yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

思い出す事など

        その一 小さな英雄

 

来年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』との関連か、運動場の整備などしているここ萩市立明倫尋常高等小学校は、旧萩藩「明倫館」の跡地に建てられたもので、木造二階建の本館棟と並行して、同じような三棟の校舎が堂々と立ち並んでいる。二〇一四年三月発行の『萩ネットワーク』を読むと、此の校舎は「昭和10年に建築されたもので、全国的にもこのような昭和初期の大規模木造建造物が市街地に残っている事は稀であり、歴史的-景観的にも大きな価値がある」とある。

私がこの小学校に入学したのは昭和十三年だから、建造されてまだ三年しか経っていないのだが、別に新しい校舎だったという記憶はない。掃除の時間、クラスの者たちと一列に並び、教室や廊下の雑巾がけをした事は覚えている。

さらに『ネットワーク』の記事を読むと、本館棟は、国の登録有形文化財に指定されているが、建築から七十八年が経過したことにより老朽化が進んでいる。従って、小学校は旧萩商業高等学校跡へ移転し、木造校舎四棟は保存活用する、とある。

小学入学時に撮った写真が一枚だけ手元にある。小学校時代の思い出となる卒業アルバムなどはない。これを見ると、本館の玄関をバックにして、向かって左側の前面に男の子が二十人ほど三列に並び、右側にも同じように女の子が十九人並び、児童の後ろに数人の先生と母親達が写っている。この他に写真の右上に二人の女の子と母親が別枠として写っている。私は「一年忠組」で、全部で四十一人だったことが分かる。各学年の教室名に儒教の徳目が付けられていた。すなわち忠組、孝組、仁組、義組、 禮組という風に。当時は何とも思わなかったが、今考えるとやはり藩校の名残だろう。中央に久芳庄二郎校長と担任の下井美子先生が座っておられる。私は最前列に腰掛けて、黒いサージの制服を着て、半ズボンの膝小僧の上に両手を置いて畏まっている。

もう七十五年も昔でのことである。男子の顔と名前は半分以上一致するが、女子の顔を見て名前が思い出せるのは一人だけだ。彼女は別枠で写っていた二人の中の一人である。色白で引き締まった賢そうな顔をしていた。私がこの女の子の名前を覚えているのは、彼女の父親が私の父と同じ萩商業の教師であって、ある日、父の自転車の荷台に乗って、春日神社の直ぐ隣にあった彼女の家へ行ったとき、父の用が済むまで家の外で待っていると、彼女が母親と一緒に出てきた。そのときの彼女の様子を今でも朧に描き出すことができるからであろう。

当時は「男女七歳にして席を同じうせず」といった教育方針に従い、小学校三年生の時からは男女別学になった。したがって教室内で女の子とあまり話をしなかったし、学校を離れても同様だった。母が早く亡くなっていたので、叔母が入学式に付き添ってくれた。その帰りがけに新校舎の軒下に植えられた竜舌蘭が、色鮮やかに青々と並び生えていたのも微かに覚えている。また入学後の事だが、「水練池」に大きい真四角な桟板を数枚浮かべ、それらの上で数人の上級生が、箒を手にしてバランスよく遊んでいたのを見て、危険な事をしているなと思った。藩校時代この池で、水泳や水中での騎馬の練習が行われていて、水練池としては全国で唯一の遺跡だと云われている。昔は今より水深があったものと思われる。最近はこのような遊びは厳禁だろう。

 

さて、話は飛ぶが六年生になった時の事である。図画・工作の授業は、上述の木造校舎ではなく、運動場の北側に建っていた平屋の粗末な青年学校の校舎で行われた。この校舎の中の一教室が私たちの工作の教場で、そこには頑丈な厚い板で出来た卓球台のような工作用の大きな机が幾つか据えてあった。私たちはその周りに腰掛けて作業した。一合枡くらいの削り易い角材を与えられ、兎を彫るようにと言われた。先生が上手に出来た手本を示された。私たちはそれを見ながら小刀を一生懸命に動かした。木屑ばかり床にこぼれ落ちるが、なかなか思うような形にはならなかった。今の小学生は勿論のこと中学生でも、小刀を使って鉛筆を削るといった事はしないし、その必要もないが、当時の小学生は誰もが「肥後(ひごの)守(かみ)」という折りたたみの小刀を使っていた。

この工作の時間がその日の最後の授業だった。終業のベルが鳴ると、みんながやがや喋りながら木屑を箒で掃いたりして、後片づけをしていた。担任の三戸滋先生は片づけがほぼ済んだのを見て立ち去って行かれた。その時、教室内で二人の生徒が激しく言い争いをしているのが聞こえた。一人は私の町内で父親がブリキの加工を職業としている山野通夫(みちお)という生徒だった。彼には高等科に通う兄がいて、その兄を笠に着る風がなくはなかった。

 

当時私は背が低くかった。一年生の時の通信簿を取り出して見たら百三センチしかない。六年生の時も平均値に達していなかったので、通夫は私より大分高く見えた。彼の口論の相手は新川魯邊といって、一段と背のすらりと高い、浅黒く締まった顔つきの生徒だった。新川は通学区域が違うので私は彼と口をきいた事はなかった。日頃誰ともあまり物を言わないので、孤高を保っているように見えた。クラスの者は彼を「ロヘン」と呼んでいた。クラスの中には韓国籍の者が二人いたが、彼はその一人だった。数多くのクラス生徒の中で、一度も話したことのない彼の名前を、私が今に至るまで明瞭に覚えているのは、自分でも不思議に思う。私は翌年、昭和十九年四月に中学校に入り、生まれて初めて英語と漢文を習った。その時孔子が魯の国に生まれたことを知った。私は「魯」という漢字を見ると、いつも新川魯邊君を想い、また次の格調高い詩を思い出す。

 

    泰山     高橋新吉

 

 泰山ハ巖々トシテ魯ノ平原ニ屹立シ

 赫々(かくかく)トシテ太陽ノ熱射ニ焦(こ)ゲ

 玄々トシテ裸像ヲ氷雪ニ埋メテイル

 泰山ハ悠々乎(こ)トシテ蒼天ヲ威圧シ

 洞然トシテ宇宙を睥睨(へいげい)シテイル

 

クラスには男の子だけが四十人ばかりいた。二人は激しく口論していて、今まさに腕力に及ぼうとしたとき、日頃クラスの中で喧嘩が一番強いと目されていた木村という生徒が中に割って入った。木村の父親は鍛冶屋で大きな人だった。私は木村の家の前を何度も通ったことがあるのでよく知っている。彼は父親に似て体格のいい、やや赤ら顔の男で、頬をふくらますような格好で物を言っていたのを覚えている。我が家にある掛け軸に描かれた「鐘馗」の様な顔をしていた。その上名前が木村重男で、戦国時代の若い英雄、木村重成に最後の一字違うだけだったので、私は何となく覚えている。

当時の同級生の一人が、「木村は喧嘩大将だったが、なかなか良いところがあったよ」と言って、私が知らない次の様なことを話してくれた。

 

「昼休みの時間だったか、数人のクラスの者が運動場で遊んでいた。その時一人の女の先生が離れた処を通られるのを見て皆が大きな声で囃(はや)し立てたのだ。その頃その女の先生は、同僚の男先生と仲が良いとの噂があったので、皆が一緒になって男先生の名前を冷やかし半分に大声で叫んだのだ。するとその女先生がつかつかとやってきて、生徒たちが胸に付けていた名札を見て、その中の一人の小野という生徒の名前を担任の三戸先生に告げたのだ。授業が始まると直ぐ三戸先生が教室にやって来られて、小野がこっぴどく叱られたのだよ。するとその時木村が前に出て、『僕も言いました』と言ったのだ。するとクラスの外の者も『僕も言いました。僕も言いました』と言い、結局積極的に加わった者の全員が芋蔓式に白状したことをよく覚えている。木村はそんな風に男らしいところがあった」

 

後日この同級生が次のような手紙をよこした。

「あの場での木村君の態度は誠に立派であったと感心しています。それにくらべ自分の卑劣さは忸(は)ずかしく悪かったと思っています。弁解がましいことですが、当時は男が女をひやかすことはありうるというよりむしろ一般的であったように思います。もっとも教師は絶対の高い位置にあったことも確かですが。今では隔世の感があります。」

 

坊っちゃん』にあるように、「いたづら丈で罰は御免蒙るなんて下劣な根性」を、木村は持ち合わせてはいなかったのだ。担任の三戸先生はメガネをかけて口髭を生やした厳しい先生だった。真冬でも風邪を引いたもの以外は、黒い制服の下にランニングシャツ一枚で登校するように言われた。また体操の時間、これも寒い日だったが、クラス全員裸足で学校から松陰神社までの往復四キロの道を、走らされた事も記憶にある。先生の家が松陰神社から少し道を上ったところ、松陰誕生地への途中にあったから、先生にとってはこの道は勝手知ったる道だったのだろう。もっとも当時は日中戦争の最中(さなか)だから、こうした鍛錬は別に珍しいことではなかった。それにしても今回の様に先生を揶揄するといった行為は、小学生としてあるまじき行為である。木村は小野一人が悪いのではない、自分も同等な処罰を受けるべきであるとして、『先生、僕も言いました』と勇気をふるって自白したのである。友人は新川についてもこんなことを話してくれた。

 

「新川魯邊は家が近かったので、おれとは仲が良かった。あの男は頭が良かったよ。卒業前おれが『萩中学校へ行くつもりだ』と言ったら、『中学校へ行くのか。良いのう。僕は行きたいが行けないのだよ』と悲しげに言ったのを今でも覚えておる。家が貧しかったからじゃろう。あのときは可哀相じゃったよ」

 

昭和十年代、小学校の課程を終えて旧制中学校への進学率は今とは違い格段に低かった。大半は高等科二年まで行き、卒業後は何らかの職に就いていた。

 

話を元に戻そう。木村はこう言った。

 

「先生に見つかったら大事(おおごと)になるぞ。お前ら何(なん)でケンカしたのか知らんが、授業が終わってから、放課後土原(ひじわら)のグランドでやったらどうか。あそこなら誰も見るものも居らんから。」

 

木村の提案に二人は同意したが、その時すでに通夫は幾分ビビっているような様子だった。しかしクラスの多くの者が自分に味方していると思うと、彼としては退くに退かれぬ立場だった。明倫小学校から土原のグランドまで、距離にして約一キロの道である。東側の校門を出るとクラスの生徒十数名が、木村を先頭にぞろぞろと歩きだした。今はないが、小学校に隣接して萩商業のグランドがあり、道とグランドの間に一間幅の小川が流れていた。道の反対側は広々とした蓮田であった。その日は小川の中をすいすいと泳ぐメダカの群れに目をとめることもなく、またグランドとの境に生えていた笹竹の葉をちぎって笹舟を作り、それを流して遊ぶといった道草をしないで、皆は小川に沿った道を新堀川まで歩き、そこに架かる石橋を渡ると直ぐ右折して、今度は新堀川に並行して両側に飲み屋などのある道を歩いて行った。この道は今でも唐(から)樋(ひ)の大通りにぶつかる。

 

私は今この道のことを書いていて、ここで起きたことを思い出した。やはり小学校に通学していた時の事である。当時荷馬車が市内の路をよく往来(いきき)していた。路上に駄賃の糞を残していくこともよくあった。御者は馬の口とらえないで、荷車の前の方に腰掛けて、煙草を吸いながら手綱を操っていた。それを見た学校帰りの悪童連中も同じように荷車の後ろの方に、「こりゃ楽ちん」とばかりに腰を下ろした。ところが御者はそれを見つけるやいなや叱りつけた。

「誰だ、乗ちょるのは。さっさと降りんか。馬がえらいじゃないか」

そう云いながら、御者自らは馬の苦労を顧みず、依然として乗っていた。

その日は荷馬車でなくて軽トラックがそこに止まっていた。私はこれ幸いとトラックの後ろに手を置き、車が走り出したら楽に移動できると思った。ごく最初の内は速度に合わせて足を運ぶ事ができたが、すぐにスピードに付いていけなくなった。両足が宙に舞った。私は怖くなって手を離した。とたんに体が飛んで地面に腹ばいになった。幸い手足を少し擦りむいただけだったが、恐ろしい体験だった。

 

大通りに出てそこを横断し、松陰神社へと通ずる道を五百メートルも行けば、目的地の土原のグランドに達するのである。しかし当時その途中に警察署があった。今でこそ「優しいお巡りさん」だが、当時は「おい、こら」といって巡査は怖い存在だった。従って小学生が一団となって、しかも喧嘩目的で行動していると判れば、ただでは済まないと、私は内心びくびくしながら警察署の前を通った。しかし木村はそのような素振りさえ見せなかった。

帰りが一寸遠回りになるが、同じ町内の友達として、私は通夫に味方する連中と行動を共にした。いよいよ土原のグランドに着くと、木村が適当な場所へ皆を連れて行った。今は全く様変わりしているが、昭和十年代には、そこは広々とした草地で、野球のバックネットが片隅に立っていた。ダイヤモンドには草は生えていないが、外野はクローバーなどの青草に一面覆われていた。萩中学校と萩商業の野球などが日曜日に時々行われたので、小学生の私は試合があると聞くと、自宅から往復約六キロの道を遠しとせず、よく観戦に行ったものである。グランドの直ぐ側には田圃が広がっていて、日頃グランドには人影があまり見られない空き地であった。

 

新川と山野はそれぞれ鞄を友人に預けて向き合い、外の者たちは二人を取り囲むように輪になって成りゆきを見守った。しかし勝負はあっけなくついた。

通夫は自分に味方してくれると思われる者が多くいたので、その勢いに押されて新川に対峙したものの、最初から相手の威圧的な態度に恐れをなしていた。それこそ蛇に睨まれた蛙といった様子だった。がむしゃらに殴りかかったが簡単に受け止められ、反対に一発殴られると、その場に倒れて泣き伏してしまった。あまりにあっけなくけりが付いたので、皆は意外な面持ちだった。その時木村が出て行って、これ以上手を出すなと新川に言った。新川はもう相手にならないと思ったのか、自分の鞄を肩にかけると、悠然とその場を去って行ったのである。誰ひとり彼について行くものはいなかった。後日彼はおそらく山野の兄にこっぴどくやられたと思う。

しかし彼は実に堂々として、紳士的な態度を見せた。新川といい、また木村といい、今考えてみると、二人とも正に小さな英雄だった。

その二 海浜(かいひん)慕情

 

そのころ夏休みに入ると、町内の子供たちは、山野通夫の父親が作って店先に並べていた外枠がブリキで出来た水中メガネを欲しがった。それを使って海中に潜ってみたいからだ。それはガラス眼鏡が二つついた子供用のと違い、大人や海女が用いている大きな楕円形のメガネである。少しでも早く大人の真似をしたいと思う子供たちは、並べられた数個のメガネの中から、自分の顔に合いそうなのを選び、それを顔にあてがって、水が漏れないように何度も修正してもらい、ぴったりと顔に付くようになると、お金を払い、待ちきれない気持ちで、一目散に海に向かって走って行くのであった。住吉神社の境内を通って、砂浜との境に立っている石の鳥居のところまで行けば、目の前に日本海が広がって見える。鳥居を潜り石段を駆け下りると、波打ち際までは夏の日射しで焼け付くような砂浜である。そこには筵が一面に敷かれてあり、その上に釜ゆでされた炒子(いりこ)が天日(てんぴ)に干してあった。途中それを失敬する事を忘れない。子供たちは炒子を口にしながら、「熱い、熱い」と言って水際まで走って行き、冷たい海水の中に裸足をまず投げ入れる。ここまでは無我夢中である。

さて、足の裏を冷やし終えると、ようやくの思いで水泳開始となる。まず海藻で水中眼鏡のガラスを拭く。そうすることは、鼻息で曇るのが少しでも阻止される、と年配の者に教えられているからである。それからゴム紐を引っ張って後頭部まで延ばし、メガネの中に両眼と鼻がぴったり収まると、口で息をしてみていよいよ海中に潜るのである。

今までこうした経験のない子供にとっては、この行為は一種の儀式である。身体を沈めて海水が胸のあたりにまで来た時、頭を水に浸(つ)けて海中を覗いてみると、それまで見えなかった別世界がガラスを通して目の前に展開する。小さく波打った砂の上には小さな貝殻の破片などが目に入る。そこから背が届かなくなるまで歩き、さらに沖に向かって泳ぐよりは、防波堤のある場所でメガネをつけて泳ぐ方が一段と楽しい。岩伝いに水面まで下りて行き水中を見ると、大小さまざまの岩、その岩と岩との間の奥深い処で揺れている初めて目にするような海藻、またその周辺を泳ぐ小魚の群れなど、さらに岩に取りついてゆっくり移動する小さなサザエやウニなどが目に入るからである。子供にとっては神秘とも言える世界である。その後岩から身体を離して水中に潜ったり泳いだりすると、これで自分も一人前の若者の仲間に入れたという気持ちになるのである。

浜崎の港から沖に浮かぶ島々へ通う定期船や島民の持ち船が通ると大小の波が立つ。その波間へ泳いでいって、波と共に体が大きく上下に揺れるのを楽しむようになれば、もう一人前に泳ぎを覚えたといえよう。

私たちはこれを「波乗り」といって楽しんだ。ここでもう一つ付け加えたら、今は誰も皆上等の水泳パンツを着用しているが、あの頃の男の子は、黒色の三角のちゃちなサポーターを付けて泳いでいた。長い布でできた褌を腰に廻して付けるようになれば、それこそ一人前である。しかし楽しみは危険を伴うことがある。

我が家の先隣りに「好(よっ)ちゃん」という一学年下の遊び友達がいた。彼はほとんど毎日遊びに来ていた。私が中学生になったばかりの頃だったが、夏休みに入り二人で泳ぎに行った。松本川の河口近くで、当時は魚市場が盛況であり、対岸の鶴江へは渡し船が通っていた。私は向こう岸まで泳ごうと言って先に飛び込んだ。好ちゃんもすぐ後からついてきた。川幅は八十メートルくらい。私が向こう岸へ泳ぎ着いて振り返ったとき、あと二十メートルばかりのところで、彼があっぷあっぷしているのが見えた。私は咄嗟に飛び込んで助けようとして近づいた。そのときふと頭に浮かんだのは、「溺れかけた者に手を貸してはいけない。抱きつかれて身動きができなくなる」という教訓だった。そこで私は「もう一寸だ、頑張れ」と、励ましの声をかけながら、彼の手の届かないところを彼と並んで泳いだ。すると彼は安心したのか元気を取り戻して、何とかたどり着くことができた。少し休んだ後、渡し船に乗って無事に帰った。当時、中学生たちは対岸まで競(きそ)って泳いでいた。しかし今は誰一人このあたりでは泳がないだろう。水泳禁止区域である。水深がかなりあって川底は全く見えない。水の流れもある。船頭に頼んで舟を漕がしてもらったことがあるが、「舳先(へさき)を少し上流に向けて漕げ」と言われた。そうすると舟は斜めになって進み、うまい具合に対岸の船着き場に着いた。こういったことを考えると、ぞっとする出来事だった。

 

先日萩へ行ったついでに、この渡し場へ足を向けた。運行時間が決まっていた。舟は向う岸の船着き場に繋いであった。昭和十九年から六年間、対岸の鶴江に住んでいた四人の同級生は、朝夕この渡し船を利用して中学・高校へ通っていた。私はマイカーで大きく迂回して二つの橋を渡ってその地にいる友人を訪ねた。彼は五年前に奥さんに先立たれて一人暮らしであった。家の直ぐ背後に台地がそそり立っている。従って川岸に沿って並ぶ家屋の前の道は車が一台やっと通れるほどである。私は彼を誘って丘の頂にある「神明社」まで行った。二百余段の石段を七十年振りに登った。小・中学生の頃、渡し舟に乗って鶴江に渡り、この石段を駆け上ったものである。途中に大きな桜の木があった。老木で幹の中が空洞になっていた。

このような状態でも花を咲かすだろうか。あの頃は春ともなれば神明社の境内は見事な桜花に埋もれ、対岸からもよく見えていたのに、と私は思った。私はこの朽ち果てた桜の巨木を見て哀れにも淋しく感じた。まさに老残を曝した痛ましい姿だった。

社殿の前に辿り着くと、そこの広場から川向こうの市街地に目をやった。市街地のデルタは見えず、日本海と沖の浮かぶ小島だけが夏の太陽の下でギラギラと輝いていた。藪が茂って見晴らしが十分には利かなくなっていたのが残念だった。

当時その場所から、我が家の庭にあった大きなタブノキが遠望できたので、今回も見えるかなと期待していた。友人の案内で少し下った場所へ歩を移した。するとそこからはっきり見えたのでなんだか一安心した。

 

平成十年の夏、事情があって私は郷里の萩を離れ山口に転居した。そのとき私には心密かに願うことがあった。それは我が家が人手に渡っても、出来る事ならこのタブノキの大樹を伐り倒さずにいて欲しいとの思いである。二百年以上の年月を経ても、常緑の鬱蒼たる枝葉を四方に伸ばしていたこの巨樹を、私は朝な夕な見て育ち、親しみを覚えていたからである。その念が通じたのだ。幸運なことに、我が家が浜崎地区の「伝統的建造物再生モデル事業」の一環として国の補助を受け、修理・保存されることになったからである。私は鶴江の台地からかっての我が家のあたりに目をやり、懐かしいタブノキが今なお夏日の中に青々と繁っている姿を見て、本当に嬉しかった。命ある者はすべて死ぬ。おそらくこの樹は私が死んだ後さらに長く生き続けるだろ。しかしいつかは寿命が尽きる。私は密かに思った。「出来るだけ命長らえて呉れ。そしてかっての我が家を見守ってくれ」と。

 

浜崎の渡し場近くに製氷所があった。砕かれた氷が大きな樋の形をした鉄板の容器の中を、ガラガラと音を立てて滑り落ちる時、手を伸ばして氷片を取って口に入れた途端、口の中がしびれるほど冷たく感じたことも懐かしい思い出である。

本川は静かに流れていた。過ぎ去る者は、すべてこの水の流れの如くである。孔子の「川上の嘆」にある「逝く者は斯の如き夫(か)、昼夜を舎(や)めず」の情景である。白い数羽のカモメが水面にまで下降しながら楽しげに飛び交っていた。

 

私が実際に目にした衝撃的な水死事件がある。やはり小学生の頃だったと思うが、波打ち際で遊んでいると、沖合に一隻の小舟が漕ぎ出してきた。乗っていた一人の青年が舟から飛び込んだが、しばらくしても上がってこない。舟に乗っていた四、五人の青年は不安に思ったのだろう、つぎつぎに飛び込んで上がってこない仲間を探している様子が見て取れた。そのうち溺れた人物を見つけ抱きかかえて舟に乗せたが、そのときはすでに事切れていた。舟を波打ち際まで急いで漕ぎ寄せ、彼らは死体を砂の上に横たえた。私はおそるおそる近づいて見た。おそらく心臓麻痺で急死したのだろう。その青年は萩商業の生徒だった。この他にも水膨れした土左衛門をこの海岸で見たこともある。人の命の儚さを知った出来事だった。

 

中学に入ってからは小学時代の遊び友達と会って話す機会はほとんどなかった。大学を出ておよそ十年後、母校の萩高校に勤めるようになって我が家に帰った時、久しぶりに山野に会って話した。彼は子供の時から面倒見の良いところがあった。小学卒業後しばらくしてタクシーの運転手になって、観光客に得々と観光案内をしていた。市内にある「城下町」は萩市観光のメッカとも言える区域である。彼ではないが、ある日女性のバスガイドが、多くの観光客を案内して、次のような説明しているのが聞こえてきた。

 

「皆さん。この城下町は高杉晋作木戸孝允田中義一といった皆さんご存じの有名な人物が生まれ育ったところです。いま皆さんの目の前の立派な門構えの家は、青木周(しゅう)弼(すけ)といって、毛利の最後の殿様である毛利敬親公の御殿医が住んで居られた家です。安生四年の建造で広い家屋敷です。彼はかの有名な緒方洪庵と並び称される程の人物だったのです。こうした優れた方々の多くは維新以後萩の地を去って行きました。この青木周弼の旧居にも、今は全く関係のない人が住んでいます。」

 

まさにその通りで、ちょうどその頃私はこの旧居に管理人として入っていたので、思わず苦笑いした。山野はその頃、町内会長としても町内の世話をしていた。これは小さい時の彼の世話好きの人柄が発展したものと考えられる。あの時の事は全く忘れ去ったかのように、真面目にまた元気に働いていた。私は一緒に遊んだり、学校への行き帰りを共にした同級生の事を訊ねてみた。

 

「藤井の康さんどうしているか?」

「康さんは木村のパン屋で働いている。腕の良い職人だそうだ」

「藤川長一はどうかね?」

「藤川の長ニイーか?大工の仕事をしちょる。腕は立つようじゃが、これが好きじゃから若いのに使われちょるよ」

こう言って盃を口へ持っていく仕草をした。

 

萩高に勤めて数年して、私は我が家の敷地内にささやかな家を建てることにした。そこで、藤川の腕を頼みとして建築を彼にお願いした。ところが彼は雇われの身である。立派な腕を持っているが、山野が言ったように棟梁としての才覚はなかったのである。いわば職人肌の男だった。建築の仕事は専ら彼が受け持って呉れた。

 

事情があって山口市に居を移すまでの二年間、日暮れ時分になると、私の足は海岸へとよく向かうのであった。打ち寄せる波の直ぐそばを私は歩いた。そこは砂地だが海水で締まっていて歩きやすいからである。しばらく歩き、左折して市街地に入り、檀那寺へ行き展墓を済ますのが当時の日課だった。

私は子供の時から海が好きである。海浜が格好の遊び場だったからでもあるが、大人になって、朱(あけ)に染まった夕焼けの空、茜(あかね)色の雲がたなびく西の海に大きな真っ赤な夕陽がゆっくり沈むのを見ていると、何とも言えない心の安らぎを覚える。反面、冬の寒空が一面暗い雲に覆われ、それを反映した鉛色の暗鬱な海原の上を、遠くから白い波頭を立てて大波小波が打ち寄せて来る時、ザワザワと立ち騒ぐような音がする。足下まで寄せ来る波が今度は退く時の音は微かなザーという音に変わる。寄せては退く波の動きを見ていると、永遠に続くかのようである。この波の動きと音の連鎖は不易であり、その中に流転があるような気がする。あたりが夕闇に包まれるとそぞろに寂寥感を覚える。

 

ある日の夕刻、砂浜を歩いていると、波の打ち寄せる水際で二羽の烏が遊んでいた。私が近寄ればその分だけ離れていった。こうして絶えず等間隔を保ちながら、私と烏はほかには他に誰一人いない砂浜をしばらく移動した。烏はそのうち私との「追っかけっこ」に飽いたのか飛び立った。一人になった私はふと上を見た。一羽の鳶が空高く悠然と旋回しているのが見えた。私は、当時出版され、洛陽の市価を高くした『新唐詩選』の中の杜甫の詩を口ずさんだ。

 

風は急に天は高くして猿の嘯(な)くこと哀(かな)し

 渚(なぎさ)は清く沙(すな)は白くして鳥の飛ぶこと廻(めぐ)る

 無辺の落木は䔥䔥(しょうしょう)として下(お)ち

 不尽(ふじん)の長江は滾々(こんこん)として来(きた)る      (吉川幸次郎氏 訳)

 

                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

秋の旅路に想う

 

昨年、台風一過の秋晴れの日に、老人夫婦三組で長湯温泉を訪れた。大分県豊後竹田駅から少し北に入ったところである。この温泉は世界屈指の炭酸泉である。近頃は、偽証・偽造・偽装といった嘘がまかり通る世の中だが、ここは名実相伴っていた。

