこの愚物は「トムという仕立屋で、ゴダイヴァ夫人の姿をすき見して目がつぶれた。英語でPeeping Tom(すき見するトム)は「性的好奇心からのぞき見する助平男、せんさく好きな人」の意である。

 以上の話を読み終えて私はふと思った。今日世界はコロナウイルスの蔓延で、各国の元首や各都市の指導者たちが「緊急事態宣言」などを発令し、場合によっては州や県全体、あるいは都市を封鎖している。しかし果たして州や県民たちあるいは市民は此の事態を真剣に受け止めて実践するだろうか。そうしたときに人間の品格が問われると思う。それにしても最高責任者の妻たる者、あるいは夫たる者は、ゴダイヴァ夫人とまでは言わないが、せめて国民や市民の範たる者として行動して貰いたい。足を引っ張るような愚かな行動は論外である。    
『岩波-ケンブリッジ 世界人名辞典』を見たら次のように載っていた。

「ゴダイヴァ,レイディ Godiva ,Lady(英 ?―1080頃) イングランドの貴婦人、信心深い慈善事業家・伝説によると、夫であるチェスター伯レオフリック(1057死去)によって町の住民に課せられた重税(1040)の削減を求めて,裸のままコヴェントリー市場を馬で通り抜けた。その物語はウエンドーヴァーの「年代記」(1235)に記録されている。」

参考文献 『漱石全集 第九巻』(岩波書店
『文学論』(講談社学術文庫

                       2020・4・8 記す。

以心伝心

 

「以心伝心」を『広辞苑』で見ると、①禅家で、言語で表されない真理を師から弟子に伝えること。②思うことが言葉によらず、互いの心から伝わること。と書いてある。

 私は此の事に似た事をこれまで二度ばかり経験した。これはあくまでも人間同士のことである。しかし今日は相手が猫だったから面白い。

私は妻が亡くなって数日経って、毎日近くの六地蔵へ散歩を兼ねて拝みに行く事にしている。其所への道筋は厳密に言えば七通りもある。その内の一つの道筋に、猫を飼っている家がある。私は或る日煎り子を手にしてその家の前に来たとき、三匹の猫が何時ものように日向ぼっこをしているので近づいて投げてやったら。恐れて皆逃げた。

見知らぬ者を恐れ警戒しているなと思って、その日はそのまま六地蔵を拝んで家に帰った。六地蔵からその猫を飼っている家までの距離は200メートル位離れて居る。

その後数日して六地蔵を拝み、何時ものように石段を登って、道路から10メートルの高さまで登ったら、途中の木陰に例の猫が2匹うずくまって日向ぼっこをしていた。

この低い丘の東向きの斜面は墓地になって居て、新旧多くの墓が建ち並んでいる。猫たちは飼われている家からここまで歩いて来て日当たりの良い場所でくつろいでいるのだと知った。

これは一つの発見だと思い、散歩に出かける時、煎り子か竹輪を切って紙に包んで、できたら猫にやろうと思って毎日出かけた。やはり猫もこちらの気持ちが少しづつ分かるのか恐る恐る近づいてくるようになった。私は六地蔵を拝みに行く時間は日によって午前中の時もあれは真昼の時もある。今日は朝早くから良く歩いた。先ず7時に榊と花を買ってきて神仏に供えた。我が家から歩いて片道500メートルの処で毎朝7時に店を開く「ログ・ハウス」へ行ったのである。昼過ぎになって、もうすぐ刷り上がる同人誌『風響樹』を何人かに送るための角封筒を買おうと思って、家から一番近いスーパーまで歩いた。行って帰るのに1時間15分も掛かった。丁度家に帰り着こうとしていたとき、郵便配達人が我が家を離れかけようとしていた。間に合ってよかった。萩の妻の親友に、妻の知人たちに差し上げてくれと言って送っていた『硫黄島の奇跡』を、10人に配って買って貰ったとかで、その代金を手紙と一緒に届けて下さったのである。家に入ると直ぐにお礼の電話をした。今日は日中の氣温が26度とか言っていたので流石に1時間以上も歩くと汗ばんだので帰ると直ぐシャワーを浴びた。

私は雨が降っても風が吹いても六地蔵への散歩を兼ねたお参りは続けているので、夕方5時になったので煎り子を紙に包んで出かけた。このところ3日ばかり猫の姿を見ないので空しく持って帰っていたのだが、今日も猫の姿が見えないので、もう仕方がないと思って、10メートルばかり登った所の空き地に紙から出して、何時か見つけて食べるだろうを思って其所に撒いてその場を立ち去ろうとしたら、「ニヤーン」という鳴き声が聞こえて三毛猫が出て来た。何処にいたのだろうか。この三毛猫が一番人なつっこい。それにしても5時前にただ1匹いたのには驚いた。煎り子を撒いたそばまで呼び寄せると、喜んで食べ始めたので、私はいつものようにその髙所から市街地を見下ろした後、そこからまた石段を下ってもう一つ別の処になる六地蔵を拝んで帰った。

煎り子を地面に撒いて帰りかけた時までは「今日も猫は来ていないのか」と言った失望の気持ちを抱いていたのだが、猫が近づいて来たのには驚くと同時に何だかホッとした気持ちになった。まさか猫と「以心伝心」ではなかろうが、よく居てくれたと思ったのである。                     

                           2020・5・1 記す

惜しむ可し

 

天気予報によれば「明朝は相当冷え込」とのことで、覚悟して昨夜床に就いた。今朝目が醒めたのは丁度4時だった。室内の寒暖計は10度を示していた。確かに寒さを感じた。昨日一昨日と続けて、起きたとき室内は17度もあったからである。戸を開けて外を見たらまだ真っ暗闇で、雪は降っていないようであった。天気予報では西日本はところによって大雪になるとも云って居たが、まだその気配はなさそうだ。その後8時に外に出てみたら、玄関の屋根だけが薄らと白くなっていたから、確かに降雪があったのは間違いない。

冬季に入って私は何時もいる居間を寝室に兼用しているので、朝起きてもぬくもりが残っている。外の全ての部屋とは格段に温度差がある。今朝なんか摂氏2・3度といったところだと思う。洗面所に立ち冷たい水で顔を洗い、ついでに電気カミソリで髭も剃った。髭は夜中より朝起きてしばらくして伸びるような気がする、だからもう少ししてから剃った方がよいのだが、思い切ってカミソリを充てた。

何時もそうだが、昨夜も入浴後直ぐに就寝したので夜中に起きることなく、4時までぐっすり寝たから睡眠は充分足りている。床を上げ、その場に薄い毛布を敷き、その上に座布団を置いて尻を据えた。そうして私は『硝子戸の中』を読んだ。

私はこれまで「硝子戸の中(なか)」と思っていたが、此の文章に漱石自身「硝子戸の中(うち)」とフリガナを付けて題名にしているのに今日初めて気が付いた。今まで長い間漠然と「中(なか)」と読んでいたと思うと、実に迂闊だった。ただ単に字面に目をやり、話の筋だけを追うような読み方では、往々にしてこうしたミスを生ずるのではないかと思った。

しかし私は漱石が別にこだわっては居ないことに気が付いた。此の作品は「三十九」で終わっている。ここに漱石は次の様にフリガナをほどこしていた。私は「なーんだ」と思った。

 

「毎日硝子戸の中(なか)に坐ってゐた私は、まだ冬だ冬だと思ってゐるうちに春は何時しか私の心を蕩揺(たうえう)し始めたのである。」

 

漱石が此の最後の文章を書いたのが大正4年2月24日である。私は「三十三」を読んで、漱石が他人に対して如何に対処してきたかを、色々と考察した内容なので考えさせられた。この連載が終わった後、彼は『道草』を、さらに絶筆となった『明暗』を新聞紙上に掲載して、大正5年12月9日に永眠した。満で49歳だった。

彼は午前中『明暗』を執筆し、午後は漢詩を作って楽しんでいたようである。

 

私が一昨日まで読んでいたのは、『思ひ出す事など』である。明治44年漱石修善寺温泉に転地療養に赴いたのに、病状が悪化して吐血し30分間も人事不省になった。その後帰京して長与胃腸病院に入院し、回復するまで40日以上入院生活を続けている。修善寺に居た時も帰ってから入院中も、彼は俳句や漢詩を作っている。死に直面して漱石は一段と心境を深めたのである。その時の体験を彼は退院後、朝日新聞に『思ひ出す事など』の題名で連載した。

先にも述べたように、その後彼は『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』と連載を続け、さらに『硝子戸の中』、『道草』と新聞に掲載している。

私は『明暗』までの小説を皆読んだが、小説ではなくて『硝子戸の中』を読もうと思ったのは、漱石の日常生活の実態をよりよく知りたいと思ったからである。この作品は大正4年、漱石が亡くなる前の年に書いたもので、今云ったように、この後『明暗』を書きその途中で彼は亡くなった。

硝子戸の中』には彼の子供時代や青年時代の事が多く書かれているが、私には先に読んだ『思ひ出す事など』の方がこれより興味を惹き心に響くものがあった。これは漱石が生死の問題を真剣に考えて書いた文章が載っているからである。此の文章は今はさておき、私はもう一度漱石漢詩を読んで見たく思った。

 漱石は『文学論』の「序」でこう云っている。

 

「余は少時好んで漢籍を學びたり。之を學ぶ事短きに關らず、文學は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左國史漢より得たり・・・」

 

この「序」は可なり長いものだが実に名文である。漱石が大学で行った講義を纏めて出版するに当たり、此の序文を彼は気概を込めて書いたのである。明治39年の出版である。此処に「少時」とあるのは彼が明治14・5年頃、二松学舎で漢学の勉強をして居る事を指している。

