yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

氷柱(つらら)

 

「天気予報」の予告通り、7日の朝起きて外を見たら前日と打って変わり、雪が降りしきり一面の銀世界だった。従って7日・8日と戸外には全く出ずに家の中に籠居していた。朝の8時に庭の石地蔵を拝もうと出てみたら、雪は全く解けずに地蔵様の上にも10センチばかり積もっていた。ふと門の屋根を見たら僅かに勾配を付けてある端から氷柱が垂れ下がっていた。私は山口に移り住んで21年になるが、我が家で是程の見事というか、長い氷柱を見たのは初めてである。カメラを持ってきて先ず写した後巻き尺で測ったら丁度40センチあった。空は青く晴れていて白雲が浮かび陽が射していたから、徐々に融けて氷柱も短くなり、その内消えてなくなるだろうと思った。

私は「氷柱」と書いて「つらら」と読むからこれは当て字だと思い、辞書でちょっと調べて見た。語源的には2つあるようだ。

  • ツラツラ(滑滑)の約か〔大言海〕。ツラは滑らかで光沢のあるさまを形容した語。
  • 連なって長くなるところから、ツラツラの意。

英語では「icicle」という。「つらら」の意味の外に口語で「冷たい人、冷静な人」と説明してあった。語源的には「「ice + ickle」とあった。ickleは語源的に曖昧だが、「ic」には「のような」「の性質の」「・・・からなる」とあった。従って「icicle」が「つらら」の外に「氷のように冷たい人」という意味だと知った。

heroic「英雄の、英雄的な」publicがpeople+icから分かるように「公共の、人民の」という意味になるのを知った。

 

氷柱は今云ったように当て字と思われる。滝の水が凍れば当に氷の柱だが、普通は氷の棒程度の小形のものしかこの辺りでは目にしない。私はこの「氷柱」を見たのは夜が明けて8時になった時だが、それより前4時半に目が醒めたので、寒いけれども思い切って起きた。室内の寒暖計は摂氏8度だった。直ぐに暖房のスイッチを入れたが、何しろ私が休む部屋はキッチン兼居間で、いささか広くておまけに天井が高いので、おいそれとは暖かくならない。しかし一端暖まったら、木造建築のお蔭で余熱を長く保つから、妻が亡くなってからは、冬季は此の部屋に寝具を運び入れて寝ることにしている。まあ一長一短だ。という訳で、10時45分になっても、室温はまだ18度である。

自分でも思うのであるが、私はどうも意志薄弱である。昨年5月27日の妻の命日を過ぎて、『漱石全集』全16巻を読もうと決心し、第一巻の『吾輩は猫である』から読みみ始めて、『明暗』までは読み終えたが、第八巻の『文学論』は難しくて途中で止めた。此の作品は漱石がイギリスの留学から帰って、留学中に猛勉強した成果を当時の東大の学生たちに講義したのを、後に一冊の本として世に問うたものである。文学とは如何なるものかということを、いささか哲学的と云うか科学的に説明したもので、多くの英文を引用してあって、私は訳文を参照しながら読むので遅々として進まない。

私は此の作品を以前にも曲がりなりに読み通した。今回また挑戦したが依然として直ぐには内容が頭に入らない。結局自分の頭が悪いと知っただけであった。その時ふと思った。私は来月には満89歳になる。漱石が死んだのは大正5年の12月9日だった。その時彼は満年齢で49歳だった。私は彼の最晩年の作品『思い出す事など』を非常に面白く読んだ。そしてその中に載っている彼が作った漢詩には多分に共鳴した。私は漱石がそれより15年ばかり前に書いたこの『文学論』をはじめとして多くの論文を、この先ぐずぐずと読んでいたのでは、自分の寿命がなくなると思った。それで一時漱石の作品を読むには止めて、もっと今の我が身に即した本を読まなければと思ったのである。

