yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

易水寒し

 今年一月二十七日、未明に目が覚めた。洗顔の後R・Hブライス教授の『HAIKU』(北星堂書店)をしばらく読む。夜も明けたようなので窓を開けると、戸外の冷たい空気が肌を刺した。夜間音もなく降った雪が家々の屋根に深々と積もっている。純白、清浄、静まりかえっている。全く目を疑うような光景だ。盆地を囲む遠くの山々も白雪に覆われ、小雪がしきりに舞っている。

この珍しい雪景色を目にした数日後、わたしは蕪村のつぎの句に出くわした。ブライス教授はこの句の英訳に添えて、「易水は有名な中国の川である」と簡単にコメントしていた。

 

 易水にねぶか流るる寒かな

  Down  the River  Ekisui

  Floats  a leek,-

   The cold!        Buson

 

 ブライス氏の英訳はいずれも簡潔で的確、実に上手いと思った。彼のこの著作『HAIKU』は全四巻本で、第二巻には、上記の英訳だけが載っていたが、第四巻に初唐の詩人、駱賓王の漢詩を紹介していたので、今はこれと蕪村のこの句の別の英訳だけ載せてみよう。

 

   A leek,

  Floating  down  the  Kkisui,

    Ah, the cold!       Buson

 

 

駱賓王は初唐の詩人である。

 

  此地別燕丹、 壮士髪衝冠

  昔時人已没、 今日水猶寒 

 

「ここは昔、荊軻が燕の太子丹に別れたところ。その時、壮士荊軻は慷慨のあまり、髪の毛が逆立て冠をつくほどであったという。昔の人は、すでにこの地上から消え去ってあとかたもないが、易水の流れは今なお寒く流れている。」(目加田誠著『唐詩選』)

 

 

わたしはブライス教授がコメントした「有名な川」について、もっと知ろうと思い『日本古典文学全集』(筑摩書房)の「與謝蕪村集」を開いて見てみた。栗山理一氏は次のように評釈している。

 

「易水」は中国河北省の西部にある川。戦国時代、燕(えん)の荊軻(けいか)が、太子丹(たん)のために秦の始皇帝を刺そうとして旅立つにあたり、易水のほとりで壮行の宴がひらかれた。その折りに吟じた詩に、「風蕭々兮(として)易水寒。壮士一(ひとたび)去兮不復還(またかえらず)。」(『史記』刺客列伝)というのがある。この易水の故事を踏まえると共に、芭蕉の「葱白く洗ひたてたるさむさかな」(『韻(いん)塞(ふたぎ)』)の感覚的把握をこれに結びつけたのが、この句である。

「昔、『風蕭々兮易水寒』と壮士荊軻が吟じた易水は、今も流れをとどめない。ふと水面に目をやると、誰か洗いこぼしたのであろう、白いねぶか(ねぎ)が浮き沈みしながら流れていく。『壮士一去兮不復還』という詩意も思い合わされ、この流れ去る葱の行方を見つめていると、ひとしお川風の寒さが身にしみるようだ。」との句意。

舞台は例のシナ趣味であるが、悲壮な歴史をはらむ場面に卑近な庶民生活の素材を配した機知は、まぎれもなく俳諧的骨法を踏まえたものである。しかも単なる戯画に終らず、悲傷清冽の詩情を止め得たのは、鋭い感性に裏づけられた奔放な想像力によるものといえよう。

 

適切な解説で、句意は十分理解できた。ついでに芭蕉の「葱白く」の句についての加藤楸邨氏の評釈を見てみよう。(『古典日本文学全集』「松尾芭蕉集」)

 

葱白く洗ひたてたる寒さかな

元禄四年、美濃垂井の規外の許での作。葱は垂井のあたりの名産であったといわれる。

「洗ひたてたる」には白い上にもしろじろと洗いあげた、その勢を含んだ気持ちが出ている。「葱」は冬季であるが、ここは「寒さ」がつよくはたらく。

「畠から抜いてきた葱をどんどん真白に洗いあげてゆくのが見ていると心のひきしまるような寒さを感ずる」というのである。余計な装飾をすてて、事象の真の中核に感合してゆく態度が生きている。黄金をうちのべる如きゆき方。

 

寒い川辺で真っ白になるまで葱を洗っているという描写を通して、たしかに「心のひきしまるような寒さ」が感じられる。さて、蕪村の「易水にねぶか流るる寒さかな」の句に戻ると、この句においては、「淀川」でも「鴨川」でも意味をなさない。「易水」だからこそ俳諧味がよく出ている。
 藤田真一氏は『蕪村』(岩波新書)で、同じ句について実に簡潔に要領よく解説している。

