yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

旅立

                 一   

 

昭和三十九年四月、山口国体の翌年に私は母校の萩高校に転勤した。その後一人の国語の教師と知り合いになった。彼は今生きて居たら丁度九十歳になる。彼は数奇な運命を辿っている。生まれは徳島県で三木泰博という名であった。徳島には戦前には三木武吉、戦後には三木武夫という二人の宰相が出ている。彼の家はこれらの三木家とつながりがあると云っていた。

 

彼は地元の中学校を卒業後上京し、大東文化学院大学に入るが、在学中から日本画家として有名な伊東深水に師事して日本画の勉強をしたと懐かしく語っていた。

 

大学卒業後、彼は本州最西端の山口県、それも日本海に面する県立萩高学校の教師として赴任したのである。外にも國學院大學を卒業したほぼ同年配の国語の教師がいた。彼は新潟県の出身と言っていた。二人とも遠く他県から来たのには何らかの縁があったのだろう。

 

彼等が着任した頃は戦後間もないときで、まだ本格的な男女共学ではなかった。男子学生は元の萩中学校で、女子学生もやはり元の萩高等女学校で別々に授業が行われていたので、普通科を教えていた教師は、自転車で休み時間に両校の間を行き来しなければならなから、大変苦労したとも語っていた。そのうち男女共学で授業がおこなわれるようになった。私が赴任した頃にはもうそうした不便はなかった。

 

私が彼と付き合ったときには伊藤という姓に変わっていた。しかし教師間では昔ながらに「三木先生」と言ったり、「伊藤先生」と話しかけたりしていた。私は不思議に思ったのであるがその訳を知った。彼は教師になってしばらくして、萩市に隣接した三隅町の伊藤家の養子になったのである。しかし不幸にもその後奥さんと別れて暮らしていた。後で聞いてみると奥さんには息子が一人いて、彼は所謂後夫として伊藤家の籍に入ったのである。彼は此の息子を可愛がっていた。

 

そうした事情はともかくとして、彼には実に多才な面があった。本来国語漢文の教師だから専門の知識は勿論だが、外に書道、日本画、染色、ろうけつ染め、茶道、華道など、とても一人でこなしきれないほどの芸道に優れた才能を示していた。言ってみればいささか女性的な趣味があったから奥さんとしては物足りなかったのではないかと思われる。

 

彼は余り健康ではなく、いつも医者からと言って数種類の薬を服用していた。やはり一人住まいで栄養が偏っていて、その上帰宅後もこうした才芸に没頭したために運動不足で健康を害したのかも知れない。今なら便利なコンビニがあるので独身男性でも結構生活できるが、当時は男性にとっては自炊生活は不便であった。一度私は彼が一人で仮住まいしている家を訪れたことがある。窓を全部閉め切って昼間から電灯を付けていた。入った途端に空気が悪いと感じたから、何故窓を開けないのかと訊ねたら、「開けると騒音が喧しいから」との返事だった。

 

或る日の休み時間に私が図書室で本を読んでいたときだったと思うが、一つの長細い風呂敷包みを持って近づいてきた。彼はその包みを解(ほど)いてレンガ色の長細い四角な厚紙の箱を取り出した。その紙箱の中には桐箱がきっちりと収められていた。木箱の蓋には「旅立」の二字だけ墨書されてあり、紙箱には「旅立(芭蕉) 伊藤泰博(千秋)」と書いた小さな紙が貼ってあった。「千秋」とは彼の雅号である。

その時彼はこう言った。「これは僕が画いたものだ。これを貴方に上げようと思う。今は開けないで家に帰って床に掛けてみておくれ」

私は大層な物を貰ったような気がして一寸戸惑ったが、彼は「別に大したものではない。画こうと思えばこの程度の絵ならいつでも画くことが出来る。そんなに礼には及ばない」と云って去って行った。

私はその日帰宅後早速此の掛け軸を床に掛けて見た。表装も新しく何だか新鮮な匂いすら感じられる立派なものであった。

 

