yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

擬・徒然草 雨の朝

 

 去る七月十三日はしとしとと雨が降った。亡くなった妻の「四十九日の法要」を行ったが、いわゆる「涙雨」と言うべき天候であった。東京、滋賀、大阪からも親族縁者が参列して呉れて有難かった。その後の「セント・コア」ホテルでの会食も無事に終わりこれで葬式後の行事が一つ済んだ。

 時が早く過ぎゆく感じである。法要の日からもう一週間になる。台風の影響だろう、昨夜から断続的に雨が降っている。朝五時に目が醒めたので、妻が使っていた部屋で何時ものように『枕草子』を少し読んだ。

 

 『古典日本文学全集』(筑摩書房)に載っている島崎藤村和辻哲郎の批評も読んでみたが、今読んで居る島内裕子の『枕草子 校訂訳』(ちくま学芸文庫)の最後の解説の方が分かりやすくて良かった。それにしても同じ古典の現代語訳が訳者によってかなりの違いを感ずる。訳者の思い入れ如何によってこんなにも異なるとは。原典を忠実にかつ上手く分かりやすく訳すかということは、結局訳者の力量によると痛感した。日本語がそうだから外国語の翻訳となると、一段と難しいだろう。

 清少納言は、一条天皇中宮である定子が数えの十七歳の時から二十五歳で亡くなるまでの八年間のことを書いている。定子は長保二年(一〇〇〇)に亡くなっている。その後は藤原道長の娘彰子が中宮となって居る。それからは紫式部の『源氏物語』の世界だろう。

 私は定子の死が二十五歳で、それも産褥熱だとあるので、私の母が全く同じ二十五歳で産褥熱で亡くなったことを思い出した。ついでに言えばこの古典を愛読した樋口一葉も二十五歳の時結核で亡くなっている。

 「清少納言の正確な没年は未詳だが、万寿二年(一〇二五)に六十歳で没したとも言われている。その様な彼らの活躍を遠く眺めて、清少納言は定子亡き後の、二十五年の歳月を、どのように送ったのか」と島内裕子は書いている。我が国の文学史上稀に見る才媛も晩年は寂しさの中、中々死を迎えることが出来なかったのかも知れない。或いは案外「ピンピンコロリ」だったかとも思う。

 こんなことを言うと差し障りがあるかも知れないが、私の知る限りでは、私の父も、妻の父も又父の友人たちも皆長く病床に患うことなく実にあっさりとこの世から立ち去っている。「雄々しい」という言葉には良い響きがあるが「女々しい」というと何だか未練がましく弱々しい感じがする。これ亦私の知る限り年老いて長患いの女性を多く知るからでもある。この点妻は性格がそうだったように死に方もあっさりしていた。

 

 七時になったので寝床を片づけて座敷や仏間などに掃除機をかけた。神棚の榊を見たらいささかくたばっているので新しいのと取り替えようと思った。時計の針は八時を回ったばかりである。「ログ」にはまだ榊など残っているかも知れない。こう思って私は車で行くことにした。普通天気の良い日には往復一キロばかりの田圃の中の小道を歩くのだが、今朝は車を利用した。「ログ」の名称にふさわしいバラック建ての小さな丸太小屋のような店は、今は萩市に合併された紫福の山間部の地から、主として野菜などを中型トラックに積んで毎日やって来て七時に開いている。常連の客は七時前に行って待っている。店主は萩高校を卒業し、宮崎大学農学部を出たと言っていた。萩高校で彼の担任だった平島氏は私の同僚だったが、その後県の教職員課長のとき自動車事故で亡くなった。早い死であった。榊の外に玄関の花瓶に挿した白百合の花などもくたばっているので、これも換て新しい花にしようと思った。

 店の前の広場に車を止めて店に入ってみると、青々とした葉の立派な榊と、白と薄紫の可憐な花があったので全部で八百円出して買って帰った。ペットボトルに入れて冷蔵庫で冷やしている水を榊や仏壇の花立て、さらに玄関の間の花瓶に注いだ。これで当分は新鮮な花や榊が見られて気持ちが良い。次いで仏壇と妻の遺骨を安置している仮の仏壇の香炉の灰も、燃え残りの線香を小さな金網でおろして綺麗にした。

