yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

随感

 もう二十年以上過ぎた。平成十年九月に萩市から山口市に転居した時は、自分がこんなに長生きするとは思いもしていない。又妻が私を残して死ぬなどと考えてもみなかった。さらに云えば高校の同級生をはじめとして、友人知人の大半が鬼籍に入ることも全く念頭になかった。それどころか今や良く知っていた教え子さへも何人も亡くなっている。これが人生だ、「無常迅速」、淋しくもあり又悲しい事でもある。

 

 こちらに転居した当時、私は長年の義務的立場から解放された感じを抱き、新しい環境において新しい住まいもできたので、これから本当の意味で第二の人生を自由に送れると思った。振り返りみれば過ぎたことと言えるが、こちらに来る前の十数年は、勤務中は忘れていても、一端我が家の門を潜った途端騒音が耳に入り、翌日門を出るまで絶えず頭を悩ました。妻は一日中そのような状況の中にいたから、神経に異常をきたし始めたのも無理からぬことである。暗中模索、出口が見つからない状況下で一番苦しんだのは妻だった。そういった中で曙光が見え始めると、幾つかの問題が続けて解決したのは考えて見ると不思議である。

父が生前云っていた、「まあもう少し辛抱して見たらいい。その内解決する」と。そうは言われても忍耐には限度がある。妻の苦しみは今考えて見ると本当に可哀想だった。私は我が家を見捨ててもいいと決心をした。幸いに「青木周弼旧宅」に避難できたことで、解決の糸口が一時的には見つかった。それでも根本的解決にはならなかった。我が家に買い手がつき、それと同時に長年の懸案だった橙畑が売れたことで救われた。

「もう一年待ったらもっと高く売れる」と云った人もいたが、それは違っていた。それからは萩市内の不動産の売却は日を追って難しくなっていったからである。私はこれらの事は天佑神助、先祖のお蔭だと信じている。本当に有難かった。

 

人間万事塞翁が馬」とか「人生は糾(あざな)える縄の如し」とか云われている。或いは「禍福は寝て待て」との呑気な格言もあるが、苦しみ悩みの渦中にある者にとっては、なかなか心を落ち着けてどっしりと構えることはできることではない。

こうした苦しみの長いトンネルを抜けた今、ここまで来られたのは先にも云った神仏の御加護は別として、多くの人達のお蔭だったことも忘れられない。

 

こちらに来て是までとは違った人生が広がった。私はまだまだこれから何かできるといった気持ちだったから、弓道教室に入門して弓の稽古を始めた。しかし数年して体力的にどうも無理だと分かった。しかしお蔭で弓道に興味を覚え、色々と関係の本を読んでみた。そして弓道というものが実に奥深く、一朝一夕には窮め尽くせるものではないと云うことを知っただけでも、良い勉強になった。

漱石が東大大学院時代に勉強のし過ぎで一寸体調を崩したので、それを癒やす目的もあって一年間ばかり弓を引いている。そしてこの体験を俳句に詠んでいる。私はこの事を知って『漱石と弓』という拙文を書いて岩波書店に送ってみた。一か月ばかりして『図書』に採用してくれた。この事がきっかけで、山口高校の先生連中が始めたという同人誌『風響樹』のメンバーに加わるようにと誘われた。作文など全く苦手だがメンバーの一員になることにした。

そうなると、いくらつまらない文章でも何か絶えず書かなければならないという半ば義務的な立場に置かれることとなった。この事は私にとっては亦別の意味でのプレッシャーになった。しかし同人誌への寄稿は年に一二回の緩やかなものだから、それほど精神的には負担に思えなかった。それでも締め切りが近づくとやはり気がもめることがあった。第一、長年書き慣れているメンバーの中にずぶの素人が入ったのだから気が引けた。

そういったこともあったが書くということは生きる上で一つの目標となり、ささやかながら生き甲斐にも思えた。それまで文章を書くなど夢にも思わなかった事だから、やはり不思議な縁だと思う。是に加えて、先に述べた『図書』を読んだと云って、全く未知の方、一人は姫路市、もう一人は神戸市在住の文学好きの、私とほぼ同年配の人と付き合うようになった事は望外の喜びとなり、また励みにもなった。人の縁とは本当に不思議だとつくづく思う。縁と云えばそれまで全く未知の二人が結ばれる結婚。これこそ最も縁の深い出合いと言えるかも知れない。

