yama1931’s blog

長編小説とエッセイ集です。小説は、明治から昭和の終戦時まで、寒村の医療に生涯をささげた萩市(山口県)出身の村医師・緒方惟芳と彼を取り巻く人たちの生き様を実際の資料とフィクションを交えながら書き上げたものです。エッセイは、不定期に少しずつアップしていきます。感想をいただけるとありがたいです。【キーワード】「日露戦争」「看護兵」「軍隊手帳」 「陸軍看護兵」「看護兵」「軍隊手帳」「硫黄島」        ※ご感想や質問等は次のメールアドレスへお寄せください。yama1931taka@yahoo.co.jp

思い出す事など

        その一 小さな英雄

 

来年のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』との関連か、運動場の整備などしているここ萩市立明倫尋常高等小学校は、旧萩藩「明倫館」の跡地に建てられたもので、木造二階建の本館棟と並行して、同じような三棟の校舎が堂々と立ち並んでいる。二〇一四年三月発行の『萩ネットワーク』を読むと、此の校舎は「昭和10年に建築されたもので、全国的にもこのような昭和初期の大規模木造建造物が市街地に残っている事は稀であり、歴史的-景観的にも大きな価値がある」とある。

私がこの小学校に入学したのは昭和十三年だから、建造されてまだ三年しか経っていないのだが、別に新しい校舎だったという記憶はない。掃除の時間、クラスの者たちと一列に並び、教室や廊下の雑巾がけをした事は覚えている。

さらに『ネットワーク』の記事を読むと、本館棟は、国の登録有形文化財に指定されているが、建築から七十八年が経過したことにより老朽化が進んでいる。従って、小学校は旧萩商業高等学校跡へ移転し、木造校舎四棟は保存活用する、とある。

小学入学時に撮った写真が一枚だけ手元にある。小学校時代の思い出となる卒業アルバムなどはない。これを見ると、本館の玄関をバックにして、向かって左側の前面に男の子が二十人ほど三列に並び、右側にも同じように女の子が十九人並び、児童の後ろに数人の先生と母親達が写っている。この他に写真の右上に二人の女の子と母親が別枠として写っている。私は「一年忠組」で、全部で四十一人だったことが分かる。各学年の教室名に儒教の徳目が付けられていた。すなわち忠組、孝組、仁組、義組、 禮組という風に。当時は何とも思わなかったが、今考えるとやはり藩校の名残だろう。中央に久芳庄二郎校長と担任の下井美子先生が座っておられる。私は最前列に腰掛けて、黒いサージの制服を着て、半ズボンの膝小僧の上に両手を置いて畏まっている。

もう七十五年も昔でのことである。男子の顔と名前は半分以上一致するが、女子の顔を見て名前が思い出せるのは一人だけだ。彼女は別枠で写っていた二人の中の一人である。色白で引き締まった賢そうな顔をしていた。私がこの女の子の名前を覚えているのは、彼女の父親が私の父と同じ萩商業の教師であって、ある日、父の自転車の荷台に乗って、春日神社の直ぐ隣にあった彼女の家へ行ったとき、父の用が済むまで家の外で待っていると、彼女が母親と一緒に出てきた。そのときの彼女の様子を今でも朧に描き出すことができるからであろう。

当時は「男女七歳にして席を同じうせず」といった教育方針に従い、小学校三年生の時からは男女別学になった。したがって教室内で女の子とあまり話をしなかったし、学校を離れても同様だった。母が早く亡くなっていたので、叔母が入学式に付き添ってくれた。その帰りがけに新校舎の軒下に植えられた竜舌蘭が、色鮮やかに青々と並び生えていたのも微かに覚えている。また入学後の事だが、「水練池」に大きい真四角な桟板を数枚浮かべ、それらの上で数人の上級生が、箒を手にしてバランスよく遊んでいたのを見て、危険な事をしているなと思った。藩校時代この池で、水泳や水中での騎馬の練習が行われていて、水練池としては全国で唯一の遺跡だと云われている。昔は今より水深があったものと思われる。最近はこのような遊びは厳禁だろう。

 

