yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

「礼」について

夜中に目が醒めた。時計の針は2時15分を指していた。起きるには少し早いので、床の中で吉川英治氏の『私本・太平記』を電子書籍で読んだ。これだと室内の明かりなしで読めるから有り難い。息子が買ってくれたお蔭で、私はこれまで同じ吉川氏の『宮本武蔵』など数冊の長編を読んだ。

 

数日前から読み続けて今はほとんど最後の部分である。主人公の足利尊氏が癰(よう)という腫れ物で亡くなった事が書いてあった。吉川氏は楠木正成とその妻久子、並びに息子の正行(まさつら)を優れた人物として書いている。また後醍醐天皇に対して尊氏の、敵対関係にありながらも、心から敵視できない気持ちを描写している。恐らく此の事は歴史的事実だろう。その証拠に天皇崩御後直ちに尊氏は、天竜寺の造営といった大事業を行っている。それにしても天下を取るまで、頼みにしていた最大の味方であった実弟の直義を毒殺したり、自分の庶子であって、直義の養子となった子を戦で破り、彼は行方知らずになっている。

 

人間の運命ということだが、天下を取っても本当の幸せだとはとても考えられない。

この後長男の義(よし)詮(あきら)についで三代将軍足利義(よし)満(みつ)の室町幕府の成立(1378)、南北朝の統一(1392)、日(にち)明(みん)貿易の開始(1404)と続く。さらに1467年の応仁の乱や各地での大規模な一揆の発生、そして戦国時代へと我が国は更なる激動の中へと入っていく。

 

それまでの武士は貴族の番犬のような立場だったろうから、礼儀・作法もあらばこそ、力強きものが威を張っていたと思われる。礼節とか信義と言った徳目は、余り重要視されなかったのではなかろうか。家康が征夷大将軍になったのが1603年で、この時から250年の間、戦のない平和な時代が長く続いた。

 

歴史を見ると、この平和な時代の丁度250年後に、アメリ使節ペリーが浦賀に来航した。それは1853年であった。この間德川幕府は「武家諸法度」を施行し、士農工商の厳格な階級の別や上下関係が確立された。この頃から、いわゆる「武士道」が重んじられてきたのだろう。その為に一般庶民の言動もこう言った制度に基づいていったと考えられる。こうしたことは、早やくも75年の昔になったが、太平洋戦争が終わるまで、日本人の生活の良き規範になったと考えられる。

 

30分ばかり『私本・太平記』を読んだろうか、その内少し眠気を覚えたので電子書籍を閉じて寝た。起きたのは4時半だった。

 

私は前にも書いたが数冊の本を併行して読む癖がある。今朝起きて、もう一度読み直してみようと思ったのは、新渡戸稲造著『武士道』(岩波文庫)である。矢内原忠雄の名訳である。原文がないからこの訳本を読むことにした。その中の一項目に「礼」があった。渡辺京二氏の『逝きし世の面影』を読むと、明治維新前後に我が国に来た外国人が、日本人の礼節に驚きと称賛の言葉を残している。

 

この『武士道』の「礼」の項目の最初に、新渡戸稲造博士はこう書いている。

 

作法に慇懃(いんぎん)鄭重(ていちょう)は日本人の著しい特性として、外人観光客の注目を惹くところである。もし単に良き趣味を害うことを怖れてなされるに過ぎざる時は、礼儀は貧弱な徳である。真の礼はこれに反し、他人の感情に対する同情的思いやりの外に現れたるものである。  

 

それはまた正当なる事物に対する正当なる尊敬、したがって社会的地位に対する正当なる尊敬を意味する。何となれば社会的地位は何らかの金権的差別を表すものではなく、本来はじっさいの価値に基づく差別であったからである。

 

礼の最高の形態は、ほとんど愛に接近する。吾人は敬虔なる心をもって、「礼は寛容にして慈悲あり、礼は妬(ねた)まず、礼は誇らず、驕(たかぶ)らず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤(いきどお)らず、人の悪を思わず」と言いうるであろう。

 

このような礼を身に付けた日本人が明治の初めには多く見うけられたのである。しかし今はどうか。茶道や武道に於いては今も礼を学ぶ。「柔道は礼に始まり礼に終わる」言って、青少年の育成が行われているのは頼もしいことである。私が山口に来て少しの間弓道の稽古をした時も、同じ教えを受けた。

論語』の「八佾(はちいつ)第三」に次の文章がある。

 

子曰く、君子は争う所無し。必ずや射か。揖譲(ゆうじょう)して升下(しょうか)し、而して飲ましむ。

其の争や君子なり。

 

【通釈】孔子言う、君子は人と得失を争い、勝負を競うことを決してしないが、もしするとなれば、まず弓の競射であろうか。その場合も極めて礼儀が正しい。二人一組の選手が鄭重に譲り合って堂に上り、射を演じて堂から下りる。勝敗が決したら、また礼儀正しく堂に昇って酒を飲み合う。その進退すべて礼儀を失わない。其の争いたる、まことに君子人らしい美しい争いである。

(「『論語』新釈漢文大系」明治書院

 

孔子は身の丈216センチもあり、「六芸」に通じていたと言われている。「六芸」とは礼(作法)楽(音楽)射(弓術)御(馬術)書(書道)数(数学)である。必ずや素晴らしい射をしたであろう。 

 

大相撲でモンゴル勢が活躍している。彼等は勝つ事を第一目標にしているから、国技たる相撲の根本精神を中々体得できないのではなかろうか。朝青竜にしても白鵬にしても、此の點はどうかと思う。山口県出身で大関にまでなった魁(かい)傑(けつ)という力士がいた。彼は勝っても負けても相手に対してきちんと礼をしていたので見ていて気持ちが良かった。

