yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

ONLY ONCE (唯一度)

                  一

 

 妻は毎年3年連続の日記をつけていた。いつも同じ「高橋の3年日記」で、正式名は『2019-2021 THREE YEARS  DIARY』である。妻は2019年の5月27日に旅先で急逝した。5月25日(土)に最後の記載をしている。従って2年半以上は空白のページが永遠に残ることになった。亡くなる6日前の19日(日)に次のように記している。

 

 「エディオンでたまたま見かけたマッサージ機がなぜか気になり、よくよく検討してみようと、最近買われた田村さんの物を見せてもらいに行く。以前欲しくて泰之に対処してもらった苦い思いがある。今回のは小ぶりでメーカーもしっかりしていて、たまたま3日間の売り出しで割安になっていて、やはり買っておきたいと夫も言うし、田村さんの帰りにそのままエディオンにゆく。」

 

 妻が見かけたというのが良いと思われたので購入し、品物の届くのを待っていた。5月24日の日記に次のように書いている。

 

 「矢次さんと会う。その前に葵へ行く。患者さんのすいている時はいつもより長く治療してもらえる(中略)共に足は悪いけれど、腰掛で食べたり話したりはいくらでもできる。売り出しでスイカが1200円になっていたのでふたりで買って帰る。家につくとマッサージ椅子が届いていて、早速かかると気持ちよくて居眠りしてしまう。これから毎日身体をほごすことができるのでとてもありがたい。」

 

  妻は長年にわたり足腰の痛みを訴えていて治療にも行っていた。然し考えてみると折角こうして入手したマッサージ椅子の恩恵にあずかったのはわずかに一度だけである。3年日記は半年近く書いたがこちらはあまりにも少ない。人生にはこうしたことが多い。「折角〇〇したのに」と言って、思わぬ挫折や事故で事が成就せずに残念に思うだけならいいが、自己責任ではなく、何らかの他の要因で悲惨な事態になることも人の一生の内には珍しいことではない。

 折角苦労して新築した家に入る寸前に病気になったり、また事故に遭って死ぬ人もいる。折角大学を卒業したのに就職できないといったこともよくある。結婚式を挙げた直後に一方が事故に遭ったということも聞く。数え上げれば千差万別無数にある。これが人生なのだろう。

 しかし「七転び八起き」という言葉があるように、打ち勝つことのできる障害には勝たなければいけない。これを思うと、妻が死ぬ前にマッサージ椅子に一度でもかかって喜びを感じたのは有難かった。つまらん歌を詠んだので書いてみよう。

 

          マッサージ(按摩)椅子

 

   按摩とは腰をかがめて杖をつく老いた盲人頭に浮かぶ

 

    按摩には盲人(めくら)の意味も辞書にあり戦後は死語となりたるものか

 

   按(あん)も摩(ま)も優しく撫(な)でる意味なれど按摩となると違うイメージ

 

   按摩椅子こうは言わずにカタカナでマッサージチェアと呼ばれたり

 

   二人して探し求めた按摩椅子妻死ぬ前にやっと手に入る

 

   待望の按摩機なれど亡き妻はたった一度用いただけか

 

   亡き妻の形見となりし按摩椅子代わりて座する秋の日々かな

 

   死ぬ前にたった一度の利用だが椅子に座したる妻のほほえみ

 

   肩が凝り首筋痛む老いの身を機械なれども有難きかな

 

   何事も機械化したる現代は人の情けの薄れゆくなり

 

 妻の日記にある田村さんとは私の大学時代からの友人である。彼は80歳になるまでは非常に元気で、町内会長なども引き受けていた。しかし辞めたとたんに急に体調を崩して、入退院を繰り返すなどしていたが、最近やっと多少元気になり顔色もよくなった。2人のお孫さんがよく出来て、兄の方が今年高校2年になった時点で、選ばれてスコットランドのハイスクールに留学した。大学を卒業するまでの5年間、学費は勿論生活費も出るそうで、彼としては嬉しいことと思う。弟も東京の一流中学で一番になったとか。こういったこともあって元気回復に繋がったのかもしれない。

 彼は毎週一度市内巡回バスで我が家に話しに来る。こうして人と話すのも元気回復につながるようようだし、私としても彼が元気になってくれたらいいので、いつでも歓迎である。その彼がいつも私にマッサージをしてくれる。機械と違って気持ちがいい。彼は奥さんにもこうしたサービスをしていると言っていたので、私は遠慮なく彼の好意を受け入れることにしている。

 

                     二

 

