yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

川と海

 

私がほとんど毎日散歩する小道に沿って、清らかな水の流れている1メートル幅の細い溝がある。山口市には大きい川はないが三方面を山で囲まれているために、蛍で有名な「一の坂川」や、私が今住んでいる吉敷の地区を流れる「吉敷川」といった、やや大きい川の外に、今挙げたような清い水の流れる溝が各所にあるのに気が付いた。こちらに来て散歩をし始めたお蔭である。

濁って淀んだ川、その上悪臭でも立ち籠めていたら気分が悪くなる。しかし反対に清水がさらさらと流れているのを見ると、僅か1メートル、いや30センチ幅の小さな溝でも、そこに透き通った水が流れ、その上に日が射して小さな光の縞模様が輝いているのを見ると、たったそれだけでも爽やかな気持ちになる。散歩の途中でこういった流れを目にしないことはない。

我が家を出て広い自動車道路に沿った歩道を左へ、つまり南の方角へ500メートルばかり行った所に一軒の料亭がある。其処の駐車場の位置で、今歩いて来た道路の半分の幅の道が右手に枝分かれしてやや斜めに付いている。小道と言っても、車はかつがつ離合出来る道幅である。詩人中原中也の親戚の工学博士が当時の住民の便利のためにと建設したそうで、昔「中原道路」と呼ばれていたこの道の側に大きな記念の石碑が建っている。石に何か刻んであるが判読しかねる。私が歩くのは此の道ではなくて、さらにその道から分かれた、先に述べたような田圃道で、これは「道」というよりは「径」と書くべきだろう。

論語』に「行(ゆ)くに径(こみち)に由(よ)らず」という言葉がある。孔子より39歳も年少のある男が、醜男(ぶおとこ)であったが公明潔白で、往来を歩くにも近道や抜け道をせず、公用でなければ上司の部屋へ決して入らなかったとある。

 

私が今歩くのは「径」でも不適で、「畦道」と書くべきか。先日の夕方、その畦道の路上に薄緑の毬のようなものが五つ六つ転がっているのが離れた所から目に入った。近づいて見たら前夜の風で落ちたのであろう栗の実であった。その畦道に沿った溝川の向こう側は畑で、大きな栗の木が溝にかぶさるように枝を伸ばしていて、青々と繁った葉の中によく見たら薄緑色の栗が沢山なっていた。一種の保護色の様な感じだから,恐らく相当の数がなっているのだろうと思った。私は身を屈めて路上に落ちていたその美しい姿を見て、普通に目にする褐色の栗とは違う色に、何だか別のものを見ているような気がした。

 

私が昭和19年に県立萩中学校に入学した時、始めて英語を習った。筆記体の英習字の授業も最初の経験だった。今は塾とか何とか云って小学校に入る前から英語を学ぶ子供がいる。私の孫も今小学6年生だが、英語検定試験を受けたとか言っていた。隔世の感がある。最初の英語の教科書に次の文章があったのを今でも覚えている。

 

Bananas are yellow.

Chestnuts are brown.

 

1年1学期の中間考査の英語の試験は、殆どの生徒が満点に近い成績を取ったのではなかろうか。英語なんてやさしいものだと思った途端に、その後は冠詞やら単複数の違い、さらに関係代名詞や関係副詞などが出てくるともうお手上げである。家に帰って勉強するのは次の英語の授業に出てくる単語をコンサイスの英和辞書で調べるだけだった。

 

栗がこのような目も醒めるような薄緑のイガで覆われたものかと改めて知って、カメラを持ってくれば良かったと思った。2日後に同じ場所へ行って見たら、そのまま栗は同じ場所に同じ数だけ落ちていたが、濁ったような薄い褐色に変色していた。そこで私は木になっている栗をカメラに撮って家に帰り拡大して見てみた。全く予想もしない自然の妙と言うか先の尖った無数のイガが、まさに緑の針の山のように四方八方にその切っ先を向けて乱雑に生えている。一見ぐちゃぐちゃではあるが静かな感じにも見えた。私はその美しさに目を見張る思いがした。此の美しい緑の色は何かに似ているなと思った。

