yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

マスコミと学説

                   一

梅原猛氏の『隠された十字架 法隆寺論』を読んだ。法隆寺は再建されたのだ、ということは戦後になって立証された。なぜ再建されたか。この事について梅原氏は、聖徳太子ならびに太子一族を殺した藤原氏に対する太子たちの怨念を、封じ込めるのが最大の目的であった、と述べている。梅原氏の説は中々説得力があって面白かった。私は引き続いて、彼の書いた『水底(みなそこ)の歌』を長男に頼んでアマゾン通販で手に入れたので昨日から読み始めた。文庫本で上下二巻の千頁に達するような大部なものである。上巻のはじめに、梅原氏はこれまでの柿本人麿の死に関しての諸説、そして特にこの事に関しての斎藤茂吉の自説を詳しく紹介している。私はまだ此の最初の部分しか読んでいないが、梅原氏がこの茂吉の得意然たる自説を、これからいかに完膚なきまでに覆すか。これが今から予測できるような書きぶりである。

 

「詩人茂吉の空想力の奔放さにはほとほと感嘆せざるをえないのである。むしろ私は、幻想力の強烈さにあきれざるをえない、というべきかもしれない。何が何でも茂吉は、この地に人麿をつれてきて、この地で人麿を殺さずにはいられないのである。」

 

茂吉の言によれば、下級の地方官であった人麿が、奈良の都から石見(いわみ)の国府(現在の島根県仁摩市)に派遣されたとき、その近くの江(ごう)ノ川の上流にある湯抱(ゆかかえ)と云うところで頓死した。その時詠んだのがこの歌である。

 

鴨山(かもやま)の 磐根(いはね)し枕(ま)ける われをかも 知らにと妹(いも)が 待ちつつあらむ 

万葉集巻二―二三)

  (鴨山の岩を枕として居る吾を知らずに、妹が待ち待って居ることであろう)

 

実は昨年(令和二年)十一月下旬に、私はかって勤めた高校の同僚と三人連れで、「島根県中部、出雲・石見の国境にある溶岩円頂丘群。標高1126メートル」と『広辞苑』に載っている「三瓶山」の山麓にある温泉へ行った。一泊した後江(ごう)ノ川の清流に沿った道を、同僚の一人が運転する軽自動車に乗って下流へと進む途中で、彼が「ここに斎藤茂吉の記念館がある」と云って停車した。

山奥にあるその記念館は閉ざされていて、誰も、それこそ猫の子一匹いなかった。私は今想像する。斎藤茂吉が此の地で日本最高の歌人・柿本人麿が亡くなったと大々的に宣伝し、また当時の錚錚(そうそう)たる国文学者の殆どが、茂吉の説に賛同したので、このような山奥にこうした記念館が建てられ、お蔭で何人もの見学者が訪れたことであろう。ところが梅原氏の『水底の歌』が発刊された後は、恐らく見学者の数は減ったのではあるまいか。我々が立ち寄ったときは既にコロナ感染で不要不急の外出を禁じられていたが、それにしても余りにもひっそり閑としていた。館員はいなくて閉館されていた。館員は日頃はさぞかし淋しい毎日を送って居たのではなかろうか。しかし今回思いもかけず、一時有名になったと考えられる湯抱の地に下り立つ事が出来て、私としては良い記念になった。

話が逸れたが、梅原氏の研究の成果は、これからこの『水底の歌』を読めば、いかにこれまでの人麿の死について間違っていたかが判るだろう。彼の説が絶対に正しいかどうか、私は勿論判らない。しかし、彼の「法隆寺論」が大変に説得力のあるものであったので、私としては大いに期待している。

さてここでこの拙文に『マスコミと学説』と云う題を附けたので、それに関して少し述べてみよう。私は今日、朝食を食べながら次のような駄句を幾つか作った。

 

  マスコミはおのれの事は棚に上げ他人(ひと)の粗(あら)のみ探す輩(やから)か

  朝日毎日読売は発行部数を誇れども世の真相を伝えておるや

  年寄りは新聞テレビに頼るだけネットを彼らに見せたきものぞ

円錐は上と横とで違って見える世の出来事も見方によるぞ

  英雄を多くの人は仰ぎみる見方によれば大悪人だ

  英雄は色を好むと云うけれど彼らの肚は色黒きかな

  神のみの持てる真相知る力人が持つのは無理な話か

  マスコミに真相知らせて欲しいのにおのれの主義で曲げて伝える

  一言が致命傷になったのか元総理の哀れな末路

  真実を見抜く力を得ることは何にもまして難(かた)きことなり

 

今回のオリンピック組織委員長森氏の辞任騒ぎは、何時ものように、マスコミが焚きつけたように考えられる。確かに森氏の発言には女性蔑視ととられる面はあったが、これは彼の持論では決してないと思う。それが、有る事無いこと取り上げて、鬼の首でも取ったように、誹謗中傷の渦の中に彼を叩き落とした感がある。日本人には昔は『惻隠(そくいん)の情』というものがあった。

