yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

今年最後の日曜日

 

暦を見るまでもないが、今日12月27日は今年最後の日曜である。暦には「大安」と書いてあった。何か良いことでもあるかなと思った。これより数時間前、夜中と云っても午前3時に目が醒めたので、トイレに行きまだ起きるのは早いので又床に入った。眠れそうにないので次男がくれた電子書籍吉川英治の『私本・太平記を』を読んだ。これなら電気を消して暗くても画面が明るいから読める。その内眠気を催したので書籍の蓋を閉じて寝た。しばらく寝たのだろう再び目が醒めて時計を見たら6時前だった。少し寝過ぎたと思い直ぐ起きて顔を洗い、先日から読んでいる漱石の『文学論』読むことにした。次のような事を漱石は書いていた。

 

科学者が理性に訴へて黒白を争はんとするに引きかへて、文学者は生命の源泉たる感情の死命を制して之を擒にせんとす。科学者は法廷の裁判を司どるが如く、冷静なる宣告を與ふ。文学者は慈母の取計ひの如く理否の境を脱却して、知らぬ間に吾人の心を動かし来る。その方法は表向きならず、公沙汰ならずして、其の取捌きは裏面の消息と内部の生活なり。

これ等内部の機密は種々特別の手段によりて表出せらるるものにして、此等の手段を善用して其目的を達したる時、吾人は一種の幻惑を喚起してそこに文藝上の眞を発揮し得たりと称す。

 

 この後漱石は多数の実例を彼が読んだ物の中から引いて上記のことを説明している。一例を示すと、「新婚の楽しさを花に移して歌った」ものがある。

 

  今はばらの花の月です。結婚以来、私は到る所でばらを見うけます。ばらも、外のどの香のよい草花も、なぜか、私の眺めるところではどこでも、私を知っていて、お待ちしていましたとばかり私を迎えてくれるようにみえます。

        (ランドー『想像的対話〔レオフリックとゴダイヴァ〕』角野喜六訳)

 

この言葉を口にしたのは、新婚ほやほやのゴダイヴァという妙齢とも言える女性である。彼女はこのように領主である夫に向かって言うのであるが、そのあと領民が飢餓に苦しみ悩んでいる事を知り、夫に税の取り立てをやめるように訴える。夫は半ば冗談だろうが、「お前が素裸で馬に乗り街中を走ってきたら、お前の訴えを聞き届けてやる」と云ったので、彼女はそれを真っ昼間に実行する。チョコレートに彼女の名をつけて売られて居るのがある。購入者した人たちはこの故事を知って賞味しているだろうか。

このように、清純そのものとも言えるゴダイヴァ夫人が、自分たちの新婚の楽しみを、ばらや香りのよい草花にたとえて言った言葉である。漱石は多くの本を読み、その中から適切な文章を引用して学生に示した。しかしこの『文学論』は私には少々難しい、しかし惹きつけられる。

7時半まで読んで一休みしようと思い、ポットでお湯を沸かして抹茶を点て、家内の甥が送ってくれた最中があったので一服喫した。前にも書いたように私は同じ本を長く読むことが苦手である。そこで今度は『いまをどう生きるのか』とう本を取り上げた。これは臨済宗の僧侶の松原泰道師と作家の五木寛之氏の対談である。この本が出版されたとき松原師は101歳の高齢で、五木氏は私と同じ昭和7年生まれだから76歳だったであろう。いずれにしても老人同士の対談である。彼ら2人共、釈迦の仏跡を訪ねてインドへ行っているので、話がそれにまつわることが多く出ていた。

釈尊が最後に生まれ故郷のカピラバスツを目指して、400キロの道程をととぼとぼと、いや、よろよろと悪い道を歩いていかれたが、途中のクシナガラで亡くなられる。途中の村で鍛冶屋のチュンダという男が出した茸の料理で下痢をされて、菩提樹の下で息を引き取られた。そのとき釈尊は80歳で、今なら150歳くらいの超高齢である。これは有名な話で私も知っては居たが松原師は次のように云っている。

