yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

かなし

                   一    

 

主人が買って読んでいたと言って先輩の奥さんが、梯(かけはし)久美子著『散るぞ悲しき』(新潮文庫)を持ってきて貸して下さった。私はこの本が出版された事は知っていたが、未だ読んでいなかったので興味を持って読み終えた。著者が本の題名として選んだ「散るぞ悲しき」について、あらまし次のように述べている。

硫黄島総指揮官・栗林忠道は、大本営への決別電報の最後に三首の辞世を添えている。その最初の辞世は次の一首である。

 

国の為重きつとめを果たし得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき

 

ところが大本営はこの最後の文句を「散るぞ口惜(くちお)し」と改変して国民に知らせた。何故そのような事が行われたか。国のために死んでいく兵士を、栗林は「悲しき」とうたった。それは、率直にして痛切な本心の発露であったに違いない。しかし国運を賭けた戦争の最中にあっては許されない事だった。この事を知って著者はこの本を書くきっかけになったと言っている。

この本の解説でも柳田邦男氏は此の點を取り上げて次のように書いている。

 

「悲しき」が「口惜し」に置き換えられているのだ。これによって歌の意味は全く違ったものになってしまう。「かなし」は、日本古来の文化の中で、意味が多様で深みのある言葉として大事にされてきたキーワードだ。人間がこの世に生まれ人生を生きていく中では、様々な波乱があり、非情な運命にも遭遇する。人はそういう「かなしみ」を内に秘めて生きている。文人肌と言われた軍人だった。ジャーナリストになろうかと思った時期もあった。その栗林中将が、「散るぞ悲しき」という表現を使ったのは、人間の運命や人生の不条理に対する深い哀感を表現したものであったろう。ところが、「散るぞ口惜し」となると、「勝利をおさめられなくて悔しい」といった、極めて表面的な意味になってしまう。

 

                   二

 

実に立派な「解説」だと私は思った。そしてここに書いてある「かなし」について詳しく調べてみる気になった。私は「かなし」は「悲しい」という意味よりほかには考えた事がなかったからである。私は辞典を見て「目から鱗」、多くのことを教えられた。私が今持っている最も詳しい辞典『日本国語大辞典』(小学館)から引用してみよう。

 

かなし・い【悲・哀・愛】

 感情が痛切にせまってはげしく心が揺さぶられる様を表現する。悲哀にも愛憐にもいう。反語は「嬉し」

 

  • 死・別離など、人の願いに背くような事態に直面して心が強くいたむ。なげかわしい。いたましい。

(万葉-五・七九三)

世の中は空しきものと知る時し 

いよよますます加奈之可利(カナシカリ)けり     大伴旅人

   (万葉-一七・三九五八)

     ま幸(さき)くと云ひてしものを白雲に

立ちたなびくと聞けば可奈思(カナシ)も       大伴家持

  • (愛)男女・親子などの間での切ない愛情を表す。身にしみていとおしい。

      かわいくてたまらない。

   (万葉-一八・四一〇六)

   父母を見れば尊く妻子(めこ)見れば

可奈之久(かなしく)めぐし             家持

  • 関心や興味が深くそそられて、感興を催す。心にしみて面白いと感ずる。

しみじみと心を打たれる。

(万葉-一八・四〇八九)

   百鳥(ももとり)の来居て鳴く声春されば

聞きの可奈之(カナシ)も              家持

  • 副詞的に用いることが多い。

  みごとだ。あっぱれだ。 

  • 外から受けた仕打ちがひどく心にこたえるさま。

残念だ。くやしい。しゃくだ。

  • 貧苦が身にしみてこたえる。貧しくてつらい。

 

以上長々と書き写して見たが、これほどに「かなし」の意味が多くあるとは知らなかった。だから外国の言語を翻訳することが容易でないことが分かる。試みに「かなしい」を私が持っている『研究社新和英辞典』で引いてみた。七つの単語が出ていたが、いずれも上記の①の意味の単語である。そうなると、②や③意味だと分かれば『和英辞典』で「かなしい」を引いても見つからないことになる。日本語がそうであるように英語の単語も多義を有する。たとえば、「fine」を辞書で引くと次の意味が載っている。

➊(並以上に)立派な、素晴らしい、見事な、結構な、綺麗な、美しい。

❷《主に英》〈天候・日が〉晴れた、好天の、《米》では通例fair,beautiful,niceを用いる。

❸元気な、健康な、〈場所などが〉健康によい、快適な〈物・事が〉結構な、十分な、

❹〈粒などが〉細かい、細い。

❺洗練された、上品な、上品ぶった

〈言葉・文体などが〉飾り立てた、派手だが実のない

➐人格が高潔な

❽刃などが鋭い、鋭利な

❾〈金・銀などが〉精製された、純良な

 

