yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

秋の旅路に想う

 

昨年、台風一過の秋晴れの日に、老人夫婦三組で長湯温泉を訪れた。大分県豊後竹田駅から少し北に入ったところである。この温泉は世界屈指の炭酸泉である。近頃は、偽証・偽造・偽装といった嘘がまかり通る世の中だが、ここは名実相伴っていた。

竹田駅に着いた時、この地に縁のあった作曲家滝廉太郎の「荒城の月」のメロディーが流れていて旅情を誘った。また駅頭には朝倉文夫製作の美しい裸身の少女像が立っていた。「時の流れ」と題した名作である。

温泉宿に一泊した翌朝、宿の周辺を少し散策してみた。由緒ありげな寺があった。山門を入ると庭に石が二つ並んで据えてあった。いずれも種田山頭火の句碑で、味わいのある字が彫ってあった。

 

ホイトウとよばれる村のしぐれかな

 

一きわ赤いお寺の紅葉

 

「昭和五年十一月八日に当山に参拝してこの二句を残した」と説明書きにあった。山頭火の『行乞記』を見ると次の記述がある。

「十一月八日 雨、行程五里 明治村、長湯村、赤岩といふところの景勝はよかった。雑木林と水音と霧との合奏楽であり、墨絵の巻物であった。(中略)とにかく私は入浴する時はいつも日本に生まれた幸福を考へずにはゐられない、入浴ほど健全で安価な享楽はあまりあるまい」

しぐれる山中を歩いてきた乞食(こつじき)姿の山頭火は、悪童たちに「ホイトウ」とは呼ばれながらも、出湯の温もりと紅葉の美しさに旅の疲れを癒したであろう。

山頭火の句碑を後にして朝倉文夫の記念館を訪れた。つづら折りの山道をしばらく行くと、丘の頂きにやや開けた場所が目に入った。はるか遠くに「国立公園阿蘇くじゅう」の一角も望める場所で、近くの山々の眺めはひときわ美しかった。満目紅葉にはまだ少し早かったが、山腹を点々と飾る紅葉の錦は見応えがあった。瀟洒な記念館がひっそりと建っている。案内書には記念館・ホールを清家清、造園を澄川喜一、館内展示の設計を文夫の娘の朝倉摂が担当したとある。いずれもわが国を代表する芸術家である。

朝倉文夫文化勲章まで授けられた彫刻家である。生まれた所は記念館からもう少し奥に入ったところだと聞いた。小学生の文夫少年はこの山奥から、竹田市中の学校まで毎日片道六キロの坂道を通学したのである。館内には代表作「墓守」の老爺像を始めとして多くの作品が展示してあった。その中で裸婦像だけを一括して展示してある一室があった。清純な若鮎の如き肢体の少女をモデルとして、芸術的に見事に塑像されたものである。聞けば、二人の娘が自ら積極的に父の為に衣服を脱いだとか。私が最初に赴任した高校で、美術の先生が、「私の妹は東京で舞踏を習っていましてが、朝倉先生のモデルになったことがあります」との言葉を思い出した。 

最近の絵画や彫刻などには、奇怪さや珍奇さで人目を引こうとする作品が多い中にあって、こうした清純で健康美に溢れた作品はやはり見る者の気持ちを爽やかにしてくれる。  

晩年、美しい自然の中に、芸術の理想郷をつくりたいという文夫の夢が、一九九一年に生まれ育ったこの地に実現したのである。彼にとっても地元民にとっても大いなる喜びであっただろう。人里離れているが、この「朝倉文夫記念公園」は訪れる価値のある場所であった。

しかし私は想う。この桃源郷のような地を見捨てなければならないような事態が生じたらどうなるか、と。福島を中心とした東北の各地には、地元民にとって掛け替えのない故郷があっただろう。清らかな空と水こそ万民の等しく望むものである。

旅先で思いがけない風物に邂逅するのは大いなる悦びである。運転手に案内されて普光寺の磨崖仏を拝観した。肥後街道を外れて細い山道を上りつめたところで下車した。そこからは狭くて急な坂道を歩いて下らなければならなかった。しばらく行くと樹木の間からハッと驚くほどの大きな不動明王の座像が、やや赤味みを帯びた岩肌に浮かび出ているのが目に入った。人気の無い谷底のような窪地に、高さ十一メートルを超す見事な磨崖仏があるとは思ってもみなかった。全く驚嘆に値する。鎌倉時代に製作された国内最大級のもので、見るものを圧倒するような力強さを持っていた。

旅から帰って『人類哲学序説』という本を読んでみた。著者の梅原猛氏が日本には「草木国土悉皆成仏」という偉大な思想がある。近代合理主義や人間中心主義が置き去りにしてきたものを吟味、人類の持続可能な未来への新たな可能性を日本歴史の中に見出すべきだ、と主張していた。その通りだと思った。

戦後七十年、わが国では戦争のない時代が続いている。また、生活は便利になり楽にもなった、さらに人の命も延びた。しかし反面、自然破壊や環境汚染といった深刻な事態が生じた。環境は人をつくるという。有名な長野県歌「信濃の国」で浅井洌(きよし)が詠んでいるように、「古来山河の秀でたる国は偉人のあるならい」である。緑豊かな森が広がり、清らかな水が流れる、こうした豊かで美しい自然の中にあってこそ、人の心は和らぎ、真の平和を考える優れた人物が生まれるのではなかろうか。旅を終えて私はこの想いを一層深めた。