 神仏を拝んで玄関の外に出ると、テラスの上で先ず習慣としている簡単な柔軟体操をして木剣を三十回元気よく振った。その後歩を移して萩から持ってきた石の地蔵様の前に行き、屈んで拝んだ。小さな雨が降っていたが気にするほどではない。これまで良く成ってくれていた胡瓜がもう先が見えてきたので、先日買ってきた二本の胡瓜と数本のオクラの苗をこの地蔵の傍に植えたが、その成長を見るのが毎日のささやかな楽しみである。いずれもこの雨の御陰で良く育っている。

 今日はゴミ出しの日である事を思い出した。痛んだ花などはビニールの中型の袋に全部収まったので、我が家に隣接している金網で囲ってある廃棄物の置き場へ持って行こうとしたら、すぐ前の徳田さんが杖をついて同じくゴミ出しをして居られた。

 「水が溜まっています。排水孔の蓋を取ったら良いです」と言われたので、蓋を取ると見る間に水が孔に流れ込んで綺麗さっぱりとなった。ゴミを出し終えて私は徳田さんに「一寸待って下さい。胡瓜を食べてなら上げます」と言って急いで帰り、冷蔵庫に昨日収穫してビニール袋に入れていた胡瓜とミニトマトとピーマンを彼に渡した。

 徳田さんはこの地区の生まれで、若いときから森林組合で働き、また地域の消防活動更に氏神様の土師(はじ)八幡宮の世話など良くして居て、この地区の事には精通した有難い存在である。

 彼の言によると、この地区は四十数年ばかり前には住宅は三十軒しかなくて、田畑だけの広がる人口の希薄な淋しい地区だったそうだが、その後住宅が急増して今は一大住宅地に化している。直ぐ近くに小さな公園も出来、幼い子供を連れた若い親の姿も沢山見かける。毎朝七時頃から小学生たちがランドセルを背にして小学校に通うのが見られる。こうした子供たちの元気な姿を見ると何だか元気づけられる。

 平成十年、今から二十一年前に私達が萩から来てここに家を建てた。その直ぐ後に自動車道路が通り、スーパーまで出来たので、住宅地としては申し分のないところとなった。私にとっては「冷蔵庫がいらない」とまで言える場所である。

 徳田さんは今言ったように此の地の出身で今日まで此の地と密接に関係してこられたので正に生き字引的存在である。私より一つだけ年長の八十八歳である。我々が萩からここに家移りした時には、この地区の事など詳しく話して聞かされた。彼は元来人の世話を良くする人だったが、「家内が老人施設に入って十七年になります。」と先日も言われたが、彼は毎日自家用車を運転して施設に行かれるようである。所謂「老老介護」がこの地区でも増えてきた。

 徳田さんのたった一人の娘さんは全日空かどこかの飛行機のスチュワーデスだったが、フランス人と結婚されて、今はフランスに住んで居られるようで、私が見かけたのは一度だけである。スチュワーデスとか国際結婚とか、若いときは華々しくて良いようだが、老いた両親を残して異国に住んで居れば、彼女の心中如何なものかと他人事ながら思うのである。

 徳田さんと別れ、それでは朝食にしようかと、昨日の朝作って半分残していた炒め物をチンして温め直し、お湯を沸かして珈琲を淹れ、牛乳も温め、昨日買ってきた食パンを焼き、これ又昨晩作っておいた胡瓜ナマスを冷蔵庫から出して大きなテーブルの上に並べた。

 この大きくて頑丈な樫の木で出来た食卓は、家を建てた後に妻と一緒に広島まで出かけて買ったものだが、今一人暮らしの身にとってはいささか大きすぎる。こうして今日も侘しく妻の写真を見ながら朝食を摂っていると、山陽小野田市の須山君や伊勢市の堀之内さんから、香典返しを受けとったという電話がかかってきた。まだ妻の死の余波が続いている感じである。しかしこうして電話があるのも有り難い。雨は降り止んでいるが、その内また降り出すことだろう。

 ここまで書いてふと時計を見ると針は一時半を指している。私は途端に歯科医院との十一時半の予約を思い出した。もうそんな時間かなと不審に思い階下に降りて別の時計を見ても同じ時刻である。昨夜わざわざ忘れない様にと、小さな紙片にも其の事を書いていたのである。歯科医院の診療は午後二時からだから後電話してみよう。一人になり、しっかりしなければいけないとつくづく思うのである。

                        2019・7・19 記す