yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

生と死と

 山口市内には、私が知っているだけでも、書店が大手スーパー内にあるのを含めて6軒ある。しかし私が時々行くのは、山口大学の構内正面入口の直ぐ近くにある「文栄堂」という書店である。昨日そこへ出かけた。急にどうしても行こうという気になった。車でなら簡単だが、歩くとなると片道3キロはあり、多くの車の行き交う道に沿って行かなければならない。私は来年2月で自動車の運転を辞めようと思っている。丁度88才の誕生日を迎えるからである。そこで今のうちに岩波文庫の『コーラン』を買っておかねばと思い、急に思い立って出かけたのである。
 『コーラン』を手に入れたいと思ったのには一寸した理由がある。実は妻が亡くなって少し考えることがあり、多少真面目に読書をしようと思うようになった。そこで先日何か良い本はないかと県立図書館へ行き書架を見て回っていたとき、ふと目にとまったのが井筒俊彦氏の『老子道徳経』という本である。これまで孔子の『論語』は幾冊かを読んでいるが、『老子』とか『荘子』といった所謂老荘思想の本を読んだことは一度もない。そこで早速借りだして毎朝早く起きて食事前に読むことにした。私は昔から早寝早起きの習慣だから,大抵4時前後には目を覚ます。この本を読み出したところ私にはかなり難しくて半知半解ながら結構面白かった。この時著者の井筒氏のことを少し知りたく思い、これを返却した際に今度は若松英輔というかなり若い人の書いた『井筒俊彦 叡智の哲学』という本を借りて来て読むことにした。これは先に読んだ『老子道徳経』より一段と難解だがやはり何となく惹かれた。著者は実に良く勉強して居ると思い感心した
 若松氏の本の中に井筒俊彦氏が若いときに原典から訳した『マホメット』という本についての言及があった。わたしは随分昔だがこの『マホメット』という本を買って読んだ記憶がある。そこで二階の書棚を探してみたら見つかった。以前読んだ形跡が所々に傍線を引いているのでそれだと分かるが、内容はすっかり忘れていた。此の度再読して実に良い本だと実感した。これは井筒氏が昭和27年に38歳の時「アテネ文庫」から出版している。執筆を始めたのは30歳の頃だ。彼は『講談社学術文庫』版の「まえがき」で次のように書いている。

 今から四十年近くの前の作品。若い日の私の胸中に渦巻いていたアラビア砂漠の浪漫を、なんの制約もなく、ただ奔放に形象化したような、私自身にとってこよなく懐かしい書物である。

 慶應義塾大学井筒俊彦氏の講義を直接聞いた牧野信也氏が、この本の「解説」でさらに突っ込んだ事を書いているのでこれも敢えて引用してみよう。

 本書は僅か百ページそこそこの小著であるけれども、今日、日本の世界に誇る碩学の一人である著者にとって、若き日の夢と情熱をそのまま文字に表したような懐かしい作品であるとともに、日本におけるイスラーム研究の歴史において独自の地位を占めるものである。そしてまた注意すべきことに、マホメットという一個の特異な宗教的実存の姿を我々に示すのみにとどまらず、さらに重要なこととして、著者が若き日より今日まで半世紀の間、様々な研究の分野や領域にわたって展開してきた驚くほど広く、しかも同時に限りなく深い、文字通り巨大な学問的業績を産み出すもととなったエネルギーはそもそもどのようなものであるか、何が著者をしてこのような研究へ駆り立てたか、を示す一つの具体的なケースなのである。

 私は井筒氏に益々惹かれて、彼が原典から訳した『コーラン』を読んでみようという気になった。だから上述のように書店を訪ねたのである。これも読みもしないで上巻だけ買っていたので、書店の書棚を探したら運よく岩波文庫で上中下の3冊が揃っていたので中下の2冊だけ買った。「2017年10月5日 第61刷発行」とあるのには驚いた。このような本でも結構多くの人が読んでいるのだ。
 上記の若松氏の本には井筒氏の詳しい年譜が載っている。井筒氏は稀に見る語学の天才である。30カ国語をマスターし、言語学者にして、また哲学者として、高く評価された世界的な碩学とある。

