yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

漱石雑感

 

明治26年7月、漱石帝国大学文科大学英文科を卒業するとすぐに大学院に入った。その年の10月に東京高等師範学校英語嘱託教師になっている。翌27年2月の初め、肺結核の徴候を認めて療養に努め、その時弓道を習う。彼は相当真剣に弓の稽古をしたようである。その時の俳句が幾つかある。

 

大弓やひらりひらりと梅の中

弦音にほたりと落る椿かな

矢響の只聞ゆなり梅の中

弦音になれて来て鳴く小鳥かな

 

漱石は半年足らず勤務しただけで突然高等師範学校を辞して、28年4月に愛媛県尋常中学校(松山中学)へ赴任する。そこでも彼は弓の稽古をしている。

 

私は平成10年9月に山口に来て、初めて弓道教室に入って弓道を習った。しかし体力的についていけなくて、弓道の魅力を感じてはいたが、所詮凡骨、古希を過ぎしばらくして稽古を断念した。その時私は漱石弓道の稽古をしていたことを知って『漱石と弓』と題して文章を書いた。知人に見せたら、「漱石が弓を引いていたのですか。知りませんでした。何処かに発表してみたら」と言われたものだから、どうせ取り上げてはくれまいと思ったが、漱石と云えば岩波書店だと考えて原稿を送ってみた。そうしたら忘れた頃に電話があって採用するとのこと。これには驚いた。さっそく読み直して送ったのが平成14年(2002)1月15日だった。するとその年の『図書』4月号に拙稿を載せてくれた。私は主に漱石と弓に関する俳句を取り上げて、私見を述べたのである。そのなかに次の俳句がある。

 

月に射ん的(まと)は栴檀(せんだん)弦走(つるばし)り

 

私はこの「的は栴檀弦走り」の意味が分からないので、指導して貰っていた先生に訊ねたら、先生なりに色々と解釈されて話されたのでそのことを書いた。ところがこの『図書』を読んだという全く未知の方から手紙を貰って、「栴檀」も「弦走り」も大鎧の付属具であると教えられた。一寸調べれば分かったものにと後悔した。また世間には親切な人がいるものだと思った。そこですぐその方に丁重な礼状を差し上げた。そうするとまた翌年の平成15年11月に几帳面な字で便箋4枚に書かれた手紙を下さった。この手紙については最後に書く。

平成14年に全日本弓道連盟の『弓道』の編集者から、岩波の『図書』に載った文章を読んだから、同じような内容の文章を書いてくれと連絡があった。そこで私は加筆訂正した原稿を送った。同誌の編集者は学生時代東大で弓道を稽古され、今は同大学で指導されている方だと後で知った。お蔭で2003年1月号の『弓道』誌に、「弦音にほたりと落る椿かな 漱石と俳句」と題し、数葉の漱石に関係する写真を添えた立派な記事にして載せて頂いた。私はこの『弓道』誌に以下のような事を書いた。

 

「この句について在京の方から「栴檀栴檀の板を意味し、弦走同様に、鎧の具である、従ってこの句は、鎧を的に見立てたのではないか」と、鎧の図版を添えて御教示頂いた。私は漱石が読んだものには記載してあるかも知れないと思い、「漱石山房蔵書目録」を見てみた。すると『頭書 保元物語 中根淑注釈 明治二十四年 金港堂』があった。これと同じ本が県立鹿児島図書館にあることが分かり、問題の箇所を複写して送ってもらったところ、果たして「栴檀弦走」の言葉が載っていた。

 

例の大弓を打ち交(つが)ひ。堅めてひょうと射る。思ふ矢壺う誤らず。下野(しもつけの)守(かみ)の冑の星を射削りて。餘る矢が寶荘院の門の方立(ほうだ)て箆中(へいなか)責めてぞ立ったりける。其の時義朝手綱掻い繰り打ち向ひ。汝は聞きに及ぶにも似ず。無下に手こそ荒けれと宣(のたま)へば為朝兄に渡らせ給ふ上。存ずる旨ありて斯くは仕り候へども。誠に御許しを蒙(こうむ)らば。二の矢を仕らん。眞(まっ)向内(こううち)冑(かぶと)は恐れも候ふ。障子の板か。栴檀弦走りか胸板の眞中か。草摺りならば一の板とも二の板とも。矢壺を慥(たし)かに承って仕らんとて。既に矢取って交はれける所に。上野(こうずけ)の國の住人深巣七郎清國つと駆け寄れば。為朝是を弓手に相請けてはたと射る。清國が冑の三の板より直違(すじか)ひに。左の小耳の根へ箆中計り射込んだれば。暫しもたまらず死ににけり。