私が先に述べた梅原氏が茂吉氏の学説に挑戦する態度は、学者として長年の研究の成果を世に問うものであるから、これは正当な発言で立派だと思う。マスコミの言動は自分たちの主義に添わない人間なら、何が何でも非難して、訳の分からない一般民衆を扇動しているように思えてならない。矜持とか他人の人格を尊重するといったモラルをもっと身につけて欲しいとかねてより思って居る。いわゆる「社会の木鐸(ぼくたく)」となってもらいたい。

 

                   二

 

我が家に柿本人麿の肖像を描いた掛け物がある。「柿本太夫」とそれに書いてある。柿本人麿は役人として「太夫」の地位にあったといわれている。私がこの掛け軸を知ったのは、萩から山口に移住したときのことである。このたび梅原氏の本を読み始めて、棚から出して柱に掛けて見た。烏帽子をかぶり、脇息(きょうそく)に凭(もた)れたよく見る人麿の肖像である。肖像画の上部に薄い字で和歌が書いてある。これは『古今集和歌集』の「巻第六 三三四」にある歌だと知った。

 

梅の花それとも見えず久方のあまぎる雪のなべて降れれば

 

掛け物に書いてある字はこうした読みやすい活字では決してない。私は『古典日本文学全集』(筑摩書房)を書架から下ろして調べて見た。それにこう書いてあった。

「題しらず よみ人しらず」その次に、この歌が載っていて、その後に「この歌ある人のいはく、柿本人麿が歌なり」とあった。参考までに窪田章一郎氏の評釈を引用しよう。

 

 一首の意は、梅の花が、それとはっきり区別して見えない。空を霞ませて降る雪が、あたり一面に降っているので、というのでる。

 空を暗くするほどに、雪があたり一面に降りしきって、枝に咲いている白梅の花が、雪と見分けもつかない状態になっているのを歌っている。この歌は自然の事象そのもので、当時としては素朴な、古風なものであった。よみ人しらずと撰者たちは扱ったが、左注に人麿の作だという伝えのあったのを、参考のために記しているのは、この歌風のためであったろう。(以下略)

 

 私は何故この掛け軸がわが家にあるのか一寸考えて見た。実は私の曾祖父は若いときに、それまで我が家は「北前船」の船主であったが、これを止めて、酒造業と毛利藩の武具の取り扱いをしている。その為に長崎などへ数回行き、最後は木戸孝允に頼まれてイギリスの商人から鉄砲を千挺ほど購入している。その為に命を賭して今の中国の上海まで行き、一年間そこに滞在し、鉄砲を積んできたイギリスの船に乗って山口県の仙崎に寄港している。これは戊辰戦争が丁度終わった慶應二年である。彼はこうした商売をする傍ら、韻事(いんじ)にも関心があったようで、近藤芳樹(山口県出身の国文学者。明治天皇の侍講でもあった)とも親交があった事は間違いない。我が家には近藤芳樹の書いたものが幾つかある。ところがこの人麿の歌にもあるように梅を歌ったものがいくつかある。その訳は曾祖父がまだ若いときに、夢に菅原道真すなわち天神様を見て、それ以来天神様への信仰を持つようになったからだと聞いている。防府天満宮に曾祖父は自詠の梅の句碑を寄進している。

 

夢想 天満る 薫をここに 梅の華     佳兆

「夢想」とは「夢の中に神仏の示現があること」と『広辞苑』に説明してあるが、曾祖父はまだ二十歳代の若いときに、萩市郊外に沢山の梅を植えて「梅屋敷」を造っている。松陰先生も着流し姿で来られた、と私は聞いている。「佳兆」は曾祖父の俳号である。彼はその後大阪へ出て商売をしたようだが、米相場で大失敗して萩に帰り、それからは全く金儲け仕事を止めて、故郷の萩で隠者の如く、茶の湯を嗜み、また歌などを詠んで、余生と云っても僅かな年数だが、静かに六十二歳の生涯を終えたようである。明治十六年三月二日だから、もう亡くなって百三十八年になる。漱石没後百年と云うがそれより大分前である。私は昨年天満宮の許可を得た上で、二人の兄と相談して、この句碑の傍に説明板を建てた。

 

昨日から今朝にかけて珍しく天気が荒れ、一面の銀世界が展開した。庭の紅梅もすっぽりと雪に覆われてしまうほどであった。人麿の歌にある梅は白梅だろうが、我が家に咲き始めたのは紅梅である。白雪に包まれたような梅の花は見た目に美しい。

それにしてもこの時季にこうした降雪は珍しい。昔父がよく云っていた。「紀元節が過ぎたらもう大丈夫だ。橙は凍みはせん」

実は先に述べた梅屋敷を、我が家では祖父の代になって橙畑に変えていた。橙が戦前は萩市では大きな産業だった。どこの家屋敷にも橙が栽培してあった。

『水底の歌』から今日の雪景色へと話しが飛んだが、もうそろそろ暖かい春が訪れてくれると有り難い。私は萩に居るとき、それも若いときは、この橙畑で汗水流してよく働いた。しかしその後橙の市場価値は激減して、今は何処の家でもかって収益をもたらした橙畑を持てあまして居る。私もこの畑を手放すのに長年苦労した。運よく買い手がついて有り難かった。思えば曾祖父と私とは、不思議な縁で結ばれているような気がする。

        

2021・2・18 記す