yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

ジョルジュ・ルオー

 神戸在住の知人から『随感』と題した文章と、それに添えて半切の便箋に書かれた手紙が来た。この便箋にはエル・グレコの宗教画が印刷されてあった。以前にも同じ便箋が使われていたので、私は彼が此の宗教画家エル・グレコに関心があるのかと訊ねたら、メールで、エル・グレコはあまり知らない。ルオーを好む、と言ってきた。私もルオーに魅せられた事があるので、久し振りに福島繁太郞編著『ルオー』を書架から下ろして読み返すと同時に当時のことを思い出した。

 

昭和二十八年の秋に私は初めて上京した。大学三年の時だった。漱石の『英国詩人の天地山川に對する観念』という論文を読んで、漱石がワーズワスに次いで評価しているスコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズの存在を知った。ワーズワスは誰もがその名を知っているので、バーンズを卒論に選ぼうと思った。併せてこの詩人の肖像画も気に入ったからである。そこで適当な参考文献を求めるために上京したいと言ったら父が賛成してくれた。 

夏休みの暑い盛りに、毎日午前中汗びっしょりになって橙畑の草刈りをしたので、それをねぎらう気持ちもあったのだろう。当時一人の従兄が東京にいたので彼の下宿に二三日世話になることにした。

これより前、私は斎藤勇氏の『イギリス文学史』にHans Hecht著『ROBERT BURNS』という研究書が挙げてあったので、是非これを入手したいというのが主な目的であったが、従兄が一度東京に出てみないかと誘って呉れたことも上京のもう一つの要因である。

東京に着いて早速丸善書店へ行き、この赤い表紙の本が書棚にあるのを見つけてホッとした。著者はドイツのゲッチンゲン大学の教授でドイツ語の原文を英訳したものであった。 

 

私は所期の目的を達したので、一人でぶらっと銀座通りの一軒の画廊に入ってみた。展示されていた作品を一通り見て立ち去ろうとした時、着物姿の大柄な老人と背広を着た二人の中年の紳士が入ってきた。見るからに威厳のある老人である。二人は此の老人の従者のように見受けられた。私は一廉の人物だろうと想像した。彼が自分の名前を記帳するのを陰ながら見たら、墨黒々と達筆で「武者小路実篤」と書いた。 

明治十八年生まれの実篤はその時六十八歳である。黒みがかった着物に濃い渋茶色の羽織姿の恰幅の好い人である。特に坊主頭が人並み以上に大きかった。彼はステッキを傍らに置いて署名した。私は全く偶然だとは言え、この偉大な小説家を間近に見て圧倒させられた感があった。

興奮冷めやらぬ気持ちを抱いたまま、私の足は上野公園へと向かった。秋晴れの爽やかな良い季節で、園内を歩いていたら広々とした芝生の一處に、「ルオー展」と書かれた立て看板があるのが目に入った。私はルオーという名前をそれまで知らなかった。折角上京したのだから、絵画展や画廊の一つくらいは見物してみようと考えていたので、私は軽い気持ちで今度は「ルオー展」の会場を訪れた。

 

昭和二十八年と言えば、戦後間もない時で、街頭には白衣で松葉杖をつき、喜捨を求めて紙の箱を首から提げている傷痍軍人の姿があり、駅の構内などには戦災孤児が何人も見かけられた。まだ戦争の傷跡は各所に残っていた。私はこうした状況を見て胸が痛んだのを覚えている。

さて、最近はこうした催しが各地で行われると、大した展示会でもないと思われるのに、猫も杓子もわんさと押しかけている。あの当時も東京での開催だから、美術愛好家は多くいたであろう。しかしその時は割と閑散としていた。後で考えてみたら、閉館の時間前だったから、入場者の多くは会場を後にしていたのかも知れない。そうとは知らずに私は切符を求めて展示場へ一歩踏み入れた。

