yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

1万歩と猫

 

 昨日5月1日に3回も外に出た。平生なら別に取り立てて言うべきことではないが、コロナ感染を警戒して「不要不急」の外出はなるべく控えるようにと言われている最中だから、我ながら出過ぎたかなと思う。

いつものように早く目が醒めたので4時半だから直ぐ起きて、数日前から読み始めた漱石の『文学評論』を読んだ。これで3度目だが中に出てくる引用の英文に対しての和訳が実にこなれているのに感心する。恐らく漱石が自分で訳したか、森田草平が訳したのを漱石が後で手を入れたものだと思う。今朝読んだところに有名なジョンソン博士がチェスターフイールドに与えた書簡があった。漱石はジョンソンの書簡を引用するに先立って次のように述べている。

「昔読んだ時から此講義をやる今迄感心している。感心は兎も角も、此書翰は文界にあって個人保護の時代が永久に過ぎ去ったと云ふ記憶に値する事実を尤も露骨に天下に発表したものであるから、此點から見ても文学史上重要の意味を有している。」

 

ジョンソン博士が7年の辛苦の後に英語辞典を完成したときの、チェスターフィールドへの皮肉交じりの手紙が次ぎに続いている。漱石の訳文だけを一部あげて見る。漢字は一部当用漢字にした。

 

此七年辛抱にて、拙著は漸く出版の運びに至り候。寸毫の補助を受けず、一言の奨励を蒙らず、微笑の眷顧を辱ふせずして、漸く出版の運びに至り候。小生は未だ庇護者の下に立ちたる経験なきもの故、庇護者よりかかる御取扱を受けんとは全く小生の予期せざる所に候。庇護者とは人の将に溺れんとする折を冷眼に看過し、漸く岸に泳ぎ付きたる折りを見計らって、わざと邪魔となるべき援助を与えらるるものに候や。小生の労力に対する御推賞は感謝の至に不堪ず候。ただ其遅きに過ぎたるを憾みとするのみに御座候。(以下略)

 

漱石自身が書いたような痛快な文章である。上記の文中「漸く出版の運びに至り候」という言葉が2箇所にある。ジョンソンの出版までの苦労が分かるような気がする。

漱石は当時の東大生に向かって「諸君も定めてご承知だろう」と云っているが果たして学生たちは知っていたか。それにしても今の大学の英文科の学生とはかなりの実力の差はあったと思う。

 

話は昨日に戻って、7時になったので「ログ・ハウス」へ行った。先日買った榊があまり良くなかったので新しいのを買った。これは葉が青々としていて前より束も大きい。外に花とトマトなどを買った。この店の主人は萩高校出身で70歳くらいである。それこそ正月を除いて1年中休みなく毎日、萩市の奥の福井と云うところから野菜や花など色々な食料もトラックで運んでくる。一年を通して店を開く時間が決まって7時だから、冬季に家を出るのは5時半頃と思う。よく頑張るなと何時も感心する。

店への行き帰りに数人の人に逢ったが皆マスクをしていた。私は付けていなかったので一寸気まずく感じた。往復丁度1キロの距離である。

山口市内にも数人の感染者が居るようだが、朝の清々しい空気の中にウイルス菌が飛んでいるとはとても思えないので、「3密」でないから「No Mask」なのである。

帰宅して新しい榊と仏様への花を取り替えて神仏を拝んだ後、朝食の準備に取りかかった。「野菜の煮込み」がなくなっているので作ることにした。まず次の材料を冷蔵庫の中から出して良く洗って、適当な大きさに切って圧力鍋に入れて30分間煮た。材料は次の10品である。牛蒡、人参、蓮根、子芋、馬鈴薯、玉葱、椎茸、蒟蒻、竹輪、あらびきポークウインナーで、それに醤油を少し加えて煮詰めたら出来上がり。

煮上がる迄の間、出口保夫の『ロンドンの夏目漱石』を手に取った。これより前に角田喜六の『漱石のロンドン』を読んで結構面白かったので、同じロンドン滞在中の漱石の動向だが、見方が違うだろうと思って読み比べてみようと思ったのである。出口氏の方が一段と具体的で良く分かる。角田氏のことを知ったのは、彼が『文学論』の「注解」を行っているのを知り、昔買った此の本を再読した野である、彼は5回もイギリスへ行って漱石の足跡を調べているのには流石だと思った。

 

予定通り30分で煮上がったようだから、珈琲を淹れ、ミルクを温めてやっと朝食にありついた。

昼前にふと思いついたのでまた出かけることにした。実は同人誌『風響樹』が刷り上がるので、知人2差し上げようと思い、角封筒を買いに行こうと思ったからである。我が家のすぐ前になるスーパーは食用品が主体だからこういった日常雑貨は品不足である。そこで一番近い所にある店まで歩いて行くことにした。昨日初めてその店まで歩いた。昼前の日差しは結構暑くて家を出て帰るまで1時間15分も掛かった。店内では人並みに手提げ袋からマスクを取り出して付けたが、帰りにはまた除けて歩いた。

一寸見当違いに時間が掛かり、日差しも強かったので少し汗ばんだ野で却って直ぐシャワーを浴びた。

それより前、我が家が見えるところに来たとき、郵便屋さんがバイクに跨がって去ろうとしていたので呼び止めた。現金封筒を渡してくれた。これは1月以上前に萩市在住の妻の親友に妻の友人たちに差し上げて貰いたいと云って、拙著『硫黄島の奇跡』を10冊許り送っていたのであるが、皆さんに買って貰ったと云って其の本代と手紙が入っていた2だ、私は帰って直ぐお礼の電話をした。こうして親切な人も居れば、送っても受け取ったtも読んだとも言わない人も居る。人様々だとこの度人の気持ちの様々なのを知った。

確かに昨日は日中の暑さは格別であった。私は昼食は殆ど取らない。ヨーグルトにリンゴを細切れにして食べたりする程度である。

 

その後は漫然と時を過ごした。4時過ぎに少し本でもまた読もうかと思い。先日妻の親戚の方がわざわざ持ってきて貸して下さった『河上肇の遺墨』と云う実に立派な写真版をまた読み始めた。河上肇は岩国の人で、東大を出て京都大学の教授の時、日本で最初と言えるのだろう大学で社会主義の講義を行い、共産党にも入党し、その為に大学を辞めさせられ、さらに収監の憂き目を見ている。六年の刑を終えて出獄後は、専ら漢詩の研究と書道に打ち込んでいるようだ。其の「遺墨集」である。彼が作った漢詩も良いが、書がまた何と見言えぬ気品と清々しさが感じられる。例えば彼の漢詩の写真だけでも、説明の活字とは比べものにならない。実物を手にしたら一段と感銘を与えるだろうと思った。気に入った漢詩を写真に撮ってみた。私は漱石が東大で彼を教えたかと思って調べたら、明治35年に河上は津大を卒業し、入れ替わりにその年から漱石は東大で教壇に立っていた。ついでに漱石は河上について何か書きいているかと思って調べたら次の手紙が1通だけあった。

明治39年2月3日に野間眞綱宛て野者である。その中に次のように書いている。

 

小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を思ふと河上肇などと云ふ人は感心なものである。彼の位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ。

 

私はこの度初めて『文学論』を読んで、漱石自身精神衰弱を自覚し、それでもこの病があるが故に数々の作品を書くことができたと開き直っているのを知り、河上肇に共感を覚えたのだと感じた。