yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

和倉温泉と和太鼓

前にも述べたが、自分一人でも西田幾多郎鈴木大拙の記念館を訪ねようと思っていたところ、林さんに話したら直ぐに一緒に行こうと云ってくれたのは本当に有難かった。お蔭で彼の提案で能登半島の付け根に位置する和倉温泉へ初めて行くことが出来た。彼は地理が専門だから何処に何があり、あの山は何山で此の川は何川だとか、この路線はどこそこに繋がりどこで別れていると云ったことに詳しい。お蔭で車窓から見える河川や山などについて時々教えてくれた。和倉温泉も有名だから、折角近くまで来たのだから是非行って見ようということで行くことになったのだ。

 

西田記念館から宇ノ気駅にクシーで着いたとき数分前に電車は出ていた。当初予定していた時間が4時50分だったから、もう少し早めにタクシーに来て貰うようにすれば良かった。北国の日の暮れは早い。したがって次第に肌寒くなったので薄手のジャンパーを出して羽織った。

 

和倉温泉まで七尾線で各駅停止だからまた一時間の乗車である。途中高校生たちが時々乗り込んできた。少し行った処で羽咋(はくい)という駅を通過した。この地名は私の妻の姉が夫の勤務上一時住んでいた所だったことを思い出した。このような所に来ていたのかと初めて知った。

 

林さんが「咋という字は昨に似ておるが珍しい字だね、喰という字と同じ意味だろう」と云った。帰って辞書を見てみると、「作や昨と同じ発音である。意味は喰うと同じである。だから「はくい」と読むのだろう。『解字』には「口+乍」で乍は積むの意味で、口の中に食べもの入れて積むことから喰う・喰(か)む」と説明してあった。

 

和倉温泉駅に着いた時はもう6時前だった。思ったより周辺は活気があって家々には皆電灯が付いて明るい感じだった。駅舎の中に「あえの風」というホテル名の歓迎旗らしきものを手にした従業員が我々を迎えに来ていて、ホテル差し向けの車に乗せてくれた。

 

「あえの風」とは聞き慣れない言葉なので『広辞苑』を引いて見ると、「あえのこと【饗の祭】石川県奥能登地方の収穫行事、旧暦11月5日に、主人みずから田の神を迎えに行き、入浴させ、饗応する。新嘗祭大嘗祭と同源の民間行事」とあった。

ついでにネットを見てみると一段と詳しく載っていた。

 

加賀屋姉妹館 あえの風 

  大伴家持能登を旅したとき万葉集の歌に詠んだ「東風」。海から訪れるこの風は、豊漁、豊作、幸福をもたらすとされ、能登では「あえの風」と読んでいます。

 

私はついでの家持の歌を調べてみた。

 

四〇二五  志雄路から直(ただ)越え来れば羽咋の海(み)朝なぎしたり船梶もがも

大意 志雄の道から、直接に越えて来ると、羽咋の海が朝凪してゐる。船や梶もほしいものである。                 (土屋文明著『万葉集私注 八』)

 

さて、従業員は我々を案内すると、「一寸待って下さい」と云って同宿予定の客を迎えにまた駅の構内へ行った。しばらく待ったが中々戻ってこない。そのうち、車椅子に乗った老婆を若い女性がゆっくり押しながらやって来るのが目に入った。「お待たせして済みません」と若い女性が我々に言った。「どういたしまして」と我々は優しく応じた。この女性は老いて足腰の不自由な母親を温泉に連れてきたのだろうか、感心な人だと私は思った。

 

車は街灯で明るい通りを走ったが直ぐにホテルに着いた。同じ柄の着物姿の女性が数人我々を迎えた。想像以上に立派で大きなホテルである。コロの付いた旅行鞄をその内の一人が私の手から取って小さな運搬用の車に移した。林さんのリュックサックもそれに乗せてわれわれの部屋の中まで運んでくれた。ここには「加賀屋」という一流ホテルがあって、我々の泊まったのはその姉妹館だということだ。「加賀屋は宿泊費が非常に高いからこちらにした」と林さんが云ったのを思い出した。それでも山口の湯田温泉には此れ程の立派なホテルはない。加賀屋は日本各地にチェーン店を持つ日本一のホテルだということだ。

 