さて、話は飛ぶが六年生になった時の事である。図画・工作の授業は、上述の木造校舎ではなく、運動場の北側に建っていた平屋の粗末な青年学校の校舎で行われた。この校舎の中の一教室が私たちの工作の教場で、そこには頑丈な厚い板で出来た卓球台のような工作用の大きな机が幾つか据えてあった。私たちはその周りに腰掛けて作業した。一合枡くらいの削り易い角材を与えられ、兎を彫るようにと言われた。先生が上手に出来た手本を示された。私たちはそれを見ながら小刀を一生懸命に動かした。木屑ばかり床にこぼれ落ちるが、なかなか思うような形にはならなかった。今の小学生は勿論のこと中学生でも、小刀を使って鉛筆を削るといった事はしないし、その必要もないが、当時の小学生は誰もが「肥後(ひごの)守(かみ)」という折りたたみの小刀を使っていた。

この工作の時間がその日の最後の授業だった。終業のベルが鳴ると、みんながやがや喋りながら木屑を箒で掃いたりして、後片づけをしていた。担任の三戸滋先生は片づけがほぼ済んだのを見て立ち去って行かれた。その時、教室内で二人の生徒が激しく言い争いをしているのが聞こえた。一人は私の町内で父親がブリキの加工を職業としている山野通夫(みちお)という生徒だった。彼には高等科に通う兄がいて、その兄を笠に着る風がなくはなかった。

 

当時私は背が低くかった。一年生の時の通信簿を取り出して見たら百三センチしかない。六年生の時も平均値に達していなかったので、通夫は私より大分高く見えた。彼の口論の相手は新川魯邊といって、一段と背のすらりと高い、浅黒く締まった顔つきの生徒だった。新川は通学区域が違うので私は彼と口をきいた事はなかった。日頃誰ともあまり物を言わないので、孤高を保っているように見えた。クラスの者は彼を「ロヘン」と呼んでいた。クラスの中には韓国籍の者が二人いたが、彼はその一人だった。数多くのクラス生徒の中で、一度も話したことのない彼の名前を、私が今に至るまで明瞭に覚えているのは、自分でも不思議に思う。私は翌年、昭和十九年四月に中学校に入り、生まれて初めて英語と漢文を習った。その時孔子が魯の国に生まれたことを知った。私は「魯」という漢字を見ると、いつも新川魯邊君を想い、また次の格調高い詩を思い出す。

 

    泰山     高橋新吉

 

 泰山ハ巖々トシテ魯ノ平原ニ屹立シ

 赫々(かくかく)トシテ太陽ノ熱射ニ焦(こ)ゲ

 玄々トシテ裸像ヲ氷雪ニ埋メテイル

 泰山ハ悠々乎(こ)トシテ蒼天ヲ威圧シ

 洞然トシテ宇宙を睥睨(へいげい)シテイル

 

クラスには男の子だけが四十人ばかりいた。二人は激しく口論していて、今まさに腕力に及ぼうとしたとき、日頃クラスの中で喧嘩が一番強いと目されていた木村という生徒が中に割って入った。木村の父親は鍛冶屋で大きな人だった。私は木村の家の前を何度も通ったことがあるのでよく知っている。彼は父親に似て体格のいい、やや赤ら顔の男で、頬をふくらますような格好で物を言っていたのを覚えている。我が家にある掛け軸に描かれた「鐘馗」の様な顔をしていた。その上名前が木村重男で、戦国時代の若い英雄、木村重成に最後の一字違うだけだったので、私は何となく覚えている。

当時の同級生の一人が、「木村は喧嘩大将だったが、なかなか良いところがあったよ」と言って、私が知らない次の様なことを話してくれた。

 

「昼休みの時間だったか、数人のクラスの者が運動場で遊んでいた。その時一人の女の先生が離れた処を通られるのを見て皆が大きな声で囃(はや)し立てたのだ。その頃その女の先生は、同僚の男先生と仲が良いとの噂があったので、皆が一緒になって男先生の名前を冷やかし半分に大声で叫んだのだ。するとその女先生がつかつかとやってきて、生徒たちが胸に付けていた名札を見て、その中の一人の小野という生徒の名前を担任の三戸先生に告げたのだ。授業が始まると直ぐ三戸先生が教室にやって来られて、小野がこっぴどく叱られたのだよ。するとその時木村が前に出て、『僕も言いました』と言ったのだ。するとクラスの外の者も『僕も言いました。僕も言いました』と言い、結局積極的に加わった者の全員が芋蔓式に白状したことをよく覚えている。木村はそんな風に男らしいところがあった」