最初に目にとまったのは「石臼をまわすサムソン」の素描であった。はっきりとは覚えていないが、横幅が1メート位で縦がそれより長い画用紙に書かれた絵が画架に立てかけてあったように記憶している。私はそれまで絵画展などへ足を運んだ経験がないが、初めて見るこの絵に引きつけられてしばらく足を止め、石臼をまわす盲目の半裸体の男の苦しそうな表情をじっと見た。

この後数年して「サムソンとデリラ」という『旧訳聖書』に出てくる物語の映画を見てサムソンのことを知ったのだが、その時は只なんともなく引きつけられたのである。この絵の外に数点の油絵を見たがそれらがどんな絵であったかは覚えていない。ところが一つの肖像画の前に来たとき私は釘付けになった。何故その様な心理状態になったかを説明できない。ただ何となく崇高な念に打たれた感じであった。それは一人の女のピエロを描いたものと説明してある。ピエロと言えば一般的には下層の女性である。それが何とも言えない不思議な気品を湛えている。

私はここでも亦じっと見入った。今回は随分長く立ち尽くしたのを覚えている。そうしているうちに閉館の合図があった。私は我に返ったような気持ちで会場を後にした。結局入場料を払って二枚の作品だけを見たことになる。それでも充分満足できたと思う。それから私は此の初めて知ったフランスの偉大な画家にとりつかれたと言っても過言ではない。先に挙げた福島繁太郎の本を買ったのもその為である。此の度それこそ半世紀以上も経って開いてみたら、アンダーラインを引いた箇所があった。それを今読んで、ルオーを日本に最初に紹介した慧眼の画商・福島氏の文章に、私の言わんとする気持ちがそのまま代弁されているように思えた。

 

 どんな卑俗な人達を主題にとっても、以前の聖書による主題をとった時のと同じく厳粛な宗教的サンチマン(引用者注:芸術品に現れる情趣、洗練された感情)を感じさせる。(これは当時に於いて理解されず、ただ醜悪のもののみを描くと誤解された。)社会の下積みの人達を主題とするルオーの絵が、他の作家のバイブルより題を得た所謂宗教画より、はるかに宗教的の感じがするのは如何なる理由であろうか、固い信仰心が自ずとにじみ出てくるとしか説明がつかない。それほどルオー芸術は精神的である。これがまたルオーが一世の巨匠となっても一人の追随者もなく、常に孤独である所以である。外形は模倣し得ても精神的のものは真似し得ない。そして精神を除いてはルオー芸術は凡そ意味がないからである。

 

誠に核心を衝いた評言だと思う。なぜ彼がこのような精神的な画家となるに至ったのか。その訳は彼の生まれ育った環境に見られることを、これも福島氏の本によって知った。

 

ルオーは1871年5月27日にパリの労働者街に生まれた。丁度その頃はパリ・コンミユンの動乱の真最中で、その街区はヴェルサイユ政府軍の砲撃を受けて砲弾がしきりに落下している有様で、ルオーの母は地下室に難を避け、そこで彼は生まれた。無事に育ったのはひとえに母方の祖父の至れり尽くせりの心尽くしによるという。

ルオーの父は生まれはブルトンブルターニュ人)で、ケルト系の頑固一徹な性格だった。職業は塗物師で仕事熱心な名工であった。宗教的にも正直一徹な人で、ラムネーというカトリック教会に厳しい批判をしていた人の教えに帰依していたとある。

ルオーは幼いときから絵を描くのが好きで、学校を終えた十四歳の時に職業を選択する際、父もルオーの性格や祖父の希望を考慮して、絵に幾らか関係のあるスティンドドグラスの職人の徒弟になった。彼は毎日の仕事が終わった後、国立装飾美術学校の夜学に通い、デッサンを勉強した。

文字通りの苦学であった。そして誰にも告げずに美術学校の試験を受けて見事及第し、職人の足を洗う決心をして親方に告げたところ、親方は飛び上がって驚き、給料を何倍にもするからと言って引き留めたが、彼はどうしても画家になりたいからと言って職場を去った。

