yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

惜しむ可し

 

天気予報によれば「明朝は相当冷え込」とのことで、覚悟して昨夜床に就いた。今朝目が醒めたのは丁度4時だった。室内の寒暖計は10度を示していた。確かに寒さを感じた。昨日一昨日と続けて、起きたとき室内は17度もあったからである。戸を開けて外を見たらまだ真っ暗闇で、雪は降っていないようであった。天気予報では西日本はところによって大雪になるとも云って居たが、まだその気配はなさそうだ。その後8時に外に出てみたら、玄関の屋根だけが薄らと白くなっていたから、確かに降雪があったのは間違いない。

冬季に入って私は何時もいる居間を寝室に兼用しているので、朝起きてもぬくもりが残っている。外の全ての部屋とは格段に温度差がある。今朝なんか摂氏2・3度といったところだと思う。洗面所に立ち冷たい水で顔を洗い、ついでに電気カミソリで髭も剃った。髭は夜中より朝起きてしばらくして伸びるような気がする、だからもう少ししてから剃った方がよいのだが、思い切ってカミソリを充てた。

何時もそうだが、昨夜も入浴後直ぐに就寝したので夜中に起きることなく、4時までぐっすり寝たから睡眠は充分足りている。床を上げ、その場に薄い毛布を敷き、その上に座布団を置いて尻を据えた。そうして私は『硝子戸の中』を読んだ。

私はこれまで「硝子戸の中(なか)」と思っていたが、此の文章に漱石自身「硝子戸の中(うち)」とフリガナを付けて題名にしているのに今日初めて気が付いた。今まで長い間漠然と「中(なか)」と読んでいたと思うと、実に迂闊だった。ただ単に字面に目をやり、話の筋だけを追うような読み方では、往々にしてこうしたミスを生ずるのではないかと思った。

しかし私は漱石が別にこだわっては居ないことに気が付いた。此の作品は「三十九」で終わっている。ここに漱石は次の様にフリガナをほどこしていた。私は「なーんだ」と思った。

 

「毎日硝子戸の中(なか)に坐ってゐた私は、まだ冬だ冬だと思ってゐるうちに春は何時しか私の心を蕩揺(たうえう)し始めたのである。」

 

漱石が此の最後の文章を書いたのが大正4年2月24日である。私は「三十三」を読んで、漱石が他人に対して如何に対処してきたかを、色々と考察した内容なので考えさせられた。この連載が終わった後、彼は『道草』を、さらに絶筆となった『明暗』を新聞紙上に掲載して、大正5年12月9日に永眠した。満で49歳だった。

彼は午前中『明暗』を執筆し、午後は漢詩を作って楽しんでいたようである。

 

私が一昨日まで読んでいたのは、『思ひ出す事など』である。明治44年漱石修善寺温泉に転地療養に赴いたのに、病状が悪化して吐血し30分間も人事不省になった。その後帰京して長与胃腸病院に入院し、回復するまで40日以上入院生活を続けている。修善寺に居た時も帰ってから入院中も、彼は俳句や漢詩を作っている。死に直面して漱石は一段と心境を深めたのである。その時の体験を彼は退院後、朝日新聞に『思ひ出す事など』の題名で連載した。

先にも述べたように、その後彼は『彼岸過迄』、『行人』、『こころ』と連載を続け、さらに『硝子戸の中』、『道草』と新聞に掲載している。

私は『明暗』までの小説を皆読んだが、小説ではなくて『硝子戸の中』を読もうと思ったのは、漱石の日常生活の実態をよりよく知りたいと思ったからである。この作品は大正4年、漱石が亡くなる前の年に書いたもので、今云ったように、この後『明暗』を書きその途中で彼は亡くなった。

硝子戸の中』には彼の子供時代や青年時代の事が多く書かれているが、私には先に読んだ『思ひ出す事など』の方がこれより興味を惹き心に響くものがあった。これは漱石が生死の問題を真剣に考えて書いた文章が載っているからである。此の文章は今はさておき、私はもう一度漱石漢詩を読んで見たく思った。