 

妻はこちらに来て無二の親友ができた。萩でも親友に恵まれていてその点では妻は幸せだったと思われる。山口での仲良しになったのは萩高校出身で妻とは同学年の女性である。二人は殆ど毎週一度と云っていいほどよく会って話していた。先日もこの人から私宛に手紙が来た。妻の一周忌の法要と納骨を無事に済ませたと知らせた事への返信であった。

人柄を彷彿させるようなやさしく素直な字が「矢次淑子用箋」という和紙の便箋に書かれていた。

「過日はおじゃま致しまして色々なお話しやお写真も見せて頂きなつかしく少しは元気が出ました。

この一年想い出しては涙する日々でございました。本当に寂しくて・・・」

人生では本当の意味での良き友に出合うという事は全くの運のような気がする。確かに自力によるよりは他力のお蔭だと私は思って居る。「莫逆(ばくぎゃく)の友」という言葉は「逆らうこと莫(な)き友」、「歩みや考えを共にせざるをえない友」という意味だろう。このような友に恵まれた者は幸せだと言える。その意味に於いて妻は幸せだった。この他にも我々はこちらに来て良き方々に出合うことができた。お蔭でこうした家族と萩に居た時の知人夫妻たちと、一緒に国内各地の旅を楽しむ事が出来たのは、今から思うと良き思い出になる。

 

しかし月日は着実に流れ、時は刻々と刻まれていたのである。若いときは、『徒然草』を読んでも、『方丈記』を繙いても本当の意味で読んではいないのだ。ただ書かれた内容を上辺だけで知解したに過ぎない。だから名著は繰り返して読む必要がある。

 

私は妻が亡くなってたまたま『漱石全集』の中の「思ひ出す事など」を読んで、漱石修善寺大患後の心境の変化を文章に綴り、その時の気持ちを漢詩に表現しているのを知った。そこで私は是が最期になるだろうが、もう一回はじめから漱石の全作品を読み直そうと決意した。是まで作品によっては幾度か読んでいるが、『文学論』など実際には読んでいない作品もあるから、まずこの『文学論』に最初に挑戦した。この難解な英文混じりの論文を曲がりなりにも読み終えた。それこそ字面を追ったに過ぎないが何とか最期の頁にまでは辿り着いた。

さて、これでいよいよ「第一巻」『吾輩は猫である』から読み始めることにした。『猫』や『坊っちゃん』などには死の片鱗さえ窺えない。その後の作品だと思うのでこれからが楽しみである。

 

先に述べた「思ひ出す事など」の中にある最後の漢詩で、彼はこう詩(うた)っている。

 

 眞蹤寂寞杳難尋    真蹤(しんしょう)寂寞(せきばく) 杳(よう)として尋ね難く

 欲抱虚懐歩古今    虚懐を抱いて 古今に歩まんと欲す

 碧水碧山何有我    碧水碧山 何ぞ我(が)あらんや  

 蓋天蓋地是無心    蓋(がい)天蓋地(てんがいち) 是れ無心

 依稀暮色月離草    依(い)稀(き)たる暮色 月 草を離れ

 錯落秋聲風在林    錯落(さくらく)たる秋声 風 林に在り

眼耳雙忘身亦失    眼(げん)耳(に)双つながら忘じて 身(しん)亦た失し

空中獨唱白雲吟    空中に独り唄う 白雲の吟

 

森羅万象の真実の相は、ひっそりとして静寂であり、まことに深遠で容易に知ることはできない。自分はなんとかして私心を去って真理を得ようと東西古今の道を探ねて生きてきたことである。一体、此の大自然にはちっぽけな「我」などないし、仰ぎ見る天や俯してみる地は、ただ無心そのものである。

自分の人生の終りを象徴するかのように暮れようとする黄昏どき、無心の月が草原を照らし、吹きわたる秋風が林の中を通りぬけていく。この人生の最期に立って、もはや自分は小さな我の欲望や感覚を越え、自らの存在すらも無にひとしいように感じるのだが、そのような心境で空を飛ぶ純白のあの雲のような自由さに想いをよせて、自分の「白雲の吟」を唄うのである。

                  (佐古純一郎著『漱石詩集全釈』より)

 