 井筒氏の事はこれぐらいにして、実はこの「文栄堂」という書店の直ぐ近くに、私のかっての同僚の家があり、彼は目下百姓仕事に専念している。私は時々本を買いに行ったついでに彼を訪ねる。留守の場合が多い。昨日は運よく在宅して居た。
 彼は私より3つ4つ年下だからもういい歳である。彼と初めて会ったのは私が大学を卒業して最初の赴任校から宇部高校に転勤した時である。彼も私もまだ独身で同じ下宿で世話になっていた。もうかれこれ半世紀になる過去のことである。私はこの学校に3年だけ勤務した後、母校の萩高校に転勤した。その後彼とは一度も会わなかった。しかし年賀状のやりとりは続けていた。
 再び彼と会うようになったのは、平成10年私が萩を出て山口市に居を移した事と、彼が山口大学の近くの家に養子に迎えられていたためである。養子先は農家のようだが、どうゆう訳で婿入りしたかは知らない。農業仕事の外に、大学生の寄宿寮を3棟も持っており、学生が40人ばかり入っておると言っていた。
昨日も行ってみると、家の前に大きなビニール袋2個にボトルの栓だけが一杯入っているのが目に入った。以前彼がこう云っていた。
 「学生は食べ物や飲み物の後始末がでたらめだから、こうして燃えるゴミとそうでないものを仕分けしなければならない。40人も居るからその日は一日仕事だよ」
私は聞いただけで大変だと思った。今日も彼の言葉を思い出して、先日テレビで見たインドの汚穢に満ちた市街地の様子が目に浮かんだ。日本人は本来清潔な国民だが、次第にそうでは無くなるかも知れない。

 私が山口に来た当時彼はまだ元気で、奥さんも健在だった。しかし数年前に亡くなられて、子供さんたちとも別居だから今は一人暮らしである。娘さんは秋吉にあるサファリパークに勤務していて、以前「白虎」の飼育に携わっていた。大学の獣医学部出身で何よりも動物が好きだとの事で結婚もしていない、と父親の彼は言っていた。彼女は毎週一回帰り、数日分の食事の仕度をしてくれるとも言っていた。彼は親切でいつぞや自分の山に出来たからと言って、大きな筍を持ってきてくれた。又私の妻が亡くなったと知って悔やみにも来てくれた。
 彼にはほかに息子が一人居る。息子さんの母親つまり彼の奥さんが数年前に亡くなって、父親の手助けと思って一時他郷での仕事を辞めて帰省したが、適当な良い仕事がないと言って又故郷を離れたと嘆いていた。彼には孫がいて、一人が東大の大学院工学部を出て小さな企業に入っている。もう一人は九大の農学部の学生である。以前彼に会ったとき次のような事を云っていた。
「俺にこんな孫がいるのは不思議だよ。将来ロボット工学を研究したいと言っておる。大学院を出て大手の企業から声が掛かったが、そこでは先輩格の研究者が多くいて自分の好きな研究が出来ないから、最近出来たばかりの小さな企業へ入ったそうだ。それでも年収800万円と言うから驚くよ」
 彼は折角養子に行ったのに奥さんに先立たれ、今は一人で田畑の耕作に専ら従事して居る。しかしいつ行っても愚痴一つ言わずに忙しく立ち働いているように見える。しかし何と云っても高齢者。耳が遠くなったと言っていた。
 