 

チュンダの出した料理で釈尊が体調を崩されたということはあきらかでしたから、おそらく外の弟子たちはチュンダを白眼視したと思うのです。「おまえがあげた料理のためにお師匠さんがこういう悲惨な死に方をなさるんだ」と。そのとき釈尊は木陰で泣いているチュンダをご覧になり、アーナンダをやって、「泣くことはない」と諭されるのです。

「おまえの料理を食べたから私は死ぬんじゃない。人間生まれた者は必ず死ぬ。これが因縁の法だ。だから、おまえの物をよしんば食べなくても私は外の縁で死ぬに決まっている。だからおまえのせいじゃない」

さらに釈尊はいいます。

「この年まで、思い出の供養が二つあった。一つはスジャータから乳粥をもらって元気をつけ、それによって悟りを開くことができた。もう一つはチュンダ、おまえのごちそうの供養だ。おまえによって、私はいつの日にか死ななきゃならないけれども、その自分が死ぬという重大な契機を、おまえが私に与えてくれたんだ。だからチュンダよ、嘆くことはない」

五木氏は松原師の後続けて言っている。

 そこからブッダは調子の悪いまま足を引きずりながら歩いて、ついにクシナガラのヒラニャヴァティ―河のほとりまでたどり着きます。そしてそこに二本並んでいる沙羅樹の間で倒れてしまう。そこがブッダ臨終の地となるわけですね。

 ブッダが横になると美しい花が天からふりそそぎ、天上から妙なる音楽が聞こえ、栴檀のかぐわしい香りがただよってきたといいます。

 

私はこれを読んで目頭が熱くなった。釈尊という人は本当に慈悲深く、心の優しい人であった。いわゆる涅槃図に画かれた臨終の姿そのままである。科学者はこのような状景を否定するだろう。しかし釈尊の弟子たちには実際にその様に見えたのではなかろうか。

このことに関連して私は次のことを改めて思った。実は昨年5月26日の朝、妻は高校時代の友人との集まりがあるので、昨年は足腰が痛いので欠席したが、今年はどうしても出席しなければと云って朝早く起きてきた。普通は起きるのが遅いので、「えらい早く起きたね」と私が声を掛けたら、「そうなのよ。今日は汽車に乗るのでよく寝ようと思ったら、小塚さんから長電話がかかって、それも一度切れたかと思ったら又掛かり、結局2時過ぎ頃まで話したのよ。」

妻がこのように話すので、それでなくても血圧が高くて大丈夫かなと心配した。時間が来たので妻を車で新山口駅まで送った。その日に限って私はプラットホームまで下りて行き、列車が来て妻が乗り込むまで一緒にいた。

「それでは行って来ます」

「帰りの時間がはっきりしたら知らせて呉れ。迎えに来るから」 

これが妻と取り交わした最後の言葉だった。そして翌日の真夜中、妻が倒れたという電話があり、急いで北九州市の門司の病院へ駆けつけた。深夜の病院は受付にだけ係員が一人いてひっそりしていた。看護婦さんに先導されて一室に入った。其処に見出したのは、ベッドに横たわり、死顔を白布で覆われた今は亡き妻の姿だった。

葬儀が終わり、数日して私は妻が書き続けていた日記を初めて読んでみた。亡くなる前の25日の日記に次のように書いていた。一部だけ書き写してみる。

 

 ゆっくり明日の準備をすればいいと思っていた所、小塚さんからの長電話で対応に追われる。(中略)しばらして又かかる。夜又かかる。いささか疲れたが下関行きの準備はできた。(後略)

 

私はこれを読んだ時、妻の死因の大きな一つが、深夜に及ぶ長電話だと思った。その時は電話を掛けてきた相手に腹が立った。しかし今はその気持ちは薄れた。妻が亡くなったのは、平成から令和へと年号が変った令和元年5月27日だった。今日はその日から丁度1年7ヶ月経ったことになる。その年の夏も終わり秋から冬にかけて、次第にコロナ感染が話題になり出した。私は妻の死を思い浮かべて歌を作った。それ迄こうした歌を詠むと云うことは殆どなかったが、次から次へと浮かんだ。いずれも拙いものであるが書きとめておいた。