 

まずは、行くすべもない唐土に思いをはせた一句。これは『史記』に見える史伝を下にふんでいる。秦の始皇帝の暗殺を企てた荊軻は、「風蕭蕭として易水寒し、壮士ひとたび去りてまた還らず」と吟じて決意をのべたとされる話である。ぴんと張りつめた緊張感と、冬の厳しい寒さが照りあっている。おもしろいのは、「葱」である。緊張の場におよそ似つかわしくない、葱がぷかぷか浮かぶ間の抜けた景色、これこそ俳諧という文芸の魅力といってよい。

 

わたしはこの背景をさらに詳しく知ろうと思って、書架から『史記』を取り出して、「刺客列伝第二十六」を読んでみることにした。概略を記してみよう。

 

  中国は戦国時代、紀元前三世紀の初期である。荊軻は衛の人。後に燕に行って、燕では荊(けい)卿(けい)と呼ばれた。 荊軻は人となりは深妙沈着で読書を好み、遊歴した諸侯の国々では、いずれもその地の賢人・豪傑・長者と交わり、燕に行っても、処士(引用者注:教養がありながら官に仕えない者)の田(でん)光(こう)先生がまたよく彼を待遇した。ほどへて、秦に人質になっていた燕の太子丹(たん)が、燕に逃げ帰った事件があった。

丹は秦の人質になったのであるが、秦の待遇がよくなかったので、恨んで逃げ帰ったのである。帰ってからも誰か秦王に報復する者をと探していたが、國が小さく力が及ばなかった。その後、秦は日々山東に出兵して斎・楚・三晋を伐ち暫時諸侯の地を蚕食して、まさに燕に迫ろうとした。 

丹は太傳(たいふ)の鞠(きく)武(ぶ)に復讐の事を謀ると、鞠武は「秦の領土は天下にあまねく、その威力は韓・魏・趙三氏を脅かしています。民は多く士は勇ましく兵器甲冑にも余裕があります。だから秦が外征しようとさえ思えば、長城以南、易水以北の地は今後どうなってゆくか、はかりがたいのです。どうして冷遇されただけの恨みで、秦の逆鱗に触れようとなされますか」

その後、まもなく秦の将軍樊於期(はんおき)が秦王に罪を得て、燕に亡命してくると、太子はこれを受け入れて官舎においた。鞠武はこれを恐れ強く諫めた。そこで太子は何か良いはかりごとはないかと問うと、「燕に田光先生という人がいます。その人は知恵深く沈勇、ともに謀るにたる人物であります。」と云い、太子の許可を得て頼みに行くと、田光は自ら太子のもとまで出掛け次のように云った。

「『騏驥(きき)の壮んなときは日に千里を駆けるが、老衰すれば駑馬(どば)にも先んじられる』といいますが、太子はわたしの壮んな頃のことを聞いて、精力の衰えた今のわたしをご存知ないのです。さりながらわたしはそれを理由に国事をすてようとは思いません。わたしの親友に荊卿というのがおり、これこそお役に立ちましょう」。

「願わくは先生の紹介で、荊卿に会いたいものですが、いかがでしょう」と云うと、田光は承知しましたと云って太子を門まで見送った。そのとき太子は「わたしの話した事も先生の云ったことも國の大事だから、おもらしにならぬように」と念を押した。田光は身をかがめて、笑って承諾し、老いの身を曲げながら、荊卿のもとに行って次のように云った。

 

わたしはこの先の文章を読んで心身の引き締まる思いをした。司馬遷はこう書いている。

 

「わたしときみとの親交は、燕では誰知らぬものはない。いま太子はわたしの壮んな時のことを聞いて、昔に及ばぬ今の衰えを知らず、かたじけなくもわたしに、『燕・秦二国は両立しない、願わくは先生の御配慮を頂きたい』と言われた。わたしはひそかにあなたのことを思い、太子に推薦した。どうか太子の宮殿に伺候してほしい」。

荊軻が、「敬(つつし)んで仰せに従いましょう」と言うと、田光は、「『長者がおこないをなすに、人を疑わしめず』ということがあるが、太子はわたしに、『語りあったことは國の大事である。先生にはおもらしになさらぬように』と言われた。事をはかって人に疑わせるのは気節義侠とはいえない」と言い、自殺して荊卿を励まそうと、「願わくはあなたには、急いで太子のもとにいたり、わたしはすでに死んだと言上し、國の大事がもれないことを明らかにしてほしい」と言って、自らくびをはねて死んだ。