 

後日この同級生が次のような手紙をよこした。

「あの場での木村君の態度は誠に立派であったと感心しています。それにくらべ自分の卑劣さは忸(は)ずかしく悪かったと思っています。弁解がましいことですが、当時は男が女をひやかすことはありうるというよりむしろ一般的であったように思います。もっとも教師は絶対の高い位置にあったことも確かですが。今では隔世の感があります。」

 

坊っちゃん』にあるように、「いたづら丈で罰は御免蒙るなんて下劣な根性」を、木村は持ち合わせてはいなかったのだ。担任の三戸先生はメガネをかけて口髭を生やした厳しい先生だった。真冬でも風邪を引いたもの以外は、黒い制服の下にランニングシャツ一枚で登校するように言われた。また体操の時間、これも寒い日だったが、クラス全員裸足で学校から松陰神社までの往復四キロの道を、走らされた事も記憶にある。先生の家が松陰神社から少し道を上ったところ、松陰誕生地への途中にあったから、先生にとってはこの道は勝手知ったる道だったのだろう。もっとも当時は日中戦争の最中(さなか)だから、こうした鍛錬は別に珍しいことではなかった。それにしても今回の様に先生を揶揄するといった行為は、小学生としてあるまじき行為である。木村は小野一人が悪いのではない、自分も同等な処罰を受けるべきであるとして、『先生、僕も言いました』と勇気をふるって自白したのである。友人は新川についてもこんなことを話してくれた。

 

「新川魯邊は家が近かったので、おれとは仲が良かった。あの男は頭が良かったよ。卒業前おれが『萩中学校へ行くつもりだ』と言ったら、『中学校へ行くのか。良いのう。僕は行きたいが行けないのだよ』と悲しげに言ったのを今でも覚えておる。家が貧しかったからじゃろう。あのときは可哀相じゃったよ」

 

昭和十年代、小学校の課程を終えて旧制中学校への進学率は今とは違い格段に低かった。大半は高等科二年まで行き、卒業後は何らかの職に就いていた。

 

話を元に戻そう。木村はこう言った。

 

「先生に見つかったら大事(おおごと)になるぞ。お前ら何(なん)でケンカしたのか知らんが、授業が終わってから、放課後土原(ひじわら)のグランドでやったらどうか。あそこなら誰も見るものも居らんから。」

 

木村の提案に二人は同意したが、その時すでに通夫は幾分ビビっているような様子だった。しかしクラスの多くの者が自分に味方していると思うと、彼としては退くに退かれぬ立場だった。明倫小学校から土原のグランドまで、距離にして約一キロの道である。東側の校門を出るとクラスの生徒十数名が、木村を先頭にぞろぞろと歩きだした。今はないが、小学校に隣接して萩商業のグランドがあり、道とグランドの間に一間幅の小川が流れていた。道の反対側は広々とした蓮田であった。その日は小川の中をすいすいと泳ぐメダカの群れに目をとめることもなく、またグランドとの境に生えていた笹竹の葉をちぎって笹舟を作り、それを流して遊ぶといった道草をしないで、皆は小川に沿った道を新堀川まで歩き、そこに架かる石橋を渡ると直ぐ右折して、今度は新堀川に並行して両側に飲み屋などのある道を歩いて行った。この道は今でも唐(から)樋(ひ)の大通りにぶつかる。

 

私は今この道のことを書いていて、ここで起きたことを思い出した。やはり小学校に通学していた時の事である。当時荷馬車が市内の路をよく往来(いきき)していた。路上に駄賃の糞を残していくこともよくあった。御者は馬の口とらえないで、荷車の前の方に腰掛けて、煙草を吸いながら手綱を操っていた。それを見た学校帰りの悪童連中も同じように荷車の後ろの方に、「こりゃ楽ちん」とばかりに腰を下ろした。ところが御者はそれを見つけるやいなや叱りつけた。

