yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

庭の掃除

 

 今朝目が醒めたのは5時10分前だった。私はいつも9時を過ぎたら床に入るが、起きるのはやや不規則で、目が醒めた時点で床を出ることにしている。3時過ぎに起きることも時にはあるが、4時半前後に目が醒める事が多い。6時まで寝ていることはまずない。

 台風が過ぎて多少朝夕が涼しくなった。猛暑が続いた時、起きて居間の寒暖計を見たら30度を示していることもあったが、今朝は26度だったのでクーラーは付けなかった。いつものように漱石の『行人』を読んだ。今日でやっと読み終えた。小宮豊隆の「解説」に面白い事が書いてあった。

 漱石が『門』を書いて誰も褒めもしなければ言及もしないとき、阿部次郎が手紙を呉れたのが余程嬉しかったのだろう、次のように彼に返事を出している。

 

「『門』の一部分が貴方に読まれさうして貴方を動かしたといふ事を貴方の口から聞くと嬉しい満足が湧いて出ます。(中略)『彼岸過迄』がまだ二三部残ってゐます。若し読んで下さるなら一部小包で送って上げます。夫れとも忙しくて夫所でなければ差控ます。虚に乗じて君の同情を貪るやうな我儘を起して今度の作物の上にも『門』同様の鑑賞を強ひる故意とらしき行為を避けるためわざと伺ふのです」

 

私はこの手紙を読んで、内心忸怩たるものがあった。拙著『硫黄島の奇跡』をある人に差し上げ、その人から多少の褒め言葉を貰ったとき、「この本の基になる『杏林の坂道』を書いています。ネットで読めますから出来たら読んで下さい」と言ったことである。このような自己宣伝は恥ずべきではなかろうかという気がした。

話が逸れたが、7時前になったので、今日は燃えるゴミの収集日なので、昨日途中で止めていた庭の除草を始めた。盆前にお客があると思って庭の掃除をしてから、その後猛暑とヤブ蚊の為に掃除をしなかったので、思い立って支度をして庭に出た。略1ヶ月経っているので雑草がかなり繁茂していた。この炎天下、雑草の伸びは逞しい。小さな草を引き抜くと針のような白い根が10センチも伸びているのがあった。

昨日の分と今日の分で大きなビニール袋に2つ入るほどあった。まだすべての除草が済んだ訳ではないが、ちょっと足腰が疲れたのでまた気が向いたとき行うことにして今日は止めた。

私は庭の草取りを小学生の時からさせられている。萩に居たとき、我が家の敷地は200坪ばかりあり、その約3分の2の面積が庭であった。小さな築山や燈篭、また数本の松や紅白の山茶花(さざんか)など幾種類もの草木があった。しかしこの庭でまず目につくのは樹齢200年を越える大きなタブの木である。この常緑樹は直径が50センチは優にあるような太い枝を七八本も四方に伸ばしていて、絶えず枯れ葉と、時節になると新芽を落としていた。

私は一人息子である。しかし宇田郷村で医者だった伯父の3人の息子たちが県立萩中学校に入ると同時に、我が家に下宿して通学した。従兄たちは3人いて全員が我が家に揃った時、上から5年、4年、3年と連続し、一番下の私が1年生であった。

その時は昭和19年で太平洋戦争が終わる前年だった。我々は朝起きたら食事前にそれぞれ割り当てられた場所を掃除しなければならなかった。父がその様に決めていて、我々は実行していた。門から玄関までの通路の掃除、廊下の拭き掃除などそれぞれ分担があった。私の持ち場は茶席の蹲(つくばい)、つまり手水鉢があってその周りに小石が沢山あり、さらにそれを囲むようにして躑躅の様な灌木がある場所だった。また茶席から蹲まで大小の飛石が据えられていたので其処も掃除した。

先に書いた大きなタブの木が、この茶席の庭の上に太い枝を延ばしていたから、毎朝木の葉が多く落ちていた。この蹲の中に落ちている枯れ葉を除去するのが一番手間がかかった。大風でも吹いた翌日には、炭俵一杯くらい拾い集める事もあった。我が家の庭だから私が一番手間のかかる場所をするように父は決めたのである。こうした毎日の食前の作業の外に、私にとっては是とは別の経験が今以て忘れられないものとして記憶にある。

 

私の家では維新後に、曾祖父と祖父が一時大阪へ出て商売をしていた。萩では曾祖母が酒造業の店を仕切っていたと思われる。元々彼女の家が萩の大屋という所で酒造業を営んでいたから要領が分かっていたからだろう。祖母はしっかり者だったと息子の友一郎が書いている。大阪に出た父と子は商売の傍ら、茶道や俳句など文化的な教養を学んで居たようである。具体的には小堀遠州流の師匠青木宗鳳についてお茶を学んでいた。しかし米相場で大きな損失をして萩に帰った後は商売を止めて、専ら茶華道を教えるなどして生活していたようである。

