yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

Godiva(ゴダイヴァ) 夫人

  漱石の『明暗』を先日やっと読み終えた。以前にも2回ほど読んでいるが、今回この作品が漱石の最高傑作だと評されている訳が判ったように思う。漱石は『明暗』を書く前に、次から次と作品を発表している。逆に並べたら、絶筆となった『明暗』が最初に『朝日新聞』紙上に掲載されたのが大正5(1916)年5月26日で、その年の12月9日に彼は死んだ。しかし掲載は14日迄続いて、その日の掲載でもって永久未完の儘に終わった。
 この『明暗』の前に『道草』が出版されたのが大正4年10月である。同じ大正4年4月に『硝子戸の中』を出版、その前の大正3年10月に『心』、同年1月に『行人』と、名作を年毎に新聞紙上に連載し、それを本として出版している。しかし驚くことに、その間彼は胃潰瘍や痔の手術を受けたりしてしばしば病床に臥している。

 漱石は数え年50歳で亡くなった。今から考えるとまだ若い。今なら停年にはまだ10年以上あり、これからばりばり仕事をし、停年を迎えた暁には、その後の数十年を生きるのが普通である。それにしても漱石の死ぬ前の数年間の仕事振りは尋常ではない。今をおいて時間がない、だから書かなければならない、と使命を受けたが如く、命をすり減らして書いた結果が、こうして永久に名作として読み継がれていくものとなった。

 しかしこうした傑作を彼が矢継ぎ早に書くことが出来たのは、彼が明治33(1900)年10月にイギリスのロンドンに着き、明治35年12月に帰国する迄の、僅か2年間のイギリス留学中の気が狂うまでの猛勉強が、その後の小説など制作の最大の糧(かて)となって居ると考えられる。明治33年と言えば今から丁度120年前の事である。
この「糧となった」ことは、漱石が帰国した翌年の明治36年9月から、東大で講義をした『文學論』を読めば、ある程度頷けるのではないかと思う。私は以前この学術論文的な著作に挑戦したが、英文の引用が多くて、しかも非常に論理的な構想の下に書かれているので途中で投げ出した。だから如何に優れた研究かは判らなかった。そこで先にも述べたように彼の小説を一通り読み終えたので、今度こそはと思って『文學論』を書架から取りだして、朝起きてすぐ読むことにした。今朝も早く起きて読んでいたら面白い文章があった。

 小泉八雲が、「本は先ず序文とあとがきを読め、そうしたら著者が何を言わんとしているか、また本の値打ちも大体分かる」と何処かで書いていたが、漱石の此の『文學論』の「序」はまさに名文で、漱石が如何にこの作品に心血を注いだか、そしてこれに重きを置いていたかが解るような気がする。漱石のこの「序」は確かに名文で、漱石のもの凄い気迫が伝わって来ると言っても過言ではない。数カ所抜萃してみる。

  春秋は十を連ねて吾前にあり。學ぶに餘暇なしとは云はず。學んで徹せざるを恨みとするのみ。

  余は下宿に立て籠りたり。一切の文學書を行李の底に収めたり。文學書を読んで文學の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に文學は如何なる必要あって、此世に生れ、発達し、廃頽するかを極めんと誓へり。余は社会的に文学は如何なる必要あって、存在し、興起し、衰滅するかを極めんと誓へり。

 余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所に傍注を施し、必要に逢ふ毎にノートを取れり。

 留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり。帰朝するや否や突然講師として東京大学にて英文学を講ずべき依嘱を受けたり。

   倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英國紳士の間にあって狼群に伍す一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。倫敦の人口は五百萬と聞く。五百萬粒の油のなかに、一滴の水となって辛うじて露命を繋げるは余が當時の状態なりといふ事を断言して憚らず。

   帰朝後の三年有半も亦不愉快の三年有半なり。去れども余は日本の臣民なり。不愉快なるが故に日本を去るの理由を認め得ず。日本の臣民たる光栄と権利を有する余は、五千萬人中に生息して、少なくとも五千萬分一の光栄と権利を支持せんと欲す。 

 漱石は帰朝後も心身共に正常ではなかった。しかしそのような一種極限状態でありながら、大学での講義を立派に行っている。しかし家庭にあってはいらだたしさを破裂させて、異常な行動に出ている。此の事は漱石の死後鏡子夫人の口述になる『漱石の思ひ出』によって多くの読者が知るところとなった。例えばこんな記述がある。