「今苺の苗を植える畑を作ってきたところだ」と私を見かけると言った。
「大きな苺でピンポン球くらいになる。出来たら持って行こう。来年6月頃には出来る」
 彼は親切にこう言った。
 無精ヒゲが伸び放題で、泥まみれのようなズックを履いていた。その昔高校で数学を教えていた面影は全くない。初めてこちらに来た時彼が次のように話したのを私は覚えている。
 「菅直人が総理になったね。宇部高にいた時私が2年の担任だったが、彼が夏休みに九州一周の自転車旅行をしたいから付き添っていただけませんかというので,一緒に旅行した事がある。あの頃から積極的だったが総理にまでなるとは思わなかった。」
宇部高の卒業で、昨年医学ノーベル賞を受賞した本庶氏は、我々が世話になる2年前に卒業していた。

 書店から彼の家まで車で行くこともあるが,昨日はそこの駐車場に置いたままで歩いて彼を訪ねて。道から逸れて彼の家の敷地内に入った途端、筵2枚に拡げられた薩摩芋がまず目に入った。彼は綺麗に並べられた紅色と白っぽい芋を指さしながら、「紅色の方はよく売れるが,白い方はどうも買い手がつかないね。味は変わらずどちらも美味いのだが。」
 こう云ってビニール袋を持ってきて私に呉れるというので、「一人暮らしだから少しで良いよ」といったら「大きいのは中々買い手がつかないから」といって大きな紅白の芋と中くらいのを3個袋に入れてくれた。
 私は彼に促されて家の敷地に隣接している田圃の方へ移動した。
「この田と向こうに2枚田があって皆で5反ある。この辺の者は稲刈りだけは農協に頼んで居るが、私は全部を1人でやる。稲刈り、乾燥、籾摺りで3日かかる」
 私はどれくらい収穫があるか尋ねてみた。
「今年は出来があまり良くなくてこの田で1反について7俵くらいだった。昨年は9俵できた。コシヒカリが早くヒトメボレは遅く出来る」
今我が国では、米を作っても安い外国米の輸入で、むしろマイナスだと聞いたことがある。彼の場合どうだろうか。
 このような雑談をして、「それではまた会おう」といって帰りかけたとき、
「あんたもそうじゃろうが、女房が死んで女房の有り難さがよう分かる。生きていたときは案外我が儘を言うたが、もう少しようしてやれば良かったと思うよ」。
「そうだね、私もその様に思うよ」
 こう云って再会を約して私は手を振りながら別れた。

 彼は一見元気で楽しく田畑の仕事を一人でこなしているようだが、やはり寄る年波で、仕事を終えて夜1人になったときなど、在りし日の奥さんとの生活を思い、又子供や孫達がいた時の賑やかな時を回顧したとき、これからの我が身の生き方に一抹の不安を覚えて、思わずあのような言葉が口をついて出たのだろう。明日の身は誰にも分からない。

 井筒俊彦の『年譜』に次のような記載があった。

1993(平成5)年 78歳
   1月7日、朝、執筆を終え、寝室へ向かう途中、絨毯につまずき転倒。
何ごともないかのように立ち上がり、妻豊子に「お休み」と声をかけ
たがこれが最後の言葉となる。午前9時、寝室で脳出血を起こす。
同日、午後4時45分鎌倉市の病因にて死去。葬儀は本人の遺志で行
われなかった。

 私はこの『年譜』を読んで、「おや!」と思った。井筒氏は私の妻と同年齢で亡くなっている。その上死に方まで似ている。妻は昨年行けなかったから、今年は是非にといって、高校時代の仲良しグループの集まりに、北九州の門司にあるホテルへ行き歓談を楽しんだ。その後2人部屋にそれぞれ別れ、「それではお先にシャワーをかかってきます」といって浴室に入り、脱衣を始めたとき突然倒れたのである。病名は大動脈解離で、そのまま息を引き取ったようである。
 人それぞれの生き方、又死に方がある。妻は死ぬ前日、新山口駅のプラットホームで、
「それでは行ってきます。」との最後の言葉とともに永遠に旅立った。
 出会いも運命なら別れもそうなのだろうとつくづく思うのである。
                     2019・10・16 記す