 漱石は『文学論』の「序」でこう云っている。

 

「余は少時好んで漢籍を學びたり。之を學ぶ事短きに關らず、文學は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左國史漢より得たり・・・」

 

この「序」は可なり長いものだが実に名文である。漱石が大学で行った講義を纏めて出版するに当たり、此の序文を彼は気概を込めて書いたのである。明治39年の出版である。此処に「少時」とあるのは彼が明治14・5年頃、二松学舎で漢学の勉強をして居る事を指している。

話が逸れたが、そこで私は『漱石全集』にある吉川幸次郎博士訳注の『漢詩文』の「漱石漢詩」を改めて読んでみることにした。同時に佐古純一郎著『漱石詩集全釈』も参考にすることにした。

漱石詩集』に載っている最初の漢詩は彼が明治22年11月に作ったものである。漱石慶應3年(1867)に生まれている。その翌年の慶應4年が明治元年だから、満年齢で数えたら漱石の場合、明治の年数と彼の年齢は一致するから覚えやすい。各種の漱石全集によって違いがあるが、年号と同時に書かれている数字で彼の満年齢か数え歳なのかは分かる。

さて、最初の漢詩はつぎのようなものである。

 

   山路観楓      

 

 石苔沐雨滑難攀  石(せき)苔(たい) 雨に沐(もく)し 滑りて攀(よ)じ難し 

渡水穿林往又還  水を渡り林を穿(うが)ち 往きて又還る 

處處鹿聲尋不得  処処の鹿声(ろくせい) 尋ね得ず 

白雲紅葉満千山  白雲 紅葉 千山に満つ

 

 吉川博士の「訳注」に、「詩形は近体の七言絶句」であると先ず説明してあった。語句の注釈で、「沐」は髪の毛を洗う。「石苔」を擬人化しての語、とあった。漱石が数えの23歳の作である。続けて幾つかの漢詩を読んでいると次の「五言律詩」があった。

 

  飄然辭故國  飄然として故国を辞し

来宿葦湖湄  来たりて宿す芦(い)湖(こ)の湄(び)

排悶何須酒  悶を排する 何ぞ酒を須(もち)いん

遣閑只有詩  閑を遣(や)るは 只詩有り

古關秋至早  古関 秋至ること早く

廢道馬往遅  廃道馬往くこと遅し

一夜征人夢  一夜征人の夢

無端落柳枝  無端(むたん) 柳(りゅう)枝(し)に落つ

 

此の詩は漱石が当時女性問題か何かで、鬱々たる思いを抱いて箱根温泉へ行ったとき作ったもの様である。「故国」はこの場合「東京」を意味する。「湄」は「ほとり」「水際」、

「排悶」は「憂さ晴らし」、「征人」は「旅人」、「無端」は「ゆくりなくも どうしたわけか」、「柳枝」は佐古氏の注釈には「柳の枝を手折ってくれた人」とある。

 先ず此の詩で注目すべきは最後の言葉である。

吉川博士は、「柳枝―もとよりやなぎのえだだが、それを歌った詩には、恋に関係したものが多い。憶測をたくましくすれば、当時の先生には、恋人があり、箱根の夢にも現れたのかも知れぬ。」

一方、佐古氏は此処を「旅寝の一夜にゆくりなくも、見送ってくれた人を夢見た」と訳し、さらに「補説」として、「柳枝は、昔、漢代に長安の人が客を送って覇橋に至り、柳の枝を手折って別れたという故事によっている。また、柳枝は韓退之や白居易の詩にみられるように、美人を柳枝にたとえることもある」と云っている。

 これだけの説明を読んでも、漱石が如何に漢詩を若いときに勉強したかが分かる。私がこの詩で特に興味を覚えた語句は「閑を遣るは 只詩有り」である。

吉川博士はこう注している。「遣閑―ひまをつぶす。以上二句、杜甫「可惜」の詩、「心を寛(ゆる)うするは応に是れ酒なるべく、興を遣るは詩に過ぐるは莫し」をふまえつつ、上の句では、酒にたよらなくても悶えを排斥し得ると、ひっくりかえした。「排悶」の二字も、杜甫の別の五律「江亭」の語。