「そうだ、私が毎日一人で点てて喫する抹茶「又(ゆう)玄(げん)」の色に似ている」と思った。「又玄」とは「さらに玄妙」という意味らしい。

妻が生きている時もそうだったが、私は毎日この「又玄」を、父にお茶を習いに来ておられた有名な萩焼作家が作った茶碗で点てて喫する。私はこの茶碗以外は滅多に使わない。何時もこの私が一番気に入っている茶碗だけを利用する。大きさ、重さ、厚み、何とも言えない肌色の釉薬。そして細かなひび割れのような線。これは「貫入(かんにゅう)」というものだろう。又来客にも抹茶を呈することにしている。趙州(じょうしゅう)和尚の「喫茶去(きっさこ)」ではないが、外面だけは似た行動である。「まあ、お茶でも飲んでゆっくりしなさい」という意味か。父がそうしていたから私も踏襲しているだけの話である。

 

少し話を変えよう。私はこちらに来るまで海の近くにいて、夕陽が指月山の山陰に沈み、水平線上の西の空が夕焼けに染まっているのを見ながら海辺をよく一人で歩いていた。また海から吹き寄せる潮の香を感ずるのは常日頃のことだった。したがって平成10年の夏の盛りに、生まれた時からの住み家からこちらに移った当分の間は、海が懐かしく感じられた。そこで時々車を走らせて山口市の南の郊外とも言うべき秋穂の海を見に行った。

山口市で一番大きくて瀬戸内海に注いでいる川は椹(ふし)野川(のがわ)である。「椹」は「さわら」というヒノキ科の常緑高木で、「ジン」とか「シン」と訓読みするが、何故「フシ」と読むのか分からない。だから私は山口に来たときこの川の呼び方が直ぐには覚えられなかった。それはさておき、この川に沿って河口の方に行ったところに秋穂(あいお)と云う部落がある。実は妻の従弟がしばらくの間、この河口の先端近くに住んでいたので、我々は何度か彼の家を訪ねた。また従弟の細君が家の近くの丘の上に別荘を建てていたので、其処へもよく行った。海面から30メートルばかりの髙台にあって、静かな湾内とも言える河口と、湾外の瀬戸内海に浮かぶ小さな島も遠望出来て見晴らしの良い所である。湾の向こう側の山の中腹に「あいお荘」という温泉のあるホテルが見える。この宿へも数回行った。又従弟の家からさらに岬の先端近くまで行くと「きららのドーム」が、海の向こうに巨大な白鳥か亀の姿に見える。

従弟の奥さんは別荘の駐車場の周りにバラ園を作っていたので、シーズンには色とりどりの花が咲いて素晴らしい雰囲気だった。

 

今日たまたまネットを開いたら、劇作家で文化勲章受賞者の山崎正和氏の死を知らせていた。年齢を見ると86歳である。私より2歳年下である。柔和で上品な顔をしていたが、若い時から大いに活躍していたようである。私は以前鷗外の作品を好んで読んでいたので、『鷗外 闘う家長』という彼の本を読んで、優れた評伝だと思った覚えがある。彼は下関市にある東亜大学の学長にもなっている。それが今や帰らぬ人となった。実は先に言った妻の従弟の奥さんも今入院して居る。気の毒なことにコロナで主人にも会えないようで、非常に可哀想だと従弟が言っていた。

人間は皆必ず死ぬ。コロナで死ぬ高齢者の平均年齢よりも、これ以外の病気で亡くなる高齢者の方がやや若いようである。コロナ、コロナといってこれが最大の死亡原因であるかの如く、マスコミが煽(あお)るのは如何かと思った。

 

                      2020・8・21 記す