yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

焼く

子供の頃学校から帰って来ると、「仏様にお盛り物が上げてあるから、あれを下ろしてきて食べなさい。」と云われて喜んで食べたことがある。今の人に「お盛り物」と云って直ぐ分かるかなと思った。これは仏壇に御供えしたものだが、最近は我が家の近くの造成地に次々と新しい家が建てられて居るが、仏壇や神棚があるかどうか分からない。家の周辺に植木を施していないのが目立つ。「家庭」とは「家と庭」と書くが、最近多く見かける家は、おしなべて、小さな窓の付いた四角い箱形の建物だけである。外見から想像するに、まず床の間はなかろう。ひょっとして神棚は勿論、仏壇もないかも知れない。

 

 私は毎朝、神棚の榊と仏壇の供花の水、それに供えてある水を替えて拝む事にしている。また仏壇には何か果物とお菓子を欠かさずに供えている。つまり「お盛り物」である。長いこと供えておく訳にいかないので時々それを替える。貰った菓子でもあれば良いが、そうでないとスーパーなどで買って来る。

 

一昨日も何か適当な物はないかとスーパーへ行ったら、美味そうな「どら焼き」が目に入った。私はこれを三つ、外に「桃山」を二つほど買って帰った。これらをお供えして、どら焼きだけは私が食べる目的で余分に一つ買ったので、後で抹茶を点てて食べてみた。結構美味しかった。

 

戸外は風もなく穏やかな陽気である。しかし我が家に入ると、居間はだだっ広くて陽が射し込まないので、外に比べると室温は大分低い。暖房を付けるほどではないが一寸肌寒いので、私は南側のガラス窓の傍に陽が当たっているのでそこで寝転んだ。そこは床から43センチの高さで、窓から55センチ幅の狭い場所である。普通は鉢植えの花を置いたり、本を並べたりして居る。現在は本だけは並べているが、花を置いていないので、陽に当たりながら寝転ぶのに恰好の場所として、私はここに横になったのである。

 

こうして横になっていたら先日茶室の隣の部屋から持ち出してきた「銅鑼」が目に付いた。この銅鑼は転居に際して萩から持ってきた物である。萩に居たとき、「お懐石」すなわち茶会を父が催していたとき、お客への合図によく利用していた物である。いまではその用をなすことはないが、叩くと中々響きが良い。

 

私はこの銅鑼を見て、先日お盛り物にと買って来た「どら焼き」を連想した。試しに『辞書』を引いてみたら、「どら焼き」は漢字で「銅鑼焼き」とも書いてあった。そしてこう説明してあった。

「小麦粉・砂糖・卵などを原料にして焼いた銅鑼形の皮二枚の間に粒餡をはさんだ和菓子。」

ついでに「桃山」を引いてみると、「白餡に砂糖・卵黄と少量のみじん粉を錬りまぜて焼き上げた和菓子。餡を包んだもの。」            (以上『広辞苑』より)

 

確かに「銅鑼焼き」は、私の目の前にある本物の「銅鑼」に形と色が似ているなと思った。方(かた)やその音を楽しみ、他方は食べるので違いはあるが。

私はここで、「銅鑼焼き」とか「鯛焼き」は食べることが出来るが、「炭焼き」とか「きも焼き」さらに「世話を焼く」とか「手を焼く」いう言葉があることに思いついた。

同じ「焼き」でもいろいろと意味の違いがあるのだと思い、また辞書を引いてみた。まず「焼く」と言う言葉を辞書で見ようと思った。しかしそれより先に「銅鑼」を引いてみた。

 

【銅鑼】 金属製の打楽器。多く唐(から)金(かね)で造り、盆形をし、紐で吊り下げて桴(ばち)で打ち鳴らす。大小各種あり、中央部にいぼ状の隆起を持つものもある。桴も種類が多く、用途によって組み合わせはさまざま。仏教の法要や歌舞伎囃子、獅子舞などの民俗芸能のほか、茶席などにも用い、出帆の合図にも打ち鳴らす。仏教用は鐃(にょう)と称す。                        

(『広辞苑』)

 

ここに「茶席などにも用い」とあるので、父が叩いていたのが納得できた。さて、それでは「焼く」を、これは少し詳しく見てみよう。

 

  やく【焼】

[一]火・光・薬品などによって、物の状態を変える。

  • 火を点けて燃やす。燃焼させる。たく。
  • 燃やして形をなくす。燃して灰にする。
  • 火にあてたり、くべたりして作り上げる。加熱して食べたり、使用したりできるようにする。

    [二]心の働かせ方を比喩的に言う。

     ① 心をなやます。胸をこがす。

② 種々に気を配る。あれこれ面倒を見る。

  •  嫉妬する。
  •  うれしがらせを云う。おだてる。

                        (『日本国語大辞典』『小学館』)

  