このような訳で、例えばHe is fine.と言った文章でも、「彼は高潔である」のか、「彼は元気」なのか、あるいは「彼は上品ぶっている」のか、文脈によって意味が違ってくるから翻訳は難しい。これまで多くの人が、シエイクスピアやゲーテドストエフスキーの作品を日本語に翻訳してきた。しかし完璧な訳は恐らくあり得ないだろう。だから自分こそはと思って、次から次へと翻訳者が現れ挑戦して居る。「翻訳者は反逆者」だと言われる所以(ゆえん)である。

 

                   三

 

上にあげた家持(やかもち)の歌に「百鳥」という言葉があるのに関連して、次の歌があるのを知り、ふとあることを思い出した。まずその歌を紹介しよう。

 

(万葉-五・八三四)

梅の花今盛りなり毛々等利(モモトリ)の 

声恋ほしき春来るらし             (氏未詳)

 

土屋文明の『萬葉集私註 三』をみると次のような大意が載っている。

梅の花がいま盛りである。多くの鳥の聲の戀しく思はわれる春が来るであらう。」

 

この『巻五』には「梅花歌三二首並序」とあって梅の歌が続けて載っている。

さて、私が「百(もも)鳥(とり)」という言葉に注目したのは外でもない。実はこの「百(もも)鳥(とり)」という言葉を今から凡そ十年ばかり前に妻が口にした。

 

「私達の集まりに何か名前を付けたらいいね。こう云って皆が自分の意見をのべたのよ。しかし中々良い案がでなかった。私は『百鳥』はどうかしらと言ったら、皆がそれが良いと言って決まったのよ」

 

妻が『万葉集』の歌を知っていて提案したとは思わない。若しそうだとしたら感心だが。私は妻の話を聞いて、女性連中はおしゃべりが好きだから、「小鳥の楽しげな囀り」を連想して、相応しい命名だと思っただけであった。

 

妻と私が萩から山口に移って十年くらいして、妻の高校時代の仲の好い者達の集まりが始まったと思う。大抵一泊か二泊の旅行で、県内外に住んでいる者が順番に世話をしていた。令和元年は門司のホテルで会合となっていた。実はその前年の会合には、妻は足腰が痛むので欠席した。しかし今年は近くではあるし、何としてでも出席しようと云って無理を押して出かけた。この事は前にも書いたと思うが、出かける日に朝、妻は何時もより一時間も早く起きてきた。私はどうかしたのかと思って声をかけたら、

 

「昨夜は明日が『百鳥会』があるのでちゃんと支度を済ませて、疲れるといけないので早めに床に入ったら、夜中になって三回もKさんから電話がかかってきたのよ。その為に朝までよく寝られなくて、結局気になるから起きてきたのよ」

 

私はこの言葉を聞いて「またか」と思った。彼女は妻の早くからの友人で、こうした長電話をよくかけてくる。タイミングが悪かった。妻は寝付きが悪い。ぐっすり寝たときは痛みも和らぐと云っていた。その上その日は一人で知らない場所まで行かなければならない。朝食を終えて十一時頃の在来線に乗って下関駅まで行くというので、十時過ぎに新山口駅まで連れて行った。

恐らく妻は足腰の痛みに堪えていたと思う。駅に着いたら普通はその場で別れるのだが、その日に限って私は妻をまず下ろし、二階の改札口へ行くようにといって、車を駐車場に置いて改札口へ行って見たら姿が見えない。ちょっと不安になったので入場券を買ってプラットホームまで行って見たらベンチの傍に立っていた。そこには中年の男が長々とベンチを独り占めにして寝ていた。私は一人だけ座れるので妻を腰掛けさせて、傍らに立って列車の来るのを待った。

 

「切符売り場で私がぐずぐずしていたら、若い女の人が片道切符を買ってくれたのよ。私は往復切符を買うつもりだったのだが。まあ良い、明日また帰りの切符を買おう。もう大丈夫です。帰っても良いよ」

「折角だから汽車が来るまでいるよ」

 

こう云って私は妻としばらく話し、列車が来たので妻が乗り込むのを見届け、

「それじゃ、明日帰りの時間を知らせてくれ。迎えに来るから」

こう言って別れたのが永遠の別れになった。

 

その日の夜中午後十一過ぎに、妻がたおれたから直ぐ来て呉れとの電話がかかった。真夜中に次男の車で門司の病院に駆けつけた。長男は既に来ていた。しばらして看護婦さんに案内されて奥の一室に入ったら、妻は安らかな死顔を見せてベッドに横たわっていた。

あれだけ楽しみにしていた仲良しグループ『百鳥会』は、こうして妻の急死により「哀しい」ことになってしまった。葬儀の後、彼女達は遠くからわざわざ弔問に来て呉れた。その後コロナ感染で『百鳥会』は中止になっているようだ。妻は決しておしゃべりといった印象を人に与えなかったが、誰とでも会話を楽しんでいたから、彼女等はさぞかし淋しく、また哀しく思っているだろう。

 

 コロナ禍を知らずに妻は逝きにけり 今し思えばこれ幸いか 

 

 思い出の入場券のみ残りたり 妻は永久(とわ)に旅立ちにけり

                        

2021・4・16 記す