yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

死に臨んで

 

令和二年の秋のある日、萩市の南端に位置する木間(こま)という山間部で、窯を築いて萩焼茶碗を作っていた友人から、何だか重い段ボール箱が送られて来た。開けて見ると中に九箇のマーマレードの缶詰と三冊の筺入りのしっかりした本と、筺に入っていない古ぼけた一冊の本、外に三冊の文庫本が入っていた。いずれも彼が所有していたもので、どれも私が読んでいないものだった。彼は最近になって視力が極端に悪くなって活字が読めないと云って居たので、少しばかりの見舞いをした事に対してお礼の気持ちで送って呉れたようである。彼と知り合うようになったのは不思議な縁による。私はそれまで彼の存在を全く知らなかった。日記を見ると、一九八六年に私が萩市にいた時だから今から三十四年前になる。東京で作家活動をして居た彼の兄が萩にちょっと帰省した。私は高校卒業以来三十数年振りに再会した。その時新聞紙に包んだものを拡げて、

「これは弟が作ったものだ」

と言って一個の萩焼抹茶茶碗を見せて呉れた。私は手に取ってみて、

「良くできているね。弟さんは萩焼作家か」と訊ねた。友人はその後数年して亡くなったが、最初に出版した『遠雷と怒濤と』がNHKの最初の「放送文化賞」を授与されテレビドラマ化された。ペンネームは湯郷将和と言っていた。もう少し生きていたらもっと名をなしただろうと思う。これが契機となって弟さん夫妻と付き合うようになった。彼は萩焼を製作する傍ら小説も書いていた。兄に似て中々の文才の持ち主でもあった。

私は贈本の礼に電話をした時、彼は次のように言った。

「医者に診て貰いましたが、もう活字は読めません。明暗が分かる程度です。是からは音楽を聴いたり、紙に大きな字で俳句でも書いて遊んでみます。残念ですが仕方有りません。しかし人間生きている限りは、何としても前向きで行かなければいけませんね」

私は彼の言葉に悲観的な面が少しもないのに感心し、是は見習うべきことだと思った。

 

人生に於いては不思議な出合いがある。私は長く高校に勤めていたので、接した生徒の数を入れたら、数百人いや数千人もの人と接したことになるだろう。しかし気心が合うというか、改まったいい方をすれば、人生観が同じような人に会うのは僅かの数である。人間にとってこういった人物と一人でも多く交わることができるのは幸せであろう。彼ら兄弟は私にとって最初から気が合う存在だった。

私はよく思うのだが、夫にとっては妻、妻にとって夫は、普通結婚するまではお互い未知の存在である。育った環境、学歴、それ以上に親から受け継いだ遺伝子は相当に違いがあるはずである。そういった違いを持つものが生涯を共にするのだから、自ら摩擦や意見の違いが生ずるのは自明のことである。その場合お互いの考え方と言うか人生観の違いが、許容できる範囲であれば、何とか結婚生活を維持できるのではないかと思う。しかし現在の若い男女は妥協も忍耐も少なく、折角結婚しても破鏡に至る事が非常に多い。 

或る日、この友人の家を妻と一緒に訪れたとき、彼が、

「結婚生活は忍耐と妥協ですね」と言った。

「そうですよ。忍耐と妥協がなかったら、如何して一緒におれますものですか」

と、彼の奥さんもすぐ続いて、半ば本気で笑いながら同調された。

彼は結婚後数年して家を出てその頃流行っていた「ボーリング」の競技場建設の現場監督をしながら、全国各地にある窯場を訪ねて回った。将来自分も窯を持って製作に当たろうと考えて居たようである。この考えを密かに抱いていたから、或る日ぶらっと家を出たと云った。こういう事があったので奥さんの言葉には実感がこもっていた。

 

私は今年五月妻の一周忌を終えて、漱石の全ての作品を再読しようと思い、小説だけは読み終えた。その中に『道草』と言う作品がある。周知のようにこの小説は、漱石がイギリスから帰国して一高と東大で教鞭を執っていた時代の事を、つぶさに書いたものだと言われている。当時漱石は経済的に非常に苦しい立場にいた。