 此頃は何かに追跡でもされてる気持なのかそれとも脅かされるのか、妙にあたまが興奮状態になってゐて、夜中によくねむれないらしいのです。夜中、不意に起きて、雨戸をあけて寒い寒い庭に飛び出します。何をするか知れたもんじゃありませんから、ついて出たいのですが、そんなことをしようものなら、あべこべに何をされるか分からないし、第一大きな聲で呶鳴(どな)られでもしたら、四邊(あたり)近所(きんじょ)に面目もないし、息を殺して寝た振りをして、聴き耳を立てて居ますと、やがて何事もなく戻って参ります。かと思ふと真夜中に書斎でドタン、バタン、ガラガラとえらい騒ぎが持ち上がる事があります。これも仕方がないんで出たいのをじっと堪えて居りますと、やがてそれも一時で騒ぎもひっそり鎮まって了ひます。まあ良かったと翌朝學校へ出るが早いか書斎へ入って見ますと、ランプの火屋(ほや)は粉微塵に割れてゐる。火鉢の灰は疊一面に降ってゐる、鉄瓶の蓋は取って投げたものと見えてとんでみないところにごろついてゐる、二目と見られた部屋の模様ぢゃありません。留守の間に大掃除をしておくと、帰って来て又けろりとしてそこに入って居ります。

又このような記述もある。

  其頃書斎に入って見ると、机の上に墨黒々と半紙にかういふ意味の文句が書いてのせてありました、
―予の周囲のもの悉く皆狂人なり。それが為、予も亦狂人の真似をせざるべからず。故に周囲の狂人の全快をまって、予も佯狂をやめるもおそからずー 

天才ときちがいは紙一重と云うが、確かに漱石の当時の言動は異常であったように思われる。しかし『文學論』に書かれたことは實に緻密で理路整然として、驚くほど内容の充実したものだといえるのではなかろうか。公私の立場での態度が此れ程違っていたとは不思議な気がする。
 いささか脱線したが、『文學論』を読んでいて面白い文章が目にとまった。それは中世のイギリスの高貴な女性の身の上に起こったことである。
現在、チョコレートを好むのは男性より女性の方ではないかと思われる。しかしバレンタイン・デイにチョコレートを女性は男性に贈る。この事が戦後一つの社会行事として定着している。これは商業ペースに巻き込まれた現象だと考えられる。しかし貰った男性は果たしてチョコレートが大の好物かどうかは分からない。人気のある若い男性が山のように多くのチョコレートを貰ったとテレビで言っているのを見たことがある。
 さて、その時買われる高級チョコレートの1つが「Godiva」であろう。この有名なチョコレートの商標は、裸馬に乗った裸身の女性が長髪を棚引かして疾駆する騎馬像である。このチョコレートを買った女性で、これに目を留めるのはあまり居ないだろう。目に留めても「Godiva」は「ゴジラ」の親戚ぐらいに思っているのではなかろうか。私もこの度『文學論』に漱石がこの「Godiva」の事を書いているのを読んで初めて知った。そして妻や姪達が口にしていたこのチョコレートの名前であるのを思いだしたので、漱石の文章を興味深く読んだのである。前置きが長くなったが、漱石からの文章をもとに概略を書いて見よう。

 「これは一個の事実(少なくとも口碑に伝わる古い話)で、近世英文学で2人の文豪が取り上げている。有名な批評家が『数多き会話のうち、美しさに於いて、これの右に出づるものなし』とある、と漱石は書いている。そこで話を見てみると、