竹田駅に着いた時、この地に縁のあった作曲家滝廉太郎の「荒城の月」のメロディーが流れていて旅情を誘った。また駅頭には朝倉文夫製作の美しい裸身の少女像が立っていた。「時の流れ」と題した名作である。

温泉宿に一泊した翌朝、宿の周辺を少し散策してみた。由緒ありげな寺があった。山門を入ると庭に石が二つ並んで据えてあった。いずれも種田山頭火の句碑で、味わいのある字が彫ってあった。

 

ホイトウとよばれる村のしぐれかな

 

一きわ赤いお寺の紅葉

 

「昭和五年十一月八日に当山に参拝してこの二句を残した」と説明書きにあった。山頭火の『行乞記』を見ると次の記述がある。

「十一月八日 雨、行程五里 明治村、長湯村、赤岩といふところの景勝はよかった。雑木林と水音と霧との合奏楽であり、墨絵の巻物であった。(中略)とにかく私は入浴する時はいつも日本に生まれた幸福を考へずにはゐられない、入浴ほど健全で安価な享楽はあまりあるまい」

しぐれる山中を歩いてきた乞食(こつじき)姿の山頭火は、悪童たちに「ホイトウ」とは呼ばれながらも、出湯の温もりと紅葉の美しさに旅の疲れを癒したであろう。

山頭火の句碑を後にして朝倉文夫の記念館を訪れた。つづら折りの山道をしばらく行くと、丘の頂きにやや開けた場所が目に入った。はるか遠くに「国立公園阿蘇くじゅう」の一角も望める場所で、近くの山々の眺めはひときわ美しかった。満目紅葉にはまだ少し早かったが、山腹を点々と飾る紅葉の錦は見応えがあった。瀟洒な記念館がひっそりと建っている。案内書には記念館・ホールを清家清、造園を澄川喜一、館内展示の設計を文夫の娘の朝倉摂が担当したとある。いずれもわが国を代表する芸術家である。

朝倉文夫文化勲章まで授けられた彫刻家である。生まれた所は記念館からもう少し奥に入ったところだと聞いた。小学生の文夫少年はこの山奥から、竹田市中の学校まで毎日片道六キロの坂道を通学したのである。館内には代表作「墓守」の老爺像を始めとして多くの作品が展示してあった。その中で裸婦像だけを一括して展示してある一室があった。清純な若鮎の如き肢体の少女をモデルとして、芸術的に見事に塑像されたものである。聞けば、二人の娘が自ら積極的に父の為に衣服を脱いだとか。私が最初に赴任した高校で、美術の先生が、「私の妹は東京で舞踏を習っていましてが、朝倉先生のモデルになったことがあります」との言葉を思い出した。 

最近の絵画や彫刻などには、奇怪さや珍奇さで人目を引こうとする作品が多い中にあって、こうした清純で健康美に溢れた作品はやはり見る者の気持ちを爽やかにしてくれる。  

晩年、美しい自然の中に、芸術の理想郷をつくりたいという文夫の夢が、一九九一年に生まれ育ったこの地に実現したのである。彼にとっても地元民にとっても大いなる喜びであっただろう。人里離れているが、この「朝倉文夫記念公園」は訪れる価値のある場所であった。

しかし私は想う。この桃源郷のような地を見捨てなければならないような事態が生じたらどうなるか、と。福島を中心とした東北の各地には、地元民にとって掛け替えのない故郷があっただろう。清らかな空と水こそ万民の等しく望むものである。

旅先で思いがけない風物に邂逅するのは大いなる悦びである。運転手に案内されて普光寺の磨崖仏を拝観した。肥後街道を外れて細い山道を上りつめたところで下車した。そこからは狭くて急な坂道を歩いて下らなければならなかった。しばらく行くと樹木の間からハッと驚くほどの大きな不動明王の座像が、やや赤味みを帯びた岩肌に浮かび出ているのが目に入った。人気の無い谷底のような窪地に、高さ十一メートルを超す見事な磨崖仏があるとは思ってもみなかった。全く驚嘆に値する。鎌倉時代に製作された国内最大級のもので、見るものを圧倒するような力強さを持っていた。

旅から帰って『人類哲学序説』という本を読んでみた。著者の梅原猛氏が日本には「草木国土悉皆成仏」という偉大な思想がある。近代合理主義や人間中心主義が置き去りにしてきたものを吟味、人類の持続可能な未来への新たな可能性を日本歴史の中に見出すべきだ、と主張していた。その通りだと思った。

戦後七十年、わが国では戦争のない時代が続いている。また、生活は便利になり楽にもなった、さらに人の命も延びた。しかし反面、自然破壊や環境汚染といった深刻な事態が生じた。環境は人をつくるという。有名な長野県歌「信濃の国」で浅井洌(きよし)が詠んでいるように、「古来山河の秀でたる国は偉人のあるならい」である。緑豊かな森が広がり、清らかな水が流れる、こうした豊かで美しい自然の中にあってこそ、人の心は和らぎ、真の平和を考える優れた人物が生まれるのではなかろうか。旅を終えて私はこの想いを一層深めた。

 

 

 

ごしょうが悪い

 

 ほとんど毎朝、私が食卓に向かって朝食を食べ始める前後に、どこからともなく一羽の鳩が飛んできて、硝子窓の外の褐色のレンガを敷いたベランダに姿を見せる。数羽の雀も殆ど同時にやってくる。必ずと云って良いほどやって来る。その理由は私が玄米を撒いてやるからである。一体どこから見ているのだろうか。何しろあの小さい米粒である。それが見えるということはやはり目が良い証拠である。味を占めたのか習慣化している感じである。こうして餌を折角やるのに、雀は硝子越しでも私が窓に近づいたら一斉にパッと飛び立って逃げるが、鳩はその様な素振りは見せない。しかし窓を開けたらトットットと遠ざかる。中々用心深い。所が今朝は鳩も雀も姿を見せなかったので、「今日は来ないのか。珍しいことだ」と思いながら食事を終えた。終えても彼らは姿を見せなかった。

私は一人になってから昼食は別に決めては食べない。今日はただ簡単にお茶を飲み、トマトを切って食べた。その後台所の戸を開けて外に出てみたら、この暑いのに一面に敷き詰めてある砂利の上に、いつもの鳩が羽をすぼめて蹲(うずくま)っていた。先に述べたレンガ敷きのベランダは一段高くなっていて、その下が砂利を敷いた地面である。草が生えて困るので砂利を業者に敷いて貰った。お蔭で除草の手間が省けて助かった。

 ここ一週間ばかり炎熱が続いていたが、昨日久し振りに雷鳴とともに恵みの雨が降り、今日は朝から雲がかかって多少凌ぎやすい。砂利と鳩の色が似ているので見分けが直ぐには付かなかった。鳩は砂利石がそれほど火照(ほて)るほどの暑さではないから蹲っていたのかもしれない。しかし本能的に餌を求めて来たのだろう。そうは言ってもこの炎暑のもとで、じっと黙って餌を貰おうと待っていたのだろう。それで私は「ごしょうが悪い」ので直ぐ引き返して玄米を少し撒いてやった。

 

 昔年寄りが、「その様な事をしてはいけん。ごしょうが悪いから」とよく言っていた。私はふと思った。「ごしょうが悪い」というが「ごしょう」とはどの様な漢字を当てるのだろうかと。そこで小学館の『日本国語大辞典』を二階の書架から持って下りて開いて見た。一冊でもかなりの重さである。

 人は簡単に「ごしょう」と言うが、次のように幾つかの意味があるのを知った。ただ「ごしょう」と言ったとき、どの漢字が当てはまるか直ぐには分からないのではなかろうか。

1)五性・五姓 《輪廻思想による考え》五たび死にかわり、再び人間に生まれること。

2)五障 仏語。女性がもっている五種の障害。

3)五餉 ひるめし

4)誤称

5)前世、今生(こんじょう)と対応して用いる仏語。

最後の5)の説明に、「ごしょうが悪い」の言葉があった。

 「来世の極楽往生もおぼつかない、転じて、後味が悪い。」

年寄りが意味していたのはこれで、さらに云えば「可哀想だ」の意味ではないか。

この外に「ごしょうを願う」という言葉もあって、次のように説明してある。

「佛の慈悲心を信じて、極楽往生を願う。転じて、佛の加護を頼み幸運を祈る」

私の祖母は元治元年(一八六四)の生まれで八十歳で亡くなった。父は明治三十年の生まれで昭和五十七年に八十四歳で安らかに往生した。したがってどちらも戦後の思想には染まっていない。素朴に仏の教えを信じていたと思う。日本人は神仏を尊び、祖先を敬い、自然に畏敬の念を抱くといったことが、戦前はそれこそ自然に抱いていた感情だった。しかし今はどうだろうか。

 

戦後GHQの方針で、「3S(スリーエス)」という考えを植え付けられた。これは三つ英単語の頭文字である。即ちSEX・SPORTS・SCREENのことである。

私が県立萩中学校二年生の時終戦になり、英語の教科書に「KISS」という言葉が出た時、クラスの皆が笑って一時授業が止まった事を覚えている。大学に入って、イギリスの中世の詩人チョーサーの詩の中に同じような男女の抱接(ほうせつ)の場面が出たとき、先生は敢えて日本語に訳すのを避けられた。それが今は性の氾濫である。

次にスポーツだが、100メートルをいくら早く走っても又泳いだところで、チーターやイルカといった草原を疾駆する獣や、大海を泳ぎ回る魚には叶わない。それが1秒の何分の1早い遅いと言って大騒ぎをする。馬鹿らしい事ではないか、という人が中には居る。私はそうは思わない。やはり若者が身体を鍛えて、走り、跳び、投げたりする姿は見て素晴らしく、また美しい。ただ問題は今やオリンピックは本来の精神を忘れて、全く商業化して記録の更新に大金を出すことである。

本来スポーツとは「娯楽。遊び」で魚釣りや狩猟などもこの言葉に含まれていたようである。その点我が国で行われてきた武道、中でも剣道や弓道には娯楽の要素はない。だから見ていても身の引き締まるような精神性というべき清々しさがある。この対極にあるのがプロレスリングである。これはスポーツの範疇に入れるべきではなかろう。 

論語』に「子曰く、君子争う所無し。必ずや射か。揖譲(ゆうじょう)して升下(しょうか)し、而して飲まししむ。其の争や君子なり」という言葉がある。

【通釈】は「孔子言う、君子は人と得失を争い、勝敗を競うことを決してしないが、もしするとなると、まず弓の競射であろうか。その場合も極めて礼儀が正しい。二人一組の選手が鄭重に譲り合って堂に上り、射を演じて堂から下りる。勝敗が決したら、また礼儀正しく堂に昇って酒を飲み合う。その進退はすべて礼儀を失わない。其の争いたる、まことに君子人らしい美しい争いである。(『論語 新釈漢文大系』明治書院)  

現代の中国にこうした伝統が残っているだろうか。私は萩から山口に移り住んで直ぐに弓道を習って少し稽古した。全く物にはならなかったが、弓道には興味を抱くようになり、お蔭でこう言った文章が目に入るようになった。我が国にはこの伝統が残っていると思われる。果たしてこう言った精神性を供えた運動競技が他の国々にあるだろか。

それはさておき、何でも早ければいいと言って、早口に喋ったり、制限速度以上に車をぶっ飛ばす者が絶えないことは困った事である。ついでに思った事を書いてみよう。

新幹線は確かに速くて便利である。しかし途中の景色は全く目に入らない。以前は各駅停車の鈍行列車に乗れば、窓外に移りゆく森や野や山や川や海といった自然の景色が楽しめた。今は出発点から目的地へ驀地(まっしぐら)に行くだけである。広重の『東海道五十三次』の絵に見られるような風景を楽しみながらの旅は儚い夢になってしまった。

私は小学生の時よく学校を休んだ。その時は狭い三疊の茶室に寝かされた。布団の枕許に風炉先(ふろさき)屏風(びょうぶ)が立ててあった。その屏風にこの「東海道五十三次」の絵が切り貼りしてあったので興味深く見た覚えがある。しかしその後その屏風はどうなったか分からない。

さて、最後のスクリーンとはシネマ(映画)のことである。終戦直後テレビなど外に娯楽がないので、青年男女の唯一の楽しみと言ったら映画を見に行くことぐらいだった。萩市内の中心部に「喜楽館」という映画館があった。それこそ天井桟敷まで鈴なりの観客で埋まっていた。大きなスクリーンに映し出されるハリウッドのスター達の姿に多くの日本人が魅せられたと思う。

イングリッド・バーグマンビビアン・リーゲーリー・クーパやカーク・ダグラスなどといったスターを見た後は、自分が彼らになったような気持ちになって映画館から颯爽と、又ぞろぞろと出たものである。確かに面白い感情移入と言えよう。

 

こういった三種の策略というべき行動で、日本人を骨抜気にしようとしたと言われている。現代はシネマからテレビ、さらにスマホが取って代り、若者の多くがスマホを手にして絶えず手元の小さな機器を屈み込んで見ている姿はあまり褒めたものではない。こうして日本の若者は今や完全にアメリカの戦後政策の術中に嵌まり、さらに金、金、金の時代になってしまった。そして国のために尽くす気持ちが薄れた様な気がする。

これは戦前の日本人の真面目さが戦争に繋がったと誤解し恐れたために、アメリカが打ち出した政策の結果ではなかろうか。教育の影響力は甚大である。「教育勅語」が危険視されている。私はあの中には人間として生きる上での立派な教えが多分にあると思う。それを皆否定して省みないのはどうかと思う。いま隣国の韓国や中国では極端な反日教育が小学生から施されていると聞く。「三つ子の魂百まで」と言うが、若いときに偏った思想で汚染されると、生涯にわたってそれから脱することは容易ではない。我が国が戦前にやや似たような事があった。それは是正されるべきだが、これから本当の意味で世界の全ての人々が、民主的で自由な生活、真の意味での平和を謳歌出来るようになるのは、果たして何時のことになるだろうか。人間同士はもとより、全ての生あるものに対して、「ごしょうが悪い」事をしないようになれば、世界はもっと平和になるであろう。妄言多謝。                                

 

2020・8・23  記す

  

1万歩と猫

 

 昨日5月1日に3回も外に出た。平生なら別に取り立てて言うべきことではないが、コロナ感染を警戒して「不要不急」の外出はなるべく控えるようにと言われている最中だから、我ながら出過ぎたかなと思う。

いつものように早く目が醒めたので4時半だから直ぐ起きて、数日前から読み始めた漱石の『文学評論』を読んだ。これで3度目だが中に出てくる引用の英文に対しての和訳が実にこなれているのに感心する。恐らく漱石が自分で訳したか、森田草平が訳したのを漱石が後で手を入れたものだと思う。今朝読んだところに有名なジョンソン博士がチェスターフイールドに与えた書簡があった。漱石はジョンソンの書簡を引用するに先立って次のように述べている。

「昔読んだ時から此講義をやる今迄感心している。感心は兎も角も、此書翰は文界にあって個人保護の時代が永久に過ぎ去ったと云ふ記憶に値する事実を尤も露骨に天下に発表したものであるから、此點から見ても文学史上重要の意味を有している。」

 

ジョンソン博士が7年の辛苦の後に英語辞典を完成したときの、チェスターフィールドへの皮肉交じりの手紙が次ぎに続いている。漱石の訳文だけを一部あげて見る。漢字は一部当用漢字にした。

 

此七年辛抱にて、拙著は漸く出版の運びに至り候。寸毫の補助を受けず、一言の奨励を蒙らず、微笑の眷顧を辱ふせずして、漸く出版の運びに至り候。小生は未だ庇護者の下に立ちたる経験なきもの故、庇護者よりかかる御取扱を受けんとは全く小生の予期せざる所に候。庇護者とは人の将に溺れんとする折を冷眼に看過し、漸く岸に泳ぎ付きたる折りを見計らって、わざと邪魔となるべき援助を与えらるるものに候や。小生の労力に対する御推賞は感謝の至に不堪ず候。ただ其遅きに過ぎたるを憾みとするのみに御座候。(以下略)

 

漱石自身が書いたような痛快な文章である。上記の文中「漸く出版の運びに至り候」という言葉が2箇所にある。ジョンソンの出版までの苦労が分かるような気がする。

漱石は当時の東大生に向かって「諸君も定めてご承知だろう」と云っているが果たして学生たちは知っていたか。それにしても今の大学の英文科の学生とはかなりの実力の差はあったと思う。

 

話は昨日に戻って、7時になったので「ログ・ハウス」へ行った。先日買った榊があまり良くなかったので新しいのを買った。これは葉が青々としていて前より束も大きい。外に花とトマトなどを買った。この店の主人は萩高校出身で70歳くらいである。それこそ正月を除いて1年中休みなく毎日、萩市の奥の福井と云うところから野菜や花など色々な食料もトラックで運んでくる。一年を通して店を開く時間が決まって7時だから、冬季に家を出るのは5時半頃と思う。よく頑張るなと何時も感心する。

店への行き帰りに数人の人に逢ったが皆マスクをしていた。私は付けていなかったので一寸気まずく感じた。往復丁度1キロの距離である。

山口市内にも数人の感染者が居るようだが、朝の清々しい空気の中にウイルス菌が飛んでいるとはとても思えないので、「3密」でないから「No Mask」なのである。

帰宅して新しい榊と仏様への花を取り替えて神仏を拝んだ後、朝食の準備に取りかかった。「野菜の煮込み」がなくなっているので作ることにした。まず次の材料を冷蔵庫の中から出して良く洗って、適当な大きさに切って圧力鍋に入れて30分間煮た。材料は次の10品である。牛蒡、人参、蓮根、子芋、馬鈴薯、玉葱、椎茸、蒟蒻、竹輪、あらびきポークウインナーで、それに醤油を少し加えて煮詰めたら出来上がり。

煮上がる迄の間、出口保夫の『ロンドンの夏目漱石』を手に取った。これより前に角田喜六の『漱石のロンドン』を読んで結構面白かったので、同じロンドン滞在中の漱石の動向だが、見方が違うだろうと思って読み比べてみようと思ったのである。出口氏の方が一段と具体的で良く分かる。角田氏のことを知ったのは、彼が『文学論』の「注解」を行っているのを知り、昔買った此の本を再読した野である、彼は5回もイギリスへ行って漱石の足跡を調べているのには流石だと思った。

 

予定通り30分で煮上がったようだから、珈琲を淹れ、ミルクを温めてやっと朝食にありついた。

昼前にふと思いついたのでまた出かけることにした。実は同人誌『風響樹』が刷り上がるので、知人2差し上げようと思い、角封筒を買いに行こうと思ったからである。我が家のすぐ前になるスーパーは食用品が主体だからこういった日常雑貨は品不足である。そこで一番近い所にある店まで歩いて行くことにした。昨日初めてその店まで歩いた。昼前の日差しは結構暑くて家を出て帰るまで1時間15分も掛かった。店内では人並みに手提げ袋からマスクを取り出して付けたが、帰りにはまた除けて歩いた。

一寸見当違いに時間が掛かり、日差しも強かったので少し汗ばんだ野で却って直ぐシャワーを浴びた。

それより前、我が家が見えるところに来たとき、郵便屋さんがバイクに跨がって去ろうとしていたので呼び止めた。現金封筒を渡してくれた。これは1月以上前に萩市在住の妻の親友に妻の友人たちに差し上げて貰いたいと云って、拙著『硫黄島の奇跡』を10冊許り送っていたのであるが、皆さんに買って貰ったと云って其の本代と手紙が入っていた2だ、私は帰って直ぐお礼の電話をした。こうして親切な人も居れば、送っても受け取ったtも読んだとも言わない人も居る。人様々だとこの度人の気持ちの様々なのを知った。

確かに昨日は日中の暑さは格別であった。私は昼食は殆ど取らない。ヨーグルトにリンゴを細切れにして食べたりする程度である。

 

その後は漫然と時を過ごした。4時過ぎに少し本でもまた読もうかと思い。先日妻の親戚の方がわざわざ持ってきて貸して下さった『河上肇の遺墨』と云う実に立派な写真版をまた読み始めた。河上肇は岩国の人で、東大を出て京都大学の教授の時、日本で最初と言えるのだろう大学で社会主義の講義を行い、共産党にも入党し、その為に大学を辞めさせられ、さらに収監の憂き目を見ている。六年の刑を終えて出獄後は、専ら漢詩の研究と書道に打ち込んでいるようだ。其の「遺墨集」である。彼が作った漢詩も良いが、書がまた何と見言えぬ気品と清々しさが感じられる。例えば彼の漢詩の写真だけでも、説明の活字とは比べものにならない。実物を手にしたら一段と感銘を与えるだろうと思った。気に入った漢詩を写真に撮ってみた。私は漱石が東大で彼を教えたかと思って調べたら、明治35年に河上は津大を卒業し、入れ替わりにその年から漱石は東大で教壇に立っていた。ついでに漱石は河上について何か書きいているかと思って調べたら次の手紙が1通だけあった。

明治39年2月3日に野間眞綱宛て野者である。その中に次のように書いている。

 

小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を思ふと河上肇などと云ふ人は感心なものである。彼の位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ。

 

私はこの度初めて『文学論』を読んで、漱石自身精神衰弱を自覚し、それでもこの病があるが故に数々の作品を書くことができたと開き直っているのを知り、河上肇に共感を覚えたのだと感じた。

漱石と弓の句

 

 

 人との出会い、事物との触れあいが多いほど、人生は豊かになると言えよう。漱石は50年足らずの生涯で、多くの良き友人や弟子に恵まれている。また数多くの事物に興味を抱き、真剣に取り組んでもいる。中でも俳句は正岡子規と知り合いになり、その後イギリスに留学するまで、また弓道はそれより前の一時期真剣に打ち込んでいる。 明治27年2月、東京帝国大学大学院に在籍中、漱石は友人に誘われて弓道を習い始めた。同年5月31日の書簡には、「朝夕両度に百本位は毎日稽古致居候」(菊池謙二郎宛)と書いている。また学生時代の友人たちの証言によっても、熱心に弓の稽古をしていたことは明らかである。さらにまた『草枕』や『虞美人草』など初期の作品からも、弓道に関心があったことが十分に窺える。この事について筆者は『風響樹』第二十五号に、『漱石と弓と俳句』と題した小文をはじめて寄せた。その後さらに『漱石と弓』と題して発表した拙稿(注1)の間違いを弓道の専門家から指摘され、また他に、自分でも誤った解釈だと気づいた点がある事が分かった。そこで多少重複する点もあるが、今回は『漱石と弓の句』と題して考察することにした。識者の御教示を仰ぎたい。 漱石は明治22年1月頃から正岡子規と親しくなり、文学的影響を受けるようになる。彼らは共に東京大学予備門であった第一高等中学校に通っていた。『漱石全集』を見ると、第1信からの30通はすべて子規宛のものである。漱石は子規の影響によって、俳句に興味を覚え、句作を始めている。明治22年5月13日、子規宛の最初の書信に2句書き添えている。これを句作の始めとして、翌明治23年には5句、24年には30句と次第に多くなる。  しかし25年には僅かに2句で、26年には皆無、そして27年には13句を数える。この中に弓矢に関するものが4句、はじめて出てくる。

 

(1)大弓やひらりひらりと梅の花

(2)矢響の只聞ゆなり梅の中          

(3)弦音にほたりと落る椿かな

 (4)弦音になれて来て鳴く小鳥かな

 

 上記4句の中の(2)を「弦音の只聞ゆなり梅の中」と改めた句があるが、数えないでおく。 筆者は『漱石と弓』の中で、「弦音にほたりと落る椿かな」を取り上げ、漱石が弓を引いたという事実の傍証とした。今回は上記4句については触れず、異なる角度から検討してみたい。 

 明治28年4月9日、彼は愛媛県立尋常中学校に赴任した。同年8月27日に子規が漱石の下宿に居候を決め込むや、作句数は俄然増加し、464句を数えるほどになる。この中で弓矢に関するものと思われるのを選び出してみると、下記の4句がある。

 

   (5)凩や弦のきれたる弓のそり  

   (6)時鳥物其物には候はず      

   (7)時鳥弓杖ついて源三位      

   (8)月に射ん的は栴檀弦走り    

  

  漱石は明治29年4月、熊本の第五高等学校に転勤した後も句作を続けている。松山に居たときの句作241を加えて、この年には、522もの多数の句を詠んでいる。それこそ毎日句作に没頭していると言える。しかし弓矢に関するものは次の3句だけである。

 

   (9)日は永し三十三間堂長し

 (10)屋の棟や春風鳴って白羽の矢

 (11)梓弓岩を砕けば春の水  

 

  第五高等学校では、漱石は本来の英語の授業と研究に専念しながらも句作を続け、明治30年には288句作っている。その中に次の句がある。

 

 (12)よき敵ぞ梅の指物するは誰           

 (13)五月雨の弓張らんとすればくるひたる 

  

  明治31年には句作数は103あるが、関係の句は見あたらない。

 明治32年には350句、この中に次の2句が関連したものとして見出される。

 

  (14)南無弓矢八幡殿に御慶かな   

  (15)梅散るや源太の箙はなやかに  

 

  漱石は明治33年9月、34歳のときイギリスへ留学するが、これ以後50歳で亡くなるまでの句には、弓矢に関するものは見あたらない。結局、23歳で句作を始めて、27年間に2500句を超える句を詠んでいるが、この数多くの句の中で弓矢に関するものは、彼が実際に弓を引いた大学院時代から、熊本へ移ったばかりの6年間で、上記15句を数えるだけである。しかし数少ないこれらの句とはいえ、漱石の弓矢に対する思い入れの程を窺うことができる。

 

                                           二

 

   ここでこの漱石の弓矢に関する俳句を、あらまし2グループに大別してみたい。彼が自ら弓を引いた時の様子を詠んだものと、弓矢に関する文書(戦記物など)を読んで、そこに述べてある情景を詠ったものとである。

 前者に属するものは、漱石が学生時代に自ら弓を引いたときの情景を詠んだもので、初期の俳句、(1)から(4)までの4句が先ず挙げられる。 これらの中で代表的な句、「弦音にほたりと落る椿かな」を、『漱石と弓』で取り上げたことは前述の通りである。

これらの句から共通して感じ取ることの出来るのは、早春の梅が清香を放ち、椿が鮮やかな色に咲き、小鳥の囀りがどこからともなく聞こえてくる大学のキャンパスで、冴えた弦音を響かせて、熱心に稽古を続ける若き漱石自身の清新な姿である。

(5)「凩や弦のきれたる弓のそり」と(12)「五月雨の弓張らんとすればくるひたる」も漱石自らの体験を詠んだものと考えて差し支えなかろう。(12)について、「長雨つづきで、弓の弦もすっかり湿っけをふくんでうまく張れない、という意である」と、『漱石俳句を愉しむ』(PHP新書)に解説してあるが、むしろ湿気で弓の方がくるったと考えるべきだろう。

(9)を弓の句として選んだのは、「三十三間堂通し矢」の故事を漱石が念頭に入れた上での句作と見たからである。弓を引いた経験のあるものなら誰でも、江戸時代、諸藩をあげて競ったこの大きな催しの事は知っている。「三十三間」と言っても、柱と柱の間が33あるためにそのように言われているので、実際は66間で、1間は180㎝だから、約120mもの長さである。この距離を一昼夜24時間内に何本射通すことができるかを、藩の名誉をかけて競ったのである。

  歴史に残る名射手の星野勘左右衛門、そして彼が、紀州の若き射手和佐大八を密かに助けて、空前絶後の大記録(通矢8133本、惣矢13053本)を樹立させたという美談を、漱石も伝え聞いていたであろう。この大八の「通し矢」は想像を絶する偉業である。従って漱石はこの事を思いつつ、「日は永し」「堂長し」と、同じ意味の言葉を意識的に重ねて使ったのではなかろうか。

