yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

鈴木大拙館

11月27日。和倉温泉での早朝の入浴。これこそ温泉宿での最高のもてなしだ。小原庄助さんの「朝寝、朝酒、朝湯が大好き」の心境が分かる。食堂にはすでに多くの泊まり客がいた。バイキング方式の食事だから、皆盆を手にして歩き廻っている。朝食を終え部屋に入ったがまだ出発予定の時間まで充分ゆとりがあるので、急ぐ必要はなくしばらく二人で雑談に時を過ごした。10時前に一階のロビーへ降りて行き、林さんが精算を済ませている間売店へ行った。前日部屋にあったのと同じ菓子を土産に求め、宅急便で帰宅の翌日の29日午前中に届くように頼んだ。間違いなくこれは時間通りに届いた。

 

戦後此の宅急便が急成長したのは、流通組織の改善・発達により時間通りに配達可能のためか。戦前、戦後間もない時の事を思うと隔世の感がある。お蔭で重い荷物を持ち運ぶことなく旅が楽しめる。ついでに云えば、コロの付いた旅行鞄である。昔は大きな重いトランクを持ち運ぶのが旅に伴うきつい条件だった。

 

出発時間になり従業員たちの見送りを受け、多くの泊まり客と一緒にホテルの送迎用バスに乗り、和倉温泉駅へと向かった。駅からは昨日来た時とは違い、金沢を経て大阪までの特急サンダーバードに乗車。約1時間の早さで金沢駅に到着した。途中窓外の冬景色は寒々としてそんなに印象に残るようなものはなかった。海の見える路線ではないからか。10年ばかり前一人で良寛の里、出雲崎を訪ねた時は、列車の窓から日本海が見え、特に日没の素晴らしい景色も目に映った。少年時代いつも見慣れた菊が浜の海に続いていると思い、懐かしかったのを思い出した。

 

金沢駅は流石に広々として利用客が多く、海外からの観光客の姿が目立った。中国や韓国から来た者もいただろうが、一見しただけでは判らない。背が高く色白ですらっとした若い女性や、堂々とした体躯の男性などを多く見かけた。中には色の黒い濃い髯を生やした者もいた。そして彼らは概して薄着である。兼六公園で一人の中年の男がにこりと笑ったので話しかけたら、オースとラリアから来たと云っていた。彼はこの寒空に半袖のランニングシャツ一枚だった。

 

金沢駅を出て直ぐ目的地の鈴木大拙館を訪れようと思い、荷物を一時預ける所をと考え、駅前の一事預かり所へ行ってみた。

日航ホテルにお泊まりでしたら直接行かれたら良いでしょう」とのそこの係員の言葉に従い、日航ホテルへ行ってみた。チェックインの時間に関係なく荷物を受け付けて呉れた。「さー、これでフリーになった」と心の中で思い、「金沢周遊のバス」に乗るためにもう一度金沢駅に戻ることにした。今度は横断歩道を渡らずに地下街を通ることにした。階段を下りその地下の空間に入ったとき、その広々としていていること、また地上を支えている太くて丸い大きな柱が何本も立っており、きれいなタイル張りの地面は僅かにスロープしているのに驚いた。山口県内にはこういった地下空間は何処にもないのではなかろうか。「ここでスケートボードなど一切のスポーツ用具を禁止します」との表示があった。確かにこういった表示がなければ縦横に遊べる広い空間のように思えた。

 

地上に出てしばらく待つとバスが来たので乗り込み、「本多町」という停留所で降りた。記念館の方角へと歩いて行くと、数メートル先を大柄の外人男性が若い日本人女性と話ながら大股で歩いて居るのに気が付いた。一瞬何処へ行くのかなと思ったが、彼らも我々と同じ目的で鈴木大拙館を訪れるのだ。大拙は外国人にもよく知られた存在だからだ。案の定すたすたと記念館目指して早足に歩いて行った。

 

記念館はバス通りから少し入った所にあり、清楚にして清閑な感じの外観は静観に値すると思った。受付を終えて館内から直ぐに外に出られた。正方形の広々とした貯水池と、その周囲の紅葉が、浅くて澄み通った池面に映じている光景が目に入った。真四角ともいえる白亜の建物がその池の中に突き出るように設定してある。風に僅かに揺れて見える広々とした水と、湖面に映る四囲の移りゆく姿、幾何学的なコンクリートの建造物が西洋の精神を象徴しているとしたら、この微かに風に揺れる水こそは東洋精神といえよう。この二つの大きな精神の和合ともいうべきもの、これはまさに大拙の生き方、心境を空間的に構成したものだと感じられる。

 