 

「門の方立てに箆中責めてぞ立ったりける」とは、門の柱と上の横木と鳥居形をした処へ矢の半ばまで強く射込んだことである。

ところで『保元物語』の原文には、「此は七月十日の夜なりければ、月は夜中に入り終ひて、暁暗の空なるに」とあるので、実際は月はすでに沈んでいたと思われるが、漱石は月を歌うことで、詩的効果を狙ったのではなかろうか。漱石は『保元物語』の此の箇所を読んだ時、現にその頃弓を引いていたので、弓を執れば天下無双の為朝の雄姿に、思わず共感と羨望を覚え、三十一文字に詠じたのであろう、とこれまた勝手に想像してみた。

 

 この拙文を書いて既に17年の歳月が流れたことになる。昨年5月に妻が亡くなり、その後一人暮らしになったので、子供たちに迷惑を掛けてはいけないと思い、自分なりに健康維持を考えている。先ず早寝早起きと散歩の励行である。朝は目覚ましを5時にセットしているが、それより前に起きることが多い。今朝も4時に目が醒めたので「漱石漢詩」を読んでいると次の漢詩が目にとまった。

これは佐古純一郎著『漱石詩集全釈』(二松学舎大学出版部)にあるもので「通釈」も併せて書いてみよう。

 

無題

 

快刀切斷兩頭蛇   快刀切断す 両頭の蛇

   不顧人閒笑語嘩   顧みず 人間笑語の嘩(かまびす)しきを

黄土千秋埋得失   黄土 千秋に得失を埋(うず)め

蒼天萬古照賢邪   蒼天 万古に賢邪を照らす

微風易砕水中月   微風に砕け易し 水中の月

片雨難留枝上花   片雨に留め難し 枝上の花

大酔醒来寒徹骨   大酔(たいすい)醒(さ)め来たりて 寒さ骨に徹す

餘生養得在山家   余生養い得て山家(さんか)に在り                   

 

 【通釈】 自分を取り巻く人間関係の煩わしさや、今まで心を占めていた世俗的な功名心等は、すっかり切り捨てた。いまさら俗人の口やかましい嘲笑など、少しも気にならない。宏大な大地は、長い年月の間に、ちっぽけな人間の損得勘定を埋めてしまうし、天こそは永遠に、人間社会における善悪の営み全てを照射しているのである。

この世のはかなさは、水面に映じた月がそよ風にも砕けてしまい、枝に咲く花がわずかの雨にも散ってしまうようなものである。泥酔から醒めてみると、寒さが身にしみるものだ。これからの自分は、残された人生をここ松山の侘び住まいで過ごすと思う。

 

漱石は松山に来る前、神経衰弱に陥り、鎌倉の円覚寺を訪ねたのもその為である。松山中学校に来て、多少は気分転換になったかとも思うが、必ずしもそうとは云えない。『坊っちゃん』から察せられるが、まだ完全には心の落ち着きは得ていないようだ。「余生養い得て山家に在り」と云いながら、実際には彼は僅か1年で熊本の第五高等学校へ転勤している。松山中学校にいた時、『愚見数則』を松山中学の同窓会報のような冊子に寄稿している。当時の在校生並びに松山中学校の関係者が読んだであろうが、格調の高い優れた文章である。今日の中学、高校の生徒達が此の文章を読んだら、どう感じるだろうか。果たして理解できるだろうか。次のような文章がある。旧漢字を除いて一部写してみよう。

 

  勉強せねば碌な者にはなれぬと覚悟すべし、余自ら勉強せず、而も諸子に面する毎に、勉強せよ々々といふ、諸子が余の如き愚物となるを恐るればなり、殷鑑遠からず勉(べん)旃(せん)々々。