  ちなみに、この句の前後に、彼は「永き日」を詠み込んだ次の2句を作っている。

 

    永き日や韋陀を講ずる博士あり

   永き日を順禮渡る瀬田の橋

 

  前の句は、東京大学井上哲次郎博士が、ヴェーダの哲学を悠長に講ずる姿を詠み、後の句は終日とぼとぼと順礼の旅に出た信者が、たまたま瀬田の唐橋を渡る様子を想像しての句作であろう。以上3句の中では、「三十三間堂通し矢」の歴史を踏まえた句が、最も優れているように思われる。

 

(10)は、さりげない風景描写であるが、やはりそこには漱石の弓矢との関わりを読み取ることができる。この句は森鴎外が創刊した『めさまし草』三月号に掲載されたものである。端午の節句にはまだ早いが、長い竿の先に取り付けられた白羽の矢が、棟高き屋根越しに、春風に鳴っている光景として見たとき、在りし日、白羽の矢を白木の弓につがえて、真剣に稽古したことを、ふと思い出して詠ったのかも知らない。

 明治28年正月2日、漱石宇佐八幡宮に参詣した。この時の作が(14)の句である。八幡宮といえば、弓矢の神として崇められている。熊本へ転勤したばかりの漱石には、暇をみて弓を引こうという気がまだ十分あったと思われる。現に彼は熊本への転勤に際し、弓をわざわざ持って行くのを知人に見られてもいる。従って「弓矢八幡殿へ御慶」、つまり宇佐八幡宮へ参詣したとき、立派な弓が引けるようにと祈ったかもしれない。しかしこれら2句は別に検討に値する句ではない。

 

                                        三

 

 さて、今回は残りの句について考察してみたい。最初の句(6)の「時鳥物其物には候はず」はひとまずおいて、(7)の「時鳥弓杖ついて源三位」から取り上げることにする。筆者は『漱石と弓』で、「独断的な解釈を試みる」と断った上で、この句について次のように述べた。これは「独断的」というか、誤った解釈であった。

  

 此の句は歌人としても有名な源頼政(源三位入道)が、仁以王を奉じ平氏打倒の兵を挙げ、宇治川の橋合戦で、刀折れ、矢尽き、「弓手のひざ口を射させ、いたでなれば」、つまり左の膝に重傷を負い、「心しずかに自害せんとて、平等院の門の内へひき退て」と、『平家物語』に書いてあることと、親友子規が病苦を押して俳句革新という運動に、文字通り身命を賭していることを考え合わせて句作したものである。 

 実はこれより前、明治25年7月19日、前日試験場に行ったが受験せずに帰った子規に宛てて漱石は、追試験を勧める手紙を書いて次の句を添えている。

 

 鳴くならば満月になけほととぎす

 

  この「独断的な解釈」は『平家物語巻第四』の「橋合戦」を読み、子規といえば時鳥と早合点した結果で、同じ第四巻にある「鵺」の記述と比較したとき、明らかに間違いであることが分かった。問題の箇所を原文を交えて要約すると、

  

 頼政が50歳前後でまだ謀反を起こす前、宮中に仕えていたときのことである。宮中紫宸殿に「黒雲一村立ち来たって、御殿の上にたなびき、頼政きっと見上げたれば、雲の中にあやしき物の姿」あり、そのため天皇は毎夜悩まれた。頼政矢をふたつたばさみ、「変化の物つかまつらんずる仁は、頼政ぞ候」とまかり出て、「これを射損ずる物ならば、世にあるべしとは思わず」、つまり射損じたら生きてはいられないと思い、「南無八幡大菩薩」と心のうちに祈念して、よく引いてひょうと射ると、「てごたえしてはたとあたる」。

  見てみると、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をしていて、なく声は鵺に似て、恐ろしいなどというどころではなかった。天皇は感じいられて、左大臣藤原頼長を通して、獅子王という御剣を頼政にくださった。

「比は卯月十日あまりの事なれば、雲井に郭公、二声三声音づれてぞ通りける。其時左大臣殿、 

 ほととぎす名をも雲井にあぐるかな 

 

 とおほせられかけたりければ、頼政右の膝をつき、左の袖をひろげ、月をすこしそぼめにかけつつ(横目に見ながら)、

      

 弓はり月のいるにまかせて

   

  と下の句を補って、御剣を頂戴した。「弓矢をとってならびなきのみならず、歌道もすぐれたりけり」と天皇も家臣も感動した。

 

 左大臣の歌は、「ほととぎすが空高く鳴き声を立てているが、それと同様にそなたも宮中に武名をあげたことよ」との意味である。これに対して頼政は「弓を射るにまかせて、偶然にしとめただけです」(注3)と謙虚に応えた。

 ここには武骨一辺の荒武者ではなく、詩歌の道の心得があり、その上自己を持するに毅然たる武士頼政の姿を見て取ることができる。漱石は此の情景に共感を覚えて前掲の句、

 

 時鳥弓杖ついて源三位

 

 を詠んだものだと筆者は察し、前回の解釈を改めることとした。

 なお『彼岸過迄』の中に、登場人物の1人である敬太郎が、浅草観音の本堂に上がって、

 

 「魚河岸の大提灯と頼政の鵺を退治ている額だけ見てすぐ雷門を出た。」とある。

 

 漱石が子供の当時、浅草寺頼政の鵺を退治ている額があり、落款に「天明七年丁未夏五月穀旦(筆者注 吉日) 屠竜翁高嵩谷 藤原一雄敬画」とあったと、『漱石全集』の注にあるので、幼少の時から利発で、多くの事に興味を示していたと思われる漱石のことだから、きっとこの額を見ていたであろう。従ってこの句を作るに当たって、この額に描かれた絵が頭に浮かんだのではなかろうか。 

 

 次に(6)「時鳥物其物には候はず」の句について考えてみよう。『平家物語』で人口に膾炙した場面の一つに、「敦盛最後」がある。

 

 源氏の武将熊谷次郎直実が、「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも(卑怯にも)敵にうしろを見せさせたまうものかな。かえさせ給へ」と、扇をあげて招き寄せ、むずと組んで取って抑え、頸を斬ろうと甲を押しのけてみると、「年十六七ばかりなるが、うす化粧して、かねぐろ(元服した貴族がお歯黒で歯を黒く染めている)也。我子の小次郎がよはひ程にて、容顔まことに美麗也ければ」、斬りつけることも出来ず、「抑いかなる人にてましまし候ぞ。名のらせ給へ、たすけまいらせん」と言うと、「汝はたそ」と逆に名を訊かれ、「物、そのもので候はねども(物の数に入るほどの者ではありませんが)、武蔵国住人、熊谷次郎直実」と名乗る。

  この後直実は状況やむを得ず、敦盛の頸を掻き切り、「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。武芸の家に生れずば、何とてかかる憂き目をば見るべき。なさけなうも討ちたてまつるものかな」と、さめざめと泣いた。そして出家することになる。

 

  漱石の句との関係について考えたとき、「物、そのもので候はねども」という言葉が、(6)「時鳥物其物には候ず」にそのまま使われている。従って『漱石全集』の注にも、この句は「敦盛最後」を詠ったものだと解釈している。確かにその通りかも知れない。しかしこの句を弓矢に関する物として取り上げてみたいのは、「時鳥」という言葉がどうも納得しかねるからである。もっとも「ほととぎす」という語句は俳句では割と自由に使われるそうであるが、この句は前に挙げた「時鳥弓杖ついて源三位」と同時に漱石が詠んだ句であるので、源三位頼政の弓矢を執った時の気持ちを詠ったもの、と考えることも可能ではなかろうか。

 付言すれば、頼政が「鵺」を退治しようとして、「これを射損ずる物ならば、世にあるべしと思はざりけり」と言って弓を構えたとき、彼は射損じたら死を覚悟しての決意であった。しかし彼は武士としての矜持を身につけている。そこで漱石は直実の口にしたという「物、そのもので候はねども」の言葉を借りてきて、頼政の故事を空往く時鳥を点景としてこの俳句を詠んだ、と解釈してみてはどうかということである。

 

 次に(8)「月に射ん的は栴檀弦走り」の句は、『保元物語-中』にある鎮西八郎源為朝の記述をふまえたものである。弓矢を執れば天下無双の若武者為朝が、敵とはいえ射向かう相手は実の兄義朝である。一の矢をわざと外し、「真向内冑は恐れも候ふ。障子の板か。栴檀弦走り(注3)か胸板の真中。矢壺を慥に承って仕らん」(注4)と言って、余裕と自信をみせ、かつまた兄の命を愛おしむ場面は、修羅の合戦の場ではあるが、武士の情け掬すべき所がある。漱石はやはりこの点に注目し、「月に射ん」という詩的詠い出しをもって、この句を作ったと考えられる。

 (9)の「梓弓岩を砕けば春の水」については、戦記物を手がかりとしたのではない。従ってこのグループには入らない。しかし、例えば為朝が、8尺5寸の剛弓(並の弓は7尺3寸)を、満々と引き絞り放てば、矢は岩をも砕いて水が湧き出る。これは単に誇張的想像に過ぎないが、そこに弓を「張る」と「春」の懸詞の妙、「岩を砕く」力強さと、「春の水」の優しさといったものが描き出されて、剛毅な中にも、何だかほのぼのとしたものを感じ取ることが出来る。

 残りの2句、(11)「よき敵ぞ梅の指物するは誰」と(14)「梅散るや源太の箙はなやかに」は、『源平盛衰記』の「箙の梅」を念頭に置いての句作と考えられる。

 さて、「箙の梅」は、『広辞苑』にも一事項として記載してあるように、「生田の森の源平の戦で、梶原源太景季が、箙に梅の枝を挿して奮戦した故事」である。漱石はこの有名な故事をふまえてこれらの句を作ったことは間違いない。源義経の家来、若き剛勇なる武将梶原景季が、手折った梅の枝を箙に挿して、先駆けの功名を立てようとする勇み心と、かれの美意識に共感を覚えた漱石が、思わず詠んだのであろう。正確にはこれはむしろ「箙」あるいは「梅」を詠ったものである。しかし矢を入れる「箙」ということで、弓矢に関係した句として選んでみた。

 

 余談ながら、今年5月、筆者は神戸市で開催された高校の同期会に出席した。卒業以来半世紀以上を経てはじめて会った同級生もいて、懐旧の念をあらたにした。折角此の地まできたので、翌日三の宮駅近くにある生田神社に詣で、社頭にある「箙の梅」の生木とその側にある「謡曲『箙』と梶原景季」の立て札をカメラに収めて帰った。その立て札には次の古歌が書かれてあった。 

 

 吹く風を何いといけむ梅の花 散り来る時ぞ香はまさりけり

 

「箙」という字を印刷物以外で見ることは稀であろう。蛇足としてもう1つ書き加えると、著者が萩市から山口市に居を移したとき、茶席の床柱だけは記念になると思って大工に頼んで動かした。すると天井裏に大きな欅の一枚板が見つかった。下ろしてよく見ると、縦50㎝、横90㎝、厚さが2㎝の黒ずんだ板一杯に、「箙」の一字が大きく浮き彫りされており、半ば剥げ落ちてはいたが、金箔まで塗られたものであった。金箔は剥げてはいたが、なかなか貫禄のある達筆であった。

 実は明治になる前、我が家は酒造業を萩で営んでおり、曾祖父は天神様を信奉していた。天神と言えば梅である。彼は梅屋の屋号をつけ、酒銘を「箙」としていたと話には聞いていた。従って彼は「箙の梅」なる故事を知っての上で命名したと思う。話の実証となるものを目にしたときは、時が逆行した感じでいささか驚いた。

 以上見てきたように、漱石は弓矢に関する俳句をいくつか詠んでいる。そこには彼自身の体験に基づくものの他に、『平家物語』、『保元物語』そして『源平盛衰記』など軍記物を読み、そこに描かれた武士たちの潔さ、武士としての矜持、敵とはいえ相手をいたわる情け心、さらにものの哀れを感じて、歌にすることさへ出来る教養の高さ、こういったものに共感して句作したと思われるものが数えられる。

 最後に一言。漱石が第五高等学校に転勤して間もなく、「俳句とは一体どんなものですか」という寺田寅彦の質問に答えて、「秋風や白木の弓に弦張らんと云ったような句は佳い句です」と言って、向井去来の句を紹介しているが、漱石も時として、去来と同じ心境になって、「よし、爽やかな秋になった。一つ引いてみるか」と、弓に弦を張ったこともあるだろう。このように考えると、「月に射ん的は栴檀弦走り」も、単に為朝の雄姿を客観的に詠んだだけではなくて、「月影は良し、栴檀の板であろうと、弦走りであろうと、お望みの箇所何処でも射抜いて差し上げよう」と言って、きっと弓を構えた為朝の立場に自らを置いた漱石の、感情移入の句として見ることも、一つの解釈ではあるまいか。

   

(注1)『図書』2002年4月号、『弓道』2003年1月号

(注2)『平家物語』(新日本古典文学大系 岩波書店

(注3)栴檀の板は鎧の具で、胸板の左右の間隙防御の板で、狭義には右の札仕立(さねじた    て)をいう。弦走りは鎧の胴の正面から左脇にかけての部分。

                                            『日本国語大辞典』(小学館

(注4)『保元物語』(中根淑注釈 明治二十四年 金港堂)

 

 参考文献 『漱石全集』(岩波書店1996年版) 坪内稔典著『俳人漱石』(岩波新書

                                                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

随感

 もう二十年以上過ぎた。平成十年九月に萩市から山口市に転居した時は、自分がこんなに長生きするとは思いもしていない。又妻が私を残して死ぬなどと考えてもみなかった。さらに云えば高校の同級生をはじめとして、友人知人の大半が鬼籍に入ることも全く念頭になかった。それどころか今や良く知っていた教え子さへも何人も亡くなっている。これが人生だ、「無常迅速」、淋しくもあり又悲しい事でもある。

 

 こちらに転居した当時、私は長年の義務的立場から解放された感じを抱き、新しい環境において新しい住まいもできたので、これから本当の意味で第二の人生を自由に送れると思った。振り返りみれば過ぎたことと言えるが、こちらに来る前の十数年は、勤務中は忘れていても、一端我が家の門を潜った途端騒音が耳に入り、翌日門を出るまで絶えず頭を悩ました。妻は一日中そのような状況の中にいたから、神経に異常をきたし始めたのも無理からぬことである。暗中模索、出口が見つからない状況下で一番苦しんだのは妻だった。そういった中で曙光が見え始めると、幾つかの問題が続けて解決したのは考えて見ると不思議である。

父が生前云っていた、「まあもう少し辛抱して見たらいい。その内解決する」と。そうは言われても忍耐には限度がある。妻の苦しみは今考えて見ると本当に可哀想だった。私は我が家を見捨ててもいいと決心をした。幸いに「青木周弼旧宅」に避難できたことで、解決の糸口が一時的には見つかった。それでも根本的解決にはならなかった。我が家に買い手がつき、それと同時に長年の懸案だった橙畑が売れたことで救われた。

「もう一年待ったらもっと高く売れる」と云った人もいたが、それは違っていた。それからは萩市内の不動産の売却は日を追って難しくなっていったからである。私はこれらの事は天佑神助、先祖のお蔭だと信じている。本当に有難かった。

 

人間万事塞翁が馬」とか「人生は糾(あざな)える縄の如し」とか云われている。或いは「禍福は寝て待て」との呑気な格言もあるが、苦しみ悩みの渦中にある者にとっては、なかなか心を落ち着けてどっしりと構えることはできることではない。

こうした苦しみの長いトンネルを抜けた今、ここまで来られたのは先にも云った神仏の御加護は別として、多くの人達のお蔭だったことも忘れられない。

 

こちらに来て是までとは違った人生が広がった。私はまだまだこれから何かできるといった気持ちだったから、弓道教室に入門して弓の稽古を始めた。しかし数年して体力的にどうも無理だと分かった。しかしお蔭で弓道に興味を覚え、色々と関係の本を読んでみた。そして弓道というものが実に奥深く、一朝一夕には窮め尽くせるものではないと云うことを知っただけでも、良い勉強になった。

漱石が東大大学院時代に勉強のし過ぎで一寸体調を崩したので、それを癒やす目的もあって一年間ばかり弓を引いている。そしてこの体験を俳句に詠んでいる。私はこの事を知って『漱石と弓』という拙文を書いて岩波書店に送ってみた。一か月ばかりして『図書』に採用してくれた。この事がきっかけで、山口高校の先生連中が始めたという同人誌『風響樹』のメンバーに加わるようにと誘われた。作文など全く苦手だがメンバーの一員になることにした。

そうなると、いくらつまらない文章でも何か絶えず書かなければならないという半ば義務的な立場に置かれることとなった。この事は私にとっては亦別の意味でのプレッシャーになった。しかし同人誌への寄稿は年に一二回の緩やかなものだから、それほど精神的には負担に思えなかった。それでも締め切りが近づくとやはり気がもめることがあった。第一、長年書き慣れているメンバーの中にずぶの素人が入ったのだから気が引けた。

そういったこともあったが書くということは生きる上で一つの目標となり、ささやかながら生き甲斐にも思えた。それまで文章を書くなど夢にも思わなかった事だから、やはり不思議な縁だと思う。是に加えて、先に述べた『図書』を読んだと云って、全く未知の方、一人は姫路市、もう一人は神戸市在住の文学好きの、私とほぼ同年配の人と付き合うようになった事は望外の喜びとなり、また励みにもなった。人の縁とは本当に不思議だとつくづく思う。縁と云えばそれまで全く未知の二人が結ばれる結婚。これこそ最も縁の深い出合いと言えるかも知れない。

 

妻はこちらに来て無二の親友ができた。萩でも親友に恵まれていてその点では妻は幸せだったと思われる。山口での仲良しになったのは萩高校出身で妻とは同学年の女性である。二人は殆ど毎週一度と云っていいほどよく会って話していた。先日もこの人から私宛に手紙が来た。妻の一周忌の法要と納骨を無事に済ませたと知らせた事への返信であった。

人柄を彷彿させるようなやさしく素直な字が「矢次淑子用箋」という和紙の便箋に書かれていた。

「過日はおじゃま致しまして色々なお話しやお写真も見せて頂きなつかしく少しは元気が出ました。

この一年想い出しては涙する日々でございました。本当に寂しくて・・・」

人生では本当の意味での良き友に出合うという事は全くの運のような気がする。確かに自力によるよりは他力のお蔭だと私は思って居る。「莫逆(ばくぎゃく)の友」という言葉は「逆らうこと莫(な)き友」、「歩みや考えを共にせざるをえない友」という意味だろう。このような友に恵まれた者は幸せだと言える。その意味に於いて妻は幸せだった。この他にも我々はこちらに来て良き方々に出合うことができた。お蔭でこうした家族と萩に居た時の知人夫妻たちと、一緒に国内各地の旅を楽しむ事が出来たのは、今から思うと良き思い出になる。

 

しかし月日は着実に流れ、時は刻々と刻まれていたのである。若いときは、『徒然草』を読んでも、『方丈記』を繙いても本当の意味で読んではいないのだ。ただ書かれた内容を上辺だけで知解したに過ぎない。だから名著は繰り返して読む必要がある。

 

私は妻が亡くなってたまたま『漱石全集』の中の「思ひ出す事など」を読んで、漱石修善寺大患後の心境の変化を文章に綴り、その時の気持ちを漢詩に表現しているのを知った。そこで私は是が最期になるだろうが、もう一回はじめから漱石の全作品を読み直そうと決意した。是まで作品によっては幾度か読んでいるが、『文学論』など実際には読んでいない作品もあるから、まずこの『文学論』に最初に挑戦した。この難解な英文混じりの論文を曲がりなりにも読み終えた。それこそ字面を追ったに過ぎないが何とか最期の頁にまでは辿り着いた。

さて、これでいよいよ「第一巻」『吾輩は猫である』から読み始めることにした。『猫』や『坊っちゃん』などには死の片鱗さえ窺えない。その後の作品だと思うのでこれからが楽しみである。

 

先に述べた「思ひ出す事など」の中にある最後の漢詩で、彼はこう詩(うた)っている。

 

 眞蹤寂寞杳難尋    真蹤(しんしょう)寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難く

 欲抱虚懐歩古今    虚懐を抱いて 古今に歩まんと欲す

 碧水碧山何有我    碧水碧山 何ぞ我(が)あらんや  

 蓋天蓋地是無心    蓋(がい)天蓋地(てんがいち) 是れ無心

 依稀暮色月離草    依(い)稀(き)たる暮色 月 草を離れ

 錯落秋聲風在林    錯落(さくらく)たる秋声 風 林に在り

眼耳雙忘身亦失    眼(げん)耳(に)双つながら忘じて 身(しん)亦た失し

空中獨唱白雲吟    空中に独り唄う 白雲の吟

 

森羅万象の真実の相は、ひっそりとして静寂であり、まことに深遠で容易に知ることはできない。自分はなんとかして私心を去って真理を得ようと東西古今の道を探ねて生きてきたことである。一体、此の大自然にはちっぽけな「我」などないし、仰ぎ見る天や俯してみる地は、ただ無心そのものである。

自分の人生の終りを象徴するかのように暮れようとする黄昏どき、無心の月が草原を照らし、吹きわたる秋風が林の中を通りぬけていく。この人生の最期に立って、もはや自分は小さな我の欲望や感覚を越え、自らの存在すらも無にひとしいように感じるのだが、そのような心境で空を飛ぶ純白のあの雲のような自由さに想いをよせて、自分の「白雲の吟」を唄うのである。

                  (佐古純一郎著『漱石詩集全釈』より)

 

 佐古氏はこの詩の【補説】で次のように云っている。

「この詩を作った翌々日の十一月二十日に、漱石胃潰瘍の発作で病床に臥し、それが死の床となった。それゆえにこの詩が文字どおり、漱石の最後の作品となったわけである。漱石が晩年に志向した「則天去私」のイメージがまことに鮮明に表現されて、漱石文学の精髄といってもけっして誇張ではないと思う。

漱石は、十二月九日の午後六時四十五分永遠の眠りに就いたのである。」

 

今年令和二年になって、山口在住の知人が、「主人が買って読んでいましたが、老人施設に入りましたので、お読みになれば差し上げます」と云って大判の立派な河上肇の『遺墨集』をわざわざ持参された。彼女は妻を通して知ったのだが、私とあまり年は離れておられないが、バイクに乗ってわざわざ持参されたにには恐れ入った。私はその親切を有り難く思い早速手にとって読み始めた。写真版の河上肇の運筆というか墨蹟の味わい深さに打たれて頁を繰った。実に良い字である。いわゆる書家の上手な筆運びではない。自ずから人格が現れて居るとも言えるものだと思った。

何故此処に突然河上肇の事を書くかというと、漱石が自分の弟子に宛てた手紙の中で、河上肇に言及して居るのを思い出したからである。

明治三十九年二月三日に野間眞綱に出した手紙に次のように書いている。

 

「小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を思ふと河上肇などゝ云ふは感心なものだ。あの位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ。(中略)

人間は外が何といっても自分丈安心してエライといふ所を把持して行かなければ安心も宗教も哲学も文学もあったものではない。」

 

私は先に述べた『河上肇の遺墨』に載っている「河上肇年譜」を見てみた。すると彼は明治三十五年に東京帝国大学を卒業、同年に結婚している。年齢は二十三歳。翌年に東京帝国大学農科大学講師になっている。そして明治三十八年に『読売新聞』に「社会主義評論」を連載し、その年に伊藤証信の無我苑に入って居る。明治三十九年、即ち漱石が野間宛ての手紙の出した明治三十九年に、肇は無我苑を出て読売新聞記者になっている。

ついでに書けば、彼は明治四十一年、二十九歳の時、京都帝国大学法科大学講師になり、昭和三年四十九歳まで大学で教鞭を執っているが、その年に筆禍事件などで辞職、昭和八年五十四歳の時検挙され、小菅刑務所に入れられ、昭和十二年に五十八歳になって刑期満了で出獄して居る。こう見ると漱石がいみじくも云った如く筋の通った「豪傑」である。

「獄中秘曲の中より」という書がこの本に載っていた。

 

筋骨の逞しい若者たちと一緒に

風呂に入る私の裸姿をば、

初めて見たる人々は、

世にはこんなにも痩せた人閒が居るものかと、

驚きもし怪しみもするでせう。

そして哀れにも思ふことでせう。

 

だが私自身はひそかに自分を慰める。

おれの肉体こそこんなに痩せて居るが、

おれの精神は少しも痩せては居ないつもりだ。

獄中生活もやがて三年になるのに、

魂だけは伸びてふとりこそすれ、

痩せもせず、衰へもせず、老いもしない。

 

さう思ふ私は、

ざわめく湯槽の波に身を任せて、

黒い鐵棒のはまった窓から、

灰色の見張塔の閒近に聳ゆる

青空の一角を静かに眺めながら

ひとり自らほほえむ

 昭和十年十一月夜書 河上肇

 

これを書いた二年後に彼は出獄する。それから彼は表向きは共産党の活動はしないで、獄中から取り寄せて読んでいた漢詩の研究に半ば没頭している。私は彼の書いた『陸放翁観賞』を山口県立図書館で借りて読んだことがあるが、今回彼の遺墨を始めて見て、その中に載っている歌とその墨蹟が気に入ったから、その一つを書き写してみよう。

 

 我裳亦落葉爾埋留苔清水安流可難伎香乃閑曽希佐耳生久

 

万葉仮名を普通の言葉にすると、

「我もまた落ち葉に埋る苔清水 あるかなきかのかそけさに生く」

 

彼は晩年は無欲恬淡、自然を友として「かそけさに生き」、生涯を終えたように思う。

                         

2020・6・14 記す

ジョルジュ・ルオー

 神戸在住の知人から『随感』と題した文章と、それに添えて半切の便箋に書かれた手紙が来た。この便箋にはエル・グレコの宗教画が印刷されてあった。以前にも同じ便箋が使われていたので、私は彼が此の宗教画家エル・グレコに関心があるのかと訊ねたら、メールで、エル・グレコはあまり知らない。ルオーを好む、と言ってきた。私もルオーに魅せられた事があるので、久し振りに福島繁太郞編著『ルオー』を書架から下ろして読み返すと同時に当時のことを思い出した。

 

昭和二十八年の秋に私は初めて上京した。大学三年の時だった。漱石の『英国詩人の天地山川に對する観念』という論文を読んで、漱石がワーズワスに次いで評価しているスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズの存在を知った。ワーズワスは誰もがその名を知っているので、バーンズを卒論に選ぼうと思った。併せてこの詩人の肖像画も気に入ったからである。そこで適当な参考文献を求めるために上京したいと言ったら父が賛成してくれた。 

夏休みの暑い盛りに、毎日午前中汗びっしょりになって橙畑の草刈りをしたので、それをねぎらう気持ちもあったのだろう。当時一人の従兄が東京にいたので彼の下宿に二三日世話になることにした。

これより前、私は斎藤勇氏の『イギリス文学史』にHans Hecht著『ROBERT BURNS』という研究書が挙げてあったので、是非これを入手したいというのが主な目的であったが、従兄が一度東京に出てみないかと誘って呉れたことも上京のもう一つの要因である。

東京に着いて早速丸善書店へ行き、この赤い表紙の本が書棚にあるのを見つけてホッとした。著者はドイツのゲッチンゲン大学の教授でドイツ語の原文を英訳したものであった。 

 

私は所期の目的を達したので、一人でぶらっと銀座通りの一軒の画廊に入ってみた。展示されていた作品を一通り見て立ち去ろうとした時、着物姿の大柄な老人と背広を着た二人の中年の紳士が入ってきた。見るからに威厳のある老人である。二人は此の老人の従者のように見受けられた。私は一廉の人物だろうと想像した。彼が自分の名前を記帳するのを陰ながら見たら、墨黒々と達筆で「武者小路実篤」と書いた。 