「誰だ、乗ちょるのは。さっさと降りんか。馬がえらいじゃないか」

そう云いながら、御者自らは馬の苦労を顧みず、依然として乗っていた。

その日は荷馬車でなくて軽トラックがそこに止まっていた。私はこれ幸いとトラックの後ろに手を置き、車が走り出したら楽に移動できると思った。ごく最初の内は速度に合わせて足を運ぶ事ができたが、すぐにスピードに付いていけなくなった。両足が宙に舞った。私は怖くなって手を離した。とたんに体が飛んで地面に腹ばいになった。幸い手足を少し擦りむいただけだったが、恐ろしい体験だった。

 

大通りに出てそこを横断し、松陰神社へと通ずる道を五百メートルも行けば、目的地の土原のグランドに達するのである。しかし当時その途中に警察署があった。今でこそ「優しいお巡りさん」だが、当時は「おい、こら」といって巡査は怖い存在だった。従って小学生が一団となって、しかも喧嘩目的で行動していると判れば、ただでは済まないと、私は内心びくびくしながら警察署の前を通った。しかし木村はそのような素振りさえ見せなかった。

帰りが一寸遠回りになるが、同じ町内の友達として、私は通夫に味方する連中と行動を共にした。いよいよ土原のグランドに着くと、木村が適当な場所へ皆を連れて行った。今は全く様変わりしているが、昭和十年代には、そこは広々とした草地で、野球のバックネットが片隅に立っていた。ダイヤモンドには草は生えていないが、外野はクローバーなどの青草に一面覆われていた。萩中学校と萩商業の野球などが日曜日に時々行われたので、小学生の私は試合があると聞くと、自宅から往復約六キロの道を遠しとせず、よく観戦に行ったものである。グランドの直ぐ側には田圃が広がっていて、日頃グランドには人影があまり見られない空き地であった。

 

新川と山野はそれぞれ鞄を友人に預けて向き合い、外の者たちは二人を取り囲むように輪になって成りゆきを見守った。しかし勝負はあっけなくついた。

通夫は自分に味方してくれると思われる者が多くいたので、その勢いに押されて新川に対峙したものの、最初から相手の威圧的な態度に恐れをなしていた。それこそ蛇に睨まれた蛙といった様子だった。がむしゃらに殴りかかったが簡単に受け止められ、反対に一発殴られると、その場に倒れて泣き伏してしまった。あまりにあっけなくけりが付いたので、皆は意外な面持ちだった。その時木村が出て行って、これ以上手を出すなと新川に言った。新川はもう相手にならないと思ったのか、自分の鞄を肩にかけると、悠然とその場を去って行ったのである。誰ひとり彼について行くものはいなかった。後日彼はおそらく山野の兄にこっぴどくやられたと思う。

しかし彼は実に堂々として、紳士的な態度を見せた。新川といい、また木村といい、今考えてみると、二人とも正に小さな英雄だった。

その二 海浜(かいひん)慕情

 

そのころ夏休みに入ると、町内の子供たちは、山野通夫の父親が作って店先に並べていた外枠がブリキで出来た水中メガネを欲しがった。それを使って海中に潜ってみたいからだ。それはガラス眼鏡が二つついた子供用のと違い、大人や海女が用いている大きな楕円形のメガネである。少しでも早く大人の真似をしたいと思う子供たちは、並べられた数個のメガネの中から、自分の顔に合いそうなのを選び、それを顔にあてがって、水が漏れないように何度も修正してもらい、ぴったりと顔に付くようになると、お金を払い、待ちきれない気持ちで、一目散に海に向かって走って行くのであった。住吉神社の境内を通って、砂浜との境に立っている石の鳥居のところまで行けば、目の前に日本海が広がって見える。鳥居を潜り石段を駆け下りると、波打ち際までは夏の日射しで焼け付くような砂浜である。そこには筵が一面に敷かれてあり、その上に釜ゆでされた炒子(いりこ)が天日(てんぴ)に干してあった。途中それを失敬する事を忘れない。子供たちは炒子を口にしながら、「熱い、熱い」と言って水際まで走って行き、冷たい海水の中に裸足をまず投げ入れる。ここまでは無我夢中である。