美術学校ではギュスタヴ・モローの弟子になり、モローは忽ちルオーの才能を認めたようである。ここにも一つの運命的な出会いを感ずる。モローと言えば聖書に出てくる洗礼者ヨハネサロメの話を主題にした『出現』を私は思い出す。サロメが彼女の父に強引に願ってヨハネの首を求めた物語である。モローはそれを描いている。画面右方の空中に黒い髪を長く垂らしたヨハネの生首が燦然と輝いて浮かんでいる。一方左側に凜々しくも体を反らすようにして立ったサロメは、宝石をちりばめた薄衣を纏った半裸の姿で右腕を真っ直ぐに伸ばしてその首を指さし、傲然と凝視している図である。

モローはこういった数多くの宗教画的な作品を残しているようだが、ルオーもこの面で師匠の影響を受けたと思われる。しかし師弟の間で大きな違いは、「モローは神の存在を許容したものの、自由主義的な考えを持った知識人であった。穏やかな人であったから芸術も革命的なところはなく、伝統的なレムブラントの明暗法に生涯つきまとわれていた。ところがルオーは、火のような情熱家で、神をひたむきに信仰し、その信仰の態度は中性的とも言える位。性格は狷介で常に反逆的である。従って芸術も革命的で、遂にレムブラントの明暗法を逸脱して色彩の価値を強く認識していた。二人の共通点を求めればただ精神主義であるという一点に止まる。」と福島氏は述べている。

モローの死後、ルオーは家庭的にも不幸でしばらく貧困と孤独の中にあって彼は黙々と絵を描き続けている。その後のことについては省くが、彼が世に出たのは六十歳を過ぎた晩年である。

 

今考えると、このルオーの作品だけではない、私が西洋画を初めて目にしたのがルオーの作品だったのは、何とも不思議な因縁に思われる。

最後に最近幸田露伴の本を読んでいたら、尾形乾山について次の文章を目にした。ルオーと乾山と言えば洋の東西で時代も違い、お互い全くの交流も影響もないが、一脈通ずる点があるように感じたのでその文章を紹介してみよう。

 

乾山は雅趣のある陶器を造ったので有名な人であるが、此の乾山の窯法釉法を書いた無題簽(無署名)の一冊の写本があったのを自分は写して、仮に乾山傳窯法と名づけて持って居る。別に面白い事があるでも無いが、ただ其中の記事によって、其一巻は乾山が弟子の清吾といふものに授けた法で、清吾はまたこれを古萬古焼の祖となった沼波弄山に伝へたといふ事が分り、従って古萬古の陶法が乾山の系統を受けて居るといふ事を証する一徴となる。そればかりでなく、巻中の處々に「能々勘弁可有事也」だの、「銘々発明によって如何やうとも工夫あるべき也」だの、「我等存命の内は随分教へ可申事に候、何事もただただ工夫勘弁さへ致し候へば獨りできる事也」だの、「勘弁才覚次第面白き事出来るもの也」だの、「随分工夫して幾度も幾度も焼き覚え申さるべく候」だのといふ、人をして自ら奮って我より古(いにしえ)をなすに至らしむるやうな語気の多い事は、実に乾山其人を想はしむるに足るもので、自分をして甚だ愉快を感ぜせしむ」

 

何故私は乾山に思い至ったかというと、以前乾山と署名のある「向付」の皿を手に取った事がある。その時私は深みのある釉薬の色彩と力強い文字が、ルオーの黒色の縁取りと濃い鮮やかな色彩に似たものを感じ取ったからである。乾山(1663一1743)は八十一歳で亡くなり、ルオー(1871-1958)は八十七歳の長寿を保っている。この偉大な東西の芸術家は共に大器晩成だったのであろう。

なお「勘弁」という言葉には「考えて事を決める」という意味もあることを知った。ルオーも乾山も作品の製作に生涯心血を注いだ事であろう。

                        平成三十一年三月二十日 記す