 

私は妻を亡くし急に一人暮らしになって「閑を遣る」立場になったから、如何に閑を遣る、つまり余生を如何に過ごすべきかと考えていたとき、この言葉が目に入った。

なお吉川博士は「漱石」とは書かずに「先生」と書いている。この碩学が自らをへりくだって、「先生」と云っているのは、漱石漢詩を高く評価しているからだと私は思った。

 私はついでに博士が挙げた杜甫の詩を見てみた。『唐詩選』には載っていないが、『中國詩人選集 杜甫上』に見つかった。

 

可惜    惜(お)しむ可(べ)し

 

花飛有底急    花の飛ぶこと底(なん)の急か有る

老去願春遅    老い去(ゆ)けば春の遅きを願う

可惜歓娯地    惜しむ可し 歓娯の地

都非少壮時    都(す)べて少壮の時に非(あら)ざるを

寛心應是酒    心を寛(ゆる)うするは応(まさ)に是れ酒なるべく

遣興莫過詩    興を遣(や)るは詩に過ぐるは莫し

此意陶潜解    此の意 陶潜のみ解す

吾生後汝期    吾が生 汝の期(き)に後(おく)れたり

 

黒川洋一氏は此の詩を以下のように訳していた。

 

なぜかかくもあわただしく花は飛び散っていくのか、年老いてゆく身は春の歩みの遅いことを願っているのに。

自分もおりおりは歓楽の席につらなる身になったが、どの席ももはや少壮の時でないことを残念に思う。心をくつろげるものとしては酒がよかろうし、興をはらすものとしては詩にこすものはない。

陶潜よ、私のこのきもちはあなただけが理解してくれよう、だが私の生まれたのがあなたより遅かったのは残念だ。

 

私はついでのことにと、陶淵明の詩集を繙いてみた。果たして『飲酒 二十首并序』に次の文章が見つかった。少し長いが転写してみよう。原文は省くが一海知義氏の訳を書き写してみよう。

 

 余(わ)れ間居(かんきょ)して歓(たの)しみ寡(すくな)く、兼(くお)うるに此(このご)ろ夜已に長し。偶(たま)たま名酒あれば、夕(ゆうべ)として飲まざる無し。影を顧みて独り尽くし、忽焉(こつえん)として復た酔う。既に酔いし後には、輒(つね)に数句を題して自ずから娯しむ。紙墨遂(か)くて多く、辞(ことば)に詮(せん)次(じ)なきも、聊(いささ)か故人に命じてこれを書せしめ、以て歓笑と為さん爾(のみ)。

 

私は世間と没交渉の生活をしていて楽しみもすくなく、しかもこの頃は夜が長くなってきた。たまたま名酒が手には入ったので、飲まぬ夜とてない。自分の影を見やりつつ独りで飲みほしていると、たちまち酔いがまわって来る。酔うたあとでは、いつも二三の詩句を書きつけて独り楽しむのだ。このようにして紙や墨はやたらたくさんつかったものの、出来た詩のことばに前後の脈絡もない。が、まあまあとにかくなじみの者にたのんで写してもらい、なぐさめとしようというだけのことさ。

 

「暇つぶしには詩がある」と云う言葉を知って、作詩は出来ないが、これまでとは多少違った気持ちで漢詩を読んで見たく思い、差しあたり『漱石詩集』を取り上げたのである。私の場合、ささやかながら独酌も楽しむことも出来たらと思うのである。しかしこうした生活をいつまで続けることが出来ようか。日々老いていく。今はただ健康でありたいと思うだけである。

 昨日此の拙文を書き始め、今朝早く起きて書き終えた。外に出てみると手水鉢に薄く氷が張っていた。昼からは暖かくなるとのことだから、入院中の従兄の見舞いに行ってみよう。彼も妻を亡くし無聊を託っていることだろうから。

                        2020・2・19 記す