yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

ソフトボール

 孫娘が今年中学一年生になり、クラブ活動にソフトボール部を選んだ、と息子が電話してくれた。この子は戸外での活動が大好きのようだ。始めテニス部に入ろうかなと言っていたらしいが、結局ソフトボール部に決めたようだ。土・日も午前中練習があるようで、今日は土曜だからと言って午後久しぶりに顔を見せた。毎日の練習のお蔭か背丈が少し伸びていた。まあ元気であってくれたら外に云う事は無い。欲を言えば勉強も好きになってくれたらいいのだが、これは自覚を待つのみか。

 ボールとグラブ(グローブ)を二つ持ってきた。そこで我が家の隣に空き地があるのでキャッチボールをした。息子はちょっと用があると言って出かけた。

 

 考えて見たら、私がこのソフトボールに最初に接したのは、今から六十六年も昔になる。昭和三十年に大学を卒業して、先ず赴任したのは県立小野田高校である。クラブ活動の顧問として、ソフトボール部の世話をすることに既に決まっていた。部長は山口市から通っていた私より多少年長の先生だった。この先生は非常に熱心で、生徒に良くハッパをかけていたが、生徒には慕われていた。私はそれまでソフトボールを手にしたことはなかった。しかし子供の頃から草野球でよく遊んでいたので、別に抵抗はなかった。私は内外野のノックをしたりして部長の手助けをした。春の県の体育大会で優勝したので、西宮球場で行われる全国大会に向けて、夏休みに入ると合宿を行ったのも今は懐かしい思い出である。

 全国大会では一回戦で負けた。しかし折角此処まで来たので、生徒達の要望もあって宝塚少女歌劇団の催しを見に行った。天井桟敷で見学した事だけは覚えている。それから時が経ち、かっての女子部員達に招かれて、小野田市のホテルで楽しい一夕を過ごした。その時から既に二十年にはなるだろう。彼女達はあの時既に還暦を迎えていたから。

 

 翌年から私は陸上競技部の部長になった。たまたま優秀な選手が数人いた。中でも男子砲丸投げ円盤投げ、さらに男子の短距離競争と走り幅跳びに二人の良い選手がいて、かれらたった二人の活躍で、中国大会で総合二位の成績を収めた。小野田高校には六年世話になった。最後の一年だけ硬式野球部の部長にさせられた。その為にバッティングピッチャーをして選手の打撃練習や外野ノックなどもした。まだ若かったから元気がよかった。

 当時は今と違って教員の雑用は少なかった。時々臨時の職員会議があったが、それは主にバイクなどの無免許運転が見つかった生徒の処罰といったものであった。これは萩高校に行ってからの話だが、私が生徒補導の係だった時、クラスの生徒がこうした問題を起こした。職員会議の席上、「消防署が火事を起こしたようなことになって、申し訳ありません」と言ったら、「いい譬えだったね」と後で年輩の教師に言われたことを今でも覚えている。

 まだ若かった私は、授業を終え掃除が済むと、運動のできる服装に着替えて、陸上競技部の選手達が練習しているグランドに出て、彼等と一緒に身体を動かす事もあった。こうしたお蔭で授業中教えた生徒より、クラブ活動で接した生徒との繋がりが強いような気がする。教師冥利に尽きるとはこうした事だろう。しかし残念な事にそのうちの何人かは亡くなっている。無常迅速である。

 

 さて話しは戻るが、このような訳で、私は久しぶりに孫とのキャッチボールを暫くの間楽しんだ。是もソフトボールに関する一つの思い出だが、クラブの顧問としてではなく、教員間のソフトボールの試合にはよく駆り出された。母校の萩高校に転勤した当初の数年間、屢々教員の試合に出た。今から考えたら私が四十歳代の時である。一度九州の高校の教員のチームと試合をした事がある。相手チームの投手の速球に手も足も出なかった。こんなに速い球を投げることがどうして出来るのかと思うほどであった。その内オリンピックで日本の女子選手が優勝したが、その時の投手の球の速いのにも驚いた。