明治十八年生まれの実篤はその時六十八歳である。黒みがかった着物に濃い渋茶色の羽織姿の恰幅の好い人である。特に坊主頭が人並み以上に大きかった。彼はステッキを傍らに置いて署名した。私は全く偶然だとは言え、この偉大な小説家を間近に見て圧倒させられた感があった。

興奮冷めやらぬ気持ちを抱いたまま、私の足は上野公園へと向かった。秋晴れの爽やかな良い季節で、園内を歩いていたら広々とした芝生の一處に、「ルオー展」と書かれた立て看板があるのが目に入った。私はルオーという名前をそれまで知らなかった。折角上京したのだから、絵画展や画廊の一つくらいは見物してみようと考えていたので、私は軽い気持ちで今度は「ルオー展」の会場を訪れた。

 

昭和二十八年と言えば、戦後間もない時で、街頭には白衣で松葉杖をつき、喜捨を求めて紙の箱を首から提げている傷痍軍人の姿があり、駅の構内などには戦災孤児が何人も見かけられた。まだ戦争の傷跡は各所に残っていた。私はこうした状況を見て胸が痛んだのを覚えている。

さて、最近はこうした催しが各地で行われると、大した展示会でもないと思われるのに、猫も杓子もわんさと押しかけている。あの当時も東京での開催だから、美術愛好家は多くいたであろう。しかしその時は割と閑散としていた。後で考えてみたら、閉館の時間前だったから、入場者の多くは会場を後にしていたのかも知れない。そうとは知らずに私は切符を求めて展示場へ一歩踏み入れた。

最初に目にとまったのは「石臼をまわすサムソン」の素描であった。はっきりとは覚えていないが、横幅が1メート位で縦がそれより長い画用紙に書かれた絵が画架に立てかけてあったように記憶している。私はそれまで絵画展などへ足を運んだ経験がないが、初めて見るこの絵に引きつけられてしばらく足を止め、石臼をまわす盲目の半裸体の男の苦しそうな表情をじっと見た。

この後数年して「サムソンとデリラ」という『旧訳聖書』に出てくる物語の映画を見てサムソンのことを知ったのだが、その時は只なんともなく引きつけられたのである。この絵の外に数点の油絵を見たがそれらがどんな絵であったかは覚えていない。ところが一つの肖像画の前に来たとき私は釘付けになった。何故その様な心理状態になったかを説明できない。ただ何となく崇高な念に打たれた感じであった。それは一人の女のピエロを描いたものと説明してある。ピエロと言えば一般的には下層の女性である。それが何とも言えない不思議な気品を湛えている。

私はここでも亦じっと見入った。今回は随分長く立ち尽くしたのを覚えている。そうしているうちに閉館の合図があった。私は我に返ったような気持ちで会場を後にした。結局入場料を払って二枚の作品だけを見たことになる。それでも充分満足できたと思う。それから私は此の初めて知ったフランスの偉大な画家にとりつかれたと言っても過言ではない。先に挙げた福島繁太郎の本を買ったのもその為である。此の度それこそ半世紀以上も経って開いてみたら、アンダーラインを引いた箇所があった。それを今読んで、ルオーを日本に最初に紹介した慧眼の画商・福島氏の文章に、私の言わんとする気持ちがそのまま代弁されているように思えた。

 

 どんな卑俗な人達を主題にとっても、以前の聖書による主題をとった時のと同じく厳粛な宗教的サンチマン(引用者注:芸術品に現れる情趣、洗練された感情)を感じさせる。(これは当時に於いて理解されず、ただ醜悪のもののみを描くと誤解された。)社会の下積みの人達を主題とするルオーの絵が、他の作家のバイブルより題を得た所謂宗教画より、はるかに宗教的の感じがするのは如何なる理由であろうか、固い信仰心が自ずとにじみ出てくるとしか説明がつかない。それほどルオー芸術は精神的である。これがまたルオーが一世の巨匠となっても一人の追随者もなく、常に孤独である所以である。外形は模倣し得ても精神的のものは真似し得ない。そして精神を除いてはルオー芸術は凡そ意味がないからである。

 

誠に核心を衝いた評言だと思う。なぜ彼がこのような精神的な画家となるに至ったのか。その訳は彼の生まれ育った環境に見られることを、これも福島氏の本によって知った。

 

ルオーは1871年5月27日にパリの労働者街に生まれた。丁度その頃はパリ・コンミユンの動乱の真最中で、その街区はヴェルサイユ政府軍の砲撃を受けて砲弾がしきりに落下している有様で、ルオーの母は地下室に難を避け、そこで彼は生まれた。無事に育ったのはひとえに母方の祖父の至れり尽くせりの心尽くしによるという。

ルオーの父は生まれはブルトンブルターニュ人)で、ケルト系の頑固一徹な性格だった。職業は塗物師で仕事熱心な名工であった。宗教的にも正直一徹な人で、ラムネーというカトリック教会に厳しい批判をしていた人の教えに帰依していたとある。

ルオーは幼いときから絵を描くのが好きで、学校を終えた十四歳の時に職業を選択する際、父もルオーの性格や祖父の希望を考慮して、絵に幾らか関係のあるスティンドドグラスの職人の徒弟になった。彼は毎日の仕事が終わった後、国立装飾美術学校の夜学に通い、デッサンを勉強した。

文字通りの苦学であった。そして誰にも告げずに美術学校の試験を受けて見事及第し、職人の足を洗う決心をして親方に告げたところ、親方は飛び上がって驚き、給料を何倍にもするからと言って引き留めたが、彼はどうしても画家になりたいからと言って職場を去った。

美術学校ではギュスタヴ・モローの弟子になり、モローは忽ちルオーの才能を認めたようである。ここにも一つの運命的な出会いを感ずる。モローと言えば聖書に出てくる洗礼者ヨハネサロメの話を主題にした『出現』を私は思い出す。サロメが彼女の父に強引に願ってヨハネの首を求めた物語である。モローはそれを描いている。画面右方の空中に黒い髪を長く垂らしたヨハネの生首が燦然と輝いて浮かんでいる。一方左側に凜々しくも体を反らすようにして立ったサロメは、宝石をちりばめた薄衣を纏った半裸の姿で右腕を真っ直ぐに伸ばしてその首を指さし、傲然と凝視している図である。

モローはこういった数多くの宗教画的な作品を残しているようだが、ルオーもこの面で師匠の影響を受けたと思われる。しかし師弟の間で大きな違いは、「モローは神の存在を許容したものの、自由主義的な考えを持った知識人であった。穏やかな人であったから芸術も革命的なところはなく、伝統的なレムブラントの明暗法に生涯つきまとわれていた。ところがルオーは、火のような情熱家で、神をひたむきに信仰し、その信仰の態度は中性的とも言える位。性格は狷介で常に反逆的である。従って芸術も革命的で、遂にレムブラントの明暗法を逸脱して色彩の価値を強く認識していた。二人の共通点を求めればただ精神主義であるという一点に止まる。」と福島氏は述べている。

モローの死後、ルオーは家庭的にも不幸でしばらく貧困と孤独の中にあって彼は黙々と絵を描き続けている。その後のことについては省くが、彼が世に出たのは六十歳を過ぎた晩年である。

 

今考えると、このルオーの作品だけではない、私が西洋画を初めて目にしたのがルオーの作品だったのは、何とも不思議な因縁に思われる。

最後に最近幸田露伴の本を読んでいたら、尾形乾山について次の文章を目にした。ルオーと乾山と言えば洋の東西で時代も違い、お互い全くの交流も影響もないが、一脈通ずる点があるように感じたのでその文章を紹介してみよう。

 

乾山は雅趣のある陶器を造ったので有名な人であるが、此の乾山の窯法釉法を書いた無題簽(無署名)の一冊の写本があったのを自分は写して、仮に乾山傳窯法と名づけて持って居る。別に面白い事があるでも無いが、ただ其中の記事によって、其一巻は乾山が弟子の清吾といふものに授けた法で、清吾はまたこれを古萬古焼の祖となった沼波弄山に伝へたといふ事が分り、従って古萬古の陶法が乾山の系統を受けて居るといふ事を証する一徴となる。そればかりでなく、巻中の處々に「能々勘弁可有事也」だの、「銘々発明によって如何やうとも工夫あるべき也」だの、「我等存命の内は随分教へ可申事に候、何事もただただ工夫勘弁さへ致し候へば獨りできる事也」だの、「勘弁才覚次第面白き事出来るもの也」だの、「随分工夫して幾度も幾度も焼き覚え申さるべく候」だのといふ、人をして自ら奮って我より古(いにしえ)をなすに至らしむるやうな語気の多い事は、実に乾山其人を想はしむるに足るもので、自分をして甚だ愉快を感ぜせしむ」

 

何故私は乾山に思い至ったかというと、以前乾山と署名のある「向付」の皿を手に取った事がある。その時私は深みのある釉薬の色彩と力強い文字が、ルオーの黒色の縁取りと濃い鮮やかな色彩に似たものを感じ取ったからである。乾山(1663一1743)は八十一歳で亡くなり、ルオー(1871-1958)は八十七歳の長寿を保っている。この偉大な東西の芸術家は共に大器晩成だったのであろう。

なお「勘弁」という言葉には「考えて事を決める」という意味もあることを知った。ルオーも乾山も作品の製作に生涯心血を注いだ事であろう。

                        平成三十一年三月二十日 記す

『杏林の坂道』の読後感

 

                  一

 

本誌『風響樹』に2001年(平成13年)から連載してきた伝記小説『杏林の坂道』を、昨年末に私家版として400冊ほど上梓した。当初は、残部が多く出たら処置に困ると思っていたが、幸いにも今は手元に殆どない。

文章を書くなど思いもしなかったのであるが、全く偶然の動機から書き始め、どうにか完成にこぎ着けることが出来た。それだけでも満足しているが、知人はもとより未知の方からかなりの数の読後感を頂戴した。これは私にとって望外の喜びで非常に有難かった。この喜びをそっとしておく方が慎みのある態度だと思うが、今回敢えてその中から数編を選び、筆者の承諾を得て披露させていただくことにした。考えて見れば、この長編をじっくり読んで、その上このような読後感想文に纏めるのは、決して容易なことではないと思う。私としては敬意と感謝の気持ちを表したいのである。

 

事を為した後、他人の評価を全く度外視して、淡々と何事もなかったように振舞う事は、凡人にはなかなかできない事である。『風響樹』に連載中、数人の方から寄せられた読後感は、私にとって励みにもなった。2007年(平成19年)8月23日の『読売新聞』の「時評・小説」に、松本常彦氏が『風響樹35号』を取り上げて下さった。これは全く思いもかけない事であった。以下はその全文である。

 

山本孝夫「杏林の坂道」は、緒方惟芳という医師の生涯を辿る連載長編の伝記である。緒方は、明治十六年に山口県に生まれ、日露戦争では看護兵として従軍し、広島の陸軍病院に勤務しながら苦学して医師になった人物で、「第八章・医師への道」と題された今号は、その明治四十年前後から大正に至る間のこと、つまり緒方の二十代半ばから後半にかけてのことが書いてある。

基本的には、緒方の残した日記や写真などの資料に基づき、その紹介に則しつつ人生を再現するという書き方である。謹厳な医師が残した日記の引用は、場合によっては無味乾燥な趣を与えかねない。しかし、この伝記の場合、緒方が日露戦争中に撮った写真など、資料自体の面白さに加え、資料を直接に引用・紹介することで記述の客観性を保証する。それだけでなく、資料についての解説を平易な語り口で記し、また、資料全体を見渡した上で主人公や関係者の心理にまで踏み入ることを恐れていないため、生身の人の姿を伝える伝記小説としても十分に楽しめるものになっている。

著者は、同時代的な事件や歴史事項にも十分に意を払っているが、その意図は、歴史それ自体の再現にあるのではなく、歴史を生身の人間として生きた生の再現にあると感じられた。(筆者は九州大学大学院比較社会文化研究院教授)

 

この三年後の2010(平成22年)12月27日の『毎日新聞』に、松下博文氏の書評が載った。これは短評だがやはり有難かった。

 

山本孝夫「杏林の坂道」(「風響樹」39号)が第十二章に入った。今号では実母の死から県立萩中学校へ進学、日大医学部への入学、父祖の地での医業開業、その後の結婚、そして召集令状によって硫黄島に行くまでの緒方芳一の足跡が描かれている。中でも父や継母や妻や兄弟にあてた硫黄島からの手紙はその後の玉砕を知るものにとってはやりきれない思いがする。(筆者は筑紫女学園大学教授)

 

これに引き続いて『長周新聞』に、「硫黄島から家族にあてた手紙」と題して『風響樹40号』の書評が載った。記者の竹下一氏の懇切適切な書評には、流石にプロだと感心させられた。その一部を取り上げて見よう。

 

芳一からの初期の手紙は、灼熱と硫黄臭にむせびアメーバー赤痢などの伝染病と戦う地下壕の中から、両親や妻へのいたわりと期待を込めて書かれたもので、文芸的な感性を確かめる心のゆとりを感じさせるものであった。部隊の兵士たちが何よりも、家族からの手紙や慰問品に喜んでいることを伝えていた。

芳一はそこで、家族に「生きる上での心構え」を綴っていた。それは当地と内地との「考える尺度」の違いについて、「内地では理屈が多く実行が少ない」「精神だけひどく緊張して神経衰弱みたい」だというもので、「内地はもっと落ち着いて心の余裕を持たないと神経衰弱になるのではないか」「何かすると非国民と思われはしないかとビクビクしてゐる者」もいるが、「もっとノフードーに図太く考えて居る人も欲しい」と諭していた。

 

『風響樹41号』でもって私は連載を終えた。これにも『長周新聞』紙上に竹下記者の好意的にして実に要を得た書評が載った。一部転載してみよう。

 

小説は、惟芳とその周りで生きた当時の人人に特有な素朴な人情のなかに質実剛健、誠実実直さを秘めた気分感情を、その家族,親戚はもとよりさまざまな知人、友人の証言、関連する公文書、書簡や手記などの諸資料の紹介を通して描いている。また、そのような一家族の営みを吉田松陰高杉晋作など維新の傑物、漱石や鷗外などの文豪、中国の古典などから豊かな人間的素養を織り交ぜて、社会的歴史的広がりのなかで浮かびあがらせている。(中略)

最終稿となる今号は、芳一に続いて、夫の惟芳を失った妻の幸が残された四人の子どもを女手一つで育てあげ、百一歳の長寿をまっとうするまでの半生に光をあてている。

一家の大黒柱を失った幸は、背負わされた生活の困難を正面から受けとめる。小説では、その局面で幸が娘時代に父親から聞いた、維新前夜の祖父母の経験を思い起こす内容をくわしく展開している。幸の祖父・梅屋七兵衛は、迫り来る幕府にうち勝つ必要から長崎にわたって洋式銃の購入を命じられるが、当時の緊迫した複雑な情勢から、上海に一年間ほど逃れ滞在し、任務をなし終えた人物であった。

幸は父親がこの話を通して、「(難局に立ち向かうとき)歯を食いしばって辛抱し、苦難を乗り切った体験こそが、心の貴重な支えになるのだ」と教えようとしたのだと思い起こすのである。

小説では、これと関連して、七兵衛が上海に滞在した三年前に、高杉晋作が同じ上海に渡航した様子を高杉の『上海日記』から多く引用して印象づけている。(中略)

こうした山口県の父祖たちのたたかいと気骨を受け継ぐ幸は戦後この地にも、戦前、戦中とは違った風潮が浸透しており、都会では「自由主義」「民主主義」が上ずった調子で叫ばれるなかで、「美しい人倫が崩壊し、人としての矜持が失われていく」ことへの強い危惧を覚えるのである。(中略)

作者は、明治生まれの格式を重んじる一人の婦人の生き方を通して、それを単純に古いものとして片づけるのではなく、そこから今日の荒廃に対置,継承すべきものを引きだそうとしている。それは、この小説全体を大きく貫くテーマだといえる。

 

                   二

 

『風響樹』への連載は14章をもって最終稿としたが、私家版にはこれに一章を加え、さらに主人公惟芳が撮影した「日露戦争の写真」ならびに惟芳と妻の幸、および硫黄島で玉砕した芳一の肖像写真と芳一の遺品等の写真を載せた。

先に述べた『長周新聞』に、またも竹下氏の好意的な書評(今回は割愛する)、引き続いて『サンデー山口』にも書評を載せて頂いた。これらを読まれた方々から拙著の注文があった。その中の一人に原田という方がおられ、原田氏を介して拙著を読まれたA氏(匿名を希望)が読後感を原田氏に送られた。それを原田氏が私のところへわざわざ送って下さったのである。A氏は私にとって全く未知の方である。最初にこのA氏の読後感を紹介する。

 

お贈り下さった『杏林の坂道』を読み進むうち、格調高い文体と丹念な資料、適切な引用、多面的な展開に引き込まれ、つよい感銘を受け、感想をしたためることに致しました。

今や「医は仁術」がすっかり死語となりました。「世のため人のため」すなわち自ら使命感をもって医業に従事するのではなく、一職業、単なる金もうけのため安易に医学部へ進む子弟が少なくありません。他方国民皆保険制度が崩壊し、重なる悪法のためやむなく病院から患者を追い出したり、あるいは貧しい者が満足に医者にかかれぬ有様。「医は算術」の荒廃と残酷さは年ごとに度を増しています。ニュースで報じられる介護上の艱難や病苦・自殺の悲劇が繰り返されるのを見るにつけ、この国のあすを思うと胸が痛みます。

本来あるべき医者の姿、つまり「医は仁術」の精神を、身を以って実践された緒方惟芳先生。松陰先生や高杉晋作を生んだ誇りある萩に育ち、古武士の風格そのままに「至誠」を生涯貫かれました。生活困窮のため萩中を五年で中退、長崎三菱造船所で猛勉強、世が世なら造船技師としての輝かしい未来がありました。折からの日露戦争で出兵、戦場の地獄を見て衝撃を受け、負傷兵看護の任にあたるなか命の尊さにつよく目覚め、先生は苦学覚悟で医師への坂道を選ばれました。

都市部での勤務条件がありながら敢えて望まず、乞われて寒村へ赴き、三五年間、悪路・悪天候、戦時下の医薬品欠乏の困難にうちかち、村人に誠心誠意、たゆみなく徹底的に奉仕されました。内科・外科にとどまらず、歯科・産科まで研鑚を積み、医学雑誌で日々新知識を身につける熱心さでした。山坂を超えての往診、盆正月もなく、夜を徹しての姿は、まことに杏林として称賛に価します。

貧しい農漁民が治療費に困るとき「いつでもよい、孫子(まごこ)の代になってでも、払えるようになった時払ったらよい」と言われた。さらには診断を一度も受けずに死亡する例を幾度も見て、往診料を取らないことに決めた。先生はまた村の河川で汚物や野菜を洗う衛生環境について注意を喚起し、トラホームの撲滅に努めるなど、四六時中、村民の健康と安全のために心を配っておられました。

たとえば診療所作りに当たって、村民が欅や櫻の大木を寄進したり、総出で地固めの胴突きを手伝い、あるいは先生に欠かさず刺身のつくりを届けるなど、まさに水魚の交わりでした。常日頃、人々を信じ村民の安寧と幸せを心から願っておられたのでしょう。死期が近づいたとき、「このお札(ふだ)を呑めば治る」との一村民の訴えにも、従容として飲み下した、その度量の深さ大きさには感服のほかありません。

「人の評価は棺のフタが閉じて定まる」といわれるように、六二歳という若さで先生を失い、村人がどれほど大きな悲しみに包まれたか、それは村民葬、村長弔辞から十分にうかがえます。戦後、奥様が食糧買い出しの際に至る所で「先生のご恩は忘れておりません」と言われ、励まされたことからも、惟芳先生の人徳の大きさが偲ばれます。

成ろう事ならば先生を顕彰し、記念の石碑を診療所跡へ建立して、先生の生き方に学び、業績を称え後世に伝えるべきとさえ思いました。労作『杏林の坂道』はその意味で、地域や親族・関係者のみならず、広範な人々を励ます記念碑的な役割を立派に果たしております。また幸奥様が薬師寺へ収めた四千余本の茶杓作りは、なみなみならぬ信念と努力の賜であり、一八一四人からの礼状へご返事されるなど感動的です。患者や看護婦さん、ご近所の方々への思いやり、戦後の混乱困窮にあっての育児等々は、昨今失われつつある美徳として、緒方先生の生き方が偽りなき真実一路だったことの証です。ご子息が先生の意志を継ぎ、杏林の道を歩んでおられることにも心打たれます。

それにしても先の大戦で前途あるご長男の命を硫黄島の激戦で失わしめ、終戦前日に弟さんの右腕の自由まで奪った、そのことへの無念さ、言いようのない憤りを禁じ得ません。朝鮮半島争奪をめぐる帝国主義諸国による戦争から百二十年経ち、今なお日本列島をとりまく空と海は平穏無事でなく戦火の危機をはらんでいます。無益な戦いを繰り返すことは緒方惟芳先生の最も望まぬ、許し難い破滅と不幸の道であろうかと思います。

一九世紀ロシアの文学者が「社会のためにならないような学問ならば、止めた方がよい」と述べていました。越前の渡辺洪基(初代帝国大学総長)もそれを強調しました。同様の言葉を緒方先生の信念の中に見てたいへん心強く感じました。それは科学や文学に限らず、芸術やスポーツにあっても同じだろうと考えます。

敗戦後わが国でも急速に自己中心の思想に毒され、「金がすべて」の風潮が蔓延しています。「寸善尺魔(良いことが少なく悪いことが多い)」の世が世にあって、人々の願いにあくまでも奉仕する先生の気高い精神、どんな境遇にあっても信念を曲げない強靭な意志は、こんにち最も必要とされる人間像です。すなわち「人はどのように生きるべきか」「生き甲斐とは何か」「銭金より大切なものがある」ことを、緒方惟芳先生は、自らの実践をとおして教え諭しておられます。この度の上梓の意義もそこにあろうかと痛感します。私同様に本書を一読した全ての人々の胸に先生の面影と息づかいが宿り、日々の生活において行く手を照らし勇気づけてくれるでしょう。現在も寒村僻地や離島、あるいは未開の異境で医業に携わっている人が少なからずいます。緒方惟芳先生の気高い精神は脈脈と生きており、人の世のある限り「杏林の道」が絶えることはありません。真の杏林の名に最もふさわしい惟芳先生、さらに先生にたいする著者の熱い敬愛の念、一〇年にわたる作業に心から感謝、お礼を申します。 (二〇一三年一月一七日」

 

贅言を要しない。私はこの読後感を読み、涙が出るほど嬉しかった。もう一つ、これに勝るとも劣らない長文の立派な読後感を頂戴した。姫路市在住の金沢史典氏からのものである。 

人生には不思議な出会いがあるものである。2002年4月号の『図書』に「漱石と弓」と題した私の小文が載った。これを読まれた金沢氏は岩波書店に筆者の住所を問い合わされ、手紙を下さった。これが金沢氏との出会いの始まりである。金沢氏は琵琶に非常な関心を寄せておられ、琵琶に関する数多くの文献にあたって研究を続けておられる。漱石は琵琶の俳句を詠んでいる。彼には弓を詠った俳句も幾つかある。漱石の俳句が縁となって、爾来金沢氏と私は幾度となく文通を重ね、お会いする機会も得た。

それではここで金沢氏から頂いた読後感を紹介しよう。過褒の内容なのでいささか面映ゆいが、敬意を表して全文を載せる。

 

 

        『杏林の坂道』(山本孝夫先生・著)を読んで

 

 山本孝夫先生が十年がかりで書き進められてこられた『杏林の坂道』がついに完成、昨年末、一冊のご本となった。ご恵投戴いた、ずしりと思い大著を手にし、感無量である。

いくたび上梓されるようおねがいしたことであろう。それがやっと実現、目の前にあるのである。なににもまして嬉しいできごとである。

書き始められたのは先生古稀の年である。ご縁を得て一読者となった小生は、六十七歳であった。書き終えられた先生は傘寿を、一読者である小生も喜寿を迎えた。

過去、小生はあれこれの著者に、いささかのかかわりを持ったことがあるが、この著はまさしく、それらの中で最もこころに残る著書である。

 

『杏林の坂道』は、一言で言えば、医師を志した一群の人々が如何に生を貫いたか、そしてまた、今なお生き続けているか、の物語である。

この物語の主人公は、時の流れに従って、父「緒方惟芳」(敬称略、以下同じ)から、長男の「芳一」へ、そして、母の「幸」へと移る壮大な大河の様な物語である。

これらの主人公たちを大木の柱として、子供たちや、その外多くの人々が枝葉となって青々としげり聳え立っている物語である。

 物語の中で最も大きな柱である「惟芳」が、若き日、恩師の「安藤先生」を訪ねたとき、先生は、庭の杏(あんず)の木を指差して、中国の故事を話された後、「医者の美称(びしょう)として杏林(きょうりん)という言葉があるのも、今言った故事に由来しているのだね」(74頁)と語られるところで、この著の題名の由来が暗示され、「終章」の末尾で、『彼(注・惟芳)は「杏林」つまり医者としての一筋の「坂道」を登り続けた』と著して、高々と『杏林の坂道』を完結に導いておられる。

 

 今まで、会誌『風響樹』で拝読してきたときと、このたび、一冊にまとめられた作品として読んだときとは、感動は大違いである。

 一冊の著書になるということで、作品に新たな命が吹き込まれたとさえ思われる。

もしも会誌掲載だけで終わっていたら、天は嘆いたことであろう。「惟芳」はじめ、「幸」も、「芳一」も、多くの関係者も無念に思ったことであろう。

 ただただ、よくぞ完成させ、一冊の大著にしてくださいました、と満腔の感謝の誠を捧げるのみである。

 

 著書は、原稿用紙にすれば千枚をはるかに超える大作である。

 大著を拝受後、遅読癖のある小生はメモを取りつつ、一月余を費やしてやっと読了できた。メモは60ページにもなった。それほど、著書には、見落してはならない大きな内容が含まれていたのである。

 この著は、幕末から、明治、大正、昭和、平成と、連綿として途切れることなく続く刻の流れのなかで、緒方家と、山本家の人々がいかなる困難に遭遇したか、それらの困難をいかにして乗り越え、生きてき来たかを語っている。

 激動する時代の中で、それぞれの家が、どのように時代に立ち向かい、どのような役割を果たしてきたか、その間、それぞれの登場人物がどのように考え、どのように身を立ててきたか、が大きな川の流れのごとく描かれている。

 また、随所に、歴史上の出来事等がつかず離れず挿入され、登場人物の生きざまを際立たせている。先生がいかに、膨大な資料を渉猟されたかを垣間見るのである。

 

 主人公「惟芳」の、中学生時代から、出征、帰国、医師になり、寒村での献身的な医療行為、いきざま、思想、そして死は、物語の大きな流れの中でさまざまな証言によって活き活きと描かれている。「惟芳」の生き様が、物語を「貫く棒」となって屹立している。時代の精神を反映してのことであろうが、「惟芳」が、子供たちにスパルタ教育をしていたと書かれているが、今生かされて在るご子孫たちの証言を読めば、社会に独り立ちし、社会において自分の役割を果たせるような立派な人間を作り上げるための「愛の鞭」であったと理解できるのである。今、盛んに問題になっている「体罰」とはいささか趣を異にしたものといえよう。

 