話が逸れたが、そこで私は『漱石全集』にある吉川幸次郎博士訳注の『漢詩文』の「漱石漢詩」を改めて読んでみることにした。同時に佐古純一郎著『漱石詩集全釈』も参考にすることにした。

漱石詩集』に載っている最初の漢詩は彼が明治22年11月に作ったものである。漱石慶應3年(1867)に生まれている。その翌年の慶應4年が明治元年だから、満年齢で数えたら漱石の場合、明治の年数と彼の年齢は一致するから覚えやすい。各種の漱石全集によって違いがあるが、年号と同時に書かれている数字で彼の満年齢か数え歳なのかは分かる。

さて、最初の漢詩はつぎのようなものである。

 

   山路観楓      

 

 石苔沐雨滑難攀  石(せき)苔(たい) 雨に沐(もく)し 滑りて攀(よ)じ難し 

渡水穿林往又還  水を渡り林を穿(うが)ち 往きて又還る 

處處鹿聲尋不得  処処の鹿声(ろくせい) 尋ね得ず 

白雲紅葉満千山  白雲 紅葉 千山に満つ

 

 吉川博士の「訳注」に、「詩形は近体の七言絶句」であると先ず説明してあった。語句の注釈で、「沐」は髪の毛を洗う。「石苔」を擬人化しての語、とあった。漱石が数えの23歳の作である。続けて幾つかの漢詩を読んでいると次の「五言律詩」があった。

 

  飄然辭故國  飄然として故国を辞し

来宿葦湖湄  来たりて宿す芦(い)湖(こ)の湄(び)

排悶何須酒  悶を排する 何ぞ酒を須(もち)いん

遣閑只有詩  閑を遣(や)るは 只詩有り

古關秋至早  古関 秋至ること早く

廢道馬往遅  廃道馬往くこと遅し

一夜征人夢  一夜征人の夢

無端落柳枝  無端(むたん) 柳(りゅう)枝(し)に落つ

 

此の詩は漱石が当時女性問題か何かで、鬱々たる思いを抱いて箱根温泉へ行ったとき作ったもの様である。「故国」はこの場合「東京」を意味する。「湄」は「ほとり」「水際」、

「排悶」は「憂さ晴らし」、「征人」は「旅人」、「無端」は「ゆくりなくも どうしたわけか」、「柳枝」は佐古氏の注釈には「柳の枝を手折ってくれた人」とある。

 先ず此の詩で注目すべきは最後の言葉である。

吉川博士は、「柳枝―もとよりやなぎのえだだが、それを歌った詩には、恋に関係したものが多い。憶測をたくましくすれば、当時の先生には、恋人があり、箱根の夢にも現れたのかも知れぬ。」

一方、佐古氏は此処を「旅寝の一夜にゆくりなくも、見送ってくれた人を夢見た」と訳し、さらに「補説」として、「柳枝は、昔、漢代に長安の人が客を送って覇橋に至り、柳の枝を手折って別れたという故事によっている。また、柳枝は韓退之や白居易の詩にみられるように、美人を柳枝にたとえることもある」と云っている。

 これだけの説明を読んでも、漱石が如何に漢詩を若いときに勉強したかが分かる。私がこの詩で特に興味を覚えた語句は「閑を遣るは 只詩有り」である。

吉川博士はこう注している。「遣閑―ひまをつぶす。以上二句、杜甫「可惜」の詩、「心を寛(ゆる)うするは応に是れ酒なるべく、興を遣るは詩に過ぐるは莫し」をふまえつつ、上の句では、酒にたよらなくても悶えを排斥し得ると、ひっくりかえした。「排悶」の二字も、杜甫の別の五律「江亭」の語。

 

私は妻を亡くし急に一人暮らしになって「閑を遣る」立場になったから、如何に閑を遣る、つまり余生を如何に過ごすべきかと考えていたとき、この言葉が目に入った。

なお吉川博士は「漱石」とは書かずに「先生」と書いている。この碩学が自らをへりくだって、「先生」と云っているのは、漱石漢詩を高く評価しているからだと私は思った。

 私はついでに博士が挙げた杜甫の詩を見てみた。『唐詩選』には載っていないが、『中國詩人選集 杜甫上』に見つかった。

 

可惜    惜(お)しむ可(べ)し

 

花飛有底急    花の飛ぶこと底(なん)の急か有る

老去願春遅    老い去(ゆ)けば春の遅きを願う

可惜歓娯地    惜しむ可し 歓娯の地

都非少壮時    都(す)べて少壮の時に非(あら)ざるを

寛心應是酒    心を寛(ゆる)うするは応(まさ)に是れ酒なるべく

遣興莫過詩    興を遣(や)るは詩に過ぐるは莫し

此意陶潜解    此の意 陶潜のみ解す

吾生後汝期    吾が生 汝の期(き)に後(おく)れたり

 

黒川洋一氏は此の詩を以下のように訳していた。

 

なぜかかくもあわただしく花は飛び散っていくのか、年老いてゆく身は春の歩みの遅いことを願っているのに。

自分もおりおりは歓楽の席につらなる身になったが、どの席ももはや少壮の時でないことを残念に思う。心をくつろげるものとしては酒がよかろうし、興をはらすものとしては詩にこすものはない。

陶潜よ、私のこのきもちはあなただけが理解してくれよう、だが私の生まれたのがあなたより遅かったのは残念だ。

 

私はついでのことにと、陶淵明の詩集を繙いてみた。果たして『飲酒 二十首并序』に次の文章が見つかった。少し長いが転写してみよう。原文は省くが一海知義氏の訳を書き写してみよう。

 

 余(わ)れ間居(かんきょ)して歓(たの)しみ寡(すくな)く、兼(くお)うるに此(このご)ろ夜已に長し。偶(たま)たま名酒あれば、夕(ゆうべ)として飲まざる無し。影を顧みて独り尽くし、忽焉(こつえん)として復た酔う。既に酔いし後には、輒(つね)に数句を題して自ずから娯しむ。紙墨遂(か)くて多く、辞(ことば)に詮(せん)次(じ)なきも、聊(いささ)か故人に命じてこれを書せしめ、以て歓笑と為さん爾(のみ)。

 

私は世間と没交渉の生活をしていて楽しみもすくなく、しかもこの頃は夜が長くなってきた。たまたま名酒が手には入ったので、飲まぬ夜とてない。自分の影を見やりつつ独りで飲みほしていると、たちまち酔いがまわって来る。酔うたあとでは、いつも二三の詩句を書きつけて独り楽しむのだ。このようにして紙や墨はやたらたくさんつかったものの、出来た詩のことばに前後の脈絡もない。が、まあまあとにかくなじみの者にたのんで写してもらい、なぐさめとしようというだけのことさ。

 

「暇つぶしには詩がある」と云う言葉を知って、作詩は出来ないが、これまでとは多少違った気持ちで漢詩を読んで見たく思い、差しあたり『漱石詩集』を取り上げたのである。私の場合、ささやかながら独酌も楽しむことも出来たらと思うのである。しかしこうした生活をいつまで続けることが出来ようか。日々老いていく。今はただ健康でありたいと思うだけである。

 昨日此の拙文を書き始め、今朝早く起きて書き終えた。外に出てみると手水鉢に薄く氷が張っていた。昼からは暖かくなるとのことだから、入院中の従兄の見舞いに行ってみよう。彼も妻を亡くし無聊を託っていることだろうから。

                        2020・2・19 記す

 

 

漱石雑感

 

明治26年7月、漱石帝国大学文科大学英文科を卒業するとすぐに大学院に入った。その年の10月に東京高等師範学校英語嘱託教師になっている。翌27年2月の初め、肺結核の徴候を認めて療養に努め、その時弓道を習う。彼は相当真剣に弓の稽古をしたようである。その時の俳句が幾つかある。

 

大弓やひらりひらりと梅の中

弦音にほたりと落る椿かな

矢響の只聞ゆなり梅の中

弦音になれて来て鳴く小鳥かな

 

漱石は半年足らず勤務しただけで突然高等師範学校を辞して、28年4月に愛媛県尋常中学校(松山中学)へ赴任する。そこでも彼は弓の稽古をしている。

 

私は平成10年9月に山口に来て、初めて弓道教室に入って弓道を習った。しかし体力的についていけなくて、弓道の魅力を感じてはいたが、所詮凡骨、古希を過ぎしばらくして稽古を断念した。その時私は漱石弓道の稽古をしていたことを知って『漱石と弓』と題して文章を書いた。知人に見せたら、「漱石が弓を引いていたのですか。知りませんでした。何処かに発表してみたら」と言われたものだから、どうせ取り上げてはくれまいと思ったが、漱石と云えば岩波書店だと考えて原稿を送ってみた。そうしたら忘れた頃に電話があって採用するとのこと。これには驚いた。さっそく読み直して送ったのが平成14年(2002)1月15日だった。するとその年の『図書』4月号に拙稿を載せてくれた。私は主に漱石と弓に関する俳句を取り上げて、私見を述べたのである。そのなかに次の俳句がある。

 

月に射ん的(まと)は栴檀(せんだん)弦走(つるばし)り

 

私はこの「的は栴檀弦走り」の意味が分からないので、指導して貰っていた先生に訊ねたら、先生なりに色々と解釈されて話されたのでそのことを書いた。ところがこの『図書』を読んだという全く未知の方から手紙を貰って、「栴檀」も「弦走り」も大鎧の付属具であると教えられた。一寸調べれば分かったものにと後悔した。また世間には親切な人がいるものだと思った。そこですぐその方に丁重な礼状を差し上げた。そうするとまた翌年の平成15年11月に几帳面な字で便箋4枚に書かれた手紙を下さった。この手紙については最後に書く。

