yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

梅と杏と桜

寒梅という言葉がある。馥郁たる芳香を放ち、寒い冬空に凜として立つ梅の木は美しい。特に古木となると中々趣のある姿を呈する。「臥(が)龍(りよう)梅(ばい)」という梅の品種もあるようだ。まさに大きな龍が体を捻らせて横臥して居るようである。

 

「春入千林處々鶯」とか「千里鶯啼緑映紅」といった言葉には当然梅林が想像される。

梅のことを「羅(ら)浮(ふ)」と言うことを私は中学生の時知った。実は嘉永年間に私の曾祖父が天神様を夢に見て、それから彼は天神様の信者になったと伝え聞いている。天神様といえば梅である。彼はその後、萩市の郊外の地を開墾して数百本の梅を植樹して梅林を造成し、そこに「裸婦邸」ならぬ「羅浮亭」という扁額を掲げた小さな家を建てた。そこは梅屋敷と呼ばれていた。今ここは造成されて住宅地となっているが、その片隅に、「夢想 天満る薫をここに梅花  佳兆」という句碑だけが残っている。同じような句碑が防府天満宮の境内にもある。

「佳兆」は曾祖父の俳号で、句碑の裏に「嘉永中墾此地栽梅焉 長門阿武御民山本七兵衛源信行」と刻まれている。「焉」は「えん」と訓じ、「語調を整えるために添える助辞」だと初めて知った。文政五年(1822)に生まれた曾祖父が梅林を造ったのが嘉永二年(1849)だから二十七歳の時である。だから「焉」の助辞を付けて意気込みを見せたのかと私は思うのである。聞くところによると松陰先生もこの屋敷に立ち寄られたとか。尚此の地は今は「大屋」と書くが「鶯(おう)谷(や)」とも言って居たようである。

 

「羅浮」を辞書でみると「山名。広東省増城県の東にある。東晋の葛(かつ)洪(こう)が仙術を修得した所と伝える。山麓は梅の名所として有名」とある。関連して「羅浮之夢」とか「羅浮少女」という言葉もある。後者の説明として「羅浮の梅の精が美人の姿で現れた故事。転じて美人をいう」とあるから、この少女は「裸婦」を連想させる。まあそれは冗談として、梅は花も実も賞味される。

 

梅が寒中に咲くとしたら、少し暖かくなって似たような花をほころばせるのは桃と杏であろう。ここでは杏を取り上げる。

杏は三月が見頃である。山口市の維新記念公園には杏が数本植えてある。そのそばに友好都市の中国の青島から贈られた「孔子杏壇講学像」という群像がある。中央に座した孔子の左右に顔回子路、子貢などの弟子達五人の像が皆孔子の方を向いていて、孔子が講義をするのを謹聴して居る様子を彷彿させるものである。

なぜ「杏壇」とあるのか。これも辞書を引いてみると、「孔子が学問を教えた所の跡にある壇の名。周囲に杏が植えてある。転じて学問を講ずる所」とあった。先日この公園を訪れたとき茶褐色の新しい枝に薄桃色の美しい花が咲いていた。

 

「杏林」という言葉もある。これは医者を意味する。これも中国の故事にまつわる話がある。辞書には次のように出ている。

「医者の美称。三国時代、呉の董奉(とうほう)という人が病人を治療した礼に、重病人には五本、軽症者には一本のあんずを植えさせ、これを董仙の杏林といった故事」(『廣漢和辞典』)

 

私は萩にいた頃事情があって八年間「青木周弼之旧宅」に管理人として住んでいた。その頃門を入って左側に板塀があり、その塀の内側に数多くの梅の木があったが、大きな杏の木が一本だけあった。春になると美しい花が咲いていたがかなり古木であったのでその内切り倒された。青木周弼は毛利敬親の侍医であったからこの杏の木を植えていたのと思う。

周弼は徳川将軍の御殿医にと頼まれたが、断ったので代わりに緖方洪庵がやむなくその職に就いた。しかし洪庵は江戸に出て程なくして病死した。周弼の弟は研蔵という。彼は明治天皇の侍医であったが不慮の災難で亡くなった。研蔵の養子が青木周蔵である。彼は医者を志して今のドイツへ留学したが、現地で医学に代えて政治学を学び、後に外務大臣になっている。

森鴎外がドイツへ留学したときドイツ公使だった周蔵に挨拶に行っている。その時の様子を『独逸日記』に書いている。また『大発見』という短編にも書いている。私は青木周弼の旧宅に住むことになったお陰でこうしたことを知った。有りがたい奇縁だと思っている。

 

三月下旬に萩の友人が美味しいネーブルを持ってきてくれた。彼は高校の教員を辞めた後、専ら百姓仕事に従事している。彼は米作の傍ら各種の果樹を栽培している。その時こう言った。

「家の周りに杏を十数本植えていて、今は花盛りで非常に美しい」

彼の姓は林という。

「それではまさに杏林だね。その内お宅には医者が誕生するでしょう」と私は笑って語った。

 

杏の花も今や散りもうすぐ四月になる。四月の花と言えば何と云っても桜である。昼間に眺められる桜花爛漫たる姿を好まない日本人は居ないだろう。蘇東坡の『春夜』は有名な詩である。最初の文句に「春宵一刻直千金 花有清香月有陰」とあるが、この花は、やはり桜ではないかと私は思う。宵闇に篝火に映し出された桜はまた違った情趣のあるものと思われる。

 

「敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花」と本居宣長は詠っているが、「願はくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」と詠った西行は、彼の願い通りに死んだと言うからさぞかし満足の一生だったろう。

先の戦場で若き兵士が花と散った。「花に嵐」というが、「いさぎよく散る桜のイメージを胸に抱いて、いや彼らの多くは、将来の平和な日本を夢見て死んでいったのであろう。

実に傷ましい事である。今の我が国の現状を見たらどう思うだろうか。

 

話は卑近になるが、昭和十九年に私は県立萩中学校に入った。七十五年も昔になる。その当時のことで一つ覚えていることがある。一年生全員が体育館に入った時、母校出身の山県という体育の教師が、「お前達は此の度見事この萩中学校に入学した。しかしよう言っておくが、丁度年頃だから色気が出る頃だ。桜が咲き陽気な気持ちになって、女のことが気になるようでは駄目だぞ。しっかり勉強するのだぞ。櫻という字は木偏に貝という字が二つ、その下に女と書く。だから‘二階の女が木にかかる’と覚えたらいい。しかし二階の女が気に掛かるようでは駄目だぞ。」

下らんことを覚えているものである。我々の学年までは男女共学ではなかった。今ならさしづめ問題発言だととらえられるかも知れない。

桜は詩や歌に良く詠われているが、全く別の意味がある。それはどうも感心しない。

馬肉のことを「さくら」と言う。馬の肉が桜色だからである。

「彼奴はどうもさくらのようだ」と言えば、「露天などで客を装って買うふりをして、外の客の購買心をおさせる人」という意味である。

このように言葉には色々な意味があるから、面白いと言えば面白い。

以上三種の花に桃や李を加えるべきかも知れないが、次の文句だけ書き加えて拙文を擱くことにしよう。

 

「桃李不言下自成蹊」(桃李言ハザレドモ下自ズカラ蹊ヲ成ス)

 

立派な人のもとにしぜんと人々が慕い集まる、という意味だが、実に良い言葉である。

研究社の『和英大辞典』をみると次のように訳してあった。簡潔な訳だと思った。

 

A  man  of  virtue  will naturally  attract admirers.

(有徳の士は自ずから崇拝者をひきつける)

  平成三十一年三月三十日 記す