それぞれの意味に例文が引用してあるが、それは省略するとして、我々は日頃何となく使っている[焼く]と言う言葉が、これほど多義に別れているとは知らなかった。しかし無意識に何とか上手に使っている。[餅を焼く]と「焼き餅を焼く」では大違い。[焼栗(やきぐり)]と[焼(やけ)糞(くそ)]も同様である。こうした意味の違いはやはり人との会話や読書によって培われていく。英語教育も大事だが国語教育は一層必要だと思う。もう少しこの言葉に関連して思った事を書いてみよう。

 

「焼く」と同じような言葉に「たく」とか「くべる」という言葉がある。「たく」は「炊」とか「焚」の字が宛てられている。「くべる」は「焼」の字が宛てられていた。

焚書(ふんしょ)坑儒(こうじゅ)」という言葉がある。これは秦の始皇帝が自分の政治を批判するもとになる復古的な書物を焼き捨て、学者数百人を生き埋めにしたという故事だが、現在においてもこれに似たことが、世界のいくつかの国で行われて居るのではなかろうか。

 

私は昔途中まで読んで止めた本、新井白石の『折りたく柴の記』の題名が「折りたく」となっているのを思いだして、この本の解説を見てみた。仏文学者の桑原武夫氏が最初に次のように言っている。

 

折たく柴の記』は、十八世紀初頭の日本がもちえた偉大なアンシクロペディスト(百科全書家)、新井白石(一六五七~一七二五)の自叙伝として、私たちの誇りとすべき作品である。

そして、この白石の自叙伝の題名について、桑原氏の言葉があるので、ここに引用してみよう。

 

    思ひいづるをりたく柴の夕けぶり

      むせぶもうれしわすれがたみに

 

折たく柴の記』という題名は、この後鳥羽院の哀傷の名歌をふまえたものである。後鳥羽院は多芸多能で気骨のある人物であったが、承久の乱で一敗して隠岐に流された。一世をおおう才能をもちつつ今や権力の座から追放された白石は、みづからをこの謀叛をした天皇に比したのであろう。ともかく、この本がたんなる子孫のための家訓にとどまらず、はげしい自己主張と同時に深い自己愛惜を含むことは確実で、それが魅力となっている。

 

このように紹介されているから読まなければと思うが、今のところどうも気が進まない。せめて後鳥羽院の和歌の意味だけ見て居よう。

 

京都の「五山の送り火」という行事がある。これは盆の八月十三日に「迎え火」を、そして十六日には「送り火」を焚いて亡き人をあの世に見送るものである。この事を踏まえて後鳥羽院が読まれた歌だとある。

 

「亡き人を思い出す折りに焚く夕べの煙にむせてむせび泣くのもうれしいことであるよ。それも忘れ形見と思えば」

 

中々良い歌だと私も思う。最後に「焼く」という人間の行為について考えて見た。

もし「焼く」ということがなかったら今の世の中はどうなるだろうか。先ほども「ゴミ収集車」が来て呉れてこの地区のゴミを全て持っていってくれた。毎週火曜日と金曜日に来る。その都度ゴミ置き場にはゴミ袋が積まれている。これほど多くのゴミが各家庭から出ている。昔はこのような事は無かった。しかし戦後は経済成長が著しくて、その為に大量生産・大量廃棄という現象が生じた。使い捨ての時代になった。特に都会ではこのゴミ処理が深刻な問題となっている。

 

 昔は「焼き場」といえば人間が死んで死体を焼く「火葬場」のことを意味していた。萩市では「火葬場」といわずに「西の浜」と云っていた。何故なら萩市の西側に位置している西の浜に火葬場があったからである。また火葬場で死体の処理をする人を「おんぼう」と云っていたが今は死語になっている。

 

徒然草』の「第七段」に「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山(とりべやま)の煙立ち去らで」と書き出しにあるが、「あだし野」は、京都市の嵯峨の奥、愛宕山の麓にあった、昔の墓地。「鳥部山」は、京都市の東山にあった、昔の火葬場、と註にある。

 

父が昭和五十七年の五月に亡くなって丁度四十年になる。当時はまだ「西の浜」の火葬場が使用されていた。焼却が終わるまで外に出て待っていたら、五月晴れの青空、翠滴る指月山を背景に、煙突から静かに煙が立ち上った。私は「父がとうとうあの世に逝ったのだ」と思ったことを忘れない。

 

話が逸れたが、今は何処の町や市でも立派な火葬場ができている。もし死体を焼くとことが出来なければどうなるだろうか。現今もの凄い量の物品だけでなく、人の死体を含めて動植物が焼却されている。人間は太古の昔に火を発見し、それを大事にしてきた。お蔭で今日の文明が出来上がった。人間は「焼く」という数多くの行為を繰り返し、最後はこの言葉と共に終わるのである。

 

2021・4・20 記す