平成14年に全日本弓道連盟の『弓道』の編集者から、岩波の『図書』に載った文章を読んだから、同じような内容の文章を書いてくれと連絡があった。そこで私は加筆訂正した原稿を送った。同誌の編集者は学生時代東大で弓道を稽古され、今は同大学で指導されている方だと後で知った。お蔭で2003年1月号の『弓道』誌に、「弦音にほたりと落る椿かな 漱石と俳句」と題し、数葉の漱石に関係する写真を添えた立派な記事にして載せて頂いた。私はこの『弓道』誌に以下のような事を書いた。

 

「この句について在京の方から「栴檀栴檀の板を意味し、弦走同様に、鎧の具である、従ってこの句は、鎧を的に見立てたのではないか」と、鎧の図版を添えて御教示頂いた。私は漱石が読んだものには記載してあるかも知れないと思い、「漱石山房蔵書目録」を見てみた。すると『頭書 保元物語 中根淑注釈 明治二十四年 金港堂』があった。これと同じ本が県立鹿児島図書館にあることが分かり、問題の箇所を複写して送ってもらったところ、果たして「栴檀弦走」の言葉が載っていた。

 

例の大弓を打ち交(つが)ひ。堅めてひょうと射る。思ふ矢壺う誤らず。下野(しもつけの)守(かみ)の冑の星を射削りて。餘る矢が寶荘院の門の方立(ほうだ)て箆中(へいなか)責めてぞ立ったりける。其の時義朝手綱掻い繰り打ち向ひ。汝は聞きに及ぶにも似ず。無下に手こそ荒けれと宣(のたま)へば為朝兄に渡らせ給ふ上。存ずる旨ありて斯くは仕り候へども。誠に御許しを蒙(こうむ)らば。二の矢を仕らん。眞(まっ)向内(こううち)冑(かぶと)は恐れも候ふ。障子の板か。栴檀弦走りか胸板の眞中か。草摺りならば一の板とも二の板とも。矢壺を慥(たし)かに承って仕らんとて。既に矢取って交はれける所に。上野(こうずけ)の國の住人深巣七郎清國つと駆け寄れば。為朝是を弓手に相請けてはたと射る。清國が冑の三の板より直違(すじか)ひに。左の小耳の根へ箆中計り射込んだれば。暫しもたまらず死ににけり。

 

「門の方立てに箆中責めてぞ立ったりける」とは、門の柱と上の横木と鳥居形をした処へ矢の半ばまで強く射込んだことである。

ところで『保元物語』の原文には、「此は七月十日の夜なりければ、月は夜中に入り終ひて、暁暗の空なるに」とあるので、実際は月はすでに沈んでいたと思われるが、漱石は月を歌うことで、詩的効果を狙ったのではなかろうか。漱石は『保元物語』の此の箇所を読んだ時、現にその頃弓を引いていたので、弓を執れば天下無双の為朝の雄姿に、思わず共感と羨望を覚え、三十一文字に詠じたのであろう、とこれまた勝手に想像してみた。

 

 この拙文を書いて既に17年の歳月が流れたことになる。昨年5月に妻が亡くなり、その後一人暮らしになったので、子供たちに迷惑を掛けてはいけないと思い、自分なりに健康維持を考えている。先ず早寝早起きと散歩の励行である。朝は目覚ましを5時にセットしているが、それより前に起きることが多い。今朝も4時に目が醒めたので「漱石漢詩」を読んでいると次の漢詩が目にとまった。

これは佐古純一郎著『漱石詩集全釈』(二松学舎大学出版部)にあるもので「通釈」も併せて書いてみよう。

 

無題

 

快刀切斷兩頭蛇   快刀切断す 両頭の蛇

   不顧人閒笑語嘩   顧みず 人間笑語の嘩(かまびす)しきを

黄土千秋埋得失   黄土 千秋に得失を埋(うず)め

蒼天萬古照賢邪   蒼天 万古に賢邪を照らす

微風易砕水中月   微風に砕け易し 水中の月

片雨難留枝上花   片雨に留め難し 枝上の花

大酔醒来寒徹骨   大酔(たいすい)醒(さ)め来たりて 寒さ骨に徹す

餘生養得在山家   余生養い得て山家(さんか)に在り                   

 

 【通釈】 自分を取り巻く人間関係の煩わしさや、今まで心を占めていた世俗的な功名心等は、すっかり切り捨てた。いまさら俗人の口やかましい嘲笑など、少しも気にならない。宏大な大地は、長い年月の間に、ちっぽけな人間の損得勘定を埋めてしまうし、天こそは永遠に、人間社会における善悪の営み全てを照射しているのである。

この世のはかなさは、水面に映じた月がそよ風にも砕けてしまい、枝に咲く花がわずかの雨にも散ってしまうようなものである。泥酔から醒めてみると、寒さが身にしみるものだ。これからの自分は、残された人生をここ松山の侘び住まいで過ごすと思う。

 

漱石は松山に来る前、神経衰弱に陥り、鎌倉の円覚寺を訪ねたのもその為である。松山中学校に来て、多少は気分転換になったかとも思うが、必ずしもそうとは云えない。『坊っちゃん』から察せられるが、まだ完全には心の落ち着きは得ていないようだ。「余生養い得て山家に在り」と云いながら、実際には彼は僅か1年で熊本の第五高等学校へ転勤している。松山中学校にいた時、『愚見数則』を松山中学の同窓会報のような冊子に寄稿している。当時の在校生並びに松山中学校の関係者が読んだであろうが、格調の高い優れた文章である。今日の中学、高校の生徒達が此の文章を読んだら、どう感じるだろうか。果たして理解できるだろうか。次のような文章がある。旧漢字を除いて一部写してみよう。

 

  勉強せねば碌な者にはなれぬと覚悟すべし、余自ら勉強せず、而も諸子に面する毎に、勉強せよ々々といふ、諸子が余の如き愚物となるを恐るればなり、殷鑑遠からず勉(べん)旃(せん)々々。

 

教師は必ず生徒よりゑらきものにあらず、偶(たまたま)誤りを教ふる事なきを保せず、故に生徒は、どこまでも教師の云ふ事に従ふべしとは云わず、服さざる事は抗弁すべし、但し己れの非を知らば翻然として恐れ入るべし、此間一點の辯(べん)疎(そ)を容れず、己れの非を謝するの勇気は之れ遂げんとするの勇気に百倍す。

 

善人許(ばか)りと思う勿れ、腹の立つ事多し、悪人のみと定むる勿れ、心安き事なし。

人を崇拝する勿れ、人を軽蔑する勿れ、生まれぬ先を思え、死んだ後を考えよ。

 

理想を高くせよ、敢えて野心を大ならしめよとは云わず、理想なきものの言語動作を見よ、醜悪の極なり、理想なき者の挙止容儀を観よ、美なる所なし、理想は見識より出づ、見識は学問より生ず、学問をして人間が上等にならぬ位なら、初から無学で居る方がよし。

 

これはかなり長い文章である。最後にこう書いている。

 

右の條々、ただ思ひ出る儘に書きつく、長く書けば際限なき故略す、必ずしも諸君に一読せよとは言はず、況んや拳々服膺するをや、諸君今少壮、人生中尤も愉快の時期に遭ふ、余の如き者の説に、耳を傾くるの遑なし、然し数年の後、校舎の生活をやめて、突然俗界に出たるとき、首を回らして考一考せば、或は尤もと思ふ事もあるべし、但し夫も保証はせず。

 

この『愚見数則』は立派な処世訓といえる。これを生徒達に書き残して漱石は松山を立ち去った。これを漱石は28歳の時書いたのには驚く。彼はそれまでに相当厳しい人生体験をしている事が推察できる。また学問の上でもかなり思い悩んでいたような気がする。熊本へは弓道具を携えて行っているがもう稽古はしていないようだ。第五高等学校の生徒達を相手にして漱石は気持ちが大分収まったようである。

 

さて先に挙げた漢詩であるが、これは漱石が松山に赴任して早々に正岡子規に宛てた手紙の中に書かれたものである。此の詩の中の「快刀切断す 両頭の蛇」の【語釈】で、佐古氏は次のように書いている。

 

「両頭蛇―ここでは漱石の松山行きの外的要因である人間関係の煩わしさ(恋愛関係を含む)と、内的要因である功名心(英文学研究に対する不安と煩悶)の象徴である。」

 

一方吉川幸次郎博士は『漱石詩集』で此の句についてこう述べている。

 

「両頭蛇―楚の孫淑敖の故事を用いる。彼は子供の頃、両頭の蛇を見た。それを見たものは死ぬという言い伝えがある。みずからの死を覚悟するとともに、あとから来たものが、再び見ると行けないと思い、蛇を殺して埋め、泣きながら家に帰ると,母はいった、「憂うる無かれ、汝は死せず。吾れ聞く、陰徳有る者は、必ず陽報有りと」。

のち果たして、楚國の宰相となった。先生(吉川博士は漱石を先生と尊敬している)の理想もまた後人のために、色々な両頭の蛇を、切断し、葬り去ることにあった。その結果として、いろいろと批評されるのは、顧慮すまい、というのが、次の「不顧人間笑語嘩」である。

 

二人の解釈は多少異なるが、いずれにしても、漱石は大学時代から神経衰弱になるほど悩んでいた。彼はさらにイギリスに留学して、そこでも神経衰弱に陥っていた。帰国後東大で英文学を教えているがまだ悩みは続く。最終的には朝日新聞社に入って小説の連載を始め、とうとう胃潰瘍で大出血をして一時人事不省になって生き戻った時から、精神的に落ち着いたようである。その頃の漢詩がそれを反映している。

 

先にも述べたように、私は此の度漱石漢詩を読み始めたとき、漱石が松山で弓を引いていたことをまた思い出したのである。其の時先に述べた「栴檀弦走り」に関して教えて頂いた方からの手紙を読もうと思って、探したが見つからない。それとは別の手紙だけがあった。私はこれを読んで見た。それが「この手紙については後で書く」と云ったものである。何だか仰々し言い方だが、私はこれを15年振りに再読した。全部書き写してみる。