ここで私にとって面白く思えるのは、彼と奥さんとの考え方の違いに基づく会話のやりとりである。漱石の言動は確かに精神的にいささか異常だと思えるが、彼はそのことを冷静に描写しているから不思議である。決して気が狂ってはいない。しかし奥さんを始め周囲の人から見たらどう考えても正常ではない。若し奥さんに生活力があれば子供を連れて離婚したかも知れないと思われるほどである。この事は漱石の死後出版された奥さんの口述による『漱石の思ひ出』に詳しく書かれている。

漱石は家庭内では暴力的振る舞いに至るような事があったが、彼の周辺に集まる友人や教え子たちとの交流は実に和気藹々としていて全く正常である。これを考えると、気心が合うという事が如何に人間関係を円満にするかが良く分かる。漱石にとって奥さんはさておき、気が合わないどころか、相手にして気分が悪くなる人物がいる。それは彼の幼いときの養父母で、数十年振りに再会した彼らのことを作品に書いている。彼らは執拗に漱石に経済的援助を求めてくる。彼らを貪欲というか吝嗇の見本のように漱石は描いている。漱石がこのような養父母の下に養子に出されたということが、これまた彼が実の父親に疎(うと)まれていた結果で、こういった事を考えると、つくづく人間の運命というものを感ずる。

若し漱石のような境遇に生い立ったなら、誰しもひねくれて社会を敵視してて行動してもおかしくはない。私は漱石の晩年の漢詩を読み、其処に彼の言う『則天去私』の考えを知って、漱石がそういった事態を克服しようとした努力を察する事が出来た。漱石は絶筆となった『明暗』を午前中に執筆し、そのために「大いに俗了された心持ち」になったのを洗い浄めるために、午後は漢詩を作ったと言っている。漱石漢詩を読むと、彼がいまや死に臨んで、ある程度心の平安を得たようだと思われる。

 

大正二年十一月二十日夜 『無題』という漢詩漱石は最後に作っている。彼はこの詩を作ったあと、胃潰瘍の発作で病床に臥し、それが死の床となった。

 

漱石が晩年に志向した『則天去私』のイメージが、まことに鮮明に表現されて、漱石文学の精髄といっても決して誇張ではないと思う」と佐古純一郎はこの詩について述べている。当にそうだと私にも思われる。佐古氏によるこの漢詩の「読み下し文」と【通釈】を書き写してみよう。 

 

 真蹤(しんしょう)寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難く

虚懐を抱いて 古今に歩まんと欲す

碧水碧山 何ぞ我(が)あらんや

蓋(がい)天蓋地(てんがいち) 是れ無心

依(い)稀(き)たる暮色 月 草を離れ

錯落(さくらく)たる秋声 風 林に在り

眼(げん)耳(に)双つながら忘じて 身(しん)亦た失し

空中に独り唱う 白雲の吟  

 

【通釈】 森羅万象の真実の相は、ひっそりとして静寂であり、まことに深遠で容易に知る事はできない。自分はなんとかして私心を去って真理を得ようと、東西古今の道を探ねて生きてきたことである。一体、この大自然にはちっぽけな「我」などないし、仰ぎみる天や附してみる地は、ただ無心そのものである。

自分の人生の終を象徴するかのように暮れようとする黄昏(たそがれ)どき、無心の月が草原を照らし、吹きわたる秋風が林の中を通り抜けていく。この人生の最期に立って、もはや自分は小さい我の欲望や感覚を越え、自らの存在すらも無にひとしいように感じるのだが、そのような心境で空を飛ぶ純白のあの雲のような自由さに想をよせて、自分の「白雲の吟」を唱うのである。            (『漱石詩集全釈』より)

 

話が逸れたが、先の友人が送ってくれた本の中に、山田風太郎著『人間臨終図巻 上下』の二冊があった。この本は日本人を含めて世界の有名人の臨終の様子を年齢別に書いたもので、私自身老境に達しているから、面白いと思うと同時に、著者が良くもこれほど多くの人物の、臨終に関する文献を集めたものだと、感心だと思う以上に驚嘆した。私はぱらぱらと目を通しただけでも、何れの人物の臨終の様子も考えさせられるものがあった。

その後私はこの上下冊の本を気の向くままに読んでみた。そこで知ったのは、政治家、軍人、学者、あるいは文学者、芸術家等々、実に多くの有名人の名前が出て来た。名前だけは知っているのが多くあったが、彼らが何歳のとき、どうような死に方をしたかという事を、この本を読んで初めて知った。実に面白い本だと思った。