 「惟芳」を支えた第一の人に「幸」をあげなければならない。主人公といって差し支えないであろう。

 「先妻」の子、「芳一」と、自分が産んだ子供たちをわけへだてなく、というより、最も大事にし、母子の情を通わせていたことがわかる。

 夫に対しては、心底、尊敬の念を抱き、深夜の往診に出かけているときは、一睡もせずに待っていたなど、いまどき考えられないような献身振りが描かれている。

 そして、夫の霊前に、残された子供たちを立派に育て上げると誓いを立て、その約束をみごと実践し、晩年は、茶杓作りを通して社会貢献を果たされた生涯であった。

 育児放棄が盛んに言われる現今、このような「慈母」が居られたことに感嘆するのみである。今、こうした「母」が数多くあって欲しい。必要である。その意味でこの「母」の存在を世にひろく知らせる意味においても、この物語は、大きな意義を持つといえよう。

 

 もう一人の主人公ともいうべき、「芳一」は、「惟芳」や「幸」、恩師らに育てられ、実に優しく、たくましい人物に成長して行った。父や母へ孝養を尽くし、弟や妹、そしてわずかな期間ではあったが、妻であった「睦子」への、愛情あふれる手紙には感涙を禁じ得ない。

 戦争なかりせば、「惟芳」を継いで、現代の赤ひげ先生といわれ、人々に慕われる名医になったことと思われる。

 戦争は、多くのすぐれた人々の命を、海に、山に、空に散らしてしまった。

 その一人、「芳一」の手紙には、過酷な戦場の中でもユーモアを忘れず、父母、弟妹はじめ、戦場の部下に温かく接している様子があふれている。まことに、戦争は残酷である。あたら有為な青年を自決に追いやったのである。

 

 物語を読めば、「惟芳」も、「芳一」も、根っからの軍国主義のかたまりではなかったことがわかる。そのことは、人の命を救う「医の道」を選んだことからも明らかである。

 しかし、時代の風というものはおそろしい。為政者と、そのお先棒を担ぐマスコミによって、国民は次第に軍国主義の風潮に巻き込まれ、それこそ一億国民が戦争へと突き進んで行ったことを忘れてはいけない。先の大戦時、愚老も、小学低学年であったが、B29が撃墜されるのを目のあたりにして拍手喝采したものであった。

 沖縄を始め、東京、大阪、名古屋、神戸、そして姫路の地も、お城だけを残して灰燼に帰する爆撃など、内地の人々も、大きな被害を受けたのは広く知られているとおりである。

 「芳一」の弟、「幡典」も終戦間際の爆撃により負傷させられている。

 物語は、声高にではないが、戦争の無残さ、非戦、反戦を訴えかけている。

 いま、新聞や、週刊誌のタイトルを見れば、「北」の核実験強行を始め、中国の尖閣諸島接近、竹島問題など、まさに開戦前夜のような様相であると伝えている。これらの見出しにはぞっとさせられるが、狂った人間の一本の指がスイッチを押し、一発のミサイルが発射されでもすれば、それこそ破滅的な戦争を引き起こす恐れは十分あるのである。

 終戦後数十年、人々は、早や戦争の悲惨さを忘れたのであろうか。先の大戦で何千万の人が犠牲になったことか。

 わが国の侵略によって近隣諸国の人々は多大の被害をこうむり、またわが国自身も何百万という犠牲者を出したことを忘れたのであろうか。

 もう戦争はやめろ、殺し合いはやめろ、と多くの「芳一」が、泉下から声を大にして叫んでいるのが、聞こえないのであろうか。

 「芳一」らの望んだのは、軍事大国になることであろうか。そうではないはずだ。なんとしても現代の危機を回避すべきである。それこそが、先の大戦尊い命を捧げた多くの「芳一」の願いではなかろうか。

              

 作品には、いろいろな関係者が登場して来られるが、それぞれの方が、深い感慨に打たれておられることであろう。

 愚生にとって望外の喜びは、「第三章 三菱長崎造船所」の「二」に、お送りした「常陸丸」に関する琵琶詞を引いていただいたことである。

 「姫路市在住で琵琶歌について造詣のある金沢史典氏から、次の琵琶曲を教えていただいたので、そのさわりの部分だけ記しておこう」(48ページ下段)、

 とあり、まことに光栄、感激の極みである。

 「詞」のあとに、先生は、「琵琶の哀調を帯びた弦の響きを伴奏に、この悲しい琵琶曲に耳を澄ませば、悲憤(ひふん)慷慨(こうがい)、ロシア憎しの感情が、澎湃(ほうはい)としてわき起こったであろうことは想像に難くない」とつづけておられる。

 この曲を、宮城県出身の亡父が若かった頃、幾度も演奏したであろうと思うと、まことに不思議なご縁といわなければならない。

 この作品に「常陸丸」と愚生の名を載せていただいたことによって、この著書を読んだ人々が、「金沢」という人間が確かに存在していたのだな、と、目の端にでも止めて下さるだけでも光栄である。  

取り上げてくださった先生へ、限りなき感謝を申し上げたいと思う。

 また、「芳一」の実弟「正道」氏が、鎮魂のために硫黄島の戦没地へ参拝されるとお聞きして、止むにやまれぬ思いからささやかな志をお送りしたところ、後になって知ったことだが、愚生の名でもって献花していただいたことを知り、余りにも、出すぎたことをしたものだと、慙愧の念に駆られたことを思い出す。まことに申し訳ないことをしたものである。

 このように、この作品に思いもかけぬかかわりを得たことは、他の人々とは、一つ違った生涯の思い出となった。

 この作品には、「惟芳」の従軍日記や、「芳一」の軍人手帳、「惟芳」を知る人々の証言、がみごとに生かされている。

 また、作者である先生が、あちこちへ取材に出かけられ、物語を大きく膨らますことに成功しておられる。

 作品は、机の上で書くものではなく、脚で書くべきであるということを如実に思い知らされた。

 山本先生には、この物語を書くべく天命が与えられたというべきであろう。

 その大役を受けとめついに完結させられたことによって、天も、今はなき縁者も、多くの関係者も限りない賞賛を送り続けることであろう。

 

 この作品をぜひ読んで欲しいと思う二人の知人に、先生の著書を送った。一人は高知県在住の友人であり、もう一人は、島根県出身の元・上司である。

 さらに、この著を、一人でも多くの人々に読んでもらいたいと心から願う次第である。

 この著書が、思わぬ形でブレークすることを乞い願うものである。(終)

                         平成25年3月4日

                             金沢 史典

 

 

                 四

 

 金沢氏の読後感想文を転記し、あらためて氏に感謝を申し上げる。以上数名の方からの読後感を紹介したが、この他にも多数頂戴したし、また筆には乗せないが、電話などで気持ちを述べて下さった方も多くあった。著者冥利に尽きると言えよう。

 最後に「読後感」をもう一つ紹介させていただきたい。神戸在住で金沢氏の紹介で親交を結ぶことが出来た尾端三郎氏からのものである。

 

 導入部分の主人公「緒方惟芳」の出郷から長崎造船所、そして日露戦争にいたる軌跡は、方言による会話体などを駆使され、生き生きと活写されていました。いかに資料があるにせよ、山本様にイマジネーションなくしては表現できなかったでありましょう。森鴎外の「歴史其の儘と歴史離れ」ではありませんが、歴史の虚実というものに興味をもっている小生としては、どこまでが「虚」であり「実」であるのだろうかと考えていました。読了したあとで「あとがき」を拝見し、「主人公惟芳が萩中学校で弓道の稽古をする、といったフィクションを一部織り交ぜながら書き出した」との一文に接し、小生の考えが氷解した次第です。

 当作品は虚実が渾然一体となった史実を基調とした「大河小説」と看取したところです。歴史書でないかぎり、物語を展開するうえでの「フィクション」は不可欠であります。紹介されていました『長周新聞』も、たしか「山本孝夫氏の小説」という言葉を使っていたと思います。日露戦争、三菱長崎造船所、無医村の宇田郷村での医療活動、そして長男芳一の硫黄島での最後、後妻幸の「茶杓」と薬師寺管長高田好胤との奇縁など、何れも写真や書簡や資料、関係する人々の証言や例証などから描かれており、「ノンフィクション」といってもよい内容でありました。「フィクション」の一部は、あくまで史実と史実を繋ぐ接着剤の役目を果たしているものと拝察しました。

 

 私は尾端氏のこの書評を読んで教えられまた大いに安堵もした。実は私自身は、文章の最初の部分と最後の部分で印象が違ってきたのに気付きながらも、致し方ないと諦めていた。それは本編を書き始めた時には、資料が乏しく想像を交えざるを得なかったのが、のちに次第に資料が手に入るようになると、資料に忠実に筆を進めたからである。「虚実が渾然一体」と評してもらい恐縮の至りだが、「虚実の混然」たるものをどうにか書き終え、その上このように多くの方に読み、かつ評していただき、改めて感謝する次第である。

 

今年五月の大型連休中、山口県立美術館で「生誕100年 松田正平展」を見た。彼は晩年には、飄々として透明感のある画を描き九十歳の長寿を全うしている。シベリヤ・シリーズで有名な山口県出身の画家香月泰男の作品と比べると、受ける印象が全く異なる。もし二人の運命が入れ換わっていたらと、愚かなことを考えてみたが、人間の運命は人それぞれに定まっているのかと思う。香月氏は1911年に日本海岸の現代の長門市で生まれた。松田氏は1913年に島根県の津和野に生まれている。そして硫黄島から家族へ切々たる手紙を書き残して戦死した芳一は、これまた又日本海に面した宇田郷という僻村で1914年に生まれた。

滋賀県の小川という方から次のような手紙を頂いた。この方はビルマ戦線で死の密林を彷徨し、マラリアに罹ったお陰だと言っておられるが、奇跡的に生還され、九十三歳の今も元気に活躍して居られる。

 

硫黄島からの手紙は圧巻でした。人間が最後の間際にあのような余裕を持って冷静に対応できる事が可能なものか、私も戦場で生死の際を歩きましたが、私は残念ながら真似できないと思います。脱帽です。

 

上記の三人は殆ど同じ時代に東京で一時の青春を謳歌している。いわゆる大正ロマンの時代に大学生活を送っている。しかし彼等を待ち受けていたその後の運命は異なる。運命は異なり、天の与えた命の長さは違っても、彼等は共に戦争のない平和な世の中を希求していたのではなかろうか。私はその日、帰りに県立図書館で加賀乙彦著『科学と宗教と死』(集英社新書)を借りて読んだ。これは小冊子だが良書であると思った。加賀氏は幼年学校から東大医学部を経て、医者として、また小説家として「二足の草鞋(わらじ)」をはいてこられた。晩年の2008年に、それまで非常に元気であった奥さんが70歳で急逝された時、加賀氏はもうすぐ80歳になろうとしておられた。その3年後の2011年に心臓の手術を受けておられる。その入院中に『荘子』と芭蕉の著作を全て読んだとして、次のように書いておられる。

 

そして次に、その芭蕉が師と仰いでいる荘子を読みました。『荘子』にこんなことが書いてあります。人間は生きている間は働いて、年を取ったらもうだんだん働けなくなりますけれど、天が人をそうゆうふうに作っているのだと。もう働かなくてもいいようにするために老いがあって、もう休ませるために死がある。

 

これは私が『杏林の坂道』の最後に引用した『荘子』の言葉である。加賀氏は次のようにも述べておられる。

 

人はなぜ死ぬかというのはわからない。戦争はなくならない。天災はなくならない。病気もなくならない。人は必ず死にますが、いつどうやって死ぬのかはわからない。死を考える事は、結局生を考えることにつながります。私はどう生きるのか。やがて来る死の瞬間まで、どう生きるのか。

荘子』の言葉を最後にもう一度引用させてもらおう。

 夫(そ)れ大塊は、我を載(の)するに形を以てし、我を勞(くる)しむるに生を以てし、我を佚(やす)んずるに老を以てし、我を息(いこ)わしむるに死を以てす。故に吾が生を善しとするものは、乃(すなわ)ち吾が死を善とする所以(ゆえん)なり。             

漢字の読み、その他

 

 吉川英治の『宮本武蔵』を読んでいたらこんな文章があった。

 

 「深夜である。深山である。真っ暗な風の中を、驀(まつ)しぐらに駆けてゆく白い足と、うしろの流れる髪の毛とは、魔性(ましょう)の猫族(びょうぞく)でなくて何であろう。」

 

 私が気がついたのは、「深夜(しんや)」と「深山(みやま)」の読み方である。これにはふりがなが付けてない。と言うことは誰でも正しく読めると言うことだろう。これに「深緑(ふかみどり)」とか「深井(ふかい)」を加えたらこの三つの熟語の「深」は皆読み方が異なる。と言うことは、日本語の文章中の重要な部分である漢字の読み方が如何に難しいかということである。漱石の『三四郎』に次のような文章があった。

 

  「机の上を見ると、落第という字が見事に彫ってある。余程閑(ひま)に任せて仕上げたものと見えて、堅い樫の板を綺麗に切り込んだ手際は素人とは思われない。深刻(しんこく)の出来である。」

 

私はおやっと思って『広辞苑』を引いてみた。次のように説明してあった。

  

しんこく【深刻】

  • きわめて残忍なこと。
  • ㋐胸を打ち心に深くきざみつけられるさま「深刻な悩み」

㋑表現などが念入りに工夫されているさま「深刻な描写」

㋒切実で重大なさま「深刻な事態」

 

以上から見るとこの場合、漱石は「深刻」㋑と、実際に彫ってある、の両方を上手くこの熟語で表している。流石だと私は思った。

 

実は最近私はこの『宮本武蔵』と漱石の作品を読んでいるが、特に漱石は適当な漢字を持ってきて、これに相応しいふりがなを付けている。漢字だけでとてもそうとは読めないのが多くある。少し例をあげてみよう。

 

稜(ぴら)錐塔(みっど)  獅(すふ)身女(ひんくす)  該撒(しいざあ)  安圖(あんと)尼(にい)  

 

跪(かし)座(こま)る  胡座(あぐら)  繪畫(にしきえ)  倦怠(けだる)い  赤児(ねんね)  混雑紛(どさくさまぎれ)  駑癡(どぢ)

 

鬼灯(ほおずき)  軽侮(あなどり)  嘲弄(あざけり)  悪口(あくたい)  野卑(ぞんざい)  蜷局(とぐろ)  繽紛絡繹(ひんぷんらくえき)

 

明海(あかるみ)へ出る  躄(ひ)痕(び)が入る  御草臥(おくたびれ)なすった  豁達(はきはき)せぬ  逡巡(しりごみ)をする  辟易(ひる)む

 

漱石にしても英治にしても「ふりがな」をつけたように、読者に読んで欲しいのだと思う。その点英語など外国語は発音の仕方が難しくても辞書にあるとおりに読めばいい。この事を考えただけでも日本語は難しいと思う。然しこうしたことに興味を持って読めば日本語は面白いのでなかろうか。

ところが現在は、やたらにカタカナ文字が増えた。これには聊か閉口する。若い人は理解できるのだろうか。老人には無理だ。こんなのが出て果たして意味が分かるかと思う。

 

コンセンサスを得た (合意した)      アジェンダ (行動計画)

エビデンス (証拠)            スキーム (枠組み)

ペンデイング (保留)           キャパ  (能力)

 

以上の駄文を書いたのが2日前の7月18日である。そうすると今日は20が三つ並ぶ日だと思った。すなわち2020年7月20日だからだ。続けて書くと「2020720」となる。今日の午後十時二十分二十秒は、「2020・7・20・20・20・20」となる。このような日は滅多にない。

 

昨日次男の車で萩へ墓参りに行き、ついでに数カ所立ち寄った。その内の一ヵ所は、高校時代の友人の家である。彼は今年満九十歳で亡くなった。葬儀に出席出来なかったのでお悔やみかたがた焼香に行った。中学校に勤めていて真面目な男で、指月山の麓の運河の直ぐ側に住んでいた。十年以上にもなると思うが、ある日彼を訪ねたら一羽の青鷺が飛来して彼の家の庭にいた。彼の奥さんが小さな生魚を投げてやられたら、長い細い脚を動かしてつかつかとやってきて、長い首を地面に伸ばして、くくっと丸呑みした。

 

「あの鷺は最近よく来ます。私が鰺(あじ)を指月橋の上で釣っていると、貰おうと思って近づくのです。だんだん慣れてきて、今では私の手からで直接咥(くわ)えます。」

 

このように云って居られた。然し奥さんと私の友人以外は警戒して一定の距離を保って、決して間近までは来ない。いつぞや珍しいからとテレビで紹介されたと聞く。

 

昨日この青鷺が来ていて久し振りにその姿を見た。可なり年取った風に見えた。長い首の周りは以前はふさふさと白い毛で覆われていたと思うが、大部抜け落ちて窶(やつ)れた感じだった。それでも奥さんには餌を貰おうとして近づいていった。

 

「主人が亡くなって人が早々したので一週間ばかり姿を見せませんでしたが、それからまた来ます。一人になって淋しいですが、鷺が来てくれてありがたいです」

 

こう云って鷺の方に向かって「ごんちゃん。おいで」と言われると、近づくのであった。

「ごんちゃん」は奥さんが名づけた呼び名である。私も「ごんちゃん、おいで」と云って、提げていたカメラを向けた。奥さんと鷺が向き合った良い写真が撮れた。

 

生きとし生けるもの皆気持ちが通ずると私は思う。たとえ小さな小鳥でも懐(なつ)くのだ。このような割と大きい鳥となると、人の気持ちが分かるのだろう。だから動物の虐待はしてはいけない。例えば魚釣りでも単なるレジャーで行うのはどうかと思う。

私が教師になったころだからもう六十年以上も前だが、アフリカの原始林で黒人の患者の救済に生涯を捧げたシュバイツアーが、自分の思想を纏めて『生への畏敬』という本を出版された。私はそれを読んで生徒達によく話した。私はその後『THE WORLD OF ALBERT  SCHWEITZER』とうい写真集を買って見てみた。エリカ・アンダーソンというアメリカの女性の写真家が撮ったもので、中々立派な本だった。

久し振りに本棚から取りだして見てみると、シュバイツアー博士のクリスマスのメッセージの写真があった。博士が病院の職員や患者並びにその家族たちに向かって話して居られる手前に、二羽のペリカンが謹聴して居る写真である。アンダーソン女史は次のように書いている。

「シュバイツアー博士のクリスマス・メッセージは、人々のみならず鳥たちからも尊敬の念を以て耳を傾けられた。」

外に、病院のある近くの船着き場に大きな椰子の木があり、その側に白いヘルメットをかぶった博士が立っていて、近くの水際に数羽のペリカンが首を伸ばして、水中に嘴を突っ込んでいる写真があった。原始林では人間を始めとして全ての生き物が共存して居るように思える良い写真だ。もう一枚は博士が仕事机に向かって何か読んで居られるその机の上に、可愛い子猫がその読み物をのぞき込んでいるような写真である。

まだ外にも、博士の腕の上に小さな蜥蜴のようなものがいたり、博士が足首に包帯を巻いた子鹿をいたわっておられる写真など。これらの写真の説明として次の言葉があった。

 

「それは私には全く不可解な事でした。―これは私が学校へ行き始める前でした―

何故私の夕べの祈りで、人間に対してのみ祈らなければならないのか。そこで母が私と一緒にお祈りを終えてお休みのキスを私にしてくれた後、私は全ての生き物にたいして、私自身が創作したお祈りを静かに付け加えました。それはこのようなものです:

『おお、天なる父よ。命ある全てのものを保護し祝福してください。全ての悪から彼らを守り彼らを安らかに憩わせて下さい。』」

 

また博士がこんなことを言って居られたのを読んだ覚えがある。

 

「私は腕に止まった蚊でも叩きつぶさないでそっと逃がしてやる」

 

さすがに「密林の聖者」と言われ、ノーベル賞を受賞されるに値する偉大な人物だったとつくづく思うのである。しかし今はシュバイツアーと誰も言わなくなった。何故なら彼の「白人は兄、黒人は弟。兄である白人は未熟な黒人の世話をする立場にある」という言葉を、「上からの目線で、黒人を蔑視している。人類は全く平等であるべきだ」という左翼共産主義的な考えが主流となった現在では、過去の人として葬り去られたように思う。

たしかに時代の流れと共に考えは変わっていくが、シュバイツアーの時代だけではなく、今でも彼の人類愛の精神は受け継がれるべきだと思う。

最近「ブラック ライヴズ マター」といって、アフリカ系アメリカ人に対する警察の虐待行為に抗議して、非暴力的な市民的不服従を唱える組織的な運動がアメリカで広がっているが、シュバイツアーの人類愛の精神は、こう言った運動の対象には決してならないと私は思う。彼らはチベットウイグル地区での非人道的な暴虐行為には目を向けようとはしない。これは誰が考えても納得できないことである。真の意味での人類平等の考えに基づいて行動したら、彼らの行動は始めて多くの人の認めるところとなるであろう。

 

                         2020・7・20 記す

 

古い手記から

                  一   

 

平成十年の夏、私は先祖代々住んできた萩市を後にして山口市に居を移した。その時古い桐箱を持ってきた。箱はすっかり変色して黒ずんでいた。箱蓋の右上に紙が貼ってあり、「梅屋七兵衛 毛利家御用にて長崎下向ノ一件書類 願書併勤功書」と墨書してある。「長崎下向ノ一件」とは曾祖父が慶應二年から三年にかけて、武器を調達するために長崎へ、さらに上海へまで行った事に関連したものである。箱にはこれとは関係の無い書簡など雑然と混じっていた。私はこれらの中から関係書類ではない一通の手紙(手記)を見つけて読んで見た。今回それについて少し書いてみようと思う。

 

「手記」は、大賀幾介(幾助とも綴る 号は大眉)という人物を中心に、彼と関係のある人たちが、維新前後に活躍した様子についてである。多くの人には何の興味もないかも知れない。しかし子供の頃から聞かされた話でもあって私は興味を覚えた。この手記を残した人は山本マサといって大賀大眉の二女である。

 

父は大谷(大屋)に生まれ本家の熊谷町の大賀家へ養子に行かれ長男市介が生まれましたが、養家に納まって居る人でなく、子の有る中を出て大谷に帰り、浜崎の村田家から私たちの母が嫁いで来られたのです。

大谷の大賀家は代々酒造家で父の両親がやって居られた。父の母は三浦観樹将軍の母堂の姉でしたが、中々しっかりしたお祖母さんでした。父は真面目に酒造などして居る人でなく、国中に奔走するため小畑の泉流山に行かれたらしいです。

其所(泉流山の屋敷)はつまり同志の密会所で折々深夜に御客様があり、其の座敷へは何人も入ることを許さず、お給仕は次の間まで母が運んで居たそうで、そして又深更皆様の御帰りに父も同行で、そのお出かけには、此れ限り帰宅出来ぬかも知れぬ故、その覚悟で居る様にと申しては出たそうです。何でも小畑の浦から小船で何所かへ行かれるらしい、そんな事が何回もあったと母から聞かされたことがあります。

三浦さんは私の小さい時お常姉の養子に来て居られ大賀松次郎と名乗って奇兵隊で糸鞘の長い刀を差して居られ私等は松兄さん松兄さんと甘えたものです。其後三浦家の本人が病気のために姉と一緒に実家へ帰られたが、三浦家は安藤と云ってやはり小畑でした。

泉流山には陶器窯があり職人も絵書きも沢山居たようですし父も茶碗等に絵や都々逸等を自分で書いたりして楽しみにして居ました。

 

先ず大賀幾介(号大眉)についてであるが、萩博物館が発行している萩市出身の有名人を紹介したパンフレットが役に立つ。小さな縦長の紙片(薄色の紙で縦21センチ、横約10センチ)であるが、さしあたり是が便利なので借用させてもらうことにする。薄い空色の縦長の紙の表面に、横書きで次のように記載されていた。

 

経済・産業 幕末にパンづくりを試みた商人 大賀(おおが)大眉(たいび)

その下に彼の肖像、(写真参照 この肖像画は私の父が画いたもの)

【生没年】1827~1884(文政10~明治17)【享年】58

 【誕生地】長門国萩大屋(萩市椿)【墓】萩市北古萩(梅蔵院)

裏面に人物紹介が要領よく簡潔に書かれてある。

酒造業を営む大賀家に生まれ、名は幾(いく)介(すけ)、春(はる)哉(や)とも称し、大眉と号した。31歳の安政4年(1857)松下村塾に入り、增(まし)野(の)徳(とく)民(みん)や吉田(よしだ)稔(とし)麿(まろ)らとともに『孟子』の会に参加した。翌年、吉田松陰から情報収集を託され、岩国方面へ赴く。また大原(おおはら)三位(さんみ)下向(げこう)策(さく)など松陰の一連の政治的画策では兵糧米担当を予定された。

元治(げんじ)元年(1864)奇兵隊の屯所に出入りし、慶応元年(1865)下関の桜山招魂(さくらやましょうこん)場(じょう)(現在の桜山神社)の建設に尽力。萩前小畑(はぎまえおばた)の泉流山窯(せんりゅうざんがま)(文政9年〈1826〉開窯)の古窯を復興し、自ら絵付けして磁器を焼くかたわら、志士の集会所としても場所を提供した。また奇兵隊に対しては、資金的な後方支援も行った。慶応2年、長州戦争(四境(しきよう)戦(せん)争(そう))の直前に兵糧用のパンの製造が許可され、藩から補助金が支給された。

明治3年(1870)諸隊の脱隊騒動のさい武器や弾薬の買い入れに奔走した功を賞される。その後、脱隊騒動を鎮圧し木戸(きど)孝(こう)允(いん)の使者として下関を出航し、大阪に出て鎮台出入りの御用商人となった。また、砂糖会社や製靴工場などを経営したともいわれている。

 

以上がパンフレットに見る幾介の略歴であるが、ここで私の手元にある『大賀家系図抜粋』を見てみると、大谷(おおや)の大賀家は分家で、「手記」にあるように幾介は本家の大賀家の養子となり一子が出来たが、彼の兄が十七・八歳のとき亡くなっていたので、生家に戻って家を継いでいる。その後結婚して生まれた次女(マサ)がこの「手記」を語り伝えたのである。

幾介の従弟にあたる三浦梧楼(号観樹)についても、例の紹介文を利用させてもらうが、こちらも同じ規格の淡い桃色の紙片である。

 

政治・軍事 脱藩閥を目指した陸軍中将 三浦梧楼(みうらごろう)、との見出し下に肖像写真、さらにその下に【生没年】1846~1926(弘化3~昭和元)【享年】81【誕生地】長門国萩中津江(萩市椿東)【墓】東京都港区(青山霊園

 

裏面に略歴が記載されている。

下級武士五十部(いそべ)家に生まれ、のちに三浦と改称する。藩校明倫館に学んだあと、奇兵隊に入り、慶応2年(1866)四境戦争(幕長戦争)に従軍。明治元年(1868)戊辰(ぼしん)戦争では鳥羽・伏見、北越など各地を転戦した。

明治2年(1869)、奇兵隊ほか諸隊が起こした脱隊騒動の鎮定に尽力し、翌年、兵部省に入る。明治4年、陸軍少将、東京鎮台司令官、明治8年、元老院議官を歴任。明治9年、広島鎮台司令官となり、萩の乱を平定した。明治10年の西南戦争時、第三旅団司令官として出征し、翌年、陸軍中将、西部監軍部長に昇進した

明治14年、鳥尾(とりお)小弥(こや)太(た)らとともに北海道開拓使の官有物払い下げに反対したため、陸軍士官学校長に左遷される。さらに陸軍改革を主張したため山県(やまがた)有(あり)朋(とも)らと対立し、明治19年に免職となった。その後、学習院長、貴族院議員を歴任。明治28年、朝鮮国駐在特命全権公使となり、朝鮮における日本勢力の回復を図って閔妃殺害事件を主導したため、広島で一時拘禁された。明治43年、枢密顧問官に就任。大正政変後は政党勢力を重視し、党首会談を仲介した。