 

先日は心温まるお手紙を頂き誠に有難うございました。四十九日を過ぎてもまだ思い出の波が押し寄せて来て、私の胸を痛めます。普段は何も考えずに過ごしていた夫婦が突然この世から消えてしまうことの淋しさ、悲しさを知り、この家に一人ポツンと残されて、生きる甲斐もないほど落ち込みましたが、結局は自分で立ち直る以外の方法はないと、般若心経を唱えて、心を空にし、気を紛らわせたり、雑事を見つけて身体を動かすことで、思い出から遠ざかるようにして過ごしています。

思い起こせば、昭和十八年九月学徒動員で半年繰り上げ卒業し、直ちに就職(N・E・C) ―この時家内と知り合う―十二月入隊と同時に満州に送られ、三ヶ月の教育を受けて、私は幸いにも熊本の予備仕官学校に入り(同期の多くは満州士官学校から南方に行く途中、輸送船が撃沈されたと聞いている)少年飛行兵の教官として鳥取で任務中に終戦、翌年二十一年結婚、以来五七年仲良く過ごしてきて老後は家内のリュウマチとパーキンソンの介護に数年明暮れましたが、寝た切りの約三ヶ月のあと、別れが来ました。はかないものです。然し弓の仲間にも励まされて漸く道場にも顔を出し始めました。

 

私はここまで読んで不思議な符合をみた。この方が昭和二十一年に結婚されて五十七年の間仲睦まじく過ごされたのである。そして奥様が数年間病床に臥せられ、ご主人の介護も空しく亡くなられた。そして四十九日の法要を済まされたとある。私も妻の四十九日の法要を終え、もうすぐ一周忌がやって来る。しかも我々の結婚生活も五十七年であった。続きを書き写そう。

 

小沼範士このことですが、私が戦後勤めていた大蔵省印刷局(今は国立印刷局)の東京の滝野川工場の弓道部の師範として指導に来て頂いていたので、先生の葬儀にも出席しましたが、その時デプロスペロが鳴弦の儀式を行って葬儀車を送った事を覚えています。アサヒ弓具店の道場での先生の射影のテレホンカード(殆ど使用済み)がありましたので同封します。特に作法には厳しく、道場での普段の立居振舞にも自ら能のような優雅さと茶道のような上品さを持っておられました。

弓道誌十一月号65頁中断左側に、昭和五七年三月号に「漱石先生と弓」杉本正秋の文字を発見し、どんな事が書いてあるのか確かめたくて全弓連に連絡し、コピーを送って貰い読んで見ましたが、山本さんがお書きになったものには比べものにもならなくて、心に残るものは何もなく、改めて山本さんの文脈の豊かさと深さに感慨を新たにしました。同封しておきます。

寒さが厳しくなって参ります。呉々もお身体を大事になさって下さい。

平成十五年十一月二十六日

                         高瀬谷 生

  山本孝夫 様

 

今こうして改めて手紙を読み直し、さらに書き写してみて、この方は弓道を通じて人格を磨かれた立派な方だと思った。先の戦争で幸運にも生きのびて、戦後平和な人生を送られたのだ。そして57年間幸せな結婚生活を続けてこられたのだと思った。私は弓道を止めたのでその後交信はしなかったが、先にも述べたように同じような立場に今あって、良い方に一時的だがめぐり会えたと思うのである。

最後に小沼範士という方は弓道九段の名人とも云える人だったようである。私は偶々小沼範士とデプロスペロ共著の『弓道』(英文)講談社発行を山口市弓道場で先輩の方から貰ったので読んでみて、如何に小沼範士が優れた人であったかと言うことを知った。

新型コロナウイルスの感染拡大で、東京オリンピックの開催が危ぶまれているが、弓道はオリンピックの参加種目に決してはならないだろう。多くのスポーツと違って、これは本質的には勝ち負けを競うものではないからだ。「礼に始まり、礼に終わる」といった弓道の精神が世界に普及したら、人類に眞の平和をもたらすだろうと思う。

 

                         2020・2・22 記す

落ち葉

 今年も今日で終わり、明日から師走に入る。十二月は極月(ごくげつ)ともいう。居間の柱に掛けてあるカレンダーに目をやった。毎年萩のお寺から壁掛け用の細長いこのカレンダーをもらう。月毎にふさわしい気の利いた言葉や俳句などが書かれていて、それに英訳がそえてある。日本文とその英訳を比べて、上手い訳だなと感心することもあれば、これでは日本語の持つ感じとは少し異なるなと思ったりもする。今月は次の俳句と下に英訳が載っていた。誰の句かは判らない。

 

はらはらと無常を告げる落ち葉かな

 

As  autumn leaves fall,so nothing lasts forever.

 

「無常を告げる」という言葉には落ち葉を人格化した暖かみが感じられる。一方英訳は理屈っぽい気がする。あえて直訳してみると「秋の木の葉が落ちるように、何一つとして永久に続くものはない」。これでは文章に味がない。拙訳のためばかりではあるまい。また英訳では「はらはらと」という風に吹かれて散る様子を示す擬声語がない。この句ではこの言葉が効いているとわたしは思う。

 

萩から山口に移って今年でちょうど二十年になる。十年一昔と云うが、二十年経てば生まれた子が成人式を迎えるのだから、つくづく年月の早い流れを感じる。今年になって例年になく気づいたのは、見事に紅葉した街路樹とその落葉である。欅、銀杏、楓と書くと堅苦しいが、けやき、いちょう、かえでと綴ると、「さらさら」とか「はらはら」と散るこうした木々に似つかわしいかも知れない。

ここでわたしはふと文学作品に現れたこの「落葉」についてちょっと見てみようと思い、二冊の本を書架から下ろした。二冊と云ってもいずれも分冊である。

一つはR・H Blyth著『HAIKU』(北星堂書店)の中の第四巻「秋と冬」で、もう一冊は『英語歳時記』全五巻(研究社)の中の一冊「秋」である。

 

前者は大学時代の恩師の蔵書だったが亡くなられて後に頂いた。先生は禅関係の文書の

研究・英訳をされていたので、このブライス教授の『俳句』も参考にしておられたかと思う。わたしは折角頂戴したので今回全四巻を通読して、イギリス人の著者が、自然に対する情趣の豊かな人だと感心した。

この本では俳句をまず挙げ、それに関連した東西の文献を参考として援用し、縦横適切に解説したもので、じっくり読めば非常に示唆に富むものだと思う。全部英文で書かれているが、俳句だけはそのまま日本語が載せてあるから助かる。

それでは「落葉」の項をみてみよう。

 

  焚くほどは風がもてくる落葉かな      良寛

 

 The wind  brings 

    Enough of fallen leaves

      To make  a fire.

 

 この句に関して、「これはキリストの言葉を唯一、真実に意味したものである」として、ブライス教授は聖書の言葉を引用しておられる。

 

 空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。きょうあっても、あすは

炉に投げこまれる野の草さへ、これほど装ってくださるのだ、ましてあなたがたに、よくしてくださらない訳がありましょうか。信仰の薄い人たち。

 

これは福音書マタイ伝にある言葉である。教授はカトリックの神父でもあるから、キリストの言葉を引き合いに出されたのであろう。しかしここに詠う良寛は果たしてそのようなこと、つまり信仰心を詠ったとは思えない。彼は焚き火をしていたら火が消えかけたが、風が吹いて木の葉が落ちてきたので集めてそれをくべた。おかげでまた火の勢いが盛んになってありがたい。まあ、このような全く無心の気持ちを一片の句にしたのではなかろうか。

次に一茶の句が挙げてある。句の英訳は省く。

 

 猫の子のちょいと押へる木葉

 

「木の葉が飛び散りかけると子猫が前足をひょいと伸ばしてそれをちょっとの間

押さえ一二度軽く叩いたりして放す。この句は言うなれば一茶の他の句にも繋がる。」と云って次の句が挙げてある。

 

 門畠や猫をじゃらして飛ぶ木の葉

 

 ここでは落ち葉の方が子猫を誘惑して面白がっているようだ。視点を全く変えた一茶の遊び心が感じられる。

 

 木枯らしが吹くと市中の街路に木の葉が舞い落ち、吹きだまりには堆(うずたか)く溜まっている。もう市民は風の吹くままに当分手をこまねいている感じである。

 

 掃きけるが遂には掃かず落葉かな     太祇

 

 ブライス氏は「冬の初めには我々は落ち葉を楽しみながら、また意識して掃き清める。しかし次から次へと多くなると自然はもうわれわれの手には負えない。われわれは降参する。そして詩人が言うように“自然が君臨する”のだ。旧山口駅通りはまさにその感がある。

 

 今度は『英語歳時記』を開いてみよう。索引に「落葉」とあった。そのページを開いたら次の詩が載っていた。英文とそれの訳文が載せてある。

 

 老人は秋の落葉を燃やしながら

 冬をひかえて中庭をかきよせる

彼らには命がない どちらだって

 木の葉は死んでいる 老人の命は

 木の葉さながらはかなくあえないもの。

 

 この詩の作者はマクリーシュというアメリカの詩人で、1892年生まれ。ルーズベルトの信任厚く国会図書館長や国務次官補など歴任し、戦後はユネスコのために尽力していたと『研究社英米文学事典』に記載されている。

 

彼は「老人の命は木の葉さながらにはかなくあえないものだ」と詠って、人の命も死んだら枯れ葉と同じだと考えている。死後の世界など全く眼中にない。英文は終わりの二行が「L」の頭韻を踏んでいるので読むと調子は良いが侘しく寂しい詩である。

 

The  leaves are  dead, the  old  men live

  Only a  little,  light as  a  leaf.