 新婚の夫婦がCoventryに遠乗りするのに始まる。新婦のGodivaが夫に向かって「レフリックどの、御領地は飢饉に苦しんでいます。干魃が何週間続いたかお考え下さいまし。レスタシャーの奥の牧場でさえ同じでございます」さらに下民の惨状を訴えて、「私たちは勇敢な槍兵や熟練した射手たちを多勢従えておりました。それでも、主人たちの貧窮のため家を追われた農家の犬どもが引き裂きむさぼりあっている動物たちのそばを通るのは剣呑でございました。」
 これに対して夫は、それなら私も町に入り聖ミカエル寺に籠もり夜を徹して神に禱願(とうがん)しよう、と云う。そのとき妻も「私もお祈りいたします、しかし私の愛する夫はお聞き届けくださいますかしら、もっとたやすいことー神様のなさる御業(みわざ)にも似た事を遊ばすようにとお願いいたしましたら」と云って、飢饉、干魃の際であるから彼らの租税を免ずようにと乞い願う。
 すると夫のレフリックは怒って「彼らは余の先祖たちが定めた税を届けるのを怠ったのだ。われらの婚儀の事も、それに入用な費用や祝典のことも知りながらだ。また、このような困窮の折には、余の統括地だけでは不足のことも知っているはずだ」
 その時妻は訴えて云う、「あの者たちの中には、私の幼いときにキスをしてくれた者、また、洗礼盤のところで私を祝福してくれました者たちがおります。レフリックどの、私がまず会う老人が、そういう者たちの一人かと思います。その人が与えてくれた祝福と、私がお返しに与える祝福(ああ、悲しいこと)とを考えることでしょう。胸から血が流れ、張り裂けることでしょう。老人はそれを見て泣くでしょう。彼に対してひどい仕打ちを布告し、彼の家族に死をもたらす暴君の妻のために、あわれにも泣いてくれることでしょう」

 それよりいろいろ問答の末、夫は妻の乞いを容れかつ条件を付していう、「よろしい、ゴダイヴァ、神聖な十字架に誓って市民を許そう、お前が真昼間、裸で馬に乗り、街中を通ったなら。」

漱石は上記の文中会話はそのまま英文を載せている。さらに文章を引用してこう述べている。
 妙齢の奥方ともあるべきものが白昼市街を、裸体にて、しかも馬上に乗り回すことは常人として忍びがたきもの、しかも忍ばざれば幾多細民の疾苦を救うことあたわず、すなわち同感と体面とのあいだに介立したる煩悶に陥らざるべからず。
むしろ体面を欠くも同感を満足せしむべしと決心したる女は言う、
「でも、清い心からする事ですから、非難はされますまい。私と同じく汚れのない者たちが、なんと大勢恐怖と飢餓にさらされていることでしょう。私を見る目は、みな涙を流していた目ばかりでしょう。こんなにたくさんの市民の母親として私は何と若いのでしょう。私の若さが障りになるでしょうか。神様のお導きで、若さも勇気の源になります。朝はいつ来るでしょう。昼はいつ終わるでしょう。」

 もう一人の文豪は有名な桂冠詩人テニスンで、彼はこれより一歩進めて、彼女が裸体にて市中を乗り回すところまでを叙述している。先ず彼女は、
「こうして一人になると、さまざまな胸の思いが、あらゆる方位からの風が吹き乱れるように、一時間も互いに争ったが、ついに惻隠の情が首位を占めた。」とようやく煩悶を切り抜けたゆえ伝令使をして市中に広告させて、「正午に至るまで何人も外出するなかれ」と。かくてゴヴァイダは衣を脱ぎ捨て、屠所の羊のごとき気分にて門を出で、首尾よく町をお駆けめぐりおわる。そのおり一人の愚物がいて物数寄にその様子を垣間見んとしたが、忽然明を失った。

 ついでに言うとこの愚物は「トムという仕立屋で、ゴダイヴァ夫人の姿をすき見して目がつぶれた。英語でPeeping Tom(すき見するトム)は「性的好奇心からのぞき見する助平男、せんさく好きな人」の意である。

 以上の話を読み終えて私はふと思った。今日世界はコロナウイルスの蔓延で、各国の元首や各都市の指導者たちが「緊急事態宣言」などを発令し、場合によっては州や県全体、あるいは都市を封鎖している。しかし果たして州や県民たちあるいは市民は此の事態を真剣に受け止めて実践するだろうか。そうしたときに人間の品格が問われると思う。それにしても最高責任者の妻たる者、あるいは夫たる者は、ゴダイヴァ夫人とまでは言わないが、せめて国民や市民の範たる者として行動して貰いたい。足を引っ張るような愚かな行動は論外である。    
『岩波-ケンブリッジ 世界人名辞典』を見たら次のように載っていた。

「ゴダイヴァ,レイディ Godiva ,Lady(英 ?―1080頃) イングランドの貴婦人、信心深い慈善事業家・伝説によると、夫であるチェスター伯レオフリック(1057死去)によって町の住民に課せられた重税(1040)の削減を求めて,裸のままコヴェントリー市場を馬で通り抜けた。その物語はウエンドーヴァーの「年代記」(1235)に記録されている。」

参考文献 『漱石全集 第九巻』(岩波書店
『文学論』(講談社学術文庫

                       2020・4・8 記す。