荊軻は太子に謁見し、田光がすでに死んだことを言い、光のことばを伝えると、太子は再拝してひざまづき、膝行(ひざずり)して涙を流した。しばらくして、「わたしが田先生に、他言せぬように申したのは、大事のはかりごとを成し遂げたいばかりからであった。田先生が死んで他言せぬことを明らかにせられたのは、何とわたしの本意であろか」と言った。

 

 「刎頸(ふんけい)の交(まじわり)」という言葉がある。わたしはこの言葉の意味するものを、上に書かれた史実で具体的に知ることが出来た。頸(くび)を刎(は)ねるということはもちろん死を意味する。これまで生きてきた生涯を自ら断つことである。前途は無になる。常人の容易に出来ることではない。死を覚悟で友人との信義を重んずるというこの行為には深甚な重みがある。この後もう少し続けてみよう。司馬遷は同じ事を再度書いている。

 

この後荊軻はしばらく太子のもとで厚遇を得ていた。そして太子の説得でようやく刺客となって秦王を殺そうと決意するのである。この間秦は趙を破り趙王を虜にしてことごとく趙の地を奪い、燕の南境に迫った。今や秦兵が易水を渡らんとしていた。荊軻は太子にこう言った。

 「いま秦に行っても、信用がなければ、秦王に親近することはできません。ところで、かの樊将軍の首には、秦王から金千斤と一万戸の食邑(引用者注:その人の治めている領地)が懸けられています。もし樊将軍の首と燕の地図を持参して秦王に献上するなら、秦王には必ず喜んでわたしを引見いたしましょう。そのときこそわたしは太子に報いる事が出来ましょう」

これに対して太子は、「樊将軍は困窮のはてわたしに身を寄せたもの、わたしは私利のために長者の意を損なうには忍びません。なんとか他の考慮が願えないでしょうか。」

 荊軻は太子がとうてい樊将軍を殺さないことを知り、ひそかに樊於期に会って言った。「秦のあなたに対する仕打ちは、まことに深刻といわねばなりません。父母をはじめ宗族をすべて殺戮し、いまや将軍の首に金千斤と万戸の食邑を懸けていますとか。将軍はいったいどうなさるおつもりですか。」

樊於期が天を仰いで嘆息し、涙を流して、「わたしはそれを思うごとに苦痛が骨髄に徹します。しかし、どうすればよいのか、わたしにもわからないのです」と言うと、「いま一言で燕国の憂えを解き、将軍の仇を報いる策があります。将軍はそれを何と思われますか。」

於期が進み出て、「それはどうするのか」と問うと、荊軻が言った。「あなたのお首を頂いて、秦王に献ずるのです。秦王はかならず喜んでわたしを引見しましょう。そのとき、わたしは左手に秦王の袖をとり、右手でその胸を刺すのです。しからば将軍の仇は報いられ、辱しめられた燕の恥もすすがれましょう。あなたに御異存がございましょうか。」

すると樊於期は片肌をぬぎ、腕を握って進み出で、「これこそわたしが日夜歯を食いしばり、胸を打って悶えたところ、今こそ教えを承ることができた」と言い、ついにみずから首をはねて死んだ。

 

こうして荊軻は二度に及ぶ「刎頸の交」を、身をもって体験し、ついに意を決して秦王刺殺に向かう。もちろん彼自身死を覚悟した上での行為。だから別れに臨んで彼が吟じた「易水寒し」の言葉が生きてくるのだとわたしは思う。その場面を司馬遷は次のように書いている。

 

太子や賓客で事情を知っているものは、いずれも白い装束(注:喪服)を着て見送った。易水のほとりまで来ると、このとき高漸離(こうぜんり)(引用者注:荊軻の友人で琴に似た楽器である筑(ちく)の名手)は筑を撃ち荊軻はこれに和して歌った。見送りの面々はいずれも髪を垂れてすすり泣いた。荊軻はなお進み出て歌った。

 

風は蕭蕭として易水寒し

壮士一去って復還らず

 

さらに羽声(うせい)(注:激しい調子)で慷慨すると、聴くものはみな目を怒らし、髪はことごとく逆立って冠をつくばかり。かくて荊軻は車に乗って去り、ついにうしろを振り向かなかった。この後荊軻は秦王の宮廷で決行に及ぶ、しかし・・・。

 