 

 やはり詩は意味だけではなく、読んでみて韻を踏み口調を楽しむべきだろう。最後にイギリスの詩人トーマス・モア(1870~1944)の詩を見てみることにする。

 

 私のまわりのあんなにも心の結ばれ合っていた

友人たちが 

冬空の木の葉のようにみんな散って行ったのを

思い出すとき

  私は灯りが消え、

  花輪もしおれて、

  人ひとり  

  いなくなった

  宴の間に、ただひとり取り残されて、 

  歩いている人間のような感じがする。

 

モアの詩は「古風な調子で、感情の激しさはないが親しみの深いものである」と上記の辞典に載っていた。

 

 今年も残り少なくなった。例年通り、「喪中に付き」の葉書が舞い込んでくる。老人が亡くなるのは自然だが、定年退職したばかりのような人の死は気の毒でならない。去年・今年と教え子が二人続いて亡くなった。まだまだこれからの人生、もっと生きて社会のため、家族のために働きたかったであろう。さぞかし心残りであったろう。残念でならない。

最後にヴェルレヌ作・上田敏の名訳「落葉」を誦しつつ、心から冥福を祈って筆を擱くことにする。

 

  秋の日の

  ビオロンの

ためいきの

身にしみて

ひたぶるに

うら悲し

 

鐘のおとに

胸ふたぎ

色かへて

過ぎし日の

おもひでや

 

げにわれは

うらぶれて

ここかしこ

さだめなく

とび散らふ

落葉かな

 

 

追記  不思議な事があるものだ。妻が高校時代の仲良しグループとの一泊旅行に行くというので、新山口駅まで車で送って行ったが、その日に限って駅頭で別れるのではなく、プラットホームまで降りて列車が来たので、「明日又来るから時間を知らせてくれ」と言って別れたのが永遠の別れとなった。

葬儀を無事に済ませ一週間ばかり経ったとき、昨年末に書いたこの文章の原稿がやっと届いた。「落ち葉」と題した拙い文である。はらはらと枯れ葉が舞い落ちるようではなく、葉末に宿った朝露がぽたりと落ちるが如くあっけない死である。しかし安らかな死に顔を見せて呉れていた。

知人や教え子たちの死を悼む文章が、図らずも妻をも悼む文章になってしまった。 

                        令和元年 六月五日  記す

氷柱(つらら)

 

「天気予報」の予告通り、7日の朝起きて外を見たら前日と打って変わり、雪が降りしきり一面の銀世界だった。従って7日・8日と戸外には全く出ずに家の中に籠居していた。朝の8時に庭の石地蔵を拝もうと出てみたら、雪は全く解けずに地蔵様の上にも10センチばかり積もっていた。ふと門の屋根を見たら僅かに勾配を付けてある端から氷柱が垂れ下がっていた。私は山口に移り住んで21年になるが、我が家で是程の見事というか、長い氷柱を見たのは初めてである。カメラを持ってきて先ず写した後巻き尺で測ったら丁度40センチあった。空は青く晴れていて白雲が浮かび陽が射していたから、徐々に融けて氷柱も短くなり、その内消えてなくなるだろうと思った。

私は「氷柱」と書いて「つらら」と読むからこれは当て字だと思い、辞書でちょっと調べて見た。語源的には2つあるようだ。

  • ツラツラ(滑滑)の約か〔大言海〕。ツラは滑らかで光沢のあるさまを形容した語。
  • 連なって長くなるところから、ツラツラの意。

英語では「icicle」という。「つらら」の意味の外に口語で「冷たい人、冷静な人」と説明してあった。語源的には「「ice + ickle」とあった。ickleは語源的に曖昧だが、「ic」には「のような」「の性質の」「・・・からなる」とあった。従って「icicle」が「つらら」の外に「氷のように冷たい人」という意味だと知った。

heroic「英雄の、英雄的な」publicがpeople+icから分かるように「公共の、人民の」という意味になるのを知った。

 

氷柱は今云ったように当て字と思われる。滝の水が凍れば当に氷の柱だが、普通は氷の棒程度の小形のものしかこの辺りでは目にしない。私はこの「氷柱」を見たのは夜が明けて8時になった時だが、それより前4時半に目が醒めたので、寒いけれども思い切って起きた。室内の寒暖計は摂氏8度だった。直ぐに暖房のスイッチを入れたが、何しろ私が休む部屋はキッチン兼居間で、いささか広くておまけに天井が高いので、おいそれとは暖かくならない。しかし一端暖まったら、木造建築のお蔭で余熱を長く保つから、妻が亡くなってからは、冬季は此の部屋に寝具を運び入れて寝ることにしている。まあ一長一短だ。という訳で、10時45分になっても、室温はまだ18度である。

自分でも思うのであるが、私はどうも意志薄弱である。昨年5月27日の妻の命日を過ぎて、『漱石全集』全16巻を読もうと決心し、第一巻の『吾輩は猫である』から読みみ始めて、『明暗』までは読み終えたが、第八巻の『文学論』は難しくて途中で止めた。此の作品は漱石がイギリスの留学から帰って、留学中に猛勉強した成果を当時の東大の学生たちに講義したのを、後に一冊の本として世に問うたものである。文学とは如何なるものかということを、いささか哲学的と云うか科学的に説明したもので、多くの英文を引用してあって、私は訳文を参照しながら読むので遅々として進まない。

私は此の作品を以前にも曲がりなりに読み通した。今回また挑戦したが依然として直ぐには内容が頭に入らない。結局自分の頭が悪いと知っただけであった。その時ふと思った。私は来月には満89歳になる。漱石が死んだのは大正5年の12月9日だった。その時彼は満年齢で49歳だった。私は彼の最晩年の作品『思い出す事など』を非常に面白く読んだ。そしてその中に載っている彼が作った漢詩には多分に共鳴した。私は漱石がそれより15年ばかり前に書いたこの『文学論』をはじめとして多くの論文を、この先ぐずぐずと読んでいたのでは、自分の寿命がなくなると思った。それで一時漱石の作品を読むには止めて、もっと今の我が身に即した本を読まなければと思ったのである。

そこで先ず中村元氏の『仏教入門』を図書館で借りて読んだ。次に松原泰道師と五木寛之氏の対談『ブッダ最後の旅』を面白く読んだ。いずれも教えられた。いままた佐々木閑氏の『仏教哲学』のシリーズをネットで見ている。また此れは再読だが、梅原猛氏の『法然の哀しみ』を読むことにした。『平家物語』には法然の浄土思想が濃厚に入って居る。例えば「祇王」の中にそれがはっきり書かれてある、と梅原氏は書いていた。偶然の符合うと云うべきか、私は『平家物語』か『方丈記』の何れかをもう一度じっくり読みたいと思い、先日から『平家物語』を読み始めた。ところが今朝、梅原氏の言っていた「祇王」と云う項目があるではないか。私は一段と興味を抱いて読んで見た。

 

十数年の昔になるが、私は京都へ行ったとき、此の祇王姉妹と母ならびに仏御前の墓のある祇王寺を訪れた。都心を離れた嵯峨野の静かなところにあり、観光客は大部居たが、落ち着いた佇まいで清楚な感を受けた。狭くて石段が多くあり、楓の立木と庭一面の綺麗な苔は印象に残った。いまネットで写真を見てみると、あの時訪ねた状景が蘇る。

今回此の「祇王」を読んで見て、これは間違いなく哀れな実話だと思った。『平家物語』の「巻第一 祇王」に書かれている内容を概略してみよう。

 

清盛が天下を掌握し、世のそしりをも憚らず、人の嘲りをもかえりみず、好き勝手な事をしていた頃、都に祇王・祇女という白拍子の上手な姉妹が居た。彼女らは閉(とじ)という人の娘であった。清盛は姉の祇王を寵愛していたが、続いて妹の祇女も愛し、更に母親にも良い待遇を与えていた。京中の白拍子を舞う女達は、うらやんだり、ねたんだりして、「祇」という文字をつけたら彼女達のように幸せになれるのではと言うほどであった。こうして3年ばかり経ったとき、加賀の国の出で、仏(ほとけ)と云う白拍子の上手な少女が都で有名になった。年は16歳で、「昔よりおおくの白拍子ありしが、かかる舞はいまだ見ず」と言って京中でもてはやされ、本人自身も自信に満ちていた。或る日、「自分は天下に聞こえているが、太政大臣(清盛)に召されないのは残念だ」と言って、招かれないのに勝手に押しかけていった。すると清盛に、「何と云うことだ。招きもしないのに来るとは。さっさと出ていけ」と云われて、帰り掛けたのを見て、祇王が清盛に、「仏(ほとけ)御前(ごぜ)はまだ年端もいかぬ若い人です。たまたま思いきって来たのですから可哀想です。せめて舞いをご覧にならずとも、歌でも聴かれては」と云って呼び止めるようにお願いした。それではと云って舞いと歌を実演させた。そうすると一変に清盛は気に入り仏に心を移してしまった。仏はこれを知って清盛に「私は勝手に来ました。祇王様のお蔭でこうして寵愛を受けるようになりました。どうかお暇させて下さい」と云ったら、清盛は「遠慮はいらん。それなら祇王達をこそ出したらいい」と言った。

此を聞いて祇王は3年もの間の住み慣れたところを立ち去っていった。その際、忘れ形見にと思い、障子に一首の歌を書きつけた。

 

もえ出るも枯るるもおなじ野辺の草いずれか秋にあはではつべき

 

 歌の意味はそう難しくはないが、白拍子がこのような気の利いた歌を詠んだと言うことに、私は祇王が中々の教養の持ち主だと思う。「秋」に「飽きる」を懸け、ともに結局は入道清盛に飽き捨てられる運命にあることを暗示したものである。