先頃小堀遠州流15世家元・小堀宗通氏著『続松籟随筆』(村松書館)を読んでいたら、宗通氏の祖父の小堀宗舟師が初めて萩に来られて、我が家の菩提寺である俊光寺で当時の商家の謂わば檀那連中に熱心に茶道を伝授した事が述べられている。

 

「宗舟が萩に滞在したのは、明治三十二年七月六日から八月八日までの、一か月余で、その間の行動は、須子英二氏の曾祖父に当たられる清九郎氏の克明な日記により、逐一明らかであるが、連日の“強暑”の中を猛練習のさまが窺われ、九月四日附けの宗舟の山本友一郎(宗信)氏―孝夫氏の祖父―宛の書翰によって対照してみると、更にその行動が明らかになり、興味深いものがある。

 

恐らくこの際主として世話をしたのが私の祖父の友一郎だったと思う。これ以上のことは省くが、上記のような事から、我が家では大阪での事業に大失敗して萩に帰ってからは、酒造業も止めてそれこそ借金生活だったようである。従って曾祖父は既に隠退し、祖父は大阪にいるとき取得した茶道と華道の教師として、それまでとは全く違って細々とした生き方をするようになった。しかし一応の対面だけは保たなければならなかったかと思う。そのために、私の父は萩中学校を卒業後、現在の関西学院大学まで行かせ、父の姉も萩高等女学校を卒業するとすぐに東京の小堀遠州流の家元で茶道を、更に京都の池坊家で華道を習わせている。父の妹も姉と同じように茶華道の稽古をしている。

このような訳で私がもの心のついてからは、お茶とは縁が切れなかった。父は萩商業に勤務していたが退職してからは茶道に専念していた。私の記憶にあるのはそれより前の事である。父は茶道仲間や萩商業の先生達をよく招待して釜を掛けて茶会を開いていた。それを「お懐石(かいせき)」といっていた。この「お懐石」のある日には特別念入りに庭の掃除をさせられた。私はこれがいやだったが従うほかは無かった。

 私が結婚して、妻も初めてお茶を父から習った。正月に「初釜」といって多くのお弟子さん達を招く茶事があるが、その為の準備で年末から当日までは朝から晩までこの事に関して家中のものが立ち働いた。従って正月に温泉などへ行ってゆっくり楽しむと言うことは我が家では全く無かった。妻はこのような環境に良く耐えたと思う。そして師範にまでなった。父が亡くなりしばらくの間、妻は父の弟子だった人達としばらくお茶の稽古を結構楽しんでいたようである。しかし萩から山口に移ってからは膝が痛いと言って一切お茶とは手を切った。私も全くお茶はしない。唯毎日お茶を点て飲む事だけは欠かさない。

さて、庭の掃除について書くと、我が家には茶室が二つあった。仏間を兼ねた四疊半の茶室と三疊の小さな茶室で、それぞれに蹲が付属していた。

先に書いた「お懐石」の日に、私は枯れ葉をすべて掃き集めて、掃除が終わったと父に言ったら、父はこう言った。

「お前は和敬清寂という言葉を知って居るか。此れは茶の精神を表したものだ。この中の清は心を浄めると言う事だ。心を清々しくするにはまず自分の環境を清く整えなければいけない。明窓浄机という言葉もあるが、自分の環境を綺麗にする事によって自分の心も清くなる。お前は掃除を嫌々にしてはいけない。利休が茶会を前にして次男の少庵(しょうあん)に庭の掃除を命じた。掃除が終わったと利休に言ったら、利休がそれを見てまだ十分ではないと云った。少庵はもう一度徹底的に掃除して、塵一つ落ちていない状態にした。その時利休は茶席の庭にある紅葉の木の枝を揺すって数枚の葉を散らした。“掃除というものは唯塵一つないように舐めたように綺麗にするだけではない。綺麗にした上で更にその上に自然の趣が出ているようにして初めて完璧な掃除というものだ”。このように利休が息子に諭したと聞いている。掃除一つとっても茶道の精神は奥深いものだ。」 

妻が亡くなって書き残していた日記を見ると、「私は子供の頃よく母に掃除など言いつけられたが素直に従わなかった。しかし今は庭に出て草を取るのが何だか楽しい」

このように書いていた。人間の考えは年と共に変わる。名もなき草でも皆生きている。こうした草花と話をしながらと言った気持ちで草取りをしたのかも知れない。妻は絶えず腰痛を訴えていたが、痛みが薄らいだ時よく庭に出て除草していた。私は「無理をするな」と言ったが、年を取ってこうした事が次第に楽しみとなったのだろう。

 2020・9・15 記す