さて、足の裏を冷やし終えると、ようやくの思いで水泳開始となる。まず海藻で水中眼鏡のガラスを拭く。そうすることは、鼻息で曇るのが少しでも阻止される、と年配の者に教えられているからである。それからゴム紐を引っ張って後頭部まで延ばし、メガネの中に両眼と鼻がぴったり収まると、口で息をしてみていよいよ海中に潜るのである。

今までこうした経験のない子供にとっては、この行為は一種の儀式である。身体を沈めて海水が胸のあたりにまで来た時、頭を水に浸(つ)けて海中を覗いてみると、それまで見えなかった別世界がガラスを通して目の前に展開する。小さく波打った砂の上には小さな貝殻の破片などが目に入る。そこから背が届かなくなるまで歩き、さらに沖に向かって泳ぐよりは、防波堤のある場所でメガネをつけて泳ぐ方が一段と楽しい。岩伝いに水面まで下りて行き水中を見ると、大小さまざまの岩、その岩と岩との間の奥深い処で揺れている初めて目にするような海藻、またその周辺を泳ぐ小魚の群れなど、さらに岩に取りついてゆっくり移動する小さなサザエやウニなどが目に入るからである。子供にとっては神秘とも言える世界である。その後岩から身体を離して水中に潜ったり泳いだりすると、これで自分も一人前の若者の仲間に入れたという気持ちになるのである。

浜崎の港から沖に浮かぶ島々へ通う定期船や島民の持ち船が通ると大小の波が立つ。その波間へ泳いでいって、波と共に体が大きく上下に揺れるのを楽しむようになれば、もう一人前に泳ぎを覚えたといえよう。

私たちはこれを「波乗り」といって楽しんだ。ここでもう一つ付け加えたら、今は誰も皆上等の水泳パンツを着用しているが、あの頃の男の子は、黒色の三角のちゃちなサポーターを付けて泳いでいた。長い布でできた褌を腰に廻して付けるようになれば、それこそ一人前である。しかし楽しみは危険を伴うことがある。

我が家の先隣りに「好(よっ)ちゃん」という一学年下の遊び友達がいた。彼はほとんど毎日遊びに来ていた。私が中学生になったばかりの頃だったが、夏休みに入り二人で泳ぎに行った。松本川の河口近くで、当時は魚市場が盛況であり、対岸の鶴江へは渡し船が通っていた。私は向こう岸まで泳ごうと言って先に飛び込んだ。好ちゃんもすぐ後からついてきた。川幅は八十メートルくらい。私が向こう岸へ泳ぎ着いて振り返ったとき、あと二十メートルばかりのところで、彼があっぷあっぷしているのが見えた。私は咄嗟に飛び込んで助けようとして近づいた。そのときふと頭に浮かんだのは、「溺れかけた者に手を貸してはいけない。抱きつかれて身動きができなくなる」という教訓だった。そこで私は「もう一寸だ、頑張れ」と、励ましの声をかけながら、彼の手の届かないところを彼と並んで泳いだ。すると彼は安心したのか元気を取り戻して、何とかたどり着くことができた。少し休んだ後、渡し船に乗って無事に帰った。当時、中学生たちは対岸まで競(きそ)って泳いでいた。しかし今は誰一人このあたりでは泳がないだろう。水泳禁止区域である。水深がかなりあって川底は全く見えない。水の流れもある。船頭に頼んで舟を漕がしてもらったことがあるが、「舳先(へさき)を少し上流に向けて漕げ」と言われた。そうすると舟は斜めになって進み、うまい具合に対岸の船着き場に着いた。こういったことを考えると、ぞっとする出来事だった。

 