 

観樹について詳しく知るには、『観樹将軍回顧録』(中公文庫)がある。鷗外がドイツ留学の際、初めて将軍に会ったときの印象を『獨独日記』に書いている。鴎外は明治十七年十月十一日にベルリンに着いた。

 

十九日。三浦中将の旅宿Zimmerstrasse96を訪ふ。色白く髭少く、これと語るに、その口吻儒林中の人の如くなりき。われ橋本氏の語を告げて、制度上の事を知る機會或は少からむといひしに、眼だにあらば、いかなる地位にありても、見らるるものぞといはれぬ。

 

鷗外に托された「制度上の事を知る」とは、西南の役コレラが蔓延し頭を抱えた新政府軍つまり日本陸軍にとって、ドイツの衛生制度の研究調査に基づく衛生学の確立は至上の急務だったようで、鷗外は此の制度研究を立派に成し遂げ日露戦争では伝染病の予防など衛生面では大いに貢献した。この事が勝利の一因とさえ云われているが、何と言っても脚気の問題では彼に責任があると思われる。

しかし鷗外は衛生制度の研究だけに専念したのではなく、よく学びよく遊んでもいる。とくにドイツを含む西欧の文学・哲学の理解にその才能を発揮した事は、帰朝後間もなくして書いた『舞姫』『うたかたの記』『文づかい』の留学三部作や、後年の『妄想』などから窺える。

 

上記の日記に、観樹が「口吻儒林中の人の如く」と鷗外は書いているが、その時の観樹は三十八歳に過ぎない。儒学者の仲間の一人のような印象を鷗外に与えたとしたら、漢学の素養が相当あったものと思われる。

全く同じ印象を私の伯母が語っている。大正三年に阿武郡立実家高等女学校を卒業した翌年、父親に連れられて上京し、遠州流の宗家小堀宗忠師に師事したのであるが、上京すると直ぐに三浦観樹のところへ挨拶に行っている。「観樹将軍は儒学者のようだった」と云っているが、その時観樹は六十九歳であったので、そのように伯母は強く感じたのであろう。祖父は彼が書いた一幅の掛け軸をもらって帰った。私は毎年雨季になるとこれを床に掛ける。書かれているのは漢詩である。読み下してみると下記のようになる。

 

鬱々(うつうつ)黄梅(おおばい)の雨 鳴(めい)蛙(あ)友を呼ぶこと頻(しき)りなり 

素(そ)門(もん)人遠しと雖(いえど)も 松竹自ずから隣(となり)を為す

 

これは隠者の風を慕う所懐のようである。上記の『回顧録』に観樹が少年時代に學問を志した記述がある。

 

「昔は十五になれば、皆元服したものである。其折り、何と云ふこともなく、不圖學問を仕たいと云ふ気が起って、今までの悪戯友達と離れ、土屋蕭(つちやしょう)海(かい)と云ふ漢學者の塾に入って、勉學することとなった。是れが我輩の學問を志した初めであった。

それから萩に明倫館と云ふ藩黌(はんこう)がある。此の明倫館に入るには、夫れぞれ資格があって、小祿のものは、這入ることが出来ぬ。陪臣の如きは、如何に大祿でも絶対に許されぬ規則があった。我輩も其れに入る資格がない。ソコデ三浦道庵と云ふ人の附籍となって、入黌の資格を作ったもので、此附籍の事を「はぼくみ」と称へた。「はぼくみ」とは「はぐくみ」と云ふことで、育と云ふ字を書く。我輩が三浦の姓を冒したには、全く斯う云ふ事情からである」。また「文事あるものは武備ありと云ふが、我輩は軍務に服しても、學事を忘れず、毎日の日課として、司馬温公の資治通鑑を、二巻づつ必ず讀むと云ふことに定めて居ったのである」。

 

此の後、『回顧録』の記述は観樹の刃傷沙汰や奇兵隊始末記、高杉晋作木戸孝允との情誼、反対に山縣有朋との確執、閔(みん)妃(ぴ)殺害事件、晩年政界の黒幕として政府・政党間の調停画策などへと続く。この『回顧録』は観樹のすぐれた記憶力による会話のやりとりなどがふんだんにあって、全巻五百七十頁にも及ぶ浩瀚なものであるが、自慢話ながら結構面白いものである。

 

                 二

 

いささか脱線したのでマサの「手記」に戻ろう。

 

 明治になってから大阪でとても鳴らしたものだそうです。堂島のタミノ橋北詰に大きな屋敷があり、此の時代が一番盛んでした。離れ座敷には何時も食客が二三人、多い時は五六人も居りました。御飯炊きにはお相撲の取(とり)的(てき)(ふんどしかつぎ)が来てゐると云ふ調子でした。

此の食客の中に加島と云ふ油絵の画家が居り、その人が今残って居る父の肖像画を絵いたのです。その頃陸軍少将か中将に三好と云ふ方があり、その奥さんは仙台の旅館の娘で、父の養女にして三好家へ嫁がれました。

石碑を建てる心配は今の朝日新聞社上野精一氏のお父さんで上野理一さんと云ふ方が主になって建てて下さったのです。

父は何でも事業の組み立てをすることが上手で関係もよいので、何んな事でも許可が付ます、けれどそれを自分でいつまでもやって居る人でなく、人に譲ってやらせるのが好きでした。

藤田傳三郎さん等も萩から出て来て何か仕事をさせて頂き度いと云ふので、大賀にだいぶ長く居られたことがあり、それではと云ふので、自分がやりかけて居た陸軍納入靴の製造を譲ったのです。其れが発展の緒になってあんなに大成功せられたのですから長い間毎月藤田家から大賀家へ仕送りがあり、大賀幾太(熊谷町大賀市助の長男)の帝大卒業までの学資も此の金を充てたので、相当に大きい金だったように思います。

 

砂川幸雄著『藤田伝三郎 雄渾なる生涯』(草思社)という本がある。九十冊以上もの参考文献・引用資料に基づいて、「歴史の霧のなかから一代の英雄・藤田伝三郎を掘り起こし、その虚像をことごとく取り払い、等身大で真実の姿を明らかにしたのがこの本である」と、表紙の裏に記載してある。またここで、萩市出身の有名人紹介のパンフレットを借用させてもらうことにする。

 

経済・産業  藤田組を興した関西財界のリーダー   藤田伝(ふじたでん)三郎(さぶろう)

【生没年】1841~1912年 (天保12~大正元) 【享年】72

【誕生地】長門国萩南片河町(萩市) 【墓】京都市東山区知恩院

 

酒造家藤田半(はん)右(え)衛門(もん)の4男として生まれる。萩では醤油醸造業を営むかたわら、多くの志士と交わり尊皇(そんのう)攘夷(じょうい)運動を支援した。

  明治2年(1869)商工業発展に尽力することを決意して大阪に出て、軍の御用(ごよう)達(たし)

に従事。明治14年に藤田組を創設、京都・大阪間鉄道建設や琵琶湖疎水工事を請け負い、秋田県の小坂(こさか)鉱山、大森鉱山(石見銀山)などや、岡山県の児島湾干拓によるわが国初の機械化農場を経営。わが国初の私鉄阪(はん)堺(かい)鉄道(現、南海電鉄)設立や大阪紡績会社(現、東洋紡)操業、宇治川電気(現、関西電力)創立にも関わった。

 社会文化事業では、明治11年(1878)大阪商法会議所(現、大阪商工会議所)を創設し、2代頭取に就任。大阪日報(現、毎日新聞)の再興や、秋田鉱山専門学校(現、秋田大学)・大阪商業講習所(現、大阪市立大学)の設立に寄与。古美術品の収集に力を注ぎ、その収集品は藤田コレクションとして名声が高い。郷里萩にも多額の寄付をした。日本水産創業者の田村市郎、日立(ひたち)鉱山を創業し日立製作所の基礎を築いた久原房之(くはらふさの)助(すけ)は甥。

 

 華々しい経歴である。藤田伝三郎に関しては、噓の伝記や偽の講談本など多く出回っていたそうで、何と言っても一番信用できるのは大正十二年発刊の岩下清周著・発行『藤田翁言行録』(以下『言行録』)のようである。砂川氏はこれを第一の参考文献として挙げており、これに拠って筆を進めたと思われる。しかし私にはどうも腑に落ちない点がある。それは傳三郎が明治二年に大阪へ出て、早速靴の製作を始め、それが端緒となって成功への道を上り詰めたと云う記述と、「手記」に書いてある内容がどうも日時の点で符合しない。

大眉が大阪へ行ったのは、「手記」に拠れば明治三年より早くはないようである。一方傳三郎は明治二年に行ったとある。しかも「手記」を見ると、彼は当分仕事がないので大眉の世話になっている。年齢から行っても十四歳も違うので、大眉が世話をした事は肯ける。もう一つ不審に思うのは、大眉がやりかけていた靴の製造を傳三郎に譲ったことについて、傳三郎は殆ど言及していない事である。もっとも『言行録』には明記されていないが、恩を感じていたことは、大眉の孫の学費など全面的に援助している。この点は見上げたものだと言える。『言行録』に次のような記事がある事から両者の関係は以前からあったと思われる。

 

もともと私は、同郷の大賀幾助氏(文政十年生まれ。傳三郎より十四歳ほど年上)の養子になる約束だったので、直接大賀氏に会い、右の理由を詳しく説明した。すると同氏は私の行動に大いに賛成してくれ、養子縁組の破約を快く承諾してくれた。このような事情のもとに私は分家を再興したのである。

 

『言行録』の序文に三井財閥の大番頭であった益田孝が下記の文章を寄せている。傳三郎の一面をうかがわせるから、摘記してみよう。

 

次に予が翁に敬服したるは、好んで他人の説を傾聴せられたるにあり、各種の人々が翁に向かって説く所、必ずしも名論卓説に非ず、或は翁自身も心中には、無益の口と思はれたこと多かるべし、然れども翁は決して粗略の態度を示し、倦怠の色を現はされたる如きことなかりき、左れば翁に対しては、何人も云んと欲する所を云ひ尽くし得たり、この事は実に学び難き翁の美徳なり、何人も自己を信ずること篤ければ篤き程、自己の勢力大なれば大なる程、他人の説に耳を貸すこと吝(やぶさか)なり、況んや有用ならざる言に対しておや、翁の如き自信に篤き偉大な人物が、好んで他人の説を傾聴せられたるは益々以てその偉大を証するに足る、而も翁は徒(いたずら)に他人を喜ばすが為に、貴重な時間を割かれたるにあらず、其言取るべきものは、必ず之を脳中に蓄へて、他日の用に供せられたるべく、且つ席上に於ても、対手の眼球を刺すが如き、直截明快の言を挿(はさ)み、説者をして驚嘆せしむること屡々なりき、故に人々皆翁が、真に自己の諸説を洞知せられたるものとして悦服せり、翁に一種の強大なる引力ありて、政治家にもあれ、軍人にもあれ、商人にもあれ、大阪を過ぎるものの足、必ず網島に向かひたる所以(ゆえん)のものは、此特長によりて然ること少なからざるを信ず。

 

傳三郎はこのように実業家として大成功を収めているが、その端緒となったのは大眉のお陰だと思われる。

「手記」に「石碑を建てる」という話がでている。石碑建立が実現したのは、大眉が亡くなった三年後の明治二十一年十月である。発起人の上野理一は朝日新聞社の創業者で、同じく創業者の一人であったのが村山龍平で、漱石は村山氏が社長の時東大を辞めて朝日新聞社に入社している。顕彰碑を山県有朋が書いているがが、実際に文を撰したのは別人だろう。原文は漢文で書かれてある。

   

大賀大眉君墓銘    陸軍中将従二位勲一等伯爵 山縣有朋題碣

萩城外大谷邨(おおやむら)に大賀大眉なる者有り。家業醸にして而して君学を好んで自立す。性豪爽にして洒落(しゃらく)、市井の間にて面目を作さず。好んで士大夫と交遊す。萩城の士大夫にして大眉生なる者を識らざる者無し。尊攘の事起こるに及んで君明治中興に最も尽力す。後家落、徒(うつ)って大阪に居す。君素(もと)より雅にして書生の如きと雖も、然かも廃居之術(はいきょのすべ)に於いて頗る権数(けんすう)有り。屡々(しばしば)人の為に画策し以て利を謀(はか)るに多く、中を取る有るのみ。則ち粛然として一貧(いちひん)以て意と為さず。為人(ひととなり)談諧(だんかい)を好み、音吐(おんと)朗(ろう)然(ぜん)四座(しざ)を驚かすに足る。善く國雅を作る、尤も俚歌に工(たくみ)なり。所謂都々一調(どどいつのしらべう)は其の作る所なり。殊に哀艶にして人心の竅(きょう)に入る。一篇出る毎(ごと)に梨園(りえん)争って之を傳唱す。君を亦栩々(くく)然(ぜん)として以て自負(じふ)す。

君の名は幾助、大眉は其の号なり。明治十七年八月二十二日病んで大阪に没す。年五十八、超泉寺に葬る。天下君を知る者、相臣勲将、文士巨(きょ)賈(か)、方外(ほうがい)の妓(ぎ)流(りゅう)皆流涕(りゅうてい)せざるは莫(な)し。金を率(つの)りて以て碑を建て余之が為に銘す。銘して曰く。

賈にして士、士にして儒、儒にして文士、文士にして壮夫なるかな。龐(ほう)然(ぜん)として其の面(かんばせ)蓬然、其の眉吁嗟(ああ)大眉なり。

 

「廃居之術に於いて頗る権数有り」の文中にある「廃居」とは「物価の安い時に買いたくわえて、価格の上がるのを待つこと」の意で、「権数」とは「権謀術数」のこと。また「屡々画策し以て利を謀るに多く、中を取る有るのみ。則ち粛然として一貧以て意と為さず」とあることから、彼は人の為には謀っても、自らは金銭に恬淡としていたようである。これは「手記」の記述と一致する。したがって傳三郎に製靴の仕事を譲ったのは事実と思われる。

彼は「洒落(しゃらく)」であって「洒落(しゃれ)」ではなく、物事にあまり頓着せずさっぱりした性格で、しかも性豪爽だとある。私が父から聞いた話に、維新前後、長州藩は正義派と俗論派が相争っていたある夜、大眉は俗論派の頭目の一人、椋(むく)梨(なし)藤(とう)太(た)の家の門前に「大糞を垂れ」、悠々と帰宅したとか。

大眉は梨園つまり遊里において相当持てたようで、私は紀伊國屋文左衛門や山科に蟄居中の大石良雄を思い浮かべた。

大眉は確かに大きな眉の持ち主で、彼の肖像画を見れば一目瞭然。そのために「大眉」を自分の号にしたのである。「龐(ほう)眉(び)皓(こう)髪(はつ)」と云う言葉があるが、それは「太い眉と白い髪」で老人を意味すると、辞書にある。

三善貞司編『大阪人物辞典』(清文堂)を見ると「大賀大眉」の事項がある。

 

奇人、世捨て人。文政十年(一八二七)萩の生まれ。名は幾助、生家は当地では知られた醸造元。侠気に富み青年時代は尊皇攘夷の思想が強く、故郷を飛び出して国事に奔走、勤王派の志士に混じって働くが、明治維新の世情一変に適合できず、体制派となったかっての仲間からも離れ、大阪へ閑居した。大眉は策略を用いて人のために利を計るのが好きで、知友の危機を救うが自分は貧者の暮らしに甘んじて、世俗を超越した。晩年の彼は俚歌が巧みで、特に都々逸に長じ、「一篇出るごとに南北の梨園争ひ伝て唱ふ」といわれるほど、新地などにも流行したようだ。冗談が大好き、四囲をよく驚かしたとも伝えるから、かなり自己韜晦型だったようだ。明治十七年(一八八四)八月五七歳没。

 

晩年の「世俗を超越した」大眉の人柄が判って面白い。今は彼の若い頃の一事に目を向けてみる。

「尊攘の事起こるに及んで君明治中興に最も尽力す」とあるが、大眉は若いとき町人の身でありながら志士と交わり、身を挺して彼等と行動を共にした。『伝記』にパン製造の許可を得てパンを作り四境戦争に役立ったとある。

実はこのパンの製造法を最初に紹介したのは中島治平という蘭学者である。治平は同時に通詞でもあり、長崎へ行って勉強し、医学をはじめ、製鉄やガラスの製法も学んでいるが、他にも色々と西洋の文物を研究し紹介している。私は彼が作ったという小型の蒸気機関車の模型を以前萩博物館で見た。彼は発明の才もあり時代に先んじた人物だったと思われる。大眉は治平からパン製造法を教わったのである。

私が生まれ育った萩市の同じ町内に治平の旧家がある。門前に「中島治平𦾔宅地」の石碑が立っている。名前は忘れたが小学時代に中島という姓の同級生がいた。治平の子孫だとは後で知ったのだが、彼の家へ遊びに行ったことがある。門を入って細長い路地を通り、家の中へ一歩入るとなんだか薄暗かったように記憶する。彼は痩せてひょろ長い体つきで、色白の温和しい性格であった。早世したのかもしれない。旧制萩中学校では見かけなかった。

中島治平については昭和二年に発行された『山口縣阿武郡志』にやや詳しく載っているのでその一部を紹介しよう。

 

當時西洋の學術を修むるもの少きを以て聿徳(筆者注:治平は通称)の如きは醫家、兵家、工藝家、本草家等の諸流に関係し、常に多忙にして客門に絶えず、夜は諸生に洋書を授け諄淳として倦まず、教授して鶏鳴に及ぶことあり。青木周蔵、増野順吉は當時の門生なり。小野為八寫眞術を究む、亦聿徳に學べりと云ふ。しかして彼の攘夷説を唱ふるものは多く洋學を忌み、聿徳の如きは固より猜忌する所となり、往往危難に瀕せしことあり。之を顧みずして専心その學術に盡したるは尋常の人に非ずといふべし。

 

大村益次郎(旧称 村田蔵六)と言えば知らない人はなかろうが、治平は「國内諸處の鐵鐄調査の為北条源蔵、村田蔵六と各地に出て探検を為し、製鉄の事を研究し、又火薬バトロン製造銃砲鋳造を研究す」とあるように、西洋の各種学術を学び、慶応二年に藩の舎(せい)密局(みきょく)頭取に就任した。今なら理化学研究所所長と云った地位、もしくはそれ以上の存在かもしれない。しかし惜しくも彼はその年に四十四歳で亡くなった。もっと長生きしていたら、大村益次郎のように名をなしていたかもしれない。

ついでながら、大眉の記念碑は超泉寺といって大阪天満にあったようだが、先の空襲で壊滅し今は跡形もないとのこと。

 

 

                    三

 

「手記」の最後までを見てみよう。

 

それから私達子供は弟姉妹十八人で、私は二女。第十八人目が山口十八(子爵山口素臣の養子)で、直兄(十八のすぐ上の兄)が石本祥吉(元陸軍大臣を勤めし陸軍大将男爵石本新六)の兄石本綱の養子となり存命中。綱は姫路藩の家老に次ぐ家柄に生れ維新の際には藩主に召し出され一戸を賜はりたる英物らしく、国事に奔走し、その機会に長藩の志士とも交り父大眉と親交となりしものと思はる。

綱と新六(陸軍大臣大将たりし)とは兄弟にて綱が陸軍省に在勤中の当時は中佐にて弟新六は大尉の時綱は没したるものにて、新六は日露戦争の功によりて男爵を授けられた。

十八は陸大卒業後フランスへ留学し、その帰りには彼方で御逝去遊ばした宮様(北白川宮様であったかと思ひます)の御遺骸の御伴をして帰った寺内寿一さんとも同期でした。(十八は先年少将の時に死亡)

この寺内さんや石本祥吉、山口十八が少尉時代の事ですが、伊藤博文公が朝鮮から李王殿下を御連れしてお帰りになった時伊藤公の官邸に三人に伴われて参り,伊藤公にお目にかかりました。十八さんの紹介で私が大眉の娘であると云ふので父大眉の話が出ました。大分御心安かったらしいなと思ひました。

泉流山の裏山続きに澤様(七卿の澤三位様)の御妾宅があり御姫様が御誕生になり其の初雛を拝見に行き御菓子を頂いたことを覚へて居りますが、其れは何れも夢のような気がします。何分七、八十年も昔のことでせうから。澤様は長く大賀家で御匿くまい申して居りました。

それから明治十年でしたか萩の前原騒動の時には官軍の本陣もしました。私は九才頃まで泉流山の家に居ましたが山荘と云った様な家で茶室の水屋には山水が掛け樋で常に来て居りました。泉流山と云ふ名は翁が付けられた名称ではなかったかと思ひます。大眉翁の前の持主が誰れであったか判らぬのは残念です。父は泉流山には七十三年前に居ました。 それから翁は大阪の『つりがね町』で死去された時五十八歳でした。

 

大眉に子供が十八人も居たのには驚く。山口十八はそれこそ十八番目に生まれたから「十八」と名付けられたそうだが、彼が書いた『大賀家系図抜粋』を見まると、大眉は生涯に三人の妻を娶っている。子沢山でかなり甲斐性があったものと思われる。石本新六と云う名前を見て私はまた鷗外を思い出した。

明治四十二年七月二十八日以降の『日記』に下記の記入がある。

 

 昴(すばる)第七號發賣を禁止せらる。Vita sexualis を載せたるがためならむと傳へらる。

八月一日 諸雜誌にVita sexualisの評囂(かまびす)し。

八月六日 内務省警保局長陸軍省に来て、Vita sexualis の事を談じたりとて、石本次官新六予を戒飭(かいちょく)す。

 

石本新六の兄の養子に大眉の息子の一人がなっているが、新六は兄同様、筋金入りの軍人で、後に男爵陸軍大臣になっている。付言すれば、名著『石光真清の手記 四部作』と関係のある石光真人著『ある明治人の記録』を読むと、会津人でありながら陸軍大将になった柴五郎と新六は陸軍幼年学校同期である。

新六の部下であった鷗外が、雑誌『昴』などにたびたび文学作品を載せるのを苦々しく思って居たに違いない。それがこともあろうに鷗外が、自分の性(セックス)の歴史を発表した事は、軍人として許しがたい行為に思えたのだろう。鷗外は新六に「戒飭」つまり「戒め慎む」ように云われその後しばらくの間筆を擱(お)いている。これは鷗外の生涯でかなり重大な事件で、幾人かの批評家が指摘している。大眉とは直接関係のない事件だが私にとっては新事実。「澤様」は、文久三年(1863)に起きた公武合体のクーデターと深い関係がある。このとき、長州藩は京都堺町御門警衛の任を解かれ、三条実美ら七卿も罷免され、長州に走ったいわゆる「七卿都落ち」のメンバーの一人が澤宣嘉である。大眉が泉山流の自邸に澤を匿(かくま)い家族で面倒をみたことが「手記」から分かる。澤は尊攘派公卿として活躍し、明治元年(1868)に帰京すると、明治政府の参与・長崎府知事、さらに翌年には外国官知事・外務卿を歴任し、明治初年の外交を担当した。明治六年(1873)ロシア公使に内定し着任前に病死している。その翌年榎本武揚特命全権公使としてロシアに駐在した。澤は柔(やわ)な公卿ではなく、有能で行動的な公卿であったことが分かる。(『角川日本史辞典』)

 

前原騒動(明治九年)の事にも触れてある。これは周知の前原一誠等による「萩の乱」のことである。大眉の山荘が官軍の本陣になったとあり、その時の官軍の司令官が大眉の従弟の三浦梧楼(号観樹)だった。

梧楼はその時私の祖父に「大丈夫、心配することはない」と云ったとか。

これより少し前の事だと思われるが、祖父が二十歳(はたち)前の頃、前原一誠実弟の佐世一清に斬られかけたことがある。

佐世は「お前は梅屋七兵衛の息子だろう」と云ってむずと襟もとを右手で掴んだ。その時彼は負傷していた左手を懐手(ふところで)にして隠していた。刀を抜こうとして掴んでいた右手を一端離した隙に、祖父は一目散に逃げて柏村という親戚の家に駆け込み、大きな長櫃(ながびつ)の中に身を潜めて無事に難を逃れたようである。

七兵衛は大眉の義兄として彼と同じく町人ながら勤王の志を抱いて志士と交わり、慶応三年に上海から鉄砲を買って帰り、新政府側に援助の手をさしのべたりしている。

今から思えば、一連の反政府騒動は、明治新政府ができて明治六年の「徴兵令」が布告されて間もなくの事件である。明治七年には「佐賀の乱」、さらに明治九年には「熊本神風連の乱」とこの「萩の乱」、そして翌年には「西南の役」と立て続けに事件が起きた。まかり間違えば、わが国の歴史は大きく変わっていたことだろう。

松陰神社の社殿に向って左片隅に小さな細長くて四角い御影石の墓標が建っている。「明治九年萩の變 七烈士殉難の地」と正面に刻まれ、側面に前原一誠、佐世一清等七人の名前が読み取れる。多くの参拝者が神社を訪れても、ここに足を留めて彼等に思いを寄せる者は殆どいないのではなかろうか。

ここで上記のことに関連したことがあるので、一つ紹介しよう。私が山口市に居を移してしばらくして、市内の平川地区に住んでおられる一人の女性と知り合いになった。

ある日彼女が『みんしゅうの神様 隊中様』という絵本を持ってこられた。これは藤山佐(すけ)熊(くま)という「明治維新を成し遂げるうえで大きな力となった奇兵隊・諸隊のひとつである振武隊の隊士」について地元に伝わっている話を彼女が絵本にされたのである。

 

奇兵隊」や「諸隊」には百姓や町人、神官や僧侶、力士、少年たちも喜んで参加した。農民兵の多くは武士よりも勇敢に命をかけて戦い、若者の多くが犠牲になったが、その人たちはみんな尊敬されて「隊中様」と呼ばれた。山口市の郊外に「隊中様」と云われる墓がいくつもある。中でも平川地区の「隊中様」といえば藤山佐熊の墓で、毎年二月九日に祭りが行われてきた。

 

私は先年彼女の案内で祭りの当日(今は寒さを避けて四月九日に行われる)お墓参りに出かけた。平川の小出地域から鋳銭司に向かう山道をしばらく登った所に少し開けた場所があり、「藤山佐熊源正道神霊」と刻まれた墓が立っていた。今は人通りが全くない山道だが、以前は大村益次郎なども通った鋳銭司から山口への近道である。地区の人たちが多く集まって厳かに神事が行われた。この絵本は上手に画かれた絵に添えて、文章も判りやすく書かれてある。

 

「隊中様」のお墓に手厚く葬られている藤山佐熊は、阿武郡嘉(か)年(ね)村(現・山口市阿東町嘉年)で薬草なども栽培していた農民の息子(せがれ)でした。長州藩奇兵隊のひとつである振武隊に入隊して、世直しをねがう農民をはじめ庶民のために戦いました。また戊辰戦争でも越後(今の新潟県)あたりで戦い勝って山口へかえってきました。そのあと、命をかけて戦った兵士や、民衆のためにならない藩政府のやりかたを正そうとする「反乱」諸隊に加わっています。そして明治三年(一八七〇年)二月九日、平川の鎧(よろい)ガ垰で戦死した二十二歳の若者でありました。

 

最後に一言。私がこの「手記」を読んで感じたのは、まず「時代は人を生み、人は時代を作る」ということである。

大河ドラマ『花燃ゆ』は、当時の若者達の滾(たぎ)り立つ熱気を伝えようとしたが今一つ人気がなかった。多くの志士や名もなき兵士達が若くして命を落とした。しかし彼等は真剣に生きたのではないだろうか。ここに挙げた大眉、観樹、傳三郎たちも波瀾万丈の人生を送っている。青春時、彼等も砲煙弾雨の中、命を賭して戦い運良く生き延び、功なり名遂げるまでに至った幸運児と言えよう。