 

教師は必ず生徒よりゑらきものにあらず、偶(たまたま)誤りを教ふる事なきを保せず、故に生徒は、どこまでも教師の云ふ事に従ふべしとは云わず、服さざる事は抗弁すべし、但し己れの非を知らば翻然として恐れ入るべし、此間一點の辯(べん)疎(そ)を容れず、己れの非を謝するの勇気は之れ遂げんとするの勇気に百倍す。

 

善人許(ばか)りと思う勿れ、腹の立つ事多し、悪人のみと定むる勿れ、心安き事なし。

人を崇拝する勿れ、人を軽蔑する勿れ、生まれぬ先を思え、死んだ後を考えよ。

 

理想を高くせよ、敢えて野心を大ならしめよとは云わず、理想なきものの言語動作を見よ、醜悪の極なり、理想なき者の挙止容儀を観よ、美なる所なし、理想は見識より出づ、見識は学問より生ず、学問をして人間が上等にならぬ位なら、初から無学で居る方がよし。

 

これはかなり長い文章である。最後にこう書いている。

 

右の條々、ただ思ひ出る儘に書きつく、長く書けば際限なき故略す、必ずしも諸君に一読せよとは言はず、況んや拳々服膺するをや、諸君今少壮、人生中尤も愉快の時期に遭ふ、余の如き者の説に、耳を傾くるの遑なし、然し数年の後、校舎の生活をやめて、突然俗界に出たるとき、首を回らして考一考せば、或は尤もと思ふ事もあるべし、但し夫も保証はせず。

 

この『愚見数則』は立派な処世訓といえる。これを生徒達に書き残して漱石は松山を立ち去った。これを漱石は28歳の時書いたのには驚く。彼はそれまでに相当厳しい人生体験をしている事が推察できる。また学問の上でもかなり思い悩んでいたような気がする。熊本へは弓道具を携えて行っているがもう稽古はしていないようだ。第五高等学校の生徒達を相手にして漱石は気持ちが大分収まったようである。

 

さて先に挙げた漢詩であるが、これは漱石が松山に赴任して早々に正岡子規に宛てた手紙の中に書かれたものである。此の詩の中の「快刀切断す 両頭の蛇」の【語釈】で、佐古氏は次のように書いている。

 

「両頭蛇―ここでは漱石の松山行きの外的要因である人間関係の煩わしさ(恋愛関係を含む)と、内的要因である功名心(英文学研究に対する不安と煩悶)の象徴である。」

 

一方吉川幸次郎博士は『漱石詩集』で此の句についてこう述べている。

 

「両頭蛇―楚の孫淑敖の故事を用いる。彼は子供の頃、両頭の蛇を見た。それを見たものは死ぬという言い伝えがある。みずからの死を覚悟するとともに、あとから来たものが、再び見ると行けないと思い、蛇を殺して埋め、泣きながら家に帰ると,母はいった、「憂うる無かれ、汝は死せず。吾れ聞く、陰徳有る者は、必ず陽報有りと」。

のち果たして、楚國の宰相となった。先生(吉川博士は漱石を先生と尊敬している)の理想もまた後人のために、色々な両頭の蛇を、切断し、葬り去ることにあった。その結果として、いろいろと批評されるのは、顧慮すまい、というのが、次の「不顧人間笑語嘩」である。

 

二人の解釈は多少異なるが、いずれにしても、漱石は大学時代から神経衰弱になるほど悩んでいた。彼はさらにイギリスに留学して、そこでも神経衰弱に陥っていた。帰国後東大で英文学を教えているがまだ悩みは続く。最終的には朝日新聞社に入って小説の連載を始め、とうとう胃潰瘍で大出血をして一時人事不省になって生き戻った時から、精神的に落ち着いたようである。その頃の漢詩がそれを反映している。

 

先にも述べたように、私は此の度漱石漢詩を読み始めたとき、漱石が松山で弓を引いていたことをまた思い出したのである。其の時先に述べた「栴檀弦走り」に関して教えて頂いた方からの手紙を読もうと思って、探したが見つからない。それとは別の手紙だけがあった。私はこれを読んで見た。それが「この手紙については後で書く」と云ったものである。何だか仰々し言い方だが、私はこれを15年振りに再読した。全部書き写してみる。