 人間の身体能力は徐々に進歩する。あれからもう五十年近くの時が経った。当時試合に出た教員連中はほとんど鬼籍にはいるのではなかろうか。それからはソフトボールを手にしたことはない。

 

 そして今日久しぶりに孫と空き地でボール投げをしたのである。この空き地は我が家の敷地に隣接している。萩から山口に移るに当たり適当な住宅地を捜していて、ここが宅地造成中だったのでここに家を建てようと決めた。その後次々に若い人が家を建て、今では二十家族以上が住んでいる。ところでこうした団地には必ずこのような避難場所が設置されている。そしてここが子供たちの恰好の遊び場となっている。

 平成十年だから今から二十三年前にここに家を建てて間もない頃は、この団地には子供がたくさんいて、彼等がよくこの空き地でボールを蹴ったり、投げたりして遊んでいた。空き地の四囲は金網のフェンスで囲ってある。ボールが我が家の敷地内に飛び込んでくることもよくあった。ある日下記のような事があった。私は妻が話してくれた事に感心ので、『朝日新聞』の「声」の欄に投稿した。

 

笑みを誘った幼い兄弟の姿

 

 桜の若木が一本だけ植えられた、公園とは名ばかりの空き地が、我が家に隣接している。近所の子供たちがサッカーボールを蹴ったり、ボール投げに興じている姿がよく見かけられる。

 金網で仕切られたこちら側に、家内は春の草花を育てて楽しんでいる。ある日、いつものように外に出ていると、金網を越えてボールが飛び込んできて、家内の足下に落ちた。   

 四、五歳の男の子が可愛い顔をのぞかせて、「ボールが入った、取って」と言うと、おそらく兄であろう、少し年かさの男の子が背後から、「取ってではない、取って下さいと言うのだ」と、弟をたしなめた。その子は、「取ってください」と言い直した。

 家内がボールを拾って手渡してやると、幼い子はにこっと笑って「ありがとう」と礼を言った。すると年上の子が「ありがとうございましたと言うのだよ」と再度たしなめた。弟はおとなしく「ありがとうございました」と、重ねて礼を言った。

 年端もいかない兄の教え、それに素直に従った弟。二人の何とも言えないほほ笑ましい様子に接して、家内も「どういたしまして」と、思わず笑顔で応えた。親から子へ、兄から弟へと、善きしつけが水の流れるがごとく、自然に伝えられる家庭のあることを知り、私も明るい気持ちにさせられた。

 

 以上の事を妻は家の中に入って私に話してくれた。

 二〇〇一年三月二十七日の朝刊に載ったから、丁度二十年前の出来事である。懐かしい思い出である。思えば亡き妻もあの頃はまだ元気であった。

 

 孫とキャッチボールをしていたら、その内息子が帰ってきた。「九十歳の老人が孫とボール投げをしているのは珍しかろう。スマホで動画を撮るからそのまま続けて」と言って、スマホを向けた。果たして上手く撮れたかどうか。まあいずれにしても久しぶりにボール投げをして楽しい一時を過ごすことが出来た。

 この空き地で楽しく遊んでいた子供たちの姿は今は全く無い。皆成人して親元を離れて居る。彼等は大学を出た後、どこか都会で働いて居るのではなかろうか。ひょっとしたらもう家庭を持って一児か二児の親になっているかも知れない。そうしたら彼等は子供の時に親から受けた躾を今度は自分の子供たちに施しているだろう。

 時は流れゆくが、こうした良きき躾や伝統が、受け継がれていくことを私は願うのである。今はこの空き地には雑草が一面に生えていて昔の面影はない。八十坪ばかりの面積だが、日頃は誰一人入らずに物寂しい様相を呈している。時々雀や鳩が来て何かを啄んでいるのを見かけるだけである。

 

                       2021・7・18  記す