後になってこの歌を読んだ仏が清盛のもとを密かに去って、探し探して祇王姉妹達のもとを訪ねるのである。その時仏は頭を剃って遁世の覚悟を決めていた。自分も何時かは飽きられて捨てられる事を、祇王の事実を目にして悟ったのである。

いずれの国、いつの世においても、絶対的な権力を手にした覇者は、火のように燃える情熱をもって欲しいものを手に入れるが、一度それに飽いたら冷然と捨て去るのである。当に冷酷無比の人物「つらら」なのである。

                           2021・1・11 記す

今年最後の日曜日

 

暦を見るまでもないが、今日12月27日は今年最後の日曜である。暦には「大安」と書いてあった。何か良いことでもあるかなと思った。これより数時間前、夜中と云っても午前3時に目が醒めたので、トイレに行きまだ起きるのは早いので又床に入った。眠れそうにないので次男がくれた電子書籍吉川英治の『私本・太平記を』を読んだ。これなら電気を消して暗くても画面が明るいから読める。その内眠気を催したので書籍の蓋を閉じて寝た。しばらく寝たのだろう再び目が醒めて時計を見たら6時前だった。少し寝過ぎたと思い直ぐ起きて顔を洗い、先日から読んでいる漱石の『文学論』読むことにした。次のような事を漱石は書いていた。

 

科学者が理性に訴へて黒白を争はんとするに引きかへて、文学者は生命の源泉たる感情の死命を制して之を擒にせんとす。科学者は法廷の裁判を司どるが如く、冷静なる宣告を與ふ。文学者は慈母の取計ひの如く理否の境を脱却して、知らぬ間に吾人の心を動かし来る。その方法は表向きならず、公沙汰ならずして、其の取捌きは裏面の消息と内部の生活なり。

これ等内部の機密は種々特別の手段によりて表出せらるるものにして、此等の手段を善用して其目的を達したる時、吾人は一種の幻惑を喚起してそこに文藝上の眞を発揮し得たりと称す。

 

 この後漱石は多数の実例を彼が読んだ物の中から引いて上記のことを説明している。一例を示すと、「新婚の楽しさを花に移して歌った」ものがある。

 

  今はばらの花の月です。結婚以来、私は到る所でばらを見うけます。ばらも、外のどの香のよい草花も、なぜか、私の眺めるところではどこでも、私を知っていて、お待ちしていましたとばかり私を迎えてくれるようにみえます。

        (ランドー『想像的対話〔レオフリックとゴダイヴァ〕』角野喜六訳)

 

この言葉を口にしたのは、新婚ほやほやのゴダイヴァという妙齢とも言える女性である。彼女はこのように領主である夫に向かって言うのであるが、そのあと領民が飢餓に苦しみ悩んでいる事を知り、夫に税の取り立てをやめるように訴える。夫は半ば冗談だろうが、「お前が素裸で馬に乗り街中を走ってきたら、お前の訴えを聞き届けてやる」と云ったので、彼女はそれを真っ昼間に実行する。チョコレートに彼女の名をつけて売られて居るのがある。購入者した人たちはこの故事を知って賞味しているだろうか。

このように、清純そのものとも言えるゴダイヴァ夫人が、自分たちの新婚の楽しみを、ばらや香りのよい草花にたとえて言った言葉である。漱石は多くの本を読み、その中から適切な文章を引用して学生に示した。しかしこの『文学論』は私には少々難しい、しかし惹きつけられる。

7時半まで読んで一休みしようと思い、ポットでお湯を沸かして抹茶を点て、家内の甥が送ってくれた最中があったので一服喫した。前にも書いたように私は同じ本を長く読むことが苦手である。そこで今度は『いまをどう生きるのか』とう本を取り上げた。これは臨済宗の僧侶の松原泰道師と作家の五木寛之氏の対談である。この本が出版されたとき松原師は101歳の高齢で、五木氏は私と同じ昭和7年生まれだから76歳だったであろう。いずれにしても老人同士の対談である。彼ら2人共、釈迦の仏跡を訪ねてインドへ行っているので、話がそれにまつわることが多く出ていた。

釈尊が最後に生まれ故郷のカピラバスツを目指して、400キロの道程をととぼとぼと、いや、よろよろと悪い道を歩いていかれたが、途中のクシナガラで亡くなられる。途中の村で鍛冶屋のチュンダという男が出した茸の料理で下痢をされて、菩提樹の下で息を引き取られた。そのとき釈尊は80歳で、今なら150歳くらいの超高齢である。これは有名な話で私も知っては居たが松原師は次のように云っている。

 

チュンダの出した料理で釈尊が体調を崩されたということはあきらかでしたから、おそらく外の弟子たちはチュンダを白眼視したと思うのです。「おまえがあげた料理のためにお師匠さんがこういう悲惨な死に方をなさるんだ」と。そのとき釈尊は木陰で泣いているチュンダをご覧になり、アーナンダをやって、「泣くことはない」と諭されるのです。

「おまえの料理を食べたから私は死ぬんじゃない。人間生まれた者は必ず死ぬ。これが因縁の法だ。だから、おまえの物をよしんば食べなくても私は外の縁で死ぬに決まっている。だからおまえのせいじゃない」

さらに釈尊はいいます。

「この年まで、思い出の供養が二つあった。一つはスジャータから乳粥をもらって元気をつけ、それによって悟りを開くことができた。もう一つはチュンダ、おまえのごちそうの供養だ。おまえによって、私はいつの日にか死ななきゃならないけれども、その自分が死ぬという重大な契機を、おまえが私に与えてくれたんだ。だからチュンダよ、嘆くことはない」

五木氏は松原師の後続けて言っている。

 そこからブッダは調子の悪いまま足を引きずりながら歩いて、ついにクシナガラのヒラニャヴァティ―河のほとりまでたどり着きます。そしてそこに二本並んでいる沙羅樹の間で倒れてしまう。そこがブッダ臨終の地となるわけですね。

 ブッダが横になると美しい花が天からふりそそぎ、天上から妙なる音楽が聞こえ、栴檀のかぐわしい香りがただよってきたといいます。

 

私はこれを読んで目頭が熱くなった。釈尊という人は本当に慈悲深く、心の優しい人であった。いわゆる涅槃図に画かれた臨終の姿そのままである。科学者はこのような状景を否定するだろう。しかし釈尊の弟子たちには実際にその様に見えたのではなかろうか。

このことに関連して私は次のことを改めて思った。実は昨年5月26日の朝、妻は高校時代の友人との集まりがあるので、昨年は足腰が痛いので欠席したが、今年はどうしても出席しなければと云って朝早く起きてきた。普通は起きるのが遅いので、「えらい早く起きたね」と私が声を掛けたら、「そうなのよ。今日は汽車に乗るのでよく寝ようと思ったら、小塚さんから長電話がかかって、それも一度切れたかと思ったら又掛かり、結局2時過ぎ頃まで話したのよ。」

妻がこのように話すので、それでなくても血圧が高くて大丈夫かなと心配した。時間が来たので妻を車で新山口駅まで送った。その日に限って私はプラットホームまで下りて行き、列車が来て妻が乗り込むまで一緒にいた。

「それでは行って来ます」

「帰りの時間がはっきりしたら知らせて呉れ。迎えに来るから」 

これが妻と取り交わした最後の言葉だった。そして翌日の真夜中、妻が倒れたという電話があり、急いで北九州市の門司の病院へ駆けつけた。深夜の病院は受付にだけ係員が一人いてひっそりしていた。看護婦さんに先導されて一室に入った。其処に見出したのは、ベッドに横たわり、死顔を白布で覆われた今は亡き妻の姿だった。

葬儀が終わり、数日して私は妻が書き続けていた日記を初めて読んでみた。亡くなる前の25日の日記に次のように書いていた。一部だけ書き写してみる。

 

 ゆっくり明日の準備をすればいいと思っていた所、小塚さんからの長電話で対応に追われる。(中略)しばらして又かかる。夜又かかる。いささか疲れたが下関行きの準備はできた。(後略)

 

私はこれを読んだ時、妻の死因の大きな一つが、深夜に及ぶ長電話だと思った。その時は電話を掛けてきた相手に腹が立った。しかし今はその気持ちは薄れた。妻が亡くなったのは、平成から令和へと年号が変った令和元年5月27日だった。今日はその日から丁度1年7ヶ月経ったことになる。その年の夏も終わり秋から冬にかけて、次第にコロナ感染が話題になり出した。私は妻の死を思い浮かべて歌を作った。それ迄こうした歌を詠むと云うことは殆どなかったが、次から次へと浮かんだ。いずれも拙いものであるが書きとめておいた。

 

  朝起きてああ疲れたと妻の云う 又電話かとわれ思うなり

  余りにも非常識なる長電話 妻の友から夜かかり来る

  相手のみ一方的に責められず おしゃべり好むは女の性(さが)か

  真夜中にかかりし友の長電話 妻の急死の一因ならん

 真夜中の異常に思える長電話 妻の日記の最後に記せり

 安らかに眠れる如き亡き妻の つめたき額(ひたい)わが手に残る

 後悔は先に立たずと今更に 妻を亡くして知るぞ悲しき

唐突に妻は逝けども今はただ 清(さや)けき心持ちたきものぞ

 数多く妻の写真は残れども 孫抱きたる笑顔美し

 我をおきて妻早々と旅立ちぬ 逆を思えばこれも良きかと

 食事後の楽しき語らい今はなく ただ黙々と食べ終らんか

 これからは独暮らしの身となれり 余命幾ばく無事願うのみ

 