 古今東西、歴史に残る暗殺行為、今で言うテロとか斬首作戦は、数多くあったろう。たとえば、「ブルータス お前もか」の言葉で有名なシーザーの刺殺、大化の改新のもととなる蘇我入鹿の殺害、近年ではリンカーンガンジーの暗殺、ごく最近ではビンラディンの暗殺など。これらは皆目的を達成している。しかし荊軻は秦王刺殺に失敗した。それでも青史に残っているのは何故か。『史記』を読むと荊軻は秦王刺殺にはかなり逡巡している様子が窺える。彼は二人の友の「刎頸(ふんけい)」に促されて意を決したように読み取れる。無理もない。たとえ成功しても生きては帰れないことは重々承知だからだ。荊軻は詩を吟じて我が身を奮い立たせたのである。何故司馬遷はこの史実を書き残したか。やはり「刎頸の交」と「易水での荊軻の詩」があったからであろう。

非常に長々と『史記』から引用したが、ここで蕪村の句に戻って考えてみることにする。

  

易水にねぶか流るる寒さかな

 

この句については過去から現代に至るまで、詩人や批評家たちの多くが解説している。くどいようだが、詩人・萩原朔太郎は『郷愁の詩人與謝蕪村』で、この句を取り上げて以下のように評している。 

 

易水に根深流るる寒さ哉

「根深」は葱の異名。「易水」は支那の河の名前で、例の「風蕭蕭として易水寒し。壮者一度去ってまた帰らず。」の易水である。しかし作者の意味では、さうした故事や固有名詞と関係なく、単にこの易水といふ文字の寒々とした感じを取って、冬の川の表象に利用したまでであらう。後にも例解する如く、蕪村は支那の故事や漢語を取って、原意と全く無関係に、自己流の詩的技巧で駆使してゐる。

この句の詩情してゐるものは、やはり「葱買て」と同じである。即ち冬の寒い日に、葱などの流れて居る裏町の小川を表象して、そこに人生の沁々とした侘びを感じて居るのである。一般に詩や俳句の目的は、或る自然の風物情景(対象)を叙することによって、作者の主観する人生観(侘び、詩情)を詠嘆することにある。単に対象を観照して、客観的に描写するといふだけでは詩にならない。つまり言へば、その心に「詩」を所有してゐる真の詩人が、対象を客観的に叙景する時にのみ、初めて俳句や詩が出来るのである。それ故にまた、すべての純粋の詩は、本質的に「抒情詩」に属するのである。

 

ついでに朔太郎が名句として挙げている「葱買て」で始まる蕪村の句について、彼の解説を読んでみよう。

 

 葱買て枯木の中を帰りけり

枯木の中を通りながら、郊外の家へ帰って行く人。そこには葱の煮える生活がある。貧苦、借金、女房、子供、小さな借家。冬空に凍える壁、洋燈、寂しい人生。しかしまた何といふ沁々とした人生だろう。古く、懐かしく、物の臭ひの染み混んだ家。赤い火の燃える爐邊。臺所に働く妻。父の帰りを待つ子供。そして葱の煮える生活。

この句の語る一つの詩情は、かうした人間生活の「侘び」を高調して居る。それは人生を悲しく寂しみながら、同時にまた懐かしく愛して居るのである。芭蕉の句にも「侘び」がある。だが蕪村のポエジイするものは、一層人間生活の中に直接實感した侘びであり、特にこの句の如きはその代表的な名句である。

 

文学作品の鑑賞となると、多分に主観的であることがこれで分かる。詩人の空想力はまさにそうだ。わたしの勝手な妄評を加えさせてもらおう。

わたしは先に「易水」であって「淀川」でも「鴨川」でも意味をなさないと言った。ましてや「裏町の小川」ではいけない。先に述べたように、司馬遷の「刺客列伝」を最後まで読むと、荊軻は暗殺未遂に終わっている。しかし著者がこの未遂に終わった事績をあえて筆にしたのは、前にも指摘したように、第一に「刎頸の交」という事実に感動を覚えたがためではないかと思う。さらに言えばあの有名な詩である。易水のほとりに立って別れの詩を吟じた時の荊軻の心情は、悲壮にして心胆を寒むからしむものと推察される。だから「易水寒し」の言葉が生きてくる。

 