考えてみると、個々の人間は、如何なる時代に、何処の国で、どんな家庭のもとに生まれてくるかは、本人にあっては全て預かり知らないことである。しかしその後の人生において、一つの大きな要因、つまり人との出合いといった事、是を運命と言えば、この偶然と思える運命に大きく影響を受けながらも、ある程度自己の意思を働かせて生涯を送る。一国の覇者として君臨した者もおれば、好き放題に我(が)を通して生きた者もおる。あるいは孜々として学術・芸道一筋に一生を送った者もいる。また国のため人のために命を捧げた人もいる。実に千差万別、かくも違った生き方、死に方をしたものかと今更ながら驚いた。しかし結局は誰も皆死という必然に立ち向かう。その時、この本を見てみると、殆どの者が病に苦しみながら息を引き取っている。生前如何に華々しく活躍して名を残した人たちも、是を読むと気の毒だと思う以上に、哀れで悲しい気持ちになる。「因果応報」という言葉さえ頭に浮かぶ。更に云えば、事故死もあれば殺害された者もいる。あるいは自殺した人も結構多く載っていた。死に臨んで従容と息を引き取った人、いわゆる大往生を遂げた人はほんの一握りあるかないかだということを強く知った。その希有な人物の一人、山岡鉄舟の事が書いてあったので引用してみよう。

 

  山岡鉄舟 (一八三六―一八八八)

 

 ふだんから晩酌一升を欠かさなかった鉄舟は、明治十九年ごろからついに胃病になり、二十年夏には左脇腹に大きなしこりを生じ、胃ガンと診断された。翌年二月からまったく流動食となり、七月にはいって病勢とみにあらたまった。

七月十八日の夜、ひとり厠から戻って来た鉄舟は、「今夜の痛みは少しちがっている」といった。主治医の往診により、胃穿孔のために急性腹膜炎を起こしていることが明らかとなった。惨烈きわまる痛みがあるはずなのに、鉄舟は横臥せず、ふとんにもたれて坐禅をくんでいた。

十九日の払暁になって、やっと「腹いたやくるしき中に明けがらす」と辞世の句を詠んだ。そして午前九時十五分、門人たちの歔欷(きょき)の中に、手に団扇を握り、坐禅を組んだ姿のままの大往生をとげた。 

二十二日の葬儀は篠(しの)つくばかりの大雨の中で行われたが、会葬者は五千人に及んだ。かってのボロ鐵も最後は子爵であった。

 

大抵の者なら、このような状態にあれば痛みに耐えがたく、喚き叫び悶え苦しむであろう。私は鉄舟の日頃からの心身の鍛錬による精神の強さに感服した。私は令和二年三月一日に、硫黄島で戦死した従兄のことを書いて、『硫黄島の奇跡』と題して文庫本で出版した。山田風太郎のこの本を読んでいたら、同じ硫黄島で戦死した西 竹一の事が出ていたので、これも引用させてもらおう。

 

         西 竹一 (一九〇二―一九四五)

 

 男爵西徳二郎の子として生まれ、陸軍騎兵科にはいり、昭和七年八月のオリンピック・ロスアンゼルス大会の馬術競技で金メダルをとり、「バロン西」として有名をはせた西竹一は、昭和十九年七月、中佐として硫黄島に派遣された。

アメリカ軍来襲にそなえての陣地構築の凄じい苦役の中でも、彼は生来の天衣無縫の明るさと気品を失わなかったといわれる。昭和二十年二月十六日ついにアメリカ艦隊の来攻を受けて死闘一ヶ月余、彼が戦死したのは三月二十一日であったと推定される。

のちにこのときアメリカ軍が拡声器で「バロン西、オリンピックの英雄バロン西」と呼びかけて降伏をすすめたが、西は一笑に付して応じなかった、という「伝説」が生じた。しかし彼の最期の様相は明らかでない。

戦後二十余年たって、硫黄島から、硫黄で風化した英国製の拍車つきの長靴が発見されたいうニュースが伝えられたとき、未亡人の西武子は、即座に「それは主人のものです」といった。

 

私はこの記事を読んで、硫黄島の洞穴の中で発見された『従軍手帳』に従兄が書いている最期の文章を思い出した。

 