時計を見ると8時半過ぎているので、読書は一端止めて神仏を拝み、朝食の支度をしようとしたら、「ピンポン」と呼び鈴が鳴った。出てみたら湯田氏だった。彼は県の労働商工部長の職を辞めて、84歳の今なお各方面で活躍中のようである。実は今月10日に一人の男性を我が家に連れてこられた。この人は県庁に勤務されていて土木関係の仕事をしていたとのことである。何故わざわざ来られたかというと、私が以前書いた『杏林の坂道』を読んで、是非私に会いたいとのことであった。彼は私より一つ年上で、小学生の時、阿武郡宇田郷村で過ごしたので、拙著に出てくる従兄を始め多くの人たちを知っているからとのことだった。そこで私は手元に一冊だけ残っていた本を貸した。それを湯田氏が全部コピーして彼に差し上げられたのである。私は湯田氏の親切に感心した。そこで拙著を戻しに来られたのである。その時湯田氏が毎月編集されている『かみひがし』いう広報誌の新年号くださった。それを見てみたら、私が湯田氏に頼まれて書いた記事が載っていた。

 

面会謝絶 

私の身内の一人の妻がやや認知のために施設に入っている。妻は何故夫が来て呉れないのかと不審に思っている。もう一人は、高齢で老人施設に入っているが、ここも家族との面会謝絶である。このままこうした状況が続いたら、最悪の場合家族に看取られずに死を迎える事になるかも知れない。これは人間として最大の悲劇である。 

私の妻は一昨年、コロナ騒動の前に急逝した。日頃、足腰の痛みを訴えていたから、寝たきり入院を恐れていた。これを思うと妻の死は不幸中の幸いかも知れない。

 

先の拙歌であるが、私は次のような歌も作っていた。

 

 寝た切りにならずに逝ける妻なれば これも良きかと独り慰む

昨日まで語りし妻の姿消え 無常ということひしと感ぜり

無常とは誰もが口にするけれど 容易に実感し難きことぞ

 

湯田氏が帰られて朝食を食べていたら、又呼び鈴が鳴った。出てみたら今度は先日湯田氏と一緒に見えた仁保氏で、本を読んだと云ってわざわざお礼の品を持って来られた。これには恐縮した。さらに夕方一人の女性の来訪を受けた。彼女とは山口に移り住んで以来親しくしている。萩で私が子供の時彼女の母親とよく遊んだ間柄である。長い間会っていなかったが、偶然山口で再会した。不思議な縁があるものである。彼女がわざわざお歳暮を持ってきてくれたので少し話した。その後直ぐに次男一家がちょっと寄って呉れた。今日は大安、何か良いことがあると予感した通りであった。今日は釈迦の晩年の事蹟について知り、老いると云うことも良いではないかと思った。

 

春夏の輝く季節を過ぎし今 秋と冬との静けさを知る

 

2020・12・27 記す

 

 

死に臨んで

 

令和二年の秋のある日、萩市の南端に位置する木間(こま)という山間部で、窯を築いて萩焼茶碗を作っていた友人から、何だか重い段ボール箱が送られて来た。開けて見ると中に九箇のマーマレードの缶詰と三冊の筺入りのしっかりした本と、筺に入っていない古ぼけた一冊の本、外に三冊の文庫本が入っていた。いずれも彼が所有していたもので、どれも私が読んでいないものだった。彼は最近になって視力が極端に悪くなって活字が読めないと云って居たので、少しばかりの見舞いをした事に対してお礼の気持ちで送って呉れたようである。彼と知り合うようになったのは不思議な縁による。私はそれまで彼の存在を全く知らなかった。日記を見ると、一九八六年に私が萩市にいた時だから今から三十四年前になる。東京で作家活動をして居た彼の兄が萩にちょっと帰省した。私は高校卒業以来三十数年振りに再会した。その時新聞紙に包んだものを拡げて、

「これは弟が作ったものだ」

と言って一個の萩焼抹茶茶碗を見せて呉れた。私は手に取ってみて、

「良くできているね。弟さんは萩焼作家か」と訊ねた。友人はその後数年して亡くなったが、最初に出版した『遠雷と怒濤と』がNHKの最初の「放送文化賞」を授与されテレビドラマ化された。ペンネームは湯郷将和と言っていた。もう少し生きていたらもっと名をなしただろうと思う。これが契機となって弟さん夫妻と付き合うようになった。彼は萩焼を製作する傍ら小説も書いていた。兄に似て中々の文才の持ち主でもあった。

私は贈本の礼に電話をした時、彼は次のように言った。

「医者に診て貰いましたが、もう活字は読めません。明暗が分かる程度です。是からは音楽を聴いたり、紙に大きな字で俳句でも書いて遊んでみます。残念ですが仕方有りません。しかし人間生きている限りは、何としても前向きで行かなければいけませんね」

私は彼の言葉に悲観的な面が少しもないのに感心し、是は見習うべきことだと思った。

 

人生に於いては不思議な出合いがある。私は長く高校に勤めていたので、接した生徒の数を入れたら、数百人いや数千人もの人と接したことになるだろう。しかし気心が合うというか、改まったいい方をすれば、人生観が同じような人に会うのは僅かの数である。人間にとってこういった人物と一人でも多く交わることができるのは幸せであろう。彼ら兄弟は私にとって最初から気が合う存在だった。

私はよく思うのだが、夫にとっては妻、妻にとって夫は、普通結婚するまではお互い未知の存在である。育った環境、学歴、それ以上に親から受け継いだ遺伝子は相当に違いがあるはずである。そういった違いを持つものが生涯を共にするのだから、自ら摩擦や意見の違いが生ずるのは自明のことである。その場合お互いの考え方と言うか人生観の違いが、許容できる範囲であれば、何とか結婚生活を維持できるのではないかと思う。しかし現在の若い男女は妥協も忍耐も少なく、折角結婚しても破鏡に至る事が非常に多い。 

或る日、この友人の家を妻と一緒に訪れたとき、彼が、

「結婚生活は忍耐と妥協ですね」と言った。

「そうですよ。忍耐と妥協がなかったら、如何して一緒におれますものですか」

と、彼の奥さんもすぐ続いて、半ば本気で笑いながら同調された。

彼は結婚後数年して家を出てその頃流行っていた「ボーリング」の競技場建設の現場監督をしながら、全国各地にある窯場を訪ねて回った。将来自分も窯を持って製作に当たろうと考えて居たようである。この考えを密かに抱いていたから、或る日ぶらっと家を出たと云った。こういう事があったので奥さんの言葉には実感がこもっていた。

 

私は今年五月妻の一周忌を終えて、漱石の全ての作品を再読しようと思い、小説だけは読み終えた。その中に『道草』と言う作品がある。周知のようにこの小説は、漱石がイギリスから帰国して一高と東大で教鞭を執っていた時代の事を、つぶさに書いたものだと言われている。当時漱石は経済的に非常に苦しい立場にいた。

ここで私にとって面白く思えるのは、彼と奥さんとの考え方の違いに基づく会話のやりとりである。漱石の言動は確かに精神的にいささか異常だと思えるが、彼はそのことを冷静に描写しているから不思議である。決して気が狂ってはいない。しかし奥さんを始め周囲の人から見たらどう考えても正常ではない。若し奥さんに生活力があれば子供を連れて離婚したかも知れないと思われるほどである。この事は漱石の死後出版された奥さんの口述による『漱石の思ひ出』に詳しく書かれている。

漱石は家庭内では暴力的振る舞いに至るような事があったが、彼の周辺に集まる友人や教え子たちとの交流は実に和気藹々としていて全く正常である。これを考えると、気心が合うという事が如何に人間関係を円満にするかが良く分かる。漱石にとって奥さんはさておき、気が合わないどころか、相手にして気分が悪くなる人物がいる。それは彼の幼いときの養父母で、数十年振りに再会した彼らのことを作品に書いている。彼らは執拗に漱石に経済的援助を求めてくる。彼らを貪欲というか吝嗇の見本のように漱石は描いている。漱石がこのような養父母の下に養子に出されたということが、これまた彼が実の父親に疎(うと)まれていた結果で、こういった事を考えると、つくづく人間の運命というものを感ずる。

若し漱石のような境遇に生い立ったなら、誰しもひねくれて社会を敵視してて行動してもおかしくはない。私は漱石の晩年の漢詩を読み、其処に彼の言う『則天去私』の考えを知って、漱石がそういった事態を克服しようとした努力を察する事が出来た。漱石は絶筆となった『明暗』を午前中に執筆し、そのために「大いに俗了された心持ち」になったのを洗い浄めるために、午後は漢詩を作ったと言っている。漱石漢詩を読むと、彼がいまや死に臨んで、ある程度心の平安を得たようだと思われる。

 

大正二年十一月二十日夜 『無題』という漢詩漱石は最後に作っている。彼はこの詩を作ったあと、胃潰瘍の発作で病床に臥し、それが死の床となった。

 

漱石が晩年に志向した『則天去私』のイメージが、まことに鮮明に表現されて、漱石文学の精髄といっても決して誇張ではないと思う」と佐古純一郎はこの詩について述べている。当にそうだと私にも思われる。佐古氏によるこの漢詩の「読み下し文」と【通釈】を書き写してみよう。 

 

 真蹤(しんしょう)寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難く

虚懐を抱いて 古今に歩まんと欲す

碧水碧山 何ぞ我(が)あらんや

蓋(がい)天蓋地(てんがいち) 是れ無心

依(い)稀(き)たる暮色 月 草を離れ

錯落(さくらく)たる秋声 風 林に在り

眼(げん)耳(に)双つながら忘じて 身(しん)亦た失し

空中に独り唱う 白雲の吟  

 

【通釈】 森羅万象の真実の相は、ひっそりとして静寂であり、まことに深遠で容易に知る事はできない。自分はなんとかして私心を去って真理を得ようと、東西古今の道を探ねて生きてきたことである。一体、この大自然にはちっぽけな「我」などないし、仰ぎみる天や附してみる地は、ただ無心そのものである。