先日萩へ行ったついでに、この渡し場へ足を向けた。運行時間が決まっていた。舟は向う岸の船着き場に繋いであった。昭和十九年から六年間、対岸の鶴江に住んでいた四人の同級生は、朝夕この渡し船を利用して中学・高校へ通っていた。私はマイカーで大きく迂回して二つの橋を渡ってその地にいる友人を訪ねた。彼は五年前に奥さんに先立たれて一人暮らしであった。家の直ぐ背後に台地がそそり立っている。従って川岸に沿って並ぶ家屋の前の道は車が一台やっと通れるほどである。私は彼を誘って丘の頂にある「神明社」まで行った。二百余段の石段を七十年振りに登った。小・中学生の頃、渡し舟に乗って鶴江に渡り、この石段を駆け上ったものである。途中に大きな桜の木があった。老木で幹の中が空洞になっていた。

このような状態でも花を咲かすだろうか。あの頃は春ともなれば神明社の境内は見事な桜花に埋もれ、対岸からもよく見えていたのに、と私は思った。私はこの朽ち果てた桜の巨木を見て哀れにも淋しく感じた。まさに老残を曝した痛ましい姿だった。

社殿の前に辿り着くと、そこの広場から川向こうの市街地に目をやった。市街地のデルタは見えず、日本海と沖の浮かぶ小島だけが夏の太陽の下でギラギラと輝いていた。藪が茂って見晴らしが十分には利かなくなっていたのが残念だった。

当時その場所から、我が家の庭にあった大きなタブノキが遠望できたので、今回も見えるかなと期待していた。友人の案内で少し下った場所へ歩を移した。するとそこからはっきり見えたのでなんだか一安心した。

 

平成十年の夏、事情があって私は郷里の萩を離れ山口に転居した。そのとき私には心密かに願うことがあった。それは我が家が人手に渡っても、出来る事ならこのタブノキの大樹を伐り倒さずにいて欲しいとの思いである。二百年以上の年月を経ても、常緑の鬱蒼たる枝葉を四方に伸ばしていたこの巨樹を、私は朝な夕な見て育ち、親しみを覚えていたからである。その念が通じたのだ。幸運なことに、我が家が浜崎地区の「伝統的建造物再生モデル事業」の一環として国の補助を受け、修理・保存されることになったからである。私は鶴江の台地からかっての我が家のあたりに目をやり、懐かしいタブノキが今なお夏日の中に青々と繁っている姿を見て、本当に嬉しかった。命ある者はすべて死ぬ。おそらくこの樹は私が死んだ後さらに長く生き続けるだろ。しかしいつかは寿命が尽きる。私は密かに思った。「出来るだけ命長らえて呉れ。そしてかっての我が家を見守ってくれ」と。

 

浜崎の渡し場近くに製氷所があった。砕かれた氷が大きな樋の形をした鉄板の容器の中を、ガラガラと音を立てて滑り落ちる時、手を伸ばして氷片を取って口に入れた途端、口の中がしびれるほど冷たく感じたことも懐かしい思い出である。

本川は静かに流れていた。過ぎ去る者は、すべてこの水の流れの如くである。孔子の「川上の嘆」にある「逝く者は斯の如き夫(か)、昼夜を舎(や)めず」の情景である。白い数羽のカモメが水面にまで下降しながら楽しげに飛び交っていた。

 

私が実際に目にした衝撃的な水死事件がある。やはり小学生の頃だったと思うが、波打ち際で遊んでいると、沖合に一隻の小舟が漕ぎ出してきた。乗っていた一人の青年が舟から飛び込んだが、しばらくしても上がってこない。舟に乗っていた四、五人の青年は不安に思ったのだろう、つぎつぎに飛び込んで上がってこない仲間を探している様子が見て取れた。そのうち溺れた人物を見つけ抱きかかえて舟に乗せたが、そのときはすでに事切れていた。舟を波打ち際まで急いで漕ぎ寄せ、彼らは死体を砂の上に横たえた。私はおそるおそる近づいて見た。おそらく心臓麻痺で急死したのだろう。その青年は萩商業の生徒だった。この他にも水膨れした土左衛門をこの海岸で見たこともある。人の命の儚さを知った出来事だった。

 

中学に入ってからは小学時代の遊び友達と会って話す機会はほとんどなかった。大学を出ておよそ十年後、母校の萩高校に勤めるようになって我が家に帰った時、久しぶりに山野に会って話した。彼は子供の時から面倒見の良いところがあった。小学卒業後しばらくしてタクシーの運転手になって、観光客に得々と観光案内をしていた。市内にある「城下町」は萩市観光のメッカとも言える区域である。彼ではないが、ある日女性のバスガイドが、多くの観光客を案内して、次のような説明しているのが聞こえてきた。