 今夜ハ斬込ミ隊モ我ガ隊ヨリ出ルトノ事ナリ 恩賜ノ煙草兵ニワタリ下級品若干ワタル夜ハ近来ニナク静カナリサレド時折照明弾、焼イ弾艦砲飛ビ黄燐燃ユ 状況ハ極メテ我ニ不利 四月頃守ル事ガ出来ルダロウカ 兵ノ士気ハ平素ト変リナシ 各兵内に覚悟ヲ秘メ平静ニシテテ静カナリ

不思議ナホド静カナ夜 故郷ノ我ガ家新聞ラジオ等ヨリ定メシ心配致シオル事ナラント思フ 兵等口々ニ言フ、名モナキ戦線ニテ死スヨリ主戦場硫黄島ニテ玉砕センハ幸ナリト 小サイ声ニテ軍歌ヲ唄フ

 

人類が最初に地球上に現れてから、数え切れないほどの人が生まれてそして死んでいった。偉い人も平凡な人間も、「生老病死」の言葉通り、殆ど全ての人間が労苦を伴う一生を送ったのではなかろうか。私は妻に先立たれて人間の死についてよく考えるようになった。

 

私は令和二年二月二十五日に八十八歳の誕生日を迎えたので、これを機会に運転を止めようと決めて警察署へ行った。その後半年経って自転車を買った。しかし食料の買い出しは我が家のすぐ前のスーパーを利用するから自転車に乗る必要はない。十月のある天気の良い日、少し離れた所にあり本屋まで自転車に乗って行ってみた。店頭に宮城谷昌光著『孔丘』の新刊を見つけたので購入した。私は『漱石全集』を毎朝読んでいるが、この本も少しづつ読んでやっと一ヶ月経って読み終えた。

本の「あとがき」に著者は次のように書いている。

「『論語』は、おもに孔子と門弟の発言が綴集(ていしゅう)されているだけで、そういう発言(あるいは問答)がなされた時と所がほとんど明示されていない。」

 

戦後七十五年になる。昭和十九年に県立萩中学校に入って初めて英語と漢文の授業があった。その時『論語』の中に出てくる孔子の言葉を習った。そういえば是等の言葉を孔子が何時、何処で語ったかは教わらなかった。今この宮城谷氏の本を読んで、孔子が何歳の時、如何なる状況の下で誰に語ったかを知る事が出来た。例えば次の孔子が弟子の子路に語ったという有名な言葉など、多くの言葉の由来が分かった。

 

「なんじは、どうしていわなかったのか。その人となりは、発憤すると食事を忘れ、楽しめば憂いを忘れ、老いがまもなくやってくることに、気づかない、ということを」

 

宮城谷氏はこのようにも言っている。

 

五十代に、いちど、-孔子を小説に書けないか、とおもい、資料を蒐め、文献を読み、孔子年表を作った。それらの根を詰(つ)めた作業を終えたあと、残念なことに、孔子を小説にするのはむりだ、とあきらめた。六十代になって、ほんとうに孔子を書くのはむりなのか、と再考して、すでに整えた資料にあたってみたところ。-やはり、むりだ。

 

著者は「あとがき」の最後に、「なにはともあれ、この小説は、孔子が母を埋葬するところから起筆したが、私はその直前に母を喪った。」

 

この時宮城谷氏は七十五歳である。彼は遂に七十歳の半ばになって孔子を主人公とした小説『孔丘』を書き終えたのである。此の點から考えて、私はこの本に出ている孔子の言葉が、何時、何処で発せられたかということを知った。孔子は七十三歳で死んだ。その年に彼が残した言葉をここに書き写して、長々と書いた拙稿を終えることとしよう。

 

 泰山はそれ頽(くず)れんか

 梁(りょう)木(ぼく)はそれ壊(やぶ)れんか

 哲人はそれ萎(や)まんか

        

泰山は多くの人に仰がれる名山である。梁は家のはりで、それにつかう木は暗に人材を指していよう。哲人はいうまでもなく孔丘自身をいっている。(中略)

この日から病んだ孔丘は七日後に亡くなった。七十三歳であった。

十五歳で、学に志した孔丘は、休んだことがない。この死は、孔丘の生涯における最初の休息であった。

                          令和二年十一月十四日 記す