 

この国技である大相撲は、「礼に始まり礼に終わる」、という精神を取り戻してほしいものである。

 

5時になったので散歩に出かけた。朝のやや冷たくて澄んだ空気の中を歩くのは最高の気分である。いつものように、気に入っている水田の直ぐ傍らにある幅1メートルばかりの朝露に濡れている小道を選んだ。陽が昇って朝焼けに染まった茜色の空を前方に見ながら歩いていたら、かなり年輩の女性がこちらに向かっているのが目に入った。彼女は私の姿を見るとちょっと立ち止まってマスクをつけた。私は朝の爽やかな空気を満喫出来るし、この時間には滅多に人に出会わないので、いつもマスクなしで歩いている。そのうち私と老婦人はすれ違う距離にまで接近した。

 

私はハンチングを被ったままで「お早うございます」と軽く挨拶して通り抜けようとした。一方この女性は、立ち止まると深々と両手を膝に当てて頭を下げ、「お早うございます」と丁寧に挨拶された。私は内心恐縮した。昔はこのような挨拶をされる女性を見かけることはそれほど珍しいことではなかった。しかし戦後この方このように几帳面にお辞儀をする人は殆どないい。

 

明治初期にやってきて東北地方を旅したイギリス女性イザベラ・バードは、絶えずこうした日本人、特に女性の淑(しと)やかで礼儀正しい態度を目撃したと書いている。今更ながら「礼」の良さを知ったのである。

 

亡き妻には特に仲の良い友達が萩と山口に一人づついた。二人共「淑子」と言う名前である。一人は「としこ」で、もう一人は「よしこ」と呼ばれていた。しかしいずれにしてもこの「淑」という字は、「しとやか。つつましい。上品。主に女性についていう。」と『広辞苑』に載っている。我が娘がかくあれと親が彼女達に付けられたのであろう。戦前は女性にはこれに似たような、「和子」とか「静子」とか「靖子」といった名前が案外多かった。ところで今気づくことだが、「子」のついた女の子をほとんど見かけない。此の事を見ただけでも戦後の日本は変わった。

 

一番目立つのは、特に女性の自己主張・自己宣伝である。控え目の真反対で、身体まで露出して憚(はばか)らない。先日大阪で日本陸上選手権が行われた。私は陸上競技が好きだからテレビで観戦した。全ての女子選手が胸元だけ隠して、短いタイツのパンツを履いている。従って臍は丸見えである。競技場だからこのようなスタイルで良いのだが、いつからこうした半裸体の姿になったのか。私は高校に勤めていたとき陸上競技部の顧問だったことがある。60数年前のことであるが、当時競技場でこのような姿は全く見なかった。今では却って臍を隠した方が異常に思われる。

 

流石に決勝に残った選手は、皆スラリと脚が長くてスタイルがよい。色白で器量の良いのも数人いた。これも言うなれば自己宣伝かなと思わないでもなかった。

 

100メートルと200メートル競争の日本記録保持者の福島千里選手は予選で敗退した。見ていて気の毒だというか哀れに感じた。往年の溌剌たる姿ではない。もう彼女は勝つ事は出来ないだろう。まだ30歳未満だが、こうして頂点に立ったがこれからは下降のみである。問題は彼女がこれから如何に生きるかである。後進の指導なりに全力を傾けて、人間的に成長してくれることを祈って止まない。

 

SPORTとは本来「娯楽」とか「慰め」の意味ある。これが複数形のSPORTSとなって相手と争う競技という意味をもつようになった。これに反して我が国の武道は相手と争うと言うより、自らの技芸、さらにその基となる精神を鍛え高めることにある。だから戦後暫くGHQは学校でも武道の禁止を決めて中々復活させなかった。彼等は戦いに於ける日本人の強さの拠り所がこの武道だと思ったからである。しかし実際は今も書いたように敵を倒すのではなくて、己の伎を磨く、その為には己の精神を錬磨することが武道の本質なのである。

 

私は以前次のような事を聞いた事がある。剣道を稽古していた同僚が、或る範士八段の高齢の師範と対戦した時、「先生の姿があの一本の竹刀の中に隠れて見えなくなった。全く隙がない。だからどうしようもなかった」と言った。剣道でも弓道でも80歳90歳の高齢者が稽古されているのを見聞きする。いわゆるスポーツすなわち運動競技ではこのような事はあり得ない。結局我が国の武道は「礼」に裏打ちされているから、高齢になればなるほど、品位が現れて、立派に出来るのではなかろうか。

 

短期間関係しただけであるが、弓道の昇段試験の時は、試合場に入るとき正面に向かってきちんと礼をし、射が終わって道場を出るときも同様に礼をしなければならない。審査する人はこの最初から最後までの動作をつぶさに観察して判定する。矢が二本とも見事に的中しても、礼を失するような行動があれば失格である。昇段は無理である。外のスポーツではこれほど厳格ではないだろう。

 

今ふと思い出したが、私が子供の頃、着ている衣服の前が乱れて開いていたら、「そんな開(はだ)けた恰好をして臍を出したら、雷様に取られるぞ」と叱られたものだ。男の子に対してもこのような叱言がなされていた。世の中も変わったものである。

 

約30分の散歩から帰ると畑の野菜に水をやり、家の中に入って急に思い出して各部屋の清掃に取りかかった。私は10日毎に上下階を掃除することにしている。つい先日したばかりだと思いながら掃除機とモップを手にした。世の中も変わるが、月日の経つのも早いと感じながら掃除をした。      

  

2021・6・30  記す