 佐古氏はこの詩の【補説】で次のように云っている。

「この詩を作った翌々日の十一月二十日に、漱石胃潰瘍の発作で病床に臥し、それが死の床となった。それゆえにこの詩が文字どおり、漱石の最後の作品となったわけである。漱石が晩年に志向した「則天去私」のイメージがまことに鮮明に表現されて、漱石文学の精髄といってもけっして誇張ではないと思う。

漱石は、十二月九日の午後六時四十五分永遠の眠りに就いたのである。」

 

今年令和二年になって、山口在住の知人が、「主人が買って読んでいましたが、老人施設に入りましたので、お読みになれば差し上げます」と云って大判の立派な河上肇の『遺墨集』をわざわざ持参された。彼女は妻を通して知ったのだが、私とあまり年は離れておられないが、バイクに乗ってわざわざ持参されたにには恐れ入った。私はその親切を有り難く思い早速手にとって読み始めた。写真版の河上肇の運筆というか墨蹟の味わい深さに打たれて頁を繰った。実に良い字である。いわゆる書家の上手な筆運びではない。自ずから人格が現れて居るとも言えるものだと思った。

何故此処に突然河上肇の事を書くかというと、漱石が自分の弟子に宛てた手紙の中で、河上肇に言及して居るのを思い出したからである。

明治三十九年二月三日に野間眞綱に出した手紙に次のように書いている。

 

「小生例の如く毎日を消光人間は皆姑息手段で毎日を送って居る。是を思ふと河上肇などゝ云ふは感心なものだ。あの位な決心がなくては豪傑とは云はれない。人はあれを精神病といふが精神病なら其病気の所が感心だ。(中略)

人間は外が何といっても自分丈安心してエライといふ所を把持して行かなければ安心も宗教も哲学も文学もあったものではない。」

 

私は先に述べた『河上肇の遺墨』に載っている「河上肇年譜」を見てみた。すると彼は明治三十五年に東京帝国大学を卒業、同年に結婚している。年齢は二十三歳。翌年に東京帝国大学農科大学講師になっている。そして明治三十八年に『読売新聞』に「社会主義評論」を連載し、その年に伊藤証信の無我苑に入って居る。明治三十九年、即ち漱石が野間宛ての手紙の出した明治三十九年に、肇は無我苑を出て読売新聞記者になっている。

ついでに書けば、彼は明治四十一年、二十九歳の時、京都帝国大学法科大学講師になり、昭和三年四十九歳まで大学で教鞭を執っているが、その年に筆禍事件などで辞職、昭和八年五十四歳の時検挙され、小菅刑務所に入れられ、昭和十二年に五十八歳になって刑期満了で出獄して居る。こう見ると漱石がいみじくも云った如く筋の通った「豪傑」である。

「獄中秘曲の中より」という書がこの本に載っていた。

 

筋骨の逞しい若者たちと一緒に

風呂に入る私の裸姿をば、

初めて見たる人々は、

世にはこんなにも痩せた人閒が居るものかと、

驚きもし怪しみもするでせう。

そして哀れにも思ふことでせう。

 

だが私自身はひそかに自分を慰める。

おれの肉体こそこんなに痩せて居るが、

おれの精神は少しも痩せては居ないつもりだ。

獄中生活もやがて三年になるのに、

魂だけは伸びてふとりこそすれ、

痩せもせず、衰へもせず、老いもしない。

 

さう思ふ私は、

ざわめく湯槽の波に身を任せて、

黒い鐵棒のはまった窓から、

灰色の見張塔の閒近に聳ゆる

青空の一角を静かに眺めながら

ひとり自らほほえむ

 昭和十年十一月夜書 河上肇

 

これを書いた二年後に彼は出獄する。それから彼は表向きは共産党の活動はしないで、獄中から取り寄せて読んでいた漢詩の研究に半ば没頭している。私は彼の書いた『陸放翁観賞』を山口県立図書館で借りて読んだことがあるが、今回彼の遺墨を始めて見て、その中に載っている歌とその墨蹟が気に入ったから、その一つを書き写してみよう。

 

 我裳亦落葉爾埋留苔清水安流可難伎香乃閑曽希佐耳生久

 

万葉仮名を普通の言葉にすると、

「我もまた落ち葉に埋る苔清水 あるかなきかのかそけさに生く」

 

彼は晩年は無欲恬淡、自然を友として「かそけさに生き」、生涯を終えたように思う。

                         

2020・6・14 記す