落ち葉
今年も今日で終わり、明日から師走に入る。十二月は極月(ごくげつ)ともいう。居間の柱に掛けてあるカレンダーに目をやった。毎年萩のお寺から壁掛け用の細長いこのカレンダーをもらう。月毎にふさわしい気の利いた言葉や俳句などが書かれていて、それに英訳がそえてある。日本文とその英訳を比べて、上手い訳だなと感心することもあれば、これでは日本語の持つ感じとは少し異なるなと思ったりもする。今月は次の俳句と下に英訳が載っていた。誰の句かは判らない。
はらはらと無常を告げる落ち葉かな
As autumn leaves fall,so nothing lasts forever.
「無常を告げる」という言葉には落ち葉を人格化した暖かみが感じられる。一方英訳は理屈っぽい気がする。あえて直訳してみると「秋の木の葉が落ちるように、何一つとして永久に続くものはない」。これでは文章に味がない。拙訳のためばかりではあるまい。また英訳では「はらはらと」という風に吹かれて散る様子を示す擬声語がない。この句ではこの言葉が効いているとわたしは思う。
萩から山口に移って今年でちょうど二十年になる。十年一昔と云うが、二十年経てば生まれた子が成人式を迎えるのだから、つくづく年月の早い流れを感じる。今年になって例年になく気づいたのは、見事に紅葉した街路樹とその落葉である。欅、銀杏、楓と書くと堅苦しいが、けやき、いちょう、かえでと綴ると、「さらさら」とか「はらはら」と散るこうした木々に似つかわしいかも知れない。
ここでわたしはふと文学作品に現れたこの「落葉」についてちょっと見てみようと思い、二冊の本を書架から下ろした。二冊と云ってもいずれも分冊である。
一つはR・H Blyth著『HAIKU』(北星堂書店)の中の第四巻「秋と冬」で、もう一冊は『英語歳時記』全五巻(研究社)の中の一冊「秋」である。
前者は大学時代の恩師の蔵書だったが亡くなられて後に頂いた。先生は禅関係の文書の
研究・英訳をされていたので、このブライス教授の『俳句』も参考にしておられたかと思う。わたしは折角頂戴したので今回全四巻を通読して、イギリス人の著者が、自然に対する情趣の豊かな人だと感心した。
この本では俳句をまず挙げ、それに関連した東西の文献を参考として援用し、縦横適切に解説したもので、じっくり読めば非常に示唆に富むものだと思う。全部英文で書かれているが、俳句だけはそのまま日本語が載せてあるから助かる。
それでは「落葉」の項をみてみよう。
焚くほどは風がもてくる落葉かな 良寛
The wind brings
Enough of fallen leaves
To make a fire.
この句に関して、「これはキリストの言葉を唯一、真実に意味したものである」として、ブライス教授は聖書の言葉を引用しておられる。
空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。きょうあっても、あすは
炉に投げこまれる野の草さへ、これほど装ってくださるのだ、ましてあなたがたに、よくしてくださらない訳がありましょうか。信仰の薄い人たち。
これは福音書マタイ伝にある言葉である。教授はカトリックの神父でもあるから、キリストの言葉を引き合いに出されたのであろう。しかしここに詠う良寛は果たしてそのようなこと、つまり信仰心を詠ったとは思えない。彼は焚き火をしていたら火が消えかけたが、風が吹いて木の葉が落ちてきたので集めてそれをくべた。おかげでまた火の勢いが盛んになってありがたい。まあ、このような全く無心の気持ちを一片の句にしたのではなかろうか。
次に一茶の句が挙げてある。句の英訳は省く。
猫の子のちょいと押へる木葉哉
「木の葉が飛び散りかけると子猫が前足をひょいと伸ばしてそれをちょっとの間
押さえ一二度軽く叩いたりして放す。この句は言うなれば一茶の他の句にも繋がる。」と云って次の句が挙げてある。
門畠や猫をじゃらして飛ぶ木の葉
ここでは落ち葉の方が子猫を誘惑して面白がっているようだ。視点を全く変えた一茶の遊び心が感じられる。
木枯らしが吹くと市中の街路に木の葉が舞い落ち、吹きだまりには堆(うずたか)く溜まっている。もう市民は風の吹くままに当分手をこまねいている感じである。
掃きけるが遂には掃かず落葉かな 太祇
ブライス氏は「冬の初めには我々は落ち葉を楽しみながら、また意識して掃き清める。しかし次から次へと多くなると自然はもうわれわれの手には負えない。われわれは降参する。そして詩人が言うように“自然が君臨する”のだ。旧山口駅通りはまさにその感がある。
今度は『英語歳時記』を開いてみよう。索引に「落葉」とあった。そのページを開いたら次の詩が載っていた。英文とそれの訳文が載せてある。
老人は秋の落葉を燃やしながら
冬をひかえて中庭をかきよせる
彼らには命がない どちらだって
木の葉は死んでいる 老人の命は
木の葉さながらはかなくあえないもの。
この詩の作者はマクリーシュというアメリカの詩人で、1892年生まれ。ルーズベルトの信任厚く国会図書館長や国務次官補など歴任し、戦後はユネスコのために尽力していたと『研究社英米文学事典』に記載されている。
彼は「老人の命は木の葉さながらにはかなくあえないものだ」と詠って、人の命も死んだら枯れ葉と同じだと考えている。死後の世界など全く眼中にない。英文は終わりの二行が「L」の頭韻を踏んでいるので読むと調子は良いが侘しく寂しい詩である。
The leaves are dead, the old men live
Only a little, light as a leaf.
やはり詩は意味だけではなく、読んでみて韻を踏み口調を楽しむべきだろう。最後にイギリスの詩人トーマス・モア(1870~1944)の詩を見てみることにする。
私のまわりのあんなにも心の結ばれ合っていた
友人たちが
冬空の木の葉のようにみんな散って行ったのを
思い出すとき
私は灯りが消え、
花輪もしおれて、
人ひとり
いなくなった
宴の間に、ただひとり取り残されて、
歩いている人間のような感じがする。
モアの詩は「古風な調子で、感情の激しさはないが親しみの深いものである」と上記の辞典に載っていた。
今年も残り少なくなった。例年通り、「喪中に付き」の葉書が舞い込んでくる。老人が亡くなるのは自然だが、定年退職したばかりのような人の死は気の毒でならない。去年・今年と教え子が二人続いて亡くなった。まだまだこれからの人生、もっと生きて社会のため、家族のために働きたかったであろう。さぞかし心残りであったろう。残念でならない。
最後にヴェルレヌ作・上田敏の名訳「落葉」を誦しつつ、心から冥福を祈って筆を擱くことにする。
秋の日の
ビオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
過ぎし日の
おもひでや
げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな
追記 不思議な事があるものだ。妻が高校時代の仲良しグループとの一泊旅行に行くというので、新山口駅まで車で送って行ったが、その日に限って駅頭で別れるのではなく、プラットホームまで降りて列車が来たので、「明日又来るから時間を知らせてくれ」と言って別れたのが永遠の別れとなった。
葬儀を無事に済ませ一週間ばかり経ったとき、昨年末に書いたこの文章の原稿がやっと届いた。「落ち葉」と題した拙い文である。はらはらと枯れ葉が舞い落ちるようではなく、葉末に宿った朝露がぽたりと落ちるが如くあっけない死である。しかし安らかな死に顔を見せて呉れていた。
知人や教え子たちの死を悼む文章が、図らずも妻をも悼む文章になってしまった。
令和元年 六月五日 記す