近づいて見て初めて良く読めたが、最初に「旅立」と書いてあり、行を換えて数行の文章が縦書きに書かれていた。一気に書いたのであろう、書き始めの文字は墨黒々とあって、次第に墨の色が薄くなっている。墨の濃淡があって見た目に美しい。

 

月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也

舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて

老をむかふる物は日々旅にして旅を栖(すみか)とす

古人も多く旅に死せるあり

予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて

漂白の思ひやまず                芭蕉  

 

ここまで書いてあった。なかなかの達筆である。言わずと知れた有名な『奥の細道』の冒頭の文である。

 

此の文章の下に、馬に乗った宗匠頭巾の芭蕉と、そのやや後ろに菅笠をかぶった曽良が杖を持って歩く姿、そして馬の手綱を引く馬子の三人が描かれていて、その下に「千秋」と署名がされてあった。

何とも言えない悠長なと言うか、長閑(のどか)な雰囲気を醸し出す絵である。特に芭蕉の微笑んだ顔が良く描いてあった。私は改めて伊藤氏の才能に思いを致した。

 

あの時から随分と時は流れた。今日は三月三日、平成の最後の雛祭りの日である。我々夫婦には息子が二人いるだけで娘がいないから、桃の節句だからといってこれまで別に意識することはなかった。しかし端午の節句には、床の間に兜や太刀を飾ったことはある。それも昔の話である。ところが一人の孫娘が生まれ、今年十歳になる。先日も小学校で半成人式なるものが行われたと言っていた。そこで息子の家でもお雛様を飾ったかなと思い、私は『奥の細道』の最初に出てくる芭蕉の俳句を思い出して、上記の掛け軸を取り出して掛けて見ようと思ったのである。

上記の文章に続いて芭蕉はこう書いている。

 

海浜にさすらへ去年の秋

江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて

やや年も暮春立てる霞の空に

白川の関こえんと 

そぞろ神の物につきて心をくるはせ

道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず

もも引きの破れをつづり笠の緒付けかえて

三里に灸すゆるより

松島の月先心にかかりて

住る方は人に譲り

杉風が別墅に移るに

 

 草の戸も 住替る代ぞ 雛の家       芭蕉

 

長々と引用したが、最後の此の句である。

「草の戸」とは草葺きの粗末な家という意味だろう。芭蕉は奥州への長旅を決意し、これまで住んでいた粗末なわが家を人に譲り、弟子の杉風の持つ別墅に移った。新しい入居者には女の子がいると聞く。そうするとこれまでの破屋にも華やかさが出現するだろう。もうすぐ桃の節句である。時季が来たらお雛様が飾られて、「家」らしく見違えるようになることだろう。芭蕉は実際にそうした変化を見たのではなかろうが、心にそのような様子を思い描いて、此の句を詠ったのではなかろうか。

 

「草の戸」に関連して「草莽」という字が頭に浮かんだ。特に「莽」という字は上下に「草かんむり」が書かれている。辞書を引いてみると、「莽」と言う字は「猟犬が草むらに姿を没するさまをあらわす」と言う意味だとあった。従って「草莽の臣」とは「草むら」つまり「在野、民間」にいる「仕官していない臣」が「崛起」つまり「すっくと立ち上がる」事を意味するのだと知った。松陰先生がこの「草莽崛起」と言う言葉によって若き門下生を奮起させたのだと改めて知ったのであるが、今の母校の生徒諸君は志を胸に崛起しているだろうか。

 

息子が孫を連れていつ来るかは分からないが、私はこの掛け軸を久し振りに出してみて、親切な伊藤氏の事を思い出し、同時に『奥の細道』をまた読んで見ようかなと思ったのである。考えて見ると、彼は非常に気の毒であった。停年を待たずに病死した。萩市内のお寺で葬儀が行われ、私は友人代表として弔辞を捧げた。もう少し長く生きて自由の身になったら、屹度素晴らしい作品を創作したと思うと、本当に残念でならない。

彼はろうけつ染めの帯も家内にと言って呉れた。これも実に見事なものであった。天は二物を与えないというが、彼は多物の所有者だった。

                    平成三十一年三月四日 記す