広いロビーには客が沢山いた。我々の部屋は6階にあったが、その階までのエレベーターも中々凝った外見だった。いささか遅く着いたので入浴は後回しにして先に夕食にしようと話し合い、7時になったので一階の食堂へ下りていった。食堂は広々としていて、差し向かいのテーブルに次々に馳走を運んできた。生ビールと冷酒で北陸の蟹や魚料理を美味しく食べていると、会場の中央に設けられた舞台に和太鼓が運び込まれた。それからの展開に我々は目を見張った。

 

 夜叉面や男女の幽霊の面、さらに老いぼれた男の面など、それぞれ違った面を付け、長い髪を垂らし、膝までしかない筒っぽ姿、その中の一人だけは半裸に晒しを巻いた総計六人の男たちの演舞が展開したからである。

 

最初は二人だけ現れると、一人が太鼓を両手に持った撥(ばち)で連続的に打ち鳴らし、もう一人がその周囲を踊りながら間欠的に両手を振り上げて撥で太鼓を叩く、その時の音は会場に鳴り響くほどである。こうした動作がしばらく続くと今度はさらに同じ姿の二人組が交代し同じ演技を続ける。最初の組が引き下がるとまた別の組が出てきた。立ち替わり入れ替わりで見ていて飽きることがない。その内六人全員が掛け声かけて太鼓の周囲を踊ったり叩いたりで最高潮に達した。すべて妖怪とも云うべき奇面を付けたかなり大きい男性ばかりのが、舞台狭しと足踏みならして踊り、掛け声もろとも太鼓を打ち鳴らすこの演技は実に壮観だった。そしてパッと鳴り止んだとき、思わず万雷の拍手が会場から起こった。初めて見聞する和太鼓の演技に私は非常に満足し、この和倉温泉への宿泊を提案して呉れた林さんに感謝した。人生では思いも掛けない邂逅がこうした喜びを与えることがある。

 

私は旅から帰ってユーチューブで、「鼓童」の和太鼓の演奏『道』を見てみた。言葉では言いがたい感動を覚え、とめどなく涙が流れた。演技者全員が「和」となり、一心不乱、神にこの演技を捧げつつも、終には神とも合一しているように思えた。和倉温泉での和太鼓の演技も素晴らしかったが、鼓童のそれには精神性が漲っているように思えた。図らずも日本の芸能文化の一端を知るよすがになった事を有り難く思った。

 

食べ終わったらもう9時前になっていた。朝早くからの移動でいささか疲れたので入浴は明日朝に延ばすと云ってベッドに横になった。これまでもう一人の仲間と毎年どこかへ出かけていたが、我々はいつも夕食後長く歓談するということはない。9時過ぎには皆休む、しかし朝の目覚めは早い。5時前には皆目を覚ます。今回も長い列車の旅で疲れたのであろうすぐに寝入った。

 

朝起きて東の方を窓越しに見ると波静かな七尾湾と低くて平らな能登島が目に入った。昨晩は全く見えなかったからこの光景には驚いた。この島へ行くには島の両サイドに立派な橋が架かっている。山口県の角島への架橋と同じような橋だと思った。ホテルに近い橋は右手に大きく見えたが、左方の橋は遙か彼方に見えるだけだった。遠くてよく見えなかったが.この方は吊り橋だと帰って知った。穏やかな湾内に一艘の舟も見えなかったが、その内小舟が現れて網を投げ入れたかと思うと、航跡を残しながら去って行った。

 

時計は六時である、私一人で大浴場へ行った。一階まで下りていき浴室で裸になり風呂場に入った途端、先に見た光景が一段と間近に見えた。

 

湯煙の立った浴場はかなり広いが、とくに湾に面した大きなガラスは二枚続きで、一枚が目分量で8メートルの幅、高さがその半分くらい。この大きさだから展望は抜群である。正に絶景といえる。露天風呂の方へも入ってみた。入浴客はその時は一人もいなかった。こうして一人静かに入浴を満喫できるとは何と有難い事か。

 

ホテルが呉れたパンフレットを見ると、この大浴場(殿方)は「夕なぎの湯」とあり、(婦人)の方は「露天風呂 朝なぎの湯」とあった。いずれにしても「もてなしの風」を感じてくれるようにとの配慮・嗜好が感じられた。

                  

                 (2019・12・5 記す)