自分の人生の終を象徴するかのように暮れようとする黄昏(たそがれ)どき、無心の月が草原を照らし、吹きわたる秋風が林の中を通り抜けていく。この人生の最期に立って、もはや自分は小さい我の欲望や感覚を越え、自らの存在すらも無にひとしいように感じるのだが、そのような心境で空を飛ぶ純白のあの雲のような自由さに想をよせて、自分の「白雲の吟」を唱うのである。            (『漱石詩集全釈』より)

 

話が逸れたが、先の友人が送ってくれた本の中に、山田風太郎著『人間臨終図巻 上下』の二冊があった。この本は日本人を含めて世界の有名人の臨終の様子を年齢別に書いたもので、私自身老境に達しているから、面白いと思うと同時に、著者が良くもこれほど多くの人物の、臨終に関する文献を集めたものだと、感心だと思う以上に驚嘆した。私はぱらぱらと目を通しただけでも、何れの人物の臨終の様子も考えさせられるものがあった。

その後私はこの上下冊の本を気の向くままに読んでみた。そこで知ったのは、政治家、軍人、学者、あるいは文学者、芸術家等々、実に多くの有名人の名前が出て来た。名前だけは知っているのが多くあったが、彼らが何歳のとき、どうような死に方をしたかという事を、この本を読んで初めて知った。実に面白い本だと思った。

考えてみると、個々の人間は、如何なる時代に、何処の国で、どんな家庭のもとに生まれてくるかは、本人にあっては全て預かり知らないことである。しかしその後の人生において、一つの大きな要因、つまり人との出合いといった事、是を運命と言えば、この偶然と思える運命に大きく影響を受けながらも、ある程度自己の意思を働かせて生涯を送る。一国の覇者として君臨した者もおれば、好き放題に我(が)を通して生きた者もおる。あるいは孜々として学術・芸道一筋に一生を送った者もいる。また国のため人のために命を捧げた人もいる。実に千差万別、かくも違った生き方、死に方をしたものかと今更ながら驚いた。しかし結局は誰も皆死という必然に立ち向かう。その時、この本を見てみると、殆どの者が病に苦しみながら息を引き取っている。生前如何に華々しく活躍して名を残した人たちも、是を読むと気の毒だと思う以上に、哀れで悲しい気持ちになる。「因果応報」という言葉さえ頭に浮かぶ。更に云えば、事故死もあれば殺害された者もいる。あるいは自殺した人も結構多く載っていた。死に臨んで従容と息を引き取った人、いわゆる大往生を遂げた人はほんの一握りあるかないかだということを強く知った。その希有な人物の一人、山岡鉄舟の事が書いてあったので引用してみよう。

 

  山岡鉄舟 (一八三六―一八八八)

 

 ふだんから晩酌一升を欠かさなかった鉄舟は、明治十九年ごろからついに胃病になり、二十年夏には左脇腹に大きなしこりを生じ、胃ガンと診断された。翌年二月からまったく流動食となり、七月にはいって病勢とみにあらたまった。

七月十八日の夜、ひとり厠から戻って来た鉄舟は、「今夜の痛みは少しちがっている」といった。主治医の往診により、胃穿孔のために急性腹膜炎を起こしていることが明らかとなった。惨烈きわまる痛みがあるはずなのに、鉄舟は横臥せず、ふとんにもたれて坐禅をくんでいた。

十九日の払暁になって、やっと「腹いたやくるしき中に明けがらす」と辞世の句を詠んだ。そして午前九時十五分、門人たちの歔欷(きょき)の中に、手に団扇を握り、坐禅を組んだ姿のままの大往生をとげた。 

二十二日の葬儀は篠(しの)つくばかりの大雨の中で行われたが、会葬者は五千人に及んだ。かってのボロ鐵も最後は子爵であった。

 

大抵の者なら、このような状態にあれば痛みに耐えがたく、喚き叫び悶え苦しむであろう。私は鉄舟の日頃からの心身の鍛錬による精神の強さに感服した。私は令和二年三月一日に、硫黄島で戦死した従兄のことを書いて、『硫黄島の奇跡』と題して文庫本で出版した。山田風太郎のこの本を読んでいたら、同じ硫黄島で戦死した西 竹一の事が出ていたので、これも引用させてもらおう。

 

         西 竹一 (一九〇二―一九四五)

 

 男爵西徳二郎の子として生まれ、陸軍騎兵科にはいり、昭和七年八月のオリンピック・ロスアンゼルス大会の馬術競技で金メダルをとり、「バロン西」として有名をはせた西竹一は、昭和十九年七月、中佐として硫黄島に派遣された。

アメリカ軍来襲にそなえての陣地構築の凄じい苦役の中でも、彼は生来の天衣無縫の明るさと気品を失わなかったといわれる。昭和二十年二月十六日ついにアメリカ艦隊の来攻を受けて死闘一ヶ月余、彼が戦死したのは三月二十一日であったと推定される。

のちにこのときアメリカ軍が拡声器で「バロン西、オリンピックの英雄バロン西」と呼びかけて降伏をすすめたが、西は一笑に付して応じなかった、という「伝説」が生じた。しかし彼の最期の様相は明らかでない。

戦後二十余年たって、硫黄島から、硫黄で風化した英国製の拍車つきの長靴が発見されたいうニュースが伝えられたとき、未亡人の西武子は、即座に「それは主人のものです」といった。

 

私はこの記事を読んで、硫黄島の洞穴の中で発見された『従軍手帳』に従兄が書いている最期の文章を思い出した。

 

 今夜ハ斬込ミ隊モ我ガ隊ヨリ出ルトノ事ナリ 恩賜ノ煙草兵ニワタリ下級品若干ワタル夜ハ近来ニナク静カナリサレド時折照明弾、焼イ弾艦砲飛ビ黄燐燃ユ 状況ハ極メテ我ニ不利 四月頃守ル事ガ出来ルダロウカ 兵ノ士気ハ平素ト変リナシ 各兵内に覚悟ヲ秘メ平静ニシテテ静カナリ

不思議ナホド静カナ夜 故郷ノ我ガ家新聞ラジオ等ヨリ定メシ心配致シオル事ナラント思フ 兵等口々ニ言フ、名モナキ戦線ニテ死スヨリ主戦場硫黄島ニテ玉砕センハ幸ナリト 小サイ声ニテ軍歌ヲ唄フ

 

人類が最初に地球上に現れてから、数え切れないほどの人が生まれてそして死んでいった。偉い人も平凡な人間も、「生老病死」の言葉通り、殆ど全ての人間が労苦を伴う一生を送ったのではなかろうか。私は妻に先立たれて人間の死についてよく考えるようになった。

 

私は令和二年二月二十五日に八十八歳の誕生日を迎えたので、これを機会に運転を止めようと決めて警察署へ行った。その後半年経って自転車を買った。しかし食料の買い出しは我が家のすぐ前のスーパーを利用するから自転車に乗る必要はない。十月のある天気の良い日、少し離れた所にあり本屋まで自転車に乗って行ってみた。店頭に宮城谷昌光著『孔丘』の新刊を見つけたので購入した。私は『漱石全集』を毎朝読んでいるが、この本も少しづつ読んでやっと一ヶ月経って読み終えた。

本の「あとがき」に著者は次のように書いている。

「『論語』は、おもに孔子と門弟の発言が綴集(ていしゅう)されているだけで、そういう発言(あるいは問答)がなされた時と所がほとんど明示されていない。」

 

戦後七十五年になる。昭和十九年に県立萩中学校に入って初めて英語と漢文の授業があった。その時『論語』の中に出てくる孔子の言葉を習った。そういえば是等の言葉を孔子が何時、何処で語ったかは教わらなかった。今この宮城谷氏の本を読んで、孔子が何歳の時、如何なる状況の下で誰に語ったかを知る事が出来た。例えば次の孔子が弟子の子路に語ったという有名な言葉など、多くの言葉の由来が分かった。

 

「なんじは、どうしていわなかったのか。その人となりは、発憤すると食事を忘れ、楽しめば憂いを忘れ、老いがまもなくやってくることに、気づかない、ということを」

 

宮城谷氏はこのようにも言っている。

 

五十代に、いちど、-孔子を小説に書けないか、とおもい、資料を蒐め、文献を読み、孔子年表を作った。それらの根を詰(つ)めた作業を終えたあと、残念なことに、孔子を小説にするのはむりだ、とあきらめた。六十代になって、ほんとうに孔子を書くのはむりなのか、と再考して、すでに整えた資料にあたってみたところ。-やはり、むりだ。

 

著者は「あとがき」の最後に、「なにはともあれ、この小説は、孔子が母を埋葬するところから起筆したが、私はその直前に母を喪った。」

 

この時宮城谷氏は七十五歳である。彼は遂に七十歳の半ばになって孔子を主人公とした小説『孔丘』を書き終えたのである。此の點から考えて、私はこの本に出ている孔子の言葉が、何時、何処で発せられたかということを知った。孔子は七十三歳で死んだ。その年に彼が残した言葉をここに書き写して、長々と書いた拙稿を終えることとしよう。

 

 泰山はそれ頽(くず)れんか

 梁(りょう)木(ぼく)はそれ壊(やぶ)れんか

 哲人はそれ萎(や)まんか

        

泰山は多くの人に仰がれる名山である。梁は家のはりで、それにつかう木は暗に人材を指していよう。哲人はいうまでもなく孔丘自身をいっている。(中略)

この日から病んだ孔丘は七日後に亡くなった。七十三歳であった。

十五歳で、学に志した孔丘は、休んだことがない。この死は、孔丘の生涯における最初の休息であった。

                          令和二年十一月十四日 記す