 

「皆さん。この城下町は高杉晋作木戸孝允田中義一といった皆さんご存じの有名な人物が生まれ育ったところです。いま皆さんの目の前の立派な門構えの家は、青木周(しゅう)弼(すけ)といって、毛利の最後の殿様である毛利敬親公の御殿医が住んで居られた家です。安生四年の建造で広い家屋敷です。彼はかの有名な緒方洪庵と並び称される程の人物だったのです。こうした優れた方々の多くは維新以後萩の地を去って行きました。この青木周弼の旧居にも、今は全く関係のない人が住んでいます。」

 

まさにその通りで、ちょうどその頃私はこの旧居に管理人として入っていたので、思わず苦笑いした。山野はその頃、町内会長としても町内の世話をしていた。これは小さい時の彼の世話好きの人柄が発展したものと考えられる。あの時の事は全く忘れ去ったかのように、真面目にまた元気に働いていた。私は一緒に遊んだり、学校への行き帰りを共にした同級生の事を訊ねてみた。

 

「藤井の康さんどうしているか?」

「康さんは木村のパン屋で働いている。腕の良い職人だそうだ」

「藤川長一はどうかね?」

「藤川の長ニイーか?大工の仕事をしちょる。腕は立つようじゃが、これが好きじゃから若いのに使われちょるよ」

こう言って盃を口へ持っていく仕草をした。

 

萩高に勤めて数年して、私は我が家の敷地内にささやかな家を建てることにした。そこで、藤川の腕を頼みとして建築を彼にお願いした。ところが彼は雇われの身である。立派な腕を持っているが、山野が言ったように棟梁としての才覚はなかったのである。いわば職人肌の男だった。建築の仕事は専ら彼が受け持って呉れた。

 

事情があって山口市に居を移すまでの二年間、日暮れ時分になると、私の足は海岸へとよく向かうのであった。打ち寄せる波の直ぐそばを私は歩いた。そこは砂地だが海水で締まっていて歩きやすいからである。しばらく歩き、左折して市街地に入り、檀那寺へ行き展墓を済ますのが当時の日課だった。

私は子供の時から海が好きである。海浜が格好の遊び場だったからでもあるが、大人になって、朱(あけ)に染まった夕焼けの空、茜(あかね)色の雲がたなびく西の海に大きな真っ赤な夕陽がゆっくり沈むのを見ていると、何とも言えない心の安らぎを覚える。反面、冬の寒空が一面暗い雲に覆われ、それを反映した鉛色の暗鬱な海原の上を、遠くから白い波頭を立てて大波小波が打ち寄せて来る時、ザワザワと立ち騒ぐような音がする。足下まで寄せ来る波が今度は退く時の音は微かなザーという音に変わる。寄せては退く波の動きを見ていると、永遠に続くかのようである。この波の動きと音の連鎖は不易であり、その中に流転があるような気がする。あたりが夕闇に包まれるとそぞろに寂寥感を覚える。

 

ある日の夕刻、砂浜を歩いていると、波の打ち寄せる水際で二羽の烏が遊んでいた。私が近寄ればその分だけ離れていった。こうして絶えず等間隔を保ちながら、私と烏はほかには他に誰一人いない砂浜をしばらく移動した。烏はそのうち私との「追っかけっこ」に飽いたのか飛び立った。一人になった私はふと上を見た。一羽の鳶が空高く悠然と旋回しているのが見えた。私は、当時出版され、洛陽の市価を高くした『新唐詩選』の中の杜甫の詩を口ずさんだ。

 

風は急に天は高くして猿の嘯(な)くこと哀(かな)し

 渚(なぎさ)は清く沙(すな)は白くして鳥の飛ぶこと廻(めぐ)る

 無辺の落木は䔥䔥(しょうしょう)として下(お)ち

 不尽(ふじん)の長江は滾々(こんこん)として来(きた)る      (吉川幸次郎氏 訳)