彼等がこうした人生を送れたのは、やはり戊申戦争に勝った長州閥の恩恵を受けたからであろう。関ヶ原の戦いに破れ、その後長州藩が辿った長い隠忍自重の歴史は今は脇に置くが、朝敵とされた会津藩のことを思えば、確かにその意味では運が良かったと言える。だが、彼等が本当に幸せであったかどうか何とも言えない。ただ彼等が真剣に生き努力した結果だということは、これまで見て来たことから窺える。従っておのが人生に満足し、ある程度達観して死を迎えたように思われることで、幸運であったのではないかと私は思うのである。しかし今、彼等のことを幾人の人が知っているだろうか。ましてや、先に紹介した「隊中様」のことなど。史上に残るような人でも、また優れたと思われる事業も、その多くは流れに浮かぶ泡沫(うたかた)の如く消えて逝く。

県立図書館で平岡敏夫著『佐幕派の文学「漱石の気骨」から詩篇まで』という本を見つけて読んでみた。漱石の博士号辞退問題から初期のいくつかの作品は、佐幕的反骨精神に裏付けられていて、薩長藩閥政府を徹底的に憎んだ内容だと書かれてあった。なるほどそういえば充分肯(うなず)ける。だがしかし問題は、漱石が何時までもそうした考えを持ち続けたかということだ。漱石は死を目前にして自分の心境を漢詩に托している。

眞蹤(しんしょう)寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難し

虚懐を抱いて 古今を歩まんと欲す

碧水碧山 何ぞ我(が)あらんや

蓋(がい)天蓋地(てんがいち) 是れ無心

依(い)稀(き)たる暮色 月 草を離れ

錯落(さくらく)たる秋声 風 林に在り

眼(げん)耳(に)双つながら忘じて 身(しん)亦た失し

空中に独り唱う 白雲の吟    (『漱石詩集全釈』二松学舎大学出版部)

著者の佐古純一郎氏は次のような【通釈】を書いておられる。

森羅万象の真実の相は、ひっそりとして静寂であり、まことに深遠で容易に知ることはできない。自分はなんとかして私心を去って真理を得ようと東西古今の道を探ねて生きてきたことである。一体、この大自然にはちっぽけな「我」などないし仰ぎみる天や俯してみる地は、ただ無心そのものである。

自分の人生の終わりを象徴するかのように暮れようとする黄昏どき、無心の月が草原を照らし、吹きわたる秋風が林の中を通りぬけていく。此の人生の最期に立って、もはや自分は小さい我の欲望や感覚を越え、自らの存在すらも無にひとしいように感じるのだが、そのような心境で空を飛ぶ純白のあの雲のような自由さに想をよせて、自分の「白雲の吟」を唱うのである。

佐古氏の次の言葉も、漢詩同様に「手記」とは関係ないが、書き添えて拙稿の結びとする。

この詩を作った翌々日の十一月二十日に、漱石胃潰瘍の発作で病床に臥し、それが死の床となった。それゆえにこの詩が文字どおり、漱石の最後の作品となったわけである。漱石が晩年に志向した「則天去私」のイメージがまことに鮮明に表現されて、漱石文学の精髄といってもけっして誇張ではないと思う。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

床(ゆか)しい

 

数日前から読んでいる漱石の『門』を今日で読み終わろうと思って、目が醒めたのが四時半だったが、洗顔の後直ぐに机に向かった。主人公の宗助が鎌倉の禅寺へ行ったときの様子が書いてある。これは漱石自身の若いときの体験が基になっているようだ。こんな描写があった。

 

「大変御静な様ですが、今日はどなたも御留守なんですか」

「いえ、今日に限らず、何時も私一人です。だから用のあるときは構はず明け放しにして出ます。今も一寸下迄行って用を足して参りました。それがために折角御出の所失礼致しました」

宜(ぎ)道(どう)は此時改めて遠来の人に対して自分の不在を詫びた。此大きな庵を、たった一人預かってゐるのさへ、相応の骨が折れるのに、其上に厄介が増したら嘸(さぞ)迷惑だらうと、宗助は少し気の毒な色を外に動かした。すると宜道は、

「いえ、些(ちっ)とも御遠慮には及びません。道の為で御座いますから」と床(ゆか)しいことを言った。

 

この文章の少し後にこんな文章がある。

 

宗助は一見こだわりの無ささうな是等の人の月日と、自分の内面にある今の生活を比べて、其懸隔(けんかく)の甚だしいのに驚いた。そんな気楽な身分だから坐禅が出来るのか、或は坐禅をした結果さういふ気楽な心になれるのか迷った。

 「気楽では不可(いけ)ません。道楽に出来るものなら、二十年も三十年も雲水をして苦しむものはありません」と宜道は云った。

 

まず始めの引用文の最後にある「床しい」という言葉に、私は何かしら引かれるものを感じた。近来「心ゆかしい」、「奥ゆかしい」、或いは同意語の「雅(みやび)やか」「淑(しと)やか」「典雅な」「窈窕(ようちょう)たる」と云った言葉を全く耳にしない。およそこの言葉の反対を意味するような言葉で充満している。即ち、「がさつな」「慎みがない」「出しゃばる」「はしゃぎ回る」。これに加えて金(かね)、金(かね)、金(かね)といった言葉と、何でも早ければいいと言うスピード狂を反映する人間の欲望をあらわす言葉や事物で、現社会は狂わんばかりである。金も社会的地位も或いは時勢に遅れないと言うこともある程度は必要だが、いったん病気、それも認知症のような自己の喪失、自らを律することができなくなったら、こうしたものは何の役にも立たない。このようなもののみを生涯にわたって求め続け、本当の人間性、品位のある人格、奥ゆかしい心を全く無視して一生を送るとなると淋しいものだと思う。

 

山路来て何やらゆかしすみれ草      芭蕉

 

この句の中にある「ゆかし」が「すみれ草」の姿を象徴する言葉として相応しいと芭蕉は見て取ったのではなかろうか。松尾芭蕉は一六九四年に五十歳で亡くなった。それから七十六年後の一七七〇年に、日本をはるか離れたイングランドの北西部湖水地方の一角で、ウイリアム・ワーズワスが生まれた。私は今から十年ばかり前に、一人の友人と彼の誕生の地を訪ねたことがある。友人は北朝鮮清津(現在のチョンジン)に住んでいて、終戦と同時にロシア兵が侵入してきて、命からがら船で脱出したといったような話を旅行中語ってくれたが、数年前に亡くなった。旅は道連れというが実に良い友だった。その彼と「イギリスの田園巡り」のツアーに参加したときである。ワーズワスの生活していた所は、水と緑豊かな清閑の地といった印象を受けた。観光客もいるにはいたが、わんさと押しかけてはいないで、むしろ閑散としていた。ただ彼が住んでいた街並みで目に付いたのは、家毎に薔薇を植えていて、それが道行く人の目を楽しませてくれた。外の花には気づかなかった。私は朝早く起きて友人と二人でホテルのすぐ前の湖水まで行ってみた。白鳥が静かに湖面に浮かんでいた。

 

ワーズワスに『ルーシー詩編』というのがある。その中に次のような詩がある。

 

 その女(ひと)は人里離れて暮らした  

  鳩という名の流れの水源に近く。

 その女(ひと)を褒めそやす人はなく 

  愛する人とても数少なく。

 

 苔むす岩かげの菫のごとく

人の目につくこともなく。

    ―星のごとくに麗しく、ただ一つ

     輝く星のごとくに。

 

    人知れず暮らし、知る人ぞ知る。

ルーシーが逝ったのはいつ。

    地下に眠るルーシー、ああ、

     かけがえのないルーシー。

                  『ワーズワス詩集』(岩波文庫

    二番目の詩の原文の載せてみよう。

A  violet by a mossy stone

Half hidden from the eye!

Fair as a star, when only one

Is shining in the sky.

 

ここに訳出されている「菫」も芭蕉の歌った「すみれ草」もどことなく感じが似ている。ということは洋の東西を問わず、ワーズワスも「もののあわれ」を感じ取ったと思うのである。彼はこの慎ましく生きて寂しく死んだ田舎娘に密かに思いを寄せていたのかもしれない。

ここで私は「床し」という字に疑問を抱いた。何故「ゆかし」に「床」の字があててあるのかと。そこで『広辞苑』で「ゆかし」を引いてみたら次のような説明があった。

 

ゆかし・い【床しい・懐かしい】ゆか・し(動詞「行く」から。「床し」は当て字)

 

そこで私は「行く」という動詞を又辞書で引いてみた。非常に詳しい説明が載っていたので肝腎な個所だけ書き写してみる。先ずこう書いてあった。

(奈良・平安時代から「ゆく」と併存。平安・鎌倉時代の漢文訓読では、ほとんど「ゆく」を使い、「いく」の例は極めて稀。

 是だけではまだ分からないので、今度は『漢和辞典』で「行」の字を調べて見ることにした。そうするとこれまた多くの意味があることを知った。ずーっと見てみたらこのような意味が書いてあった。

 

《名》おこない。 ふるまい、身持ち、また佛に仕える者のつとめ。品行 修行

 

  これでどうやら「床しい」に「床」の字が当てて有るのが分かったような気がした。

 言葉とか漢字は、意味もだが読み方も結構難しい。鷗外や漱石の作品を読む時は、辞書を手元に置いていなければ、正確な意味を把握出来ないのではなかろうか。

 『門』には坐禅の事が書いてある。私は山口市に来て瑠璃光寺の参禅会の末席に一時名を連ね、坐禅の真似事をしたので、この名作を非常に興味深く読んだ。この事については後日気が向いたら書いて見よう。

                         2020・8・18 記す

川と海

 

私がほとんど毎日散歩する小道に沿って、清らかな水の流れている1メートル幅の細い溝がある。山口市には大きい川はないが三方面を山で囲まれているために、蛍で有名な「一の坂川」や、私が今住んでいる吉敷の地区を流れる「吉敷川」といった、やや大きい川の外に、今挙げたような清い水の流れる溝が各所にあるのに気が付いた。こちらに来て散歩をし始めたお蔭である。

濁って淀んだ川、その上悪臭でも立ち籠めていたら気分が悪くなる。しかし反対に清水がさらさらと流れているのを見ると、僅か1メートル、いや30センチ幅の小さな溝でも、そこに透き通った水が流れ、その上に日が射して小さな光の縞模様が輝いているのを見ると、たったそれだけでも爽やかな気持ちになる。散歩の途中でこういった流れを目にしないことはない。

我が家を出て広い自動車道路に沿った歩道を左へ、つまり南の方角へ500メートルばかり行った所に一軒の料亭がある。其処の駐車場の位置で、今歩いて来た道路の半分の幅の道が右手に枝分かれしてやや斜めに付いている。小道と言っても、車はかつがつ離合出来る道幅である。詩人中原中也の親戚の工学博士が当時の住民の便利のためにと建設したそうで、昔「中原道路」と呼ばれていたこの道の側に大きな記念の石碑が建っている。石に何か刻んであるが判読しかねる。私が歩くのは此の道ではなくて、さらにその道から分かれた、先に述べたような田圃道で、これは「道」というよりは「径」と書くべきだろう。

論語』に「行(ゆ)くに径(こみち)に由(よ)らず」という言葉がある。孔子より39歳も年少のある男が、醜男(ぶおとこ)であったが公明潔白で、往来を歩くにも近道や抜け道をせず、公用でなければ上司の部屋へ決して入らなかったとある。

 

私が今歩くのは「径」でも不適で、「畦道」と書くべきか。先日の夕方、その畦道の路上に薄緑の毬のようなものが五つ六つ転がっているのが離れた所から目に入った。近づいて見たら前夜の風で落ちたのであろう栗の実であった。その畦道に沿った溝川の向こう側は畑で、大きな栗の木が溝にかぶさるように枝を伸ばしていて、青々と繁った葉の中によく見たら薄緑色の栗が沢山なっていた。一種の保護色の様な感じだから,恐らく相当の数がなっているのだろうと思った。私は身を屈めて路上に落ちていたその美しい姿を見て、普通に目にする褐色の栗とは違う色に、何だか別のものを見ているような気がした。

 

私が昭和19年に県立萩中学校に入学した時、始めて英語を習った。筆記体の英習字の授業も最初の経験だった。今は塾とか何とか云って小学校に入る前から英語を学ぶ子供がいる。私の孫も今小学6年生だが、英語検定試験を受けたとか言っていた。隔世の感がある。最初の英語の教科書に次の文章があったのを今でも覚えている。

 

Bananas are yellow.

Chestnuts are brown.

 

1年1学期の中間考査の英語の試験は、殆どの生徒が満点に近い成績を取ったのではなかろうか。英語なんてやさしいものだと思った途端に、その後は冠詞やら単複数の違い、さらに関係代名詞や関係副詞などが出てくるともうお手上げである。家に帰って勉強するのは次の英語の授業に出てくる単語をコンサイスの英和辞書で調べるだけだった。

 

栗がこのような目も醒めるような薄緑のイガで覆われたものかと改めて知って、カメラを持ってくれば良かったと思った。2日後に同じ場所へ行って見たら、そのまま栗は同じ場所に同じ数だけ落ちていたが、濁ったような薄い褐色に変色していた。そこで私は木になっている栗をカメラに撮って家に帰り拡大して見てみた。全く予想もしない自然の妙と言うか先の尖った無数のイガが、まさに緑の針の山のように四方八方にその切っ先を向けて乱雑に生えている。一見ぐちゃぐちゃではあるが静かな感じにも見えた。私はその美しさに目を見張る思いがした。此の美しい緑の色は何かに似ているなと思った。

「そうだ、私が毎日一人で点てて喫する抹茶「又(ゆう)玄(げん)」の色に似ている」と思った。「又玄」とは「さらに玄妙」という意味らしい。

妻が生きている時もそうだったが、私は毎日この「又玄」を、父にお茶を習いに来ておられた有名な萩焼作家が作った茶碗で点てて喫する。私はこの茶碗以外は滅多に使わない。何時もこの私が一番気に入っている茶碗だけを利用する。大きさ、重さ、厚み、何とも言えない肌色の釉薬。そして細かなひび割れのような線。これは「貫入(かんにゅう)」というものだろう。又来客にも抹茶を呈することにしている。趙州(じょうしゅう)和尚の「喫茶去(きっさこ)」ではないが、外面だけは似た行動である。「まあ、お茶でも飲んでゆっくりしなさい」という意味か。父がそうしていたから私も踏襲しているだけの話である。

 

少し話を変えよう。私はこちらに来るまで海の近くにいて、夕陽が指月山の山陰に沈み、水平線上の西の空が夕焼けに染まっているのを見ながら海辺をよく一人で歩いていた。また海から吹き寄せる潮の香を感ずるのは常日頃のことだった。したがって平成10年の夏の盛りに、生まれた時からの住み家からこちらに移った当分の間は、海が懐かしく感じられた。そこで時々車を走らせて山口市の南の郊外とも言うべき秋穂の海を見に行った。

山口市で一番大きくて瀬戸内海に注いでいる川は椹(ふし)野川(のがわ)である。「椹」は「さわら」というヒノキ科の常緑高木で、「ジン」とか「シン」と訓読みするが、何故「フシ」と読むのか分からない。だから私は山口に来たときこの川の呼び方が直ぐには覚えられなかった。それはさておき、この川に沿って河口の方に行ったところに秋穂(あいお)と云う部落がある。実は妻の従弟がしばらくの間、この河口の先端近くに住んでいたので、我々は何度か彼の家を訪ねた。また従弟の細君が家の近くの丘の上に別荘を建てていたので、其処へもよく行った。海面から30メートルばかりの髙台にあって、静かな湾内とも言える河口と、湾外の瀬戸内海に浮かぶ小さな島も遠望出来て見晴らしの良い所である。湾の向こう側の山の中腹に「あいお荘」という温泉のあるホテルが見える。この宿へも数回行った。又従弟の家からさらに岬の先端近くまで行くと「きららのドーム」が、海の向こうに巨大な白鳥か亀の姿に見える。

従弟の奥さんは別荘の駐車場の周りにバラ園を作っていたので、シーズンには色とりどりの花が咲いて素晴らしい雰囲気だった。

 

今日たまたまネットを開いたら、劇作家で文化勲章受賞者の山崎正和氏の死を知らせていた。年齢を見ると86歳である。私より2歳年下である。柔和で上品な顔をしていたが、若い時から大いに活躍していたようである。私は以前鷗外の作品を好んで読んでいたので、『鷗外 闘う家長』という彼の本を読んで、優れた評伝だと思った覚えがある。彼は下関市にある東亜大学の学長にもなっている。それが今や帰らぬ人となった。実は先に言った妻の従弟の奥さんも今入院して居る。気の毒なことにコロナで主人にも会えないようで、非常に可哀想だと従弟が言っていた。

人間は皆必ず死ぬ。コロナで死ぬ高齢者の平均年齢よりも、これ以外の病気で亡くなる高齢者の方がやや若いようである。コロナ、コロナといってこれが最大の死亡原因であるかの如く、マスコミが煽(あお)るのは如何かと思った。

 

                      2020・8・21 記す

 

庭の掃除

 

 今朝目が醒めたのは5時10分前だった。私はいつも9時を過ぎたら床に入るが、起きるのはやや不規則で、目が醒めた時点で床を出ることにしている。3時過ぎに起きることも時にはあるが、4時半前後に目が醒める事が多い。6時まで寝ていることはまずない。

 台風が過ぎて多少朝夕が涼しくなった。猛暑が続いた時、起きて居間の寒暖計を見たら30度を示していることもあったが、今朝は26度だったのでクーラーは付けなかった。いつものように漱石の『行人』を読んだ。今日でやっと読み終えた。小宮豊隆の「解説」に面白い事が書いてあった。

 漱石が『門』を書いて誰も褒めもしなければ言及もしないとき、阿部次郎が手紙を呉れたのが余程嬉しかったのだろう、次のように彼に返事を出している。

 

「『門』の一部分が貴方に読まれさうして貴方を動かしたといふ事を貴方の口から聞くと嬉しい満足が湧いて出ます。(中略)『彼岸過迄』がまだ二三部残ってゐます。若し読んで下さるなら一部小包で送って上げます。夫れとも忙しくて夫所でなければ差控ます。虚に乗じて君の同情を貪るやうな我儘を起して今度の作物の上にも『門』同様の鑑賞を強ひる故意とらしき行為を避けるためわざと伺ふのです」

 

私はこの手紙を読んで、内心忸怩たるものがあった。拙著『硫黄島の奇跡』をある人に差し上げ、その人から多少の褒め言葉を貰ったとき、「この本の基になる『杏林の坂道』を書いています。ネットで読めますから出来たら読んで下さい」と言ったことである。このような自己宣伝は恥ずべきではなかろうかという気がした。

話が逸れたが、7時前になったので、今日は燃えるゴミの収集日なので、昨日途中で止めていた庭の除草を始めた。盆前にお客があると思って庭の掃除をしてから、その後猛暑とヤブ蚊の為に掃除をしなかったので、思い立って支度をして庭に出た。略1ヶ月経っているので雑草がかなり繁茂していた。この炎天下、雑草の伸びは逞しい。小さな草を引き抜くと針のような白い根が10センチも伸びているのがあった。

昨日の分と今日の分で大きなビニール袋に2つ入るほどあった。まだすべての除草が済んだ訳ではないが、ちょっと足腰が疲れたのでまた気が向いたとき行うことにして今日は止めた。

私は庭の草取りを小学生の時からさせられている。萩に居たとき、我が家の敷地は200坪ばかりあり、その約3分の2の面積が庭であった。小さな築山や燈篭、また数本の松や紅白の山茶花(さざんか)など幾種類もの草木があった。しかしこの庭でまず目につくのは樹齢200年を越える大きなタブの木である。この常緑樹は直径が50センチは優にあるような太い枝を七八本も四方に伸ばしていて、絶えず枯れ葉と、時節になると新芽を落としていた。

私は一人息子である。しかし宇田郷村で医者だった伯父の3人の息子たちが県立萩中学校に入ると同時に、我が家に下宿して通学した。従兄たちは3人いて全員が我が家に揃った時、上から5年、4年、3年と連続し、一番下の私が1年生であった。

その時は昭和19年で太平洋戦争が終わる前年だった。我々は朝起きたら食事前にそれぞれ割り当てられた場所を掃除しなければならなかった。父がその様に決めていて、我々は実行していた。門から玄関までの通路の掃除、廊下の拭き掃除などそれぞれ分担があった。私の持ち場は茶席の蹲(つくばい)、つまり手水鉢があってその周りに小石が沢山あり、さらにそれを囲むようにして躑躅の様な灌木がある場所だった。また茶席から蹲まで大小の飛石が据えられていたので其処も掃除した。

先に書いた大きなタブの木が、この茶席の庭の上に太い枝を延ばしていたから、毎朝木の葉が多く落ちていた。この蹲の中に落ちている枯れ葉を除去するのが一番手間がかかった。大風でも吹いた翌日には、炭俵一杯くらい拾い集める事もあった。我が家の庭だから私が一番手間のかかる場所をするように父は決めたのである。こうした毎日の食前の作業の外に、私にとっては是とは別の経験が今以て忘れられないものとして記憶にある。

 

私の家では維新後に、曾祖父と祖父が一時大阪へ出て商売をしていた。萩では曾祖母が酒造業の店を仕切っていたと思われる。元々彼女の家が萩の大屋という所で酒造業を営んでいたから要領が分かっていたからだろう。祖母はしっかり者だったと息子の友一郎が書いている。大阪に出た父と子は商売の傍ら、茶道や俳句など文化的な教養を学んで居たようである。具体的には小堀遠州流の師匠青木宗鳳についてお茶を学んでいた。しかし米相場で大きな損失をして萩に帰った後は商売を止めて、専ら茶華道を教えるなどして生活していたようである。

先頃小堀遠州流15世家元・小堀宗通氏著『続松籟随筆』(村松書館)を読んでいたら、宗通氏の祖父の小堀宗舟師が初めて萩に来られて、我が家の菩提寺である俊光寺で当時の商家の謂わば檀那連中に熱心に茶道を伝授した事が述べられている。

 

「宗舟が萩に滞在したのは、明治三十二年七月六日から八月八日までの、一か月余で、その間の行動は、須子英二氏の曾祖父に当たられる清九郎氏の克明な日記により、逐一明らかであるが、連日の“強暑”の中を猛練習のさまが窺われ、九月四日附けの宗舟の山本友一郎(宗信)氏―孝夫氏の祖父―宛の書翰によって対照してみると、更にその行動が明らかになり、興味深いものがある。

 

恐らくこの際主として世話をしたのが私の祖父の友一郎だったと思う。これ以上のことは省くが、上記のような事から、我が家では大阪での事業に大失敗して萩に帰ってからは、酒造業も止めてそれこそ借金生活だったようである。従って曾祖父は既に隠退し、祖父は大阪にいるとき取得した茶道と華道の教師として、それまでとは全く違って細々とした生き方をするようになった。しかし一応の対面だけは保たなければならなかったかと思う。そのために、私の父は萩中学校を卒業後、現在の関西学院大学まで行かせ、父の姉も萩高等女学校を卒業するとすぐに東京の小堀遠州流の家元で茶道を、更に京都の池坊家で華道を習わせている。父の妹も姉と同じように茶華道の稽古をしている。

このような訳で私がもの心のついてからは、お茶とは縁が切れなかった。父は萩商業に勤務していたが退職してからは茶道に専念していた。私の記憶にあるのはそれより前の事である。父は茶道仲間や萩商業の先生達をよく招待して釜を掛けて茶会を開いていた。それを「お懐石(かいせき)」といっていた。この「お懐石」のある日には特別念入りに庭の掃除をさせられた。私はこれがいやだったが従うほかは無かった。

 私が結婚して、妻も初めてお茶を父から習った。正月に「初釜」といって多くのお弟子さん達を招く茶事があるが、その為の準備で年末から当日までは朝から晩までこの事に関して家中のものが立ち働いた。従って正月に温泉などへ行ってゆっくり楽しむと言うことは我が家では全く無かった。妻はこのような環境に良く耐えたと思う。そして師範にまでなった。父が亡くなりしばらくの間、妻は父の弟子だった人達としばらくお茶の稽古を結構楽しんでいたようである。しかし萩から山口に移ってからは膝が痛いと言って一切お茶とは手を切った。私も全くお茶はしない。唯毎日お茶を点て飲む事だけは欠かさない。

さて、庭の掃除について書くと、我が家には茶室が二つあった。仏間を兼ねた四疊半の茶室と三疊の小さな茶室で、それぞれに蹲が付属していた。

先に書いた「お懐石」の日に、私は枯れ葉をすべて掃き集めて、掃除が終わったと父に言ったら、父はこう言った。

「お前は和敬清寂という言葉を知って居るか。此れは茶の精神を表したものだ。この中の清は心を浄めると言う事だ。心を清々しくするにはまず自分の環境を清く整えなければいけない。明窓浄机という言葉もあるが、自分の環境を綺麗にする事によって自分の心も清くなる。お前は掃除を嫌々にしてはいけない。利休が茶会を前にして次男の少庵(しょうあん)に庭の掃除を命じた。掃除が終わったと利休に言ったら、利休がそれを見てまだ十分ではないと云った。少庵はもう一度徹底的に掃除して、塵一つ落ちていない状態にした。その時利休は茶席の庭にある紅葉の木の枝を揺すって数枚の葉を散らした。“掃除というものは唯塵一つないように舐めたように綺麗にするだけではない。綺麗にした上で更にその上に自然の趣が出ているようにして初めて完璧な掃除というものだ”。このように利休が息子に諭したと聞いている。掃除一つとっても茶道の精神は奥深いものだ。」 

妻が亡くなって書き残していた日記を見ると、「私は子供の頃よく母に掃除など言いつけられたが素直に従わなかった。しかし今は庭に出て草を取るのが何だか楽しい」

このように書いていた。人間の考えは年と共に変わる。名もなき草でも皆生きている。こうした草花と話をしながらと言った気持ちで草取りをしたのかも知れない。妻は絶えず腰痛を訴えていたが、痛みが薄らいだ時よく庭に出て除草していた。私は「無理をするな」と言ったが、年を取ってこうした事が次第に楽しみとなったのだろう。

 2020・9・15 記す

易水寒し

 今年一月二十七日、未明に目が覚めた。洗顔の後R・Hブライス教授の『HAIKU』(北星堂書店)をしばらく読む。夜も明けたようなので窓を開けると、戸外の冷たい空気が肌を刺した。夜間音もなく降った雪が家々の屋根に深々と積もっている。純白、清浄、静まりかえっている。全く目を疑うような光景だ。盆地を囲む遠くの山々も白雪に覆われ、小雪がしきりに舞っている。

この珍しい雪景色を目にした数日後、わたしは蕪村のつぎの句に出くわした。ブライス教授はこの句の英訳に添えて、「易水は有名な中国の川である」と簡単にコメントしていた。

 

 易水にねぶか流るる寒かな

  Down  the River  Ekisui

  Floats  a leek,-

   The cold!        Buson

 

 ブライス氏の英訳はいずれも簡潔で的確、実に上手いと思った。彼のこの著作『HAIKU』は全四巻本で、第二巻には、上記の英訳だけが載っていたが、第四巻に初唐の詩人、駱賓王の漢詩を紹介していたので、今はこれと蕪村のこの句の別の英訳だけ載せてみよう。

 

   A leek,

  Floating  down  the  Kkisui,

    Ah, the cold!       Buson

 

 

駱賓王は初唐の詩人である。

 

  此地別燕丹、 壮士髪衝冠

  昔時人已没、 今日水猶寒 

 