子規の句に、「柳ちり菜屑流るる小川かな」というのがある。ここにも自然と庶民の生活が詠われている。しかしこの句には歴史的背景も何もない平凡な春の情景描写のように思われる。彼には「涼しさや平家滅びし水の音」という句もある。子規が夕涼みがてら壇ノ浦のほとりにやってきたときの句であろう。涼風が吹いている。眼前の関門海峡は流れが速く、泡立ちながら音を立てて流れ行く。この「水の音」は何を象徴しているか。幾百年も昔の平家没落の大事件。無念の死を遂げた平家の武士たちの嘆きの声か、それとも彼らの苦悶を和らげようとする仏の声か。あるいは諸行無常、時の流れの象徴か。蕪村は「寒さ」を、子規は「涼しさ」を詠っているが、両者とも過去の事蹟に思いを寄せて季節感を句にしたのであろう。

もう少し蕪村の句について考えてみると、易水は永遠に流れる。荊軻が易水で決別の詩を吟じたのはほんの一時である。永遠と束の間の事象。しかしこの別れは永遠に語り継がれている。

このことを念頭に置いて、蕪村は、「永遠と瞬時」、「歴史的事蹟と些細なる庶民生活の一齣」という対立的なテーマを俳諧的に取り上げて、この名句を作ったのではなかろうか。

滔々として寒く渦巻きながら流れる易水はまさに人間の歴史を表象している。そこにどこからともなく浮かび流れ来た白いねぶか。濁流に浮かぶねぶかの白さは鮮明である。あの昔、易水のほとりで、「太子をはじめ事情を知るものはいずれも白い装束を着て見送った」とある。白色は清浄だが死をも意味する。この純白のねぶかが歴史に刻まれたあの事績の象徴として考えられないだろうか。

 

蕪村に「釣り人の情のこはさよ夕しぐれ」という句がある。「しぐれ」どころか、天候が急変しても釣りに夢中のあまり、足を滑らして大川に落ちて流に呑み込まれ、後日数十キロも離れた場所で発見されるという傷ましい事件を時々耳にする。今かりにその川の名前を淀川として、

「淀川に 釣り人流る 寒さかな」

と詠えば、事情を知っている人には意味が分かるだろうが、こんなのは全くの駄句である。その点、ここに取り上げた蕪村の句は歴史的背景を知ることで始めて面白く理解できる。蕪村の句にはこうした歴史的背景を持つものがいくつもあると評されている。次にあげるのは一見違う蕪村の句である。

 

冬川や佛の花の流れ来る

 

佛に供えた花や床に活けた花が枯れると、茶人はねんごろにそれを川に流してやる、と天心が『茶の木』に書いているが、この句にはあまり寒さが感じられない。もちろん歴史も念頭になく平凡な冬景色を詠ったものである。しかし花に色が感じられる。

蕪村に「手燭して色失へる黄菊かな」という一句がある。ブライス教授は「人工的な光がものの色を取り去ってしまうという不思議な事実は科学的には説明できる。しかし、それでも詩的心は常にそれを不思議に思うだろう。蕪村の場合のように、色彩やものの形に強く関心があるものなら特にそうである。」と、述べて数句を載せている。そのうちの二句を英訳と一緒に転写してみよう。

 

野路の梅白くも赤くもあらぬかな

 The path through  the field;

The plum  flowers are  hardly  white,

 Nor  are they  red.   

 

若葉して水白く麦黄みたり

   Among  the  green  leaves,

 Water  is  white,

   The barley  yellowing.

 

もう一度蕪村の句に戻ると、寒々とした易水の広漠たる流れに浮かぶたった一本の真っ白なねぶか。これは実に鮮明な印象を与える。蕪村は色彩感覚に優れ、対象を見つめて具体的に描く名手で、これはやはり画家としての天稟の表れであろう。

『蕪村余響』の中で、著者の藤田真一氏は次のようにいっている。

「蕪村は、芭蕉流の俳諧を継承しつつ、元禄の世にはなかったような芳醇な香りを俳諧世界に吹き込んだ。時空をこえた想念や、揺らめくような情操など、大きく広がる想像の世界へと解き放ってくれた。もしもこの世界が芭蕉流だけだったとしたら、俳諧は、枯淡閑寂のモノトーンなもの、と言う呪縛を引きずって逝く運命をたどったかもしれない。ごく単純化すると、そこへ明るく、カラフルな開放感をもちこんだのが、蕪村だった。」

 

「易水寒し」の句一つみてもこの言葉はうなずける。まさにこの句は藤田氏の言う如く、「古今の書物や和漢の詩歌を詩囊に収めて、想像の翼を羽ばたかせた」名句だといえる。最後に冬川を詠った対照的な句をもって拙稿を終わります。

 

冬川や誰が引きすてし赤蕪    蕪村

 

冬枯や芥しづまる川の底     移竹