 

  朝起きてああ疲れたと妻の云う 又電話かとわれ思うなり

  余りにも非常識なる長電話 妻の友から夜かかり来る

  相手のみ一方的に責められず おしゃべり好むは女の性(さが)か

  真夜中にかかりし友の長電話 妻の急死の一因ならん

 真夜中の異常に思える長電話 妻の日記の最後に記せり

 安らかに眠れる如き亡き妻の つめたき額(ひたい)わが手に残る

 後悔は先に立たずと今更に 妻を亡くして知るぞ悲しき

唐突に妻は逝けども今はただ 清(さや)けき心持ちたきものぞ

 数多く妻の写真は残れども 孫抱きたる笑顔美し

 我をおきて妻早々と旅立ちぬ 逆を思えばこれも良きかと

 食事後の楽しき語らい今はなく ただ黙々と食べ終らんか

 これからは独暮らしの身となれり 余命幾ばく無事願うのみ

 

時計を見ると8時半過ぎているので、読書は一端止めて神仏を拝み、朝食の支度をしようとしたら、「ピンポン」と呼び鈴が鳴った。出てみたら湯田氏だった。彼は県の労働商工部長の職を辞めて、84歳の今なお各方面で活躍中のようである。実は今月10日に一人の男性を我が家に連れてこられた。この人は県庁に勤務されていて土木関係の仕事をしていたとのことである。何故わざわざ来られたかというと、私が以前書いた『杏林の坂道』を読んで、是非私に会いたいとのことであった。彼は私より一つ年上で、小学生の時、阿武郡宇田郷村で過ごしたので、拙著に出てくる従兄を始め多くの人たちを知っているからとのことだった。そこで私は手元に一冊だけ残っていた本を貸した。それを湯田氏が全部コピーして彼に差し上げられたのである。私は湯田氏の親切に感心した。そこで拙著を戻しに来られたのである。その時湯田氏が毎月編集されている『かみひがし』いう広報誌の新年号くださった。それを見てみたら、私が湯田氏に頼まれて書いた記事が載っていた。

 

面会謝絶 

私の身内の一人の妻がやや認知のために施設に入っている。妻は何故夫が来て呉れないのかと不審に思っている。もう一人は、高齢で老人施設に入っているが、ここも家族との面会謝絶である。このままこうした状況が続いたら、最悪の場合家族に看取られずに死を迎える事になるかも知れない。これは人間として最大の悲劇である。 

私の妻は一昨年、コロナ騒動の前に急逝した。日頃、足腰の痛みを訴えていたから、寝たきり入院を恐れていた。これを思うと妻の死は不幸中の幸いかも知れない。

 

先の拙歌であるが、私は次のような歌も作っていた。

 

 寝た切りにならずに逝ける妻なれば これも良きかと独り慰む

昨日まで語りし妻の姿消え 無常ということひしと感ぜり

無常とは誰もが口にするけれど 容易に実感し難きことぞ

 

湯田氏が帰られて朝食を食べていたら、又呼び鈴が鳴った。出てみたら今度は先日湯田氏と一緒に見えた仁保氏で、本を読んだと云ってわざわざお礼の品を持って来られた。これには恐縮した。さらに夕方一人の女性の来訪を受けた。彼女とは山口に移り住んで以来親しくしている。萩で私が子供の時彼女の母親とよく遊んだ間柄である。長い間会っていなかったが、偶然山口で再会した。不思議な縁があるものである。彼女がわざわざお歳暮を持ってきてくれたので少し話した。その後直ぐに次男一家がちょっと寄って呉れた。今日は大安、何か良いことがあると予感した通りであった。今日は釈迦の晩年の事蹟について知り、老いると云うことも良いではないかと思った。

 

春夏の輝く季節を過ぎし今 秋と冬との静けさを知る

 

2020・12・27 記す