 ここまで書いて昨晩は入浴後すぐに床に入った。「明日の朝は気温が4度にまで下がりますからお気を付け下さい」とテレビが報じたので、室内のエアコンをつけたままにして寝た。お陰で夜中に一度もトイレに行かなかった。目が醒めたのは5時半だった。醒める直前に私は夢を見た。

 今月初めの11月1日に妻の姉の娘が滋賀県彦根から来た。妻はこの姪を小さい時から可愛がっていたので、生前には年に一度は必ず来ていた。そうして妻が亡くなった後も来てくれる。私としては非常にありがたい。来るとき必ずといっていいほど「埋れ木」という彦根の銘菓を土産に持ってきてくれる。

 

  世の中をよそに見つつも埋れ木の 埋れてをらむ心なき身は  直弼公御歌

 

 「埋れ木」という名は・・・彦根城第 十三代藩主・井伊直弼公が、若き日に過ごした「埋れ木舎(うもれぎのや)」に因み、その名をいただきました。

 

 銘菓の宣伝文にこのように書いてあった。井伊直弼大老に就く前に彦根城の一隅の「埋木舎」に居て茶道の研鑽を積み、「一期一会」の精神を身につけたとある。妻が唯一度だけ按摩椅子にかかって亡くなったことと関連して、この言葉を夢に見たのだろう。私は起きてネットで井伊直弼のことを調べてみた。

 

  文化12年(一八一五)第13代彦根藩主・井伊直中の十四男として生まれ、母は側室で、父の隠居後に生まれて庶子だった。父の死後自らを花の咲くことのない埋れ木に例え「埋木舎」(うもれぎのや)と名付けた邸宅で17歳から32歳までの15年間、部屋住みとして過ごした。

  この間国学を学び、茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌や禅、兵学居合道など学ぶなど、聡明さを早くから見せている。

 茶の湯に関して『茶の湯一会集』の巻頭には有名な「一期一会」がある。

 

 私はこの「一期一会」もネットで見てみてなかなかの名文だと感心した。

  

   抑(そもそも)茶湯の交會(こうかい)は一期一會といひて、たとへば、幾度おなじ主客交會するとも、今日の會にはふたたびかへらざる事を思へば、實に我(わが)一世一度の會なり。さるにより、主人は萬事に心を配り聊(いささか)も麁末(そまつ)なきやう、深切實意を盡し、客にも此會に又逢ひがたき事を辯(わきま)へ、亭主の趣向何一つもおろそかならぬを感心し、實意を以て交わるべき也。是を一期一會といふ。

 

 私の父は生前お客を招いて幾度も「お懐石」なる茶事を行っていた。私はその時いつも庭の掃除を命じられた。お客が来られたら物音を立てずに静かにしているように言われたのをよく覚えている。客が帰られた後「一期一会」について父が語ったことも記憶にある。このような事が潜在的に私の中にあったから、先に書いたようなことを夢見たのかもしれない。

 

   明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

 

 これは親鸞聖人が9歳の時仏門に入られる決心をされて、天台座主である慈円を訪ねられたが、すでに夜だったので「明日になったら得度の式をあげましょう」と言われた。しかし聖人は「明日まで待てません」と言われて、その時詠まれたのがこの歌であると言われている。

 9歳でこのような歌を詠むとはやはり凡人ではない。

 先に挙げた井伊直弼は「安政の大獄」で、吉田松陰橋本左内など勤王の志士を斬首したので、後に桜田門外の変で殺害された。これまで我々は特に長州の人間は直弼をよく思っていなかったが、考えてみると直弼はそれまでの鎖国の戸を開いた開明的な英雄だ。歴史というものは見方によって違ってくる。

 彼は1815年11月29日に生まれ、1850年11月21日に亡くなった。45歳の若さである。肖像画を見るとじつに立派である。後2日で170回の祥月命日ではないか。それにしても元寇の時の北条時宗といい、維新前夜の井伊直弼の立場といい、諸外国からの開国を迫る脅威は、わが国にとって最大の国難であった。この時、直弼は死を覚悟して対処したと思う。時宗は当時25歳の若さだったというから驚く。このように真に国を思い、己の命をかけて行動するような優れた政治家が出てくれることを、心から望むのは私だけではないだろう。

 妻がたった一度だけ按摩椅子に座ったことからこうした駄文を書いたが、「人生唯一度」ということをやはり真面目に考えるべきだと此の歳になって思った。テレビを付けたら、大谷翔平選手がMVPに満票で選ばれたと報じていた。彼は日本人に明るい希望を与えてくれている。彼は唯一度ではなく来年も受賞を目指して活躍するであろう。

                            

                   2021・11・19 記す