 

先日は心温まるお手紙を頂き誠に有難うございました。四十九日を過ぎてもまだ思い出の波が押し寄せて来て、私の胸を痛めます。普段は何も考えずに過ごしていた夫婦が突然この世から消えてしまうことの淋しさ、悲しさを知り、この家に一人ポツンと残されて、生きる甲斐もないほど落ち込みましたが、結局は自分で立ち直る以外の方法はないと、般若心経を唱えて、心を空にし、気を紛らわせたり、雑事を見つけて身体を動かすことで、思い出から遠ざかるようにして過ごしています。

思い起こせば、昭和十八年九月学徒動員で半年繰り上げ卒業し、直ちに就職(N・E・C) ―この時家内と知り合う―十二月入隊と同時に満州に送られ、三ヶ月の教育を受けて、私は幸いにも熊本の予備仕官学校に入り(同期の多くは満州士官学校から南方に行く途中、輸送船が撃沈されたと聞いている)少年飛行兵の教官として鳥取で任務中に終戦、翌年二十一年結婚、以来五七年仲良く過ごしてきて老後は家内のリュウマチとパーキンソンの介護に数年明暮れましたが、寝た切りの約三ヶ月のあと、別れが来ました。はかないものです。然し弓の仲間にも励まされて漸く道場にも顔を出し始めました。

 

私はここまで読んで不思議な符合をみた。この方が昭和二十一年に結婚されて五十七年の間仲睦まじく過ごされたのである。そして奥様が数年間病床に臥せられ、ご主人の介護も空しく亡くなられた。そして四十九日の法要を済まされたとある。私も妻の四十九日の法要を終え、もうすぐ一周忌がやって来る。しかも我々の結婚生活も五十七年であった。続きを書き写そう。

 

小沼範士このことですが、私が戦後勤めていた大蔵省印刷局(今は国立印刷局)の東京の滝野川工場の弓道部の師範として指導に来て頂いていたので、先生の葬儀にも出席しましたが、その時デプロスペロが鳴弦の儀式を行って葬儀車を送った事を覚えています。アサヒ弓具店の道場での先生の射影のテレホンカード(殆ど使用済み)がありましたので同封します。特に作法には厳しく、道場での普段の立居振舞にも自ら能のような優雅さと茶道のような上品さを持っておられました。

弓道誌十一月号65頁中断左側に、昭和五七年三月号に「漱石先生と弓」杉本正秋の文字を発見し、どんな事が書いてあるのか確かめたくて全弓連に連絡し、コピーを送って貰い読んで見ましたが、山本さんがお書きになったものには比べものにもならなくて、心に残るものは何もなく、改めて山本さんの文脈の豊かさと深さに感慨を新たにしました。同封しておきます。

寒さが厳しくなって参ります。呉々もお身体を大事になさって下さい。

平成十五年十一月二十六日

                         高瀬谷 生

  山本孝夫 様

 

今こうして改めて手紙を読み直し、さらに書き写してみて、この方は弓道を通じて人格を磨かれた立派な方だと思った。先の戦争で幸運にも生きのびて、戦後平和な人生を送られたのだ。そして57年間幸せな結婚生活を続けてこられたのだと思った。私は弓道を止めたのでその後交信はしなかったが、先にも述べたように同じような立場に今あって、良い方に一時的だがめぐり会えたと思うのである。

最後に小沼範士という方は弓道九段の名人とも云える人だったようである。私は偶々小沼範士とデプロスペロ共著の『弓道』(英文)講談社発行を山口市弓道場で先輩の方から貰ったので読んでみて、如何に小沼範士が優れた人であったかと言うことを知った。

新型コロナウイルスの感染拡大で、東京オリンピックの開催が危ぶまれているが、弓道はオリンピックの参加種目に決してはならないだろう。多くのスポーツと違って、これは本質的には勝ち負けを競うものではないからだ。「礼に始まり、礼に終わる」といった弓道の精神が世界に普及したら、人類に眞の平和をもたらすだろうと思う。

 

                         2020・2・22 記す