私は今回大失敗をした。息子が呉れた小型のSONYのカメラを持ってきたのはよいが、中に装填するチップを入れ忘れたのだ。現像するためにパソコンに入れたままにしていた。近くにカメラ屋がないので諦めた。館内での撮影は禁止と云われたので、屋外の貯水池の側で林さんに数枚撮って貰った。実に静かな落ち着いた佇まいである。館外に出て分かったのだが、敷地の直ぐ側には小高い丘のようなものがあり、非常に大きな欅か楠などが紅葉していて、さらに古い石垣も見えた。記念館に此の地を選んだ訳が判った。大拙の誕生地は記念館の近くにあった。そこは街中の感じだった。そこには大拙の半身像と掲示板が建っていた。外人の観光客がこの後も数人訪れていたが、誰一人としてものを云う者はいない。

 

中に若い男女がいた。男性の方がただ一人池の中に突き出たようになって居る四角い建物の中で、湖面に向かって静座しているのを私は背後から見た。建物の中は何一つ無い空間で、彼のシルエットと建物の四角い出入り口が枠となって湖面だけが目に入り、何というかその全体が目に焼き付けられるような被写体だった。男性はじっと湖面の見つめていたか、それとも目を瞑って瞑想していたかは分からない。いずれにしても彼は此処に来たのだから、大拙を知ってその考えに興味を持ったのだろう。この青年が外国人であるだけに、彼の静かな佇まいを背後から見て、私は大拙が世界的に知られた存在の証だと思った。

 

旅を終えて帰宅したら、記念館でもらってきたパンフレットがあった。良く見ると英語と中国語で書かれたものだった。これを見ると、「展示空間」と「学習空間」と「思索空間」の三つの「空間」で全体が成り立っていることが分かった。英語の説明を読むと次のように書いてあった。

 

展覧概念

本館は色々な展示物を見るだけでなく、訪問客が開放的な心をもって鈴木大拙に出会い、その結果この「展示空間」を移動しながら、彼らが自分の考えをじっくり考えるようにと意図されている。「学習空間」では鈴木大拙の書、写真、本を通して彼の生涯について知り、また彼の精神と哲学を学び、「思索空間」では訪問客に内省の気を促すようにと、それぞれの空間を提供している。

 

確かに先の外人の若い男性の思索的な姿は、この「思索空間」の中おいて、まことに似合ったものであった。

 

 「西田幾多郎記念哲学館」でもらったパンフレットに、西田が大拙について書いた文章が載っていた。

 

 君は一見羅漢の如く人間離れをしているが、しかも非常に情に細やかな所がある。無頓着のようであるが、しかも事に忠実で綿密である。君は学者を以て自らおらないであろうし、また君を目するに単なる学者を以てすべきではないと思うが、君は学才の豊かな洞察に富む人と思う。しばしば耐え難き人事に遭遇して、困る困るとはいっているが、どこか淡々としていつも行雲流水の趣を存している。私は多くの友を持ち、多くの人に交わったが、君の如きは稀である。君は最も豪そうでなくて、最も豪い人かも知れない。私は思想上、君に負うところが多い。(鈴木大拙著『禅と日本文化』「序」より)

 

またこのようにも評している。

 

大拙君は高い山が雲の上ヘ頭を出しているような人である。そしてそこから世間を眺めている、否、自分自身眺めているのである。全く何もない所から、物事を見ているような人である。そのいう所が時に奇抜なように聞こえることがあっても、それは君の自然から流れ出るのである。君には何らの作意というものはない。その考える所が、あまりにも冷静と思われることがあっても、その底には、深い人間愛の涙を湛えているのである。

                 (鈴木大拙『文化と宗教』「序」より)  

 

 このパンフレットの表面にこう書いてあった

 

西田幾多郎鈴木大拙は、ともの明治3年に生まれ、金沢の第四高等中学校で知りあい、生涯を通した親友となりました。互いに励ましあい、尊敬しあい、それぞれの立場から教えあうことで、学者という枠を超えた日本を代表する思想家へと成長しました。ともに新しい西洋の文化・思想を深く吸収しながら、東洋の伝統的な考え方・生き方を大切にして、東西を結びつける世界文化を創造しました。

 

 来年は2020年、西田と大拙が生まれて丁度150年になる。恐らく彼らに関しての催しが各地で行われるであろう。そして彼らは益々世界に知られるようになると思う。東洋と西洋がお互いにもっと知りあい、真の意味での世界的な和合の思想が生まれる事を彼らは願っていたのではないかと思う。私は来年には米寿を迎える。今年彼らの記念館を訪れることができて念願叶い良かった。私にも良き友がいて有難い。

 

 冬の空 友と旅せし 北陸路 思いつれづれ 筆のすさびに

 

                      (2019・12・27 記す)