「ここは昔、荊軻が燕の太子丹に別れたところ。その時、壮士荊軻は慷慨のあまり、髪の毛が逆立て冠をつくほどであったという。昔の人は、すでにこの地上から消え去ってあとかたもないが、易水の流れは今なお寒く流れている。」(目加田誠著『唐詩選』)

 

 

わたしはブライス教授がコメントした「有名な川」について、もっと知ろうと思い『日本古典文学全集』(筑摩書房)の「與謝蕪村集」を開いて見てみた。栗山理一氏は次のように評釈している。

 

「易水」は中国河北省の西部にある川。戦国時代、燕(えん)の荊軻(けいか)が、太子丹(たん)のために秦の始皇帝を刺そうとして旅立つにあたり、易水のほとりで壮行の宴がひらかれた。その折りに吟じた詩に、「風蕭々兮(として)易水寒。壮士一(ひとたび)去兮不復還(またかえらず)。」(『史記』刺客列伝)というのがある。この易水の故事を踏まえると共に、芭蕉の「葱白く洗ひたてたるさむさかな」(『韻(いん)塞(ふたぎ)』)の感覚的把握をこれに結びつけたのが、この句である。

「昔、『風蕭々兮易水寒』と壮士荊軻が吟じた易水は、今も流れをとどめない。ふと水面に目をやると、誰か洗いこぼしたのであろう、白いねぶか(ねぎ)が浮き沈みしながら流れていく。『壮士一去兮不復還』という詩意も思い合わされ、この流れ去る葱の行方を見つめていると、ひとしお川風の寒さが身にしみるようだ。」との句意。

舞台は例のシナ趣味であるが、悲壮な歴史をはらむ場面に卑近な庶民生活の素材を配した機知は、まぎれもなく俳諧的骨法を踏まえたものである。しかも単なる戯画に終らず、悲傷清冽の詩情を止め得たのは、鋭い感性に裏づけられた奔放な想像力によるものといえよう。

 

適切な解説で、句意は十分理解できた。ついでに芭蕉の「葱白く」の句についての加藤楸邨氏の評釈を見てみよう。(『古典日本文学全集』「松尾芭蕉集」)

 

葱白く洗ひたてたる寒さかな

元禄四年、美濃垂井の規外の許での作。葱は垂井のあたりの名産であったといわれる。

「洗ひたてたる」には白い上にもしろじろと洗いあげた、その勢を含んだ気持ちが出ている。「葱」は冬季であるが、ここは「寒さ」がつよくはたらく。

「畠から抜いてきた葱をどんどん真白に洗いあげてゆくのが見ていると心のひきしまるような寒さを感ずる」というのである。余計な装飾をすてて、事象の真の中核に感合してゆく態度が生きている。黄金をうちのべる如きゆき方。

 

寒い川辺で真っ白になるまで葱を洗っているという描写を通して、たしかに「心のひきしまるような寒さ」が感じられる。さて、蕪村の「易水にねぶか流るる寒さかな」の句に戻ると、この句においては、「淀川」でも「鴨川」でも意味をなさない。「易水」だからこそ俳諧味がよく出ている。
 藤田真一氏は『蕪村』(岩波新書)で、同じ句について実に簡潔に要領よく解説している。

 

まずは、行くすべもない唐土に思いをはせた一句。これは『史記』に見える史伝を下にふんでいる。秦の始皇帝の暗殺を企てた荊軻は、「風蕭蕭として易水寒し、壮士ひとたび去りてまた還らず」と吟じて決意をのべたとされる話である。ぴんと張りつめた緊張感と、冬の厳しい寒さが照りあっている。おもしろいのは、「葱」である。緊張の場におよそ似つかわしくない、葱がぷかぷか浮かぶ間の抜けた景色、これこそ俳諧という文芸の魅力といってよい。

 

わたしはこの背景をさらに詳しく知ろうと思って、書架から『史記』を取り出して、「刺客列伝第二十六」を読んでみることにした。概略を記してみよう。

 

  中国は戦国時代、紀元前三世紀の初期である。荊軻は衛の人。後に燕に行って、燕では荊(けい)卿(けい)と呼ばれた。 荊軻は人となりは深妙沈着で読書を好み、遊歴した諸侯の国々では、いずれもその地の賢人・豪傑・長者と交わり、燕に行っても、処士(引用者注:教養がありながら官に仕えない者)の田(でん)光(こう)先生がまたよく彼を待遇した。ほどへて、秦に人質になっていた燕の太子丹(たん)が、燕に逃げ帰った事件があった。

丹は秦の人質になったのであるが、秦の待遇がよくなかったので、恨んで逃げ帰ったのである。帰ってからも誰か秦王に報復する者をと探していたが、國が小さく力が及ばなかった。その後、秦は日々山東に出兵して斎・楚・三晋を伐ち暫時諸侯の地を蚕食して、まさに燕に迫ろうとした。 

丹は太傳(たいふ)の鞠(きく)武(ぶ)に復讐の事を謀ると、鞠武は「秦の領土は天下にあまねく、その威力は韓・魏・趙三氏を脅かしています。民は多く士は勇ましく兵器甲冑にも余裕があります。だから秦が外征しようとさえ思えば、長城以南、易水以北の地は今後どうなってゆくか、はかりがたいのです。どうして冷遇されただけの恨みで、秦の逆鱗に触れようとなされますか」

その後、まもなく秦の将軍樊於期(はんおき)が秦王に罪を得て、燕に亡命してくると、太子はこれを受け入れて官舎においた。鞠武はこれを恐れ強く諫めた。そこで太子は何か良いはかりごとはないかと問うと、「燕に田光先生という人がいます。その人は知恵深く沈勇、ともに謀るにたる人物であります。」と云い、太子の許可を得て頼みに行くと、田光は自ら太子のもとまで出掛け次のように云った。

「『騏驥(きき)の壮んなときは日に千里を駆けるが、老衰すれば駑馬(どば)にも先んじられる』といいますが、太子はわたしの壮んな頃のことを聞いて、精力の衰えた今のわたしをご存知ないのです。さりながらわたしはそれを理由に国事をすてようとは思いません。わたしの親友に荊卿というのがおり、これこそお役に立ちましょう」。

「願わくは先生の紹介で、荊卿に会いたいものですが、いかがでしょう」と云うと、田光は承知しましたと云って太子を門まで見送った。そのとき太子は「わたしの話した事も先生の云ったことも國の大事だから、おもらしにならぬように」と念を押した。田光は身をかがめて、笑って承諾し、老いの身を曲げながら、荊卿のもとに行って次のように云った。

 

わたしはこの先の文章を読んで心身の引き締まる思いをした。司馬遷はこう書いている。

 

「わたしときみとの親交は、燕では誰知らぬものはない。いま太子はわたしの壮んな時のことを聞いて、昔に及ばぬ今の衰えを知らず、かたじけなくもわたしに、『燕・秦二国は両立しない、願わくは先生の御配慮を頂きたい』と言われた。わたしはひそかにあなたのことを思い、太子に推薦した。どうか太子の宮殿に伺候してほしい」。

荊軻が、「敬(つつし)んで仰せに従いましょう」と言うと、田光は、「『長者がおこないをなすに、人を疑わしめず』ということがあるが、太子はわたしに、『語りあったことは國の大事である。先生にはおもらしになさらぬように』と言われた。事をはかって人に疑わせるのは気節義侠とはいえない」と言い、自殺して荊卿を励まそうと、「願わくはあなたには、急いで太子のもとにいたり、わたしはすでに死んだと言上し、國の大事がもれないことを明らかにしてほしい」と言って、自らくびをはねて死んだ。

荊軻は太子に謁見し、田光がすでに死んだことを言い、光のことばを伝えると、太子は再拝してひざまづき、膝行(ひざずり)して涙を流した。しばらくして、「わたしが田先生に、他言せぬように申したのは、大事のはかりごとを成し遂げたいばかりからであった。田先生が死んで他言せぬことを明らかにせられたのは、何とわたしの本意であろか」と言った。

 

 「刎頸(ふんけい)の交(まじわり)」という言葉がある。わたしはこの言葉の意味するものを、上に書かれた史実で具体的に知ることが出来た。頸(くび)を刎(は)ねるということはもちろん死を意味する。これまで生きてきた生涯を自ら断つことである。前途は無になる。常人の容易に出来ることではない。死を覚悟で友人との信義を重んずるというこの行為には深甚な重みがある。この後もう少し続けてみよう。司馬遷は同じ事を再度書いている。

 

この後荊軻はしばらく太子のもとで厚遇を得ていた。そして太子の説得でようやく刺客となって秦王を殺そうと決意するのである。この間秦は趙を破り趙王を虜にしてことごとく趙の地を奪い、燕の南境に迫った。今や秦兵が易水を渡らんとしていた。荊軻は太子にこう言った。

 「いま秦に行っても、信用がなければ、秦王に親近することはできません。ところで、かの樊将軍の首には、秦王から金千斤と一万戸の食邑(引用者注:その人の治めている領地)が懸けられています。もし樊将軍の首と燕の地図を持参して秦王に献上するなら、秦王には必ず喜んでわたしを引見いたしましょう。そのときこそわたしは太子に報いる事が出来ましょう」

これに対して太子は、「樊将軍は困窮のはてわたしに身を寄せたもの、わたしは私利のために長者の意を損なうには忍びません。なんとか他の考慮が願えないでしょうか。」

 荊軻は太子がとうてい樊将軍を殺さないことを知り、ひそかに樊於期に会って言った。「秦のあなたに対する仕打ちは、まことに深刻といわねばなりません。父母をはじめ宗族をすべて殺戮し、いまや将軍の首に金千斤と万戸の食邑を懸けていますとか。将軍はいったいどうなさるおつもりですか。」

樊於期が天を仰いで嘆息し、涙を流して、「わたしはそれを思うごとに苦痛が骨髄に徹します。しかし、どうすればよいのか、わたしにもわからないのです」と言うと、「いま一言で燕国の憂えを解き、将軍の仇を報いる策があります。将軍はそれを何と思われますか。」

於期が進み出て、「それはどうするのか」と問うと、荊軻が言った。「あなたのお首を頂いて、秦王に献ずるのです。秦王はかならず喜んでわたしを引見しましょう。そのとき、わたしは左手に秦王の袖をとり、右手でその胸を刺すのです。しからば将軍の仇は報いられ、辱しめられた燕の恥もすすがれましょう。あなたに御異存がございましょうか。」

すると樊於期は片肌をぬぎ、腕を握って進み出で、「これこそわたしが日夜歯を食いしばり、胸を打って悶えたところ、今こそ教えを承ることができた」と言い、ついにみずから首をはねて死んだ。

 

こうして荊軻は二度に及ぶ「刎頸の交」を、身をもって体験し、ついに意を決して秦王刺殺に向かう。もちろん彼自身死を覚悟した上での行為。だから別れに臨んで彼が吟じた「易水寒し」の言葉が生きてくるのだとわたしは思う。その場面を司馬遷は次のように書いている。

 

太子や賓客で事情を知っているものは、いずれも白い装束(注:喪服)を着て見送った。易水のほとりまで来ると、このとき高漸離(こうぜんり)(引用者注:荊軻の友人で琴に似た楽器である筑(ちく)の名手)は筑を撃ち荊軻はこれに和して歌った。見送りの面々はいずれも髪を垂れてすすり泣いた。荊軻はなお進み出て歌った。

 

風は蕭蕭として易水寒し

壮士一去って復還らず

 

さらに羽声(うせい)(注:激しい調子)で慷慨すると、聴くものはみな目を怒らし、髪はことごとく逆立って冠をつくばかり。かくて荊軻は車に乗って去り、ついにうしろを振り向かなかった。この後荊軻は秦王の宮廷で決行に及ぶ、しかし・・・。

 

 古今東西、歴史に残る暗殺行為、今で言うテロとか斬首作戦は、数多くあったろう。たとえば、「ブルータス お前もか」の言葉で有名なシーザーの刺殺、大化の改新のもととなる蘇我入鹿の殺害、近年ではリンカーンガンジーの暗殺、ごく最近ではビンラディンの暗殺など。これらは皆目的を達成している。しかし荊軻は秦王刺殺に失敗した。それでも青史に残っているのは何故か。『史記』を読むと荊軻は秦王刺殺にはかなり逡巡している様子が窺える。彼は二人の友の「刎頸(ふんけい)」に促されて意を決したように読み取れる。無理もない。たとえ成功しても生きては帰れないことは重々承知だからだ。荊軻は詩を吟じて我が身を奮い立たせたのである。何故司馬遷はこの史実を書き残したか。やはり「刎頸の交」と「易水での荊軻の詩」があったからであろう。

非常に長々と『史記』から引用したが、ここで蕪村の句に戻って考えてみることにする。

  

易水にねぶか流るる寒さかな

 

この句については過去から現代に至るまで、詩人や批評家たちの多くが解説している。くどいようだが、詩人・萩原朔太郎は『郷愁の詩人與謝蕪村』で、この句を取り上げて以下のように評している。 

 

易水に根深流るる寒さ哉

「根深」は葱の異名。「易水」は支那の河の名前で、例の「風蕭蕭として易水寒し。壮者一度去ってまた帰らず。」の易水である。しかし作者の意味では、さうした故事や固有名詞と関係なく、単にこの易水といふ文字の寒々とした感じを取って、冬の川の表象に利用したまでであらう。後にも例解する如く、蕪村は支那の故事や漢語を取って、原意と全く無関係に、自己流の詩的技巧で駆使してゐる。

この句の詩情してゐるものは、やはり「葱買て」と同じである。即ち冬の寒い日に、葱などの流れて居る裏町の小川を表象して、そこに人生の沁々とした侘びを感じて居るのである。一般に詩や俳句の目的は、或る自然の風物情景(対象)を叙することによって、作者の主観する人生観(侘び、詩情)を詠嘆することにある。単に対象を観照して、客観的に描写するといふだけでは詩にならない。つまり言へば、その心に「詩」を所有してゐる真の詩人が、対象を客観的に叙景する時にのみ、初めて俳句や詩が出来るのである。それ故にまた、すべての純粋の詩は、本質的に「抒情詩」に属するのである。

 

ついでに朔太郎が名句として挙げている「葱買て」で始まる蕪村の句について、彼の解説を読んでみよう。

 

 葱買て枯木の中を帰りけり

枯木の中を通りながら、郊外の家へ帰って行く人。そこには葱の煮える生活がある。貧苦、借金、女房、子供、小さな借家。冬空に凍える壁、洋燈、寂しい人生。しかしまた何といふ沁々とした人生だろう。古く、懐かしく、物の臭ひの染み混んだ家。赤い火の燃える爐邊。臺所に働く妻。父の帰りを待つ子供。そして葱の煮える生活。

この句の語る一つの詩情は、かうした人間生活の「侘び」を高調して居る。それは人生を悲しく寂しみながら、同時にまた懐かしく愛して居るのである。芭蕉の句にも「侘び」がある。だが蕪村のポエジイするものは、一層人間生活の中に直接實感した侘びであり、特にこの句の如きはその代表的な名句である。

 

文学作品の鑑賞となると、多分に主観的であることがこれで分かる。詩人の空想力はまさにそうだ。わたしの勝手な妄評を加えさせてもらおう。

わたしは先に「易水」であって「淀川」でも「鴨川」でも意味をなさないと言った。ましてや「裏町の小川」ではいけない。先に述べたように、司馬遷の「刺客列伝」を最後まで読むと、荊軻は暗殺未遂に終わっている。しかし著者がこの未遂に終わった事績をあえて筆にしたのは、前にも指摘したように、第一に「刎頸の交」という事実に感動を覚えたがためではないかと思う。さらに言えばあの有名な詩である。易水のほとりに立って別れの詩を吟じた時の荊軻の心情は、悲壮にして心胆を寒むからしむものと推察される。だから「易水寒し」の言葉が生きてくる。

 

子規の句に、「柳ちり菜屑流るる小川かな」というのがある。ここにも自然と庶民の生活が詠われている。しかしこの句には歴史的背景も何もない平凡な春の情景描写のように思われる。彼には「涼しさや平家滅びし水の音」という句もある。子規が夕涼みがてら壇ノ浦のほとりにやってきたときの句であろう。涼風が吹いている。眼前の関門海峡は流れが速く、泡立ちながら音を立てて流れ行く。この「水の音」は何を象徴しているか。幾百年も昔の平家没落の大事件。無念の死を遂げた平家の武士たちの嘆きの声か、それとも彼らの苦悶を和らげようとする仏の声か。あるいは諸行無常、時の流れの象徴か。蕪村は「寒さ」を、子規は「涼しさ」を詠っているが、両者とも過去の事蹟に思いを寄せて季節感を句にしたのであろう。

もう少し蕪村の句について考えてみると、易水は永遠に流れる。荊軻が易水で決別の詩を吟じたのはほんの一時である。永遠と束の間の事象。しかしこの別れは永遠に語り継がれている。

このことを念頭に置いて、蕪村は、「永遠と瞬時」、「歴史的事蹟と些細なる庶民生活の一齣」という対立的なテーマを俳諧的に取り上げて、この名句を作ったのではなかろうか。

滔々として寒く渦巻きながら流れる易水はまさに人間の歴史を表象している。そこにどこからともなく浮かび流れ来た白いねぶか。濁流に浮かぶねぶかの白さは鮮明である。あの昔、易水のほとりで、「太子をはじめ事情を知るものはいずれも白い装束を着て見送った」とある。白色は清浄だが死をも意味する。この純白のねぶかが歴史に刻まれたあの事績の象徴として考えられないだろうか。

 

蕪村に「釣り人の情のこはさよ夕しぐれ」という句がある。「しぐれ」どころか、天候が急変しても釣りに夢中のあまり、足を滑らして大川に落ちて流に呑み込まれ、後日数十キロも離れた場所で発見されるという傷ましい事件を時々耳にする。今かりにその川の名前を淀川として、

「淀川に 釣り人流る 寒さかな」

と詠えば、事情を知っている人には意味が分かるだろうが、こんなのは全くの駄句である。その点、ここに取り上げた蕪村の句は歴史的背景を知ることで始めて面白く理解できる。蕪村の句にはこうした歴史的背景を持つものがいくつもあると評されている。次にあげるのは一見違う蕪村の句である。

 

冬川や佛の花の流れ来る

 

佛に供えた花や床に活けた花が枯れると、茶人はねんごろにそれを川に流してやる、と天心が『茶の木』に書いているが、この句にはあまり寒さが感じられない。もちろん歴史も念頭になく平凡な冬景色を詠ったものである。しかし花に色が感じられる。

蕪村に「手燭して色失へる黄菊かな」という一句がある。ブライス教授は「人工的な光がものの色を取り去ってしまうという不思議な事実は科学的には説明できる。しかし、それでも詩的心は常にそれを不思議に思うだろう。蕪村の場合のように、色彩やものの形に強く関心があるものなら特にそうである。」と、述べて数句を載せている。そのうちの二句を英訳と一緒に転写してみよう。

 

野路の梅白くも赤くもあらぬかな

 The path through  the field;

The plum  flowers are  hardly  white,

 Nor  are they  red.   

 

若葉して水白く麦黄みたり

   Among  the  green  leaves,

 Water  is  white,

   The barley  yellowing.

 

もう一度蕪村の句に戻ると、寒々とした易水の広漠たる流れに浮かぶたった一本の真っ白なねぶか。これは実に鮮明な印象を与える。蕪村は色彩感覚に優れ、対象を見つめて具体的に描く名手で、これはやはり画家としての天稟の表れであろう。

『蕪村余響』の中で、著者の藤田真一氏は次のようにいっている。

「蕪村は、芭蕉流の俳諧を継承しつつ、元禄の世にはなかったような芳醇な香りを俳諧世界に吹き込んだ。時空をこえた想念や、揺らめくような情操など、大きく広がる想像の世界へと解き放ってくれた。もしもこの世界が芭蕉流だけだったとしたら、俳諧は、枯淡閑寂のモノトーンなもの、と言う呪縛を引きずって逝く運命をたどったかもしれない。ごく単純化すると、そこへ明るく、カラフルな開放感をもちこんだのが、蕪村だった。」

 

「易水寒し」の句一つみてもこの言葉はうなずける。まさにこの句は藤田氏の言う如く、「古今の書物や和漢の詩歌を詩囊に収めて、想像の翼を羽ばたかせた」名句だといえる。最後に冬川を詠った対照的な句をもって拙稿を終わります。

 

冬川や誰が引きすてし赤蕪    蕪村

 

冬枯や芥しづまる川の底     移竹

 

 

 

                          

 

 

梅と杏と桜

寒梅という言葉がある。馥郁たる芳香を放ち、寒い冬空に凜として立つ梅の木は美しい。特に古木となると中々趣のある姿を呈する。「臥(が)龍(りよう)梅(ばい)」という梅の品種もあるようだ。まさに大きな龍が体を捻らせて横臥して居るようである。

 

「春入千林處々鶯」とか「千里鶯啼緑映紅」といった言葉には当然梅林が想像される。

梅のことを「羅(ら)浮(ふ)」と言うことを私は中学生の時知った。実は嘉永年間に私の曾祖父が天神様を夢に見て、それから彼は天神様の信者になったと伝え聞いている。天神様といえば梅である。彼はその後、萩市の郊外の地を開墾して数百本の梅を植樹して梅林を造成し、そこに「裸婦邸」ならぬ「羅浮亭」という扁額を掲げた小さな家を建てた。そこは梅屋敷と呼ばれていた。今ここは造成されて住宅地となっているが、その片隅に、「夢想 天満る薫をここに梅花  佳兆」という句碑だけが残っている。同じような句碑が防府天満宮の境内にもある。

「佳兆」は曾祖父の俳号で、句碑の裏に「嘉永中墾此地栽梅焉 長門阿武御民山本七兵衛源信行」と刻まれている。「焉」は「えん」と訓じ、「語調を整えるために添える助辞」だと初めて知った。文政五年(1822)に生まれた曾祖父が梅林を造ったのが嘉永二年(1849)だから二十七歳の時である。だから「焉」の助辞を付けて意気込みを見せたのかと私は思うのである。聞くところによると松陰先生もこの屋敷に立ち寄られたとか。尚此の地は今は「大屋」と書くが「鶯(おう)谷(や)」とも言って居たようである。

 

「羅浮」を辞書でみると「山名。広東省増城県の東にある。東晋の葛(かつ)洪(こう)が仙術を修得した所と伝える。山麓は梅の名所として有名」とある。関連して「羅浮之夢」とか「羅浮少女」という言葉もある。後者の説明として「羅浮の梅の精が美人の姿で現れた故事。転じて美人をいう」とあるから、この少女は「裸婦」を連想させる。まあそれは冗談として、梅は花も実も賞味される。

 

梅が寒中に咲くとしたら、少し暖かくなって似たような花をほころばせるのは桃と杏であろう。ここでは杏を取り上げる。

杏は三月が見頃である。山口市の維新記念公園には杏が数本植えてある。そのそばに友好都市の中国の青島から贈られた「孔子杏壇講学像」という群像がある。中央に座した孔子の左右に顔回子路、子貢などの弟子達五人の像が皆孔子の方を向いていて、孔子が講義をするのを謹聴して居る様子を彷彿させるものである。

なぜ「杏壇」とあるのか。これも辞書を引いてみると、「孔子が学問を教えた所の跡にある壇の名。周囲に杏が植えてある。転じて学問を講ずる所」とあった。先日この公園を訪れたとき茶褐色の新しい枝に薄桃色の美しい花が咲いていた。

 

「杏林」という言葉もある。これは医者を意味する。これも中国の故事にまつわる話がある。辞書には次のように出ている。

「医者の美称。三国時代、呉の董奉(とうほう)という人が病人を治療した礼に、重病人には五本、軽症者には一本のあんずを植えさせ、これを董仙の杏林といった故事」(『廣漢和辞典』)

 

私は萩にいた頃事情があって八年間「青木周弼之旧宅」に管理人として住んでいた。その頃門を入って左側に板塀があり、その塀の内側に数多くの梅の木があったが、大きな杏の木が一本だけあった。春になると美しい花が咲いていたがかなり古木であったのでその内切り倒された。青木周弼は毛利敬親の侍医であったからこの杏の木を植えていたのと思う。

周弼は徳川将軍の御殿医にと頼まれたが、断ったので代わりに緖方洪庵がやむなくその職に就いた。しかし洪庵は江戸に出て程なくして病死した。周弼の弟は研蔵という。彼は明治天皇の侍医であったが不慮の災難で亡くなった。研蔵の養子が青木周蔵である。彼は医者を志して今のドイツへ留学したが、現地で医学に代えて政治学を学び、後に外務大臣になっている。

森鴎外がドイツへ留学したときドイツ公使だった周蔵に挨拶に行っている。その時の様子を『独逸日記』に書いている。また『大発見』という短編にも書いている。私は青木周弼の旧宅に住むことになったお陰でこうしたことを知った。有りがたい奇縁だと思っている。

 

三月下旬に萩の友人が美味しいネーブルを持ってきてくれた。彼は高校の教員を辞めた後、専ら百姓仕事に従事している。彼は米作の傍ら各種の果樹を栽培している。その時こう言った。

「家の周りに杏を十数本植えていて、今は花盛りで非常に美しい」

彼の姓は林という。

「それではまさに杏林だね。その内お宅には医者が誕生するでしょう」と私は笑って語った。

 

杏の花も今や散りもうすぐ四月になる。四月の花と言えば何と云っても桜である。昼間に眺められる桜花爛漫たる姿を好まない日本人は居ないだろう。蘇東坡の『春夜』は有名な詩である。最初の文句に「春宵一刻直千金 花有清香月有陰」とあるが、この花は、やはり桜ではないかと私は思う。宵闇に篝火に映し出された桜はまた違った情趣のあるものと思われる。

 

「敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花」と本居宣長は詠っているが、「願はくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」と詠った西行は、彼の願い通りに死んだと言うからさぞかし満足の一生だったろう。

先の戦場で若き兵士が花と散った。「花に嵐」というが、「いさぎよく散る桜のイメージを胸に抱いて、いや彼らの多くは、将来の平和な日本を夢見て死んでいったのであろう。

実に傷ましい事である。今の我が国の現状を見たらどう思うだろうか。

 

話は卑近になるが、昭和十九年に私は県立萩中学校に入った。七十五年も昔になる。その当時のことで一つ覚えていることがある。一年生全員が体育館に入った時、母校出身の山県という体育の教師が、「お前達は此の度見事この萩中学校に入学した。しかしよう言っておくが、丁度年頃だから色気が出る頃だ。桜が咲き陽気な気持ちになって、女のことが気になるようでは駄目だぞ。しっかり勉強するのだぞ。櫻という字は木偏に貝という字が二つ、その下に女と書く。だから‘二階の女が木にかかる’と覚えたらいい。しかし二階の女が気に掛かるようでは駄目だぞ。」

下らんことを覚えているものである。我々の学年までは男女共学ではなかった。今ならさしづめ問題発言だととらえられるかも知れない。

桜は詩や歌に良く詠われているが、全く別の意味がある。それはどうも感心しない。

馬肉のことを「さくら」と言う。馬の肉が桜色だからである。

「彼奴はどうもさくらのようだ」と言えば、「露天などで客を装って買うふりをして、外の客の購買心をおさせる人」という意味である。

このように言葉には色々な意味があるから、面白いと言えば面白い。

以上三種の花に桃や李を加えるべきかも知れないが、次の文句だけ書き加えて拙文を擱くことにしよう。

 

「桃李不言下自成蹊」(桃李言ハザレドモ下自ズカラ蹊ヲ成ス)

 

立派な人のもとにしぜんと人々が慕い集まる、という意味だが、実に良い言葉である。

研究社の『和英大辞典』をみると次のように訳してあった。簡潔な訳だと思った。

 

A  man  of  virtue  will naturally  attract admirers.

(有徳の士は自ずから崇拝者をひきつける)

  平成三十一年三月三十日 記す