そこで先ず中村元氏の『仏教入門』を図書館で借りて読んだ。次に松原泰道師と五木寛之氏の対談『ブッダ最後の旅』を面白く読んだ。いずれも教えられた。いままた佐々木閑氏の『仏教哲学』のシリーズをネットで見ている。また此れは再読だが、梅原猛氏の『法然の哀しみ』を読むことにした。『平家物語』には法然の浄土思想が濃厚に入って居る。例えば「祇王」の中にそれがはっきり書かれてある、と梅原氏は書いていた。偶然の符合うと云うべきか、私は『平家物語』か『方丈記』の何れかをもう一度じっくり読みたいと思い、先日から『平家物語』を読み始めた。ところが今朝、梅原氏の言っていた「祇王」と云う項目があるではないか。私は一段と興味を抱いて読んで見た。

 

十数年の昔になるが、私は京都へ行ったとき、此の祇王姉妹と母ならびに仏御前の墓のある祇王寺を訪れた。都心を離れた嵯峨野の静かなところにあり、観光客は大部居たが、落ち着いた佇まいで清楚な感を受けた。狭くて石段が多くあり、楓の立木と庭一面の綺麗な苔は印象に残った。いまネットで写真を見てみると、あの時訪ねた状景が蘇る。

今回此の「祇王」を読んで見て、これは間違いなく哀れな実話だと思った。『平家物語』の「巻第一 祇王」に書かれている内容を概略してみよう。

 

清盛が天下を掌握し、世のそしりをも憚らず、人の嘲りをもかえりみず、好き勝手な事をしていた頃、都に祇王・祇女という白拍子の上手な姉妹が居た。彼女らは閉(とじ)という人の娘であった。清盛は姉の祇王を寵愛していたが、続いて妹の祇女も愛し、更に母親にも良い待遇を与えていた。京中の白拍子を舞う女達は、うらやんだり、ねたんだりして、「祇」という文字をつけたら彼女達のように幸せになれるのではと言うほどであった。こうして3年ばかり経ったとき、加賀の国の出で、仏(ほとけ)と云う白拍子の上手な少女が都で有名になった。年は16歳で、「昔よりおおくの白拍子ありしが、かかる舞はいまだ見ず」と言って京中でもてはやされ、本人自身も自信に満ちていた。或る日、「自分は天下に聞こえているが、太政大臣(清盛)に召されないのは残念だ」と言って、招かれないのに勝手に押しかけていった。すると清盛に、「何と云うことだ。招きもしないのに来るとは。さっさと出ていけ」と云われて、帰り掛けたのを見て、祇王が清盛に、「仏(ほとけ)御前(ごぜ)はまだ年端もいかぬ若い人です。たまたま思いきって来たのですから可哀想です。せめて舞いをご覧にならずとも、歌でも聴かれては」と云って呼び止めるようにお願いした。それではと云って舞いと歌を実演させた。そうすると一変に清盛は気に入り仏に心を移してしまった。仏はこれを知って清盛に「私は勝手に来ました。祇王様のお蔭でこうして寵愛を受けるようになりました。どうかお暇させて下さい」と云ったら、清盛は「遠慮はいらん。それなら祇王達をこそ出したらいい」と言った。

此を聞いて祇王は3年もの間の住み慣れたところを立ち去っていった。その際、忘れ形見にと思い、障子に一首の歌を書きつけた。

 

もえ出るも枯るるもおなじ野辺の草いずれか秋にあはではつべき

 

 歌の意味はそう難しくはないが、白拍子がこのような気の利いた歌を詠んだと言うことに、私は祇王が中々の教養の持ち主だと思う。「秋」に「飽きる」を懸け、ともに結局は入道清盛に飽き捨てられる運命にあることを暗示したものである。

後になってこの歌を読んだ仏が清盛のもとを密かに去って、探し探して祇王姉妹達のもとを訪ねるのである。その時仏は頭を剃って遁世の覚悟を決めていた。自分も何時かは飽きられて捨てられる事を、祇王の事実を目にして悟ったのである。

いずれの国、いつの世においても、絶対的な権力を手にした覇者は、火のように燃える情熱をもって欲しいものを手に入れるが、一度それに飽いたら冷然と捨て去るのである。当に冷酷無比の人物「つらら」なのである。

                           2021・1・11 記す